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【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】
【Historiographical Institute, Okinawa Prefectual board of Education 】
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沖縄戦における住民と日本軍の関係についての一考察−
住民のスパイ視における兵士の対応を中心に−
地主園, 亮
史料編集室紀要(30): 45-60
2005-03-30
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/okinawa/7789
沖縄県教育委員会
史料編 集室紀 要
第3
0号 (
2005)
沖縄戟 における住民 と日本軍の関係 についての一考察
一住民のスパ イ視 における兵士 の対応 を中心 に一
地主園 亮
1.は じめ に
・
卜
1
944年 3月22日に第三十二軍が創設 される。その後多 くの部隊が沖縄本 島 を中心 と した
南 西諸島へ送 られ、住民の居住地域である集落へ軍が入 り込 んで くることとなる。 この よ
うな状況の中 「
地方住民 卜混住 同居 シテ居 ル部隊アルモ之ハ厳禁ス 衛生上、防諜上、風
(
2
)
紀上非違誘発 ノ算大 ナ リ」 と命令が出 された ことか らも軍 と住民が近い位置 にいたことが
わかる。 また、住民 は居住地域周辺の陣地の所在 についてはある程度把擾 していた。 しか
し、住民が むやみ に 日本軍陣地 に近づかない (
近づ け させ ない) とい う形 で、地域住民の
居住地 と日本軍の陣地 との住 み分 けを辛 うじて成立 させ ていた。
だが、特 に沖縄本 島中南部地域 においては米軍の沖縄本 島上陸作戦 を切 っ掛 けに避難民
が大量 に発生する。 そ して、 日数が経過 し戦線が縮小 し、避難民 も軍 も狭小 な地域 に追い
つめ られてい く。 その過程で避維民 となった住民が 日本軍の陣地 に入 り込 み、以前成立 し
ていた住民 と日本軍 の住み分 けが崩れてい くこととなる。避難壕 の無い状態で、住民 も兵
士 も岩陰な どに隠れ ていた 6月の沖縄本 島南部地域 の海岸線が、その最後の状況 をよ く現
している といえる。
避難民 は親戚や知 人 を頼 って避難 を していた として も、元の居住地域 の ように軍の陣地
の所在場所 を把握 出来 ていない。 しか も、避難のために移動す る時間はその多 くが夜 間で
あるため、多数の避 難民が誤 って陣地へ立ち入 ることになる。その人々に対 して、兵士 た
ちは陣地 に侵 入 したスパ イとしての嫌疑 をかけ、多 くの避難民 を殺害 した。一方で、陣地
に立 ち入った避難民 をスパ イとして扱 うの と同時 に、一部の住民 に対 して兵士 たちが陸地
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(
1)軍司令部総長 「大 陸命 第九百七十三号 」1
944年 3月22日、防衛庁 防衛研究所 図書館蔵 「大陸命
綴
3巻」戸
別又
第1
(
2)防衛庁防衛研究所 図書館蔵 「第六十二師団会報綴」独 立速射砲第二十二大隊受領
-45-
1
9
44年
史料編集室紀要
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2005)
壕 を避難場所 と して提供 した りしている。 この こ とを整理す るこ とに よ り、同 じ住民 に対
して兵士 た ちの対応が なぜ 異 なるのか をあ きらか にす るこ とがで きるであ ろ う。 よって、
今 回はその原 因 をあ きらか にす る手始 め と して、住民 の体験 記録 を中心 に若干の考察 を試
みた。
なお、以後体験 記録 の事例 を引用 して考察 を進 め る。体験記録の引用 に当たっては まず
体験 者 の氏名 、経緯 、体験記録 の引用 の順 に記 した。氏名 の後 には沖縄戦 時の年齢等の履
歴 を記 した。経緯 は体験記録 を全 て記載す ることが不可能 なため、引用部分 の前 の部分 を
体験 者 の行動 を 日にち順 で筆者が まとめた。
2.住 民 の 陣 地 - の 立 ち入
りにつ い て
(1) スパ イ摘発 に組 み込 まれた地域住 民
軍 は陣地 の状 況が外部 に漏洩す るの を防 ぐため に、住民 に対 して陣地- の立入 を禁止 し、
住民 に対 してその ことを周知 していた。その方法 と しては、立て看板 を立 てるな ど陣地 の
(
'
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所在 を明示 し陣地 内へ誤 って立 ち入 る者が出て くるの を防 ぐとい う対策 な どがある。
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l
)
また、陣地周辺地域 の防諜対策 と して、 r
地域 内国民 防諜 ヲ強化」 す るこ とによ り、 「
他
(
r
)
)
(
(
)
地 区 ノ者 二秘 匿」 し 「
容疑者潜入 セバ届 出」 る と している。 この こ とは陣地 の周辺地域 を
特 に意識 して防諜体制が作 られていた ことを示 し、その中で地域住 民 は次 の ような指示 を
受 け行動 していた。
(
7
1
事例 1
大湾朝 次郎 (
当時 36歳 、警防団長 )
わたしはですね、戦争前は、沖縄には警防団というのがあ りましたですね、村の警防団の副
団長をしておったんですよ 昭和十九年ま.
でですね。この警防団は戦争の終わるまでその組織
はあったわけですが、その戦争の激 しくならない前までほ、わたしは防衛隊は免れていまして、
O
学校を卒業 した若い青年たち四、五名 と、五十歳まで最後の防衛招集に行かれたもんだから、
六、七名の若い人たちと防衛関係にたずさわっていたんです。殊に夜なんかは。その当時は、
特に、スパイ、スパイと喧 しかったもんですから、これは十九年の九月頃か らですが、わたし
」『史料編集室紀要
(
3)地主園亮 「
沖縄県民の戦場動員と第三十二軍の防諜対策
育委員会
第26号 』沖縄県教
2001
年 参照
(
4)陸軍省 「
軍防諜参考資料」1
9
45年 1月、国立公文書館所蔵 「
秘密戟二関スル書類」所収
(
5
)同上
(
6) 同上
(
7)琉球政府 『
沖縄県史 9 沖縄戦記録 1』琉球政府 1
971年 p.
