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* 我々はゴーストという概念に漸近しつつある。し かし、そのための助走

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ままでゴースト︶と呼ぶ。
我々はゴーストという概念に漸近しつつある。し
かし、そのための助走であるところの︿ゴースト﹀
していた。というのも我々には士郎版﹃攻殻﹄の言
してのゴーストⅡへと進化する物語として読もうと
□*
や﹁ゴースト﹂との関係を、いまだ解き明かさない
説が、作中と欄外でズレを孕んでいるように見えた
我々は士郎版﹃攻殻﹄を、半ば実体的であるとこ
ろのゴーストⅠが、その制限から解放されたものと
ままにいた。ここまでの記述はそこに戻るための迂
からである。そのズレは我々がその直前まで追いか
けていた問題と同期しているように考えられた。
回である。それはいかなる迂回だったか。
まず我々は三つのゴーストに出会っている。一つ
は、
﹃攻殻機動隊﹄の作中における常識であり、ほ
をゴーストⅡ、ゴーストをゴーストⅢ︵またはその
以降では︿ゴースト﹀をゴーストⅠ、
﹁ゴースト﹂
してのゴーストである。発音上の便宜をはかって、
かに予言された、物語と祭りを引き起こす何者かと
の﹁ゴースト﹂である。そして三つ目が序文でわず
ことのできない全体的あるいは相関的な現象として
郎正宗が欄外でたびたび仄めかす、部分に還元する
スト﹀である。二つ目はその作者であるところの士
はロボットになってしまう。このとき、リングとは
はゼロであるのとそれは同じことだ。従って我々は、
もと存在しなかったからだ。ゼロを何倍しても結局
のことであった。というのもそのようなものはもと
人間になり損ねてしまった未来だった。それは当然
が、人間であるかのように取り扱われているうちに、
の行き着く果ては、もともと人間ではなかったもの
あたかも人格を得たかのような変成が見られた。そ
った超能力が人の形を与えられてしまったがゆえに、
直前で論じられたのは﹃ジョジョ﹄におけるスタ
ンドの進化である。そこでは、道具としての力であ
このような実体化を避ける道を模索しなければなら
ほとんどレッテルである。それは、かつて超能力を
とんど魂と変わらない実体的なものとしての︿ゴー
なくなった。
人の形に見なしたこととほとんど同じように、もは
柔軟な気遣いをすることができていたからだ。果て
はない。というのもロボットたちの多くが人間への
ていた。しかしこれは単純に人間の側だけの問題で
トと恋愛に陥る人間が後を立たず、社会問題となっ
らしきもの、即ち意識を見せていたからである。も
らゆる声を持ったキャラクターたちが、ゴーストⅠ
った。それが無効化した原因は、作品に登場するあ
ことは別にリングの有無で識別される問題ではなか
言い直すと、ここには二つの注目すべき要素があ
る。一つ、本来はロボットがロボットであるという
や何ものでもないものをロボットと見なしている。
には、ロボット同士が相手を人間と勘違いして︵あ
う一つ、そのことによって装飾としてのリングが非
この流れの中で﹃イヴの時間﹄へと立ち寄る。そ
こには一見して人間と区別がつかないロボットたち
るいはそもそもそんなことを問題としないままに︶
がひしめいていた。それゆえにこの世界ではロボッ
恋愛に陥る姿すら見受けられた。ここではほとんど
分ける法となっている。このことが起こす逆説は、
ん意識が、我々のあらゆる思考の前提となる概念だ
そこで我々は、まず意識の問題に取り組もうとし
た。なぜこれを問わねばならないのだろう。もちろ
である。
するかのごとく
常に決定的な役割を ―
それこそ形式が内容を決定
果たすようになったということ
―
何が人間かという問いが無効化されている。従って
この世界においては、ロボットであることを示すリ
まさに事態が文字通りであるということにある。即
からであるという部分はある。だがそれ以上の問題
ングを装着していることだけが、ロボットと人間を
ち、人間であろうがリングをつけてしまえば、それ
あるのが意識の有無である。自分たちはこれを持っ
でいるからである。そのもっとも根本的なところに
するのは、自分たちとロボットは違う、と思い込ん
が、ロボットやロボットに恋焦がれるドリ系を忌避
がある。
﹃イヴの時間﹄において、一定の作中人物
れはフィクションである。もっと言えば虚偽である。
スタンドという形と名前を与えたように。だからこ
舞うことによって意識自体が生きている。超能力に
の存在を分かってしまう。そうであるかのように振
って成立しているのに、言語では表現できないもの
切りによって生まれるものである。意識は言語によ
かつて柄谷行人が﹃日本近代文学の起源﹄で踏み
込んだ問題がその参考となる。曰く、かつて日本人
ている。しかし相手はこれを持っているはずがない。
じつつあるからに他ならない。だが、既に事態はそ
は﹁風景﹂という概念を持っていなかったが、それ
だがそのような虚偽が虚偽であると告発することに
こを超え出ている。相手に意識があるかもしれない
を獲得するやいなや、最初から﹁風景﹂があったも
いくらそのように振舞っていてもそんなはずはない。
から問題なのではなく、こちらが自分の意識を疑っ
のとしてしか歴史や世界を考えられなくなってしま
いかなる意味があるか。
ていないことが問題なのである。それは我々にとっ
う。我々が自然だと思って語る歴史は、それ自体が
このときその否定が熱を帯びるのは、否定している
て、他ならぬ自分ではなく、他人でしかない作中人
すでに倒錯しているのである。従ってありのままの
本人が半ば、相手にも意識があるのではないかと信
物がそのような主張をしているというこの状況から
歴史を捉えようとするのなら、まずはこの﹁風景﹂
というアプリケーションを解除しなければならない。
も明らかである。
シュールを参照することは最低限必要である。彼の
我々にとってこの﹁風景﹂とはまさしく意識その
も の で あ る。 と い う の も 我 々 は い ま だ か つ て﹁ 風
仕事から一方に現代の言語学が始まり、他方に世界
そこで我々が参照したのは永井均の哲学的思考で
ある。曰く、意識とは言語が初発に裏切り、この裏
景﹂が存在しなかった世界に生まれたことがないか
的な思想潮流である構造主義が生まれた。
以上に述べてきたことは要するに、言語には差異
しかない、ということに帰する。それだけではない
彼の仕事のもっとも革命的な部分の一つは、言語
の恣意性を明らかにしたところである。
らである。従って﹁風景﹂の解除とは、そのまま意
識の解除を意味する。しかし、言うまでもなく、そ
れは不可能である。我々のこのような思考すらも意
識に依存しているからだ。そうであるのなら、ただ
解除するのではなく、いわばそこに置換するべき、
オルタナティヴを模索しなければならない。これが
今までの物語であった。
差異といえば、いっぱんに積極的辞項を予想し、
それらのあいだに成立するものであるが、言語には
積極的辞項のない差異しかない。所記をとってみて
あるかという問いを避けることはできない。もちろ
意識が言語的であるのだとすれば、意識について
考えを巡らせてきた我々が、果たして言語とは何で
は音的資料があるかということは、それがどのよう
けである。一個の記号のうちにどのような観念また
ただこの体系から生じる概念的差異と音的差異とだ
*
んかように巨大な問いに真正面から答える準備が
なぐあいに他の記号に取りまかれているかというこ
も能記をとってみても、言語がふくむのは、言語体
我々にあろうはずもないが、二十世紀初頭に活躍し
とに比べて、あまり重要ではない。その証拠には、
系に先立って存在するような観念でも音でもなくて、
たジュネーブの言語学者、フェルディナン・ド・ソ
変更をうけたということだけで、変更しうるのであ
しに、たんにそれに隣りした他のなにがしの辞項が
辞項の価値は、ひとが意味にも音にも触れることな
いられていた場所には﹁おびえる﹂﹁恐れを抱く﹂
が存在しなくなったとすれば、それがさっきまで用
しているからであり、仮に﹁こわがる﹂という言葉
といったような言葉がすぐさま置かれることになる
葉との差異によって現実の事物という認識を切り出
体的な事物と対応しているのではなく、ただ他の言
ールが明らかにしたのは、言葉というのは現実の具
と命名の神話に遡ることができる。ところがソシュ
リストテレスのカテゴリー論や、聖書における創世
があるという考え方である。この言語観の起源はア
即ちこれは、まず事物があり、それに対応する名前
ソシュールより前の言語観は言語名称目録観と呼
ばれ批判された。目録とはカタログのことである。
係がない﹂と断じなければならない﹂と言う浅田の
る。ドゥルーズを踏襲して﹁︽構造︾は﹁形態に関
世界から見出されたものとは異なったシステムであ
といっている。それは旧来の物理的世界や、生物的
差異を語ることであり、切断や分節化を語ること﹂
これを浅田彰のまとめに従ってより抽象的に言い
換えよう。浅田は﹁象徴秩序の構造を語ることは、
差異的、共時的な構造のことを象徴秩序と呼ぶ。
のネットワークとして成立している。この恣意的、
ある。このように言語は言葉同士の関係、即ち差異
る︵
﹃一般言語学講義﹄
だろう。その逆に、﹁こわがる﹂が登場することに
しているということである。例えば﹃一般言語学講
見立てによると、そのシステム類型は三つ存在する。
︶
p.168
義﹄では﹁こわがる﹂
﹁おびえる﹂
﹁恐れを抱く﹂と
よって他の言葉が使われなくなることもまた自然で
いった言葉が例示されている。これらの言葉が使い
全体の一分肢としての性格を受け取る。試験管内の
︿2﹀要素は有機的な全体の中に緊密に織り込まれ、
て加算的集合体を形成する。
︿1﹀要素は自立的存在であり、事後的に一括され
ではない。﹁犬﹂はイヌではないかもしれなかった。
にせよ﹁犬﹂はイヌである。︿3﹀においてはそう
はないが別のところに確かに存在している。いずれ
イヌと呼ばれる根拠は、﹁犬﹂が持っているわけで
﹁犬﹂自身が持っている。︿2﹀においては﹁犬﹂が
分けられているのは単にそれらの言葉=辞項が存在
細胞のふるまいがそれと異なるように、部分のあり
とはできない。
人間は秩序の存在しない世界に人間として生きるこ
をさしあたり絶対的に必然的なものと考えて育つ。
体的には存在しない。しかし人は、与えられた秩序
に 与 え ら れ な け れ ば な ら な い ﹂︵ 浅 田 前 掲 書 p.39
︶
ということである。もちろん、そのような全体は実
この恣意的な対応は、そのつど自分が所属する全
体を想像させる。それは﹁構造が共時的な形で一挙
な対応だけが存在する。
全体もない。ただ、とりあえず設定された、恣意的
事の成立は確率的である。このとき我々が確認して
きたものは無論︿3﹀に該当する。部分もなければ
︶そのものが全体
Dass-sein
方︵ Wie-sein
︶は全体に依存する。そればかりか、
一般に細胞が生体外では単独で生きられないように、
部 分 の 存 在・ 非 存 在︵
によって規定される。
︿3﹀要素は、と言おうとするとき、試験管内の細
胞にあたるものすらないことに気付かざるをえない。
といって、実体的な全体もまた存在しない。あるの
は 差 異 の 共 時 的 体 系 の み で あ る。
︵
﹃構造と力﹄
︶
p.43
このまとめは、アトム的な世界観が、関係的な世
界観へとシフトしていく様子を表している。
︿1﹀
に お い て は、
﹁犬﹂がイヌと呼ばれる必然性を
で辿ってきた議論と同型である。というよりも、同
じことを語っている。とすれば、我々は今後の思考
ることを目指していた。そしてポスト構造主義は、
*
我々はここから二つのことを考えることができる。
一つは、これまで考えてきたことと直列な事柄、即
構造という静的な幻想を突破する﹁力﹂を志向して
においてポスト構造主義の思想を参照することがで
ち意識と言語の関係である。言語の秩序である象徴
いたからである。
この説明は、再帰的な発見の過程である。従って整
うしようもなく恣意的なものだということが分かる。
てその必然性を確認しようとするや否や、それはど
この意味で象徴秩序は必然的である。ところが改め
﹁兎﹂でもないことを同時に意味する。前期ヴィト
が﹁ 犬 ﹂ で あ る と 考 え る こ と は、 X が﹁ 猫 ﹂ で も
それはしかし、原理に属する部分の思考である。X
所的なものごとが全体的なものごとを想像させる。
もう一つは、いささか質が異なる。人間は言語に
依存している。従ってあらゆる言語活動において局
きる。というのも、我々は意識という幻想を突破す
秩序は、自然の秩序のオルタナティヴとして導入さ
理して言い直すのであれば、人間は、象徴秩序とい
ゲンシュタインが﹃論理哲学論考﹄を﹁語りえぬも
れる。人間はそれなしに存在することはできない。
う恣意的な代補のシステムを必然的なものであると
のは論理的な事態である。語りえないものを語るこ
確認なのだ。
とができない。つまりそれらは、自明なものごとの
のについては、沈黙せねばならない﹂と結んでいる
考えること ―
それを自明であると見なすことによ
って、人間として成立する。
これは、意識という幻想を必然的なものとして考
えることによって人間が機能しているというこれま
すような気分でいたのに違いない。しかし実態は、
く熱狂していった。誰ひとりそのような事態を想像
る。完成形が存在しないがゆえにその祭りは際限な
唯一の完成した姿が存在しないパズルだったのであ
なかった。当初人々は、パズルの欠けたピースを探
ところが、現代においてはそのような力学が別な
向きで働きつつある。それを早くも89年に指摘し
たのが大塚英志の﹁物語消費論﹂である。
詳細な説明は後に回すが、彼が分析した﹁ビック
リマンチョコレート﹂の事例はその典型である。そ
本的な違いは、ここにおける叙事詩=物語的な全体
を構成しているように見える。しかし︿2﹀との根
断片的な出来事と人物が、ある一つの大きな叙事詩
した浅田の理念型の︿2﹀と表面的には似ている。
なく、物語の断片を購入していた。それは先に引用
ることになるだろう。というのも、そもそも前者の
とができない。しかしながらそれらはいずれ交錯す
そもそも違うものなのか。我々にはまだ判断するこ
のどちらが正しいのか。それともそれぞれのものは
想が不意に構築した物語らしきものを追求する。そ
全体という幻想が持つ二つの可能性。前者は、こ
の幻想を乗り越えることを目指す。後者は、この幻
していたはずがなかった。
は決して最初から存在していなかったことにある。
問題系は、後者の可能性である﹁物語のリソース﹂
こでは、個別の商品に添付された断片的な物語こそ
﹁ビックリマンチョコレート﹂の例で言えば、物語
であるゴーストの仕組みを解明する過程なのだから。
が流通の単位となっている。子供たちはチョコでは
の メ デ ィ ア は 添 付 さ れ た シ ー ル で あ る︵ シ ー ル に
様々な物語や設定が書かれている︶
。ところが、そ
のシールを全種類集めたところで、断片から子供た
ちが想像した物語の全容は決して描かれきってはい
その解消自体が物語の主題になっている。まずその
こと自体を確認してみよう。
再び攻殻機動隊の世界へと戻ろう。今や我々はこ
の作品を、ゴーストⅠからゴーストⅡへの移行過程
こからがロボットかというような問題が問われてい
おいてもゴーストの有無、即ちどこからが人間でど
□6
ゴーストⅠからゴーストⅡへ
﹁攻殻機動
隊﹂Ⅱ
の物語として読む大義を手に入れた。それは、まさ
る。物語の主要な舞台は公安9課の戦場、即ちテロ
先に細部から触れる。草薙素子が活躍する士郎版
﹃ 攻 殻 ﹄ 一 巻 に お い て は、 も ち ろ ん 細 部 の レ ベ ル に
しく意識という閉域からの突破の物語である。
者の士郎正宗の呟きにおいては、汎神論ならぬ汎心
語の冒頭から、欄外にて詳細に書き込まれている作
れが攻殻の世界における常識である。他方、その物
既に何回か繰り返している通り、ほとんど魂と変
わらないものとしてゴーストⅠが存在しており、こ
のとき素子とトグサは以下のような会話をしている。
合っていた女性をおとりに使うケースがあった。こ
なものも行われる。そのような中で、トグサが付き
闘も行われる。電脳を介したハッキング闘争のよう
互いのイデオロギーが対立する一方で、物理的な戦
リストや政治犯との抗争現場である。そこでは当然
論的なゴーストⅡが語られている。実は、後者の士
の理念型の︿2﹀にそのまま対応している。要素と
﹁﹃気持ち﹄は判るが邪魔だからしまっとけ﹂
﹁あんな真面目でいいコにどこのクソ野郎が⋮﹂
﹁どのみち彼女は無傷で済む/心配するな﹂
郎の見立ては、前項において我々が引用した浅田彰
性質を受け取っている。
いたのは彼が所属する警察または国家への反逆と言
﹁俺はロボットじゃねえんだぜ!﹂
してのゴーストⅡは、自然界全体の一分肢としての
この初発における乖離が物語内で解消されていく。
﹁そこが新米だってのよ﹂
うべき資本の論理であったが、もしも彼=警察関係
動いてしまった人間を排除する役割を演じた9課に
︵
﹃攻殻機動隊﹄
者が職務に忠実であればこのような事態には発展し
この会話はいささか隠喩的である。局面は、敵を
鎮圧するために可能な手段を取った上司に対して反
とって、社会とは人間がロボットとして振舞う現場
︶
p.63
発しつつ、そもそもの原因である敵への憎悪を露呈
に他ならない。
なかっただろう。このとき、人間的な欲望のままに
する部下という構図である。そのような状況で役割
を果たすためには、トグサの人間的な感情が邪魔だ
やめることを少なからず意味している。ほとんど軍
とって任務を果たすことはロボットになる=人間を
のいいロボットとそうでないロボットの差異の方が
識においては、人間とロボットの対立よりも、性能
つまりここでは、厳密に言えば少なくとも素子の認
の間で為されていることを忘れるわけにはいかない。
そしてこの会話は、身体のほとんどが義体化され
ている素子と、ほとんどが生の身体であるトグサと
事的といって差し支えない9課の任務においては、
と素子は言っている。極端なことを言えば、彼女に
危機管理の面からもこのような認識は正当に見える。
は、亡命してきた軍事政権の首魁の逮捕が目的であ
職業的な軍人であること、電脳空間を自由に泳ぐ凄
これは素子の認識、ないしは実存が、彼女の身体
の形式やその経験と同期していることを意味する。
強力であると言っていい。
ったが、同時にその人物から買収され共犯となって
腕ハッカーであること、義体を幾度も交換している
しかしこの認識は軍事的な現場に限定されたもの
ではない。例えばたまたま取り上げられたこの作戦
いた警察関係者の摘発も含んでいた。そこで動いて
ようなことを言う。
を構成しているのは間違いない。彼女は、ふとこの
ことなどが、立体的に組み合わさることでその認識
とを考慮すれば、この発言はむしろフチコマを媒介
チコマが思考ルーチンを搭載したロボットであるこ
は外見だけ⋮⋮/差別すんなよ﹂と言っている。フ
﹁私時々﹃自分はもう死んじゃってて今の私は義体
と言えば、それが問題ですらないとまで言っている
士郎は、素子の逡巡をほとんど肯定している。もっ
にした士郎の発言であるということは間違いない。
と電脳で構成された模擬人格なんじゃないか?﹄っ
のに等しい。
所以である。その意味で、外郭が現代の我々の常識
もちろん、我々の辿ってきた議論を考えれば、こ
のような自己反省意識の存在こそが人間の人間たる
