対独協力の観点から見た戦後フランスの政治と文化(早川) 対独協力の観点から見た 戦後フランスの政治と文化 早川 文敏 21 世紀 COE プログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形 成」とかかわる現代文学研究を試みる時、作品が読まれる社会の持つ政 治的背景が文学作品の評価にどのように影響してきたのかという歴史学 的・政治学的観点を文学研究に持ちこむことによって、新しい研究可能 性が開かれることがあると考えられる。本稿では第二次世界大戦直後の フランスにおける、政治および芸術をめぐる世論の推移を確認すること を目的とする。このようなテーマを設定するのは、このような確認をも とにすれば、40 年代後半から 50 年代にかけて生まれた作品、特に政治 的メッセージを強く訴えかける性質があると思われる L.-F. セリーヌな どの文学作品を、これまでにない形で評価できるのではないかというビ ジョンが立つからである。それゆえ以下の小論では、政治情勢、大衆の 政治的関心を強く反映していると考えられる映画、そして文学作品に見 られた傾向の三つを順に確かめながら、可能な限り戦後の文化受容の背 景をまとめてみたい。 1.政治情勢 1940 年に第二次世界大戦が始まり、一ヶ月程度の戦闘でフランスが ドイツに降伏した後、フランス国民の多くは新しく生まれたヴィシー政 府と国家元首ペタンの政策を支持した。その政策とは、対独協力を行う ことによって国内の荒廃を防ぐという方針に基づくものだった。時間が たつにつれ国内ではレジスタンス勢力とそれを鎮圧する国内軍の対立が 生まれていったが、やがて後にアメリカが参戦し、連合軍にとって戦局 が有利になると、政府閣僚を含め対独協力政策を主張する者の多くは国 外へ亡命するようになる。戦後は開戦当初と状況は逆転し、レジスタン スがフランスを解放したというレジスタンス神話が生まれ、対独協力者 307 らは厳しい粛清、弾圧を受ける。法的手続きを経て処刑された者は 1500 人程度とされているが、実際には 10000 人ほどが公にされること なく殺されたと言われる1)。当時の世論の主な流れがレジスタンスの礼 賛だったことは、多くの歴史家が述べるところであるとともに、愛国心 から生まれる感情を鑑みれば当然の状況と言えた。またサルトルが 1945 年に「実際に活動していたレジスタンスは、当然ある程度小規模 であったはずだという点は理解しておかなければならない。だが自らを 犠牲にした少数の者たち、希望もないまま自らの意志で犠牲となった者 たちは、我々[国民]の弱さを十分帳消しにしてくれるように思われる2)」 と語っているように、レジスタンス活動を行った者は多くはなかったが、 彼らに英雄という立場を与え、讃えることによって国民が自らの立場を 救うことができたという点も大きい。そしてこのように自力で国を守っ たと主張することは外国、特にイギリスやアメリカからの政治的介入を 防ぐという点でも、きわめて国益にかなう動きだった。 しかし 45 年から 50 年代にかけてのそのような背景の中でも、政治情 勢を詳しく見れば様々な変化があったことがわかる。特に 51 年には、 かつてペタン裁判で弁護人を務めたジャック・イゾルニが独立共和連盟 という右翼政治団体を結成し、以前ヴィシー政府閣僚だったロジェ・ ド・セーヴルやポール・エステブといった人物らとともに議席を獲得し ている3)。この年にはペタンが 95 歳で死去し、それをきっかけに第二次 世界大戦でフランス軍を指揮したヴェイガン将軍らの手によって「ペタ ン元帥の遺徳を守る会(ADMP : Association pour Défendre la Mémoire du Maréchal Pétain)」が作られた4)。ADMP が目指した目標は主に三 つあった。ペタン裁判をやり直すこと、ドゥオーモンの納骨施設に保管 されているペタンの遺灰をしかるべき場所に移すこと、そしてヴィシー 政府の国家革命政策を再評価することだ。歴史家のアンリ・ルソーによ ると、ADMP は規模が小さく、参加人数は 70000 人に過ぎなかったと いう。ただ同時に、この団体が掲げたイデオロギーは各方面に影響を与 えたとも述べている。