山陰の絵絣Ⅱ

山陰の絵絣Ⅱ
星谷美恵子
はじめに
前回、拙論 1 においては、堀江友聲の画と絵絣の類似点について取り上げ、さらに絵絣における絵と文字の関
係について分析を試みた。山陰の絵絣には、文字と絵を同時に描いたものがいくつかあり、それらの文字は、個
人名や和歌や漢詩、また俳句にいたるままでさまざまなジャンルにおいて表されていることがわかった。さらに
絵絣の文字と絵は、相互に関係を持ち、文字で絵を、絵で文字を表すなど変化に富んだ表現を、一枚の布の中に
独特の手法で織り込んでおり、山陰の文化とあいまって、思いもかけない雰囲気をかもし出している。
絵と文字で表現するという手法は、日本画や絹物の着物などにおいて、すでに用いられてきたことは知られて
いる。だが何故山陰の絵絣において、その手法が行われてきたのかという点については、それだけでは充分に説
1
明できないと思われる。
そこで今回は、堀江友聲の画にもう一度立ち返り、絵絣における絵と文字の関係を探ってみたい。
まず城安寺に所蔵されている二巻の絵巻物を取り上げることとする。これらは「富田図」とも「富田城絵図」
とも言われているものであるが、その中には、絵と文字が描かれているからである。
次に、堀江友聲とその孫である堀江有聲の作品について述べていくこととする。
最後に、折口信夫の『死者の書』における織物を織る場面から、織物を織ることの意味について考えてみたい。
Ⅰ
『富田城尼子十勇士絵巻物』にみる絵と文字
友聲の描いた「富田城尼子十勇士絵巻物」は、「富田図」として知られており、広瀬町にある城安寺に所蔵さ
れている。今回城安寺のご住職のご好意により、拝見する機会を得た。そこでまずは、城安寺について少々その
成り立ちを述べてみたい。
そもそもこの城安寺は、現在は小学校などがある町の中心地にあったのだが、場所を変え、その後明治十九年
の火事や、飯梨川の決壊などにより、現在の場所に移されたといわれている。
城安寺には、二巻の絵巻物がある。図一の一巻は、富田城が左手に、右手には「尼子十勇士」が、もう一巻の
図二は、飯梨川(富田川)が描かれている。この二本を並べて見せていただいたのであるが、この二つが並べら
れることによって、富田の町の全体が見わたせるようになっている。
友聲が絵師として仕えていた松平直諒公は、参勤交代に金がかかるので、江戸につめて広瀬藩は家老に任せる
ことが多かった。しかし江戸の末になると、広瀬を気に入った直諒公は、たびたび滞在するようになったという。
文化人を集めて句会を行い、友声とともに自らも筆を取るほど、絵画に造詣が深かったと言われている。そのた
2
め、この絵巻物に使われた絵の具も大変質の良いもので、現在も鮮やかな色を保っている。特に「尼子十勇士」
の勇士たちの甲冑や袴などの色は、赤や青の色が美しい。
友聲がこの絵巻物を創作したのは、直諒公の時代であるから、もちろん江戸時代であるが、描かれている時代
は尼子氏の時代である。しかも実際にこれらの十勇士たちが活躍したのは、経久公の孫である晴久の時であるの
にもかかわらず、絵巻物の中心に描かれているのは経久公であるという点も興味深いことである。そのことを意
識した為であろうか、友聲はまず「尼子経久公像並曽孫
晴久之近臣
十有助屯図」という画題をつけている。
そしてこの絵巻物の面白さは、それぞれの勇士たちの名前が友声の手によって、筆で書かれていることである。
またその名前が、面白おかしく、書かれている。以下にその文字で書かれた部分を記してみたい。
尼子経久公像並曽孫
晴久之近臣
十有助屯図
今川鮎之助
尤道理之助
経久公
藪中荊之助
秋上伊紕之助
寺本生死之助
小倉鼠之助
深田泥之助
横道兵庫之助
3
植田早苗之助
山中鹿之助
何故友聲が、尼子十勇士の絵巻物を描いたのかということを知るためには、まずは広瀬の町の歴史を知る必要
がある。そこで尼子十勇士について少々ここで述べておきたい。
尼子十勇士とは、『尼子盛衰人物紀』 2 によると、湯浅常山の『常山紀談』に出てくるのが最初であるという。
そこで、『常山紀談』を見てみると、巻之六の「尼子家の十勇士」の箇所に、「尼子家十勇士と世に唱へけるは、
山中鹿(しか)之介、薮原茨之(やぶはらいばら)介、五月早苗(さつきさなえ)之介、上田稲葉(うえだいな
ば)之介、尤道理(もっともどうり)之介、早川鮎(あゆ)之介、川岸(かはぎし)柳之介、井筒女(ゐづつを
んな)之介、阿波鳴戸(あは)なると之介、破骨障子(やれぼねしゃうじ)之介なり。」 3 と記されている。
この『常山紀談』以後、明治末期から大正初期にかけてポケット版立川文庫に取り上げられてから、広く知ら
れるようになった。昭和二十六年には、大百科辞典にも取り上げられている。『尼子盛衰人物紀』では、この三
つの書において記されている十勇士の名前の比較検討がされているので、以下に立川文庫と大百科辞典について
引用してみよう。
立川文庫
山中鹿之助、秋宅庵之助、横道兵庫之助、寺元生死之助、皐月早苗之助、早川鮎之助、大谷古猪之助、高橋
渡之助、藪中茨之助、荒波碇之助。
大百科辞典
4
山中鹿之介、秋宅庵之介、横道兵庫之介、寺元生死之介、植田早稲之介、早川鮎之介、深田泥之介、尤道理
之介、藪中茨之介、小倉鼠之介。
この二つの書を見てみると、友聲が書いたものは、ほとんど大百科辞典に近いと考えられる。だが、広瀬少年
剣士会がまとめた以下のものを見てみると、この中にも、あてはまるものがあることがわかるのである。
広瀬少年剣士会
山中鹿介、秋上庵介、横道兵庫介、寺本生死介、植田早苗介、小倉鼠介、早川鮎介、藪中荊介、深田泥介、
大谷古猪介。
立川文庫と大百科辞典では、秋宅庵之助と秋宅庵之介という「すけ」の字が「助」と「介」との違いがあるも
のの「秋宅」としているのに対して、広瀬少年剣士会は、「秋上庵介」としている。友聲も、同様に「秋上」と
している点は、注目に値する。だが名前のほうの「庵介」の部分は、「伊紕之助」となっており、、「伊」という
漢字を使用している点は、友聲独自のものではないかと考えられる。また植田早苗之助に関しても、広瀬少年剣
士会と同じである。また『常山紀談』以下の三書においても、
「早川」となっているにもかかわらず、友聲は、
「今
川鮎之助」という独自の名前を用いている。
このようにみてみると、友聲は、『常山紀談』を参考にしながらも、広瀬少年剣士会に似たものを用いている
ことがわかる。さらに彼独自のユーモアを加えて、この図を描いたと思われるのである。
ここであらためて、尼子十勇士のもととなる尼子家について、少々その歴史を述べてみたい。『尼子盛衰人物
記』の年表によれば、尼子家は、宇多天皇にその先祖をさかのぼることができる。尼子家と出雲とのつながりは、
5
明徳の乱で大功をたて出雲・飛騨・近江半国の守護に任命された京極高詮の代理として、彼の弟である尼子高久
の子の持久が、守護代として出雲にきたことが始まりであった。その後、持久の子清定が、応仁の乱以前に父か
ら出雲の守護職を引き継いだといわれている。この清定の子が、尼子十勇士に描かれた経久である。経久は、父
の命を受け、守護京極政高に所領の確認のため上洛している。父清定は、政高のもとで功をたて、次第にその勢
力を増していった。しかし美保関代官職の大事な任務である舟役運上金を納めなかったことから、「清定は牢人
の身となり漂泊流浪の内に病死す」と雲陽軍実記に書かれているような事態になったと想像されている。経久の
経の字は、京極政高が政経と改名した際にもらったとも見られている 4 。
