0石 巻市 文化財 だ よ り 第lS号 i… … … …・,1 舎郭 山長合 寺総 合調 査報告 (そ の 2)。 田代 島大 泊民俗 ・ 民具調 査 報 告 ……… ……… …… 20 昭和60年 度 文化財 め ぐり… … …… …… ……… … … 37 指 定 文化 財 あ んな い…… …… ……… ……… … …… 37 ・38 …・ 旧町名 表示 石 桂 設 置 事業 … … ……… ……… … Ⅲ 文化 財標柱 設 置 事業 … …… ………… ……… … ……39 ・42 …・ 石 巻 文化 財 だ よ り既刊号 案 内 ……… …… … … Ⅲ 石 巻市教育委 員会 花 糠 雲 員 佐 藤 雄 ︱ ︱ そ の 一TII 石 巻 市 真 野 萱 原 ・舎 那 山 長 谷 寺 総 合 調 査 報 告 石需 本調査報告 は、昭和 五十 八年、 五十九年 にわたり、舎 那山長谷寺関係 の資料を調査 する こと によ って、石巻市内寺 院調査 の 一つのき っかけ にしようとす る意図 によ って 開始 されたも のであ る。 立案者 は木村敏郎氏 であるが、 五十九年度 にな って勤務 の関係 で、石巻市文化財保 。 護委員 を辞任 され た ので、佐藤雄 一が引継ぐ形 で報告書 を作成 したも のである 各部 の担当者 は次 の諸氏 であ る。 真野村 風上記御用書出﹂ は石巻市史編纂資 なお、真野村 の中 心資料と考 えられ る ﹁ 料第 五集伊寺 水門 に、官城県史所収 の高橋克弥氏所蔵 の写本と舎 那山長谷寺蔵 の写本 を比較掲致 して いる ので、本報告 には集 録 し て いな い。 前号掲載 ︶ 硼長谷寺 並び に長谷堂記及び過去帳書 込 み の解読 ・解説 ︵ 女川町立女 川第 五小 学校 木村 敏郎 前号掲載 ︶ 例舎 那山長谷寺境内 の板碑調査 ︵ 宮城県石巻高等学校 佐藤 雄 一 宮城県石巻女子高等学校 山内 信子 亀 山 陽子 石巻市立女子商業高等学校 大坂 香 杉山 恵 理 前号掲載 ︶ 口長谷寺境内測量 ︵ 返藤 信実 上井 光夫 宮城県石巻 工業高等学校 士口田 友和 主 ヽ 前号掲載 ︶ Щ大悲閣長谷堂並び に山門図面作成 ︵ 島橋 賢 一 棚高 橋 組 一 団仏像 。絵馬 に ついて 宮城県石巻高等学校 佐藤 雄 一 黒 田写真館 大友 昇 口近世 の石碑 に ついて 宮城県石巻高等学校 佐藤 雄 一 閉牡鹿 三十 二所 の御詠歌 に ついて 一 式 宮城県石巻高等学校 佐藤 雄 一 団長谷寺 の植物 に ついて 石巻市立蛇 田中学校 佐 々木 豊 嘲 仏像 ・絵馬について 長谷寺仏像群 の中でも最大級 のも のは、 長谷堂内 の十 一面観音 であ る。室判時代 の作 とも伝 えられ て いる。材質 は樟 。像 高 は、 二埋 三十晏 些 である。 また、十 一 面観音 の両側 に安置され ている不動明王、 文珠菩薩、子育観音 は、江戸時代 の作品 と推定 され る。 さら に、同じ場所 に二 つ に分れ て祀られ て いる三十 三観音像 ︵二 琳欠落 ︶ は牡鹿 三十 三所 にちな んで奉 納 江戸 されたも のらしく、長谷寺十 七世 ︵ 末期 ・嘉永年間以降 ︶良瑞 の代 に修 理さ れたも のであ る。 本堂内 に安置 され てい る十 二体 の仏像 は十 二神将 と伝 えられ て いるが各仏像 を子細 に検討す ると十 二神 将 と は確定 でき な い。各種 の仏像が混在 して いるよう である。 また、仁 王門 に安 置 され て いる仁王像 二体 は、裳 すそ のか くらみ に江戸期 の作 風を よく のこして い る。左側 の阿形 の 一体 は股くぐり の仁王 として、子育 て、厄除けとして土地 の人 々 に信仰 さ て いる。 これ ら各種 の仏像 に ついて のくわし い 研究 は専門家 の調査 に期待 した い。 長谷寺 の絵 馬 はす べ て長谷堂大悲閣全 体 に奉 納 され て いたと いうが、失 われ た も のが多く、現在 は総数 六十枚とな って いる。大絵 馬 は白馬 の絵馬 および猪 の絵 馬を のぞ いて、 ほかは武者絵 であ る。小 絵馬 はそ の図柄 に変化があり地方色を よ く表 わして いる。 ▲十一面観音 (大 悲閣) だ 財 化 支 市 巻 石 り よ だ 財 化 文 市 巻 石 < 不動明王︵ 大悲閣 ︶ <文殊菩薩 ︵ 大悲閣 ︶ <子育観音 ︵ 大悲閣 ︶ 箱書 き ▲三十三観音 く三十三観音 (大 悲閣) よ だ 財 化 文 市 巻 石 <十 二神将 ︵ 本堂 ︶ 文 化 財 <大悲閣 の絵 馬 仁王像 (仁 王門) よ だ 財 化 文 市 巻 石 硲 近世の石碑について 長谷寺境内 における近世 の石碑 は、 ほ とんどが観音堂脇 に集中 し、通称 一字 一 石塔 と呼ば れ るも のが多 い。 しかも、 こ れら の石碑 は造 立当時 の原位置を保 って いると思 われる ので、地下遺構 には、 一 字 一石が埋 没され て いる可能 性 が強 い。 また、牡鹿 三十 三所 の頂 にお いて紹介 し てあるよう に、牡鹿 三十 三所 順潜塔及び 西国坂東、秩 父奥 州 の順膳塔がある こと も注意 さるべき である。 一字 一石塔ある いは普門品読誦塔が多 く造 立され て いると いう こと は、 か つて 僧侶 の修養 道場と して栄えたと いわれ る 伝 えもある ので、そ の方面 から の考察も 必要 な ことを示唆 し て いる のかも しれ な い。 なお、他 に馬頭観音塔 など、 ごくあ り ふれ たも のは省略 し てあ る。 さら に、明治 以降 の石碑 と し て、大島 誌恭先生 の碑 を紹介 し てあるが、 これ は 長谷寺 調査中 に大島誌恭先生自筆 の教育 に関す る建白書 が発見 された ので、大島 誌恭先生 の石巻 地方 におけ る教育界 に対 す る功績 と先生 の教育論、 ひ いては世界 観と い ったも のを知 る のには格好 の資料 と思われる ので、あわせて紹介 してある。 ︽大島慾恭先生 の碑︾ 大島先生之碑 牡鹿 郡教育会 長組 批雛 清野喜左衛門象額 紀念之碑為大島誌恭翁建 也 ︵ 羽宮城郡利 府村 人仙台藩士鈴木蕃敬 二男也 安政 三 年為牡鹿郡真野村大島嘉門之養 子依冒其 姓 弱冠入養賢堂専講経書 明治維新初 政府倣泰 西之法 県府設大中学校 市邑 置小 学校 於蒐翁亦欲従育英 九年九月 入仙台師範学校講小学教科十年七月卒業 命真野小学校訓導 十 三年十月依公選 査定県会議員 一一 十年陛任 同校校長兼訓 導 一一 十 二年以満 四年以上勤続 給金若 干 一一 十 五年応検定試験 及第 許 尋常 小 学校本科 正教員 一 二十 二年列 日本赤十字 社員 一 二十 三年任稲井尋常高等小 学校訓 導 一 二十七年以老辞職 官給金若 干 賞 其功労 四十 一年 五月 十七 日得疾遂逝尖 享年 六十有九 鳴呼翁奉職教育 三十余 年 於姦其間誠意従職 慇懃教 子弟或考 案教具 窮製作之 或貢献校舎 設備 其 功績 不砂少宜央 牡鹿郡教育会贈 硯函 一 個表彰之 項者村民欽慕其徳風 相謀将 建 紀念碑 来乞碑文由来師道廃也 久灸 惟翁 至性感門人 小子没世 不忘諸 云誨人 不俗於翁平見焉銘 日 育英多年 其徳其功 民俗醇厚 永仰高 風 明治四十 二年 二月 松園 一 は遥盈寿騨壁吾 井内 阿郡勇之丞刻 長谷寺 山門前 の大島誌恭先生 の碑 の全 文 は以上 のようであるが、 これ に ついて は、す でに佐藤露江氏 によ って ﹁ 稲井 町 史﹂ の中 で紹介 され ている。大島先生 の 略歴 は この碑 によ っておおよそを知 る こ とが でき る のであるが、先生 の人となり を示す自筆文書が発見 された ので、 ここ にそ の全文 を紹介す る こと にす る。 政規教 法 フ確 立 シ天下 一致 ヲ論 スル表 微臣既 二聞 ク 先 王 ノ言 二ロ ク 天 ノ 君 フ立 ル民 ノ為 也 君主誠 二命 アルカ 天下挙 テ君民 ノ分 ア ル事 其鹿 二位 スル カ如 シ 而 シテ君民各其分 ヲ蓋 シ 悠久 保存 スル基本 フ按 スル ニ 政教 ノニ法 ニ 帰 スルヤ 素 ヨ∠一 一 一 ロフ待 ス 然 ル ニ此政 規也 教 法也 共 二天政 二原出 セサ ルナ キ ハ 則 チ所謂 天命 フ固有 スル人民 ニ 関係 スル ハ也 故 二此政観 ヲ統 理 スルノ 君主 モ亦 誠 二天命 二藉 り 而 シテ立 ツ 君主命 アル果 シテ賃也 然 ル ニ現今 天 下 ノ形勢 タ ルヤ 自 フ君主 卜称 スルモノ 各処 二私立 シ 政教致 ル所 二異 ナリ 憶 フ ニ 人性憶 兆小 異 アル ニ服 ス 而 ンテ 管 理 ノ法 誠意 ノ道 随所 二変果 ス 人 民集 ソ安 キ フ得 ンヤ 争闘月 二起 テ 生 霊年 二例 レ 人民無比 ノ不幸 ヲ被 ルモ亦 天命 フ凌 グ ノ秩 ヒナリ 微臣之 フ痛苦慨 歎 スル久 シ 是 ヲ以 テ 今上皇帝些下聖 明 ノ英断 二集 メテ匡勅 スル所 アツテ 天 下人民挙 テ 其本堵 予永遠保存 スルノ基 礎 フ堅 フセン事 フ所望 シ 晏 政規確立 ノ 議 フ建白 ス 然 リト雖 事極大 ニシテ 而 シテ文拙 ナリ 故 二賃意上達 セス 日 ヲ逐 テ憤態胸塞 ノ至 リ ニ軽 エス 重 テ神 典 二聖経 二見 テ 自 ラ信仰 スル所 フ反覆 参考 ツ 国土君民 二重大 ナ ル関係 ノ理由 ヲ略論 シ 謹 テ閉下 二陳述 スル ニ 天下 ノ事物 極 テ千萬 卜雖 物何物 力天造 ニ 成 ラサ ル物 ナク 何事 力神政 二出 テサ ル 事 ナ シ 事 正 サ ニ神政 二出 ル之 ヲ薗 ノ始 ト ス 物正 二天造 二成 ル 之 ヲ物 ノ本 ト ス 本始相弄 ヒ行 レテ而 ンテ天地位 シ萬 物安 キ フ致 ス 是自然 ノ勢 ナリ 然 ル ニ 此千萬物中人民 ヨリ霊 ナル物 ナク 千萬 事上国事 ヨリ大 ナル事 ナリ や 一立ナ ルモノ 動 ク ニ常道 アリテ事 ノ大 ナル ハ臨機以 テ 之 ヲ虎 ス 是 レ政教 ノ由 テ起 ル所也 而 シテ常道 ハ則 チ各民株守 スル所 ノ要則 ト 雖臨機 ノ虎置 二至 テ ハ人民自 ラ執 ル可 ラ ザ ル所 アリ 是君民 ノ分由 テ来 ル所也 故 二日ク 君主 ハ人民 ノ御者 二非 ル也灸 政規 ハ教法 ノ変狐 二非 ル也尖 今窃 ニ 典経 二照 シ 其賞境 フ證 スル ニ拳初 天地 未剖 ノ時 二営 ツ 天御中主神 天政 フ高 天 ノ原 二淑 ム ニ霊次 テ現 レ 七神随 テ出 ツ 而 シテ八没始 テ旋 り萬物成 り生祖降 誕 ス 是 ヲ以 テ 皇太神出 テ神政 ノ柄 フ 執 り 君祖降 テ国政 ノ規 フ立 ツ 姦 二由 り之 フ謹考 スル 二八洲 ハ即 チ八世界 ニシ テ大倭豊秋津洲 ハ即 チ我也 地球固 二其 三 二位 ス 而 シテ生祖 ハ 亜営侯富 二考 シテ天下 ノ人民其孫蕎 ナリ 人民国 二此 一系 ヨリ出 ツ 人民果 シテ同 一也央 国 土果 シテ同 一也突 然 レ ハ則 チ 一一 考ノ 降誕 ハ所謂天造 ノ本即 チ人民 ノ祖 ニンテ 君祖資 々杵命 ノ臨御 ハ則 チ所謂神政 ノ始 ナリ 天下誠 二此 二大政 フ経 テ開 ク事物 ノ本始果 シテ明也 然 り而 シテ 生祖博 フル所 ハ此生霊 二循 ヒ 明徳 ヲ明 ニスル ノ要道 ニシテ 君祖奉 スル所 ハ此民権 フ 抑養 シ生霊 フ擁護 スルノ公法也 事物誠 二此 二大法 二因 テ立 ツ 政教 ノ別果 シテ 明也 始 メ生祖 二考 天命 ノ尊 キ フ稟 ケ婚 フ易典 二配 ス時 天恕 フ犯 ス事 アリテ ヨ リ人民其餘罪 二罹 り 志慮信愛 ヲ失 フ菅 ナラ ス 故 二営時 天下 ノ擾乱 スル甚 シ り よ だ 財 化 文 市 巻 石 フ挨 クト 而 シテ特権 フ蔑始 スルノ大 ナ ルフ知 ラ ス 是等勝 テ未開暴徒 ノ所為 ニ 係 ルト雖 全畿 ハ朝政其始 二復 ン 其本 モ半 二過 ク 故 二政規 フ談 スル者 教法 フ説 ク者 往 々外来 ノ諸説 ヲ混同 ツ 以 自 ラ文明 二騎 り 反 テズ政 ヲ度外 シテ日 天我輩 二自由 ノ権利 フ賦与 ス 政治宜 ク共和 ナル ヘク 延議宜 ク民撰 ナル ヘシ ト 而 シテ各性 卜分限 卜其原既 二業 二天 二出 テ易 フ可 ラサ ル理 ヲ知 ル者殆 卜稀 ナ ン 而 メ後 挫下誰 卜共 二特権 ヲ族張 ツ 何 ノ日ヲ以 テ天任 ヲ成就 セラ ル ヘキ 天下 巳 二懸 倒 世界 二変 ツ 生霊重子 テ 墜炭苦域 二陥 ラ ハ 又何 フ以 テ至重 ノ天 命 二卦 へ 神約 二報 へ 君祖列聖 二孝 ス ル所 ト セラ ル ヘキ軟 而 シテ天譴 ノ降 ル 所 神責 ノ蒙 ル所 人怨 ノ集 ル所 必 ス他 ニアラサ ヘシ 是 二至 リテ逆鱗庚恕 セラ ル\ 百千萬 卜雖 又如何 ト モス可 ラサ ル而 巳 徴臣之 フ推思 スレ ハ憤歎 