1951 年はまた、同じように力を付けてきた右翼 団体などの努力によって、粛清期に逮捕、拘束されていた多くの対独協 力者が恩赦を勝ち取った年でもある。この年に作られた法律によって、 国家侮辱罪で 15 年以下の禁固刑に処せられていた 2000 人以上の者が恩 赦を受けた。また 53 年にも改めて大規模な恩赦が認められ、終戦直後 308 対独協力の観点から見た戦後フランスの政治と文化(早川) には 40000 人いた拘束者が 50 年代半ばには数十人にまで減っている5)。 では反対にかつてのレジスタンス陣営はどうだったか。ド・ゴール率い る政党 RPF(Rassemblement du Peuple Français)は、終戦直後 47 年の地方議員選挙で得票率の 40 パーセントを占めるほどの支持を受け、 51 年の国民議会選挙にはフランスの第一党となった。しかし 53 年には 急速に支持を失い、ド・ゴールは「砂漠の横断」(traversée de désert) と言われる低迷期に入ることになる。またアンリ・ルソーによると、ち ょうど 50 年代始めころから経済的な復興が実現し始めて国民の生活が 安定し、それによって政治にも変革が期待されなくなってきたという。 同時にインドシナ戦争、ベトナム戦争が敗北に終わり、あらたにアルジ ェリア戦争も始まろうとしている中、政治的な関心が過去の大戦におけ る戦争責任の反省というところから離れていったとも考えられる。この ように 50 年以降の政局を見ると、実際は終戦直後に比べて元レジスタ ンス陣営はやや影響力を失い、かつての対独協力陣営を許容する動きが 進んでいたと言えるだろう。 2.映 画 ロジェ・ニミエは 48 年の小説『剣』(L’Épée)で、「解放の翌日には、 新聞や映画が[フランス人の間に]強烈なレジスタンス意識を作ってい た。」6)と書いている。実際映画は終戦直後からも多く作られ、娯楽の 少ない時代の貴重な大衆芸術だったため、国民の思想や生活に大きな影 響を与えたはずだ。そのため政治情勢に関する国民全般の意識の推移を 知るためにも、当時どんな映画が作られ、受け入れられていたのかを見 てみるのも有効だろう。 1944 年から 86 年のおよそ 40 年間の間に、第二次世界大戦を背景と して作られた映画は 200 本ほどあった。占領生活を描いたもの、レジス タンスをテーマにしたものなど内容は様々だった。この数字は多いよう に見えるかもしれないが、実はそうでもない。フランスでは 4 年間の占 領期間中にも戦争そのものを描いた映画が作られ続けていたが、この同 じテーマで見るなら、戦後 40 年間に作られた映画の数はこの 4 年間に 作られたものより少なかったのだ。またこの 200 本という数は、外国で 制作され、フランス国内で上映された戦争映画の半分程度でしかないと いう。ただ少ないとは言っても、時期によって制作された映画の本数が 309 どのように移り変わっているか、そしてどんな内容の映画が作られてい たのかという大まかな傾向を追うと、興味深いことがわかる。 まず終戦直後の 45 年と 46 年の二年間で、第二次世界大戦を描いた映 画は 21 本上映された。戦争が終わった開放感を表現し、享受しようと する欲求が制作者側にも消費者側にもあったこと、また軍の提供した資 料映像から作られたドキュメンタリーも含んでいることを考えると当然 だろうが、この本数の多さは突出している。特に有名になったのは後に 『禁じられた遊び』 (Le jeux interdit)などの監督として知られることに なるルネ・クレマンの作品で、彼は 46 年に『鉄路の闘い』 (La Bataille du rail)と『静かな父』(Le Père tranquille)を発表している。『鉄路 の闘い』は実際にレジスタンス活動に参加していた素人俳優を使って制 作されたドキュメンタリー風の映画であり、『静かな父』はレジスタン ス活動に参加せねばならない平凡な一市民の苦しみを描いたものだっ た。クレマンの映画に関わらずこの時期に発表されたものはレジスタン スを題材にした映画がやはり多かった。 1947 年から 58 年になるとそのような状況は変わる。