経久は、長禄二年(一四五八)年十一月二〇日に父清定と母眞木上野介の女との間に生まれた。先にも述べたよ
うに、父清高の美保関の公用銭を怠ることが甚だしくなったことに対して、京極政経は、清定・経久親子を富田
城から追放した。しかし清定失脚後に、経久と弟義勝は、文明十八年(一四八六年)富田城を奪回した。その後、
京極政経が家臣団の分裂によって崩壊したことにより、経久は出雲一国を治めることになる。彼は次々と勢力を
増し、出雲・隠岐・伯耆・石見や安芸・備後五カ国を治めるほどになった。こうしたなかにも、三男興久の反乱
や、嫡子政久を亡くすという不幸にも見舞われ、天文六年、八十歳になった経久は、嫡孫晴久に家督を譲ること
となる。しかし二十四歳になったばかりの晴久は、経久や叔父の義勝の制止をも聞かず、安芸吉田郡山城に毛利
元就征伐を図るも、大敗北となる。その際義勝は戦死し、経久も同年に亡くなった。
このように見てみると、尼子家の最盛期は、経久の時代であったといえよう。父清定失脚後に、弟義勝ととも
にお家再興を図ったばかりではなく、父の時代よりもその勢力を延ばし、文化教養面においても和歌や絵画にも
秀でていたといわれている。こうした経久を、友聲が尼子十勇士とともに描いたのも故あると思われる。そこで
次に尼子十勇士の中で実在の人物といわれている山中鹿之介について、述べてみたい。
山中幸盛鹿之介は、天文十三年(一五四五年)山中三河守満幸と母立原佐渡守綱重の女「なみ」との間に、生
6
まれた。山中家は、もともとは尼子家を宗家とする傍系である。尼子晴久の急死後、二十二歳の嫡男義久が後を
ついだが、毛利元就の出雲進入により降参し、石見銀山を与えられ、城を明け渡したとも言われている。そこで
武勇にすぐれた幸盛は、富田城落城の後、尼子再興を期して上洛し、各地を遍歴してその準備に備えた。富田城
に軍を率いたが、叶わず、美保関の隠岐為清の反乱に赴いたり、果敢に戦った。だが尼子勢は衰退し、伯耆末石
で捕虜となるも脱出し、最後まで戦ったが、勝久が出雲を撤退したため幸盛も従った。その後も行くたびか策を
もくろんだが、ついには毛利元春の家臣によって、暗殺された。
この山中幸盛鹿之介をはじめ、「尼子経久公像並曽孫
晴久之近臣
十有助屯図」のなかには、横道兵庫之介
と秋上伊紕之助と経久公が実在の人物とされている。この画には、それぞれの人物の像の横に文字によって、そ
の人物の名前が書かれている。
また富田城と城下町を描いた絵巻にも、
「月山城」や「飯梨川」や「大日合丸」や「角盤山」、また「小日合丸」
などの文字が入れられている。友聲がこの富田城下図を描くにあたっては、兵学家守山定志の示唆を受けていた
のではないかとの指摘が、音羽融氏によってなされている 5 。というのも、富田城下原図を広瀬藩兵学者守山定
志が模写したことが、文献に記されており、尼子時代から続く蒲生家にその原図が残されていたからである。音
羽融氏は、ぼろぼろになっていたものを表装し、『出雲広瀬』にその写真を掲載している。その写真を見ると、
それぞれの名称が文字によって、はっきりと書かれている。
この富田城下原図を、友聲はさらに芸術的に美しく描いた上で、それぞれの名称を文字で入れているのである。
何故友聲は絵とともに文字を付け加えたのであろうか。ただ単に富田城下原図のように、それぞれの名称を見る
ものにわかるように入れただけとは考えられない。なぜなら絵だけでなく、文字そのものも美しいからである。
尼子十勇士などは、多色を使って彩色されており、多少の変色も見られるが、文字は薄墨色よりは薄茶色であり、
和紙そのものの色が時の経たことを表わす様に生成り色に近くなっているためもあり、溶け込んでいる。あくま
7
で文字は目立つことなく、あたかも和紙とともに漉かれたかのような風情さえかもしだしている。また絵とも調
和しており、この文字がそこに書かれていることに何の違和感も与えていない。
何故友聲が、絵とともに文字を書き入れたのかは、はっきりしないことであるが、ひとつには絵をわかりやす
くするためということがあったろう。さらにその描き方を見ると、友聲が絵と文字の融合を考えていたのではな
いかと思わせるものがある。そこで次に、広瀬絣などに見られる友聲の影響について、少々述べてみたい。
たとえば図三を見ると、月山城と文字が美しくデザインされていることに驚かされる。斜めに入れられた線の
中に、「赤穂とも
廣瀬
」などの文字が大きく入れられ、文字のない線の中には、波模様が幾筋かあり、そこ
に正方形に近い長方形の短冊に月山城が織られている。別の短冊には、海に浮かぶ舟、さらに別の短冊には模様
と文字が見える。
城の絵絣は、久留米絣などのように、四枚ほどの布を合わせて一つの絵を織る方法もあり、古くから見られて
いた。久留米以外では、時代的にはいつ頃のものかはっきりしないが、図四の松山城を表わしたものも知られて
いる。これには、子規の「春や昔
十五万石の
城下哉」との文字が入れられている。また図五のような城など
は、松山だけではなく多くの産地でも織られていたとも考えられている。
こうした城の絵と文字の融合は、友聲の画を思い起こさせる。特に図三の月山城の絵絣には、友聲の影響が感
じられよう。このように考えると、友聲は単に絵絣の図柄だけに携わっていたのではなく、彼の画そのもの、特
に絵と文字の融合という点で、足跡をのこしていたのである。
Ⅱ
友聲と有聲
拙論『山陰の絵絣』 6 の中でも述べたように、子供がいなかった友聲は有節を養子として迎え、有節の長男で
8
ある有聲へとその画業は継承された。友節は、松江藩士上田理右衛門の子で仲と言い、弘化四年七歳で養子とな
った。幼少の頃から友聲から画の手ほどきを受け、友節と号し、養父とともに広瀬藩の画事に出仕した 7 。慶応
元年には、君命による江戸での勤務の合間に、画を勉強した。友聲に「及び難い」と言わしめたほどの期待され
た才能の持ち主であったが、明治九年七月二十三日に三十六歳の若さで亡くなっている。
友節の長男である三代目の有聲は、安政六年に生まれた。明治十年公立松江師範の広瀬支校を卒業後、小学校
訓導を歴任し、明治四十二年に広瀬町外四村組合立高等小学校の廃止によって退職した。その後、画事に励み、
大正十一年に六十四歳で没している。田中直行氏は、有聲の教え子であり、自宅で友聲の画を身近に見る機会に
触れ、有聲の画業の見直しが必要であると感じ、山陰新聞に記事を書いている。
有聲は、今でも「ともこえ(友聲)さん」と「ありこえ(有聲)さん」と並んで称されるほど、広瀬町の人び
とに親しまれているようである。それというもの、友聲の絵が直接的にはなかなか人びとの目に触れることが少
ないのに対して、有聲の絵は町の中で自然に見られたからではないかと思われる。
そのひとつに、弘安寺の「天井龍」と額「三国志人物図」「武者絵(神功皇后か)」が挙げられる。
「天井龍」は、弘安寺の観音堂の天井に描かれたものである。この観音堂は、急な階段を登って、門の左右に
「金峰山」「弘安寺」と描かれた山門をくぐっていくと、左手にある。明治十一年の再建であり、重層寄棟造り
で、中世の仏殿の様式を備えている。当時の寄進者たちの名前をしたためた瓦が保存されているが、伯耆の人の
名前も多かったという。その後昭和六十二年になってから、内陣屋根などの大改修を行い現在に至っている。
中央の厨子には秘佛十一面観音菩薩、向かって左には聖観音菩薩、右に薬師如来が安置されている。その厨子
の手前の天井に、この龍図は描かれている。天井板は、巾十数センチほどの、床板にするような材木が隙間なく