863
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は村警 防団の副団長 とい う関係で、警察にも集 まってい ま したか ら、 よく憶 えてお ります よ。
スパ イとい うのは、ほん とのスパ イは激 しくなってか らではないか と思 い ますが、知 らない
人、初 めて見 る人が、道か ら歩 きなが ら紙切れ と鉛筆で字 を書いているものはすべ て、スパイ
疑いで捕 らえろ とい う命令で した。それか ら十九年の十一月頃か ら、こうい うもの をあなた方
が処理で きない場 合は、軍 に届 けなさい とい う命令があったんです。大隊本部 もあ りましたの
で最後 にあそこへ連 れて行 くことになっておったんです。それか らち ょっと頭の足 りない人が
おるで しょう、そんな もの までつか まえて連れて行かれ ま したが、そ うい うの も多か ったです
よ。住民がスパ イ とい うことは全然で きませんが ね 。知 らん人が来 た場合 には とい うことで、
やか ま しか ったです よ、スパイの問題は。 (
後略)
知 らな い 人 や 初 め て 見 る人 が 、道 か ら歩 きなが ら紙 切 れ と鉛 筆 で字 を書 い て い た時 に地
域 住 民 に対 して、 ス パ イ と して捕 らえ る よ うに指 示 が 出 て い た。 また、 地 域 住 民 の み で対
応 出 来 な い場 合 軍 が 直 接 動 く体 制 が つ くられ て い た。
この よ うな指 示 が 出 され て 、軍 も住 民 も一体 とな る形 で 防諜 体 制 が作 られ る なか次 の よ
うな事 が 起 こって い る 。
(
メ
)
事例 2
徳本貞子 (
当時20歳)
(
前略)
十 ・十空襲 の時、私 たちは部落の裏山の壕 に避難 しま した。字佐敷の人たちは皆、そこに自
分 たちの壕 を掘 ってあったのです。空襲警報が鳴 るたびに、私たちは家 と壕 を往復 してい まし
たが、一度、奇妙 なスパ イ騒 ぎがあ りました。
私 たちが壕 に隠れている と、丹前 をはおって頭 巾をかぶ り、 白い地下足袋 をはいた男が、部
落の方か ら上が って くるのが見 えま した。 ち ょうど私 は別の壕 にいた友人 と二人で、水 くみに
行 くために、外 の様子 をうかが ってい ました。米軍の飛行機が飛 んでいるのに歩 く人がいるな
んて変 だ、 と思 った ら、その人が 「
那覇の丸山号 や山形屋が焼 けたのを知 っているか」 と私た
ちに聞 くのですO兵隊は どこにいるか、 とも聞かれ ました。
佐敷では見かけない人で した。その人が地図を持 っているので、私は何 とな く 「スパ イでは
ないか」 と感 じて、分か らない と答 えました。一緒 にいた友 人は何 も感 じなか ったのか、気軽
に答 えた りするので私 はそばでひやひやで した。
その人が去 った後、私は怖 くなって、区長 に一部始終 を話 しま した。その人は間 もな く兵隊
に捕 まえられ、 どこか に連れて行かれて死刑 された と聞 きました。私は死刑 の現場はみていな
いのですが、 この スパ イ騒 ぎは今 も忘れ られ ませ ん。本 当にスパ イだったのか、 ともか く不思
議 な事件で した。 (
後略)
この事 例 をみ る と、 本 人 は現 在 で も半 信 半 疑 な状 況 で あ る よ うだ が 、 地 元 で 見 か け な く、
(
8)佐敷町史編集委員会 『
佐敷町史
4 戦争』佐敷町役場
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9年 p.
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)
地図 を持 ってい る等の理 由で、不審 に思 いスパ イで はないか と区長 に報告 を している。そ
の後、区長が軍へ報告 したのであろ う。その人は兵隊 に連行 された ようで ある。 この よう
な事例 は、沖縄 において 「
軍防諜参考資料」 に示 されている ような防諜体 制 を作 るための
指示が住 民 に出 され、住民 もその指示 に従 い動 いていた こ とを示 してい る。 また、軍 は地
域外 の者 (
不春 者)が陣地 に立 ち入 る前 に周辺地域 で捕 らえる とい う体制 の中において地
域 を防諜体制 に取 り込み、住民 に重要 な役割 を担 わせ ていた ことを示 してい る
。
(2)防諜上 の立 ち入 り規制 とその限界
米軍 の上陸作 戦が行 われ る以前住民 は、居住地域 とそれ に付随す る地域 で生活 を送 って
いた。 その地域 に所在す る 日本軍 の陣地 に関 しては、住民 もある程度把握 していたため誤
って陣地 に立 ち入 ることは少 なか ったであ ろ う。 しか し、米軍の沖縄上陸作戟が 開始 され
てか らは、居住 地城 か ら離 れ地理 に不慣 れ な地域 での移動 をす るこ とになる。そのため次
の神谷 さんの様 な体験 をす る住民がそれ以前 と比較 して多数発生 した と考 え られ る。
(
)
I
事例 3
神谷 すみ子 (
当時 1
6歳)
・妹 3名 と父 と母の 6人家族
・1
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4
4年 1
0月 1
0日、空襲で那覇 を焼 け出 され、首里 の親戚 の ところで生活 を始め る
・3月末、若 い男性以外 は国頭方面へ疎 開す るよ うに との軍か らの指示が でる
・3月3
0日、 国頭 には知人 もいない とい うことか ら、島尻-避難す ることが決 ま りその 日
の夜 出発 す る
・首里 山川-坂 下-安里- 国場 と移動
・3月31日の明 け方、豊見城村長堂着、長堂の屋敷壕 に避難
・3月31日の 一面がす っか り暗 くなった頃、家族 を長堂 に残 し、父 と二人 で津義 山の金城
金保 さんの家 を探 しにい く
いまにして見れば、長堂と津裏山とでは、目と鼻の近 さだったんですが、その当時、ずい分
距離を感 じたもので した。何 しろ、真っ暗な中を、父と二人はぐれては大へんと、 しっか り手
をひかれ、どこか行ったことのある家だったんですが、なかなか捜 しえず、尋ね尋ねやっと捜
しあてたんです。 しか しそこには、すでにどなたもいない。門の入口には夜 目にもはっきりと
「
球部隊、経理部」 と書かれた看板のようなのがかかげられ、家の中といわず外 といわず、軍
靴の音 も勇 ましく、パカバカ音を立てながら、友軍の兵隊たちが小走 りのような感 じで立ち働
(
9) 那覇市民の戦時 ・戦後体験記録委員会 『
忘 れ られぬ体験
史編集室
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年 p
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市民の戦時体験記 (
第一集)
』那覇市
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いてい ました。一 人の兵隊に金城 さんの ご家族の避難先の山をお しえて もらい、走 るように し
て父 とそこを去 りました。 しか し教 え られた山 とい って も、小 さい丘の ような ところですがい
ざ行 って見 ます と、暗い夜のこと、同 じような小高い山が、 ここか しこにあるの には、困って
しまい ました。で も小 さい部落の事故 どなたかが知 っているん じゃないか と、それ こそ安易な
気持 ちで一番小高い山にのぼって見 ま した ところが、びっ くりしました。夜 目に もそれ とわか