二堪 ル 二食全 ク下 ラ 日無 ク 血涙乾 ク時無 ク 一 ス故 二平常 天神 二祈 り国社 二請 ヒ 官 ニ 善 ク斯 ノ如 クナラ ン 皇運発達 ノ好期 至 レリ央 億兆安堵 ノ住會豊遠 カラ ンヤ 賃 二失 フ可 ラサ ルノ時此時 ナリ 然 ル ニ 新弊湧出 ノ議論朝野 二沸騰 スル 斯 ノ如 キ フ措 キ 尚国本 フ立 テ ス 遂 二数十月 ヲ送 テ ハ期會去 テ 人心散 ツ 朝綱再 ヒ 弛 ヒ 国土弥分裂 シ 尊長根虎 フ固 フセ フ顧 ミサ ルフ以 テ 人心準檬 フ得 ス 柳 頼 二惑 フ ニ 依 テ来 スノ弊害 ナリ 徴臣 恭 ク惟 レ ハ些下誠 二明達割如 其武其文 頗 ル神武皇帝 二倫比 シ 而 シテ君祖 ノ洪 徳 フ兼 子天下 無 ニ ノ大賓 フ承辞 シ 賃 二天任 ノ権 ヲ博受 セラ レ 一恕速 二内患 ヲ抜 キ 再憤乍 チ外冦 フ服 ス 是 ヲ以 テ 名臣頭 ヲ閾下 二連 子草 ヲ結 テ英武 フ海 外 二輝 カ シ 良師踵 ヲ五港 二接 シ 経 フ 播 ンテ聖教 フ都部 二説 ク 誠 二冥助 ノ降 ル所大徳 フ感 スル所 二非 ル ヨツ ハ 何 ソ リ尖 聴 風俗 ノ復 夕変夷 スル憂 タ ヘク泣 ク ヘク 其甚 キ ハ 兵 フ要 シテ王師 二抗 告 す 人 二説 ク ノ言 皆皇権族張 フ願 フ ノ 一二帰 ス 樽 二回ク政者 正 キ也 卜 然 何 卜政 ノ始 二基 キ 教 法全 ク天造 ノ本 シ 吾咎フサ ルナシ 故 二信一 フ三器 二徴・ ´ 要 ヲ神約 二挙 ケ 天命 二則 り性法 二順 フ 事前後 一ナリ 然 ル ニ中朝 ノ三器 フ教 ス ル頗 ル厚 ント雖 其賃 ハ之 フ遠 ケ摸擬 ノ 品是 二撲 ヒ 要領従 テ政増 フ去 ル如 シ 蓋 シ特権 ノ中衰此時 ニアルナヅ 加之朝 廷儒佛 二狗泥 スル所 アリテ ョリ 政令漸 ク人造 二成 ヅ別 二丞現 ナルモノ出 テ ノ王 事 ノ言是 二移 ヅ 国民又教法 フ邪道視 シ テ信 セス 是 フ以 テ朝綱萎□振 ハス 特 権潜 テ海外 二出 テ ス 聖教屈 シテ本邦 ニ 入 ラ ス 政教互 二偏移 シ君民相分離 ス 而 ンテ反 スルフ得 サ ル ニ至 ル 乃 チ中朝 之 力始 メフ為 スノ故 ナル事識者 フ待 チ 而 ンテ知 ラサ ル也 今 也 朝 廷政典 フ改 メ廣 ク良善 ノ法 フ撰 三宿老 ノ弊根 フ除 キ 命令 日 二新 タ ニ治罐 二易 ヒ民権 フ仲震 シ自由 フ免許 ス 誠 二近古未曽有 ノ産正 ニツテ占為勃ノ片介只フ姑狸偏セラ ルノ所 ノ如 シト雖 猶上 ニメ法律 尋常 二成 ナ 官議 想象 二決 シ 下 ニシテ倫 理人造 二出 テ 葬祭 異端 フ宗 ト スル コトキ 其他諸般 ノ 弊習 アリテ 未 夕正明 ノ公 理 二反 ラサ ル 二古往 現今 天下割裂 シ 国土匡 々 二分 レ 強者 天命 ヲ凌 テ各方 二自 立 シ 特権 フ フ私 シセサ レ ハ 犯 シテ大盆︻フ掠 メ 教工い 政観 ヲ慾 ニシ貧 り飽 サ レ ハ 無根 ノ論顕 ヲ設 ケ 人民 フ苦役 シ 争闘以 テ役 ヲ奪 ヒ 是 フ劫 ン 生霊 ヲ娠 スル算 無 シ 豊 残賊 ノ極 ナラ スヤ 思 ハサ ルノ尤 モ甚 キ モノ ニツテ 而 シテ生民 ノ不幸是 ヨリ重 キ モノナリ 天下 ノロ是 ヨリ大 ナルモノ ナツ 荷 モ天命 フ有 スル人民 ニンテ共 ニ 其分 フ蓋 スフ得 サ ル ハ 全 ク物霊 ノ名 ニ 反封 ン 上 天 ノ震恕 フ仰際 スル ニ怖燿緒 感 ノ至 リ ニ堪 サ ル也 徴臣窃 二是等笑害 ノ原因 ヲ勘 フル 二 一ハ人民挙 テ天造 ノ 本 フ察 セサ ルト 一ハ神政 ノ始 フ覧 ラサ ルト ニナ レ ハ民心其準虎 ヲ失 フ エ依 ルナ リ 且 ツニ条 ノ神約 ハ特権事上 ノ要領 ニ ンテ天任 ノ真賃 一二藪 二存 ス 曽 テ太古 ノ形勢 フ遡考 スル ニ天下唯 一規 一法万民 一君 フ奉 シテ平治 ヲ致 ス所 ノモノ 全 ク 三器 フ徴 シ神約 ノ要領 フ挙 ケレ ハナリ 其後地球 一変 人民改新 ノ事 アリ 是 ヲ 以 テ神武帝公法 フ産革 ツ劫世主要道 ヲ再 釈 シ大 ヒ ニ民 ノ心ロ フ 一洗 ス 是 ヨリ其 後 一一 法尚未 夕協 合並行 セスト雖 政規 全 ク神出 ルト雖 其察 セサ ルト覧 ラサ ル ト ニ至 テ ハ 抑亦重大 ノ原因 アリテ来 レ ル也 徴臣昧 死昧 死其如何 フ啓白 ス 最 初 君祖降臨 ノ日 天神賜授 ノ三器 誠 ニ 重尊 ニシテ 須 ク愛供 セラ ル ヘツト雖 天下億 兆 ノ心ロ ニ向 テ天任 ノ信徴 ヲ無男 シ 刃 フ携 テ 官吏 二週 ヅ 以 テ自 ラ天 誅 二騎 リテ日ク 我輩国家 ノ為 メ ニ朝奸 然 リト雖 此負華 同権 ノ人民 ニアリテ ハ 之 ヲ鎮護 スルノ任 素 ヨリ賦 ス可 ラ ス 是 ヲ以 テ主神更 二神明 ノ正胤 即 チ 君 祖 二命 シ豊秋津洲 二君臨 ス 政教誠 ニコ ノニ大役 二因 テ定 ル 君民 ノ分 天政 二原 出 スル果 ンテ明也 若 シ之 ヲ理論 二試 ル 国土 巳 二同 一ナレ ハ 経界 ノ分 ツ ヘ 一 一 キ ノ理 ナシ 博 二ロ ク普 天 ノ下王土 二非 ルナツト 及 チ経界 ナキ ノ言 カ ュ人民 巳 二 一系 ナ レ ハ其性素 ヨリ同 一也 其性 巳 二同 一ナ レ ハ道率 テ同 一也 道 巳 二同 一ナレ ハ之 フ脩 ムルノ教法 ニアルノ理 ナ シ博 二ロ ク 天 ノ命之 ヲ性 卜謂 ヒ 性 ニ 率 フ之 フ道 卜謂 ヒ 道 ヲ脩 ムル之 フ教 ト 謂 フ 生祖 ノ博 フル所充 ル央 将 夕人性 ノ同 一ナル巳 二斯 ノ如 クナ レ ハ 其権 利 巳亦同 一ナリ 権利 巳 二同 一ナレ ハ政観 巳亦同 一ナリ 政飢 巳 二同 一ナ レ ハ独 リ 君主 ニシテ同 一ナラサ ルノ理 アラ ンヤ 博一 一ロク天 二二日無 ク 地 二二主無 シト 君祖 ノ奉 スル所真 ナル央哉 真 二君祖 神明 ノ胤 フ以 テ此大任 フ主神 二舞 シ特権 フ太神 二稟 ケ 府 フ中津国 即千本邦 二開 キ地球 二君臨 ス 若 シ其真信徴 フ云 ヒ ハ 位 フ践 ム 誠 二明也 憶 フ 二 一君国 ニ 臨 テ政令 一途 二出 テ 人民 一道 二帰 シ 交際以 テ之 フ繋 キ 信愛 フ以 テ君民 ノ際 二證 ス ヘキ ノ神賽 ナレ ハ 頃更 モ君側 フ 離 ル可 ラサ ルヤ猶道 ノ人 二循 フカ如 シ 人道 ヲ去 レ ハ性 ヨリ其命 フ保 ハヌ三器 君側 フ去 レ ハ人民其生 ヲ柳 シスル能 ハス 三種 ノ神器確乎 ト シテ萬窮 二證 ス ヘク ニ条 ノ神約凛然 ト シテ萬孫 二博 フ ヘク 赫 々皆証 ス ヘシ 是 天下絶 テ無 キ所君祖 独 り之 フ奉 ス 君祖果 シテ天命 二君主 ノ j ラサ レ ハ 和性︲ 不胎筆立ヒエ ユテ h フ訴獄縫シ , 天下 ノ至治 ヲ致 ス 誰 力疑 フ此際 二入 ンヤ 誠 二天衷 ノ深 キ神慮 ノ遠 キ 断 シ テ人路 ノ及 フ能 ハサ ル知 ル可キ也 然 ル よ だ 財 化 支 市 巻 , r 石 ル ニ神賜 ノ信器 フ構造 シ 人 心 フ惑 ス ハ 天任 ノ政畿 二非 ル也 天地 ノ公道 フ度 外 シ 人作 ノ法 フ用 ユル ハ 先王 ノ政麗 二非 ル也 非命 ノ奮長 卜封等 シ皇威 フ損 スル ハ 特権 ノ政麗 二非 ル也 仰 キ願 ク ハ 盤下灸 二磨明 ノ衷慮 フ起 シ 返邁 ノ 聖断 フ振 ヒ 戊辰 ノ誓言 フ賃 ニシ 曽 テ 深遠 ノ天衷 二基 キ至明 ノ神慮 ヲ瞭 シ 一 二 種 ノ神器 フ正殿 二安置 シテ 特権 ノ信徴 ヲ萬衆庶 二表示 シ 神約 フ締坐 二掲載 シ テ天任 ノ真賞 フ服御 シ 神典 二照 ツ官帳 二祢 ツ 聖経 フ併 セ 以 テ天造 ノ本 二任 セ神政 ノ始 二反 り 人倫 フ定 メ法律 ヲ撰 シ 大 ヒ ニ匡正 シテ政観 ヲ確 立 シ 兼 テ 道 理 フ推 シ 教法 フ訂 正 シ 人民後性 ノ 基 本 フ 一定 シ 主神 ノ命 スル所 太神 ノ 会 スル所 君祖 ノ奉 スル所 生祖 ノ稟 ク ル 所挙 テ五洲 二族弘 シ 無窮 二樺授 シ 君 民眸和永遠 二保存 スルノ基礎 フ堅 ク セラ レン事 フ 然 ル ニ教 法 ハ嚢 二既 二天罪 ニ 触 ルヽ億 兆 ノ霊魂 フ洗浄 本復 スルノ定則 ニソ神胤 至尊 ノ君主 二用 ナシト雖 亦民 生 卜始終 ツ頂更 モ離 ル可 ラサ ルノ要道 フ 脩 ムル 天下人民必可尊 ノ主務 ニンテ 牧 民事上最関 スル所 ア レ ハ 良師 フ徴 シ 教會 フ開 キ 機 密 ヲ人民 二与 へ 洗淮 ヲ 授 ケ 天命 ヲ保 ツノ要路 フ確 立 シ 而 シ テ其禁 ス ヘキ之 フ厳禁 シ 免 ス ヘキ ハ之 ヲ公解 シ暴 ス ヘク廃 ス ヘク 開閉用捨 ス ヘキ モノ ハ 断然之 フ所致 シ 以 テ権利 フ抑養 シ生霊 ヲ擁護 スル子遣 ナク ン ハ 億 兆必 ス招 カサ ル ニ来 ラ ン 博 二ロ ク 君仁 ナレ ハ仁 ナラサ ル無 ク 君義 ナレ ハ 義 ナラサ ル無 シト 荀 モ此精霊 ヱ果ケ 権利 フ有 シ 五官 フ存 スル人民 素 ヨツ 其望 ム所 信 スル所 愛 スル所 ノ情態 天下挙 テ 一輛 同意 ナレ ハ 挫下 一朝英断 分之 ヨヅ正 シキ モノ非 ル也 而 シテ皇祥 乾坤 卜始終 シ 生民天命 二柳 ンスル婦童 モ善 ク知 ル ヘシ焉 豊 二貴 顕 ナラ スヤ 豊 二輸快 ナラ スヤ 徴臣曽 テ聞 ク 曇 ニ 永井雅楽摸夷 ノ不可 フ説 クアリ 其書 ノ 略 二曰 ク 今朝 廷廟譲 フ改 メ 神祖天 日 ノ照臨 スル所 徳化治 ク及 サ ント ノ神救 二基 キ 廣 ク海 外 ノ人民 フ懐 ケ 武威 フ 張 ラ ハ 五洲自 ラ其威 徳 二服 シ 終 二貢 ヲ捧 ク ル ニ至 ン云 々 賃 二先哲時臣 ノ未 夕送 ヘサ ル所 ノ萬世 不抜 ノ忠言 ニシテ 善 ク天衷 フ瞭 シ 君民 ノ分 フ明 メ 挫下 ノ特権 フ愛護 スル不世出 ノ士 ナリ 徴臣 累年蕨足懇望 スル所 モ亦素 ヨヅ滋 二外 ナ ラ ス 而 シテ 天造神聖 ノ本始 瞭然 ト シテ視 ル ヘキ モノ神典 アリ 官帳 アリ 聖経 アリ 揚 ケテ之 フ朝典 二備 ヒ 以 テ 政教 ノ軌 範 二充 テ レ ハ 天下 ノ物何物 カ 天造 ノ道 理 二適 セサ ルアラ ンヤ 天下 ノ 事何事 力神政 ノ公法 二適 セサ ルアラ ンヤ 事神政 ノ始 二基 キ物 天造 ノ本 二反 リ 而 ンテ事叛 キ 物乱 ルノ事 将 来萬世 必 スシモ有 ル可 ラ ス 博 二国ク 天 二従者 ハ必 ス存 久央 天 二逆 ノ者 ハ必 ス亡 フ央 <宝暦十 年 三 大 妙典 乗 一 字 一石之塔 板碑群脇 ︶ ︵ フ振 ヒ 特握咋フ魅貯央セラ ルゝノ隣曇︽親第中 此 ノ如 キ フ見 此 ノ如 キ フ聞 カ ハ 必 ス 知 り必 ス覚 り 此精 霊 二賦 スルノ要道 権利 二配 スル公法 二卦 シ 憤然競 然服従 馴頼 シ 帰依遵奉 シテ 彼 ノ奮長征 セサ ル ニ降 り以後数十年 ヲ出 テ スシテ 天下 自 ラ 一致 シ来 ヅ 統御 ヲ仰 ク ニ至 ルヤ必 セツ 是 則人民物霊 ノ名 タ ル所 ニシテ誠 二 牲下承許 ノ天任 二堪 工 特権 フ達 セ ラ ル ニ 依 テ万生霊 ノ苦難 フ免 レ 幸福 フ受 ル之 二超過 スルモノ非 ル也 君民 ノ <安永 八年十 一月十 一日 大乗妙典 一字進 石塔 ︵ 寺館跡 ︶ 是則 チ天理 ノ恒 ナヅ 伏 テ上請 ス 整 下言 二事 二洞察 フ垂 レ 速 二専断発行 セ ラ レン事 ヲ徴臣極 テ至愚 至晒 フ以 テ天下 ノ大事 フ論 シ 猥 リ ニ廷議 二楔 ス罪 万死 フ免 ル可 ラ スト雖 愛国 ノ素情 憂苦旧 歎 ノ至ヅ ニ謹 テ盟 フ神祗 二懸 ケ 一 言フ典 経 二求 メ 遂 二上書 ノ例 フ犯 スフ頗 ミ ス 味 死味 死叩首 叩首舞表 年 三十 六年 二月 宮城懸士族陸前国牡鹿郡真野村四十三番地 一等権訓導 明治十 一年十 二月十 日 大島誌恭 元老暁 御中 ︵ 縁 ︶ この文書 の所有者 は石巻高校教諭今泉 信安氏 であ ったが、 このことがき っかけ にな って大島家 に寄贈 される こと になり、 現在 は東京都小平市 回田町 二五 二大鳴 功 氏 の所有 にな って いる。 尚、大嶋誌恭 先生 の著書 に ﹁ 官城県地誌略﹂があ る こ とが判明したが、玩物 は確認され て いな いことを付け加え ておく。 <奉請秋 00 り よ だ 財 化 文 市 巻 石 <延享二年三月十三日 大方向佛華厳経 ︵ 石段登り口︶ >寛政七年七月十 五日 三界萬霊塔 ︵ 石段登り 口︶ レ普門品二千四百巻読誦 大乗妙典 一宇拝石塔 ︵ 石段登り口︶ ▼安永 二年 八月吉祥 日 須 淮脚 如 幽 慨百 奉 初 甥 経 勢 洋 く 正保元年十月十 五日 南 無阿弥陀佛 ︵ 石段登リ ロ︶ ※ これと同様 のも の 他 に二基あり <戒壇石 不許茸酒入山門 山門脇 ︶ ︵ <宝暦十 三年 五月 二十 四日 奉須潜牡鹿 三十 三所塔 ︵ 観音堂脇 ︶ <享保十七年 八月上旬 妙 法連 一石 一字塔 ︵ 観音塔協 ︶ り 財 化 文 市 巻 石 <享保十年 五月十 四日 金剛経 一字 一石塔 観音堂脇 ︶ ︵ < 宝暦十 四年 二月 二十 八日 大乗妙典 一字 一石塔 観音堂脇 ︶ ︵ ▲奉請弘法大使 <宝暦 八年 四月 二十 四日 普門品 一石 一字供養塔 ︵ 観音堂脇 ︶ <安永十年 二月十 八日 普門品 一字 石読誦 三千巻 ︵ 観音堂脇 ︶ <寛政 三年 六月 二十九 日 大乗妙典読誦 五百部 一字石塔 ︵ 観音堂協 ︶ <④ ・明和 四年 二月 十三日 普門品 一字 一石般若 心経 一萬巻 読誦塔 o明和 六年七月 二十 八日 奉書 痛妙 法連棄経 一字 一石塔 。安永 六年 六月初 六日 繭 略 奉 書 痛 悧 三 什 培 萌 藩 孵 ︵Z フジ ロガ ンの脇 ︶ よ だ 財 化 文 市 巻 石 ▲聖観音像 (石 段登 リロ) 電 子育観音 ︵ 観音堂脇 ︶ ※他 に地蔵尊 二体 あり <大島誌恭碑 A 4 ヽ) ` 、 、 紀` ` 子、 _T] 潔 石 巻牡鹿 三 十 三 札所 霊場所在 図 一 \ │〔 〔 ヽ ヽ ( ( ヽ ヽ リ ↓ ‐ 巻 1渉 ユ i 一 ヽ ͡ =畳 ゛ 一 一 淋 ・ ︻ ・ 一 一 ・ 一年 二 “ ヽヽ. . ィ 玉 「亀 身9 ‘一 消ζ″ ヽ , I I ■ ヽ 十 Ta だ 財 化 文 市 巻 石 刀 牡鹿三十三所の御詠歌について い観音信仰 と 三十 三所礼所 に成立 紀元前 五世紀 のイ ンド にお いて釈迦 に よ ってひろめられた仏教 は、す でにそ の 教え の中 に観音信仰をはらみ つつ、西域、 中国、朝鮮そ して海 を渡 って日本 へと伝 来 し、私達が慈悲 の仏と してあが めて い る観音を中 心と した信仰 の花を咲 かせる のです。 しかし、仏教伝来当初 の日本 では、仏 像 や経典 は伝 えられ ても、そ の教 え は十 分 に理解 され て いなか ったとされ て いま す。す なわち、 わが国 における七世紀後 半 の観音像 の銘文 は、 いず れも 亡父母な ど の追善 を願 って います。 こう した祈願 とが命ぜ られたり、 また橘奈良麻呂 の乱 など の陰謀 の際 には、 これを未 然 に防ぐ ことが でき た のは観音と 四天王など の加 護 によるも のだとし て、天皇が感謝を の べておられ ます。 このこと からも わかり ます よう に、観音 は四天王ととも に国家 を内外 の敵 から護 る、 いわゆ る鎮護国家 の利益が絶大 な菩薩と考 えられ て いたよ う であります。 しかし、権力と無縁 な 一般民衆 の間 で は、観音 はも っと身近 な、 日常生活 の上 で、 さまざ まな利益をあたえ てくれ る菩 薩と して親 しまれ て いました。 ﹁日本霊 慇 ろ に勤 め て 異記﹂ に収 められ て いる ﹁ 観音 に帰信 し、福分を願 ひて、現 に大福 徳を得 る縁﹂ ︵ 上巻 。第 二十 一︶ に画 か れている東人 の話などはそ のよい例でし ょ 以上 のよう に奈 良時 代 の観音 信仰 は、 鎮護国家 の願 いを求 める貴 族階級 の願 い から、 日常 の危難を救 い、富を求 める民 衆 の願 いまで多様 で、 いず れも現世 の利 益を求 めることが主で、来世 の救済を願 っ た例 は、 ほと んど みられな いのです。 と ころが、奈良時代 の現世 利益中 心 の 日本 の観音信仰 は、十世紀ご ろを境 に来 世 信仰 の色彩 を強 める よう になり ます。 この頃 になると、大化改新以来、律令制 によ って繁栄 して いた古代国家 に、 よう やく、藤原北家が天皇 の外戚 と して権力 を かる い、摂関政治を行なうようになり、 天皇中心 の政治体制 から藤原氏中 心 の政 治体制 へと少 しず つ変化 し てき ました。 内容 は、阿弥陀 でも、弥勒 でも当時 の仏 像 の銘文 とそう違 いはなく、 亡父母 の追 善 を願うと いう こと は、特 に、観音 と し て の信仰 の特徴 を示 し ては いな いと いう こと になる のです。 この時 代 にはまだ、 それぞれ の仏 の個性が意識 され ては いな か ったと い ってよ いのです。それゆえに、 この時代 は、観音像 は伝来 し、作 られ て は いるが、本当 の意味 で観音信仰 と呼 べ るような信仰 は、 まだ発達 し て いなか っ たと いう こと になる のです。 こうした素朴 な信仰 の段階 をすぎ、 八 世紀 の奈良時代 に入ると、仏や菩薩 の特 徴も ようやく理解 され はじめ、各尊 の信 なります。 しかし、都 を中 心 にした貴 族 天平十 二︶年 の 階級 の間 では、七四〇 ︵ この政治権力 の中枢 にすわる摂関家 をめ ぐる激 し い権力争 いの渦中 で没落す る貴 仰 は、それぞれ独自 の展開 を示す よう に 藤原広嗣 の反乱 の際 には、国 ごと に七尺 観音経﹂ を写す こ の観音像 を つくり、 ﹁ を営む よう になります。 これら の聖 たち が好 んで集 ま った名山霊屋 は、箕 尾、勝 尾、書写山、熊野那智、粉河 など多 く の 観音霊場が かく まれ て いました。 こう し て十 一世紀 から十 二世紀 にかけ て各地 に 生 まれた観音霊場 に本簿観音 の利益 にあ ひ ず かる ことととも に、聖 の説法を聴聞し、 結縁す る こと によ って浄 土往生や現世安 穏 の願 いをとげ ようとす る人びとが貴 族 から民衆 まではば広く参詣す るよう にな りました。 このような社会的背景 のもと で聖 の住所 と して の諸国霊場巡礼 を基盤 と してやが て有名 な西国 三十 三所巡礼が 発達 す る のです。 聖 の活動を中心と して発達 した西国 三 十 三所巡礼 は、九条兼実 と慈 円 の異母兄 弟 で、 五代 の天皇 の護持僧を つと めた名 僧 であり、大峰熊野を はじめ諸国霊山を めぐり歩 いた当代随 一の修験 でもあ った 覚忠 の創始と考えられています。したが っ て三十 三所巡礼と いえば、当時 は山伏 な ど修験者 の難行苦行 の代名詞 のよう に理 解 され て いたよう です。 しかし、 このような三十 三所巡礼 の性 格 は十 五世紀 の中 ごろ になると大きく変 化 します。す なわち京都 五山 の僧 を中 心 と した各種 の著書 に、巡礼 の人びと は村 にあ ふれ里 に満 ち、ある いは武士や庶民 で仏 に帰依す るも のは 一度 でも 三十 三所 巡礼 を しなければ 一生 の恥と考 え て いる と い った記述がみられるよう になります。 族があ い つぎ、 そうした失意 の人びと の 間 から、浄 土庭園や来迎図 に表徴 される ような来世 の浄 土を求 める信仰が めば え てくる のです。そうした古代仏教 の大き な変化 の流れ の中 で、観音信仰もそ の性 格を変え て行き ます。 ▼ う 請 観音信仰 のも っとも古 いとされ る ﹁ 観音経﹂ には現世 利益だけ でなく、浄 土 経的な来世 の救 いも含 まれ ていた のです。 十世紀 の来世的 な観音信仰 の発達 をも っ とも よく示す のが 六観音信仰 であります。 九 四七 ︵ 天暦元 ︶年、朝廷 は承平、 天慶 の乱 の戦 没者 の霊を慰 めるため に、延暦 寺 で法会 を行 な って います。 この時 の願 マ頸辛経﹂ 文 には、観音像 六体を つくり、 六部を写 し、 六道 にさまよう戦 没者 の霊 を浄 上 に導 く よう観音 に祈願 し ました。 このよう に六体 の観音 によ って六道 に迷 う人 々の浄 土往来を願 う信仰 を 六観音信 仰 と よぶ のです。 このよう に、現当 二世 の利益を兼 ねそ なえる観音 への貴族 たち の帰依 は、 やが て観音霊場 への参詣をうながす よう にな 枕草子﹂ の ﹁ 寺 は、 ります。十世紀末 の ﹁ 第 百 九十 四 壷坂。 笠置。 法輸。 ⋮⋮﹂ ︵ 、 あ る いは十 一世 紀 な かば の ﹁ 更級 段︶ 日記﹂ によりますと、当時 の貴族達が好 んで参詣 した観音寺院 は、京都周辺では、 石山、清 水、鞍馬、長谷、粉河、壷坂 な ど で、 これ の諸寺 には貴族 だけ でなく、 女性 の参 詣も しば しば みられ るよう にな よがべき現象が起 った のです。 こうした 巡礼 の大衆化 の過程 で、巡礼歌が生 まれ ここにそれ まで の修験、山伏中 心 の三十 三所巡礼 は変化 し、巡礼 の大衆化と でも ります。 また平安時代末期 になると形式化 した 当時 の貴族仏教 に批判的 な僧侶 は厳 し い 布教活動 にはげ み、別所 と よば れる草庵 たも のと考 えられ、そ のスタイ ルは十 六 世紀初 め の ﹁ 閑吟集﹂ に似 ているとされ、 そ の前後 に成立 したも のだ ろうと考 えら れ て います。 十 三世紀 に成立したと推定 される西国 三十 三所 になら って十 三世紀前半 には坂 東 三十 三所 が成立し、 この坂東 三十 三所 巡礼 の大衆化 に刺激 され て秩 父三十 四所 が成立す るようです。 これら西国、坂東、 秩父 の三十三所巡礼 は ﹁ 西国坂東秩父百 ヶ 所巡礼﹂ と して全国 にひろま って いき ま す。 このような流れ の中 で、江戸時代 に は、江戸 三十 三所、京都 の洛陽 三十 三所 を はじ め、北 は奥 州 から南 九州 まで百を こえる三十 三所が成立したと いわれます。 長禅寺 ︶を 一番とす る牡鹿 牧山観音堂 ︵ 三十 三所も このような観音信仰 の大衆化 の中 で成立 したも のであろうと推測 され ます。 余考文献 ・速水 侑 観音信仰 観音 の道①②ユ観音 ″ ﹁ 信仰 の歴史上 ・下﹂ 0牡鹿 三十 三所 の成立と巡礼歌 牡鹿 三十 三所 の成立年代 を確定す る文 献 は発見 され ては いません。 しかし、あ る程度 の成立年代を推定 させる史料 は存 在 します。 それら の史 料を年代 順 に並 べ ると次 のよう になります。 ① 長谷寺牡鹿 三十 三所巡礼塔 宝暦十三年二月 二十四日全 七六三︶ ②金蔵寺牡鹿 三十 三所巡礼塔 明和 四年七月十 六日盆 七 六七 ︶ ③ 長谷寺牡鹿 三十 三所巡礼詠歌 明和 五年 三月十九 日全 七 六八︶ ④ 源寺牡鹿 三十 二所御詠歌集 ︵ 女 川︶ 照 文化 五年 八月七 日全 八① 八︶ ⑤真野川 入 口 ・牡鹿 三十 三所案内碑 文化十 四年 五月十七 日全 八 一七︶ 現在 のと ころ この五点が知 られ て いる 牡鹿 三十 三所 の史料 です。 したが って長 谷寺大悲閣右手 に立 つ、宝暦十 三年 の牡 鹿 三十 三所巡礼塔が最古 のも のとなる の で、牡鹿 三十 三所 は宝暦十三 ︵一七六三︶ 年 には成 立 して いたと考 えられます。 大悲閣 ︶ <長谷寺牡鹿 二十 三所巡礼塔 ︵ それ では牡鹿 三十 三所霊場 は いずれ の 寺 に設定 され て いた のでし ょう か。牡鹿 一般 には戦前、仙台 三十 三所 とし ては、 郷土研究 に掲載 され たも のが流布 して い るよう ですが、それと今度 の長谷寺調査 の結果明 らかにな った牡鹿 三十 三所と で は十 六番礼所が異 な って いるよう です。 す なわ ち、仙台郷土研究 では 十 六番 雲雀野濡寺 ひば り野 にかりさけ見れば くもりなき うなば らちかく てらす月 かげ とな っておりますが、長谷寺牡鹿 三十 三所巡礼詠歌 では 十 六番 門脇村上野山真宝寺 う。 う わ・ な の・ ば 山・ らか ち り か さ くけ 見 て れ らば す く 月 も か り げ な き るも のによ って建 立されたも のです。 こ れ に対 し、上野山真 宝寺 は真言宗、京都 知 積 院 の末寺 と し て門脇 町 二丁目 地 内 て、そ のちぐ はぐさ は解明す る ことが で き ます。 雲雀野濡寺 は通称濡れ仏 っあ んと呼ば れ、 石巻 西海岸雲雀野公園脇 にあり、そ の本尊 は像高 およそ 一九〇 沢 の釈迦坐像 で、鋳 銅 の露 仏 であ り、 元禄 十 ︵三 ハ九 七︶ 年十 一月、 徳川家 の 一門松 平武政 の 祖 母恵空禅尼 の勧 請 により、沙弥清 山な とな って います。 このこと は何を意味 す る のでし ょう か。 このこと は雲雀野濡 寺 と上野山真 宝寺 を考察す る こと によ っ と う・詠 女 ― う わ・歌 川 な つ な の・集 町 で 照 て ば 上。 