並べられて使用されていた。つまり、天井に床があるようにも見える。絵を描くのであれば、もう少し巾の広い
板に書いたほうが、見やすいと考えられるだろう。この板敷きの天井絵は、先に絵が描かれた後で、天井に張ら
9
れたのか、それとも天井にそのまま描かれたのかは不詳であるらしい。しかしこの板の張り方から考えると、先
に板を天井に張ったあとで、書いたと考えるほうが妥当であろう。一般的な天井画が、たとえば二条城のように、
桝目状に天井を区切った中に掛かれているのに対して、こうした技法は珍しいのではないか と思われた。またこ
れだけの絵を、天井いっぱいに描くことは、大変な作業であったと想像される。有聲は、この寺に長い間逗留し
て、この龍図を書き上げたといわれている。磨き上げられた床のような天井に、墨色一色を使って、この龍は大
胆に雄々しく描かれている。「有聲」との署名もはっきりと見て取れる。寺院の天井に、龍が描かれるのは、龍
が水を呼ぶことから、火事を防ぐという意味合いがあったため、よく描かれたといわれている。その後、城安寺
の天井に描かれていた吉祥を表す「鳳凰」とならんで、よく題材とされてきた。
もうひとつの図六の額「三国志人物図」を見てみよう。
この絵は、友聲作の図七の「三国志人物図」
(紙本金地著色)8 に、酷似している。実際の画を見ることはでき
ないので、画集で見るのみであるが、その構成や人物にいたるまで、まるで写し取ったかのようである。画面の
左端には、栗毛色の馬にのった武将が馬の首筋に頭をのせて、波打つ川の中をものともせず、疾走している。追
われているのは、右端に見える白馬にのった若い武将である。振り返りざまに槍を掲げて、相手を睨み据えてい
る。この馬の違いは、友聲作は鬣と尻尾が栗毛色であるのに対して、有聲作の馬は体中が真っ白である。このよ
うに見てみると、時代的に先に描かれた友聲作の画を、有聲は既に見ていたであろう事から、尊敬する余り自然
に似たものになったものと考えることもできるであろう。それとも友聲の画を好む人びとが、同じような画題と
構図で書くことを注文したとも考えられる。いずれにしても、友聲と有聲の画は、同じ作風であったことは確か
であるといえよう。
先に挙げた有聲作の弘安寺の天井画の「龍図」や城安寺の天井画の「鳳凰図」にしても、友聲の「龍図」や「鳳
凰図」に驚くほど似ている。また友聲作の「富田城図」は、明治初期に有聲作の同様のものが広瀬役場に所蔵さ
10
れていることも知られている。
こうしたことをふまえてみると、絵絣の図案 9 についても、有聲の影響はおおきかったのではないかと思われ
るのである。もちろん友聲の画が発端となって、有聲の画も生まれ、人びとの生活の中で目に触れられる機会も
多かったのであろうから、この二人の絵師はまるでひとつの作品のようになっていったとも考えられる。時代的
にも広瀬絣が発展していったのは、有聲の時代になってからであったと言っても過言ではないだろう。明治にな
ってから、広瀬絣の組合も設置され、工業的な発展も見られたからである。また昭和に入ってから県の無形文化
財にも指定されている。こうした時代にあって、実際に絵筆を取り、友聲によく似た作風を持った有聲の影響は
大きかったと考えられる。
Ⅲ
織ることの意味
前回の拙論で述べたように、織物を織るということの意味とは何であろうか。織物にひそむ神秘的な感覚とは、
いったいどこからくるのだろうか。また織物に使う糸が、さまざまな植物や動物から紡ぎだされることに、何か
意味があるのだろうか。こういった疑問に答えるために、「折口の書いた『死者の書』の主人公がおりあげた曼
荼羅も自分を言葉で表現することをしらない昔の女のおもいをこめた表現だった。」 1 0 という一節に導かれて、
『死者の書』をひもといてみたい。
久留米や山陰の絵絣の多くは、木綿糸を使用している。木綿が生まれる前からあった麻を使用した、近江上布
の絵絣も大変美しいものである。また絵絣の発祥の地であると思われる沖縄の上布なども、苧麻という麻で作ら
れる。糸芭蕉の茎を績んで織る芭蕉布もよく知られている。最初は木綿から始まったと思われる琉球絣などは、
現在では絹糸が用いられている。このように、糸の原料は、植物性の麻・木綿などと動物性の絹や羊毛とに分類
11
される。
こうした従来から知られている糸の原料に加えて、『死者の書』の郎女が曼荼羅として織り上げたのは、蓮の
糸であった。蓮は、仏教的な花として、仏の清らかさを象徴している。花と蓮根については、よく知られている
ところであるが、蓮の茎から糸が紡ぎだされることは、余りしられていない。そこでまず『死者の書』について、
蓮の糸を用いて布を織る場面を中心に、述べていきたい。この書は、余りにも深く難解で、浅学な筆者がここで
文学的な分析をおこなうことは困難であるからである。
さて南家の郎女は、ある夜、幻の声に誘われるように、女人結界を犯して、境内に入ってしまう。その郎女が
當麻寺に滞在するうちに、
「田の原は一様に青みわたって、もうこんなに伸びたか、と驚くほどになる。」1 1 とあ
るように、物語の季節はすでに若夏となっている。そうしたなかで、「遅々として、併し忘れた頃に、俄かに伸
し上るやうに育つのは、蓮の葉であった。」 1 2
と蓮は描写されている。魂を失われたかのような姫につきそっ
てきた若人たちは、池のほとりに降り立ち、伸びた蓮の茎を切り集めだす。なぜなら、かれらは自分の出た村の
手芸を覚えており、自分の仕える君のために働こうとしたからである。さらに「一般に、染めや、裁ち縫ひが、
家々の顔見合わせぬ女どうしの競技のやうに、もてはやされた。摺り染めや、擣染めの技術も、女たちの間には、
目立たぬ進歩が年々にあったが、浸で染めの為の染料が、韓の技工人の影響から、途方もなく変化した。」等々、
詳しく当時の女性の手仕事について、特に染めの技術について述べられている。
泥だらけになった婢女や若人たちが手に手に蓮の茎を抱えた姿を、乳母たちは、堅帳を手でのけて、郎女にも
見せる。それまで魂が抜けたようになっていた郎女は、
「この身も、その田居とやらにおり立ちたい─。」と、蓮
の茎に興味を示した。
さてそれから、この蓮の茎からどのように糸をつむぎだすのかを、折口信夫は詳しく描写している。若人たち
12
は、糸縒りを始める。その糸の六かせ七かせを、数日後、郎女に見せると、「乳母よ。この絲は、蝶鳥の翼より
も美しいが、蜘蛛の巣より弱く見えるがよ─。」と、久しぶりににっこりするのだった。さらに驚いたことに、
切れない糸を作り出そうとする刀自に向かって、「夏引きの麻生の麻を績むように、そして、もっと日ざらしよ
く、細かくこまやかに─。」 1 3 と指示さえするようになった。何故姫が麻の績み方を知っていたのか不思議なこ
とであるが、その後、この績み方が次のように詳しく述べられている。
板屋の前には、俄かに、蓮の茎が乾かし並べられた。さうして其が乾くと、谷の澱みに持ち下りて浸す。浸
しては晒し、晒しては水に漬でた幾日の後、筵の上で槌の音高く、こもごも、交々と叩き柔らげた。
(・・・)
日晒しの茎を、八針に裂き、其れを又、行く針にも裂く。(・・・)績みに績み、又績みに績んだ。藕絲の
まるがせが、日に日に殖えて、庵堂の中に、次第に高く積まれて行った。 1 4
このように藕絲がたくさん績まれたのは、秋分の日が近づいてきた頃であり、そのことを何より感じていたの
は、郎女であった。十七章に入ると、その秋分の日、彼岸の中日に、郎女は、いつの間にか乳母の腕の中から消
えてしまっていた。郎女は、「あっし
あっし」という恐怖に満ちた声の中、二上山の頂の良く見える場所まで