るためにゴーストハックをしようとしていたが、実
の夢を見ていた男性。実は彼は妻の気持ちを確かめ
ハッカーにゴーストを乗っ取られて存在しない妻子
︶
p.104
から考えればどんどん非人間的になっていくのに伴
は政府関係者に向けてそれを行っていた。事件が終
て思う事あるわ﹂
︵前掲書
って、このような自己自身に対する懐疑が生じるこ
わった後、彼は自分の行動が全て操られていた故の
さらなる細部を追究すれば、かような価値の転倒
とでもいうべき展開は簡単に発見できる。例えば、
とはむしろ自然である。とはいえ、彼女の実存があ
ことだったと知り、記憶の消去を希望する。そこで
報は全て現実でありまた幻なんだ⋮﹂と言う。
9課課長のアラマキは﹁疑似体験も夢も存在する情
る種の境界上にあるということは間違いない。
余談だがこの発言のページの最後のコマでフチコ
マが﹁そんなに人間と同質なロボットが創れたらそ
は、素子と人形使いはある種類の逆説を背負ってい
あるいはある企業犯罪の一件。ロボットのAI開
発を短絡させるために、法律で規制されているゴー
る点で同じような存在であるということだ。素子が、
ストダビングがその会社では行われていた。ゴース
純粋な情報に極めて近い生命体だとすれば、人形使
りゃロボットじゃなくて人間なんだよね!/違うの
トダビングはその名の通りゴーストをコピーしてロ
いは、生命体に極めて近い情報体である。
人形使いは、様々な電脳犯罪に影をちらつかせる
正体不明の超ハッカーである。さしあたり公安や軍
*
ボットに搭載することだ。規制の理由は、出来上が
るコピーが劣化情報である上に、オリジナルが磨耗
に耐えられずすぐに死んでしまうことだ。ところが
この企業で行われていた倒錯は、
﹁ヤクザを通じて
子供を密輸入して薬物で教育しロボットに近づけ/
自社の機体に半ばロボット化したゴーストをダビン
万ドル﹂で雇
が持っている認識はそのようなものであり、例えば
前述した亡命軍人の事件などでは﹁
われて電脳戦を担当していた。彼が人形使いと呼ば
グし特別の客に配っていた ―
﹂というものだった
のである。この例の場合はほとんど、ロボットを作
れる所以はその卓抜したハッキング技術で、様々な
この事件でも結局端末となった人形を切り離され、
るのが面倒だから人間にロボットの振りをさせてい
草薙素子は、物語の始まりからこのような世界を
象徴する素質を持っていたのである。そして、細部
9課の人々は人形使いを捕らえることが出来なかっ
ところがある事件で偶然にも人形使いを捕獲する
義体を人形さながらに自由に操作できることである。
ではない部分、物語の中心となる流れは、彼女と人
た。
それはこれから詳述するとしても、まず言えること
形使いの交流によって描かれる。人形使いとは何か。
るのに等しい。
10
国際救助隊は対立することになる。その過程で人形
を巡って公安6課=外務省条約審議部と公安9課=
とは言いつつもそのような背景によって、人形使い
に過ぎない。事態はすでにその遥か先に来ている。
たという事実である。もちろん、それは元々のこと
後に明らかになるのは、人形使いが元々は外務省
が政治的に利用するために作成したプログラムだっ
して政治的亡命を希望する﹂とまで言ったのだ。
だ﹂という認識のもと、
﹁壱生命体︵ゴースト︶と
彼 ま た は 彼 女 は﹁ 私 は 情 報 の 海 で 発 生 し た 生 命 体
安たちは、驚くべき主張を聞かされることになる。
しておよそ初めて人形使いと対話する機会を得た公
人形使いを、9課が別件で捕らえたのだった。こう
の働きによってある軍事ロボットの中に入り込んだ
ことになる。独自に人形使いを追っていた公安6課
掲書
上部構造︵システム︶にシフトする時だ⋮⋮﹂︵前
その一部に含み ―
/我々全ての集合 ―
/僅かな
機能に隷属していたが/制約︵カラ︶を捨て更なる
だ光として知覚してるだけかもしれんが⋮/我々を
合されている⋮⋮/君はアクセスしていないからた
﹁私には今私を含む膨大な⋮⋮/膨大なネットが接
を目撃する。人形使いはそれを説明してこう言う。
てに、素子は人形使いがまさに再生するがごとき様
ほとんど生体に見紛う姿であった。そしてその最果
電気の雲の基本的な構造﹂や﹁電子の痕跡﹂という、
う。素子の言葉で言えばそれは﹁生命現象を起こす
消滅してしまうのだが、そこで驚くべき光景に出会
た人形使いのネットはどんどん弱体化し、ほとんど
的情報を獲得する。しかし、物理的に崩壊寸前だっ
ここでは重要なことが説明されている。この文章
︶
pp.274-275
使いの入ったロボットが破損してしまい、そのデー
タを救済するために素子が電脳にアクセスする。
そして素子は人形使いと対話しながら様々な政治
て信号が消滅しそうになっていたという諸々の事情
制限にかかり、先ほどまで機械の物理的破損によっ
が、具体的なロボットに宿ることによって物理的な
我々は、そこで何か革命的なことが起こっているか
っ た。 し か し 人 形 使 い に と っ て は そ う で は な い。
から鑑みれば、先ほどの状況はまさしく死に際であ
つまり、先ほど素子が見た光景は実は、人形使い
にとっての自然である。我々のゴーストⅠ的な常識
意味である。
を意味しているのは間違いない。それはほとんど生
のように思わずにはいられない。しかし、そこでは
を完全に解読することは困難だが、さしあたりいく
命の仕様とでも言っていいようなものだ。例えばこ
人形使いにとっては、何ら新しいことは起こってい
つかのことは明らかである。例えば﹁僅かな機能﹂
れが我々のような人間の話であるのだとすれば、あ
ないはずである。
士郎は欄外でこのような様子に対して﹁相﹂とい
う説明を与えている。例えば我々はどんなに脳が人
るいは動物などと比較してもいいだろう。普通、生
命というものはそうそう身体をとっかえひっかえで
きないものだ。事実先ほどそのような事情によって
間の人間性において重要な役割を果たしていようと
形使いがそのような主張をしているから、ではない。
旧来の生命概念が採用できるはずがない。これは人
とはいえ、ここには少しズレが生じている。生命
に近い情報体である人形使いにとって、そのような
って脳という容器に入っているエネルギーの塊では
総体的肉体システムの状態︵相と言えるかも︶であ
人だと認めるはずである。﹁ゴーストとはここでは
ことは言わない。普通はその身体の全部を指して個
も、脳だけを指してこれが人間である、などという
事実として人形使いのような存在がそこにいること
ない。︵エネルギーでできた場かもしれないが︶人
人形使いは消滅の憂き目に瀕していた。
が、旧来の生命という概念を揺るがしているという
形使いの言う﹁自分﹂とは一定の複雑さに達した情
成とは、このような判断次元のシフトを意味してい
視覚の次元の変化を捉えることはできない。相の形
る。
報集積体がシフトして生命と呼ばれる相を成したと
設定している﹂
︵前掲書 p.267
︶相とは単純な事物で
はなく、ある条件が整った環境において起きる現象
この段階で、我々はあることに気付く。それは、
実はこの段階における士郎の相の説明がうまく人形
絵の美しさや素晴らしさと言ったものとの関係はほ
グラム当たりのインク量がいかに変化しようとも、
がしかの絵を構成していることが分かる。ところが、
視覚の次元からこれを捉えてみれば、ある漫画が何
しか存在しない。ところが、より上位の世界である
リのインクが染みているかと言うような割合の世界
次元から眺めてみれば、1グラムあたりの紙に何ミ
もう少しだけ注釈を試みよう。例えば漫画は一般
に紙とインクによって構成される。これらを成分の
というような説明になっている。つまり、ここでは
例えばその一部分である脳だとかには還元できない、
差 し 当 た り 書 い て お く と す れ ば、 1.5
は、 人 間 や 義
体といった一定の質量を持った物質の全体において、
と し て の 意 識 で あ る。 そ の 中 間 と い う こ と で 1.5
と
ゴーストⅡは、そのような部分に還元できない現象
ば脳とニアイコールなものとしての魂である。一方、
ような言説になっている。ゴーストⅠは、言うなれ
説明はむしろゴーストⅠとゴーストⅡを橋渡しする
述の脳を使った説明からも明らかである通り、この
の全体を意味している。
とんどない。ページがほとんど真っ黒な素晴らしい
全体集合が恣意的に設定されている。
使いの実態に対応していないということである。前
表現と、ページがほとんど真っ白な素晴らしい表現
に過ぎない。先述の士郎の説明は、現象を脳に還元
じことである。ただ、僅かに器官の大きさが違うの
とだろうか。もちろん、そうではないことを我々は
消滅してしまったことを知る。だがそれは本当のこ
光の中で意識を失った素子が目覚めると、事件の
あらかたは片付いていた。そして彼女は人形使いが
*
もちろん、何度か繰り返している通り、魂は脳の
が世界には両立している。成分の視線は変化を取り
逃がしているわけはない。しかしそれにも関わらず
どこにも宿っていない。それは分析すればするほど
どうしようもなく分かってしまうことだ。その意味
する考え方と比較すれば上位の考え方に思われる。
知っている。我々は消えてしまった人形使いを追い
から言えば、脳に魂が宿っていると考えることと、
しかし、全体の制限がかように恣意的であるという
かけねばならない。
身体全体において魂が宿っていると考えることは同
ことを考えたとき、本質的に同じことを言っている
のは明らかである。人形使いの言う﹁制限﹂とはこ
とはいえ、もちろん無意味な描写ではない。初め
て人形使いの本質に接した素子がその﹁光﹂のよう
体現し続けている。先のような誤解とも言うべき判
士郎の思想のラディカルな部分は、常に人形使いが
さ て、 士 郎 の 言 説 が ゴ ー ス ト 1.5
とⅡの間を揺ら
いでいるがごとき判断を我々は先ほど下してしまっ
なネットの奔流に飲まれ涙を流すことしか出来なか
断が必要だったのは、むしろ我々のための便宜であ
の恣意性に他ならない。
ったように、我々はその急激な概念の拡張に耐えら
る。我々はいきなり人形使いのような概念を認識す
た。しかし、もちろん士郎にとってはそうではない。
れないだろう。相は、段階的に拡張されてゆく。
ることができない。
齟齬はどこにあったか。﹁士郎の相の説明がうま
例を取れば、士郎が上位である視覚のレベルで判断
情報の伝達経路であり、その接続。それは間違いな
そうは言っても、それは現代に生きる我々が持っ
ている認識とそうかけ離れたものではないはずだ。
こそ、我々はこう問わねばならない。ネットとは何
していることを、我々が下位である成分のレベルで
い。攻殻の世界においては、電脳化によって神経ネ
く人形使いの実態に対応していない﹂⋮⋮ここだろ
捉えているのに近い。そして上位は単純に下位に対
ットワークと電子ネットワークが接続されている。
なのか。
応しているだけだが、下位の概念が上位の認識を持
このことによってある意味において世界はよりラデ
う。これは無論、この時点での我々の見方としては
つ こ と が で き な い の は 既 に 説 明 し た 通 り で あ る。
ィカルかつシンプルになった。士郎の言うところの
て知覚してるだけかもしれんが⋮﹂これは、先ほど
いる⋮⋮/君はアクセスしていないからただ光とし
今私を含む膨大な⋮⋮/膨大なネットが接合されて
その手がかりは既にある。我々は先ほど人形使い
の言葉を引用した。そこにはこうあった。
﹁私には
現象していると言い換えることができる。これが一
とすれば、それは身体即ち神経系と循環系において
ではなく身体という全体において現象しているのだ
いることからも伺える。ゴーストⅡが脳という部分
れは人形使いが﹁上部構造︵システム︶﹂と言って
正しい。しかしそれだけではない。先ほどの漫画の
我々はこの齟齬を埋めなければならない。
の我々の状況をそのまま説明している。より上位か
我々は爪先から指先に至るまで命令を放つことがで
般 に 考 え ら れ て い る と こ ろ の 身 体 の 限 界 だ ろ う。
相は、系=システムと言い換えることができる。そ
ら意味ある概念としてネットを認識している人形使
きるし、髪の毛や爪などは自動的に修復される。
いに対し、下位にいる素子はそれをただ﹁光﹂とい
う崇高なものとして認識するしかなかった。だから
してきたとはいえ、それだけで納得できるものでは
された今や、身体が、ネットワーク全体を示してい
論は、神経ネットワークが電子ネットワークと接続
であるということだ。そしてそこから導出される結
即ち、神経ネットワーク自体がもはや身体そのもの
性が相対的に高まる。これが何を意味しているのか。
なっている。ということは神経ネットワークの重要
るのか。
成立しうるとすれば、それはどのような姿をしてい
のように分かれうるのか。もしもそのような世界が
合っている世界において、自我と他我はいったいど
り小なりネットワークが別なネットワークに繋がり
ネットワークにゴーストが宿るのだとすれば、大な
ない。例えば、すぐに我々はこう呟くことができる。
ぬ汎心論という言葉を用いてこの段階に向けて準備
攻殻世界において後者の循環系はかなりの部分が
機械化されているためほとんど無意味な判断基準と
るということに他ならない。
﹄や﹃ヱヴァンゲリヲン新劇場版﹄のシ
COMPLEX
ナリオに参加している櫻井圭記は、著書﹃フィロソ
脚 本 家 で﹃ 攻 殻 機 動 隊 STAND ALONE
フィア・ロボティカ﹄でこのように呟いている。
ゴーストは、ネットワークに宿る。これこそがゴー
そうだとすれば、いったいゴーストはどこに宿っ
ているのか。もちろん、こう言うしかないだろう。
ストⅡの認識の中枢である。
に等しいような世界というネットワークを前にして、
れる。つまりロボットとは、コンピュータが物理的
我々の身体との微妙な交錯を体験する可能性は失わ
[⋮]コンピュータが物理的身体を獲得した時点で、
ゴーストはネットワークに宿る、などということは
身体を獲得し、かつ、ときとして自律的に行動する
だが我々にはまだ困難が待ち受けている。個人の
身体という限定的なネットワークと比較すれば無限
何も言っていないような印象を受ける。汎神論なら
など、再び我々の身体から距離的に最も遠い他者と
のとして生活などに導入されてきて、さらにそのよ
が何なのかを問うてきた段階から、実際に便利なも
この流れは言わば、コンピュータの振る舞いがア
ーキテクチャ的に、環境管理的になっていく様子で
なる地点、すなわち三つの時期区分の一番はじめで
同時にこうも言えるかもしれない。コンピュータ
による身体の獲得は、他者性を最も喚起させる地点
ある。内部化されたコンピュータが現実を構成する
うな現実そのものを構成するようになっていく様子
であると同時に、人間の自我の存続にとって最も安
というのは、現実が否応なくコンピュータの効果に
ある﹁他者としてのコンピュータ﹂の地点に、回帰
全な地点でもある、と。我々の自我の単一性は、相
よって制限されるということを意味する。そこに行
を示している。
手がそれ以上侵犯してこられない身体表面を所有し
使されているのは見えない権力である。それは装わ
してきた存在であるかのように思われるのだ。
ている事実によって、少なくとも見かけ上は、保障
れた自然たる﹁風景﹂と言ってもいいだろう。従い、
その批判は自然に自己解体的になる。それから逃れ
この見えない権力を内部から批判することは難しい。
さ れ る か ら で あ る。
︵
﹃ フ ィ ロ ソ フ ィ ア・ ロ ボ テ ィ
カ﹄
︶
pp.33-34
るためには、コミュニティから抜け出すか、システ
である。だから、むしろ逆に、より見えるものとし
見立てである。内容的には、そもそもコンピュータ
原則は、いわゆる﹁ロボットの反乱﹂を制限するた
なものでしかない。アシモフが構築したロボット三
権力が強まっていく過程とはその機構の不可視化
ムをハッキングしてしまうかしかない。しかしそれ
て存在感を強めていくロボットの存在は、逆説的で
めのものである。我々が生み出したものに脅かされ
三つの時期区分とは哲学者である黒崎政男の提案
に即したもので。
﹁他者としてのコンピュータ﹂
﹁環
あり、回帰的である。櫻井が言う通り、この回帰現
る点では確かに恐るべきその反乱は、しかし、言う
を試みるためには、まず、見えないものに気付かな
象は他者による自我の﹁侵犯﹂という問題を回避し
なれば異民族から侵略を受けることとそう変わるも
ければならない。
ている。だが櫻井の指摘はそれがあくまでも一時的
のではない。その意味で、自我の﹁侵犯﹂という問
境としてのコンピュータ﹂
﹁内部化されたコンピュ
なものでしかないことを強く意識しているがゆえに、
題は相対的に新しい。
ータ﹂の順番でコンピュータが進化してきたという
﹁少なくとも見かけ上は﹂という条件をつけないま
魂が宿っていると考えて自然である。そこには倒錯
動くような身体がそこにあるのであれば、そこには
つのフィクションに過ぎない。従い、もし自律的に
とは間違いない。もちろん、我々にとって魂とは一
ような思想の具体的な顕現として考えられているこ
デカルト的な二元論においては、魂と身体が一対
一の対応を取る。そしてロボットがさしあたりその
いるわけではない。むしろ、それらのものがどう両
はずだ。しかし、我々は個が消滅していいと考えて
識が展開されるのであれば、それは正しい姿である
っている。だから原理的には、ネットワーク上に意
うに振舞わなければならないことだということを知
来のものなのに、それが独立したものであるかのよ
る。我々は、倒錯の真の姿がもともと自我が他者由
まにはしておかなかった。
が生きている。機械と人間の区別を溶解させるよう
立されるのかを考えようとしている。
とはいえ、構造言語学の成果を参照した我々は、
言語によって自我が構成されていることを知ってい
な倒錯である。しかし、意識が唯一のものであると
考えてきた我々にとって、この思考は、極めて安全
るいは人間のような使徒がいるなど非常に多様であ
る。この状況にどうテーマが関わっているのかと言
あるいは、それが両立しえないというヴィジョン
を描いたのが﹁新世紀エヴァンゲリオン﹂だったと
かされ、いわば同じ種同士が争っていたことが明ら
る。後に人類自体が十七番目の使徒であることが明
*
考えることもできるだろう。士郎版﹃攻殻﹄の初版
かになる。これは、最後の戦いが人類同士の戦争に
う と、 実 は 99.89
パ ー セ ン ト の 割 合 で、 人 間 の 遺 伝
子と使徒の固有波形パターンが一致しているのであ
月から数えてまる4年後の
が世に出た1991年
るのは作品終盤を待たなければならなかったが、そ
育てていくか、というドラマがテーマに連動してい
小状況としては、主人公である碇シンジやそれに
連なる主要人物たちが、どのようにして人間関係を
なったことからも貫徹された視点である。
もそもの始まりから、よく似た他者とどう生きてい
る。人を傷つけず、また傷つけられないように生き
ていくことは出来るのか。人と関係していくとはど
ういうことなのか。親子とは何か。恋愛とは何か。
友情とは何か。
地球環境が激変し、人にとって生きていくことが非
起きたセカンドインパクトという大災害によって、
される ―
エヴァと物理的な格闘するが、中にはマ
イクロサイズの使徒や、姿が不定形であるもの、あ
ことはもはや出来ない。それでも、その世界で生き
る。剥き出しになった魂の交流によって分かり合う
ことを選んだ。そして溶け合った人々は再び個に戻
