床屋と髪結い―頭の始末は心の始末

床屋と髪結い―頭の始末は心の始末
ザンギリ頭を叩いたら文明開化の音がする と歌われたように、チョンマゲを落とした時が、ま
さに散髪屋さん誕生のときであった。明治四年八月、新政府により 断髪令 発布、続く明治七年、
北海道においても、開拓使によって 廃刀断髪令 が布告された。開拓使は大いに断髪を奨励し、明
治十四年には札幌において 理髪所組合 が結成され、洋バサミを使っての理髪業がいよいよ開業し
たのである。
「北海道理容百年史」 によれば、明治三十年には浦河村に五店の理髪店があった。白川、鈴木、大月、
藤谷、成田である。料金は十五銭で、大月富造は昭和三十年代まで大通二丁目で営業していた。また
現在、祖父常蔵の跡を継ぎ、大通五丁目で営業している藤谷源之進は、唯一当時からの三代目後継者
である。
電灯も水道もない時代、従弟制度のなかの見習いはつらい毎日であった。十五、六歳で見習いに入り、
最初は掃除、洗濯、そして大量に使う水汲みはことさらだった。早朝、二〇〇メートルも離れた井戸
から、天秤棒を肩にカメ三、四個も汲んだ。また、店内の掃除のほか、ランプの掃除も大事な仕事の
一つで、ホヤみがきと芯切りはコツを覚えるのが苦労だった。こんな時代を二年ほど過ごし、そのあ
と レザーの研磨 から本格的な修行が始まる。西洋カミソリを革砥(かわと)で研(と)ぐ作業である。
何事も見て覚えろ と先輩に言われ、目で見て、
耳で聴いて、
肌で感じ失敗を重ねて自分のものとする。
職人気質を大事にした時代であった。
大正四年頃、森川、西村、棚橋、森山などの店もできた。北海道理容百年史によると、大正三年に
は、浦河にも電灯がつくようになり、日本三大漁場の一つでもある えりも堆 を中心とした海域の
好漁と相まって、人の出入りも多くなり、新規の理髪店の増加になったとしている。料金は二十九銭で、
耳剃から鼻毛まで切り、一人に一時間半も掛けなければ客は満足せず、早朝から深夜まで営業してい
た。
筆者はかつて、井上國一郎 ( 理髪業 ) の話を聞いたことがあったが、そのなかで立て続けに客が混
んで来るときは、「いそがしくても、まで ( まてい ) にやれよ」 と弟子たちに気合いを掛けるのだという。
これは、ひとつは待っている客の気持を安めるためであり、ひとつは弟子たちに要領よく仕上げろよ
という、いわばひとつの合図だったのだという。
昭和五年には浦河港も完成し、道外からの外来船の入港も多くなり、町は一段と賑わうこととなる。
特に夏場のマグロ時期になると、高知や千葉あたりから来る突きん棒船で港がいっぱいとなり、風呂
屋や飲食店などが活況を呈したことは言うまでもない。
昭和八年頃の様子を書いた 浦河港大観 には、当時、理髪店八軒、髪結店も四軒あったと記され
ている。森川理髪店の店内の写真が掲載されているのを見ると、理容椅子が五台も見え、五人の職人
が理髪している盛況振りに驚く外はない。この頃高等小学校卒業と同時に、同店に見習いに入った藤
谷源之進は、職人は六人居たと話している。当時はどんな小規模な店でも、一人や二人の使用人は必
ずいて、最近の使用人のいない店主だけの理髪店からみれば、全く奇異に感ずるほどである。
昭和六年の料金表を見ると、大人刈込、丸剃ともに金四拾銭とあり、大人ひげ剃金弐拾五銭。小人
は丸刈金弐拾五銭で女性の料金表はない。 浦河理髪営業保健組合 が、警察の許可を得て料金を制
定したものである。
昭和に入っての子どもの小遣いが一、二銭くらいのときだから、裕福な家庭の子ども以外は、年に一、
二度、入学の時か正月くらいに床屋に行くのが普通であった。ほとんどの家庭ではバリカン一丁を用
意して、男の子の頭は家で刈るものとされていた。俗にいう虎刈頭で学校に通う子どもが普通であっ
た。
前述したように、女性を対象とした髪結いは、昭和八年頃四店あったとあるが、古くから、女性は
自分で髪を結うものとされていたので、洋髪が一般化する昭和十年頃までは、髪結いのお客はごく限
られていた。そのためか、髪結いの記録は理髪の陰にかくれてほとんど見られない。しかし大正以降
町の経済活動の隆盛にともない、料飲店も増加し、そこで働く女性が利用するようになる。だから普
段の来客はほとんど花柳界の女性たちであった。
昭和十年代に店を出した鞍留菊枝は、その頃のことをこう語っている。
東京で五年間修行の後、縁あって浦河で開業した。午後三時になると、芸者たちが銭湯に行く。髪
は三、
四日おきに結い直すのだが、風呂上がりの撫でつけに毎日立ち寄るのだという。髪型は つぶし 、
島田 、 銀杏返し などである。熱い湯で髪の癖を直し、堅い油で髪をふくらませながら、あちこ
ちを縒(よ)り糸で縛り、これを合わせて、糸とビンつけ油で型を造りあげてゆく。この間、一時間
半から二時間。場合によっては 出髪 といって、芸者の部屋へも直接出向いて行った。大きな料亭
の若松、海月などが近くにあり、銭湯も近かったので、この浜町通りに店を持ったことで大繁盛した
という。
この頃で一番収入の良かったのは、今でも同じだが、結婚式の髪結いと着付けだった。当時の結婚
式はすべて住宅で行われ、向別、絵笛ぐらいまでは、
道具箱を背負って歩いて行った。鳧舞(けりまい)、
歌笛にも何回も出かけたが、そのときは駅から馬車で送り迎えをしてくれた。料金は五円程と記憶し
ている。やがて戦争に入り、食糧の配給時代となり、帰りに白米や豆などを土産に貰って帰ることが
一番嬉しかったという。大安の日など、一日に何組もの結婚式が重なり、人を頼んで掛け持ちで夜遅
くまでかかったこともたびたびであった。
これら床屋、髪結いも、戦後には徐々に変わって行く。昭和二十二年には、理容とは頭髪の刈込み
と顔剃、美容とはパーマネントウェーブ、結髪・化粧などと二種類に分けられ、所管も警察から保健
所になった。
さらに昭和三十二年には、 美容師法 が独立して、理容師会と美容師会の二つの業界に分かれて
行くが、この頃から昔ながらの髪結いは商売として成立してゆかなくなっていった。
[ 文責 田中 ]
【話者】
鞍留 菊枝 浦河町大通三丁目 明治四十四年生まれ
藤谷源之進 浦河町大通五丁目 大正八年生まれ
【参考】
浦河港大観 昭和九年 浦河漁業組合
北海道理容百年史 昭和五十九年 北海道理容環境衛生同業組合