い らふ は 源 ・ ま と り 寺 す°ふ・さ 所 ・ くけ 蔵 ・ ・ 見 点 て れ 牡 筆 らば 鹿 三 者 す く 十 月 も か り 三 所 げ な き 御 l141 り よ だ 財 化 文 市 巻 石 ▲長谷寺牡鹿三十三所巡礼詠歌 (大 悲閣) よ だ 財 化 文 市 巻 耐ツ 石 ︵ 西光寺 の東隣 り︶ に開 かれ た寺 であり ます。 そ の開 かれた年代 は知 る こと はで き ませんが、真法寺 は祈願寺 であ ったた め明治初 年 に廃寺 にな っており、現在 、 そ の存在 を証 明す るも のと し ては、真宝 寺 のあ った前 の通 りを真宝寺前 と呼びな らわされ て いたと伝 えられる ことと、隣 接 の西光寺 には真宝寺 のも のであ った こ とを証 明す る ことが でき る石塔数基があ ります。上野山真宝寺 は確実 に存在 した こと は疑 いのな いと ころです。 レ ︵西光 寺 内 ︶ 真 宝寺 の墓 石群 しかしながらそれ は、現在廃寺 にな って 存在 しな いと いう ことな のです。 ここに 牡鹿 三十 三所 の十 六番が仙台郷土研究 に は雲雀野濡寺 とあり、長谷寺牡鹿 三十 三 所巡礼詠歌 には上野山真宝寺 とあるちぐ はぐさを解 明す る手掛 りがあ ると思 いま す。 牡鹿 三十 三所十 六番 のちぐ はぐ さ は、 以上 の考察 から次 のよう に解 釈す る こと が妥当 のよう に思 われ ます。す なわ ち、 長谷寺牡鹿 三十 三所巡礼詠歌 は、牡鹿 三 十 三所 の納 め の寺 と して の長谷寺 に掲額 されたも のであ る こと から考 え て、 ここ のかかげ られ て いる牡鹿 三十 三所名 およ びご詠歌 はも っとも古 い形 をとど めて い ると いえるよう です。 とすれば、牡鹿 三 十 三所十 六番 は上野山真宝寺 が古 い姿 で あり、十 六番 を雲雀野濡寺 とす る こと は 後代 に入替 ったと いう こと になるでし ょ う。 なぜ、q時ごろ入替 った のでし ょう。 それ は明治初年 に上野山真宝寺 が廃寺 に な ったた めと考 え る のが良 いよう です。 十 六番が廃寺 のため に欠番 にな った ので 補充 された のが濡寺 であ った のでし ょう。 そして、ご詠歌も最初 の五字 ﹁ うわ の山﹂ を ﹁ひば り野﹂ に書き かえ て、以下 の部 分 はそ のまま受 け ついだ こと になります。 当時 は、牡鹿 三十 三所巡礼が まだ まだ隆 盛であ ったことを示すも のではな いでし ょ う か。 これと同じような ことがもう 一か 所あるよう です。仙台郷土研究 では、 二 十 二番 は永岩寺内 不動堂と な って いる の 玄υ。 ですが、長谷寺掲額 では羽黒山観音堂 と な っており ます。水岩寺内 不動堂 は現存 す る のですが、羽黒山 には鳥 屋神社が現 存、羽黒山観音堂 は確認す る こと はでき ません。鳥屋神社 の官司、桜谷 さ んにお 聞き し ても、羽黒山 に観音堂があ った こ と はき いていな いと いいます。 しかし長 谷寺牡鹿 三十 三所 の掲示額 の真実性 の高 さ から推定す るとすれば、羽黒山観音堂 の存在 は肯定 さるべきも のであると思わ れ ます。 そ の存在場所 の確定 は今後 に待 ちた いと思 います。 牡鹿 三十 三所札所 の中 で、上野山真宝 寺 のほか に廃寺 とな って現存 しな い札所 は、 一番 鷲峯山長禅寺 ︵ 牧山観音堂 ︶ ユ遺濤 は零羊崎神社 の拝殿 と 。 に、支 那悦峯 し て 残 中 る の書 になる ﹁ 鷲峯山﹂ の扁 額あり。 三番 経王山法泉寺 ︱牧 山中腹 に法泉寺跡遺跡 と して現存、仙台仙岳廃 に法 泉寺関係 の文書 三通現存 す 五番 工 立石山瑞鹿庵 ︵ 鹿妻瑞鹿庵 ︶ を おおよそ の場所 を指適 でき るだけ で、 ほと んど遺構 ら しきも のを特定 できず。 石川鉄之助氏宅地 八番 流留山長流寺 、 イ秋葉 山神社 とな って いる。 鳥 居腸 に戎壇 石 の下部が残 存 し ている。 二十 五番 仙寿山瑞松寺 ︱石巻市門腸築山 に薬師堂 の みが残 る。 ぶツ り だ 財 化 文 市 巻 石 の五か寺 と、太平洋戦争 後、石巻神社 とな ってそ の姿 を消 してしま った門脇村 の好 日山海門寺があ って、合計 六か所 に なります。 これら、廃寺 によ って欠番 に な った札所 は、そ の後、真宝寺 が濡寺 に 入替 ったような こと はなく、 そ のまま欠 番 にな っています。牡鹿 三十 三所札所 の 衰退 の様子を示していると いえまし ょう。 一 以下 に示す牡鹿 三十 三所 ご詠歌 は、 番古 い姿 をとど めて いると推定 され る長 牡鹿 三十 三所巡札詠歌﹂ をもと 谷寺 の ﹁ にし て、判読 可能 なかざ り にお いて忠実 に表記 し てあり ます。 したが って漢字 、 仮名 の使 い方 は草書体 の仮名を現行 の仮 名 にし てあ る以外 はま ったくそ のまま に してあります。 また、ご詠歌中□□□□ の中 に記 してあ る語句 は、長谷寺 の掲額 では判読 不能 の文字 を、照源寺所蔵 のご 詠歌集 および、仙台郷土研究 のご詠歌 に よ って、も っとも かさわし い語 句を筆者 の判断 で入れ てあります。 ︽牡鹿 三十 三所巡礼詠歌︾ 一 番 湊村 鷲峯山長禅寺 た のめただ 大慈大悲 の誓 には ちらさですく か まぎ の山寺 番 同村 両峯 山梅渓寺 一一 雪 のうち 春やかよいてなにしをふ 香も な つかしき 梅 のた に寺 〓一 番 同村 経王山法泉寺 見はたせば 海 つら遠くた つなみも う しほととも に 法 の声 し て 二十 二番 住吉 古渡山廣済寺 浦陀落 や古き渡 りも な にゆえ の よしあしよりも深きす み のえ 不動堂︶ 二十 二番 同村 羽黒山観音堂 ︵ いまも なお 神u佛も心 から 深き まもりとなると こそき け 十 四番 同村 日輪山多福院 後 の世も この世も た のし難有き た かく の寺 にゑ にしある身 は 二十 四番 蛇 田村 桂林山禅昌寺 かもとなるかつらはやしにかけいりて 大悲 の誓 い つた ひ こそきけ 佛 のちかひ はてしなければ 十 二 番韓 鋭 藤 醐 爛 醐 燃 じ 此 の 寺 わ潮 五 番 同村 立石山瑞鹿庵 た のも しや 誓 いを ここに立石 の いほり のほとりしほぞ よりき て 十 五番 湊村 万年山松岩寺 君が ため祈 るよはひは幾 ちと せ そ のあ か つきを ま つのいはほに 二十 五番 築 山 仙寿 山瑞松寺 とし へたる松 のこたちも つきやまの 雲 のう ちより 図劉□圃 四 番 同村 伊原山法山寺 法のやま つもりしつみな消えぬべし かね のひびき に夢 をさませば 一 ハ 番 渡波 無量寿念仏堂 無量寿 の 今 にたえ せぬ法 の声 世 の夢 さませ き し の松 風 十 六番 門脇村 上野山真宝寺 う への山ふりさけみればくもりなき うなば らちかく てらす月 かげ 二 十 六 獄 欝 錯 醐 測 燿 蜘 解 蜘 従 ご も 誓 を かね てしる身 はなほも た のしき 二十 八番 南境村 白澤山金蔵寺 曇 りなき佛 のひかりあき らか に こがね の道を 照 らす沢山 島屋敷 愛宕山東雲寺 二十七番 一 あたごやまみちいくはたもしののめの 回困□国圏日国□□□因□園固 十九番 同村 紫雲 山西光寺 むらさき の雲 のたなびく この山 に 西 より てらす夕 日かげと て 局木村 逢来山吉祥寺 三十番 一 逢来 の山も のど かに高 木や ま 佛 の誓 千代 の守 り に めぐ みうるおふ 法 の山寺 雨露のもらさで洞工絡虫深く 二十九番 大瓜村 坊澤山龍洞院 二十 一番 石巻村 菩堤山永岩寺 西 婢 粥 摯 れ 灘 は 駆 徳 陸 脚 味 津 二十番 同村 好 日山海門寺 日よ里山登り て見れば この寺 の 門 によりくる 舟 の数 々 と のふる心ぞ 極楽 のてら 称 十 八 番 勘 術 裁 靖 剤 硼 鰯 鯨 岱 に ぢ の 十七番 石巻村 海石山寿福寺 なりぬべき わがねが いなどかむなし♂ヽ 石山寺 に回□日困国□園 七 番 同所 法巡 山宮殿寺 世 はかはり星移れども かはらぬは 行来も たえぬわた のは の寺 八 番 流留 流留山長流寺 浪 の声 ながき流れ にみ のりぞと ひびき を つと 摩古 のてら ︹ くも のかる寺︺ 九 番 澤 日 平形薬師堂 こいしくば たれもき てみん平形 や 沢 田ににほかるり のはな つば 十 番 沼津村 紫雲山西念寺 た のも しな西 の身 おも ふ寺 なれば 常 にたなびく むらさき の雲 十 一番 同 村 東光山浄連寺 唯 た のめ 佛 の誓遠 からず 清き はちす に いたる身 のはて 十 二番 袋谷地 袋谷山長林寺 川浪 のた へせぬほど に夢 さめて 心す みぬる ながれすず しき 衆 他 授 平 重 等 即 罪 五 身 逆 成 消 佛 滅 ・地 蔵尊 和 讃 有 配 動 噸 ぁ 辮 貯 満 蔵 尊 在 以 上 が 牡 鹿 二十 三所 御詠 歌 に関 す る考 察 であ るが 、 長 谷寺 の前 住 信 雄 和 尚 は、 牡 鹿 三十 三所 巡 礼 のた め に次 のよう な和 讃 を残 し て います 。 現存 す る長 谷寺 観 音 講 の世 話 役 であ る永 松 愛 さ ん によ ると 、 これ ら の和 讃 は、 地 蔵 尊 を ほ め た た え 、 石段 、 山 門 を ほ めた た え る など し て、 各 所 の本殿 にお詣 りを したと のこと でした。 牡 鹿 三十 二所 巡 礼 詠 歌﹂ に記 以上が ﹁ され て いる ご詠 歌 であ るが 、 現在 、 長 谷 刷二首 のほ か にご詠 歌 寺 には次 の 一首 が 一 と し て伝 わ って いる。 いままではおやとた のみしおひづりを ぬぎ ておさ む る ま の のかや はら 明和 五献 年 二月 十 九 日 勝 間 田宗 則 わが お ひず り のなご り お しさ よ めぐ りき て罪 も ろと も にぬぎ お ろす 自 二世 安 楽 を祈 る は せ寺 はるば ると佛 の誓 たず ねき て 三十 二番 同村 舎 那 山 長 谷寺 うき き にあ へる心 地 こそす れ 三十 二番 真 野 村 亀 敲 山真 法寺 亀 山 にたづ ね ゆ く身 は ま の のてら す へた のも しく 祈 る人 々 亀 十一 三 嚇 撒 峨 麺 榊 輔 脚 鰯 謡 ゝ 鮮 さ 力 り よ だ 財 化 文 市 巻 石 (171 同者 を導引 く有難 や 回向申 して通 るなり 南無や能化 の地蔵尊 ︵二返 ︶ ・石段和讃 販 Q 頂諧有難 や ぃ軽碑登れば寺の門 寺 にか るも後生 のため 南無や大悲 の観世音 桔梗一 刈萱 女郎花 冥上 の便りを菊 の花 金 の香 ろに 伽羅 の香 香 の煙 り は細 けれど 天 に登り て雲 となる 南 無や大悲 の観世音 蕩 留 南無や大悲 の観世音 ・ 阪命 頂膳有難や ここの和尚 さ ん見申 せば 水品 のおじ ゅづを左手 にかけ 如何 なる良 き 日 の御生 まれ か 御円 の扉 に巣 をく んで 錦 のおけさ に緋 の衣 ・山門和讃 阪全 猿騰白 さぎ は ぬ 闇 の夜 にも撞善﹂ 如意を持 たれ て立姿 そ の身 そ のまま釈迦如来 自色 半等 即身 成佛 南 無大悲観世音 ︵二返 ︶ 種 々重罪 五逆消滅 呈 晨匹 南 無大慈大悲 の観世立 南無や大悲 の観世音 南 無や大悲 の観世音 ・橋和讃 阪命頂潜 こ の橋 は 如何 なる大 工 のかけた橋 飛騨 の工匠 のかけた橋 念彿申 して通 るなり 南 無や大悲 の観世音 ︵二返︶ 。お茶和 讃 阪命 頂諧有難や お茶め 供養 で身 を休 め ・石橋和讃 販命頂證 この橋 は さんご黄白 玉 の橋 錦 の茶碗 に蓮花型 お茶 は新茶 で萱 露水 裂 谷寺 にお いては、 ﹁お茶和 讃﹂ で三十 三所 巡礼 の 一切 の行事を終 る のですが、巡礼中 、身軽 身 に つけ て いた ﹁おひづ り﹂ を脱ぎ・ にな った人 々は、 長谷寺 本堂前 にお いて、 輪 にな って次 に紹介 す る数 え歌を歌 って勇 さら に牡鹿 三十 二所 の納 め の寺 と して長 南 無や大悲 の観世 音 これ で労苦 も取 り去 らる 万代 までも み かげ橋 鐘 南 無や大悲 の観世 音 ・ 飯命頂膳詣 り来 て この家 の佛壇 見申 せば 綾 と錦 の打敷 に 先祖代 々御位牌 を るり の御座 に直 され て 前 に置 かれ た経机 百味 の御供物供 え上げ 躍乱 舞 す る と の こと で した。 永 松 愛 さ ん の話 し から想像 す ると、 そ の様 子 は、時 衆 の踊 り念 佛 にも 似 た動 作 であ った ので はな か ろう と 思 われ ます。 