戦争をテーマに した映画は 46 年には 14 本も上映されたのに、47 年になると 2 本と大 きく減っている。58 年までに上映されたのは合計 30 本程度で、この 12 年間では年間平均上映本数が 3 本にも満たない。ただし内容に関しては、 時代の変化を感じさせる有名な二本の作品がこの時期に作られており、 この点は非常に興味深い。一つは 55 年に上映されたアラン・レネ監督 の『夜と霧』(Nuit et brouillard)である。戦時中のニュース映像など を編集して作られたドキュメンタリーで、ナチスによるユダヤ人ならび に政治犯の強制収容を描いたものだ。翌年にはフランス映画大賞を受賞 している。ナチスの犯罪を告発する映画だとされているが、フランス国 内に実在したユダヤ人収容所であるピティヴィエ収容施設の映像も使わ れており、そこでホロコーストに荷担しているフランス軍人の姿も映像 に残されていたという点を考慮すると、レネ監督の意図としてはナチス だけでなくヴィシー政府の罪を確認するというものもあったと考えられ る。しかしこの映画が正当に受け入れられるには時期が早すぎたとアン リ・ルソーは言う。問題の部分は検閲を受け、フランス軍人の映像に修 正が加えられることになったのだ7)。もう一つはクロード・オタン=ラ ラの 56 年の作品、『パリ横断』(Travesée de Paris)である。これはド 310 対独協力の観点から見た戦後フランスの政治と文化(早川) イツ占領下のパリで、豚肉を闇市へ運ぶ市民の姿を喜劇風に描いたもの だ。この映画に登場する市民はかつてのレジスタンス映画に見られたよ うな英雄ではなく、生きるために違法行為を働く、臆病で狡猾なありふ れた人間だった。この映画は戦時中のフランス人を描写する新しい現実 的な視点を提供することになり、レジスタンス神話に一石を投じた。40 年代終わりから 50 年代半ばでは、確かにまだヴィシー政府の行いや対 独協力そのものをテーマとした映画はなかったが、それでもクレマンの 『海の牙』 (Les Maudits)やアンリ=ジョルジュ・クルーゾの『情婦マノ ン』 (Manon)などいくつかの映画で、広い意味で「対独協力者」ととら えられる設定の人物がスクリーンに登場するようにはなっていた8)。こ のように 58 年までの時期の映画を見ると、終戦直後に多くあったレジ スタンス精神をたたえる風潮はいくらか薄れ、もちろん政治的な意味で の反省が直接行われたわけではないにせよ、戦争の現実を客観的に見よ うとする態度が広まったと言える。 3.文 学 一部の文学者の間でも、対独協力者を擁護しようとする動きはあった。 まず、ドイツと休戦条約を結んだことさえ恥ずべき行いだったと考えら れることが多かった 45 年という戦争直後の時期においても、アルフレ ッド・ファブル=リュスは、政治犯は法律で裁けないはずなのに対独協 力者粛清のために法が変えられている、世の大勢を占める意見に対して は自由に反論することさえ許されていないなどと訴え、ド・ゴールおよ びレジスタンス神話に一般の人々が流されすぎる風潮を批判している9)。 そして連合軍による空爆を批判して逮捕されていたクロード・ジャメ も、粛清裁判には正義の感覚が欠けている、レジスタンスと戦った国内 軍や LVF の者たちを処刑するべきではないなどの主張をし、世論の行 き過ぎに警鐘を鳴らしている 10)。このような対独協力の擁護はモーリ ス・バルデシュが 47 年に発表した『モーリアックへの手紙』(Lettre à François Mauriac)でもなされているし、雑誌の『レ・タン・モデル ヌ』でも、対独協力者は戦後考えられているよりも多く、みなそれぞれ の政治的信念に従って行動したのだという弁護の論戦が張られたりし た。対独協力者を公正な目で見ようとするこのような動きは決して一時 的なものではなく、52 年になってもジャン・ポーランが『レジスタン 311 ス指導者らへの手紙』(Lettre aux directeurs de la Résistance)におい て粛清裁判の行き過ぎを非難している。 対独協力者に対する認識を改めさせようとする思想的な活動以外に も、何人かの小説家がフィクション作品を通じて戦時の国内状況を描き、 歴史観の見直しを迫ってもいる。