中東の想い出 Ⅰレバノン ベイルート編 (1979~1983)

中東の想い出 Ⅰレバノン
ベイルート編(1979~1983)
小暮
アテネ発の中東航空(Middle East Airlines)ボーイング 707 が、地中海からベイルート
空港に、着陸態勢をとって進入し始めると、地上のあちこちから白い煙が立っているのが見
える。
てっきり、戦火の跡ではないかと思い Agent(以下 Ag.)のジェネラルマネージャーに聞く
と、あれはタイヤを燃やしているだけだと云う。本当のことは分からない。
事務所で話をしていると、時々銃声が聞こえる。銃声が近い時は、Agent の社員が、窓か
ら外の様子を見る。唯一残っている日本食の「東京レストラン」の女主人によれば、民兵が
空に向かって、よく自動小銃をぶ
っ放すそうだ。その弾は、必ず落ち
てくるので、人の頭に当たると死
ぬ恐れがある。物騒でしょうがな
い、と云っていた。
当社の事務所は、まだ Ag. の元
本社ビル(当時はベイルート支店)
の一隅にあり、爆風でガラスが飛
散しないよう、窓にテープが×印
に貼られていた。我々にとって、と
ても仕事の出来るような状態では
なかったが、Ag.は、ローカル相手
の保険業務を続けていた。
首都のベイルートは、かつて「中
東のパリ」と云われるほど美しい
町だったそうだ。地中海性の温暖な気候で、貿易が自由なので、物価は安く、物は豊富で生
活がしやすかったという。比較的民度も高く、中東各地へのハブ空港があるので、1976 年
頃までは、中東のビジネスセンターとして、各国を始め、日本企業の中東の拠点が、ここに
集まっていた。
また、歴史や文化も豊かで、自然は美しく、観光資源にも恵まれていた。夏は、海水浴と、
2~3,000m もあるレバノン山脈でスキーも楽しめるという、小粒ながらまさに「中東の真
珠」であった。私が赴任した当時は、かつて、観光客で賑わったダウンタウンは、内戦で破
壊し尽くされ、中でもホテルフェニキアとかホリデイインといった有名ホテルが、弾痕生々
しい残骸を晒していた。
私は、当初の 2 年間、名目上、大正(現三井住友)海上火災保険(株)のベイルート駐在
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員(在アテネ)であったが、住んだことは一度もない。それでも、4 年間のアテネ駐在期間
中、10 回ぐらいは出張したと思う。主たる業務は、保険の引受、及びクレームの処理と、
一般的な情報収集である。
出張前にテレックスで連絡しておけば、空港には、Ag.の車が迎えに来てくれ、市内に着
いた後は、西ベイルートにある「コモドアホテル」と、Ag.の事務所と、
「東京レストラン」
を徒歩で往復し、中心街のハムラ ストリートで買い物や食事をするだけであった。
西ベイルートは、イスラム地区だったが、この地域だけは、比較的安全であった。この限
られた一角から、一歩でも外に出たら危険だと云われていた。だから、この地区以外の西ベ
イルートや、マロン派地区の東ベイルートには、行ったことはない。
ここにいても、時々銃声が聞こえた。他の地区では、自動車に仕掛けられた爆弾が爆発し
て、通行人が巻き添えになったという話も良く聞いた。Ag.のジェネラルマネージャーが、
「昨日も自動車爆弾で、側を歩いていた知人の女性が重傷を負い、まもなく死んだ。彼女は
大変な美人で、仮に助かったとしても、ひどい後遺障害が残ったはずだ。可哀想だが、死ん
だ方が良かった。
」と。
夜、時々日本人ビジネスマンや新聞記者がよく来る「東京レストラン」に食事をしに行っ
た。途中、自動小銃を構え、暗闇に潜み、じっと、こちらを見ているシリア兵に出会って、
ぎょっとしたことがある。とても、市内や地方を自由に回ったりできる状況ではなかった。
この地区だけは、日本で思っているほど危険ではなかったが、冒険心を起こすとどんな目に
遭うか分からない。