る と い う こ と で あ る。 も と よ り 本 作 品 は
驚くべきことは、物語終盤において、この大きな
問題と小さな問題がまさに融合した状態で解消され
常につらい世界になってしまっていた。このような
ていくことが人間としての生である。シンジが選ん
れは、どこまでが自分でどこからが他人かが分から
そのLCLの海の中で一つになった世界だった。そ
人類がみなLCLと呼ばれる液体に溶けてしまい、
を否定するのか。それとも、それを肯定するのか。
しない方法はあるのか。シンジの判断と同様にそれ
場として展開されたネットワークを、LCLの海に
さて、果たして攻殻機動隊の世界では如何なる道
行きを辿るのか。剥き出しになった自我が交流する
年に
2000
生存の問題を解決するための世界的なプロジェクト
だのはその選択肢だった。
ず、どこまでも自分でどこにも自分が見当たらない
*
人形使いと接触して以降どこか様子がおかしかっ
た草薙素子は、テロリストの鎮圧行動で迂闊にも対
頭を開いて中身を見れば問題が解決できるというよ
うな考え方は、最終的にこのLCLの海に行き着く
にかけられる。法廷闘争では勝ち目がないことが明
に撮影されていたことにより、素子は殺人罪で裁判
象を射殺してしまう。さらにそのシーンをマスコミ
碇シンジは、最終的にこのLCLの海を否定する
ら消し去ってしまう。
しかない。この発想は、最終的に自分という個をす
これは、ゴーストハックによって他者を理解しよ
うという態度のまさに全面化と言うべき状況である。
世界だった。
してそれは実行される。そうして展開されたのは、
として﹁人類補完計画﹂が推し進められていた。そ
基本的には巨大なロボットというべき ―
作中では
汎用人型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオンと呼称
大状況としては、人類を襲う未知の怪物﹁使徒﹂
との戦いにおいてである。使徒は様々な形態を取り、
くべきかが問われていた。
そこにあった。テーマそのものが露骨な形で出現す
登場を待つことになるこの作品のテーマはまさしく
10
置されることになる。そして、そこで素子は消えた
障していたため、電脳だけになった素子はしばし放
れる。代理の義体に入る予定だったが、それらが故
け上射殺され、その電脳だけがバトーたちに回収さ
うシナリオだった。そのシナリオ通りに素子は見か
する。素子には素質があったが、認識が欠けていた。
ここで、恐らくようやくゴーストⅡなるものが完成
受け入れ、素子と人形使いは融合することとなる。
も、﹁私も何かを予感してたのよ﹂と、その提案を
えば、相手の言っていることに確信は持てないまで
従って﹁多様性やゆらぎを持つ為君と融合したい
のだ﹂と人形使いは素子に持ちかける。結論から言
らかだったため、9課全体で一芝居打つ。それは自
はずの人形使いに再会する。人形使いが素子にアク
そして人形使いには能力があったが、権利が欠けて
私は以前﹁自分は生命体だ﹂と言ったが現状では
未完成な水蛭子にすぎん⋮⋮⋮⋮/なぜなら私のシ
そのような口上を述べて国造りを始めたことを、こ
れている。日本神話においてイザナギとイザナミが
暴自棄になった素子が保身のために人質を取るとい
セスしてきたのには目的があった。
いた。この結婚は、いわば元々似通ったところのあ
ステムには老化や進化の為のゆらぎや自由度︵あそ
の展開は想起させる。身体がネットワークだという
る二者が、お互いの欠損を補完するという体で為さ
び︶が無く破局に対し抵抗力を持たないからだ⋮
と言うべきなのだろう。
のなら、ここに生まれたのは新たなるネットワーク
/コピーをとって増えた所で﹁1種のウイルス
・・・
で例外なく全滅する﹂可能性を持つ⋮⋮/コピーで
は個性や多様性が生じないのだ⋮︵
﹃攻殻機動隊﹄
さて、そのように劇的であるはずのこの融合は果
たしていかなる結論を、あるいは変化を齎したのか。
である。彼女は言う。﹁ネットは広大だわ﹂と。そ
︶
p.339
実際のところそのようなものはほとんどないと言わ
の広大さは、彼女にとってすら、今回の経験を通じ
しかしながらこの結末には一抹のキナ臭さを覚え
る。というのも融合の寸前、素子は人形使いに、な
なければならない。なぜならば、そのようなヴィジ
けである。そしてそのような能力を得た素子にもし
ぜ自分を選んだのかを尋ねる。するとその解答は何
て初めて得られた認識だった。
新しくすべきことがあるのだとすれば、それはかつ
と﹁エンがあったからだ﹂そうだ。人形使いはエン
ョンは既に人形使いの言行によって遂行的に示され
て人形使いがやっていた伝道の仕事を継承するくら
のことを以下のように説明する。それは、塩基列が
マと、ソーマの中にある草薙素子が対応することだ、
ていたからだ。ただ彼に欠けていたのはその権利だ
いのことしかあるまい。
実際、新たな義体を与えられ目覚めた素子は、バ
トーに﹁生命体と名乗るAIと接触して融合を求め
と。ソーマとは少し前の事件で素子と交戦して彼女
対応するように、例えば、草薙素子の中にあるソー
られたら受け入れてやって﹂と語る。これは彼女が
に強い憎悪を持っていた相手であり、草薙を手こず
この説明に良く似た概念で構成された現象が後に
起きる。それは少し前に一度触れた、新世紀エヴァ
らせた男である。
のとなっている。彼女はその融合がいかなる結果を
ンゲリオンにおける﹁人類補完計画﹂のことだ。そ
自分自身の経験を語っている以外の何ものでもない。
齎すかを知っている。それによって彼らは﹁宇宙の
こでは互いに個としての﹁心の壁﹂を失った人々が
しかしながら、先立つものが誰一人いなかった素子
種子﹂を知ることになるのである。だがその発言は、
一つに溶け合っている。そこでは、シンジの心の中
の場合と異なり、いまや素子自身がその先に立つも
そうなるまでは決して理解されえない類の言説なの
の心の中にあるアスカとアスカの心の中にあるシン
にあるレイとレイの心の中にあるシンジが、シンジ
れらと細部が異なった存在たちの跳梁である。
誕生したものである。素子を基礎としているが、そ
ある。それはまさしくここに描かれた展開によって
避けるためにはどのような方法があるかを問いかけ
もう一つの要素が存在する。素子へのプロポーズ
にあたって人形使いは、あるネットワークが滅びを
ジが、そしてアスカの心の中にあるレイとレイの心
の中にあるアスカがぴったりと対応し合っているの
である。もしかしたら、我々はそのような未来を見
る羽目になるのではないか。
る。素子は、二種類のコピーをとることで片方が崩
壊してもよいようにすることと、多機能多細胞化す
と呼ばれる存在たちが交流する様が描かれている。
はやオリジナルの草薙素子は登場せず、彼女の変種
動隊2﹄を読む自由が与えられている。そこにはも
我々はその懸念を確認するべく、この続きを描い
たものとして士郎版﹃攻殻﹄の続刊である﹃攻殻機
先の提案を試みたのである。そして、続刊において
考にする形で、自分がより完全な生命体になるべく、
ステム﹂を感知したことによって、言わばそれを参
樹木のイメージで説明する。彼は、その﹁宇宙のシ
というネットワークが事実そうなっていることを、
*
ることによって不測の状態に対応できるようになる
しかし、強いて言えばそこにある未来は全てすでに
言通りに振舞っていることを意味している。
複数存在する素子の変種は、まさしく素子がその予
ことの、二つの手段を提案する。人形使いは、世界
人形使いによって予言されたものと見て間違いない。
ではその世界はいかなるものなのか。我々には詳
これは論理的な事態である。人形使いという存在
は、我々が考えるところゴーストⅡの段階にいた。
それはどのような予言だったか。
﹁遊び﹂を獲得した情報集積体の登場で
一つは、
細にその世界に侵入する余裕はないが、サイボーグ
論者である高橋透のまとめを参照することが可能で
それはネットワークを身体とする新たなタイプの実
しかけてきた敵の電賊を追ううちに、自社の社長も
ポセインドンインダストリアル社に侵入し、攻撃を
りと単純化して言えば、こうである。荒巻素子は、
だ。複雑な展開をもつこの物語のあらすじをざっく
務する素子、ただし今度は荒巻素子についての物語
﹃攻殻2﹄は、ポセイドンインダストリアル社に勤
ってしまう。このような状態で、果たして世界は正
はすぐに溶け込んで、ほとんど無いようなものにな
が満ちているようなものだ。後から流れてくる液体
一つの水路と考えれば、そこには常に一種類の液体
の何ものも存在しないことになる。ネットワークを
ネットワークを身体とするのであれば、そこには他
ークは、事実上無限大のものである。そんな法外な
ある。
保存されている託体施設へと行きつく。そこで彼女
にはいられない。そして、歴史の先行きは実際にそ
常に機能するのだろうか。このように我々は考えず
存である。そのような人形使いの所属するネットワ
﹂
、す
荒巻素子に明かされるのは、彼女は﹁素子
人目の同位体﹂ということであり、
﹁電
体になってしまう﹂ということである。
︵
﹃サイボー
グ・フィロソフィー﹄
p.083
注釈を省略した︶
義されるということである。﹃攻殻2﹄の場合、全
まとめの︿2﹀、つまり部分が常に全体によって定
士郎の構想の根本であるゴーストⅡはネットワー
クを身体とする。それをより詳しく言えば、浅田の
のようになりつつあった。
は﹁敵﹂草薙素子と対決することになる。しかし、
なわち﹁
11
脳を装備しているものは全て草薙素子の亜種か同位
11
界は確かに士郎の構想がラディカルに実現している。
形で表現されている。その意味で、
﹃攻殻2﹄の世
大きな枠組みによって方向づけられている、という
るもの⋮⋮例えば荒巻素子などが、草薙素子という
体を草薙素子が占めたことによって、常に部分であ
づいて巫女が神に仕えている︵そういう役割につく
草薙の意図に奉仕しているという説明と、慣例に基
ることが可能である。質的に同位であるから荒巻が
薙素子という神に仕える巫女だ、と置き換えて考え
ごとを特殊に見せる。しかし、例えば荒巻素子が草
人たちが確率的に存在する︶という説明は、機能と
化したコンピュータであるのと変わらないからだ。
との自覚を失うということは、遊びのない目的に特
我々にとっては重要なことに思われる。個であるこ
クスは、今日の全人類が﹁ミトコンドリア・イヴ﹂
と言うことができる。遺伝学者のブライアン・サイ
現に存在している自然の世界がそれに先立っている
また、電子ネットワークを介した強力な素子のミ
ーム︵模倣子︶伝播能力についても、ある意味では
しては同じである。
もちろん、すかさず我々は思い出す。その遊びの部
と呼ばれるたった一人の母のDNAを引き継いでい
他方、荒巻素子は明らかに草薙の亜種というべき
ネットワーク掌握能力を持っていながら、自分が素
分がすでにプログラミングされたものであるという
ることを示している︵﹃イヴの七人の娘たち﹄︶。素
こうなってくると、すでに事態は士郎の設定した
箱庭を飛び出すことになる。このような考え方は、
遡るなら、我々は、たった一人の母に還ることにな
で読むことができるだろう。もしもDNAの系譜を
子 と 独 立 し た 個 で あ る こ と に 拘 っ て い た。 こ れ は
ことを。
そのままで我々が実際に生きる現実に適用可能だか
る。
子が変種を残すというのも、このようなニュアンス
らだ。同位体という仰々しい言い方はなるほどもの
れは、攻殻世界にのみ存在するような電脳技術の実
たものであるということが明らかになるだろう。そ
はなく、現に存在する現実をいわば徹底的に展開し
技術のイメージに相乗りしているだけのものなので
ずその全体となるべき上位の相がはじめに存在しな
しも部分が全体によって定義されるのであれば、ま
がその相を構成しているはずである。ところが、も
上位の相だとすれば、その部分としての自我や他我
士郎の問題系で考えればこれは相の問題として言
い換えることができる。ネットワークという全体が
うことである。
用化を待つまでもなく、ある意味においては我々の
くてはならない。つまり、自我や他我の配置は既に
ここにきて士郎の想像力というものが、端的に現
実と遊離していたり、あるいは急速に発達する科学
現実に適用しうる世界観なのである。
規定されているということになる。
魂がむき出しのまま相互に乗りあうような場におい
とはいえ、我々はいくつかの理由からまだここで
満足するわけにはいかない。問題であった、複数の
ような形に見える。正確に言えば、上位の相が生成
よって上位の相へと移行することができる、という
誕生の瞬間のシーンでもそうであるが、士郎の描き
*
て個を維持することが出来るのか、ということにつ
されているように見える。これでは齟齬が起きてし
士郎はこれについてまちまちの答えをしているか
のように見える。例えば先述した人形使いの消滅と
いての答えが出ていないからだ。先述の水路の比喩
まう。
もちろん士郎がこの問題を見逃していたわけでは
方は、部分が揃うなどしてある条件を満たすことに
で言えば、そこに流された複数の種類の液体たちが
混ざらずに共存することはいかにして可能か、とい
とにはならない、ということである。この意味で、
だからといって生命の相という次元が存在しないこ
現段階では生命の相を構成していなかったとしても、
いて分かるのは、例えば情報というパーツにおいて、
が違うといって説明したことである。この説明にお
成分の次元と視覚の次元では、同じものでも見え方
論的に振舞うと説明されている。これは既に我々が
らぎを持ったものとして振舞い、上位の方では決定
会話において、宇宙のシステムは、下位の方ではゆ
いうことを示唆している。例えば人形使いと素子の
ない。折に触れて士郎はそれが見方の問題であると
素子なのか、荒巻素子なのかは明確に告げられてい
え、正確に言えば、この絵で描かれているのが草薙
子の亜種・同位体になった図と考えられる。とはい
殖する絵が描かれる。この絵は、荒巻素子が草薙素
は、無数の素子、つまり素子の亜種・同位体へと増
種・同位体にほかならない。その後、素子とその影
の と い う 意 味 だ。 だ か ら、 こ の 影 と は、 素 子 の 亜
異なりもするものの、しかしそれでも自分と同じも
いうことは、この影は自分と同じものでありつつ、
皆共存している﹂と解説する。内在する自身の影と
は、この影状のものを﹁内在する自身の影で誰でも
﹁彼女と非対称な影状のもの﹂である。霊脳局神官
問題は、亜種・同位体構造が描かれているというこ
ない。しかし、もしこれが草薙素子でないとしても、
世界は構造的である。
この観点は﹃攻殻2﹄において徹底的に純化され
る。
とにあるのであって、この観点からすれば、すべて
は何らかのものの亜種・同位体であるとする士郎の
る。これがゴーストⅡと我々が呼んだものの行き付
このことを言い換えると以下のようになる。何度
か触れている通り、我々の現実においても、複数の
さて、珪素生物は﹁生老病死を持ちながら模倣子
は完全に継続性を保つ﹂と言われていることから、
﹁
﹂に登場する霊脳局の神官の語ると
EPILOGUE
ころでは、
﹁未来と過去は同じ物﹂であり、
﹁違うの
次元から事物を観測することが可能である。ところ
く果てであることは間違いない。同一性と複数性を
は観る側﹂だという。したがって、珪素生物と人類
が、それらの事物が必ずしも存在する全ての次元に
珪素生物と人類の融合体は、生と死のあいだで何ら
の融合体たちは、素子の同位体として互いに異なり
おける実質を兼ね備えているわけではない。成分の
次元の実質があっても、視覚の次元の実質があると
は限らない。ところが、いわば珪素生物との融合は、
目指した結末とは、構造の固定である。それは﹁未
は第二段落に含まれている。
﹃攻殻2﹄が最終的に
この高橋のまとめには幾つもの重大な指摘が含ま
れているが、さしあたり言わなければならないこと
言語論的転回の発想はすっかり力を失っている。な
とである。このとき、言語が認識を切り出すという
でありながら同時に草薙素子でもありうるというこ
考えることができる。それこそが、荒巻素子が個人
存在する全ての次元との対応関係を結ぶことだ、と
来と過去は同じ物﹂という発言に象徴されるものだ。
︶
pp.084-085
ながらも、完全に継続性を保ちつつ、同一の存在で
両立させる存在に、素子は成り果てたのである。
常に、より上位の相から定義づけることが可能にな
て、この固定があって初めて、個としての部分を、
立ち位置が堅持されており、その意味で、すべては
﹂ に お い て は、
EPILOGUE
珪素生物との融合後の素子を描いている。そこに登
大きな枠組みのなかへと解消され吸収されるという
﹃ 攻 殻 2﹄ の 最 終 章﹁
場 す る の は、 ま ず﹁ 彼 女 と も う 一 人 ﹂
、すなわち
ここで保持される回帰とはまさしく循環構造であっ
構 造 が、 最 終 章﹁
﹂を貫いているこ
EPILOGUE
06
かの永遠の回帰を繰り返すということが推論される。
とは明らかであろう。
06
あることがわかる。
︵高橋前掲書
06
ぜならば、構造が固着しているからである。ここに
タインは以下のように言う。
である、というものである。例えばヴィトゲンシュ
私が彼に、﹁私は痛みを持っている﹂と言ったの
に答えて、彼が﹁それはそれ程ひどくはないであろ
いない態度;疑っている態度;等々、であろう。
を持っている、という事を信じている態度;信じて
私が或る人に、私は痛みを持っている、と言う。
彼の私に対する態度は、そのとき、本当に私は痛み
おいて観測者としての権威は全て草薙素子によって
独占されている。存在する全ての次元とは、草薙素
子が設定した恣意的な全体集合の内部に設定されて
いる。
これでは、いくら珪素生物との融合という極めて
特殊な事態を前提としているとはいえ、ほとんどか
つて危惧したあの﹁人類補完計画﹂の姿を彷彿とさ
せはしないだろうか。もちろん、そのまま我々の現
実に導入することが可能な考え方ではない。そして、
う﹂と言う、としよう。 ―
彼がそう言うという事
は、彼は私の痛みの表出の背後にある﹁痛み﹂とい
ひどくはないであろう﹂と言う事に示されている彼
恐らくはそうするべきでもない。我々にはこれを捩
の 態 度 は、 彼 は 私 の 痛 み の 表 出 の 背 後 に あ る﹁ 痛
う或るものの存在を信じている、という事に対する
後期ヴィトゲンシュタインは﹃哲学探究﹄におい
て、言語ゲームというモデルを提案した。構造言語
み﹂という或るものの存在を信じている、という事
じる必要がある。方法が無いわけではない。我々は、
学の成果に触れている我々にとっては比較的理解が
このことを言語の機能から考え直すことができる。
容易くなっているかもしれないその内容とは、語は
を証明しているのではない。もし、証明という事を
証明ではないのか。 ―
そうではない。彼の態度は
彼の態度の証明なのである。[彼が﹁それはそれ程
意味を持たず、語がどう使用されるのかだけが重要
ている。
珪素生物との融合によってネットワークの全容を
完全に統御するような構造を現出せしめることは、
言うとすれば、彼の態度は彼の態度の証明なのであ
題のみならず、それに対する彼の答え﹁それはそれ
現実的ではない。しかし、あたかもそうであるかの
る。
]私の言う﹁私は痛みを持っている﹂という命
程ひどくはないであろう﹂をもまた、私や彼の口を
ように振舞うことは出来ないことではない。語の使
用という極めて端的なレベルで我々はその実感を得
つ い て 出 る 自 然 な 音 と 振 舞 で 置 き 換 え て み よ!
