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有機化学Ⅰ 講義資料
第 15 回「有機金属化合物の反応・多段階合成」
第 15 回「有機金属化合物の反応・多段階合成」
第 10 回に SN2 反応の求核剤について学んだとき、炭素求核剤として –C N、–C CR
の2つを紹介した(第 11 回講義資料6ページ)。これらは、sp 炭素上に負電荷を持つ
化合物である。sp 炭素は sp2, sp3 炭素と比べて電気陰性度が高いため、負電荷が安定
に存在できるのだった(第9回参照)。
しかしながら、有機化学で登場する炭素求核剤は、必ずしも sp 炭素上に負電荷を持
つものばかりではない。sp2, sp3 炭素上に負電荷を持つ化合物でも、安定に存在できて
実用上重要なものがいくつかある。今回は、Grignard 試薬(グリニャール試薬、有機
マグネシウム試薬)と有機リチウム試薬について学ぶ。
注1:他に重要な炭素求核剤として、カルボニル基の隣の炭素原子上のアニオン(エノラートア
ニオン)がある。これについては有機化学Ⅱで学ぶ。
1. Grignard 試薬
1900 年、フランスのリヨン大学の助手だった Victor Grignard(ヴィクトル・グリニ
ャール、1871∼1935)は、乾燥エーテル中で金属マグネシウムとハロゲン化アルキル
を反応させると、アルキル基とマグネシウムが結合した物質が得られることを見出した。
CH3CH2 Br
Mg
CH3CH2 Mg Br
Grignard
ethylmagnesium bromide
注2:英語名で、ethyl と magnesium の間には空白を入れないことに注意。
Grignard は精力的に研究を続けて、多くの論文を書き、この物質が有機合成で非常
に有用であることを示した。1912 年に Grignard はこの業績でノーベル化学賞を受賞
し た 。 Grignard 試 薬 の よ う に 、 炭 素 と 金 属 が 結 合 し た 化 合 物 を 有 機 金 属 化 合 物
organometallic compound と呼ぶ。Grignard 試薬は現在でも、最も代表的で有用な有
機金属化合物の一つである。
注3:Grignard と、彼の指導教員だった Barbier との間で、有機マグネシウム化合物の発見の
優先権について論争があった。ある逸話によると、Grignard は Barbier に向かって「先生は私
におしゃぶり用の骨を下さって、私はその中から苦労して骨髄を取り出したんです」と言ったと
されるが、真偽のほどは不明である。この論争が有名であるため、フランスでは Grignard 試薬
とは呼ばずに「有機マグネシウム試薬」と呼ぶのが通例である。しかしながら、Grignard は
Barbier を終生尊敬しており、「ノーベル賞は Barbier と共同受賞できれば理想的だった」と述
懐していたとも伝えられている (H. Kagan, Angew. Chem. Int. Ed. 2012, 51, 7376–7382)。
–1–
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Grignard 試薬は、通常上のように “R–Mg–X” という形で表記するが、実際には極め
て複雑な平衡混合物である。詳細についてはここでは触れないが、溶媒のエーテル酸素
がマグネシウムと配位結合を作っていることは知っておこう。配位結合とは、金属イオ
ンの空軌道に対して、別の原子がローンペアの電子を提供することで作られる結合であ
る。
CH3CH2
O
CH2CH3
CH3CH2 Mg Br
CH3CH2
O
CH2CH3
Grignard 試薬は複雑な平衡混合物であるが、反応剤として考える場合には、カルボ
アニオン R–: であるかのように反応する。
「あるかのように」とは、
「実際にはカルボア
ニオンではないのだが、カルボアニオンとして反応した場合と同じ結果を与える」とい
う意味である。
例えば、Grignard 試薬は水と直ちに反応して、MgBr が H で置き換わった化合物を
与える。
CH3CH2 Mg Br
+
CH3CH2–H + MgBr+ + –OH
H OH
巻き矢印は、C–Mg 結合から H に向かっている。この表記は、
「C と Mg の間の共有
結合が切断され、結合電子は C–H 結合を作るのに使われる」ことを意味する。Mg は
共有結合の電子を一つ失うため、右辺ではプラスの形式電荷を持つことになる。
同じ反応を、下のように「カルボアニオンと水の酸塩基反応」であるかのように書く
