入居司支化 - 滋賀県立大学

県
立
大
学
人
I
I
J
文
化
学
音E
7mw
賀
o,
v
ノ
滋
クb
7L
入居司支化
12000.3
BULLETIN
VOL
.
8
SCHOOL OF HU M A N CULTURES
THE UNIVERSI
T Y OF S HI
G A P円 EFECTURE
報
丘二
口
.もくじ・
巻 頭 言/杉本悦郎
・論文
ー
「ぽん芯り」のある村/武百尚彦 ー
ー ・ー
ー
超えるもの・結びつけるもの/棚瀬慈郎
0
・・
・
.
.
.
...2
・
・
・
.
.
..
.
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..
.
.
.
.
・.
1
3
・アジア考古学研究機構調査報告 1
ベトナムの博物館/用田政晴 ・
・ 圃 …・…一.
.
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...
.
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.
2
9
ー
.
.
.....
.
..
.
.
.3
4
ベトナムの城と都市/中井均
ベトナムの食文化と宗教世界/植田文雄・ ・
・………・…一一 .
3
8
0
ベトナムの人々から/山本一博
…一 ・
….
.
..
.
.
.
4
4
-
・人間文化セミナー
妖怪と現代文化/小松平日彦
.
・ ・
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...
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..
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4
8
e
・紙上版企画展
.
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.
5
5
『
一本のうちわから jオーブンキャンパスうちわ班
・地域フォーラム
ー
百姓ぐら し再考/高田正子 ・
続・甲南町の人と水/岡田玲子
0
・
・・ー
ー
・・・・・ .
.
.
.
.
6
3
ー
・
・
・
・ 一.
・
.・
・
・・
・ ・
・
・・
・ ・・7
3
e
0
0
0
・書評
『
人類進化再考J合評会
一
・
・ …
・
・
・
・人間文化通信 .
.
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...
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..
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.
......
..
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...
. ・・
e
.
8
8
1
0
3
平成 1
1年度人間文化セミナ
99
年度卒業論文ー覧
I
NFORMAT
ION
編集後記
・
-八幡神社奉納太鼓踊 D
坂田郡伊吹町の八幡神社では、
5年に l度、 9月2
3円に
1年
「八幡神社奉納太鼓踊り」が行われている 。起源は寛文 1
(1671 年)で、長期l の 皐~誌に苦しむ伊吹 山麓の 11民が雨乞おど
りをしたことにはじまる 。
2年以降しばらく中断されていたが、昭和 4
0
年、地
昭和 2
元の布志が復活させ、 H
百
平
日4
2年には滋賀県選択無形文化財
1
に指定されて いる 。以降 5年勾;に締りが奉納され、平成 1
年は丁度その年にあたり、それぞれの役割の衣装をつけて、
)()v
!
J、ら子どもまて1
ィ
t勢3
0
0人が参加した 。
1.2キロの道のりを 3時間かけて神社へ向かい、神社で
踊りを奉納するのである o このち点は 、神社で太鼓踊りを
奉納している場面である 。
写真文/野部内子
口
一
一
三
委 須
えつ
本
悦
』
f
t
s
人間文化学部 学部長
1
9
9
6年3月に 「人間文化」 の創刊準備号 (0号) を発刊してから、 早 いもので 4年が経過しました 。
その間 「人間文化」 は人間文化学部の研究と 学習 の交流の場として刊行 され、活用されてきましたが、
2000年を迎えて、第 8号が刊行されることになりました 。本号 では本学部のスタッフのみならず、 学
外の方にも参加していただき、 アジア地域に関する論文 2編の他に、 アジア考古学研究機構調査報告
r
r
(
ベトナム編) としての 「
ベトナムの博物館 J ベ トナムの城と都市 J ベトナムの食文化と 宗教世界」
「
ベトナムの人々から」についての記述や人間文化セミナ一報告 としての 「
妖怪と現代文化」、紙上企
r
画展としての 「
一本のうちわから」、 地域フ ォーラムとしての「百姓暮ら し再考 J 続・甲南町の人と
水」 の他、人間文化通信として、平成 1
1年度に行われた人間文化セミナーの報告、教 員の近況および
平成 1
1年度卒業研究のテーマの一覧などが掲載されています。
今春には 学部の 2期生が卒業致しますし、 また昨年春 スタートした大学 院には 2期生が入学して参
ります。 そして、大学院博士後期課程の設置 に向けての準備も進められています。 人間文化学部・人
間文化学研究科においては、 人文科学、社 会科学と自然科学 の諸領域にわたる広範な分野において、
文献調査、 フィールド調査、先端技術を駆使した各種の 実験などの幅広い 手法を駆使した多面的な研
究が行われています。本学部・本研究科における研究の成 果や方向などについて、 学 内外の交流をす
すめる場として本誌がますます有効に活用 されることを期待しています。
春の犬上川
人間文化 ・
論文
け
尚
武
巴
UE
「ぼんなり」のある村
彦
人間文化学部 地域文化学科
生活に入ると いう のである 。
1.ぼんなりの風景
男性は T
I
J
[
を丸め、女性は 「
A
L
3
E髪」 にする 。おか
かの村には、 「ぽんなり 」 と呼ばれる独特の習俗が
っぱ頭のような短髪である 。50年ほど前までは女性
も頭を丸めたのだ、という 。今でも受式後、女性が独
ある 。かつては湖北地 j
I-fにひろく行われていた
IJをかぶるのは、その名残である 。
特の頭 I
琵琶湖の東山、愛知川 の下流域に点イ上するい くつ
というが、 現在もこれが伝えられているのは、愛知
寿命が延びた昨今では、受式年齢は 7
、8
0歳代とか
J架見新 1
:
1、架見出在家、
川の河口部にある能登川 I
なりi1!くなってきている 。だがそ れで、もよほどの事
福位、彦根 r
i
l新海の 4ヵ村だけである 。 これよりわ
情がない│恨り、たいていの老人が この 「ぽんなり 」
ずか上流にある能登川町乙女浜、新日 l
'
可、彦似 d
i
1
封
をこころ待ちに しているという 。
「 ょうこそ、ここま
付にも最近まで、 [
"
J
1
*の背俗があったが、いまはほと
で長生きをさせて白 ったものだ、ありがたい、も っ
んど廃れてしま っているという 。いずれも同じく見
たいない、か たじ けない Jという一連の思いが、自
然と醸し出す こころ持ちなのである 。子どもたち の
宗の村である 。
この習俗がいつ頃から存在するものなのか、また
「ほんなり 」 という │
呼称がどの よう な部れを持つも
のなのか、定かなことは分からない。だがその実態
方も、そうした親の 思いを汲み取って、 「そろそろ、
ぼんなりしたらどうや」 と親の受式 をすすめる 。
双方の こうした 思いは、 「
息子の嫁取りは親の責
坊さん成り )のつつき
か らすれば、 「ぽうさんなり J(
任、親のぼんなりは息子の責任」 という定型句で語
まった言い方であろうか。
在家信者が6
0歳を過ぎるころにもなると、村の手
だから、息子や娘が親の
られる 。殺が息子の結婚や娘の嫁入 り支度をしたの
l
'
まんなり 」 をして、お返
継ぎ寺で剃髪式を受ける のである 。一般に真宗 門徒
しをするというのである 。 これはいわば村の不文律
は、本 山で行われる 「
侃欲式 J(
おかみそり ) を受
といえるものにさえなっている 。
け、真宗に帰依した証として法名を下付されている 。
子どもたちの心がまえや態度は 、
大変立派で、ある 。
だがこれらの村では、本 1
1
1の帰敬式とは別にこの剃
「一生懸命働いて、 一人前に育ててくれた親へのお
髪式を受け、 これを機縁に風儀を改めて信心一筋の
返しです。老後 は仏道修行一筋に生きて行 ってほし
愛知川下流域
この 図 の よ う に 、 か つ て は 大 中と
小 中の 湖 が あ ったが 、 戦 後 食 縄 地
産の た め に 干 箔され、 今 で は 田 畑
2
・人間文化
'一
一
一
「ぼんなり jのある村
いという願いを込めて 、今度は子ども述の方 か らt
俳
人にやるのです。結婚式ぐらいのおひろめをします
よ」 という 。
同様に老親の方も、なかなか大したものである 。
「この私どものような 凡夫が、お念仏に専念させて
貰える身にならせていただける 。 なんとも尊いご縁
ですなあ 。ありがたいことです。 もったいないこと
です。 ナンマンダブ、ナンマンダブ」とよろこぶ。
「わしの 1
1
の黒いうちは・・
能登川町福堂の遠景
村の中央にそびえ立つ寺院の蔓は、近江の真宗の村の典
型的な景観である。
Jなどと、 J
t立地 は仮
(
1
力で 、法悦 l
此i
d
d性を特質とする伝 C
Xを生み出すとい
らないのである 。
「ぽんなり 」 をすませた老人たちを、村人 たちは
われる 。 だがこの「ほんなり」はむしろ積極[
内 で能
親しみを込めて 「ぽんなりさん」 あるいは 「
ゼンモ
動的である 。 たしかに剃髪式を終えてからの 「ほん
お坊さんの 1
/
1
'
ンさん」 と1乎ぶ。 同時に村人たちは 「
なり 」 さんたちの生活態度は、決して派手なもので
間入りをしやはった」といって、一日出くようにも
可ら変わるところはなし、。だが、
はなし、。それまでと f
なる 。老人たちは、 「おかげで年寄りの 仲 間入りを
仏引にのぞむ彼らの ;~1 とした姿かたちには、地域の
させて白うた。こうして達者で長生きさせて貰うて、
*
;
'
;
1
"
11
世界を立Jかなものにする力がある 。 じっ として
お念 仏 をよろ こばせて貰 う身にさせていただいて、
いながら、それだ けで他)
J宗のこころを伝える )
Jが
ほんまにありがたいことや」 といわれる 。そこには
一
│分にある 。 l
i
!
t
¥ともいうべきものが服し 出 される
人生最後の通過儀礼をすませた安堵感と、村の古老
t,~
としての位置をえた誇り といったものが、ほのぼの
と感じられる 。
(
もとい) ともなっている 。
こうした習俗が伝えられているのは、いかに近江
が
よ'
[京の盛んな│て地柄とはいえ、今では この地域だ
だからといって、 j
j
Iiもが年をとれば 「ぼんなり 」
をするとは │
浪らな し、
。後 に見るように 、いくつかの
けである 。 とりわけ能殺川 I
U
y福笠には、占くからの
形がしっかりと殺されている 。
条件が捻ってはじめて可 能 なことなのである 。何 と
この官俗をここに紹介するのは、それが昔ながら
いっても、親と子の双方がその気にならなければ適
の形式を伝えていて珍しいからとか、いかにも貞一宗
兄い事だから自 肘 もかか
うことではない。 もちろん f
らしいからというだけでのことではない。 あまりに
る。親類縁者 にキ
f
f作をか けることにもなる 。要する
も川題の多い別代 という │
時代を、われわれはいかに
に、家をあげての一大事業だからけっこう煩雑で手
生きるべきか、とりわけ老人の姿はいかにあるべき
間 と1肢がかかるのである1)
。
か、こうした 11]"、かけに伝統的地域主│会はし、かに比、
だからとい うと諮弊があるが、ごく最近になって 、
えてきたのか、それは現代という │
時代 にどのような
本来例人の入信の宵俗である 「ぼんなり 」 を何人か
示唆を与えてくれるのか等々、 「ぽんなり Jには学
でまとまって実施するケースが現れた。 いわば 「
集
ぶべきことがおおいと 思 うからである 。
Mい文句であったと
団ぽんなり 」である 。簡素化が m
し
、
つ。
2
. イキゾウレン
こんなふうに、受式年齢や儀礼のありブJは必ずし
も昔のままで はない。 だが 「ぽんなり」の 桁ネ
1に変
わりはない。 この剃髪式を機縁として仏門に入るの
'
'
J
'
'
である 。 だがその姿は在俗のままであり、聖道I'
の ように戒律を守り、 出家生活を送るという ような
l
皐苦しいものではない。言ってみれば、
2
t
J組親鷲塑
「イキゾウレンと j
Jlしましてなあ、生きながらソ
ウレン(葬紋)をすませるようなもんですわな」。
「ぼんなり 」 をすませた村の古老たちは、こんな
ふうにその心境を語る 。生きながら葬式をすませる
ようなものだ、その立 l床では、
こ れを機縁に ~~i たな
人生を~~むのだというのである 。
人が僧絡を華J
I奪され、越後に流されたおりに棋傍し
もともと 「ぼんなり 」の 習俗は、 この地域のムラ
た 「
非僧非俗 j の姿にならって、在家生前を送りな
社会における辿過儀礼が ~t 宗信1fIJと羽合したもので
がら 仏道修行に精進するという生き方を 心がけるの
あったと 思 われる 。すなわち、戦前までは前髪(15
である 。 いかにも其宗らしい習俗である 。
歳)、小前髪(1耐え)
、 元)
J
I
.
i
,0
7歳)という通過儀礼
いわゆる 他力 系の宗旨は、しばしば消極的で受動
があって、前髪と 小前髪の問にrL
l
ご
伝{
おJ
"と 『三
人間文化 ・ 3
「ぽんなり」のある村
た生活に入るわけでもないし、出家者のような生活
を送るわけでもない。それまで通り家業もつづける
し、村のつきあいもする 。ただ村づきあいの比重が
次第に跡取り夫婦にかかるように仕 向けるというだ
けのことで、老親たちの生活はこれまでと変わると
福堂の 「ぼんなり Jさんたち
写真左から 、冨江きみさん (
8
9歳)、冨江亀市さん (
8
4
歳)、田井中藤治郎さん (
9
2歳)、田井中末松さん (84
歳)、冨江きしさん (
8
9
歳
年齢は平成 8年当時)
ころはどことてない。
もちろん大いに変わるところもある 。男性の場合
は、白衣に白足袋と白い鼻緒の 雪駄履き、それに
「
へンテツ J(
編綴)あるいは 「
ヘン トツJと呼ばれ
略法衣を羽織る 。女性の場合
る独特の墨衣のような l
I
T
i
i和郡.
1"それに 『
五I
P
l
1
i
後1文章.1 を全部拝読できる
5
)
は、紋付に黒の羽織を着て、 j
:
J
i
には黒い頭巾をかぶ
ようになっていないと、克服して若衆の仲間に入れ
る。そうした独特の風体で、あらゆる仏事に率先し
てもらえなか ったという 。いずれも真宗の要義をし
て参列するのである 。
るす宅典である 。だからその問はお守に通って、住
例えば、寺で、勤まる法座には、 何を 置いても必ず
職の指導を受けたのだという 。あるいはまた、青年
参列し、 1'~11日と同様に座布同は用いないで、最前列
たちの間で選ばれた数人が、
l
i
l
二
交代でお寺の本堂
に座って仏法聴聞に勤める 。昼夜を間わず、数日開j
r
l
まり込んで夜警をするという 「
寝若衆」のしき
にi
にもおよぶこうした法座に欠かさず参列すること
た りも、戦後しばらくの附は残っていたという 。 ま
は、体力的にも中首相|げI~ にも並大抵のことで出来るこ
さに人坐の節 "ごとに、真宗の信心にとって法本的
とではない。若い者にでも灘行者行の類に属するこ
な~ぷが、さまざまな形をとって組み込まれていた
とである 。 だが病気でもしない限り、 「ぼんなり 」
のである 。
をすませた古老たちは、こうした姿を貰き通すので
こうした通過儀礼の最後の仕上げが、 「ぽんなり j
であ った。 「ょうこそ、ここまで生かされてきまし
ある 。 はた目を気にしてのこともあるかもしれない
が、精神的なパックボーンがなければ、とてもなし
た、おかげさまで、ありがとう 、 もったいないこと
おおせることではなし、。あるいは在家で、勤められる
です」 と、生かされてきた悦びを心底から感じられ
報思議では、率先して勤行の i
尊師をつとめる 。村人
るのは、それなりの齢を屯ねてこその味わいであろ
の葬儀にも必ず参列して、焼香は欠かさない。
う 。 その 「 こころ 」 を何とかして 71~ にあらわしたい、
こんなふうに 「ぽんなり 」 をすませた老人たちの
その思いが 「ぼんなり j を今に伝えてきたのだ、と
委は、他とははっきりと区別されるようになる 。 ま
古名ー
たちはいう 。
1
i老というに相応しい、在家信者のお手本
さに村の i
I
"
J
I
I
止に「ぽんなり 」 は、ムラという地域社会の基
本単位であるイエの存続とも不可分にかかわ ってい
た。すなわち、老親は 「ぼんなり j を契機として、
家業ーや村づきあいの主導権を跡取 り夫婦に談り渡
として大変立派な態度が示されるのである 。
3
. 剃髪の儀礼と祝いの宴
「ほんなり 」の儀礼一式を f
i
t
jl
j
tに紹介しておこう 。
し、自分たちは仏道修行 ー筋に余生を送るのだとい
これらの村では今も 6時勤行の名残があって、す
う。その意味で 「ぼんなり 」 は、イエの世代交代を
Y
Jくる日の
べての仏事は 「
逮夜」からはじめられ、 r
L
Iの儀礼でもあったのであ
IJで終わる 。木来は逮夜と長朝の
1
「
民朝」 と「 日I
る。人生の悦びが個人的内面的なものにとどめおか
あいだに、初夜、Ijl夜、後夜の勤行が 41時間ごとに
れるのではなく、形を通して外に襟携されるところ
あるのだが、いまでは省略した形をとることがおお
に 「
ぽんなり」の積極的で能動的な特性がある 。そ
い。 これが古くから継承されてきた仏事の作法であ
ムラ社会に公言する節
!
'
;
;
{とした姿は老人のあるべき姿のお手本となっ
のt
る。剃髪式を含む 「ぽんなり 」の儀礼も、この作法
て、地域に生きる人々に大いに影響を及ぼすのであ
に則 って、きわめて厳粛に執り行われる 。
る。 まさに 地域文化の智恵である 。
イエの主導1'
f
r
lを跡取り夫婦に譲り渡すとはいわれ
mがある 。
近江の真宗の村なら、どこの家にも仏 1
普通、民家は回の字型に室を配し、その境は襖や板
るものの、事実はさほど簡単ではない。「ぼんなり J
戸で仕切られている 。これを近江では 「凹つ住まい J
をすませたからといって、老親たちは格別に改まっ
というが、年忌法事や寄り合いなど、多くの人が寄
4 ・人間文化
1まんなり Jのある村
逮夜のお勤め
ネギリ(根切り)を前に仏前に端座する老夫婦
ネギリ(根切り)
逮夜のお勤めの後、嫁が始の髪に八サミを入れる
り集まるときには、境の襖や板戸を取り払い、大広
:
¥
家の仏教を在家の仏教と
ですわなあ 。親鷲聖人は 1
/1¥]にして使うのであ る。仏間はたいてい奥の方の室
して残して下さった 。「 ネギリ」の立 l
床を考えてみ
があてられている 。そこには床と山吉 │
淀と縁側があ
ますと、山家仏教と同じように在家仏教の厳しさを
り、もちろん仁/
"うたには伝統工芸の粋を集めた仏国が
思わせて貰うことです。
ある 。「 ぼんなり 」の儀礼は当家の仏間と手継ぎ寺
の本堂で行われ、最後のひろめの事は当家の凹つ住
まいをすべて開け放って行われる 。
3年ほど前に夫婦そろって受式した一例を挙げる
と、こんな具合である 。
まずは逮夜に行われる剃髪式である 。夕刻になる
と、当家の仏間には、近い親類の人たちが 1
0数人ほ
1
¥
1家仏教は
-wの思いを断ち切 って 111に登る 。 ま
さにネギリですなあ 。 ましてや女人禁制、昔の仏教
は厳しかった 。それじゃ、在家の仏教は厳しくない
のか。そうじゃない。居ながらにして仏法を聞かせ
て貰えるとはいっても、そんなに安気なものではあ
りませんわ。出家仏教に劣らず、在家仏教もけっこ
う大変なんですよね。
ども集まってくる 。男女ともに威儀を正し、皆ほと
「ネギリ」というのは、世間の生活を根っこから
んどがきちんと和)jJ{姿で参列する 。すでに受式した
断ち切るということでしょうかなあ 。在家仏教の厳
1姿である 。仏壇は五具
老人たちは、へンテツに頭 1
しさを見失わないように、大切なご縁を頂いたこと
足仰に朱蝋燭できらびやかに荘厳されている 。そは、
です。 こうして、ここに坐らせて貰って、生かさせ
1
7
1
には、親類縁者や村人たちから届けられた祝いの 1
l'っておることは、どんなに手間と 1肢がかかって
てJ
が山と積み上げられている 。
おることか。わが力だけでは出来んことです。先祖
f
手継ぎ寺の住職が読経を終えると、朱蝋燭が自制l
さんや仏さんに、お育ていただいたおかげです。
燭に替えられ、仏前に端座した老夫婦の剃髪式が行
?耳目人はねえ、「明日ありと思う 心の仇桜、夜
親
うt
髪式とはいっても、 N
J
[を丸めるのではな
われる 。剰l
半に嵐の吹かんものかわ」 と、得度する前にお詠み
い。老夫婦の頭髪に、住職と 一族のものが少しずつ、
にな った。そのお心をあらためて忠わせて貰うこと
形ばかりにハサミを入れるのである 。最後に嫁がこ
ですわなあ 。
れをおこなう 。剃万ではなくハサミを入れるからで
あろうか、これは古くから 「ネギリ J(
根 切り ) と
呼ばれてきた 。 もともとは相撲取りの断髪式のよう
なものであったのだろう 。 これが終わると、参列者
同で逮夜のお勤めが行われる 。
「これでお坊さんの仲間に入らはった 。ナマン夕、
明 くる日の「長朝 J(
あさじ ) は、手継ぎ寺の本
音いうちに家
堂で厳粛に勤められる 。老夫婦はまだ H
を出て本堂に向かう 。夫は僧侶のすがたと同じ白衣
に白足袋と白の鼻緒の 雪 ~t は、き、妻は紋付きに黒の
羽織で正装している 。 この二人には、跡取り息子と
。参列者たちは、口々に称名
ブ、ナマンダブ・ .
.
.J
近い親類のもの数人がつづく
念仏する。
に肩衣をつけ、自足袋を履き、正装している 。親族
「ネギリ」を済ませた老婦は、その心境をこんな
ふうに語っている 。
O
息子は紋付きの小袖
のものも同様に威儀を正している 。
6
1侍かっきりに l
奥鐙がはいると、本堂で勤行がは
じまる 。一 同は厳粛な面もちで、緋毛挺に端座して
この度は尊いご縁に結ばれましてなあ、剃髪のご
いる 。 まず真宗の葬儀式次第に則って、善導大師の
縁に合わせて貰いました。 │
時代は変わり、剃髪の意
r~~l経凹 1~IIÎ 疏 J の冒頭の備、「帰三宝偽」が読諦され
味も変わったかもしれませんが、その姿は昔のまま
る。真宗では 、これを 葬儀の 出棺勤行に用いている
人間文化 ・ 5
f
lまんなり」のある村
判恥
震朝のお勤めを終えて
「へんでつ j を着、頭巾をかぶる
「ぼん芯り Jを終えて
祝いの杯を息子かう受ける老夫婦
から、村人たちはこのとき、前述した 「イキゾウレ
ろう 。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、
生き葬紋)を惣い起こすのであろう 。 この間
ンJ(
ご│
羽山聖人ご出 止のご恩、次第相承の普知識のあさ
│
に参列者一│
司が焼呑をする 。 これが終わると、住職
からざるご紡イ
ヒ のご思と、ありがたくぞんじそうろ
1
1
によって、夫にはへンテツが着せられ、妻には頭 1
う。 このうえは、さだめおかせらるる笹1おきて、 一
がかぶせられる 。村によっては、跡取り息子がこれ
期をかぎりまもりもうすべくそうろう 。
を行う場合もある 。
l
J文章』が
住職の法話につづいて、蓮如上人の ni
その後、参列者一同は、息子が折敷(おしき )に
拝読されると、それに呼応して 一同そろって 『
領解
載せて持参した清酒と肴 (
見布と豆)で簡素に祝う 。
文.
1
"が H日
干I
Jされる 。
それから庫裡のお内仏へ悶同そろって参拝する 。 こ
陥中、との章を拝読するかは必ずし
『
御文章 J五l
うして、震朝は終わる 。
も決まっていないが、たいていは第二帖の六が拝読
I
占の六というのは、こうである 。
される 。第二 1
次は 「日中 Jである 。 まず一族を招いて法事を勤
める 。 このときは 「
お斎jが山る 。一 汁一菜の精進
抑も嘗流の他力信心のをもむきをよく聴聞して、
料理である 。 これが終わると、めでたい料理が運び
決定せしむるひとこれあらば¥その信心のとほりを
込まれ、おひろめの祝宴がはじまる O 襖を取り払 っ
もて心底におさめをきて、他宗・ 他人に到して沙汰
た座敷は、前日の 3~4 倍の親類縁者であふれかえ
すべからず。 また路次大道われわれの在所なんどに
る。舞をまう人、詩を詠む人など、けっこう風雅な
美すべ
でも、あらはにひとをもはばからずこれを讃 H
人や套達者な人がおおい。それに酒がはいる 。
からず。つぎには守護・地頭方にむきても、われは
そんなわけで、披露の宴はいつまでも切りがつか
略の義なくいよいよ公事を
信心をえたりといひて疎 l
ない場合が多い。そこでおもしろいのは 「
家貸し隣
またくすべし。 また諸有I
1・諸刊l
I・
=
e
fJ
涯をもをろそか
り」の風習である 。何か大事のときには、決ま って
にすべからず。 これみな南無阿弥陀仏の六字のうち
その家を借りるから、そう呼ぶのである 。
にこもれるがゆへなり 。 ことにほかには王法をもて
そろそろ切りをつけたいときが来ると、この 「
家
おもてとし、内心には他力の信心をふかくたくはへ
貸し │
舜り 」の人が出てきて、こんなふうに声をかけ
て、世間の仁義をもて本とすべし。 これすなはち首
る 。「 私の方にお茶が ì~ll きましたから、皆さんどう
流にさだむるところのおきてのをもむきなりとここ
ぞお越し下さい」
。 これを合図に祝宴もそこで 一区
ろうべきものなり 。あなかしこあなかしこ 。
切り、皆で 「
家貸し│燐り 」に行って、お茶をいただ
くのである 。残った者は、その場をきれいに片づけ
また一間で H白和する 『
領解文jは、次のようであ
る。参列者は説もがこれを階論できるのである 。
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、
一心に阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御た
て 「
送り膳」をする 。 これで 2日間にわたる 「ぼん
なり 」の儀礼一式は終わる 。
4. ぼんなりのところ
当然のことながら、 「ぼんなり 」 は地域に 生 きる
すけそうらえとたのみもうしてそうろう 。たのむ一
人々に驚くべき感化力を持っている 。 とりわけ精神
念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、このう
世界に及ぼす影響はきわめて大である 。当事者はも
えの称名は、ご恩報謝とぞんじよろこびもうしそう
ちろん、取り巻きの人々も同様である 。
6 ・人間文化
l
r
まんなり」のある村
人生も終わりに近づかなければ、見えてこないこ
れて、ご恩報謝の H暮らしをさせて貰わなければな
とが大いにある 。その I
時期がやって来てはじめでわ
りません。 こうならせて貰ったからには、うるわし
かる人生の味わいや感慨がある 。「 ぽんなり j をす
ゅう生きることが大事ですわなあ 。村人のお手本と
ませたばかりのある古老は、その心境をこんなふう
して、尊敬され慕われる人間になるよう心がけさせ
に諮っている 。
て貰うのですよ 。
もちろん、こうして剃髪式をすませると世 間の1良
先制 さん方は、自分らが生きて行くうえで一番大
は厳しくなりますわなあ 。でも私たちが持ち合わせ
切やと思われた親鷺聖人のおこころを、何とかして
ている自性というものは、そのときから急にころっ
形に残そうと考えなさったんでしょうなあ 。そうし
と変わるというわけには行きません。 まわりから変
て残されたのが、この 「ほんなり」でしょう 。剃髪
われというても、これまた簡単に変われるものでも
式を終えるとへンテツを着て、頭 巾をかぶる 。 これ
ありません。だからせいぜい)肢を立てぬように 、愚
からは、この姿で仏事に参列して、皆さんの前に坐
痴を 言わぬように、勤めさせて貰うのです。
るのです。晴れがましいことですわなあ 。
こういう身にならせていただいたのには、それな
また、まわりの者も考えなければなりません。せ
っかく風儀を改めたのですから、せめてまわりから
りの条件が整つてのことですよ O 条件 というと語弊
も版を立てさせぬよう、愚痴を 言わせぬよう、心が
がありますがねえ 。「 ぼんなり 」 は、縁、遁、果と
けなければなりませんのよ 。
いう 三つの条件がそろって、はじめて完成するとい
われていますのよ 。
一つ日は、 仏法一筋に生きょうという決意とそれ
3,
000人の大衆を供養するよりも、我が家からた
った 1人の 「ぼんなり 」 を出すことが、いかに尊い
ことか、大変なことか。 この大変さを思わせていた
親鷲聖人のご苦労を偲びつつ、そのお手伝い
ができる 状況、つまり縁ということで、すねえ 。 なん
だく
ぼ決意が出来ても 、それが出来る状況が整わんこと
をさせて頂きたい。先祖の方たちはそう思って、こ
にはあきませんわなあ 。仏法との縁が結ばれること
の姿を残されたんでしょうなあ 。 これからはご、法義
がなければ、 こんなふうにはなれなかったでしょう
を傷つけぬよう、 l
憎み慎みたいもんですわ。
O
よ。年を積み重ねると、人間は自然に「有り9)
l
t
う
」
なるかというと 、なかなかそうは行きません。ただ
年を重ねさせて貰っても、なかなか「有り苦lf~ う」は
「ほんなり」をすませた古老たちの心境はこんな
具合なのである 。いわば精神的遁 世の心境である 。
なれんもんですね。生まれてこの方、真宗のご縁を
'
,家といってもよい。 しかし一切
だからこれを疑似 1
いただいて育てられて来たからこそ、この度の剃髪
の1
f
t問の生前を遮断して、完全な │
企捨て人になるの
のこ"縁が整ったんですよ 。
ではない。儀式を受けた後も、それまでと変わらな
二つ目は、遁と 申 しましてなあ 。剃髪式を受けて
風儀を改めるということです。 これまでは世間のこ
とに精進させて民ってきましたが、これからはヘン
い暮らしをしながら、信念体系を│山谷のそれから仏
i
土中心に切り替えるのである
O
もちろん説もがこんな具合だとは 言 えないだろ
テツに頭 巾で風儀を改めて、 │
止事を息子夫婦に委ね
う。 だがその頃になると、少しずつこうした心がま
党鷲聖人の
て仏法の ご縁に精進させて貰うのです。 j
えになるのだという 。
ご苦労を 似 びながら、そのお手伝いをさせて貰うの
で、すわな 。
振り返り、縁のあった人々との関係を深く顧みる、
三つ日は、 J
!
T
I
l
1
哀を改めさせて貰うた以上は、うる
Ilt -lfT に WJ け暮れてきた I~I らを
そして村人のお手本になるような生活を 心がけるよ
うになるというのである 。
わしゅう間法して、村の人たちのお手本として尊敬
こうした古老たちの姿は、当然の こととして地域
される生き方をする、これを果というのです。子ど
に暮らす人々のこころに、あるいは態度にさまざま
も達や親類縁者が│
呼び力、け合って、この剃髪式をし
な影響を及ぼすことになる 。当事者は在家信者とし
てくれた 。どれほど「ぼんなり 」をさせて貰いたい、
ての心がまえを新たにし、かれらを取り巻く親類縁
させてやりたいと思うても、声をかけて貰わなけれ
者たちの心がけもそれなりに変わる 。 とりわけ 「ぼ
ば、またその気にならなければ、この度のご縁は結
んなり jを「する者」と「させる者」の心がまえは、
ばれなかったでしょう よ。
これからは今まで以上に、人さんから尊ばれ慕わ
これを機縁に大いに変わる 。 「ほんなり 」 は、土徳
とでも呼べるものを地域社会に清うのである 。 「ぼ
人間文化 ・ 7
「
ぽんなり 」のある村
んなり 」 は、その意味で、地域文化の粁j
:
;
'
i
fといって
よ
し
、。
この '
11L
'
.
をJ
!
!
r
;にした I
献身的な生きざまは、I'li
l
家権
J
I
の権威に対しでも、しばしば行 1的献身と
力や教 F
なって発露した。 こうした態度に対しては、現胞の
5
. いかに生き切るのか一真宗の村の発見一
はじめて 「ぼんなり j をすませたお年寄りたちと
7
f
c詔
矛盾を者破するブJをそなえていない、すべて 1
必謹」の態度だという批判が力1
1えられることになる。
1
1
¥会ったとき、わたしの脳裏に浮かんだのは 「妙好
こうした批判が議論にのぼったのは l
j
没後にな ってか
人J
(みょ うこうにん)
刈 のことであった。
らのことだが、それ以前に妙好人をひろく宗教的見
妙 Hというのは、もとは蓮華のうるわしさを歎称
地から見 l
立そうという動きが、大正デモクラシーの
しての 芦粂ーであるが、大釆仏教はそれを人間に移し
人1
1
1]解放の思潮を受けて現れていた。東洋の精神医
て、その信仰 のうるわしさに1
/
食えたのである 。『維
学を JJfJ 桁した ~(;-r 土 Jl I 淑、と民芸の発見者相jJ 宗悦である 。
l
李終』 はその蓮華の生態に 思 いを馳せて、 「高原の
陣地には蓮 J
Wを生ぜず、卑 j
毘の i
l
h
l
己にこの華を生ず」
m示し、ひろく 脚界に知らしめた人がいる 。仰と
に1
と)J説する 。美しい花は乾燥した爽やかなところに
浄土教に深く参入した鈴木大拙 である 。
この 2人のほかにもう 1人、妙好 人を近代の人々
は育たず、どろどろの汚泥の '
1
'にこそ育つのだ、人
かれは 「
近代文化 なるものが、人 間性の外殻を絞
間もまた同じだ、というのである 。 ここに大乗仏教
るに無能で、キI
F対性の側面だけにこだわり、物質的
の人 rliJ~Jlがある 。 この人間観は u 本にも古くから受
生活聞にとどまって、その下に流れるものを汲み取
け作れられ、人々の中に深く浸透してきた。
り符ない。 しかもそれは、ただ今までの歴史観の上
この人日1観をもっとも大切に考えたのは浄土真宗
に立つことを矢1るだけのもので、これから作られる
(
r
である 。「煩悩を断ぜず、この身このままで仏に救
べき文化 に何 ら計画的 なものを持たない 。J 妙好
い照られ、浄土に往生できる 」 と、現実の汚泥にま
人J法1次郎、 1
1
月利 5
1
年、第二版、 3
7頁) といい 、そ
みれ、 1
'
1
らの煩悩lに苦悩しつづ ける人々に説きつづ
の 「近代文化」の底を破って「霊性的 自党の世界」
けるからである 。浄土教系の信者の '
1
'でも、ことに
をとらえようとした。かれはその具体例を、 I
L
J陰の
1
1
7
H信者の 中に妙好人の輩 出が多いのは、このため
温泉津の下駄 J
i
f
lk:人浅原才市翁に発見したのである 。
である 。
才市はひたすら自己を見つめ、わが心 の 「
あきまし
妙好人にはいくつかの型がある 。
起鋒の烈しい人、
さ」の!去に仏と 一体となった自己を 見出 した宗教詩
ね相│
な人、思索にたけた人、向戒の念に厳しい人な
人であった。鈴木にとって、こうした妙好人はかれ
ど、その l
t
lはいろいろあるが、いずれもその言行が
のいう「霊性的創造力の偉大さ」を顕現するもので
われわれの日常の生活にきちんと交わってくるだけ
あった 。 まさに才市こ そは、 「
近代文化」あるいは
に味わいが深いのである 。
近代社会を l
喝破する 人間像として立錫すべきもので
'
,
したのは幕末の
妙好人という人間像が強制され 1
あったのである 。
ころからである 。 文政元年(1 8 1 8) 、 fqJ ~守(ごうぜ
鈴木はこうした妙好人の信 f
J
[
のうるわしさが、そ
い) によって 『
妙好人伝 j が i
'
i
かれてからだといわ
の個人だけにとどまらず社会的にもいかに重要であ
れる 。その主人公はほとんどが名もない農民や i
搬入、
るかを、泥俸という個人の行為を 引 き合いに出して 、
つまり無学な民衆である 。 にもかかわらず、かれら
次のように述べている 。
は鋭く、深く、人心の機微を'陪り、宗教の奥義に達
している 。
かれらの信仰は学問や知識のうちに枯渇している
「
泥僚に対する各個人の態度は、 消極的でのみあ
ってはならぬ、積極的・能動的でなければならぬ。
のではなく、ナマの現実の生きざまの中にはつらつ
それは 如何 なることかと 言 えば、たんに泥棒除け
と生きている 。 ただしその態度はきわめて受容 的で
の法律を制定するだけではなく、泥棒的心理
.
1
1
型を持
ある 。妙好ノ リこは特にこの傾 向jが強い。普通なら忍
つような人 間 を産まないようにしな ければならぬ、
7
5の生活と認められる生活状態でも、彼らはイI
fの不
即ち、 心 身ともに健全な発達を成しうべき子孫を産
平も訴えないで瓢々としている 。まJ
Iってこれを感謝
むような個人的修養と環境的条件を作り上げなくて
するという気分さえ見える 。彼らの生活は、 「あり
はならぬ。集団生活圏のどこかに何かの欠陥があれ
がたい JI
もったいない JI
かたじけない Jなどとい
ば、そこから有筈なものが侵入してくるのである 。
う一連の感情で貰かれているのである 。
それがないようにするのが、各個人の~1'先でなけれ
8 ・人間文化
1
I
まんなり jのある村
喰らうため
社会あ っての個人であると 言われる、 l
ばならぬ。
1
1
i
[
宗教はもともと個己が中心になるのだが、その [
には働かねばならぬと 言 われる、確かにそうである 。
己なるものは他己なくして存立しないのである 。そ
だが個人あ っての社会でもある 。 いやむしろ悩人の
れ故、個己の進退出処は直ちに他己を影響すること
あり方がすべてを決する、今はそういう時代ではな
を忘れてはならぬ、弥陀の成仰はやがて衆生の成仰
かろうか。 自利が自利のままで終わってはならぬ。
1はやがて弥陀
を意味するように、衆生各個己の成制;
自利が利他につながるのでなくてはならぬ。
,
;
1を意味するものでなけれ
を含めて衆生全個己の成 1
たしかに 「ぽんなり j は残った。 だがそれ以外の
ばならぬ。 この釜性 E
I
9直覚はそのままですむもので
通過儀礼は、そのほとんどが廃れてしま っている 。
はなく、必ずこれを事上に行為せられなくてはなら
自然の照明!がわれわれに教えてくれていることは、
ぬ、それはとんな意味かというに、集団における生
「すべてはひとつ」 ということである 。「 この世のも
産生活・経済生活・政治生活などというものが、こ
のすべては、総によ って生じ、縁によって減す」 と
r
l
刻総生滅の型H
Jも同じことを示唆して
とごとく上婦の原則の上に立って動かなくてはなら
いう仏教の
ぬ。 これを成就すべき社会運動の基盤は教育にある
I
:
床で、われわれの姿かたちは、いま如
いる 。 その}J
ことは、 今 さら弁じたてるまでもないことと信ず
何にあるべきかを兵 剣に間わねばなるまい。それが
る。J(
[
日
j
上占、 1
3
1
4頁)
われわれの未来を決するのだから 。
ここに鈴木が述べていることは、とりわけ現代と
わが国の 6
5成以上人口は、すでに 1千万人をはる
いう l
時代を生きるわれわれには重要である 。 なぜな
かに超えているという 。必ず訪れる老いとどのよう
ら、われわれの態度は、あるいはその冗にあるわれ
に向き合うのか。立 ち向かうのか、それとも 受け容
I
I
U辿 ってき
われの考え万は、どこか肝心のところで'
れるのか。老若男女にかかわらず、誰もが激しい│時
ているのではないか、そういう品引 u
iを H々の暮らし
代の変化のナマの現実の中で、こうした課題を背負
の中で感ずることがあまりにもおおいからである 。
っている 。
ここに紹介した 「ぼんなり 」 のある村は、そうした
ここで紹介した 「ぽんなり 」 は、どちらかと 守
?え
疑問にみごとに応えてきたように思う 。すなわち、
ば総じて 受谷の方向l
にそのベクトルは向いている 。
位│
人の自律的な生き方を内奥から支える信仰l
、その
少なくとも、 [
C
[
)
j
!
.のしわをや[lばし、厚化粧と派手な
うるわしい生き方を個人の内部にとどめおかずに周
衣服とどぎつい香水で、老いを包み隠し、若さを誇示
囲に自ずと知らしめる 「ほんなり 」の習俗、この双
しつづけようとする欧米流の方向ではない。人の世
方が往きつ戻りつ絶妙のバランスを保 って、ムラと
話にならなくてよいように、若いときから身体を鍛
いう地域社会あるいは地域の文化の成熟を文えてき
え、健康や経済の知識を、あるいは喰らうための技
たのである 。 「ぼんなり 」 の習俗は「こころ 」 と
能を身につけて、老後のために蓄財し、いわゆる自
「かたち 」、あるいは精神と作法、この阿者が双方向
立能力を失わない、そうして老いに立ち向かう、そ
から発するベクトルに絶妙のバランスを与えてきた
ういう方向でもない 。在るがままの老いを見つめ、
のである 。 まさに大乗仏教の説く往材 [ jill!向と泣ヰ[~[ j
i
l
l
!
それを 受け容れながら、親類縁者や地域の人々と共
l
布J'''が地域文化の精華として花を聞かせたのを見る
1
¥
来るだけうるわしく生きょうとする、受
に老いを /
思いがする 。
容が必ずしもそのままにとどまらない、そういう方
近江の村は占米、交通と情報の交差点に位置して
向である 。 この場合、 「老い j という 言葉をより大
きた。 その先進地域としての位置が、こうした自律
きな意味をもっ 「人生」 と置き換えてもよい。「 ぽ
的な地域の生き方に大いに与ってきたことを認めね
んなり 」 は、ナマの現実をいかに生き切るか、ある
ばなるまし、。常に伝統と現代の狭間にあ って、決し
いは死に切るか、そういう問しミに対して、近江の長
て 一方に片寄ることなく、自らの位座をし っかりと
宗の村が発見した 一つの答えである 。
見抜i
えてきた近江のムラの生き方がそこにはあ っ
た。 だが今では激しい時代の変化に、)j干%'lは何かを
見据える力を削がれているかに見える 。 それを社会
や│時代のせいにして、自らを省みようとしない自己
本位の風潮が些延っているように思う 。
6
. おわりに
奇しくも 「ぽんなり 」のある村に通うようになっ
て、もうすでに 3年ほどがたつ。
はるか彼方の鈴鹿の山に登る朝日を、広大な大
人間文化・
9
1まん主主り Jのある村
'
l・小巾の干拓地 に9
i
1lき上がる !
W
J綴を、あるいは琵
1
:原を、そして比良 ・
琶湖を渡る木枯らしに揺れる 3
1
1
1
'吟し葛藤
老いの姿を、また伝統と現代のはざまで 1
比叡の山並みに沈みゆくタ│場を眺めながら、この村
する地域の人々のエネルギッシュな姿を、そして厳
仁
さんたちのうるわしい姿を、あるいは妙くも淋しい
'
i
1
1
i
1
あるいは土徳と
の人たちと接していると、村の中i
しくも優しい近江の自然と人間の姿を、学生たちは
でもいうべきものが、このわたしの全身全霊にしみ
村の人たちとの接触を通して、それぞれがそれぞれ
込んでくるのを実感する 。
に実体験している 。 これがわたしに山来るささやか
喰らって生き
それは、この地域の土と水とヤ気を l
な教育実践の一つであろうと思っている 。
てきた人たちの文化である 。それはまさに、人のこ
このバーチャル・リアリテイの検滋する現代とい
ころを汲み取り、自然の息吹を汲み取って暮らして
うI
J
寺代に、ナマの体験からくる実感ほど大切なもの
きた人たちが育んだ文化である 。 l
W
.り巻きのあらゆ
はない。 そうした実体験から生み 1
'
,
される文化が、
るものが発する願いを、そのまんまに受け容れてゆ
実りある麗しいものであることを、そして若者たち
:
'
1
ずと臼分の足元
く文化である 。そうすることで、 1
の未米に本当の輩かさがもたらされることを願わず
,
'
;
1まってゆく文化である 。それは決して、上から
が1
にはいられない。
しつけの文化ではなく、下からじわじわと生え
の事 p
昨になびく悲のここ
彼らの純粋な心は、琵琶湖の l
てきた、 f
l
iっこのある文化である 。いわゆる地域文
ろや 「ぼんなり 」 さんたちの魂を汲み取るに敏なる
化とは、地域の智恵とは、こんなふうにして培われ
ものがある 。真実はこころに 一挙に突入してくるも
るものなのである 。
のなのであろう 。学問とか智恵才覚などという分別
今われわれを取り巻く状況は、次の 三つのキーワ
知が強すぎると、真実はおろか、平lるがままの現
i
化、情報化、そ
ート‘で表現できる 。すなわち、都I/
尖 ・ヨ}笑さえもがこころに突入してこないのを実感
して検泌するバーチャル ・
リ ア リティである 。 この
する 。私念があったり、こころが抽象的概念で充た
巨大で広範な現象がもたらしたものは何か。一言で
されていたりしても 、こ れはいl
じことである 。そう
いうなら、それは脳化である 。すべては脳の作り出
したものが、まだあまり多く詰め込まれていない学
した位界になった。そこでは、全身で感得するスタ
牛たちはたしかに違う 。 これからの地域文化を、そ
イルの文化ではなく、機械的な ~lilJ り切りを得意とす
して未来を創造するに相応しい資質にあふれでいる。
る文イヒがより大きな位置を占めるようになっている。
l
'
まんなり 」 さんたちとの出会いを辿じて、手l
分
今後この傾向はますます強くなりそうである 。事実、
の暮らす地域社会や地域文化を見直そうとする学生
すでにこの巨大で広範な現象は、われわれを覆い尽
たちが、少しずつ出はじめている 。そうした実体験
くし、さまざまな問題を突きつけてきている 。
を就織に生かす学生も実際に現れている 。何ともこ
こうした状況の中で、われわれはいかに生きるべ
ころうれしいことである 。感謝の念で一杯である 。
きか。 これまで、の価値観をそのまま踏襲するのでは
教,rm
冥平 I
Jに尽きるとは、 こういうこと を?
守 うのであ
どうにもならなくなっている、とさかんにいわれる 。
ろうと思う 。
だから高度な都市化や情報化への対応が急務だとい
われる 。そして割り切りを待:なとする近代に特有の
謝辞
論理で新しいシステムを+再築しようと躍起になって
「 ぽんなり J の調査は、平成 8~9 年度滋賀県立
いる 。だが考えてみる必要がある 。 これまで慣れ親
大学特別研究 「
近江の伝統文化の研究 J(
共同研究
しんできた行動様式や考え方を 一挙に何か日iJのもの
1
) による 。現地
者武邑尚彦、黒田末毒、棚瀬慈自)
に変換できるほど、われわれは掛川で、はない。そう
調資では、多くの方々に大変お世話にな った。 とり
した立│床では、緩やかな変化を 則待するしかなかろ
T
福堂の福原昭晃氏、 │
百
j
所出井中末松氏
わけ能登川
I
1
I
う。その緩やかな変化の方向づけを、われわれは自
には貴重な f1;~附を再々いただき、こころに染み入る
分の足元にある 地域文化あるいは地域の智恵を見直
話をいろいろと 聞かせていただいた。 また白井中幸
すことからはじめようではないか。
次郎さん、きさゑさん夫妻のほんなりには、そのご
「ぼんなり j のある村はこの県立大学からそう遠
チ息幸重さん、ひろ子さんご夫妻のご高配を得て写
くないところにある 。最近では学生に戸をかけて、
真をぬらせていただいた。その他お世話になったす
いっしょに 出かけることにしている 。一 人では何と
べての方々の名前を記して謝意を表すべきではある
も 「もったいない Jと思うからである 。「ぼんなり 」
が、誠に恐縮ながら省略させていただきたい。
1
0 ・人間文化
n
まんなり Jのある村
話ぷせ
き一位戸
MZT
J
A
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ハ
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叶?乎介主、
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H
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二切
一
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白たび也必
リノ
ちりめ んズキン
某
節升
4
赤飯
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赤
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斤-
通咽岨畑
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升節重
掴咽咽T
l
守
金次 氏地
j
{
;
:
?
"
14袋
亦似五升
一 台五壱
J
{斤 升 枚
氏
q川 げ イ ノ
l
i
f
i
-
(
1'
11赤 (
1
.,~、ク内
'
)
1ミ似 J
;
;
J 1
1
た砂紋火 ~t 銭似借才T ~t 砂 L百 二 ~~ 1
別
び担f
!
他
物 担i
l1
li
f
i
,
除 l陶
'
目 ク
h 一日
F
J
門
~1f~
,守ぜ九干司 dh-qAI
羽 J Lぺ
b
中九4 A ,
エ
J
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一
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合
命
寺 戸;-
氏
•••••
烹
一
一
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法﹂)
団関ざ情
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一
、
〆
~
山
・
戸
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ーく
一
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パい。
→
=
予
一
R\ k~\ ~~-\i糠
4l
d
事 宅
?5
ミ
制圧主
=
4
色
斗
有
同
士
蜘 時 限 さE
Y
「覚え帳j左 ・昭和 14
年、右・昭和 46
年
、
注
を持参した例人名は{人せた。 いずれも表紙と 1枚
1)いかに手 !
日
!とI
I
I
!Xがかかるかを、能登川町新 i
l
i
jの
;
に記す。
記純明項の特徴を以 1
1と 2枚目、( ) 内は 年者による注釈である 。
あるイエに残る 1Ii1和 14年と lI{j 干11 46 年の「 覚 えiVj~ J
{
j利 1
4年 「弟
i
J雲 山之覚帳 j には 4
4人が名を連ね
I
l
で示しておきたい。 (1
ご図参!!
の 近 江 の 田舎なら、
4人
、 ②l
E
リ}
;
}
ている 。祝いの│人j符は、①品物だけ 1
どこのイエでも辺婚葬祭にはこの純の覚え l
販がれ
と税金 9人 (2
[
1J
-2
0銭、平均約 7
0銭)、③ 現金
成され、代々保存されている 。
のみ 2
2人 (21
jJ
-1
0銭、平均約 7
0銭)である 。
│
昭
和1
4年のものは祖父 F
Jの 「ぽんなり Jのとき、
祝いの品は、羽 二 J~ 衣、向衣、ド|足袋、羽織、
同じく n
i
1
和4
6
:
(
1
0
のも のは父 ωのときのものであ
頭r
J
l、モスリン装地、美濃紙、白 ,,
W、襟、赤飯、
る。 また 当主夫婦も平成 8(
:
:
1
'に 「ぼんなり 」を し
f、油揚げ、 豆腐である 。
鰻如、赤・白・黒砂羽j
たが、「
覚え制定
」 は入手できなか った。
これに 加 えてこの 「党え帳」 には、 「人別党」
実物は縦横 49x2
7
.
5セ ンチの和紙を縦 長に 二つ
が添付 されている 。 そこには祝宴の手伝いに 出た
折りにして、紙緩で綴じである 。写真では 、祝い
イエの当主名と人数および招待客の当 主名が記さ
人間文化 ・ 1
1
f
Iまんなり Jのある村
れており、土ii::名だけで 2
9人を数える 。ただし手
と称し、大谷派では 「
御文」 と1
1
芋ぶが、本願寺派
伝いと招伯:符の判別は不可能で、ある 。
では 「
佐1
I
文章」という 。真宗の要義を認にでも領
また昭和 46{1三の 「 弟IJ 笠祝[~受控」には 53 人が名を
解しやすいように平易懇切に説かれ、これが点宗
述ねている 。引いの内作は、 ①品物だけで祝いをし
の普及に来たした役訓はきわめておおきい。真偽
た人はなく、 ② 品物と税金 2
8人 (
3
4
.
0
0
0円-50
0
1'
J
、
未定のものを除いて 2
21
通が伝えられている 。五
.
0
0
0PJ
l
、 ①現金のみ 2
5人 (
3
.
0
0
0円-20
0円
、
平均約 6
文というのは、この巾で、文明 3年 1
4
7
1から
帖術l
1
0
0
1
J)である。l
Ii
1
和1
4
年のものと比較すると、
平均約 6
明応 7年 1
4
9
8にわたる 5
8通と年次不 I
V
:
J
の2
2通、言 1
8
0通を 1
1
.1帖に編集したものである 。円立
1の編と伝
品物だけを持参した人がないのが特徴である。
1否定、白骨7
、半襟、
祝いの 品は、衣生地、羽織、 (
えられるが、実如 | の手になったようで 、 ~I日日がは
I~I ・柄ネル、毛糸上衣、メリヤス F 着上下、ネ
じめて開版した 。広く門末に流布され、現在も勤
ル・ガーゼ j良: ILIî ;昔、
TJ伏、美 il;Hl~ 、
行や法話の後に祥読するのを例とする 。 また、五
イi
由主、味の素セ ッ ト、湯沸かしポ ッ ト、酒、赤飯、
文を t
l
占内術l
文というのに対して、それに洩れ
帖街l
イカ、豆腐、鰻頭、砂 t
>
>
t、茶、 枇茸、ワカメ、ケ
陥外御文という 。ー般には玄
たものを集めたのを l
ーキである 。いずれも 「ほんなり 」 をした老夫婦
誓が編集した 8
2通を指していうが、先啓が集めた
6
4通なども別にある 。
l士l ・ 黒足袋、
I
J
品それに祝宴用の食!日で、あり、 H
百
の衣鎖 と生前 )
6)五具足 (ごくそく ) 本尊の前卓上に供える五
手1
1
1
4年の場イ?とあまり変わらなし、。
2) :
¥
!
i
道 門 (しょうどうもん)
仏教はしばしば車
つの仏具の ことである 。花瓶(かひん) 一対と燭
"
Jに二大別される 。前者はこの世で聖
道門と浄土 I
台一対と香炉とを合わせて荘厳する 。 これは重い
-tiとなり情りを開く道(此土入塑)であり、後者
仏事の場合に 用いるが、平常は花瓶、燭台、香炉
Jによ ってそ の均土に生まれで陪り
は阿弥陀仏の )
)
f
Jく道(彼土入証)である 。 この区別はもと唐
をl
の道縛が 「
安来集 J巻上で、行ったもので、 i
争上教
J
乙を 用いる 。
の三 H
7)領解文(りょうげもん)
改悔文 (
かいけもん)
ともいう 。他力安心領解の告白と信仰生活の規範
ではこの説によって仏教を皇道 ・浄土の二門に分
を簡潔に述べたものである 。単文ではあるが安
争:
I
:
I
"
Jをさらに正明往中浄土
知する 。 なお淑空は i
心・ 幸II f~t .師恩 ・法度が説かれ、真宗の安心の手
教と傍明往生 i
争土教とを分け、 1
争仁真宗の I
J
f
J杭親
鷲 は 真 実 (横超) と方便 (
横山)とを分けた 。
3)正信偏(しょうしんげ)
親鷲撰述の 『
教行信
鑑として尊重されている。蓮如の作と伝えられる。
8)妙好人(みょうこうにん)
信行にすぐれた専
修念仏者の総称である 。語源は善導の矧経疏散善
~il:J の行巻末尾にある七言一 二 O 句の偶、正 信念
tなどはひろく浄土願生者を
義による 。法然、親 f
仏備の略称である 。{
局の前に兵京の綱要を.Jtlげ、
妙好人と呼んだが、幕末に迎習が『妙好人伝j を
撰J
尺本願の行信にもとづくことを I
l
j
Jらかにし、気i
出版してからは、とくに真宗の在俗の篤信者を指
j
z
l報徳のために、この尚をつくる旨を述べる 。偶
1
皮の庄松、
すようになった。著名な妙好人として、讃1
は大無量寿経による依経分と、七組の論釈による
依釈分とから 構成されている 。 日常の勤行に和讃
因幡の W
l
¥左、石見の善太郎や浅原才l
r
l
なとcがいる。
9)例えは¥長:鷺は浄土論註巻下に、 (
1
)自分の功
風諭する ことが古くから行われ、それは本
と共に i
争
徳を衆生に廻施 (
めぐらしほど こす) して共に I
願寺第八代宗主蓮如] (
応永 2
2:
1
1
三1
415-明応 8年
士に生まれようと願うのを往相(おうそう)、 (
2)
1
4
9
9
) が文 明五年(14
7
3
)、正信{
尚
・ 和讃を 1
m帖
浄土に生まれ終わって再び生死の 位界に廻入 (
め
にして開版したことにはじまるとされる 。
ぐり入る)して 一切の衆生を教化 し共に浄土に向
親鷲撰述の浄
かわせるのを泣キ1
1(げんそう)とした。 さらに仏
土和讃、高 fW 手[J ~賛、 iEf象末和讃の総称である 。 南
の救済力の絶対 性を強調して願力廻向 の説を立て
4)三t
l
占和談 (
さ んじようわさん)
北朝時代にはすでに 「
三l
陥和論」のH
乎称、が用いら
た親鰐は、衆生がゆ土の往生すること(往相)も 、
7
3
)に
れていたとされる 。蓮如が文 明五年(14
往生して仏になり再びこの │
止に還って利他のはた
1讃」を開版し、現在、本願寺派、大谷派
「三帖平
らきをすること(遜相)も 、 ことごとくが阿弥陀
で用いる和讃はこの本にもとづいている 。
仏の本願力のはたらきであ って、すべては仏の方
5)御文章(ごぶんしょう )
蓮如が門徒に書き与
えた消息、体の法語である 。蓮如みずから 「
街l
文」
12 ・人間文化
からさし向けられたものだとする 。 これをそれぞ
れ往相廻向 ・泣相廻向 (
二種廻向) という 。
論文
棚
瀬
~ß
人間文化学部地域文化学科
ーモンゴル国における仏教リパイパリズムについて
はじめに
じ認ω
越えるもの、結びつけるもの
ンパートルや 地方都市において 1
9
9
0年以 後に多くの
かつて、出仰の 111]-封体制下にあってモンゴルの地
寺院が再建もしくは創設されている 。
は仏教、特にチベット仏教の金城 i
易地であ った 。 そ
本報告のト│
的は、そういった現代モンゴルにおけ
こでは内モンゴルのチャンキャ・フト ゥク トゥ、タト
る仏教を巡る雌 !
と
的 環境の変化 を概観し、さらには
モンゴルのジ ェプツンダンノ f・フトゥクトゥをはじ
民主化以降の急激な社会的変化の中で仏教がどのよ
めとする多くの r1j 111~1 が輩出し、安J~fij'i 主連は競って
床
うな役割を栄たし、また人々が仏教にいかなる立 l
自らの所管i
に寺を建設した 。 また 一般民衆の口市:
L
I
ミ
i
舌にも仏教は深く浸透していた 。
づけを与えているかということを考察することにある 。
辛亥 J
広命によって清朝が倒れ、 2
0
0
:
:1
:
以
tにも及
なお本論は、文部作科学研究費補助 金の交付 を得
ておこなわれた阿際学術研究 「モ ンコール遊牧社会の
ぶその支配から逃れた外モンゴルは、 1
9
1
1年 1
2月 1
変容と将来像J(課題番号0
8
0
4
1
0
2
1,l
J
i
l
究者代表
日に独立を:立 芦 し、さらに同月 2
9:
1
1
にジ ェプツンダ
川幸 治
ンパ八 止
│を 俗 位 に 推 戴 し た (小 員1
9
9
3:8
9-9
3)
。
しかし 2
0世紀前半、列強が繰り広げるパワーゲー
ムのIj:rにあってモンゴル新政府の道のりが、ド担であ
内
滋賀 り
t
J
.
立大学教授)の 成果 の一部である 。
第 1章外モンゴルにおける破仏以前の仏
教の状況
ろう筈はなかった 。 ロシアと 1
=
1
r
:1
]
;
:
1
はモンゴルの頭越
しに条約を結び、内外モンゴルの統ー というモンゴ
ル民族の悲願は踏みにじられた 。 さらには 小国軍 測
│
による独立返泣の強制 (
1
9
2
0
.1
)、ロ シア I
I恨のク
ーロン占領(19
21
.2
) と、新牛.モンコルは立て続
けに外部からの激しい干渉を蒙ったのである 。
-)
j
"1
91
7
:
1
j
二には税政ロシアが崩壊し、ソヴイエ ト
1-1 チベット仏教の浸透
モンゴル民族とチベ ッ ト仏教との関わりは 1
3世紀
にまで遡る 。
il
i
:
l
l
第 2代 のハーンであるオコダイは、
モンゴル W
1
2
3
9
:
:
1
三にその第 2子 グ デ ンに命じてチベットに攻め
i
l1時のチベットには統一権力と 呼べるほ
入らせた 。 、
が成 i
Jする 。 スフパートルをはじめとするモンゴル
どのものはなかったが、グデンの撤退後、その命令
の革命家述はソヴイエト=ロシアの援助を受け、武
を受けるために涼州に赴いたのが、チベッ ト仏教サ
装闘争を 1)f.J~fì した 。 192 1 年 7 月にはモンゴル人民義
キャ派の高約サキャパンデイタであった 。
.
!
i
I
j'ifi:は赤軍と共にク ーロ ン解放に成功し、以後外モ
後にフビライが権力を掌握すると、サキャパンデ
ンゴルは共産ロシアの強い影響力の 中でい│
家建設を
イタに同行していた甥のパクパがフビライの{
言I
)
'
J
を
進めてゆくこととなる 。王侯、貴族などの封建領主
得て、;[;;;uJの '
I
W
:
f
Wとなる 。 以後元朝の宮廷ではサキ
F
?と共に寺院勢力も次第にその経済的、政治的な影
ャ派が大きなブJをもった(山 口
響力を奪われていった 。
9
3
7
寺院勢力が最終的に 文字通り 一掃されるのは 1
1
9
8
8:7
0一7
4
)。
元 ;;01 のiM~裂と共に 一 旦途絶えていた、モンゴルと
チベット仏教界との交渉が復活したのは 1
6世紀に な
-38"fにか けてであった 。 スターリンの折示を受 け
ってからであった 。 モンゴル再統ー をなしとげたダ
たチョイパルサンのもと、モンゴル令土で寺院がほ
ヤン ・ハーンの孫、
ぼ完全に破壊され、多くの僧侶が殺害され、そうで
5
7
8年チベット仏教ゲル派に属するデ
教に帰依し、 1
なければ泣俗させられた 。 この時の宗教仰J-i
:の傷跡
プン寺の此折、ソナム ・ギャンツォを招いて庁海チ
は、今もモンゴル問のあちこちに残 っている 。
トメトのアルタン ・ハー ンは仏
ャプチャルの地で I
師会した 。 この時ソナム ・ギャン
第一次世界大戦後も政治 、経済、文化 のあらゆる
1
4られたのがダライ ・ラマという称号であっ
ツォに 1
l
l
!
1
J
前I
においてソヴイエト連邦の彩特 │
ずにあったモン
た (ダライとはモンゴル詣で大海を意味する 。 ギャ
ゴルは 、 しかしそのソヴイエ ト自体の J
l
)
j岐によって
μ
jじ立 l
床のチベット認である 。)。 ソナム ・
ンツォも │
9
8
9年に 1
m始 された民主 化
変化 を余儀なくされる。 1
ギャンツォは前に 2人の転生を認めて、自身はダラ
2
2求運動は、
1
9
90年 3月のモンゴル人民 J
1
2命党の 一
党独裁放棄に結実した 。 1
9
9
2年に は新たに民主送法
イ・ラマ 31
止と称した(千守脇
が成立し、その r
l
:rでは信教の白 J
r
二
│
が保附されている 。
(曾孫)にあたるハルハのアパダイもダライ ・ラマ
1
9
9
5
:374-375)
。
アルタン ・ハーンと同じく夕、ヤン・ハーンの白系
主主義体制が!放棄されたモンゴルにおいては、
共J
3世すなわちソナム・ギャンツォに帰依し、 1
5
8
5年
f
[J圧されてきた民族的な様々な価値が復権して
従来:t
にはハラホリンの地にエルデニ・ゾー寺院を建設し
きたとされる 。仏教もそのひとつであり、現にウラ
た。 そのアパダイの曾孫、
トシエ ート・ ハーンの弟
人間文化 ・ 1
3
越えるもの、結びつけるもの
として生まれたのが一世ジェプツンダンパ・フトゥ
さらに 、近年のモンゴル語の資本│として マイダル
ク トゥである。 彼はチベッ ト仏教ジョナ ン派の高僧
70) では、 1
9
3
7年当時のモンゴル人民共和国に
(
19
ターラナー タの転生であるとされ、ハ ルハの清朝へ
50と
存在していた大 、中規模の僧院の総計 として 7
の JJR属 ( 169 1) の後に、康 r~~ ~w に よ り全ハルハ最高
いう数を挙げ、そ こに 9
6.
766人の僧似が所属してい
1990:3783
7
9)
。彼は夕、ライ・ラマ五│止の弟子でもあり、モン
学寮(アイマク、またはアイムギーン・ダツ ァン)
ゴルではゲル派が圧倒的な勢力を持つことになっ
を擁するが、同:c
l
}の統計によれば 7
5
0の僧院に 1
,
2
2
9
た。以後 1
9
21
年に最後のジ‘ェプツ ンダンパが亡くな
の夕、ツァン、 1
7
3のアイマクが存在していたとされ
るまで 8代を数えたが、その内 3代か ら 8代までは、
る。 さらに寺院の財務部であるジャスの数は 3
.
4
0
2
+
'から転生者が選
モンゴル人ではなくチベ ッ ト人の 1
となっている 九
位の僧であると認められた(宮 脇
たとする。通常大僧 │
淀は複数の学堂(夕、ツァン)、
l
1
0万近い {
削l
f
l
の数は、当時のモンゴル人民共和国
ばれている。
清朝の f
J
l
j
1
f
体
制 下、モ ンゴルは 4部(アイマク)
の人口が 7
4万程度(田中
1
992:263)であ った こ
に分割されており、*から凶へ、チェチェンハー
とを考えれば、にわかには信じられないほどの莫大
ン・アイマク 、 トシエートハーン ・アイマク、サイ
な数でありにその全てが具足戒 3や沙弥戒 “を受戒
ンノヨン ・アイマ夕、ジャサク トハー ン ・アイマク
した正式の 出家者であったとは考えられない。実際
と呼ばれていた。
は寺院活動の 中核を形成す る高約や学僧か らなる出
各アイマクには多くの僧院が建設されたが、例え
家者群の周辺には 、半{
谷半
{
自fの
、 i
ウ
i
い移動性をもっ
ば1
889
年にダルマタ ー ラによってチベット諾で書か
グループ(フ ドゥーニー・ラム )が存在していた 。
れたモンゴル仏教史(以後通称としてダルマターラ
彼らはラマと称しながらも 、実質は家族と共に移動
仏教史と U
'
J
eぶ)
' においては、イフ・フレー (
クー
1
しながら遊牧などの生産活動に従事していた (
小1
ロン )の 2ヶ寺 、チ ェチェンハーン ・アイマクの 8
1993: 37-39、 術 本
トシエートハ ー ン ・アイマクの 7ヶ寺、サイ
1942 :232-233、 梅 料
ンノヨン ・アイマクの 6ヶ寺、ジャサクトハーン・
1991:65-69、マイスキー 1
9
3
7:1
0
8)
。
つまり、モンゴルにおいては、チベットのように
アイマクの 3ヶ寺の名をあげ、イフ ・フレ ーでは 1
必ずしも社会層として在家と出家者が隔絶されては
万人、各アイマクではそれぞれ 8
000人以上
、 6
300人
、
8
6
0
0人以上、3
0
0
0人以上の僧似 を擁しているとされ
厳格に戒を守る 、手1
=
生産 的な出家者が起居していた
る。 したがってハルハ全体で 2
6ヶ寺の名をあげ、そ
が、そこをいわば宗教性の中心と して、周囲の草原
ヶ寺、
5,900人以上の僧侶がいたことになる(ダルマ
こに 3
ター ラ仏教 史
511-5
1
4)
。
いなかったのである 。 もちろん寺 院とその周辺には
には実質在家的な生活を送りながら、しかしラマと
称する多くの人々がいた 。 「黄金 史」の挙げる 5万
9
3
1
:
:
1
:
、つ まりモ ンゴル 人民共和 国成立後に
また 1
人という数と、マイダルの挙げる 1
0万人という数の
ロプサン・タムデインという名の僧侶によ って、や
差は 、おそらくどこまでを僧侶と認めるかという解
はりチベット訴で書かれたモンゴル仏教史(以後通
釈の速いにもよっているのであろう 。
称として黄金史と H
乎ぶ ),では、イフ ・フレーの 4
ヶ寺、チェチェンハ ー ン・アイマクの 1
5ヶ寺、
i~f朝の加封体 íljln~ 、モ ンゴルの人民は公民である
トシ
ソムニ=アル ド、封建領主の私的な隷民であるハム
エート ハーン ・ア イマクの 21ヶ寺、サインノヨン ・
ジラガ、ジ‘ェプツンダンパや他 の高僧に所属するシ
アイマクの 1
6ヶ寺、ジャサクトハ ー ン ・アイマクの
ャビ、さらに これ ら 3階層に隷属する者逮に分かれ
1
8ヶ寺の計 7
4ヶ寺の名があげら れており、そこに挙
ていた(小員
げられている僧侶の数を総計すると 5万人に及ぶ
7
6
4
年に戸数が
ンダンパ・フトゥク トゥのシャビは 1
(
黄金史
1
6
0
a-163b)。 しかし 、こ の2つのモンゴ
ル仏教史で、名をあげられているのは、明らかに 一部
の比較 的規模の大きい僧院のみである 。
昭和 1
7
年(19
4
2
) に発行された橋本光賓の 「蒙古
1
993:1
45-1
5
0)
。 寸lでもジェプツ
8113戸あり、その保有する全家苔頭数は 43万 3,866
頭
、 1864年 に は 89万 241頭 に 達 し て い た (
小員
1
9
9
3:1
4
7)
。 またプレブジャブとダシジャムツ ォに
よれは¥ 1
9
2
4年の│
時点で寺院勢力はモンゴル全体の
9
3
4年に
のラマ教 j では、ウランパートルにおいて 1
2
0パ ーセ ントにあたる 2.