[そうすれば、彼の態度は彼の態度の証明である事
ることが出来る。同じ言葉を共用しながら異なった
﹁痛い﹂という言葉が誰の口から発せられるかは重
る影の自転車に乗るような感覚であるのに違いない。
いるとしよう。これは、その自分から観て伸びてい
自転車の影があるとして、自分がライトで照らして
が、分かるであろう。
]
︵
﹃哲学的探求﹄
大な問題である。
﹁私﹂が﹁私は痛い﹂と言うこと
もちろん物理的に自転車の影に乗ることができるは
用途に用いることができること。例えばある一つの
は自動的に私的感覚についての言明になる。他方、
ずなどないわけだが、この発想が、件の、ネットワ
︶
p.206
て﹁私﹂が述べていることにはならない。
﹁私﹂が
﹁君は痛い﹂ということは、
﹁君﹂の私的感覚につい
しかしながらそれを考えることは既に士郎版﹃攻
殻﹄の範囲を超える仕事である。我々はいったんこ
ークにおける自我と他我の区分に光を当ててくれる。
を変えているのを示している。そして、先ほどまで
こでこれまでの読解を総括した上で、次の段階へ進
﹁私は﹃君は痛い﹄と信じている﹂ことを示すのみ
﹁次元﹂という言葉で表現されていたものとここに
むことにしよう。
である。これは、同じ言葉が使用に応じて振る舞い
おける﹁使用﹂という言葉は同じニュアンスを持っ
素子と人形使いの出会いは、もっとも擬似人格ら
しいゴーストと、もっともゴーストらしい擬似人格
に振舞うが、上位の次元から眺めたときは全体の中
ごく簡単に言ってゴーストⅡは矛盾を抱えている。
下位の次元から眺めたときは人間的な個として自由
ディカルに推し進めることで、自分が人間であるか
と。素子としては、ネットワークの身体化をよりラ
ては、揺らぎを取り込むことで真に生命体になるこ
*
の出会いと換言できる。この二人の融合は、互いの
の部分としてロボットのように振舞うのがそれだ。
どうかというような問いを相対化すること。
懸念を解消するものとして行われた。人形使いとし
だがその矛盾は我々に光明を与える。意識というア
プリケーションがどのように成立しているかを考え
である︵自︶意識を批判しようとしていたからだ。
このことが重要なのは、我々が、他者というもの
を考えるために、自他を分ける根本的な要素の一つ
﹃攻殻﹄初期においては、ゴーストとAIの差異が
ゴーストⅠは、意識とニアイコールである。そして
る手がかりになるからだ。
頻繁に論われる。バトーは、ゴーストが無いにも関
我々は意識が、言語によって制限された、とりあえ
意識を関係性の中に解放すること。それが、部分
的には個人であり、部分的にはロボットであるよう
わらず血は赤い人形を悲しいと考える。しかし、草
な人間像を求める理由である。しかし、これは近代
ずのものだと知っている。
ネットワークに親しい素子がこのような認識を持っ
薙素子は自分が既に死んでいてゴーストは擬似人格
ていることは自然である。では、ゴーストと擬似人
のものの考え方では難しい。夏目漱石は﹃文学論﹄
なのではないかと怖くなるときがあると言う。より
格を分けるものとは果たして何なのか。
されるようになり、個としての役割が常に上位の相
によって対応づけられることとなる。
で﹁ same space
ハ occupy
デキヌ﹂ということを
言った。一人乗りの自転車に二人で乗ることは基本
組みはそうなっているのではない。とはいえ、意識
るように、人がそう思い込んでいるだけで世界の仕
うことを明らかにすることだった。意識がそうであ
この問題に対するゴーストⅡのソリューションは、
そもそも自然状態で人は相に従って生きているとい
りきっている。だが、そう考えることは、自分を疑
心配など存在しない。全てはある意味において決ま
というが、ことここに至ってはそもそもそのような
つ遊びがシステムの自壊原因である固着を回避する
うことだ。人形使いの見立てでは、下位の端末が持
的にできない。
というアプリケーションは既に走っているので、こ
うことを機能として持っている個から希望を奪う。
しかしながらここにはいくつかの難点がある。一
つはそこで出来たのは完全に静的な構造であるとい
れを停止するのは簡単なことではない。
もう一つは単純に珪素生物と融合するようなネット
述の状況を実力で推し進めたものと言える。ネット
化﹂するような世界を作ってしまった。これは、前
能と変わらない。とすれば素子の辿った道筋という
肯定されるというのは、実際にはほとんど宗教の機
だが、これらのことを現実的に換言することが可
能である。端末である自分の行動が全て上位の相で
ワークがほとんど実現不可能ということだ。
にアクセスするや否や人はアプリケーションをすり
のはある意味において、自分が宗教の教祖になるの
脳を用いてネットにアクセスしてきたものを﹁素子
かえられる。そしてそのプログラムは、珪素生物と
に似ている。もちろん素子にそのような認識はない
人形使いとの融合は、素子にネットワーク全体と
いう極めて広大な身体を与えた。そして彼女は、電
の融合によって完全に定義された世界において配置
たからだと言える。ゴーストⅡのもっともラディカ
したのは、彼女が厳密なルールを定義する側に回っ
ものに対処しただけと言える。だがその不安が停止
だろう。彼女は単に自分の抱えている不安のような
あるとも言える。この意味で宗教的という表現は正
近な言い方をすれば単に誰かに依存しているだけで
格的なものによって保障されているというのは、卑
持つということでもある。とはいえ、それを何か人
このとき、自他、ないしは人間とロボットという
差異を抹消するというのは、ほとんど悟りを開くこ
しい。
というよりも神的に見える。そしてこのネットワー
とに等しい。そして、そのような人物に神々しさを
ルな形として、ほとんどネットワークに宿る幽霊と
クにおける認識は素子が独占しているため、我々は
感じ、救いを求めるのが宗教の始まりであるだろう。
宗教という言い方をしたが、ある意味においては
ウィルスと言ったほうが正確だろう。ここにおいて
ついてくれば不安から逃れることができる、と誘い
ョ﹄第三部ではDIOがポルナレフに対し、自分に
化した素子は、下位の相から観ればロボット的に、
見方を変えることが出来ない。
ネットに触れたものはみな﹁素子化﹂してしまうの
をかけていたことを。
そういえば、我々はふと思い出す。かつて﹃ジョジ
だから。ここでもまた漱石以来の、一つの場所を二
意識がスタンドアロンで動くためのプログラムだ
とすれば、そうでないプログラムはもはや遠隔操作
つ以上が占有できないという世界観が生きている。
端的にここでネットはバトルフィールドであって、
向性としては我々は士郎と同一である。どちらか一
を受け入れることくらいしかないように思われる。
れはあらゆるものが﹁見方﹂によっては別の性質を
て は め て み よ う。 あ る 一 つ の 語 の 表 象 を 巡 っ て、
上位から定義される行動とはそのようなものだ。方
つではいけないのであれば、なんとかそれらを部分
我々はみな違った使用をする。にも関わらず我々の
上位のものに定義づけられるというものである。そ
的にでも同居できるようなプログラムを作らねばな
言語は通じる。この発想は、同じ場所を互いに占め
より強い方が勝つ。士郎の世界観は、全ての存在が
らない。
は、 避 け ね ば な ら な い だ ろ う。 そ う で な け れ ば、
ということである。そのようなマトリックス的状況
発達した世界においては、誰かが素子の地位に着く
もしどこかが覇権を取ってしまったのなら、電脳が
力を発揮していたことからもそれは伺える。しかし
な世界観である。現実に冷戦構造的なリアリズムが
てもそれは変わるまい。それはバトルロワイヤル的
巡って闘争が起きるだろう。素子がいなかったとし
一方、ネットワークが全的に展開された世界にお
いては、自分が唯一の上位になるべく、その覇権を
遍的であると考えようとすることであるのは、既に
その必然性ゆえに、意識が現在の自分の認識こそ普
的に考えられているのである。そして生じる倒錯が、
の使用という一瞬において、我々にはあたかも必然
ろんそれは恣意的である。その恣意性が、たびたび
が事物と対応していると考えることができる。もち
その範疇において語に意味が内在していると。言葉
意識は常に不完全なものとして立ち現れる。我々は
ない。というのも言語によって切り出された我々の
我々が依拠していたソシュールの言語観とも矛盾し
うることを示している。そして、このことは事前に
我々という個は消えてしまいかねない。
もう一つのヒントは、浅田彰の理念型の︿3﹀で
ある。ゴーストⅡが、全体によって部分が方向付け
何度も触れたとおりである。
である。彼によると、語には意味など存在せず、た
られるという点で︿2﹀の見立てと同期していたの
そのようなことを考えるためのヒントが二つある。
一つは後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論
だその使用だけが存在する。我々の文脈にそれを当
もある。我々は、ネットワークを巡るバトルロワイ
力を捉えたが、同時に力とは構造を作り出すもので
ると言った。我々は前に構造を突破するものとして
イト、マルクスを範に取りながらそれが﹁力﹂であ
すものは何なのだろうか。浅田は、ニーチェ、フロ
が構造である。しかしながら、ならば構造を作り出
か。
い込まないための仕事に他ならない。いかなること
トやAIについて考えるのは、ゴーストをそこに追
る閉鎖空間から解放する試みである。我々がロボッ
求めている。それは、言い換えれば、ゴーストをあ
スである。いま我々は、ゴーストの成り立ちを追い
さてこのとき、我々は果たしてゴーストとは何で
あったのかと考える。ゴーストとは、物語のリソー
に他ならない。
ヤル状況を回避しようとしていたが、にも関わらず、
﹃イヴの時間﹄の段階においては、もはや、アキコ
に対し、
︿3﹀においては、もはや部分も全体もな
人間の文化の根底には、逃れがたく力と力が衝突す
がロボットだろうが人間だろうが、明らかにそこに
ない。人間としての生存である。そしてその具現こ
の生存を切り開くものである。動物やロボットでは
い。しかし力とは何なのか。それは我々の個として
いが、それでもそうしなければ我々は生きていけな
個である以上、我々は力を欲している。それは意
識という幻想が作り出したさらなる幻想かもしれな
と考える。従い、差し当たり我々が意識から解放さ
いる。我々はその力の秘密がゴーストに宿っている
ない。そういうものとは無関係な力で世界は動いて
る。だから他者に意識が宿っていると考えてはなら
って動いているからに他ならない。意識は唯一であ
も観測する我々が意識というアプリケーションによ
い。ただ、差異だけが瞬間的に存在する。それこそ
るドラマが渦巻いている。
そが物語であった。この力とは、物語を生み出す力
を意味する。しかしこれでは、ほとんど、彼女がネ
は意識が宿っているように見える。それは、何より
れなければならない。
のだという性質をよく示している。では、そうなっ
りそれがほとんど時間制限つきの、さしあたりのも
まさしくこの状態は、意識の一時的な性質を、つま
に宿ったゴーストが意識になるというのだとすれば、
人物たちは、軽やかに身体を取り替えていく。身体
子や人形使いは、そして実際には作中の少なからぬ
ゴーストⅠからゴーストⅡへの移行はその過程と
して描かれる。半ばそれを体現する存在であった素
れが神に似ていたとしても、それが神と同じ機能を
はない。だからゴーストは神ではない。よしんばそ
チェは言った。神は死んだ、と。もう神が蘇ること
そのために、我々には何が出来るのだろうか。ニー
ならない。我々はゴーストを神にしてはならない。
我々は、是が非でもゴーストを解放し続けなければ
界は、彼女という上位の相の下に構成されていく。
たことを意味してはいないか。事実そうである。世
ットワークという閉鎖空間に閉じ込められてしまっ
たとき元となるゴーストはどこにいるのか。それこ
担うことは二度とない。
我々はどのようにすればいいのか。問題は明らか
である。一つしかないものを一人が占有しているか
そがネットワークである。遠心力が運動の最中にだ
け現象するように、ゴーストもまたその運動の間に
だけ存在感を感じさせる。
ら弊害が生じているのである。この点から、先ほど
たり前のように、ゴーストⅡはネットワークを身体
単数だから駄目だというのであれば、複数化すれば
幸か、結局一つのこととしてまとめることができる。
まで我々が二通り程度考えてきた処方箋は、幸か不
とする、と言ってきた。それは、現状においては、
いい。複数化の影響は全てに及ぶ。素子の覇権が問
だが、素子の場合、その圧倒的な力ゆえにネット
ワークをほとんど身体化させてしまった。我々は当
ネットワークのヘゲモニーを彼女が握っていること
題ならば、同位体という水準ではなく素子の相の水
準で複数化するのだ。ネットワークが一つしかない
のが問題ならばネットワークを複数化するのだ。そ
して、意識から逃れたいのであれば我々が複数化す
るのだ。閉塞した全体からの解放、構造を作り出す
力とは、まさにこの事物を複数化していく力でもあ
る。我々は知っている。
こうして、ようやく我々はゴーストⅢ、即ち本来
のゴーストについて思考することができる。だが、
□7 ﹃ジョジョの奇妙な冒険﹄Ⅱ
あるいはゴー
ストⅢに向けて
思えば、このひどく長い迂回は全て、早すぎたレ
クイエムへの到達をやり直すために試みられたもの
だ っ た。 ス タ ン ド の ゴ ー ス ト 化 の 結 末 を、 シ ル バ
ー・チャリオッツ・レクイエムに見たときに、我々
ていた。終わるために奏でられていたはずのレクイ
に行こう。少しばかり長い間、我々は彼らを待たせ
った。その結果できあがったのがあの物言わぬ自動
間にそうするがごとく、迂闊にもそれを育ててしま
振り返ろう。我々は超能力の説明概念としてスタ
ンドという人形を手に入れた。そして、あたかも人
はしおりを挟んでいた。
エムが、ずっと、終わることを許されないまま待ち
人形たるシルバー・チャリオッツ・レクイエムであ
その前に、そしてその為に、まずは忘れ物を回収し
ぼうけにされていた。
る。
これは驚くべき強敵だった。まずほとんどの攻撃
が通用しない。というのもレクイエムの本質は、全
ぜこのレクイエムがそのような影の集積になってし
のことについて以下のような解釈が可能である。な
対象の破壊を目的としていたのだから、こちら自身
ることによって図られる。とりわけ今回の場合は、
意識である以上、問題の解決はこちらの意識をいじ
ての人間たちの﹁心の影﹂の集積だからである。こ
まったかといえば、人々がそのような視線を注いだ
の魂を破壊したというのは全くもって正しい。
ここから、我々はいくつかのことを考え直すこと
ができる。キーとなるのはもちろん、ここに消えい
からだ。二足歩行のロボットを見て人はあたかもそ
れに意識があるかのように考える。事態はそれと全
く一緒である。
破壊したブチャラティ、そしていま一度現れたもう
くシルバー・チャリオッツ・レクイエムと、それを
そしてレクイエムは注がれた視線の要望に答えた。
それは、これが自律した何ものかであるのに違いな
シルバー・チャリオッツ・レクイエムはすでに触
れている通り、フィクションの顕現のような存在で
一人のレクイエムである、ゴールド・エクスペリエ
ある。ほとんどそれは妄想そのものであるとすら言
いという希望である。
﹁矢﹂を守るというのはもち
目的となる。レクイエムを討ち果たすためには、彼
ンス・レクイエムである。
を取り囲む人々が自ら自分の魂のようなものをスタ
い得るかもしれない。というのも、スタンドが可視
ろん当初においてはポルナレフの命令だったが、頑
ンドで破壊する必要があった。そして、ブローノ・
的なのは、そうすると説明が的確になるからであっ
なにそれを守り続けることによってそれは彼自身の
ブチャラティがそれを実行することによってシルバ
て、その像が先立っているわけではない。スタンド
よって成立している。例えばスタンドという義体が
という中身は、あくまでも﹁かのように﹂の集積に
ー・チャリオッツ・レクイエムは消滅した。
これは我々にとっては非常に納得できる展開のは
ずだ。他者の意識の存在を問題化するのがこちらの
存在していて、あたかも草薙素子が乗り移って動か
しているかのように見えたとしても、決してそのよ
うな仕組みが存在しているわけではない。
そのシルバー・チャリオッツ・レクイエムに止め
を刺したのがブチャラティであることは、偶然では
ない。というのも、その時点におけるブチャラティ
は非常に特殊な状態の存在だった。彼とチャリオッ
あくまでももし素子のようなゴースト的存在が現れ
在に他ならない。しかもそれは義体ですらなくて、
な中身を持たないままに勝手に動く義体のような存
ころが、ここでいうスタンドは、言わば素子のよう
らくスタンドのような存在になるのに違いない。と
とも巨大な影響を与えたのが彼である。あるいは、
物語と考えることができるが、そのジョルノにもっ
がギャング・スターになるという夢を叶えるまでの
部は基本的に主人公であるジョルノ・ジョバァーナ
とマフィアの一員で優秀な男だった。ジョジョ第五
具体的にはどのようなものか。とりあえずブチャ
ラティという人物について説明しよう。彼はもとも
ツは、極めて似た状態をしていた。
うるとしたら、という仮定の下に想像される仮想的
第五部の主人公は実際にはブチャラティであると嘯
もしネットワークの中の運動という形で存在して
いる素子が、そのままに物理空間に顕現することが
な実体である。スタンドは、その見かけの存在感の
いたとしても、多くの読者が納得してくれるのでは
できたら、と我々は考え得る。できたら、それは恐
強さに対して、ひどく空虚なものであるということ
ないだろうか。
とができる。
スに出し抜かれてしまったため、已む無くチャリオ
によってブチャラティは幹部に昇格し、信頼を獲得
ともあれ彼はジョルノを仲間に加え、課せられた
いくつかの組織のミッションを攻略する。このこと
は言わざるを得ない。この意味で、素子のようなゴ
ースト的存在の、そのさらに影を為しているのがシ
した組織のボスから娘︵トリッシュ︶の警護という
ッツをレクイエム化させてしまう。