一つには 偏 に大事 は後 生 なり 常 々念 佛 わす る る な あ りや 有 難 や 二 つに は 再 び会 わ ぬ今 日 の日 空 しく暮 す は憫 れ な り あ り や有 難 や 二 つに は 未 来 が 大 事 と思 う な ら あ り や有 難 や く経の供養せよ 試価功 四 つに は 善 き も 悪 し き も 打 ち捨 て あ り や有 難 や 佛 の教 え にと り す が り 五 つに は い つま で こ の世 に居 る者 ぞ あ りや有 難 や 命 はも ろ き 草 の つゆ 六 つに は 無 間 地 獄 へお つる 身 を あ りや 有難 や そ のま ま 救 う は 弥 陀 如 来 七 つに は 奈 落 へ落 つる 女 人 ま で あ り や有 難 や ご もらすまいとの御獣刷 八 つに は 山 ほ ど 財 宝 つむ ひ と も あ り や有 難 や 死 出 の旅 路 は唯 一人 九 つに は 心 す な お に本 願 を あ り や有 難 や た の めば これ ぞ 佛 な る 十 に は た う と き 教 え の念 佛 を あ り や有 難 や す す め よ 唱 よ 信 ず べ し ωり 口長合寺の植物について 観音 堂 の境内 で見 られ る主 な樹 木 は、 ウ ラジ ロガ シ ︵ ブ ナ科 ︶ 。タブ ノキ ︵ク スノキ科︶ ・ユズリ ハ ︵ トウダイグサ科︶ ミ サクラ ︵ ノラ科 ・品種 不明 ︶です。 そう ちウラジ ロガ ンは市内 で最大 のウラジ ロ ガ ンであ る。 稲井 町史 には ﹁み こし の松﹂ ﹁ 兜 かけ の松﹂ など、源義経ゆ かり の伝 説をも つ 名木があ った ことが記 され て いるが、現 在 は失 われ て いて見 る ことが でき な い。 境内 の周囲 は、 スギ植林 地 にな ってい 0 m前後 のスギ で、林床 に る。胸高直径 2 c は ャブ ッミ ノキ .ァォキ ・ウ ラジ ロガ シ ・ シ ロダ モ ・チ ャノキ ・イ ヌツゲ ・イ ヌガ ヤ ・ツルアサキ ・ヤブ コウジ ・キズ か o テイカカズ ラ oオ モト ・リ ュウ ノヒゲ o ォォミ ノジ ャノヒゲ ●シャガ ・サイ ハイ ラ ンなど の常緑 の種類 と ク マヮラビ ・ヤブ ソテ ツなど のシダ類が多 い。 タケ科 の植 物 は アズ マネザ サと アズ マザ サである。 山門前 の池 には ヨシ ︵ イネ科 ︶が生 え て いる。 いわゆ る ﹁片葉 の章﹂ であ る。 い っし ょに セキ シ ョウ ︵サトイ モ科 ︶が 生 え ており、 池 の周 囲 には ヒガ ンズ ナ ︵ヒガ ンバ ナ科 ︶が多 い。 ∩ウ ラジ ロガ シに ついて ウ ラジ ロガ シは、暖 か い地方 に自生す る常緑 広葉樹 の高 木樹種 である。宮城県 が自生 の北限とな っている。県南 の角 田 市斗蔵山 にり っば な モミ ・ウ ラジ ロガ シ 亀エ り よ だ 財 化 文 市 巻 石 林があり、学術参考保護林 に指定 され て いる。 松島 の富山付近 にも自然生 のウ ラジ ロ ガ ンが あ る こと を最 近 にな ってわ かり、 さら に須江山や牧 山など にも自然 のも の と考 えられるも のが み つか って いる。 長谷寺 の東、 日向 地区 の白 石さん の裏 山 には そミ ・ケヤキ の大木と混生す るウ ラジ ロガ シの林があり、最 北限 のウラジ ロガ ツ林と いう こと にな っている。 長谷寺 の境内 西側 にあ るウラジ ロガ シ は、太 い根が地表を這 い、幹が根もと か ら 二 つに分 かれ て枝葉 を密生 し、樹高 0 1 mあ まり のこんも りと した樹形 をも つ古 木 である。 根 わりお ま よ そ 4 m、 二本 の幹 はそれ 7 mと“ m、枝張 り は ぞ り れ 目 通 幹 囲 が 2 3 mヽ南北 6 mでヽ朽 ち てしま った 東 西1 1 幹 の跡があり、樹齢 は見 かけ より古 いと 思 われ るが樹勢 はよ い。 市内 には田代島 の仁斗 田浜と湊 の伊原 津 にウラジ ロガ ンの大木があるが、長谷 寺境内 のこのウ ラジ ロガ シが最大 の古 木 であ る。 ①片葉 のアシに ついて ﹁ 片葉 の章﹂ の伝説 をも つ名所 は全国各 地 にあり、 そ の数 は多 い。 と いう こと は 片葉 の葦 はそう珍 し いも のではな いと い う こと にも なる。 長谷寺 の池 の片葉 の章 は、普通 の ヨン が風 のため に葉が茎 の片側 に寄 ってでき るも のである こと は、他 の ﹁片葉 の葦﹂ の伝 説地 のも のと同じ であ る。 このよう な ヨシは市内 の ヨシの生 え て いると ころ では珍 し いこと ではな い。 レ真野 の萱原伝説地 池 の中 には ﹁片葉 の葦﹂が風 にふ かれ ています。 問題 はむ しろそ のような風 による片棄 の ヨシがどう して伝 説と結び つき名所 と なる のかと いう こと である。 民族学辞典 ︵ 柳 田国男監修 ・東京堂 ︶ によれば ﹁片葉 のカタは、諸葉 の モ ロ、 す なわち 二 つと いう こと に対す る 一つを 意味 し、もと は ヨリ マンが手 に執 った採 物 のこと であ った。 したが ってそ の採取 地と定 ま って いた場所 は霊地視 され、片 葉 の葦 の名所 に変じ てこのような伝説 を 生 んだ のではな いかと考 えられ る。﹂と 説明 し てある。 だ 財 化 支 市 巻 ωツ 石 浜 伊勢 では片葉 の ヨシだけを特別 に ﹁ 荻﹂と呼 がと いうそう で、 ヨシの葉 を 一 方 に片寄 らせる風を、神が 天降 ると視 る 考 えがあ った のではな いかと いう人も い る。枝垂れ木 は、神が そ の木 に天降 る姿 だと視 る のと同じ考 え方 である。 ⑥真野 の萱原 に ついて 真野 の萱原﹂ に ついては、芭蕉 歌枕 ﹁ は石巻 の真野だと思 って いたよう である 有 朋堂 ︶で が、佐 々木信綱編万葉辞典 ︵ は福島県相馬郡 の真野をあ てて いる。 石 巻 と同じよう に真野川も流れ ている。 《長 谷 寺 境 内 図》 i このような こと は歌枕 に ついては珍 し 野 田の いこと ではな いよう で、塩釜 に ﹁ 野 田 の玉 玉川﹂があるが、岩手県 にも ﹁ 川﹂があり、近 く に塩釜があ ると いう。 ど ちらが正 し いのかと いうよりも、ど 真野 の萱原﹂ な のかと うし てど ちらも ﹁ 盗 g い った観点 から考察 してみる ことが 必要 な のではな いのだ ろう か。 t ﹁ 且 Ч 東 行 浜 8 もと釜石浜 9 にわ と り浜 10 仁斗 田只塚 11 稲荷神社 12 愛宕 神社 13 大 六 天 14 店 屋 (昔 ) 15 番 屋 (今 ) A B も と釜石大網 正 ③ 和 良 美 ″″ ハツ わ︼ 木 代島大泊民俗 。 民具調査報告 1 鹿 島神社 2松 盛 院 3脇 下わ きの した 地 (○ 印鹿島神社) 鈴 (○ は現在) 市 巻 市 文 化 財保 護 委 員 ① 三 っ 石 ″″ ▼調査 地︱ 田代島大泊 9年 7月 4日1 7 日 ▼調査 日︱ 昭和 5 1 1 ▼調査員︱ 石巻市文化財保護委員 鈴木東行 ▼調査補助員︱ 石巻 工業高等 学校人文化学部員 小松公彦 浅野健 司 村 田康 弘 ▼調査項 目l ①総観 ②生産 暦 ︵ 農業 ︶ ・生産暦 ︵ 漁業 ︶ ③生産 ︵ 湿 田︶ ④住 ⑤食 ⑥仕事衣 ⑦年中行事 ●民具 収集表 仏 惟 7 : 城 (三 鬼崎遺跡 ) 島 ″″ とつ。 現在 ︵ここ十年来 ︶、過疎化が進 み、子供と若者が少 な い島 である。 ︽ 人 口動態︾ 0年 田代全体 1 ,000人 ︵ 大泊 55戸 ︶ 昭和 1 9年 田代全体 3001 350人 ︵ 大泊 34戸 ︶ 昭和 5 新三っ石 ″″ E 道 5逃 6崎 卜 げ 白 イ /Jヽ 4 石 ″″ ◎ 松 ① 総 観 ︵ 話者 ・菅原慈孝氏 ︶ ︽ 地 理︾ 田代島 の北部、東岸 に位置 し、湧き井 戸 によ って水 が絶 える事が なく、古来、漁船 の停泊 地 ︵ 水 の供給 地︶大泊 で あ った。北東 に小泊があ る。 湾 の北岸 に脇 浜と いう所 があり、年中、椿 の花が咲 き、暖 か いので、昔 は漁 用 のさ っ掛 け小屋が立 って いた。集落 の背後 は 照葉樹林 のタブ の大木が茂 って いる。 集落 の北 に ﹁二鬼城崎﹂があ る。石巻 の北上川 から の流れが が つかる ので、昔、人が逃げ てき た所 である ﹁ 逃城崎﹂ と いう。 そ の付近 は広 い平野 で、 水が豊富 で人が住 み、 田や畑もあ った と いわれ て いる。 ︵ 図参照 ︶ ︽歴史︾ 大泊 は、仁斗 田浜 より新 し いと言 われ ている。車分 け は津 田はしめ ︵ 寿 ︶さ ん の家 で、鎌倉時代 に流れ てき た落武 仏像 ︶が鎌倉時代 のも の 者 らし い。松盛院 にある御本尊 さま ︵ であり、 それが松盛院改装 のとき、津 田はしめさ ん の家 でおさ めたと言 われ て いる。 そ のた め津 田はし め ︵ 寿 ︶さ ん の家 が、 お寺 の開基 と深く かかわり、現在 でも壇頭 である。 四百年以上 前、仁斗 田 の田代寺 が廃寺 になり、神様 に変 った時、 田代寺 の 壇家 す べて松 盛 院 に移 ってき て、大泊 の人 々と寺 を建 立 した。 だ から仁斗 田 の田代寺 が大泊 の松盛院 に変 ったようなも のであ (写 真 内①松 盛院 ② 脇浜 ) よ だ 財 化 文 市 巻 石 り よ だ 財 化 文 市 巻 石 9け ご ド ■1,だ粋導蟻 く ,II 代 島 大 泊 民俗 ・ 民具 調査 報 告 市 巻 市文化 財保護 委 員 払獅 キ→ 苗︵ 舞悧 ▼調査 地︱ 田代島大泊 9年 7月 4日1 7 日 ▼調査 日︱ 昭和 5 1 1 ▼調査員︱ 石巻市文化財保護委員 鈴木東行 ▼調査補助員︱ 石巻 工業高等学校人文化学部員 小松公彦 浅野健司 村 田康 弘 ▼調査項 目l ①総観 ②生産暦 ︵ 農業 ︶ ・生産 暦 ︵ 漁業 ︶ ③生産 ︵ 湿 田︶ ④住 ⑤食 ⑥仕事衣 ④年中行事 ●民具 収集表 とつ。 ①総 観 ︵ 話者 ・菅原慈孝氏 ︶ ︽ 地理︾ 田代島 の北部、東岸 に位置 し、湧き井戸 によ って水 が絶 える事が なく、古来、漁船 の停泊地 ︵ 水 の供給 地 ︶大泊 で あ った。北東 に小泊がある。 湾 の北岸 に脇浜と いう所が あり、年中、椿 の花が咲き、暖 か いので、昔 は漁用 のさ っ掛 け小屋が立 って いた。集落 の背後 は 照葉樹林 のタブ の大木が茂 って いる。 集落 の北 に ﹁二鬼城崎﹂が ある。 石巻 の北上川 から の流れが ぶ つかる ので、音、人が逃げ てき た所 である ﹁ 逃城崎﹂と いう。 そ の付近 は広 い平野 で、水が豊富 で人が住 み、 田や畑も あ った と いわれ て いる。 ︵ 図参照 ︶ ︽歴史︾ 大泊 は、仁斗 田浜 より新 し いと言 われ て いる。草分 け は津 田はじめ ︵ 寿 ︶さ ん の家 で、鎌倉時代 に流れ てき た落武 者 らし い。松盛院 にある御本尊 さま ︵ 仏像 ︶が鎌倉時代 のも の であり、 それが松盛院改装 のとき、津 田はしめさん の家 でおさ めたと言 われ て いる。 そ のた め津 田はし め ︵ 寿 ︶さ ん の家 が、 お寺 の開基 と深く かかわり、現在 でも壇頭 である。 四百年以上 前、仁斗 田 の田代寺 が廃寺 になり、神様 に変 った時、 田代寺 の 壇家 す べて松 盛院 に移 ってき て、大泊 の人 々と寺 を建 立 した。 だ から仁斗 田 の田代寺が大泊 の松盛院 に変 ったようなも のであ 現在 ︵ここ十年来 ︶、過疎化が進 み、子供 と若者が少 な い島 であ る。 ︽ 人 口動態︾ 昭和 0 大泊 55戸 ︶ 1年 田代全体 1 ,000人 ︵ 昭和 9 大泊 34戸 ︶ 5年 田代全体 3001 350人 ︵ 地 (○ 印鹿 島神社 ) 新 ‐ がく │=■ il子 II卜 .■ は0 り よ だ 財 化 支 市 巻 石 わ︼ 巻 石 (写 真内①松盛暁 市 文 化 財 だ よ り ②脇浜) 1 鹿島神社 2 松 盛 院 3 脇 4 小 泊 5 逃 城 (三 鬼崎遺跡 ) 6 崎 道 7 仏 浜 8 もと釜 石浜 9 こ矛)と りを ′ 県 10 仁斗 田貝塚 11 稲荷神社 12 愛宕 神社 13 大 六 天 14 店 屋 (昔 ) 15 番 屋 (今 ) 下わ きの した A B 正 ③ 和 良 美 ″″ ◎ 松 E 新 三 っ石 ″″ ① 三 っ 石 ″″ もと釜石大網 (○ は 現在 ) 島 ″″ 石 ″″ 囃 : わ︼ 巻 り 支 姻凪 ︲ v . ・ i 顎 評 一 斌 一 ・. 