912,590頭の家畜を所有し、
出版された 「
外蒙地図 」等に よる情報 としながら
000頭、ジェプ
特にイフ・フレーのジャスでは 293,
1
3
6ヶ寺の名を挙げている(橋本
ツンダンパのシャビに関連する大小の寺院全体で、は
14 ・人間文化
1
94
2・201-2
1
0
)。
越えるもの、結びつけるもの
609 .000 ~Ji の家畜を保有していたとされる(プ レ ブ
ジャブ、ダシジャムツォ
1
96
5・3
5)
。
uかれている O 小宮殿と法主の学立
パ五 │
止の令利が I
であるガンデン ・テクチェンリンを作い、背後には
コマンとロザリンのテキストを刑し、る 2 つの大学 'ì~~
1-2 イフ・フレーの状況
1
9世紀の終わり頃書かれたダルマターラ仏教史で
は、以下のようにウランパートルのiIIi身である都市、
イフ・フレーの来歴とそこで仏教が栄えていること
を 述 べ て い る (一部字句を補 つである)。
とラムリム学堂、蓮華ヨーガの学堂などがあり、俊
れた指導者に従い、顕衝の学問の伝授が彼も優れて
いることは r
l
'火、地方において有名である 。
1
ヒ郊にある、ジェプツンダンパ二 1
1がお
フレーの :
開きになられた寺、テンパ ・夕、ルゲーリンには、木
r
.
. 、ハ レノ、の方面ではジ‘ェプツンダンパイ止が、
尊として jll ','j i'1 なる栴泊四観音の 一つである 世 I~tf 観
パンチェンラマの命によってガンデン ・シェードゥ
音像を肥る学世と、色々な地方寮がある 。
j
プリンという大僧院を建設され、その │
付加には管教
フレーの f
T後の 111、チンギルトゥーの附にあるジ
学堂を持i
fしている 。最初J
はアムド・アイマク lつだ
ェプツンダンパ 問 l 吐 の lí~\;f妻の地、シェードゥプ ・ シ
けであったのが、後に次第に地えて 2
8アイマクが設
ャンチュプリンには釈尊と八大持薩の像のある/)
1
-肢
けられて教授がおこなわれている 。
と、ジェプツン夕、
ンパのお休み所があり、{疹行おの
ジェプツンダンパ二世のお建てになられた大僧院
テンパ ・ ダルゲーリンは、 rl' に ~t! 教 (ツェンニー ) 、
6人おり、
ための小房にはゲロン (
比丘)が 1
i
争!扇に
は在家とゲツ(i少弥)がいる 。 フレーの "
j
i
jの I
L
J、ハ
街 教 、 医 学 の 3つ の 学 堂 を 有 し 、 そ の 顕 教 学 堂 タ
ンオウラの '
'
1
版、以前ジェプツンダンパ
シ ・チューベルリンでもまたジャムヤン・シェーパ
あられたトンコル ・トゥルクが建てられた陪伎所で
のテキストに従って教授がおこなわれている 。
ジ、エプツンダンパ四 世 は暦学、医 学 、 IIc\ 輸の 3~
堂をお作りになられた 。
ジ、ェプツンダンパ五世 はl
侍輪学堂のシェー ト
、ウプ
仏燥されてマンシ‘ュシュリ
あった所が J
'
.
1
1
1
:の師で
-f
目院となっ
ている 。J( 貨イ~~と
1
60a一1
6
1
a
)
プレフジャブの 「革命前のイフ ・フレー J(プレ
ブジャブ
1
9
61lは、ボグド君 主制同家 I
時代までの
f
i
V
J関係、経 i
n
i
i
f
i
i
l
l
J
Jなとにつ
リンを作られ、また待1自身でお建てになられたタ
イフ ・フレーの暦!と、
シ・チューコルリンとクンガ -チューリンの 2学堂
j
l
!
?によれば、ジ ェプツンダンパー 仰
いて詳しい。 │
百
に、ガンデン寺の全ての僧侶をお集めになられ、タ
の初 W
Jの宮殿は I
;
I定した建造物ではなく、フェルト
シ ・チューリンの者はコマン学堂.
, のテキス ト、ク
製のゲルの集合体であった。 1
654年にな ってはじめ
ンガ・チューリンの者はロザリン学堂 船のテキスト
てチベット風の同定建築である集会笠を建設し、こ
によ って教授を なす慣例を作られ、また蓮華ヨーガ
れを 「ノミン ・イフ・フレー j、 またチベ ッ ト訴で
の学堂までもお建てになった 。
「ガンデン ・シェードゥプリン Jと名付けた 。 しか
この様に、タークレ(大フレ一、すなわちイフ・
フレーのこと)という名高い玉城の地には伯似が 1
しこの建物そのものは 1
6
80年、オイラ トとの戦いの
中で破壊されてしまう 。
万人も住み、各々の学堂では 三蔵
、 I
L
lタントラなど
1
7
0
6年にはパ ッ ト ・ツァガーンと呼ばれる集会堂
の仏説を誤ることなく間・思 ・修し、誹 .i
f
命・著の
が建設されるが、イフ ・フレ ーそのものは 1
7
l9
!
.1か
三つの法の音は絶え聞なく響くようである 。J(
夕
、
ル
マターラ仏教史
509-51
1)
また 「
賞金史」は、破壊される直前の宗教者 I
S
i
l
i
イ
フ ・フレ ーの姿を描写している 。
ら1
779年にいたるまで 2
1聞の移動を繰り返した。 そ
の問も学 1
f
t:ゃ学寮 (
アイマク)は増力u
していったの
である 。
イフ・フレーは、その規僕の拡大にしたがって次
「モンゴルの 1
1
'
-心であるハルハの、代 々のジェプツン
第に定着の期間を長くしてゆく 。 1
778年以降はセル
ダンパのお住まいがある大フレーのダクパ ・
リ ボ・
ベ河│昨に定着発展してゆくが、移動は完全に終わ っ
ゲゲー ・ガンデン・シェー ドゥプリン '1)には 一万人以
たわけではなく最終的に同定するのは 1
8
5
5年になっ
上の僧がいる 。黄色の御座所の中、法主の J
M
I前に │
侍
てからである 。 その閥、例えば上述の仏教史にでて
輪学堂があり、大集会堂の周辺に密教学堂、医学堂、
くる顕数学堂タシ ・チューリン(夕、シ ・チョインピ
!官学堂
、 弥!
I
O
J堂などがあり、外側には大、中、小の
7
5
6年、同じく顕教学堂のクンガ ・チューリ
ル)は 1
学寮 (
カムツェン)がある 。 テイネー ・ガンデン・
ン(ゴンガー・チョイリン ) は 1
809年、集会堂であ
テクチェンリンの黄色のテントにはジェプツンダン
るガンデン・テクチェンリンは 1
838年に作られてい
人間文化・ 15
越えるもの、結びつけるもの
772年から 1
795年に
る。また学寮(アイマク )の数は 1
その院長はエルデネ ・シャンゾドパと称され、強大
3から 27に増え、さらに 1
9世紀末
、 20世紀の始
かけて 1
な権力を有していた 。)が イフ・フレーに設けられ
0となった 九
めに 3アイマクが増えて最終的には 3
た。 また清朝はチェチェンハーン、
トゥシェートハ
'
に固定されたイフ・フレーは、ズー
セルベ河川、l
ーンの 2つのアイマクとジェプツンダンパのシャビ
ン・フレーとガンデンの東西 2地区に区分される 。
を監督する庫倫緋事大臣をここに置いた (
宮脇
ズーン・フレーは現在の政府庁舎あたりを中心とす
1
990:3
8
2
)。後のボグド君主制国家時代、聖俗の権
る一帯、ガンデンは現在のガンデン寺の一帯である 。
力がボグド・ゲゲーンすなわちジ、エプツンダンパ八
前者は、ジェプツンダンパの黄宮(シャル・オルド)
世に集中した時、イフ・フレーはニースレル ・フレ
を中心として周りに高さ 5
0尺の弥勅像を納めるマイ
一、つまり首都と呼ばれるようになった。
ダリン ・スム、医学堂、暦学堂、密教学堂などが並
イフ ・フレーはまた外モンゴルにおける経済の中
0の学寮(アイマク )が建て
び、さらにその周囲に 3
心地でもあった 。 1
8世紀以降、ロシアのキャフター
られていた。
イフ・フレー一張家口という交易ルートが確立し、
ガンデン地区にはジェプツンダンパ五世の建てた
中国人やロシア人が駐在した 。 20世紀の初めには
ガンデン・テクチェンリンや顕教を学ぶ 3つの学
6
0
0以上の外国人商応と、 363の工房があったとされ
91
2年にジェプツンダンパ八世によ って建造さ
堂
、 1
れた大観音堂などがあった(プレブジャブ
1
9
6
1:
15-2
5
)。
る (
プレブジャブ
1
9
6
1:4
9
)。マイスキーの調査
によれば、 1
9
1
0年の時点でイフ ・フレーの人口約 1
0
万人のうち、 3
000人がロシア人、
各アイマクに入った仏道志願者(パンディ:新発
智)達は、受戒した後に集会堂の法会に参加するこ
6万 5千ないし 7
3万人がモンゴル人であ った(マイ
1
9
3
7:248)
。
万人が中国人、
スキー
とを許される 。その後、アイマクの管理部 (
ザヒル
またプレブジャブとダシジャムツによれば¥1921
ガー) によって仏教の基礎を学ぶために年長のラマ
年から 1
924年にかけてイフ ・フレーの毎年の収入の
の弟子(シャピ)とされた。
平均は 350万トゥグルグにのぼり、その内信者の寄
師ラマからチベット語と読経の仕方を習った後
に、再びアイマク管理音防、らイフ・フレーには 1
2あ
進によるものが 1
0
0万から 200万トゥグルグあったと
いう (
プレブジャブ、ダシジャムツ
ったダツァン に派遣されて、仏教の中級諜程 (ドン
2のダツァンのうちで
ト・ソルゴーリ)に進んだ。 1
も
、
3つの顕教学堂 (ダシ・チョインビル、ゴンガ
ーチョイリン、ヤドガーチョイリン )こそが最も影
1
965:5
3)
)。
イフ・フレーは、 1
9
2
4年にその名をウランパート
ル
(
1
赤い英雄 J
) と改称する 。 後述するように、
1
9
3
0年代に徹底的な破壊を蒙り、現在かつての宗教
都市の面影を偲ばせる建造物は極めて少ない。
響力の強い、学問 的な中心であった。
顕教学部における中級諜程は年少、年中、年長の
1-3 アマルパヤスガラン寺
3つのクラスに分けられ、全部で 1
3
段階の課程を順
アマルパヤスガラン寺はウランパートル北方、セ
1942 :234-238、 小 野 田
レンゲ県パローンブブルン・スムに位置する名刺で
次学習する(橋本
1989:368-371、長尾
1
992:55-81)" 0 中級課
ある 。 ジ、エプツン夕、ンパ一世に捧げるため、康照帝
程修了の後は上級課程 (
デード・ソルゴーリ )修了
の遺言に従って擁正帝が勅命を出し、 1
0万銀両を支
に5年から 1
1年を要し、修了者はガブジという学位
出して 1
7
3
7年(乾隆 三年) に完成させた(プレブジ
を得た 。 ガブジは希望すればジュッド・ダツァンで
ャブ
密教を学ぶ権利を持ち、ジ、ユツド ・ダツァンの修了
殆ど全ての寺院が根こそぎ破壊された中で、アマル
0世紀
者にはアグランパという学位が与えられた。 2
パヤスカランではかろうじていくつかの建物が残さ
0から 80人のガブ
の初め頃は、イフ・フレーで毎年 6
れ
、 1
9
8
9年からは宗教活動も再開された。現在かな
1
978:7
9
)。 人民共和国時代に外モンゴルの
ジを輩出したが、 一方アグランパの称号を得る者は
りの建物が再建、修復され、この地方における宗教
l人だけであったという 。 ガブジやアグランパの中
活動の中心となっている 。本節ではアマルバヤスガ
には地方へ戻ってそこの指導者になる者も多かった
(
プレブジャブ 1
9
6
1・38)
。
の地方寺院の宗教活動について述べることとする 。
7
2
3年にジェプツンダン
一方統治機構としては、 1
パの領民(シャピ)を管轄する役所(大シャビ本院。
16 ・人間文化
ラン寺における聞き取りなどに基づいて、破仏以前
かつてのアマルパヤスガランの伽藍配置図は図の
様である 。 中央の集会堂は幸いにも 破壊を免れ、現
越えるもの、結びつけるもの
一醐
一
間
E匝
E匝
圏直
圃E
i
1
i
i
i
l
¥
l
T
I
訓
(
12
)
畳間
川川川l
山
(
12
)
同盟 問
.
宜主宝雪 E
川鼓堂
(
2
)
鐙堂
(
5
)ゴンカル堂
(
3
)
集会堂
(
6)
四世廟
(
4)無量寿堂
(
7
)
仏殿
(
8
)
一 世廟
(
9
)金岡
I
j
聡
伽l
母堂(ドルジェ ・ネージョルマ・ラカン)
(
1
国ラプラン
(
1
1
)
弥勅堂
置萱
月 M aH且 P
ApX H
M0
H
T
eK T YPa H
H" 1
1
9
7
0 M0
r 0 nH
ra且 oC T P0 H T e且 bC T B 0
C K B
a) pp.
82
の図を用いた。
1
(2
)
ツアガーン ・ドゴン
図 1 アマルパヤスガランの伽藍配置
在修復されている 。 なだらかな丘陵を背景としたそ
境内の両脇、集会堂を挟む形で 9つの学堂(ダツ
の中国風の堂々たる蓋は、草原に浮かひ‘上がった蜜
ァン)があった。東の列は、南からゴンガーチョイ
気楼の ような唐突さで人を驚かせる。
集会堂の北側にある仏殿の東西には、ジェプツン
リン、マンバ、 ジユデイーン、ヨギーンの 4学堂で、
西の列は南からマイダル、ソールハイ、ダシ ・チョイ
ダンパ一世と四世の廟があった(破壊されたが現在
ンピル、グルムの 4学堂である 。 ラムリム学堂だけ
再建されている 0
)。仏殿の北側のラプランと呼ばれ
はラプランの中にあった 。 9学堂の内ゴンガーチョ
る建物にはジェプツンダンパの部屋やアイマク長の
イリン、ダシ・チョインビルの 2学堂が顕教学堂で
住居があった。仏殿やラプランを取り凶む形で 1
0
棟
あり、マンバは医学堂、ゾルハイは暦学堂、ジ、ユデ
の白い建物が並んでいる(現存)が、これらは倉庫
ィーンは密教学堂で、顕教課程を修了した者だけが
や炊事場として用いられた。
学ぶことができた。ヨギーン、マイダ ル、グルム学
人間文化 ・ 1
7
越えるもの、結びつけるもの
1
1
1き取りによれ
立の学問 内容はは っきりしないが、 1
梅林の述べるように、遊牧社会においては家畜を
ばそれぞれ奥なった種類の経典について学脅したそ
連れての移動が不可欠で、あり、固定した社会的な結
うである 。 またラムリムとは通常ゲル派の祖師ツオ
l
節点を作る契機をもたない。 その I
t
で寺院は、教育
ンカパの主著を指すが、ラプラン 内のラムリム学堂
や経済とい った役割を担ったまさに 「
社会の l
u
l定点 J
ではチベッ ト語経典のモンゴル語訳がなされていた
(
梅梓
1
9
9
1:6
7
) として機能してきたのである 。
という 。
さらに境内の外側の東田には 6つの学寮 (
アイム
1-4 破仏
ギーン ・ダツァン )が並んだ。 *側の 3学寮は南か
ボグド君主制国家時代その権力の m
l
(を迎えた 寺
らポンツアグリン、ゾーゴ一、チョインホル、西側
院勢力は 、モ ンゴ ル革命以 降一転してその特権を次
の3
学寮は南からシュテーン、デジドゥルン、サン
第に剥奪されてゆく様になった 。
ガイといい、これら 6学 寮 に は f
j
j
:せて 2000人以上の
伯作l
がJ
Y
I
'
k
r
iしていた 九
立悲君主同省《となった こと により、ボグド・ハー
ン (ジェプツンダンパ八世)の権利向体が制限され
科学祭は、チベットの僧院にみられるような同郷
(921)、さらにその死 0924.5
. 20) の後は、 受
出身将別の地方寮ではなかったようである 。 ただジ
け継がれてきたシャヒ領も廃止された 。 九世 ジェプ
ェプツン夕、ンパのシャビ (
領民 ),
'
1 身者だけはシュ
ツンダンパ ・フ トゥクト ゥを探索し、王座に着けよ
テーン・アイマクに所属する決まりであ った。各僧
うとする動きも娘強かったが (ラテイモア
f
1
4はその所属する学寮ではなく、学祭のさらに外側
に拡がる、ハシャーと呼ばれる木 I
llIし、で区画された
j
A住区に住んだ。ハシャーの列は、今もモンゴルの
1
'
.
1
1
;の 通 れ る 街 路
至る所で凡られるように、 !
おや '
1
18-119)、 1
928年には新たな i
l
i
i
'
c
l
亡者をよL
つ けるこ
F
すには
(ゴダムジ ) と交互に並び、各ハシャー '
1つ
もしくは抜数のゲルや木造の小尾 (
パイシン )が建
っていた。 同じ学寮に属する者は、大体│百l
じ府住区
1
9
6
6:
とが禁止 されている 。
IT1に渡る政教分離を定めたは;
1
*のfl;J
I定
さ らに 21
0926及 び 1
9
3
4
)、兵役に就かない僧侶 からの隼事税
の徴収 (931)、児童を僧 │
淀から強 j
l
;
I
J
I
:
1
甘に 実 家へ戻
す (933) などの政策も採られた 。
1930年からはジャス・カンパニア (ジャス運動)
に住み、例えばシュテーン・アイマクの併は 寺 の南
という政策が実行され、それによ って寺院の財務部
丙方 l
i
'J
に固まって住んでいたという 。
が所イTしていた家官官が中・下層牧民に譲渡され、ま
0歳前後で師となるラマ
新し く併となる者は大体 1
たイ削~; の 泣 1ft 1.l{:j(訂正された 。 1929年にはジャスの数
を wlI み、ゲルで:J~に暮らしながら h-;i:1'<J) はチベ ッ ト請
が 7.
000あり、そこに 300万頭以上の家南が所布され
の読み占き、読経の仕方について学んだ。 !
;
,
H全的な
ていたのに対して、 1
932年にはそれぞれ 2700、 24
万
学科を終え、集会堂の法会に参加することを許され
頭とな ったとさ れ る (
小貫
た後に、 学 1
i
tへ入った 。学堂の選択 の仕方としては、
930年から 31
年にか けて約 2
5.
0
0
0人減少した 。
も1
1
9
9
3:209)
。僧侶の数
まず 2つ ある顕教学堂のいずれかが桁定され、その
しかしモンゴルの宗教界にとって最後の、そして
l
二にまだ学ぶ意欲と余力があれば他の さ
ま
:常 で学ぶこ
決定的な打壊はスターリンの指示を受けた共和国初
0
:
:
1
三を安し、上級
とができた 。大体中級謀程修了に 1
代内務大臣チョイパルサン (
後に背中1
1)によるもの
かか ってガブジの学位をとる
課程にさらに 5年ほと、
937年から 38年にかけてモンゴル全土 で
であ った。 1
ことができたそうである 。
寺院が物 }
f
l
l
f
l
9に破壊され、多くの僧侶が殺害 された
アマルバヤスガランのような大寺院は、こういっ
のである 。 人民共和国のいわば正史である 「モンゴ
た学 問のシステムをもちながら、さらに管四、警察
937年 当時 771あ った大小 の礼 拝
ル!と」 によれば 、 1
機構や 財務部を備 えた独立的な社会単位でもあっ
堂
、 ミ
守
寺
7
子
'
院
1史のうち 1幻
938年に ま
1
は760が
│
閉
羽t
鎖
J
引
i
されたという
た。 プ レフジャブによればアマルパヤスガラン寺は
(
モンコゴ、ル不科科,学
l
ト アカデミ 一!歴
歪史研究所
1929年の│時点で 2
,
1875頭 の 家 市 (プ レ ブ ジ ャ ブ
1965:1
2
0) と耕地を所有し (プレブジ ャブ、ダシ
ジャムツ
1965:4
1)、金融もおこな っていた (プ
1988:
幻
3
7
8
ω)
口
l
叩9
釘
9
7ゴ
年
下
│
三アマルパヤス 力
7
vラン寺でで、おこな つた羽
聞
I
t
昔
}
日
f
jき取
り調 3
貨
寄
f
E
の際に、 7
5歳になる婦人から当1
1
守の話を │
剖く
ことができた。
1965:47)
。 また近郊
「私はセレンゲ県バロン ・ブルン ・スムの牧民の家
では 参詣人を日当てに中国人商人が交易場を開いて
に生まれました 。 父はフドゥ ーニー ・ラム (
在家の
いた 。
ラマ )でした 。
レブ ジャブ、ダシジャムツ
1
8 ・人間文化
越えるもの、結びつけるもの
アマルバヤスガラン寺が破壊された当時、私は放
の影響力の低下、さらにはその破綻によってモンゴ
牧の手伝いをしていました。 アマルパヤスガランで
ルにおける既存の政治、経済システムの維持が最早
物が燃やされる慨は 1
週間の !
日
1
絶えることなく続き、
不可能であるという為政者側の判断によるものであ
またトラックが 2
i
今来て、多くのラマが連行されて
ったろうが、 同時に それは従来の共産主義のイデオ
行きました。 1
1
1というものを見たのはその時が初め
ロギーによって抑ぼ されてきた様々な民族的価値の
てです。 その H
寺は、彼らがどこへ辿れて行かれたの
復権をもたらすものであった 。その流れの 中で、 民
かは勿論分かりませんでしたが、あとで聞いた所で
族の英雄としてのチンギス ・ハーンや伝統的なモン
はヒャク ト近くのアルタン ・ブラクという所へ運ば
ゴル文字と共に、仏教もまたモンゴル民族のアイデ
ンテイティを表現するシンボルとな ったのである 。
れたそうです。
qニ に術 工IJ:を 1.J け て )fJい
就'
'
1
ガンデン寺の大観音像の再建こそは、モンゴル
られました。守ー院の外側の ダツ ァンは木造でしたか
闘における仏教復活を I
I
J
l
も 印象的に 表現する事業で
l
iび 1
¥され ました。 ラマの住んでいた
ら全て壊して i
あった。 以下、主にゴンボジャミン・メン ド・オー
寺の 物を運び 11 ', す H~Jê に は、
ソーリ ン (
居住 │
又)ではお経が風に飛ばされて J
l
i
J
i
l
.
J
.
f
Jくもの J(メンド・オ ーヨー
ヨーの 「
智慧の│恨を I
がt
l
くなる程でした。家畜がそれらを食べていたの
1
997・8) という著 J
iに従って 、観背像再建の経緯
を党えて いま す。 ラマの所持品に I
k
!
Jしては小さな市
について述べることとする 。
が立てられて競先にかけられました。
;
dとガンデン寺の大観音像は、ジ ェプツンダンパ
"
:
のI
I
H病の治泌を祈願して建造されたものであ
八1
り、その名も 1
1
目眼観背 (
チベット語でミグジーェ ・チ
破壊後の寺院には f
r
fもなく、家畜凶いとして使 )
I
J
されていた H
寺期 もあります。j
アマルバヤスガランではその他 に何人かの高齢の
エーレ ンジ 一、モ ンゴルではミグジ ェ ド・ジャンラ
僧f
F
lに会うことができた 。彼らは特一旦は アマルパ
イシクと 呼
│ ばれる 。) とH
千ばれた 。建造が開始され
ヤスガランで 出家生活を送りながら、迫害によ って
たのは 1
91
1年の夏であるが、折しも同年 1
2月にはモ
泣俗して軍人とな ったり、 一般の労働者として生活
ンゴルの独立が宣言 され、ジェプツンダンパ八世が
を立ててきたという経歴をも っていた 。彼らは半 1
1
1
王位に笠 った。 メンド ・オー ヨー によれば、大観音
紀以 tのl
時f
l
iを経て、再びi
,
'
J家し仏教に身を捧げる
像の i
l
l設はその元来の !
11
主!
とは 別に、モンゴルが市
決心をしたのであ った。
l
;
O
j
の支配を離れ、
第 2章モンゴル国における民主化以降の
仏教の状況
1
997:8)
。
の党慨を象徴するものとなった (メンド ・オーヨー
建設が完成したのは 1913年の夏であ った (メン
ド ・オーヨー
2-1 開眼観盲像の再建
J
l
!
U1.すべきであるという政治立識
1
9
97・9)
。観音 f
象の 1
1
1
1さは 80尺、約
26メートルにも及ぶ卜[大なものであり、その制作に
1
9
8
9年 1
2月に始まった民主化袈求運動は、同年の
00前jの金、 1
.5
00阿の銀、 400個以上
は良質の鋼、 1
.2
東欧革命と同じく、長期間続いてきた共産党による
のさ
にわが用いられたとされる (メンド ・オ ー ヨ -
一 党独裁体 i
l
i
J
の桜本的転換を要求するものであ っ
1997:1
2)
。観音像とそれを納める立の建設のため
た。運動は拡大し 、翌年 3月 1
21
lにパ トムンフ ノ、
民
に、 4 アイマクから 236 .000 ïII司 の q,f{カ f有印l又さ~1..た(プ
革命党書記長は、政治局員全員の辞任を発表する 。
レプジ ャブ
同月 21 日に開かれた人民大会議において人民/,げi7 ~t
の指導的役割が放棄され、複数政党 i
)
j
J
Iを認める出法
改正案が採択された (
松凹
1
9
9
6:1
1
0)
。
7月にはモンゴル最初jの白 r
l
l:i'si併がおこなわれ、
それによって選 出 された議員よりなる人民大会議に
1
9
6
1:25)
。
しかし、 1937年から 38年の破仏の H寺 J~j に観音像は
運び J
I'
,
され、以後 i
'
l
i
.
Q
、は不明となる 。本尊を失った
9
6
1i
1'には文化財 と
観背'立は幸 いにも破壊を免れ、 1
して{呆存されることとなった(メンド ・オーヨー
1
997:1
7)
。
おいてオチルバ トが大統領に選 出 された。 オチルパ
失われた観音像を取り 戻 し、がらんどうとなった
トは首相 としてビャンパス レンを指名し、 彼 によ っ
堂 に科び安置しようという動きは民主化以前の 1
9
80
て市場経済システムの導入がはかられる こと とな っ
年代末頃から起こ ってきた 。 1
9
8
8年 には 1
2人の 著名
た (
十
公
田 1996:1
50)
。
一連の民主化、市場経済導入のプロセスは、ソ連
ル・ソヨーロン・サン )Jが組織された 。財団はモ
な知識 人 が 集 ま っ て 「 モ ン ゴ ル文化財団 (
モンゴ
人間文化・ 19
越えるもの、結びつけるもの
ンゴル文化復興運動の一環として「ミグジ、ェド・ジ
岡はここに 一時停滞せざるをえなくな った。
ャンライシク・プログラム 」 とし、うプロジェクトを
この危機に対して、ガンデン寺首脳はラジオや新
発足させ、観音像を発見し、観音堂を修理する計画
聞を用いて国民の支援を求めるアピールを繰り返し
1
9
97:21
)。つまり、
9
9
3年2月2
3日、ガンデン寺貰首チョイジ
た。特に 1
を立てた(メンド・オーヨー
この l
時点における目的は観音像の再建ではなく、あ
ャムツォはラジオを通じて演説をおこない、その日
くまでも発見とそれを再びロシア側から引き取るこ
を 「開眼観音完成の事業に喜 び従う善行の日 Jと宣
とにあった 。
言 して国民の支持を求めた。
民主化後 も探索は続けられた。探索に関してロシ
反応は熱狂的なものであり、 2
月2
7日付けの政府
ア、モンゴル両国の外務大臣が覚え喜一きをかわし、
系新聞アルデイン・エルフ紙によれば、 当 日約 2万
それに従ってモンゴル側代表団はレニングラード、
人の人が自らガンデン寺に足を運び、布施をおこな
オラーン・ウドゥ、チ夕、モスクワなどで調査をお
った 。 その日集まった布施だけで 、総額はおよそ
こな ったが、観音像を発見することはできなか った
4
0
0
0
)
]トゥグルグになったとさ;/1.る 。
1
9
9
7:2
3)
。 この時点からプロ
以後も新聞、テレビなどを通じての呼びかけが繰
ジェクトの目 的は観音像の発見ではなく、新しい観
¥ 最終的には個人 による寄付が l
、
倍7
6
2
3万
り返され 1
音像の建設へと転換していったのである 。
9
1
5
4トゥグルグ、その運用益が 1
7
70
万ト ゥグルグ、
政府の出資が l
億5
3
4
0万ト ゥグルグとなり、総予算
は3
億t
5
0
8
0万トゥグルグに及んだ(メンド・オーヨ
- 1
9
9
7
:4
7)
。
(
メンド ・オーヨー
1
9
9
1年モンゴル文化財団副理事長のc.エルデネは
ビャンパスレン首相 と会い、首相から観音再建に関
して政府の財政上の支援を与える旨の言葉を得た 。
さらに同年 2
月1
3日、大統領オチルパトはモンゴル
特に大口の寄付者としてはモンゴルの企業家達と
文化財団、モンゴル職人連盟委員会からの新観音像
並んで、内モンゴル出身の{削日グル ・ダワ ・リンポ
建設の要望に答える形で、 「関│恨観音像を完成させ
チェが 3
9
0
00ドル 、日本の新興宗教団体である阿含
ることについて Jという大統領令を発した。
宗が 2
0
0
0
0ドルの寄付をおこなっている点が注目さ
1)モンゴルの歴史的、文化的に無類に貴重な遺産
9
9
7
:4
8
)。喜捨帳には
れる (
メンド・オーヨ ー 1
200万 以 上 の 名 が 記 さ れ た (メンド ・オーヨー
1
9
9
7:41
)。
の一つである開眼観音像を復興することに │
刻し、
(
すなわち )労働者、国民、多くの信者の力によ
ってこの像を造ることに関し、モンゴル文化財団 、
大観音像はモンゴル人の文化、歴史に対する自覚
モンゴル職人述県委員会の意見を正当なものとみ
を高めさせるという意義をもつがゆえに、あくまで
なす。
も元々の姿に復元することを目指し 、その製作もモ
2)開眼観背像再建のために民衆から寄せられる寄
ンゴル人自身の手により、モンゴル産の銅を用いて
付の他に、必要とされる予算については国庫から
おこなわれる こ ととなった(メン ド
・ オー ヨ -
9
9
4年のモンゴル人民共和国成立7
0
支出し、 {
象を 1
1
9
9
7:5
3)
。
周年記念事業として完成させる 。その見積もりに
観音 の開眼供養は 1
9
9
6年の 9月2
0日に おこなわれ
ついては共和国政府に委託したい(メンド・オー
の計画か らは約 2年の遅れである 。観音の
た。当 初J
ヨ- 1
9
9
7:2
4)
。
胎内にはダライラマから贈られたチベット大蔵経を
再建については文化省の歴史 ・文化造物修復所が
始め、モンゴルの国土と文化を象徴する乳製品や穀
着手したものの、その道のりは決して平坦なもので
物、ゲル、馬 N
y
i琴、さらには 「
元朝秘史」
、 「ジャン
はなかった。特に支障となったのは、市場経済導入
ガル」、「ゲセル」 などが納められた岨
。
によ って引き起こされた経済的な混乱である 。
当初
、
ソヴ ィエト支配からの離脱にあたり、開限観音像
観音堂の修理、新観音像の建設および観音の周りに
を新生モンゴルの象徴としようとする為政者側の意
万体の阿弥陀の小像を造るために必要
配置される 1
図は極めて明白で、露骨でさえある 。その前提には、
0
0
0
万トゥグルグと見積もられており、さ
な資金は 3
かつて開眼観音像が清朝からの独立の時代に建造さ
0
0万 トゥグルグが
らにそこに国民から寄付された 5
れたという歴史的な経緯がある 。 2
0
0万人からの
加えられた。 しかし極端なインフレーションによっ
人々がこの建設に対する 喜捨をおこな ったというこ
て、用 意 された資金は紙屑同然の価値に なってしま
ったのである (
メンド・オー ヨー
20 ・人間文化
1
9
9
7:3
7)
。計
とは、この民族的なキャン ペーンがかなりの成功を
納めたことを物語る 。
越えるもの、結びつけるもの
この文脈においては仏教とナショナリズムの つな
民主化以降はモンゴル全土で寺院活動が再開さてい
がりは明白である 。仏教はモンゴル民族の抱いてき
るが、特に人口の集中するウランパートル市におけ
た伝統的な理念を表すものである 。仏教文化を破様
るそれは目覚ましい。本節においてはウランパート
したソヴイエト、共産主義はモンゴル文化の破壊者
ル市における寺院活動を概観することで、モンゴル
ということにもなる 。
における仏教復興の現代的特徴を採りたい。
しかし、仏教はそれ自体が独自の価値をも った信
f
:
J
i
:
f
E
l
i
!
r
認し得たウランパートル市内の仏教寺院の
念体系であり、たとえ反共的な脈絡で仏教が称揚さ
3である 。 その中ではガンデン寺だけが共産党
数は 1
れたとしても、必ずしも共産主義 に代わるイデオロ
独裁 H
寺代にも活動を 許さ れていた。前に述べたよう
ギーとしての民主主義、市場経済とつながる論理的
に、ガンデンとはイフ ・フレ ーの西地区を指すが、
な 必 然 性 は な い 。 実 際 Bu
!agに よ れ ば (
Bu!ag
元来はその中心 にあ った集会堂ガンデン・テクチェ
1
9
9
8:
2
3
7
2
3
8)
、1
9
9
1年 1
1月から国会内で始ま った慾
ンリンのことであった。
法名、国家名に関する議論の中では、人民革命党の
僧院は礼拝、読経などの宗教的活動と共に、教育、
メンバーが仏教的理念をふりかざすことによって、
研究活動をおこなう場であるが、共産党独裁時代は
進歩派の主張する民主主義や経済的改革の主張を攻
ガンデン寺においても宗教教育をおこなうことはで
きなかった。民主化以降、かつてガンデンの地 にあ
撃することさえあったという 。
民主化の中で仏教がモンゴル ・ナショナリズムと
った 3つの顕教学堂 、すなわちダシ ・チョンピル、
結びつき一定の役割を果たしてきたことは明白であ
クンガ・チョイリン、ヤドゥガー ・チョイリンと時
る。その最も印象的な例が開眼観音像の再建であろ
輪学堂ドゥンホル・ダツァンが再建され活動を始め
う。 しかし、現代モンゴルにおける仏教リヴ ァイヴ
た。現在それら 4学堂で学ぶ僧侶の数は約 200人い
ァリズムの動きを、ナショナ リズムとのみ結びつけ
る。 またガンデン 寺の 周辺に定住したり、遠方より
て解釈することもまたできないのである 。
随時や って 来る高齢の僧侶も 2
0
0人ほどいるという 。
貫首チョイジャムツォはガンデン寺に隣接する、
2-2
ウランj(ートル市における寺院活動
現在ウランパートル市の人口は 6
0万人を超えてい
る。これはモンゴル国の人口の約 4分の lにも及ぶ。
1970年に創設された 宗教大学の 初代の 卒業生 であ
る。
ガンデン 寺 はチベット仏教ゲル派
(
1
1
2
教:シャ
ウランパートル市内の寺院一覧
│
涜
名
寺
ガンデン ・テクチ ェン リン
ズー ン ・フレー
(ダシ ・チョイリン )
ケセル廟
ドルマ ・
リ ン
トグス ・ノくヤスガラン
ラムリム ・ダツ ァン
夕、ンノすダルジャー
(
テンパ ・ダルゲーリン )
ペ トゥプ・スタンシー ・
チョイホルリン
ナム ・夕、ツァン
フ。
ンツオクリン
デチェン・チョイホルロン
ナル ・ハジッド
マンノく ・ダツァン
宗派
ゲル
ゲル
所属する僧の数
約400
1
1
0
ゲル
ゲル
ゲル
ゲル
ゲル
25
21
21
50
約6
0
ゲル
ニンマ
ニンマ
ニンマ
ニンマ
1
9
ゲツ・ゲロンのみの数
約3
0
30
23
25
50
制H 手J岳
4学堂を有する
'
9
0より再活動
尼寺
尼寺
学校を 併設
チューの行を行う
チューの行を行う
地方分院をもっ
尼寺
医学堂
人間文化・ 21
越えるもの、結びつけるもの
ル・シャシン)に属す。 第 1章で述べたように、か
尼寺で、 20人ほどの尼がいる 。
つてモンコ ルにお いては圧倒 的にこ の派の勢力が{
愛
ラムリム・ダツァンはラムリム研究を目的として
勢であった。現在ウランパートル市 で活動を始めた
1
9
9
1年に創立された。共産党独裁時代に僧院で教育
寺院の うち、ガンデン 寺の イ也にはズーン・フレー
を受ける ことがで きず、家庭で、読経の仕方などを肉
(ダシ ・チ ョイリン)、ケセル防j (ゲセル・スム)、
親から 学ん だ仏道志願者達を集めて体系的な教育を
ドルマ ・
リ ン (
夕
、
リ ・エヒーン・スム )、 トグス・
与える活動をおこなっている 。
パヤスガラン、ダンパダルジャ ー (テンパ ・ダルゲ
ペトゥプ ・スタンシー ・チョイホルリンはインド
ー リン)、ラムリム・夕、ツァン、ベ トゥプ ・スタン
大使であったパクラ ・リンポチェを中心として新た
シー・テョイホルリンの 7ヶ寺がゲル派を標傍して
998年の 3月から活動を始
に建設された寺であり、 1
いる 。 その内破仏以前に存在していた寺はズーン ・
めた。学校を 併設し、 1
0歳からの子供を 受け入れて
フレー、ケセル閥、
いる 。 この寺の目的は、チベ ッ ト仏教の伝統に基づ
ドルマ ・リン、 ダンバダルジャ
ーである 。
ズーン・フレーは、本来イフ ・フレーの東地区を
指す言葉であるが、廃嘘として残っていた幾つかの
いた厳格な僧院のシステムをモンゴ‘ルへ導入するこ
とにある 。現在沙弥戒を受戒した者が 15名、具足戒
を受戒した者が 4名いる 。
ゲル式寺院を修理して 90
年より宗教活動を再開して
これらゲル派の寺院と並んでチベッ ト仏教ニンマ
いる 。貫首ダンパジャブは 、 ガンデン寺貫首チョイ
派 (
紅派・オラン ・シャシン ) の寺院も存在する 。
!
U
l
の卒業生であ
ジャムツォと同じく宗教大学の第 1
ナム・ダツァン、プンツォクリン、デチ ェン ・チ ョ
り、ス リランカやインドのダラムサラへ留学した経
イホルロン、ナル ・ハジ ッ ドの 4ヶ寺である 。
験を持つ。正式の寺名で‘
あるダシ・チョイリンとい
破仏以前、イフ ・フ レー においてニンマ派の勢力
う名は新しく付けられたものである 。所属する僧侶
がどの程度あったのか、という ことを明 らかにする
はガンデンに次いで多く、 110名に及ぶ。若い僧侶
資料は残念ながら入手しえていない。わず、
かにロプ
の巾には青海クンブム寺で学んでいる者が 1
8名、イ
サン ・タムディンによる仏教史の簡約版において、
ンドのダライラマ 亡命政権の元へ間学している者が
北部地方においてニンマ派が栄えているものの、 全
4名いる 。
体としてニンマ、ゲル派ともに衰亡しつつある、と
ケセル廟はチベット、モンゴルに共通して伝わる
いう記述を見る程度である (
間約版1
4b)
。 ニンマ
叙事詩の主人公ケセルを杷った寺である 。 ガンデン
派に関する記録が少ないのは、モンゴルにおける仏
寺の管轄 とな って おり、 25名の僧が派遣されている 。
教史が体ilJl
J
の側か ら、つまりゲル派の立場から抗l
か
チベ ッ ト医学に基づいた医療もお こなわれてい る。
れてきたことによるためでもあろう 。聞き取りによ
ドルマ ・リン (
モンゴル訪でダリ・エヒーン・ス
れば、かつてアムガランにはニンマ派のゾチと呼ば
l
t
厨人商人の多く
ム) は
、 市の東南部の、かつては I
れる行者が多く住んでおり、その寺もあ ったそうで
居住していたアムガラン (
買売城・マイマーホト )
あるが、寺名などは分かっていない。民間信仰的な
と呼ばれる地区にある 。現在尼寺として活動を始め
要素を多く取り入れ、祈祷などを得怠とするニンマ
たこの寺は、かつて 中国寺(ヒャタッ ド
・ スム ) と
派は、チベットと同機かつてのモンゴルにおいても
呼は' ~'Lていた 。 現在も当時の遺伊j の 一 部が残 っ てい
民衆の必要に答える形で、マイナ ーながらも根強い
る。 2
1人の尼が所属し、内 3人が沙弥戒を受戒して
勢力を持 っていたのかもしれない。
いる 。
ニンマ派4ヶ寺のうちナム ・ダツァン寺はウラン
ダンパダルジャ ー寺(テンパ ・ダルゲーリン ) は
1
1のパヤンホショー地区にあり、 1
990年か
パート ル1
アマルパヤスガラン寺と同じく擁正一乾隆帝時代に
ら活動を始めている 。貫首のパンザルは 8
3歳の高齢
勅命によ って 建てられた名刺であ った。聞き取りに
で、破仏以前はニンマ派のゾチと H
芋ばれ る行者であ
よれば、かつては顕教、1.',:教、 l
侍i昔、医学の問学堂
った。
を有し、 1
2のアイマクに 1500人程の僧が所属してい
聞き取りによれば、ゾチとはゾッド、すなわちチ
たとされる 。破仏を蒙 った後に 、本堂は改築されて
ベッ ト語でチュ ー (
切断) とよばれるニンマ派の行
日本軍捕虜用の病院 へ 後に結核病院などに則いら
をも っぱら おこなう修行者のことを指す。パンザル
れてきた。活動の再開は 1996年にな ってからである 。
トグス ・バヤスガランはガンデン寺近くの小さな
22 ・人間文化
師によれば、かつてのイフ ・フレ ーにも何人かの有
名なゾチがいたそうである 。 ゾチは、自らの身体を
越えるもの、結びつけるもの
在日想の中で切り刻 み、有情に供養するという儀礼を
お こなう(ゾッデイン ・ホラル)。 この 寺では 1
990
年以降約30名がゾチにな ったという 。
派両派の寺院が共におこなっている 。
宗教 的 な戒律に対するある種の緩さというもの
も、両派の寺院に見られる現象である 。 このことは
プンツォク リンとナル ・ハジッ ドも またゾチの守
正式の僧侶ならば当然受戒しているべき沙弥戒、具
を標傍する 。前者は 1992年より活動を始めた。元々
足戒を受戒していない者が非常に多いということか
はゲル派の寺であったが、1
995年よりニンマ派に改
らも窺われる 。特にゲル派は、元来が清浄なサンガ
宗した。改宗の J
A出は、寺へ指導に来ていた僧の影
(
1
'
(
1団)の伝統の復興を掲げて 登場してきた教団で
響によるものだそうである 。僧侶の内70歳以上が 6
あり、その規律は厳しいはずで、ある 。 しかし、現在
0名いる 。
名
、 2
0歳代が1
0名、1
5歳以下が 1
ナル ・ハジッドは尼寺である 。現在25名の尼が所
属しており、その内沙弥戒を 受戒している者は 7名
である 。 1
9
9
1年から活動を始めた。貫首のダリ ・ス
レンは男性で、宗教大学出身 である 。 6年市J
Iの学校
のウランパ ートルではゲル派寺院の貰首クラスの高
僧ですら 姿帯しているケースさえ 見られる 。
第 3章 考 察
現代モンゴルにおけ る仏教リヴ ァイヴァリズムを
考祭するにあたって論点を 2つに分けたし、。 1つは
を併設している 。
デチェン ・チ ョイホルリンは 1
990年、宗教大学 l
仏教界 内部の傾向、問題点に関するものである 。 も
j
羽生のプレプスレンによって始められた。彼も元々
う 1つはモンゴル仏教が全体とし ていかなる立味付
はゲル派に属する僧であったが後にニンマ派に変わ
けをなされているかという問題、 q
%にそのナショナ
少抑戒、 具
った。現在23名の僧が所属しているが、 I
リズムとの │
羽速についての検討である 。
足戒を 受戒 している者はいない。寺院の活動として
現夜、モ ンゴル 仏教界が直而し ている大きな 問題
1
1
1
星術に基づくソールハ
は、破仏と以後半 世紀以上 にも及ぶ宗教弾圧に よっ
o
イと 呼 ばれる占いの本を釘:,Ir
l
1
l版している点であ
て、宗教的な伝統の継承が困難になっている点であ
特に特徴的なのは、チベット
る。
ウランハートル d
1内にはその他に、 医学を 中心 と
ろう 。 ウランパートル市内の寺院を訪れた時計i
ーでも
すぐ気が付くのは、 1~1 侶 の年齢梢)広が極めて不自然
した活動をおこなっているマンパ ・ダツァンがあ
な点である 。読経に参加 l
しているのは概ね7
0歳前後
る。員背の ナツ ァク ドルジは元ガンデンの僧で、宗
以│
二の高齢者か、 2
0歳前後よりも年少者の両極端 に
教大学を卒業した後にウランパー トル大学で英語を
分かれている 。当然寺院の宗教活動の中核を抑うべ
学び、さらにインドのダラムサラで医学を修めた 。
き 30代 、 40代 、 50代の 11611:~: が刻常に少ない 。 この不
帰国後 1
9
9
1年にマンパ・ダ ツァン(医学堂)を建設
均衡はいうまでもなく長期に渡って僧侶が養成され
した。1
1首の経!
震からすると 一貫してゲル派の教育
てこなかったことによる 。
を受けてきた ことに なるが、マンパ・ダツァンとし
干の貰
ウランパ ートル市内 の1
3ヶ寺のうち、 5ヶミ
ては特定の宗派は楳傍していない。チベッ ト医学に
汁は 1970年にガンデン寺の横に設けられた宗教大学
基づいた治療の他 に、学校を併設し 5
,1Y
1
I
i
リの教育を
の1
1身者であり、伝統的な僧院での教育を受けてい
'
おこな って いる 。約50名の学生の 中に はブ リヤート 、
るわけではない。 (
特にガンデン、ズーン・フレー、
トゥパ I
N
j共和国 出身 の者もいる 。
デチェン ・チョイホルロンの貫首は共にその第 1
1
百!
これらの寺院の活動を財政的に支えているのは信
卒業生である 。) また現在仮に 70歳の僧侶であ った
者からの符付である 。それは寺院 に対する寄付、或
としても 1
937年の破仏の │
時
点 では 2
0歳程にすぎず、
いは読経や占い、治療など何人的に要求した宗教的
長い年月を援するチベット仏教の学習、修行を充分
なサー ビスに対するお礼 として納められる 。 また信
和んで、いたはずもない。つまり 、半世紀以上のブラ
者が家に 僧侶をf?::き、読経してもらってお布施を納
ンクを経て、現在の人材だけで過去の僧院のシステ
めることも多い。
ムをそのまま 再生させることは殆ど不可能となって
特にウランパートルの寺にあってチベットの寺に
いるのである 。現在見られる戒律に対する厳格さの
存在しないのは経典名、そ の効能と金額が書かれた
欠如は、破仏以前の モンゴル 仏教界にも存在した傾
一覧表である 。信者 はその中で自分の懐具合と │
三
│
的
向であった 。 したがって 、これ もまたモンゴル仏教
に合った経を選び、それを読んでもらうことができ
の本来的なあり方ということができるかもしれない
る。 こうい った宗教的なサービスはゲル派、ニンマ
が、より大きな理由は、
J
E統的なサンガの伝統がー
人間文化 ・ 23
越えるもの、結びつけるもの
旦途絶えてしまったことによるのであろう 。
それにも関わらず、多くの寺院が再建もしくは創
もなおさずチベット仏教であり、仏教的な伝統を強
調することは、そのままかつての仏教世界における
建されているということは、長い共産党独裁時代の
チベ ッ トの、特にダライラマ、パンチェンラマを中
反宗教教育にも関わらず、民衆の宗教的なものへの
心とするゲル派の権威を認めることにつながってゆ
ニーズが依然としてかなり大きいことを意味する 。
く。 そしてその事は、モンゴル仏教界内部にある種
呪術性の強いニンマ派寺 院が 4ヶ寺も作られ、参詣
のジレンマをもたらす可能性さえもっているのであ
人も多いことは、その証左となろう 。
しかしこういったモンゴル仏教界の現状に対し
て、再び正統的なチベ ッ ト仏教の立場によって建て
る。 その例としてジ、エプツンダンパの帰国問題をあ
げることができょう 。
第l
章 で述べたように、
ジェ プツンダンパ八世が
直しを図ろうとする傾向が存在する 。 尼寺のドル
1
924年に亡くなって後、新しい転生者は発見されな
マ・リンや、薬学堂マンパ ・ダツァンでは貫首自身
かった。 しかし 、三 世から八 l
止までのジ ェプツンダ
がインドのダライラマ亡命政権の元へ赴いて学問を
ンパがそうであったように、 笑 はチベ ッ ト人の中か
修めてきている 。 またペト ゥプ・スタンシー ・チョ
ら九世ジ‘
ェ プツンダンパが発見されていたという話
イホルロンではチベット的な僧 │
淀のシステムを持ち
が最近まI
1られるようになった。 1
991
年に ダライラマ
込む試みがなされている 。 さらにゲル派寺院に属す
亡命政権下のデプン 寺 ゴマン 学 堂 (
伝統的にモンゴ
る僧侶の中には、モンゴル僧の伝統的な留学先であ
ル僧が多かった)で発行されたモンゴル仏教史の中
る青海クンブム寺や、デプン寺ゴマン 学堂を始めと
では、ジ ェプツンダンパ九世について以下のように
するダライラマ亡命政権の学問寺で学ぶ者も増えて
述べる 。
いる。
「ジェプツンダンパ八世の転生、ジャムペー・ナ
かつての浸透ぶりには遥かに及ばないものの、仏
ムドル ・チューキ ・ギャルツェン ・
リ ンポチェにつ
教が再びその影響力を強めつつあるのは確かであ
いて。 1
9ラプジ、ユン水酉の年(1933) ラサでお生ま
る。 その中で、かたや民衆の現世利統的な願いにも
れにな った。 ガンデン座主ロプサン・ギャルツェン
答えながら、その一方で厳格なサンガの伝統を復活
と摂政ラデン ・ドル ジェチャンの二人によって八世
させようとする人々も増して行くものと思われる 。
の転生であると認められた。摂政リンポチェによ っ
次に、仏教の政治的な影響力、特にナショナリズ
て沙弥戒が授けられ、御名をジャムペー ・ナムド
ムとの関連について検討したい。
ル・チューキ・ギャルツェンとされた。
Bulagによれば、ボグド君主制 国家時代、仏教は
ある日、デプン 寺 でテンマを招請した │
時
、 (
テン
様々なモンゴルの集団を国民国家 (
nationhood)の
マに)会 いにゆかれ、 (
その時) テンマはリンポチ
観念によって 一つのモンコザ
ルへと統合するための最
ェの間近に出現してカタを捧げて消えた 。次にパー
も重要な媒体のひとつであった。それは僧達があら
ボを招請した 。 (
パ ーボが)現れて 礼拝し 、カタを
ゆる階級の 出身者を含んでいたこと、また行政上の
捧げて 「デプン ・ゴマンで法を学んでください 。J
障壁 を越えて移動できるおそらく唯一の集団であっ
と言っ た。 (
その後 ) 15年あまりよく勉強された 。
たためである 。 Bulagは現代においても、仏教への
その頃ジェプツンダンパの名はあまねく拡がった
傾倒はソヴィエトーモンゴル人民共和国の体制下で
が、ジ‘
ェ プツンダンパとしての地位は全く得ること
強化された一つのナショナリズムの形、すなわちハ
ができなかった。 なぜならば、その時モンゴルはロ
ルハ族中心主義に対立する汎モンゴル主義を指向す
シアの影響下にあ って、共産思想によって化身を探
る可能性をはらむものであると論じる (
Bulag
1
998:4
1)日
。
すことを禁じる等の布告がなされていたからであ
碓かに現在のモンゴ、ル仏教界の内部において、モ
ンコ示
ル諸族が再び、境界横断的な却Jきを始めたその萌
芽を見ることができる 。 ブリヤ ート 共和国やト ゥパ
る。 モンゴル人自身も探索できなかったのであり、
(
それが化身をジェプツンダンパとしての )地位に
っかせることができなかった理由である 。
その後 (
化身は) ターラナータの寺であるガンデ
共和国出身者がウランパートルの寺で学んだり、内
ン・プンツォク リンへお行きになり 、そこに数年滞
モンゴル 出身のグル ・ダワ ・リンポチェが、アマル
在された。 そこで法縁を僧俗に!
J
易れた。 1
956年には
バヤスガラン寺を拠点として活動を始めたのがその
インドへ巡礼に出かけられた。 1959年には多くのチ
例である 。 しかし、モンゴルにおける仏教とはとり
ベット人と共にインドへ亡命された。現在はチベツ
24 ・人間文化
越えるもの、結びつけるもの
ト人のセツルメント、メン ・パル・ペンデ ・リンで、
デプン
僧俗の願いによ って法 を説いておられる 。J(
版モンゴル仏教史
pp3l
)
九世ジ、エプツンダンパの存在に つ いては、少な く
ジレンマとは正にこのことに他 ならない。
皮肉なことに、このチベッ ト仏教世界の盟主であ
るダライ・ラマ自身が現在は亡命の身の上である 。
しかしモンゴルにおける仏教への傾斜は、 Bu
lagが
とも 一般のモンゴル人はごく最近になるまで知るこ
いうようにモンコ、
ル国のマジョ リテイであるハルハ
とがなかったし、したがって畏敬の念を抱いている
族を中 心 としたナショナリズム(ハルハ中 心主義)
わけではない。 そのことはダライラマに対する 一般
を越える可能性を持つだけではない。現代モンゴル
的な人気と比して対照的である 。 しかし、革命以前
は、内陸アジアの広大な地域に展開してきたチベッ
ト仏教世界が、現在その地においてどの程度の潜勢
力を有しているのか、その度合いをまさに生き生き
の宗教界に君臨するものとして迎え入れられるべき
とした形で i
J
J
I
!るための格好の場なのである 。
である 。 ところがジェプツンダンパ 「九世」は モン
-キ主
ロ
-
の伝統に従うならば、ダライラマ政権が正当とみな
すジ、エプツンダンパの転生は、本来的にはモンゴル
ゴルを訪れたことさえないのである 。
その辺りの事情については分からないことが多
い。おそらくダライラマ亡命政権の影響力が増大す
(
1)
ダルマターラ仏教史には英訳及びモンゴル語訳が
ある 。
ることを懸念する中国政府の圧力も存在するのであ
英訳は Pi
o
t
rKl
a
fkowski
によって 1
9
8
7年にドイ
ろう 。 しかし、ジェプツンダンパをモンゴルに迎え
ツで出版された。モンゴル語版は、 1
9
6
0年代の終
ることができない大きな理由のひとつは、ジェプツ
わりにガンデン寺貰首であったゴンボジャブによ
ンダンパの存在が、ガンデン寺を原点とする国内の
って翻訳され、ウランパートルで 1
9
9
5年に出版さ
宗教的な勢力関係や、さらには現在の政教関係のあ
れた。
り方を大きく揺るがせかねないという懸念によるも
のと思われる 。
この問題の背景となっているのは、かつての内陸
アジアにおいてダライラマを頂点とする宗教的勢力
が、まさに境界横断的な人間の移動を 引 き起こして
おり、その中で在地の俗的権力は全チベッ ト仏教世
Rosaryo
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Wi
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t
t
oHarrassowi
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z
英訳
界の中における聖的な、或いは笠 E
I
9な位置づけを 受
ラヤ諸国、内外モンゴルを含む広大な地域に展開し
1
1x M 0 H r0 J
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pX 0 員 。 rYYJI ar可 U araaH JI H
apX M C X aM aaX 0 P 山
H X Y aH
ていた 。そこでは同じチベッ ト語経典の使用、リン
B 0 M.
けていたという歴史的経緯が存在するということで
ある 。 ここでいうチベッ ト仏教世界は、現在のチベ
ット自治区は勿論、青海省の大部分、甘粛省、四 川
省、雲南省の 一昔1
¥
、ブータン、シッキムなどのヒマ
モンゴル語訳
ガ ・フランカとしてのチベッ ト語、チベッ ト医学や
占星術の受容、共通の聖地 とそこへの巡礼、ラサや
(
2)
黄金史は、
'
S
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ie
sの 11
1
Jとして
f
1
9
6
4
シガツェへの留学、さらにジェプツンダンパのよう
年にインドにおいて出版された。 同蓄 にはロプサ
な転生者がトランス・エスニック的に選定されるこ
ン ・タムデインによる、 1
7
葉からなる短い仏教史
となどを通じて 一つの観念的な共同体が形成されて
91
葉からなる長い仏教史が含まれる(木
と
、 1
いたのである 。モンゴル仏教界が、チベッ ト仏教の
版 ・影印 印刷)。 この長い仏教史の 書名 が黄金史
伝統やダライラマの権威にその正当性を求めようと
okeshChandraは黄金史
である 。前書きの中で、 L
すればする程、さらにはモンゴル民族の伝統的な理
の日付を 1
9
1
9年としている 。 しかし黄金史の奥書
念として仏教を称揚すればする程、そこで明らかに
から明らかなように、 1
9
1
9年は執筆開始の年であ
なってくるのはモンゴル社会がかつてのチベット仏
る。 その後政変による中断の時期を経て、完成し
教世界の 内部における 一つの辺境にすぎなかったと
たのは第 1
6ラプジ‘ユン辛未、すなわち 1
9
31
年であ
いう事実である 。 ジ、エプツンダンパの問題における
る。
人間文化 ・ 25
越えるもの、結びつけるもの
(
3)
但しマイダルの統計1まダツァンやアイマクの数等
J
!
i
l
'
笠に疑いがある 。例 えばセレンゲ県
に│
射して正 H
ち
、 (集会堂) - (学堂)一(学寮)という 三府
構造がそこでも保たれていた 。
r
のアマルバヤスガラン寺の場合、後述するように
1
(3) かつて強大で、あった教団の崩壊は信じられない
ダツァン数は 9、アイマク数は 6である 。 しかし
ほどの速さで進んだ。 776の僧院と寺院のうち、
マイダルの統計ではそれぞれ 1
8と Oにな ってい
あるものは焼かれ、あるものは こわし てその材料
を他の建築に 利用 し、あるものは事務所や学校に
る。
(
4)
マイスキーの推定によれば、 1
91
8
"
1
ミの時点でモン
模様がえされた 。 r
w
i
o体」 の この部分は、とんで
1
ゴルの人口は約 6
4万 7
0
0
0人 (
1
=
1
同人、ロシア人を
もなく破壊的なものであった 。チベット式、中国
含む)である 。 そのうちラマの数は 1
1万5
0
0
0人と
式、モンゴル式の建築様式と工芸技術の相違をま
なる 。 これはモンゴル人男子総数の 4
2.4%となる
ともに研究しようにも、それに必要な数の建築物
(
マイスキー
(
5)
一人前の比丘、
1
9
37:8
7-1
1
0)
。
比丘尼になる前の見習い僧の守る
さえ残されてはいない。機能を保っている大きな
僧院は今ではたった 一つ
1
0
0人のラマをかかえ
たウラン ・パート ルのガンダン廟があるにすぎな
べき戒
(
6
)
I
U家した 比氏、比丘尼の守るべき完全な戒。
い。 ド
('
l略
)) もう 一つの併 │
旋が、はるかコビ、地 )
J
(
7
)ラサ三大寺のひとつであるデプン寺のゴマン学堂
0人程のラマがいる 。大体それ
の一画にあって 、4
の こと 。
(
8
)デプン寺のロザリン学堂のこと 。1
1
i金史によれば、
0万人もいた ラマはどう
そんな短期間におよ そ 1
モンゴルの 7
4の僧院において 、 ゴマンのテキス ト
なったのだろう 。 1
938年までには、
を
)
f
Jv
、ている学堂の数は 3
3、ロ ザリンのテキスト
5千人が 1
2
0
程の各種共同組合に組織され、他の 2万人あまり
J
いている学堂の数は 1
2、セラ寺ジ工 学堂のテ
をJl
は牧業の生活に帰っていた。子供ラ マはそれぞれ
キス 卜をJ
I
Jv
、ている 学M:の数は 1
4とな っている
の課税あるいは学校にもどり、兵役適齢期]の若い
(
t
l
t金史 1
60a-1
6
1a)
。
(
9)
ガンデン ・シェ ー ドゥプリンという名は 、 イフ ・
フレ ー内 のゲ、ル派の寺院、諸学部:、学寮などの総
初、として j
:
j
Jいられているものと思われる 。
間
ぐらいなものだ。
3
0の学寮の名前は、 (プレプジャブ 1
9
6
1:1
61
)
の表中にあげられている 。 その配置については
(
橋本
1
9
4
2:1
9
6)の同を参照のこと 。
(
1
1)
.
J
n
4
1
:
の
報刊 は内蒙古百霊廟、長尾は同じく内家古
の五当討における調11:に基づく 。一方小野
I
'F
'
I
は
、
J
f例を
チベットはラサのセラ仰院チューパ学堂のご
桜告する 。但 し1
3ジンダに関し橋本、長尾とプレ
ブジャブ、 小野田 の説明は 食い追う 。前二者は教
学古1
¥
全体で 1
3ジンダを学ぶとするのに対し、小野
ラマはm:1
滋に入った。 この二つのグループについ
ての統計数字をみた ことはないが、 どちらも大勢
であった。J(ラテイモア
1
9
6
6:1
6
1-1
6
2)
(
1
4)
例えばアルデイン・エルフ紙の 1
995
":5
1
: 月 3F
I、
6月 7日付け の紙而では喜治を H
手びかける全面広
告がうたれている 。 5月 3H付け の新聞広告の見
出しは 「開版飢背はモンゴル国の判1
当日なる象徴で
ある 。
」
r
(
1
5
) アルデイン ・エルフ
J1996年 7月 16r1
付けの記
事より 。
(
1
6
)(
1
1
1溢 1
9
91)はこの病院における抑間生活の記
録である 。
(
1
7)
第
2次大戦終了後の内モンゴルでは、ハフンガ
1
1
1、プレブジャブは 1
3ジンダ修了の後にさらに上
(
1908-197
0) らによって内外モンゴルを統一 し
級諜科の学習が残っているとする 。セレンゲ県ア
ようとする 一 述 の 政 治 的 運 動 が お こ な わ れ た 。
マルパヤスガラン寺における 1
1
1き収りは小野田 、
(
毛利
プレブジャブの説明と 一致する 。
1
(2
)
聞き取りによれば、モンゴルにおける他の僧院の
配置もほぼアマルバヤスガランと同様であ った 。
すなわち、 中心に 集会堂がありその周囲に諸学堂
が配置され、さらにその外側に学寮が建てられて
いた 。 イフ ・フレーにおいては集会堂と学堂がガ
ンデン 地区に配置され、学寮がボグドの宮殿を閏
む形でズ ー ン ・フ レーに配置されている 。すなわ
26 ・人間文化
1
9
9
8
) 第 6章参照。
越えるもの、結びつけるもの
引用・参考文献
-チベット語文献
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. ジャムペー・シェラップ)
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s
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-bzhugs
s
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. (デプン )仮モンゴル
仏 教 史)
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(
ダルマターラ仏教史)
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. (ロプサン・タムデイン )
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賞金史)
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-英語文献
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9
9
8 周 辺 か ら の 中 国j 東 京 大 学 出 版 会
モンゴル科学アカデミー歴史砂│
究所(編著)
1
9
8
8
[
1
9
6
9
]
山口瑞鳳
モ ン ゴ ル 史』
r
恒文社
1
9
8
7・1
98
8 チベット 』上 ・下
東京大学出版会
山没様悟
1
9
9
1
ウ ラ ン パ ー ト ル 捕 虜 収 容 病 院』
ラティモア
1
9
6
6
遊牧民と人民委員 j
28 ・人間文化
岩波書庖
草思社
BAWDEN,
C
.
R
.
1
968 The Modern His
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or
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f Mongolia
L
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:KeganPau
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BULAG,
1
99
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983 A MongolianLi
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s
s
.
