音楽・伝統芸能のアーカイブ - 九州大学|芸術工学研究院・芸術工学府

音楽・伝統芸能のアーカイブ
九州大学感性融合デザインセンター コンテンツ創成科学部門
芸術工学研究院コンテンツ・クリエーティブデザイン部門
准教授 矢向正人
本来の専門領域は音楽学であるが,歌舞伎を中心とす
青柳譜・佐吉譜・東吉郎譜などの楽譜情報を同一曲につ
る伝統芸能も研究対象としている.記譜法の研究,音楽デ
いてそれぞれ入力した.対応するアプリケーションとして,
ータベースの研究,伝統芸能のコンテンツ研究,音楽美学
データを入力・編集するソフト,標準MIDIやFinaleなどとの
の研究,情報科学の方法を用いた音楽研究に実績がある.
変換ソフトなどを研究室で開発した.中でも,三線の楽譜で
研究のスタンスは,(1) 日本及びアジアの伝統的な音楽芸
あり沖縄で使用頻度が高い工工四(くんくんしい)に対応
能を主たる研究対象とし資料批判及びデータの収集を体
するアプリケーションは,ユーザから高い評価を受けてお
系的な方法で行なうこと,(2) 新しい科学技術の方法を積
り,複数の大学で使用が検討されている.現在は,琵琶・尺
極的に用いること,(3) 研究結果を西洋をはじめとする他
八の楽譜・中国の古琴の楽譜のためのXMLデータベー
の文化圏の音楽芸能の構造および美学と比較しあるいは
ス・システムの開発を進めている.ネットワーク上にXMLに
統合を図ることである.以上のスタンスにもとづき,大学院
よる伝統音楽のデータベースが構築されれば,家元や一
では,アジアの音楽と伝統芸能を体系的に講義しそれを
握りの伝承者のみが保持していた楽譜情報を研究者と演
新しい方法で研究する実習を行ってきた.平成 20 年度か
奏家のユーザが共有することが可能となり,従来の音楽研
らは,「音楽情報特論」を「音楽・伝統芸能コンテンツ特論」
究の方法と情報科学の方法との融合を促す新たな研究領
に改名し,歌舞伎を中心とした伝統芸能の基礎知識との習
域が形成されることが期待できる.
得と,モーション・キャプチャや CG を用いた研究の実践に
なお,近年では,検索条件のかけ方によりデータを動的
重点をおいて教育を行なっている.他方,歌舞伎舞踊をア
に変化させる動的なデータベース・システムの開発が急
ジア的視点で捉えるため韓国在住の舞踊家との連携を積
がれている.この動向にも対応するため,データベースか
極的に図っている.また,これらの研究経験を生かし,地元
らの旋律パターンの分類を,条件の組み替えにより変化さ
楽器店をとおしての伝統音楽の普及活動にも携わってい
せる分析手法を考案した.この応用研究として,楽譜の構造
る.研究にも教育にも,こうして人文的な研究方法と工学的
が了解されていない未解読楽譜の情報をXMLデータとし
な研究方法との融合を試みている.これまでの研究は大き
て入力し,動的に編集し視覚表示するためのソフトの開発
く(a) (f)の 6 領域に分類できる.
を行なった.関連研究として,江戸時代に使用された長唄と
(a)伝統的な楽譜情報のデータベース・システムの研究
浄瑠璃の正本を収集し,正本テキスト中に書き込まれた文
1993年より,三味線曲の全レパートリーのデータベース
字記号が持つ楽譜情報を解読する研究も行った.これらの
化を目標に独自のデータ形式による長唄譜のデータベ
研究に対応するデータ形式の策定は,スタンフォード大学
ースの制作を行なってきた.1999年には,五線譜法対応の
CCARHで進められている音楽データベース・プロジェク
MusicXMLの規格が公開されるのとほぼ並行して,日本の
トと協力関係にある.
伝統的な楽譜のためのXMLデータ形式を策定し,以後,こ
(b) モーション・キャプチャを用いた伝統舞踊の研究
の分野の研究を担ってきた.これまでに三味線曲の主要
2002 年より,歌舞伎舞踊の身体動作を光学式モーショ
な種目である長唄・新内節・清元節・常磐津節・荻江節・宮
ン・キャプチャを用いて映像化し分析に援用する研究を
薗節・端唄・沖縄の三線(さんしん)曲の楽曲情報と音符情
行っている.収録した歌舞伎舞踊のデータのスケルトン・
報のデータベースを制作した.たとえば,長唄譜の入力で
ジョイントに基づいて CG モデルを作成した結果,歌舞伎
は,各流派に伝わる楽譜である三味線文化譜・研精会譜・
の特徴的動作である振りなどの動作構造が認識され,モ
ーション・キャプチャが歌舞伎舞踊の研究に有効であるこ
とがわかった.現在は,見得にもとづく静止的振りの身体動
定性への対処の方法を示しながら,音楽の価値生成の仕
作の分析と映像化,データベース化に向けて研究を行な
組みを一般的に記述しうる理論モデルを作った.このモデ
っている.大学院の演習では,これらのデータに根拠を与
ルにより,音楽に美が認知されない社会の音楽から西洋
える基礎研究として,《京鹿子娘道成寺》の振りをとりあげ,
の調性音楽を経て 20 世紀の現代音楽やポピュラー音楽
収録したモーション・キャプチャのデータをもとに,坂東玉
に至るまでの価値生成の仕組みが連続的に認識され,音
三郎,中村福助,中村勘三郎のデータと比較する分析を行
楽をめぐる多様な言説の仕組みを一般的に認識できる.
