<随 想> 禍福はあざなえる縄の如し ――人間万事塞翁が馬―― 笹良 風操 1.塞翁が馬 昨年2月に私の実の姉が自分史『少女と父と戦争と』を出版した。 本誌 41 号に恐縮ながら、広告させて頂いたが、その本の中に私の幼い頃の姿 が描かれていて何とも面映い限りである。 父の出征、母の死、一家離散、空襲、疎開、水難、食糧難と姉の本には書き尽 くされていない色々の事を体験したが、今思えばあれもこれも「人間万事塞翁が 馬」だったなあという感慨がある。 平成 17 年4月から2年間、布教の為『禅語茶掛一行物』の「解説講座」を中 津市の小楠公民館と沖台公民館で行った。坐禅教室では宗教色が強いと断られそ うなので「講座」としたが、中身は坐禅 20 分とテキストを用いての講話である。 2年後、 私が大腿骨頭の異変の為坐禅ができなくなり中断の止む無きに至ったが、 テキストは一、二の支部にお渡しして活用をお願している。 その講座の中で沢庵和尚の書かれた掛け軸「人間万事塞翁が馬」を材料に話を したことがある。 この話は良く知られた有名なものであるが、はじめて聞く人もおられると思う ので次に略説する。 昔中国の国境の砦即ち塞の近くに一人の老翁が住んでいた。ある日のことこの 老翁の飼っている馬が国境を越え胡の国へ逃げ出してしまった。近所の人が慰め に行くと 「これがどうして福にならないことがあろうか」 とニコニコ笑っている。 - 54 - 数ヵ月後この馬が名馬の産地である胡の国から名馬数頭を連れて帰ってきた。 近所の人がお祝いを言うと「これが禍にならないとは限らない」という。 果たして馬好きの一人息子が馬から落ちて足を骨折して障害者となった。近所 の人が慰めると「いやいやこれが幸いにならないことがあろうか」と平然として いる。 一年後胡族の大挙侵入があり、健康な若者は召集され戦って 10 人中9人まで 戦死したが、息子は足が悪いため召集を免れ親子共々生き延びた。 人の世の禍福は定めがたく、福の裏には禍があり、禍は福のもととなることを 示した話である。 無住国師はこの話に注釈して、功徳天女(吉祥天、福の神)と黒闇天女(禍の 神)は姉妹でいつも連れ立っていて離れない。だから禍福に心を動かさず、その 場その場で泰然と事に処したら良いと一般大衆向けに分かり易く説いておられる。 人生には禍があり福があるのが当たり前で、禍ばかりということも無いし福ば かりということもない。禍と福が織り成すのが人生で「禍福はあざなえる縄の如 し」は言い得て妙である。 (あざなえるとは、からませる、藁などの繊維を交互に からませて縄をなうの意) 禍福は順逆、得失、生死と同様禅の立場からみれば一如である。絶対の目から 観れば禍もなく福もない。禍そのものは存在せず見方を変えればそのまま禍が福 になる。 【日々是好日】と生きるコツについては『禅』誌 31 号の瞎驢庵田坂牢関老居 士の法話にくわしいが、荘子は【送らず、迎えず、応じて蔵せず】と説いている。 過去の不幸だったこと或いは恵まれた栄光の日々、これ等を想い起こしてくよく よするな。また、将来がどうなるか、もっと悪くなるのではないかと不安に思っ たり、もうすぐ良いことずくめの時がくると夢想したりするな。目前のこと、今 日の勤めを〈この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草とるなり〉で一生 懸命しろ。そしてその結果が良くっても威張りなさんな。それが【日々是好日】 のコツですよと教えている。 - 55 - 「禍福はあざなえる縄の如し」の事例として適切かどうか分からないが、一家 離散と言う凶運、禍に会い姉と別れた後の私の少年時代の体験と、チャンピオン の座を滑りおちた凶運、禍から驚くべき再生を遂げたボクサーの生きざまを紹介 し、最後を沢庵和尚の「夢」で締めくくり、貴重な紙面を埋める責任を果たすこ ととしたい。 