アジア考古学研究機構調査報告 1 ベトナム編
ベトナムの博物館
用 田政晴
滋賀県立琵琶湖博物館
そのfl'
J
I造も者1
1
城そのものであることが予怨された 。
海外調査
4の民族が矢J
Iられ ているが、
現在のベトナムでは、 5
その 1制強は決族で、もある 。
(
1
)はじめに
このように京市アジア諸国の中では最も強く 1
:
I
'
I
:
l
i
l
アジア考 Ill'
ア
.
f
i
J
l
究機構 (
Asi
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s
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a
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c
hI
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s
ti
t
u
t
e
l
.
l
l
告称 A.A.R.I)では、その活動の
のように1-1本とベトナムは、歴史的に長い間、
ひとつとして調査制究旅行を行っている 。 1
9
9
8i
ド度
の影響下にあ ったアジアの国であるという制点から
以下、
はその対象として、ベトナム社会主義共和 │
ヨ1(
今回の剥をの対象とした 。 余談になるが、 「厭!と」
"
j
長の提案で選ん
ベトナムという 。)を 中井均事務 j
はベトナム訪で 「リクス 」、「ありがとう 」 は 「カム
だ。
オン Jと言 うが漢字で書けば「感恩」となる 。
ベトナムは、日本の考古学を学ぶものにとっては
少し縁遠い存在で、
ドンソン文化の銅鼓、あるいは
の影響下にあ った同がベトナムであるといえる 。 こ
1
1
'
1
、
司l
I
]山以下、
ここでは、捌脊の成果をテーマ別に、 }
1
1
本一 問、植田文利i
の各研究民が 4回に分
中井均、 1
ベトナム陶磁が知られているぐらいというのが実態
けて報告する 。詳しくはそれぞれの報文に談るが、
だろう 。 しかしながら、インドシナ半島の束側、商
0年代の日本その
ベトナムの都市部を離れると昭和 3
シナ i
l
i
jに而して南北に長いこの国は、日本よりやや
ままの!患があり、いたるところで │
二
l
本とよく似た民
小さいながらも同規模で、北で、接する 1
1
'
1
主│
文化の影
具や民俗例を知ることができた。 こうした知見もあ
響を少なからず受けてきた。
わせて紹介していきたし、。
特にホイアンは、かつて東南アジアの海上交通の
7世紀にかけてはマニラやタイのアユ
基地で、 16-1
(
2)ベトナム
タヤと議んで日本人 1
1
]も形成されていたが、これま
ベトナム i
段;
1終結による 1
[
9
7
5年の解放統一以米、
1
:
1
'
医│
あるいは
ベトナムでは社会主義政権による閉鎖的政策がとら
かつての日本の伝統的な町並みを思わせる様相で、
れてきたが、 1
1
1ソ速のペレストロイカ、後の東ドイ
1
]の写真を見る限り、
で筆者らがこの 1
細い路地に瓦茸ーきの家が続くといったものであっ
ツやソ連の崩壊などにより経済システムも大きく変
た。
化せざるを併な くなった 。 そのひとつがドイモイ
またこの後の王朝、グエン王朝はその都をベトナ
ム中部のフエにおいたが、その王宮の 中心の建物、
太相 l
殿は中国の紫禁城をまねて造られたといわれ、
(
刷新)政策で、市場経済の大幅導入により近年は
めざましい経済発展を遂げている 。
東南ア ジア ーの7
0
0
0万の人口と識字率 90%以上を
誇り、日本の九州を│徐く而積に相当する 3
3万 k
r
r
iの
国土は、その 4分の 3が山岳高原地帯で、南北にベ
トナムの背 ;
F
J
.
といわれるチュオンソン 1
1
1脈が伸び
る。
南シナ海に而する東側には、全長約 3260kmの海
岸線が広がり、中匡│
的な伝統的建物やチ ャイ族によ
るヒンズー文化の泣跡、南国的なメコンデルタ等が
展開している 。
(
3)行程
n
今│
口
│
の調査は、 1
9
9
8i
f4月1
4日から 2
1 まで実施
した。
関西凶際空港からベ トナム航空の直行使でホーチ
ミンシティ
(
1
1
=
1
サイゴン )へ飛び、国内線に釆り換
えて中部ベトナムのフエに着いた 。 ここは 1
9世紀に
はじまるグエン モ明の都で、王宮門 (
午門)や太布 l
殿を中心に広がる 王宮跡の他、フエ郊外に点在する
歴代皇帝の闘はそれぞれ個性的で、、その多くが今で
人間文化 ・ 2
9
ベ トナムの博物館
は観光地となっている 。今回はミンマン帝、カイデ
堂と呼ばれる 旧大統領官邸や歴史博物館を訪ね、現
ン帝、
代ベトナム陶磁を資料収集した後、深夜便での帰国
トウ ドック子育、
ドンカイン帝の各廟を踏査し
た。その他、フエではフォン 川沿いのテイエンムー
の途に着いた 。
トンパ市場も訪ねた 。
以下、この調査の成果報告を行っていくが、第 l
9世紀初頭にフランス軍によって築かれ
その後、 1
報は用田がベトナムの博物館を紹介し、とりまく博
寺院、フエ宮殿美術博物館、
た砦や第三次世界大戦中の日本軍、ベトナム戦争中
0
0
のサイゴン政府軍も使った陣地が展開する海抜 6
m をi
J
!IJるハイヴァン峠を車で越えてダナンに向かっ
物館事情を考察したい。
2 博物館
た。
中部ベトナム最大のこの 1
1
1
]は、古くから東西貿易
(1)フ工宮殿美術博物館
の中継地で、ベトナム戦争中はアメリカ軍第一海兵
フエは、ベトナム最後の王朝であるグエン朝
師団司令部が置かれたベトナム最大の基地があった
0802~ 1 945) の都が置かれた落ちついたたたずま
ことで、有名で、ある 。 ここを起点にチャンパ王国の聖
いの問]である 。 フォン川下流域のこの町は、その水
1
1
]の形成されていたホイ
地ミーソン遺跡群、日本人 1
をヲ│いた濠によって閉まれた旧市街と新市街に分け
アン、仏教聖地五行山等を訪ねた。
ホイアンでは、貿易陶磁博物館、福建会館等の他
られるが、旧市街の王宮のすぐそばにフエ宮殿美術
博物館はある 。
トウボン川支流河川敷での陶政器の表而採集も
グエン王朝の宮廷で用いられた美手W
,
!
,
7
,や調度品を
行うことができた 。 この問、中部ベトナムの農村や
中心に展示しているこの博物館は、 1
8
4
5年にテ イエ
に
、
南シナ海沿いの村などの民俗調査を適宜、実施し
ウ・チ干~二期に建てられた 2000 ぱほどの迎賓館だった
た。
木造瓦茸きの建物を 1
9
2
3年に改装したものである 。
ダナンでは、チャンパ王国の美術を集めたチャム
彫刻美術館を訪ね、ハン市場やハン川沿いの j
魚労習
俗等の見学もあわせて行った 。
ホーチミンシティに戻った我与は、現在、統一会
ベトナムの朝は非常に早く、
6I
時にもなると人々
は買い物や運動のため│町を歩き出す 。 このためか、
この博物館は朝 7時からオープンしている 。入場料
は 2万 2千ドン(漢字て、は 「
銅」と書く 。約 2
2
0円)
。
写真撮影をする場合 は、別に l米ドルか 1万 ドンを
支払う 。 この写真撮影料を別に支払う方法は、ベト
ナムでは一般的なようであるが、我々のような外国
人は最初からそれを含んだ金額を入場料として払 っ
てしまう場合も多く、気づかないこともあった。
協持、銅鼓、銀の剣、王座、寝台、衣装や靴、ラ
ンプなとマ宮廷の調度品が多く、宮廷楽器や中国・日
本の陶磁器も展示されていた。 また前庭には、銅製
フ工宮殿美術博物館
30 ・人間文化
ベ トナムの博物館
の鈍や銅鍛、 大仰なと の他 に先の戦争の j
l
災事や高射
ε
仰などが置かれていた。
入場料は 2万 ドン(約 2
0
0円)で、 i
W
J71時から 1
m
飴している 。
もともと博物館として設計された建物ではないた
さて、タイルの床、黄色に塗られたコンクリート
め、保管状況は良好とはいいがたいが、極力、ガラ
造りの建物は開放的であるが、逆に風雨の影響を直
スケースを用い、スポッ トライト を使用するなど展
接受けてしまう 。資料も壁や天井に直接埋め込まれ
示効果を上げるための工夫がなされていた。 またベ
トナムの博物館としては珍しくエアコンが設置 され
るなど、それなりの設備も整っていた。
たものが多く、庭にも多くの資料が展ポされている 。
砂れ製だけに資料の保存という意味では疑問が残る
げーで、ある 。ちなみに展示サインは、
が、展示効果は抜 1
この博物館では献金を募っており、「文化泣産の
資料名がベ トナム語、仏語、英訪で記 され、 出土遺
保存のための献金に心より 感謝します」と警かれて
跡名と時代が世紀で示されている 。展示宅は 9のパ
いた。大英博物館を思い出させた。
ートに分かれ、それぞれミーソン、チャキュウ、ピ
(
2)チャム彫刻美術館
ておりチャンパ彫刻のすべての様式が紹介されてい
ンデインといった泣跡名に代表される様式別となっ
ダナンのハン )1
1
1
1
1
干に立つこの美術館は、チャンパ
1
'
1土した主に 71
1紀から 151
1
I紀ま
王国 の遺跡から ,
での右造の彫刻だけを扱う博物加である 。チャンパ
T国を築いた民肢がチャム族である 。
もとはチャンパの研究に力を注いだフランス人ア
る。 またアートギャラリーも設けられている 。
I
J
I
I
sでは、資料主主 J
1
!
iを数人の関係省がわっていた。
破片を l点ずつ黄色のペンキで a記し、重さと寸法
をi
J
!
i
Jっているさまは日本と同様で、あ ったが i
j記され
たこ
ドは、かなり大きめであった。
ンリ・バルマンテイエが、その制作の│努に発見した
このチャンパ巨│
主│
の資料は 、 1
9
9
4年から 9
5年にか
9
1
6年、フランス極東学院
泣物を中心資本│として 、 1
けて『チャンパ正作│の泣跡、と文化』 という日本での
によって設立されたものである 。 その後 、いく つか
巡l
i
l!
.
t
{で利介されたことがある 。 この H
、}に作られた
のコレクションを力J
Iえ1
9
3
9年に T
r式に博物館として
ミーソン泣跡のお.~ ifi~ が展示され、日本誌の図録 "'
発足した。 ?E.もケースもない吹き抜け空間だらけと
もこの T
¥
.
物館で、販売されていた。 Hイ
¥人にも馴染み
いうフランスの植民地スタイルのこの建物は、その
i~lヒいものとなった 。
設立事情をよく 物部っている 。
我々が訪れた n~j 、ハノイ総合大学で、同物館学を学
チャンパ芸術とも 呼 ばれる約 3
0
0点の石造彫刻の
ぶ学生が 100人ばかり凡乍に米ていた 。 附物館学と
多くは砂岩製で、和1像としてあ るいは建物の装飾jに
いうものがベトナムにあり、しかも断!と学の一環か
川 いられたものである 。時代 によ って南イント‘美術、
も
ま1れないが、それを学ぶものが一つの大学で 100
クメール美術、大釆仏教、インドネシア美術などの
人もいるということは、非常に将来のベトナムの歴
影響を受 けており、 6
0
0ぱほ と、の展示室で、彫刻を H
寺
史と文化財の保有、
代別に見ることによって中部ベ トナムの歴史がわか
させてくれた。
d
I
,;:物館にと って頼もしさ を感じ
るといっても過言ではない。
(
3)ホーチミン市歴史博物館
この内物館は、以前、プランシャルド・デ ・ラ ・
L
P物館と呼ばれ、インドシナ・ エチュ ード協
ブロス │
会の協 力で 1
9
2
7年に │
別館した歴!とあ る博物館であ
9
5
6
:
1
1
三からはサイゴン T
I
T
ベトナム同立問物館と
る。 1
名付けられ、アジア各凶の古代美術品を展示してい
たが、 1
9
7
9年にベトナムのためのベトナムの暦史博
物館として生まれ変わ った。
大きく 2つのエ リアに分かれ、第 lエリアは約 3
0
万年前の人類の痕跡から 1
9
3
0年のベトナム共産党の
時代を追って展示している 。 第 2エリア
誕生までを l
は、特にベトナム南部地成の民族と文化、芸術を紹
チャム彫刻美術館
子「している 。
人間文化・ 3
1
ベ トナムの博物館
毎朝 8時から開館しており、料金は 1万ドン(約
1
0
0円)で年斗リ!!f,休である 。
建物はチャム彫刻美術館と同じ黄色に彩色された
瓦茸きコンクリート造りである 。入り口吹き抜けの
ホールには、大きな銅鼓が置かれ、さらに進むと石
器などの資料からはじまる I
時代順の展示になってい
期、李朝、チャン I
:
U
j-j;、らグエン朝へ
る。 フン王建 │
五l
と続き、第 2エリアではチャンパ美術の他、ベトナ
ムとアジアの仏像や少数民族と民具も展示されてい
る。
アジアの陶磁協のコーナーでは、古伊万里もあり、
また 2世紀ごろのメコンデルタの中心であったオケ
海のシルクロード博物館
オ文化の遺跡からは、ローマ皇帝アントニヌス・ピ
ヌスの金貨も出土していることを知った。ベトナム
で発見されている後漢の剣鏡も福 岡県須玖岡本遺跡
のそれと同型式だという 。2000年も前から国際貿易
(
4)海のシルクロード博物館とホイアン歴史博
物館
都市を備えていたベトナムは、侵略する他民族への
ホイアンはダナンの南約 30kmの トウボン )
11河口
罷史であったことをこの博物館で知っ
抵抗と戦争の j
近くの 三角州に築かれた町で、チャンパ王国時代以
た。
7世紀には日本人
来、国際貿易都市として繁栄し、 1
窓から自然光が入る建物ではあったが、資料はほ
町が形成され、 300人とも 1000人以上の日本人が住
とんどガラスケースに納められている 。最近の日本
んでいたともいわれる 。後、華僑の移住によって現
で、は実物の露出展示が一部で、は流行し、あたかも時
在の町並みができあがったためか、この古い町並み
代の先取りのように言われることもあるが、円本で
は中国南部の色合いが濃い 口
、
は、あるいはアジアではこうした学術資料や美術品
この古い町並み自身が一種の博物館であり、点在
に手を触れないという道徳あるいは慣習が浸透して
する歴史的建造物群や海のシルクロード博物館 (
貿
いない。 ヨーロ ッパの博物館をいくつか見ていると
易陶磁博物館)、ホイアン歴史時物館などの入場券
よくわかる 。手を触れているのはたいてい日本をは
は、間]に 4個所あるチケットセンターで購入する 。
じめとする東洋人で、注意するのは欧米人の見学者
チケットは 4枚綴りになっており、料金は 5万ドン
である 。筆者は、今の日本の博物館では、貴 重な資
(
約5
0
0円)である 。
本│は当然のようにケース越しに観察すべきだと考え
る。話が横道にそれたようである 。
海のシルクロード博物館は、 1
9
9
5年 9月に開館し
たもので、ベランダ付きの 2階建て木造建物を利用
している 。周辺で発摘された沈没船から引き上げら
れた陶磁綜を中心に約 1
0
0点が展示され、古伊万里
やペルシャの土器を見ることができる 。 また、ホイ
アン歴史博物館は、チャンパ王国の時代からベトナ
ム戦争中部攻~}j li~ の拠点で、あったホイアンの 町の歴
史が紹介されている小さな 1
専物館である 。 これらの
博物館は、共に朝 7時から開館しており、町全体が
博物館の一部である 。
ホーチミ ン市歴史博物館
32 ・人間文化
ベ トナムの博物館
3
I
J
¥
結
見せたいという欲求と見たいという要求があ って
L
P物館として成り 立っ と思 う学芸 1
1と
こそ、本米の I
しての今 日この頃であるが、ベ トナムの博物館はど
注
(
1
) i[(校豊、桃木宅印j
縦 『チャンパ II
玉│の遺跡と
文化』財団法人トヨタ財団
1
9
9
4
(
2)錦池誠一「 ホイアン日本 1
1
可の調交と博物館建設」
れもこれもそうした欲求 と要求が感じられる、 言い
r
J
J
刊文化財 発掘 1
¥1
1
こ情報.1 1
95号
換えるならば、あるべくしてそこに博物館がある 。
イアンの建物併の保存と博物館建設、│
二
l
本町の
もちろん資料の保存のための設備や施設といった点
では、まだまだこれからであるが、それとてルーブ
ルや大
*t
専物館も l
守慢できたものでないことは係か
である。それはベトナム自身のこれからの課題であ
るが、現代のベトナムは、こうした 1専物館も I~q づく
りには 必要なんだという熱意が感じられる 。 いづこ
もこうした過私lを経るものなのだろうし、日本もそ
うした時代 はあ ったのだろう 。
博物館を作るという発案と命令が最初にある H木
の現状を見るとき、ある意味ではうらやましくもあ
る。 ホイアンの 町全体が丸ごと時物館で、実│
僚にそ
1
998に、ホ
発品I
1の現状がまとめられている 。
EI
王│の遺跡群をはじめとするベ
その他、チャンパー
トナム彩古学に │
刻するもので、日本誌で脅かれた入
手しやすい主な文献には下記のものがある 。
チャン ・キイ ・フォン、重枝
海に向か つて立つ j述合 出版
電枝
些 『チャンパ追跡
1
9
9
7
並 「チャンパが危ないーベ トナム最新文化
r
財事情 J おもしろアジア考古学J迎合 山版
1
997
場i
1
:
1
1
~栄治他『東 It,j アジアの考古学: j ml
l
:
wの考古
学 J8) 同成社 1
9
9
8
山形民理子 12-3W
紀の国家様相について
ベ
こに多くの人が平和l
に暮らしている様子を見るとき
トナム 1
1
'
-部 JW1
i
主新海外考占学事情 E アジア編 J
にはなおさらであ った。
(
WJ
l
l
i
J文化財発掘 t
Ul
こ情報 J増刊号
1
9
97
人間文化・
33
アジア考古学研究機構調査報告
1 ベトナム編
ベトナムの城と都市
中井
均
米原町教育委員会
滋賀県立大学大学院人間文化学部考現学 ・保存修景論部門
ジアのエネルギーを大いに感じさせてくれた。
はじめに
ところでサイゴン (
現ホーチミン市 、以下同じ)
私たちアジア考古学研究機構は今回の旅行で、い
が城塞都市であ ったことは立外に主1
1
られていない。
くつかの城容を見学する機会に恵まれた。 日本では
メコンデルタは扶 l
!iiの昔から クメール人の土地で
ヨー ロッパの城に比べて馴染みの滞いベトナムの城
71
1
1
:
紀になるとベトナム人が東部に
あった。 しかし 1
塞についてが{
介してみたい。
移住を始め、次第にカンボジア人を追い出し、つい
2 嘉定省城(サイゴン城)
禁制が、その統治のために嘉A: を設置した。
6
9
8年にコーチシナを併呑してしまった。そして
に1
l
n
ホーチミン市は総督府を r
l
'心l
こ放射状に街路が整
サイゴンの地│
記│
で城が認められるのは 1
8
世紀後半
然と走る都 d
J
であり、フランス統治時代に都市計画
からである 。それによると市街の 1
'
-'央に稜壁式の城
がなされたことがよくわかる 。植民地住宅があちこ
があり、サイゴン 川に面して小鋭棋な稜壁が対にな
ちに残 っており、東洋のプチパリと称されている 。
からの侵入に対するもので、
あろ
って築かれている 。J
lI
d
i街は共和 1
1
r
q
のドイモイ政策と、サイゴン建都 3
0
0
7世紀にフラン
う。当然であるがこの稜霊式築城とは 1
年の年にあたり、人と l
回以で、
ご、ったがえしておりア
スで考案されたものであり、 F
I,
;
j
s
:
で
も1
9世紀に n稜事1
1
や龍岡城で採川 されているのは御存知のことと思う 。
広南院氏一族である庇編映 (
後の嘉隆帝)が、阿
山党の乱を制 E
I
二してベトナムを統ーしたのは、 1
8
0
2
年のことである 。福映は順化 (
フエ)に首都を定め、
一
台
交
r封を乞い、越南住l
モに封ぜられた。
百九年には清に m
ι。均一唯一μ一
こうした動乱 l
J
]
)に院氏はフランスの宣教師や傭兵
)
J
)
Jを求めたため、その後のフランス進 /
1
¥
を;午す
にD
こととなった。ベトナムにおける後径の出現の背景
といえよう 。
城│
付は方形に │
亙l
i
l
i
j
されており、縦城部分が綾坐式
になっていることがわかる 。つまり院引が中国文化
'
If
l
i
lの都城制度を採
の信奉者であり、城内の構造に '
J
I
Jし、城壁そのものはフランスの殺傷:を採用したの
図 1 嘉定省械平面図(参考文献(
1
)
による)
。問
L
。
が嘉定省城であ った。 これは首都JijtI化も同様である。
。
ぐ
なお、サイゴンには稜壁式の指定省城の北il!I
J
、サ
イコ、ン川へ西からそそぐ支流沿いに城壁がめぐらさ
れていた。関聞をよよると馬面の突出する城壁で、明
らかに中同の城塞都市と同じ ものである 。 この城崎
の内部こそがサイコ、ン市街だ ったのである 。
1
9世紀の地図にはこの嘉定省城の稜俵の北東側に
重なるように新たに四稜草1
1
が築かれている 。
1
8
5
8年、ナポレオン 三世はスペインと述合してベ
トナムへの侵攻を │
刻始する 。 当初夕、
ナンの占領を 言│
聞したが疫病に妨げられたフランス軍は、翌年サイ
ゴンを陥落させこれを拠点とした 。 この段階で }}~í主
省城を破壊し、新たにその一附に l
山稜手1
1
を築いたの
であろう 。 1
8
6
1
"
1
ょには嘉定省城がほぼ埋められてし
8
6
3年のサイゴンの地関では完全 に埋もれて
まい、 1
しまい市街地とな っ ている 。
さらに山稜郭 I~I 体も
1880年の地図では完全に姿を消しており、 1905::1~ の
図2
34 ・人 間 文 化
地図では旧嘉定符城の西方に設置されたフランス の
ベトナムの城と都市
インドシナ総督府に 11
S
!
l
i
心が移 っており、新たな者I
計画がなされていたことがわかる 。 こうした 1
9世紀
0世紀初頭のサイゴンの状況はベトナムの近
末から 2
代史そのものを現している 。
1
8
5
9
,11
:
:にサイゴンを陥したフランスは 1
8
6
2年には
l
l
→併を手
第 l次サイゴン条約でサイゴンを合む"f;j('i
海雲関
に入れた 。 仏 領 コ ー チ シ ナ の 成 立 で あ る 。 さらに
1883:>1ム にベトナムはフランスの i~~ 設同となり、 1 887
'
jには1
ヒ郊の卜ンキン、
91点1
1
のアンナン、カンボジ
アを合めて、ついに仏領のインドシナ連邦となった 。
京定作城の解体、 I
L
L
I稜事1
1
の築城、 I
fJヰイ',j¥さらには総
作府の建設という流れにこうした阪史が立1尖にぶさ
れている 。
残念ながらこうした激動の近代!とを物耐ってくれ
る京定省城や I
江│
絞主I
1
の民跡は地 Lに一 切伐されてい
ない 。現在の市街のサイゴン大教会付近がが定符城、
ホーチミン作i
i
攻防物館付近が l
jLj稜邦の i
,
!
:
i
nしていた
ところである 。
3 海雲閣 (1¥イヴ.アン峠砦)
ベトナムの行都ハノイとサイゴンを結ぶ l
十]北に縦
1
1する迫路が同道 lU線である 。 サイゴンを北上す
ると、やがて 山地 がせまってくる 。ベトナムを縦断
するチュオンソン I
1I
J
I
Fcである 。 I
jl自1
1
に苛てると海岸線
近くまでこの 山 脈が追ってくる 。 IjJ 古11~,(: k の者1I r
l
iダ
ナンを過ぎると 1日紋は急な 1
1
1i
l
lとなる 。 これがハ
イヴァン峠である 。全長約 2
0
k
m、標高 600mの峠で、
市部と北部を結ぶ "
l
i
:・
j
i的要衝の J
也である 。 ベトナム
訊でハイは潟、ヴァンは雲を必床している 。 この 1
1
;
を守備するために築かれたのが海雲関である 。
I
U
f
j
i
iが1
1
干のピークで S'j<カーブとなる東側尾根
の先端に)J7I~ のレンガ造りの-:Jr什査が築かれている 。
一層日はアーチ門となり、
0
~. .=
'1
百には銃1
1
艮が設け
3Qm
図3 毎雲関概要図
られている 。砦というよりはむしろ道路を 1
1
2悦する
l
j
関所的な施設だ ったのだろう 。 アーチ門の卜今に "
[i
雲院J1
Y
J命 i
Z干
i
TJのイ l傾が は め こ ま れ て お り 、 こ の :
の第 て代息'存i
明命 (ミンマン ) ~行 0820
陪楼が│
況似l
~40{Ei立 ) の時代に築かれたものであることがわか
る。
士
宅I
f
i.
J
1
.
:
の
束
、
J
ヒi
!
l
J
Iには石以がめぐらされている 。
ハイヴァン 1
1
f-の取要性はその後も変わらず、│り]命
併の築いた 三層般の京世 !
J
Iにはコンクリート製の建築
物が数棟残されているが、これらは 1
9
4
5年以後のフ
S
'Y:カーフの対 j、
ド IU線の州 1
l
!
1
J
にはこうし
た治安 I
"
Y
i
Jと刈になる形で I
I
I
J
J
削こ八角形のベトン製の
峠の
トーチカが伐されている 。 1945 ~ 54 年にフランス軍
が築いたものである 。
mイ1-.は観光地ハイヴ ァン峠の
休息所となっており 、かつての銃 1民にはビールやジ
ユースの i
l
i
'が
、
,i
f
;んでいる 。
今ー度、
1号線の束 1
l
!
1
J
、海雲間 )
j
l而へ日を転じて
i
J侵略した│僚に築いたものである 。 なお I
Y
J
ランスが f
みると、 三 わ'II~ の築かれた尾根 1-. ~こ点々とベトン製
命子古の iilj 主|刻は 1940 ~41~' にベトナムに進 WI:した"
のトーチカが伐されている 。 1954 ~ 75 年のベトナム戦
本市も使川したという 。
争l
I にアメリカ ・I
t
,
j
ベトナム政府平が築いたものである。
r
.
人間文化 ・ 35
ベ トナムの城と都市
現在、中古1
¥
ベ トナム随一の観光地ハイヴァン峠は
i
攻
守lに
その絶景とはうらはらに、抗朝以後ベトナム j
至るまでベ トナム最大の軍事的要衝の地であ り、こ
のU
I
宇を防御するために幾多の防御施設が築かれたの
である 。
4
慎化城(フ工城)
1
中部ベトナムに位置す るフエ (
J
I1l
'
i
化)はベトナム
の景福宮勤正殿前の石畳とまったく同じである 。平
の市郎で、 U木の京都に 相当するとい ったところ 。
城宮や平安宮の大極殿前庭にもあったはずのもので
王争;
や廃代皇帝陵は世界文化遺産とな っている 。
ある 。中華世界の*限に日本が位置するならば、ベ
後君主 t;羽は 1!!ri j'ì~ な 王が続き、諸 {民の抗争が絶 えず 、
トナムはその南 │
浪であることを太和殿前庭の石柱に
1
6世紀のベトナムは混乱が続いた。君主朝の後 j
乱を f
1
.
t
大きく感じた。
4
ました院 j
金は l
r
'
1
玉l
の支持する英氏と政権を 争った 。
金の死後娘附の鄭検が数 1仰の実権を握ると、院訟
阪i
の子、阪 1
f
tは 1
5
5
8
年、フエに赴き、この地の鋲守と
他は現在きれいに整地されて、建物はほとんど残さ
内城には顕臨 │
刻
、 長生殿などが残されているが、
れていない。ベ トナム戦争によって破壊されてしま
7世紀のベトナムはハノイの鄭氏、フエの
なった。 1
9
6
8年に解放戦線のテト攻勢があ
ったからである 。 1
院氏、中国因坊カオパンに拠る莫氏という動乱の H
奇
った。 フエの攻防戦で、ある 。当時、 新聞にフエの地
代を迎えた。 フエはこの l
時より以来の玩氏の都減と
l
r
ったのもその
名が連日載せられた 。筆者がフエを ま
なる 。 この院氏は広南院氏と呼ばれている 。
時である 。 このテト攻勢によって王宮の大半は失わ
1
7
7
1年、タイソン (
西iJl
) で院三兄弟の反乱がお
こった。 この機に釆じて鄭氏は兵を南下させフエを
J
:
城門ヒエンニャン門にはおび
れた。 また内城の束似I
]
{
j
i痕が残されている 。
ただしい I
|治法させた 。 1774年のことである 。三 兄弟は征 HI~ し
今回のベトナム行の最大の目的のひとつはこの院
た土地を 三分し院文岳はクイニョンに拠って c
l
'央皇
朝の王宮の見学であった。 しかし筆者には秘かにも
帝を名のり、脱文恵はフエにあって北平王を名のり、
うひとつの目的があった。それは、フエの外郭ライ
院文品はサイゴンを支配して束定王と称した。
ンを見ることである 。 フエの地名は中学生の時にベ
広病院氏最後の王、院栢淳(定王)の甥、院栢 l
決
トナム戦争の戦場の名として知った。その直後だ‘っ
はフランス人宣教師や仏It兵を援助に西山党と 1淡い、
たと記憶するが、フエの空中写真の掲載された本を
ついに 1
8
0
2年ベトナムを統ー した。 自らは嘉隆 (
ザ
見たのだが、そこには稜壁に守られたフエの町が鮮
ローン )帝と称し、首都をフエに定めた。 これが院
やかに写されていた。 この稜笠を確認することが筆
朝のはじまりで、 1
3代 1
4
3年問にわたって続いた 。
者の最大の目 的であった。
t
i明に刊J
t
封を乞い、越 F
I
J国土
E
玩例初代の嘉隆帝は i
に封ぜられた。 2代皇帝 1
9
1命帝は嘉 1I
'
l国
圭帝以上の r
王宮の南にはフォン 川が流れており、フエ市街は
さらにこのフォン川から掘削された 3k
m四方の堀に
文化の信奉者で、科挙の i
l
j
J
を設けて宵吏採用の集権
よって囲まれている 。 この外婦のすぐ内側に 24の稜
化をはかったり、地方行政においても清朝の制度を
壁を突 出させた痢と城壁が築かれている 。南面の中
唯一 「中華 附界」の一員とな
まねた 。東南アジアで l
央はフラッグタワーと呼ばれ、赤地に黄色の星を染
った凶家であった。
めぬいた巨大なベトナム国旗がはためいており、フ
その首都フエに王宮が整えられたのは、嘉隆、明
エの観光地となっている 。 しかしそこには砲座が見
命雨情の時代である 。 フォン川の北岸に内掘を方形
事に残されて おり、南方正面に向けられた稜壁であ
にめぐらせた王宮は中華凶界の一員の王宮にふさわ
ることがわかる。
しく、清朝の紫禁城をそのまままねて造られている。
さらにこの稜室の東北隅には鋲平台と呼ばれる独
1
'
ニ門は王宮の正門で、石塁上に二層楼が設けられ
立した稜盤式の要塞が築かれている 。 こうした稜壁
寺にの
ている 。門口は 3つあり、中央が皇帝の外出 H
に守られた内部には、阪朝の行政機関が方形区画内
み使用された 。 この午門の正面に太平n
殿が配されて
村城が大極殿院と内裏に相当する
に林立していた 。 l
いる 。太和殿の正面石畳は 三段になっており、左右
区画ならば、稜室内はまさに宮城に相当する 。
に正一品以下の位階を示す石柱が並んで、いる 。韓国
3
6 ・人間文化
j
V
Jの制度をまね、皇帝の居所であ
院朝が忠実に清 !
ベ トナムの城と都市
順化城の外郭稜室
jでその
る王宮もそれにならったわけであるが、 -)
王'8を守る外城壁にはフランスの後室を導入してい
た。 フエの王常は、その 形態そ のものが院朝成立の
図4 順化城平面図(参考文献(
2
)
による)
背景一を表現し ているのである 。
ところで、フエの郊外にはめ山l
歴代皇帝の陵が点
在している 。 IljJ 命 ~iJ; 波、嗣徳(トゥドゥック)常陵、
I
l
i
J度(ドンカイン) ~t: 陵は !守然と調平11
し、別荘の!ぷ
がある。いずれの'iii
I
;
¥
変も陵墓 I
j
i
i庭 の左右に文行 、武
j
の築城を考えるうえで実に興味深い。
ぶ!り
U本では 1
6世紀末に織並政権が築いた織豊系城事¥
1
が全 1
1
;1
に波及し、以後の近世城郭の飢範となったの
将や象、馬などの石人、石馬が扱んでおり、ここに
は同 ~II のお実である 。 ij良国時代の権力足、地域差を
2代啓定 (カイ
も中華世界を 見 ることができる 。 第 1
克服し、いわば全国、│
つ
句化した わけで、ある 。東南ア
デン)帝!
凌は 他 の
主
i
'
I
'
i
:
I
¥
変 とは越がまったく異質であ
隔では
ジアにおける稜盤式築城は、 ヨーロ ッパの佼 l
る。小高 い丘の斜 1
mに築かれ たゆjは凶欧風(疑洋服)
あったが、築城において │
止
界平均化に 注したわけで
でありながら、ベ トナムの伝統的 な株式を守ってお
床において、ベトナム や H本が独
ある 。 そうした立 l
ヰ定帝のフランス
り
、 何とも不忠 議な建築である 。 I
│
守の )
Jで
、
討 しl
り:界的 築城をおこなった 点は
,
i
'
/
サ1
iされよう 。
かぶれを具現化 した闘ではあるが、前妊にはイ l人イ i
¥
や混同城が1ft'];:的必要性 にか
さらに 1
1本の五稜主 1
,I.!~が並んでおり 、 その様底には '1, 11'i: -1止界が存在する 。
られて築城されたのに 比べ、嘉定省城や l
i
l
f
i化城では、
しかもその建設が 1920 ~31 年であり、
位界 で最後ま
'
1
<,
'
,
代
か らの者1
¥
城市J
Iを引き継 ぎながら、外壁に稜
中1
で'
1
"*思想、を持 ちつづけたのは ベ トナムだ ったのだ
坐を採用した点は呉彩を放っている 。 *アジ アの伝
統的都 "T~素と、ヨーロ 7 パの近|仕的行1\市要素が同
と感心させ られる帝│
凌である 。
肘しているのである 。
5 おわりに
このように、ベトナムの城郭にはベトナムの歴史
1
7世紀にフランスのヴオーバンによって考案され
そのものが刻み込まれている とい って も過言 ではな
た稜宣言式築城は、その後、ヨーロッパ築城の主流と
いだろう 。今 回の踏イヰで、 城郭という '
;
[
1事的施設が
なり、ヨーロッパ各 地に残 されている 。 さらには 北
の暦史や民政性を考えるヒで、
その │
五l
アメリカやカリフ'
i
i
l
j周辺、東南アジアにも数多く伐
遺産で、ある ことを痛感させられた 。今後も機会があ
i
l
t重な歴 史的
る!
立に、アジア各地に伐された城主 I
¥
i
l
l跡についてが{
っている 。
*南アジアにおいては、バタヴィア (ジャカ ルタ )、
介していきたい 。
マラッカ、ペナン、マニラ、介 │
十
!なとにオランダ、
1
ポ ル ト ガ ル 、 イ ギ リ ス 、 ス ペ イ ン が 後 壁 式 の 城 主¥
参考文献
(
必2J;)を築城している 。 これ らはヨー ロ ッパ諸 │
正
│
が梢民地支配の約
i
l
l設と
段階として, '
,領地の石川 i
"
1
日
時 に行ったものである。
ところが、京定符城や順化 城 はベトナム│引が '
11
ら築城した稜倦式城主¥
1で
、
あ
り
、
十
i
!
i
;
;
'
iI
'
1
句には他の点 l
十
j
アジアの稜壁と│日l
じであるが、その築城主 1
4'はヨー
ロッパではなかったのである 。 そうした築城 7
T対は
1
1
4
:の五稜郭やi
f
l
i
l
i
f
;j城と同じ であり、アジアの近 1
会
(1)
TU' LIEU,
HINHANHr
SAIGONGIAD
INH.
l
l9
9
7
(
2)
DIA DANH f
LA CITADELLE DE HUE
I
.
(
計
上1
'
)
1
丹I
l
j
J'
;
訂
正 『
脱却Jア ジ ア ヴ ェ トナム J アジ
ア文化交流協会 1
9
9
8
(
1)
,
()
1
'
米維 ・桜
)
l
-l
rl
身jh
J
!r
東南ア ジア 1
1
ト界の形成 j
講談社 1
9
8
5
(5)力1111束十点 ~ r アジアの 行 I\ "J と建築 J 1
m(
.
¥1"
版会 1
9
8
6
人間文化 ・
3ワ
アジア考古学研究機構調査報告 1 ベトナム編
ベトナムの食文化と宗教世界
植
田 文雄
能登川町埋蔵文化財センター
はじめに
ベトナムは南北に長い│五│
土で、 北部と r
l
'郎、南部
で気候の述いがみられ、北部では緩やかな問季があ
るが、南部では雨期と乾季にわかれる亜熱情の気候
である 。1
'哨1
¥
は両者の I
'
'
I
:
U的特徴を示し、いずれに
しろ熱'lif モンスーン気候のため ,',~~?Jdl多雨である 。 そ
のためこの l
il
の民業は、年 31
'
1
1
も収穫できる稲の 3
期作であるという 。道路の),'j
l
!
J
では集性│で手作業の
!
J
J
I
では田植えlII
J
の代かき
刈り取りをしており、反対 j
をしている、そんな光誌が随所で 兄 られた。北部で
は中国に抜する高原地布からホン川が、南部では
牛耕風景(フ工近郊)
けL龍」 と称して荒れ狂う能にたとえられたメコン
川がそれぞれ南シナ海に流れ、 J
ムー大なデルタ地千日・を
は、
形成している 。 この国は、気候 ・地勢 ともまさに稲
ところであった 。 カラスキは、 H本ではもう
作に最適の裁合地帯である 。
でしか Hにすることのできなくなった民兵である 。
私 た ち イ Jは、これらのデルタ地帯ではな く巾部
の比較的狭い、ド野部の農村地 ;;'i~: を調査した 。 そこで
Jl~j,とが水工| の )j L を叩いてカラスキで畝をたてる
また、稲モミはコザにひろげて乾燥させ、
w物館
1
見穀後の
、
畑l
力選別に由党(マイ ・サイ ・ルァ)も使用してい
見た風景がまず思い起こさせたものは、 1
1
.
Y7
jを山地
る。 円本でトラクターを使う耕起は、この国では長
に|剖まれ、 '1' 火に琵琶湖を抱えた近江盆地の HI I~tl 風
い柄のクワを振り下ろす、人海戦術でお こな われる 。
足であった 。
また、水 i
lの段富な河川や汽水iM
J
では、内水面漁
ちなみにベ トナム の 1
9
9
3年度の トラクタ 一保布台数
は
、
3万 7千台と
u本の 2%にも i
前たない
2
。 問坊
業が感んにおこなわれていた。ベトナム料理!の兵'百
はほとんど臼然地形に近いままで、機械化 は全くと
頂は、調味料ニョク・マムに代表される然知の発酵
いってよいほと進んでいない。ベ トナ ムでは、人々
食品で、あるのは多くが知 l
るところであり、近 7
1
:
のフ
の勤勉 さにより大きな米生産を支えているのであ
ナズシとの近縁性も認められる 。そ こで、 報伶の一
る。
編として、米と魚を中心としたベ トナ ムの食文化と、
ベトナムの;j<:はインデイカ米である 。 この国では
Lj~ I
主にかかわる民俗、さらに背後に横たわる宗教世
ー
米をそのまま食べることよりも、いったん粉に加 T
界について考察したい。
することの方が多い。 フエのドンパ市場では、米粉
2 山野の生産力
を3
0
c
m程度 のブ ロ ックにして売る山を 見かけ たし、
l
i
J
行ガイドのクオン氏の説明では、コメと水とを l
,
j
J
H
寺に石臼に入れてドロドロになった白い液体を、さ
(
1
)稲作と米の加工
ベトナムは米の国である 。総務庁統計川発行の
fl
世界の統,;j" j によると、 1
9
9
5'0ド現在のベトナムの
耕地面航は 675万 7千ヘクタール。 同土の約 2
1
%に
あたり、総 f
I
f
i
f
i
'
tのやや!よい 1本でも 337万 8千ヘク
1
ーの約 9%に過ぎない。農家人1"
1
の総人
タール、│五1
口に対する '
;
I
;
J
I
合 は、日本の 5
.
3
%に対し、 6
8
.
9%を i片
らに加工するという 。 コイ・サイ ・ダと呼ばれるイ 7
1
:1
は円本でも使川していた凹転式のもので、 n
'
(径 7
0
c
mで、柄のついた I
'
Jし、阿 '
1
反体と、[1'(径 1 mの F
Iででき
ていて、臼には液状化した白い;j<:粉を落とす片 1
1が
ついている 。
さて、米粉の次の加工は単純に分けて 二 とおりあ
る。 まずーっはまさにビーフンのように麺にするこ
めている 。 また米の生産 1
1
1は 1
9
9
6年で 2
,
6
3
0万トン
とである 。ベトナムの人々はこの趨が好きで、制1、
し
にのぼり、 1本の 2倍以上もあって世界第 5位を誇
ものは中華風のビーフンとして、太麺のものはフォ
っている 。 そしてこの国では、生産された米の半分
ー というこの l
玉│独特 のうどんにii!
MJ
I
j
!
す
る 。 また、",
立)、貴重な外貨を稼ぎ I
H
近くを輸:1¥し(世界第 3f
:
1
]
1ぐらいの太さの麺をメンと呼び、やはりフォーの
している 。
しかし、私たちが一書以初に日にした良作業風景
38 ・人間文化
ように食す。フォーは地方や 町
│ 、また!古によ って味
付けが異なるが、 北部よりも商白¥
1ホーチミン r
l
iの )j
ベ トナムの食文化と宗教世界
が美味しいという 。 フォ ー もメンも鳥ガラでとった
ドングリや トチノキの製粉にも言及している。ここ
i
坊口ス ープに、ニョク ・マムなとョのマムで味付けさ
1
工正j
器を調べてきた筆者の触
に、純文時代の食料力1
J
家│勾またはカシワのスライスし
れている 。具は牛か J
手が刺激されたのは、 言 うまでもない。 フォーもラ
たもの、たっぷりの香 l
床野菜(ハーブ)、赤府辛子
イスペーパーもシトギの一種なのだ。
などであるが、日本のトク夕、ミのような香草はこの
辛い食べ物 にとてもよくあっていた。 また、バナナ
の花の刻んだものも 一風変わった添え物だった。 こ
(
2)畑作と森の生産物
私たちの見た国道
i
nいの農村はいわゆる散村で、
1杯 5千ドン (
6
0円)で食せ、
屋
敷
:
J
:
l
J
I
にバナナやココヤシの木が思い思いに植えら
働き者のベトナム人の胃袋を満たしているのだっ
れていた。全般に畑作も熱心で、クルージングをし
れらメン、フォーは
たフォン川べりのやせた M川敷で、も、
f
こ。
もう 一つの食べ方は、
ドロドロの米粉を薄くのば
して乾燥させた、南部でパン・チャン 、北部で、パイ
トウモロコシ
がつくられていたほどである 。
世界文化逃産に登録されているグェン朝の王廟
乎ばれるライス ・ペーパーである 。 直径 3
0
ン ・ダと H
は、フエ郊外の 山r
u
:百1
I
に点在している 。 7
1
7
々とした
cmの円形で、和紙のように薄くのばしたものを似に
業身の大きい常緑樹林の中を行くと、人[的に聞か
貼りつけて乾燥させ、 これがレストランでは 1
0
0枚
れた宅 I~q 地があ っ て、
ほとも見ミになって I
Uてくるのである 。 このライス ・
幹!
日
L
の若木が何十本も N
i林されている 。 │
二
l
位の人工
ペーパーに豚肉などの肉類またはエビなどと、レタ
林である 。仏教団であるこの国では線径を多く生産
スや各種の香 1
1
Tを春巻きのように巻いて食すパイ
し、その呑木として (
1位を珍重しているのだ。
1'1 然林とは flj J らかに違う FI い
ン ・チャン・グンは絶品である 。 もちろんつけダレ
私たちは 4つの 主!闘を訪ねたが、どこも静;夜な深
はニョクマムである 。 このほか、ライス・ペーパー
い森の 1
'
.
'
に沈んでいた。 このうちの一つドウンカイ
を煎餅のように焼いて食べる方法もある 。
ン%~刷へは、 111 を降りて赤茶けた山道を分け入って
以上の食べ方が一般的ではあるが、筆者が特に注
立をひかれたのは、これらとは別のモチ米を液状米
いく 。道沿し、に民家があ って、隣地の林を伐 1
日し知1I
1
'.1側にはタ
にしている 。畑の周回には白檀の本が、 )
粉にして蒸した、モチのような食べ物である 。直符
ピオカとさらに 「チャー 」 と呼ばれるお茶の木が槌
5cmほどの小Jllの中に薄くモチ仰l
が蒸され、その l
えられていた 。その葉は日本のものの:倍もある大
に乾燥エピをのせたパイン ・ベオや、バナナの来に
きさだ。 タピオカは、ジャ力イモのような地
F茎作
くるんで蒸したパイン・ラーは、 一見しておやつの
物である 。後日クオン氏の計らいでタピオカを食し
ようなものである 。 円本でいうと、パイン ・ベオは
たが、 l
床は廿みの少ないサツマイモの級なものだ‘ っ
和11餓のシ トギ餅であり、パイン ・ラーはチマキであ
た。
1俄であることから、ベ
る。 日本のチマキも本来はネ1
I熱布雨林の森は、豊かなフル ー ツをふんだ
また '
トナムのこれらはネ1
1型な食べ物だ ったのだろう 。出
l
1
'
,
す。一番最初に 1
1
がとま ったものは、こ
んに生み 1
同の千l
t
事として名高いオコナイで飢iられる繭玉も、
の│
可でミ ッとl
呼ばれ、英語ではジヤ ツク・フルーツ
典型的なシトギである 。
中尾佐助はアジアにおける!!
明葉樹林文化の共通項
.
1
"で、シ トギについて触れている ) シ
を解説する 1
'
1地
トギは本来ウルチ米を加工したもので、その発を中国南西音1
1
に恕定し、照葉樹林;
市を中心として!ム
くアジア各国に分布している 。 もちろんベトナムの
あるイン ドシナ半島は照葉樹林;(げではないが、 7
に化
;
;
:
2
1
J
平としての I
I
s葉樹林文化 は受作しているのだろ
う。 しかもシトギは!!託業樹林文化 ;
i
?では神前 {
j
b物で
あることが多い。 また日本語の 「シトギ 」 は、古代
'
:
U
J鮮語で 一致する数少ない例であるとも述べてい
1
:
1
る。 さらに 1
尾はシトギをつくる技術論的背景に、
アワなどの祁殺のほか、 i
!
*
1源 f
内な力1
1て対象物として
タピオ力畑(フ工近郊)
人間文化・
3
9
ベ トナムの食文化と宗教世界
といわれる 4
0-5
0
cmもある大きな果実だ。泰 1
1
1木の
リやバナナを栽析することを農耕とみることに、い
ようなす っ くとした太い幹から声援生えだしたよう
まだ筆者は賛同できない。いずれにしろ、
ドングリ
に、薄緑のラグビーボール状の笑がブラブラとぶら
の実験食と同じl
ぷいで食したバナナの│床は格別だ っ
下がるさまは異様である 。 これがこの固では、どこ
た。 ちなみに小型で、 2
0本余りの ー房が 5千ドン
でも生えているのである 。「 ミッ 」 は漢字では 「
波
(
6
0円)だった。
羅蜜 」
と表記される 。「 摩 ~lIr 般若波羅蜜一… 」
と般
若心経でうたわれるあの波f,i
U6:である 。広静先をひ
3 漁業と水辺のく 5し
くと 「泥繋の境地を究める j
判定行」 とある 。経典
「阿弥陀経」 に延々と唱われるあの世の様は、とて
(1)内水面漁業
つもなく 美 しく、一年中美味しい果物が食べられる
肥沃なデルタを形成する河川や湖沼 では、民家の
米国だと仏説にきくが、 中 l
i
l
l
から見た南の楽図がベ
日常に内水面漁業が力1わっているようであった。 ミ
トナムだ、 ったとしたら納得のいくところである 。 こ
ッやバナナなどの屋敷林に閉まれたとある炭.家で
の実 は淡黄色で、│床は甘みのとても濃い強烈な印象
は、前面の 川に、近江で言えばカワトのような│経り
のフルーツであった。
口があって、老婆が野菜を i
先っていた。そして、そ
またどこの市場でも、あふれんばかりの果物の山
の川岸には竹竿を長くのばした山手綱がしつらえて
に何度もJflJmできる 。マンゴーはもちろんライチに
あったのだ。竹竿の長さは 8m、 1
!lI手綱の大きさは
{以たロンガン (
龍眼)、キウイのようなタンロンな
l辺およそ 5 mくらいか。
ど、どれも完熟で売られている 。巾でもバナナは格
また別の汽水湖では、岸から少し自t
!
れた所に敷網
別で、青いうちに収穫されて流通の過程で皮変する
が仕掛けられてあった 。 それは 5~ の竹竿に張られ
日本のバナナとは、およそ極類の異なる食べ物であ
て引き上げられた状態のものであ ったが、形態から、
pl
子;で、市場では果物屋とは別に何種類
る。種矧も l
水底に下ろした風呂敷状の網に、魚の 「
乗り 」 をみ
ものパナナを 吊 したバナナ専門屋があったほどであ
てタイミング良く引き上げる漁法をとるものと想像
る。 この同で、はバナナは別格の果物なのかとさえ思
できた 。
えた。
琵琶湖の漁法との共通性が見いだせたことは、大変
Iは代表作 『
栽培柄物と農耕の起源 '
jの
中尾佐島J
内水而域のいわゆる待ち網式 ~, の漁法に、
~~I床深いものだった 。
なかで、最も原初的な農耕がヤムイモなどの様栽農
さらにこの湖では、エピ釣り用に直径 2mほどの
耕であり、さらにこれ以前に野生植物の栽培化の始
お抗舟が浮かんでいた。 これは、竹で編んだ能にコ
まりがマレ一半島のバナナであったと述べている 。
奈ならぼさながら 巨
ルタールを塗り込めたもので、 i
世界の農耕はバナナから始まった、ということなの
大な箆 J
!
台漆器といえるものである 。
だろうか。
n
本の縄文時代でいえば「野生植物の高
羊
f
.
i
,
l
,
で、はマグロ ・カ
さて、市場で・見た魚類は 、外 i
度利用 」 ということか。三 内丸山遺跡の発見以後、
ツオ ・サワラなどで、大型魚は古 f
i
f
立別に切り売りさ
わが国では純文農耕論が息を吹き返しているが、ク
れていた 。 近海f.~I,で最も多く売られていたのはトビ
果物屋(タナン)
四手網
40 ・人間文化
ベトナムの食文化と宗教世界
~
,--,---¥、ヘ/¥
「 ‘ 、 - - u、
J
持明野性問
'
"
略
.
.
I
C
、
ー
-
汽水湖の敷網(夕、ナン近郊)
ウオ、ニョク・マムの材料となるイワシ類、淡水魚
ではコイ・ナマズなどである 。野菜や果物とは鋭な
1
1
立ごとに.!J
]
.
I
"
]
)丙化していた。
り、魚類は種別または古1
f
釘
!
野菜 ・果物には流通の過程に問屋があ って、多 '
f
i
T
の商品を置くことができるが、魚介頒は小売応と漁
師との間で直接流通しているか、あるいは漁師が1'1
図1
家売りしているのだろう 。余談ではあるが、ある魚
屋のトロ絡に身ぐるみはがされたイヌが転がってい
るのには驚いた。 q
q
王l
文化の影粋か、特に二│
ヒ(ハノ
えられている 。一 方、マレ一半島 ・インドシナ半
イ)へいくほどイヌをよく食べるらしい。ちなみに、
島 ・フ ィリピンなどの点南アジアでは、従前のとお
コブラ料理はおもに観光客向きで、 1
占高級の料型1だ
り魚河が卓越するという (
1
立1
1)。
しかし、イC
j
毛らの調作によると東アジアの各地で
ということである 。
また前述の湖岸では、白い只伎を水妨げしている
も
1
.
(
1
.~ill を食す習慣が残 っ ていることがわかってい
I LI い
る。 1本でも塩辛うJ
iはマムの一種であるし、東北地
小山をいくつもつく っている 。只は大きなアサリに
方のシヨ ツツルや能任.
'
1
'
.
)
誌のイシリは 1
.
(
け,可そのもの
似た 2枚貝が主で、燃でん細工の材料になるという 。
毛は、日本の沿;;;:古[¥では地 J
或
とい ってよい。 またイ1
光氏に出会った 。 ~伎は随所に和み卜げられ、
ベトナムの人々は指先がとても部川で、日本人好み
悶有のf:~l~'~ が製造・利)rJされていたことをノj; 1I変して
の精巧な工芸:
l
7
i
1
がたくさん作られているのである 。
いる 。 ただ、塩辛の液体だけを分離して調味料にす
ることが日本では普遍化しなかったと、同氏は説
(
2)魚醤とナレズシ
く。
│
二
│
本の醤油にあたるニョク ・マムは、ベトナム特
さて、カタクチイワシを主な!点字!とするニョク・
i
毛直道らの先駆
有の調味料である 。魚醤に関する;r
マムは、ややにおいが必に残り、卜│本人にははっき
U
l究 ,
では、大きく分けて 5事[(郊のマム(f.
(
tの
的な i
りと好き紛れ、がでると思われた。 フナズシやクサヤ
発陣食品)があるという 。 これによると、
に、強い l
格好の可否が生 じるのと同じである 。帰国
1、塩蔵魚に煎り米、香辛料、砂糖を混ぜて発酔さ
後、みやげの一本の封を切 ったが、魚料開にはあう
1
;
'
ものの、 豆腐や野菜などのもともと淡 i
^
l
l
な料理には
せたマム・チュア
2、小エビ塩辛ペーストのマム・トム
3、小エヒ‘塩辛 をさらに発酵させた醤 r
l
l
lの、ニョ
ク・マム・トム ・チャット
l!
惑が残った。
やや:ihlf
4 食と宗教世界
4、血蔵小魚、を発両手させた液体の、ニョク・マム
5、大型エピのナレズシである、マム・トム・チュア
(1)林立するリ ンガと石棒祭肥
であるという 。 これらのうま味はすべて、1;
(
tI!~J の発
今 日の調査研究旅行で、最も衝撃を 受けたのはチ
酵により発生したアミノ酸類をもととするようであ
ヤム族・チャンパ王国のミーソン遺跡 ¥
j~ でみたリン
る。近江の特産品であるフナスシもまた、この国の
ガ (
Linga、石棒)であ った。 ミーソン遺跡はホイ
アンの r
*
jiJ可約 30kmに位世し、四方を山に閉まれた
マムにあたるのだろう 。
日本では大豆からできた醤 r
i
r
l
が主 な調味料で、こ
聖地である 。聖山マハーパルヴァをが1ぐこの地の草
I I~ 国東半部・朝鮮
Mもれて、 8~ 13 世紀末までに建てられた 60 を
木に:1
半島・台湾. F
I
本の束アジアでは穀将卓越地域と考
越える示教遺構があるという 。チャンパ.
:
1::固は西暦
れらを魚醤に対して穀醤といい、
人間文化・ 41
ベ トナムの食文化と宗教世界
-fr
"
.
捕 拘慢"吃雰萄.
ミーソン遺跡
・‘
.
Bグループ
主洞堂Bリンガとヨ二 (リンガ下半は破損)
1
9
2
,11
ミに現住のフエ地方に始まり 、 4世紀末ごろに
内音I
1は抑止袋町l
i
である 。そして昼なお1
1
背い主恥l
堂や副
ヒンドゥー教を崇拝し始め、この地を噌地とした 。
嗣堂の 1
11
火に、やI
J
体リンガが安置されているのであ
吋初は木製の制堂を建立していたのが火災で焼失
る 。一 万外出 1\ は 、 精綴で ~i 厳な装飾I をもち 、 {沙岩製
81
止紀はじめ頃からレンカ i
j
Eりの耐堂になり、
のシパや I
J
をはじめとするさまざまな千1
1像彫刻が施さ
し
、
:
f
J
L
花残るものはすべてこれである 。
れている 。 しかし、ベトナム j
J
変争時ここが│有ベトナ
この遺跡、に調査の手が入ったのは 1
909年のこと
ム解放軍ゲリラの基地となったために、保繋の憂き
w界で最も美しいレンガ建築と知│られて
で、フランスの 研 究 者 H パルマンテイエによる 。
日にJfIい、
その報告告の中でこの遺跡群を A-Hの 8グループ
l
I構が似l
袋さ
いた A グループの主嗣堂など、多くの i
に分け、現在もこれを原則としている 。各グル ープ
れてしまったのだった。
はレンガ控に 1
mまれた矩形I
或を j
i
i位とし、ひときわ
il~ 1I青い耐党中央部のリンガは 、 『政上袋されて野に転
い主制堂を中心に置き 、!
剖│
別に大小の別刷堂 ・宝
がる以外はすべて台座 ヨニ と、さらにその下の基台
物JOIf.を配置する 。各堂はレンガの持ち送り積みで、高
│
二にl
吃立している 。注 7 ・8文献およびガイドの説
I
"
J
い こ ffJ l豆 tl~ を梨 惜 し 、
入り円以 外 に 1Jf.J 1-1 部はなく、
明を総合すると、やJ
I
体は原則的 に 3段に和み Eねら
れているようである 。 まず一番一円立のブj" )I~ 基台には、
宇行 lのおI
Jj
i
i主ブラフマンの委や物語が去 I
Jまれてい
λ
る。 2段 1がヨニで女性神をあらわし、さらに上部
に男 t
t布1
1リンガが立つのである 。つまり下司i
のu
i
J
;
主
主 ・火事 1
1・リ
J
や1
1
が一体となって最 fh
沖1
1を形成してい
r~町'
S
司
-L.J・阿川
るのである 。
'
"
ここで注立をひいたのはヨニである 。先にコイ・
H グループ
サイ ・ダと H
乎ぶ石臼について述べたが、ヨニはまさ
にその │
ケ│
そのものである 。形態的には、液体をこぼ
す失 J
I¥
した )
'
1
今
'
'のi
j
Y
t
が北向きにつくられ、これがよと
性保をかたとずったものと容易に想像がつく 。 ただ、
r
.
.
GS2
31
・
1
喝 ,
I
G
平而形が )nl~ なだけで、リンガを能動体の|口1 '
1
.
1
;
{
'
1
'
と
すると、リンガとヨニを合体させたこの松市村lは
、
まさにコイ ・サイ ・ダなのだと '
1
1
1
'
げできる 。
Gグ ル プ
チャンパの土族は、時の王の権 )
Jの象徴としてリ
ンガ ( !JJ 似)を王そのものと捉え、!\~*をかける祭
儀をおこなったという 。 リンガをったい務ちる聖水
はヨニに受けられ、片口 I
荷ーから流れ務ち、地上界を
満たす。 コイ ・サイ ・ダで磨られた I
Iいドロドロの
事
米粉がこの同の主食であり、シ トギ(布1
1傑)になり
'
-0 、
J
イ・サイ ・ダで峰、られで性水となり、米粉液の様態
"
'1
)
フォーやライス ・ ペ ー パ ー になるのだ 。 !~~水はコ
①
図 2 ミーソン遺跡群 (
注 7文献より )
から、すべてのものの源となる白い桁械が二重写し
になったと惣j象できる 。吉田敦彦の好著によると、
環太平洋城に広く精液信仰の民俗例が残るという 。
'
42 ・人間文化
ベ トナムの食文化と宗教世界
一方、日本の制文遺跡から H
'
,ヒするイ-1俸の祭儀に
純粋なこの国では、日程動する生命体がオムニパスの
ついて、その諸説をまとめた山本/1軍久の論考 '
''
こ
よ
j
l
Jしていた 。 あと 30i
J
三
後には、このい│
の人
ように展 I
ると、水野正好の打ち出した 「
動物供儀に関連する
[1
はL
I本を追い越すという 。 その H
古までにネ1々は、
…男性的要素の強いもの」 という考え J
jが、現在
この国の人々に豊能なる忠みをもたらすのだろう
1
2
まで最も彩響しているという 。 しかし 山本自身も 1
か。 また 、私たちの暮らしがほんとうに豊かなのだ
耕祭配か狩事t
i
祭紀かという 二者択一論でなく、生産
I
j
¥の幸福について白 1
1
¥
j
す る調査れ でも あ
ろうか。 人 /
活動そのものにかかる「大地の盟後」にたいする祭
った。
具と考え、さらに、妊娠 r~ê 術にも関係するのではな
いかと 示唆している 。 また、作円上器などに表され
J
王
た性的表現について解説した渡辺誠 "土、石棒など
(1
) 総務庁統計局編
の陰陽物も合め r1
1
j:生観念とれ1びついた』となるセレ
(
2
) r世界 1
'
1
;
[勢図絵j 1
]
4勢十:
11
99
6
(
3
) 仁山春 '
F・佐々木 I
'
:
:
jI
Y
"
J. 中 li1/~ftりu
i
'
i
:
l
づけているのである 。
モニー 」 に関わる祭具と位 i
林文化 J1~I 央公論社
これら先学の諸説に及ぶべくもないが、稲作以前
I!
i
に主たる食料とされた堅呆類や根茎類など「野正U
。
足
(
5
) 大林太良ほか 11
[
1以 と 海 人
(
(
i
)
るのだ。 ちなみに、ホーチミン市博物館には、
B . C. 10 .000 ~ 5.000 :午前とされるホアピン文化の Jfi イ!
ろうことは、
l
ι
7
:
U
1
_
1
1
-尾イ杭
,じ
,
る 。 時|昨すイ代
11 t も地 f域或も ,災
~I4ヰ
4 なるカがf又、
r
石i
皿
阻lであり、主たる食料を粉化することも、またネ1
1
格化 (
第二 の道具) され、あるいは祭具になること
1
9
9
0
問、桃木.'f r!)a~Hi
(
8) ベトナム社会科 学 院制
r
チャンパ下]国の遺跡と
1
9
9
4
f
チャム彫刻写 !
T
t
長j述
1
9
8
8
合出版
(
9
)
リンガとヨニは磨磨、イれ1と
1
[
;
:
枝
文 化j (
J
は ) トヨタJ!.j凶
以前は野生植物の利川が二
1
.
'たる '
1政出動であっただ
Jr
I
[本民俗文化大
系J第 5巻 ノl
、
'
}
:
t
!
i 1983
イI
毛p
'
I辺、ケネス・ラドル 『魚将とナレ ズ シの
研究{;波古応
(
7)
と石 田l
が展示されており、いずれも純文‘
時代のそれ
とほぼ同形態であ った。 インドシナ干向でも、稲作
r
続 ..
P
H葉樹
1
9
7
6
1
9
6
6
l時代の配 :? í 遺構では石 [1[[ がともない、未 ~jQ :Jr~ の石棒
であっても、すられたり磨かれていることがままあ
r
1
9
9
8
(
4) 11 '
r
:
J
J
J
) 栽:
t
f
i
j
'
I
!
i.物と農耕の起 i
l
J
U岩波書応
物の高度不IJ) 日 」 が、純文のイlH~ 祭儀の背後にあるの
ではないか、 と夜、は考える 。イけもカ {'lてられた M
U文
rl
l
l
:
Wの統計
T
片岡敦彦 『
背話の与 j
l
i学 J1二11火公論社
JO
(
) I
[1
本/1市久
井
│J
(
1
1) 波辺
r
「
石 棒 J 純 文 文 化 の 研 究 J9
1
9
9
2
1
(
1山
(
1
9
8
3
誠 『よみがえる純文人 J年初f 1
9
9
6
も同じなのである 。
きて、ベ トナ ムで私の見たものは、人々の溢れん
ばかりのエネルギーと、強く '1: へ報l~守する姿であ っ
た。 そこには、生身に生きる人 m
Jの格闘する姿が日
写されていたし、熱く、濃く、したたかでいてなお
磨石と石血(ホーチミン市)
人間文化 ・ 43
アジア考古学研究機構調査報告 1 ベトナム編
ベトナムの人々から
山本一博
能登川町立博物館
上空より
空からみるベトナムの│玉 1.
tは、「赤い j の ー誌に
以きる 。 この 付近一帯は、 「テールジュ ール」 と
│
呼
i
二
の色が赤いのであ
ばれる上で、彼われており、この こ
る。
I~. 層名 風に 言 えば、 f ì炎赤褐色」となろうか 。
色彩から受ける|て 11 象とは哀)j反に、1i~・コーヒーの栽
培に適するらしい。
そんな赤い │
同土の中で、
印象的だったのが、ま っす
1然地形の 1
I
1
)
J
約、水 11
の区
ぐに延びる道路である 。 (
I
l
i
jあるいは集務の存伝など、もろともせず直線的に
I
J
延びる道路の存復は、土地買収がうまくいかず注 ι
ホーチミン市内を疾走するバイ クの群
で道路 l
幅が狭くなったり、不自然なカ ーブを品目く道
を見慣れている技々に、強大な意思の存在を!ぷじさ
│
二
l
本でもテレビが大衆化 しだしたころ、 [
1
を守ると
せずにはいなかった。 まさに、社会主義国の一端を
祢してブラウン管の前に怪しげなフィルムを貼った
ガラスを月見り付けていたことを思い出した。確かな
見る思いであった。
効果の兵1"
J
'けもないのに人々の 1]
1に広まる、流行と
2 疾定するバイク
はそういうものなのか。長い時の流れを隔てて、土
川サイコン、今のホーチミン市内の道路は、道い
二の意味を見出そうとすることが、
誌の紋様に生活 J
っぱいにバ イクの波また放の連紛しで、ある 。 自動 '
i
Iが
慰行のようにさえ思えた 。 しかし、マスクの縁はフ
少ないので、追いっぱいに何列にもなってバイクが
リルのようなもので f
i
l
iられ、身につけているのはほ
走 っている 。 もちろん、その大半は、世界の 「ホン
とんどが友性である 。 さらに、 H本でも見かける日
ダ ス ー パ ー カ ブ」 である 。新車もあるようだが、
焼け防 1
J
T
Jの肘まである手袋も、女性のlIJ
iで、流行っ
流行遅れのものが多い。 日本で、 l
時々 i
1
iいバイクの
ているようだった 。 やはりそこには 、時空を越え、
回収に来る業者がいるが、こういうところに流れ着
久ー性の持つ普遍 t
1が読みとれるのかもしれない。
ベ トナムのまっすぐに延びた国道を走っている
いているのかと、納得がいった。
二も、さっそうとバイク
若いも若きも、男性も久市l
と、道に而してバイク屋が数知れず並 んでいる 。 そ
にまたがり、ばく進している 。ベトナムでバイクは
してその軒先には決まって、スーパーカブの泥除け
宮の象徴の一つなのだ。現に田舎 I
I
1
J
では、バイクは
が 「
俸ダラ 」のように吊つである 。泥除け自1
1
分を部
おろか白転車も見かけることが少なかった。さらに、
品交換するのだろう 。 よく凡れば、タイヤだのリム
今川の調査で、ガイドをしてくれたクオンさんのお父
だの、綿々した部品が無秩序に置かれている 。音1
日
,l
さんは、北ベトナム出身で日本との合弁会社の副社
の在庫としては、円木のバイク屈の比ではない。 7
E
長を務め たり、似さんを 11 本へ fU~/~ させていたり、
話で;~II 品注文すれば、コンピュータ流通システムに
ベトナムではトップクラスの経済人だが、自家片 j
!
j
[
来って、翌朝配達される日本では、部品を手元に置
は持っておられないようだった。 ご│
土
│
身の通勤もバ
く必要がないからだ。 コンピュータ流通システムの
イクであった。 しかし、クオンさん宅におじ ゃまし
存在を知らなければ、電話 1台のバイク屋より、泥
たとき、その玄関には数台のカブが舵卓されてあっ
除けのたくさんあるバイク屋の方が物質的に豊か
た。付け加えて 言うなら 、クオンさん宅は隣近所が
で、経済的にも活発で、あると判断してしまいそうで
3階建ての
ある 。 出土造物の対比で、こんな過ちを犯している
コンクリート造りであった。やはり、 一
青磁 .i
U
,
滋
が
のではと、 一瞬冷や汗の出る思いであったが、取り
1
1
¥[こする礎石建物に住む人間は、有力者なのか。
越し苦労であろうか。
、
│
三極の質素な本;造建物であるのに対し、
バイクで疾心する風対で、特に印象的だったのが
マスクである 。 まるで内部劇の強訟のような三角形
のマスクなのだが、聞けば、排気ガスで汚れた空気
から の防衛策だという 。 さして有効とも思えない。
4
4 ・人間文化
3 フランスパンとビリヤード
菅笠のような「ノン 」 を被って、筒有J
Iの上着 「
パ
ーパ j に 「 クァン 」 と H手ぶズボンを着た~婆が、天
ベ トナムの人々から
干1
'
棒を担いで i
路肩でフランスパンを売っている 。ベ
l
並紀中頃であるが、その後も、常に 1
:
1
'1
主│
という大国
トナムでは、よく見かける光景である 。 しかし、ア
に彩科され続けてきた。我々日本人に日本文化 と中
ジアで 「パン 」 とは、違和感がある 。 食パンな らま
国文化の違いを 言 えと 言われれば、何らかのことが
だしも、フランスパンとくればなおさらである 。 そ
言 えるように、当然ベトナム文化 にも独自性はある 。
れは筆者自身が、米を食べて 2
3
0
0年
、 学校給食のお
しかし、フエ王宮にしても、院朝の帝附にしても、
世話になって 5
0年の日本人であるということが、最
一見の者にとっては全 く!