シリアのダマスカスから、タクシーで 4 時間位かけてベイルートに入ったことがある。
直線距離にして 100km 位だろうか、旧約聖書にも出てくる標高 2800m のヘルモン山とア
ンチレバノン山脈の間を抜け、ベッカー高原を横切り、レバノン山脈が途切れた地点を、ベ
イルートに向かってダマスカス街道が走っている。途中、展開中のシリア軍大部隊の脇を、
一目散に走った。料金は、いくらかかったか忘れたが、それほど高くはなかった。
それから 1982 年、イスラエルが侵攻した「レバノン戦争」が一段落して、PLO が、ベイ
ルートを退去した後、破壊され尽くしたベイルートのダウンタウンをタクシーで廻って見
た。至る所、コンクリートやブロックの廃墟が残っていた。
パレスチナ難民が、マロン派ファランジストに虐殺されたキャンプ跡地も見に行った。虐
殺の痕跡は、微塵も見あたらなかった。
レバノンで行った所は、それだけである。世界遺産や、聖書の世界など、見るべきところ
が沢山あるが、あえて危険を犯す勇気はなかった。
日系企業は、商社が 2 社事務所を残し、それぞれ日本人スタッフが 1 名、現地ローカル
社員が 1 名常駐していた。それと和食の「東京レストラン」が頑張って残っていた。それ以
外の企業や和食のレストランは、アテネ、カイロ、アンマン等に移転してしまっていた。
その他に「日本赤軍」の重信房子、坂東國夫、和光晴生等が、PLO の一員として、ベッ
カー高原か、ベイルートの隠れ家に潜んでいたはずだ。
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こんな状態でも、他の中東諸国を廻った後、ベイルートに立ち寄ると、ホッとした気持ち
になる。気候が良く、自由な雰囲気があり、食事がおいしいし、ワインもおいしい。
「クサラ」というワインを良く飲んだ。当時は知らな
かったが、
「ミュザール」という素晴らしいワインがあ
る(日本でもインターネットで買うことが出来る)
。
食事は、先ず「メザ(メゼ)」といって、前菜のような
小皿料理が沢山出てくる。その後、魚や肉のメインが
出る。
「メザ」には、羊の脳みそをグリルした料理・・・
外側のお焦げが香ばしい、中はとろっとしたホワイト
Chateau Musar
ソースのようだが、少し臭う。それから、
「キッビナッ
(Lebanon Bekaa Valley)
ヤ」という羊のタルタルステーキがある。これは、ミ
ンチした生肉に、ネギ、松の実、香辛料を加えたおいしい料理だ。けれど、これだけは絶対
に食べない方がよい。あとでとんでもないことになる。よほど耐菌力がない限り、おなかを
壊し、医者にかからないと、治るまで 20 日はかかる。
「正露丸」では全く歯が立たない。私
は、ベイルートとシリアのダマスカスでご馳走になり、二度とも、ひどい目にあった。
料理は、トルコ料理の影響が強く残り、洗練されている。
レバノンは、中東で唯一のキリスト教国といわれていた。しかし、現在は無論のこと、当
時でも、ムスリムの人口が多くなっていたはずだ。ところが現実には、キリスト教徒が多か
った戦前の国勢調査により、今でも慣例(国民協約)で、大統領はキリスト教マロン派、首
相は、イスラム教スンニ派、国会議長はシーア派出身者となっている。
国土は、岐阜県と略々同じ面積に、約 300 万(1976 年頃、現在は約 400 万人)の人が住
んでいた。
この狭い国に、宗派だけでも、キリスト教系がマロン派、ギリシャ正教、ギリシャカトリ
ック、シリア正教、シリアカトリック、ローマンカトリック、アルメニアカトリック等の各
派、イスラム系は、シーア、スンニ、アラウィ、ドゥルーズ、イスマイル等の各派、そして
ユダヤ教徒が、ひしめき合い、宗教の坩堝の感を呈している。
これに政治的な党派が加わる。即ち、親シリア、親イスラエル、ファランジスト(マロン
派の一派、戦前のファシストの思想を受け継ぐ右翼、親欧米)、親ソ連、挙国一致派、更に