2.農村の少年になりきる 父が陸軍予科士官学校教官から北支に出征し、その半年後母が死亡すると私達 姉弟は二つに別れた。姉は東京の母方の祖母の家に、私と弟は北九州八幡の父方 の祖母の家に引き取られた。一家離散である。 その後空襲が激しくなるとそれを避けるため、祖父母の郷里の大分県耶馬渓に 疎開転居した。安全を求めて疎開したのだが、そこで大水害に会い、危うく命を 落とすところだった。一難去ってまた一難とはこのことだった。 大水害後落ち着いた先は観光名所の青の洞門と、南画さながらの岩の姿を示す 競秀峰を眼前に見る下曾木という所だった。 青の洞門を掘った禅海和尚のことは、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』で有名で、 一時小学校の教科書にものった。その禅海和尚が最初に明かり取りの為明けた岩 の窓の丁度真向かいに位置する藁葺きの農家が私達の新しい家となった。 幕末『日本外史』を書いて明治維新の原動力となる尊皇思想を普及させた詩人 且つ思想家の頼山陽が、日本一と絶賛した風景が目の前に展開していた。その日 本一の景色を朝な夕なに眺めて暮らす幸運を得たことは、一家離散や山津波で死 にかけた悲運を補ってあまりあるものだった。 昭和 19 年(1944 年)頃は太平洋戦争の末期で大変な食糧難だった。祖母は何 でもできるシッカリ者で、食糧難克服の為、近所のお百姓さんから少しばかりの 農地を借り受け、野菜作りをはじめた。 当時米に代わる食料だった南瓜、芋はもとよりふだん草,高菜、小松菜,ほう れん草、大根等が主な栽培品目だった。 - 56 - これらの野菜を育てる為には肥料をやらなければならない。人糞満載の肥えた ご一桶を祖母と前後にかついで運ぶのは、小学生から中学生になる頃の私の仕事 だった。 肥やしを汲む場所の便所は母屋から離れたもと馬小屋にあったが、それはそれ はすさまじいものだった。鉋も何もかけてないザラザラの板が、横木に釘で止め られただけで歩くとブヨンブヨンゆれる、真ん中に四角の穴が空いているだけ、 前板もない。天井から藁縄が一本ぶらさがっている。立つとき穴に落ち込まない 用心の為らしい。入口は藁の莚が一枚ぶら下がっているだけ、覗こうと思えばす ぐ覗ける。とても都会生活をした人間には堪えられないような設備だった。その 便所から肥やしを汲み取り畑に運んだ。 畑の打ち直し、水遣りも小学校6年の私の仕事だった。 小学生の時、後に道徳科学を創設した広池千九郎博士に直接教育を受けた祖母 と じ は、 「刀自」という敬称がふさわしいような厳格な人で、嫌がったり愚図愚図する と容赦なく叱責がとんだ。 東京の家で女中に何もかもしてもらい、好きな本ばかり読んでいた青瓢箪の私 には苛酷な試練だった。 私は「祖母ちゃんは僕に色々小言を言って、厭な仕事を押し付けて働かす。き っと僕が憎いのだろう」と思い、いやいやながらだらだらと祖母の命令に従う毎 日だった。 中学生になってすぐの五月のことである。中学から帰って仏間に入ると一瞬電 撃のような衝撃が走った。 そこには私の五月人形が立体的ではなく不器用に畳の上に並べて飾ってあった。 戦時下でしかも二回も転宅した後で、五月人形を飾る雰囲気なんか無かったの で予想もしてない出来事に驚いたのだった。 「祖母ちゃんは、いつも僕を叱ってばかりいて、僕を憎んでいるとばかり思っ ていたが、祖母ちゃんは僕を愛してくれていて、僕の節句を祝う為飾ってくれた のだな。 」とその瞬間悟った。 平時なら何でもない五月人形を飾るという単純な行為の中に、祖母の愛情を身 - 57 - に沁みて実感したのである。 祖母の優しい心、思いやりを読み取った私は「今迄の自分は東京での高級将校 の子の生活を引きずって、農村の少年になりきっていなかった。これからは農村 の少年になりきって祖母を助け家族の為に働くぞ。 