まず 1945 年ロジェ・ヴァイヤンが発 表した『奇妙な遊び』(Drôle de jeu)は、特に共産党系のレジスタンス を取り上げ、ドイツに抵抗して英雄になるか、ミリスなどフランス国内 軍に入ってレジスタンスと戦うようになるかは当人の意志の力で決まる のではなく、偶然によって決まるものだったという状況を描いている。 46 年に発表されたマルセル・エメの『小学生の小道』(Le Chemin des écoliers)でも同じような考えは見られる。この小説に出てくる少年は、 LVF に入隊してロシアと戦うのも悪くないが、両親の許可を得るのが 面倒だと言って諦めているからだ。ジャン・ジュネも 47 年の『葬儀』 (Pompes funèbres)で、ドイツの文化的な面における偉大さを無視せ ず、対独協力者たちの事情に理解を示しながら、戦時中個々のフランス 人が最終的にどんな立場をとるかを決めるときには、思想的原因は大き な影響を与えなかったと示している。同様の主張はジャン=ルイ・キュ ルティスやジャック・ペレの小説でも見られる。キュルティスの『夜の 森』(Les Forêts de la nuit, 1947) は戦時中の諸勢力が抱えていた矛盾を そのまま表現した作品で、レジスタンスの肯定されるべき面も照らしだ すと同時に、その暗い面も描いている。またペレが 51 年に発表した『愚 連隊』(Bande à part)も、南仏で活動したレジスタンス組織マキの内 情を描きながら、自分たちのようなレジスタンスも、敵対するミリスも、 ちょっとしたきっかけで立場が分かれただけで本質的な点では変わらな いと言っている。このように、レジスタンスの側につくか対独協力者と なるかという人々の判断は純粋にイデオロギー的な判断ではなかったと 主張しながら、対独協力者に対する抑圧とレジスタンス神話の隆盛に対 して異議を唱えるやり方は、40 年代後半から 50 年代にかけてよく見ら れた考え方だったようだ。また当然、かつて自身が対独協力派だった作 家たちもこの時期に沈黙していたわけではなかった。ポール・モランは 戦時中ドイツのプロパガンダに利用されるような小説を書き、ヴィシー 政府に重用され、ミリスの機関誌『コンバ』(Combats)にも記事を書 いていたが、51 年には『セビリアの鞭打苦行者』(Flagellant de 312 対独協力の観点から見た戦後フランスの政治と文化(早川) Séville)を著し、対独協力の弁護とレジスタンスの批判を行っている11)。 以上のような姿勢はもちろん文学の主流であったわけではないが、50 年代始め頃まで小説において、対独協力者を擁護するとは言わないまで も、彼らを顧み、レジスタンス神話を疑問視する動きが一部であったこ とは留意しておくべきだろう。 54 年にはジャン・デュトゥールのユーモア小説『上等なバター』(Au bon beurre)が発表されるが、この作品も時代の変化を表す指標だった と言える。これはある乳製品販売店を営む家族を描いた物語だが、その 内容は、この主人公たちが戦時中の配給物資を悪用して莫大な富を成し、 なおかつ戦争期の政治状況の変化によって自分たちの立場をいろいろと 変えながら、立派な愛国主義者として誤った称賛を受けるようにまでな るというものである。上記の小説がほぼ共通して、レジスタンスあるい は国内軍として戦争に参加する立場にある者たちの葛藤を描いていた (それが重いものであっても軽いものであっても、少なくとも歴史の証言 という意味では描かれる価値があったと言えるだろう)のに対し、これ は戦争に参加しなかった者たち、つまり戦後の多くの国民と同じ立場に ある一般市民の卑劣な実状を描いているという点で注目するべきだろう。 作者の意図したとおりコミカルな小説ではあるが、戦後の読者自身にと って非常にスキャンダラスな題材を扱っており、不謹慎だとして強い批 判もなされた。しかしまた、その一方で戦争期に現実に見られた人間の 姿を正直に描いているとして高く評価された。確かに戦争に関するタブ ーは人々の心に残っており、大勢としてはレジスタンスを肯定する価値 観は変わらなかったようだが、文学の状況をみると 50 年代前半までに限 っては、レジスタンスにも暗い面があり、対独協力も悪そのものとは言 えないと指摘することで、価値観の見直しを迫る動きはあったのだ 12)。 