ルバー・チャリオッツ・レクイエムであると言うこ
重大な任務を受ける。ブチャラティは見事に娘をボ
児体験から、子供を傷つけようとする親というもの
の手で殺害しようとしていたことを知る。自らの幼
ド・エクスペリエンスが彼の生体部品を作って補填
与えていたのだが、ジョルノのスタンド能力ゴール
さてブチャラティはどのように特殊な状態にあっ
たのだろうか。ボスの一撃は明らかに彼に致命傷を
スのところまで届けるのだが、実はボスが娘を自ら
に徹底的な憎悪を抱いていたブチャラティは、ボス
したことで、なんとか生き残ることができた。しか
チャラティのイメージらしきものが立ち上がってジ
いないにも関わらず、あたかもスタンドのようにブ
ャラティが目覚めた瞬間、彼の身体は全く反応して
し、その瞬間から何か様子がおかしい。まず、ブチ
への反逆を決断する。
﹁任務﹂は終わっただと? ボス/違うぜ⋮⋮まだ
続いてる! トリッシュは⋮おれ自身の命令で護衛
するッ‼︵
﹃ジョジョの奇妙な冒険﹄ 巻 p.67
︶
ョルノに声をかける。それは明らかに妙なのだが、
次の瞬間、身体の方も起き上がるので、その妙な感
リムゾンの一撃を受けて瀕死に陥ってしまう。ボス
に穴を空けてしまうのをジョルノは目撃する。とこ
しかしすぐに異状は露見される。例えば、ブチャ
ラティが突き出た釘に手をついてしまい、手のひら
じは隠蔽されてしまう。
を倒すための力として矢を守っていたポルナレフだ
ろが、出血も無ければブチャラティには痛みを感じ
決に及んだ際に、彼はボスのスタンド、キング・ク
が、かような状況のもとで、ブチャラティたちがボ
このブチャラティの口上は重要な意味を持ってい
る。しかしその解説は後回しにしよう。ボスとの対
56
対に朽ちらせる﹂のだが、ブチャラティはその影響
ディと交戦する。このスタンドは﹁生きてる者を絶
に降りた人間にカビを生やすスタンド、グリーン・
また別の局面において、高いところから低いところ
たようだ/[⋮]/オレの﹁命﹂は⋮/あの時すで
ネルギー﹄はもう少しだけ﹃動く事﹄を許してくれ
の負傷を治してくれた時/おまえがくれた﹃生命エ
然の運命だってな⋮/ヴェネツィアでおまえがオレ
不思議だな⋮⋮⋮/これは﹁運命﹂とオレは受け
取ったよ/﹁天﹂がチョッピリだけ許してくれた偶
た様子すらもない。なんと、彼には脈さえもない。
を 受 け な か っ た。 敵 は、
﹁本体は殺されたのに
︶
p.83
に終わっていたんだ︵前掲書
巻
⋮⋮⋮/執念のエネルギーが強いため﹃スタンドだ
けが生きてる﹄
﹂という性質を持つノトーリアス
B・I・Gと、ブチャラティの類似性を指摘する。
く苦しめた敵で、結局倒すことが不可能だったため、
ィッキー・フィンガーズを行使することができる。
のような状態でありながらなお彼のスタンド、ステ
もちろん、ノトーリアスとは異なりブチャラティ
自身がスタンドになっているわけではない。彼はこ
海に落として無効化するしかできなかったという強
差し当たり我々は、痛覚が欠如しているらしい様子
死んでいる。そして、ブチャラティ自身もそれを認
これらの情報を鑑みたならば、もはやこの結論は
避けられないだろう。即ち、ブチャラティはすでに
によって彼の肉体が死んでいることは証明されてい
いうことになる。もちろん、グリーン・ディの能力
いえば、それ以外はほとんど何も変わっていないと
るので、我々にはもうブチャラティが通常の意味で
トをハックして思うように動かすのと全く同じであ
これは﹁攻殻機動隊﹂において草薙素子が様々な
義体を乗り換えたり、あるいはトグサなどのゴース
記述しているが、シルバー・チャリオッツ・レクイ
ぐに気付くかどうかは別である。我々は既に何度か
チャリオッツ・レクイエムと対応していることにす
ここで先に引用したブチャラティのセリフの解釈
を試みたい。ブチャラティはトリッシュの護衛をそ
る。しかし、もちろん﹃ジョジョ﹄の世界には電脳
エ ム の 行 動 原 理 で あ る、 矢 を 守 る、 と い う も の は
死体を操縦している。それは言うなれば、スタンド
など見当たらないし、スタンドを持っているという
元々は自らの主であるポルナレフの目的であった。
れまでのボスの命令としてではなく、﹁おれ自身の
ことで操縦の才能はあるにせよ、何かの身体を操る
しかし、レクイエム化に伴って、矢を守ることは彼
を動かす要領で肉体を動かしているようなものなの
ことに特化した能力をブチャラティが持っているわ
まがいになってしまったもの、かたや非人間から人
自身の目的となったのである。かたや人間から人間
命令﹂で継続すると言う。別段この文章が何か不明
けではない。ブチャラティが現状で自分の身体を操
対応を見せる世界観が踏襲されている。だからこそ
おいては基本的にデカルト的な魂と身体が一対一の
ったからに他ならない。このように﹃ジョジョ﹄に
とで永らえさせているという点で、明らかに同期を
のまがいものの状態を、自ら任じた目的に殉ずるこ
間まがいになってしまったもの。二人の存在は、そ
この点からレクイエムを破壊したのがブチャラテ
見せている。
のである。
魂も身体もないはずのレクイエムの異常さが際立つ
瞭なわけではない。しかし、この文章がシルバー・
縦し得ているのは、ひとえに、それが自分の身体だ
だろう。
生きている、と考えることはできない。つまり彼は、
識していた。
から、ブチャラティの異状を感じ取っている。逆に
力なスタンドである。
︶
︵ノトーリアスは作中においてジョルノたちをひど
60
ィだったということの、その権利的な正統性を見出
その眠りの間に、人々の魂と身体の組み合わせをシ
この状況の最大の問題はボスが誰の身体に入った
か分からないことだった。実はボスは多重人格者で、
ャッフルするという驚愕の効果である。このことに
ことができなかった。しかし、ブチャラティには完
ボスの本体はまるで幽霊が取り憑くようにトリッシ
すこともできる。これは、能力上の問題ももちろん
全に破壊することができたのである。ここから我々
ュの精神に寄生していた。自分の身体から弾き出さ
よって様々な人物が入れ替わってしまい、状況は混
は、魂を照らす光というのがそのまま魂そのものに
れた結果、ボスは誰かの身体のイニシアチブを取る
絡んでいる。レクイエムを囲む人々の背後に、自ら
近しいものであるということが分かる。従って、そ
ことが出来なくなった代わりに、ひっそりと誰かの
乱を極める。
れを破壊できるのは、既にそれを失ったままでいた
傍に隠れることが出来ていた。この点でボスは、そ
の魂を照らす光があることに最初に気付いたのはボ
ブチャラティ以外にいなかった。まがいものはまが
のままブチャラティ的な問題に直面していた。ボス
でトリッシュがスタンドを出した瞬間を狙い、自ら
スであった。しかし、ボスはその光を破壊し尽くす
いものによって討ち果たされたのである。
第五部がこの魂の自律⋮⋮即ちゴースト的なもの
⋮⋮を主題にしていることは既に列挙した要素から
のスタンドでそれを掴むことによって、その身体の
は、自分が隠れている身体を自由にできない。そこ
も明らかであるが、さらに論おう。いささか展開が
奪えばその身体の自由を奪うことになる、というの
イニシアチブを取ったのである。スタンドの自由を
は、そのスタンド主の精神と身体がぴったりと密着
が出現したとき、辺りにはレクイエムの特殊能力が
働いた。それは周囲の人々を余さず眠りに落とし、
たポルナレフが精神だけで亀に取り付くという離れ
前後するが、シルバー・チャリオッツ・レクイエム
していることを意味している。
業を成し遂げていたことも、増幅ならではのものと
に受け、まるで他の人たちと全く同じであるかのよ
身体に定着させる。ブチャラティはこの恩恵を最大
そしてそこからもう一度強制力を働かせて、精神を
一時的にブチャラティと同じ状態にすることである。
レクイエムは、見かけとしてはさして畸形ではない。
った人間たちは、端的に化け物になりつつあった。
﹁ 別 の モ ノ ﹂ に 変 え よ う と し て い た。 変 わ り つ つ あ
留まらず、その精神の力の増幅によって、生き物を
その延長でレクイエムは、仮想的な自己を、人間
まがいのものとして自己を無から成立させるだけに
言えるだろう。
うに転移先の肉体に定着していた。その転移先がボ
しかし、その在りようは明らかに畸形である。我々
一方、身体から精神がほとんど剥離していたブチ
ャラティは、この状況に完全に対応していた。レク
スの身体であるということの皮肉、あるいは必然性
には珪素生物と融合した草薙素子を想起することが
レクイエムの効果には補足が必要であるだろう。
ブチャラティが空洞化した身体を操縦できたのは、
は、生まれた瞬間に世界の人々を勢力下に起き、そ
同位体になってしまうのと同様に、このレクイエム
イエムの効果というのはある意味、あらゆる人物を
は既に明らかであろう。
卓越した精神力があったからである。即ち、精神と
の影響として自らと同じ畸形の存在に変化させよう
可能である。電脳を装備した人間がすかさす素子の
肉体の入れ替えは、レクイエムがあらゆる人間の精
としていたのだ。
従って我々は、シルバー・チャリオッツ・レクイ
エムを、ゴーストⅡ的なものとして考えることがで
神の力を増幅することによって行われたのである。
その現れとして、実際にスタンド能力が強化される
という事態も見られた。また、身体が滅びかけてい
て三者は同一の戦場で競い合い、結果としてブチャ
ブチャラティやボスがいたということになる。そし
クに干渉できる強い素質を持ったものたちとして、
臨していたレクイエムに対し、偶然にもネットワー
この観点から言えば、ネットワークの覇者として君
ばならないものとして立ち上がっているのである。
きる。そして、それゆえに、これは打破されなけれ
ていたことに対する抵抗として、この戦いはあった
理やり自分たちを自動的なものにしてしまおうとし
ではないだろうか。レクイエムという謎の存在が無
れていたのはむしろ、自分の身体の支配権だったの
元にチャリオッツを滅ぼした。しかし、そこで争わ
そこにいた人々は皆、矢を手に入れるという目的の
ュアンスが強いものである。名目上、ボスも含めて
いずれにせよチャリオッツは滅ぶ。そしてシャッ
フルされた精神たちは、今一度元の身体へと還る。
のではないか。
とはない。このネットワークはレクイエムによって
ブチャラティの身体はボスと交換された際に、念の
ラティが勝利したのだと考えることができるだろう。
開かれ維持されていたものだから、レクイエムの破
ために銃撃を加えられていた。身体はそのことによ
がゴーストを巡る思考において排除してきたはずの
我々はここに幾ばくかの補足を加える。先ほどま
で、素朴に我々は魂と口に出してきた。それは我々
自分の魂を照らす光を破壊してしまったせいだ。
った。彼は天に昇っていった。それは明らかに彼が
ブチャラティはついぞ自分の身体に戻ることはなか
ることが出来た。ではブチャラティはどうなのか。
だはずの肉体を補修し、ジョルノは自分の身体に還
確かに自律的であるが、それ以上に自動的というニ
レクイエム自身には精神が入っていない。それは、
ツ・レクイエムは精神を自由に出来るにも関わらず、
り 返 し て き た 通 り で あ る。 シ ル バ ー・ チ ャ リ オ ッ
チャリオッツはゴーストⅡ的な機能を持ってはい
たが、ゴーストそのものではない。それは何度も繰
んそれは分からない。これは、レクイエムが登場し
そうなると光とはいったい何なのだろうか。もちろ
をゴーストの影といっている⋮⋮だったのである。
込んできたが、むしろ影とは我々の魂のことであっ
とを意味している。我々はレクイエムを影だと思い
されなければ存在しえない影のような存在であるこ
それはまさしく、あたかも上位のものから下位の
ものが定義されるように、魂というものが光に照ら
する。ナランチャはいなくなってしまったが、死ん
身体に宿った状態でナランチャはボスに襲われ絶命
ることができる。魂さえあれば。実際、ジョルノの
ンスが何とかその魂が宿るに足るまで身体を補修す
そこに宿る魂さえあれば、ゴールド・エクスペリエ
とはいえブチャラティが新たなヘゲモニーを握るこ
壊に伴って消滅してしまう。
実体的な思考に近い。スタンドが倒れれば主が倒れ
て初めて表現されたものだからだ。恐らく、普段は
って死んでしまっていたといっていい。もちろん、
るというのは、その手の実体化の最たるものに見え
気付くことも出来ない。
た。レクイエムは言わば影の影⋮⋮我々は一度それ
る。しかしそれは、スタンドはスタンドにしか触れ
ないというルールによってぎりぎり回避されてきた。 しかし我々にはあるイメージを想起することが許
されている。それは﹃攻殻機動隊﹄において草薙素
は魂を照らす光である。このことは、どういう意味
そのもののように取り扱ってきたが、彼が壊したの
ィの死という結論を知る我々はさしあたりそれを魂
のでもなければ、魂そのものでもない。ブチャラテ
そしてその光は、電脳にダイブした情報だけの存在
する素子には﹁光﹂としか表現できないものだった。
によって一気に再生したあの瞬間。それは下位に属
するかと思いきや、膨大なネットと接続されること
子が目撃したあの光景だ。弱りゆく人形使いが消滅
さて、ブチャラティが破壊したのはスタンドそのも
を持つのか。
すら出来ない。
︶魂とは、照らされているときにだ
らすので、我々には振り返ってそれを確認すること
感である、と。
︵そして光は、常に魂を背後から照
魂を照らす光とは不意に垣間見えた上位の相の存在
いたはずだ。ゆえに我々はこう考えることができる。
たかも物質性を備えているがごとき姿の像を与えて
ことになる。
イエムは暴走状態にないレクイエムである、と言う
比較でいえば、ゴールド・エクスペリエンス・レク
がゴールドを名乗っているのは示唆的である。この
るが、先のものがシルバーであるのに対し、こちら
エムは主の力が万全の状態で誕生した。偶然ではあ
ポルナレフのレクイエムが彼自身の能力不足によ
って暴走状態にあったのに対し、ジョルノのレクイ
でしかなかったはずの素子のゴーストを照らし、あ
け生じている、存在の影である。
具体的にはどうだろうか。トリッシュの見るとこ
ろでは、それは暴走状態にあっては外部に撒き散ら
害をゼロにしてしまうために比較が成り立たないか
ド・エクスペリエンス・レクイエムである。
ンドに矢を刺したことによって生まれたのがゴール
とボスが対決する。このときジョルノが自らのスタ
る。事態は最終段階を迎え、矢を手にしたジョルノ
一時的で特殊的な状態の解消であることを知ってい
かくしてチャリオッツという名のレクイエムはい
くつかのものを道連れにして滅ぶ。我々はこれが、
踏み込むことができる。それは第五部と第三部の対
ないのだが、別な対比を描くことでもう少し状況に
れは実際になしというのではなくむしろ、あらゆる
ータスについては全て﹁なし﹂と書かれている。こ
決まりの﹁破壊力﹂や﹁射程距離﹂だといったステ
現されている。そのせいか、スタンドの設定にはお
作や意志の力を﹃全て﹄ゼロに戻してしまう﹂と表
き能力とは、設定上では、﹁攻撃してくる相手の動
*
さ れ た あ の パ ワ ー を 取 り 込 ん だ﹁ 矢 の パ ワ ー﹂ の
らこう表現されていると考えるべきだろう。名実と
比である。
﹁先﹂に行ったものと説明されている。その驚くべ
もに最強というべき能力だが、その能力が仮に無か
ったとしても非常に強力な身体性を持っていること
第三部では時を止める能力を持ったDIOに対し、
同じ能力に覚醒した承太郎が対抗した。スタンドで
んど、静止した時の中を動けるというDIOのザ・
対する敵、ボスのキング・クリムゾンは時を吹き
飛ばす能力とされている。生じる結果としてはほと
協力によって戦闘が成立しているわけだが、時を止
といった風である。もちろん実際には多くの仲間の
止めるものには時を止めるものでしか対抗できない
は確かである。
ワールドと変わらない。だがその説明経路が異なっ
める能力をともに持っていることが極めて重要な意
しかスタンドには立ち向かえないのと同様に、時を
ている。DIOが干渉するのは時の狭間だが、キン
そんな承太郎の性格をよく表しているのが﹁てめ
えは俺を怒らせた﹂というセリフである。時止め合
味を持っていることは間違いない。
力は、最後の方では﹁予知能力﹂という表現を与え
戦に敗北した後、ジョセフの血を吸うという卑怯な
グ・クリムゾンの場合は自分以外の人間たちが時に
られている。それはほとんど、自分に都合のよい未
手段で生き延びたDIOに止めを刺せたのはひとえ
は発見できる。実は、これとほとんど同じセリフを
置いていかれる、という方が的確だ。この難解な能
来を選び取る能力といっても過言ではない。
この二者の対決は、言わばその未来の選択そのも
のを無効にする、ということによってジョルノが勝
ボスが娘のトリッシュに対して吐いている。それは
にこの一念によるものだ。ここで面白い対応を我々
利している。もはやこれ以上具体的に説明しようも
ノに他ならない。我々はジョルノがDIOの息子で
る。ではDIOの役柄はどうだろう。それはジョル
こう考えるとき、承太郎の役柄はボスが背負ってい
た形で物語が再び演じられているのは偶然ではない。
情だが、この最終決戦の局面で、少し配役をズラし
を受け瀕死になる。もちろん怒りは万人に共通の感
からなのだが、このことによってトリッシュは反撃
妄想ではない。では、静止した時の中の行動の運動
動作主の妄想になるようなものだ。もちろん本当に
くることは決してない。静止空間における行動が、
も関わらず、そこで及ぼした結果が現実に回帰して
し、ザ・ワールドはその中を動くことができる。に
ことになる、というものになるだろう。時は止まる
だろうか。解答は、恐らくは、時が止まらなかった
そこで我々はこう問うことが出来る。もしもレク
イエムとザ・ワールドが対決していたらどうなった
矢を手に入れる寸前に彼女が見事に邪魔して見せた
あることをここで思い出してもよい。
その世界を作り出すのは、静止した空間における運
軸のイメージという参照項を持っているからである。
はずだという実感、即ち、かつて所属していた時間
していたものと見てよい。
はなかった。第五部は、その正面からの超克を目指
じたりしていたが、正面から能力が破られたわけで