なった.この他,《仮名手本忠臣蔵》七段目,《義経千本桜》
研究を進めていく中で,このモデルを芸術全般の価値生
四段目を題材に,演技の時代考証と比較分析も行なって
成の仕組みを記述する理論にまで展開しうる見通しが得
いる.他方,香川県琴平町の金丸座,飯塚市の嘉穂劇場,山
られたので,この数年は,モデルを舞踊や演劇に拡張する
鹿市の八千代座などの歌舞伎劇場の歴史と舞台機構を
試みに取り組んでいる.日本の侘-寂や韓国の恨など音楽
調査し,CG の作成を進めている.成果は劇場に還元し地
に限定されない伝統芸能の美学言説,西洋 18 19 世紀
域への貢献を図っていく予定である.他方,韓国の仮面劇
の美的カテゴリー論に関わる言説,20 世紀後半の脱カテ
とパンソリの身体動作,韓国の風流の打楽器の身体動作
ゴリーを特徴とする芸術の美学言説,さらにはメディアアー
についてもモーション・キャプチャによるデータを収録し
トなども射程に入れ,より包摂的な美学理論への指針を呈
た.現在,これらと歌舞伎舞踊の動作との比較研究を行なっ
していきたいと考えている.ライフワークとなる研究である.
ている.
(e) 西洋音楽理論のアジアの音楽への適用の研究
(c) 三味線曲の分析をとおした日本の伝統音楽の研究
西洋の調性的機能化と独立に日本の近世の音楽の中
1990 年代の始めより,三味線譜のデータベース化と並行
に形成されつつあった旋律構造と拍節構造の機能化に
して,工学的な分析と従来の音楽学の分析手法とを融合さ
ついて.理論モデルを作成した.後続する研究として,西
せた音楽研究を行い,斯界を牽引してきた.長唄について
洋の調性音楽を対象とする理論と,非西洋の調性でない
は,三味線と唄の旋律の間の取り方の分析,三味線と唄の
音楽を対象とする理論とを融合させた,動的な音楽理論の
旋律パターンおよびリズムパターンの抽出と分類,三味線
展開をめざしている.平成9年以後は,調性音楽を対象とし
の特殊奏法とその認知の分析,三味線の旋律のシミュレー
たレアダールとジャッケンドフの GTTM,ナームアの暗意
ション,三味線の旋律の階層構造の分析などを行なった.
−実現モデルなどの日本の伝統音楽への適用の研究に
最近では,明治 36 年のガイスバーグ・レコーディング以後
取りかかった.また,リュウエとナティエの記号学の分析法
現在に至るまでの三味線曲の録音について,テンポ,アー
を,雅楽・声明・琵琶・尺八の楽曲分析と演奏分析に応用
ティキュレーション等の特徴抽出を波形解析により行い,
する研究も行った.これらと並行して,歌曲の楽譜を前にし
演奏を評価する研究を行なった.分析結果は積極的に演
たときの歌いにくさのような認知的制約と楽曲の旋律構造
奏家にフィードバックさせている.現在は,箏曲や尺八曲を
との関連性なども研究している.
も研究対象として比較研究に取り組んでいる.研究を拡張
し融合しながら日本の伝統音楽のための一般理論をめざ
している.また,これらの結果を踏まえた応用研究として,テ
ンポに揺らぎのない近年のポピュラー音楽との認知の比
較研究なども行っている.
(d) 音楽芸能の価値生成の研究
ヴィトゲンシュタインの後期哲学を音楽美学に援用する
ことにより,音楽の美をめぐる言説の確証不可能性と無規
(f) 日中韓の音楽交流史の研究
考古学の時代から 20 世紀に至るまでの日本・中国・韓
国の音楽交流史の研究に取り組んでいる.明清楽や朝鮮
通信使の資料研究を進めるかたわら,音楽考古学の調査
にも参加した.日本音楽の源流を探るため,雲南省納西族
の音楽の調査を行っている.