来ていたのだった。このことがあってから、場面は十八章になると、郎女が高機(たかはた)を奈良の館から取
り寄せたところになる。
何故郎女は、秋分の日の出来事から、高機を織ろうとしたのか。しかも、郎女は、筬や梭の扱い方をすぐに会
得したと書かれている。機にのぼり、時には終夜織りさえする。しかし蓮の糸は切れてしまう。このことについ
て、乳母に「唐土でも、天竺から渡った物より手に入らぬ、といふ藕絲織りを遊ばさう、と言ふのぢゃものなう。」
と言わせている。つまり日本はおろか、中国でも織ることが難しいということを明示している。だがインドでは
13
可能であると示唆しているのである。このことは、仏教発祥の地であるインドが、この藕絲の発祥の地でもある
ことを意味しているとも取れよう。
郎女は、「断(キ)れては織り、織っては断れ、手がだるくなっても、まだ梭(ヒ)を放さうとも」しない。
だが疲れているはずの郎女の心は、満ち足りていたのである。「此機を織り上げて、はやうあの素肌のお身を、
掩うてあげたい。」 1 5 という思いばかり考えている。
そういう思いで、「ちよう
ちよう
はた
はた。
はた
はた
ちよう・・・・・。」と流れるように、くり
よせられていた糸が、突如として動かなくなる。ここで、織り機が動かなくなった時の様子を、「筬を流れるや
うに、手もとにくり寄せられる絲が、動かなくなった。引いても抜いても通らぬ。筬の歯が幾枚も毀れて、糸筋
の上にかゝつて居るのが、見える。」と描写している。筬は、現在では金属やプラスチック製が多いが、この時
代はおそらく竹などで作られていたと考えられるが、それにしても、「筬の歯」(筬の目)を通すことによって、
糸は絡むことなく、織ることができるのである。おそらく織っているうちに、毛わたが出てきて、それによって
筬の竹の歯のところに、ひっかかった糸を無理に引いたため、竹の歯が毀れた状態ではないかと思われる。こう
した場合、毀れた竹の歯を取り、新しいものを植え替えることが必要となる。この作業は、専門の職人の手によ
らなければ、難しい。
さてこのような織り機の構造的な問題はさておき、物語では、突如として郎女の前に一人の尼が現れて、「か
う直せば、動かぬこともおざるまい」と言い、元の通りの音が整って出てくるようになる。そのことを、「此才
伎(テワザ)の経緯(ユキタテ)は、すぐ呑み込まれた。」と、わざわざ織機の経糸と緯糸の字をあてはめて書
かれていることは、興味深いことである。
この尼の登場の後、物語の文脈がはっきり読み取れないのであるが、「この中申し上げた滋賀津彦は、やはり
隼別でもおざりました。」と言ったのは、第三章に登場した當麻の語り部の姥であると思われる。この姥は、郎
14
女が當麻寺に来た最初の頃に現れて、神憑りに入ったらしく、「天若日子」の伝統によって反逆者となった「大
津皇子」が、死に際に深く思いこんだ耳面刀自という大織冠の娘について語り始める。その耳面刀自が、「淡海
公の妹君、郎女の祖父君南家太政大臣には、叔母君にあたる」と明かすのである。この皇子には、郎女が耳面刀
自に見えるらしく、そのために彼女は魂を抜かれたようになって、當麻まで来たのだというのである。
この姥は、
女鳥の
わがおほきみの織す機。誰が為ねろかも─、御存知及びでおざりませうなう。昔、かう、機殿の牕
からのぞきこうで、問はれたお方様がおざりましたつけ。─その時、その貴い女性がの、
たか行くや
隼別の御被服料─さうお答えなされたとなう。この中申し上げた滋賀津彦は、やはり隼別でも
おざりました。天若日子でもおざりました。天の日に矢を射かける─。併し、極みなく美しいお人でおざり
ましたがよ。 1 6
と、前回同様に郎女が機織をするのは、身代わりとなっている耳面刀自が隼別のために被服を織っていること
に由来することを明かすのであった。滋賀津彦は、隼別でもあり、天若日子でもあったからである。しかしこの
姥のことは、この章では、
「機の上にとろとろした間の夢だったのである。」とされている。しかし、壊れていた
機は、すっかり直っていた。
第十九章になると、「この月の光を受けた美しさ」をもつ、一反の上帛は織りあがっている。一反は約十二メ
ートルであるから、普通の女性の着物が一着取れる寸法である。だが郎女は、五反も織り上げる。そして「裁ち
縫ふわざは、あて人のすることではなかった」にもかかわらず、「唯、他人の手に触れさせたくない」という心
から、裁ったり切ったりした。どのようにしたら、俤人の体を覆う衣服を作ることが出来るのかがわからずに、
15
思案していたのである。
そこに、語り部の尼がまた登場する。「壁代の様に縦横に裁ちついで、其まゝ身に纏ふやうになさる外はおざ
らぬ。それ、こゝに紐をつけて、肩の上でくゝりあはせれば、昼は、衣になりませう。紐を解き敷いて、折り返
し被れば、やがて夜の衾になりまする。天竺の行人たちの著る僧伽利と言ふのが、其でおざりまする。」 1 7 とい
う、助言により、郎女は、大きな一面の綴りの上帛を作り上げる。ここでもこの尼は、昼の夢での出来事に登場
したことになっている。
だがこのままの白い布では、あまりに寒々として、「棺にかけるひしきもの」と見た目にかわらないと、姫は
悲しむ。そこで考え出したのは、絵具を使って彩畫を描くことであった。
その彩畫の描写は、以下のようなものである。
姫は、緑青を盛って、廥々うち重る楼閣伽藍の屋根を表した。数多い柱や、廊の立ち続く姿が、目赫くばか
り、朱で彩みあげられた。むらむらと靉くものは、紺青の雲である。紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本
堂とも見える屋の上から、畫きおろされた。雲の上には金泥の光り輝く霞が、漂ひはじめた。姫の命を搾る
までの念力が、筆のま々に動いて居る。やがて金色の雲気は、次第に凝り成して、照り充ちた色身─現し世
の人とも見えぬ尊い姿が顕れた。 1 8
さまざまな色彩を駆使して描かれた美しい背景に顕れた姿は、郎女が先の日に見た、萬法院の夕べの幻の姿を、
ただ筆で描いたものであった。それは、そのまま曼荼羅の相を備えていた。だが、姫は、唯一人の俤人の幻を見
たに過ぎなかったとされている。
郎女は、筆を置くと、にこやかな笑みを浮かべて、音もなくその場を立ち去ったのだった。
16
以上が、『死者の書』における、蓮の糸を績み、織り上げ、曼荼羅に彩畫するまでのおおまかな筋である。こ
の中でも、特に興味を引かれたのは、藕絲を績む場面である。ここで述べられている糸の績み方は、先に挙げた
郎女の「夏引きの麻生の麻を績むように」とあるように、麻の糸を作る方法に大変よく似ている。そこで、まず
は麻の糸の績み方について、少々説明をしてみたい。
麻は、大きく分けると「大麻」と「苧麻」とに、分類される。苧麻というより、「からむし」と言われること
も多いが、この呼び方は、「カラ」(韓)の国のモシ(苧麻)から転じているとも言われている。
苧麻の布の生産で有名なのは、越後の小千谷と宮古島が挙げられる。越後の麻布の歴史は、ゆうに千三百年に
もなるという。奈良時代の越後産の麻布は、正倉院にも残っている。また、宮古島で苧麻布が作られるようにな
ったのは、十五世紀以前とあるが、はっきりしていない。一四七七年の『李朝実録』によると、島民は苧麻や芭
蕉の繊維から糸を取ったり草木で染めていたという記述が、琉球に漂着した朝鮮人によって記されていたとされ
ている 1 9 。
こうして日本に渡ってきた苧麻は、先に述べたように、もともと韓国において古い歴史を持っている。『死者