工 ▼ ⊥…田 1… 釜 石 大 綱 V畑 2… 正 島 大 網 │… O¨ ③…IB良 美大網 ④…松 石 大 網 ⑤¨三 石 大 網 6… 和良美店屋(旧 松林 部落 ) 7… 現在 の香屋 8「 大 六 天」 (Oは 現在のみ ) へ香 G43,宮 城県水産試験場「沿岸漁楽集約経営調査報告書」) だ よ り ② 生 産 暦 (農 業) 話者 ▲ ▲ 相沢武雄 氏 (大 正 10年 3月 23日 生 ) 伊 サの沢 の田跡 まん ぐわ (「 三本 こ」) そば、あわは昭和は じめ まで、父の時代にや っ ていた。 ▲ きね (脱 穀機 ) ▲ 代 カキ機 ▲ 足ふみ脱穀機 ハW わ︼ ぶツ わ︼ ② 生 産 暦 (漁 業) 暦 類 校刺 網 鮪 流 経 鰹 場 励 月 地 釣 曽刺 経 劫ゴち 刺紳 先 的 ” 呻 一 種 ハ 沖 弾 ¨ 蜘 ︹ 新 宮城県漁業基本調査報告書 牡 鹿 郡 萩 ノ濱 村 田 代 嶋 沿 しらす 海鼠 網 la地 曳繹 地喪′ 絆 施紳 張 大 泊・ 本鳴 地 先 白濱 周回沿岸 濱 ) 周 回沿 岸 1 月 2 月 3 月 4 月 5 ,弓 し 6 月 す 7 月 8 月 9 月 岸 大 器 拒琵素 ヽ崎 旋 絆 鮪 網 械 網 筒 伏 繹 定 置 網 gき 本鳴 (白 漁業組織及漁期漁場漁礁 端 嶋 ヨ ツ 釜石・わ らび 砥 面 鳴 の 正儒・ 松 石 西 側 及 金 華 山 三っ石,新 三石 白 濱 地 先 白濱 地 先 磯 /」 巨向 鳴 地 先 本 島 よ り 及 本 島 と 南 の 沖 合 大原 との 間 ヽ島 南 方 向 ) 物 衛桑 雪花菜 島布採巧 韓布採巧 鱒 ヽ糸 電 雷 延 縄 鰹 。答 毎苔海羅 亀 採聯 採聯 採あ 釣 鮮 瓶 本 lleノ 周 囲 及 砥 面 島 ノ 海 濱 ´ 海一 鼠 盟こ4 め 第三 巻 (明 44年 1月 ち , 菜 石 一一 嘉 一 角一 さ 株 43あ 鮪革 ]蕗 二 鰹吃 10月 11月 12月 ‐ 赤」ゎ 羅 一 春 鮭ち 鰻そ ア I椎 を 50∼ 13C 30( 30∼ 300 22∼ 23 20∼ 40 10 .8∼ 12. 6 ,8-18. 19.28 15^Ψ 18 14∼ 釣 '0∼ 生 湿 名 称 田 の 状 況 と 用 臭・ ヌ カ リ田 田 ☆稲 の干 し 方 ③ ☆ 莱 法 田のあま り多 く ない人は餅米を か とももの あ た りまでぬか る。 出 植 えた。 はだ しで 田植 を した。 植 の 樺 額 ヽゼ カ ケ 名 ヨ 沿 岸 名 湿 田︶ 産 ︵ Iハ 1谷 ペ 「 オ ダノカ ミ」…正月にオカ ミの巳 の方角 に 掛軸をかけ ておがむ。 輸 称 作 方 式 た 作 物 名 焼 畑 寿名 称 用 途 形 ☆ 人 力 す き 類 状 畜 力 す 馬 の あ る家 \ 樽 m 田植 の農 具 話者 相 沢武雄 氏 種 き 鍬 ク ワ \ 概 称 の 10∼ 30 要 格 阪 親類や隣近所 イ 掘 杯 \ \ ☆ 鎌 ネカ リガマ \ 稲刈 り 草カリガマ 草刈 り 石巻 稲 斗 ゐ 搬 冶 医 田 卜 駄 \ \ \ \ \ 23∼ 28. 5 畑 作 の 農 耕 儀 礼 ︵作 物 別 ︶ ☆ 零 期 。行 尋 3∼ 直 播 ☆ ほ とん ど女性。 (時 12 田 の近 くの木 の下 な どに ハ ゼ カ ケ した。 ヽゼ カ ケ 特別 の田植 田 植 出 の 稗 ) 3∼ 7 祢 組 IE4の lull(割 合 5∼ 1 \ 石巻 稲 輩 ゐ 搬 冶 凧 \ は61 ④ つ くり ☆屋根型。 屋 根 屋 敷 内 の 付 属 建 物 の 名 称・ 用 途 そ の他 の特 色 材 屋 母 住 寄 棟 カ 柱 →杉 は り→ 松 120∼ 130年 前に 建てた。 ヤ 敷 用 ダ イ ド コ ロ オ ジザ イ カギ 、火 ダナ (竹 製 )、 ゴ ドク働 し い形 ) 称 ☆ い ロバ タ ろ 主 ザ 婦 客 ☆ シ キ ナ ン ト │☆ 下 ロジ リ り 座 種 類 常設 仮設 灯 火 具 名 ダイ ドヨ ロの ニ ワ 称 カマ ド 材 質 ザ 称 名 途 用 塩釜石 か ま ど ☆ 棚 火 形 状 。材 質 ) ラ じ神 ) 天神様 (菅 原道真を まつ る) (石 造 り) 床 の間、 押 し入れ ヨ コザ 場所(履 義の別 ウ (う 特別な時 (お 産 とか) 嫁がねた 押し入れ ☆ 主 人 ミ 用 具 ☆名 カ 納屋 (い ろいろなものをおいていた)(2棟 1棟 は馬屋をなおす) ミン部屋 (ミ ツ専門の倉) 便所 板倉 (2階 立て)(母 屋の裏にある) 井戸 家 ・ 家族 の寝室 ・ 冠婚葬祭用 ロパタ、 神ダナ、 仏壇、 途 設 備 。備 品 敷物 な ど 座 名 ヒダナ 自 在 鈎 ワ ナ 丸 い形 竹製、 真四角 の カ ☆ ゴ ドク ジザ イ カギ 神 か カマ ドの神 電気は昭和20年 頃か らで、 以前は ランプ その前はアン ドン ま ど 法 家の前の井戸 他の家からもくみにきた人 もいた 相沢精 ― 氏宅 「母屋間 取図」 屋 敷 林 手 入 飲 料 水 井 戸 神 5 日生 ︶ 6年 6月 2 話者 相沢精 一氏 ︵ 明治 3 ☆ 間 取 り 部屋 の 名 ☆屋 敷 神 の 名称・ 行 事 水神 さま 名 称 樹 ム ナ 木 松 杉、 リ 報窮│ハ ィ ‖ 「 ウ ラザ 」 角 方 南 西 「屋敷 内配置図」 釜 ドノ神 タンス 種 │ (上 )オ ンイ レ ン ス (下 )タ エ ン オ エ ビス サ マ (神 棚 ) 「 ダイ ドIR口 」 日バ タ ロバ タ 大黒 柱 「ザ シ キ」 ツノタ ノ伸 天 照皇 太 神 宮 オ 正 月 サ マ 「ナ ン ド」 5間 「 オ カ ミ」 │ 7う ワ ガ 8間 彎 今 道 (主 婦 ) ョ コザ 命二 人 ︶ 客 (名 な し ) 路 。母屋 は今か ら120年 ∼130年 前 に建築 された 。柱 は杉、は りは松 ・ 昭20年 以前 ランプ、大正桝期 までア ン ドン 母屋 の前 の庭 には稲井石 が敷 きつめ られ ている。 (水 産加工用 として)(写 真参照 ) ミソ部屋 (大 きな ミソ倉 )で ミンだけ でな く、豆腐 な ども製造 した。 ・ 棟上 げ には「棟上 ビナ」 を作 った 母屋 の後 には三階 だて板倉 (物 置 き)が あ る。 dリ 約︼ ぶツ わ︼ ⑤ 食 相 話 朝 早 平 名 ∼ 7時 ∼ (大 正 5年 5月 昼 6日 生) 12時 す ぎ 午後 イ ッ プ ク オ ヒル 、 ヒル メ シ 内 容 主 麦 =5 : 5 最初は煮 麦 サツマイモ、 豆をゆでた もの、生 大 根 、キ ュ ウ リな ど、季 節 に合せて 食べた。 主食は朝に炊いたも 票積 癸 そ 埠 露 :'た 食 (E合 配 合 率 ':) 保 存 食 塩 勧 oだ ん ご 等 iま してお く 鮭は岩手県から送 られ、 縁 の下に塩漬け して置 いた 舒 を つ くる 日 (特 別 の 餅 は種 類・ 名称 も) 飯 を つ ん せ 左 同 衣 男 ) 仕 事 別 仕 事 男 山 ワ (方 法 ) 他 の ぎ お ぎ は 製 同 左 同 左 同 左 同 左 夏 女 シャツ 帳 そでの締 効 、 メリヤス 上 体 亮石dlttκ ゛ 強、 売と亀ね、 ドキ楚、 八ワ ソYヌ 羅搾干y牝 ゝ 名坪 うす いシャツの上に余かつの ャンを重ね君じ【ての十斃 ☆ 下 体 手 (茶 かつの)ズ ボン 臼 ′ミ ッ 木 冬 と れ 左 夏 (男 はほとんどしない) 左 入 当 同 冬 畑や田 同 弁 製 夏 ☆ ヽレ)の と き 晴 木 ☆ 季節によるラ ヽヽ あ くぬ きす る食 物 し 製 (季 節 別 漁 ん 木 冬 名 称 材 質 ウ け キ き や 餅 つ き と脱 穀 夏 │ ハ ヨダ (サ ラシでぬ った もの) 冬 │ ハ コ ダ (フ ラ ン ネ ル ) ね す 杵 軍手、手袋 (指 出 しのさしこ) ホ ンの 卜に メ リヤ ス ズボ ン t余 かつ の ,ス ☆ は き も の 長 靴 長 靴 け 不 や き ⑪ 麦 や 米を つ く ④ 餅 をつ く か が り も の 手愈 ぐい (鉢 巻 きかが る) フ ン 不 ル の か ろ しき (茶 かつの)ズ ボン 手ぬ ぐい (茶 かつの)ズ ボン 手ぬ ぐい 夏 冬 着 いそ物 ☆ 女 夏 畑 (山 ) 雨 防 具 寒 具 ヨッパゴテ(こ んの木綿) ツネ ヨ(さ しこの長そで) 冬 ツネ ヨ ( ″ ″ 夏 ツネ コ( ″ ″ ツネ コ ( ″ 久ヽ 5 日生 ︶ 0年 0月 2 話者 津 田 いちさ ん ︵ 明治 4 1 ⑥ 肌 着 (下 着 と総 わらび …… 灰を入れて熱湯をかけてさらして食 ムミ る やまのふき…米のとぎ水を入れて煮 る 状途 物 テメシ)― そ 形用 法 ぅ 地 手 作 石 巻・ 山 形 方 面 (戦 争 時 ) と ン ワ (カ ☆ だ ん ご 。 し と ぎ 。お は ぎ を 作 る 日 ずイ 鉄 オ ダ 質 チ ャ ワ ン 常 せ 材 カ マ ッ ナ ベ ・ し 違 膳 用 称 る 春 の彼岸 の中 日 お盆 の14日 秋 の彼岸 の中 日 御大師 さま(I日 11月 23日 ) ―小豆がゆにだん ごを入れ る ん わ 汁 混食 燥 日 だ わ よ すみ大根 (に しめなどに入れる) ひつ じ わかめ、 すみ どうあ 五月五 日 端年の節句 九月九 日 菊 の節句 膳 ハ 名 く る に シ 乾 け ☆ 平 製 入で 具 赤 飯 正月 (12月 28日 ) 小正月 (2月 1日 ) 三月 のおひな さま(節 句 )¨ そめ餅 (新 草を入れ る) 四月 (か んのん さま)… ……くさ餅 天王 さん (6月 15日 ) 釜 漬 そ メ ・ 主食は炊いた り、 朝炊 いた ものは 朝、 炊 いた もの。 夏などくさらないようにとザルに入れて井戸の中 につ るしておいた。また メシザルに竹 のスでふた つるし棚にあげて置いた。 を し、 ・ 副食は ごぼ うい り、サ メ(ひ れ )タ ラ(頭 )の ダイ ヨ ンナマスや エ ンジン、キクの豆腐あえもの、 大根が 主力であった。 。皮をむいた大根 (生 )に 豆を煮にる場合でる豆の熱湯汁 をかけ、みそ こがの下に入れ、みそをつ き合せる時、 色がつけば土用、後にあげる(大 変おい しかった と) 。み ょうが、 しその実、きゅうり、にん じん、 ごぼ うな ど、 き漬けす る 妄 ど身はフシ にし のは 、 大 桶に 塩付けて 蹟すのも 鍋 ン みすに み 季 8時 頃 (夏 )く らくなって 頃 おかずは魚の水煮 (塩 漬け した ものを にる) つけ もの おひた し、 使 用 け 石 鰹のような物は桶に入れて、 塩にだ っぶ りつけて、 や小 ざ りをあげて縁の下にお く。 長置 きす るのには 飲 食 漬 の 3時 時 夜 夕 昼じ 一同 朝と の : 夕 イ ッ プ ク 常 米 ∼ 昼 昼 10時 朝 メ シ 、 マ マ (オ マ マ ) 称 さだ よさん 朝 朝 6時 刻 時 沢 ″ カ ッパ 、 ミノ ) ) ) モモ ンキ ッパ ゴテ ( ″ ″ モ モ ンキ ` r什 章 rr^ィ ι ャキ )ハ ッ モモ シキ ^え ヽ くゴテ ( ″ ″ コ ッパ ゴテ ( ″ ″ ) ) ) カ ッパ、腰み の モモ ンキ 、 ツ メカケチ "ハ ンr晏 ヽ、ナ蛍ヽ モ モ シ キ モモシキ、 ツメカケチャハ ン いナ☆Ⅲ モ モ シ ツ ア ナ の夕虫う 糾 からくり 孫 ″ 〃 乳1崩 (う ゴムたび(タ ガジ ョウタご `暑 患ろしき ふろ しき ふろ しき(フ ランネル) キ 長 ア ッカベ (特 に寒 い とき) うすいふろ しきの上に 靴 わ0 ⑦ 年 暦月 日 中 行 名 称 事 0年 0月 5 日生 ︶ 話 者 津 田 い つさ ん ︵明治 4 1 2 そ の家 によ って日が ちが う。 煤 や ほ こりを払 って家 の中 をき れ いに大掃除 す る。 不定 庭 掃 除 障 子 張 り 餅 つき の日が近くなると、山 に行 って メ ニダ マ ︵マユダ 0 旧2 1月 1 日 又 は3 1日 不定 木 切 る マ︶用 の エノミの木を伐 ってくる。 エノミの木 に メ ニダ マ 各神様 の餅 を つく。 。 5 不定 と は、 0 1日1 1 日頃 不定 餅 つ き o 8 2 日 2月 5 日 旧1 2 7 2 日 Lすれかの日 2月 8 日 旧1 2 旧2 1 月 3. 日 旧 1月 1 日 年 越 し ︵おかざり︶ 臼 伏 せ 年 越 し 飯 若 水 桶 お神 酒 す ず 元 朝 参 り 口 起 し お船 だ まさ ま 旧 1月 2 日 若 木 迎 え 旧 1月 9 日 農 は だ て 明 神 講 の害を つける。 