祖母の言うことは何でもする。 もう嫌がらない。愚図愚図しない。自分で進んで何でもする。 」と心を入れ替 えて決心した。 禅でいうところの「我」を一枚剥ぎ落としたのである。 子供の教育には厳しさが必要である。しかし厳しさには裏打ちされた宗教観や 道徳観があり且つ愛情がなければならない。 厳しさの中にある愛情に気がつかないと子供は良くならない。私は祖母の厳し さの中にある愛情をこの時感じ取って、生まれ変わったのである。 その日畑で祖母と一緒に作業している時、 祖母が畑の中の小石を集めていたが、 これを捨てたいなと思ったまさにその時、祖母の心のうちを察した私が祖母の足 許に、この地方で「えびしょうけ」と呼ばれる竹製の手もっこをサツと差し出し た。 その時祖母の手がピタリと止まった。ジッと上から私を見つめているのが分か った。この数秒間の静寂は私にとって永遠に忘れられない黄金の数秒間だった。 私は無言の動作で「これから心を入れ替えて一生懸命働くよ」と示し、祖母も又 無言で「お前、一皮むけたな、よし」と以心伝心でお互いの心が通い合った至福 の数秒間だった。 この時、私は祖母から無言のうちに免許皆伝を貰ったと信じている。 おおげさにいうと、霊山会上の【拈華微笑】の場でお釈迦様と弟子の迦葉尊者 とが無言のうちに心を通じ合ったように、祖母と私の間に固い何かがつながった のである。 その日以来祖母は私に対しプッツリと小言を言わなくなった。祖母は昔の人だ から面と向かって褒めることは決してしない。蔭では褒めていたらしい。禅の世 - 58 - 界では褒める代わりにボロクソにいうケースがあるらしいが、それに似たものか もしれない。 祖母の愛情に目覚めた私が改めて自分の置かれている環境を考えて見ると、力 仕事の出来る働き手がいないこの家では、中学生の自分が力仕事をしなければ南 瓜も野菜もできない。水も飲めない。お湯も沸かせない。ご飯も炊けない。一家 の生活が成り立たない。 一家の生活を支えるのは自分しかないという意識に私は猛然と目覚めた。中学 1年の少年ながら【乾坤只一人】と立ち上がったのである。 田舎には水道がない。井本さんという家の井戸からバケツ2杯ずつ水を汲んで 天秤棒に振り分けて、水瓶が一杯になるまで何回も往復する。 中学生になって体格が良くなると、水でも肥やしでも担い棒の前後に吊るして 運ぶことができるようになった。それが嬉しくて嬉しくて仕方なかった。家の前 50 メートルのところに軽便の耶馬溪鉄道が通っていて、私が肥えたごをかついで 畑に肥やしを運ぶ頃、親友の小西さんが汽車に乗って通りかかる。私は重い肥え たご一荷(二桶の意)を軽々荷なったこの晴れ姿を、見てくれとばかりに汽車に 手を振る。小西さんも汽車のデッキから手を振って答える。小西さんも上海から 全財産を失って帰国し、私と同じ境遇で分かりあえる仲だったのでこのやりとり が楽しかった。 たきもの ざつのう 山に焚物を取りに行くのも私の仕事だった。中学から帰ると雑嚢をポーンと家 に放り込むと、すぐ厚鎌と両先端の尖った棒の「負う子」と呼ばれる荷ない棒を 持って山に向かう。当時は靴なんてシャレタものはなく、通学にも地下足袋を履 いていたのでそのまま山に行けた。 昼明るい間に学校の勉強することなどとてもできる時代ではなかった。 途中矢竹を四本厚鎌で切り取り山に着く。山はシーンとして静まりかえり山特 有のにおいがする。静寂の中動いているのは私一人。先ず矢竹を先端まで綺麗に 割る。これにはコツがあり、そのコツを知らねば竹を先端まで割ることはできな い。 割った竹は先端を結んで土の上に置き焚きつけになる杉の枝、柴を集めてその - 59 - 上に置き竹で括る。藁縄は摩擦が強くて締まらないから使わない。竹は滑るので 良く締まる。柴の束を二つ作るとこれに棒の「負う子」を突き刺し前後の荷とし て担い、山を駆け下りる。