PLO(パレスチナ解放機構)とその分派が加わる。まさに宗派と政党の入り交じった、バラ
バラの模様にならないモザイクである。
この国は、宗派をベースにした政党や、それぞれの宗派が、いがみ合っているだけで、国
家としての権威も体裁も機能も失われていた。
人々がどうやって生活しているのか、よく分からなかったが、一般の商店や、レストラン、
ホテル、保険ブローカー、銀行、両替屋、食料品店等は、活発に営業活動をしていた。市内
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の公共交通は元々ないが、タクシーは沢山走っていた。
マスコミも活動している。貿易も盛んなようだ。中東航空(MEA)もちゃんと飛んでい
る。議会、行政、裁判所も、活動はしているらしい。
ひょっとすると国家という機関は、もともと不要なのだろうか。無政府状態でも住民は暮
らしていけるのだろうか。何とも不思議な国である。
レバノンは、地中海を舞台に大活躍した古代フェニキア発祥の地である。フェニキアが滅
んで以来、第二次世界大戦後まで、常に大国の一部であり、保護国であった。フランスに与
えられた独立の後は、
「アラブの大義」や「フェニキア主義」というナショナリズムはあっ
ても、宗派単位に分離された国民の生活が、国に対する愛国心を育むのを阻んでいるのでは
ないだろうか。人のつながりの優先順位は、第一に家族、親戚、次に宗派・政党順に置かれ、
それから民族、国となるような気がする。いや、国は相手にされていない。
私はある時、会社の同僚(レバノン人の上流階級)に「何故国に帰って、平和をとり戻す
ため戦おうとしないのか」と聞いたことがある。彼は“What can we do?”というだけで、何
故そんな馬鹿なことを聞くのか、という面持ちであった。だから教育を受け、言葉に不自由
しない人達は、どこの国へでも移民をする。
事態をより複雑にしたのは、PLO とパレスチナ難民を受け入れたことである。1970 年に
PFLP(パレスチナ解放人民戦線、当時は過激派で日本赤軍と連携)が、旅客機 4 機の同時
ハイジャック事件を起こした。これに怒ったヨルダンのフセイン国王が、PLO や PFLP、
その分派をヨルダンから追放(
「黒い 9 月」
)した。そして、彼らと共に多数のパレスチナ難
民がレバノンになだれ込んだ。
非力なレバノン政府は、彼らを受入れ、自治権まで与えてしまった。PLO のテロに悩ま
されていたイスラエルは、これを敵対行動と捉え、レバノンに対し攻撃を開始した。反撃も
出来ない政府に、イスラム教徒は怒り、武力によって自らの政治力を強めようとした。
対する、マロン派キリスト教徒は、当然ながら脅威を憶えた、1975 年、イスラム教徒(ス
ンニ派、シーア派)及び PLO と、マロン派キリスト教徒との間で、内戦が勃発した。
こうした争乱に、レバノン国軍は全く対応出来ず、ダウンタウンが破壊され、町や国土は
荒廃した。そして、1976 年シリアに、軍の派遣と平定を要請し、一応沈静化した。
しかしながら、私が赴任した 1979 年以降も、ごく一部の地域を除いて、両派によるテロ
行為や、誘拐、強盗事件が頻発し、多くの市民や外国人が、犠牲になった。
1982 年 6 月、イスラエル駐英大使に対する、PLO の暗殺未遂事件の報復として、イスラ
エル軍が、レバノンに侵攻してきた(レバノン戦争)。
これは、当社の本業に係わる事件で、本当に慌てた。
北部のトリポリは、イラクのヨーロッパ向け石油パイプラインの終点で、石油の積出港湾
設備があった。そこが、イスラエル海軍の艦砲射撃を受けたという情報が入った。
当社に、貨物保険のアカウントがあったので、アテネから Ag.に対し、戦争保険をキャン
セルするよう、電話やテレックスで指示しようとしたが繋がらない。そうこうしている内に、
ベイルート空港で、中東航空で運んだ契約者の貨物がやられた、との事故報告があった。こ
