映画「AI」をめぐって - 石塚研究室

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映画「A.I.」をめぐって
映画「A.I.」をめぐって
XXX
キューブリックの「A.I.」が見
たかった
石塚 満(東京大学)
「2001 年宇宙の旅」のスタンリー・
いた.その後もエンタテイメントして
ックによるオリジナル脚本が明らかに
は楽しめたが,未来の AI の姿を垣間
なることがあれば,映像がなければ情
見られるのではないか,これによる未
報量は数分の1であるものの,脚本に
来社会の姿も垣間見られるのではない
現れる彼の考えは我々 AI 研究者の議
かという AI 研究者としての期待は,
論の格好の対象になるであろう.
残念ながら満たされなかった.
人間や人工的な知能,知性の姿に関
キューブリック(1999 年に 70 歳で死
秘密主義のキューブリックは何も明
心をもっていたキューブリックとは個
去)が晩年の 20 年以上も構想し脚本ま
らかにしていないが,確かにこのよう
性が異なるスピルバーグは,これを大
で書きながら,制作期間(制作費も?)
なことを意図し思考していたであろう.
衆向けのエンタテイメント作品とした.
がかかり過ぎることで断念し,当代随
そして,HAL 9000 の先の人工的な知
キューブリックは自分にはない才能を
一の人気映画監督スティーブン・スピ
能の姿だけでなく,
「時計じかけのオレ
スピルバーグに見出しており,この映
ルバーグが完成させた映画,しかもタ
ンジ」,遺作となってしまった「アイ
画は自分より彼の感性に合っていると
イトルは「A.I.」.キューブリックは
ズ・ワイド・シャット」に見られるよ
語っていたという.HAL 9000 の先の
1968 年の「2001 年宇宙の旅」の HAL
うな,人間の意識,精神の裏面も関連
人工的な知性の姿を具体化して示すの
9000 で AI コンピュータの姿を示した
した映像作品にすることに腐心してい
はやはりなかなか困難であり,エンタ
のだが,今日でも実現できていない機
たのであろう.
「アイズ・ワイド・シャ
テイメント性をメインにせざるを得な
能がある反面,当時予想あの大型コン
ット」は撮影に 2 年,編集に 1 年かか
いと考えたのであろうか.あるいは,
ピュータの姿は今日の現実と大きく異
ったと伝えられるが,前作からの 12 年
「E.T.」のようなスピルバーグのファン
なってきている.人間と機械の知性,
は長過ぎる.かなりの部分を「A.I.」
タジー性をもつ SF 感覚に期待したの
人間性の境界とその境界における緊張
の構想に費やしていたのであろう.
であろうか.
感を新たな姿でどのように描き出そう
1993 年の「ジュラシック・パーク」の
エンタテイメントとして一種異様で
としたのか? スピルバーグも 1977
CG,SFX 技術を見て,映画化の可能
あり一番楽しめたのはメカ部分が露出
年の「未知との遭遇」以来自ら脚本を
性が拓けたようだったが,結局スピル
した人間型ロボット達だった.このロ
書いた2本目の作品で,彼の集大成と
バーグに脚本やスケッチが引き継がれ,
ボットデザインは「ジュラシック・パ
なる作品という触れ込みであった.内
製作されることになった.今日の時点
ーク」で恐竜のデザイン,
「ターミネー
容はというとベールに包まれ,事前に
ではわからないが,いずれキューブリ
タ2」のロボットも担当したスタン・
は“愛をインプットされた人工知能の
少年”といったことくらいしかわから
なかった.試写会は世界で日本が最初
だった.6 月 18 日早朝の試写会で(制
作者以外では)世界で初めて見る一人
になる幸運に恵まれた.