こ
1
:1国そのものである 。
大の原因であろう 。それを食べる食べないは別にし
それほどまでに、ベトナムにと ってヰI固とは大き
て、ベトナムの人々にとって、フランスパンは日々
い存在なのだ。 しかし、 一つ注目すべきことに気付
の生活で見慣れたものにな ってい る。それは、ベト
いた 。それは漢字がないことである 。都市部であろ
9
世紀後半からフランスの 支配下に置かれて
ナムが 1
うと、炭村音1
¥
であろうと、看板や掲示に漢字 は一切
いたからである 。ベトナムにと ってフランスパンは、
見られない 。 見られるのは、「コックグー(国語)J
まさに渡来文化なのである 。
と呼ばれるローマ字 に六 つつの声調記日を付した 表
もう一つ、これに似たものに 「ビリヤード」があ
記だけ である 。 これは ベ トナムを植民地としたフラ
る。 日本ではあまり馴染みがないが、ベトナムでは
ンスの 言語政策に端を発するもので、 1
0
0年ほどの
かなり田舎 1可でも、ビリヤードの台を見かける 。引
暦史しか持たない。 しかし、それ以前は漢字表記が
に、ミーソン遺跡へ向かうガタガタの未~ìIî装道路に
主で、手│
挙制度すら存夜した 。 またそのー方、 i
英す'
而した掘立柱に屋板だけという社交}
J
J
jにも、り っぱ
への、ひいては中 匡│
への対抗から 「
チューノム (
字
な台が備えられていた。 これもやはりフランス統治
I
l
.
i
t
j
)Jとい うベトナム独 I
L
I
の表記もあ った。
時代の波来文化なのだろう 。 そして、我々の違和感
この ように、北の巨人 「中国 j と関わり続けてき
をよそに、ビリヤードはベ トナムで最も親しまれて
1
を見 る
たベトナム、ここにベトナム人の不川の粕和1
いるゲームの一つであると、クオンさんが説明して
J
4
1いがする 。 その l
恋史の大半、いやほとんどを外国
くれた。
や異民族から 支配 ・干渉されてきたベトナムだが、
我々から見れば、フランスパンやビリヤードはベ
決してそれに同化されることなく、民族の誇りを保
トナムの中の異文化 として写り、数の多少に関わら
持し続けてきたのだからものすごい。そのものすご
ず1
=
1についてしまう 。 しかし、 当のベ トナム人は、
さを 実感できるのがもう 一つある 。 「
ベトナム戦争」
向分たちの文化 だと思っている 。 日々の生活に熔け
である 。
込み、特に異質なものとは考えていない。 このギャ
ップを見たとき、渡来文化・波来 「
系」遺物等 々が
5
1
1るものを、正しく聞いているのかと向問向答して
しま った。
4 春巻き
5 ベトナム戦争
アメリカにベトナムは侮りがたいと、改めて思い
ま"らせたのが、「テト攻勢」 と呼は、れる 1
9
6
6年のフ
エ攻防戦で、
ある 。 そのテト攻勢資料を展示 したフエ
のチ ユアテ ィエン・フエ省博物館前の広場には、米
ベトナムに影響を与えた外来文化と 言 えば、フラ
軍の 1
i
没正
1
1
や高射砲が野外展示されており、ベトナム
ンスなどの比ではないのが中国文化である 。ベトナ
戦争の存在を!日 L
で感じることができる 。 またサイゴ
ムも日本同様、 1
'
1国文化圏に包抗されており、その
ンには、 今は統一会立 と│
呼ばれている H
二
l
尚ベトナム
影響には計り知れないものがある 。時には中国より
大統領官邸があり、 │
主│家行事に利用しない時は一般
も rド国らしく、独 I~ の中華思想さえ持[一っ た国である
の見学者に開放されている 。 その前庭にも、戦車が
このことをまず実感させてくれたのは、春巻きで
誇らしく展示されている 。これは、 1
9
7
5年 4月3
0日
、
あった。我々は、日程第一夜をホーチミン市のレッ
大統領官邸の鉄扉を踏み倒して突入する姿が、ベト
クスホテルで迎えた。 そして、 当夜の夕食はベトナ
ナム i
伐さ
"
J-f
f
i
冬罵の衝撃│灼 l
映像として全 世界に放映され
ム宮廷料理ということに落ち 着 き、テーブルにつ い
た、その時の解放軍戦車である 。 さらに、建物内部
た。そこで、 真っ 先に出てきたのが、春巻きだ った
の一部は 当時のままとな っており、権力 者大統領が、
のである 。
ベトナムの歴史をひもとけば、まさに中国とのわL
~,の歴史である 。 1-1" 凶から独 立 を If~ ち取ったのは 10
そして、大統領夫人が華々しく振る舞 ったであろう
「
ノ、レ」の地上空間と、 i
伐11各地図 やホットライン電
話、通信機誌が並ぶ j
i
攻
守i作戦本部であ った 「ケ」の
人間文化・
4
5
ベ トナムの人々から
地下部分が、妙な対!
慣を見せていた。 いつの時代の
にとっては、もう過去の ことという 印象が強い。考
ものでも、総力の残骸を見るのはなんともはかない
9
7
5年である
えれば、ベトナム戦争が終結したのは 1
-南ベトナム大統領官邸は今も現役の
感じがする 。 11
から、すでに 2
4
{
1
での歳 月が流れている 。戦後日本に
建物ではあるが、我々に Mか大きなものを訴える歴
あてはめれば、 1
945年の 2
4年後は 1
9
6
9年であるから、
史遺産に述いない。
東京オリンピックも済み、
1年後には大阪万国博覧
チャンパ王 p
q
のu造建造物が迫るミーソン遺跡で
会という時 j
切なのだから、ベトナム │
王│
内 にベトナム
は、米軍の爆撃跡、という大きな穴がいまも残ってい
戦争風化が見られでも仕方がない。現にシャ ッタ ー
たし、レンカ(
;
W
iみの壁には機銃掃射跡もあった。 こ
を押す筆者の前で、米軍戦車をパックにポーズを取
の戦争によっても、どれほど多くの歴史遺産が破壊
t
i託のない笑顔がそれを
って写真に収ま った 少年の h
されたことだろう 。
物詩 ってい た。
日本に対し述合国側は、
;~t 都 ・
奈良の文化.i11J
主
. は破壊しない配慮をしたといわれて
しかし、長年にわたる中国との│州系で、培われた不
いるが、ベトナムの場合はどうだったのだろうか。
J
r
dの民族性が、この戦争で、も有効に作用したに述い
北爆の様 fや枯葉剤のことなど考えれば、おそら く
ない。
そんな配慮はなかったのだろう 。 テト攻勢で、は現在
世界遺産になJi
Jされているフエ I
~符でさえ 、 成滅的
な打撃を受けているのはJ,!iJ~1I のとおりである 。 もちろん
現在は修復されて、表面的には破壊の而彩はない。
6 華奮なベトナム女性
ベトナムの女性は、働き者である 。 農作業 でも 、
9H生は耕起や ìülif児など、特に )J 仕 ~JI となるも のをこ
数
1
1nJJ の ~':li{E であ ったが、ベ トナム戦争を 実感さ
なすだけで、 II
f
.
l
f
I
え ・除草・家市の世話などは全て
せるものは怖かにあった。 しかし、ベトナムの人々
久γ1
:
の守備範 I
JI
で、ある 。 フエのドンパ市場、ダナン
旧南ベトナム大統領官邸前の解放軍戦車
フエ王宮修復に携わる若い職人
ミーソン遺跡に遺る砲撃跡
アメ リ力軍戦車の前でポーズを とるベ トナム少年
46 ・人間文化
ベ トナムの人々から
1
1
1し訳ない気にさえな ってくる 。ベ トナム女性の体
理こコ
つきが、よけいにベトナム女性を働き者に見せるよ
うである 。
i
攻
守I当時、 f
f
U
Jき織りのリJ
性は前線に送り
ベ トナ ムi
1
1
¥され、家族の生活を支えたのは久性たちであ った。
II~~' にはホー・チ・ミンルートを利川した軍事物資の
輸送でも、彼ムーたちの日と天秤棒が活躍したことが
あるといわれている 。 こうしたことがなくて、長期
にわたる超大同アメリカとの士;U~i はあり得なかった
のである 。ベトナム戦争の実質的勝利の大きな要因
に、女性の力があるのは雌かだ。 この 1
;
:
.性の勤勉さ
フォン川で舟をあやつる女性
と'
i
'
r;容な休止9.はベトナム戦争を通じて成り 立っ たも
のではなく、ベトナム民族が長年保持してきた伝統
i
坊で、大戸を 1
:
¥して商売をするおばさんたち
のコン d
である 。 I
l
iくからベトナムでは久七七の社会進 ,
'
1
'
,
が進
は、まさに 「バリパリ 」 という表現が似合うし、
んでいた。既に 1
5世紀から女性も相続権を持 ってい
「黙々 」 と仕事をするという感じの女悦ーも多い 。今
たし、 1
9
世紀には土地契約の当事 J
?となっていた事
J
込初jの調査先フエのフォン 川観光船の船長夫人
実もある 。 こうようなことは他のアジア諸凶では兄
回
、
は、 {J{~ かに f走者のタイプに属する 。 船長が機械の運
られず、このことが社会的に強い女性をベトナムに
転以外何もしないのに対し、彼女は舵を取り、竹竿
生んだのである 。
を器用に繰って船の接岸と出航を行うほか、我々に
五三外、政治 と
! に女性が登場する機会は少ないが、
対して車11/かな気逃いをしてくれた 。 ~~J に 11 T も低く、
1
I
佼!とは夜勤く 」 の言葉もあるように、暦!と
1
医者な体つきで、竹竿を突く綱1
1
い腕をみていると 、
性の栄たした役割をも っと評価する必要がある 。
│
二で、
火
人間文化 ・
4
7
人間文化セミナー
妖怪と現代文化
小松 和 彦
-妖怪学かう見た 『
もののけ姫 j こまっかすひこ
国際日本文化研究センター教授。文化人類学民俗学専攻。
日本民俗学文化の構造ー比較研究、特に異界や妖怪の研
究成果が多い。
主な著書神隠し(弘文堂)、濠霊信仰論(講談社)、妖怪
学新考(小学館)、;酉呑童子の首(せりか書房)。
-遠回りして見つめる民俗学
-はじめに
私は民俗学の立場から妖怪をこれまで研究してき
エ ッセイの官 頭をこんな風に書き出しておりま
ました。在、は妖怪学と呼んでいるのですが、そこで
す。 タイトルは 「森の神殺しとその l
呪い 」 という
研究してきたことを踏まえて現代文化の問題点を
毒々しいもので、その副題は 「
森を巡る想像力の源
『もののけ航 Jを通してどんな風に読めるかという
泉を探る 」です。
ことを背さんと 一緒に、多少の話題を提供しながら
「常的駿の最新作 『 もののけ ÝI~ J を観た 。 宮 111奇駿
の作品にはだいぶん以前から興味を抱いていた。そ
考えてみようと思ってやってまいりました 。
『もののけ l
a
:
d は昨年ビデオになりましたが、 一
昨年の夏に公 I
JfJされて卜│本の映画史上空前の観存政j
れは私が論文やエッセイなどで表現したいと考えて
いることを直接・ I
:
I
J接的につながっている世界とい
t
i数を 1
1',したということで、邦画界で話題になった
うものを彼はアニメを通じて表現していると思った
映が続いて
ものです。 ですが、昨年は今でもまだ卜J
からです。
」 宮崎駿はアニメという素材を使って、
おります洋画i
のタイタニックがさらにもののけ
互いみたいなもの
彼の思怨なり、世界観なり、彼の w
wの
記録を塗り伴えるという ことで、ちょ っともののけ
を語っています。 それがわれわれ現代文化の一部に
航の話題は I
L
I聞に属するかもしれません。
なっているわけです。それだけでも興味深いことな
『もののけ y
l
:dとは一体なんだったのかというこ
のですが、それと同時に彼の作品 ・
原作は夜、が研究
とをあの映画を見て以米、私は考えてきました 。
している民俗学あるいは人類学というものを素材に
l
ij に│均しまして私は小さなエッセイを
『もののけ y
しているという聞があります。 しかも、作品の中に
r
~~~界
民俗学者や人類学者が登場してくるのです。それは
をのぞく 』 というエッセイ集に収めたもので、その
宮崎駿のある意味では分身、ある意味では考え方を
中で私は 『 もののけ ÚI~ J をどうやってみたら良いの
表明するにふさわしい人物だからだという風に 言 う
ユ;いたことがあります。 1
1
4
;
イ
下私が出しました
かということを告一きました 。 この1'
1
:
品にはなじみの
ことが山来ると 思 います。そういうものを見ますと
ないいろんな素材がたくさん入っていて、それを理
私も、宮崎駿の分身だという思いにとらわれてしま
解するためには結構勉強が必要なのです。そのため
うのです。
に 『 もののけ ÝI~j を見た人は 何 回も見に行く 。 そし
そういう意味でも、夜、は民俗学あるいは人類学を
てビデオを買ってさらにまた見るというようなリピ
勉強するものとして、宮崎駿に親近感をもっており
ーターが多か った と言われてい ます。 それが観客動
ました 。例えば、作品で、言 えは 『となりのトトロ j
員数にもつながっ たと 言 われています。
です。皆さん方もなじんでいる作品だと思います。
非常に難しい作品です。[もののけ姫 j の解説書
これは原作があるんですが、 主人公のサツキとメイ
をいろいろ手に入れて読んだのですが、私には、し
という姉妹のお父さんは日本語版では考古学者、地
かしあの作 l
q
i
の一番大きなモチーフだ、ったのではな
方の大学の研究所で働く人と語られていたと思いま
いかと思われる事が解説の中には 1
1
¥てこないように
す。私はたまたま英語版も見たのですが、英語版で
思われました 。それでお:はす‘っとその問題をどこか
は父のことを、人類学を勉強している人と表現して
でしゃべってみたいなと思っておりました。 このエ
います。 アメリカの人類学というのは非常に広い学
ッセイの r
l
'
でちょこ つ と触れていますが、今日はそ
問で考古学も入っているし、 言語学も入っている、
れを中心にしながら私の妖怪学から見た 『もののけ
そして社会人類学であるとか、そういう広いカテゴ
す I:~ J という話をさせて頂きたいと 思 います 。
リーとして学問が構成されております。 そのような
4
8 ・人間文化
妖怪と現代文化
ことから考えますと、考占学才;会として日本語で表。l
I
Jの中で、ひげ1
まうぼうか、
の、小さく仕切られた訳 I
しているものを、英語版で人類学 と表現している の
あるいは白衣を着てとにかく汚 らしい絡好で一枚一
は非常に適切な訳ではないかと思います。 わたしは
iをめく っていたり、訳のわからない民共の
枚古文 j
r
学
なぜメイやさっきの父が考古学名だ ったり、人主i
類を調べている、い ってみれば十!立 たない学問であ
者-だったりするのだろうか、あるいは民{谷学者だ っ
るし、 l
時代遅れの文化を扱 っている '
苧
!
日l
だと思 って
たりするのだろうかとちょっとィ号えていました。
きました。 たしかに現代文明、現代相会が拾ててき
もうひとつ 『
肱久の宅急便』 という作品がありま
た、忘れてきた先人たちの文化、もはや )J~I床がない
定交が旅に出ていろ
す。 この作品はキキというがJいl
迷信であるとか、時代遅れであるとか、もう将来二
んな苦難、 冒険をしながら 一人前の魔女につま り、
度と協 の 目を見させる必要がないような文化を扱 っ
少女から大人の久性に成長していくイニシエーショ
てきたのが民俗学であるといっていいかもしれませ
ンといいましょうか、通過儀礼のようなことを 素材
ん。それが1
1
1
iき1
1
¥してくる学問が民俗'手であり、人
にした作品で、す。このキキのお[fJさんは魔女ですが、
類学で、それらは現代の文化、私たちが生活してい
お父さんは人間です。そしてお父 さんの職業は民俗
る文化の中にはなかなか探し出すことが出来ないも
学者です。
のです。
魔女のほうから見ますと、魔児と結婚するのが普
私たちはそれを│
三
l
'
討の道具として使 っていなか っ
通なんですが、もしも仮に魔女が人間の世界から配
たり、日常生活を営んでいく知識としてはあまりも
偶者 を探すとすれば、魔女ーよりの人間ということで
っていないものです。 ですからすぐには ぴんとこな
民俗学者が一番ふさわしいらしい、なんとなくそれ
い。 だから民俗学は税代文化学であるという風にい
だったら納得 t
L
¥来てしまうようです。彩、の妻は院久ー
うのは間違いです。 しかし大変に重要な学問だと私
ではありませんが、民俗学というものが持 っている
は忠 っています。 それは現代文化が表 i
f
l
iの文化だと
性格が魔女の側に近づけていく、あるいは異界の側
すると、 言 って見ればその地!習を掘りドげて行くの
に近づけていく、あるいは妖怪の側に近づけてい く。
が民俗学だと思います。考古学的な資料もそういう
そういう性格を民俗学 の学 問向体が持っているか
性格を持 っているのですが、精神の地層のようなも
ら、このように民俗学者が選ばれてくるのだろうと
のを似 って行ったときに発掘されるものは昔の人々
思います。
の*
i
仲 1であり、あるいは中央都市や都会とか言 われ
こうやって考えてみますと、民俗学という 学 問
、
るような地域でなく、そういう世界からいうと辺部
あるいは人類学 という学問の持 っているある ー而
であるとか地方であるとか田舎とか周辺であるとい
を、宮崎駿の作品に登場してくる人類学者あるいは
われていたような人たちの文化です。 そういうなも
考古学者、あるいは民俗学者というものが示してい
のを民俗学が掘り起こしていく 。そういう人たちが
るのだと思います。民俗学という学問はかっこいい
いてどういう風に生き、どんなものを食べ,どんな
学問ではありません。人類学はそれに比べて華やか
ことを考え、どんなものを使っていたのかというよ
なところがあるのかもしれませんが、日本民間伝4¥
うなことを探してそれを 書 き記していく 。 そういう
を研究してきた民俗学は華やかさから 言いますと )
1
コ
訳ですから華やかではない。現代文化とは直結しな
常に縁遠い対象を扱ってまいりました。
いんです。そういう風に考えますと、現代文化の華
私が大学に入 った当初は国文学 とか歴史学をやり
やかなものに興味を奪われていて、現代文化が良い
たいなと思 って、将来は高校の先生になろうという
んだ、現代文化こそが側先すべきだという人から見
気持ちで勉強していました。 しかし柳田の民俗学で
ますと民俗学というのはつまらない学問だし、古い
あるとか、あるいは折口の民俗学 に接していくうち
学問にな ってしまう 。
に、わたしが民俗学 に対して抱いていたイメージが
変わってきました。
よくもののたとえとして 言 うのですが、たとえば
私たちが食べている食べ物のことを考えます。 フォ
最新式のぴかぴかの大学の校舎は民俗学者には似
ーク やナイフを使 って│勾を食べる日本人、現代人の
1:
合いません。 1
0
00
1
:くらいあるいは 200年くらいた っ
ことを考えるときに、もしも民俗学や人類学 だ、った
た古い建物の、しかも地下の民兵や古文書ゃあるい
らそれを考えるためにどこへ行くかというと、その
は訳のわからないようなまじないの道具が無造作に
ナイフやフォークや肉のことを訪日べるのではなく
わんさか詰まっている倉庫の物-rii'i~のような部屋 の奥
て、そういうものを食べない、使わないような人た
人間文化・
4
9
妖怪 と現代文化
ち、あるいは 地方に出かけていって昔の食べ物をい
『もののけ!lI~ J は il~ 終 的 には皆さんご承知のような
つ頃から現代人が食べるようになったのかを調べる
作品になってい ったわけですが、そもそもは確か
わけです。 i
l
i回りするんです。 七のほうにナイフや
1
9
8
3年に I
もののけ y
l
Uの構成のようなものを拙い
フォークの│勾があったとすると民俗学者はそれを調
ております。
べるために、反対側のほう、日 I
J
のところから、速く
タイトルは 『もののけ姫』 にな っております。 そ
L
r
が
、
のほうからたとえば、それを山にたとえると、 L
の 『もののけ Wj の構想、いわばプリミティブ版を
山からナイフやフォークを使って肉を食べている
矧てみますと、完成されたものとはまるで違うもの
u
我々を眺める、そのような 学 :
r だと思います。
です。 名前だけは残りましたけど。 その頃の彼のイ
こういう 学 問 を や っ て い る と 時 間 が か か る ん で
メージデ ッサ ン 、 ス ト ー リ ー デ ッサンは、 『ものの
す。 速くのほうから現代文化をひょっとしたら眺め
I
:
d が上映された頃に、 『ものの f
H
G
d の元にな
けT
られるかもしれない 。 しかしすぐに眺められるので
ったものだということで出版されております。 これ
はありません 。 たとえば、在、
の場合ですと、これま
は表紙ですが、見たらわかると思いますが 『となり
で わ た し の 主 要 な 調 査 地 と い う の が三 つ あ る ん で
のトトロ 』 のイメージをす‘ っ と引きず っているんで
す。 ひとつは大学院の頃から販がくたびれてきたと
す。背中に背負 っているのが 「もののけ姫」 です 。
きに出かける調守宅地としてJlL[回の山の中がありま
この作品のストーリーを見ていきますと、明らか
す。 物部村と行政的には 言 われているところなんで
に民俗学が対象としてきた昔話の狭府入りとか、蛇
f
Eを結構 l
時/1¥]をかけてやっているんで
す。 そこの制 t
術入りをほとんど下敷きにしている作品です 。 お父
すが、その地域にある信仰l
体系それさえもなかなか
さんは武士で、小さな城主です。 減主には 3人のお
理解できない。 ましてやそれを通じて現代を飢るな
』組織がいます。その城主が戦に負けてしまうんです。
どなかなか 1
:米ない 。
t
iに命を助けてもらって、
負けた城主は化け物の 1
I
1
もうひとつはミクロネシアで、これは 71 、作I I(~~ 連
分の娘を嫁にやると約束します。 成主が帰ってみる
盟の信託統治領という形をと っておりましたけれど
と、長女の娘も次久の娘も奥方係とともに城主 に愛
本の植民地だ ったところです。 トラ
も、その 1は n
知が尽きたとい って卑に帰ってしま っている 。 末 の
ック諸島の小さな烏で調子t
をしております。 これも
ÝI:~ だけが残 っ てそのお姫様が化け物の嫁に行く 。 お
0年近くなりますが、それだって大学の仕事を
もう 2
父t
(
iは悪行の│浪りを尽くしたので、その悪行を1Eす
しながら合lIiJ合間を見て彼らのところに行 っており
ために夫になった妖怪とともにお父さんに取りつい
ますので、そこだって自分で納得できるだけの理解
ている悪霊を追い払う、というストーリーにな って
をしたという原[にはなかなかならないんで、
す。 多く
います。 3人娘のうち末の娘が猿術のところに嫁に
の人類学者、民俗学者というのはそういう調査地の
成に行くとかという??話は
行くとか、蛇のところに f
ことを結柿深く調査しながらその素材を、資料を踏
'
"
1に広く流布しております。 そのような作品か ら
全1
まえていろんな問題を考えていますが、ただちにそ
向 111荷駿は 『 もののけ ÝI~ J の椛怨を立ち J- げていたん
こから現代文化へという胤にいくことは難し いん で
です。
時間がかかります。民俗学を勉強していると現
す。 l
ところがだんだんいろんなことを勉強していくう
代文化をみえるという可能性を持つとしても時間が
ちに彼はあのような作品に仕上げていったんです。
かかってしまう 。 今のようなすぐに成果をあげる、
r
1年 や 2!
O の1
1¥]にすぐに 2、 3本の論文を 一
占いたり、
あの作品の巾心的なテーマである森のことを、
1
主は
以前からずっと作品の中に描きつづけてきた 。 とい
0本ぐらいの論文を用意しなければい
就職のために 1
う意味ではそれほど大きな変化が彼の中に起きたと
けないと 言っ て、やっているようなスピードのある
は思えない 。 むしろストーリーの展開上で
社会において、民俗学というのはどちらかというと、
l
:
U は 10数年の川jに変わってしまったということ
けy
時間をかけて遠州りしながら現代文化を考える、そ
です。『 となりのトトロ j にしても 『天 空 の 城 ラ ピ
ういう性絡を持 っていると思います。
ユタ j にしろ、 『
風の谷のナウシカ j にしてもそう
I
ものの
I
'
n
1
の中には森が/.1',てきます。 あるい
ですが、彼のf'i''
-森と妖怪
ですから、私も宮崎駿の 『もののけ!lI
:
U を考える
とき、速くのほうから眺めていたのです 。宮 崎駿の
50 ・人間文化
は生命の根源としての森の残存、名残みたいなもの
が拙かれております。
1
1
人類学や民俗学ではその森のことを宇宙樹とか 1
妖怪と現代文化
界樹として、生と死をつかさどり、天と地を結びつ
史の 1'['. い lI~ll~l に、 30 歳ごろに 彼はこ の本を読 んで思
けている象徴的なあるいは人間の中心になるような
ったと普いております。
I
:
i
'i樹を明らかにしてきた。彼はそ
世界、そういう宇 '
彼はその後ずっと自分の問題として内部に蓄えな
のイメ ー ジみたいなものを非常に大事にしてきまし
がら 、大衆映像作家でありますので、ビジネスとし
た。そのようなものについてのイメージに言葉を り
ての 1
'
1
;
,
',刊を提供しながらその中に織り込ませてい
えてくれたのが笑は広い意、
│
床での人類学であり、 j
立
た。 そして彼はいわば 臼分の最後の 作 1
1
1
iとして 『も
学でありました 。 J!{~t 葉樹林文化という形で多くの 1í)f
:
j
U を作 り上げていくときにその何者かの末
ののけ y
究者が言及し、また発展させることになる照葉樹林
えいである自分自身をあの作品の中に思いっきり表
文化の初期的な考え方を提唱した本として中尾佐助
現しようとしたんだと考えられます。
の『栽培植物と出羽│
の起源 1という岩波新吉ーがあり
ます。符崎がその本に出会った1
1
寺に (
1分自身どうい
:
1
分が何なのかを発見したと
う風に生きるべきだ、 f
いうことをあるエァセイで述べております。
符[
1
1
奇駿の
r
1
'
,
発}
,
'
(
,
-ジコ坊に見 5れる現代人の先祖
このように宮崎駿の作 1
1
7
iを支えているものが広い
意味での民俗学であり、人類学で、さらにはこれま
1
9
7
9から 1
9
9
6年まで 1のエ ッ
で
、
ず、
っと
f
もののけ航 jが出てきたときに言 われま
セイの類を集めたものです。その ー
文を紹介すると
した杯史/'f:の最近の成栄が取り込まれているので
彼が何を拙きつづけてきたのか、そのモチーフのひ
す。森と 7
う
ーうものを大きな舞台にして1'
1
ニ
品が作られ
とつがわかるかと忠し、ます。
ていたかと思います。では、私はいろんな 『ものの
r栽培植物と民和│の起源』 を手にしたのはま った
けy
l
n の解説書を読んで二、抜け務ちている視点とは
くの偶然である 。探せばいつか 1
1
¥会うものだとか、
{り だ っ たのか 。 それは u夫仔ー学の視点から見ますと ~ I=
是正命の 出会いとか言葉を日i
lる'
T
I
j
jに読み進むうちに伐
常によく)~えてくる},'X
は1
'
1
分の日がはるか山みに 引 き上げられるのを感じ
『もののけ姫 Jの竹川 を見たときにいろんな意見
た。)
!
f
i
l
がl
吹き抜けていく 。 r
<
1
家の枠も民族の壁も I
I
f
が1
1
¥
ました。あの1'
1
'
,
'
,
'は物語としては破綻している
史の重苦しさもよE.I
、に遠ざかり、
)
1
日来樹林の森の生
とか、ナウシカに比べて '~rlll奇駿もずいぶんひどい作
命の息吹がfòl や納 ~L のねばねば好きの n 分に流れ込
品 を作 ったものだとか、評論家の !
日]ではいろいろと
J
宵の令、や
んでくる 。 散策するのが好きだ った[
l
j
J話i
t
l
l
どちらかと己えばネガティブな意見が 1
'
,
ました。 し
t
,期には信州て、は民↓1があ ったという仮説を 11
¥
純文 ,
かしそれにもかかわらず大変なヒットをしました 。
2
!
?り部の素質があ
私は作品を見たあと、私の姿と娘とで!ぷ:tt
l
を述べ合
るl
手親が繰り返し苅ってくれた山梨の 山村の L
I'
,
:
;
¥
'
の
いました。夜、の娘はもののけ鋭、サンに円分自身を
ことどもがすべて 一 本におりなされて、
重ね合わせてあれが良か ったと 言いました。妻はエ
えつづけた藤森栄ーへの尊敬や、
I~I 分が何者
の末商なのかを教えてくれたのだ。J
と言 っています。
ボシ J
iI
J
TiIiが非常にパワフルな女性として拙かれてい
一番最後のところが大事だと思います。 自分の実
て、それに共感を拾 ったと 。男の子供がいたらアシ
際の 1
(
[
l統とかはわかりませんが、彼1"1身は自分の中占
タカかもしれません。
有1として白分はどういう人々の末商なんだ、それを
ド│
分は引きず、っているんだということを彼は照葉樹
主人公が一得Jfしいというか、 一応そこに読者は視
作品をよL
たり、小説だと読んだりすると、作品の
林文化と 言 うものに触れたときに気がついた 。 m~ 葉
点を合わせてそれに身を 11. らせるような jl~ で、作品 1+1:
樹林文化と 言 うものをとういう風に与えるかはい ろ
界を読んで、いく 。 だいたいこの人は許人でこの人は
いろ問題がありまして私は詳しくはわかりません
悪人だ、この人は I
j
'心人物で後はそれに絡みついて
が、少なくとも稲作を中 心 とした 天 恒例同家が成立
くる人物で、筋はそういう人たちを、着物を縫って
してくる以前の純文、文化 というものを、彼はここ
いくときの針であり、糸のような役者J
Iをさせて普通
でぼんやりと込1
ぃf
N
jいていたと思うんです。 もう少
作品は終わるんです。 ところが 『もののけ WJを観
長耕│
民以外、あるいは民耕民
し具体化していけば、 j
たときにそれが分裂していて、このi'
F,
'
,
',
の主 人公は
以前の白然とともに I~ 然の恵みのIj'で場合によ っ て
本当は i
l
i
,
だかわからない。 だから妥はエボシが面白
は日然に支配されながら、共生していたようなそう
いと 言 い、娘はサン、そして私はと 言った時に違う
いう人々を彼はここで自分の先制である、そして
分はその民の末商なんだというふうに作品制作の!
、
作
人物を考えてしまう 。 こういうふうになるから物語
n
を鑑1'i:した人が 『もののけ如i
j の物語は破綻してい
人間文化・ 51
妖怪と現代文化
'
"
F
-
料VF
「もののけal:iJ ① 1
9
9
7二馬力・ TNDG
るというのです。
これは 『もののけ姫jの解説書みたいなも のの中
¥
、、
、
、
にカラー版で 1
1
¥
ておりました 『もののけ y
l
:
!
J の関係
明V.
-5
大江山絵罰;
J
:大阪 ・逸翁美術館
国です。登場人物が拙かれております。一番上のほ
うにアシタカと 言 う若い青年。そしてここにヒロイ
ンとも 言 うべき、物語のタイトルになっているサン、
もののけ似がいます。それからエボシ御前。 この 3
者が大きく
W
iかれているんですが、私が一得注 Hし、
,
支配しているエボシ御前たち、さらにそれと敵対し
ている森の神々たちを制圧することだったのです。
私が好きだなと 言 ったのはこの人物なんです。皆に
すべて天子の支配下に置くこと、それがジコ坊に謀
笑われてしま ったんですけど、ジコ坊という大変醜
せられた役割だ った。そのことに示 されることにな
悪な憎まれ役をする下級坊主の、 1
11
伏のような男で
ります。 ジコ J
;
}
jはシシ利lの首 をとりに来たのです。
す。
ジコ坊に私は憎らしいけど心ひかれた、というこ
とを娘やがに話しました。 なぜかと 言 うとこのイメ
シシ神の首を持 ってそれを 天子の元に届けるという
ことであったともいます。それが『もののけ航jの
最後の一番クライマックスになる部分で示されます。
ージのなかに現代人の先祖 l
がいると思 ったからで
そこではジコ坊がいろんな手段を講じながら最終
す。 ジコ坊はサンやアシタカ、そうい った人々を悪
的には森の中心、森をつかさどる、あるいは人間の
知恵を働かしてだましながら自らの目的を達成しよ
精神を司るような、象徴として拙かれているシシ利l
1
'
にやってきました。あるいは森にやって
うと山の '
の首を取りに行く 。そしてそれを天子の元に届けよ
きたのです。一応エボシ御前と協力しているわけで
うとするのです。不老不死の楽になるという首なん
すが、このエボシ御前さえも欺いて自らの日的を達
です。 これは逆にいえば天皇の支配化 に森を置くと
成しようとする 。エボシ御前はなぜ 山に入 ってきた
いうことだと思います。
のかとジコ坊に問う 。 ちら つとしか描いてありませ
んけど、エボシ御前の前で、京都の都にいる 天子から
}
J命を背景
もらった勅命を持っていると 芦う。その!li
にしながら森にやってきた。
I
もののけ WJの作品にはほとんど農民が出てこ
-鬼の側かう人聞を見る
この作品を見たときに私はある作品を思い浮かべ
ました。それは二つあります。先ほどジコ坊がエボ
1
1の背を箱に入れており
シ御前からいただいたシシネ1
i
j
辺的な役割です。 ま
ない。武士も登場しますが、}i'
ました。そして運び出していくあの場面 を見たとき
してや京都の貴族の世界、天皇や皇族の煩いという
私はこの場面をすぐに思い出したんです。大江山に
のは全 くとい って良いほとす
作品の中に拙かれること
すむ酒呑童子という鬼を退治をした最後の場開であ
はありませんでした。 しかしこの作品はこの天子と
ります。
森との戦いであったと私は見ているのです。
都の権力の体現として現れてくるのがジコ坊なん
酉呑章子の物語は、大江 山絵詞とか、 j
酋
大江山の j
呑竜子絵巻とかと 言われて南北朝時代のころから作
J
;
}
jはいろんな方法で人々を欺いて自らの
です。 ジコ -
られ出し、江戸時代もいろんな作品がちょっとずっ
B的を達成しようとしている 。そしてこの作品はそ
絵柄が変わったり、物語の部分がちょっと変わ った
の目的を達成しようとするジコ坊を中心としながら
りしながら基本的には同じ物詩が延々と描かれつづ
物語が実は展開してい っています。では、ジコ坊は
けます。その話は非常に単純であります。 しかしそ
何をしに 山にやって来たのか。それは都にいる天子
れは繰り返し繰り返し語られつづけ、描かれつづけ
が山を、あるいはその支配にな びかないタタラ場を
1
を脅かす鬼たちを天皇の
!
l
i
}
J命
る。その物語の筋は者1
52 ・人間文化
妖怪と現代文化
を受けた i
J
;
(頼光とそのう主が深い鬼が城に人って鬼
けてきたのです。
をj
吹き、 l
守 を切り落とし、都に持ちかえ ってきて、
H
l
I
から 言 えばシシや 1の首がたくさん
逆にシシ有11のi
めでたし、めでたしで終わる 。 この国は天子の支配
天 子の元に届けられてきた挺史である、と 言 うこと
する国でどこにも鬼が住むそういう場所はない。草
ができるのではないか。 この作品は構造的に見た;
場
も木もすべて天皇のものでる 。鬼神、あるいはそれ
合にはまったく酒呑童子 の物語の悦点を、都からで
に類するものたちが天皇 に逆らうことを許さないと
危の側
はなくて、鬼の側から :
l
W
iいた作品であ った。 j
いうことを延々とほめたたえるように抑lいた単純な
に身を寄せることによ っ ていろいろなことが、 'r~;jll奇
ストーリーです。その j
凶呑輩子の背が者1
¥
に巡ばれて
l
践にとって J
f
!
.
t
葉樹林の問題であるとか、あるいはタ
いく場前l
の背景の苅になった場而は、 実際に武将た
タラの問題、製鉄業者の 1
1
1
1題であるとか、あるいは
ちが争いをしたことを伝える絵巻物、例えば後三年
Jと
天皇という者がどういうものであ ったのか、村'U
の役の合j
i
役絵巻を兄ますと、 i
原義家がそれに逆らう
か、人!日!とは何だったのかというようなことが抗け
ような清原の一族たちをみ;から次に討伐し、その伐
ると与えたのではないかと忠います。
をどんどん切りおとし、 首 をトロフィーのようにし
『もののけ f
t
l
:
d はエコロジーの問題であるとか、
ていく場而と重な ってまいります。また実│僚の合戦、
環境 M
U
J
&の I
l
j
.
i
:
i
fであるとか、自然{米生の問題とかい
平治の乱のを描いた絵巻には藤原信西という後内 i
n
r
ろんな問題を合んでい る作品であるのかもしれませ
の側近を殺してその首を都に持ちかえ ってくる場而
んが、少なくとも妖怪学、在、は別に山 1
1
日行駿の作品を
があります。
人間の白をなぎなたの先につけて都大路を、大路
読むために妖{雫研究を始めたわけではなく、ただた
}
i
t
f
.
し
と 言っ たら良いのでしょうか、みんなに見せて、
人I
I
J
Iはこんなふうに酒呑屯子を j
吹きながら退治した
またま鬼の問題、鬼退治の訴を凡ていてよくもまあ
そして天 皇ゃあるいは上皇にその首を見せることに
ものだと、鬼のほうにも少しは同 '
I
i
'
jしなければと鬼
よって、敵を倒したと Lて恩貨をもらう、そういう
のことを考えながら研究してきて、そのま[J識があっ
ような形になっていた。 それと同じようにその枠組
たことで宮崎駿の [もののけ姫 j に 1
1',会ったときに
i
j
l
q芥童子の物語も敵将の首ではな
これは桝谷主チの鬼退治伝説の裏返し版ではないか
みを借りながら、
く妖怪の I~I を都に持ちかえ っ てきてがi 光たちは思1'i・
というふうに気がついたのです。!私退治伝説のパー
をもらう、という話になっている 。消呑童子の物語
ジョンとして 『もののけ f
t
l
:
U を読んで見る必要もあ
は徹底的に都を中心としてそれに対抗するものは鬼
るし、そして逆に大江 11
の泊呑童了伝説というもの
であり、制圧すべきものだというふうに柿いており
をもう 一度読みなおしてみる可能性がまた生まれて
ます。
くる気がします。
宮1
1
奇駿はこの基本 f
内な枠組みをそっくり使っては
l
i
雪存童子の絵巻物の場 1
mとの類似を私は指摘した
いますが、反転させました 。者1をはるか速くのほう
だけでありますが、妖怪学によ って、絵巻物と絵柄
に押しや って、鬼の i
l
!
l
から、彼はそれをシシ神と表
の桃閃の類似も考えていくことによ ってまた別の絵
現したわけですが、シシ祈lの側から都を比る、はる
国側究、絵巻 i
i
)
[
-究みたいなものができるのかもしれ
かかなたに都を見る、人間の世界を見るといったら
ない 。私たちは、最初に 111しましたように速まわし
良いのでしょうか、シシ祈lの森の側からや1殺しにや
の制点から、す ぐに
ってくる人たちを揃いてい ったというふうに 言 うこ
とができるのではないでしょうか。 シシや 11の首を取
含むとかす くに言 うのではなくて、人類学的なある
見
いは民俗学的な、時には考古学的な視点から、 ー
りに来た 天 下の側のジコ坊からしますと、それはシ
『もののけ姫 j を考える上で画像に比える研究成果
問題を
fもののけ姫』 は環境の │
シ神ではないんです。 明らかに鬼の首なんです。 あ
を{史いながら作品を読んでいく必要があると思 って
の首を取 って森を天チの領域へ、そしてそれが終わ
おります。 しかし、妖怪学というのは何のためにな
ればさらに奥の山に住むシシ判lの首を捜し求めてま
るのかということをしば、
しば 言われます。私たちは
たジコ坊たちは出かけていく 。 ですから仮にシシネ1
1
l
l治の物語を繰り返し繰り返
このような幻似を、鬼 i
の首と 言 う言葉が許されるならば、ず っ と私たちの
し諮ることによ って実質的な権力と 青 うものを支え
歴史と 言 うのは天皇 とそれを j
I
-'心とした人々がどん
どん白然というものであれ、あるいはそれになびか
てきたのかもしれないのです。
符1
1
奇駿がそれを反転させるような物誌を宮 1
1
1
奇駿の
1
の首を取りつづ
なかった地域の人々の首を、シシ相1
ネ
11
'
,して、その物語が私たちの心を t
J
話として初i
きH
人間文化・
53
妖怪と現代文化
っとしたらようやく私たちは鬼ではなく、 天皇制国
にはジコ坊にあきらめさせて首を返さ せ ました。で
の視点を私たちが少し ずつ獲得し始め
家ではなく 日u
もそれは実は うそかもしれない現実の歴史とは違 っ
ていると 言 うことを物語っているのかもしれませ
ているのです。た くさんのシシ神が死 んでしま って
、
ん。私は 『となりのト トロJを見たときこんなに自
となりのト トロは死んでいったコダマの末育だ、
った
然を失い、妖怪を失い、そして霊を、目に見えない
のではないかと い うふうに私は思っています。 この
ものを感じる力を失ってしまったのかということを
『もののけ姫 Jの最後に僅かにコダマがほんのちょ
教えられて悲しくなりました 。 わずかにサツキやメ
こちょこと 出てくる場面で映画は終わっていたかと
イという幼い子供がほんとに素朴 な純粋な気持ちで
思います。
見ることが出来た妖怪がト トロだ ったんですね。そ
もののけ姫の最後でアシタカはいいます、 「シシ
のトトロは鋲守の森と呼ばれる 非常'に限られた森の
ネ1
1の首 を人間の手で返したい 」
。 サンはい い ます 、
中で剤1々と生きている妖怪だ った。それが現代の妖
「人間を信じない」 。 ここで表現されている 「人間 」
怪なんです。
は我々現代人の先祖 であり、そしてまた私たちはそ
[もののけ姫 j の世界を彼が描 いたとき、舞台を
の末喬だと 言 ってよいかもしれません O シシ神の首
室町時代ぐらいに移しました。 そうすることであの
を私たちは本当に返せるのだろうか。 ひょ っとした
作品を拍l くことが出 来 たのです 。 この 『 もののけ!ll~íj
らもう返せないかもしれないという 思いが一方には
か ら何百年かたった後の日本人の姿が 『となりのト
ありますが、宮崎駿は未来に向かつて少々説教 くさ
トロ 』の日本人の姿でした。 もののけ姫の一番最後
いところもありますが、返して見せたわけです。私
で、シシ判lの首が斬られたとき、コダマ、つまり小
は、人間だと 言 われているあのジコ 坊が好きなんで
さな森の精霊がたくさん死んでいきました。 た くさ
す。 と同時にジコ坊を │
当分自身の分身だと思うと恥
ん死んだんです。宮崎駿はシシ村lの首を作品 の最後
ずかしい思いもいたします。私は妖停学がそうい っ
1
1に返させてました。 いったん奪 った首をジ
にシシネ1
たも の を考える手がかりになればいいなと思 って
、
コ坊に都に届けさせませんでし た。人間の子でシシ
今 日このような I
易でちょ っとi
孜漫にな ったかもしれ
相1
1
に首を返そうとサンとアシタカが協力して、最後
'
l
l
いたわけです。
ませんが、話をさせて T
Comment
脇田和子
滋賀県立大学人間文化学部
これは昨年の 1月1
9日に開催された人間文化セミナ
そういうものがここで逆転されたと い う視点は非常
ー「
妖怪と現代文化」の講演記録で、民俗学の権威、
に面 白いと思いました。小松先生の妖怪学 を皆、 か
特に妖任学の第一人者である小松先生に、最近流行
ら か つ て形而上 I~I 分の 頭 で考えた哲 学 だと 言 っ たこ
りの 『もののけ姫 Jを例にとって、とても新しい視
とがございますが、非???にそれが現実の我々 の生活
点から解説、絵解きをしていただきました 。鬼退治
と密着 している視点で最近の 『もののけ姫 j を解説
という形でまつろわぬものとしてそれを退治するこ
して頂き、良いお話を伺えました 。
とによって権力支配というものを打ち勝 っていく、
54 ・人間文化
紙 上 版 企画展
『
一本のうちわから j オープンキャンパスうちわ班
報告上田
洋平(大学院人間文化学研究平1
)
はじめに
2
. オープンキャンパスかう博物館での展示へ
昨年のオープンキャンパスで、私たち学生有志は
『
一本のうちわから Jという題で企画展示をおこない
ました 。今回ここにそれを紙上展示というかたちで
採録していただくことになりました。 その内容に入
る前に、この展示のできた経過を紹介しておきます。
オープンキャンパスの 2日間が無事終わり、当初
の役目を果たした 『
一 本のうちわから Jでしたが、
それなりに苦労して作った展示であっただけに、た
った 2日で片つごけてしまうことが惜しくなり、展示
の則聞をしばらく延長することになりました 。 人
!
日j
文化学部棟の玄関ホールを、その後約 1ヶ月間お借
りして引き続き展示をし、 9月に入ってようやくそ
れを片づける段になりました 。
そのときになって、かねてより交流のあった多質
問立 博物館『多賀の自然と文化の館 Jから、 『一本
のうちわから J展を多賀の方へも持ってきて欲しい
とのお誘いがあり、この展示は丸ごと移動して、館
Rで│
司 じタイトルで 1
9
9
9年 9月2
3日から
の企画展示 2
1
0月3
1
1
二
│までの則 1
m、展示をさせていただきました。
本式の陣物館での展示ということでしたが、終了後、
係の力ーから教えていただいたところでは、おおむね
のみなさんから面白がっていただけたということ
1
.r
一本のうちわかう』までのこと
1
9
9
9年
、 7月2
3日と 24E
I
に、県立大学のオ ープン
キャンパスが開催されました。それより幾月か前に、
担当の黒田末寿先生から、このオープンキャンパス
に合わせて何か企画できないだろうか、と相談して
いただいたことから、 『
一本のうちわから 』 にまつ
わる活動は始まりました。
その前年の 1
998年 8月、高橋美久二先生の指導の
もとにおこなった犬上郡多賀 I
I
Jの廃村向之倉の民家
での民具採集のときに、蔵の奥から 6
0本ちかいうち
わが見つかっていました 。黒田先1,1の提案もあって、
そのうちわを使った企画にしようということがすぐ
に決まり、 u
乎び掛けに応じて集まった学生有志で
『オープンキャンパスうちわ班 Jを名来って、調査
に取りかかったのでした 。
見つかったうちわの表面 には様々な J
占の名前と所
在、電話番号などが印刷されており、その情報をも
とに、それらの庖のうち、現存するところを探し出
し、うちわを持って訪ねて回る、というのが私たち
の調査でありました。うちわを持って訪ねて行って、
うちわの使われた当時の話を聞く 。そうして見えて
Jて
きたことを紹介しようということでした 。何が H
くるかわからないけれど、何か而白いことができそ
うだという予感は、はじめからありました 。
それは行き当たりばったりで、調査といっても調
査でないようなものでありましょうが、聞いて歩い
て集めた事実を積み重ねていくことも、地域を把掘
する │
僚の、ひとつのやり方であろうと思います。
ともかく、そのようにして集めてきたいくつかの
話をまとめて、整理し、オープンキャンパスの当 │
二
│
まて、かかつてなんとか JI~ にしたのが 『特別展 一本
のうちわから Jでした。
非常に短期間で、とりあえず作 ったものではあり
ましたが、その害J
Iにはおもしろいものができたと思
います。 オープンキャンパスの企画として、地域文
化学科の活動の 一端を紹介する上でも多少の参考に
はなるだろうというほどのものにもなりました 。
この展示の成立にあたっては、 !
安
!
,
F
F
l、高谷、武邑、
高橋各先生に指導を受け、教えていただきました。
で
、 J
よ
1
わぬ 1
1
'
r
t
止をしたものでした。
3
. 県の環境イベン卜への出張
多賀 I
I
Jでの展示も終えた 『一本のうちわから Jで
したが、それですべての仕事を終えたわけではあり
ませんでした。 この展示の準備を進めていたときに、
高谷先生から、先生が実'1J委員長を努めておられた
滋賀県の邸坑イベント『夢発見エコ交流 あなたの
環境へのこだわり大募集』で、この展示をして、さ
らにそれについて発表して欲しいという依頼をいた
だき、そうすることになっていました 。それで多賀
1f
'
J6日と 7日の 2日間、今度
町での展示後すくいの 1
i
'
6Jに移しての展示とな
は場所を大津の 『ピアサ、淡 l
りました。展示の規模は縮小しましたが、そこでは、
『
一本のうちわから Jというタイトルそのままのスピ
ーチをさせていただき、これまで大勢を占めていた
見方ではなく、文化の問題として環境問題をとらえ
ることはできないか、ということを、展示にあたっ
ての訓訟の経験を交えて提案させていただきました 。
以 │
ごのような経過をたと った『一本のうちわから J
ですが、実はまだ完成したとは言 えなくて、去年聞
き逃した応への調査も、引き続きおこなっていくこ
とにしています。 内容をご覧になって、不備を指摘
していただき、さらに充実を図りたいと思います。
R
5
人間文化・ 5
紙上 版 企 画 展 『
一本のうちわから I
紙上版企画民
P
一本の
うちわから
日
向之書1
ま芹川上流の南岸カルスト山地の北斜面海妓 300メートルの
0年代町人口 は 95人となっでいます.十世
山腹にあった村です.明治 1
軒ありました.その後過酷化が進んで昭和 45年に廃村に伝りました.
m
一般に山地町集落では民焼きや割本(軒)を売ったり‘材木を った
りとLウ仕窃で暮らしを立てていました.ほかに畑の作物の行商カイコ
闘い等もありました. のんびりとしたものでしたが、 大Eな暮らしのた
トI
こ
うちわをパスポ
め ア刈カへ出樟ぎにいく人も多かったのてす. 向之宮からも出格ぎ
量に西陣植に世う金糸銀糸を作るための箔押しとLウ家
に出ています .i
同工草的な仕恵も盛んになりました.
1998年夏.私たちは措置県犬上剖町山村町民家から、たくさんの皇具を保集して来ました.その
なかに 50枚ものうちわがあったのです.それがこの企画のはじまりでした.
山村は向之書とL川、ました.現在向之童は滋賀県犬上郡多賀町のうちの 字てすが、今訪ねて
昭和 2,30年代田眺め.写真手前に畑が見えます.このあたりの山村
も睡も住んではおられません.昭和40年代半ばに廃村となり、風雨のなかで、その身を朽ちるにま
]
l
を
知
かせています.かつては 90人もの人の暮らしが息づいていたその面 Eもすでにえよくなり、その t
る人もやがて少えよくなりました.
r
ぉ多賀ゴボウ』と呼ばれ、京都て1
まf
これ広し
には正月が迎えられん」とまで冒われたそうです.
山町上り下りは大藍です、宮もたくさん障りました.しかしそういう暮らし
のためか 山町人はとても堅実で思耐強い買賀町持ち主として知られてい
ではゴボウが名産で
地I;lと地埴の文化を理解するために 私たちは地場に入り 人に学び、警に母ね、またさまざま
怠 仕 方 で 見 出 き 考 え ま す.今 そ の 耳 ら U立すでに絶え、人も失われつつある時に、私たちは、
認を語ってくれるのです .
モノの声に耳を遭ましてみます.その需になって母ねれば、モノもまた 地i
自の前のうちわをじっと眺めてみます.すると うちわについての織々な聞いが生まれてきました.
それが軍 歩.そして私たちはうちわを持って出かけます.うちわはこうして弘たちが地曜の暮らし
とその歴史へと踏み込むためのパスポ トになるのです.
ました.うちわをきちんと残しておいたのもそういう気置からてもょうか.
男町人が背負っているのはセタです . ~もとには荷柱が見えます. 主な
うちわがたくさん出てきたわけ
h
山道での荷の運搬はもっぱらセタを使います. ちょっと休憩する時も
腰を下ろすと立ち上がるのが大Eなので 荷杖をセ剖こあてがって立っ
ヨyコイ ヨシコイ j
たまま休むのです. 米債をおいねて(背負って) r
とのぼることもあります. 山地ですから、米は取れなかったのてす.
-t
干の家から.なぜこんなにたくさんのうちわが出てきたのでしょうか.もちろん この家 1
左うちわ屋
害の容さの代わりに、夏は濠し〈 近くには「謹賀町北海道 j などと呼
さんではありまゼん.また、うちわのコレクターというのでもありません.これらのうちわは、毎年毎
年この家の人がもらったものを‘大切にしまっておいたものなのです.え主ぜ、毎年うちわをもらうのか.
喝な商庖がお得意さんに配ったからてす.だから‘うちわの
それはその頃 亘ともなれぽ いろt
車を見てみると それを配った庖の名前が書いてあります.地峨を回ろうとする時.うちわの絵柄も
さることながら この 裏面の情報が とても大きな手がかりになるのです.ところで、えよぜうちわが
ばれたようなところもありました.廃村に Z
よ
るまで!il 槽は持ち込まれま
a
1年7月1日. ζの頃はすでに廃村.今は ζこに見える家も崩れ
昭和 5
てしまっています.村人は山を下りて彦被近辺に住んて丸、ます.お草
そん与に配られたのでしょうか.
うちわは昔、毎日町暮らしにかかせない大事なモノでした.うちわは単にあおいで:習を得るほかに
はまだ残っていて.後岸や盆にはかつての村人の寄もあります.近年
氏神のお祉を建て直し、春と秋には神事を行います.そ の ほ か 春 夏
えばそれは蛇をはらうのに恒われました.話踊りにも使わ
さまざまな暮らしの場面で憧われました.伊l
れました.ガスコン口のない時代てす、七輔の火を起こすのに慣われました.一本のうちわにも 今
の道の帰除などにも村人の量が見られます.しかし、代替わりがすす
と比べてたくさんの仕事がありました.だから.うちわはみんなに配って喜ばれたのてす.そして、お
庖から配られることで、うち bはいわばチラシのようにもなったのです.
うちわの実家を標せ
地盤量へ
うちわをじっと見ていると f
これらのうちわはいったいどこから この山の中町家にやって来たのだ
ろ
う Jrうちわの耳に名前が見えるこのお庖は今どうなっているのだろう Jということが置に怠ります.
そニで私たちはうちわに脅かれた情報を手がかりに、現存するお底を確認することにしました.うち
わの実家を降そうというわけです.その結集.うちわに刷られた 50軒のうち‘ほとんどのお庖の現状
を確認することができました.
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6 ・人間文化
かろうじて残っている臣家から‘ここにあるうちわは出
向之官は昭和 45年に廃村になりました.うちわが見つかったお家の方は それより阜く昭和 43年
に山を下りておられます.てすから、このうちわたちは今からおよそ 30年前までに作られ 配ら札
使われたものだと考えられます.その聞の世の移り藍わりはとても描しいものでしたからうちわの実
家であるお庖もそれを僅った人たちも.その移ろいのままに、あるいは蝿り あるいはなくなり、書
を藍えているに遣いありません.それがいかに Eわったかまた‘ Eわらなかったか 払たちは回りた
い.かつてこのうちわが使われた時.どんな暮らしがあったのか、間りたい.私たちは、問いとうち
わを問えて 山に 町に、うちわの実家を訪問しました.そして‘それは時間をちょっと越えて か
紙上版企画展 [
一本のうちわから J
西崎魁錦PIi綿・ふとん・打ち直し
多賀町多賀. もとはお多賀さんの f
しゃも GJ を作っていた.1
,見主人の時
にふとん屋に. 大学の寮などへの貸布団もしている. 昨年底を閉めたが、
工場は今も操業している.
西島高寿堂(西島百貨庖) 日 用 品 菓 子 茶 ・ 荒 物 な ど
多賀町多賞。多賀でも最も大きい?ラスの l
苫で、歴史もそこそこ古かったが、
建物は一昨年取り接され、現在は駐車場になっている.
人間文化・
5'
7
紙上版企画展 [
一本のうちわから』
木野商庖服地
彦恨市銀座商庖街.現在は紳士服の専門庖 o 100年以上になる老舗.
58 ・人間文化
彦I
I
I市上えびす商庖街 o r
上えびす高居街Jは「はなしようぶ通り」として
商庖街撮興策を展開中である.庖構えも看板も新しい.
紙上版企画展 『
一本のうちわかう j
うちわとは何か
う
ちわをじっと見てみます.すると いつも伺置なく使っているこの過具に聞する聞いが 初めての
ように生まれてきます. r
うちわはどうやって作るのか Jrうちわはどこで作っているのか Jrそもそも
うちわとは何なのか」といううちわ自 身に討する問いです.そして私たちはそれを解きうる可能性を
うちわの柄に貼られたうちわ屋さんのンールの中に見出しました.私たちは.問いとうちわを揖えて
うちわ厘さんに向かいました.
① 竹は左のような状態で仕入れる.うちわの地紙は無地の飯に害か
ら,主主のあった図柄を印刷したものを仕入れる.地艇は四角昨なので
角の方をあらかじめ切り落としておき.糊の無駄遭いを防ぐ.切り落
とした紙は f
避げをつくるJ段階で引用する.
日
叫
,
→ 「逃げを作る」 とは‘真四角の紙の底辺町中失に、ナイフで切れ
目を入れること.ζれI
t
!
也紙を骨に貼った時紙が左右に引っ張られ
て陥れるのを紡ぐためである.切れ目を入れることで左右に余描を持
たせることができる.これは「軍あき」のうちわにはなく、全面に駈
を貼る型に特有のものである.
ショウドク
② 1
舗が付きやすくするためにあらかじめ水で湿らせておいた紙を
ハケで糊を遣った竹に揺り付ける. 片面ずったわしで立でて 紙を
びったりとくつつける.この段階ではまだ紙より竹町方が長い.
一片品 ‘、
c
.;'~;~
I③②の拭態で木枠に柄を差してひと瞬ほど陰干しする.
④ 乾いたら形を整える.
,主主のうちわの形にヘリを裁断する.転い
たうちわの真ん中の骨にタガネを合わせてこれを木づちで打ち余分
に出ている紙と脅を切り落とす.半分が清んだらうちわを轟返して同じ
ように切り落とす.
例/;さ
⑤ ④までの状態では左右の融妙な葦などが瞳るので、はさみでヘ '
J
をきれいに処理する.下半分に瞳った紙はヤスリでこすり落とし 最
後に.つながっている部分をピッと切る.この作業を r
j
t!
l
lJとL、
う.
⑥ 「化粧 Jが済むと、今度は「ふち貼り Jと『ショウドクJを貼る.
「ふち貼り」は、ふち貼り周の紙に糊を付けて‘これを 方のかまの
禍元から巨対酬のかまの椙元まで貼り付ける.かまから骨になるとこ
ろは 紙を半分に折り 掛んで鮎り付けていも「ンヨウ ドクJは全面
に紙を砧ったうちわ特有のもので、「迅 1
1
Jを作った崎町切れ目を隠
すものてある.これも糊で車韮に貼り付ける.ショウドクを必要としな
い『霊あき Jのうちわには f
耳貼り Jをする.耳貼りは。かまから骨
‘~~
になるところに、うちわの面を挽むようにして貼り付ける.
① 畢直に「柄巻き」をして完成.柄巻きは表骨1
の柄の上部にくるり
と巻<
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耳目占り
仕事
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七 輪 ・蚊 織 の 頃
この時代
うちわは生活になぐてはな
らない存在でした.一家にひとつとい
うよりも、 ひとりにひとつずつというの
うちわ
カレンダー
2
セールスはサンプルを持 って得意先をまわり
,主主があればその都度艶注します.
3
が基本でありました.
扇風慣の登場
時代の流れに乗って扇 量 憶が置場.
しかし扇風機はまだ繁沢品の域にあり
ました.うちわは庶民の聞でまだまだ
4
必需品としての地位を保っていました.
ガスの普 及
5
しかし ガスの普及.ここに来てうちわ
は台所から速われてしまいます.
6
7
ヲーラ一豊嶋、そして敏の減少
そして、クーラーの畳場.うちわにとっ
8
てこれは 愚大の敵となり ました. r
諌
む
」 品、う点で司役割を茸い‘うちわ
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に突て
うう
よ・そ
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ま円か
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制町田
のでと
・
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でンた
9
に致命的な打撃を与えます.
さらに、車激な宅地開発により蚊も
減少.うちわの本来の活躍の捷台を
崩していきました.
やがて、花火と盆踊りの友
11
以前は生,舌に欠かすことのできなかっ
たうちわも. 今は装飾品. 夏というイ
12
メージだけが先行し、日常生活からは
遣い存在になりつつあります.
人間文化・
5
9
紙上版企画展 「
一本のうちわから j
うちわは環績と地主義文化の産物です。うちわを取り巻くのは、地媛と、地域文化です.そこには人間の営みがあります.
ょうこんなん持つてはったなあ。今はもうこんなんやってないですわ.昔は家で材料仕入れてね‘そして上と下に
紙を貼ってやってたんですね.今は もうこういうのじゃなしに プラスチッヲのうちわがよく出とるんですよ.自由傑でも貼
れたりできるんでね、 大量生産できるんでね.
今はもうそういう 竹のうちわは高い からね、そういうなんはみな手で貼ってる わけですわ.プラスチッウのうちわ
ふち貼り」いうんですけどね、「化粧貼り」いうてね.それをしてないいうのは機械が貼
はふちをしてないでしょ. r
るんですわ.材料を担量級へポッと入れたら上下紙をベチャンと、ね.そうすると大量生産ができますでしょ.結局 人
件費が高くつくんでそう Lヴ機械を作ってね.
若い人はこういう仕事をしないですね、今は.お金に ならないですよ.一本すんのに大分時聞がかかるんですよ
ね.糊が手に付いたり竹で傷ついたり するからね、と‘そんなしんどい冒 して、若い人はしないからするのはもう年
寄りの人ばっかり でしょう
大量生産できない から、 需要があるのに大量生産できなかったら肱目 でしょ.だか
らプラスチッウのうちわが出てきたんです.
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昔はしてたんですけどね.私らもそんなん、自分でやってるより 仕入れて売ってる方が商売が早い ですしね.竹
のうちわいうのは一本の竹を割って、糸で縫ってるわけですね。これをする人が少ないですしね. プラスチッヲと竹
と比べたら 大分値が遭うんですよね.注文される方は 安いに越したことはない からね.そしてここへみんなコマーシャ
ルを入れはるんですよね .と
、 タダであげるもんだと安い 方がい いわけです.こういう竹のはあまり売れない んです.
る蜂術を持ってる人がいないんですよね. 竹もない ですしねえ.ウチの母がしてたからねえ.
一本の 竹の先を膏j
ほんでもここ 10年ぐらい前まで貼ってたんですよ .でもこういううちわが出ないようになってきたんです .母も年取っ
て来ます しね. 量ができない ですしね.それやったらもう、メ カ でしてる方が安くあがるでしょ. 本鮎るのはな
かなか大変なんですよ.竹を広げて裏表糊を塗ってそして紙を貼って、たわしみたいなもんで押さえつけて.一晩置
いて干 して。そして型を置いて切り 落とすでしょ.スカッと落ちないからハサミでちゃんとして.それからまたふちを細
い紙を表半分襲半分に分けて貼って行くわけですね. 本仕上げんのはもう大変なんですよ.そしてもちろん印刷も
せんならんしね.そんなんやったら既魁晶の方が.竹ゃったら 200円ぐらいしますからね.プラスチッヲゃったら 10
0門ちょっとでしょ.それやったら プラスチックで作っ てお客さんに 2本あげてる方がお客さんは膏 I
tはりますやんか.
別に竹でなくてもいいでしょう。
ほんでねえ、音のうちわは、 竹伐る時期も決まってたんです.冬、寒のうちに伐るとね、虫が食わないですよ .
今はもう竹蔽 がもうだんだん駐車婦になったり .その方がお金になるでしょ、竹厳作ってるより .竹を作る人がない
から、こういう竹のうちわが余計に高くなるのは、 中固から竹を買ってるんですよ.仕入れてるんですよ.そんなん
だったら 別に竹でなくてもプラスチ、ノヲのうちわでも.うちわって一年きりでしょ 、基本的に.盆踊 りかなんかで使った
ら、また注文もらうわけですね.で、ウチらもそうでなけりゃ、 そんなもん 5年も 10年も使われたら商売になら ない
から .で、お客さんかつてあんまり お金かけずにね. 今はカラフルなやつの方がいい から、音と全然遣うて'しょ、感
じが.昔はち ょっ とシックなね、おとなしい柄が多かった.花鳥とかね.竹は今はもう基本的に売れないですわ .お
客さんの手が出ない .
今いうて今 くれ』いうお客さんが多い んですよ.僅端にいうたら.r
盆
それから今はもう跨負が早い んですよね . r
踊りするから.一週間しかないから作ってくれ Jとか.そうするともう、メー 力一 の方は プラスチッヲのを作ってる方が
早い んですよね。で、 竹のは梅雨時やったらカピが生えるんですよ.カビが生 Fてくると今度は虫が出てきよるんで
すね.穴があいてるのはだいたい虫食いなんですよね.カビが生えたりして、 在庫を作っとっても、きれいに拭かん
なんでしょ。そんなんつだったプラスチッヲは虫は絶対食いませんから‘そっ ちをしてる方が楽 なんです .
で. お客さんが見た感じもプラスチックの方がきれい ですよね.こっちの方が気持ちいい んですよ.と、 メーカー
の方もこっちの方が健械でできるし大量生産で安い て'すし.お客さんも f
こっちの方がいい』と.だんだんだんだん
竹の 方が廃れてきますし、 作る人もない です し.ジ リ貧になって来るんですよねーで、お多賀 さんみたいに特別に 竹
のうち わが欲しいといわはるのはするんです けど.値段は当世高いですね.だいたい 竹厳がなくなってきたいうのも
竹の組品が売れんようになってきたんが原因 のひとつて'
すけどね.
昔はコ ンロね
、 今はガスでしょ.大体.うちわは コンロの火起しもいける しね、 蚊を追う.扇風樋やクーラーはな
いでしょ.ほんでまた盆踊り とかね、 花火とか に持って行かれたでしょ. 今はコンロの火を起こすとかいうのに使わ
ないからもう 小さいうちわになってきてね‘ カラフルなもんにね、もう筆飾 ですわ .
60 ・人間文化
紙上版企画展『一本のうちわから』
事賀大社の門前町として、かつてはにぎやかだった多賀.その多賀で、 200年もの長きにわたって宿屋を続けてきた「かめや」さん.その間俸々なたくさんの人々
がここを訪れました。にぎやかだったこのまちも、いつからか人の声が遠のき、今ではひっそりとした空気の中にあります。いったい、このまちにどんな移り変わりが
あったのでしょうか。現ご主人と主将のお話にみえる宿,白書の移ろいのなかに、その様子が浮かんできます.
主 人 昔 は ね‘明治時代は薬売りとかいうて富山からとかね.行商の方ですね。ちょうど中山道
の中間になりまずから.そういう行商の方の宿というか旅徒です.
↓
活躍していた時代です。 美憩伊~への山超えの道もあり、また
古くからの街道に近い事貨を行商人は書く行き交っていました.