る大砲が数台、木の葉や、枝 におおわれているだけで、近 くに人影が見 えないのであわててひ
きかえそ うとしたその時、軍刀や銃 を持 った数人の兵隊に、思 わず取 り囲 まれて しまい ました。
そこは日本軍の高射砲陣地だそ うです。
貴様 た ちは 「スパ イ」 か と、 どな られた時の恐ろ しさ、い ま思 い出 して もぞっとす るほどで し
た。当時その時のその場の空気、 こわ さとか恐 ろ しさを超越 して しまって、ただ もう足が ガタ
ガ タふるえているばか りで した。瞬間、 もしここで父 と私が殺 されて しまった ら、母や幼 い妹
たちは と思 うと-イ可分 間、いや何秒かの沈黙が続いた と思い ます。何 とか言 えば、手に した軍
刀が さっと抜かれるん じゃないか と、で も父がやっ と話 しま した0「自分 の一人息子 も、お国
のために出征 して働 いているんです。何でその親がスパ イ呼ばわ りされるのか」 と、金城 さん
の家 を尋ね、首里か らやって きたが、金城 さん方はみんな山に避推 し、避難先の山をそこに駐
屯 している球部隊の兵隊が教 えて くれたんですが、暗 さは暗い し、それに似 たような山ばか り
で、間違 ってのぼって来たことを事細か く説明 したんですがなかなか許 して くれそ うもな く、
ただ数人の兵隊が急いで、山をかけお りて行 くばか りで した。
双方 とも、ただ黙 った ままの対立が何十分 間かが続いた と思い ます。私 はこわ さで父の手 を
強 くに ぎった ままで した。
しば らくす る と何や ら下の方か ら数人の話 し声 と共に足音がだんだん と近づいて きました。
見る と数人の兵隊に ま じって、金城 さんが ごいっ しょにい らっ しゃる じゃあ りませ んか。私は
金城 さんを見 た とたんほっとした うれ しさに、金城 さんにすが りつ き思 わず、 ワ アワアと泣 き
出 して しまい ま した。地獄で仏 とはまさにこの事か と思い ま した。
高射砲陣地の兵隊は、私たち親子の話の真偽のほ どを確かめるために、数人の兵隊が金城 さ
んの家 まで行 き、そ こに駐屯 している兵隊 に金城 さんの避難先のl
」
」を案内 して もらい、金城 さ
んに私 たち親子 と確認 させるため に、同伴 して きた とのことで した。金城 さんの証言で、やっ
と許 して もらいそれこそ、ほん とにほっとした気持 ちで急いで山 をかけお りま した。
戦時中は、 日本 の兵隊 も、こんなにこわい ものか とつ くづ く恩 い ました。
さて、金城 さんのお話では、い ま入ってい らっ しゃる防空壕 は、親戚や、ご兄弟 たちの家族
で一杯で私 たち親子六 人は、 どうして も無理 だか らと、おっ しゃって、その代 わ り金城 さんの
お知 り合いの球部隊の壕が物 入れに使 っていて、 しか も金城 さんの壕のす ぐ近 くにあるか らと、
そ こを兵隊か ら借 り受 けて くだ さったので長生にいる母や妹 たちを急いで連れに行 きました。
(
後略)
神 谷 さん の 家 族 は 米 軍 上 陸 直 前 南 部 - 移 動 す る。 首 里 か ら豊 見 城 村 の 長 堂 に着 い た後 、
神 谷 さん と父 親 は 家 族 を残 し、 家族 を壕 に入 れ て も らえ る よ う父 親 の 知 人 で あ る金城 金 保
さん に相 談 す る た め に南 風 原 村 津 嘉 山へ 向 か う。神 谷 さん親 子 は地 理 に不 案 内 で あ り、 更
に夜 で あ っ た た め場 所 の確 認 も含 め て 一 番 ′
J
、高 い 山 に登 っ た と き、 目の 前 に木 の葉 や枝 で
擬 装 され た大 砲 が 目の前 に あ らわ れ た。 神 谷 さん親 子 は直 ぐに引 き返 そ う とす るが 、 数 名
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の兵士 に取 り囲 まれスパ イの容疑 をかけ られてい る。神谷 さん親 子は、金 城 さんの隠れて
い る壕 を探 してい る間に 日本軍の陣地 内 に迷 い込 んでいたのであ る。
第三十二軍 は住 民 の生活地域 と非常 に近い ところに陣地 を構築 していたが、防諜上 「
術
(
=
)
)
(
】
】
)
構物 ノ細部 ヲ秘 匿 ス ル為」 と して、「
住 民ハ立入 ラシメズ」 とい う考 えは基本的 には他地
域 の軍 とも共通 してい る。 その ため に、「
待避壕 附近 こ歩哨 ヲ配置 シ待避壕 内外 ノ警戒 ニ
1
.
I
_
i
任 ゼ シムベ シ」 と して侵 入者 を警戒 させ てい る。
軍 は陣地へ の住 民 の立 ち入 りを禁止 し、 また地域住民 は陣地の位 置 を把 握 してい るため
誤 って陣地へ入 り込 む こ とは殆 ど無 か った。そのため陣地 の中心部 まで入 り込 んだ神谷 さ
ん親子 を、兵士 た ちはスパ イではないか と疑い尋 問 したのである。神谷 さん親子 の ような
避難民 は地理不案 内であ り夜 間 を中心 に移動 を しているため、誤 って陣地へ入 り込 む こと
は度 々お こったで あろ う。
事例 2の時 は、十 ・十空襲時で あるが佐敷 では、飛行場 な どの主要陣地 周辺や那覇 な ど
と異 な り、それほ ど空襲 は激 しくなか った。 また、避難 は一時的 な もので地域社 会 は維持
され た ままであ り、住民 は避難 を していて も壕 内 に閉 じこ もるのではな く、徳本 さんの よ
うに様子 を うかが ってい る住民 も多 くいた。そのため徳本 さんか ら区長、軍への不審 者発
見 の通報 が うま くい き、住 民 を取 り込 んだ防諜組織 が機 能 してい た ことが わかる。 しか し、
事例 3は状 況が異 なるO この時期 は米軍の沖縄本 島上 陸直前 か ら上 陸時で あ り、米軍 の空
襲、艦砲射撃が激 し くなった時期 であ る。そのため、神谷 さん親 子 も首里 か ら砲爆撃 に追
われ るように移動 している。十 ・十空襲 の時の ように一時的 に避難壕へ逃 げるので はな く、
地域住民が基本 的 に壕 内で生活 をす る ようにナ リ、 また、地域社 会が戦 闘 に よ り崩壊 し始
めた状況 での事 で あ る。
他地域 か らの侵 入者 を住 民 を用 いて防いでいた当時の軍 において、住民 の生活 の 中心が
(
1
0
)前掲 「軍防諜参考資料」
(
ll
)同上 住民の立ち入 りに関 しては軍機保護法第八条通用 となっている。軍機保護法第八条は次
の通 りである
第八条 陸軍大臣叉ハ海軍大臣ハ軍事上ノ秘密保護ノ為必要アル トキハ命令 ヲ以テ左二掲グル
モノニ付測量、撮影、模写、模造若ハ録取又ハ其ノ複写若ハ複製ヲ禁止シ又ハ制限スルコ トヲ
。
1二 三
得
軍港、要港又ハ防禦港
壁塁、砲台、防備衛所其ノ他ノ国防ノ為建設シタル防禦営造物
軍用艦船、軍用航空機若ハ兵器又ハ陸軍大臣若ハ海軍大臣所管ノ飛行場、電気通信所、
軍需品工場、軍需品貯蔵所其ノ他ノ軍事施設
2 前項 ノ規定二依ル禁止又ハ制限二違反シタル者ハ七年以下ノ懲役叉ハ三千円以下ノ罰金二
処ス
(
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)防衛庁防衛研究所図書館蔵 「部内日々命令綴」石第一八八二部隊 1
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年
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号 (
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)
避維壕 に移 る と神谷 さんの ような避難民 をは じめ とする他地域か らの入城者が陣地 に迷い