ついた鉾 の 一つを山 に持 って い って松 の木 にあげ て拝 む。 それ から芯 の立 った 三階 の松 を伐 り取 り、家 に迎 える。 本 数 はそ の家 によ ってちが う。 津 田家 で は井 戸 に 一本、 内神 様 ︵ 自 分 の家 では山 の神様 ︶ に 二本、 三 つ石 の山 の神様 に 、 一本、 馬 頭観音 様 ︵ 昭和 0 1年 火事 の時 死 んだ 馬 のた め︶ 一本、 門松 に 二本、 計七 本を迎 える。 早朝、風呂 に入 って身を清 める。それから、門松 など の 座敷︶ の隅 から 一ば い、八丁注連 注連縄をなう。 オカミ ︵ ︵ 八 つの紙垂を つけた注連縄︶を連続的 に張る。注連縄 に 七本から五本︶松 の枝をはさむ。次 に神 々 ヤ ヘイ紙、わら ︵ にあげ る ワド シナ ︵ 出雲大社、大黒様、 お正月様、釜 の神 様、仏様 ︶をなう。各部屋 のワド シナ ︵ 流 し、便所、風呂 場、倉、納屋、 ナ ンド︶や座敷 にかける掛軸 のワド シナを なう。次 にな った ワド シナをかざる。 ﹁オ セツナ﹂ ︵ 竹製 のス︶に塩びき、するめ、子し魚な ど魚 のアゴに縄を通 してワド シナのよう にしたも のを五 つ 位 つけ て庭 の隅 におく。 ござを敷 いて、そ の上 に臼を伏せ、切り目 のと ころにシ メナワをな って、手 キネを ニナワで結び つける。国 のなか に 一升桝 に米を入れたも のを入れる。国 の上 にお盆をおき 紙を敷 いてオツナ エ餅をあげ る。 年取 り の御飯 は魚 ︵ 鰹 の塩漬 け ︶、 す る め の干 し物、 た 魚 の身 を た て に四 つ割 り にしたも の︶を おかず に こ、節 ︵ し て食 べる。 井戸から元旦朝早く年男が若水を汲 んで、 お盆 の上 に紙 を致 したそ の上 に、 お供餅を置 いて、さらにそ の上 に若水 桶を置き、 ひし ゃくも付ける。 一つはお舟だ ま 朝早くおき、 お供断 ︵一つはお正月様、 お膳 の上 に 一升桝 に米を入れ て、 一升桝 様 ︶、 オデ カケ ︵ の下 に紙を敷 いて、そ の上 にミカ ンを 一つ置 いたも の︶、 オカケズ ︵ 掛け軸 ︶をかけ、 オ ミキを捧げ て拝む ︵ 天照大 神宮、山 の神 ︵ 氏神︶、七福神、湯殿山︶ 氏 鹿島神社、後 ろの天王さん、 お寺 さん、山 の神さま ︵ 神さま︶、 お薬師さまなど に参詣する。 臼 が おき れば仕 事 を し てよ い。 津 田家 は 二日 から仕 事 、 船 のある人 は、 お供え書とお松をも っ行 ってかざる。 相 沢家 は四 日から仕事 をす る。 ンキ 山 に行 ってカ ヤを刈 ってく る。磯 に行 って ノリ、 ヒ゛ フノリを取 ってき て、. 畑 で ナ ッパ、人参 などを取 ってく る 朝食 に6日に取 って来た海と山 のも ので七色 にかざ って、 それをたた いて細かくして、 おか湯 に入れ て食 べる。 村 の人たちが下 の家 ︵ 津田はしめさんの家 ・神主︶に集 っ 当時 ︶が四人づ つ組をなして、米みそを持 って て、 トメ ︵ 行 って料理する。 五月、九月、正月 の三回行う。鹿島さん を拝んで、村 の 一年 の行事を話し合う。 うじ神︶を拝み、 若 い嫁 ︵ 子持 ちの︶が集 まり、山 の神 ︵ 山 に餅を持 って行 って拝む。 山仕事 、畑仕事 のはじ まり。 山 にゴ ミを背負 って行 く。 米と ミンを各自持 ちよ って食物を作 って会食 し、色 々な話 旧 1月 6 1日 女 の休 み 日 0日 旧 1月 2 地 蔵 講 恵 比 寿 講 旧 1月 耳 日 4日 旧 1月 2 小 正 月 は ら い 高 燈 籠 柱 盆棚 かざ り 墓 都 合 のよ いこ 大 はんや さ ま 旧 2月 1 日 賑 7月 6 日 日 7月 7 日 以前 旧 7月 3 1日 旧 7月 3 1日 旧 7月 5 1日 6日 旧 7月 1 旧 7月 0 2日 9日 旧 7月 2 ︵ 送り盆 ︶ 盆 舟 流 し 二 十 日 盆 送 り 盆 し木 でただく◎ それ から組 にな って ﹁ 祝 い申す、祝 い申す 、 大漁す るよう に﹂ と い って家 の前 にあるも のを叩 いて歩 く。 各家 で は梯 子 や構 を用意 し ておく。小 豆飯 を食 べる。 、 。 0 6歳以上 の姑が お寺 に行き御飯を炊 いて食 べる お尚 さん、 おばさんにも 一緒 に食 べてもらう。 魚を入れ ハンジ ョウ ︵ 観音講 の人たちが、赤 い鉢巻き に、 大漁 の意︶ るカゴ︶をか ついで、 ﹁ 〇〇丸 のくりばう︱﹂ ︵ ︵ くりぼうよばり︶と い って舟持 ち の家をまわ って御祝儀 をもらう ︵ 観音講 =お寺 の収入︶御馳走をたべる。 お嫁 さ ん ︵ 小持 ち︶た ちが お寺 の地蔵 さ んを拝 み、後会 地蔵 の=山 の神講 食す る。 二班 に分 れ て相沢 さ ん の家 が上宿 で上 の方 は宿 は 廻 り番 。 3歳 ︵ 7歳 ︵ 男 ・女 ︶ 女 ︶ 3 厄 年 5歳 ︵ 男 ・女 ︶ 3 2 9歳 ︵ 2 男 ・女 ︶ 男 ・女 ︶ 4 4歳 ︵ 大 はんや 六百巻 を和尚 が拝 む。 ダ ン ゴ を 昨 って お 墓 祭 り を す る ◎ ●7月 のはじ め に山 に行 って柳 の枝 を取 って来 て、皮 をむ ︵ 盆棚 に供 え るた め︶ いて柱 など に結 び つけ、真直 ぐ にし ておく。 ・山 から山 百合 、桔 梗 、 おみなえ しを取 って迎 える。 。お寺 に頼 ん でお いた位 牌 を迎 え に行 く。 そ の時 に和尚 さ ︵ 盆棚 供 え用 ︶ 。浜 に行 って桶 を洗 っておく。 細 いも の︶を 二本 ん にガ ンペイを払 い、 お寺 の山 から竹 ︵ 取 ってき て、 盆棚 の左 右 にかざ り、棚 が でき たら、 買 って 来 た盆 ごも を半 分 に切 って のせ、 そ の上 にかざ り菓 子、果 物 などを かざ り、 一番奥 に位 牌 を安 置す る⑥ ・無縁 仏 の供 仏 は、大 き な盆 ︵ ︵カボ チ ャの葉 など ︶ に の せ、前 じ りや棚 のわき 方 にあげ て置 く。 お仏 さ ん にあげ た ご飯 、 うど ん、 お汁 ︶など全部 同 じ物 を あげ る。 そ し 物 ︵ てお盆 が終 った時 、海 にた ら した。 ・死 んで三年 間 はた てる。 子供 た ちが 組 にな って小麦 から で作 り、盆棚 の供 え物 を 占帯 火 運搬 具 背 負 占、 盆 ごも にく るみ、 盆舟 に つみ、 子供 た ちが 泳 いで沖 の方 ヘ お仏様 に色 々な供物 を あげ て拝 む。 流す。 綱 燈 燈籠柱 を な おし、児 燈も取 り はず す。 9年度大泊収集 民具表 0昭和 5 占い 編 食 具 l 旧 1月 5 日 1日 旧 1月 1 山 の 神 講 をする◎津 田 の上宿と回り宿 の二 つに別れ てする。 一日七回 ご飯 をあげ る。 子供 が 二 ・三人組 にな ってザ ル 背 負 って ﹁チ ャセゴ に メイ ッタ、 メイ ッタ﹂ と唱 えなが ら 各家 から餅 をも ら って歩 いた。 こ のチ ャ セゴ餅 を食 べると 夜 中 に6 日 の若 木 迎 え で刈 ってき た カ ヤで アカズ キ粥 を 風邪 を ひかな い。 作 って神棚 にあげ て食 べる。 脱穀 調整 漁 具 ヤ セ ウマ 定 4日の夜中 に、食 べた アカズキ粥 の椀を洗 った水を虫 ケ 農 具 3点 旧 1月 7 日 旧 1月 2 1日 お 松 納 め 帰 る日︶ ︵お 月 様 の 4日 旧 X月 1 5日 旧 1月 1 足踏み脱穀機 予 ラが家 に入らな いよう にま いて歩く。朝 早く ヤ ヘイ紙を ﹁ 祝 い申 し木﹂ にはさんで鹿島神社 に参詣 に行く。子供た 手 ッキネ カ 講 日 り 2 事 祝 い申 し、祝 い申 し﹂と唱えながら祝 い申 ちは つき鐘を ﹁ 2点 ラ ン プ セイ ロ 洗篭 再 参 え ノ │ 墓 十 日 イ 子 マ お ユ 正 ダ 月 こ ぽ 観 I 盆 ナ 盆 桶 お い り ァ タミ リ (4分 ) ア バ リ (5分 ) ア バ リ (7分 ) 17点 計 呈 フ ン ブ 住 アラオ トシ ) ダイ ス ガマ (2点 ) 飯 ザ ル 横 ヒ チ え す (2′ 点 千歯 コキ キ ネ 迎 迎 申 ͡ 月 和 28 尚 日 払 松 草 い 名 品 ` ` ` ` ヽ 、 、 、 類房1` もヽ え 煤募 F弓 七 祝 ぬ9 わ︺ 石 文 化 三 っ石大網漁 (昭 60年 6月 (箱 網 で追 い こみ漁獲 ) 財 ▲ 大泊 のさっかけ小屋 ▲ さっかけ小屋でガゼむき ) ▲ 和良美大網店屋 (田 代島西岸) 和 船 (「 ベ ガ」) < 運搬船 は石巻魚市場 ヘ 0分 ︶ ︵ 朝 6時 3 巻 市 文 化 財 引ツ わ0 石 だ 一 一 一 一 一 静i一 ▲ 納 屋 ▲ ▲ 釜 どの神 (ダ イ ドコ ロの) ▲ オカ ミにあ る傘だて ミツ部屋 ▲ 母屋 (庭 に稲井石が敷 いてあ る →製造加工 のため) ▲ 「 その他の神 々J「 オ恵比寿 さま」 り 財 化 支 市 巻 わ0 石 < 「 お正月 さま」 「天照皇大神宮」 令 お か み ﹂の ︶ ﹁R ハ全 レ ﹁メ ニ ダ マ 木 ﹂ ﹁ 祝 い申 し木﹂ レ 井 戸 自在鈎 (お かみの) ▲ > ﹁祝 い申 し木﹂ > 御祝儀 用 のお椀 ッ。 ″ コ ハ、 コテ k レ カ タ ロ レ ツ 不 り よ だ 財 化 文 市 巻 石 > 横 ア ン ナ ガ > ヒ チ > メ シザ ル 外 を フクリ O > タビ︵ レ ツ メ カ ケ チ ャ ハン 石 1361 巻 市 支 化 財 だ よ り 戦後釜 石 から流 入︶ レ 背負 カゴ︵ ▲ 猫神 さま ▲ ▲ ヤ セ ウマ 馬上神 ▲ 念仏講 ▲ 「 大六天」さまの社内 ▲ 臣石 (「 大六天」の西側 に あ り) の信仰 ……大網網子 の信仰 (注 )「 大六天」 > か ら本松石 にかけての石は とってい =「 水たれ」 けない。 とると大網漁は不漁 となる…昔、大網 のお も り石に岩を くず して沢山使用 した。その ため住む家 としていた白蛇が怒 って観音 さまに か らみついた り、魚見や ぐらにか らみついた。 それ以来大網は不漁 になった。それ で網子 たち は白蛇を 「 大六天」Vこ まつ り神 の心を しず めた。 そ してそれ以来 ここか らは石を とっていけない ことに した。 ▲ 「 大六天」 ▲ 山 の神 (大 六 天 の 東 側 に あ り 昭和 27年 I日 3)鞭 2日 本 釜 石 大網 子 中 ) 約 一時間 で 二日分が定員 に達 す ると いう 盛況 がりです。 なお、来年度 から は回数 を増 や し、多 化財を訪ね て″ と題 し、十月 二十七 日と 十 一月十 日 の二日間、市 マイ ク ロバ スを 利用 し行 いました。 毎年開催 し、大好評 の文化財 めぐ り に は、受 付開 始 と同時 に申 込 みが殺到 し、 ﹁ 市内 に所在す る文化財 を見学 し、文化 財 に対す る理解 と認識を深 め、文化財保 護思想 の普及と保護行政 の推進 を⋮﹂を 目的 に毎年開催している ﹁ 文化財 めぐり﹂ を、今年度 は ″ 石巻牡鹿 三十 三札所 の文 1月 0 日 ︵日︶︾ ︽1 1 6名 参加2 講師=文化財保護委員 佐藤雄 一先生 コー ス=湊 ・石巻 ・釜 ・ 田 方 面 蛇 ・滋恩院︱ 多福院︱松 岩 寺 ︱ 広 済 寺︱ 西光寺︱称法寺︱濡仏︱瑞松寺 ︵ 廃寺︶ ︱ 普誓寺︱ 東雲寺︱ 禅昌寺︱ 永岩寺︱ 観音堂 ︵ 不動堂 ︶︱寿 福寺 国指定文化財 ︵ ※印時代 ︶ 者 及び所在 ≡ 一 輪宗頴 氏 ︵ 吉野町 一︶ 回 ︽ 重要文化財︾岩版=昭6 ・2 ●1指定 ※中世 3 所有者 一 毛利伸氏 ︵ 住吉 町 一︶※縄文 団平塚 ツナ家文書=第 一 次 昭 6 ●1指 5. . 囲 ︽ 史跡︾沼津貝塚=昭 7 ・0 ・ 指定 定 第 二次昭3 ・4 ● 指 1 定 所有者 ¨ 4 2. ︲ 5 所在地 中 沼津市出外※縄文ど弥生 平塚 ツナ氏 ︵田代字 斗 田 仁 ︶ ※ 近世 県指定文化財 囲鳥屋神社奉 納絵 馬 ﹁ 奥 石 巻図﹂= 州 ノ 3 ・3 ●1指定 所有者 一 圃狂鹿法印神楽=昭6 桜谷博氏 4 ・3 ●2指定 代表 昭和 5 桜谷守雄氏 ︵ 者一 湊字牧 山 ︶ ︵ 羽黒 町 一︶※近世 5 囲仁斗 田貝塚=昭側 ・4 ●0指定 所在地 囲 旧石巻 ハリ スト ス正教 教 堂=昭 5 会 会 3 0 一 田代字仁斗 田※縄文 2 石巻市 1 ・2指定 所有者及び所在 ¨ 市指定文化財 ︵ 中瀬 ︶※近世 司夢福完吸碑辞=瑠Ю ・6 ・1脂走 所有 団 へ 彰刻︾朝き=昭汚 ・唸 ・Юし 塁こ万言旨 ・ 現在、 石巻市内 には、国指定文化財 二件、県指定文化財 二件 、市 指定文化財 十 一件 のほか、数多 く の文化財があります。 