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れは、えらいことになったと思っていたところ、荷卸し済みの貨物が、損害を受けたとわか
りホッとした。
その後、シリア軍が壊滅し、イスラエルのベイルート包囲により、PLO との停戦が成立
した。そして、アラファト率いる PLO の指導部と部隊は、チュニジアに退去した。その後、
米英仏伊の多国籍軍が派遣され、ようやく平和が訪れたかに見えた。
私も、現状を見ようとベイルートに出張し、色々な人々に話を聞いたところ、これでベイ
ルートは、良くなると人々は喜び合い、町全体に明るい希望と活気が満ちあふれていた。レ
バノンポンドの対ドルレートも上がったせいか(元々は固定相場)、単に物価が高騰したせ
いか、良く憶えていないが、ホテル代や食事代が高くなって、驚いた記憶がある。
国軍も再建されて、アメリカの海兵隊員が、急遽招集されたレバノン国軍の新兵達を、一
生懸命訓練をしているのを見た。
ところが、状況は、また一変する。私が日本に帰任した直後の 1983 年 4 月、アメリカ大
使館への自爆テロで、職員を含む 63 人が死亡、120 名が負傷するという大事件が起きた。
シーア派のアマルから分裂した「ヒズブッラー(神の党)
」の犯行と疑われた。この宗派は、
シリアとイランの支援を受けていた。
その後、米、仏、伊、イスラエル各軍の駐屯地も攻撃され、多くの死傷者が出た。多国籍
軍は、各国世論の要請もあって、レバノンから撤退した。
その後は、元の木阿弥である。国軍は、あっけなく崩壊し、宗派、地域毎に民兵化してい
った。シリア軍や PLO まで戻ってきた。その後の混迷ぶりは、もう誰にも理解しがたい。
親シリア、親イスラエル、挙国一致派等政治的な派閥とかつての宗派に、過激なヒズブッ
ラーやアルカイダ系宗派が加わり、現在は、シーア派で、シリア アサド政権支持のヒズブ
ッラーやアラウィ派と、スンニ派アルカイダ系のアブドゥッラーアッザーム旅団、ヌスラ戦
線等が、互いに、テロ行為を繰り返しているらしい。
今でも、18 の公認宗派があるそうだ。これらに、シリア難民、パレスチナ難民を抱え、
この国は、一体どこへ行くのだろうか。エリート達は、欧米、カナダ、ブラジルなどに離散
している。
中東各国は、イスラエルや、パレスチナも含め、第一次大戦中・あるいは戦後における、
英仏の植民地政策に、現在でも翻弄され続けている。国境は、大国が直線的に引いた不自然
なものだ。このことは、心から同情せざるを得ない。一方で、宗教上の不寛容性から生ずる
宗派間抗争が繰り返され、増幅するテロ行為が、問題の解決を益々困難にしている。
資源に恵まれず、金融センターの地位もとうに失い、観光以外これといった産業のないレ
バノンは、このままでは、国として、どうしたら存続できるのだろうか。
ベイルートに、束の間の平和が訪れたとき、ホテルのバーで、アメリカ人から面白い話を
聞いた。
「フェニキア(レバノン)」という名前は、
「フェニックス(エジプト神話に出てく
る不死鳥)
」を語源とするそうである(異説もある)
。この国が、神話の「不死鳥」のように
蘇ってくれることを祈りたい。
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レバノン人は、フェニキア人の末裔といわれる。人種的にはアラブやユダヤ人と同じセム
系に属する。カルタゴ人(チュニジア)も同じフェニキア人である。象のアルプス越えをや
って、ローマと互角に戦ったハンニバルは、フェニキア人であった。地中海沿岸各地や、島々
には、多くのフェニキア人が植民している。彼らは、商業の民であった。エジプトの象形文
字が、迅速な商取引に不便だからと、ローマ字の原型になったアルファベットを造ったのは、
彼らである。だから今でもフェニキア人の末裔のレバノン人は、商売がうまい。我々日本人