の書』の中でも、「韓の技工人の影響から」や「韓織のやうで」などとあるように、韓国の染織が意識されてい
る。そこでまずは韓国における苧麻について述べてみたい。
この苧麻という茎の皮からとった糸を織り上げたモシ(苧布)は、三国時代に既に大量に生産されていた。こ
のモシで作られた衣服は、王や貴族から農民にいたるまで、広く着用されたが、次第に納税として取り立てられ
たり、朝鮮時代中宗時代には庶民婦女が着用することを禁じられることもあった。このモシは、その美しさから、
蜻蛉や蝉の羽のようだと形容された。このことは、郎女が、蓮の糸を、「蝶鳥の翼よりも美しいが、蜘蛛の巣よ
り弱く見えるがよ」と述べていることと関連すると、その美しさは想像できるであろう。また「朝鮮時代初期(一
17
四五六年)のものとして、黒石寺の阿弥陀如来木仏からも多くのモシが出現し注目される」2 0 との記述は、大変
興味深いことである。
このモシの製作過程が、郎女が指示した蓮の糸の績み方に酷似しているため、金英淑氏の「モシ(苧布)再発
見」を参照して、少々説明を試みたい。韓国では、古くから忠清南道舒州郡韓山が、モシの生産地として知られ
ている。モシの原料とされるモシプルを、丈が二メートルほどの頃に、刈り取り、外皮を剥ぐことから始まる。
茎の外側を剥いだ後にのこる、テモシと呼ばれる白く薄い内皮が糸の原料となる。このテモシを一日中水に浸し
た後に、長時間日光に当てて乾かし、晒すという。『死者の書』においては、その様を、「さうして其が乾くと、
谷の澱みに持ち下りて浸す。浸しては晒し、晒しては水に漬で幾日の後」と描写しているところからも、これは
テモシの場合と酷似している。
次にこのテモシを細く裂くのだが、爪の先の場合もあるが、多くは自分たちの歯でごく細く裂くという。この
方法は、小千谷縮の場合も用いられている。
『死者の書』では、この過程は、「日晒しの茎を、八針に裂き、其れ
を又、幾針にも裂く。」と述べられている。
次にこの細かく裂いたモシを縒りつなぐ作業がある。これをモシ・サムギと呼ぶが、これが一定の大きさにな
ると紐で十字に括っておく。これが経糸であり、大豆の粉と塩を水で溶いたのりを刷毛で塗りしみこませ乾かし
ておく。だがモシは、湿気がないと切れてしまうため、絶えず霧吹きで糸を濡らさなければならない。織りあが
った苧布は、生成り色のため、白くするためにさらに水浸しては日光で晒すという作業が必要となる。こうした
モシの製作工程をみてみると、植物の茎から繊維を取り出すという方法は、おおよそ似通っていることがわかる。
わが国では、麻のほかに、芭蕉布なども知られているが、
「原木栽培、苧剥ぎ(うーはぎ)、苧炊き(うーだき)、
苧引き(うーびき)、チング巻き、苧績み(うーうみ)」2 1 という工程のうち、
「苧炊き(うーだき)」という部分
が増えているのみである。
18
だが『死者の書』に出てくる、「筵の上で槌の音高く、こもごも、交々と叩き柔らげた。」という作業工程は、
テモシや芭蕉布などにも見られないものである。それでは、折口信夫は、何故ここでこの工程を加えたのであろ
うか。そこで他の植物において、糸を取り出す工程で、叩く方法を取るものがないかと考えた。す ると、「アカ
ソ」という植物があることがわかった。「アカソ」は、イラクサ科カラムシ属に属する、北海道から九州、中国
地方にまで分布する多年草の植物である。この「アカソ」の茎を木槌などで叩いて、繊維を抽出するのである。
この「叩く」という工程については、苧麻ではなく、アカソが当てはまるのではないかと思われる。
また同じように叩くという工程は、糸の段階でなければ、宮古上布や久米島紬においても見られる。織りあが
った段階で、砧と呼ばれる大きな木槌で何回も布を叩くのである。いわゆる「砧打ち」というもので、織り上げ
たばかりの布は硬くてなじまないので、木槌で打つ。このことによってやわらかさと光沢がでてくる。宮古上布
の場合は、織り上げた後に松葉とともに三時間ほど煮てから半乾きの状態で糊をつけて、砧打ちをする 2 2 。
それでは藕糸を績む場面に、何故折口が苧麻やアカソや宮古上布を績む方法を用いて描写したのかという疑問
が湧いてくる。そのためには、実際に藕糸を績むという方法が、どのようなものだったのかを知る必要があるだ
ろう。この方法について、「藕糸織について」のなかでは、次のように説明されている。
それには先ず葉柄の表面にある刺を包丁で削り落とし、それから五乃至十センチの間隔を置いて小刀で浅く
傷を付け、その傷口の両端を左右両手で持って折り、逆に捻って左右に引き出せば、折れ口から六十センチ
位の長さの絲が出てくる。この絲を膝の上か黒っぽい色の台の上で捻じりつゝ、順次につなぎ合はせて長い
絲に拵へ上げるのである。 2 3
さらに近年では、『藕絲─ミャンマ・インダ属の藕絲織と当麻曼荼羅縁起絵巻』において、藕絲について述べ
19
られている。現在日本では、「藕絲」のみで織られた織物がないために、小笠原氏は、ミャンマのインレイ湖の
インダ族を訪ね、実際に織っている現場を見てきたという。以下に、その様子を記した箇所を引用してみたい。
この工房のベテランの女性が蓮糸を引き出す様子は、まさに驚異的である。四~五本の茎を束ねて左手にも
ち、右端から十糎前後の所にナイフで軽く当たりをいれ、両手でポンと折って左右に引く。たちまち蓮の断
面から蜘蛛の糸のように細い繊維が何十本も湧くように引き出される。その糸束をまとめて素早くよじり、
よじった箇所を左の親指でおさえて右側の折りとった方の茎の糸を引き出して、濡らした板の上において撚
りをかけ、その後で左側の茎の糸を引き出す。引き出された糸の上にさらに重ねて同じ動作を繰り返す。引
き出しては績み、引き出しては績む。こうして採られる糸の量はその人の技量にもよろうが一日に一ティカ
から数ティカ。一ティカは二七〇分の一ポンドというから、グラムに換算すると僅か十グラムに満たない計
算になる。 2 4
蓮の茎は、蓮根を輪切りにしたのと同様にいくつもの丸い空洞を持っており、その隙間に螺旋状の繊維を隠し
ている。この繊維は細く切れやすいため、何本も束ねて引き出し、さらにその上に糸を重ねて績んで丈夫な繊維
となる。ミャンマでは、この藕絲で織られた布は、仏様に捧げる布として用いられている。
また『古今著聞集』にある横佩大臣の信仰深い娘の例が引かれている。寺に立て籠もったこの姫のもとに、
「す
みやかに、蓮のくき百駄をあつむべし」と尼僧が告げる。百頭の馬に積む蓮の茎が集められ、尼僧の助けで蓮糸
をとり、五色に染めて曼荼羅を織り上げるという話である。『当麻曼荼羅縁起絵巻』には、この様子が、はっき
りと描かれている。特に興味を引くのは、「館の中で、かるく握った両手を下に向けて少し左右に広げて糸をと
る姫君たちの手つき」であり、この場面が、実際にみたインレイ湖での藕絲を引き出す様に酷似している点であ
20
るという。この『当麻曼荼羅縁起絵巻』は、鎌倉の光明寺蔵の二巻本で、十三世紀半ばの作とされているものを
参照している。この絵巻を描いた絵師は、藕絲がどのようにして採られるのかを熟知していたと思われるとの指
摘がされている。
以上のように、ミャンマでの藕絲の績み方を知ることができた。しかし日本における績み方を実際に知るべく、
藕絲を製作している「大賀藕絲館」を訪れることにした。この館は、藕絲織を障害を持った方の仕事とする 、働
く場として造られた。大賀ハスは、町田市内で栽培されており、ハスの茎だけではなく、実や葉なども製品の材
料として用いられている。