ことがある。ただし、点線で囲んだ「エチルアニオン」という化学種は実在しない。
" CH CH – " +
3
2
CH3CH2–H + –OH
H OH
「実在しないが便宜上考える」化学種を表す時は、上のように引用符 “ ” で囲んで記
述する。
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
問:次の反応の生成物を書きなさい。
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OH
CH3 Mg Br
CH3
+
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
2. Grignard 試薬の求核置換反応
Grignard 試薬は、強塩基であると同時に、強い求核剤でもある。しかし、SN2 反応
にはあまり適さない。多くの場合、脱離反応や、その他の副反応が優先してしまうため
である。
CH3CH2 Mg Br
+
CH3CH2 CH2CH2CH3 + MgBr2
Br CH2CH2CH3
Grignard 試薬を使った SN2 反応で実用的に使えるのは、エポキシドとの反応である。
エチレンオキシドとの反応で、炭素数が2つ増えたアルコールを作るのは、有用な反応
である。
O
CH3CH2CH2 Mg Br + H2C CH2
CH3CH2CH2 CH2CH2 O
+ MgBr+
H+
CH3CH2CH2 CH2CH2 OH
Grignard 試薬が真価を発揮するのは、カルボニル化合物との反応である。これには
多くの使用例がある。詳細は、有機化学Ⅱで学ぶことにする。
3. 有機リチウム化合物
Grignard 試薬と並んで有用な有機金属化合物として、有機リチウム化合物がある。
これは、ハロゲン化アルキルと金属リチウムの反応によって作られる。溶媒は、エーテ
ルまたは炭化水素が用いられる。エーテル中の方が反応が速いが、得られたアルキルリ
チウムはエーテルと徐々に反応して分解するため、合成後すみやかに使用する必要があ
る。一方、炭化水素中で調製したアルキルリチウムは、水や空気に触れさせなければ、
長期間安定に保存できる。
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CH3CH2 Br
Li
CH3CH2 Li
ethyllithium
n-ブチルリチウム、t-ブチルリチウムは合成用試薬として市販されており、広く使わ
れている。これらの有機リチウム化合物も、Grignard 試薬と同様に「カルボアニオン
であるかのように」反応する。
H3C
H3C C Li
H3C
CH3CH2CH2CH2 Li
4. 多段階合成
有機化学Ⅰで学んだことの総仕上げとして、多段階を要する合成反応の設計をしてみ
よう。例として、エチルプロピルエーテルの合成について考える。原料として使えるの
は、炭素数が4つまでのアルコールと、任意の無機試薬であるとする。
CH3CH2CH2 O CH2CH3
エーテルはアルコールの脱水によって合成できるが、上のエーテルは非対称であるた
め、この方法は適当ではない。
CH3CH2CH2 OH + HO CH2CH3
H2SO4
CH3CH2CH2 O CH2CH3
CH3CH2CH2 O CH2CH2CH3
CH3CH2 O CH2CH3
非対称のエーテルは、アルコキシドアニオン (RO–) とハロゲン化アルキルの SN2 反
応で合成するのが最もよい(Williamson のエーテル合成)。
CH3CH2CH2 O– + Br CH2CH3
CH3CH2CH2 Br
+
–O
CH2CH3
CH3CH2CH2 O CH2CH3
CH3CH2CH2 O CH2CH3
アルコキシドアニオンは、アルコールと水素化ナトリウム (sodium hydride, NaH)
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の反応で合成できる。水素化ナトリウムは強い塩基であるが、求核反応を起こしにくい
ため、SN2 の前段階としてアルコキシドを発生させるのに特に適している。
NaH
CH3CH2CH2 O– + Na+
CH3CH2CH2 OH
一方、ハロゲン化アルキルは、アルコールと PBr3 の反応で合成できる(第14回)。
PBr3
HO CH2CH3
Br CH2CH3
以上をまとめると、エチルプロピルエーテルの合成法として、下の合成経路を提案す
ることができる。
HO CH2CH3
CH3CH2CH2 OH
PBr3
NaH
Br CH2CH3
CH3CH2CH2 O–
Br CH2CH3
CH3CH2CH2 O CH2CH3
5. 多段階合成:合成経路の書き方