など赤子の手をひねるようなものだ。最近、日本では「おもてなしの心」などと、特別な心
遣いのように云うが、彼らの客扱いや、接待の時の心くばりは、極めて洗練されていて、と
ても、我々のかなうところではない。しかし、商売は厳しい。だから警戒されもする。
日本で知られたレバノン系の有名人には、カルロス・ゴーン(ブラジル出身)、カルロス・
スリム(2010 年度世界一の富豪)
、オマー・シャリフ、キアヌ・リーヴス(2 人ともハリウ
ッド俳優)、ラルフ・ネーダー等々がおり、そのほか多士済々である。
教育を受けた人達は、キリスト教徒が多く、母国語のアラビア語はもちろん旧宗主国のフ
ランス語、英語、イタリア語等々数カ国語を話すことが出来る。上流階級のご婦人達同士は、
アラビア語でなくフランス語で会話をする。これもヨーロッパ旧植民地の人達の通弊であ
ろうか。自分たちは、西欧人だと思いたがる傾向がある。
レバノンの国旗の真ん中に、緑のレバノン杉(本当はマツ科)が描かれている。なんで、
国の象徴に杉などを、と思ったが、BC2000 年期初頭に著わされた、メソポタミアの「ギル
ガメッシュ叙事詩」や、BC1200~AC90 年頃に成立した「旧約聖書」の時代から、レバノ
ン杉は有名な巨木で、高いものは 40m ぐらい、周囲は 13m にもなるそうだ。このレバノン
杉は、別名「香柏」といわれるほどの芳香を放つので、エジプトのミイラ作りの防腐剤に使
われた。また、古代から良質な船材や建材としても使われた。主にゲバル(現在はジュベイ
ル、世界遺産)という港からエジプトに積み出され、代わりに、パピルスが入ってきた。そ
れでギリシャ人は、この港を、パピルスのギリシャ語「ビュブロス」
(Вυβλοζ、Byblos)と
名付けた。ギリシャ語で「本」を ‘Вυβλιο’ (ヴィヴリオ)という。ご存知の方も多いと
思うが、聖書‘Bible’の語源でもある。 また、ソロモン王も、神殿や宮殿建立のため、こ
の木を乱伐した(旧約聖書烈王紀)
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レバノン山脈にあるガディーシャ渓谷には現在
レバノン国旗
もレバノン杉が自生している。
フェニキアを繁栄させた地中海貿易は、まさにこの木により、良い船ができたからだと云
われる。交易で栄えたフェニキアのシンボルとして、国旗にしたのも肯ける。
今は、絶滅寸前で、レバノン山脈の渓谷や、ヘルモン山麓等にわずか 1,200 本程度が残っ
ているだけらしい。伐採だけで植林をしない、自然保護の失敗例としてよく引用される。私
も見たことがない。現在、日本人グループも再生に取り組んでいるとのことである。
当時、我々日本人がレバノンを出国するときは、ベイルート空港のセキュリティ検査が、
非常に厳しかった。1972 年 5 月起きた日本赤軍(奥平、安田、岡本)によるテルアビブ空港
乱射事件の影響か、日本人に対するセキュリティ検査は、特に厳しかったように思う。特別
に列から離されて、兵士に入念に身体中をチェックされた。
まだ争乱は続いている。再興は絶望的であろう。我々の Ag.の会社もなくなってしまった。
知っている人達は、存命かどうかも分からない。日本にとって、この国は、外交的にも、経
済関係でも縁が深いとは云えない。それでも、今、レバノンには、約 70 人日本人が居住し
ているそうである。どういう人達が住んでいるのかは、よく分からない。ホテルも立派に再
建され、観光資源は豊かだが、内戦後に訪れる日本人は少ないはずだ。
しかし、オリエントの文化に対する興味は尽きない。もし平和を取り戻すことができたなら、
レバノン杉を見て、古代フェニキアに思いを馳せ、ジュベイル(ビュブロス)
、バールベッ
ク、ベッカー高原、そして聖書の世界を訪れてみたい。もう一度行きたい国の一つである。
<続く>
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