やがて近江鉄道が開通し、人の流通が容易になりだすと‘
古くからの「講」の参拝客に加えて多賀大社への参拝者が
増え始めます。
「講」とは神社仏閣への容詣や寄進をする目的で作られた
信仰集団ですが、 多賀大社にも「事賀講」というのがあり
ます.講には「代参」という,舌動のあるものがあります。こ
れは講のメンハ のうち、〈じ引きや順番にあたった人が‘
メンバーで出し合ったり摘み立てたりして工面した旅費を持っ
女 将 幸 賀 舗 の 人 で 『かめや講』っていうのをしてもらって.
て 代表して神社なら神社にお寄りし、お札をもらってきて
みんなに配るような活動のことです。
主 人 早 ょう言え I
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交通公社の指定旅館』みたいなもんやって.舗のガイドプツヲに中山道通つ
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へ行ったら。 01
こ泊まって、
ての道順が書いであってね
て a ・ 」って書いてますのや.
かめやには古くからこの代参に訪れた人たちも,白まってい
ました。
多賀に行ったらかめやに泊まっ
主 将 「 多 賀 講 指 定 書 賀 大 社 J って書いた看板あげてたんです.
主人出征される時にご祈祷に来られるんですわ.戦争
太平洋戦争中、講などでの参拝客や観光客は減りました
中はそういうお客さんでしたね.そういう方もざわざわし
てました、昭和 19年.終戦の前ぐらいですね。終戦後
が、今度は出征前の祈祷のため多賀大社に怠る兵士たちが
かめやに宿泊したのです。
傷痕
て帰って来られると「命があったさかい Jいうて. r
やがて戦争が終わると‘戦地から無事に帰還した人たちが
,自まります。
は「お礼寄り」の人がずいぶん多かった.戦争に行っ
軍人」いうんですか、怪我された方やらね
そういう方
がょうお参りになって.
宜将あのねえ、風船爆弾やら作ってはったん、設計を、戦争中こ。
! 「アメリ力まで行くJいうてね
え.それを設計してはったん.ほしたら終戦後、 それもみな懲やしてしまわはって.
戦時下であっても人々の歴史に途切れはありません.
以前からも多賀大社へ初詣に来る人は多かったのですが.
戦後昭和 30年頃からその数が急増しだしました。大梅田から
参りに来る人も多かったようです . 1月 15固までは絶えずに
お客がありました.
そのあと4月には事賀大社の大祭でこの時期も客が事〈、
昔は 5月頃までは宿,自もいっぱいだったそうです.
主人 9月から 10月にかけて
松茸狩りにずい
ぶんお見えになりましたよ。 東京の方からでも寝
昭和も中期に入る頃
かめやは、所有する松茸山でお客
台列車かなんかでき島賀の駅まで来てね. 土産に
さんに松茸狩を楽しんでもらうようにしました. これは大好評
1キロかとか 4貫目
で 東京などからも電車を仕立ててやって来るほどでした.
「踏んで滑リこけるほど」松茸があり、収穫したものはすき焼
て帰らはりましたけど. 昭和 40年くらいからだん
きにして食べたのです。 それが昭和 40年頃まで.その松茸
は今、 ほとんど出なくなりました。
今の 4キロゃねえ、ょう持っ
だん公害とか、気候が変わって 山の手入れを
せんようになってきて、もうほとんど出んようになってね。今はほとんど出ませんわ町よそから仕入
れるぐらいでね.
お客は宿泊する人だけではありませんでした。 多賀大社で
結婚式をした迭の彼露宴をかめやで行う人もたくさんいたので
す. そして、 寄り合いにも使われました.
最近、結婚式の扱露宴は、大人数を収容できる、ホテル
のテーブル席や立宣パーティのような形式が主流となり
れらのお客はめっきりな〈なりました。
こ
人筒文化 ・ 6
1
紙 上 版 企 画 展 『 本のうちわから 』
主将糸切り餅屋さんも 120軒くらいあった。
事賀が
多賀の駅を降りたらもう「うちへ寄っておくれ
番にぎやかだった頃、参道にはお土産の名物「糸
やす. 正面持って行っておくれやす. お荷物お
切リ餅」を売る家が並んでいました.かめやにもたくさんの客
持ちしましよか Jとかいうてね. 帰り に買うて
が来て、 事いときには民家に積んでお客を受け入れてもらっ
もらわんなんやろ.r
荷物置いて行きやす.お
たりもしたそうです.おでんをやってもうどんをやっても売れた
預かりしときます」とか。「かめや l
こ,自まるJと
時でした圃 日持ちのしない餅は.あんを抜いて学校帰りの干
供のおやつになったりしました.
言わはったら『迎えに来たげてJって電話しは
る.みんなが
生懸命になってはった.みん
な「近所に配る』いうて5個ずつくらい買うて帰らはるんや.
多い人 1
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らい . r
お事賀さん撃って来た」 いうて配って
歩かはるで。
昭和 45年に事賀町にキリンビールの工場が出来ました.そ
れに先立つ期聞
かめやにはその建設工事関係者が多く
、
そして長く;自まっていたのです.それより前にも BS.ブリヂス
トンの工事関係者もいました. 工場が操業を始めると.樋織
の点検やメンテナンスなどに出張して来た人が泊まりました.
昭和 50年頃までは.ビジネスホテルというものはありません
てもた.交通がまだ不便だったこともあり、日帰りの出張も少
なかったのです.
今、多賀町に往時のような.門前町本来のにぎやかさはあ
りません.それは「交通事情が良くなって
容拝ー観光客は
大型パスや自家用車でや って来て、 駐車場と多賀大社との
間だけを往来し、近江鉄道の駅から続く昔の参道を通らなく
なったから」だと人々は言います. そして‘交通の発達は、
出張や参拝を日帰りで行うことを可能にし‘かめやからもそう
いうお客さんは少な〈なってきました.
現在かめやには工業団地関係の人や鈴鹿の山の登山者
などが訪れるようになっています.
一本のうちわかう
今や、一本のうちわから 、 あらゆる事実と事 f
l、
そ れ か ら 暮 ら し ゃ 人やモノへと、 問 いと話題は桝の
口の よ う に つ な カfりな カfらひろカ fっ て 、 い つ し か 私
た ちの地域理解も 深 まりました 。 私 た ち の 地域 研 究
は、 こういうふうに 始ま ったのです 。 けれ ども、私
たちが地域を 知 ろ うと すればするほど、 地 域 は侭を
m
!
.
は的な
広 げ て い き ま す。 私た ちも、刻々と広 が る 1
研 究 でそれを 追 いかけ て 行 く の で す 。 今 日ご覧いた
だいた この展示は 、 その第 一
口目の報告です。
協力して下さったみなさん
彦根市
多賀町
西野 ごう
た去
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抵村 商!
古さん
かめやさん
コザ イヤさん
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8磁 l
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のみなさん
桜1
高宮 1
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] 大橋淡泊I堂さん
大津屋商 山 さん
彦根l
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J 銀 座 商!日J
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各 広のみなさん
十
日 l 洋平
井上
62 ・人間文化
撤 絢1 怜子
岸川
綾
後藤
中原
洋子
魅妃
奥井
淳子
考治絵里 奈
星野
志保
地域フォーラム
百姓ぐらし再考
高田正子
湖東町住民人間文化学部聴講生
1
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1
二も保)配力も ないのである 。 そのくせ、荒地性のキJ
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はじめに
主Eだけはよくできる 。
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嘆きが牛じてくるので
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もみがらをルー く~}j( v 、ておくと、 }'~Û のけ ぶしの卜で
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4 ~ 5" 後には、 ~~'n に J! ;li l) れ来が変を 1J~ わし
「今年はどうも野菜のでけがもひとつやなあ」 こ
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こ数年、季節句ーに I
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湯気が 1とは
少しの J;'Il'~分が常気 l いから水分を 11!ìまえてきて、づE iLJ­
変わ ってしもた 」 とか、 「化 学 肥 料 ば っかしに似つ
に必~なうるおいを和Iì っ てくれるのであろう 。
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おっかしな害虫がようけでけてき
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とくに机状の 1
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党側の I
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央気も
先十,,-伝~~の J:III 地 は、みるからに作物の円かな実り
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目えにはそんな心配はなく、会Lになる
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J
J
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),の微 1
'物 の 働 き で た だ ち に 分 解 さ れ
て、とい った J
~介で、かつては何もかもが|子く術
1がカッチンカチン
を約ボせんばかりの、色と艶とそしてねイjの匂いを
環していた 。 なんといっても、
もっていた 。 ー
11
に土と、みんなは, iうけれど 「ほ
になるようなことはなかったのである 。
とんどは、 1
1
.
の祈 Jとも言われ、 "
W
)
f、冬以外の不
1
節は l
i
l
J
の'
1
1
'
(
1
取りに追いまくられる Hが続く 。 よ
い
r
.
I
U
か、
でありがしけるために、ずいぶんな労 )
Jを投じないと
い った I'
j~~が矢のように JI~ んできそう 。 でも、ちょ
「守り 」 できないのである 。 '
I
'
f
l
l
: (1
),
+J ち ) や I~ i~1:
っと与えてみてほしし、。 かつて、そうしてきたから
せは欠かせない作業であるが、それをしてやると什
とい って、リン燃やチ
物は 「フルフルといこうなる (よく
f
fつ)Jのであ
4
正被粁 !
l
i
f
iに
る。 この作文ーをか、ると、新 1
,
'
0これけて、
c
ft しい、小 i!"i'-I:_~ijl まりない、
J)R 境汚染 etc
y ぷが今"ほど多く
と
1
1
1
'
1
'
1
'
,
され
の1
h
i栄公化 I
l
u
:
mやアオコの発 '
l
_
i
I
J
;
lとして
て、対也州l
1似川が
深刻になりましたか?チ y素化学肥料の多 1
オゾン I
r
'
i
,
I
T
i
政J
j
:
l
の
イy}
Jな J~ t lkl かもしれないといわれて
なることさえ j
li!こりかねなし、 。
│地 )(l*と初、する耕地整珂1がれなわれ、
1
jくと、なんて野蛮な、 l
i
j近代的と
こんなことを 1
J
9
5地され
た新知 11 では、係寸こががらりと変わって、, !~t ればれの
いることをごイ[J;
I
!かしらフ
むしろ、チッぷがそれで、も足りないと、れんげな
加l
く、降ればどろどろの沼と化する 。 それが、 2
0年
どを作付けてすきこんでいたのはそれほど以前の話
を経て、幾作もイJ:十jけてきたし、凍てにもかけてき
ではない。
たが、どうしても従前からの畑七にはれ~ill l.-、 。 似水
作物の 'lft に必~~な安本がバランスよく配合され
人間文化 ・
63
百姓 ぐらし再考
ているという袋詰めの高度化成肥料 には、 l
Okgl
1
0
十1
-1
5
パーセン トものチッ索、リン服、カリが合まれ
ていることをご存知ですか?早くがをだせ、早く大
きくなあれと 化学肥料を多用して LI~ 必を 117i めたかに
よ
Lえたけれど、同時に多くの病気や L
k育障害も発生
してきたことは事実としてみとめざるを伴ない。
エノキ(よのみのき)の馬木が 2本ある
次にはl.
f
生 虫の問題が心配かもしれなし、。 でも 、
L
.
I
:
するようになっ
人好!との長い暦 と
! の中で、人に千七:
して疎まれるようになってきた。 それでも、葬式が
て久しい 出 は、その生活史の研究 もすすんでおり、
できると、先松│
珂やイ
ヒ 筒にはなくてはならない素材
予防することも 駆 除することも lリ能 となってきてい
として大 切な 1
:需もあり 、「やぶ」の所イf訂として
る。住まい んから考案されてきたのであろうが、例
)
:
L
I
.
"
省式改良使所というのがある
え
は
‘
I
'
(
1
主1
2。
)
十分
はげW
f
i
kの ドがる 思いのする 一瞬であるが、それすら、
今は日正製 品で代
mされるようになってしまった。
に腕熟させた 巴
J
) をJ
I
1いることはもっとも基本である
多くの 「
やぶ」が相次いで拓かれ、道路の見通し
し、J!
U
J
巴に砧み上げて切り返すことなど従米から行
もよくなり、道は拡 '
1
1
面され、新しい宅地 にと様変わ
4してきている 。
りを 1
なわれてきた方法は 、寄生 虫卵を殺して良質な有機
肥料を刊る }
j法 と し て 定 着 し て き た も の で あ る 。
それどころか、毛嫌いされている 7
5
ソ│
ミ出のあるもの
しかしである 。 この 「
やぶ」 には l
i
!i.れた挺!とがあ
る。食べきれなかった野菜や調苅!
属、収穫まで作物
は、 i並に栄主主分のピンハネと 阿 II;~ にアレルゲンも 一
をしっかり文えてきたつるや枝葉などの、いわゆる
緒に食い逃げする一種 の緩衝行川 を米:
たしていたと
州l
のごみ?をはじめ、漬物の床、 微 などの処月!坊と
も
,;
われて いる(とくに 、アトピーとの 関係で)。
2.やぶの効用再考
かねてより、この辺りの農家は民放の近くにいわ
しても 利
!
I
Jされてきたのである 。 なにせ、 i
'
I
姓の生
活には、野菜づくりに伴 つての廃来物が驚くほどた
くさんでてくる 。「やぶ」 を持っていない人が、他
人の 「
やぶ」 にその廃棄物を捨てに来ても、今で言
I
iい屋敷
ゆる「やぶ」と称するものをもっていた 。 '
われるところの必質な不法投棄ではない 。 1
"
1
1
然に
跡が
戻るものだけを遠慮がちに捨てさせてもらう」とい
r人れされす、に草や雑木が生い戊り 、 n然に生
えたものか、柏栽したものか、いずれにせよタケが
繁則して 「
やぶ」 になったのであろうが、歴史の古
i
1-黙の了解であったからである 。
うのが、 I
l
冬場はともかくとして、たいてい 1- 2j
i
M
j
[
l
]
程で
いと, ;
われる家はほとんど 「
やぶ」を 1
9
i
'
+
rしていた
これらの ごみは、 跡形もなく 土 に戻っていった。
「や
(
衣 l、2)。点夏の炎天 │
ーでも 、そこは日 I
J
大地でひ
ぶ」 には、タケの 他
、 ヒノキ、ケヤキ 、 ヨノミ、ヤ
んやりと涼しく 、木枯らしの季節 には氷風を防ぎ、
ブニッキなどの大木もあり、今流行のヒノキオイル
ほっ と一息つける坊であった 。 もっとも、夏でも早
の?ì'í$!; . 殺 I~Î -~~ の I~ 然、 の j{VJ きがあったものか、悪臭
仰や 「
士lともし頃」 には、空腹に n
を覚ました先住
の発生 j
阪になることも、おかしな虫の発生場所にな
民 (
やぶ蚊)が
斉攻撃をかけてくるのには│羽口で
ることもなく、産業廃棄物のたいへん多い民家のく
勺の多いときは最悪で、しなだれかかった竹が狭
である 。何故か 「
やぶ」の巾に捨てられたものは、
い追を本ぎ 、 近くの畑に覆いかぶさる、屋 tl~ に倒れ
対1に杭まれたものと違い、そこに根付 いてはびこる
かかると 1IT'I~rj の的となる 。 かたや、縦横にしっかり
こともなく 7Cどおりの生態を維持しているのである 。
あるが・
。
らしを、腿のある京観とともに支えてきてくれたの
t
l
iを必っているところから、 「地i
よの │
時にはやぶに
いずれにせよ、今 日のように白治体 による 「ごみ処
逃げ込め」と教えられてきた。特に 我が家は、屋敷
瑚施設」のない l
時代、「いずれは土に巡 るものの処理
と 「
やぶ」がひっついているので 良いことも良くな
場」 として利 )
T
Jされていた ことは r
l
J:i!tいない。
いこともよく分かるのである(ぷ 3)
。
コンパインがそま場してくるまで、は出家の必術品だ
環境問題に1"
'
1
経を使っている人たちは、もちろん
H
Iで堆肥化すると良 L、
。 しかし、廃棄
コンポストやJ:
!リ4
Jになり、作物の手としてよく利用
った稲先日竹も J
物の旦がたいへん多いこと、後作をすぐに仕付ける
された支柱の類もプラスチック製品に取って代られ
場合には、 「やぶ」 に処理をおI,V
.Hいするのは手っ取
てくると 、「やぶ」は百害あって一利 なしの存在と
りばゃいのか、今も この習慣は続いている 。特に作
64 ・人間文化
百姓ぐらし再考
物に病害のあった場令には 、新たな感染源とならな
た1
2
束を 、屋恨の上にあがっている l
織人 さんに手渡
いように畑から持ち 山 して始末することは大切な処
しにして作業が進められた。
置でもあ った。
もちろん、処理しなければならないものの総量が、
最大処遇!能力以下である ことはいうまでもない。
さて、!采尿処理といい、 「
やぶ」へのごみ捨てと
わたしの家が最後の茸き替えをしたのが2
0
年ほど
寺でも職人さんはずいぶん高齢であ
前であるが、 当H
ったので、この技術をもっ人は今ではほとんどいな
くな ってしま ったことだろう 。
いい環境問題に取り組んで、いる人たちからは、とん
さて、我が家であるが。約 2
0
0年にわたり 村
│践を
でもないくらしを推奨するなとお ヒ
I
f りを受けるかも
しのいでくれた 茅葺き平屋建ての 「くず屋」 に、同
しれない。でも、出村型下水道が完備し、)j巴えもち
地にて隠居を命じ、同 一敷地 内の 「やぶ」 を桁き 、
をしなくてもよくなり、蚊や州が少なくなって一番
瓦
:
i
J
き 二階建住宅のお目みえとな ったのである 。 H
白
再んでいるのは、かく 言 う私 自身なのである 。あの
三のことである 。ちなみに、 古い家は隠居生活
手1
1
5
61
0辛い労働 (
天秤棒でふたつの机 を合わせて、約 4
1
5年後に取り峻し、天寿を 全 うした (
次頁 l
:
g
ll)。
45 ~;~ を荷なう ) から、解放されたのだから 。 j1'ぱニ 卓
ベンガラ 塗 りから棟 │
二げ、壁っけなと、何度も何
しか頼んだ こと のない 人や、なにもかも「丸見 え」
J
Jけをお 借 りし、約 1年の歳月
度も、親戚の人達の D
であった汲取 り便所を知らない人にと っては、とう
をかけて産声をあげたのが現在の家である 。
てい理解しがたいだろうが……。
I
使↑
生 ・快適性追求
かくして、文化的 、衛生的、手J
ここで、恥をしのんで我が家を紹介しよう 。
)
,
.
:は、建て替え前の1',い家(基本 的に2
0MI
二
前と
j
と村のくらしと共にあ ったものは、どんど
の名目でJ
0
年になる )
変わらない)、右が新しい家 (
築後、約 2
ん過去の存在として払拭されてしまった。生活改需
の平而図である 。
の風が吹き抜けてい ったのである 。
一 見してわかるように、古い家は表の入 I~I から誕
の人 円まで、土 J
tで
、
白1
1
1にJ
!
ニーさ阿ることのできる広
3
. くうしとすまい再考
高度経済成長の波に来って、 E
I
給自足を I
'
J
I
j提とし
い 「にわ (
土問 )
Jがあ った。 「にわ」 には、 「上の
、「風円 」が射 えられ
流し 」 と「おくどさん (
市)J
たそれまでのくらしが崩れだし、多くの此j)f,
f
I
,が山
ていた。「にわ」 は、屋内の作業場であり、着替え、
村にも入りこんできた。 日用制f
j
'
[、食料 品を手はじ
履き仔えの坊として 、 また農繁期には、食事の場所
めに 、耐久消費財そして住宅へと、その波は及んで
でもあった。 さらに 、その東側に 「みずや」 と1千ば
いった。
Jと 「
下の流し」が
れる建物があり、 「いけ (
井戸 )
自然の中にあった麦藁や葦を屋根材に使 った住宅
も瓦葺き 二階建てへと建て替えが進み、阪神大震災
以降はとくにモダンな都会風のプ レハブ住宅もたく
さん建てられるようになった。
昭和1
3
0年代の終り頃からは、:;r:王手き 屋般にトタン
を被せる家が多くなり、麦作 をしなくな ったことも
重なって、以後新築される住宅はすべて瓦茸きに変
わってい った。
さて、械の高い茅茸き屋根の家は、夏向 きにはた
いへん涼しい住居であ った。
あり、洗濯・顔洗いの坊として使用 され、コンク リ
ートの床にな っていた。
もっとも、わたしが嫁にもらわれてきた時には 、
ての流しと食事
都会者にも馴染みゃすいようにと、 j
の場所はすでに板張りに改造され、 「
かまど」と呼ばれ
る出 I
I
i
Jと同ーの床而で、生前できるようになっていた 。
そうであ っても、風品へ行くにも下 jlを履かねば
ならぬ、 トイレにいた っては玄関の戸 を開けて外へ
'
1
1
'
.,
なければならなかったのには閉口した 。 なにせ 、
一度履物を 脱げば、再び外出するまではスリッパ以
しかし、自然素材の宿命で、必ず土に戻 ろうとす
外に履くこと のなか った元都会生活者にとって、脱
るため、 1
0-1
5年毎に葺き替えをしなければならな
いだり履いたりは大変煩わしいものであった 。おま
い。大風の度に誌が抜けて飛び散るようになると、
5
0
年ほとの問、 「にわ」 に据えられた 「
おく
けに、 1
Iのために、丈の長い
葺き替えの時期である 。その F
つし (
天井哀)J
どさん Jで火を焚いていたので、 「
選りすぐりの麦誌が、どこの家でも屋根裏に保管さ
や屋根裏に煤がいっぱい十I
着しており、風が吹 く度、
れていたという 。
揺れる度、務ちてきたごみや煤が、下段も履物も符
当日は、親戚の男の人を手伝いに頼み、人海戦術
赦なく汚すのだ った。 「にわ」 には天井は張られて
できれいに茅ぬき (
麦誌の方向を揃えること ) され
いなか ったからである 。 だから履物を版くことは、
人間文化・ 65
百姓ぐらし再考
一
一
一
t
=
ハ
/
古い家
新しい家
~
表の入口
t
o
,
.
、表の入口
唱咽
A
裏の入口
Mの入口
図1
~
土問の都分
7
よ
己
の2
之が i
jれることを立 l
床するのである 。 l
反│師、泥
んぽ、対I
I
など │
ーと関わっての '
1日 を「下」の '
U
1
iと
んこのfJ日や靴であっても、大きな顔をして家に入り
分けてみるとみえやすいであろう 。 子ども i
主がy
J
Jか
こむことができたし、たらいを使って、どれだけ水
った 頃、いわゆる事業主婦と l
呼ばれた私の生活の坊
を跳ねとばしても、誰にも i
l
l
t
o
:することなく洗濯す
は、ほとんどが
ることができたのである 。
満はあっても、以前とは比べものにならない、文化
IU であった。従 って 、多少の不
1
1
1が必要というご立 見に従 い
、 j
左本的に
対に広いセ 1
n
0.健 康 (
1
0な '
1川ー
を 楽 し む こ と が で き た 。 また、
Jl
心の年1,f
'りも、ご│
沼}
I+さんの 1
:
i
宅で、
「卜Jの生活 j
は間取りに大きな変化はなし、。 しかし、 }
f
i
l
!
円
、
従米どおり新作え、)援体えそして野菜と │
共
l
わる佐川
次に、新しいブJの家である 。冠婚葬祭に │
僚し、絶
トイ
耐所そして台所が同ーの床 1
mに配 1せされた こ
レ、洗 l
を継続していた 。新しい家を j
与さないよう、それな
とは、同 J
U
J1
'
1
甘なできごとであった 。戸締まり O K、
りの心配りをしてくれていたことが、今にしてよく
もう、冬場にあんな寒い思 いをすることはない。そ
分かるのである 。
して、少ない動線で合理的な生活が可能 となった こ
とが、とにもかくにもうれしかった 。
ところで、本屋を新築して、かれ これ 2
0年になる
が、ひとつ h'
艇 のドに台所 }
f
i
l
ι などを持 ってくる こ
とが必ずしもよい こと ではないのが、 付:んでみで す
く山に分かつた。
気管性の I
,
'
,J
'いアルミサッシの i
l
l具は、冬期lT
L
?所の
結露がア;ーしく、
卜分に換気を行なわなければ i
f
u,
,
'
1
:
面
を伝ってきた践が床面を;
i
I
,
!
ら
す。洗面所、)rr:
l
J
,
J
1
場の
J
臭気ができていなかったために、かびが発 1
'
=
.
、結露
による床板のつなぎ日部分からの腐食が始まってき
ている 。 1
1
「の家は、家の j
古l
りのり│
水路がきちんとで
きていなくてしみ込み式だったため出気やすかった
が、それでも「おくどさん」の煙がi
'
l
J
材 の強度を増
すということで 、 築後 1 50~200 年は大 丈夫と 言 われ
てきた。ほどなく生誕 2
0年の技が家は、もう、修理!を
考えなくてはならない年齢に達してきたのだろうか。
さて、ここで 「農家の一 日のくらし」 をざっと思
い浮べてみよう 。都市、出村の別なく、 衣食住、育
児など、通常、行なわれる生活を「上」の生活、た
66 ・人間文化
あれはいつの頃からになるのだろう 。ふと気がつ
くと、私が百官1
:
のおばさんになっていた。 I
1
二Jばか
りの生活から、だんだんに 「
下」 での生活のウエイ
トが布くなり
I1
二J1
日 二通 りの坊を こな さなけれ
百姓ぐうし再考
│
一昔前の農家のくら し│
...苗代の消書風景。後方が畦畔木。
企農作業は、家族総出で行われた。稲刈りが済むと、裏作
である麦作の準備が始まる。
A 田んぼ仕事のない日、伐採された陛畔木や雑木を薪にするのは老人の仕事で、小さい子も手伝った。老人も子どもも
0年頃)。
「家のために有用な存在である Jという実感があった(昭和 3
...発動機で池(野井戸)の水を汲み上げる。すぐに干上がってし
まうため、子どもがその番をしている 。
企田んぼには雑木林が点在していて見通しはよくなか
った。
人間文化 ・
67
百姓ぐ らし再考
ばならなくなってきたのである 。 さあ、困ったぞ 1
してくれた。今は、それをエアコンに頼るのである
履物は、 小屋で、履き替えることになってはいるが、
が…・。収穫してきた野菜も 「にわ」 に拡げておく
そんな暇もなく泥ぐっで飛び込むこと、日に幾度か。
と、今ほどには傷みが早くこなかった 。
農薬散布の服装のまま、或いは稲 刈 りのはしかさ
かつて、 学校を卒業したばかりの意気感んな頃、
(
かゆさ ) に耐えかねて、着替えを取りに室内に入
より便利で、快適で、衛生的で、プライパシ ーの守
るなんてのは序の口 。 田植え時期は、最悪である 。
られる住宅だけが、文化的で、よい住宅の如く考えて
とくに、此処らは泥深い回のため、膝上 20cmはあ
いた。 その土地のくらしを十分知りもせず、その家
る田植え用の長靴を履くのであるが、この着脱のし
その家の住まい方、場の使われ方もよく分からない
にくい事といったらそれはもう…・ 。
そして、ひとつの屋根の下にありながら、 「上」
と 「
下 j の生活が共存できていた古い家が、農家の
まま、 十把ーからげに 「
生活改善」の片棒担ぎをし
てきた 一人の家政学徒として、大いに責任を感じてい
るし、そのいい加減さが、今はたまらなく 恥ずかしい。
くらしにはよく考えられたものであったことに思い
つくのである 。 もちろん、 屋外のトイレの存在も、
農作業ととかく人寄りの多いくらしぶりの両面で考
えられた結果であったことにも 。
4. 最近の変化
昭和 5
3年度で完了した農業基盤整備事業により、
1枚の田んぼは平均して 3反地 (
30アール) となっ
そこへもってきて、年をとっても雨が降らない限
た。 この辺りの農村風崇を情緒あるものにしていた
り、畑行きが円諜の年寄りが足腰の衰えのため、お
畦l
昨木は伐採され、ところどころに点在した雑木林
しりをおろし、膝をついて畑仕事をするため、当然
も開かれて、たいへん見通しもよくなった (写真)。
のように泥やごみをつけて上がってくるようになっ
かつては、雑木林や荒地化 した休耕 回、さらに草叢
た。以前は、「にわ 」 でしていた豆選りなどの作業
などが生い茂っているなかに、リヤカ ー 1台がやっ
も
、 「かまど」 と呼ばれる居間に持ち込まれ、 (
新し
と通れるだけの 仰がりくねった道がどこまでも続い
い家は 「にわ」が狭く作業のできるような場がない H上
」
ていた。 その向こうに一体何があるのか、さっぱり
「
下 jごちゃませ、の生活が、我が家では進行中である 。
見当もつかなかったし、誰もいないそんな場所に、
「百姓をやめてしまえば、きれいに住まえる j こ
とは、
ト分承知している 。 しかし、決して裕福とは
まして何が出てくるかも知れないと ころへ、とても
一 人では探検する勇気もなかった 。
いえない生活のなかで、働くことだけの人生しか知
l枚毎に高低差がずい分あったたんぼも、今はな
ることのなかった人をつかまえて、「家が汚れるか
だらかな傾斜のある道路に沿って配置され、地図に
らやめろ」なんて言 えますか?
示された通りに、散在する集落が一望できるように
このように、畑やたんぼのない家はともかくとし
なったさらには、遠く西江州の 山並みと琵琶湖が白
て、我が家のように先祖伝来の 田畑を耕作しつづけ
くすじをひいて見えるようになり、 閉塞感から解放
る者にとっては、今風の間取りは必ずしも住みよく
されたような不思議な感慨があった。
ないことをつくづく感じるのである
大きくなったたんぼでの仕事には、従来からの耕
住まいは、「上」のみの使い勝手ではなく、 「
家族
転機やパインダ一、リヤカーを使って手権えの田植
の日頃のくらし方を十分考えなくてはうまくない」
えをするのでは 能率が上がらないため、農家はトラ
というのが、今の偽らざる思いである 。H
音いとか、
クタ一、コンパイン、経トラ、田植機というふうに、
衛生的でないとかは当然克服されるべき課題ではあ
次々と大型の農業機械を導入していった 。それに伴
ったが、昔ながらの家は、その土地の気候ゃくらし
って、 小規模の農家は作業の一部を請負い仕事にだ
と互いに寄り添って生きていたことに改めて思い至
したり、農地を 小作に出さざるを得ない状況も生じ
るのである 。 それこそ、家の普請は大仕事なので、
ていった。 こうして、 一種
、 二種を問わず兼業は当
傷みやすい水周りを本屋と少し分離していたのも、
たり前の生活となった。
風邑や琶が 「にわ j に据えられていたのも、火災な
どからの延焼を防ぐ知恵であったのだろう 。
コンパインが普及するまでは、稲架を結うのに使
われていた l
畦畔木(ハンノキとかホウソノキ ) は
、
夏の日、農作業で汗びっしょりになって、燃え立
カブト虫の好んで集まってくる樹であり、刈り払っ
つような外庭から茅葺きの本屋に足を踏み入れる
た校はおくどさんの焚物として利用された。涼しい
と、にわを通り抜けてきた「極楽の風」が疲れを癒
木陰は格好の一服場であった。夜、樹液を求めて集
68 ・人間文化
百姓ぐらし再考
唯一、残っている茅葺きの家
人身の生活に伴って排出される廃棄物の総量が、
自然のサイクルのなかで、きれいに循環される生活、
多くの微生物、虫達と共生して存続していく生き方、
それこそが本当の生き方ではなかろうか。人間だけ
の身勝手で、力でねじ伏せるような考え方からは、
もう卒業すべき│時がきている 。
まってくる 「カブトつかみ」に興じたり、クワイチ
ゴやアケビをとった。小川や沢で自然の遊びに│時の
たつのを忘れた 。そんな日々を今では、人々は懐か
しそうに語るのである 。
5
. でも、生きつづける「農」のところ
先祖伝来のこの土地、これといった機械もなしに開
墾し、自らは飢えに耐えながら、来年の積もみだけは
j
F
F
だけと
現在では、茅葺き 屋根そのままの家は 1l
手をつけることなく、ひたすら 神仏に祈りをかけ、 大自
なった 。 トタンを被せた住宅がまだ昭和以前の 農村
然からの恵みだけをいただし、てきた先人の労苦に思い
の名残りをとどめているのではあるが、この地域で
をいたらせる時、次の位代へ、この「こころ」を伝えて
も、宅地開発がぼちぼちと進み、お i
f
l
i落な住宅に、
いかなくてはとの使命さえ感じるのである 。
エアコンをつけてくらす人もさほど珍しくもなくな
ってきた。
今、夏の朝、初l
露のしたたる葉の間から 稲穂がし
ずかにしずかに伸びだしてきている 。わずか 4カ月
農繁期ともなると、早朝からのエンジンや深夜の
前、まだ「かしこなむ」冷たさの水に穫もみを漬け
乾燥機のモーター音が騒がしい。農薬散布が迷惑だ、
=
1、力強く出芽してきた白い芽、頼りなげ、に水面
た1
ほこりがたって車が汚れる、厩肥えの臭気が我慢で
にゆらいでいた薄緑色の苗・-、そんな日々が思い
きない、洗濯物が干せない等、而と向って苦情を 言
出される 。何百年もそのようにして、この土の上で
う人も多くなって、百姓は片身の狭い思いをしなが
くりかえされてきたドラマがある 。苦しく辛い労働、
ら作業を進めるようになってきている 。
女たちの涙、したたかに生きてきた先人達の心意気
以前は違 った。ほとんどの人たちのくらしが大な
が、じわーっと伝わってくる 。稲作をとおして学ん
り小なり 「
炭Jに依存していた時には、お互いに迷
だことは、 言葉では言い尽くせないほどに大きい。
惑をかけていることも多かろうということもあり
「
お互い様意識」でくらしてきた 。だから 「いつも、
すみません Jという挨拶ごころが基本にあった 。
JR能登川駅から1'1ケ原行きのパスに乗る 。能登
古街を過ぎると、しは、らくは平坦な 田んほが
川の商 j
今では、田舎 にも多様なくらし方が可能とな った 。
続き、やがて国道筋にでる 。中山道 ・愛知川宿の名
「きつい J きたない J きけん」 という、いわゆる
残をとどめる町並みを越えてしまうと、急に窓の外
r
r
3Kのうち、少なくとも 「きつい Jr
きたない」を
の京;色が変わってくる 。
クリヤーできない農家は、周りの冷たい視線のなか
はるか前方には、 三重県との;肢をなす鈴鹿の山並
で、ますます小さくなって生きていかなければなら
みが、きれいな稜線を拙l いている 。 - Tg:~ こは、田ん
なくなってきている O
だが、ちょっと考えなおしてみよう 。 きれいな自
然、静かな環境、田舎ののどかさを求めて住まいを
此処に定めた人も、結局は我々と同じではないのか。
ぼが広がっている 。一 而の田んぽの中に、散在する
木立ちに目を走らせているうちに、パスのエンジン
音が変わり、道が登りにかかる 。
;急に、外の景色が変わり始め、 一枚一枚の田んぼ
我々のように、地面に這いつくばって、その日その
のu
庄畔に、ほほ等間隔に、背丈も同じくらいの木々
日を過ごしている者も、 「
地球にやさしいくらしを
が見え始める 。ゃぶなのか雑木林なのか、こんもり
守ろう 」 とする気持ちは同じなのだ。上品にかしこ
とした森があちこちに見えだし、山に近づいてきた
ぶって目先の清潔さにこだわっているよりも、一見
ことを感じさせる 。前方に見えていた山並みも、近
逆のように見えるその生活の中にこそ、自然と共存
Iきにくくなってくる。
くの木立に遮られて見通しが平J
してきた 「
地域の育んだ文化」と言えるものがある
パスに揺られて 3
0分余。下型のバス停に着く 。バ
のではないだろうか。いや、むしろ我々百姓の方が、
ス停といっても、なんてことはない、道の両側に 1
0
環境適応型の生活実践者としての誇りをもってもよ
車│ほどの民家がぱらぱらと建 っているだけである 。
いのではないかとさえ思う 。
舗装もされていない狭い道の両側に、 一枚ずつ段差
人間文化・
6
9
百姓 ぐらし再考
図3
のある小さな問んぼが、木立の I
H
Jをぬけてどこまで
夫の父は失礼と不作法を詫びてくれていた。
そうであったのにもかかわらず、 i
来い親心など微
も続いている O
かム
そんな目色を目にしながら、 5分ほど .
1
へあがる
!迄も感じ取ることもできず、いつも、不平 ・不満が
と本郷に人る 。 道路沿いに 30)~Î ばかりの住宅が、ひ
先にあ った。親元に負担をかけすぎる、プライバシ
っそ りと花んでいる 。その中には、茅茸きの屋根や
ーが':'1'られない、なんでそんなことまでせなあかん
のか..・ ・と。
それにトタンを被せた家が幾似かあり、 │
て
│
本のふる
さとの風民が残っていた O
• • • •
そんな H から、
4 半世紀近い W~ I IIJ が流れた 。
当時、 「まちから来た嫁さん」と、もの珍しげな
近所の娘さんが結婚した│侍のこと、 「おかげさん
で
、 x x さんねに、もろうてもろて 、あんばいよう
おいてもろうていやるんよ 」 と親が言 うのである 。
猟や犬の仔をもらっていただいたんじゃあるまい
好奇の日が、在、の行くところへ、することにと、つ
し。 もら った方は、 「よい手間がでけた」と干ヰんで
いてまわ ってくるように思えて 仕方がなか った。
いる 。「一体、ひとのことを、なんと思 っているの
t
l並
U
J'
1はおろか、自転車にも釆れないあの頃の私
にと って
、 y
J
J
な子二人を抱えての 凹令ぐらしは、想
像を絶するものであった。
かJ
oJ
I
主立たしい台詞ばかりが主I
に入りこんできた。
そんな日々をいくつ重ねただろう 。
本家 の兄嫁として、 「
期待される人 1
m像」がどん
私としては、 一部特定の人しか阪を知│
らないのに、
なものであるか、知らないから来れたというのが本
,
'L¥会う人は、私のことをよく主1っているのである 。
音かもしれない。親戚やこの家から出てい った人た
「
あんた、 x xさんねの (
さんの家の)あにさん
ちは、なんとか 1
7
1く間に合うように、 一ー
"も'
1
"
'くこ
のよめさんやねえ (
兄嫁さんですね )。 まちから
I
I
染むようにと、あれ これ気を使い、
の辺りの風習に WJ
(
有1会から )、ょうきとおくれたなあ (
よく来てくれ
教えてもくれた 。その心遣いが、ふた れを統て少し
ましたね)。 こんなとこと思うかも知│
れへんけんど
分か つてきたように思う 。
(
こんなところと思うかもしれないけれど)住めば
人ひとり生きていくのも大変だ‘ ったH
守代にまでも
都やほん (
住めば都です)。 ここは、ほんまによい
遡る のであろうが、娘の幸せを結納に託した親の思
とこやし (
ここは本 当によい所ですよ )Jと、親し
いが、 「良いご縁をいただいて、もろうてもらえた J
J
7をかけてくださるのだが・
げに J
とありがたく 思 う謙虚さ、 「おかげさんで、おいて
今にして思うと、 「うちねの(うちの家の )あに
もらっ ている 」 という安堵の心になっているのであ
らが (
長男夫婦が) もんできよるで(帰 ってくるの
ろう 。多くの人たちに助けていただいて今円がある
o
Jという親
で)、あんじよう頼む (よろしく頼む )
という気持ちである 。そのことが、今の私にはよく
の配応が、 前もってなされていたらしい。
理解できる 。
H
J&:の人たちの出入
木家である関係でか、とかく来J
この地に、私をひきとめたものは何だったのだろ
りが多く、この辺りでは、何か事ある度に、 「
親元
う。百!I'I:ぐらしの醍醐味とい ってもそれほど嘘では
親元は …… 」 と言 われる 。その都度、全
の… .JI
な
し、
。 たしかに自分が選んだ人生ではある 。 だが、
1
l
!
l
j
守の異なる私の実家に、余分な心遣いをさせる
くJ
もっと本当のところは、不思議な縁 (
えにし ) とし
ことのないようにと、親戚の人たちに 言い訳めいて、
か言いようがないものなのだろう 。
7
0 ・人間文化
百姓ぐらし再考
表
1
やi
5
Iと 農家 と非農 家 の 状 況 (農業か う 離 れ て い く様子 、く うしの変 化 が や ぶ の有無に現れる )
X
I
H
畑
1
1 やぶ
E~I
000
W
国
V
田 畑1
1やぷ
田 畑 やぶ
E
U 畑やぶ
回
x
x
x 0 0
x 0 x
o0
ox
l
~fl
*
2 仕
3
3 組
4
:
J
:
U
Iやぶ
W
四
I やぶ
I
:
E
I 対1
田
l やぷ
t
:
x 0
×
×
×
3
l
3
4 ~{l
5
6
8
L
U:t1llについて
I
UI=
l
1:現在耕作 している
やぶについて
司
]:現 在 耕 作 し て い な い
xl
タイプ I 典型的な 成家
E
1
0
1
2
1
2
3
4
1
2
6
6
1
3
8
8
1
3
2
5
5
5
5 結l
言i
計
×
0 ~1l :現在所宿している
×
巨I
l :現在所布していない
田:t
lやぶを所有し 、耕作もし ているケース
新屋によくみられる 。 JH;~ でやぶを ilÎ \, 、たケース もあ る 。
皿 田んぼの 小作を請け 負ったもの
I
!
t
.
2
で1
1
1
んl
;
r
を
ノトf
'
fにだしている
V 畑 の み のf
J
I作 田んぼを小作にだしたり光1;
1
1したケース、仰を 1
1
¥りている場介もある
V
I もとは │
ー
n
知│も所有していたが、現在は やぶだけ残っている
刊 非 民家
()主 !
J
}
x地の 一部に盟.
y菜の作付けをし ている場合もある)また 、同1.1
1
1の
:
/
.
;1
;
1
1
や小作にだし て い る場合も ある 。
N
,
表 2 住居 の建 築 様 式 (や 1
3とセット になった住ま いの変化)
I
住
駅の
、
綴
¥
,
r
I
:
、i
日
皿
I
V
V
l
V
1
1
L
2会
1
:
:
:ド
;¥
l
¥
よ家¥¥タ 4プ
1
11
.
1
H
や
ぶ 田 知lやぶ 1
I1.
r
'
1
I
1や
ぶ I
1
1 州│やぶ
1
1
1'
r
.
1
H
や
ぶ1
I
I 1.Ulやぶ 1
1
1'
f
.
Ilやぶ j
x
x x
o
x
x
x
0
x
x
x
0
o
0
x
0
0
x
000
2
1
芳:立き (
ト タンを被せたもの)
1
1
;
:
泣
き (トタンを被せた もの) +瓦葺き 二1
1
1
m
l
4
計
一
5
7
茅茸き (トタン を被せたもの) +瓦葺き平片!
茅:ijき(トタンを被せたもの) +プレハフ
d
瓦葺き二階建
2 ※l
瓦:
泣き 二 階 建 + プ レ ハ ブ二 階建
1 ※2
瓦茸き 二 階建+瓦
1※1
8※3
7
2
3
nき二階建
3
プレハブ二階建
l
その他
8
11- V
表1
1
l
l
の│
五分は衣
1
9
6
1
I
1
3
l
4※4
4
1
0
1
2
2
5
5
5
lと同じ
※ l 過去 2
0
年以内 に茅長き住宅を i
l
lて伴えたもの
※ 3 内 1 戸は球主き住宅を lli て十!ì~ えたもの
※ 2 つい最近まで炊事場は七日i
]
※4 1
人1
2戸は茅葺き住宅を i
l
lて伴えたもの
人間文化 ・ 7
1
百姓ぐらし再考
表 3 所有者および近隣の人によるやぶの評価
区分
所イ(ずf
やぶの主な植物
評
侃H
(
所有者と近隣の人をこみにしている )
A
l
吟三 郎
マダケ
ヨノミノキ(エノキ )
ナラカシワ
ヤブツバキ
ヤブニッケイ
カシ
ハチク
-タケの狼が対1
1にのびだしてくる
1に倒れてきて何物が傷む
-積雪により対1
-茂りすぎて風通しが悪いため、病害虫の被害がでる
.
K
ヵ
マI
J
かない
-タケの根がよく張るため、釧 J
-落葉が飛ん で也きて樋につまる
-日当たりが悪 く湿気やすい
-掃除がたいへんである
-落葉が積も って 屋 根 が 傷 む
B
五
'
/
1
ハチク
スギ
ケヤキ
ヤブツバキ
ヤブニ yケイ
カシ
フジ
サカキ
-タケ ノコの収穫ができる
-ハヤトウリ 等 の作 物 の 棚 材 と し て 豊 富 に 利 則 す る
-不 要 に な っ た も の の 始 末 が 簡 単 (
焼却も含む)
-積 雪 の │侍の倒伏が困る
※
進
三
マダケ
ハチク
ヒノキ
ケヤキ
ヤブニッケイ
ムクノキ
ヤブツノくキ
アオキ
シュロ
ビシャコ (ヒサカキ )
ネズミモチ
-タケの線がよ1
1にのびだしてくる
lに倒れてきて作物が傷む
-積雪 に より:t
-茂りすぎて風通しが悪いため、病害虫の被符がでる
-タケの根がよく張るため、排水が利かない
-落葉が飛んできて樋につまる
知l
の日当たりが悪く湿気やすい
-掃除がたいへんである
マダケ
ケヤミ
スギ
ヤブツバキ
ナラカシワ
アオキ
ヤブニ ッケイ
-屋根や樋にササの葉がたまって、建物によくない
-家が暗い
-台風などの者1
¥
度、倒れかかって通行等の妨げとなる
.m
1
l
よけになる
-目隠しになる
-災害時の避新場所になる
ハチク
-家が傷みやすい
-ササ葉が樋に つまる
-目隠し ・風よけになる
-川の側にあり、夏は涼しいが蚊が多い
モウソウチク
アオキ
ササ
-タケの根で l
f
:
l
岡や畑にのびだしてくる
-風すきがわ るく、病害 虫 の 発生がある
-タケノコ の収穫ができる
C
11 リj
0
1
;
:
※
.
t
公
拾次郎
D
紺代
満義
i
f
(h
:
j
t
※
E
太 二日
ー1
F
J
合次郎
-十 分 な 管 理 が で き な い た め 伐 採 し て い る (
所 有 者 の み)
(
※地続きのやぶを 一つにまとめた関係で、所有者欄に複数記載されている 。
)
所有者は、不 卜分な管理を 認めながらも、タケノコの収穫できること、手近な j
足業資材として活用 できる ことを利点 とし
て挙げている 。それに対し、近隣の居住者や対1
1
の耕作者は生活上の不都合を挙げている 。
72 ・人間文化
地域フォーラム
続-甲南町の人と水
岡田玲子
水と文化研究会
一新たな「人と水」の試み-
る。野尻の集落は、隣を竜法師と池田に囲まれてい
1.はじめに
るが、野尻の M さんは「野尻は馬の背中 j という
O
前回は主として 山間 部の集落をまわっていて平地
「
馬の背中」 に当たるところまで、連れて行ってもら
部の集落を残していたので今回は、池田、竜法師、
ったが、立って見ているだけでは 私にはよくわから
野田、野尻などをまわった O この調査では私が聞き
なかった。 しかし、この微妙な地形がその地で生活
取るだけでなく、どんどん絵や図を 書いてもらい、
する人々にとっては切実な問題になってくる 。水は
また聞き取ったテーマについて文章を書いていただ
必ず低い方に流れ、少しの高低でも逆戻りはしない
いた。 このことによって手本カ τ聞かなかったことまで
からである 。
教えていただけたので、聞き取る者の能力を超えた
もう一つ水にとって大事な要素がある 。山は水を
聞き取りができたと思う 。その結果、前回に私が理
l
貯めるダムであるということだ。野尻は平野音1
¥
の真
解できていなかったことがあることもわかってき
"
にあるので山が全くなし、 。「 これがただ一つの
ん l二1
た。それらをもう一度深めながら各々の事例を紹介
野尻の 山です」と、案内してもらったのが竜王山で
しようと思う 。
あるが、それはむしろ、私でもすぐ登れるような丘
であ った。 というわけで野尻には水が貯まる要素が
2
. 野尻
ないばかりか、水を i
閉める地形もない 。普通、ため
2
.1 水が溜ま 5ない地形
池やダムは谷一つを使い、その一本の J
f
Iまたは谷に
甲南 I
H
Jのほぼ中央部の起伏のある丘陵地市の真ん
ほぼ直角の;涯を作って水を溜める構造にする 。 とこ
U
Jの広々とした
中に野尻は位置する 。野洲町 や中主 r
ろがこれが馬の背中にダムをつくるとなるとどうな
平坦な旧園風景と比べると、甲南の平地部は田んぼ
るだろうか。馬の背中にドーナツを乗せるしか方法
にはなっているが、ほとんどのところで微妙な起伏
がない。野尻の大きなため池である大田池は、
があってどこか典型的な平野部のイメージ、に合わな
ナツ形の、よそではあまり見られない 「
三 万堤」の
ドー
い。 とは言え、これも教えてもらうまではよそ者の
ため池である 。三方というのは一方は圧のような竜
私にははっきりとは気が付かないくらいの起伏であ
王山を背にしているからである 。
、
‘
、¥
t
甲賀町
,
、
、
ー
司
、
,
)
、
ー
新田
/
、
『
ー
、
ー
〆
柑子
磯尾
¥
,
,"
,
野
ぺ騨¥
上
﹄
J
¥ 一
、有-一 、
-
J
一
重
EJ 一杉 f/jk
/
¥県
J
¥
¥
図 1 甲南町
ノ
図2 甲南町内図
人間文化・ 73
続・甲南町の人と水
この上澄みのノkがi
梓川 を通って旧へ入って田の水に
なった 。井戸の棋の洗い場の水も 一度池に流れ込ん
拡を通って l
i
lへ入り、 l
L
J
の川水となった。
でその後は i
この仕組みは集落全体でも同様で、、集 j
喜i
十lのt
J
F;
J
てが
tI
二水が回に入る{様子を今も見る
集まる所、またその J
大田池 (
野尻)まわりが「三方堤」のため池である。い
mくらいの管で浅野川の水が入るように工
まは直径 lOc
事されている。 2昼夜も水を入れると、この池もいっぱ
いになる 。近くこの池の真中に第 2名神の柱が建って、
この上を高速道路が走るようになる。地元の人はとの池
の水が漏れないか、池がいたまないか、心配している 。
ことができる 。 タナノシタはオケが埋 まっていて、
直径 1
.5m、i
栄さ 1
.5mの大きさがあり 、 ナガシモト
の羽│水を全部 ここ へ j
留めた。風呂の羽
│水は小便所へ
入って、この水は大小便所のうめ水に使い、務めた
)J巴は畑へ コエモチした 。
2.
3 特殊重粘土と闘う農作業
M さん宅は牛を飼っていたが、その牛の糞は L
I
二
の
敷きワラと一緒に前の庭に積んで彬 肥 にした。 この
時これらに 加 えて、 「ヌ リJと呼んだ青十を家畜の
j
tJj巴と交互にして積み上げておく 。 こうして l年ほ
:
j
1のトーを増やし
ど積んだものを 日
│へ運んで行って 1
た。 この作業を客土 といい、 この地 甲南や 甲賀、伊
賀などに村二有な農作業で、ある 。 この ヌ リは後述する
ように古琵琶湖層の粘土である 。家の庭でモミを干
す│時に、直接ムシロを 地面に置くよりも 、ムシロの
下にゴロゴロの仁の固まりがある方がより乾燥しや
「タナノシタ Jナガシの排水を全部ためる槽。この上澄
みだけが田んぼへ流れた。
2
.
2 今か 540
年前の水のく 5し
出T
尻の M さん(大正 1
3
年生まれ)宅を例にとって
すいので、 J
J
Iからヌリを取ってきたらまず、庭に広
げてムシロの下敷きに使う 。 また 、ヌリは粘土とい
っても 比較的水分を合んで、いないことも
F敷きに適
していた 。 こうして下敷きに使った土を、今度は家
畜のj:
j
t肥と交 tlにして積み上げて、 旧の土にまでこ
野民の ヒ水道が来る前の今から 4
0年ほど前の暮らし
なれるのを符つ。 この堆肥と交立に積み上げる作業
を詳しく見てみる 。Mさん宅は、生活ヒ水としては、
のことをクマシにするといい 、でき た土 をクマシと
瓦をぐるりに巻いた (
井戸瓦を 井戸の 内面に張り付
けである)帰り
;
1
:
戸があり、水は 少 し黒カナケであ
呼ぶ。 このようにみんなが争ってヌ リの土を取りに
行ったので、野尻では山が一つなくなってしま った。
ったが、泌さなくても使えた 。夏には井戸の水量;は
i 証ったが il~1 れるということはなかった 。 M さん宅は
ハ ネ ツ ル ベ (竹の竿の先にバケツを 付 けた物で木の
村が支点になっているもの)で井戸水を汲めた程の、
水深は地面から 3 m位の浅い 井戸だった 。昔は約
l
1
0
0
1
l
fあった野尻のたいていの家が このような J
十戸
を持っていたが、家によっては鎖のツルベの家もあ
った。 しかし野尻にはガチャガチャのポンプの家は
一軒もなく、ショウズも 一つもなかった。野尻には
川がなかったので洗濯のゆすぎも 升戸の水を汲み上
げて洗い、風品の水も井戸の水を j
及んで入れた。
M さん宅の生活排水をみると、米はナガシでとい
だが、 このナ ガシの排水はタナノシタに全部入り、
7
4 ・人間文化
「アオ j 又は「青土」又は「ヌリ j ともよばれる古琵琶
湖層の土
続・甲南町の人と水
崖が崩れて露出した「ヌリ J(古琵琶湖層)
出てきた「ヌリ」をみんながちょっといただきに来てい
るので、崖に大きく穴があいていた。
「
鋤
」
「畦掘り」では これ 1つ分の深さをー鋤の深さという 。
2
年皐害被害地状況(畦掘りの深さを鋤単位で表わす)
表 1 昭和 2
1
1
) 村名
村l
桁
I
J
l
jt
l
iM
て 鋤
P
L
I 卸J
1
.
1J
却
J
六iW
J
じ鋤
3
6
4
.
6
5
8
6
.
8
3
4
0
3.
1
6
0.
1
8
5.
8
2
.
0
6
01
.0
7
8
5
.
0
4
2
2.
0
3
1
9
.
0
1
5
5
.
0
31
.0
5
8
6
.
0
3
6
9
.
0
1
2
5
.
0
356.
8
2
2
3
.
0
、
M
三 鋤
(l
j
i位 以)
ノ
II
八鋤
1
.0
,
¥
r~.長
2
57
.7
.
l8
6
0
6
5
.
0
2
.
3
7
9
5
9
.
0
1
.718
納
1
1
1
9
3
.
9
9
9
.
8
3
8
8.
1
5
5
8.
4
5
5
2.
4
1
51
.0
6
6
4
.
6
6
5
5
.
4
3
.
47
4
玉
i
?
!
i
4
0
0.
9
3
31
.2
2
8
6.
4
2
9
9
.
6
3
5
5
.
0
2
0
7
.3
3
1
0
5.
6
5
9.
5
2
.
6
4
5
(
r
伊t
'
I以北 I
lケ 1
1
)村 平 台 史 J による )
1が一つなくな ったので
M さんが主1っているだけで 0
あるので、もっと怖からで、は随分地形が生わ ってし
!り
1 は、 1
1
1の│叫に沿 って 危裂の
I
1
1
:
1
:
Fまでぶが削れ
ないところまで、
鋤で刷 │
、
げていく 。そして州 った泊
まっているに迎いない。
ここでヌリについて少し説明する 。 人Jl
J
ーには、琵
琶湖が今の 1
'
11
'
(
1
1
1
1
)、 [
Pf
7I
1
I
Jゃ三
ことになる 。
m
:v
¥
,の
ド"
J山 1
1
1
]
'にまた
'
.
の .
1を){で附み│古│めて危裂がなくなる
に治 って
1
'
, li1
まで I
J
Iの 1
'
.
'
,
;
1
;
まで 上を
)
.
l
.
で'
1,
;
'
1
める 。 こうして).l.の I
I
J
がる i
l
lりにあったが、現在は今の,¥,:i
i
'
iに水をい っぱ
だけ少しす‘
つ断み進んで I
T
Iの亀裂をなくしていく作
いに i
留めて琵琶湖l
となっている 。 この l
l
の尚也 i
N
Jを
業である 。 この作業にはりjの人だけでなく久の人も
1¥琵也 i
N
Jと1
1
千ぶ。 その底や湖岸に 1
佐和した地肘が│年
合めて弘〈て、
かかわ った。 宅重県の資料だが、
j~ して ー!日没となったところが 、
つの I
/
f
.
の記鉱があるので参与にしてほしし、。 このぷ
ちょうど '1 1 1 十j 、
ITI J7
「ば
や阿 11
にあたる 。古琵琶湖屑 からは Hの化イ iなどが
で
、
たくさん 1
1
'
,
るそうだが、大変 な粘 1
:t
'
I
の │
二で、 これ
1.鋤になると1.5mにもな
写真を参照して欲しい) 7
は特殊荒市1
1仁附といわれる 。地元の人がヌ リ
、 アオ
るが 、背よほ ども III I:~II: りした 、という体験 談はふつ
1
'
11
てとH
芋んでいるのが、この│である 。
または '
鋤の
ー
鋤というのはがJ30cm科の泌さをいう 。 (
うにある 。 また
J
Tの川は 11
:
がr
l
l
l
M
Aであ ったし、段今
ヌリは作物を作るのには良いそうだが、 1
1んぼで
州│や小さい川が多か ったので、 I
I
I
}i
踊
iりの距離は、 1
2
は問題点がある 。 この │
てからできている 川は舵燥す
地盤 J
l1
1
された今の 11
をはていては想像できなし、。 こ
るとf,!i1
ーであるために亀裂が入る 。そうなると後は、
.
'に冬にわこわれたから 「今のようにゴム製
の作業は i
割れた茶仰のようなもので、/j'(が i~l; れてしまい稲が
の長靴 な となか ったのにょうあんなことができたな
生f
Tしなし、。 このため f
f
L裂ができてしま った U
J
は
、
あJと
、
あせ"り
とニは
111主婦や,,,j(';l~ りをして nl の修 JI !! をしておかないと、次
の
イ1
:に 1
1
1に水を人れて l
円相え ができないということ
J
Rを1りいた 全 部の人が育っている 。
この IIII ~ 抗Iiり以 1. に大変だったのが床張りである 。
これ は下ばつの危裂が m
の!ままで迷してしま ったと
oは、そのまま
になる 。 i
L
に「ばつにならなか った
イr
の l
ー
をー度全部 どけてしま って、 槌で 1
+
1の
きは、 l
LI
J
(を入れたままにしておいて(これをミズタ
冬にも /
版をたたいて │
訂
│めて 粘土質の 亀裂をな くしていく 。
という )、本に水を 再 び入れて 川他 えをすればよい
その後この 川の仁をまた元に戻す。 このようにして
のだが、
れた茶碗と同じで二度と
田の修理をしないとひび判l
〕般の 11
]のように巣作がで、きないため換金
作物が作れないという苦労がある 。夏に
mの少ない
11
に水は淵まらない。 自分の悶を守るのにみんなこ
干ばつの年は、稲は育たずに 枯れて米はとれないし、
れだけの努 )
Jを何行年と続けてきた。 また、
聞の1
:
11
*1
:
り作業などの修理が必袋だしという大変な
でため池がフ出こなって乾いてしまった場合には、た
「ばつ
人間文化 ・
75
続・甲南町の人と水
め池も同じようにして亀裂をなくしておかないと水
│畦塗り、是れ亦、水を一滴も漏らすまじくと念入
が溜められなくなる 。 自分の 旧の畦掘り以外に、共
りの作業であり、 │
畦前の古土 を剥ぎ取り、槌でれち
同のため池や個人のため池の修理にも入手を出さな
固め、国土を鍬で l株づっ畦の)j反及び上に乗せて│畦
いといけなか った。
形を作る 。其の 卜
ーにひび割れを防ぐ為、稲葉を拡げ
2.4 農作業の実際
1くに鍬で叩 き上げるのである 。
墜を塗るが女1
て釆せ、更に │
ま│
和土 (
ニコ )を手で掬い上げて乗せ、
以上は何年かに 一度の干ばつの場合の作業の話で
1
田打ち、耕作 '
是が一番重労働であり、湿聞のた
'
あって、またはこれがやす年も続くこともあ ったが、
¥
L来ず、全音¥
1
鍬で l株 1株の抑返し
め牛馬の使用が I
これから述べることは、この地の普通の年の普通に
であり、さすがに此の作業は朝の問の仕事で午後 2
やらねばならない農作業の t
l
:
c
!
:
j
f
.である 。 だから以下
1
時過ぎには早仕抑いしたものである 。
の仕事に、干は、つの年には 111'1'銅り、床張りがプラス
凹植え、何所も同じで早朝1
1
青い 1
:
1
二lか らの作業であ
されたと与ーえて良い。柑子の Tさんに聞の仕事につ
るのは変わりないが[1佐、田床が軟弱である為に足が
いて説明文を書いて頂いた。
田の中へ膝まで没り、特にオワ (
上の 旧の直下で上
「日常生 j
削こ於いて如 M
'こ水を大切に利用したか
の聞の水が下の 川に落ちているところ ) や生水口
に就いてはもう説明されておりましたので、今回農
(ショウスグチ ;1
1
1の湧き水などが │
王
!
に 入り込んで
耕作業に於いても他の乾田地借とは異なった 当地方
いるところ 。 このような所では L
L
Iの土がゆるんでい
湿凹地帯に於ける一般的な作業手 J
l
l
i
'
!を述べます。
る。)で は 大 腿 部 ま で 入 札 下 半 身 ズ ブ 濡 れ 状 態 に
3月中旬より客土作業 「ノンゴ持ち 」が始まりま
す。問闘の'1'は旧に水が説いて上が軟弱であるため、
なり、女性主体のlJ3杭えの労苦が思いやられた。
直接足を入れることができず、 竹橋 (直筏 5c
m位の
ブ濡れて、あり、 刈 り取った稲束の運び出し は凹舟を
4
;
:筏状に組み合わせ、 1
日20cm長さ 6- 7m)
竹を 4
利用したものである 。然し以上の様な操作業も l
j
没後
をl
睦より 11
の
,t
,に入れ、大きな凹では 2-4.
;
f
;
:
を
継
ぎ合わせて μ坊を作り、
J
tの│こを
「ノンゴ J(
天秤
秋の収穫、稲刈り是も水中作業、田キ│
直
え 時同様ズ
初転機、田植機等の普及に依り形態も変わり、特に
3
8年、田の区画鐙四!が行われて i
E
!日:1も乾田化となり、
棒の両端に竹で能を取付け、;Itの l
r
:Jに土を入れる )
2作業となっ
手足を濡らす事もなく手袋長靴履きの 1
を担いでソrj(I
'で、の綱渡り宜しきものであった 。
た。是で果たして近代化と 言 うのであろうか。」
以上の Tさんの文により昔の出作業の様子が正械
にわかるが、私が理解したことを少し付け加える 。
文中の畦塗りのところで、畦の版というのは畦の側
而のことで、この部分の土を剥ぎ取ってきれいな而
にする 。 l
畦
の
)
j
j
:
[
はj
f
i
.
・
直な壁ではなく斜面にな ってい
るので、ここの而と畦の上に回のトーを鍬で、掘 って釆
せて並べてい って、新しく畦の形を作る 。 これは児
の仕事であった。 その上に稲ワラを拡げて乗せてい
く。ワラを薄く敷いてカーペ ッ トにするわけである 。
そのワラの上に I
J
I和 土 (タニコ ) (問ん ぼのドロド
ロの土) を手ですくい上げて、壁塗りをするように
タニコを畦に塗 っていく 。これは交の仕事であった。
児が先に立って新しい畦を形作り、久か後からワラ
を乗せて、タニコを塗っていく 。 たぶん二人とも黙
って黙々と作業をしたであろうが、 二人の息はぴっ
たりと合っていたのだろう 。
次の間打ちであるが、これが今の緋転機の作業で
i
-いて下さ った柑子の回は、鋤で掘
ある 。 この文を j
「竹橋」この竹橋を繋いで田上を歩いて田仕事をした。と
の上でないと足がズブズブ入り込んで歩けない田だった。
7
6
・人間文化
って行き、できた土の固まりをならすだけである
(これでも Tさんは朝から 2時までしか仕事ができ
続・甲南町の人と水
ないと百ーっている)が、野 1
)
.