年代設定は明らかにはされていない
が,地球温暖化により海面水位が上が
り,ニューヨークが水没したというの
で 2040 ∼ 50 年くらいであろうか.序
幕はサイバトロニクス社のホビィ博士
がロボット技術に大きなブレイクスル
ーがあり,人間的な意識をもつロボッ
ト技術ができたことを発表する場面で
ある.皮膚感覚をもつ美人女性が,実
は顔の内側はメカでドキッとさせられ,
その後の物語の展開に大きな期待を抱
写真 1 デイビット(中央)と人間型ロボット
2
人 工 知 能 学 会 誌 16 巻 5 号(2001 年 9 月)
ウィントンとのこと.今や CG,SFX
ルージュシティまで行かなければドク
どうかが大問題であろう.消し去るこ
技術の中心となっている ILM(インダ
タ・ノウに会えないというのは納得が
とができないという愛をインプットす
ストリアル・ライト・アンド・マジッ
いかない.ルージュシティも堕落した
るとき,ペットならともかく,真剣に
ク)社による視覚効果は確かなレベル
ラスベガスといった感じで,未来の香
悩まなかったのであろうか.あるいは,
のもので,この種の映画には欠かせな
りがしない.テディやドクタ・ノウは
不老のバイオ技術ができ人間も異なる
いものだ.ロボットの殺戮の見世物が
具体性がある AI の姿を示しているの
未来社会になっていたのであろうか.
行われるフレッシュ・フェア(肉体の
であるが,10 ∼ 15 年先の姿で,その
映画では難病で 5 年間も冷凍保存され
祭り)は競技場内に組み立てられたセ
先はデイビットというのは飛躍し過ぎ
ていた実の息子が新治療法により再生
ットであったが,ルージュシティは大
ている.
され,この実の息子との関係がうまく
部分 CG 合成である.
デイビットのような優れた人間型ロ
いかず,デイビットが捨てられること
ここでは AI 研究者としての立場か
ボットができるくらいなら,さまざま
になるストーリーで処理されているが,
らの論評を期待されているのであるが,
な形で進展した AI は社会や生活に浸
そうでなくともいずれもっと深刻な事
エンタテイメント作品であるので残念
透しているものと思われる.ところが,
態になるであろう.その母親モニカが
ながらそのような立場から論評する項
描かれている家庭での生活様式は現在
ネコやイヌのようにデイビッド君を捨
目は多くない.特にポジティブな項目
とさほど変わらない.母親のモニカの
てるようになる経緯も,あの描き方で
は多くないのだが,最初にそれらから
運転する車も,後輪が(おかしな)一
は不十分であろう(原作の「S u p e r
記していきたい.
輪になっているくらいで,未来車とい
Toys」のストーリーでは,デイビット
う感じがしない.凝り性のキューブリ
は母親の言葉に傷ついて自分から家出
ボットの発展形だが,自律的に行動し
ックなら(専門家に相談するなどして)
する)
.
相手の気持ちも察して会話する点で,
いくつかの未来形を挿入したことと思
立派な AI の具体形だ.主役のデイビ
われる.
熊ロボットのテディは今のペットロ
ットよりも技術的リアリティがある AI
AI 研究者としての立場からの論評は
ロボットであろう.撮影用には自律制
このくらいにして,後は素人の映画評
御で動く 50 個のサーボモータ搭載のメ
として書かせていただく.
フレッシュ・フェアでのロボットの
見世物処刑は,労働代行者として認識
する西欧のロボット観と,
“鉄腕アトム
(アストロボーイ)”や“ドラエモン”
に親しんで育ち,ロボットが感情をも
カロボット,表情制御できる 24 体もの
スピルバーグは人工的な知能の姿よ
つことに違和感を覚えず,もともと仲
頭部モデル,CG が併用されたとのこ
りも,母親への愛をメインテーマにし,
間として自然に認識できる日本人のロ
とだが,その区別はつかず,ILM 社の
自分を捨てた母親に対しても一途な愛
ボット観との違いは私も感じた.日本
得意分野技術が示されている.