多段階合成の合成経路を書く時には、独特の習慣がある。必ずしも絶対的なルールと
いうわけではないが、次のような点に注意しておこう。
(1) 無機試薬は反応を表す矢印の上に書く。
上の “PBr3” や “NaH” のように、反応に用いる無機試薬は矢印の上に書く。Br–
CH2CH3 のように、有機の反応物であっても矢印の上に書く場合もある。多段階の反応
をコンパクトに記述するための便法である。
(2) 無機化合物の副生成物は書かなくてもよい。
たとえば、アルコールと PBr3 の反応では PBr2OH が副生するが、これは省略する。
多段階合成では、有機化合物を変換する経路に集中して考察できるように、このような
省略記法を用いる。
一方、有機化合物の副生成物は、できるだけ「生成しないように」経路を考える。こ
れまで学んだ反応選択性を考慮して、求める化合物が「主生成物」になるように反応を
計画しなくてはならない。
(3) アルカリ金属の塩はアニオンと同一視してよい。
たとえば、ナトリウムメトキシド CH3ONa について「O と Na の結合を切る段階を
どう書けばいいんだろう」と悩む人がいるが、その必要はない。CH3ONa は溶液中で
は CH3O– と Na+ に解離するので、反応する時は必ず “CH3O–” として反応するからで
ある。
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(4) 反応機構の中に登場する中間体は飛ばす。巻き矢印も書かなくてよい。
カルボカチオン、環状ブロモニウムイオン、プロトン化されたアルコールなど、反応
機構の中だけに登場する中間体は書かなくてよい。また、議論するのは反応機構ではな
くて、どの反応をどう組み合わせるかという経路の問題なので、反応機構を示す巻き矢
印も書く必要はない。
(5)「合成する方法を提案しなさい」という質問には、上のような反応式で答えること。
「1-ブタノールと PBr3 を反応させて…」などと「言葉」で答えてくれる人がときど
きいるが、反応式で示す方がはるかに明快である。
6. 逆合成
4∼5ページで、合成経路を考えるにあたって、求める化合物から逆順にたどってい
ったことに注意しよう。これは有機合成で極めて一般的な考え方であり、逆合成
retrosynthesis と呼ばれる。非常に複雑な合成経路を議論する場合は、逆合成の経路を
明示すると理解が深まる場合もある。
逆合成は、「 」という矢印を使って表す。有機化学では、この矢印は逆合成を表す
と決められているので、他の目的にこの矢印を使ってはならない。
先ほどの合成経路の考察を、逆合成を使って表すと、下のようになる。逆合成では、
反応に使う試薬は書かないことが多い。物質変換の経路を明確に示すことが逆合成の目
的だからである。
CH3CH2CH2 O–
+
CH3CH2CH2 O CH2CH3
CH3CH2CH2 OH
Br CH2CH3
HO CH2CH3
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
例題:炭素数4以下のアルコール、アセチレン、および任意の無機試薬を用いて、以下
の化合物を合成する方法を提案しなさい。
(1)
Br
(2)
S
Br
(3)
(4)
CH3
Br
Br
考え方:逆合成で示す。
(1) 逆合成の最初のステップ(つまり合成経路の最後の段階)は、Br2 付加である。
Br
+ Br2
Br
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このアルケンは、炭素数が4なので、アルコールから直接合成できそうである。ただ
し、アルコールの脱水はエーテルの生成と競争しがちなので、一手間かけてハロゲン化
アルキルの E2 反応によるのがよい。
OH
Br
炭素数を変えないように注意すること。上の逆合成を、うっかり下のように書いてし
まう間違いは非常に多い。
OH
Br
また、ハロゲン化アルキルは、1-ブロモブタンでないといけない。2-ブロモブタンの
E2 反応では、2-ブテンが優先してしまうので、適切ではない。
Br
(2) S の両側にメチル基と一級アルキルのイソブチル基がついているので、硫黄求核剤
を使った SN2 を二回行えばよい。メチル基とイソブチル基はどちらが先でもよい。
OH
Br
S
+
CH3
–S
CH3
HS–
+
Br CH3
HS CH3
HO CH3
(3) trans-アルケンは、ハロゲン化アルキルの E2 反応で合成できる。三種類のアルケン
が生成する可能性があるが、内部の trans アルケンが優先する。
Br