込 む事 を防 ぐことがで きな くなっていた。
(3)厳密 ではない防諜対策
軍は陣地へ の住民 の立ち入 りを完全 に禁止 していたのか といえばそ うではなか った。事
例 3の神谷 さん親子 が陣地へ誤 って入 り込 んだ時、神谷 さんの父親が弁明 を している間に
兵士 たちは金城 さん を神谷 さん親子 の身元 を確認 させ るために同伴 して きたのである。兵
士 た ちは、金城 さんの証言 により神谷 さん親子の嫌疑 を解いているのであるが、 ここで一
つ気 になることがある。兵士たちが 自らが、証人 とい う立場 としてであるが金城金保 とい
う地域 の住民 を陣地へ招 き入れているのである。
軍 は、「陣地構築地域」 においては 「
立 入者 ヲ己 ム ヲ得ザ ルモ ノノ外」 とす る もの以外
(
l
i
)
の立 ち入 りをは禁止 していた。兵士 たちは、金城金保 さんの陣地-の立 ち入 りを止 むを得
ず許 した とい う事 になる。 しか し、立 ち入 りを許す範囲は 「
勉 メテ最小 限 ノ範 囲こ止 ムル
1
い
ヲ可」 と している。神谷 さん親子が拘束 されていたのは、夜 にも関わ らず大砲 が有 り、そ
れが擬装 されてい ることが わかる場所である。つ ま り、神谷 さん親子 は陣地の 中心部迷 い
込 んでいるのである。そ こへ金城 さん も連 れてこられている。兵士 たちは、金城 さんが神
谷 さん親子が避難民 である とい うことを証明す ることが 「
勉 メテ最小限 ノ範 囲二止 ムルヲ
可」 と した状況 にあ りなが らも止 むを得 ない とす るほ ど重要 な事 だ と判断 したのだろ うか。
また、玉井正徳 さんの体験 をみる と次 の ような体験 を している。
事例 41
r
'
'
玉井正徳 (
当時4
4
歳 、海軍軍属 、旧姓比嘉)
・1
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3
5
年、糖業連合会技術指導員 となる
。1
9
4
3
年1
1月、安謝 のブ タノール会社のボイラー係 となるoその後、工場 は海軍 に接収 さ
れ、軍属 として働 くこととなる (
海軍第三燃料所沖縄分工場)
・1
9
4
5
年 3月2
3日、工場の稼働停止、銘苅の事務所で給料 をもらい実家の酉原村兼久 へ帰
る (
本文では、中城村添石 となっているがおそ ら く間違いである)
・4月 3日、中城村 添石の親戚の壕へ避難す る
(
1
3
)前掲 「
軍防諜参考資料」
(
1
4) 前掲 「
軍防諜参考資料」
(
1
5
)西原町史編纂委員会 『
西原町史 第三巻 資料編二 西原の戦争体験記録』西原町役場 1
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* p
.
6
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史料 編 集 室 紀 要
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・4月 中旬 、西 原 村 池 田 の ヘ ンサ へ 逃 げ る (
兼 久 に寄 り両 親 をつ れ て )
・4月 末 頃 、西 原 村 長 の′
ト波 津 正 光 さんか ら米 軍 が 翁 長 方 面 か ら来 る か も しれ ない と知 ら
され る
・4月 2
9日頃 、 天 長 節 を前 に して 島尻 - 逃 げ る (両 親 は池 田 に残 す )
・そ の夜 、 南 風 原 村 大 名一 宮 平 - 兼 城 - 喜 屋 武一 稲 嶺 - 東 風 平
・夜 明 け前 、 当 銘 ・小 城 へ 着 く。 池 田 を出 る と き、 日本 軍 と池 田 の壕 と当 銘 ・小 城 の壕 を
交 換 す る とい う約 束 で で て きたが 、 避 難 民 な どで 一杯 に な って お り、 与 座 へ 向 か う。与
座 で 友 人 の 「前 マ ブ グ ヮア」 に会 う
・夜 が 明 け た 頃 、 与 座 に着 くO 与 座 で壕 が 見 つ か らない の で 、 高嶺 ・大 里 へ 行 くO 大里 の
石 川 准 尉 の壕 へ 、 友 人 と一 緒 に入 れ て も らえ る よ うに頼 み にい く
そ こへ行 ってみ ると、壕 の入口付近 に衛兵が立 っていた。衛兵が私 に 「何 しに来たのか」 と
詰問 した。「私 は西原村か ら来 た ものです。軍の命令で私たちが入 っていた池 田の壕 は通信隊
が使 うので、当銘 ・小城の軍壕 と交換 して使 って もらいたい との ことで した。私たちは当銘の
壕 まで行 ったが、そこは避難民 で一杯 してお りました。壕 の外 まで も人や荷物で一杯であ りま
した。仕方無 く、私たちはここまで壕 を捜 しにきた次第です」 と答 えた。す ると、兵士は 「
沖
縄 人はみんなスパ イだか ら、 ここに入れることはで きない」 と言 った。私 は 「そ ういわれても
困 ります。私 は自分の壕 と軍の壕 を交換す る とい う約束で来たんだか ら。 とにか く、あなたた
ちは軍の方だか ら私たちも一緒 に入れて くれる ようお願い します」 と頼 んだ。
その時、伍 長か軍曹かが 日本刀 を腰 に下げて来て、「何事 だ」 と怒鳴 った。私がい ままでの
経緯 を話す と、「
沖縄 人はみ んなスパ イだか ら壕 に入れることはで きないだろ うな」 と言った。
私 は 「そ う、お っ しゃられて も私 たちは非常 に困 ります。 自分 は池 田では軍の命令 を素直に受
け入れて、はい、の一言で 自分 の壕か ら出て きたのです。約束の壕 (
当銘) は避牡民で一杯 し
ていたので、仕方 な くここへ入れて くれるよう無理 してお願い している次第です」 といった。
私 は 「ここの留守番の隊長 に会わせ て下 さいO
」 と頼 んだO相手 は 「しぶ とい奴 だな」 と言い
なが ら、ここの隊長に会わせて くれた。
私 は どんなことを言われて も、畑家 に残 っている家族のことを思 うとなんで もなか った。
隊長が来て、「
先の連 中 も言 った通 り、沖縄 人はスパ イだか らここに入れ るわけにはゆかな
私 は革の命令通 り、何で も します。いろいろな軍の仕事 に も協力 します。ぜ
い」 と言 った 。「
ひ入れて下 さい。ただ、 ここに入れて下 さい と言 っているのではあ りません。軍 にも協力 しま
す。私 は軍 との交換条件で ここまで来 ましたが、軍が私 たちを守 って くれた ら、私たちも軍に
協力 します」 と再度お願い した。
隊長 は、「そ うか。 じゃ、 ここの村 (
高嶺村 )の三役の方が保証 人になるのな ら、 ここに入
れてやろう」 と言 った。私 は 「隊長 さんのお っ しゃる とお り、村の三役の方 は地位 もあ り、村
民か らも尊敬 されているので信用あるか もしれ ませ んが、助役 と収入役 は知 ってお ります。村
長は替 わって間 もないので、 まだ会 ったことはあ りませ ん。その方 を捜 し出 して頼 むのは時間
がかか りますので、 とにか く、ここの部落の (
大里部落)の有志 の方たちの保証でゆる しても
らえないで しょうか」 と頼 んだ。隊長 は 「それ じゃ、 ここの部落の有志の方 の保証で もよい」
と答 えた。部落の有志の方 (
区長、村会議 員等)三人を保証人 と して、印鑑 をもらって くるよ
うにと言われた。夜の九時半 までに来 ない と壕 に入れない とい うことであった。
-52-
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(
2