部分的には時を止めてもどうにもならない状況が生
郎のスタープラチナ・ザ・ワールドが担っていた。
も、敵に最後の止めを刺す役を驚くべきことに承太
はない。その世界に入門しただけである。第四部で
大筋で共同する我々の世界観の端末の差異を、生命
だ。﹃攻殻機動隊﹄の世界で得たイメージに頼れば、
になるが、その恣意性が制御されていることの換言
は言語が事物の認識を恣意的に切り出していること
じる理由が、本当は世界はこのようになっていない
ようなものである。なぜならば、我々が違和感を感
が止まる一瞬ごとに別の可能世界に吹き飛ばされる
それは連続性が阻害されるからだ。換言すれば、時
しい。時が止まった世界で我々は違和感を感じる。
ることは、我々にとっては時を切断されることに等
これは、時が止められた側の方から考えてみれば
いい。あらゆる時は常に流れ続けている。時を止め
量のようなものはどこへ消えてしまったのか。
動量である。もっと端的に、差異と言っても構わな
が持つ﹁遊び﹂が逐次的に対応しているということ
時を止める能力は、第三部においては最強を恣に
した。承太郎がそれを超える能力を行使したわけで
い。では、差異はとこへ消えたのか。
である。このとき﹁遊び﹂という言葉は余裕や対応
可能性という意味合いの他に、まさしく偶然的・一
このときザ・ワールドとはいわば観測の優先権で
あると言える。そしてその優先権が、現実世界に影
ここで我々はある疑問を持たなければならない。
それは果たして時を止めるとはどういうことなのか、
響を与えることができる別系列の世界への移動・滞
回的に生起する個々のコミュニケーションの経験と
所属していた世界に極めてよく似ている上に、そこ
在権として表現されている。そしてその権利を縛る
という問いである。差し当たり本作品においては、
に与えた影響はそのまま元の世界にも及ぶ。この二
いうニュアンスを持っている。
つは別系列ではあっても無関係ではない。言わばそ
ものが時間である。例えばDIOは7秒間しか時を
現在進行している系列とは別の系列の世界へ抜け出
れは、鏡合わせの世界であると言える。恐らくそれ
止められない。DIOや承太郎は、時が止まった世
すことを意味している。その別系列の世界はかつて
らの世界に優劣はない。ではどんな違いがあるのか。
界で時を数えるという逆説を演じなくてはならない
ここから考えられるのは、またしても相と相の力
のである。
それは観測者の力関係であるだろう。
現実世界の安定は、無数の観測の拮抗によって結
果的に成立していると考えられる。ソシュール的に
て世界は支配可能なのかと人々は考えあぐねた。そ
能力に先立って明かされたとき、いったいいかにし
関係のイメージである。ザ・ワールドという名前が
やっているのがレクイエムなのである。
自分は動けなくなってしまう。その不可能な介入を
と。もちろんこれは不可能だ。誰かが時を止めれば
重層的に時を止めることが出来そうだからである、
ここまではDIOとのありえない戦闘を想像する
ことで説明を展開した。ここからはキング・クリム
れが時間を止めることの別の表現であるというのは
の能力はある意味において確かに字義通りである。
ゾンとの間に展開された実際の戦闘を参照しよう。
非常に気の利いた解答であった。しかしながら、こ
それは確かに、ある系列の世界を支配・独占する能
の世界があるとするならば、なぜそれに影響を与え
ここまで書けば明らかにもなろうというものだ。
現実世界に対して優先的な観測を可能にする別系列
の世界にとって、キング・クリムゾンが見たものは
されたこともあったが、それとは異なる。現実系列
ールドと一見似ているし、実際そのような説明がな
力であった。
るさらに別系列の世界がないと言えるのだろうか。
未だ起きていないイメージ、生じていない差異に他
既に語った通り、キング・クリムゾンは未来を予
知し、自分に好ましい選択肢を引き寄せる。ザ・ワ
即ち、レクイエムはスタンドの能力のそれよりさら
その引き寄せがいささか複雑な手続きを踏んでい
ならない。それは、どこに由来しているというのか。
というのも、相手が時を止めたことに対してさらに
スタンド能力の不備というよりは、スタンド主の認
に上の相から観測を行使したのである。我々は論理
ることは確認しなければならない。キング・クリム
識力の人間的な制限や、表現上の困難などが絡み合
もちろんそれは、別系列の世界である。問題はその
ゾンは確かに一つの世界を観測するのだが、それは
った結果に見える。後者の場合、そこにおける判断
的に不可能な以下の想像が可能である。もしもDI
自然な構成力によって齎される必然的な世界である。
の様子は継起的には描けないはずなのだが、便宜的
観測が、ザ・ワールドとは異なり現在の世界から引
それを他の可能世界と違うものたらしめているのは、
に、キング・クリムゾンには7秒間なら7秒間に起
き寄せる形で行われているということだ。
彼がそれに対応した動きが出来るという要素にある。
こることがスローモーションで見える、というよう
Oと承太郎が互いに時を止められるのだとすれば、
だから予知である。そしてこれがただの予知ではな
に描かれる。結果だけではなく、この過程を認識で
常に後から時を止めた方が優位なのではないのか。
いことは、彼が誰からの邪魔も入られることなくそ
きることがあくまでも能力的な特質である。
また、それと同時に7秒の間に起きるべきことは
全て起きる。歩いていたとき、本を捲っていたとき、
の対応を行えるところにある。一見ザ・ワールドと
作から時間性が取り除かれているところだ。過程を
水が滴っているとき、時が吹き飛んだのなら、7秒
し行動しなければならない。キング・クリムゾンは
ザ・ワールドの場合は、追加された7秒の間に判断
時間性が取り除かれているとは、例えば7秒なら
7 秒 と い う 時 間 の 縛 り を 受 け な い と い う こ と だ。
人間であるという制限によってスタンドの能力が
完全に引き出されていないと思わしき様子は実際に
ここに働いているのは通常の時間の効果である。
いると考えるべきかもしれないが、そうではない。
似ているようで決定的に異なっているのは、その動
吹き飛ばして結果が現出するような描写がなされて
分の距離が歩かれ、ページが捲られ、水が滴ること
そうではない。かといって無限にその7秒の対応を
見受けられる。例えば、キング・クリムゾンは目の
になる。普通は、このことから時間性が発揮されて
いるのはまさにそれである。
思考することができるわけでもないようだ。それは
秒以内においては自分を攻撃
時間を越える距離において機能するような意図には
先的に攻撃を当てることは出来たが、吹き飛ばした
前で攻撃を仕掛けてこようとするブチャラティに優
定権である。これは、いくつかの中の選択肢から選
れば、こちらにあるのは観測の決定権、あるいは固
い。ザ・ワールドにあったのが観測の優先権だとす
てしまうのである。それはまさしく観測と言ってい
ら、それはもう変わりようのない未来として到来し
干渉できなかった。
秒の射程においては
好できたり、あるいはその結果から逃れたりするこ
すると思われていたものが、
障害物の破壊を狙ったものだと判明するのである。
を行う能力としてのエピタフという機能があり、こ
というのもキング・クリムゾンには純粋に予知だけ
ここまでの説明は決して無意味だったわけではない。
ン・オーシャンにおいてはこのことがそのままテー
悟を決めることだけである。︵そして第六部ストー
人に許されているのは、未来を知ることによって覚
誰にも利用できそうにもないが ―
能力である。
―
これではほとんど自然災害や交通事故と変わらない。
とが出来ないという、スタンド主にさえどうしよう
もないという点からも明らかな通り、極めて強力な
れが今までの説明を背景にしたラディカルな結果を
マとして展開される。︶
既に書いた通り、時は吹き飛んでも因果関係的なも
果で自分が殺されるようなイメージを見てしまった
は排他的なのである。例えば、もしもエピタフの効
ド・エクスペリエンス・レクイエムに敗北すること
で は、 い か に し て キ ン グ・ ク リ ム ゾ ン は、 ゴ ー ル
それとも言葉のトリックであると考えるかは自由だ。
出来たからである。以下の説明を論理的と考えるか、
とはいえ、ボスを最強たらしめていたのは、彼の
キング・クリムゾンに限ってはそれを避けることが
のは何事もなかったかのように進行している。キン
になったのか。
の連続的な空間においてはキング・クリムゾン自体
秒後に、いやもっと厳密に
時
は元々許されている限りにおいて自由である。さて、
仮にエピタフで
10
秒に自分の脳が銃弾で貫かれているような映像
10
エピタフの映像は有名無実のものとなる。もっと言
である。従って、そこに対して時を消し飛ばせば、
グ・クリムゾンとは異なり、エピタフの映像は点的
を 見 て し ま っ た と し よ う。 と こ ろ が、 線 的 な キ ン
戦がなかったので、必然的に分析もその範疇にはな
と言わざるを得ないキング・クリムゾン以外との交
ながら、スタンドの中でも極めて特殊な一つである
に表現されたか、如何に実現したか、である。残念
時 分
処するのかについては、スタープラチナのように直
の
10
え、キング・クリムゾンが総じて極めて強力な、強
人間としての精神力や身体能力の限界から、理論
値的にこれらの能力を振るうことが出来ないとはい
た出来事は成就するだろう。
10
力に過ぎるスタンドであることはもはや疑い得ない。
さて、我々はレクイエムがどのような口上を立て
たのか既に知っている。今一度彼の声を召還しよう。
ついては知りようもない。
か。あるいは別の方法があるのか。それらのことに
接捌くのか、それとも自動的に銃弾が逸れていくの
ってしまう。例えば向かってくる銃弾などにどう対
い強さである。しかし、重要なのはそれがどのよう
ない。これはキング・クリムゾン以上に実も蓋も無
あらゆる敵対的行動を無にするレクイエムの能力
は、それだけで常時無敵である、としか言いようが
グ・クリムゾンはそれを連続的に捉える。そしてそ
具体的には、エピタフは数十秒以内の結果を視覚
的に投影できるのだが、驚くべきことに、この結果
齎しているからだ。
的に使ってきたゆえのものである。だからといって、
非常に回りくどく検討してきたが、これはむしろ
ボスが、キング・クリムゾンの能力をザ・ワールド
15
10
秒が存在する時空において、予言され
分
10
えば、それは可能世界的に分岐する。その年その日
10
10
﹁吹っ飛ばした﹃時間の中﹄で動けるのはこのディ
アボロ︵ボス
村上註︶だけだッ! ﹂
―
察し、それに対応した行動を取る。ところが次の瞬
間、時の吹き飛んだ空間の中で自らが取った行動自
体が巻き戻される様を目撃し、今引用したセリフを
吐く。そして、その状況をレクイエム自身が解説し
この状況はやはり第三部のある瞬間にどうしよう
もなく似ている。それはDIOが時間を止めてから
出す。
シ⋮⋮⋮実際ニ起オコル﹃真実﹄に到達スルコトハ
数秒の時間差で承太郎が時を止めたあの瞬間、DI
﹁コレが⋮⋮⋮﹃レクイエム﹄⋮⋮⋮ダ /
!! オマエ
が見テイルモノハ確カニ﹃真実﹄ダ/確カニオマエ
決シテナイ!/ワタシの前ニ立ツ者ハドンナ能力ヲ
うしようもなく似ている。時を支配するものに、如
ノ能力が実際ニ起コス﹃動き﹄ヲ見テイル⋮⋮シカ
持 ト ー ト / 絶 対 ニ!
行クコトハナイ/コレガ/
﹃ゴールド・E・レクイエム﹄/コノコトハワタシ
何に人は抵抗し得るのか。その問題が継続し続けて
Oが驚愕し承太郎がその説明をし出すあの瞬間にど
を操ルジョルノ・ジョバァーナさえも知ルコトハナ
とレクイエムがどのような動きを取るかつぶさに観
時の吹き飛んだ暗黒の空間にて確かに彼はジョルノ
スはキング・クリムゾンで時を吹き飛ばす。そして
今となってはこれらの文章が具体的にどのような
意味を持つのかを完全に理解することができる。ボ
ばそれは明らかにスタンドという概念の行き着く果
出す空間から時間性が取り除かれていることを確認
り巻き戻るのだ。我々はキング・クリムゾンの作り
巻き戻る。起きなかったことになるために、文字通
に対して影響を与えようとするや否や、その動作は
︶
pp.102-103
した。それは可逆的であることを意味する。だから
てだったからだ。それは自動的で、実質を持たず、
巻
こそ巻き戻しは可能である。だが、それを可逆的に
それを取り囲む多くの他の人間との関係によって成
イ﹂
︵
﹃ジョジョの奇妙な冒険﹄
するためには一つの条件がある。ボス一人では、彼
立していた。物質的な身体を持たないとはいえ、そ
いる。
レクイエムは、時を吹き飛ばすことまでは許した。
しかし、その後、時の吹き飛んだ空間において自分
の連続性が準拠枠として機能してしまう。別の観測
れはかなりの割合で人間という存在に肉薄していた
ことは間違いない。しかし、にも関わらず、それは
しかしならば、同じことはレクイエムに対しても
言うことができないのか。そう、それこそが答えで
呼び名を与えられてしまったことがそもそもミスリ
っていた。ある意味では、始まりで﹁悪霊﹂という
決定的に人間と違うものに、人間のなり損ないにな
ある。それこそがレクイエムの力である。我々はこ
ーディングだったとも言える。
エムはあらゆる観測から守られる、と。
こ の 解 答 を 以 っ て、 よ う や く、 本 当 に よ う や く
我々は、最初の問いに立ち戻ることが出来る。
*
我々はシルバー・チャリオッツ・レクイエムをゴ
ーストの典型として考えようとしていた。なぜなら
人間ではない。人間的ですらない。人間に似ている
いなかったからに他ならない。そう、やはりこれは
れていたのはひとえに彼が精神自体を持ち合わせて
人間の精神の力を増幅する。彼がそのルールから逃
いルールと言っても過言ではなかった。彼は全ての
のレクイエムの特徴でもある。それはほとんど新し
人間になり損なうと同時に、ネットワークに宿る
存在としてはこの上無いほど強力な力を得たのがこ
のことをこう言い直すことができる。即ち、レクイ
もはや論を待たない。
者が必要だ。そしてそれがレクイエムであることは
63
設定された挿絵に過ぎない。
というのは明らかに仮象だ。それはもはや恣意的に
の精神を見せている。この在り様は、チャリオッツ
自の声を持つこちらのレクイエムは、明らかに独自
ド・エクスペリエンス・レクイエムはこうではなか
これは何故だろうか。この問いは二重的だ。なぜ
こ の よ う な 空 虚 に な っ た の か、 そ し て な ぜ ゴ ー ル
こ と に な っ た の か。 我 々 は 何 も 間 違 え て い な い。
たのか。﹁な い﹂ものが、いつ、ど うして﹁ある﹂
チャリオッツとゴールド・エクスペリエンスを分け
のそれとは隔絶している。いったい何がシルバー・
ったのか、と。
路は、実際には行き止まりではなかった。それはき
我々がチャリオッツの事例を検討して到達した袋小
基本的にスタンドは主の精神の発露であった。従
ってスタンドが傷つけば主も傷つく。チャリオッツ
ちんと﹁先﹂に繋がっていた。くどい迂回はもうや
スタンドという仮面が矢という仮面を被るとき、
片方の仮面は内面として機能する。そのときスタン
はポルナレフの精神から引き剥がされてしまった。
を持つ言葉だ。石仮面。石仮面はDIOを吸血鬼に
ドは主の精神の発露である。従って主から独立して
めよう。
し、究極生物を作り出した。スタンドは石仮面なく
いるはずがない。しかしながら、そうであることに
それは仮面だけが宙に浮いているようなものだ。仮
しては生まれなかった。仮面は今一度装着されなく
よって逆説的に、レクイエムは主体としての自己を
奪い、主体を構成するはずだったエネルギーを撒き
あることによって逆説的に、レクイエムから主体を
き離すこと、形式的な独立を果たすことは、そうで
スキューズだが、結果を先取りして比較すれば、独
ゴールド・エクスペリエンス・レクイエムは、仮
面が再び装着されたものと理解できる。今更なエク
は、今、祭りとキャラクターに分割されてしまった。
きる。物語のリソースというかつて一つだったもの
我々は、ゴーストをより厳密に再定義することがで
たものはこれである。そして、ここに至った今や、
方、特殊な方法によってスタンドを主の精神から引
響を排した独立の個別的な存在として成立する。他
面とは﹃ジョジョ﹄の世界観においては特別な意味
てはならない。
散らす。あらゆる人々の魂の影の集積という、関係
ゴーストとは、この分かたれた二つを再び重ね合わ
確立する。あらゆる観測から守られ、他者からの影
性の象徴以外の何ものでもない全体的な存在として
ようやく、ようやくゴーストというものの輪郭に
辿りつくことができた。我々の次なる課題は、現実
せるものである。
シ ル バ ー・ チ ャ リ オ ッ ツ・ レ ク イ エ ム と ゴ ー ル
ド・エクスペリエンス・レクイエムは、表裏一体を
においてこのゴーストが如何なる振る舞いをしてい
成立する。
成している。そして、今となってようやく分かるこ
るかを確認することである。
*
とだが、二つのものは、我々が一般に﹁祭り﹂
﹁キ
ャラクター﹂と呼ぶものに、それぞれ対応している。
表裏一体をなすレクイエムの二側面に祭りとキャラ
クターが対応すると言うことは、祭りとキャラクタ
ーが相互に関係を持つということを意味する。それ
析しようとした結果である。我々がゴーストという
彼にとって人間とは近代において発明された、もと
義の潮流の中で﹁人間の終焉﹂を唱えた人物である。
本章の最後の仕事として、我々はミシェル・フー
コーを参照したい。周知の通りフーコーは、構造主
仮説を通じて追跡してきたものの正体がこれである。
もとさほど長い歴史を持っていない、ある﹁場﹂に
は、我々が物語のリソースという不可視のものを分
我々がゴーストⅢと呼んで明らかにしようとしてき
しているという考えである。
経験的身体と先験的身体を重ね合わせることで成立
ような役割を果たした。それは、人間という場が、
強力な枠組として機能し、近代そのものを規定する
ついての概念に過ぎない。しかしながらその概念は
いうことであろう。もうひとつは、おおかれすくな
されうる、そのような人間認識の︽自然︾があると
いしてその固有の経験的諸内容のなかであきらかに