ここでは実際の藕絲を見せていただくことができた。図八の藕絲だけで作られた糸は、まさしく「蜘蛛の糸」
のように繊細で、糸の端はたくさんの繊維が煙のような形でふんわりと浮かんでいるように見える。この糸を何
本か縒りあわせたものは絹糸のようなやわらかさを持っているが、絹糸にはない感触である。この藕絲と絹の経
糸によって織られる様子を、機がけした状態で見せていただいたが、非常に美しいはかなげな織物という印象を
受けた。展示されていた香袋は、製作するために必要な緯糸の藕絲を取り出すのに、大変な量の蓮を必要とする
貴重な品である。この藕絲の他に、「大賀藕絲館」では、蓮の茎の表皮から取り出す茄糸も製作している。
職員の方に茄糸を取り出す工程を実際に見せていただくことができた。夏から秋にかけて収穫した蓮の茎をま
ず苛性ソーダの液で一時間くらい煮た後、湯で煮て蒸し、乾燥して保存しておき、使う時に水に漬けてのす。そ
の表皮を極々細かく裂いて一本の繊維を取り出す。二~三十センチ程度のこの繊維をつなげて、長い一本の糸に
する。このつなげ方は、最初の一本の端を錐のような鋭い道具で裂き、輪のような部分を作る。その輪の部分に
もう一本の繊維を通し、膝と手で縒ると、繊維同士が絡まって自然に結ばれるのである。こうして何度も何度も
つなげて、績んでいくと、図九のような糸となる。この方法は、試行錯誤の上に、藕絲館で独自に考案していっ
たという。この茄糸のなかでも細く績まれたものは、藕絲とは違って、どちらかというと芭蕉布のようなもので
21
あった。色合いなども良く似ている。また太く績まれたものは、荒い麻や藤かづらにも似ている。通所者の方た
ちによって、経糸に麻糸、緯糸に茄糸を用いて織られた布は、夏帯などにぴったりな清涼感と通気性を持ってい
るように見えた。
この茄糸について説明を伺うなかで、ミャンマでは茄糸を織ってから叩いているという情報を得ることができ
た。このことによって、何故折口が藕絲を績む場面に叩くという工程を入れたのかがわかったのである。先ほど
述べたように、叩くという工程は、アカソや宮古上布や久米島紬には見られるものの、実際の藕絲を績む場合に
はない。ところが同じ蓮の茎ではあっても、茄糸の場合は、糸の状態ではないにせよ、叩くという工程もありえ
る。
以上のような藕絲と茄糸の績み方を知った上で、『死者の書』に登場する當麻寺の曼荼羅の糸について、ここ
で考察してみたい。當麻曼荼羅が藕絲織であるということは、『當麻曼荼羅縁起』以来の伝説であるが、これに
中将姫の名が加わって以来、浄瑠璃本が上梓され芝居となるなどして、広く巷間に流布していた。それまでこの
曼荼羅は、絵画説や刺繍説や綴織説などによって、論議されてきた。一九三八年には、
『當麻曼荼羅原本の研究』
25
のなかで、大賀博士は「この曼荼羅は絹糸による綴織であるらしい」と記しているが、その後、レントゲン写
真を参考資料とする『當麻曼荼羅は綴織である』2 6 という論文を一九五〇年に発表した。この曼荼羅は絹糸によ
る綴織 2 7 であり、しかも有孔織成(爪織成)という、筬の代わりに爪を用いて織り込んだ糸をかき寄せた後に小
櫛で糸を詰め寄せて文様を織り出していく方法を採っていることが、曼荼羅の裏板面に残存していたものの断片
によって、明らかにされた。こうした事実をもって、この曼荼羅は、おそらく奈良朝時代の渡来品ではないかと
結論している。
絹糸による綴織であるという大賀説に従えば、郎女が藕絲で布を織り、そこに彩画したということは、実際の
當麻寺の曼荼羅とは異なっており、中将姫などの伝説にしたがっていることになろう。この「當麻寺曼荼羅が絹
22
糸の綴織」であるという説は、先に述べたように、最初に一九三八年頃に発表されたものの、一九五〇頃になっ
てから、エックス線によって金糸が用いられていたことが判明してから、広く世間に知れることとなったと思わ
れる。折口信夫が『死者の書』を発刊したのは昭和十八年(一九四三年)であるから、この時点では、この曼荼
羅が絹の綴織であるという事実は余り知られていなかったのだろう。一九五三年に亡くなる少し前になって、こ
の事実は折口信夫の耳に入っていたかもしれない。もしくは、最初に発表された事実を知っていたから、藕絲の
実際の績み方を取り入れて、描かなかったのかもしれない。
いずれにしても、この『死者の書』は、小説として書かれたものであるから、そのような事実と異なった内容
でも一向に差し支えないことはいうまでもない。だが折口は、実際に當麻寺を訪れて、この曼荼羅を見たであろ
うし、『当麻曼荼羅縁起絵巻』の藕絲を引き出す場面についても知らなかったとは思えないのである。もし仮に
こうした絵巻などによって、藕絲を績む方法を折口が知っていた上で、あえてまるで苧麻や茄糸を績むような描
写をしていたとするならば、そこに何らかの意図があったとも考えられなくもない。物語の神秘性を高めるため
に、藕絲を績む場面を登場させ、しかも高貴な姫が自ら績む方法を示唆し、織り上げるという点は注目に値する。
実際に藕絲を績む方法は、「通例藕絲を多量に集めやうとする場合に、最も採り易いのは葉柄からであるが、こ
の藕絲は誰にでも用意に採れるもので、決して特別な技功などを要するものではない。」 2 8 との指摘もされてい
る。だが、もしそのように描写してしまうと、藕絲を績む方法を郎女がわざわざ若人たちに教える意味が薄れて
しまう。この場面の効果をさらに上げるために、藕絲よりは茄絲や苧麻の績み方に近い方法を取り入れたのかも
しれない。一方で折口が藕絲の績み方を知らずに、茄絲や苧麻の績み方で郎女に教えさせたとする考え方がある
とすれば、もう一方では、以上のような理由が考えられるであろう。「縑(カトリ)のやうで、韓織のやうで、
─やっぱり、此より外にはない、清らかな上帛ぢや。」 2 9 と、乳母にわざわざ言わせてさえいる。ある意味で、
折口は、苧麻でもない、アカソでもない、芭蕉布でもない、藤かづらでもない、茄絲でもない、藕絲でもない、
23
とあえて言いたかったのではないかと想像させるものがある。つまり、既存の布などではなく、彼が織り上げた
物語独自の夢の糸とでも言うような織物だと言いたかったのではないかとさえ感じさせる。さまざまな神話や伝
承を散りばめながらも、それらにとらわれない幻の糸の物語を綴ったのであろう。
それでは、この物語において、ひとりの姫が布を織るということは、どのような意味あいをもつのだろうか。
そこでまず、織物の糸の意味を探ってみたい。
よく知られているように、経糸と緯糸を交差させることによって、織りは成り立っている。では経糸と緯糸に
は、どのような役目があるのだろうか。
織りを始めるために、最初にすることは、経糸の準備をすることである。デザインに沿って決めた布の長さと
布巻や千切に巻く分を足した経糸を、整経する。経絣の場合は、この糸に絣柄を括り、染めておく。こうしてで
きた経糸を、まず筬に通し、次に綜絖に通すのである。経糸の両端は、布巻きと千切に巻くことによって、固定
される。ここまでの準備ができれば、織りの半分は終わったと言われるほど、神経を使う細かい作業である。こ
の経糸は、ここでしっかりと固定されているから、途中で変えることはできない。だが織り進むに従って、布巻
は、手前に巻かれて太くなり、反対に千切は巻き戻されて細くなっていく。だから、この経糸は固定されてはい
るが、手前に巻かれることによって、縦の動きが加わるのである。ここに織りの不思議さがある。
このときの経糸の「経」とは、仏教の「経」と同じ漢字を用いる。また地球の「経度」にも同じ漢字が用いら