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05)
その三人の中 に、私 の友 人で あ るニ ッチ イス- もい れて、 以前 か らの知 り合 い である地元 の
山城村 会議 員 と安 里 とい うハ ワイ帰 りの人 も知 ってい たので 、計 三 人の保証 人書 はす ぐ作 れ る
と思 った。 これで無 事壕 に入 る こ とがで きる と確信 した。
私 は大里部落 に急 いで帰 った。軍 の壕 は大里 部落 の後方 にあ った。 最初 、山城亀 さん とい う
村 会議 員 の家へ行 った。 「山城 さん」 と声 をか ける と、「やあ、玉井 さん、 しば ら くで したね」
とL
L
J
城 さんは心 よ く迎 えて くれ た。私 は ここ- きた経 緯 を話 して、保証 人 にな って くれ る よう
頼 んだ。 また、芋 もあ った ら売 って くれ る よ う頼 んだ。す ぐに承 諾 して くれて、書面 に印鑑 を
押 し、 自分 で安里 さんの所 まで行 き、捺 印 して くる と言って くれ た。 その間、私 たちは大域 さ
んの家 で お茶 を ご ちそ うにな った。 しば ら くす る と捺 印 を も らって来 て、「軍 の壕 へ行 く時 に
はわた しもつ いて行 くか ら、必 ず私 の家へ 立 ち寄 って くれ」 と言 って くれ た。私 たちはお礼 を
のべ て、与 座へ帰 っ た。
与座 の畑 家か ら家族 、親戚 、二〇 人余 を連 れて、山城 さん と一緒 に軍 の壕へ行 った。
山城 さんは字 (
部 落)か ら出す供 出物 (
芋 、野菜 、芋 の乗 ) とは別 に大 きな山羊 や 一〇〇斤
余 の豚 を個 人で軍 に贈 呈 してい た。 山城 さんの家族 は軍 の計 らいで、特 別壕 に入 ってい た。
軍 隊壕 へ着 くと、私 は 「
今 晩 は。昼 間お じゃま した玉井 です。ぜ ひ、収容 して くだ さい」 と
言 った。 隊長 が 「
証 明書 (
保 証 人 た ちが印鑑 をつ い た書面 ) を持 って きたか」 と言 った。 「は
い」 と私 は証 明書 を さ し出 した。 その時 、I
J
」
城 さんが 出て、 「この方 には部落 の共 同製 糖 工場
の設置 の時 、 たいへ んお世話 にな りま したOぜ ひ、 この方 た ちを壕 に入れて くれ る よ うお願 い
します」 と言 った。 隊長が 「あ なたは こんなに よい友 人が い るの に、何で知 らん顔 して、そ ん
な に手 間 ひ まか け るか 。証 明書 はいいか ら持 って帰 れ。 山城 さん とい う りっぱ な友 人が い るの
に、 なぜ 最初か ら知 り合 い だ とい うこ とを話 さなか ったか。恥 をかかせ て」 と言 って、許可 し
て くれ た。隊長 は作 って きた保証 人書 も受 け取 らず 、山城 さんの顔 ききです ぐに壕 に入れて く
れた
。
私 た ちは渡辺 上 等 兵 に案 内 され、 四号壕 に行 った。 その大 里 の山 には軍 の壕 が六 カ所 もあ っ
た。一〇〇 人余 の兵 士 が留守 部 隊 と して、 そ こに駐 屯 してい た。渡辺 上等兵 は満州 にい た時か
らの家畜 (
軍馬 )係 で 、 この四号壕 の係 で もあ った。沖縄 で も渡辺 上等兵 は軍馬係 を してい た。
渡辺 上等 兵 は部 下 に 「この人 たちは山城 さんの知 り合 い だか ら、今 日か ら四号壕 に入 って もら
うこ とになった。寝 る所 や荷物 を置 く場 所 は広 くとってあげ な さい」 と命令 され 、私 た ちは特
別待遇 であ った。
玉 井 さ ん は南 風 原 の 壕 を軍 - 提 供 した代 わ りに 高 嶺 村 大 里 に配 備 され て い た部 隊 の 壕 へ
入 れ て も ら え る よ う に 交 渉 を す る が 、 「沖 縄 人 は み ん な ス パ イ だ か ら、 こ こ に 入 れ る こ と
は で き な い 」 と拒 否 さ れ る。 住 民 を軍 の 壕 に 入 れ る こ とが で き な い の は 制 度 的 に で き な い
と言 え る は ず な の だ が 、 「沖 縄 人 は ス パ イ だ か ら」 とい う様 に わ ざ わ ざ理 由 を つ け て い る 。
更 に 玉 井 さ ん が 粘 る と高 嶺 村 の 三 役 が 保 証 人 と な れ ば 壕 - 入 る こ と に 許 可 を 出 す と譲 歩 し、
最 終 的 に は部 落 の有 志
3名 と まで 譲 歩 して い る
そ の後 、玉井 さん は地 元 の有志
。
3名 の 捺 印 を も らい 兵 士 た ち の 元 へ 戻 る 。 途 中 で 知 人 の
山 城 さ ん と出 会 い 、 共 に兵 士 た ち の 元 へ 行 く。 玉 井 さ ん と共 に兵 士 た ち の 元 へ 言 っ た 山 城
さ ん が 、 玉 井 さ ん の 家 族 を壕 - 入 れ て も ら え る よ う に頼 ん だ 。 す る と、 兵 士 達 は 玉 井 さ ん
-5
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)
に壕へ入 ることを許 し、 しか も、 自らが出 した条件の証 明書 さえ必要 ない とした。 また、
「なぜ最初か ら知 り合いだ とい うことを話 さなかったか。恥 をかかせて」 とまで言 ってい
る。
山城 さんは字か らの供 出物 とは別 に個人で山羊や豚 な どを供 出 した りしていた ようで、
山城 さんの家族 は軍の壕-避難 していた。その事 か らも、山城 さんは兵士 たちとはかな り
親 しい関係 にあった事が窺 える。
防諜対策上 は住民の陣地へ の立 ち入 りを禁 じていたに も関わ らず、事例 3の金城金保 さ
ん を証人 として陣地内-呼 び入れた り、山城 さんの ような地域 の住民 に避難場所の提供 と
い うかたちで陣地壕への立 ち入 りを許 している。 しか も、玉井 さんの ような地域の住民が
保障す ることで身元 のわか らなかった者が陣地内へ立 ち入ることも許可 を している。 この
ような事例 を見 る と、 どこが 「
住民ハ立入 ラシメズ」場所で 「
巳 ム ヲ得ザ ル」場所 なのか、
なにが 「
己ムヲ得 ザ ル」事 なのか統一 された基準 らしきもの を見つけるこ とがで きない。
兵士 たちは、陣地 内 に誰 を何処 まで立 ち入 らせ るかの判 断 を、その場所、時間によ り独 自
に行 っていたので はないか。
軍 は住民 の陣地への立 ち入 りを禁止す る と同時 に、「立入 ヲ許可セシ将兵 ノ防諜教育 ヲ
L
h
・
、
徹底 ス」 と し、将兵が外へ情報 を漏 らす ことに対 して気 を使 っていたが、その意志が末端
の兵士 たちには 十分 に伝 わっていたかは疑わ しい。
3.信 用 され な い住 民
(1)スパ イと疑 われる人 々
米軍が上陸後、首里方面の戦線 においては素数、西原、棚原、一五七高地 を結ぶ線で戦
3日に第三十二軍 はこの線 を守備 していた部隊を仲 間、前
闘が続いていた。 しか し、4月2
(
1
7
)
田の地区に撤退 させ た。 また、前 日の2
2日に島尻 に配備 されていた第二 十四師団に2
2日か
(
)
バ
)
ら2
4日の間に中部 の戦闘に参加す る よう移動命令がでている。つ まり、 この時期 は米軍 に
戦線 を突破 されは じめ、陣地 の配置状況 も大 きく変わった時期 といえる。 この様 な状況下
で次 の ように避難民がスパ イとして疑 われた事例がある。
(
1
6
)前掲 「
軍防諜参考資料」
(
1
7) 防衛庁 防衛研修所戦史宣 『
戦史叢書
沖縄方面陸軍作戦』p
.