をもち続ける人間的なけなげな子供の
人ならあのような場面にはならなかっ
ファンタジー的冒険談にしている.や
たであろう.一方,あれは「シンドラ
妖精(ブルー・フェアリ)の居場所を
や通俗的なテーマにしてしまっている.
ーのリスト」でも見られるように,ナ
尋ねるドクタ・ノウ(Know)は顔を
永遠に消し去ることができない愛をイ
チに現れた人間に潜む破壊願望,攻撃
もつインタフェースエージェントであ
ンプットされたとのことだが,11 歳で
性へのスピルバーグの非難の表れとも
り,情報や知識がお金を生む近未来社
精神はともかく身体の成長しない子供
見ることができよう.多面的多義的な
会を示しており,納得がいく.しかし,
を,母親が愛し続けることができるか
見方ができるのは映画作品の特徴であ
デイビットが人間になりたくて青の
り,しばしば作者(監督)でも意識し
ない深層心理がイメージとして表現さ
れる.
実はロボット破壊のこの場面は,キ
ューブリックまで視野に入れるとまた
別の解釈ができる.ジゴロ・ジョーは
映画の準主役だが,何故男のセック
ス・ロボットであったのであろうか.
スピルバーグの映画ではその必然性が
感じられない.品がなくなって恐縮だ
が,子供向けにもする必要があるスピ
ルバーグの映画では,それほどセック
ス場面があるわけではなく,ほかの役
割のロボットでも事足りたのである.
しかし,キューブリックの脚本では男
写真 2 熊ロボットのテディ(右)
のセックス・ロボットでなければなら
3
映画「A.I.」をめぐって
れない壁があってこそ,観客は何とか
自己意識を更新できず,刷り込まれた
してあげたいと感情移入するのではな
母親への愛が全目標になってしまうの
かろうか(女性にはかわいらしさのほ
であろうか.けなげさというよりも,
うが良いのであろうか)
.水中でも OK, 「ターミネータ2」の殺人ロボットのよ
眠らなくても大丈夫というのは人間も
うな気味悪さを感じてしまう.宣伝に
望む超能力であり,哀愁は誘わない.
は“2000 年の時を越えての母への愛の
ホウレン草を食べられないというのは,
旅”とあるが,ただ眠っているだけで,
そのくらいのことなら技術的に十分解
映画では一瞬のうちに 2000 年後に移
決できると思ってしまう.映画鑑賞後
るだけではないか.
の解説で,デイビットは瞬きをしない
2000 年後に現れる生物は,デイビッ
と知ったが,そんなことは鑑賞中には
トの記憶からデータを読み出せるので,
まったく気付かなかった.ジゴロ・ジ
ロボットの進化した“生物”だろうと
ョーは化粧と動作でロボットらしさを
いわれている.しかし,スピルバーグ
出していたが,デイビットはあまりに
が描き出したあの細身の軟体動物のよ
も人間的過ぎたと思う.他のロボット
うな形状は,メカでなくバイオ的進化
や「ターミネータ2」
(監督:ジェーム
か,あるいは「未知との遭遇」に似て
ス・キャメロン)のように,内部のメ
いるので,異星人を連想してしまう.
カ部分を露出させる演出もあったと思
キューブリックなら 2000 年後でなく
なかったのだと思う.何故なら,女性
われる.ほかのロボットはまだしも,
100 年後くらいのメカロボットの進化
が人間の男よりロボットをセックスの
感情をもつデイビットが破壊されよう
形を描き出したのではないかと思われ
対象に選ぶようになったのに嫉妬した
とするとき,何ら恐怖心を抱かないよ
る.
「2001 年宇宙の旅」では AI コンピ
男性が,ロボットを破壊するストーリ
うなのは,人間の感情とは違うことで
ュータ HAL 9000 と人間との対立,争
ーを意図していたと思われるからであ
逆に違和感があった.