れている 3 0 。地球という我々のよりどころとなる住む場所を表すのにつかう、縦に張り巡らされた糸のように引
かれたものと同様の漢字が使われているということは、織物の経糸が単なる糸ではなく、何か大きな意味として
考えられているように思われるのである。つまり、織るという行為が、人間のよって立つところと似通っている
というふうにも取ることができるくらい、重要なものとして考えられていたといえなくもない。織物の場合、経
糸は、ある程度自由にできる緯糸と違って、変えられないものである。つまりピーンと張らなければならないし、
24
この糸は、その後織り込まれる緯糸を支えるものでもある。
先に採り上げたように、織物の「経糸」という言葉は、「経」と同じ漢字を使う。このことは何を意味してい
るのだろうか。先にあげた折口信夫の『死者の書』においても、織るということと経との関連がでている。
郎女は、一心不乱に写経をする。この写経とは、経糸を渡すことと通じているように思われる。経糸が、地球
を含む宇宙をぐるぐるわたるように、写経は、時間の軸をめぐらせ、郎女を現在から過去へと引き戻す作用を導
き出す。経を写すとは、自らの生命の根本的なことを、深く掘り起こす作業に似てはいないだろうか。この写経
と同じ役割を、織ることは担っているように思える。郎女は、写経をした後に、過去の俤人に導かれ當麻へやっ
てくる。そしてその人の身を纏う被服をつくるために、蓮の糸を織る。このように写経と織ることとは関連して
描かれている。しかも写経よりも、織物を織ることの方が、より多くの喜びを郎女に与え、より清らかな心根を
発露させてさえいるのである。
経とは、人が祈る際に用いる仏典のことだと考えられている。この「祈る・唱える」という行為と、「織る」
ということとは、何か似通っていると思われる。つまり、実際に織機に向かって、手と足を使って織っていると、
一心不乱に経を唱えているのと同様に、静かに自分を見つめるということが可能になるような気がするからであ
る。人は、何らかの生きるうえでの困難さを抱えている。だが何もかも忘れて、ただ一心に一つのことを祈るよ
うに手を使って作るということによって、まるで経を唱えたような清らかな心持になれるのである。これは織る
ことを体験した者が、共通して語ることである。筆者自身も織ることを経験してから、この感情を理解できるよ
うになった。
このように織りの言葉は、古くからあるものに、似通っている。織るという行為は、人間が手を使ってものを
つくるという行為のかなり初期に行われている原始的なものである。工房で聞いたことであるが、例えばアフリ
カなどでは、織るという行為は、「清浄」なものと考えられているという。アフリカの布などは、その多くは、
25
十五センチ程度の巾で織られている。それは「切る」という行為が、「清浄」と考えられている「織る」とは、
反対の不浄な行為であると考えられているからである。だから「切る」ということを嫌がるが故に、小さめに作
って繋いでいくという手法を用いて、より大きな布を作っていくといわれている。
また被服は、身体の皮膚の続きであると考えられ、もはや着るものによって自分が自分であるということを表
現する一つの手段にもなっているといえよう。何故人間がものを作ろうとしているのか、このことを考えていく
と、不思議なことにつきあたるのである。人が道具をつかってものを作るという行為は、人間固有のものである。
何かを作るために、手でその道具を使う。脳を切り開いてみると、表面に近い部分に手の神経が張り巡らされて
いる。だから手を使うことによって、人間の脳は大きく重くなったのである。
おわりに
本稿においては、まず堀江友聲の手になる『富田城尼子十勇士絵巻』における絵と文字の関係について述べた。
そうした絵と文字が、絵絣においても見られることがわかった。さらに友聲と孫の有聲の画を比較検討すること
ができた。こうしたことから、友聲の画は、有聲にも大きな影響を与えており、創作の時代的背景から鑑みるに、
有聲の画も絵絣に関連があるものと思われる。
さらに『死者の書』における糸の績み方を探ってみると、苧麻の方法に近く、また叩くという工程については、
藕絲というよりは茄絲や宮古上布に近いことがわかった。藕絲で織られたといわれていた當麻寺曼荼羅そのもの
が、大賀博士の分析により、絹織物であったということなどをとらえても、また『死者の書』に描かれた藕絲は、
いろいろな糸の績み方を取り入れているという点からも、折口信夫が独自に作り出したイメージの中の幻想的な
糸であると思えてくるのである。
26
また郎女が、写経の後に、俤人に着せたい一心で織り上げるという行為の中に秘められた意味についても、考
察することができた。織物の経糸と「経」が同じ字を用いられていることからも、織るということは、祈りに通
じるものがある。「正直に仕事をすればするほど、祈りのような美しいものが宿ってくることがわかったのであ
る。」 3 1 という実感のこもった言葉も見られる。だが「正直に仕事をする」ということは、現代においては、す
っかり価値のないことのようにさえ思われている。
それは織るという行為が、現代のように機械によって糸をつくり、織った布を更に機械によって衣服に仕立て
るという時代においては、すっかり我々の手から離れたものになってきていることにも関連しているといえない
だろうか。しかし我々の心のどこかに、この織るという行為への郷愁があるはずなのである。それは「手」を使
って、何かを作りたいという欲求が、古代から人間の中に存在するからである。ある教育者から聞いた話である
が、それまで落ち着きがなくて困っていた生徒に、ある日織物をさせたところ、何時間でも静かに織り続けたと
いう。その様子に周りの教師たちは驚いたそうである。何よりも驚いたのは、その生徒自身であったに違いない。
織るという行為が、人間の古い記憶、つまり原始から織っていた記憶を、この体験から呼び起こしたのである 。
松坂木綿を織り続けた当時九十七歳の中野すゑの氏は、「糸の心でおらなあかん」という言葉を残している。
また「イライラするときにはハタを織らんことや、よく糸が切れる」とも語っている 3 2 。また田畑美穂氏は、
「ハ
タオリは、日本の女性史にとっても大きな比重を持つ『女のわざ』であり、
『女の業』でさえあると思っている。」
と述べている。確かに、古くから女性たちは、野良仕事の合間に、さまざまな技を駆使して、家族のために、あ
るいは現金収入のために織り続けてきた。さらに『女の業』というのは、よく「織りには、その人が表れる」言
われることに通じるともいえよう。
今回本稿を書くにあたって、自らが織りを学ぶことによって、これらの言葉が少しずつわかりかけてきたよう
な気がする。藍と綿の種を蒔き、収穫する。綿花から種を取り、カーダーで処理し、スピンドルで手紡ぎを行う。
27
また糸を整経し、括り、染め、織機に経糸を張り、緯糸で織る。こうしたひとつひとつの工程を、工房で指導を
受けながら、おぼつかないままに時間をかけて少しずつ進めるうちに、第一作目が完成した時の感動は、何もの
にも代えがたいものであった。長年、絵絣を蒐集し、毎日のように眺め、愛で、更に文章によって書くことによ
って、ますます絵絣に対する愛着がわき、織った人びとへの憧憬が増してきた。織るということの意味を、考え
れば考えるほど、やはり自らが実践して感じることしかないと思うにいたったのである。織り出された一枚の絵
絣が、手を離れ、名の知らない他者へ、静かに語りかける日がくることを願いながら、糸を紡ぐことと同様に、