耶馬溪の山道は水の通り道なので土はなく石ばかり、 歩くことができないから、その石の上を跳ぶが如く駆け下りるのだった。 生の割れ木を運ぶ時は二宮金次郎のような背中に負う形の 「負う子」 を用いた。 生の木は重く肩に食い込む。途中何箇所か休憩地点を定めてそこまで必死の思 いで運ぶ。二宮金次郎のように本を読みながら運ぶ余裕なんか無い。真似して英 単語を覚えながら運ぼうとしてみたが、肩の痛みでそれどころでは無かった。二 宮金次郎の銅像は働きながら勉強したことを示す為にあのような姿に作ったもの で、金次郎も実際にはあのような姿では勉強してないと思う。 こうして運んだ水や燃料、畑で育てた南瓜や野菜のお蔭で一家の生活が支えら れている現実を見ると、毎日の重労働が楽しくて楽しくて仕方なかった。 ひ弱な青瓢箪だった私が、ガッシリした身体になったのもこの少年時代の労働 のお蔭である。 一家離散の憂き目に会い、祖母の小言の嵐にさらされながら畑仕事をしたのが 禍なら、農村の少年に成りきって得られたこの喜びは間違いなく福だった。何事 も 「我」 を捨ててその環境に応じた積極的な姿になりきらなければ壁は破れない。 なりきったお蔭で「禍福はあざなえる縄の如し」と禅でいう【煩悩即菩提】を 実地に体験した少年時代の思い出である。 3.フォアマンの生きざま 世にも珍しいどん底から見事な再生をとげ、 「人間万事塞翁が馬」 「禍福はあざ なえる縄の如し」の典型として是非伝えたい人物がいる。 それはボクサーで象をも倒すといわれた強打の持ち主、元ヘビー級チャンピオ ン、ジヨージ・フォアマンである。 15 年以上も前、テレビで NHK スペシャル『奪還』と言うのを見た。ノンフイ クション作家沢木耕太郎の台本で放映されたジョージ・フォアマンの物語だった のだが、その内容に感激して沢木耕太郎の著書を探したが、いくら探しても本が - 60 - 見つからない。ないはずである。後で分かったことだがまだ本になっていなかっ た。ところが全く偶然に本屋でスポーツ雑誌『スポーツグラフィックナンバー拳 の記憶』の表紙に寄稿沢木耕太郎とあるのを見つけ、ページをくって多年探して いたジヨージ・フォアマンの物語を発見した。執念が実ったとでもいうことだろ うか大いに歓喜した。放映の台本に手を入れて初めて文章化したのだという。探 してもなかったはずである。 何故それほどまで熱心に探したのかというと、ジョージ・フォアマンは禅で言 うところの見性をし、あのいかつい体、強打のボクサーの前歴から想像もできな いキリスト教の宣教師になったからである。そればかりではない。マホメッド・ アリとの世紀の一戦に敗れ、ヘビー級チャンピオンの座から滑り落ちてから 20 年目に、45 歳というボクサーとしての超高齢の身で、ヘビー級チャンピオンに返 り咲いたからである。沢木耕太郎の『奪還』の中の事実を材料に私なりにフォア マンの生きざまを、沢木耕太郎の文章を援用しながら描いてみることとする。 1974 年、時のヘビー級チャンピオン、ジョージ・フォアマンとモハメッド・ア リとの王座を賭けての対戦が行われた。 アリはヘビー級には似合わない華麗なフットワークと、ヘビー級最速といわれ るスピードの左のパンチで有名なボクサーであった。 彼は〈蝶のように舞い、蜂のように刺す〉の名文句通りアウトボクシングに徹 して勝利を重ねた。別名ホラ吹きクレイとも言われるほど強烈な自己主張と、黒 人差別に対する怒りをリングの上から怒鳴ることでも知られていた。 1964 年、不敗の男ソニー・リストンを破ってヘビー級チャンピオンになるが、 ベトナム戦争を批判し、徴兵を拒否した為、無敗のままチャンピオンの王座を剥 奪される悲運にあった。彼には自らの信念の為なら王座をも捨てる偉大さがあっ た。 4年後世論の応援を受け、再びリングに上がることができるようになりチャン ピオンに挑戦するが、4年のブランクは大きく、一度失ったタイトルを取り返す ことはなかなかできなかった。 - 61 - 一方ジョージ・フォアマンはアリより7歳年下で 19 歳の時、メキシコオリン ピックの金メダルを得るとプロに転向し、象をも倒すと言われる強打に物をいわ せ、37 勝無敗 34KO と言う大記録を打ち立てた。そして機関車と仇名された時の チャンピオン、ジョー・フレイザーに挑戦し2ラウンドでフレイザーをキャンパ スに沈めた。 この強打の若いチャンピオン、フォアマンと華麗なフットワークと強い自己主 張で人気の高い元チャンピオン、アリと戦わせればすごい興行になると考えた人 達がいて、フォアマンとアリの試合が 1974 年に行われることになった。 試合は日本でもテレビで放映され、格闘技大好きで相撲・柔道・剣道・合気道 と格闘技の遍歴を重ねる私は、食い入るようにテレビの画面を見続けた。今日で はインターネットの動画映像でその一部分を見ることが出来る 4年のブランクがあり既に盛りを過ぎたと見られるアリは、 若い時のように 〈蝶 のように舞う〉ことをせずしばしばロープを背にした。 フォアマンは渾身の力をこめた強烈なパンチでアリのボデイや顔面を攻撃した。 しかしアリは予め練りに練った防御に徹する作戦通りあまり反撃せず、長い両 腕でボデイと顔面を巧みにカバーし、あるいはクリンチに逃れ、フォアマンの猛 攻を必死に堪えた。 第8ラウンド、強いパンチの連打で疲れの見えたフォアマンの一瞬の隙を衝い て、防御一辺倒だったアリが突如攻勢に転じ、5発の高速パンチをフォアマンに 浴びせた。 終始攻勢で断然有利と見られたフォアマンが、このパンチに何と空中を泳ぐよ うな姿勢でキャンパスに沈んだ。 それは信じられないような光景で、開催地の名を取って「キンシャサの奇蹟」 としていまに伝えられている。 この世紀の一戦でタイトルを失ったフォアマンは、人間的にすさんでボロボロ になったという。そして「アリに負けた元チャンピオン」という厭なレッテルを 20 年間負い続けることになった。 アリに敗れてから2年半後、フォアマンは王座のアリに挑戦する資格を得る為 - 62 - ジミー・ヤングというボクサーと対戦した。 沢木耕太郎によると【その日は異常に暑く、満員の会場は熱気でむせ返るよう だったという。フォアマンは自分にスタミナがないという世評を打ち崩すため、 12 ラウンドをフルに闘い抜くことを決意する。フォアマンは一方的に攻めまくり、 中盤には明らかにノックアウトできる場面が訪れるが、わざと決定的なパンチを たたき込むことを控え、試合を後半にもっていくことに成功する。 ところが暑さが予想した以上にフォアマンの体力を奪っていた。終盤に入って みるみるスタミナを失ったフォアマンにヤングが逆襲してきた。最終ラウンドに はダウンまで奪われ、結果は判定で敗れるという大番狂わせになった。 フォアマンにとって試合の敗北よりはるかに重要なことが起きたのは、試合後 の控室においてだった。脱水症状を起こし、朦朧となって横たわっていた彼が不 意に叫び出した。 その時彼に何が起こっていたのか。フォアマンによればそこで彼は「神」に出 会ったのだという。 フォアマン「試合後、私は控室で息も絶え絶えになって横たわっていた。その 時一瞬自分が死んで、また生き返る姿を見たんだ。 キリストの血が横たわっている私の顔にも手にもついていた。 私はイエスが私の中で生き返ったと叫び出していた。それは実に衝撃的な体験 だった。私は宗教などまったく信じていなかったし、貧乏人が信じる世迷い言く らいにしか思っていなかった。 だがプエルトリコを発つ時、私はまったく新しい人間になっていた。 私に何かが起きたのだ。しかし、私の死、私が死んで生き返ったということを、 どう人に説明すればよいのかわからなかった。そこで私はこの体験を、ひとり、 またひとりと話していくことから始めたんだ。