4.60 年代に向けて 以上に見てきた終戦直後から 50 年代終わり頃までの時期、これはち ょうど第四共和制期にあたるが、この時期にはヴィシー政府が統治した あの恥ずべき 4 年間を許そうとする傾向が政治的にも少しずつ生まれて きていたし、国民の関心も同様の傾向を持っていた。しかしこのような 状況は長くは続かなかった。第四共和制は時期的に国際政治におけるソ 連の台頭や植民地の独立戦争など対外的な多くの問題を抱えていたのに 313 加え、もともと議会に絶対的に権力を集中させて内閣の権限を弱くして いたため、13 年間に 21 の政権が交代するというきわめて不安定な政治 体制だった。国民の支持を得られなくなった第四共和制は 58 年に倒れ、 その反動で大統領と政府の権限を非常に強くした第五共和制が打ち立て られることになった。その初代大統領となったのがレジスタンスの象徴 ド・ゴールである。このフランスレジスタンスの第一人者が国家の最高 権力者に返り咲いたことによって、再びド・ゴール流の歴史観が正当化 される世相が生まれた。ド・ゴール自身も、まだレジスタンス神話が国 民に強くアピールする力を持ち、政治的信頼感を得るのに役立つもので あったことを十分知っていた。大統領就任後、6 月 18 日(1940 年のこ の日、ド・ゴールは BBC を通してフランス国民に初めて抗戦を呼びか けた)にはレジスタンスの聖地モン・ヴァレリアンで演説を行い、8 月 29 日にはパリ解放を記念する記念式典を行った 13)。さらに戦後の国家権 力者としてはきわめて珍しくヴィシーを訪れ、市民を慰めて過去の汚名 から解き放ち、またマキの本拠地であったモン・ムシェでかつてのレジ スタンスの闘士たちを讃えもした。フランスの解放はレジスタンスが勝 ち取ったものであり、ヴィシーは正当な存在ではなかった(44 年の “Vichy est nul et non avenu.”という言葉は有名)という歴史観は、64 年 にジャン・ムーランの遺灰をパンテオンに移送することで決定的に強ま った。レジスタンス全国評議会のリーダーで、ナチスの拷問を受け殺さ れたこの伝説的な人物は、政治レベルでの議論がなされるべきという要 求が繰り返されていたにもかかわらず、戦後あまり顧みられることはな かった。しかしフランス解放 20 周年であり、また当人の生誕 25 周年で もあるこの年に遺灰をパンテオンに移すことで、国民が持つレジスタン スの記憶を新たにしたのだ。この行事には盛大な軍事パレードがともな ったが、アンリ・ルソーによるとこれはレジスタンスのイデオロギー的、 政治的側面を隠すためであり、そしてレジスタンスの実際の闘いは多く の場合国内における同胞との戦闘だったにも関わらず、それが対外的な 軍事活動だったということを印象づける意味があったとしている 14)。 ド・ゴールの復帰は映画界にまで影響を与えたと言ってよい。第二次 世界大戦を題材にした映画は 50 年代には少なくなっていたと先に述べ た。特に 55 年から 58 年までの 4 年間での制作は一年に平均すれば 2 本 にも満たず、戦争への関心が低くなっていたことがわかる。しかしド・ 314 対独協力の観点から見た戦後フランスの政治と文化(早川) ゴールが政界に復帰した次の年、59 年からはその本数が急激に増えて いる。59 年から 62 年までの 4 年間では、年平均 8 本の映画が作られて いるのだ 15)。この数字から国民が急激に戦争に対する興味を強めたのが わかるが、これはド・ゴール復帰によって再びレジスタンスの記憶が強 まったこと、そして対外的な多くの問題を抱えていたフランスが強いフ ランスへと生まれ変わった第五共和制において、その記憶(正しい記憶 なのか、新しく作られた記憶なのかは定かでないが)が自分たちの存在 を肯定する役割を果たしたと考えられたからだろう。 また、文学界にも変化が表れている。1964 年、ペタン主義者だった 保守系小説家ジャック・ローランは、ド・ゴールの政治に賛意を唱える モーリアックに対して、『ド・ゴールの下のモーリアック』 (Mauriac sous De Gaulle)というパンフレットを書いた。