るに、人間認識の諸形式を決定し、同時に認識にた
肉体の働きの独異性から分離されえないこと、要す
かれ古く、おおかれすくなかれ克服しがたい、人間
て、いわば先験的美学とでもいえるようなものとし
式や物と有機体に共通する分節などの研究をつうじ
宿り、知覚や感覚器官のメカニズムや運動神経の図
分析の誕生が認められた。ひとつは、肉体の空間に
そうした存在だからだ。
[⋮]そのとき、二種類の
ゆる認識を可能にするものの認識がおこなわれる、
有限性の分析論において、人間とは奇妙な経験的
=先験的二重体である。それこそ、そのなかであら
することのできる、人間認識の︽歴史︾があるとい
経験的知にあたえられると同時にその諸形式を寄生
してはいないということ、すなわち一言でいえば、
れ、人間がそこここでとりうる個々の形象から独立
相互のあいだに織りなされる諸関係の内部で形成さ
史的、社会的、もしくは経済的諸条件を持ち、人間
ある。したがって、そこに示されるのは、認識は歴
でもいえるようなものとして機能してきた諸分析で
の諸幻想の研究をつうじて、いわば先験的弁証論と
て機能してきた諸分析だ。そこで発見されたものこ
ストの二重性がある。そもそもゴースト自体、ある
さらには、その両者の側面を持つものとしてのゴー
して、あるいはスタンドが仮面を被ったものとして。
あることを知っている。空虚が仮面を被ったものと
こに特権的拠点を維持し、ともかく認識の諸形式が
な人間観を新たなるものとして示唆した。とはいえ、
係性によって主体が構成されるという、構造主義的
の迫害の原因となるものであった。そして彼は、関
心主義は、その背後に理性なきものを措定し、他者
主義を批判したのである。フーコーにとって理性中
今や我々は、レクイエム自体、ある種の二重体で
︶
pp.338-339
うことだ。︵﹃言葉と物﹄
種の人間的概念をトレースすることで探求されてき
いずれも分割された二つのものを重ね合わせる力、
体の脈網のうちでしだいに形成され、おそらくはそ
そ、認識は解剖学的=生理学的諸条件をそなえ、肉
た。 従 っ て、 人 間 に つ い て の フ ー コ ー の 思 考 は、
ここにおいて、フーコーが構造主義的な主張をし
た こ と そ れ 自 体 は さ ほ ど 重 要 で は な い。︵ だ か ら
システムであることに変わりはない。
かつてまだ人間概念が存在しなかった頃、経験的
なものと先験的なものはシームレスに結びついてい
我々はフーコーの政治的主張に完全に則ろうとして
我々の探求の基礎を形成していたと言っていい。
た。これは﹁我思うゆえに我あり﹂と言った 世紀
デカルトの時代である。そしてこの二つが分割され
いるわけではない。︶むしろ、彼が、分割された二
コーはカントの何を批判したのか。
のものではなく、二元的なものを重ね合わせること
の激しい対立からも伺えるが、フーコーは、自己完
ーストの、二つの様態に対して、その存在の仕方の
このとき、我々はこのサルトルとフーコーの二つ
の人間観をそれぞれレクイエムの、今となってはゴ
がいかに可能なのかを考えることにあった。
結的で独立的な主体を構成する力である、理性中心
彼は経験的なものと先験的なものを二重化する仕
組みである弁証法を批判したのである。サルトルと
の事実こそが重要である。問題はむしろ、二元論そ
つのものを対応させる力そのものに着目し拘ったそ
たのは
世紀カントの時代においてであり、フーコ
16
ーは端的にはカントを批判したと言える。ではフー
18
類似において当てはめることができる。フーコー的
なものがチャリオッツであり、サルトル的なものが
だとすれば、ゴーストは、サルトル的なものとフー
分析する。一つは、アスキーアート圏と名づける領
本章においては、前章で見出したゴーストの概念
を用いて、主に二つのメタジャンルに属する対象を
■第二章
コー的なものを重ね合わせるような力でもあるとい
域である。もう一つは、ニコニコ動画圏と名づける
ゴールド・エクスペリエンスである。片方が実存主
うことを意味する。従って、このような形でゴース
領域である。前者は、具体的には文字通りアスキー
義的であり、片方が構造主義的である。これが本当
トが何かを問う限りにおいて、我々はフーコー的な
アートと呼ばれる表現方法が中心となって構成され
づけを超えられない部分がある。一方で、その系譜
ちなその性質によって、どうしてもマイナーな位置
話や水掛論争、果ては炎上事件などの温床となりが
ゃんねる﹂は一貫して無視されている。無責任な噂
ば序文で参照した﹃ウェブ進化論﹄において﹁2ち
アスキーアートの古い使用もまた欧米に遡れること
インターネットが欧米由来のものであることから、
字に近いニュアンスのものとして始まったようだ。
て考えられている。それは現在で言うところの顔文
をアート、即ち絵的に利用したことがその出自とし
そもそも﹁アスキーアート﹂とは何だろうか。語
源的には、文字として使われるべきアスキーコード
□1 モナーと初期アスキーアート文化
アスキーアートもニコニコ動画も、大きく言えば
その起源はいわゆる﹁2ちゃんねる﹂に遡ることが
ことになる。
﹁アーキテクチャ的なコンテンツ﹂である、と言う
ン ツ 的 な ア ー キ テ ク チ ャ﹂ で あ り、 後 者 の 対 象 は
り抽象的に言えば、前者の対象はいわゆる﹁コンテ
い、一連の物語作品についてを分析する。これをよ
ニコニコ動画的なコミュニケーションと親和性の高
る、一連の物語現象についてを分析する。後者は、
態度を引き継いでいたのである。
できる。
﹁2ちゃんねる﹂は、その強力な生成力に
対し弊害も大きいと考えられているため、公的には
において現れてきたアスキーアート的なものやニコ
は確かだが、ここで取り上げようとしているのはむ
ネガティブな評価を与えられることが多い。あるい
ニコ動画的なものがメジャーな領域で注目を集めて
としてのアスキーアートである。
しろ日本で独自の文化として発展を遂げた表現方法
は、全く言及されないこともしばしばである。例え
いることは特筆に価する。我々の目的はその真価を
日本におけるアスキーアート文化の発展に大きく
寄与したのは2ちゃんねるである。ということはそ
分析し、物語を自給自足するために、そこから利用
可能な技術を取り出すことにある。では早速検討に
入ろう。
の 発 展 は 2 ち ゃ ん ね る︵ ま た は そ の 前 身 と な っ た
﹁ぁゃι ぃわーるど﹂などの掲示板群︶の歴史に依
存していると言うことができる。2009年現在か
ら15年程度のものということになる。これを長い
的なコミュニケーションにおいて用いられるアスキ
2ちゃんねるを典型とする掲示板では、アスキー
アートは先ほどと異なった振る舞いを見せる。即時
ら計算すれば、アスキーアート文化の歴史は10か
と考えるか短いと考えるかは個人に依存するが、1
ーアートは、単純に感情の記号という意味合いが強
2ちゃんねる以外ではメールやチャットにおいて
アスキーアートが多用されてきた。といっても、そ
文化、ゼロ年代文化など ―
がある以上は、一定の
厚みを持っていることは間違いない。
合から、瞬間的な感情を表現する記号というよりも、
ことなどの違いがある。恐らくはこれらの条件の複
ること、時間を置いてログが残ること、一般的なチ
0年を一個の単位とする文化の数え方
れはすぐに反応が返ってくる対人コミュニケーショ
いわゆるマスコット的な意味合いで用いられる図像
い。ところが掲示板の場合は、不特定多数に見られ
年代
―90
ンの潤滑油としての意味合いが強い。短い文章の中
が現れるようになった。
ーションメールや、元々の文字に似ているが違った
例えば絵文字や記号でゴテゴテに装飾されたデコレ
のコミュニケーションの様子は、この系譜に属する。
た。
に留まらない全国的な知名度を獲得することとなっ
とでマスメディアにも取り上げられ、2ちゃんねる
ているが、いわゆる﹁のまネコ問題﹂などを経たこ
中でも最も有名なものはモナーである。彼は名実
ともに2ちゃんねるを象徴する存在として今に至っ
ャットクライアントと比較して表示サイズが大きい
に感情を的確に織り込むために、絵が導入されたと
記号で綴られるギャル文字のメールは、世紀末前後
言えるだろう。現在の、携帯電話を利用したメール
のネットにおけるコミュニケーションの光景とよく
一方、当時の﹁ぁゃι ぃわーるど﹂などでは﹁マタ
発生しやすかった。この構図は現在も同様である。
黎明期のネットでは、匿名ゆえに過剰な煽り合いが
ト上での通説はこのようなものである。匿名掲示板
るの象徴と言えるほどのポピュラリティを得るに至
は出現頻度が一挙に高まり、最終的には2ちゃんね
貼っておくということが出来るため、オマエモナー
キーアートをコピーアンドペースト︵コピペ︶して
板においては、キナ臭い発言に対しとりあえずアス
さて、そのモナーはどのように生まれたか。ネッ
ーリ﹂という言葉と顔文字が部分的に流行っていた。
った。︵﹁AA大辞典︵仮︶﹂などを参照。︶
似ている。
︵
﹁ぁゃι ぃ﹂にはその萌芽がある。
︶
それは言葉通りに、煽り合いではなくまったりとし
な印象を与える。行数としては5から8行程度を使
スキーアートで、見ていて思わずほのぼのするよう
オマエモナーは非常にシンプルな線で構成されたア
たのがモナー、正確には﹁オマエモナー﹂である。
ないくつかのアングラ文化の雰囲気が複合して現れ
生物の進化を見るがごとき眩暈を催す体験がそこに
にトレースすることが可能であり、あたかも現実の
ほどに増えていった。そのかなりの部分は樹形図的
ンプレート化されているだけでも百以上あるという
なり、モナーの家族というべきヴァリアントが、テ
モナーはコピペで増えた。すぐに、別な言葉を喋
らせてみたり、別な特徴が付与されたりするように
た展開を好む気質の象徴だと言っていい。このよう
う立体的なものである。彼は、明らかに発言者自身
このようにモナーから派生して生まれたアスキー
アートを便宜上モナー系AAと呼んでおこう。︵な
待っていると言えるだろう。
こにあるのは、相手を煽りたいという欲望と、まっ
おモナーと同時期に登場したギコ猫もこの系列に含
にも当てはまるような穴のある書き込みが見られた
たり進行でいきたいという欲望の二つを的確に表現
めることとする。︶先ほどこのモナー系AAを家族
ときに、頻繁にそれを揶揄するために貼られる。こ
した図像である。煽り合いが日常的だった匿名掲示
なかった事実が、その理由だ。彼らは一つの表情ご
よいようなものがあるが、決してそうは扱われてこ
は、むしろモナーの表情変化である、と表現しても
と表現したのには理由がある。モナー系AAの中に
しまうだろう。彼らの顔面は、基本的にはある命題
与えるどころか、むしろ喜んでいるように思われて
﹁ お に ぎ り ﹂ を 貼 っ て し ま っ た ら、 相 手 に 不 快 感 を
実際、相手を煽り返したいときにモナーと間違って
こにおけるモナー系AAはまさにマスコットである。
もちろんこれではほとんど絵文字系と変わらない
扱いである。ではモナー系の特質は何かというと、
とに名前を与えられ、それぞれが個別のものとして
初代モナーから踏襲されている形式だが、基本的
にモナー系AAは、顔面、身体、吹き出しという、
既に一回触れたように、デフォルトで喋る設定にな
を圧縮したような効果を発揮している。
3つの要素から構成されている。中でも最も重要な
っていることが一つ挙げられるる。従って、彼らは
扱われる。ここには、重要な問題が潜んでいる。
要素は顔面で、身体や吹き出しは状況に応じて省略
このような1レスにおいてAAがAAと会話をす
るような表現が洗練されていく内に、1回のレスを
表情を変えられないながら、吹き出しの中の言明に
だけだ。来客を歓待するためにいつも笑顔でいるよ
1つのコマないしページと考えるようなマンガ的、
される場合もあった。これは、要するに顔面こそが
うなぬいぐるみをマスコットと呼ぶのであれば、こ
ーフェイスが必要なのである。実際、複数行を用い
おいて喜怒哀楽を表現することができた。そして、
アルバム的表現が登場するようになった。これは重
て記述されていながら、顔面についてはほとんどの
コミュニケーションの単位だったことを意味してい
要なパラダイムシフトだと言える。というのもここ
場合1行分しか割り当てられていないモナー系AA
表情が固定されてしまった代わりに得たたくさんの
において、従来の顔面を単位とするコミュニケーシ
は、表情のギミックを拡張する余地がなかった。
る。
︵この点でモナー系AAは感情表現を第一義と
ョンが、ページを単位とするコミュニケーションに
家族のおかげで、会話をする相手には困らなかった
シフトしているからである。この流れが、短編AA
マンガ系表現は、まったくこの反動によるものだ
と考えられる。これらの表現の特徴は、表情以外の
した絵文字系の系譜に連なっている。
︶そしてその
作品や長編AA作品といった、モナーたちをキャス
表現が豊かなことである。非常に細かく書き込まれ
のだ。
トとする大量の物語作品を登場せしめた。
︵2ちゃ
た背景が登場し、まるで演劇の舞台を常時ヒキで見
顔面にはおよそ表情や感情というべき多様性はなく、
んねるには専門のモナー板、AA長編板などが作ら
るかのように、登場するAAたちの関係がそこには
一つの顔と一つの名前が一対一の対応を見せている
れた。
︶
アップで撮ることは出来ないという制限が陰に陽に
示される。もちろん、解像度の低いモナー系AAを
いかに言葉を喋れるとはいえ、モナー系の表情の
変わらなさは実際にはクリティカルである。スピー
置関係、登場と退場、背景の切り替えといった間接
効いた結果ではある。しかしながら、AA同士の位
的要素によって感情が描かれる様には、無声映画の
カーを搭載したドールを想像してみればよい。この
であるが、スピーカーを通じて多様な言葉を喋るこ
傑作を彷彿とさせるような迫力が宿って、見るもの
ドールは表情のギミックがなく、顔面はいつも一緒
とができる。これはよく言えばシュール、悪く言え
を感動させてきたということは間違いない。
いずれにせよ結論としては、モナーは表情の制限
ゆえに膨大な家族を増やし、しかも家族としての社
ば極めて不気味な光景のはずだ。我々が不自然だと
感じない程度に感情移入させるためには、実際には
もっと細やかな表情変化を受け止めるだけのインタ
れているのである。
脈や他者との社会的関係が丸ごといっぺんに表現さ
かりやすいのではないだろうか。そこには様々な文
在になった。とりわけ風景写真という言葉遣いは分
にはマンガ、アルバム的単位によって把握される存
における性格などの、各種設定を獲得した。最終的
会的関係や他のマスコットとの違いという意味合い
このことによってAA職人離れが加速し、残った職
以後の連続性を保てなくなるなどの事態になった。
たAAが加害側・被害側ともに性格破綻し、以前と
どの実際的な戦後処理があったほか、虐殺に関わっ
﹁アブノーマルネタ専門モナー板﹂が分割されるな
隈に大きな波紋を投げかけた。事件の影響は大きく、
らし行為と結びつくことによって、2ちゃんAA界
人は残った職人でAAの性格設定の合意に無頓着で
あるといった問題が生じ、総じてモナー系AA全体
も無い。このことにはいくつかの原因がある。一つ
さて、そのようなモナー系AAの栄華も、部分的
な例外はあるものの、今となってはほとんど見る影
重なる板の分割、新規利用者の大量流入など、加速
︵VIP︶板﹂︵ニュー速VIP︶の登場である。度
もう一つの大きな要素は同時期の2ちゃんねる内
における勢力図の変化、具体的には﹁ニュース速報
*
は2004年の﹁虐殺スレッド乱立騒動﹂である。
的に成長する2ちゃんねるにとって、それは同時に
の衰退に繋がった。
文字通りAAの虐殺を表現するこれらの書き込みは、
こす力の希釈を意味していた。そんな中、このニュ
2ちゃんねるらしさでもあるアングラ性や祭りを起
ー速VIPはいわゆる﹁らしさ﹂を凝縮したかのよ
2001年前後から存在していた。特にかわいいA
るこれらの表現は、スレッド乱立という実質的な荒
周辺に﹁ほんとはVIPでやりたいんだお⋮﹂の一
Aを虐殺するということで見るものに不快感を与え
うな暴れっぷりを見せ付けていた。VIPスレ住民
言とともに現れたのが
うバージョンをリリースするという事情もあいまっ
お!のガイドラインまとめ﹂﹃教科書には載らない
︵﹁ 2 ち ゃ ん ね る の 歴 史 ﹂﹁ だ か ら ニ ュ ー 速 で や る
やる夫である。
―
の 起 こ す 事 件 は 枚 挙 に 暇 が な い が、 中 で も ア ニ メ
﹃魔法先生ネギま!﹄のOP曲である﹁ハッピー☆
マテリアル﹂をオリコンチャート1位にしようとし
て、1位こそ取れなかったものの、同曲は毎月オリ
ニッポンのインターネットの歴史教科書﹄などを参
た事件は影響が分かりやすいだろう。同曲が毎月違
コンチャート上位を席巻することとなった︵最高3
照した。︶
手に引き受け、追い出されたはずのVIPで大手を
やる夫の登場はネットの風景を大きく変えた。ポ
スト・モナー時代の2ちゃんねるにおける煽りを一
□□2 やる夫・成長するアスキーアート
位︶
。このようになりふり構わず悪ふざけを行う様
子からスレ住民を示す﹁VIPPER﹂の名は鳴り
響いた。彼らは行動の度に大きな話題を呼び、それ
に引かれて新規住人が増えるという循環に入り、初
期2ちゃんねるのような拡大をし始めていた。また
2ちゃんねるでは3年ごとに板同士の人気を競う
﹁全板人気トーナメント﹂が行われており、ニュー
ス速報︵VIP︶板は見事に3ヶ月の激戦を制し、
第二回トーナメントの王者に輝いている。
2006年初頭、このように栄華を極めるVIP
徴的な事態だろう。これだけの人気を誇るやる夫と
まとめ専門ブログが続々立ち上がっていることも象
ているが、まるでそれをトレースするようにやる夫
せる﹁まとめブログ﹂が隆盛︵と同時に問題化︶し
のアクセスを稼ぎ、アフィリエイトで大金を生じさ
るやVIPの面白いスレッドを転載することで大量
う﹁やる夫板﹂を作るに至った。また、2ちゃんね
各種専門板にやる夫の萌芽を散種しながら、とうと
﹁パー速VIP板﹂をやる夫色に染め上げ、同時に
奮ってスレッドを立てまくり、VIPに飽き足らず