1
のH
Iでは鋤でなく鉄性
のクマデで回を打つ。 これだけでも粘土で、ねばい土
なので大変だが野川の 田では、この次ぎに、起こし
た粘土の問まりをすぐに紺│か く砕いておくコナゲと
いう作業が必要である 。回を 打 つ (田を起こす)と、
その粘上の │
胡
ま りに水を張って乾かないようにして
おいて、その後コナゲする 。 とにかく 粘上が l
宣│
ま り
のまま i吃い てしまうと 稲 が柚 えられないからであ
る。野川ではこれが毎年の炭
木の際の小さいため池(野尻)
音は木が生きている木の際(きわ)には必ずため池をつ
くった。この水を 「四つ縄Jで 2人がかりで田へ汲み出
して入れた。
w-:tであ ったが、m子
ではこのコナゲはー
│
二ばつで I
E
I
'
明りをした年だけの作
:
I~在 地が て つあって、大 FEI 池の水 を 一 旦
町民には司J
ここに入れてから田に水を配る 。 この池の水が余っ
業であった 。
たらまたポンプで大 山池 に戻すというものである 。
2.5 水確保の苦労
これによってため池の水を完全に利用できるように
野尻の 1
1
1の水は、 二
モjJ堤の大 旧j
也があるが、 1
支出}
川からも水を取っていた 。 しかしこの浅野川は隣の
なって、今は;
1
<の心配 は!!!f,くなった。昔は 11
から 旧
へ;1<を人れたから水入れも係の人の 折示によ って入
・本の 川の
れた 。昔は L
L
Iに少しでも多くの水が欲しか ったので、
水利関係は仁流の集部と下流の集落で、の利害対立で
1
'
,
来た l
LI
の近くの 、│I
,
j
の
ノr
J
(の小さな流
耐が降った後に 1
あるが、町尻と屯法師は 川の 1,
I
j
J
予に並んだ集落とい
1
1
分の 旺l
に入るように 工夫
れをせき止めておいて、 '
屯法仰の 1
:
1
の水源でユもある 。一般には、
,
u
W
J係での利
う位置 │
刻係になっている 。 こういう位 i
しておいた c これを 「しかけ水」 という 。 このしか
害関係は実際にそこに住んでみて命がけで稲を作っ
け水はたいてい伎にしに行ったのだが、近 I
)
i
r
の人と
てみないと本当に分かるとは思われなし、。今は浅肝
鉢介わせしたりする 。 こうなると近所の人と気まず
川のイゼキにゴム舵、地元の人がフウセンという 1
1
1
くなるので、しかけ水をするとしばらく i
替んでいた c
i
湾
j
の;
J
(
すると他の人がまたそれを p
'
Tしていくので、その後
の水をせき 止め る1没怖が完備しているので
も漏らすことなく 1
1
1に水が入るようにな ったが、
l
J
jにし l
宣した。
また白分の )
は俵を積んで川をせき止めた。 この 1
:
依の t
uみ方も
このように!lJ
f
.
l
λは地形が入り組んでいて、 川の水
水を I
.
f:に利用するために技術と多大の人力が必裂
lじ
目'
f
I
J
.
i
でも、 (
1
分
人れも職人去のようであ った。│
口
だったが、今はボタン
4
つの操作で 100%の水が I
L
会
の水と I
X
'
J
{
系がJiIf,いところでは Mさんでも水の入れ方
められる 。俵が流される心配も全く無くな ったかわ
が分からないという 。ノ'1-1;い人でも 1
1
1に水を人れら
;
j
と業の世界の技術がここでも消えよーろうとし
れるようにと、後継者の教育を集 i
存でしているそう
りに、
ている 。
また野尻にはこのイゼキから;1<を 引 くために 山の
f
l
ji.には木が '
tえている
だ。 ま
た
!
l
J
mには必ず小さい
ため池を作 ったので小 さいため池は無数にあ ったc
Fを腕り、人の家の Fを
:
t
T
.
i
l
った 「
痢り抜き 」がある 。
これは今もその名残をはることができる 。本が;1<を
IりJ
友きは 1
1
;
¥1m、自さ1.5mほどの地下のト
この品:
l
t
i
:めるというのは木、!?である
ンネルであ って、出f
J
I
.
i
の下の )
jの凹の水にな ってい
らは 「四つ縦」というオケに縄が 4本
1
]1、たものを、
る。今もこの水をよL
ることができて、 1
1の下、地 l
(
r
I
て人でブランコのように使 って 1
1
1へ水を汲みだして
の下を辿るので冬も日,,'
d
)、
く
、 1
1
は漬物川の夕、イコン
入れた。 これは 二人の,L
l
、が合わないと全く水が汲め
C
この小さいため池か
洗いに似われた 。 この切り抜きは、今牛きていたら
lに仲が良かったようだ。
ないそうで、(?の夫婦は木、i
140歳になるおじいさんが作るのを手伝 ったような
野川にただ
ことを附!し、た気がする、と M さんが言 っておられる
JI
I
j
¥で雨が降らないと │
社長さ
係がある 。 3- 8月の m
のが守番の情報で、地元の人はいつ、誰が、どうや
んが 「
参りましょう 」 と I iって、みんなで泊とお供
4
つある山の名が竜王 山て、これも水に関
って造 ったかなどの情報をす っかり忘れてしまって
えを持って参りにい った。 この先1
1
*があったかどう
いる 。 この堀り抜きは見ても 聞いても大変立派な物
かは全く覚えていないそうだ。 とにかく M さんは旧
で、それだけにこの地が水を望んでいたことがよく
が吋の下にある│時以外は、;1<のことは、かり考えてい
わかる 。みんなで J
4
1
い出し ておいて下さい、という
l
tを与えなくて良かったのは、冬のわずか
た。水の1
'
宿題をお願いして帰ってきた。
な1
1
¥
1だけだ った。
人間文化・ 7
7
続 ・甲南町の人と水
には困った様子はない。 なぜ秋には毎日風呂に入 っ
3. 竜法師
たかというと、稲の刈り入れやモミを扱う仕事でチ
3
.1 水の事情
クチクするゴミが体について寝られなかったからだ
竜法師の集落で出している「ふるさと屯法 s
T
I
iJに
よると、 ?江 ìt~ r:fIîは「南方は丘陵を負い、地勢は自ら
そうだ。
この頃の生活拘│水をみると、ナガシの排水は全部
高台にあって北方は漸次、│
勺!日になっていて、 1
1
1医│
が
軒の下にあるナガシモトという溜めに入れた。 この
開け人家が点在している Jとある 。 これでこの集落
F
Jめに使って、J:1Ilにコエモチした 。 =
)
1
ニ
T
i
水はコエの i
玄
;
f
n
l
iの Tさん
の地形のイメージが湧くと思うが、竜 1
の績の洗い場の
(
明治45年生まれ) は
、 7
江j
去
r
:l
iは 「
鍋の蓋」 だと言
の排水もそのまま 問へ流れた。 これからみるとナガ
m水は水路を通って 1
1
1
に流れ、脂l
トl
っている。つまりまわりにぶが全部流れてしま って
シで使う7l<をケチつてないことがわかる 。 どうして
留まらないそうだ。肝似の人は、(C:
I
分のところ
全く i
かと 言 うと、他の j 血 Jj)x ではコエの il~'~ めには風 ι の排
i
f
'
Jだが、竜 j
去
r
: は背後に磯 j
毛の山がある
は 「
馬の'
水なども使っていたのに、ここではナガシモトの水
のでまだまし、と言っていた。
つの町内をあちこ
だけで足りているので、水がふんだんに使えたとわ
ち話を聞きながらまわっていておもしろいのが、こ
かる 。実際に良い 1
1
:戸であったといえるのである 。
w
の地元の人々の円分の集 i
存と他の集落の比較であ
しかし、旧の水は、 Tさんによると「本当に足り
る。 ほんの少しの事例をあげて、あそこは本勺に大
なかった 。
」 屯法日I
l
iの回の水は大字のため池、旦祭
変や、であったり、うちのため池は 一番や、と 言わ
り池 (
さとまつりいけ)と 1
3々池 (どどいけ)のー
れたりするが、これを I
I
Jの資料の数字を見て訂正し
っと、後は 小さな個人のため池 loil~l 位が水源て・ あっ
でも何にもならない。 というのは人が佐労と!ぷじる
たので、雨の水だけが頼りであった。 T さんは (
1分
ことは人それぞれであり、良いと感じるのも kきさ
でJ
II
の端にショウスと呼んだ 6,~・ ;:1>1: の大きさの竹 で
'
1身の使いやすさなので
や長さではなく、便利さや '
l
i高で、
数には辺 j亡で、きない。飲み/j(の質が良いのがl
の水の足しにした。 I
を法師の旧は、がの耕作のl
時に
1
mんだ池のような水ダメを作 っておいて、 これを 1
1
I
i
:の多いのが良いと思う人、
ある人、洗い物の水の f
1I
I
J
I水を入れてもらって、その後は 1週間に 1
1
1
1
1く
それより川の/j(が必要と思う人、人の数だけ水の官Il
i
らいほんの少し流すくらいの川が I泣かない程度の水
値がある 。
Tさんの家は上水道が来る J
j
i
jは、掘 り1
1
戸の水を
が固くて 1い'
川I
Y.りもできない
を人れてもらった 。 1
.1
ので草もそのままで、 この水も 8
)
]いっぱいであっ
全部の生活 1~/j(にして いた 。 この井戸は良い;j(が出
た。本当は秋の取り入れまで水が必要なのに、いく
て水深はかなり浅かったから、竹の先に桶が付いた
から水を切ってしまうので米の貨が忠くなり、収穫
もので/j(を以み│二げることができた。風ドiの
ノkも井
も終ちてしまう 。 けれども水が起りないとやむをえ
戸から汲んで、ゆかして、余桁のある時は刊で もI
J
;
f[
1
、
なかった。1
1に水を入れる時は、ィ支も凹の│庄で寝て
、
特に秋には 1
r
J1風日に入 ったというから、 '
l
o
i円仁水
~fN め池の水が CI 分の l甘に入るのを凡ていた 。 I~j~ があ
れば I~I 分の田に水を入れた 。 白分の川がほんとにひ
どいので"Jj(をまわしてくれと A
叶J
I係に頼むこともあ
った 。昔は大きな l
守キ池が毎年フとになっていた。今
は七本 一仁事によって池が大きく心~ì)~ になっているの
と、浅野川の
ノ'
J
(も人れられ るようになっていること
と
、
3割の減反と、山田が金古川f
!
,くなったことなど
によって水が無くなってしまうということはない 。
しかし 5年前の干は、つでは、この大きな池が去にな
Iは 「比
ったそうだ。 ため池が空になってしまうと F
殺し Jとなる 。 そうなると松明をたいて竜王 1
1
1で、3
1I1ll]雨乞いをした。│鋒の野尻が柄とお供え物をする
「百々池J(竜法師)
自分たちの大きなため池へ案内して下さるときは、みん
なとても誇らしげであった。
78 ・人間文化
だけで効果の程も分からないまま│判乞いしていたの
とはかなり迫戸ったようだ。
n
nの全
平地にあって水深が浅い虫祭り池が、竜法 f
続・甲南町の人と水
部の凹の 三分の一、百々池が三分の二の水 i
m
(になっ
うを用意して他の 2集落の役員を招待して、いっぱ
年に山を掘り抜いて磯尾川の水を
ている 。 昭和 21
い飲んでもらって、土産を渡すのが慣例になってい
百々 池に i
留められるように工事をして、現在は 9月
る。 ところが同じ竜法師でも池ヶ原というところは
から 3月までポンプで水を送って百々池をいっぱい
1年中この岩間きのイセキの水が自由にもらえる 。
にしている 。 もともとここには、岩附きイセキとい
この定文にも池ヶ原は除くと書いてあるそうだ O こ
うのがあって、磯尾の昭和池からの水を│鐙道を掘っ
の 3集落の関係はその地に住んでいる人しかわから
て磯尾川へ流していた。 この水は江戸時代から定文
ないだろう 。
によって 5月2
3
1
=
1
までは竜法師が取るが、その後は
野旧が取ることに決まっている 。
しかし 15 :i1~ 程前か
らこれが 5)
J
1
5日と繰り上がっている 。 このイセキ
のt
r
戸
利は江戸時代から未来まで、永久に続く
3.3 農作業の苦労
さて T さんが「この地での百姓はとてもじゃない
1
1
'
:
<
'
.り決
けど生きていけなか った」と l
嘆く理由は、同が粘土
'
J
j:
q
:
:このイセキのために新地、野
めになっている 。t
質、棚 IJJ で|庄が 2~3m と高い、ため池の水しかな
i
h
上
川i
がごちそ
田、竜法師の役員が集まる 。 これは1'
く附水だけが頼りで、ため池も
図 の ご うJによる土入れ作業ー肩替え場面
「のごう Jという、天秤棒に竹竿を直結させたような
独特の農具で、クマシを搬入する作業を能率ょくするた
め、二人が交互に、土の入った「のごう Jと、搬入を終
わった空荷の「のごう」を肩替えしている図である。
図 3 :筏送り Jの作業
図2
度抜くと底がひび
竹 3~4 本を筏に組み、土入れ作業の足場に使ったも
のを、「のごう」を背にしたまま、片手でこの筏送りを
したものである。
r
図 4: のごう j による客土
「のごう」を使ってクマシを田に搬入したところ。
人間文化 ・ 79
続・甲南町の人と水
割れてもう 二度とため池に i
f
Nまらなかった、という
3点である 。竜法制jも重粘土質の土壌で、干ばつ以
4. 池田
外にも 「同めめず」 という 3
0
c
mくらいの大きいミミ
ズの穴で水が漏れた。│肢のハガネ土を掘って足で踏
んでこねて畦州りをした。田の底から水が漏れる時
4
.1 水の事情
池田は野尻の隣の甲賀 I
U
T寄りで甲賀町に接する大
は、稲を育てる「地 l
床土 J(じみづち ) を全部、水
きな面積の集落である 。昔は池と回しかなく、その
持ちの良い土の所まで取り除いてから、 1
1
1
の床の土
田も比較的大きな│五ばかりだったのでこの集落の名
を鎚で叩いて床張りした。
前が付いたそうだ。今は池田の全而積の四分のーほ
普段の農作業でこの地の特有な作業が、 「ふるさ
どをゴルフ場が占めているが、昔はここは浅い山と
と竜法師j に出ているので紹介しておく 。野尻の項
いうか正だ、ったそうだ。ほとんど個人の 山で燃料の
での説明がもう少し動きを付けてイメージできるよ
薪には恵まれたが、水を貯められるような山でなか
うになると思う 。
-クマシ(堆積土 )返びの農業( 図 l~ 図 4 )
ったので、池田の問の水の役にはたたなかった。池
田の集落はそま川寄りの 日1手j と柑子、野川寄り
図 5:吊り替え作業
)
¥
'ケツJ大の木桶の両端に縄紐をつけて、上の
普通 f
田に水を入れる作業で、桶の大きさや、紐の長さは作業
をする人の力で加減されたものである。
図 6:田舟
平均 1m
四方の大きさの舟を作り、刈り稲束を舟に乗
せて畦畔まで搬入する作業で、水の多い山田の稲刈り作
業に欠くことのできない農異でもあった。
「甲賀の農業整備」より
80 ・人間文化
続・甲南町の人と水
の 「山手 j て、水の環境が返ってくる 。 Hさん (
大正
8年生まれ)宅は、この山手と川手の境くらいにあ
る。上水道がくる前は、生活の上水は掘り井戸の水
であった。その後ドッコイショになった 。 ドッコイ
ショは竹の筒を掘り入れていって、繋げて水を i
男き
I
:
Uさせる装置である 。地表に近いカナケの水が出る
層の下にある砂地の層まで達するときれいな水が出
ドッコイショの水槽(池田)
た。竹の筒の次には塩ビ (
1
f
t化ピ、ニル)の管を使っ
たが、指ビが出る頃には I
/
I
J
水道ができていた 。鉄管
を打ち込んだ家もあったが、鉄は錆びてしまうので
4.2 田の水と農作業
池田の回の水環境は、川手の方は川のイセキの水
あまり良くなかった。 ドッコイショは川手の集落で
がふんだんに使えて全く問題がなかったのだが、山
は全部の家にあって、最近まで白噴(水圧により勝
手の方は粘土質で、前述の集落と 全 く同じで、│畦堀
手に水が湧き出ること)していた。大変良い水で、酒
り、床張りが必要であ った。 ただ前述の集落と違う
屋さんができるくらいで、今も 造
j
丘
り酒
I
酉当屋さんが一 q
│
のが、同じ集落で出の環境が川手と山手で大変速う
ある 。 この白噴カ '
I
J
¥なくなってしまったのは、 1
I
1
J
の
ことである O そこで農地強理の工事によ って山手の
上水道ができた 時
│ であった 。池田の集落の良い湧き
粘土を(o
j
l
Jり取り、川手へ持って行って池 凹の旧の高
水を町の全員に配ったことになる 。 ドッコイショは
さを均一 にしてしまった。もちろん山手の 「
地味土」
湧き出た水が潟まる水槽と、次ぎにこれを治めて使
はどこかに取っておいて、底の方の土を川手の聞に
い易くする水槽とこの 2槽、またはもう 一つ洗い場
乗せた 。 また、もちろん川 手の 「
地味土」 は削って
用の水槽が付いた 3槽からできている 。 このドッコ
おいて、とけておいてこの下に山手の土を入れた 。
イショの装置の写真を撮りたいと私が望んだので、
こうして現在は、池田の旧は集落で同じ環境に出来
集落の人々が何人かで手分けして探して下さった 。
上がっているが、配水の問題が起きたので、今新し
つい最近まで維かにあったのに、というのが約 1
0年
い配水池を作り直している 。 この配水 j
也に上のため
前のことで、水が出なくなると用が無くみんな壊し
留め直してから 全部の田に配るとうまく配
池の水を i
てしまう 。 これは前向きに生きて行くには当たり前
水できるそうだ。私が見に行 った時は、ちょうと'ハ
のことだが、 1
0年と いう年月がこの集落の皆の人に
ガネが入り終わった時だった。 Hさんが 「
ハガネが
とって 「
つい最近まで」という感覚であるというの
ここにやっと入 ったんやでJと説明して下さったの
がおもしろかった 。 この湧き水は夏は大変冷たく、
で、私は一生懸命鉄板または鉄筋を探したが見つか
風呂の水にするときは必ず 「ひなた水」 にしてから
らない 。 「そんなもん、どこに入っていますねん」 。
!武呂をわかした o
この後お苛いの質問と説明の意味が分からない状態
Hさん宅の 4
0年前の生活排水をみると、ナガシの
カt続いたが、やっと私が型1
角干した。ハガネとはハガ
排水は全部タメツボに i
留まった。 このタメツボは畳
ネ土のことで、
3畳、深さは 1m程で、この水はかい出してJ:I
Hの
i
1
'
l
f
水にしたが、あふれた上澄みは自然に凹へ入るよう
に用いる踏み間めやすい特別な土を指す。 このハガ
i
留池の堤防が水圧に耐えるために堤
00万円かけて士山から買って入れたそう
ネ土は1.5
になっていた。風呂の水は大小使所へ入り、これは
だ。物を 3
J
Iらないことは時間と手間がかかるもので
祖父と父親が畑へコエモチした 。池
│
王l
全体がそうな
ある 。
のか、 Hさん宅だけがそうなのかわからないが、他
ここで H さんに書いていただいた、昔の 「ドジョ
の集落とは造ってコエモチは男の仕事であった。 ま
ウ絞り 」 についての文を紹介する 。
たシパシも池田は男も女も行っている 。 Hさんは、
「甲賀郡 (
叩賀、甲南 1
1/])蒲生郡(日野 I
f
/
J
) 三重県
「くずみたいな細い枝や小さい i
桂木は、男は格好悪
阿山郡 (
阿山1UT) 一帯は珍しい重粘土質地帯で、 一
くて採ってられへんから、それは女の人に行っても
旦田園の水が枯れると 1止堀り、床張りといった極め
らっただけのこと」と言っているが、男も女も 2倍
て困難な復旧 工事 をしなければならなかったので、
の人手て、採っても大丈夫なほど、 1
1
1
の木が豊富であ
常時田而は乏しい水源を上ー
手 に使って冬でも湛水し
ったのが池田なのではないかと私は思っている 。
て置いたので、こんな副産物があった 。それはよく
F
人間支化 ・ 8
1
続 ・甲南町の人と水
太った泥自信と 田!燥が育ったのだ、った。 これらの魚貝
l
iとして珍重されたのである 。
は農家の貴重な蛋白iB
昭和 2
5年頃迄は、どこの田園にもたくさんいたが、
日本の農業形態が変わってから 一変してその姿を消
もんどり(上)とたたき針(下)
(図は池田の Hさんによる)
した。 これは非常に残念なことであった。 日本古来
の農業(この地のみか?)というのか、その頃迄は
化学肥料という少量の肥料によって大量の収穫を上
げる物はなかった。 日木も大戦の終結によって多く
のである 。 どこの 間岡にいつも泥鮪がたくさん泳い
の軍需工場がすべて平和産業に 切換 になって、始め
でいるかを常 l
二
│
頃から見ているので、その所の水面ー
て出 I
E
Jってきたのである 。
に沈めておく 。約 5時間を経て水より上げると、た
U来、長期間大変な
その他害虫や病害には民柴が /
くさん入っている時は、もんどりが大きくゆれ動い
労力を費やし、高 i
J
l
l
.な日照りのため背中が焦げる想
ていた 。 こうして 1日 3回の反復利用が出来る 。一
いをした旧草取りも、除草剤の生産によって酷であ
人平均 1
5個を使用していたが、商売としていた人は
った労働から解法される結果となり、戦前の農業は
5
0例位使用していた 。特に、その日の 中に夕立があ
一変するようになった。当初j大変高価j
iだ、った化学肥
ったり、曇って涼しい日は大伸、だった。 これを柳川
料も大量生産によって安価になったのも日本の農業
鍋といって牛努のささがきとで甘辛く煮詰めた上か
の上には進展があったが、今考えてみるとこれらが
ら卵とじをする 。 この料理は高級であり又美味であ
すべて環境の悪化に繋がったのだ。 この頃迄は北沿
った。その他かば焼き、泥鮪汁、泥鮪ずし等があっ
道に於いて無尽蔵に獲れた鯨の両身を外し、数の子
たが、よほどの通でなければ 一寸口に合わなし、。今
を取り /:H し頭と背 'I~ を 一 連にして乾燥した練粕と、
現在こんな料理はー流料亭で、の予約で、なければ無理
大量に満州、はり送られていた大豆 油を絞った粕の h
J
l
、にも│時期があり、 6月中
な話だろう 。 この捕獲方 i
粕を こ
し肥料としていた。その他堆土を前年より用意
旬より 7月中旬の約 1ヶ月位で、あまり気温が上昇
に散布し、生草を刈り取
して春半くからこれを岡山i
すると入らなくなると共に、例え入っても巾で皆死
って起耕 lI~i これを打ち込む位、いくら熱心に稲の栽
んでいた。
培に取り組んでも反収は六俵にもなれば上出来だ、っ
た 。 泥鮪にとっては年間、
1!'i1~1手の餌と常時帯水とい
う好条件に恵まれ、非常によく育ち繁殖したのであ
る。それ等につれて天敵も多く住む様になり、げん
その 2
次の方法は青竹 を長さ約 1
5
c
m、巾約 2c
m厚さ 0
.
5
c
o1に削り仁げこれを 2枚作る 。そうしてこの 2枚の
ごろう、たがめ、蛙等の育ちも良かった。今後こん
.
5
c
0
1間隔に並べ、
竹を合わせてその中に布団針を 0
な捕獲は絶対に出来ないので泥鮪をどうして捕らえ
外部から針が動かないように木綿糸で何重にもし っ
るかを説明して i
丘こう 。
かりと巻き付ける 。 これを 「たたき幸I"Jといい、 I
m程の細い竹の柄に取り付ける 。先ず 3月七旬の頃
その l
より山に入り、松の木の古い切り株を掘り起こし、
只今現在こうして捕獲する器具等は応頭より消え
0
c
m程に切り、これを部1
1
かく割って I
lにずし
長さ約 2
てからでも久しいので、恐らく見たことも 1~r, v 、者も
ておく 。 これが夜間照明の材料である 。 この捕獲方
多いと推察される 。その器具とは「もんどり Jと言
ふご」に入
法は 2人を要した 。一人はこの材料を 「
0
c
mの竹を調1
1く割り、すだれの様に綜梢の紐
って約 3
れ持ち歩き、松│
明 を柄のついた金制の上で燃やし田
2
c
m程の丸い筒を作り、片方に 「もどし」
で編み、径 1
面を照らす。別の一人は 「たたき針」にて寝ている
というもの(一旦この器具に入った泥鮪が出られな
泥鱗を背中から針で刺して捕獲する大変酷な捕り方
い仕掛け)を取りつけ、片方は丸型のまま聞けてお
尼!蛸は、夕方 6時半頃より 9時頃迄は、泥
である 。 i
く。次ぎに餌の準備として、もんどり一個につき旧
中より水市l
に
I
Bてぐっすりと寝込んでしまう習性が
j
県三個を潰して倍り、米糠及び柔らかい粘土とをよ
あるので、これを利用したものである 。 9時が来る
く混ぜ合わせたピンポン玉位の大きさのものを 、 も
と再び目覚めて土中に潜るので捕れなくなる 。 この
んどりの数だけ揃え、これを丸型の口の聞いた方か
期間は極めて短く、 3月下旬から 4月中旬迄で、ある 。
ら入れ、円を紐で結わえる 。 これで準備が完了した
農家の知恵、として栄養源を補給して健康増進の為に
82 ・人間文化
続 ・甲南町の人と水
は如何にすべきか常に注意し、手近にあるものを利
いでバケツ 2つを 戸 車 の 付 い た ツ ル ベ で 汲 み 上 げ
用していた 事が充分に 伺えられた 。二「魅のあ った翌
た。 井戸の 水はとても良い水で、記│れたこともなく、
年はこんな事は出来なかった。現在迄に最も大きな
内保の 4
0戸が皆 このような 井戸を持 っていた 。生 活
干j
也は昭和 1
4年であった事を記憶している 。
羽│
水を見ると、ナガシのり,
,*はナガシのツホlこ溜 ま
り、上澄みが旧に流れた 。井戸の械の洗い場で、は野
J
I水 も旧に流れ、 回の
菜洗いや洗濯をしたが、この i
終わりに当たって:
「
水田は文化 と環境を守る 」 と評論家の富山和子
さんが訴えている民業の危機が│
叫ばれて久しい 。 そ
肥本│にな った 。)良品のtI
J
;
水は便所に入 って
、 これは
:
J
H
I
へコエモチした。
の担い手が減り、日齢化が進み、民地の荒廃も又急
速に進む市場原~!Il とは別に国 L: 環境の保全に果たす
出来の役割を今後とう維持していけばいいのか。i
i
U
<
5
. 2 農作業の苦労
)
I
j
'似の民地の説明は rI
、滝地区概I}fN
J (ほ場投
'
1
'の飢餓を 忘れメ 美食にあきた都1/
1の人達も j
l
:に与
備 事 業 ) より引 J
T
Jする 。 「当土 地改良│
三は│河 山 1
1
]の
えたいものである 。」
i
:I
S
に位置し、
丙北 t
i
i
l
f
t県 1I南IJに隣接した米作を主
年中I
l
H
こ
;
j
'
(
を 張っておかなければならなかった
とする 4
3殊な重品i
lI
.
'
'
t
'
l
のi
j
i
.
作地で、私たちの先祖は
この地域が、人の千i:む場所以外が全 i
r
l
l
水生動物が絞
民地を市:んずる余り 1市の不便も省みず、(臼'
i
家はほ
[
,
'
l
とんとどε"山
める 「
水柑」 であ った事実を実感することができる
r
の が H さんの文である 。 7
J
叶川 と し か イ メ ー ジ で
きないような環境に育った私の乏しい │
士
│
然体験、ま
た水 伺
│が見えて始めて水辺であるという狭い机 '
j
!を
恥じ させる文でもある。
ドジ ョウが夕方 6時、!
とから
1
間
1
問
i
日
1の干谷Fを 凶
U
Jとして利川
ハ
j
J
Iしていた 。 そのため副積は小
1
予で 用水 も)(;j'(による出池があるのみで 1
さくイ司会 )
天1
1
,¥には l
f魅によ る被 i
'
i
=t:が甚だしく、
!え問而に((1
1
'
.ずると 1
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ミ仮り等特殊な復 1
11
会事を行っ
裂を '
9
1
1
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'
¥まて、は水Hl
i
に山て、ぐ っすり収込んでしまう、
た 。 その労 T1f は ~1\ -1ïにつくしがたきものであった 。
ということを H さんは 「池 1
11
では常識や」とおしゃ
波打年も l
'
i
J
じことを繰り返し耕地を γり続けてきた
るが私は始めて 聞いたこと であって 、これをと ても
のである 。戦時'1'
の',
'
.
.
)
也
に
は 人予不足によって復 I
F
I
おもしろいと思 った。 いつも 1
1:1の;j'(を心配して 川の
できない刺地がおびただしく 、 I
I
(
J利 2
2イ
ド伊 f
I北早与
1
1に暮らしていたようなこの地 の人々だからこそ、
対策 委 1
1会が結成され糾々,Ui
'
U査
{
リl
究 を吊ねられ、大
当たり前に見える事なのだろう 。
宇:相 山 の拠に i,五谷池の新設 rA'i を ~r~Jn' '
1
'業として進
められた。 (
f
走路 )
J
5
. 岡山問、内保
内 1~~ の全 j長地の 2 '
,
I
;
I
Jが棚 U
Jで、こ の川の
5
.1 水田事情
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H
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l
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)1い、ところも多く、 :
1
同が│怒らなか った1
1
寺は 1
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1は
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某阿 L
i
L1
1
]とい っても 相イ の隣の集 I存である 。
紺チとつきあいも深い。人
│j保 の 川 も
中1チと
「見殺し」となった 。 )
(
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留め池は 4つ あ っ た が
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l
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一
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じj憾な 1
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f,をしていると思う
と、中l
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子 の Tさんにお聞きして、すぐ│鉾の│人j保に行
って 来た 。
,
1
川、な晩秋の加l
i
i
tが絵のように長しく「いい i
jで
2
7の私には感激ばか りの
すね」 と、よそ J
1であっ
たが、 内{呆の Uさんは 「よそもんにはよう見え るや
ろけど、あんたも
年も住んだらいやになるやろ 」
と淡々とされていた 。 U さんは、この 地に 1
5代 は 記
録が残る家系である 。 Uさん宅は │ノド辺ができる i
l
j
i
は、おそらく 1
5代 l
i
jからあるのであろう掘り J
十戸が
'
1
'
.活 の 上 水 の す べ て で あ っ た 。 この井戸はあi
l卜
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い 1
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) の lIiJにある赤い 1
:
の!??で 「ぬ か Jという
1
I
.
'l
!
1)に積み上げたものである 。 こ
肘を切り取って、 )
の 「
ぬか」 は ;
J
(や火に強いそうだ。水深は 10mくら
内保の小さい小さい棚田
こんなに高低があると畦掘りを深くしなければならす、
大変な手闘がかかった。
人間文化 ・
83
続・甲南町の人と水
どれも大きくなし、。生前の水には凶ったことはない
が、田の水は不足した所であ った。稲を植えていな
の決断がその時から数週間後であると聞いた 。
j
2
1
1
平を受ける同じ
また計画が施行されれば大きな ;
い時は、 3)
Jまで畦堀りと床暖りであ った。冬に J
I"
集終に暮らす人々が決定権を持てない、その数人の
稼ぎに行けないほど問に手 1
1¥]がかかった。捌 1
1
1の一
人々の決定の力にもなれないという方法も良くない
番上に H
I
{め池があって、 1
1
1
から旧へ水を入れてい っ
i
mめ池のすぐ下の紅│が会書長い期間水が当た
し、同じ町に住む人が何の意見も 言 えないというの
たから
も良くない。 また準備計画書の公 I
JfJ等の手続きを断
る。一書下の問にまで、
水が当たるように水当番が工
んでいるのだが、これが一般住民にとってはわかり
夫をして人れていった。 1
1
1
1掘りをしていなくても水
にくい 一応形だけのものにな っている 。 こんな 手続
を入れたその H
寺は水が一応は入るが、しばらくする
きに慣れているのは政党関係者くらいなもので、住
と畦堀りをしない旧の水はすぐ水が抜けて乾いてし
民運動のプロでないと無理で、ある 。毎日県庁の担当
まう 。そういう凹の下の凹は抜けた水も │
土
!
分の回に
者と I
J
¥
会うとかしないと公開の期間など知らない /
1
]
人ってくるので、よその聞がI
I
I
E
#
a
:
りしなくて、その
f
l
i
jに参加しようと
に過ぎてしまう 。普通の市民が言n
田の水が抜けようが、他人には関係がなか った。畦
思うと、毎日仕事でもないのに工事の計画の進展を
I分の回のために頑張った。 しかし男の
堀りは全 くC
調べまわって注也、しなければならない状態におかれ
1
庄堀
人が病気の家や、男手がない家は女手だけでは1
ている今の形式の方が異常である 。一般住民が何の
りができなくて、しかも米の供給をしなくてはいけ
ストレスもなく、普段の仕事の合同jにこのような事
なかったので悲惨であ った。
I
必がない、環境に
業の良い、悪い、利益がある、手J
とってどうか、 C
I分にとってどうかを考えられるよ
5 3 工業団地誘致問題
このあと利子の Tさんと 一緒に内保へ行 った。夜
、
,
が柑子の T さん、内保の U さんにはお一人ずつで話
時、あんなに近い隣同士であるのに、
を聞いていた l
うな正確な情報を符て、みんなが十分に考えられる
方法はないのだろうか。
この予定地には小さい i
留め池が 1
0
1
/
i1ある 。 またがl
述のドジョウがか つてはたくさん棲んでいた聞があ
内保でも相子でも普段の民業も生活も 「たぶん」同
り、きれいな雑木林もある 。 この地と同じような環
じだろう、とそれぞれがお っ しゃっていた。つまり
境を、兵庫県の盛岡市では、コウノトリを羽ばたか
二人ともお 1
1.いの田仕事や生活を推測していたとい
せる里に改造した。 コウノトリの飢であるドジョウ
うことである 。祭りとか行事なと の話し 合いはあっ
は、今は遠くから運んで来ていて、しかもこれを生
ても、どういう風に農業をや っているか、水はどう
かしておくだけでも大変だそうだが、このドジョウ
かなどについては、よほどの利害関係がないと隣の
を凹で繁殖させるのが目下の目標だという 。 このコ
J
集落同士で話をする機会はないらしい。 しかしお互
ウノトリの旦とよく似た環境であるだけに、ブルト
'
Q
.1
床があるようだっ
いの集務のことには二人とも 9
ーザーでならしてしまって工業同地にするのは本当
た。 このことが私にはおもしろく、 Tさんと 二人で
に↑荷しい。
内保の Uきんを訪ねたのである 。
このような問題が起きた時、地元の人だけではお
私の農業知識の再教育というお 二人の 「
仕事Jが
そらく生活改普や金儲けにはつながらない多様な立
あったので、話のほとんどはそれに費やされたが、
見
、 一見するとアホにもみえる立見を 言いにくいと
現在この二集落に隣接する地での工業団地の造成計
時から入れて、多様な意見や
思う 。 よそ者を計阿の l
画が二人の共通の関心事であ った。以下はこの問題
とんでもない立見を、地元の人と 一緒に話し合 って
に関する私の個人的見解である 。
おくのもよいと思う 。地元の人だけでは金儲けしな
こんな大きな工業団地ができれば周辺道路も含
いといけない、金儲けが活性化や、と思い詰めてし
め、この辺りの環境は一変する 。 しかしこれだけの
まう 。 ドジョウの方がええやんか、と 言い出せる地
大問題の決定がほんの数人の地権者に委ねられてい
元の人はたぶんいなかったのだろう 。 こういう村輿
る、ないしは押しつけられている今の決め方は、こ
しを、地元の人だけで始めから終わりまでやるのが
の地権者の方々にとって酷すぎる状況をつく っては
間違いを生みやすいのではないかと思う 。それは言
いないだろうか。先祖が数百年もの閥、それこそ力
わば、田を守り兵剣に農業一筋に生きてきた人達に、
をふりしぼって命と引き替える様にして守ってきた
急に商売人になれというようなものだ。 この時を待
回を手放せというのは、あまりにも残酷である 。そ
っていたと、商売の才を発揮する人もたまにはいる
8
4 ・人間文化
続・甲南町の人と水
かもしれないが、ここに村興しの失敗の原因がある
めかゴミ工場へ見学に行ったのだが、この工場でも
と思う 。 自分らの土地ゃから I~I 分らがどうしようと
ゴミのサンプル展示場くらいにゴミが少なし、。 これ
勝手や、というような風潮で、 F
I
本1
=
1
二l
がめちゃくちゃ
は今より少し 1
1
1の日本の状態と変わらない。 廿は買
にな ってしまったことを考えると、これまでのやり
うものがなか ったか、またはとても高くて買えなか
方をそのまま踏襲するわけにはいかないだろう 。特
ったからゴミも出なかった。
に、工業団地ができても来る企業がないかもしれな
また I
I
I
Tの外の風景は人の数こそ少ないが、ちょっ
い、と分か った時は計画を中止した万がよい。地元
と見た │
二
│
は今の北京と変わらない。つまり白転車が
の人が 1
'
-'止の決定をしにくい時は、よそ者でもこの
多い。北京と j
辛うところは自転車専用道路がきちん
地が好きな人がおせっかいをしにいったらいいし、
と整備されていることである 。自転車専用道路では、
それを受け入れながら将来計画を考えてほしいと思
人が跳ね飛ば される程のスピ ードで自転車が走 って
う。 もうちょ っ といろんな立見を聞いてからでも金
いて、そこの横断には歩行者は大変な注なが必要で
儲けはまだできるかもしれなし、。何百年の I
I
l
j, L
L
Iの
ある 。 "
1
動車にも I~I 転車を積んで、走っているし、 7
'
:
5
泥に入 って、手と足だけで I
E
Iを寸tってき たことを考
車にも向転 1
1を持って来れる 。 この国は、自動車を
1
1]題で
えれば、ここ数週間で数人の人が決定できる 1
買えない人が I~I '伝 rlf ~こ来っていた JR? と迷 っ て、
はないと!旦う 。
の意, t; で (1'Iii; rII に耳~ることを選択している 。 またコ
6
. 終わりに
1
見た姿は堂前の 1
1
の挿し絵の様な、
1"1 分
ペンハーゲンの交1
;
外の農村地帯では、農家の外から
r
iなが らのその
前回まわ ったl
時よりも地元の方々の!切符が大きく
地の家の造りであるが、家の中は私の家よりも快適
W
H
,J内科も膨大な量となり 、今 │
可
も 啓ききれなかっ
そうで京敵であ った 。 (窓から覗いてすみません)。
た集落が H
'
Iてしまった 。 これらの集孫に ついては、
胡れ会議での私のポスタ一発表をはて、
この I
時の i
まだれけていない集落や、今回 1
1:'.てきたたくさんの
'
t.(í'が「アメリカでもJ-I本の今から 40 イ n'l~
カナダの "
i
1
'
i
題とともにまたの機会にまとめたい。 11
'
市I
I
I
Jでは
本当にたくさんの方にお世話にな った。私の 「
先生」
役の人々、資本qを差し入れて下さ った方々、先生役
を桁介して 1
"さった 方々、 「
先生」役の )
jの家経教
,rj
iや私にお茶やお菓子、食事を世話して下さ った方
国世門前 調
Hしでも何人の方を巻き込んだことだろ
など思い I
う。 これらの);キへのせめてものお礼が本稿の段大
の日 │
切であ る。
在
、
は
、 9
9
i
f
5
JJ世界湖沼会議で今までの日動の発
表をするために、「環境問題においては 1本よ り8
0
年進んでいる 」 というデンマークへわ って来 た。今
0i
r
進んで、いるとは
よく考えると環境問題において 8
一体どういう立味なのか、そのことをなぜ与えずに
言柴をうのみにしていたのだろうかと思うのだが、
その時の私は、ちょうとご明治維新の頃の人迷が希望
n
に燃えて T
J
i
' に見学に行ったのと いlじ気持ちであっ
た。 なにしろ点門の学者が8
0
"
1
三進んでいるというの
だから、どんなんだろうとワクワクして 川かけてい
った。
行ってみるとコペンハ ーゲンは (デンマ ークで大
きな都市はこの I
l
jしか行 っていない)禁欲的な未来
都d
i
ーであ った。 コペンハーゲンは物旬I
I
が向く 消費税
もおい。 ケチな私なんかは、もしここに住んでいた
ならほとんど何も買わないくらい物が向い。そのた
' 一 ー
を?
へ
:
-:::t:'~時号、
アメリカ・ウィスコンシン州の雨水利用装置
5
人間文化・ 8
続
・ 甲南町の人と水
前と同じ様な暮らし、つまりコエモチに代表される
0年度
水利事業」が一期工事 (
平成 1
リサイクルをしている人達がいる 。その人達はすご
8
5億円、 二期工事(平成 1
1年度
平成 1
6年度)
平成 1
9年度)7
5億
く進んだ考え方の人達なんだ」 と教えてくれた 。 日
円であり、 「
地域用水機能増進事業」は1.5
55百万円
0年前と同じ事がアメリカでは進んでいるらし
本の 4
である 。つまり 、今までは田用水ばかりを重視する
い。進んでいるとはとういうことなのか。
工事をしてきて、各集落の水のことはあまり考えて
またアメリカ合衆国、ウィスコンシン州ドアー郡
工事をしなかったので、今回目用水路を増設し、老
のミシガン湖岸の観光地で、なんと甲南 1
1
8の稗谷の
朽化した水路をやりかえる時に、また昔のように集
M さん宅にある雨水の利用装置と同じ装置を見つけ
落の中の地域の水も、生前に使えるほどの量と質を
た。 この観光地は、水の風景を持たない周辺の各州
取り戻す事を計画に入れようということである 。
から絞々と人々が押し寄せている、一見北欧風のあ
この 「
地域用水機能増進事業」のパンフレ ッ卜に
か抜けた所であり、アメリカでも周辺の人々が一度
よると、 「
地域用水」とは 「農業用水は昔からいろ
は行ってみたいと思うのもうなずける湖岸'の地で、あ
いろな使われ方をしていました。野菜や米などの洗
る。その時「ここでガーデニングが最も素敵な良い
い水、風呂や洗濯、散水、消雪などの雑用水、防火
庖に連れていって上げましょう」と案内してもらっ
用水、また、
たファッショナブルな応の庭で、この装置を見つけ
び場となったり、集落に欠かすことのできない舞台
た。 アメリカで今、みんなのあこがれの地の、その
装置でした 。 このように、農業のみならずさまざま
/
J
(路は魚獲りや水遊びなどの子供の遊
また一番きれいな応の庭にである 。 ところが、すで
な利用がされている 「
水」、これを「地域用水」 と
0年も前から、この装置を使って
に甲南の M さんは 5
呼んでいます。」と書いてある 。
いる 。 またウィスコンシン大学の普及部が発行して
いる水汚染を防ぐ湖沼管理プログラム広報用パンフ
これは水環境カルテ調査の対象そのものである 。
私は以前より、「河川をまた昔のように使えるよう
7
tながらの節水の習慣に見習って、雨
にやりなおそう」という動きは、遠い将来には必ず
水を植木の散水などに利用しましょう、と呼びかけ
あると思っていたので、その時には 「
何 ppmの水
る文章が掲載されていた。以上の事例や、 今までの
質」だけのデーターではなく、この河川 を何に使っ
「人と水」の集落の事例が、古い、新しい、遅れて
たのか、どのようなことを川でしたのか、どんなふ
レットには、
いる、進んでいるということを今一度考えなおす手
うな川で何がいたのか等の具体的な情報が、その時
がかりとなり、これから私たちがどういう生活をし
には必要になると考えていた 。水環境カルテ調査に
ていけば良いのかを考える参考になれば幸いであ
おいて今までやってきたこのような具体的な情報
は、こういう時に大変重要である 。 これまで集めた
る。
このように思っていた時、 「
新湖北地区地域用水
情報が役に 立ち、使われる機会が遠い将来ではなく、
検討委員会」から議論の参考にと、水と文化研究会
思いがけなく今やってきたことを大変うれしく思
が今までおこな ってきたぷ環境カルテの事例の紹介
う。特に高月間]なと、の湖北地方では、今も豊?言な水
や、水文化についての考えを話すようにと依頼があ
が絶え間なく流れ、地域の人々の水利用の記憶も新
l
I
問と共に高月町で開催された会議に 1'1かけた。
り
、
イt
しい地域なので 、「水環境カルテ」ゃ「人と水 Jの
この事業の内谷を 「
新湖北農業水利事業概要jのパ
内容を見て、すぐに地域の人々が水の生活の記憶を
ンフレットから抜粋して紹介する 。「本事業地域は、
呼び戻して実行に移されることが期待できる 。
滋賀県の琵琶湖北東部に位置し、 一級河川姉川、草
この点では地域の人々と地域外の人々との立見の
1
汀にまた
野川、高時川及び余呉川沿岸の長浜市外 71
一致は見られるのだが、この会議では、例えば川の
1
3
4,7
2
0haの農業地域で、ある 。(中略)本事業
がる水 1
洗い場や川掃除などの維持管理をだれがどうする
では琵琶湖から余呉湖に補給する余呉湖第二補給揚
か、という点が問題となった。私は、湖北地域全体
水機及び余呉湖第 二補給送水路を増設するととも
を公園のように考えて、その地域への入場料を駅や
に、老朽化した水路等の改修を行い、用水の安定的
駐車場で払って、そのお金で川の管理を仕事 として
な供給による農業経営の安定を区│
り、併せて地域用
やっていただけたら、と提案したのだが、地元の
水機能の維持及び増進に資する 。」また、地域用水
方々はお金や仕事には抵抗があるようだった。それ
新i
¥
i
l
J
北
なら洗い場を使う地元の人々でやっていただくしか
地区 Jであり、それぞれの事業規模は「新湖北農業
ないのだが、それには必ず日常便利に使える川にす
関係の関連事業は「地域用水機能増進事業
8
6 ・人間文化
続・甲南町の人と水
ることが大前提となる O 気持ちよく洗い物に使える
湖北 におじゃまするだけになってしまいそうであ
川を つくれば、 洗い物 のついでの管理はさほど苦に
る。 この事業では、医!
の税金 5
0
%、県の税金 25%の
ならないだろうし、自分が使う洗い場や川はきれい
負担があるので、よそ者も希望を 言 ったり 、で きあ
でないと使わないので、強制しないといけないこと
がった洗い場を楽しんだりしてもよいのではないか
は防げるだろう、とまでは合意できた。 よそ者の夜、
と思うが、どうすれはよいのだろうか。何よりもせ
は、意見の上では納得していたが、この時点でもう
っかく我が回で初めてという画期 的な事業が滋賀県
居心地が思く なっていた 。
で始まろうとしているのに、ほとんどの人がそのこ
さてこのためには、使いやすい洗い場や、川の設
備をつくることが大前提となる 。 それには計画の段
とを知らないし、またその価値が理解できていない
ことの方が問題であるのかもしれな L、
。
階で、その 川や洗い場を使う人々によって設備計画
を話し合うことが必要である 。 そうなると役人や男
参考文献
の人達が会議に U
l
J
市する必要がある 。 また子供を 川
1) P'
Il
"
iの民村整備U 1998年3月 (滋賀 県水口県
事務所上地改良課)
で遊ばせるには、小さい子供を持つ若いお坊さんた
2) r
i
'
立さとの歩み
の人だけで決めないで、 主主 I~{ に川で菜 つばを 洗う女
ち(この会議では若嫁さんたちといっていた)が、
阿山町 j1
9
7
7年 1
1月(阿山町
教育委員会)
参加する 必要がある 。 この辺りまで今回は決ま った
3
)r
ふるさと定法師 j (
甲南'
1
]
1竜法r:f
l
i
l
又)
ので次からの進展が楽しみであるが、この様子では
4)Rethinking Yard Care. University o
f
よそ者は全く計画にも参加できないし、これからも
W
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E
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o
n
Comment
くろ
だ
すえ
ひさ
黒田末喜
滋賀県立大学人間文化学部
ここに寄せられた論文の著者は一 人とも、経済の
lr
t
j一帯の早害との闘いの歴史
[ir;j田論文にある上'
高度成長期1
に育ち、生活の劇的な変化を経験した私
は、なんと苦渋に ~r:l:j ちたものか 。 機械 化 によって
と同 I
t代である 。 当時、古いものは何でも非民主
1
1
1
正掘」の苫労がなくなり 、水不足が深刻になる年
的・非合理的・ゴ1
:
衛生 的・ 非能率的な改脅すべき対
象であった 。高田さんは農村に嫁として入り、
I
I
Y
J
るく清潔で便利 な」家屋を建てた。 しかしそのうち
も│浪られてきたのがほんの数十年前なのだ。私には、
この歴史がとう受け継がれていくのかが気になる 。
もしたんに、昔の生活が「つらい労働の勾口だった」
に、土と密着した1"'
,い家屋の機能性を発見し、その
と聞いたりすれば、重労働の経験がない世代は、
良さを検討することなく存定したことを I
J
I
{ずかし
I
I
'
i
.=遅れた生前、今=進歩した生活」 という図式
近代化」
いj と苦かれている 。高旧さんの文平は、 「
でしか J' i!併せず、日の Ijíj にいるお { I~ 待.りたちの|末l 難
の内実を見つめ l
立し 一台前の暮らしの主f
l
f
'
¥
;
'
:を生かす
を克服してきた知忠・技術、プライドと喜びを見落
大事さの認識があちこちで、起こ っていることを感じ
としがちになるだろう 。倦むことなく 一??前の牛活
させてくれる 。
を 念に掘り起こす│司 F
I
Fさんの作業は、このことに
t
;
'
i
I
Hさんは来天家らし L、
。 しんどさにもめげず家
n
おいても大きな意味がある 。
事や農 作 業 にお年笥'りとともに II~ り組んで、きた c だ
同1
:
1
さんに l
干
i
南の東南部を案内してもらった 。そ
からこそ、仕の知恵や家屋のよさだけでなくお年寄
の美しい山村風民と平害との I~~ v
ミの歴史を重ねてみ
りにとっての J
;;J;作業の大半さもわかるし、必I
(
まれる
たとき、風景とは相先から今に至る人々の生活のこ
薮の効川も再発見したにちがいないと思える 。体を
とであるとわかった。風景の美しさを残す工夫は祖
動かせるありがたさ、動かすことの大切さが底に流
先への敬愛、自らの歴史の誇りの印ではないだろう
れている論文である 。
か。最後の章にある l
i
(
;
jI
f
l
さんの提案が実ることを願
ってや まない。
人間文化 ・ 87
書評
.
r
人 類 進 畑 孝J( 黒 田 著 )
-出席者・京都大学大学院アジアアフリカ地域研究科
人類進化再考
抽出吃川崎
N
A回 末 寿
市川光雄・古川久雄
滋賀県立大学人間文化学部高谷好一 ・細馬 宏 通 ・ 上 田 洋 平
以文社発行(本体2
8
0
0円)
高谷(司会
つい最近、私たちの学部の黒田末書
4人の方々にはそれぞれ、ややまとまった話をし
社会生成の考古学 -j (
以
ていただき、それを踏まえて、皆で議論を展開して
さんが 『人類進化再考
文社) を出されました。今日はそれの合評会をしよ
いくようにしていただければと考えております。
うということでお集まりいただきました。 この学部
最初Jは合評会と申しましたが、必ずしも狭義の評
からは生活文化学科の細馬宏通さんと、大学院生の
論のようなことはしていただかなくて結構です。む
上問洋平さんに来てもらっています。外に、京都大
しろ自由に話題を広げてください。例えば、この本
学のアジア ・アフリカ地域研究研究科から古川久雄
を読んでこんなことを連想した、というようなこと
さんと市川光雄さんに来てもらっています。
でも結構です。むしろ、黒田さんのこの本から出発
細馬さんは人間行動学が専門です。特にコミュニ
ケーション論を中心に研究を進めてきておられま
して学問論といったところにでも行けたら面白い
な、と思っております。
す。上回さんは地域のお年寄りの話を聞いてまわっ
I
1"川さんか
それではいよいよ始めたいのですが、 T
てそれを記録にとどめることに情熱を燃やしていま
らお願いできなすか。 自由に議論を展開して欲しい
す。解釈はしないで、とにかく今は耳になるのだと
と申しましたが、市川さんにだけは最初に比較的こ
育っ ています。
の本に音着して話していただければ幸いなのです。
:
L壊学:をやっていたのですが、
古川さんは元々は こ
今は地域研究をやっておられます。現地に踏査を繰
とくに 「
進化」についてどういう議論が今までにあ
ったのかをお話しいただけるとありがたいのです。
り返す哲学者というのが一番正確かもしれません。
この本についての基本的な知識をわれわれが共有し
r
l
i川さんは文化人類学者です。 アフリカのピグミー
た上で議論を展開できればと考えるからです。
の問で長い間生活をしてこられました。
それでは市川さん、お願いいたします。
.
f
/
f
J
I
f
渚雄
私
1
'
"
1
身もかつては人類進化論講座というのに所属
社会進化の論考というのは、たいていは実証するこ
して、多少は人類の進化について考えたことがあり
とができないものです。既存の発見やデータを、い
ます。 しかし、現在ではそのような大きなスケール
かにほろを出さずにうまくつなげてストーリーをつ
で人類史を考えることから遠ざかってしま い まし
くっていくか、ということが問題になるわけです。
た。現在は地域研究、すなわち特定地域の人びとの
構想力というか、いわば全体的なデザインが要求さ
世界の中で位置づけという、どちらかといえば共時
れる仕事です。現存の霊長類学では、 一定の方法に
2、 3年前に
的な問題の方に関心が向いています。 1
したがって大量のデータを集めて、それに基づいて
平等主義の進化史的考察というのを 書いたのが最後
経験主義的、実証主義的な研究をすることが主流に
で、その後この方面の研究の進歩に関する情報をフ
なって、こういう仕事はあまり見かけなくな ってい
ォローしていないので、あるいは見 当はずれのこと
ますが、この本では、データは、自分のいいたいこ
を言っ てしまうかも知れません。それをまずお断り
とを例示したり、補強したりするために最小限しか
するとともに、これまで一員して 、人類進化の問題
用いられていなし、。その意味では、これは独創的で
を考えつづけてきた黒田氏にまず、敬意を表したい
はあるが、実証的な研究とはいえないかもしれませ
と思います。すくなくともこの根の問題について、
ん。以下では、 主にこの本によ って示された進化研
これだけ深く、詳しく論じた日本人の著作はないと
究の立場というか、考え方に対するコメントをして
思いますが、それも黒田氏の持続的な関心と不断の
みたいと思います。細かい事実の解釈などについて
努力のたまものであり、貴重な貢献だと思います。
は専門の霊長類学者にお任せすることにします。
88 ・人間文化
f
人類進化再考 J(黒田末喜 善 ) 合 評 会
がある 。チンパンジーを 実験 に使うのは人体実験、
4
易自然と人 周のとらえ方について
殺すのは殺人、というわけです。
まず、この本の主題である「進化j について考え
この流れの 1_1" で黒田氏の作 業を位 íi~~ づけると、そ
れは、ヒトとチンパンジーを一緒にして、それ以外
るところを述べてみたいと思います。
現在、さまざまな分野で自然と人間の │
刻係の再検
の霊長煩から分けようという立場のように見えま
討の必要性が│
叫ばれており、と くに西欧流の自然鋭、
す。黒田氏が、チン パンジ ーにな ったところで食物
すなわち 「 自然」対「人 I~IJJ の 二 元論的 立場の再検
分配のような「飛躍」がみられる、と 言 うとき、そ
討が必裂と 言われています。 これは、ひとつには環
うした立場が端的に表現されています。 しかし、こ
境問題が背景にな っていると思われます。つまり、
の立場は進化論、とくに自然との分離の克服を口指
二元論的な白然観に基づく 1
:
'
:
J
r
.
J
:
i
;
の
支
配
に
よ って、今
す進化論の 一番肝心なところ、つまり人間の生命も
1
=
1のような環境問題がもたらされたという反省があ
他の 多くの生命とつながって いるという、 │
土
│
然との
るわけです。
連続性の否定につながらないだろうか。つまり 「こ
0年前ほど前ま
また、人類学の内部からも、 つい 2
こからがヒト =わ れわれの仲間で、それから先は違
で流行していた構造主義、すなわち人/I
.
j
lの文化を、
う」 というようなことができないということを否定
自然と文化の二項対立的な観点から分析するレビ=
することにならないか。将来的には、人間の W
I
:
:
jの
ストロース流の方法にかわって、自然と文化を連続
範1
lI/がさらに広がって、チンパンジーと他の霊長類、
体として統一的に捉える立場が山ています。 フラン
他の生物との述続性が川題とされる事態になるので
スのデスコラがアマゾンで、ゃ った仕事などはそうし
はないか、という疑問が生じるわけです。つまり、
0数年前に出した 「人類の自
た例です。われわれが2
黒川氏の考 えHを極端に 1
Wし進めると、それは二元
然誌」とか、 1
0数年前に出した「門然社会の人類学」
論[内分類主義の踏襲で、ただ、自然と人間の境界線
守、人類の文化というの
という本は、出版された当 H
¥
1
:
i~( を変えただけではないかという疑問が生じま
の1
I
1然と対立
す。チンパンジーだけを特別に人:
f
1Jの仲間に))[Jえた
は自然との間に不述統を持ち込むもの、
させることによって初めて理解できるもの、という
レヴィ =ス トロース流の構造主義に依拠する人たち
から笑われたものです。 しかし笑った当人たちがい
までは、│
三
│
然と文化の二元論を越えるなどというこ
い J!Il II~ は何なのでしょう?
⑨過ι
応 僻による進化の説明
それはともかくとして、この本は現在よく凡られ
とを 言っ ているのだから皮肉なものです。
る進化研究とはまったく異なった制点から古:かれて
⑨人周概念の拡大
繁則」二、どのような利点があるかを分析するもので、
います。現在の進化研究の祝点とは、生物の行動が
「
自 然と人間の二元論」の反省から生まれたもう
繁地上の利点をもっ行動株式が進化する、というも
r
l
概念の再検討というか、人 間概
一つのものは、人:
のです。 とくにソシオバイオロジーの流千j以降は、
念の初、張の問題です。具体的には、チンパンジーを
進化を繁殖成功!立という点から論じるのが主流にな
チンパン 「ジン 」 として、つまりヒトに合めようと
っていました 。つまり生物の行動はその繁殖上の利
いう動きがでているということです。人類という概
点、つまり自分と│百l
じ遺伝子をどれだけ多く残せる
念は、詳しくは知りませんが、おそらく近代になっ
か、によって淘汰されていく 。 このような観点から
て、自然と対立するものとしての人類の概念が誕生
l
i
J
!
J
立や食物分配の進化の{リ│
究は必然的に、
すれば、 f
よい、ますが、歴史的にみてもお
したのではないかと j
3義をもつか、という分析
それが適応仁どのような 1
1問として扱うかは時代と
/
1
そらくどこまでを人間の 1
にむけられることになるわけです。 しかし、この本
ともに変化し、広がってきたのでしょう 。かつては、
にはそういう分析はま ったくなし、。 まったくないの
通婚圏外の集団は人ではない、という時代があった
:
l
:
のユ
もいかがなものかとは以うが、それもまた *i
かもしれない。最近まで、キリスト教徒以外の 「
野
ニークな点とい ってよいでしょう 。
蛮人」は 1
=
'
分たち 「
西欧人」の仲間ではないとされ、
J
l
容認の根拠になっていたわけです。 し
それが奴隷 m
⑨黒田氏の論点の要約
かし、人!日l
が仲間と考える範囲は最近ではどんどん
広がっており、その中にチンパンジーを合める動き
~I~\ 旧氏の論点を簡単に推理すると以下のようにな
ると思います。
人間文化・
8
9
f
人類進化再考 J(黒田末喜善)合評会
黒田氏は、人間に固有 な文化 として 「
制度」 を取
れ、使われます。食物分配だ、って、政治的に使われ
り上げています 。 制度 の定義は、本書の ~~~今後になら
る。「所有」するものを 「
分配」することによって
ないと明らかにされませんが、要するに白然 i
l
i
l
j
l
主と
社会関係を操作する、という ことは、黒 田氏 も本文
しての 「
規範」にそれを求めている 。本書は、規範
で述べている とおりです。 しかし本文では、規範の
がいかに発生したか、またそれがいかに似たれてい
共有によってアイデンテイティが生まれるとい った
るか、を 制度の進化とし て論じたものだと思います。
税度でしか、この問題は論じられていないようにみ
とくに、規範としての制度の起源をその心理的規制
えます。
から説明しようとしている 。つまり制度とは、意志
しかも人間!
の場合、多くは所有が「道具 Jを介し
によって選択 された 「
拘束」であり、その拘束を引
て実脱されています。たとえば、獲物の所有はそれ
き受けるにはまず、 「欲求の断念 Jが必要だという
を獲るのに使った道具の所有者に帰する 。つまり人
わけです。 この拘束=欲求の断念は、他者の欲求の
I
I
Jの場合には、所有の遠隔操作が可 能であ り、また、
理解、いい換えれば他者立識を白己の 1
:
1
'に取り込む
そうした所有を会して、社会関係を操作する媒体と
能力によって可能であるが、チンパンジーは少なく
して食物を分配する 。 このことは、所有や分配、道
i
j
l
i
リ
!
豆」 をもっ一歩
jLの製作と使 I
I
jなとが密接に絡まった問題であるこ
ともそこまでは到達しており、
手前までは雌実に到達している、というわけで、す。
と、そして、それらの 「
組み合わせ」 によって社会
具体的には食物分配(チンパンジ一段 階で初めて登
関係が操作されていることを示しています。 ここか
場する成人1
1
百
│
体
│
笥 の食物談波行動)を取り上け¥そ
ら生じる 制度の進化についてのひとつの説明は、食
れが 「
欲求の断念jによって可能になること、そし
物分配に限らず、広く 1
)
l
j度の発生は、そのように起
て、こ の欲求の断念が他似体の欲求の理解 (
他者意
源の異なるいくつかの規則的行動の組み合わせによ
識の自己への取り込み)、つまり 欲求 の共有によっ
って生 じた新しいシステムだという解釈です。
i休的に 示しています。
て可能 になっていることを j
思U
J氏はこうい った解釈について、河合さんや山
しかし、チンパンジーには l
1酬的分配 (やりとり)
極さんの例をあげていますが、実はこれらの人より
H
T
Jはあるが、「断念の
がない。つまり、 「欲求の J
0年近く前に、ロビン・フオ
も3
共有」 はない。「 断念の共有」があってはじめて集
親族の起源を例にとっておこなっています。その頃
団に共有された規範としての制度が成立する 。チン
すでに、 血縁│
刻 係の存在 (
血縁関係の認知Ilがニホ
7 クスという人が、
パンジーはその一歩手前まで米ている 。少し乱暴か
ンザルでは知られていたし、また、 雌雄がかなり帆
I
IJ
¥の論点の要約です。
もしれませんが、以上が黒 [
常的に一緒にいるという配偶関係の有 I.~ の ようなも
⑨制度 =拘束という 考え方の問題点一一一一
つを結びつけて剃族のi!)
j
1
度、具体的には義兄弟 (
配
このように制度を 「
拘束」と 理解し、 1
l
1
)
j
)
立を支え
似関係+血縁関係)を作ったのは人 I
I
¥
jだけ だ、とい
のもあると 言われていました。 しかし彼は、この二
る心理的 な機制、能力についてくわしく論じてはい
うような議論を民間している 。 結婚によって義比 ~j
l
i
l
j
l
交が形成されるのか、と
ますが、そもそもなぜ、 f
をつくり、それによって連帯の輸を広げていくのが
いう問題には黒田氏は答えていないように思いま
人間社会だから、この結合がもたらした社会的意味
す。つまり彼は、制度を形成するにはどのような 心
は単なる生刑結合にとどまりません。私自身は、こ
理的能力が必要か、という議論によって、制度の発
ういう解釈の仕方を、心理に深入りせずに制度の起
生を説明しようとしているわけですが、しかしそれ
源を論じる道として、今でも日く評価 しています。
は
、 制度を支える能力の進化論であるかもしれない
が
、 制度の進化を扱うにはこれだけで卜分といえる
でしょうか?
⑨制度のるつ創造的側面
i
l
i
l
j度とは、それをもとに何かをするもの、という
ここで翻 って 、すでにできあがったものとしての
理解から生まれる重要な論点は、 f
l
i
j
l
度の創造的な側
人間の制度を与えてみよう 。人間の制度は単に人間
而であるが、この問題が本書ではあまり触れられて
が意志によってその拘束を引き受けたり、あるいは
いないように思います。創造的な而というのは、た
~脱したりする、というだけのものではなく、それ
とえばあらゆる 制度は悪用されるという面をも合み
によって何か を実現するものと考えられます。多く
l
jって正しければいいんだろう 」
ます。また「制度によI
の制度は !
よ
い 意味での政治 的意図のもとに形成さ
というやり方が出現する 。おそらく、制度の発生と
90 ・人閤文化
I
人類進化再考 j (黒田末喜著)合評会
ともにその悪用(滋用、政治的操作)は存在したの
はあるが、人間は同時に、その拘束を使って「創造」
ではないか。 これが制度の創造的な側而です。制度
をなしうるのです。 チンパンジーはどうでしょう
は拘束であるが、 同時二にそれを使って 他 のことがで
か?
きる 。新たな可能性の実現を実現するものである、
といえば聞こえはいいが、たいていは制度の本末転
倒、換骨奪胎の例であり、そうした例は民族誌から
@欲求の変説
制度を「拘束」とのみ考えることの 一而性はほか
いくつも見つけることができます。 たとえば、結婚
にもあるでしょう 。
という制度をとってみると、これは先ほど述べた集
黒田氏は、食物分配者は分配によって食物に対する
団関の連帯形成を実現するほかに、多くの社会で、
自己の欲求を断念すると 言っ ていますが、 まさにそ
特定の女性に対する排他的性的接近の権利、ひいて
のこと に よって、彼は別の欲求を実現する 。それは、
はそれによって嫡出子を定める制度になっていま
性欲の実現かもしれないし、権力や名誉欲の実現か
す。嫡出子を定める必要があるのは、相続が関係す
もしれない 。 もっと広くいえば、新たな共同性の 実
るからですが、この結婚=嫡 出子=相続という
現に士、l
する欲求のようなものを考えていいかもしれ
1
1
1
1
J度
的な枠組をつかつて、人間はたとえば「養子を取る 」
ない 。 だから食物に対する欲求を断念しない(分配
なとということをやる 。 あるいは、アフリカには幽
しない ) ことは、それらの別の欲求の断念を意味す
霊婚といって、死んだ男のために結婚させて、そこ
ることになります。つまり、食物を操作的に用いる
から産まれた子供に死んだ男の財産や名前を相続さ
ことによ って 実 現 さ れ る 欲 求 の 断 念 で す 。 だから
せることなんてことをする 。女性婚というのもある 。
1
1
次求の I
f
l
r念 - 般」 で論じるのではなく、食物に対
これらは、同性愛や死者に対する性愛の発露などで
する直接的欲望をコントロールして食物を操作可能な媒体
はなく、結婚という制度の応用例であり、
1
1
11
]
皮
の
t
i
I
J
造的な側面と考えられます 。
⑨言語との比較
に変えたというこ とが重要なのではないか。 いずれ
にせよ、人間は多方市l
の欲求をも っているのであっ
て、断念とはつまり、 一 つの欲求の形を f) IJ の 71~ に変
える能力の形成ではないでしょうか。つまり、欲求
制度の創造的な而に触れたついでに、少し脱線し
をただ断念するだけでなく、それをコントロールし、
l
i
l
]
度
の 一例としての 言語を考えてみましょ
ますが、 I
別の欲求にコンパージョン(変換)する能力の獲得
う。 人間の 言 語の創造的な而についてはあらためて
が重要なのではないか。 このとき、例休の食欲の方
指摘するまでもないと思いますが、チンパンジーの
が、セックスや名脊欲、集同的な共同性に対する希
記号使用に │
刻してはどうでしょうかったとえば、チ
求よりも根源的とする根拠はあるのだろうか?個{キ;
"
'
9な理解を越えようとすれば、何らかの意
ンパンジーにプラスチックカードのような 「記号」
1
:
1
:
1
心j 義
を使って、 「もの」を理解させたり、あるいは逆に
味での共阿性への欲求を考えることが必要なのでは
「もの」 を指示させたりする実験が行われています。
ないか?