4
2
5
.
4
2
6
(
1
8
)同上 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』p
-5
4-
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5)
事例 占
'
'
)
安里牛位 (
当 時4
9歳 、農 業 )
・伊 祖 東 方 の 墓 に避 柾 - 伊 祖 の 東 の 兵 隊 の 壕 -ナ大 平 - 内 聞- と移 動 を して い る
・内 聞 へ の 攻 撃 が 激 し くな っ て きた こ ろ に 国場 へ 移 動 して い る
(
前略)
国場 に行 った ら、西か ら来 た ものはスパ イだか ら殺せ ととい う命令があった とい うこ とで、
兵隊が私 をお ど したので、私 はハチ ャー (
度胸のあ る人間)ですか ら、あなたが ただけが沖縄
のため に戦 ってい るのか、私 も沖縄 のため に命が けで して きたんだ、兵隊の飛行 場 を作 った り
避難壕 を掘 った り、 ア メリカ兵が どこまで来 てい るこ と等 を友軍 に伝 えた りして きた もんだ、
私 は とて もスパ イ じゃない よ、大正三年 に シベ リヤ出兵で勲章 も貰 った よ、 と言 ってや った ら、
納得 して、壕 にいれて くれ ま した。 (
後略)
安 里 牛 位 さ ん は ス パ イ と して疑 わ れ た 時 、 兵 士 か ら西 、 つ ま り那 覇 方 面 か ら来 た者 は ス
パ イで あ る の で 捕 ま え て殺 す よ う に との 命 令 が 出 て い る と説 明 を受 け て い る。 安 里 さ んが
国 場 - 移 動 した の が 内 間 - の 攻 撃 が 激 し くな っ た 頃 とな っ て い る。 とい う こ とは 、 4月下
(
2
(
)
)
旬 と考 え られ る 。 こ の 部 隊 が 那 覇 方 面 の 西 側 か らス パ イが 潜 入 して くる と想 定 して 警 戒 し
て い る こ とは 当 然 で あ ろ う 。
ま た 、 この 時 期 に浦 添 村 内 間 や 那 覇 市 の 天 久 、 泊 の住 民 達 が 南 部 に避 難 す る 時 、 那 覇 を
経 由 して 国 場 に至 る こ と も当然 想 定 で きた はず で あ る。 しか し、 安 里 さんが 受 け た説 明 を
見 て み る と、 避 難 民 か敵 か を見 分 け る とい う意 識 は無 く、 西 か ら来 た者 は と りあ えず 捕 ま
え る とい う状況 で あ っ た とい え る。
また 、 大 域 政 英 さ ん は次 の よ う な体 験 を して い る 。
事例 占
2
日
大城政 美
・1
9
41
年 1月1
0日 :宮 城 (皇 居 ) 護 衛 近 衛 騎 兵 と して 兵 役 に就 く (志 願 )
・1
9
4
4年 1
1月2
5日 :満 期
(
1
9
)琉球政府 『沖縄 県史 9 沖縄戦記録 1
』琉球政府 1
9
71
年 p
.
4
01
4
0
2
9
6
8
年 には 5月 1日の沖縄本 島中部の戦
(
2
0
)前掲 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』朝雲新 聞社 1
南飛行場南 )の地区は戦車 を伴 う有力 な
闘 において記述 に 「
安波茶 、揮低北側、内聞、仲西 (
米軍 の攻撃 を受 けた。」 とある。従 って 、 4月下旬 頃か ら内間へ の攻撃が激 しくな って きた と
考 え られる。
(
2
1)浦添市 史編集室 『
浦添市 史 第五巻 資料編 4 戦争体験記録』浦添市教育委員会 1
9
8
4
年
p.
1
9
3
1
9
7
-5
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05)
・1
9
45年 1月 3日 :鹿 児 島着
・(1月 中旬 ):8日か け て 沖 縄 着
・(1月 中旬 か ら下 旬 ).
'故 郷 の小 湾 に着 い て
3日後 に、 小 湾 に駐 屯 して い た独 立 歩 兵 第 十
五 大 隊第 四 中隊 (
隊 長 :松 田実 ) に徴 用 され る
・4月 2
5日頃 :隊 の 命 令 で 天 久 台 高 射 砲 陣 地 に弾 薬 受 領 に行 く。 この と き、 叔 母 や 姪 が 懇
意 に して い た桜 庭 兵 長 とお 茶 を飲 ん で い る と こ ろ に 出 くわ し、 皇 居 警 備 の 話 な ど をす る
・3日後 (4月 2
8日頃 ):天 久 台 の 叔 母 の所 に家族 と隠 れ る避 難 壕 を捜 しに行 く
「
天久台 に着 い た時 には、晩 の七 、八時頃です っか り暗 くなってい ま した。壕 出入口がい くつ
もあ り、叔母達 が入 っていた壕 は どこだ ったか と明 りの もれている壕 の入口 をあけた ら、『
誰
だ !』 と日本 兵 に開か れたので、 『
ハ イ、避難民 です
』『ナニ !避難民か、劫 いた ら撃 つぞ !』
と言 うのです。私 は何 もや ま しい ことはないか ら、座 っていた ら、三、四名 の兵士が 出て来て、
捕 まえるのです。 そ して場 内 に引立て られ ま したO軍曹か曹長かだ った一人 は抜刀 して、兵士
は着剣 して構 え、い きな りビンタを張 って 『きさまはスパ イだ !』 と言 うのです。
そ して、上半 身 を裸 に して、身体検査 を し、両手 を後 ろに電話線 のハ ダ力線で きつ く縛 り上
げ ま した。
『何で私 をスパ イ呼 ばわ りす るのか、私 は軍隊手帳 もちゃん と持 っているんだ』 と言 い まし
た(
)今度現役 か ら帰 った とい うこ とを証明す る ものですOす る と 『こんな もの探せ ばい くらで