これら のも のはす べて先人が遺 してくれた大切 な遺産 であり、今生き る私たち の手 で後世 に伝えなく てはならな いも のです。 ″指定 文化財 のあ んな い ″ ・長祥寺 ︵ 廃寺 ・零羊崎神社 ︶︱梅渓 寺︱ 法山寺︱瑞鹿庵︱宮殿寺︱ 長流裸 ︵ 廃寺 ︶︱ 薬師堂︱ 西念寺︱浄蓮寺︱ 長谷寺︱ 真法寺︱ 龍泉院︱吉 祥寺︱ 金 蔵寺︱ 龍洞覧 7日 ︵日︶︾ ︽0 1月 2 4名 赤 加2 講師=文化財保護委員 佐藤雄 一先生 コー ス=渡波 ・稲井 方面 く の方 々に参 加 して いただけるよう にし ます。 石巻牡鹿三十三札所の文化財を訪ねて 昭認 窪 文化財 めぐり (3り り よ だ 財 化 文 市 巻 石 及び所在 一 石巻市、石巻市図書館※現代 5 ・2 ・0 団イチ ョウ 釜口 祥寺︶二株=昭5 ︲ 2 指定 所有者及び所在 二 方井文章 氏 ︵ 高 木字寺 前 ︶ 5 2 0 団イチ ョウ ︵ 龍泉院︶=昭5 。 ︲ ・2指定 所有者及び所在 一 泉孝夫氏 ︵ 水沼字 天 似︶ 6 ・5 o8指定 所有者 一 圃葛西椀=昭5 坊 l 沢敏和 ︵ 龍洞院 ︶ ︵ 大瓜字棚橋 ︶ 8指定 囲 ︽ 彫刻︾黒潮閑 日=昭6 5 ・5 ol 所有者 及び所在 ¨ 石巻魚糧 工業∩、 石 巻市図書館 ※現代 < 見 代 6 ・2 ・9指定 囲石巻市渡波獅子風流=昭5 ︲ ︲ 代表者 “ 内海幸平 ︵ 幸 町︶ 7 ・2 5指定 所 日 ︽ 彫刻︾漁夫像=昭5 ・ ・︲ 有者及び所在 ¨ 石巻市、石巻図書館 り だ 財 化 文 市 巻 石 1381 名を 世に ヽ え ス〆 面剣 田=清水町 一 ︵ニイ ヌ マビ ル前 ︶ 八 ッ沢=泉 町 一 ︵八 ッ沢緑 地公園内 ︶ ︽ 昭和 ∞年度設置︾ 昭和 ∞年度 まで市内 1 1か所 に設置 しまし た。 ︽ 昭和 6 5年度設置︾ 石巻グラ ンドホテル前︶ 新田町=千石町︵ 内海笑 方前 ︶ 渡波本町=渡波 町 三 ︵ 湊幼稚園前 ︶ 湊本町=湊 町 ︵ 7年度設置︾ ︽ 昭和 5 河北新報社前 ︶ 横 町= 千石町 ︵ 丸光 石巻店前 ︶ 中 町=中央 二 ︵ 消防第 三分 団前 ︶ 九軒 町=門脇 町 二 ︵ ︽ 昭和 8 5年度設置︾ 振興相互銀行前 ︶ 立 町= 立町 一 ︵ 6 ま った町名を後世 に伝 えるため、昭和 5 年度 から ﹁旧町名表示石柱設置﹂を行 い、 伝 旧町名 表 示 石柱 設 置事 業 ″由 緒 あ る 0年 から この新 石巻市 にお いても昭和 4 1地区 で し い住居表示を実施、現在 まで1 町名が変更 され て います。 ″ 由緒ある町名 を後世 に伝 える″ こと は、 いま生き る私 たち の大切 な役割 り で な いでし ょう か。地名 は民族学と古代史 を結 ぶ接点 であり、 かけが え のな い文化 遺産だと いえます。 石巻市教育委員会 では、 なくな ってし 7 に さ た ﹁ 住居表示 に関 れ 年 制 定 昭和 3 8年 から全国 の各 す る法律﹂ により、翌3 都市 で順次 町名 の変更がされ て います。 丁 盆田 わ 西光寺前 ︶ 後 町=門脇 町 二 ︵ 元文年間 ︵一七 三六︱ 四〇 ︶ご ろ の ﹁石巻絵図﹂ には ﹁御城 町﹂とある 門脇 が、安永 二年 ︵一七七 三︶ の ﹁ 下 町﹂、同 村風土記御用書出﹂ は ﹁ 奥 州牡鹿湊石巻 図﹂ 時代 の木版画 ﹁ 志も 町﹂、以西を は西光寺 以東 を ﹁ ﹁うしろ町﹂と し、享和 三年 ︵一八 後 〇 三︶ の ﹁町 々宿 々調書﹂ には ﹁ 町﹂と記 され て いる。伝 承 によれば 御城町 のオがウに転訛して後町とな っ たと いう。 町 の東端南側 に仙台藩施 設 の津方会所 。御舟蔵が幕末まであ っ た。 長林寺前 ︶ 袋谷地= 水明南 二 ︵ 江戸時代、藩米積 み下 ろし の監視 や 市内 の警備、諸興行取締 まり に当 っ た仙台藩御足軽 三十 五名 によ って開 袋﹂ は水 辺 の湾曲 部 拓 され た所。 ﹁ 谷地﹂ は草 立ち の湿地帯 の の意、 ﹁ 意 ︵ 語 源 は アイ ヌ語 ヤチ︶。安政 四 年 ︵一八五七︶十月、祝 田 における 久米幸太郎敵討 ち の際、幸太郎 の宿 舎 を警備 した梅沢寛左衛門、梅沢万 之助、大坂徳蔵、大坂作右衛門、栗 原彦右衡門、後藤長十郎、桜内善吉、 千 田八十郎、広 田丈右衛門 など の姓 久米家復讐 一件﹂ 名が新発田藩文書 ﹁ に残 る。 ▼設置予定 旧町名 異町 ・北目町 ・浜横 町 。本草園 ・揚 一 嵐原 ・荒 町 ・鍋倉 ・村境 。浦内 ぶツ 9 rや よ だ 財 化 文 市 巻 石 文化財の周知によ り保護・保存をはか る 海 ・山 ・川と自然 に恵 まれた石巻市 は、昔 から人 々の豊 かな生活 の舞 台 てあり、 そ のあ かしとし て、数多 く の遺跡 や史跡があります。市教育委員会 では、文化財 の保護 ・保 存 のた め、そ の所在等 を広 く 一般 の方 々に周知す る ことが 必要と考 え、主な遺跡 に標柱を設置 して いますo先人が残 し てくれ たかけが え のな い文化遺産 を保護 ・保存 されるよ う特段 のご協力 を お願 いします。 文化財標柱設置箇所︾ ︽ あ 垂 水 囲 只塚 ︵ 図 2︶ ⑮梨木畑貝塚 ︵ 図2︶ ω 堤 貝塚 ︵ 図 2︶ ④ 半形 山根 只 塚 ︵ 図 2︶ の 多 福 院 板碑 群 ︵ 図 3︶ ② 観 音堂板碑群 ︵ 図 2︶ の 慈 恩院板碑群 ︵ 図 3︶ ①南境貝塚 ︵ 図3︶ ②小沢貝塚 ︵ 図2︶ ③ にら塚貝塚 薗 L の釜東古墳 ︵ 図3︶ ⑥垂西古墳 ︵ 図3︶ ⑥ 真野萱原伝 説地 ︵ 図 2︶ の近 喜式内社曽波神社 ︵ 図 3︶ ⑥痒 日山海門寺跡 ︵ 図 3︶ ⑥延 喜式内社鳥 屋神社 ︵ 図 3︶ ⑪仁 斗 田貝塚 ︵ 図 1︶ ⑪廷 喜式 内社零羊崎 神社 ︵ 図 2︶ ⑫ 半形 貝塚 ︵ 図 2︶ ④ 市指色 左天然 弔 続 フイ チ ョ文 図 2︶ ④ 亀 向 山 龍泉 院 ︵ 図 2︶ 為百 和山公園 ・日和城跡登リ ロ︵ 図3︶ ⑮ 市指定 天然記 念物 イ チ ョウ︵ 図 2︶ ⑭ 趣 田台 遺 跡 ︵ 図 2︶ の 鶴 子坂館跡 ︵ 図 2︶ の 高 木古 館 跡 ︵ 図 2︶ の 経 王 山 法泉 寺 跡 ︵ 図 3︶ ④ 派 ヶ森 館 跡 ︵ 図 2︶ ⑩ 易 沢 山龍 洞 院 ︵ 図 3︶ ④ 首 境館 跡 ︵ 図 3︶ ω 章 刈 山板碑 群 ︵ 図 3︶ ⑭ 長谷寺 板 碑 群 ︵ 図 2︶ の 尊 称 廃寺 板 碑 群 ︵ 図 2︶ ∩寺 館跡 ︵ 図 2︶ ⑪ 鷲 の巣 館 跡 ︵ 図 2︶ の価台藩穀倉跡 ︵ 図3︶ ⑪渡波塩田跡 ︵ 図2︶ ⑭ 久米幸太郎仇討 の地 ︵ 図 2︶ の榎 本武揚艦隊集結地 ︵ 図 2︶ ⑮ 鹿島御児神社 ︵ 図 3︶ ∩所 の渡し ︵ 図3︶ ④貶田道将軍碑 ︵ 図3︶ ⑬新山崎遺跡 ︵ 図3︶ ⑮内原遺跡 ︵ 図2︶ ④切神山経塚 ︵ 図3︶ ⑫ アチャ浜遺跡 霞 と め産敷浜遺跡 ︵ 図2︶ ② 一本杉只塚 ︵ 図ヒ 石 巻 市 文 化 財 だ よ 石 巻 市 文 化 財 だ よ よ だ 財 化 支 市 巻 石 9年 1月 1日 ▽第 一号 ︽田代特集︾ 昭和 4 楠 本政助 ︶ 仁斗 田貝塚 の概観 ︵ 金 石文 。経塚 に ついて ︵ 佐藤雄 一︶ 木村敏郎 ︶ 平塚 八太夫文書 に ついて ︵ 田代島 の神社仏閣 ︵三宅宗議 ︶ 湊車刈山所在古碑群 の移転 ▽第 二号 ︽特集 ・市内文化財 の現状︾ 9年 5月0日 昭和4 1 木村敏郎 ︶ 埋蔵文化財 の現状 ︵ 佐藤雄 一︶ 石巻市板碑 の現状 ︵ 佐 々木豊 ︶ 石巻市 の自然林︱現状と保護 に ついて︱ ︵ 石垣 宏 ︶ 近世 ・近代資 料 の現状 ︵ 住吉 の旧毛利家 ︵ 高橋勇 一郎 ︶ 石島恒夫 ︶ 石巻鋳銭場と斉太郎節 ︵ 根岸地区民族資料調査報告 ︵ 鈴木東行 ︶ 9 財 年 度 文 化 調 査 概報︾ ▽第 二号 ︽昭和4 9 昭和0 5年 3月2日 高木観音堂板碑群調査 の概要 ︵ 佐藤雄 一︶ 石垣 宏 ︶ 近世 の古文書︱ 鹿 立 ・平塚文善︱ ︵ 鈴木東行 ︶ 祝 田浜民俗調査報告 ︵ 佐 々木 聖こ 牧 山地域 の植生 に いて ︵ 0 年 度 文 化財調査︾ ▽第 四 ・五号 ︽多福院特集 ・昭和 5 0日 ︲年 6月2 昭和 5 日輪山多福院 の板碑群 ︵ 佐藤雄 一︶ 多福院文書 。そ の他 の文化財 に ついて ︵ 石垣 宏 ︶ 石巻 市稲井 地方 の地質 全局橋清治 ・菅原祐輔 ︶ 漁具︶収集調査報告 ︵ 鈴木東行︶ 東浜地区生産民具 ︵ 石垣 宏 ︶ 稲井地区古文善分布調査 ︵ 石巻 の店蔵︱高橋茶舗︱ 全局橋勇 一郎 ︶ ︲ 年 度 文 化 財 調 査 特 集 ︾ ▽第 六号 ︽昭和5 2年 ﹁月2 5日 昭和5 方孔石 に ついて ︵ 高橋清治 ・菅原祐輔 ︶ 石巻市狐崎萱刈浜板碑群調査報告 ︵ 佐藤雄 一︶ 石垣 宏 ︶ 田代島平塚文書 目録 に ついて ︵ 鈴木東行 ︶ 田代島民俗資 料 ・民具収集調査報告 ︵ ▽第 七号 ︽埋蔵文化財緊急 発掘調査特集︾ ︲日 昭和 関年 3月3 狐崎 スケカリ浜遺跡 の発掘調査︱ 漁港関連道路建 設 にかかる緊急調査︱ 沼津貝塚 の発掘調査︱ 史跡標識設置部分発掘調査︱ 梨木畑貝塚 の発掘調査十 人骨埋葬状況調査︱ 2 年 度 文 化 財 調 査 特 集 ︾ ▽第 八号 ︽昭和 5 ︲日 4年 3月3 昭和5 大浜遺跡発掘調査 ︵ 木村敏郎 ︶ 古文書 分布調査報告 ︵ 石垣 宏 ︶ 鈴木東行 ︶ 南境地区民俗資料 。民具収集 調査報告 ︵ 巨樹 。名 木等分布調査報告 ︵ 佐 々木豊 ︶ ▽第九号 ︽昭和関年度文化財調査特集︾ 5年 3月 ︲日 昭和 5 3 木村敏郎 ︶ 平形 山根 貝塚発掘調査報告 ︵ 古文書 分布調査報告 ︵ 石垣 宏 ︶ 鈴木東行 ︶ 水沼東沢地区民俗民具収集調査報告 ︵ 金局公用志﹂ に ついて ︵ 石垣 宏 ︶ 鋳銭場資 料 ﹁ 4 度 文 化 財 調 特 集 ︾ ▼第十号 ︽昭和5 年 査 6年 3月︲日 昭和 5 3 石巻市指定文化財 に ついて 古文書 分布調査 報告 ︵ 石垣 宏 ︶ 水沼 西沢地区民俗民具収集調査報告 ︵ 鈴木東行 ︶ 南境館跡測量調査報告 ︵ 木村敏郎 ︶ 5 年 度 文化財調査特集 。小竹浜地区 ▼第 十 一号 ︽昭和 5 の文化財︾ 7年 3月3 ︲日 昭和5 石巻市指定文化財 に ついて 板碑分布精 密調査報告 ︵ 佐藤雄 一︶ 古文書 分布調査報告 ︵ 石垣 宏 ︶ 小竹 浜地区民俗 民具収集調査報告 ︵ 鈴木東行 ︶ 弁 天島植生調査報告 ︵ 佐 々木 堂こ 8年 3月 ︲日 ▼第 十 二号 昭和 5 3 石巻市指定文化財 に ついて 南境地区 の板碑 ︵ 佐藤雄 一︶ モクゲ ンジ の分布状況調査報告 ︵ 佐 々木 聖こ 越 田台遺跡発掘調査報告 ︵ 木村敏郎 ︶ 真野 日向 日影民俗資 料調査報告 ︵ 鈴木東行 ︶ 五松 山洞窟跡発掘調査 の概要 ︵三宅宗議 ︶ 9 ︲ 年 日 3 ▼第 十 三号 昭和5 月 3 稲井大瓜地区 の板碑分布調査 ︵ 佐藤雄 一︶ 鈴木東行 ︶ 月浦民俗民具資料調査報告 ︵ 市内 にある日本 の重要な植物群 に ついて ︵ 佐 々木豊 ︶ レ シ ョン 毛 ︱ 伊達家文書 0︵ 利 コ ク 蔵 文 書 石垣宏 ︶ 所 0年 3月3 ︲日 ▼第 十四号 昭和 6 真野萱原 ・舎 那山長谷寺総合調査報告︱ そ の 一︱ ︵ 佐藤 雄 一︶ 毛利 コレク シ ョン所蔵文書︱伊達家文書 ω︵ 石垣宏 ︶ 文化財 めぐ り o文化財講座 石巻市所在指定文化財 ・他 旧町名表示石柱設置事業 文化財説明板設置事業 石巻市 の遺跡 ︿付 。遺跡地図﹀ ※ ▼印 は在庫 が若 干あります のでご希 望 の方 はお申 し出 くださ い。 ∴∵ ヽ 輩● l ・ゞ i ギ 叫i ・ 石巻市文化財だより(第 15号 ) 昭不日61年 31月 31日 E「 用J ― 昭和61年 3月 31日 発行 「 ― i ・ ! i : 石 巻 市 教 育 委 員 会 ´ :1石 巻市自― 和が丘一丁目1番 1号 発行 │ I -― . E閉 1 株式会社 松 弘 :堂 石巻市門脇字本草国 2■ 16 la(0225),0551も │ 51ω ネ ゛ 一 ﹁ ・ ユ
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