「もの」と 「記号」 が 悲 意 的に結びついているのだ
か ら、これは 言語の 一利!というのですが、人間の 言
@制度と集団の関係
語能力は、そのような洛意的な結合の 「
制度」 を理
1
,fI
J
I
立と集凶との関係に関して本書 では 、規範 の共
解することにとどまりません。 その 「
制度」を使 っ
有によってアイデンテイテイが形成されるとして、
て、新たな 「
記号」 を生み出す 。 たと えば、梨と赤
ごく簡単にしか触れられていないようにみえます 。
い色のカ ー 卜¥ヨーロ ッパ と三角形のカードの結び
個人的利益と共同性実現の関係について言えば、
つきを党えた人間は、とくに他のことを教えなくて
「貨幣経済と道徳」の関係について書かれたブロッ
も、「赤い Ji
三 角形」によって 「洋梨」 の 「 記 号」
ク と パ リ ー の 論 (Money and t
he Moral
i
ty o
f
と 「
意味」の結びつきを生産することができるでし
l9
8
9) を思い出
Exchange.Bl
o
c
h
. M. andJParry,
ょう 。「 ラ・フランス 」 と聞いて、ちんぶんかんぶ
します。彼らは、どのような社会にも人間の経済的
梨」 という
んの人でも、「洋梨」 ならば 、「洋 J+ i
活動には、 「短 期 的 で 、 個 人 的 な 利 爺 の 追 求 」と
こつの恋意的な記号の結びつきから有縁的な結 びつ
「長期的で社会的な再生産、社会の存続の追求」に
きを創造 した ものなので、その意味をまl
f
I解でき る。
関わる而がある 。個人の利益のみが追求されると、
こう い うふ うに、 i
I
J
I
J
'
支としての 言語 は「拘束的」 で
集団的なサ ンクショ ンの対象 になる 。 だから多く の
人間文化 ・ 91
f
人類進化再考 J(黒田末書著)合評会
社会では、短期的利主主の追求を長期的社会的な再生
求と共同'性の存続が支え合っている状態です。 これ
産に転換することが奨励され、そうしたものに賞賛
を黒田氏の議論に即していえば、ただ 「
欲求を断念
が捧げられる 。一方、相会は個人の行動や営為によ
すること jや「欲求や断念を共有すること 」だけで
って実質を与えられていくのだから、個人的な利益
制度が生じるわけではなく、それが新たな共同性の
の追求は社会存続の条何ニになっている 。つまり、社
実現につながることが重要だということになりま
会の維持と個人の利益の二つは、人間の社会が存続
す。制度の問題を 心理的機 序 だ け か ら で は な し こ
するためにともになくてはならないことである、と
のように個人と集団の関係のダイナミズムからアプ
いうようなことを 言 っています。 これは、個人の欲
ローチする視点も必要で、はないでしょうか。
E討論
高谷.それでは討議に入ります。
細馬
J
度に関してはチンパンジーと人
黒│卦さん は市I
間の問に線を引こうとしているのではないですか。
取っていかはるとき、なんでこの人らこんなに図々
しいんやと思わせられ、そこから直感が発する 。 と
っても人間ぽい、日常から発している直感やと思い
ピグミーチンパンジーのいくつかの行動には制度の
ます。食物の力というのはすごいと読んでいて思い
効果のようなものが見られる 。そこがもしかしたら
知らされる 。
人間と霊長類をつなぐ何かかもしれないけど、今の
市川:だから食物に 対する欲求を 一時的に断念する
ところは積値的に人間みたいな創造的な、制度を作
ということは大切だという議論は分るんです。 しか
って運刑するようなきっかけというのはまだみられ
し、断念だけでなくそれを他のものに変えている 。
ない 、 というふうに後半に書いてある 。前半は確か
例えば権力欲に変えるとか、制度の起源を論ずるな
さんの言われるようにチンパンジーをむしろ
に市川 l
らその断念を他の欲求に変える変換のところが、大
人間側に引き入れて、他の動物と一線を画すような
切なんじゃないか。
ことをしてはるんですけど。後半はむしろ逆にそこ
古 川 :黒凹さんはそれもちゃんと 書 いてはると思
まで引き寄せてもやっぱりチンパンジー・ピグミー
う。 リーダーオスが自分の食べているところを覗き
チンパンジーと人間との問に壁を設けている 。
込まれて、分け与えようか与えまいとうろたえてい
:ぎりぎりのところまで来ているが、ちょっと
市JlI
る。あそこのところがすごく面白かったですね。そ
届かない。そこのところが大きいという感じで書か
れに対してメスのチンパンジーは絶対顔をそちらに
れているね。
向けないようにして、知らぬ存ぜぬを決め込んで食
細馬:さっき市川 さんが食物を媒体にかえるという
べてしまう 。 これはどういうことかと言ったら、リ
のが実は大切なんだ、要するに「欲求の形を別の形
ーダーオスはこいつにやらなしゃ ーないと 思ってい
に変える能力 」の方が重要なんだ、とおっしゃられ
る。でも、やりたくない。 だからうろうろうろたえ
た。だけど、僕は黒田さんは食物にこそその媒体の
ているわけで、しょう 。結果としてやるということは
力が一番凝っていると見ていると思う 。そこが一番
自分の食欲を権力欲にコンパージョンしているわけ
言いたいのかなと思いました 。
ですよ 。黒田さんはそういう風に書いている 。
高谷:僕がこの本を読んで一番感激したのは、黒田
市)11:地位の維持が危ないなという認識はあると思
さんがお母さんからバナナをもらって、ひとりで食
います。黒田さんはそのことを書いている 。そうい
べてしまって大変後悔し、それが今でも黒田さんを
う風にこの研究の特長はチンパンジーの心理面をア
責めつづけているというところですね。そこから黒
ンソロポモルフイズム、擬人主義的に書いている 。
1
1にした進化論が展開されてい
田さんの食物分配を車1
自分の体験をチンパンジーの中にすっと入れていっ
く。
て解釈している 。そこのところが非常にユニークで
細馬:媒体には色々世の中にあるのに、食物分配が
す。
なぜ黒旺i
さんにとってベストなのか。それはもちろ
古川:だけどそれはヨ ーロ ッパの研究者も同じ事を
ん黒田さんとお勾さんの関係もあるでしょうし、黒
やっているわけでしょう 。 ひとつの仮説の裏に行動
田さんの向こうの人との付き合いの経験も関係して
の観察がひとつずつ対応し合っていて、そこから解
いる 。向こうの人が黒田さんの物を何でもかんでも
釈が出されている 。
9
2 ・人間文化
『
人類進化再考 J(黒田末書著)合評会
市I
1
1:行動の観察があっ て解釈があるのだけれど、
古川 1:心の問題は普からあったのではないのかな 。
それは幼い頃にバナナを一本食べたという掠恕感を
市 川 :例の本能とカルチャーの問題があるでしょ
重ね合せて論 じるというようなものではなし、。 この
う。 あれは袋するに 心の問題です。 そういう風に 心
L
¥てくるドゥ ・ヴアールという人は動物
本の 巾にも I
の問題はあったんですけど、その後、 心 はアプロ ー
園のチンパンジ ーを観察して 『
チンパンジー ・ポリ
チしにくいということで皆敬遠してしま った 。心理
テ ックス j という本を 書 いたんですが、あれが出た
の人は心なんかをやるよりは、実験の方がよいとい
ときは 、ずいぶん思い切った書き方で、多くの反対
うことでそちらへ行ってしまった。あるいは言認の
意見とか 出たのですが、それでも,wBlの本とはだい
方面ーばかりにいっている 。 H
佐一、クンマーというス
ぶ違う 。
イスの人がインシビションというようなことを 言 っ
高谷: ドゥ ・ ヴアー ルという のは自分の体験に n?~~ ら
ているがこれも少し追う 。 あれは要するに、マント
して話しているわけですか。
i
'
Jり
ヒヒの社会で、は一夫多安 と言いますか、オスの J
市川:いやも っとスマートな近代主義的な人だと思
にたくさんのメスがいるんですが、そうするとあぶ
います。ただチンパンジー をある意味では人l
I
j
lと同
れたオスがたく さん 出来る 。 しかし彼らはなかなか
じような観察の対象にしている 。
ハーレム のメスにちょっか いを出そうとしなし、 。 I~I
高谷
黒 田 さんはグド ー ルのことを j
jいています
f
l
j
l
Jしているん です。抑制 です。 それをインシビショ
ジーに。 それで意思が通じた、チンパンジーにも 心
「身動きできない1'1
i
l
j
l
Jjで心の問題にはならないと
があると思って、それから 研究 をスタ ート している
いうことになる 。
ね。
w会 って握手してもら うんでしょう、チ ンパン
ンだと 言 ったわ けです 。 黒 田に 言わせるとこ れは
r
身動きできなし、 (
1n
j
l
Jjとはどういうことで
わけですね。彼女が衝撃的に受けた体験、県日,さん
古川
がバナナで受けた体験、それが全ての基にな って 、
すか。
そこから話が展開しているというのは而 l
士
│
いなと 思
市川 :いちいち内定必してして雌認しなくても自動
うんですよ 。 l
j
iなる論理的展開 ではなくて 。
的にやってしまう白)j)1
j
と いう こと ではないでしょう
市 川 :ただ黒凹の場合は衝撃というより、ごく向然
か。
に入っていったという面があるでしょうね。初期の
古川 :個体走にかかわらずという ことですか。
日本人の研究者、今西さんや伊谷さんもごく l
士
│
然に
市 川 :そうでしょうね。 こっそり リー ダーの凡てい
入っていってます。
ないところでメスを奪い取ってやろうかな、しかし
古川 .そこのところですが、黒田さんはグドールは
見つか ったらうるさ いな、などという選択があ って
心を発見し、 今西 ・伊谷及びそのグルー プが社会性
止めているのではなくて、最初から 事
1
1
1
1
1
)
J
が働いてい
の発見をしたと 音
二 いてますね。 これは前,:
:
;
,
¥
,、と思っ
て、考える余地がない抑制です。チンパンジーの抑
たんです。普通の感じ からするとむし ろ逆で、日本
制は その段階を腿えていて、その者1
1
度考えて 、ゃる
人が心の発見をや って、ヨーロッパ人が社会性の発
かやるまいかという選択をやっている 。 それが ,~信
見をやるべきゃと思う 。 だがそうはな っていない 。
のない表情に表れているという 。
そこのところが実に面 白いと 思 ったんです。今回 ・
上 田 :本を読んで、いるときに思 ったことは、 L
I高学
伊谷グループはあまりにも日本人 的で、あって、心と
長の授業の直後にこれを l
i
F
Jいたら、どんな気持ちに
いうのはあらゆるものにもあると最初から思ってい
なったかなということでした。
た。あって当然だと思っている 。 だからことさらに
円高先生は人/11]も動物やという 言 いプJで、心 を
日I
J
心の発見なんて書く 必要がなかった。 だから議論も
のところに i
nいといて、遺伝子の話とか、繁如上の
しなかった。 むしろもう一歩先に 進 んで、まだだれ
利点 の話をされているわけです。利己的遺伝ザの話
も予をつけていない社会の方へ進んで、
いった。 そこ
を
す
、 つ とされていて、 子殺しも遺伝子をたくさん残
のところが僕には而白かった。
I己的な.ill伝子がそうさせるのだという
すためだ、手J
細馬 :黒問さんはi!
i
l
j度を扱っておられるんですが、
話をされています。 日出先生は黒用先牛のこの i
m
u本
随分心の問題も扱っておられる 。
をどのようにお読みになるのかなと思ったりするの
市川:1
f
J
l
度の問題に 心か らアプローチしている 。
です。
細馬: ~~, 問 さんは今西 先生 ・ 伊谷先生以来の伝統か
高谷:E
I
点先生の方がサイエンス 。黒田さんの )
jが
らしてもちょっとユニ ー クだと思うんです。
より文学的。
3
人間文化・ 9
[
人類進化再考.1 (黒田末書著)合評会
市J
I
I
:ちなみに人間行動学では心の問題というのは
市川:いや、彼が分けているのは、給餌行動の社会
どういう風に扱われているんですか。
的な意味づけなのでしょう 。発生 的に見た らふたつ
細馬:心という か、内的なことはあまり話さない。
は同じかもしれない。人間の子どもが分配を身につ
結果としての行動がどういうことをもたらすか、そ
けていくのも 、いつ も食物をもらう母親と「はい頂
れが果たしてどのような条件で進化 しうるのか、そ
だい」 とか、や っているうちに 、覚え るのだと 言わ
ういうことが議論されます。内的メカニスムの問題
れている 。給餌行動と食物分配の場合も元は同じも
はあまり扱わない。
のが、個体発生あるいは 進化の過程で発展して、遠
古川 .黒田さんは犬とか、鷲とか、 他の動物には心
う意味を担うようになったと考えることもできる 。
は認めないんで、すかね。
進化って大体そういうものでしょう O 同 じようなこ
市川
とをやりつづけているけれとも、だんだん違う意味
その辺が僕には非常に疑問に忠うんです。犬
だって「お預けj と言われなくても待つことはある
を担うようになっていく 。そういう意味の違いが強
んじゃないでしょうか。
化されて今度は行動そのものが変わっていく 。現実
上田:チンパンジーはもしかしてチンパンジ一同士
の行動というのは動物にしたって、人間にしたって
なら相手の心が理解できるかもしれないですね。人
いろんな意味を担えるし、現に担っている 。そうい
間は相手が人 間でなくても、相手が犬とか魚でも心
う風に考えれば給餌行動と食物分配はスパッと切れ
があるんじゃないかと勝手に思う 。 J
h
¥を殺したら、
るのだが、根本ではつながっているとも 言 える 。
1iìí いんじゃないかと、魚、の主観を I~I 分の中に入れて
黒田自身がここでは否定しているけれど、彼自身
いる 。チンパンジ一が例えば
も以前は食物分配行動は、給餌行動が進化 したもの
一
..
場合は.一…
だといっていたような気がする 。給餌行動の社会的
古川 1
:うろたえるんじゃない、きっと 。黒│
召 さんは
意味の方を大きく
給餌行動とチンパンジーの食物分配行動を分けてる
と言ったと思います。だからこの本では、そこをな
でしょう、すぱっと 。あそこは考えなおさないとい
んでこんなにはっきりと切り離そうとするのかなと
かんのじゃないかな。チンパンジーの食物分配行動
いうのが僕にはちょっとわからない 。
については面白いものだから、色々観察事例をたく
古 川 :そう 言 われるとちょっと分った気がするな 。
さん積み
tげた 。だけど、犬とか、鯉とかも、他の
形で同じ事をしている可能性はものすごくあると伎
t
Hしてくると食物分配になるんだ
黒田さん、ちょっと栴好付けはったのかな 。
高谷:いや、格好というより、正直になったのでは
は思うんです。
ないのかな 。僕はやっぱりバナナの話を信頼するの
高谷
上廿
│君が犬とか魚に心がなくて人間だけにあ
です。黒岡さんは何回も自分で、その原点に立ち返っ
るといったけれど、疎かに生物学はそういう風に教
てみて、やっぱりそうだ、という確信にいたってい
えるわけで、すね。でも魚、にも心はあるかもしれん。
る。そんなのは科学じゃないといえばそうなのかも
上田:f
芙としてはないとは思っていない。動物にも
知れないんだけど、ひとつの真実である可能性はあ
心はある 。
る。少なくともこれは実に面向い作品だと J
tう。
高谷 :われわれの友達に大木さんというのいるんで
細馬:高谷先生は体験のきっかけを重視されるけれ
すが、大木さんは魚釣りがとてもなfきなんです。魚
、
ど、{業は体験のその後というのは結構効いてるなと
というのは、グイッと釣り上げたら、ヂJられながら
思うんです。例えばグドールが手を握ったら、チン
パ y と人間の顔を見るというんです。魚、だって心が
パンジーの挙が軟らかくてビビビと来る 。或いは黒
あるんですよ 。そういうのを聞くと、魚、なんか心あ
田さんがぱっとチンパンジ ーに会ったとき、ジ -'J
らへんというふうに生物学流には言い切れない。
と見ていたら l
吸い込まれそうになる。だけどそこで
市川
そんな事 言ったらたいていの自然物だってそ
終わっていたら観祭は成り立たなかったと思いま
うならないで、すか?それは自分の心 を投影してみて
す。彼らはその後、それがきっかけて、観察に入るわ
いるだけではないでしょうか?
けです。
古川
そうじゃないと思う 。現在の科学的手段で証
明できないから、ないと断定するのはまずいと思う 。
で、中に入っていくと、視線を交わしたりとか、
或いは自分が置いた食べ物を相手が拾って、他のチ
チンパンジーの食物分配と、給餌行動と分けるのは
ンパンジーにやるようなことを見るとかいうよう
ちょっとまずい 。
な、そういうことの積み重ねがあったと思うんです。
9
4 ・人間文化
I
人類進化再考 j (黒田末蕎著)合評会
で、これはもっと持続 的 にこの相会に入り込んで、
高 谷 :そうするとチンパンジーとピグミーチンパン
そこの 一員としてやって行けるのではないかという
ジーは人 I
I
Jに近 くて、ニホン ザルは人 I
I
Jとはずい ぶ
l
"
にさらに人 っ
ような直感が働く 。 そ こで、彼らの r
ん速いものだ。 だからチンパンジーとニホンザルの
てみたらいけた 。 │
三
│
分が入ってもこの社会は成り立
聞に大きな線が引けるというのはどういうふうに考
t
J
I祭に人
って いるではないかと思った 。 そして長期 f
えるのですか。
った 。 そこの所が大きいと伎は }
t
、
.うんです。
'
I
j
,
iの仲間 の範 │
井│
は、徐々にしか大きくして
市 川 :人 I
高 谷 :そう 言われるとそ うかもしれない 。 もうひと
いけませんからね。 とりあえず、今はチンパンジ ー
つ別の問題だが、 !
E
I
干│
さんはチンパンジーは人 I
l
i
jに
まで、次はニホンザル ぐらい までという具合です。
荷を作ってい
近いとして、他の動物との問に大きな I
その次は、犬は人日J
Iとあまりにも官接に作らしてい
るわけですね。
ますからこれは省いて、どんと飛んで:'1ì~ぐらいまで
市川 :そうです 。 JI~院ということで衣刻されている
行く 。 そしてその後で'
f
(
I
、, ぐらいまでいく、というこ
のは、チンパンジ一段階において述成されたという
とでしょう 。
ことですね。
古 川 :チンパンジーは、属レベルでは、ヒト属に人
細馬 ;これも r~:R:1!é の問題が 関係しているのでし ょう
れると いう立 見が:1:ていると苦いでありますが、属
ね。仮にさ っきの 似の例で言うと、釣ったときに /
1
,
1
,
r
;
Jじ と い う の は ど う い う こ と な の で す
レベルでは I
と目が合うということはきっかけとしては良いと思
か。
"
'
,とこ っ
うんです。 ただこれは釣った瞬間の 一 匹の 1
市 川 :/1 今物としての),~本(j<Jなものは I,;J じということ
ちの
ー対 ーの i刻係で、すね 。 だけど例えば、魚の 1~f れ
です。
ている所にふっと人 川 が入っていって、その I~J 係が
古JlI
:生舶は?
持続するかどうかというとこれは川題だ。 たぶん ,!.
I
.
t
市 川 :それはもちろん不 可でしょう 。
川 さんがチンパンジーやピグミーチンパンジーと他
細馬
の動物とのr:
j
lに設けているあるギャップというのは
ないと。 7っておられた 。
:
JT
、今西ーさんがもしかしたら :
1
:米るかもしれ
この問題と関係があ るのだと 思うん です。
市)
1
1:県本 '
I
}
'
¥'
i
!
1
1
の本にそんな '
J
i
:が J
iいてありま
高 谷 ・犬が相ずーだ ったら持続的に安定していけま す
す。 ほんとに古ったかどうか知らないけれど、今問
よ。
さんが Jったと占し、てあります 。
市 川 :ニホンザルなんかだ ったらもっと 強烈だとい
l
j
題がいく
高 谷 :生物学的な川辺もよくわからない I
いますよ 。 ニホンザルの観察に入った人間は、いや
つもありますね。
らしくてかなんと云ってますね。 いやらしいという
次
に
*
1
1
I
.
1.!:,さんに話 してもらいましょう 。
のは人 間によく似ているということでしょう 。
.
1
8
,
彰宏越
をうどわす存在として訓われるという市態、それは 、
⑨擬人 f
とから参与観察へ
rI の rìíj で、まさに IJ1J~fì され、
I:\"J さされようとしている
知人猿研究の ;-~ ~J& に 接するとき、そこに忍び込む
コミュニケーションに参 I
Jするかどうか、という 川
J
炭人化に、ときとしてとまどい を党えることがある 。
とりわけぼくが造平n
感を覚え続けてきたのは、 「J
C
感」 といった術 i
lに代表される、ヒトとうしの │
刻係
起を突きつける 。 +
1
1
1
三にヒトに擬するかどうかでは
に.ljl~1'史 される認?、11 や感情カ f あらかじめ古íT もE とな って
という 1:
1
]~迫がここでは汗上している 。
なく、いま、ここでJ
I
.
f
J
かれるかもしれないコミュニ
ケーションに参与するかどうか、すなわち参与観察
いるかのような擬人的表現だった 。 が、この本の
では、それは、ヒトとヒト以外の ~:,',í~l{ 'fj'1 を等しな
1(
1己に似て J
I
'なる省たちに激しく心を揺さぶられ
l
'
l(U
;
;)
J という下りを読みながら、これま
る心 l
みに与えることか。必ずしもそうではない。むしろ、
参 り飢祭によって、ヒ トとヒト以外の主 長頒の 間に
での違和感とは日iJの感覚が立ち上がってきた 。 これ
r,と越えがたいギャッフ。
がI
j
i
J
I
I
'
8に明らかに
ある共J1Jl'
はどうやら、擬人化の是非という
IJ
題ではない 。
ピグミーチンパンジーが子~J必なくヒトとまなざし
なる 。 ま ず 、 そ の よ う な 参 与 観 祭 の !が史 として1.
l
J
i
'
;
:tを読んだ。
人間文化 ・
95
f
人類進化再考J(黒田末蕎 著)合評会
立ち上がるだ けでなく 、食欲の 「
断念」が立ち上が
⑨食物と身体・断念と身体
る。そ して 「
断念」と 他者が結びつく 。一方、食物
E章以降ではさらに野心的に、さまざまな事例を
を受け取った方にはその 「
裳返し 」が生じる 。 こと
引きながら 言誌を介さないコミュニケーション進化
ばを足すなら 、食欲の 「
充足」 と他者が結びつく、
の仮説が立てられている 。それは「所有」と 「
制度」
という ことだろう 。
の発生だ。言 語を介さないとき、コミュニケーショ
この微妙 な言い回しの 中でとくに注意 を引 くのは
ンの主要なメディアとなるのは、お互いの身体だ。
「断念」 という考え方が コ ミュニケ ー ションに導入
黒田氏はさまざまな事例を引きながら、他個体の身
されていることだ。まるで充足されなかった欲求が、
体がコミュニケーションの手がかりとなる可能性を
コミュニケ ーションの資源になるかのように黒田氏
さりげなく示していく 。そこが本書の魅力となって
いる 。
はこう書く 。 I
i
I
均たされなか った欲求が他者のもと
で生き残るのである J
o (余談だが、こ こでぼくはベ
そのもっとも鮮烈な例が、 「
所有」 と 「
制度」の
ンヤミンの 「
哀悼」 という概念を思い 出 した。
) こ
発生の鍵を撮る 「
食物分配Jの考察だ。本一
占で提出
れは満たされない欲求が、 他個体の身体によ って喚
されている進化の道筋をぽくなりに、ぐ っとコンパ
起されるという 、一種の記憶術のみを 指 しているだ
クトに書くと、
氏はここ で 「自己の一部を他者と
けではない。黒 │
司l
共有するに等しい」 という身体感覚に飛躍する 。食
「食物分配」の発生
→分配の可能性としての 「
所街 」の発生
li:いたやりとりとしての「互酬制」の発生
→時間を l
→複数個体の観察による
I
i
l
f
J
l
皮」の発生
物が、 他のものに比べて身体とより深い関りがある
ことは先程書いた通りだが、それを 「自己の 一部」
あるいは 「
他者と共有」 ということばにまで拡張し
ということになる 。
てよいのか。 ここで導入されている 「自己の一部を
本書を読んでいると、食べると い う個人的な7
守為
他者と共有する」、という概念は、は た してヒト以
がコミュニケーションの根本に据えられている可能
外の動物に使えるのか。それを考えるには、いま 一
性がありありと感じられる 。
度
、 「自己 J1
他者」の概念を整理しておく必要があ
食物はただの記号の担い手ではない。食物とは口
るように思える 。
を介して身体 に取 り込まれる 。 しかし起 こるでき ご
とは自 他で異なる 。 自分自身が食物を食べるときに
⑨行為の関連位理論
何が起こるか。それはおそらく食欲の喚起とその解
コミュニケーションにおいて 、参与者は何を 「
他
消という生則的な身体の変化だ。他の個体が食物を
者と共有する 」のか。 この問題を 言語 コミュニケー
食べるときに 何が起 こるか。それは、食物がある個
ションと接続するために 、 ここで近年注 目を集めて
体の身体の外からその個体の身体の内へと消えてい
くという、 視覚的な変化だ。
いる 「関連性迎論」に引きつ けて考えてみたい。
われわれが何 らかの情報を 相手に伝えるとき、そ
分配、とはこれら二つの異なるでき ごとを結びつ
こでは単に情報じたいの内容 (
1情報意図 J
) だけを
ける現象だ。食物を見て食欲がわしという以上の
伝えているとは │
浪らない。情報の発し手は 、 自分が
ことがそ こで
、
は起 こる 。 ヒ トにおける食物分配につ
受け手のためにその情報を伝えようとしているのだ
いて黒凹氏はこう書いている 。「元の所有者の刻 印
という こと (
1伝達意図 J
) 自体も伝え ようとしてい
が容易に消えないのは、記憶による作用だけではな
ることカτある 。 スペルベルとウィルソンは、この
い。分配は、所有者の欲求の断念によって生じるか
「
伝達意図 Jが発話によって 「
相互顕在的」 になる
ことを、言語コミュニケ ー ションの基本的問題とし
ら、満たされなかった欲求が他者のもとで生き残る
の一部を 他者と共有するに 等 しい ことになる 。(中
S
p
er
be
r&Wi
ls
on1
9
9
5
)。上記のヒ
て論じている (
トの分配に伴 う「欲求の生き残り 」は、いわは、
「伝
l
略) もらう方はもらう方で、相手の心の動きや自ら
達意図」の顕在性の問題として捉える ことができる
の慮 (
おもんばかり )によ って、それらと対応した、
だろう 。そして県 田氏の食物の分配をめぐる記述は、
あるいは裏返した感覚を経験する こ とになる 。
」
こうした言語コミュニケ ー ションモデルが、物の分
(
P
130
)。
配という場而でも適用可能なことを示している 。つ
のである 。そこで
、 元の所有者に とって分配は自己
食物 を与えるとき、与えた食物か ら自分が食欲が
9
6 ・人間文化
まり、関連性理論は、分配という場面 を考えること
『
人類進化再考 J(黒田末蕎 著)合評会
で、言問を前提 としないコ ミュニケ ー ションに(す
考えるためには 、何が状況証拠となり うるかを 問題
なわち 他の霊長類のコミュニケ ー ションに)適用で
とする 必要が出てくるだろう 。
きる I
J能性をもつ ことになる 。
ここまで一つの場面での二者間の問題を考えてき
では、ヒト以外の霊長類は、こうした 「
伝達意図 J
たが、本書では三者以上の コ ミュニケーションも扱
の問題をこなすことができるのか。 ピグミーチンパ
われている 。 それは、 「制度」 という問題であり 、
ンジーに │
刻しては 、場面によってそのような兆候が
そこでは第三の視点、すなわち 「
観察 j者という祝
見られる 。 たとえは¥黒 田氏 はサペ ー ジ=ランパウ
点が登場する 。
がカンジにジャムをやるときの観察例を 引 きながら
黒田氏はインセスト回避とインセス ト
・ タブーの
「両者は喜びの戸と笑顔で、やってもらいたいこと
違いについて論じながら「第三者が逸脱 した当事者
と や っ て や り た い こ と と の 一 致を {
r
{
[
1,!
F,
! する 。
」
にどう反 L
じするのかが、常習 化と制 度化 を区 別する
(
p26
1
)と判く 。 ここ で語ら れているのは、 1の前の
Y
'
J
1
僚にする だろ うJ(
p
148)
とする 。
ものであることが I
E存で、はなく、 相手の頭の 中にある情械の正
情報の I
第三者が他者の行為について他個体に伝えるために
信であり 「伝達意図 j の問題である 。 .LI~, 1
1
1
氏の説を
は
、 言 誌が必袋となるだろうが、黒 田氏は、
採るなら、カンジはもしかすると 「
伝達立 │
立I
J を養
を綾数の第三者が目撃すれば同様のことが生じる 」
育者であるヒ トとシェアできるのかもしれなし、。
と、復数個体による観察を想定することで、
i
A
:
l
J
i
.
1
dJHに
NHKで何度か放映されたカンジとス
よらない i
l
j
J
l(
止の発生の可能性を示唆している
- .サページ=ランパウ 氏 の対話を見る l
u
tりでは、
(
p288)
。すなわちここでは、コミュニケーションを
ちなみに、
カンジのボードを介した言語や表情に対して、スー
している .
:
..(iと観察している 二者の 、者1
I
令凶行を考
博士はかなり私極的に文脈 を与えている 。 カンジの
えることになる 。それにしても 、複数の観察者l
!
n
で
、
例から II~T ちにピグミーチンパンジーどうしの伝 i注意
そのような 11行黙の了 WI~ が果 た しておこりうるだろう
凶を議論するのは早計だろう 。 この例では、ヒト=
か。
ピグミーチンパンジ一 間 という特異なコミュニケー
ションにおける伝達意図が問題となる 。 黒 田氏は
ス
1
4七とカンジのような状況を 「心開的閉鎖系」
観察者が、
n分の l
奇している集同を認主1しやすく
なる(あるいは発見しやすくなる)
I
I
J能性はあるか
もしれなし、。飢祭者が日の前で行われているコミュ
と言い当て、 D
]
:て(I
:
j
:
の緊密な依存 │
立
l
係をコミュニケ
ニケーションにたいして i
l
j
J
l
度を感じるとき、その¥I,I
J
ーション進化のひとつの源泉と見ている 。
度が守られるべき集問 、すなわち観察者rIらが属し
⑨互捌制・制度
の観察者の身体 は、あるいは観察者にとって (
1分の
ている集 │
す│
が想 p包されているはずだ。 そばにいる 別
本一
;どでは、 1
1酬的なコ ミュニケーションが ヒト以
外の霊長鎖に存在する 可能性 を述べられている 一方
で、それがj也え ij~1r
いギャップ としても '
J
i
Nかれている 。
寺的な "
'
1酬行動
それは特に、食物分配のような非同 H
属する集団を 想起する手がかりとなるかもしれな
、。
し
以上、本吉で扱われている問題のいくつかを、ぽ
くなりに拡張してみた。本書のあちこちで、刺激的な
の場合だ (
本書で言 えば 「第I
I型の互酬'
1
1
9食物分配」
のは、所有、制度といった概念があらかじめない場
がそれにあたる)。
所で、どのようにそうした概念が芽生えるかについ
ヒ トがしばしば行う互酬制では、参 1
1
・者は、いま
て、黒 E
E
I氏がさまざまな身体のありょうを手がかり
、
ここではないコミュニケ ー ションを;[[j包しなカfら
に、にじり怒 っていくその手管だ。今同の合評会で
現在のコミュニケ ー ションについて考える 。しかし、
は、そうしたにじり寄りを少しでもなぞることがで
このような、 H
寺I
]
I
Jをおいたできごとに対 して報酬行
きれば、と 思 う。
動を行う ことが他 の軍長類に とって 必ずしも平等易で
引用文献
ないことは、 W輩の議論からわかる 。
西 国利貞は互酬制の基本となる 「
遅延的利他行動」
.Sper
be
r
.D
. & D.Wi
ls
on 1
995"
R
el
evanc
e
" 2nd
i
l
渇述性迎論
をフィ ールドで観察することじたいが非常に困難で
edi
t
ion
.
l
:
I1
9
9
9
)。 ヒ 卜以外の
あることを 指摘している(酋 E
内田聖二訳
n
寺問
-西 国利 .
t
i1
999
と場所を隔ててどんな行為が交換されているのかを
大学学術出版会
霊長類ではたして 「
互酬市I
J
Jが存在するのか、
伝達と認知 一 第二版」
研究社 出版
i
人│
明性はどこから米たか」京都
人間文化・
97
『
人類進化再考 J(黒田末書著)合評会
高谷 :次に上 田 君おJ,~J[いします 。
E上回浮ヂ
はじめに「人類進化再 ~ J というタイトルの本を
すればいいという杭度のものでもなか った。むしろ、
読ませていただく ことが、私にと っては 『
人類進化
人類に最も近いからこそ、それは安易な比l
i
!Qを許さ
"
1Jだったことを白状しておかなくてはなりませ
人1
ないのであり 、容易に弁別できない両おーのあわいの
ん。そのために、黒田先生が実践しておられる、従
│
唆
│
床
さ の lゃから、ヒトがヒトであること の、チンパ
来の進化論の桜底から のとらえ直しとか挑戦という
ンジ ーがチンパンジーであることの総本的立味とよ
ことの本当の意味や、重さ、まだ '
1
9
f新さについては、
ろこびを比つけだすことであったのでした。「 人間
それがいか に意味深く、 重く 、新しいことであるか
を
キ1
1
対化する 」 とこの本のなかでは表刻されていま
を正悦に判断しながらこ の本を読むという読み方は
11]、人間の
すが、他才「の存在によって人間である人 1
できませんでした。ですから、この木に刻するお話
存在によって他者であるチン パンジ一、犬、猫、そ
といっても、まっとうな批評とか指摘を できょうは
して l
可然について思し、を巡らす上での主要な示唆を
ずがなく 、ただ読後感想文めいたことを、しかも断
人類進化再考 j というタイ
与えられる本であり 、 I
片的に、さらに向分の身辺のことに引きつけてしか
トルは決して大風品敷ではない スパ リそ のとおりの
できないことは、あらかじめお許しいただくほかは
内容であります。
ありません。
以│
二のように o
i
f
'
しそうに書かなくても、私はこの
Î!!~ 論、進 化 論の外皮 一 枚分ほどの知識は、今まで
本を読みながら、なにか一級の推理小説を読むのに
に判い、 ,
¥
i
Y
i
義も受けてきたつもりですが、今阿この
似たスリルと興事?を覚えていました 。あるいは、従
木を読ませていただいていたときほどには、そのこ
来の人 /
f
n
小心[内進化論のせいで不当な待遇を 受 けて
とに関 心を集中したことはなか ったと党えていま
いるピグミーチンパンジーたちを弁設し、その不 当
す。『 人ナt
:
i
進化再考 1というタイトルがすでにこの
性を行発する、敏腕弁護士黒田末寿!の進化論法廷
本のただことでないことを物語 っているので すが、
でのやりとりを 見る思いもします。 この本のなかで
再考あるいは対置すべき従来の進化論に│刻 する知識
黒 山先生は、とても慎重に 一歩一歩論 J
I
!
Jを詰めてい
を必裂なだけ持ち合わせていなかった私としては、
くのですが、その根底には 、夜、だけでな く、計í~ でも
f
人知進化再考』 を入り 1
1にして、これから、
がは っ とするようなあの、 「
惜しみ」つつ分配する
従米の進化論と向き合うという逆の道筋をたどって
、1
1
"í\ilJJ の行イ巨をよ~IJ\ した、
様子に 「
戎欲の断念 J
いきつつその立 l
床をつかんで、いかなくては ならない
言 われてみればもっともな、しかしなかなかできな
でしょう 。 しかし、そうは言 っても 、こ の本を読め
い、かろやかな発想があるのであり、さらに線木 1
(
9
この
ば、人 l
I
i
Jこそが、この地上で最も優れた生き物であ
なところには、,'
;
I
!
,
I
T
I先生が人 I
JiJとして!必じ られた心
るとか 、チンパンジ 一、ピグ ミーチンパンジーは、
の動きがあるのであり 、実際に生きて、調交して経
優れてきた 物たちであ るとかいうふうに 、人間を進
験された物事に l!~ らして考えられる姿勢があ っ て、
化の頂点に1J
,
;
I
えておくことのできるような進化論と
人絹学はたぶん科学に違いないのだろうけれと、
i
j
l
.なる科学 :
1
:
ではない而白さ
は追うな、ということは分かりますし、そうでない
『人知進化何考』 は
、
比万をここで示していただき、しかもそれがス ー ツ
があったので、 門外漢の私にも読み辿すこと ができ
と[
<
1
分のなかに取り込まれたことは、この本によっ
たのでした 。
て入門した者の幸せだと思います。
似ているけれど実は迷う、違うけれど実は似てい
私ははじめ、人類に最も近いチンパンジーやピグ
11]とピグミーチンパンジーやチンパンジ
るような人 1
ミーチンパンジーを研究することによ って人 I
H
lとい
ーの行動、また生き方の慎重な検証を辿して、紛 ら
う存伐をあぶり 出す のがこんなに級事r
r
,
な ことである
わしいたくさんの糸がからまりあう
とは思 ってもいませんでした 。それは、人間に似て
人間とチンパンジーたちとをふたつながらに正し く
いる点、 j
主う点をくらべて云々という粍!支のもので
1を見つけだそうと
理解する細かいけれど確かな糸 1
はなかった。 また単に、人間に似ている点が多いか
しておられる様子が伝わってきます。
ら彼らをヒ ト属に入れればい い、ヒトの概念を拡張
98 ・人間文化
r
l
'から、しか も
、
しかし、繰り返しになりますが、私は進化論に 関
『
人類進化再考 j (黒田末書著)合評会
する詳しいま1械を品二ち合わせていなかったことがあ
めているカメラマンは同時に被写体によって見つめ
I
,
j
l
度の発生というこ と、所不(
の党生
って、例えば、 ;
られているのであり、被写体の│憧のなかにはカメラ
ということ、その他の 「人間的なものごと 」の発生
を構えてカメラマンのことを見つめているもう 一人
などに │
刻して怖に落ちる感じを何度も I
!
未わったので
のカメラマン (また、レンズ)がし、るのであり、さ
必ずかしいことに、例えば人 l
I
lJ社会における、
すが、l
らにも っと 1
1
を凝らせば被写体の中にいるカメラマ
fl,lj 皮のf!~1!木といったことをきっちりと J也 JW してはい
ンの │
盛 (レンズ)のなかには、被写体を見つめるカ
ませんでしたから、黒田先生の本当の言 いたいこと
メラマンの 1者 (レンズ)のなかにいるもう
を受け取ることができたかというとちょ っと自 信が
1
'にいるもっと小さなカメラマンがし、る
写体の 1誌の '
-人の被
ありません 。 ですから、『人頒進 化 N~与 J を読んだ
のであり・ ・ という、再現のない '~I
後で私は、さらにそういった点について子:び、しか
合わせ q~l のような自
る後にや っと 『人頒進化再 考」の 1
'
].;与ができるもの
た。他者のなかに他おによって見られる ,
'
,
分を は
、
と考えています。
1分、どこまでも他者でありながら、深
どこまでも "
他の繰り返し、
他の映し合いのイメージでし
栄く 1
.
,
'いのなかに中1
1
1
ーを映しがしけ、 !
こ
│
分1'
,
身と、
くj
さて、長々と占いたところで、ぷ人の説1'i'で也
ある
そして他おと、どこまでも対的していく成なしの関
私が、この本の解説とか批評をしたところで│
刊 を射
4
1
いをしたのです。 これが、人I
I
lJとして人
係を見る J
たものになるはずもなく、それは他の プロの光正.
1
:
に
'
i
j土が凡つめ合うことなのかもしれないと,巳1
いな
間I
お任せするとして、素人なら素人として、ぷ 1
1をJ
4
がら、ふと ,
'
P
,
川先生とピグミーチンパンジーのはつ
ってとんちんかんなことを言うのが私に諜せられた
め合いのことを ぶ
! っていたのでした 。
本当の{支 1でありましょう 。 そこで、在、は、ここか
人l
f
lJと人I
I
lJが見つめ合う場合と、人l
I
l
J
と
1
'1
然とが
らは、このみ;を読んだときに私が連想した I
I
'
'
;
;
¥
"'
U
市
対 III'J する
の場前!と、この本を読んで、から後の 1'
,t日午前のちょ
る場介では、その見つめ合いのな I
床は全く追うもの
( 見 つめ合う)場合、自然と n 然が対 11,~j す
っとした瞬間に、この本のことがふと以をかすめた
,
然が
であるような気がします。 そもそも、 "1然と,'
場I
r
(
i
とを筒条 1
1きふうに書いていくことにします。
L
つめ介うということは起こりうるのか、そこには、
よ
黒川先生は、この本の '
1
'で、あるピグミーチンパン
ただ,'
,然、があるのみで、尖は対 l
時も見つめ f
Tいも
ジーとの見つめ合いの経験について触れ、はつめ合
作
イ1
二しないのではないかなどと思 ってもみます。
j
の'
)
'
ji
;
1
1にあると問 H
、
Lに外出1
1にある他1'i'Jとい
「人r::
L
I
身 と彼らとのつながりを{,すい され、ま
いの'1'
でご ,
1
:
界にリ │
き込まれ同化してしまうのではな
た彼らの "
う言葉が 1
'
,
てきました c ピグミーチンパンジーの│世
、
い か と い う 不 安 に 見 舞 わ れ な が ら 、 し か し ブJで
は
、
にもかかわらず彼らと通じ合えた実感がなか った
、
I
J
lを
よL
つめる自然の l
出のなかには、
れていること、人l
と訪 っておられます。 また、その後でも、ピグミー
人間が│決 っているのだという ことを 附ぶして、どこ
n然を比つめる人!日lが liijl時に白然によ って凡 ら
チンパンジーやチンパンジーたちとはつめ介うと
までも人 1
1
]
iであり、どこまでも自然である私たちの
き、彼らは私たちのなかにあると同時に外にある他
ことを思い起こさせるのでしょうか c
者であることがわかる、とも言 っておられます。 こ
れとは令く迎いますが、ピグミーチン パン ジーの食
残りの紙数はさらに道化に徹します。 この本に l
V
;
j
乞われたおがそれを !
!
f
,制するような行動を利介され
'
1
:
.
一
川 のj
必l
i
iで¥
1
4
1いついたことに対して、!日
1
1
1先生ならとういうふうにお答え卜さるだろうかと
ていました。それからまた、彼らの, "
c;
.;J:織と他者
引を込めたものです。
いう!日l
物分配の場 l
(
j
rて、は、乞うおが相手のがl
をの ぞき 込み、
連して、
理解についての考祭もされていました 。 あるとき、
mlj~ と集 1.11 へのアイデンティティとか j注目見の問題
このことがふと郊をかすめる場而があ ったのです。
にも触れておられましたが、これを最も身近に!:1.~じ
k人が I
j
f
jl、た写宍の展覧会でのことでし
たのが、 ィ支 ' 1' の .d,~it}jX の音に日を覚まされたときで
それは、
た。在
、
は
、 k 人が j
l
j
t
!ったいくつかの大きなポートレ
した。 その枚以心 J
j
*にたたき起こされた他の人たち
イト η
!Tのなかにいる被写体の│肢のなかに、カメラ
と私たちは、悠 ったり、胞をひそめたりしながら、
を構えている友人の姿が映っているのを見つけまし
社会のマナーみたいなものを無意識にかすかに感
た。 そのとき 、私の頭の 中にこんなイメージが広が
じ、それに}えするものの行動を苦々しく思 っていた
ったのです。それは、カメラを構えて被写体を見つ
かもしれません。 いっぽう、しかし、暴走'
1i
l
}をす
人間文化・ 9
9
f
人類進化再考 J(黒田末喜 善 )合評会
る彼らは、暴走行為をするわれわ れ
、 というアイデ
のですが、タイミングを逃すとどんどんつらくなっ
ンテイテイでもって集団をなしているのだとも思え
ていきます。 ピグミーチンパンジーたちもそんなふ
ます。それは、ある社会の制度から逸脱することが
うに感じているのかどうか。席を譲るという行為は、
別の社会の成員としてのアイデンテイティと、i!J
I
J
度
人間の他者理解の程度を示す行為なのでしょうか。
を作り出すということだととらえれば、逸脱の存在
席を空けるかどうかということはいわば自由意志に
によって 制度が制度としてあるのだという考えを証
よるものであり、「身動きならない自 iliJ
i
Jではない
する例だと 言えなくもないのかどうか。
また、いじめの現場においては、何か言語なしの
制度みたいなものの存在をにおわすようなことがあ
ようですが、あんなに葛藤があるのなら、いっそ
l
j
l
J
J だったらよかったのに、と
「身動きならない白 i
思ってしまいます。
るように感じます。その他にも、 例 えばユダヤ ・キ
また、小さい頃を思い起こしてみても 、今でも、
リストの車告にある食べ物に 閲す る禁止の紺1=
1
に
気のある相手、好きな人には何かプレゼントしたい、
Jして集団を形成する人間の文化が感
は、制度を利Jl
自分のものでもたくさんあげたいと 思 うような分配
じられます。
行為についても、先生に詳しく観察してもらったら
また、乞われる者のうちに起こる葛藤の総子は、
而白かろうとも思います。好きな人に何かあげるの
電車やパスで、雌 っている私の目の前に、お年寄り
は、それ自体楽しくて、そこには自 制 も繁殖上の有
がやって来たときのことを思し、起こさせ、身につま
利さも、惜しみもないように思えます。
される気持ちで読んだのでした 。席を 空ける場合、
さっさと空ければそれだけはやく気持ちも楽になる
結局、ろくな説み方をしていない ことをさらけ出
す羽目になりました。
Eまとめ
高谷:ありがとうございました。最後にな りました
支配する利潤という怪物を崇拝することになってい
が、古川さん、 何か総括的 な発育をいただけません
ます。絶対武力独占による 「アメリカの平和 j の論
か。
理も直系の子孫と思います。
古川:凄い主張だと一番感銘を受 けた のは、 言葉が
日本の霊長類グループの仕事は、チンパンジーが
l
J
i
度になるいわば潜勢体の制度をチ
加われは‘直ちに i
白然状態で笑現している性善的社会を 明 らかにし
ンパンジ一社会が実現しているという指摘です。そ
た。そうした性善的社会を、これだけ大繁殖をとげ
してその内然制度が食物分配の行動において最も鮮
た人間社会がその様底においてもっていないと考え
明であるということで、人間で言 えば性普説で、すね。
るのはどう見てもおかしい。色眼鏡で見ているから
といっても性善なることを強要した乞う乞われる関
じゃないか、 ということで、性善説への回帰を促す
係じゃなくて、自然の中で乞う乞われる行動がある 。
います。人間の本性に線拠をもっ白然
大発見だと足l
そしてそこに自らなる規範があることを疑う余地な
法への回帰を 促す自 然の力を見た 思いがする 。
く証明したという こと です。 この発見は本当に世紀
の発見ですね。
私共も、様々な社会の人と自然を見る中で、その
自然の力に気付いていた 。人間社会に浸透したその
正反対に位世する見方は性悪説、中 でもそのチャ
自然の力を私共は生態論理と名づけはしました。生
当然状態の人 I
H
J社会は
ンピオンはホップスで、すね。 l
態論理を東南アジアや雲南省少数民族の生活の観察
万人の万人に対する戦争で、人間の生活は孤独で、
でえぐり出そうと試みはした。 しかし、黒田氏がこ
まずしく、つらく、残忍で短いと言う 。およそ人間
F
の本で成功したような、食物分配という具体的で}j=
的という 言葉の内容をこれくらいサディスティッ
要な行動に着目することで、我欲の存在と我欲の断
夕、マゾヒスティックに表現した文章はない。 この
念を照らし出し、その社会の自然法をくまなく露に
考え方は人間社会を考える線々な思想、の中で、まぎ
する、そういう成功に学ぶ所大なるものがあります。
去を代表するものです。
れもなくヨーロッパ流思、考 j
、ーウインの個体問競争による自然選択という考え
夕
ところで、今西錦司が生物にプロ トアイデンテイ
ティを予想したことは生物の社会学を体系づけよう
方を生み出した胎土です。 これらの考え方の延長線
とした以上当然のことかもしれないが、ここで、注目
上に、現代資本主義社会がある。自然と人間社会を
司が、プロトアイデンティティ
されるのは、今凶針i
1
0
0・人間文化
『
人類進化再考.
1 (黒田末喜善)合評会
といっても生物に心とか精神とかを仮定しているの
ではないとわざわざ断っていることで、類人猿の{i}1
⑥あとがき
究でも心の発見には向かず、心の発見は人間以外の
この合評会記録はやや尻切れトンホ;
'
[
1
せなものにな
動物に心を認めないヨーロッパ入社会を意識してい
っている 。 これは時間配分を誤 った司会者の私の不
たに違いないヨーロッパ人女性によってなされた 。
手際によるものである 。ここに記しておわびしたい。
この関係は逆説的であり、その逆説を今西錦司の場
市川 さんの発表に対しては何とか討議の時間をとっ
合にあてはめると、今回達日本人研究者が心の発見
たのだが、それに続く細鳥・上回・古川諸氏の発表
に向かわなかったのは、動物に心があるのは当然と
に対しては充分な時間を割り当てられなか った。そ
思っている 。 日本人社会を意識していたからでしょ
れらに対して行 った短い討議の記録はここでは省い
う。彼等は社会性の発見に向かった 。
である 。 紙而の í~1j限もあ っ てのことである O
ここでひとつ注文があります。私共は、うまい証
著者の黒岡さんがいるつもりで上の合評会を企画
明をょうしていないのですが、人間社会の根底に生
したのだが、残念ながら著者不在のまま行うことに
態論理の働きを想定し、人間社会を人間社会たらし
なった。 同氏が急 にヨーロッパ旅行に出てしまった
めている自然の秩序も生態論理が司っていると想定
からである 。
核心的な問題のいくつかが話題になり、
しています。 この立場からすると、チンパンジーの
しかもそれのいくつかは本人と私達の問に考えの差
食物分配と、犬や烏やその他の動物の給餅行動を l
峻
があり、これらを討 議 したら大変面白いことになっ
別し、 │
当然 I
l
i
l
J
度をチンパンジ一社会 についてのみ認
たに追いなか ったからである 。 ちょ っ と残念なこと
め、その他の動物に認めないのは大変残念です。 こ
であ った。
床し、 犬や烏の自然
こは、必ずや観察対象行動を吟 l
それにもかかわ らず、この独創的、かつ挑発的な
制度の特徴を明らかにし、資本主義の論理、武力支
同僚の本を語れたことは愉快であ った。学問的興奮
配の論理!を打ち破る生態論理!の陣営 を強化、拡大す
に満たされながら、なおかつ生身の人間として)j反政
る手だてを考えて欲しいのです。
なく論じ られたということは、いいカタルシスでも
あった。
こんなポテンシャルの高い著作がまた次に出るこ
とを祈りながら 。
(高谷)
Comment
くろ
だ
すえ
ひさ
黒田末書
滋賀県立大学人間文化学部
最初に 2
0世紀年末の多忙なときにもかかわらず、
として現れるとはどういうことなのかを、食物分配
拙著の出版時期に合わせて合評会を企画してくださ
を通じて明らかにしようとしたのです。 これはちょ
った高谷さん、そして丁寧に読み様々な角度から批
うど、私が分配の 「
社会論」と「道具論・動態論」
評してくださった市川、細馬、上回、古川の皆さん
と名付けて対置した分析の違いに相当します
に感謝いたします。批評はとても刺激的で、考察を
(
p1
l2
)。 これは「貨幣論」と「流通経済論」の I
U
J係
深めることができました。 それらすべてについては
と対応していると考えてください。
ここでは触れる余裕がなくいずれ別稿で論じるつも
りですが、私の記述不足で趣旨が伝わらなか ったと
思われる点について簡単にコメントさせてもらいます。
制度の動態を論じる場合には、
R
. フォックスが
指摘した複数の社会事象を結びつけることや市川さ
んが指摘する制度のダイナミズムの分析が不可欠で
す。 また、 I
l
i
l
J
度は原初のものでも複数の事象を結合
1制度について
#
i
j
l
度
私の論点の主眼は、人間特有の文化である <
したものであ った可能性もあります。 しかし、霊長
類学・進化人類学において 「
家族は制度である j こ
の生成を理解する 一つの道筋>であ って、制度の機
との理解が後退する 一方であることを考えると、ま
能や動態ではありません。つまり、ある行為が制度
ず制度の根本である規則という面をしっかり捉える
人間文化 ・ 1
01
『
人類進化再考j (
黒田末書 著 ) 合評会
ことが重要ではないかと思うのです。
在の状況を見れば、類人猿を人間扱いすることがい
2."
[
欲求の断念」という切 開の視点 と人間概念の
類人猿の孤児を救うために莫大な金をかける計画が
いとは思えないのです。例えば、アフリカの諸国で
拡張について
ある一方で、多くの人々は圧倒的に貧しい暮らしを
私たちは、<人間社会には他の動物社会にはない
しています。 このとき、類人猿が人間だから救うとい
特性があると考え、その特性の獲得を人間社会形成
う論理は成り 立 たないどころか、大きな歪みを生む
としている>のですから、類人猿の食物分配の意味
でしょう 。
を生物一般に通じる持遍原理で考えてもしょうがあ
りません。そこで、他の動物に見られる食物の授受
とは違い、かつ人間の食物分配と共通するものを取
3
.人 間 と 類 人 猿以外 の 生物 の 「 心j と「主体性」
へのアプローチ
り出すことが必要で、それがチンパンジ ーたちの分
私は、森や草むらにひそむとき、 i~\ を捌くとき、
配者の 「
惜しみ」、つまり「欲求の断念」 であった
木を切るとき、様々なときに生物の命をはっきり感
のです。 したがって 「
欲求の断念」を中心概念にし
じます。 しかし、それを 「
心」 を感じると表現しで
て食物分配の進化を考察し、 一定の成果を得たので
も私自身には矛盾はなくとも、それは私にはまだ言
すが、論理梢成上は必然的に、チンパンジー属と人
語化できる気がしません。 いずれは、そこに至りた
│聞とをその他の動物から画することにな ってしまい
いと思っているのですが。
ます。 しかし、これは人間社会形成を考える論理の
最近、畑を羽│しながらこういうことを思っています。
性格であって、人間と他の動物の関係の捉え方とは
人間が非自然的存在というならチンパンジーもそ
区別するべきものです。 もちろん、人間と類人猿以
うだ、というところの続きですが、植物であれカビ
外の生物に「心」 はないとか、それを考慮するに他
であれ他の生命を分解して自己を保持するわけです
しないという意味でないのは言うまでもありませ
から、それぞれの主体に立てば、文化を J
守つ持たな
ん。
いにかかわらず、その他の 「自然」 と対立する非自
の近さを強調しています
また、私は類人猿と人!日i
然性を r
lずと持っているわけです。 I
"
J
位種間の棲み
が、チンパンジー属を人間の範院に入れることは提
分け、つまり、生物全体社会の主体的分節化も非自
案していませんし、賛成でもありません。 コンクリ
l
然などという
然性といってよいかもしれません。 │
二
ートの凶いに閉じこめながら、チンパンジーを 「ひ
ものはなく、あるのは非自然的存在の塊だといえば、
とり 」、「ふたり 」 と数えることにも賛成しておりま
個々の種の主体性と、命は命のうえに成り立ってい
せん 。 (これらのことを提唱している人々が動物を
ること、つまり生命は他の生命に生かしてもらって
人間の理不尽な虐待から守ることに熱心なことも承
いることがいっそうはっきりするのではないかと思
知していますが。)人 間でない生物にもできるだけ
うのです。
自然状態ですめるように保証するのが、地球を荒ら
このようなことを考えるのは、身体を使 って平を
7
T虫をつぶし、土耕しているからです。 もし
してきた人間の責任であるという考えを擁立する方
抜き、
が大切だと考えています。
かして、「人間の相対化」 はこういう営為の中でし
さらに付け加えるならば、西│
玖社会での人間概念
の変遷は人種差別と連動しています。その歴史と現
1
0
2・人間文化
か現れないものなのかとも思われてきます。古川さ
ん、上回さん、どう忠われますか。
人・閏・文・化・通・信
阻平成 1
1年度人間文化セミナー(シンポジウム)
年
"
.
1
2月9日(木)
シン ポジウム 「ヒューマ ンサービスの今とこれか ら
」
2
1
世紀の人間関係にかかわる 稿制・教育 ・医療 ・
看護 ・心理等の ヒューマンサービス労働の課題を探る
八木英二(滋賀県立大学人間文化学部教授)
.
"
年
"
月
田 尾雅夫(京都大学大学院経済学研究科・経済学部教綬)
時 旧 手[
1史 ( 滋 賀 医 科 大学予防医学講座 助教授)
2日(火)
セ ミナ ー 「茶 の 成 分 の 生 体 機 能 調 節 作 用 」
古田一郎(滋賀県立大学人問文化学部助教授)
原 {正彦(三升農林株式会社食品総合研究所長)
.
"
年
"
月
1
3日(土)
r
セ ミナ ー ( 湖風 祭協賛行事) メンソ ー レ沖 縄 J
「文 化 の 時 代 の 可 能 性」
沖縄の音楽にそのモデルを求めて一
高旧
昇(立命館大学政策科学部教授、
cO\1~1 画研究所 itt< J
4
警
大工哲弘(i rlr~,也氏謡歌子、 i'lr 縄県 )11,\形文化財保持省)
年
"
.
是
主
..
J
・
"
‘
.12
年1
月1
9
日(水)
1
2
月7日(火)
シンポジウム「子どもの現状と家族関係」
セ ミナー「衣 服か ら見た日本史」
I~I: 悩する 心 をいやすには
武│
上│
佐 知 子 ( 大 阪 外 国 語 大 学 教 綬)
那須 )
'
t
1
江 (滋賀県立大ザ 人 間 文 化 学 部 教 綬)
!
l
f
'
古1
5
1専子
(滋賀県立大学人間文化学部助教綬)
1f ~i平一ヒロミ
(フリ一家庭教育相談室主宅・名古尽
d
i教
育委民会こころの教 f
fカウンセラー)
有国j
- :iJ~ (関西カウンセリング研究所・関 l
珂カウンセ
ラーセンタ
ス
パーハイザー)
.12
年1
月2
0日 (木)
~
~
a
報告
セミナ ー !
映画 「
戦後在日五 O年史[在日 J
J上映
講演「記録映画 f
戦後在日五 O年史[在日 Hを製作して」
呉徳川 ([
u 日]映画監督)
明らかにされてきた.そして、減少し続けてきた緑
茶の jド:j~!i l
I
J
:
.もや や仁昇傾向に転じてきた.
原氏は、 2
0年ほど前から茶の成分の l二l
'
のポリフエ
ノール化合物の 一種である茶カテキンに注日され、
セ ミ ナ ー 『 茶 の 成 分 の 生 体 機 能 調 整 作 用』
研究をおじけられている.茶カテキンにこだわってこ
平成 1
1年 1
1月21
](
火
)
、 1
1
1征彦氏(三 J
I
農林食品
インなどは茶以外の植物にも合まれ、生 l
J
i1作用もわ
総合研究所所長)による 『
茶の成分の生体機能調務
かっていること、茶カテキンは茶にしか含まれてい
られたのは茶カテキン以外の成分、たとえばカフェ
作用 Jという演題で学生、 一般市民を対象に人間文
ないこと、他の植物には#t~を見ないほど大量にポ 1 )
化セミナーが実施された .古来より、東洋の神秘的
フェノール化合物(茶の場合はカテキン)が含まれ
な飲み物として茶の薬効は大いに宣伝されてきた
ていること、茶カテキンの生理作用がいまだ l
珂らか
が、近代科学の発展とともに茶成分 IIIの有効成分が
になっていないことなどの理由から茶による薬理効
発見されて、かつての誇大宣伝がまんざらでもなく、
果すべてを茶カテキンで説明したいと考えられたか
体験に基づいた東洋の叡主n
として茶の'よ態、が次第に
らである.まず茶葉から4種類のカテキン(エピカテ
人間文化・ 103
人・問・文・化・通・信
病の予防につながる.また、カテキンはタンパク質
と結合しやすく、我々が茶を飲んだ1
1
寺カテキンが粘
蘭
J
)j英に H~守し、 il~ みを感じる .
ところカ tこのちi
みもや技
生物にとっては致命的である .ボツリヌス菌、コレ
ラ菌、ピロリ菌、インフルエンザウイルスは勿論の
こと、次々と耐性をもって新生し、我々の生命を脅
・
r
かす感染力下ウイルスなどにも茶カテキンの抗菌性が
有効である.さらには我々の腸内の,
T
l
!
:主菌を駆逐し、
善玉菌の生育を 促すことによ って!閉山作Jl
J
にも役立
つ. このように様々なカテキンの効果が提示され、
キン、エピガロカテキン、エピカテキンガレート、
「
茶の事1
1
泌はカテキンに由来するのだ」と感じたが、
エピガロカテキンガレート)を単離し、各カテキン
カテキンがたとえばガンのどの段階でイf効なのかな
ガi
について精力的に有効性を調べられた .その中か
ど、本当の詳しいところはわかっていない.カテキ
ら特に 、大 i
L
i
;に含まれるエピガロカテキンカレート
効性に │
刻しての解明は始まったばかりであり、
ンのイI
のイJ
効Y
I
・
を1
1
'心 に
、 研究の一端を紹介された. ft~ カ
まだまだこれからであるということであった.これ
テキンの抗酸化 能やラジカル中ilìJLíì~ はガン、心臓病、
からもや 1
1
泌成分茶カテキンからますます 1
1が離せな
f
!
尿病なと、諸々の生活宵'
1
'
員
J前I
f
l
l'i'¥疾忠、高 J旨血症、私
いことを実感したセミナーで、あった,
(IJ川!
と
F記)
報告
セミナー「文化の時代の可能性
一沖縄の音楽にそのモテ"ルを求めて
J
1
1
1
'イドのアイヌもそうだったが、今 1
11
1
のセミナーで取
q
l純文化は均質化に [
I
J
I
かおうとする
り lげた i
n本の
J文化の l
r
I
で、特に異彩を放つものであり、沖縄
地)
以外に住む H本人にとっては i
q
l
純は 1
1~;: I玉|内 であり
ながら卜分に異文化 なのである 。それは本│二 (
ヤマ
l
j
iー化されどこか
ト)で語られる 沖縄のイメージ‘
がI
迷い存在であるという認識のされ )
jをしていること
1
'1指すモデルとしてとらえた内容だ った 。先生の話
からも分かる 。今同の人間文化セミナーでは沖縄文
lでも一番とっつきやすいと思われる沖
化を、 その q
に1
'-1てきた竹日烏の民宿の主人の l
唄のうまさ、向分
1
r
L
I
身の歌 ・i
l
q組の文化の中で歴史の 1
=
1
で;情われてき
1
げることでが1
制との距離が少しでも
たi
q
l純の 唄
│ を自分の力で唄うパワー、触れる者の心
純(~.~を収り t
縮まるきっかけとなればよいと思った 。
唄へと還元されていく虫かな自然、
を動かし、それが l
11
のセミナ ーは第 l部が立命館大学政策科学部教
今1
地峡の中に存在する人と人との設省:なつながり、そ
すすむ
授の '
I
,
j
:l
日男氏による講演、 第 2白1
¥
が郎新 d
1職員て、あ
のどれもがヤマ トの人間に感銘を与えるものである
り、民謡歌手でもある大工哲弘氏によるライブの二
とするならば、それらは今次第にヤマトの文化から
本立てのトークライブを企画した。 会{jj:に目指した
消えゆき、しかしまだ心の奥底で身体が欲求し続け
のはとにかく来 しいセミナーにすること 。交流セン
ているものであるのだろう 。
ターのホールで、行ったこともあり 、たくさんのお客
l
q純本島と
大工哲弘氏の故郷である石垣島では古来 i
さんに聴いてもらいたか った。いくら訴えたいこと
は違うスローテンポな八重山民謡を発展させてもき
があっても 、耽旬、てくれる人がし、なければ意味がな
た。大工氏の強くゆったりした歌声は │
時の流れを少
いというのが、今回学生主体で形成した実行委員会
しだけ変えたような気がした。普から現代まで歌い
の総:立であった 。
継がれた民謡の持つ力で=あると思った。
i
古田先生の話は沖縄の街を魅力 的な、将来の日本が
104・人間文化
(地域文化学科 3回生
上村真也)
人・間・文・化・通・信
.99年 度 卒 業 論 文 一 覧
伊 女 化 学 手 ヰー
アジアー日本子
大薮由美子
協生│時代における特異埋葬
福田由里子
~"Î 文;;同 11 i{'!Äß;売についての こ 、 三 の問題
山本
郁子
/
1
'1
玉│
南方青銅 j
凶器の研究
利一
直樹
~Ii 色塚古墳の総合研究
柴田
亮
│
制する 一考察
北村綾子
ヨシのある暮らし
前田加奈子
余呉に生きる
田中
文
高本
人として生きていくということの意味
岩田
淳子
ファーストフード業界において求めら
堀井香里
真央
神田桜子
i
M
J
束地方の集村と砺波地方の倣町村に
伝統的構造物の保存と活用に│期する 一考察
伝統的民家における防火施設に関する
る一考察
れるサービスと提供されるサービス
寺山修司の位界
奥
万木智弘
私がみた 中国
伊藤佳代子
奥村友美
今結婚は危機をむかえているのか
光田知加
i
M
J
に生きる人々
考古学研究の枠組みと梢造考古学の可能性
矢守永生
現代家族の可 能性
亮朋
純子
1
1
1ノ脇」 の人々
私のふるさと 1
新美静香
金子
考祭
彦艇における伝統的景観の変避に │
弘
l
す
U,;fI:人若年層の宗教との関わり
服部真由美 l
l
l
i
f
日に生きて
安田
青山
農村 小八木の歩み
侍真理子
.
1
"
二
芸 (
ごんほ)祭のある 「
地域」
華拓哉
飯j
地域による土葬の風習
山元一平
とらわれの雪獅子
岡久美子
燃の持つちから
川上明子
新しい市民活動の形について
熊谷
美絵
現代の子どもと鬼遊びに│刻する ー与
す
だ
泰生
真久
水谷玲子
優子
伯父の生きてきた道そして「地域」
たいこの“わ'
高 谷 美穂 植 民 地 朝 鮮 に お け る 神 社 政 策
竹下
黒j
塞め ぐみ
伊藤博文の 明 と略
西野久俊
せんねんいきるおとこ
相良摂子
関東大震災下の朝鮮人虐殺事件に │
却す
西村直子
後教占星術に関する 一考察
る新 間報道
葉葺あゆか
壬生狂言
日韓戦後処理に見る日本の姿
平田
f-どもたちの住む世界
チェコにおけるプラハの容から民主化
までをミラン・クンデラとヴァーツラ
森雄二朗
愛
赤星
フ・ハベルの著作から理解する
嶋 田 未来 匂 い
;
寄合の空間についての一考祭
尾崎友香
西川
誠
成田卓巳
岩崎摩耶子
洋子
妖↑軒々学
'
1
1
分と他人
変身に関する 一考察
雨乞いの文化に関する 一考察
小 西 干夏 南 蛮 人 と 茶 の 湯 に │
羽する 一考察
永山
一彦
1
,
事
樹
)j見務・思想から見る中江1
麗;
頼恭子
摂関 I
時代の日記の│
世界
福村龍也
『
義経記』の歴史地理的研 究
小西善章
1
:
'
11
立堅田 i
r
f
iと湖上特権
仲村友一
くらわんか茶碗の流通について
事 故 化 学 科一
生 活 デ ザ イ ン コ ース
渡 部 理絵 源 氏 物 語 宇 治 十 I
P
I
5における浮舟論
北
紗江子
杉村 善 行
東谷
三木
新
安達:gp:;
翠佐
多厳島と琵琶湖湖底追跡
一之瀬奈美
波来系氏族秦氏の定住
平安時代の 山岳寺院
今村康宏
西美濃における土1
1
皮氏
大角介伸
田中久美
圭
左義長からみる 地域社会の将来
一版物の発生と歴史的変遷を通してー
川崎智子
H本における服飾の流行と社会 ・経済
情勢の関連性
疋固め ぐみ
持者の結婚観とウェデイングドレスに
│
刻するイメ ー ジ調査
中島匡史
近}
止宿場 I
I
I
Tの発展と衰退
j
i
役国期 山城と建物遺構
消費~-の履物に関する意識の変化と現
状について
心 滋賀県の祭杷遺跡について
章
近代 F
I
本における女性の服装と社会的
地位の変遷との関連性について
修験の場としての葛川
石口和男
早川
中村
湖東町域の農業水利と開発
彩湖北川道のオコナイ
山線聖美
桑嶋
菅i
f
l
iの空間構成・空間意識
留岡
ポスターにおける赤が効果を表す故小
m
而
出 緑の色彩感情に関する捌究
人間文化・ 105
人・閏・文・化・通・信
圧田詳美
天 然 染 料 の 染 着 性 に関 する 研 究
長屋圭子
名物 裂に見られる 緑 色染 料 の 鑑別
藤倉洋次郎
近 江 の 集 落 景 観 の構 造 分析及び、修景言│
武田
HAKODATE2000 人・ 海・まちをつな
く
キハダの染若性
事;設化学科一 食生活コース
画 一新旭 1
1
町木津を 中 心 として ー
雅之
相原紗也香
函館駅周辺地区のまちづくり計画
旧彦 根 城下 I
H
Jの 伝 統的家 屋 の 悉 皆 調 査
三谷綾子
ーに 関する研究
池内隆造
朝 食摂取 の 有 無 が 糖 質 コルチコイドの
綾
各 種 ス トレスがヒトの ナ イアシン代謝
その I伝 統 的 民 家 の 残 存 状 況 と 城 下 町
の経年変化
林
サー カデイアンリズムに及ぼす影響
石川
1
1
:
1彦 根 城 下 I
H
Jの伝統 的 家 屋 の 悉 皆 調 査
昌世
村上洋一
に及 ぼす影響
その 2表構えによる H
I
J家系住居の型分け
岩田
旧彦根城下 町 の 伝 統的家 屋 の 悉 皆 調 査
内 田 綾 子 持久 運 動 時 に お け る バ ナ ナ の 糖 質 補 給
暁子
その 31
E
I武 士 居 住 区 の 家 々 に つ い て
彦根市立花町の 1
/
1
]家
山口佳代
高木真澄
彦根市立花町の I
H
J
家
加藤直子
立花町の安居家再生と隣接建物の建替
愛
主
・ X線回析図の変化
ーパンの老化 l
越智
由夏
臼田直子
戸建住宅から見る座敷空間
森野真紀
ゴミの分別からえたキッチン計画
川口真美子
-,主根市の独立住宅における台所のゴミ保管
北出佐知子
m山景観音¥1分 に お け る 集 い の 場 の 創 造
中島朋美
将来を見越した住宅改造に対する意識
宮下直美
長寿社会対応住宅設計指針に対する住
高橋
輝子
望ましい保育空間に │
期する 一 考察
覧之
ブラケッ ト照 明 が ト イ レ の 雰 囲 気 評 価
に及ぼす影響
志水一幸
加藤
智子
宮本美穂
清水美奈子
家具のデザインにおける日本製品らし
紫外線照射を行ったへアレスマウスに
恵
i
J
u
t
食 ・冷食に関する実験一果物の摂取が
谷
香里
脂肪酸認識機構に関わる長鎖脂肪酸輸
堤
さっき
お け る ウ ロ カ ニ ン 酸 異性 体 の 変 動
竹中
身体に及ぼす影響
送担体 (
FAT) に関する研究
ーソファ・ダイニングセッ ・
ト 食器棚を事例として
永田佑美
田辺鈴賀
食 品の価格調査について
一食品・栄養素の価絡にみられる食文化の変化
林
清子肥満形成の制 f~IJ に関する TiJI 究
これからの洗濯機の 進 むべき方向の ー
考察
金属、フイチン酸、過酸化水素共存下にお け
るカテキン類の DNA
損傷能に及ぼす影響
さの要素についての 一 考 察
北川浩一郎
ショウガの少量摂取がヒトのエネルギ
図司さとみ
あかりの演出による効果
安井美也子
ショウガの少量摂取が ヒ トのエネルギ
一 代謝及ぴ‘持久運動能力に及ぼす影響
茶の庭路地・露地について
日本の住まいとあかり
出
i
格調査について一栄養素別制i
l
食守
!1の f
一 代謝と 心 肺 機 能 に 及 ぼ す 影 響
高齢者のためのトイレ照明の快適性につい
ての研究
茶c
a
t
e
c
h
i
n金属錯体の過酸化水素生成能
格 の 変化
宅供 給 業 者 の 認 識
東
Cu2+共 存 下 に お け る 茶 c
a
t
e
c
h
i
n類 の
OHラジカル生成能
スペースについて
岩川美納子
老 化 モ チトウモロコシ澱粉添加│による
パンの老化抑制効果
彦根城を臨む景観と 1日家の述なる 立花町をつなぐ
1
).