』『それ だった ら私 は、二 、三 日前 に小湾 の石部隊 と一緒 に
もある。 こんなのはあて にな らん
こっちへ弾薬受領 に来 たばか りだ。嘘 と思 うのな ら小汚 の石部隊の松田隊に電話 して欲 しい』
『そ うか』 と言 うことで、電話 をか けに行 くふ りを した一人の兵隊が二、三分 ほ どあ けて、戻
って くるな り 『
大域 とい う奴 はず っ と前 に死 んだ と電話が来 てい る』 と言 うのです。 い よいよ
殺 され る破 目になったのです」
次 に、大域 さんはこの場 内 に時 間 カマ とい う叔母 、い とこのハ ル、ハ ツ子 姉妹がい る ことを
伝 えた ら、す ぐ父の妹 の叔 母を連 れて来た。 だが、叔母が 自分 の甥であるこ とを証 明 した ら、
「これはあんたの甥で あって もスパ イか も知れん、お前 は帰 れ」 と何 も聞か ないです ぐに追い
出 した。
今度 は、 日本兵 の方 か ら、大域 さんに天久の区長 を知 っているか と問 うた。かれは、区長の
名前 を知 らなか ったが、顔 は よ く知 っていた。す る とその区長 を連 れて来 た。 区長 は、「この
人は小 湾 の人です。 よ く知 ってい ます」 と兵隊 に答 えた。「それな ら、あん たが責任 を持 って
引 きとるか」「はい、引 き取 ります」「しか し、その人が スパ イだった ら、あ んた も一緒 に殺す
よ」「それ な ら引 き取 れ ない」「じゃあ、帰 れ」 とその天久の区長 も帰 されたので天城 さんはい
よい よ助 か らない と諦めて しまった。
だが、かれは間一髪 で危機 を脱 出で きた。
「
私 のい とこた ちが、三 日ほ ど前一緒 にお茶 も飲 んだ桜庭兵長 に、私が捕 まってい るか ら行
って くれ と頼 み 、兵長が飛 んで来 たのです。 そ して 『この人だった ら僕 が保 証す る』 と身元 を
引 き受 けて くれたのです。 それでそ この兵隊たちは 『
悪か ったな、気 をつけて帰 れ』 と解放 し
たのです。
私 は、安心 す るの もつかの間、小湾 に待機 させ ている家族 の壕 を探 し、見 つ けたのでそ こを
出て行 こ うと しま した。 ところが、私が捕 まって間 もな く私 と同年輩の男性 が一人 目隠 しされ
て連 れ込 まれ 、スパ イの嫌疑 をか け られていたが、私 の よ うに身元保証人が い なか ったので、
-5
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史料編集室紀 要
第 30号 (
2005)
ちょうどそのとき日本兵が壕の外に連れ出 し、拳銃で押 しやるや、一発撃ったのです。彼が殺
されるのを私は見たのです。すると殺 した兵隊は私に拳銃を向けて飛んできました。兵隊たち
は私の顔 を見て 『
あーさっきの青年か、気をつけて帰れよ-』 と言 うのです。私のいとこ達 も
目撃 していたそうです。四月二十八 日の夜九時半頃です。
私は、 もう殺 されると思ったとき、あまりにも悔 しいので 『どうして沖縄人をスパイ、スパ
イと言って殺すのか』 と聞いたら、『
沖縄人はみんなスパイだか ら殺せ とい う命令が上か ら出
ているんだ』 と言いました。」
大域 さんは、その日の内に再び小湾に引 き返 して、 また、この天久台にみんなを引 き連れて
戻って きた 。
そ して翌朝、壕出入口がガランとして空いていたので危険を感 じて、そこを塞 ぐために附近
か ら石 を集めようとしたら、その場か ら兵隊が-リし出て来て、「
夕べの青年 を殺 して埋めてあ
るから、そこか らは石を取るな」 と言った。
大域政 英 さんは、 日本軍 の陣地へ誤 って立 ち入 り、 スパ イ と して疑 われ殺 されかけてい
る。 その 中で兵士 た ちは、大域政英 さん に捕 まえた理 由 を問 われ た とき 「沖縄 人 はみ ん な
スパ イだか ら殺せ とい う命令 が上 か ら出 てい るんだ」 と答 えてい る。大域 さんが スパ イ と
して 日本軍 に捕 まった時期 は、米軍が 間近 にせ ま り、避難民 が続 々南部へ逃 げ てい く状 況
■
_
・
.
I
下 にあ った。 この命令 は陣地 の周 りにい る沖縄 人、つ ま り避難民 はすべ て スパ イの容 疑者
と して扱 え とい って い るの と同 じで あ る 。「沖縄 人 はスパ イで あ る」等 の指 示 が 出てい る
こ とか ら、兵士 た ちが避難民 を手 当 た り次 第 に捕 まえる為 の根拠 を得 てい た こ とになる 。
(2)継承 された沖縄 住 民観
923年 に編纂 され た 「
沖縄 県
日本 軍 の沖縄住 民 観 を表 す ため に よ く用 い られ る ものが 、 1
(
2
'
l
)
の歴史 的関係 及人情 風俗 」 で あ り、 この 中 には 「皇室 及 国体観念 の徹 底 に就 い て は全力 を
用 ふ るにあ らされ ば将来」敵 国 になび く恐 れが あ る と してい る もので あ る。 この考 え方 は、
第 三 十二 軍 が 沖縄 県 に配備 され た後 、 「殊 二沖縄 県 人 中ニハ他 府 県 人 二比 シ思 想 的二忘 恩
(
2
(
)
功 利傾 向大 ナ ルモ ノ多 ク」 と し、いつ裏切 るか分 か らない存在 と してい る 。
同時 に、 「
謀 者 ハ常 二 身近 ニ ア リ内地 こ帰 り タル トテ寸 時 モ油 断 スベ カ ラズ。絶 エ ズ北
[
2
)
)
浦 二在 りタル心構 こ在 ルベ シ」 と してい る。つ ま り、 中国東北部 に配備 され ていた時 と同
(
22)前掲 『
戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』p.