言葉を紡ぎ続けたいと願っている。
28
図1
堀 江 友 聲 、「 富 田 図
紙 本 着 色 」、『 堀 江 友 聲 』、 島 根 県 立 博 物 館 、 1984 年 3 月 、 51 ペ ー ジ 。
図2
堀 江 友 聲 、「 富 田 図
紙 本 着 色 」、『 堀 江 友 聲 』、 島 根 県 立 博 物 館 、 1984 年 3 月 、 51 ペ ー ジ 。
29
図 3
福 井 貞 子 、『 絣 』、 法 政 大 学 出 版 会 、 2002 年 4 月 、 141 ペ ー ジ 。
図 4
筆 者 所 有 の 絵 絣 、 筆 者 撮 影 、 2007 年
30
図 5
図 6
筆 者 所 有 の 絵 絣 、 筆 者 撮 影 、 2007 年
筆 者 撮 影 , 2007 年
31
図7
堀 江 友 聲 、「 三 国 志 人 物 図
紙 本 金 地 著 色 」、『 堀 江 友 聲 』、 島 根 県 立 博 物 館 、 1984 年 3 月 、 28 ペ ー ジ 。
図 8 藕 絲 、 筆 者 撮 影 、 2007 年
32
図9
手前が蓮の茎の表皮を乾燥させたもの、後ろが茄絲を紙に巻い
た も の 。 筆 者 撮 影 、 2007 年
33
星 谷 美 恵 子 、「 山 陰 の 絵 絣 」、 篠 田 知 和 基 編 『 神 話 ・ 象 徴 ・ 文 化 Ⅱ 』、 楽 浪 書 院 、 二 〇 〇 六 年 五 月 、 四 九 一 ペ ー ジ 。
妹 尾 豊 三 郎 、『 尼 子 盛 衰 人 物 記 』、 広 瀬 町 観 光 協 会 、 一 九 九 六 年 五 月 。
3
湯 浅 常 山 、『 常 山 紀 談 上 巻 』、 ㈱ 岩 波 書 店 、 一 九 九 六 年 三 月 、 一 六 三 ペ ー ジ 。
4
妹 尾 豊 三 郎 、『 尼 子 盛 衰 人 物 記 』、 広 瀬 町 観 光 協 会 、 一 九 九 六 年 五 月 、 八 ペ ー ジ 。
5
音 羽 融 編 、『 出 雲 広 瀬 』、 音 羽 浩 武 、 一 九 九 六 年 九 月 、「 あ と が き 」
6
星 谷 美 恵 子 、「 山 陰 の 絵 絣 」、 篠 田 知 和 基 編 『 神 話 ・ 象 徴 ・ 文 化 Ⅱ 』、 楽 浪 書 院 、 二 〇 〇 六 年 五 月 、 四 九 五 ペ ー ジ 。
7
大 田 直 行 、「 堀 江 友 声 の 系 譜 と 画 歴 」、『 山 陰 新 聞 』、 昭 和 三 十 一 年 一 月 十 九 日 号 。
8
堀 江 友 聲 、「 三 国 志 人 物 図 紙 本 金 地 著 色 」、『 堀 江 友 聲 』、 島 根 県 立 博 物 館 、 一 九 八 四 年 三 月 、 二 八 ペ ー ジ 。
9
友 聲 と 絵 絣 の 関 係 に つ い て は 、「 県 指 定 無 形 文 化 財 『 広 瀬 絣 』 の 概 要 」 に お い て も 「( 2 ) 技 術 の 内 容
ア型紙 堀江友声
の 如 き 名 画 家 の 図 案 を 型 紙 に 写 し 取 り『 横 へ 台 』を 使 用 し て 結 え る の で 複 雑 な 絵 模 様 も 精 巧 に 織 り 出 す こ と が で き る 。」と
の記述が見られるほどである。
10 篠 田 知和 基、
「 鳥 の 神 話 学 ─ 歌 を わ す れ た カ ナ リ ア 」、『 神 話 ・ 象 徴 ・ 文 化 』、 二 〇 〇 五 年 八 月 、 五 六 九 ペ ー ジ 。
11 折 口 信夫 、
「 死 者 の 書 」、 一 九 七 四 年 四 月 、『 折 口 信 夫 全 集 第 二 十 四 巻 』、 中 央 公 論 社 、 二 三 四 ペ ー ジ 。
12 前 掲 書、 二三 五ペー ジ。
13 前 掲 書、 二四 十ペー ジ。
14 前 掲 書、 二四 〇ペー ジ。
15 前 掲 書、 二四 九ペー ジ。
16 前 掲 書、 二五 一ペー ジ。
17 前 掲 書、 二五 三ペー ジ。
18 前 掲 書、 二五 六ペー ジ。
19 大 田 雅子 、
「 小 千 谷 、 塩 沢 、 宮 古 島 上 布 の 郷 へ 」、『 銀 花 百 十 五 号 』、 一 九 九 八 年 九 月 、 四 一 ペ ー ジ 。
20 金 英 淑(キ ム・ヨン スク )
、「 モ シ ( 苧 布 )再 発 見 」、『 銀 花 百 十 五 号 』、一 九 九 八 年 九 月 、 四 七 ペ ー ジ 。 モ シ の 記 述 に つ
いては、本書を参考にさせていただいた。
21 平 良 敏子 、
『 平 良 敏 子 の 芭 蕉 布 』、 日 本 放 送 出 版 協 会 、 一 九 九 八 年 八 月 、 百 十 四 ペ ー ジ 。
22 真 南 風の 会、
『清ら布』 日本放送出版協会、二〇〇二年八月、百十九ページ。
23 大 賀 一郎 、
「 藕 絲 織 に つ い て 」、『 理 学 博 士 大 賀 一 郎 科 学 論 文 選 集 』、大 賀 一 郎 先 生 世 話 人 会 、採 集 と 飼 育 の 会 、 一 九 七 九 年
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四月、六八五ページ。
24
小笠原小枝、
「 藕 絲 ─ ミ ャ ン マ・イ ン ダ 属 の 藕 絲 織 と 当 麻 曼 荼 羅 縁 起 絵 巻 」、
『 SEN’I
GAKKAISHI (繊 維 と 工 業 )Vo;.61, No.
25
大 賀 一 郎 、「 當 麻 寺 原 本 の 研 究 」、『 理 学 博 士 大 賀 一 郎 科 学 論 文 選 集 』、大 賀 一 郎 先 生 世 話 人 会 、 採 集 と 飼 育 の 会 、一 九 七 九
年四月、六 六〇ページ。
前掲書、八二 八ページ。また中国では古来藕絲という文字を真のハスイトの意ではなくて、最上の絹糸の意に用いてい
る点も指摘してされている。
絹糸であるという点については、既に「この織物の材料が藕絲であるどうかと言ふことであるが、私の顕微鏡調査によ
る と 正 に 之 は 絹 糸 で あ っ た 。」( 大 賀 一 郎 、
「 當 麻 曼 荼 羅 の 真 価 」、『 理 学 博 士 大 賀 一 郎 科 学 論 文 選 集 』、大 賀 一 郎 先 生 世 話 人
会 、 採 集 と 飼 育 の 会 、 一 九 七 九 年 四 月 、 六 八 一 ペ ー ジ 。) と の 指 摘 が さ れ て い る 。
大 賀 一 郎 、「 藕 絲 織 に つ い て 」、『 理 学 博 士 大 賀 一 郎 科 学 論 文 選 集 』、大 賀 一 郎 先 生 世 話 人 会 、採 集 と 飼 育 の 会 、 一 九 七 九 年
四月、六八五ページ。
折 口 信 夫 、「 死 者 の 書 」、 一 九 七 四 年 四 月 、『 折 口 信 夫 全 集 第 二 十 四 巻 』、 中 央 公 論 社 、 二 五 二 ペ ー ジ 。
この点については、工房の主宰者よりご助言を頂いた。
福 井 貞 子 、『 絣 』、 法 政 大 学 出 版 局 、 二 〇 〇 二 年 四 月 、 二 七 八 ペ ー ジ 。
田 端 美 穂 、「 松 坂 も め ん 物 語 「 六 」 哀 歓 つ づ る あ い 色 の 日 記 」、『 松 坂 木 綿 コ ト 始 メ 』、 六 ペ ー ジ 。
11(2005)』
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