注4:実は E2 反応の trans 選択性はあまり高くないが、trans 体の方が安定であるため、cis
から trans への異性化と組み合わせれば純粋な trans アルケンに変換できる。従って、trans 体
が合成できると仮定してよい。一方、cis 体は脱離反応では選択的に合成できず、trans から cis
への異性化反応も困難なので、三重結合の部分還元によって合成する必要がある(後述)。
この化合物は炭素数が5なので、炭素­炭素結合をどうにかして作らなくてはならな
い。アセチレンの使用が認められているので、アセチリドの SN2 反応を使う。アセチ
リドも有機金属化合物の一種だが、Grignard 試薬や有機リチウム試薬ほど塩基性が強
くないため、ハロゲン化アルキルとの SN2 反応が可能である。三重結合を Lindlar 触
媒と水素で部分還元すればアルケンになるので、上の化合物への経路ができる。
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Br
H
OH
Br
+
H
H
H
逆合成の最初の段階で、Br が 2-位に結合することに注意すること。
(4) 「ラセミ体」とわざわざ書いてあるのは、君たちを困らせるためではない。この化
合物はキラルだが、書かれている立体化学の化合物と、それとは逆の立体化学の化合物
を、1:1の混合物として作ればよい、という意味である。今まで学んだ内容だけでは、
ここに書かれている立体化学の化合物を選択的に作ることは困難である。
しかしながら、2つの臭素原子の相対的な立体配置は守らなくてはならない。そこで、
この化合物の前駆体は下のような cis-アルケンとなる。
Br
Br
今まで学んだ中で、cis-アルケンを作るための方法は、三重結合の部分還元しかない。
従って、下の逆合成は必然である。炭素の数に注意すること。また、三重結合は直線構
造になるように書くこと。
ここまで来れば、アセチレンの両側に SN2 でアルキル基を導入すればよいことがわ
かる。
OH
Br
Br CH3
+
HO CH3
+
H
H
H
H
答:答えは、逆合成式ではなく、通常の化学反応式として書く。ただし、多段階合成の
場合は、反応に伴って副生する物質は省略しても構わない。
(1)
Br2
Br
Br
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(2)
PBr3
HO CH3
OH
(3)
NaSH
Br CH3
PBr3
HS CH3
NaH
Na+ –S CH3
Br
Na+ –S CH3
S
CH3
PBr3
Br
OH
H
H
NaNH2
Na+
Lindlar
H2
Br
H
H
HBr
NaOH
Br
(4)
PBr3
HO CH3
Br CH3
PBr3
Br
OH
H
H
Br
NaNH2
Na+
H
Br CH3
Lindlar
H2
NaNH2
H
Na+
Br2
Br
Br
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
現実に化合物を合成する時には、「炭素数4までのアルコール」に限らず種々の試薬
が使えるので、もっと自由度は高い。従って、上のような制約の元での合成経路の設計
は、どちらかというと机上の演習である。しかしながら、このような演習は、有機化学
の考え方を鍛えるのに好適な問題なので、有機化学の初学者には積極的に取り組んでい
ただきたい。
5. まとめ
・ ハロゲン化アルキルと金属マグネシウムを乾燥エーテル中で反応させると、有機マ
グネシウム試薬(ハロゲン化アルキルマグネシウム)が生成する。これを Grignard
試薬(グリニャール試薬)と呼ぶ。
・ Grignard 試薬は複雑な混合物であるが、反応を考える上では「カルボアニオン」の
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反応であるかのように考えてよい。
・ Grignard 試薬は強塩基で、かつ強い求核性を持つ。
・ Grignard 試薬の SN2 反応は、一般には実用性が低い。ただし、エポキシドとの反
応によるアルコールの合成は実用的である。
・ ハロゲン化アルキルと金属リチウムの反応により、有機リチウム試薬が生成する。
有機リチウム試薬も、Grignard 試薬と同様に「カルボアニオンであるかのように」
反応する。
・ 多段階合成を設計する際には、生成物から逆向きにたどっていくと考えやすい。こ
れを逆合成と呼ぶ。逆合成は、通常の化学反応式と区別するため、「 」という特別
な矢印で表記する。
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