気がつくと、私は教会の中に居場 所を見つけていた。 」 フォアマンがボクシングをやめ、信仰の道に入ったのはそれからほどなくだっ た。 】 - 63 - 禅では「本当の自分」に出会うことを「見性」という。キリスト教では「神に 出会う」とか「回心」とか表現する。宗教学者は変革体験とか神秘体験とか言う。 『禅』誌 32 号にはフォアマンのケースに良く似た見性の事例を熊本文琇居士 が書かれていて面白い。 見性、回心の大きな感動は自律神経に衝撃を与え、内臓が本人の意思に関係な く異様に収縮し、それに伴う何らかの肉体的反応が起こり、思わず大きな叫び声 が出ることがある。フォアマンが発した大声はまさにそれだったに違いない。 『禅』誌 37 号に竜穏庵井本光蓮老居士が『禅とキリスト教』に書かれている 聖書の一節【私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのはもはや私 ではない。キリストが私のうちに生きていられるのである。 (ガラテヤ書、2) 】 を体験したに違いない。これはまさに禅でいうところの見性である。 フォアマンは彼自身の告白にあるようにキリスト教を殆ど信じていなかったし、 教会の牧師のお説教など馬耳東風だったが、子供の頃教会で聞いたキリストの話 がアリに敗れた後の苦悩に結びついて、突然深い記憶の底からよみがえり、彼の 体の中にキリストが復活し、キリストがわが身の中に生きていると感じるに至っ たものと思われる。 美智子皇后陛下の愛読書として知られる神谷美恵子の『生きがいについて』の 中に次のような文章がある。 【ひとたび生きがいを失った人が、 新しい生きがいを精神の世界に見出す場合、 心の世界のくみかえが多少とも必然的におこる。 このくみかえはごくゆっくりと本人にも気ずかれないうちに少しずつ行われて 行く場合もあるが、本人も驚くほど突然に、急激に生じることもある。急激にお こる場合には、異常ともいえる様相をおびることがあるので、以前から心理学者・ 宗教学者・精神病理学者の注意を惹き、多くの研究が行われて来た。なかでも宗 教的関連においてよくみられる現象なので回心とか悟りとか呼ばれ、またもっと 広い概念としては神秘体験ということばで総称されて来た。 】 - 64 - 神谷美恵子はこのような現象を変革体験と総称しているが、この変革体験の特 徴を宗教学者岸本英夫が次のようにいっていると紹介している。 1.特異的な直観性 2.実体感、すなわち無限の大きさと力とを持った何者かと直接触れたとで も形容すべき意識。 3.歓喜高揚感 4.表現の困難 この四つが諸宗教を通じてみられる変革体験の共通特徴である。 又彼女はこれに加え変革体験にはしばしば光の体験を伴うとも言っている。仏 像や神像に光背や頭上に光の形やリングがあるのも、この体験に基づいていると 思われる。 この変革体験、見性はフォアマンの人間を変えた。彼は生まれ代わった。彼は その時得た啓示を元に分かり易い民衆の言葉でキリストの教えを語りはじめた。 そして宣教師となる勉強もしたのだろう、いつしか彼はキリスト教の宣教師に なっていた。 彼の教会にはキリストの像も十字架もない。ただ聖書だけをよりどころとして 彼は説教しているのだという。 それにしても何と言う見事な変身だろう。根が純真だから生まれ変われたのだ ろう。これほど見事な例は滅多にない。私はこれにビックリしてしまったのであ る。 フォアマンには更に驚くことが続く。引退後 10 年たったフォアマンがある日 突然カムバックを宣言した。その理由は沢木耕太郎によればこうである。 【フォアマン「長い話になるけど、簡単に言おう。M, O, N, E, Y――金のためさ」 なんのために金が必要だったのか。 フォアマン「ユースセンターの募金のために講演をしに行った時のことだ。聴 衆の精一杯の寄付に対し主催者がもっと出せと言ったんだ。 