たはずだったのだが、あるとき誰かがうっかりと、
これだけであれば特段の変化を齎すものではなかっ
れがいい﹂に通じるメンタリティである。︶だから、
﹁だが断る﹂や。﹃花の慶次﹄で慶次が言う﹁だがそ
のである。︵それは﹃ジョジョ﹄の岸部露伴が吐く
神を遺憾なく発揮した極めてVIPPERらしいも
という発言は、VIPPERの持つ﹁あえて﹂の精
言えるだろう。さて、件の﹁ニュー速でやるお!﹂
ポスト・モナー時代に唯一生き残った例外的存在と
Aマスコットだ。系譜的にはモナー系に属しており、
前項で検討したように、モナー系AAは顔面に割
くスペースが少なく。ゆえに表情の多様性が無かっ
この内藤ホライゾンの顔の正面をアップにしようと
た。まして顔面をアップにすることなど不可能であ
はいったい何なのだろうか。そしてやる夫は何をし
やる夫は元々、ニュー速板においてVIPPER
のように振る舞う人間に対し、VIPへ帰れと言わ
る。なぜなら解像度が低いからだ。だからもしそれ
思いついてしまったことが、まさにやる夫の誕生の
れながらも﹁ニュー速でやるお!﹂とこだわった内
たのだろうか。さしあたり、我々はモナーとの比較
藤ホライゾンのAAを起源としている。内藤ホライ
を無理やりやろうとなどしてしまったら、明らかに、
瞬間であると言える。
ゾンは通称ブーンと呼ばれる、VIPを象徴するA
ンターフェイスが大きくなり、より強く感情移入し
でそれを考えることにしよう。
元のものとは違った像が出来上がってしまう。実際
てしまったからに他ならない。
さて、このやる夫、表情に割けるリソースが増え
たことによって自前で感情を表現できるようになっ
やる夫はそのようなものとして受け止められた。全
くブーンに似ていない、にも関わらず、ブーンより
もいらつくその存在感。やる夫は、VIP的なもの
ているが、かといって、そう細密な表現がなされて
それぞれの文章が、泣き顔1、泣き顔2、笑顔に対
ニュー速でやるお!﹂という伝説のテンプレートは、
リティ高いスレしか相手してくれないお⋮/だから
IPでやりたいんだお⋮/でもVIPPERはクオ
から、三段オチ ―
三種類の表情を伴っていたこと
からも容易に窺い知れることである。
﹁ほんとはV
けに用いている。これは、やる夫がその登場の瞬間
たのに対し、やる夫は実に6行程度を表情のためだ
多様性である。モナーが顔面に1行しか避けなかっ
解像度を上げることによって生まれたやる夫の特
質は、まさしく、モナーが持っていなかった表情の
ししか動いてないんですよ。逆にF&Cのゲームっ
Sus ie とかで画像を抜いてみると、ホントに少
り、あのものすごく微妙な表情変化なんですよね。
元長
そうですね。なんでLea fのビジュアルノ
ベル・シリーズに画期を見るかと言ったら、やっぱ
論が、既に美少女ゲームの文脈に現れている。
こにあるのだろうか。実は、この現象を説明する議
けているわけだ。では、モナーとやる夫の境界はど
実際、そのシンプルさから白饅頭と日々揶揄され続
作系AAと比較するとシンプルに過ぎるとも言える。
の鬼子としてここに生まれた。
応している。当時のスレ住人がやる夫にブーン以上
て、喜怒哀楽だけというか。大雑把なんですよね。
いるというわけではない。むしろ後述するような原
の苛立ちを感じたのは、まさに感情を受け止めるイ
それに比べると、
﹁喜﹂ひとつとってみても、恥じ
ユーザーのハートを掴めたのか、ひとによってはか
︵笑︶。けれども、これはLea fの水無月徹さんも
なり謎らしいんですね。﹁あんな下手な絵で喜ぶな
そうだと思うのですが、微妙な表情の描きかたが本
らっているのか怒りながらなのか、そういう微妙な
かな。
当にうまいんです。いたるさんはデッサンはへろへ
んておかしい﹂と叩かれたこともありましたし
東 元長さんの原稿では、立ち絵がころころ変わる、
表情がころころ変わるのを見る快楽を、アクション
ろですが、神業としか思えない表情をお描きになる
感情が盛り込まれるのは、あの辺が最初じゃないの
性と結びつけていますね。あれはすごくおもしろい。
︵笑︶。︵﹃批評の精神分析﹄
んですが、感動のあまりにガッツポーズをとった記
れる。むっつりしていた口許が心持ち上がるだけな
って、三回目ぐらいでようやくすこしだけ笑ってく
村茜の場合だと、一緒にお弁当を食べるシーンがあ
のがある。たとえば﹃ONE∼輝く季節へ∼﹄の里
思い出すこともできる。ここに取り上げられている
板の一つがLea f・Key 板であることを我々は
2ちゃんねるにもっとも強い影響力を行使していた
後において、BBSPINKという外郭団体ながら、
ナーたちがこの世の春を謳歌していた2001年前
可能性を暴き立てているからだ。さらに言えば、モ
この座談会が2004年に行われていることは示
唆的である。それは全く違う文脈ながらモナーの不
︶
pp.222-223
独創的だと思いました。
憶があります。まさにどっと単位で変わった表情に
佐藤
ドット単位で表情が変わっていく瞬間には、
アクションゲームで技を決めたときの快楽に近いも
狂喜乱舞した︵笑︶
世紀末に世に問われた作品であるが、
このようなゲームのプレイヤーを多く取り込んだ2
二つの画風はやはり、どこか似ていると思わざるを
のだが、しかし、パーツ単位で考えてみると、この
ゲームは全て
ちゃんねるは、既にしてやる夫の到来を準備してい
得ない。そして、やる夫のインターフェイスについ
Key の原画を描いている樋上いたるさんがなぜ
たと言えるのではないか。とはいえ、まだそのよう
ての思考が深まる可能性は、この共通性に着目する
画を勤めた樋上いたるの画風、通称﹁いたる絵﹂で
になっているのは、長らくソフトハウスKey の原
さて、ここで問題にされているのはあるタイプの
美少女ゲームが刺激する感性である。具体的に問題
る。︶
という語は平仮名と漢字の配分の感覚すらも似てい
るのである。︵蛇足だが、﹁やる夫﹂と﹁いたる絵﹂
て思考することでやる夫について考えることができ
目が置かれ、さらに口が目に近いところに配置され
ることで顎が強調されるということが挙げられ、非
いう眩暈だ。もちろん、現在はいたる絵のキャラク
はこの説明がやる夫についてのものではないか、と
我々はある眩暈に出会う可能性がある。それは、実
面そのものを切り替えることによって人物の様子を
れているF&Cのゲームなどは、顔面ではなく、画
によって表情の機微を描写している。一方で例示さ
元長が指摘しているように、LVNSやKey の
ゲームは、顔面の中の一部分だけを差し替えること
密は差分である。
ターもどんどんAA化されており、それを横に並べ
表現している。ここでは、そもそも変化の単位が異
常に独特な画風であると言える。ところで、実際に
てみればやる夫と似ていないことは明らかに分かる
絵が並んでいない状態でこのように説明されると
ではいたる絵はいかにして豊かな感情移入、即ち、
コミュニケーションを成立させているのか。その秘
ある。当時の特徴としては、平べったい顔に大きな
こと以外にはない。つまり我々は、いたる絵につい
な断言は早いのかもしれない。
20
る対立と全く同じものである。
なっている。そしてこれは、やる夫とモナーが演じ
描かれた一枚絵が展開する。そしてそれらは主にゲ
少女ゲームでは一般的にイベントシーンでは特別に
ームクリア後の特典として、アルバムモードにおい
具体的には他のAAや背景、吹き出しの内容に仮託
現しようとすれば、それは彼を取り囲む環境として、
図像には遊びが存在しない。さしあたり﹁キャラク
における人形使いの発言を用いれば、マスコットの
ここにある。かつて我々が検討した﹃攻殻機動隊﹄
我々が一貫してモナーをしてマスコットと呼びは
しても﹁キャラクター﹂と呼んでこなかった理由が
て自由に閲覧できるようになる。アルバム、である。
しなければならなかった。この表現の単位が、マン
ター﹂に対し、我々がコミュニケーションの対象と
やる夫といたる絵の共通性については既に説明済
みだが、ではモナーとF&C的なゲームはどう共通
ガのコマ割りやアルバムの中の一枚の写真とも言う
しようとするもの、という定義を与えておくとすれ
F&Cが表現したい感動はもっぱらここに発見され
べきものであった。F&Cのゲームにおいては、も
ば、我々は遊びの存在しないマスコットとコミュニ
しているのか。それはもちろん表情変化の単位であ
ちろん人物が微細な変化のキャパシティを備えてい
ケーションを取ろうとはしない。なぜならばそこに
る。他方、LVNSやKey のノベルゲームが表現
ないわけではない。しかし、一枚絵の美しさを重視
る。確認した通り、モナーには顔面の内部で微細な
するがゆえにこのような単位を取ることになった。
は決定的に応答可能性が、あるいは我々がそうと見
したい感動は、アルバムに還元できない日常シーン
このことは次のことを考えればより明快になる。美
機微を表現するだけのキャパシティがない。それを
なしうる変化が欠如しているからである。ここにお
今となっては原作を再現することを目的に設計さ
れるAAは全く珍しくなくなった。しかしもちろん、
でのコミュニケーションにおいて見出される。
いて遊びとは、その図像の固有性や連続性が逸脱し
この風景はかつて、即ちやる夫以前には存在しなか
試みるや否や別の名前を与えられて違うマスコット
ない範囲において表現された変化であり、変化の可
ったものである。しかし、だからといって原作を再
である。自分がAAを設計する際に、これならばか
枠として、我々自身の感覚が既に存在しているから
とではない。というのも、何よりも信頼できる準拠
意味とまでは言わないが、それはそこまで重要なこ
うなものを取り出そうとしているわけではない。無
もちろん我々は別段、やる夫やいたる絵の図像か
ら、遊びを表現するためのパーツ配分の黄金比のよ
なトレースがもともと目的とされていないことを意
なエクスキューズがつく。それは、いわゆるリアル
猫﹂︶を基本として描かれたものであるという重大
のほとんどは、モナー︵あるいは﹁しぃ﹂や﹁ギコ
AA化したものが挙げられる。が、しかし、これら
ラクターたちや、初期モーニング娘。のメンバーを
して、例えばアニメ﹁シスタープリンセス﹂のキャ
たわけではない。モナー時代に人気を博したAAと
が生起してしまう。従って、モナー自身の感情を表
能性である。
わいげがある、これならばイライラする、とその場
現することを目的にAAが設計されたことが無かっ
その場で判断していけばいいだけだ。
の周囲のAAを観察することで分かる。具体的には
それはやる夫を観察することよりも、むしろやる夫
とはいえ、これがやる夫以前とやる夫以降決定的
に分けるファクターとなっていることは間違いない。
かして、一目でどのメンバーを表している判別でき
愛情は、そのデフォルメされた記号の中に、どうに
らないが、いずれにせよ例えばもー娘。板の住人の
という発想がなかったのかもしれない。真意は分か
味する。もとよりこの時代にはAAでそれをやろう
いわゆる原作系AAを比較することになる。
AAを基本タイプとする方法である。
︵具体例とし
って用いられるようになったのは﹁ちゅるやさん﹂
初に用いられるということはまずなくなった。代わ
ないが、同じデフォルメAAにしても、モナーが最
やる夫以後はどうだろうか。もちろん、モナーを
カスタマイズしたタイプのAAが全滅したわけでは
なく表情変化を表現できることを意味する。そして、
ず最初の段階として、顔以外のパーツを動かすこと
常にシンプルなパーツ配置をしている。それは、ま
キャラは、それこそやる夫を彷彿とさせるような非
ればよい。さて、元の絵柄がそうであるようにこの
最初のAA化についてはそれをそのままトレースす
このキャラクターは、元となる図像の段階ですで
にデフォルメされているという事情がある。従って
アニメ化など、正式なスピンオフ作品としてクロス
て は 朝 倉 涼 子︵
﹃涼宮ハルヒの憂鬱﹄
︶や水銀燈
背後の効果音といった表現が成立している。つまり
るアクセントをつけることができるか、という点に
︵
﹃ローゼンメイデン﹄
︶などがある。
︶
このAAは、やる夫がそうであったように、ほとん
メディア戦略に組み込まれるという、まことに驚く
ちゅるやさんとは、同人作家のえれっと氏が﹃涼
宮ハルヒの憂鬱﹄に登場する﹁鶴屋さん﹂という人
ど最初の段階から表情のバリエーションが用意され
注がれた。こうして例えば、ほっぺの黒丸︵●︶だ
物をデフォルメすることによって作り出した半オリ
ていたのである。これは単にAAがある、ないとい
べき、そして興味深い経緯を辿っているのだが、ま
ジナルキャラである。このキャラクターについては
けでそれと分かる安倍なつみのAAといった、非常
当初二次創作として描かれていたにも関わらず、途
った問題ではない。AAを設計する個人の側におい
だそれは置いておこう。
中で版権元である角川書店と合流してマンガ連載や
がやる夫以前とやる夫以後を分ける差異として、も
に優れた作品が生まれていった。
て、そのような表情のバリエーションが﹁自然﹂に
っとも重要なものである。そこには、いわゆるAA
の技術がちゅるやさんという祖形と合流すれば、事
表現する技術を磨いていたのである。とすれば、こ
条件の一つに、遊びがあること、という条項を加え
いて合意を作っておきたい。さしあたり我々はこの
我々はゴーストの振る舞いを追いかけるため、ま
ずその前提となる概念である﹁キャラクター﹂につ
*
たちの行動原理であるゴーストの動きが絡んでいる。
あくまでも顔の表情変化の延長として、身振りや、
なっているということを意味している。
さて、このちゅるやさんというテンプレートが与
えられたことは大きな前進である。というのも、す
でに書いた通り、モナー時代において職人は、いわ
ゆる髪型や装飾といった外部の要素によって、対応
実上、どんな人物でも感情変化を備えたAAとして
ている。これを書き添えた上で、キャラクターに関
づけようとする人物やキャラクターのエッセンスを
設計可能である、ということになる。この意味で、
この伊藤の仕事でもっとも重要なのはキャラクタ
ーとキャラを分割したことである。それらを極めて
する先行研究を参照しよう。中でももっとも重要な
と、ここまで論述してきておいて腰を砕くようだ
が、現在では、そもそもデフォルメAA自体がそん
端的に説明すると、キャラクターは﹁人格をもった
ものは、伊藤剛の﹃テヅカ・イズ・デッド﹄である。
なに隆盛しているといえないため、ちゅるやさんカ
身体の表象﹂であり、キャラは﹁固有名﹂によって
相当する、と言えるだろう。
スタマイズのAAもそう頻繁に見かけるわけではな
魂を感じさせる図像のことである。ここでいう固有
ちゅるやさんは美少女ゲームにおける﹁立ち絵﹂に
いという実情がある。しかし、むしろそのことこそ
名とは実際には﹁固有名性﹂であって、固有名があ
りそうだな、と期待させればそれで条件を満たして
塚治虫の作品﹃地底国の怪人﹄を読解しようとする。
うことになる。リアルなモブAAとは仮に想定した
アスキーアートの文脈で考えれば、キャラクター
はリアルなモブAA、キャラはモナーややる夫と言
生まれ、これに改造手術を加え人間化がほどこされ
だ。一方、ノートル大学では知能に優れたウサギが
めぐる冒険の物語である。主人公はこのジョン少年
いる。
もので、要はきっちり書き込まれた背景の一部であ
る。これが副主人公である耳男である。
同作で語られるストーリーとは、科学少年、ジョ
ン少年の発明による地球貫通列車の開発と、それを
る。一方、固有名性がどこからやってくるのかを明
大学から街に出た耳男は、ジョン少年と出会い、
地球貫通列車の実験走行に加わる。地下深くには地
らかにしていない現在の伊藤の定式では、モナーと
やる夫を区別することが出来ない。そこで、固有名
地底国の宝石に誘惑されたハム・エッグは、女王
とともに地上に出て、陰謀団・黒魔団を組織して街
底人の国があり、女王がいる。ジョンたちの一行は
を破壊する。その間、ジョンたちは地底に置き去り
性を担保するものとして一つ我々が導入するのが、
これは単に固有名性を言い換えただけに過ぎない。
にしてきた列車の第二号の製作にとりかかるが、黒
地底国に捕らわれるが、ハム・エッグを残して脱出
従って、固有名性がどこからやってくるのかについ
最初に言っておいた遊びの存在である。また伊藤は
て伊藤の考えを伺うためには、その読解を検証しな
魔団の望外に遭い、耳男の失敗のため設計図を奪わ
する。
くてはならない。伊藤はこの見取り図を持って、手
ャラであり、ウサギが改造されて亜人間化し、物語
キャラにおいては同時に﹁テクストからの遊離可能
れてしまう。そこで生じた誤解のため、耳男はジョ
を担うにあたってキャラクターになったというとこ
性﹂即ちメタ物語性が付与されると言っているが、
ンたちの許を追われる。
尽力によって第二号列車の走行実験にも成功する。
学から来たという少女技師・ミミーの自己犠牲的な
によって感情移入するのだが、耳男が人間的な苦労
るのだろう。人は耳男という図像の端的な愛らしさ
さて、ここにおいて固有名性はどのように立ち現
れてきたのか。伊藤に言わせればこういうことにな
ろだろう。
ミミーは全身に火傷を負い、瀕死の重傷となる。実
を背負っているうちにむしろそちらに目移りしてし
そして、ジョンたちはどこからか現れた﹁ルンペ
ンのこども﹂の働きによって設計図を取り戻し、大
は﹁ルンペンのこども﹂もミミーも耳男の変装であ
つづく
い。
︵ 東 浩 紀 ︶ な い し は 物 質 性︵ 福 嶋 亮 大 ︶ に 他 な ら な
とすればこのとき固有名性とはほとんど、萌え要素
入したかのように思い込むことになる、と。そうだ
まい、あたかも最初からその人間性において感情移
︶
pp.xxx-xxx
ることがわかり、耳男は﹁ジョン
ぼく
人間だね
ぇ⋮⋮﹂と言い残し死に至る。
︵
﹃テヅカ・イズ・デ
ッド﹄
要約は伊藤のものである。彼はこの物語を、キャ
ラとして生まれてきた耳男がキャラクターとなって
いく物語であり、しかもその構造によってあたかも
最初から耳男がキャラクターであったように誤解す
る作品であると説明している。より具体的にすれば、
﹁知能に優れたウサギ﹂という人間性の受け皿がキ
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