いで,人間が生き残り,木星での新た
写真 3 ジゴロ・ジョー(左)
る.「アイズ・ワイド・シャット」(こ
2040 ∼ 50 年としても,あのように
な生命となる.「A.I.」では逆に AI ロ
れは表面的には男女間の嫉妬の映画だ
総合的に人間に近いメカロボットをつ
ボットのほうが生き残り,地球での生
が,実にいろいろな解釈ができる)な
くる技術的具体性は欠しいと思う.現
命になるストーリーを意図していたの
どに暗示されるように,このことを通
状ではバイオ技術のほうが近道であろ
ではなかろうか.そして,なぜ人間の
してキューブリックは未来社会での根
う.
「ジュラシック・パーク」のスピル
生命が滅びたかを,根元的人間性の崩
元的人間性について何かを表現しよう
バーグもそれを知らないわけはないで
壊によって暗示しようとしたのではな
としたと思われる.日々の労働をロボ
あろうが,バイオ技術が注目される以
かろうか.この最終章は原作にはない
ットが代行してくれるのは人間にとっ
前から練られていた脚本を変えられな
部分であり,ストーリーの結末として
て幸せなことであり,スピルバーグの
かったのであろう.折しも,7 月 28 日
キューブリックが最も腐心していた部
ように労働が奪われた人間が怒るとい
から新作「猿の惑星」が封切られた
分のようである.
うのは安直であろう(デイビッド君と
(原稿執筆時点ではまだ見ていない).
以上,不十分と感じた点を記したわ
“鉄腕アトム”のイメージの重なりを指
こちらは遺伝子操作で知能を高めたチ
けだが,評論の立場は気楽なもので,
摘している評論もあるが,スピルバー
ンパンジーと人間との対立である.チ
ではスピルバーグに代わってより感動
グは今回,日本人記者からインタビュ
ャールトン・ヘストンが主役だった前
的作品をつくれるかというと,彼以上
ーを受けて初めてアストロボーイのこ
作の「猿の惑星」は 1968 年で,「2001
の作品をつくれる者はいないであろう.
とを知ったと語っている)
.
年宇宙の旅」と同じ年というのも何か
キューブリックが監督,制作したとし
の因縁であろうか.
ても,難解な作品となり,スピルバー
この映画でデイビットにもう一つ感
情移入できないのは,容姿がかわいく
AI の未来の姿を垣間見たいと期待し
グ作品のような観客数はとても望めな
頭も良いハーレイ・ジョエル・オスメ
ていた私には,ファンタジーになって
いであろう.ただ,スピルバーグは
ントを起用し,人間的に完全過ぎるそ
しまった最終章はとてもついていけな
「ジョーズ」,「ジュラシック・パーク」
のままの外見で役作りをしてしまった
かった.自意識をもち愛情までもつよ
のような単純なテーマのストーリーの
点にあるように思う(映画評論をみる
うになった知能が,偶像になっている
ほうが彼のエンタテイメント性が生き,
とみな彼を天才子役として絶賛してい
青の妖精に祈るなどするであろうか. 「A.I.」はキューブリックへの尊敬と友
る)
.動作も多少ぎこちないのは最初の
人間精神の非合理的側面まで実現した
情から彼には少し難しいテーマを選ん
短い学習期間だけであり,その後は完
のか,青の妖精が超能力として存在し
でしまったと思う.彼自身が自分の集
璧である.
「E.T.」とはいかないまでも,
ているなら別であろうが.あのように
大成になる作品と言ったのではないと
人間に近づきたいと思いながら超えら
進展した知能でも状況変化も認識して
思うが,一部映画評論家やそのように
4
人 工 知 能 学 会 誌 16 巻 5 号(2001 年 9 月)
日本人はロボットを受け入れやすい
の一つであるはずが,幸か不幸か我々
のは漫画やアニメの影響である,といっ
はこの境界線をもっていないので,こ
た説明がなされることがあるが,もう少
の葛藤は意識されない.
宣伝する配給会社は彼の才能を見誤っ
ている.
「AI」でなく「A.I.」なのは,「E.T.」
に合わせたことによるようである.