これはド・ゴールの対 外政策およびモーリアックの態度を厳しく批判したものだ。しかし第五 共和制の風潮はペタン主義者には厳しかった。ローランは国家元首侮辱 罪に問われ、その本も検閲を受けて 20 ページほどが削除されたのだ 16)。 また対独協力作家とされていたポール・モランが、59 年にアカデミ ー・フランセーズ会員へ立候補した時の問題も知っておくべきだろう。 戦前から『夜開く』(Ouvert la nuit)などの有名な作品を多く著してい たにも関わらず彼はそれまでに二度落選しており、これは三度目の立候 補だった。しかし元ヴィシー政府外交官だった彼のアカデミー立候補を 知ったド・ゴールはこれに反対の意を表明し、結局モランは候補を取り やめなければならなくなった。彼が晴れてアカデミー会員になることが できたのは、ド・ゴールが政界を退く半年前の、1968 年だった。 結 論 終戦直後の 40 年代半ば、50 年代、60 年代をこうして比べると、レジ スタンス神話の否定的な再検討と、そして対独協力を肯定的にとは言わ ないまでも、客観的にとらえなおそうという動きは 50 年代に最も進ん でいたことがわかる17)。政治の場でもかつてのヴィシー政府関係者が政 界に復帰し、映画や文学でも戦争に対する自由な解釈が許される傾向が そのころには生まれていたのである。 今後の課題としては、戦争末期から対独協力の罪に問われながらも 50 年代に文学的復権を果たしたセリーヌなどの文学作品を分析し、以 315 上のような政治状況や世論の動きを作家がどのように見て、それを文学 的創作に影響させたのかを検討することにしたい。 注 1)L’état du monde en 1945, p. 40. また Vichy France, p. 383 でも、1600 人 が処刑され、8000 から 9000 人が闇で殺されたとされている。 2)Situation III, p.42. 3)Henry Rousso, Le syndrome de Vichy, p. 55. 4)Ibid., p. 58. 5)Ibid., p. 66-70. 6)La Mode rétro, p. 19. 7)フランス軍人の特徴であるケピという帽子が消されている。なおフラン ス国内にはピティヴィエだけでなくドランシーやボーヌ・ラ・ロランドな ど、フランス人が運営するいくつかの収容所があり、ヴィシー政府がユダ ヤ人のホロコーストに荷担したことは確かめられている。La Mode rétro, p. 25 参照。 8)Le syndrome de Vichy, p. 262. なお Manon は『マノン・レスコー』を 現代風に作り直したもので、マノンはドイツ兵相手の娼婦という役柄にな っている。 9)La Mode rétro, p. 14. 10)Ibid., p. 15. 11)Vichy France, p. 82 参照。 12)その他、対独協力者に理解を示す傾向を持っていた小説については、 Alan Morris, Collaboration and resistance reviewed を参照のこと。 13)Le syndrome de Vichy, p. 90.また休戦協定が結ばれた 5 月 8 日はそれま で祝日だったが、ド・ゴールは 5 月の第 2 日曜日を祝日に変更している。 これは連合軍全体がドイツに勝利した日であるため、連合軍の勝利の価値 を下げる、ひいては相対的にフランスのレジスタンスの価値を高める象徴 的な意味合いがあった。Ibid., p.89-90. 14)Ibid., p. 100-111. 15)Syndrôme de Vichy, p. 260. 特に映画の本数の推移を表すグラフは重要。 16)La Mode rétro, p. 33. 17)70 年代に入ると la mode rétro と呼ばれる回顧運動が起こって、レジス タンス神話の否定がさらに進む。映画『リュシアンの青春』などがきっか けとなった。 316 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