私は恥ずかしくなり、 - 65 - こんなことは二度とやるまいと思った。金の稼ぎ方なら知っている。チャンピオ ンになればいいんだ」 】 彼はかって金を沢山得たことがあった。チャンピオンだったからだと思い出し たのである。そして金を集める為自分の為ではない、キリスト教の教えに従い、 福祉施設を作るために彼は立ち上がったのである。 42 歳の時、チャンピオン、イブエンダー・ポリフイールドに挑戦し判定で敗れ はしたものの、その善戦振りは世人の賞賛を呼び大変な人気を得た。その結果巨 額のフアイトマネーを手にしたが、かれはここでストップしなかった。 アリに敗れてから 20 年、常識的にはボクサーの戦える年齢をはるかに超えた 45 歳という超高齢のフォアマンが、今度はポリフイードルを倒した若きチャンピ オン、マイケル・モーラーに挑戦した。 20 年の空白、45 歳の超高齢でチャンピオンに挑むとは正気の沙汰ではない。 しかしフォアマンの決意は固かった。 モーラーは身体は小さかったが動きが鋭く、 右のパンチが素晴らしく早かった。 45 歳のフォアマンにはとても勝ち目がないというのが一般の世評だった。 スピードの速い若いモーラーに対し、フォアマンが取った作戦は驚く勿れ、か のアリが 20 年前、若かったフォアマンに対し取った作戦と全く同じだった。 彼は秘密裡にラウウンド毎に相手を交代させるスパーリングで、一発も打ち返 すことなく、防御に徹する方法を練習し続けた。 そしてデブデブに緩んだ 45 歳の肉体を徹底的に絞ぼり込み、引き締まったボ クサーらしい肉体に作り変えた。 そればかりではない、彼は柔和な面のある宣教師兼ボクサーから、戦いに専念 するボクサーになりきる、心の切り換えも行っていた。 沢木耕太郎によれば、試合の模様は次のようだった。 【試合はモーラー優位のうちに回を重ねていった。モーラーは徹底してフォア - 66 - マンの顔面を狙い、さらに相手の左に回ることでフォアマンの右を封じていた。 中盤に入るとモーラーの速い右がビシビシ決まるようになった。 フォアマンも徹底した防御にまわるという戦略を捨て、パンチを振るって応戦 するが、じりじりとポイントを失っていった。 しだいにフォアマンの顔が赤く腫れ上がり、瞼が重く垂れ下がってきた。 (中略) フォアマンは打たれても打たれても立ち続けていた。 しかし、このまま判定に持ち込まれてしまえばフォアマンに勝ち目はなかった。 フォアマンはついにアリに敗れた元チャンピオンとしてボクシング人生を終える ことになるのだろうか――。 (中略) 第 10 ラウンドもそれまでのラウンドと同じように始まった。 だが、1分半が過ぎたとき信じられないことが起きた。 フォアマンはモーラーの右のストレートを左の腕でかわすと、軽く左と右をヒ ットさせた。まさにそれは軽くという印象だった。 ところが、その時モーラーの足がふっと止まったのだ。あるいは見た目以上に ダメージがあったのかもしれない。 フォアマンの巨体から繰り出されるパンチは、 かっては象をも倒すとさえ言われたほどの威力を持つものだった。 いくら老いたといっても、フォアマンにその巨体が健在な限り、パンチの威力 がそう減るはずはなかったのかもしれない。足の止まったモーラーの顔面にフォ アマンの左右のショート、ストレートが鋭く放たれた。 ほんの一瞬のことだった。フォアマンの左がヒットすると、それまで堅牢なガ ードの役を果たしていたモーラーの両腕がすっと開いた。 その隙をついてフォアマンは真っすぐに右を打ち込んだ。その右が私にフック のように見えたのは、あまりにも完璧にモーラーの顎を打ち抜いたために、ほと んどフックを振りぬいたのと同じに見えたのだ。 モーラーはその一発で、ゆっくりと仰向けになって倒れていった。 】 この時のフォアマンの顔はボクサーになりきった猛獣のようなスゴイ顔だった という。 - 67 - 20 年の空白、45 歳の超高齢を克服してチャンピオンに返り咲いたフォアマン の生きざまには頭が下がる。 これにより 20 年間負い続けた「アリに敗れた元チャンピオン」のレッテルは ふっとび、キリスト教の為のマネー作りも成功した。 くじ そればかりではない、これが一番大事なことだが、世界中で挫けそうになって いる人や、挫けてしまった人達に大きな勇気と宗教心を与えることになった。 フォアマンがアリに敗れたのは彼にとっては禍だった。その禍あるがゆえに彼 は「神に出会う」変革体験、見性をし世のため人のために尽くす宣教師に変身す ることができた。そして又それ故に 20 年の空白、45 歳の超高齢を克服してヘビ ー級チャンピオンに返り咲き、キリスト教布教の為の金を叩き出した。 これを福と言わずして何と言う。 「禍福はあざなえる縄の如し」 「人間万事塞翁が馬」の教訓を示す壮大な人間劇 と思わざるを得ない。 4.沢庵和尚の「夢」 この稿のはじめに沢庵和尚の書かれた「人間万事塞翁が馬」の掛け軸の話をし たが、沢庵和尚にとってこの言葉は座右の銘にも似た感銘の深いものだったので はないだろうか。事実沢庵の一生は浮沈、変転の激しいものがあった。沢庵は師 の董甫宗忠の縁で石田三成と親交があり、関が原の戦いの時は三成の居城佐和山 城にいて、城が落ちる時脱出して生き延びている。その後大徳寺の住持に出世し たが、三日で大徳寺を去り堺の南宗寺に帰った。名利がとことん嫌いだったから と言われている。 江戸幕府が成立すると2代将軍秀忠は朝廷の有力寺院に対する権限を弱める為、 禁中並公家諸法度を定めた。1627 年、後水尾天皇が幕府に諮ることなく、大徳寺・ 妙心寺の住職に紫衣着用の勅許をしたことを咎め、京都所司代に紫衣取り上げを 命じた。所謂紫衣事件である。 沢庵はこれに対し他の僧と共に断然反対運動を行ったが、その結果秀忠により 出羽の国上山藩に流罪される目にあった。 - 68 - その後、秀忠の死により許されるが、皮肉なことに秀忠の子三代将軍家光の厚 い帰依を受けることになる。家光は沢庵に惚れ込み、彼を江戸に招き彼の為東海 寺を創建するほどの厚遇をし、しばしば意見を聞いたという。 宮本武蔵との関係は、作家吉川英治の創作で事実ではないが、将軍家指南番柳 生新陰流柳生宗矩からも厚い帰依を受けたのは事実で、沢庵は彼の為、武道の極 意を『不動智神妙録』にあらわし、 「剣禅一致」を説いた。 沢庵は死に臨んで遺偈(宗教的な意味のある遺言)を残そうとしなかった。一 般に禅僧は死に臨んで何らかの悟りの言葉を残すならわしがあったので、弟子達 は是非とも辞世の偈をとねだった。すると沢庵は止む無く「夢」の一字を書いて、 その筆をポーンと投げ捨ててそのまま亡くなったという。 近頃茶道関係者の法事の際、夢の軸が掛けられるのはこの故事に由来するとい う。 この夢の一字には沢庵 70 年のお悟りのすべてが含まれていて、私如きがあれ これいってはならないと思うが、彼の浮沈激しい人生からこの中に「人間万事塞 翁が馬」だから禍福にとらわれず、如是、如是と生きて行けよという教えが入っ ている気がしてならない。 浅い境涯を省みず敢えて拙文を草したのはこの為である。 合掌 引用文献 神谷美恵子著 『生きがいについて』 みすず書房 (神谷美恵子著作集1) 沢木耕太郎著 『奪還』 文芸春秋社 (スポーツグラヒック、ナンバープラス 拳の記憶) (創刊30周年記念ボクシング完全読本) ■著者プロフィール 笹良風操(本名/照二) 昭和 7 年生れ、京都大学経済学部卒、元会社員。明治鍼灸柔整 専門学校卒、鍼灸師。武道十二段(柔3剣4合気5) 。昭和 52 年、人間禅松崎廓山老師に入門。現在、人間禅布教師。軒号/ 仁空軒。 - 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