モノ,ロボット,AI,ヒト
武田 英明(国立情報学研究所)
し根が深いと思っている.いわゆるアニ
では,デイビットを人工知能とする
ミズム傾向の強い日本人はモノに魂が
ことで解決されたのだろうか.人工知
宿ることを自然に受け入れている.我々
能の中にもまた相反する問題を抱えて
の頭の中では石から電気製品,ロボッ
いる.そもそも人工知能は発端として
ト,ヒトは明瞭な境界線をもたずになめ
は人間を人間たらしめる“理性”を究
らかにつながっているといえる.このた
明する研究分野である.論理が人工知
め日本では機械技術,電子技術の進歩
能の基本的理論と措定されるのもそれ
の延長線上に自然にロボットがあるの
がゆえである.その実現手段としてコ
不思議な映画である.この映画は明
であろう.これに対してキリスト教の西
ンピュータが重視されるもの同様であ
らかにロボットのお話である.だとす
欧社会では人間であるものとそうでな
る.しかし理性的人間というギリシア
るとこのタイトルは何なのであろうか.
いものに明確な境界線があるようであ
以来の伝統は人々の直観と反している.
る.どうやらロボットは後者,人間でな
感情をもつ生物としての人間という側
いものに分類されている.
面とうまくすり合わないのである.そ
ストーリーは単純である.子供のい
ない夫婦のためのロボットとして感情
をもった最初のロボットデイビットが
このように考えるとこの映画に含ま
こでこの映画ではあっさりと“感情を
つくられる.デイビットは最初は夫婦
れている葛藤が明瞭になる.デイビッ
インプットする”というアドホックな
からかわいがられるが,やがて疎んじ
トは感情を“インプット”することで
関係で触れるだけである.
られ,捨てられる.しかしデイビット
境界線を超えてしまったロボットであ
今の我々の人工知能の研究において
は母を捜して放浪して.こう書くと何
り,それゆえにその存在そのものがあ
はむろんそのような関係では満足して
の変哲もないロボットのお話になって
る種の矛盾となっている.それゆえに
いないのは周知であろう.身体性とい
この映画はモノ側を強調する原作の題
うキーワードで身体をもつことと知性
ロボットと人工知能に対する概念は
「Super Toys」から人間側を強調する
の関係を真剣に考えているわけである.
どうやら日本とアメリカでは違うよう
「A.I.」に改題されたのであろう.それ
これまで述べてきたような二つの葛藤
しまう.
である.AIBO や ASIMO を見たとき,
はこの映画のいたるところに現れてい
をもたない日本においては大いに発展
我々は「ロボット」という概念はすぐ
る.デイビットだけが人間らしく振舞
する可能性があると思っている.しか
に結びつくが「人工知能」にはそう簡
い(というか人間そのものの振舞いを
し,それは西欧的概念と対立したり,
単に結びつかない.アメリカではそれ
する.デイビットが“ロボットらしく”
そもそも人工知能という概念を否定す
に比べると「人工知能」として彼ら
振る舞うことはほとんどない)
,ほかの
ることかもしれない.
(それら?)を見ているようである.こ
ロボットはわざと“ロボットらしく”
れはある種の文化的ギャップであろう.
振る舞うのである.これは映画の主題
最後に戯言を一つ.願わくは映画の
最後のシーンで“彼ら”に涙を流して
ほしかった.そうすれば人工知能の未
来にもっと希望が提示できたかもしれ
ない.
1) 映画の後半は驚くべき展開にな
るのだが,それはここでいうべ
きことではないだろう.
2) デイビット役のハーレィ・ジョ
エルオスメント君のかわいすぎ
ることも一因かな.
3) 逆に不細工であろうとロボット
が無慈悲に破壊されるシーンに
嫌悪感を感じる.
4) この学会のコミュニティの求心
性が今一つなのは,このように
人工知能という概念がいまだ
我々がなじめない概念であると
いうことからくるのではないだ
写真 5
ろうか.