441 によると、 2月2
8日の敢闘の状況は 「
左翼に置い
ては、屋富祖南側高地開近は戦車を伴 う有力な米軍の攻撃を受けて陣地の一角を占領 され、また、
南飛行場南端にも米軍が進出 してきた」 というように、前戦は浦添村仲酉あた りにあった。
(
23)沖縄連隊区司令部 「
沖縄県の歴史的関係及人情風俗」 1
923年
(
24)前掲 「
第六十二師団会報綴」
(
25)防衛庁防衛研究所図書館蔵 「
第五十飛行場大隊陣中日誌」 1
9
44年
部隊の多 くは、以前中国大陸に配属 されていた。
-57 _
第三十二軍に配属 された
史料 編・
集室 紀 要
第3
0号 (
20
05)
じよ うに、 身近 な所 にスパ イが潜 ん で い るの で警 戒 を怠 る な とい う こ とで あ るが 、 当時 兵
士 た ちの 身近 な所 にい た の は沖縄 の住 民 で あ った。
この よ うな考 え が 、 第 三 十 二軍 の 中心 にい た将 校 の 次 の よ うな発 言 を生 ん だ とい う こ と
は 当 然 と言 え る 。
事例 i
L
'
'
7
'
(
前略)
壕 内には大宜味衛生課長、警察部の幹部がお り、最高官吏 と しての知事の威厳 も保 たれ、上
司 に対する服従 も警察部だけは固 く保持 されていた。
砲弾が棒裂す るのか、巨大な壕が地中か ら揺すぶ り上げ られる ようにモ リモ リと動 いた。
天城記者は軍司令部情報主任益永大尉 の抑揚 のない、 きき覚 えのある声 を耳 に してはっとし
た。 どうして こんな処へや って きたのだろ う。彼 は部下の坂井軍曹 と並 んで腰掛けていた。濁
流 に両足 をだ ら りとつ けた まま、益永大尉 は うつ むき加減 にポ ッリポッ リ話 しかける。「
軍司
令部 はあんた方が首里 をだつ と間 もな く移動 を開始 した。小官 も、その途中だ」-彼 の顔 はつ
かれてはいるが例 の小 さい陰険 な眼が依然 と して光っている。 自己の義務 を遂行 し、 自己に振
り当て られた運命 を、受 け入れる神秘的な人間の、崇高 さなどは微塵 もな く、一個のやつれた、
生命 の危険 に怯 える、動物 のように、眼光だけを光 らしている、彼 に過 ぎなか った。
益 永 は、いつ も口汚 く、沖縄 人 を罵 っていた。「
警察官 も、新聞記者 も、否 、沖縄 人はみな
がみ な、スパ イだ-」 と口癖 の ように、暴言 していた。敗北の戦場 に、ひかれた自らの悲運 を、
罪 は沖縄 人にあ り、 と錯覚 して、沖縄 人の兵 に、役人に、憎悪の悪罵 を浴 びせていた。彼 は、
軍司令部の戦況発表 をわ ざと遅 らせ、艦砲の薄 らぐ午後六時の夕刻 を無為 に外 らしては、新聞
記者達の恐怖 に歪 む顔 を見て罵言 をあびせ た ものだった。
二十七 日未 明、志多伯の壕 を出発す ることとなった。益永大尉 も酒井軍曹 の姿 もその夜の中
に消 えていた。 (
後略)
将 兵 の この よ う な意 識 が 「沖縄 人 は ス パ イで あ る」 等 の 命 令 を出 させ た の も当然 とい え
よ う。 この よ うな命 令 が 出 され た状 況 で スパ イ と され て拘 束 され た避 難 民 に とっ て疑 い を
は ら し生 き延 び る こ とは非 常 に困難 で あ った 。 前 記 の安 里 牛 位 さん は 、軍 歴 と軍 へ 協 力 し
て きた こ とを話 す こ とに よ り兵 士 た ちの疑 い をは らす こ とが で きて い る。 大 域 政 英 さん は
どの よ うな弁 明 も聞 き入 れ られ なか った が桜 庭 兵 長 とい う兵 士 が 身元 を保 証 した こ とで辛
う じて 疑 い をは らす こ とが で きて い る。
この よ うに、 一 度 ス パ イ と して捕 らえ られ た場 合 、 そ の疑 い を は らす た め に必 要 な条 件
は拘 束 した兵 士 に よ って変 わ る。 しか し、 程 度 の差 は あ る け れ ど も、 ス パ イ と して 疑 わ れ
た避 難 民 の 多 くは 自分 が スパ イで は ない と説 得 で きず に、 天 城 政 英 さん とほ ぼ同 じ時 に拘
(
2
6)沖縄 タイムス社 『
鉄の暴風』朝 日新聞社
1
9
5
0年 p.
1
0
9
-58-
史料編集室紀 要
第 30号 (
2005)
束 された青年の ように殺 されていった。
4.おわ りに
兵士 たちは、特 に米軍の侵攻が間近 に迫 った ときに、「
沖縄 人はスパ イ」 とい う沖縄 人
観や命令 を根拠 に陣地 に近づ いた多数の避難民 に疑いの 目を向け、スパ イとして拘 束、尋
問、殺害 をお こなっていた。
しか し、陣地 に立 ち入 った住民が全 てがスパ イとして扱 われた訳ではない。つ ま り、防
諜組織 に組み込 まれ ていた地域住民 は、時には事例 3の金城金保 さんの ように兵士 たちが
自ら陣地へ招 き入れ る場合があった。
これは軍が指導 して、各部隊は防諜対策のため不審者の陣地- の立 ち入 り阻止体制 に地
域住民 を組み込 んでお り、そのため兵士 たちの中には地域住民 を防諜上有効 な情事鋸原であ
る と認識 していた者がいたことを示 している。
また、事例 4の山城 さんな どは、字か らの供 出物以外 に個人で供出 を してお り、兵士 た
ち とかな り親 しい関係 にあった ようで陣地壕 内に避難す る事 を許 されていた。 と同時 に知
人の玉井 さんの家族 も陣地壕 内へ避難する許可 も得 ることがで きる関係 にあった。 それば
か りでな く事例 3の神谷 さん親子 も別の場所であるが軍の壕へ避難 を許 され、事例 5の安
里 さん も軍の陣地へ避薙す ることを許 されている。
この ようにスパ イ と して拘 束、尋問 した避難民 と兵士 たち自らが陣地へ招 き入れ た地域
住民 を中心 とす る人 々 とでは、兵士 たちの対応 はあ きらか に異 なる。それは、防諜対策上、
陣地内に地域住民の立 ち入 りを禁止 し警戒の対象 とは していたが、同時に防諜組織 の中に
地域住民 を組み込 んでいた。そのため、兵士 たちは防諜組織の中に組み込 まれた地域住民
と比較 して地域外 か ら入 り込 んで くる身元不明者 に対す る警戒 を異常 に強めていた。身元
が はっ き りし信用 で きる と判断 した者 に対 しては警戒が甘 くな り、兵士 たちは 自覚 しては
いないだろ うが、命令違反 を犯 し住民 を陣地 に招 き入れ ることに繋が ったのではないか。
では、一度軍か ら信用 を得 た住民 たちはスパ イとして疑 われることはなかったのか。お
そ ら くそ うではないであろ う。一度信用 した と言 って も、住民が兵士 たちに逆 らった り怪
しい と思 う行動 を取 った場合、す ぐにスパ イ嫌疑 をかける対象へ と切 り替 わる程度 の もの
であった といえる。 また、地域の部隊の防諜体制 に組み込 まれていた住民 も、避難民 とな
りその体制か らはずれ る と、他の避難民 と同様 にいつスパ イとして疑われて もおか しくな
い状況 におかれるこ ととなる。
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史料 編 集室 紀 要
第 30号 (
2005)
つ ま り、一見 、同 じ住民 に対 して避難民 と地域 の住民 に対 して兵士たちの対応が異 なっ
てい る ように見 えるが、軍がスパ イとして扱 う住民 とそ うでない住民 を分 けたわけではな
い。 む しろ、防諜対策の組織 を作 る段 階で部隊の所在す る地域の住民 を取 り込 む体制 をつ
くったため、兵士 たちの対応の違い として現 れたのである。
だが、結局沖縄戦の末期 には、収容所 に入 っていない住民 はすべ て避難民 となっている
とい って もいい状況である。 また、軍組織 も崩壊 し、 5月22日の第三十二軍司令部の摩文
-仁撤退 を機 に部隊の配置状況が変わ り、米軍上陸以前か ら配備 されていた地域 に継続 して
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配備 されてい る部隊は皆無 となった。 この状況 にあっては、地域住民 を取 り込 んだ防諜体
制 は完全 に崩壊 して しまった といえる。 その ことは、つ ま り日本軍の宣伝 を信 じ米軍か ら
逃 げ回 ってい る住民全 てがスパ イとして疑 われることになったことを示 している。
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2
7)前掲 『
戦史叢書
沖縄 方面陸軍作戦』
p.
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