;ク彦根教会と福祉会館憩いの家一
ビタミン Kの脂肪細胞分化抑制作用
広沢美里
老化 モチトウモロコシ澱粉添加による
住 ま い に お け る 生 活 道 具 ・生活行動・
パ ン の 老 化 抑制効果パンのテクスチヤ
生 活 意 識 の 考 現 学 的 研究
一特性値 ・水分合長の変化ー
祖父母の家の暮らし
福 井 里住
古谷雅代
野草の P
r
o
t
e
u
sm
i
r
a
b
i
l
i
sに対する抗菌効果
野草のメチルメルカブタンに対する消
臭効果
106・人間文化
NAD経路に及ぼす影響
製 パ ン 素 材 と し て の 老化 澱 粉
一老化澱粉の結晶椛造を形成する成分
大前佳絵
え計画一旅館の設計 一
ーカト
ラットにおけるジブチルフタレ ー トの
トリ プ トファン
遠藤英子
その 2 表構え について
松永
脂肪のおいしさの受容機構に関する研究
効果及び疲労防止効果
榎本
その 1 間取りについて
歩
肥 満 形成の 制御に 関する 研 究 一 肥 満判]
制に │
具jわ る タ ン パ ク 質 UCPファミリ
w
人・閏・文・化・通・信
別 宮 俗 美 外来食 品の認知 度につ いて一若者にみ
田中智容衣
る 外 来食 品 の 認 9;IIJ~ につ い て
松岡奈穂子
松尾ひとみ
ついて
バナナ摂 取 が安t'iJ~ II~Uえび持久運動|埼の
山本
エネルギ一代謝に及ぼす影響
湯川麻子
ほめ方、しかり方の王!
I
l楚
!
と 現実
食品の価格調査について
土田りえ子
今、いじめ論は f
l
Jを苅っているか
大石陽子
デユ ー イ芸 術論 に│
刻するー考察
応*
i
I
i
問 にお
け る食 ,'~', fil
村 瀬 智 子 外来食 品の 認知 度について冷麹の認知│
横山和子
祥子
現代の品川将と家族形成について
茂 企業行動と若者の意識
伊奈
l
立にみる日本の若者における外来料埋の認識
笠井
恵
i
f
t食 ・冷 食 に 関 す る 実 験 魚 介 類 を 1
'
'
-
沖固
有可
心としたタンパク 性 食!
日lの場合
吉岡佳代子
伝統文化 の継承 とその 人
f
l
¥
J
形成機能に
広告表現と社会主;識
1-2歳児の物をめくる トラブルに対す
る保育者の 働 きかけについて
ドクダミのメタノー ル
:
tl
t
/
11
:
l
物 から げi
;
込
市性物質の 単 1
4
l
1
上田禾紀
浅井
薫
荻山
恭代
父親 の子育て実態
会話における合意の形成過程
BGMが会話のタイミングにうえる影響
前田干寿子
しぐさの近接学
大原万喜子
高刺激の追いがパフォ ーマンスに与え
る t弘幸.~~Æ
活長化学科
北村知香
人間関係コース
リラクセーションと I
1
1
H
L
lを)
I
Jいたメン
タルトレーニンクーの効果
二 宮 葉 子 心拍制御iトレーニングによるパフォー
富塚
ー
ユングの 「
死者への七つの語らい」
マンスの 向上
f供が周 1
mの環境から受ける影響
藤井美紀
青年J!)J
のアパシ ー と (
1己イメージ
よ田
久保田なっき
子どもにとって大人になることをめく“って
吉村悠子
音楽療法
勇矢
現代の
庁楽が生体にもたらす効果
森
恒友
青少年における職業な識について
古池{左己子
l 歳 児 の~:求行動の発述
渡辺
友美
1
歳児の 1
2
:
)
1<:行動の発達
"
外米諮問使用のネーミングとその役訓
野中美穂
井原佳奈子
Jに凡 られる 日本 内
[ 人!日
i
関係
│
吹J
lI
坂香絵子
小林幸子
L
I本 に お け る 生 活 環 境 に つ い て の 訓
査 ・研究
]-3歳児の リズム遊ひ]必 /
(
Ij
にお ける動
f'i' TJI ~1 の発 j主的変化
尾田
真希
高橋
綾
プロトコル分析を
mいたインタ ー フェ
l
ース許制i
吉田大樹
背肝川 第十堰問題と住民投票
岸本こすえ
環境政策としての介併処 J
i
[浄化れl
i
安原美幸
求められる子育て文援
S
D
i
.
よーをJlJ
いたロボットに対する 印象
~;f寸 lIí
竹田直弘
人はいかにしてフライパンを振るのか
.INFORMETION
[
=生活文化]
として過剰に摂取したエネルギーを熱として発散す
る機能を J
1つタンパク
n(UCPという)を大量に
村二つ身体にするにはどうしたらよいか、という 2つ
-杉本悦郎 (
すぎもとえつろう )
栄養学、生化学、
分子生物学、
食生活論
の而から実験動物や動物土庁養刻1
1
胞を J
I
Jい、生化 '
7
"
"
、
力
1
.研 究
分子
,
'
1
.
'
物 学 的手法を似似して研究している 。
肥満は生前 j!lI'I['HI~j (
成人病 )を減 免する原 J
II
にも
なるので、肥満防 1 は健康維持のために重史ーである 。
2著書
我々の身 体 には 、本来 肥 満を !
坊l
卜
ーする千│走I
l
があり、
その機能が低い 人は肥満 になりやすい体質であり、
I
何 を食べたらよいのか-il!.慌する'li'
i
f
l
i
にふりまわ
されないために -J
、学会 出版センタ一、 F
I
本農芸
その機能が市jい人は肥満になりにくい(沢 山食べて
化学会編 、共編者、 1
999年 5月
もあまり太らない )体質である 。
そこで
f
J
肥満になりにくい体質はどうしたら形成
されるか Jについて
いJ
)
脂肪を孫和する 脂肪刺1
1
胞の
2
)食物
数の 増加 を制御 するにはどうしたらよいか、 (
3.学外活動
F
I
本J
1
2去 化学 会 授 1
1選考委員長
I21 銭 り:~iìH~ 生活審議会長
人間文化 ・ 107
人・間・文 ・化・通・信
平成 1
1年度第 3ブロック(近畿 ・中国)児童柄祉施
設給食関係者研修会(厚生省 /滋賀県 / Oa)児童
育成協会主催)において
f
栄養
・食教育について 1
映画 『
男はつらいよ j シリーズの分析を通して」 と
題する共同研究[
金児院嗣(大阪市立大学) ・岡本
総介 (
京都学園大学) 1
を実施中 。 これは 「寅さん
l
映画 J4
8
作品の LDを題材にして、日本人の原風景
の講演
と、そこに見られる心情と人間関係の特徴を分析す
-漬口悪俊(はま ぐちえし ゅん)比較社会論・比較
文明
学 ・日本
論
前4・
5・
6サで報告した科学技術庁からの受託研究
i
)
f究である 。
る{
すで」こ報告 i
i'Tみの第 2
2
i
l
l
I
Je
a
n Gebser 国際シンポ
「関係集約期人間による社会編成原理の研究」での
eo
n
t
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l
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g
i
s
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ジュム(ベ ルリン)での発表論文 (
“Di
国際比較調公ついては、本学での第 H期の研究を完
Grundlage o
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i
l
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rK
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")が、学会誌である
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Vo
.
l
X
I
V
.1
9
9
9
15
3
0 に掲載された。
s
s.
平成 1
1年9
)
Jには、総合研究大学院大学文化科学研
究科に提出した論文 『日本研究原論一「関係体jとしての
了し、平成 1
1年3月に、 E
I文研における第 I期の分
析結果をも含む、下記の報告書を 刊行した。
賓口恵俊(研究代表者)編 『
関係集約型人間によ
・1
る社会編成原理の研究一 間人主義 ・個人主義の国
際比較調査 J(その二)、滋賀県立大学人間文化学
日本人と日本社会 j(参考論文“ A M
e
t
h
o
d
o
l
o
g
i
c
a
l
部、平成 1
1,Jr3月
、 1
9
5貞
カ国、計 8
.
2
8
6人のサンプル(企業体、大学等 ) を
B
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h Regard t
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tsFoundation0
0
)により博士(学術)の学
'
r
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l
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m
'a
sI
位を取得した。本論文は、日本人の国民性および日本
型社会システムの基本特性を、 「
方法論的関係体主
義J(
methodol
og
i
c
a
lr
e
l
a
t
u
mi
s
m) とい う新しいノ Tラ
ダイムによって解明する試みである 。そこでは 「間
人」モデルと「関係体」の概念的基礎を、デカルト
対象にして実施された 。[受 託研究費は、第 I期
i
E子・龍樹 ・1
1
1内待 立らの相関存在論
主義を超える :
21
.9
4
4
千I
I
J
、第 E期 1
0.
49
7千円、計 3
2.
4
41
千円]
調査は主に、対人関係飢にかかわる価値観や態度
導入して、柔軟な主体システムとして日本人と日本
8伊│
の立見項目 (
1
1
1人主義 J
2
4項目・ 「個人
に関する 4
社会を 十巴援しようとした。
本調査は、金児 l暁耐~
(
大阪市立大学)、古川秀夫
(
龍谷大学)、ポーリン・ケント(龍谷大学)、岡本
裕介 (
京都学園大学)ら との共同研究として行われ
たが、第 1 .I
l
矧 (
平成 6-10年度)に、│世界約 2
5
に基づいて明雌化するとともに、 「
複雑系」の視点を
主義 J
2
4
J
Jj日)について、 五段階で賛否を!日]う形で、
1年 1
2月には、日本人の同民性に関する比較
平成 1
配票調査によって行った。ほかに、組織観、人間観、
社会学的研究に貢献したとして、平成 1
1年度京都新
自然観、1-14>:観を問う設問も含まれている 。調貸崇
I
l
f
J.文化学術立を受賞した。平
年
,
;
1
: 日本研究原論j
は、同 一 内容の米語・英語・スペイン詰 ・ドイツ
、&びに対人関係観についての国│燦比較調査が評価さ
r
語・フランス諾 ・チェコ語・フラマン詩・隣国語・
干年度の杉本悦郎教
れたものと思う 。 この受賞は、 H
中国語 ・E
I
本語で構成されていた。 また海外の日系
授に続くものであり、私個人としてよりも、むしろ
企業等での 小集団活動 (
たとえば TQCサークル )
人間文化学部にとって喜ばしいことであった。
についての観察・インタビュー調査(アメリカ・ヨ
]
1
.1・アルゼンチン 等) も実施した。 この
ーロ ッパ諸 1
調査データに J
基づいて、
I
I
IiJ人」という関係集約型人
間による社会編成原理が、今後グローパルな遍在性
t
l
があることが立証された。それは、世
をもっ可能'
界の調査集問における 「
個人主義」の平均得点が、そ
7
0
.
6
9) [
尺度中間値は 7
2uJの前
れぞれ総平均点 (
後に分布するのに対して、 「間人主義」 のそれは、
0
.
5
1点が総平均点、になっ
中間値をはるかに上回る 9
ていることからも明らかである 。 しかもこれまで
「
個人主義」社会とされてきた欧米の集団のほうが、
日本や小同よりも 「間人主義」得点が概して高いとい
週子分析や数量化理
う傾向も見られた。データは、 l
論 E類でも分析され、測定尺度の再構成も検討され
f
こ。
平成 1
1年度は、サントリー文化財団の研究助成金
により、「日本人の 心情と日本型人間関係の特性一
108・人間文化
大聾 (
ちよんでそん)食文化
1 研究
韓国と日本との食文化の比較研究を行っている 。
4月にはソウルの誠信女子大学校、大田保健大学校、
釜山の仁済大学校で講演。 日本に広がる韓国食文化
を中心に紹介。梨花女子大学校とは共同で学生の食
I
J
日干の調査研究を進めてお,
り
、 8月には現地で研究
会を持った 。研究論文として前 7号で、 「日本と朝
鮮半島の食文化の比較研究、その l、日本の若者に
おけるキムチの│瞥好について 」 を発表。特別研究
「
朝鮮通信使接待の記録にみる朝鮮人好物に関する
7号に
研究 (その 1)Jを 日本生活文化史学会誌第 3
発表。
2 著書
『
韓国料理文化史 J(
平凡社、共訳 6月) キムチ』
2月)
(食品研究社、共著 1
.鄭
r
人・閏・文・化・通・信
3
講演、セミナー
U
J
J、立花 I
I
Jの I
I
Jづくりの設計・デザイ
-彦根市佐和l
キムチに関することがにわかに多くなった 。マス
ンの提案を、例年と同じく 3回生の 「
住居設計実
メディアの執筆、 1
兄材がこなし切れないくらい。そ
習」 の授業の中で、現地住民の協力も得て行いま
こで急いで 『キムチ 』という書をまとめた次第。秋
した 。現地のフィールドワークの上に、 学生 3チ
には東京でキムチフェステイパル、名古屋で漬け物
ームが 1可づくりの提案をそれぞれ行い、現地住民
祭りなど相次いだ。本学の i
l
i
}
j風祭でも大学院生の淳
の前で発表し、批評をしていただきました。 I
I
Jづ
麻衣子さんが中心のキムチ研究会が、キムチの科学
くりの参考にしていただければ、と思っています。
と文化をパネルで展示、キムチの即売会は大人気で
地域のなかで考え、 学ぶ機会が待られて 、学生諸
初日の午前中で'
3
0
k
gが売り切れとなった 。
君も大いに勉強になったかと思います。
-方、滋賀県栗東町から地元産のハクサイを本格
キムチに商品化したいとの相談があり、
9月から取
り組んだ。研究を重ね、 1
1月27日に現地でキムチの
講習会と講演会と持ったところ講習希望者が殺到、
-社会活動
・前年に引き続き、昨年も滋賀銀行が地元の企業家
の支援のために行っている
i
<しがぎん>ニュー
2回に分けて実施、好評裏に終わる 。 まさに架東の
ビジネスフォーラム」の住宅・生活文化分科会に
一地域の 「
村おこし」運動にキムチが一役買ったこ
おいてコーデイネーターとして地元の住宅関連・
とになる 。 これこそ外来食文化の一事例となりうる
生活関連の企業の人たちとともに勉強会を行いま
ので、大学院生の初│究テーマに設定し、これからど
した 。
のようにキムチ文化が根を下ろすかを追跡調査する
ことにしている O
特別研究の朝鮮通信使の接待の記録調査は日比喜
-大津市の建築審査会の委員として引き続き大津市
の建築行政に参力I
Lしています
-前年から引き続き、昨年も彦根市の都市景観アド
子助教授との共同研究で長崎の対馬、広 島、岡 山地
[
市景観の良好な形
ヴァイザーとして、彦被市の者1
方に保存されている資料調査を進め、さらに研究論
成を目指して、助言 を行っています。
文(その 2)をまとめる予定。
-土井崇司(どいたかし)住居学、建築意匠、都市デザイン
-研究活動
i
J
I究テーマは 「集住の場所の空間構造」 の研
・私の j
・教育活動
I
J、集落、都市、地方など
究です。住民、建築、 I
.
論についての
-住居や町の 設計 ・デザインやその型P
の各レベルでどのような空間に住んでいるか、特
教育が私の担当です。
に日本での特徴はどのようなものかについて、他
オ プンキャンパス展示
人間文化・ 1
0
9
人・閏・文・化・通・信
の文化 と比較 しながら 研 究しています。 このよう
会での入選を始めとして 、一般では 7名の彦根市展
な基本的 な研 究 をする こ とによって、これからど
入選 ・特
I
I
'
t1名であった。
のように 住居や I
s
Jなどを設計していけばよいかに
3 主な所属学会ならびに活動
ついての ヒン トが与えられると 思 います.
Jにインドのサンチーとサッダーラの仏
-昨年は 2r
黙を iド心 とする 遺跡の保作と修 以の仕事でイン ド
の現地 を訪 問 しました 。これで
41
"
1
1
1の訪問です。
滋賀県造形集 同副代表
滋賀県美術展覧会実行委員会委 μ
架 *1
1
'
]
美術展覧会審査員
H 本美術教育学会 ・ 基礎造 71~ 学会 ・ 大学美術学
インド側が行っている発掘 ・修復の仕事は完成に
会 ・京都市立芸術大学美術教育制究会
近づきつつあり、広大なサッダーラの遺跡全体が
京都日本直Ij家 協会 ・滋賀県美術協会 ・滋賀県造形
巨大な大搭のもとに出現し始めています。 このよ
集団
うな歴史 的 な遺産をどのように残していくかも私
.
'
J
¥
キボ喬一(
こばやしきよかす)
社会・経済政策、社会思想史
のテーマに入ります。
.
1
1
宇lOJlにはメキシコの 4都 d
i
にわた って 行なわれ
最近の研 究テ ーマ
た I
c
l
i
l際記念物遺跡会議(ICOMOS) の総会に 出
(
1
)社会政策の国際比較
席し 、同1
1
寺に植民地時代からの祁都市、テオテイ
(
2
)ナショナ リズムの形成と社会
ワカンの古代都市追跡、やユカタン半 J
誌のチィチェ
(
1)
1
1
1
=
年度はアメリカ型 ・福祉│
五│
家体!
f
i
J
lの形成過
r
l
j
立跡を見
ンイッツア、パレンケなどのマ ヤの都 l
税をまとめた後、 アメリカにおける近代医学
学し、私の研究テ ーマについて多くのヒントを得
の成立過程を、伝染病 ・細菌学・医師の主主成
ることがでました 。
J
制度 ・
│
実$大学院 ・医師会 ・病院の I
,現等と
・ゼミの学生とともに湖西のおi
加I
I
J饗 j
延の木津を中
mm
の調査を行い、
心に伝統的 な住居や集落の形、
i
t
仰についての研
近江の集住の場所の空間構造や i
関連させて推理した
。
(
1医 の 科 学 化 と 組 織
化J
)。
l
在は先進国における社会政策、
1
1
3齢化と
:
の制度化問
貨同をめぐる社会保障と社会柄引1
究を開始しています。
題、医療 、雇用などの問題を、 比絞分析して
-安土 優(あづちまさる)美術・造形
1.本年度の主たる活動・制作
l
"
1
止に栄えた山岳都
ギ手不休業を 利用してスペイン r
市を 小心に、写生と都市の様々なデザインの資料収
集をする旅をした 。 スペイン各地の j
i
f在日と人の歴史
1
i
l
I
U
みて、特に型週間での人々の生活と祭のあり
をl
}
jに 1
$銘を受けた 。
去の 7)
J
、
いる 。社会政策と 「家族 ・地域・ j
織成・匡│
家」
の関係を 探 り、両者の迎合 1
'
1
句な │
刻係を I
Y
iらか
にしたいと考えている 。
(
2
)ナ シ ョ ナ リ ズ ム に つ い て の 政 治 思 想 史 的 検
討。
ナ シ ョ ナ ル ・ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 視 点 か
ら、国家 ・国民が創造され、
8月は屋久島で写生旅行をした。 ここ
-体性を確保す
るに至るプロセスとメカニズムを 、 アメリカ
では主として 縄文杉や原生林をテ ーマとする資料収
を事例にして分析し、多文化主義 ・エスニシ
集をした 。 以下はそれらを 日本 I
lf
i
.水彩 F
I
!
I.水墨阿
ティと国家のあり方の将来の 見通しと可能性
等の発表である 。
について考えている 。
1) 第 4
1同滋賀県美術協会 「思の降る街」 日本画
1
1
:
¥
,
,'
'
,, '
9
9年 4月
滋賀県立琵琶湖文化館ギャ
ラリー
1
9世紀 後 半 ま で の 成 立知l
はほぼ作業を終
え、現在は 2
0世紀後半における
I
l
f
i
J
化」路線
の解体過程をまとめている 。
2) '99SHIGA 双線美術展 「 羽IS~",' I ' I
I
' mJ
純文杉 ・原生林
'99i~
日本画 ・水彩画・水墨画出品
8月 滋賀県立近代美術館ギャラリー
3)滋賀県造形集団
号 日 本 画出 品
第 25阿造形展 「
樹 林 J200
'
9
9年 1
0n 滋賀県立近代美術
館ギャラ リー
4)第 53回滋賀県美術展覧会「樹林 J40号日本画
1
'
1
,
品 '
99年 1
1月-12月 滋賀 県立近代美術館
2.社会的な活動
-早川史子(
はやかわふみと)食昂学、栄養指導論
r
l
'
同の少数民族の l
喫茶習俗調査の J
,
.
C
l
と
し
て
、 4
)
J
下旬に湖南併の少数民族を対象に訓査を行 った 。
また、 8)Jには 枯 葉剤の影響がまだ残るベトナム・
ベンチェ併に ,
'
1
.
¥かけ ,乳幼児の栄養状態の予備調査
を行った。 1
9
9
81
1
三度の乳幼児の栄養失調率は 31%0
貧血l
の乳幼 児 に対しては、雌のにわとり l羽、ミル
ク、砂糖、地物 i
I
l
Jが支給されていた。
日本画同好会ならびに美術クラブ員の発表成果
目下の研究課題はガン予防や老化防止効果などに
i
展、滋 t
11'喜美術展覧
は、本学院 t
l
;岡村康臣の彦縦r!
有効とされている茶カテキン類が示す抗般化性と般
110・人間文化
人・閏・文・化・通・信
化促進性という相反する反応性が、数多くの官能~~~
や保存計画などです。城下町彦根は、お城や j
豪や庭
を有ー
する茶カテキンのどの部分構造によって生じる
園がそのまま残っているだけでなく、古い民家もあ
6種類の金属イオン共
のかを解 明することである 。 1
り、すばらしいフィールドです。 そこでまず、この
存下での DNA
切断的性を調べ、そのうち Cu
2←イオ
彦根の調査に取りかかりました。
ンはカテキンと共存して DNA
切断活性を高めたが、
Aピイオンとカテキン類の共存は DNA切断活性を
抑制した 。 これはカテキン類の Cu2イオンと Ag
+
イ
1
/
"
] (
1
日
イ
左
手U
I
I
I
J)の1
1
日並み調査です。立花
第 1は立花 1
1
1
]は城下 1
1
]彦根のも っ とも主要な I
I
J人間Iの一つで、
オン及び他の金属イオン種に対する反応性の速いに
大規模な家の多い I
I
I
Jでした。現在も道路が拡幅され
よるものであり、抗般化性物質とみなされているカ
[
j家が建ち並んでいます。 いま
ることもなく、古い I
テキン類の際化促進反応機構を明らかにするための
この 1
1
]で、道路を拡幅し、都市計凶道路を通そうと
T
彦根の調貨は 二つのテーマで始めています。 その
主U
見 となり得る 。 『茶カテキンの抗酸化能と酸化促
いう話が持ち上がっており、彦根市は夢京橋キャッ
DNA
進 能 : [1 本民芸 化 学 会誌 7 1 巻講演~旨集 j r
I
J家型の家の並ぶ 町並み形成を
スルロードのような I
cl
eavage activity o
f (ー)-epigallocatechin, ー
(
考えています。基本的にはそれでいいと思し 、
ま すが、
)
e
p
i
c
a
t
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c
h
i
n,(
+
)
c
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n,andー
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立花 I
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jに は い く つ か 質 の い い I
J家 も 残 っているの
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h vari
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fmetal i
o
n
s:B
i
o
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c
i
I
J並みをつくってい
で、これらを妓しながら新しい I
.
lBiochem.6
3(
9
),1
6
5
4
1
6
5
6j
Biotechno
I
Jができると思い
ったら、夢京橋以上に木物らしい I
また、昨年に引き i
t
し
き
、 「
茶の起淘↑'I:J I
茶捌宵俗」
ます。立花町でどの家が代表的な家か調べ、そうい
にI
!
A
Jして次のような研究をおこな った。茶には j
包立
った家を実測調査し、立花 1
1
]の 1
1
]並みの特徴を 明 ら
ちに関係するサボニンが合まれており、
lから茶を
泡立てて楽しんできた 。番茶を系出し、漉し、それ
かにしようとしています。
'
"
l
l
[
j彦根の民家の悉皆調査です。彦
その第 2は城 l
に少量 の塩を加え、泡立てて飲むボテボテ茶 (
松 江)
根はi
i
変災にも会わず、近代の建て替えもそれほど活
などは抹茶道に対抗した(7)ものであろうか。 ボ
発でなか ったため、江戸川以来の I
1
1
J
家や足軽住宅が
テボテ茶の起 i
包性は.j;
k
茶の起泡性と比較にならない
たくさん残 っております。
ほど高し、。 それは喬茶のカフ ェ イン含量が抹 2
1
5に比
[
J彦根の道をくまなく歩き、戦前期1
ま
そこで城下 I
べて少ないこと、漉した茶 1
1を)日いることによ って
での伝統的な様式の民家をすべて写真に撮り、その
脂質が除去されること、少量 の杭の添加!などによる
特徴を記入した 9
80*1
:
のカルテをつくりました 。 そ
ことを 明
│ らかにした 。『抹茶の起 i
包'聞に及ぼす茶の
7
0刺ほどは江戸期以来の家です 。 これらを
のうち 2
成分の )~; fË:~
H本食 J
J
i工業 学 会誌, 4
6
(
1
2
),8
4
2
8
4
5j
1
1
]家、武
t
住宅、近代利}:I
l
i
住宅なとと家の型分けを
滋賀県湖東地域には近絞の他の地域にはみられない
しました 。 これで城下 I
Ji茅根のどこにどういう占い
独特の茶問、すなわち梅丁し、赤シソの来、ショウ
家が残 っているか、すべてわかります o
ガ、干したミカンの皮、黒豆などを入れた茶悶が冬
'
"
1
勺&11
年は、県大とこの地 J
或になじむことを第 l
II
'
I
'
.
!で食べられていた 。 これらの食品
季風邪予防の E
に考えてきました 。最初フィールドとして彦根を選
に合まれる共通の物質であるポリフ ェ ノール化合物
びましたが、それを徐々に広げてゆきたいと思 って
の薬理作用の科学的解明が進められているが、長年
います。
継承されてきた食文化にはこのように健康維持に I
"
)
l
J
わるものも多い 。 『
続・滋賀の茶捌習俗と分布 一湖
東地域の茶粥河俗一
日本食生活学会誌 1
0
(
3
),76
-那須光章(主主すこうしよう)心理学、教育心理学
I
l
ii'
lから今年度にかけて、 4
z攻分1J!
'
1に│刻述するい
L
I本家
8
0
j 他に『女子学生の紅茶に対する晴好性 :
政学会誌 5
0,
l8
3
-1
9
2
j など 。
紀のサイコロジーの成果を凝縮する意味で、編纂され
-土屋敦夫(っちゃあつお)建築史、都市計画史、都市開発史
訓1な文献リストと学習・ u
J
I究ガイドの機能を重抗し
くつかの事典の執 ~f!:に関わりました 。
1 つは、 20 世
た1
1
1
同義I
l
j
1他洲i
の有斐閣の 『
心血'主事典 Jです。詳
0年 1
0刀に金沢工業大学定築学科か ら、生活
平成 1
文化学科・生活デザインコースに赴任してきまし
た。平成 1
1年 3月までは、金沢の大学でゼミの学 生
の面倒や金沢での種々の仕事などあ って
、
ラジとい っ た状 ì>~ でしたが、
:
j
lのワ
4月からは!玄似に)討を
たものにな っています 。 2つめは、ブレーン出版の
、 1
2年 4r
J刊千
jの予定です。
『最新進路指導事典 Jで
3つめは、福村出版の『青年心理学事典 』 で、キャ
リアカウンセリングや進路迎応なとの項 Hを執筆 し
ました。
移し、全 r
U
I
的 に県大の教f:
n
rとして動き始めました 。
最近の主たる {
i
J
I究の }
J向は、「ストレスと性格特性
1
]並みの調査問先と同
私の専門は、地域の民家や 1
の関係」ゃ「高齢者の余暇活動 ・趣味と生きがい」な
1
1
寺に、そういった朕史的景観を生かしたまちづくり
どに向いていますが、まだ、まとめるところまで進
人
間
文化・111
人・間・文・化・通・信
捗してはいません。また 、引き続き「青少年の進路発
1
1
,
年に引き続き、障害者教育や人権教育、
そこで、 1
達と職業適応」の問題も関心をもって進めています。
ILO・ユネスコ.教員の地位勧告」 の成
あるいは I
学会発表としては、 8月に「全住│
進路指導協議会 J
、
立展開に │
刻する資料ーなどを収集した(県立大学の海
1
0r
J
に 1
1
:
1
本進路指導学会」 で
、
1
'
1
.
年
W
Jの進路成熟
外研修として)。 本年度分の関連する 成果には、編
著 『いま人権教育を問う
に│刻する 研究を報告しました 。
J(99年 5)
J
大)
J占山)や
、
ここ 2、 3年は 、大津や彦被1/
11
人j
の公民館、市民
9
9il
三5
)J部落問題
「世界人権宣言 50年と人権教育 J(
セ ン タ ー な ど で の 、 市 民 講 座 、 老 人大 学 な ど で 、
¥
i客│
問 題研究』第 1
47号)がある 。 前者で
研究所rT'il
I
I
'
f年JtfJの発達課題J
I高齢者の生きがいと人間関係」
は、国辿人権教育 1
0年のいう人権教育の立 1本を整理
「家庭における親子関係の諸問題」などに i
認する講
し、影響を受けている H本型人権教育のが│
十件を明ら
演をする機会が与えられることが多く、熱心 な聴衆
かにした。
J
1
1
気
の'
J
'で話すこと
を前に大学・学生とは違ったみ 1
他方、教育実践の総括からまとめられたわけで、は
の点びを感じました。生涯学 f{
の充実発展に幾分か
ない人権教育概念のあいまいさや、人椛としての教
7
.与ができているとの思いを深めました。
の2
育と教職員の論議の希薄さを指摘している 。
また、月 1、 2回ですが、県少年アドバイスル ー
編著として、吉 田一郎さんとも共同執筆しており、
ム、市津少年センタ ーなどで、 悩みをもっ父母や少
同和教育からの転換の意味、自己肯定感の立義、道
年本人のカウンセ リングを 担 当しています。非行や
徳教育 I'I~ 立 l床、参 加 型の批 判 的検討 、 子どもの参加、
不登校で苫しんでおられる方々に微力ながらもサポ
登校拒何 ・いじめ問題などの教育学的な諸論考を位
ートできる 休験は、小生の教育や研究に大いに役立
置付けている 。
っています。
後者では、世界人権宣言 5
0年と人椛教育のかかわ
大学の授業の一環ではありましたが、
J
i
t
f
良市の老
人福祉センターとの交流を涼めることができまし
りから、
,
i
E別撤廃諸条約の成立事1
'
'
1
、教育権の国際
的合立の立 l
床、「人権教育 j の経緯と恭準1"'1:、 「
子ど
た。行い学'
1
えが訪れて 、スポーツやゲーム、談話す
見
j
する住│
際的
もの権利委員会勧告 j の意味、教職に │
ることが双んにとっていい経験になりました。高齢
合意、などの諸点を分析検討し、教育トド│矧打開のん一
!
iの )j々も大歓迎 で今後の r
l
J会を v
1f(かめ合いまし
た。 I
1
'
[
M
A
s
1
I
4
T
1fにして 700mの所にある施古主です。多
向性に 「 人権の新しい普遍性J 論議を位 ii~': づけてい
る。
くの I..j齢者が集い、学んでおられます。大学として、
学生としてこのような施設や人々と 付 き介うことの
大切さ、地域との交流の重要さを改めて感じました。
-灘本知憲(なだもととものり)食品栄養学、食品生化学
以近の研究テーマは 「身近な食品栄主主学 j
。人
r
:
り
生活の長い j
罷史で生み出された件前の究I
I
J
Bや伝本を
生かした食 品栄養学を意識しています。例別には、
- 八 木 英二(ゃぎひでじ)教育学
ヒューマンサービスの在りプjにかかわる、教員の
点目11 と滋賀の高等学校教 11 データをr' i 'f.~;flll し
:
r
1
有i
日ノ│
1
. 高い伝えにある柄物や野草1/
'の?i'i央.H
物質の検索。i
i
'
i
臭 ・抗菌効果を j
切符されるような 青
行動特徴の地域比較研究を本年度も縦続した 。
(本
い伝えがあれば、大紙活性物質が兄っかります。身
年!立の判別イリ│
究 )、オ ックスフォードの I
J
iI
I
努学会
近な出f-I
¥
¥もがi
H
:
I
;
ヒットするものです。 2.決 J
iでの
,
(99イ1
・
9
)
J
)、
で '
iI
J
] .
1
(
1さんと J
t
l,
i
J
の党ぷを行った。
1
A
i
l
u
l.冷食の科学的検証。 食べ物を休を j
i
l
l
iめたり、冷
Studv on Teacher
s
. Behavior
やしたりする効米で分知している 1'1災ヴ:での刊を科
Conc
erned with t
h
e Rediscovery o
fPove
r
t
yi
n
学的似拠に決づいて I~ 検証しています 。 if 段何気な
テーマは、
]apanJ と題するもので、いじめ、 l
{
:校胞 i
t
t破壊、
く食べ て いる物が ÍI 律神経へも n};~5:~ することに驚き
教育実践における自責性、綬~妨'. i~: 、その他の教育
を祭じ 1~j ません 。 これらの研究から、イl 川物質が多
l
村知 の J
f
iイ
Tいなどと、学校の i
l
l
'
t:rを),H楚l
こ4レベ
く凡いだされることを目標にしています c
ルに設定された |本i 難校頒 Jí~ とのクロス集計における
教1
1のパーンアウト指標との│刻 A性を統,j
l的に処理
-柴田克己(
しばたかっみ)食糧科学
i1!~校主fj! f;!J II 司のゐb;な莞を検出した 。
し、│本1
(1)発ぷ論文
凶器!I校主t
iJ
f
j
リには 1-1"の現代的立 │
本│が反映している
1
.Tryptophan-niacin metabol
ism i
n l
i
v
e
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ことが.jWìJ!IJ され、教 l械の在りんにも lì;'~ 粋をワーえてい
c
i
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scaused bycarbon t
e
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i
d
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ることが示唆された。教育における I
,
q
際的合立の研
JNutr
.S
c
i
.Vitaminol
.4
5
.4
5
9
4
6
9(
1
9
9
9
)
.)
]
1硬
究領域では、パリのユネスコ本部とジュネーブの同
変の実験的モデルとして,四 tt,~化 ;;t ぷによる肝
際教育研究所
( IBE ) 、欧州 r~1 J
!
!
l
本
部│
珂1
3館での資
料収集を行った。
112・人間文化
I~~i与ラ ッ トを作成し.
トリプトファンーナイア
i米
, N1ー
メ
シン代謝への影響を調べた.そのキJ
人・間・文・化・通・信
チルニコチンアミドから N
1ーメチル 4
ーピリドンー
3
-カルボキサミドへの反応が著しく阻害 してい
9
99
.
阜
)
, 1
8 トリプトファン
ナイアシン転換率を左心する
1
ることが明らかとなった.肝硬変忠(iーでは N
21
旦
!
日
!
大
ト
!
こ ータンパク質 ・アミ ノ酸の影響,第 2
メチルニコチンアミドの 1
.
M
I
!
!
:量が正常者よりよ,
J
'
本 トリ プトファン似究会学術集会(三 重以鈴鹿
くなることカ,~;\\ られているが,
これ は,
トリプ
市 ), 1
9
9
9.
トファン からのナイアシン への転 換唱が高まっ
9
.キヌレニン, NADの I
[
[
l
l
l
'
レベルと体力との │
羽
N1
-メチルニコチンアミドか
係,第 2
2
1
1
1
1日本トリプトフ ァン 州 究会学術集会
たためではなく,
らN1メチルー
4
-ピ リド ンー
3
-カルボキサミドへの
反応が著しく日W~与さ れたために蓄積し た こと に
(三重県鈴鹿市), 1
999.
1
0 非アスリ ← トによ る長距離定行│時のトリ プ ト
産物 の I
f
I
11
1
"動態.主t
i
2
2回 I
J本卜リ
ファン代議l
起因するものと忠われた.
J
'
l
,
プ ト フ ァ ン 研 究 会 学 術 集 会 (一一
重県鈴脱 d
2
.
1
1
甫礼動物における D アスパラギン酸からのナイ
3
.5
2
7
5
3
2
.
アシン生合成の可 能性. ビタミン ,7
1
9
9
9
1
9
9
9
.
1
1 ストプトゾトシン (STZ)
糖尿病ラットにおける
(
2
)書籍
2アミノ 3 カルボキシムコン酸 6セミアルデ ヒ
I 栄長と運動(分担執筆,ビタミン 1
6
2
3頁)作
**,~:: I涜,
ド脱炭般酵素 (ACMSD)mRNA発 現 の t
V
け'
J
I
I
1
9
9
9
.
Competitive RT-PCRi.去によ る検討 . 第2
21
"
1日
2標 準 食 品 学 各 論 (
分担執筆,乳及び乳製品 9
1
本トリプトファン 研 究 会 学 術 集 会 (=
:i
J
i
:
県
鈴
1
0
0頁,魚介類 1
0
9
・
1
2
8頁)医歯薬 1¥
版, 1
99
9.
3家庭 一般 21 指導資料 vol
.
l 授業実践(分割 l
執筆,楽しく食べる 1
40-193頁), 実 教 出版,
他
5編.
(
5)
社 会活動
1
.11岐阜女子大学家 政学部特別講義講師 (
u
i
f
:
m
;宇
1
9
9
9
.
4
.家庭 般2
1 指導資料 voL
2 内容 説明 (
分担
執 ~rt , 楽 し く 食 べ る
J
i
[d
J
'
), 1
9
9
9
.
112-155頁 ), 実 教 出 版 ,
2 滋賀 県缶四栄養士研修会講 師 (i寅題 ;第六次改
定 日本人 の栄養所要量解説,特にビタミンにつ
1
9
9
9
.
いて)
(
3
)実用 ・普及記事
l代 i
射性疾患とビタミン ,栄養
I
i
'
'
i
での住所)
許制j
¥と治療
,
1
6
(
1
),5
9
6
4(
1
9
9
9
).
1
m国際トリ プ トファン研究会(ISTRY'9
8
)
2 第9
に参加 して,ビ タミ ン
, 7
3,5
4
5
6(
1
9
9
9
)
.
3ならコープ 食品添加物勉強会.
r
#
f
:
f
l(
i
題 1;
食
品添加物 の問題点,特 に甘味料について )
4 滋賀県立大学移動公開講座講師(題目;栄主主に
よる健康・不健康
健康食品とは?)
(
4
)口頭発表
1運 動 が血 液中の NAD及 び NADP合主に及ぼす
影響. 日本農芸化学会 1
999年度大会(福 岡).
E中谷員三代(
なかたにまさよ)
消
費者
問題、消費者
教
育
、 服飾デザイ
ン
若者や高齢消費者被害が年々増加しており、その
2 ラット肝及び腎2
・アミノ ー
3
-カルボキシムコン酸ー
被害はさらに多様化、複雑化、拡大化していくと懸
6セ ミア ル デ ヒ ド 脱 炭 酸 酵素の 精 製 と そ の 性
念されている 。消費者被害の予防、救済 という 基本
質.日本農芸化学会 1
999年度大会 (福田J
)
.
的な 考えから、 消費者と事業者が双方の自己責任 に
3
.D トリ プ トファンの ナイ アシン活性効率. 第3
5
回日本栄養・ 食糧学会大会(東京).
4.Sour
c
e
so
fn
ia
ci
n suppl
y
. ni
a
ci
ni
n
t
a
k
e
. and
よる契約ができるような実効性のある消費者契約
法、また、 金融サービス法や個人情報保護法の f
l
;
l
j
"
と
を心から期待している今 F
I
である 。
bl
ood pyri
di
ne n
u
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i
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eveli
n ]apanese
消費者問題が生涯学習にお け る具体的で緊急性 の
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olege women ss
t
u
dent
.i
Cweb 1
1 Kyoto
ある現代的課題の一つであることから、 「
高 齢者を
9
9
9
.
S
a
tel
l
it
eSymposium,1
めぐる消費者問題」について調査制究を続けて行き
5.Thep
o
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si
b
il
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tyo
fbi
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synthe
si
so
fn
i
aci
nfrom
D-aspartic aci
di
n mammal
s
. 8th Asian
Congresso
fNut
ri
t
i
o
n(
S
e
o
u
l
.Korea)
.1
9
9
9
.
たいと考えている 。
従来の研究において、高齢者をとりまく消費環境
の米雄備を追求し、高齢消費者学 ~~t の必要性と位置
6 ビタ ミン Kによ る脂肪細胞分化抑制作用につ い
づけを 明 らかにした 。1î ~ 事情から今後ますます高齢
て. 日本栄養・食糧学会第 38回 近 畿 支 部 大 会
消費 者 の 自 己 責 任 が 問 わ れ る こ と は い うま でもな
(
京都), 1
9
9
9
.
い。 高齢者の白己決定、 │
空
│
己維立のための高齢者学
7宇宙環境とタンパク質結晶成長. 日本 j
兵芸化学
習の一助と なればと 考え、教育、啓発の 一部として、
会平成 1
1年 度中古1
¥
支部 ・│羽悶支部合同大会(岐
滋賀県 レイ カデイア大字校や各 地 で高齢者対象の講
人
筒
文
化・113
人・間・文・化・通・信
泌を行っている 。その他一般の消費生活講座や、各
種講座を担当しているが、研究結果をいろいろな場
面で生かすことができるように心掛けたいと思って
終了しました 。)
社会活動
6年
、 「
街の色
-環境色彩に │
羽心を持ち始めて早や 1
研究会・京都」 には発足以来所属していますが、
いる 。
報)-生涯学
一高齢者をめぐる消費者問題(第 7
消
習の現代的諜題と高齢消費者習について - (
これも早や
7
i
f
二
が経ちました 。古都ボ都の景観も、
他の諸地域と同様、近代建築物の氾慌て、問題視さ
費者教育第 1
8i
t
f
t 1
9
9
8)
れています。者1市景観の美が損なわれる原因のー
実践 ,
'
, ~Jj者読本 ( JC 若:) -SupportY
our
っとして色彩もかなり大きなウエイトを占めてい
<
]
m
Li
f
e- (
民事法研究会 1
9
9
9
)
J
J
A飾関係の側先については、ゼミの研究指導が手
ます。滋賀県と │
口!様、京都市においても長観条例
などにおける色彩についての記述は、非 7
1
4
Jに
│
凌l
床
一杯で 「感七│とデザイン J1
感性と着装イメージ」
で抽象的な表現し かしていないのは残念でなりま
なととの自分 I~I 身の研究が、おろそかになっているの
t
i
jじ
せん。色彩ガイドライン研究部会に所属して I
が少々 気がかりな日々である 。
ぷをもっ仲間と 一緒に、現在、市当局へ提案する
mの図柄に対する感情評価j
I- リ
J
y:比較
感性型!人 1
- (
日本色彩学会誌
1
9
9
8
)
一感性型人 I
l
r
Jの上水に対する色彩感情
日j女比1
'
安
1
9
9
9)
一方、社会的 !
f
!
)
)においては、滋賀県エコライフ琵
- (1
1本色彩学会誌
ための色彩ガイドラインを作成すべく美観地区の
実態調査を行 っているところです。
地域社会からの ~ d l~ については、体調の問題があ
り、事前準備が必要なものや、数回の出席を~す
るものはお断りしています。今年度は、
琶湖賞審公委只として、
1テーマ 350余りの商品や
アイディアの得査を行っているが、結構大変で私の
9
9
. 6月・せせらぎ聞こゆけ彦般市公営住宅建設
・'
分を超えた内容や作業量 (?) といえる 。
・'
9
9.7月
さらに、滋白県個人情報保護審議会、大津市、彦
工事
建築設言│
プロポ ーザル寝台委員
彦根iIi商工会議所 主催、彦根市後援
“ミスゆかた"若手査委員
根市、長浜市の情報公開審査会などの委只として、
線々な事例を検討することで、これらの実態をま1る
ことができる機会を得ている 。 これは自分の側究分
尊子(のべひろと)児童学、児童文化・伝承文化
-野部1
昨年に引つづき「地域の伝承文化の継承と創造」
'j者問題の観点ヵ、ら大変よい勉強をさせ
野である mi
を
のテーマで、地域に伝わる祭礼行事に関して調子E
て もら っている 。
主流けている 。
専門外であるが、近江町において特 産品開発や、
一地区の祭礼行事を例にとり、準備から終了まで
滋賀県や伊 l
次I
I
J
Iでは消費生日の視点から、まちづく
の祭 りを支える役員 ・参加者 (
大人から子どもまで、
り会議などにも関わりをもっ今 │
二
│
こ の頃である 。
またかつて参加 を経験した人) ・地域住民の、地域
行事としての祭礼への内面的な思いを、アンケート
-鈴木伸子(すすきのぶこ)色彩学
調査を行いながら明らかにしてい った。
そこでは、人々の地域社会への参 1
m意識が希 ;
1
'
,
¥1
こ
研究活動
-念願の I
J
f
i
・
大津絵の色彩に │
刻する研究ー第 2幸f
A- J
なったといわれる昨今、今阿の調査では必ずしも短
をや っと完成することができました。今
│
百│
は
自己色
絡的な卜把ーからげの評価はさけなければならない
l
I
絵 1枚 l枚の色引j
而
に関する研究のため、占大 i
ということを 1
i
M訟した 。 これらの J
o
c果は近々まとめ
積比を求めましたが、 気が速くなるほど大変な仕
る予定である 。
事でした 0
また、口頭伝爪の語り部的存右としての一老久に
・軟弱な知識しか持ち合わせていなかった U本の伝
11\ 会い、氏の ~I" きざまを聞き 手i きしている 。 そこで
えなと)に│主l
心を f
Eせ、
統芸能 (
能、狂言、歌芦H
は訪り子の思いと、聞き手と話り手との信頼関係が
装束 (
衣装) についての知識を少しでも深めよう
重要な役割を栄たすことを確認した。本年は、そ の
と無我芸~, qJ の年でした 。
-発表論文
1
感性担人 I
l
i
jの上衣に対する色彩感
l 23
情 一 男 女 比 較 -J(日 本 色 彩 学 会 誌 Vo.
N
o
.
3 (
1
9
9
9)
)
(
本学の'1'行先牛ーとの共同研究で、 1
9
9
1
,11
さからの
一連の報告です。当初は"感性"“高感度"とい
う用語の使用に理解をしていただくことの難しさ
を痛感したものですが、 今 回で、めでたく (?)
114・人間文化
うち のある背ぱなしを抜き出し、その成果を発ぷ予
定である 。
社会活動
滋賀県環境影粋評価委員
滋貸県児童図 f
i研究会副会長
-日比喜子(
ひびよしと)調理学
食べ物 .fó~ み物のおいしさについて、それを発税
人・閏・文・化・通・信
する食品 l
l
!
1
J
の物性や食べる人側の H
嘗好にかかわるテ
してみたいという思いがあり、文部省や法務省が率
ーマで研究を進めている 。
先しでもり日する 「人権教育」や解放教育論が提起す
主として、澱粉の糊化・ 老化 と澱粉性食品の物性
る 「
人権教育」 について、批判的に検討しようとし
;
i
J
i
めると米
との関連を検討している 。冷えた米飯を,
たものである 。 考察の中 心 は
、 「人権教育 」の 道徳
飯の粘りが戻る 。老化澱粉の柑l
化 という観点;から粘
J
i
題性を諭す、ることに向けた
主義化、精神主義化の
l
'
I
r
J
E
i
、
で約l
化膨
度以
i
J定を行い、老化澱粉が生澱粉よ り低j
ものである 。「道徳教育と“人権教育.'J いま人権
ìl~J するという結果を得 た (老化米飯の 糊化特 性
l
i
jうJ大月 害 届 、 八 木 英 二 ・梅
1
:
1
:
1
修f
f
;
j
H
i
務
、
教育を I
政学会誌、 50 、
家
1 69~ 1 74 、 1 999) 。 また、老 化 澱粉
を製パン │
時に添加
│したところ、生 i
政務}や抑l
化澱粉を
添加するよりも l
啓好性の高いパンができ、さらに、
H
l
1
.5月、所収。
論文としては、本学の
I
人間文化 JN
05.6合 j
j
j
:号
、
Hll,3月に 「教育実践に おける精神主義と民主主義j
保存後のパンの硬化 や老化 度の上昇が抑制 された
と題する論縞を発表し た。 ここでは、近年の 「人権
(
老化澱粉を製パン素材として利用するための基礎
教育 Jの道徳化の動向に対する批判的なI*
J
心にもと
研究:エ リザベス ・アー ノルド富士財団助成金)。
づいて、 i
j
没後 f
l本の生活指導研究における粕干1
1
]主義
また、食べ物 ・飲み物 の状態として泡沫があり、
の成分
泡立てて飲む抹茶の起泡性については茶葉 11
の克 I
J
Rの過松を W
i
,
l
j
i
Jして、 1
)
1
'心の自由を保障する教
の影響が大きいと考えられる 。 クロロホルム、 nヘ
5
1
聞について論じたものである。
育実践の指導 1
ここ数年米の f
i
JI
究!
1
)
;
1
心である教I':f[i文化、教1
1
mの専
!
安か
キサンおよびエーテ ル処理抹茶の起泡性の比I
門性論について引き続き砂│
究をすすめるとともに、教
ら、サボニン、 脂質、カフェイン以外の起泡↑生に関
育における人権問題について考察を深めていきたい。
与する成分の存在が示唆された(抹茶の起泡性に及
ぼす1t~成分の影響: j
諸国 H
百子・
[
1比必ず..11
1川 史
子 、 食品科学工学会誌、 46、 842~845 、 1999 ) 。
人の食│
格好には食習慣が大きく影響するため、
l
主l
-面矢慎介(
おもやしんすけ)
道具デザイン論
社会活動
県の工業技術 センタ一、彦校イl
、出事業協同キl
I令有
が jsえば当然食│
格好は異なる 。江戸時代の i
;
U
J鮮通信
志、県内デザイナーで組織した 「
虹の匠研究会」で、
使の篠待のためには通信使の好物を制べており、
,
{
i
.業
のが;"1"1
化策を考えてきた。その 1
'の拠
彦根仏出 )
1
71
1i
l
二の」て│
共
j
記録には、当時の │
二
│
本にはなかった肉
i
i
u
i
iJの梢想が、いち早く新 1
1
1
1
報道され
点施設「仏 l
.J.ill.についての詳細1
1
がある (
l
;
列車「通伝使接刊の記
のギ1
てしま ったため 、関係者にはご迷惑をかけてしま っ
録に見る
l
i
日鮮人好物 Jに関する捌先
(その 1)
現HI 大技 ・ H 比存子、生活文 化 史、 37 、 73 ~83 、 2000 ) 。
また、 LI三 1守 ・ !舌休地の歴史における外 1'''1 の);[;;~.;}~も食
l
塔好に影響する
(
女子学生の紅茶に対する l
格好利子
滋賀県、京浜地区、阪神地区、長崎県の場合ー家
政学会誌、 50 、
183~ 1 92 、
た。 その尖現I
I
J
能性はともかく、報告告としてまと
めておくつもりである 。
県l
人jデ ザ イ ナ ー の 同体 「デ ザ イ ン フ ォ ー ラ ム
SHIGAJでは、環境立識の高まりをにらんだ家庭
)
I
J生ゴミ処 1
f1
I
出 (コンポスター )の研究会を、会 1
1
有志を募 ってj
:
.催している c 既製品の使川実験、製
1 999 ) 。
作技術の検討をおこないながら 、企│
血i
.デザインを
まとめ、 今'
rl
.
'l
j
lには試作 品をつくりたい。
-吉田一郎(よしだいちろう)教育学、教育方法学
平成 I
I年 I
l
'
に、著書(共著) 31
1
1と論文 l編を発
表した。ミ
存
立
;としては、 一つは教育尖践の足j
!論化を
めざす作業の
環として、今 Hの教育悶如、 「
学級
設 立 から │
見
l
わ っ てきた 「道 具 学 会 .FORUM
DOUGUOLOGYJ では、初jの;命文集の編集「リ行を
担当 (
1迫!~;f:,jGÌì ~~ .第 1~J J 99年 9月)。論文募集
:
i
N
i依頼、採子
?
fの判定、著者とのやりとりま
崩壊 Jや不な校などに象徴される間滞状況を踏まえ
から、
て、教育実践論的な子ども理解の方法論や、教印│
、
所l
I
でを体験してみて、改めて学術論文という形式の如
織のあり方に│刻して論じた。「 今を '
tきる教師の円
しさを桁!さした。 また学会のインターネットホーム
↑戸!と成長 J 安心と自由が生きる学校 Jかもがわ,'1¥
ページをボランティア会以の協力を得て制作してい
r
版
、
る。 J
J
Lイ
Eまだ試 J
I
J版の段階だが、近日 r
l
'公 I
J
1
J予定。
Hl
l
.2
JJ
、J
W収。
二つ 1
1
は、生徒指導に関する論午前i
で、教I1
W文化研
隊以組合では、 「エコ・キャンパスづく
本学の教 l
究やパーンアウト 問先などの蓄績を踏まえて、教育
ニ
1
う数。I
指導論を!民J
I
.
f
Jした。 「
生徒指導を 1
1
l
i
j ~IふL指
りJ(J}f!境にできるだけ負 1~;l をかけない、 1 ' 1 然や生
r
導の基礎と展 D
f
Jj コレール社、Hl1.4
JJ、所収。
1
は
、 「人権教育 j に│
刻する論納である 。 こ
三つ 1
れは、ここ1.2年のテーマでもあるが、近 {
I・
の 「人
権教育」 ブームにたいして、冷静な 1
1
でこれを評価
態系と共生するキャンパスづくり ) にむけた市助を
している 。
r始めに令学アンケートを実施。その結
i
t会を開催した 。
梨:械告をまじえた誹 u
学会発表
「
米同におけるコーヒ-1'
1出器具の変遷 ・近代家庭
人間文化 ・ 115
人・閏・文・化・通・信
機器のデザイン史 J(日本テザイン学会第 4
6回研究
務に追われながら自分の研究活動を し
、
発表大会概要集 ・1
9
9
9年 1
0月) 1
9世紀末から最大の
たように思う 。研究実験室と機器があれば、学生も
1年が過ぎ
コーヒー消費国であった米国のコーヒ 一拍出器具の
より充実した卒論研究が出来たであろうと思うと残
変遷を事例とする、デザインのアノニマスヒストリ
念である 。
ー研究。特に米国特有の器具である循環式パ ー コレ
天然染料のもつ微妙な色合いとその色のうつろい
ーター (
非電熱式、電熱式)の普及・使用状況とそ
にひかれて 以来、天然染料に関する基礎的研究を続
の外観デザインの変化 について、 現地 での資料調査
けている 。
(
本学在外研修)によって実証的 にたどり、パ ー コ
今年度は 7-8世紀のシルクロ ード遺跡からの出
レー ターが、家庭生活のシンボ ル としての意味を持
土染織布と室町時代の前期辻が花染め に用 いられた
っていたことを論じた。
染料の鑑別を試み、その結果を日本家政学会第 51
回
論説
大会で発表 した。 その研究手法に より 、今年度の卒
「クラフ トとキ ッチンウエア JI
生活様式と生活史 J
「
晴れとケのデザイン J(
日本デザイン 学会編 「
新テ、
業論文指導の学生の一人は江戸末期から 明治にかけ
ザインハン ドブック J朝倉書庖 ・近刊)いずれも、
た染料の鑑別 を熱心 にすすめて、興味深い結果が得
デザイン分野の研究事典的な出版物 の中での分担執
られている 。
ての名物古裂帖の中の特定色相の染織布に用いられ
筆だが、こ れ まで生活文化学科(ちなみに英文名称
今年度末には 、今も伝わる色鮮やかな天然染料で
はDe
pa
r
t
me
n
to
fL
i
f
eSt
yl
eSt
u
d
ie
s
) に所属してい
染められた染織布、特に更紗や緋の発祥の地インド
ろいろな 勉強 をさせてもらってきた こ とが役だっ
で、天然染料に よる染織伝統技法がいかに伝えられ
た。
ているかを調査し 、 また現地で実習を 行い、多くの
知見を得たいと 思 っている 。
-道明美保子(どうみようみほと)染色学
研究室はいつも卒業論文指導の学生とゼミ生の計
5名が出入り し、限られた数台の測定機器を使用し 、
-大橋松行(おおはしまつゆき)政治社会学、教育社会学
本年度の主たる活動は次のとおりである 。
実験・研究をしている 。研究室は狭く、にぎやかで
1.論文
ある 。私は学生の指導をしながら 、研究室の隅で雑
例教大
「日 ・韓 ・中の大学生の家族観 ・男女観 JU
116・人間文化
人・閏・文・化・通・信
学総合捌究所紀要 J 第 7 号、 1~ll 教大学総 合研究所、
を促進することを確認する 資料を得ることができま
2000年 3月)
した。 今後のメンタルトレーニングの実践に生して
2 講j
寅
いきます。
1)初l
I
教大学通信教育部滋 賀学友会講演
「経済
また音刺激の違いがパフォーマンスに及ぼす影響
発展と環境問題における“南北問題"
J(
2000年
についても検討 し、自然音 と人工音 の注意力や疲労
1月30日)
度への関与のしかたの違いについて、論文発表の準
2)社 会 民 主 党 滋 賀 県 連 合 定 期 大 会 政 治 講 演 :
備中です。
「現 代 日 本 の 政 治 状 況 と 社 民 党 の 存 在 意 義 」
(
2000年 2月 6日)
1999
年発表論文
3.共同研究
「競技選 手 の日常の心理状態
1)仰教大学総合研究所共同研究(社 会科 学 関
係
1
日・韓・中における社会意識の比較調
査 J(
研 究 班 主任:君塚大学教授) …… 2年日
の本年度は、 1
=
1・韓・中 三 国の大学等で 4月か
中学生、高校生 、
成人選手 を対象に一 」滋賀県スポーツ科学委員 会
7.
18
紀要No、 1
「
弓 道の的中 率 と心拍数の関係」滋賀県スポーツ
科学委 員会紀要No、 1
7.
18
ら 6月にかけて集合調査法によるアンケート調
「聴原性てんかんの発作発現および全般化に対す
査を行 った(回収サンプルは約 4
.
0
0
0)。その後、
I経精神
る下丘グルタミン酸受容体の関与」日本干1
中 国 (8月:河南省、山東省 )、韓国(11
月:
薬理学雑誌
1
8
全州大学校)での聞き取り調査を経て、現在担
「
聴覚刺激誘発性てんかんの発作発現機序と全般
当分野(家族、男女関係、宗教等) のデータを
化機序の 差異 に関する行動薬理学的研究 j精神楽
分析中である 。
療基金研究年報第 3
1集
1
): 1
地
2)文部省科学研究費・基礎研究 (
A)(
域社会の政治構造と政治文化の総合研究
近畿
1
A new smoking cessati
on pr
ogramme using
t
h
ei
n
t
e
r
net
J TABACCOCONTROL8
1
代 表 .青 木康容教授) ……こ
圏を中心に -J(
の共同研究も 2年目に入り、 1
1月に郵送調査法
を用いて有権者調査を行った (
対象
約5
.
0
0
0
-竹下秀子(たけしたひでと)発達心理学
初めての単著本 「
心とことばの初期発達
霊長類
人)。現在集計作業中であるが、集計が終了次
東京大学出版会) を出版し
の比較行動発達学一 J(
第、分析作業に入る予定である 。
ました 。 これまでの自分自身の研究をまとめたもの
4 その他
で、「姿勢や手のはたらき、物とのかかわりの進化
本年度は、市民団体 「
市民運動ネットワーク滋賀 」
を経てヒトのことばが生みだされた 」 ことをヒトの
の代表として、人権・福祉・環境問題に取り組んだ。
子 ども、チンパンジ一、オランウータン、ニホンザ
特に県内の各地域で環境問題を中心とした住民運動
ルなどを対象とした実験 ・観祭によ って明らかにし
を展開している人たちと交流をもつことができ、大
.
j
p/
s
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9
9
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6
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l
ました (
h
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t
p:
/
/
www.utp.or
いに勉強になった(甲賀の 産業廃棄物処理場問題、
で表紙・目次がご覧いただけます )。
びわこ空港問題、 草津川跡地利用問題等)。
また、文部省科学研究費補助金特定領域間究 「
心
の発達 :認知的成長の機構 (
領域代表者・桐谷滋 )J
-東山明子(ひがしやまあきと)スポーツ心理学、健康教育学
今年度は高校生アーチェリー選手を対象に、リラ
のメンバーとして、引き続きチンパンジー乳幼児を
対象とした模倣にかんする研究を 実施しました。 4
クセーションと l
倶想のトレーニングや、さらに心拍
歳半のチンパンジー・クララ (
三和化学研究所熊本
制御トレーニングを加えたメンタルトレーニングを
霊長類パーク所属) によ って、チンパンジーも、他
実施し、そのトレーニング効果を、心拍数、優勢前
者によるモデルを模倣して積木を 「
積む J1
並べる 」
額皮上電位、感情、パフォーマンス成績などから検
ことが可能なことが明らかになり、その l
映像を紹介
した、 COE固1
2
5シンポジウム 「認知l
と言語 の 系 統
討しました 。
昨年までの研究から、メンタルトレーニングの手
発生 J(愛知県犬山市)での発表は好評でした 。
法の中でイメージが最も優勢前額皮上電位の誘導に
海外調査としては、オランダ・パーガース動物園
(
1色・音・イメージが
(
チンパンジー)、ベルギー・プランケンドール動物
有効であることが示唆され
脳波に及ぼす影響」日本スポーッ心理学会第26回
園(ボノボ) での集団飼育群を対象とした行動観察
大会研究発表抄録集、 6
6
6
7)、今 年度はさらにカト
ラジオ深
を継続しています。 大津 局製作の NHK 1
リック修道院でのシスターの l
民想中の脳波測定の機
夜 便 J(
12月18日放送) では、この間の観察をもと
会に恵まれ、│民想が優勢前額皮上電位日 2波の出現
にしたヒトとチンパンジー属の比較から、母子関係
1'
7
人間文化・ 1
人・閏・文・化・通・信
の進化について話しました。
今回初めて迎えた大学院修士謀程生は、他者の心
学会発表では 、「トウガラシの少量摂取はなぜヒ
トの運動中 心拍を下げるのかj第5
3回日本栄養・食
を理解する能力の起源を子ども阿士の遊びにもと
月) にて発表、
糧学会総会 (
東京大学 ・5
め、ヒトとチンパンジーの遊びの観察を始めました。
シが運動中の 心拍を低下させる原因のひとつとし
トウガラ
V
E
l:::のゼミでは、保育所在籍のヒト 1-2
学部第 2J
て、カテコールアミン動態の変化を示唆した。
歳児を対象とした行動観察を実施し、 「おやつ場面
D
i
e
t
a
r
yr
ed pepperi
n
g
e
s
ti
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e
c
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x
e
r
ci
sei
n
huma
n O
.
N
.
S
.
V投稿中)
その他、栄養学各論、栄養指導論 (
化学問人)の
教科書で、比較的新しい分野のスポーツ栄養、環境
リズム遊びでの身体
での身ぶりとことばの発達 JI
運動表現の発達 JI
自由遊び場而で発生する子ども
同土のトラブルの発達的変化j などに焦点をあてた
X
i
-業論文をまとめました 。他者とのかかわりの中で
発達するヒトの 1-2歳児の姿を .
W
iくとともに、発
栄養、福祉栄主主などの執筆に追われた 一年であった。
達における身体性やコミュニケーションにつ いて比
較認知│心理学的にも興味深い資本│を待ることができ
-細馬宏通(
ほそまひろみち)
人間行動学
ました。 また、子育てへの父親の │
刻与にかんする実
明治か ら大正にかけて浅草に建っていた 「
浅草十
態及び立識の調査に取り組んだ f
i
E論生もあり、育児
二階」の話をユ リイカに計 9回連載。 ひとつの塔が
1
への奨励と現実の労働環境のギャップに悩む父
参1J1
1えられてい
建ち、さまざまな人の思惑が塔に付け力1
親の姿をとらえることができました。以上の研究に
く過程を追った。この搭を扱うことによ って、 l
啄木、
I
塔」
ご協力くださいました彦根市内保有岡および兵庫県
花 袋、促Jl:i1~ 次 f~l) とい った人々の 「 パノラマ J
加古川市内保育園のみなさまに深く感謝いたしま
への感覚について、文学史外からのアプローチがで
す。
社会活動としては、彦根市男火共!日l
参両社会づく
り懇話会委員として「教育 ・啓発」部会に属し 市長
きたと思う 。 8)Jにはオラン ダ・ベルギーに刻存す
るパノラマ館の調査に赴き、パノラマの立匠につい
て新たな知見を得た 。
i
l
i・和
'
l
崎教育
への提言づくりに参加しました 。八卜1
人工知能学会分科会と動物行動学会大会で、 「
紙
相談似修会や 能登川町保幼教養護教育研究会での諮
コップがよ己りない」場面の会話を詳しく分析して発
問I
も担当し、自分自身の教育・ 研究と地域の子育て
表した 。
をめぐる笑態との接点をみつける H.
い機会となり ま
をどう扱っていくかという話。
した 。
日 ~;t~' のなにげない場面で人は他人のことば
この 一年は彦根周辺でさまざまな音楽の場を企阿
、
した 。 7月
-岡本秀己(
おかもとひでみ)健康と栄養、 健康管理論
j
i
i
'
i
r:進や運動持久力の培強につながる食品の新
健}
,
9月には、久左の辻の ACTで個人が
好きな音を持ち寄るパーソナルミュージ ックパーテ
ィー。 9)=Jには愛知川の藤居本家でアン トン・ブリ
しい機能について研究を続けている 。本年は、科研
ユーヒ ンと巻上公ーの口琴デュオ 。 5)
J・1
1月 ・1
2
皆、本学特別研究費を受けて、
月には東京から l
味見、つる、インセクト ・タブーと
① ショウガ '
"
1の辛味成分がヒ ト運動 ,
t
,の心肺機能や
多様なユニッ ト。いずれも従来の彦根では見ること
エネルギ一代謝へ与える影響について、運動強度と
のできなか った企画ばかり 。藤居本家では、この地
摂取レベルをパラメーターとして公休の内分泌、系へ
域とし ては画期的な 1
52人の集客があった 。 どのラ
の彩響を検討
jが多
イブもなせ、か彦棟以外の場所からの来容の )
Jに及ぼす影響につ
②バナナ倶取がヒトの運動持久 )
い。彦根のみなさん、身近な場所で、おもしろい音
l
l
i動終了後の阿復期におけ
いて、安静時、運動 中
、 i
楽や って ますよ 。
I質供給の程度、疲労度、生体内分泌、系への影響
る担f
Y
J治以降の絵はがきやチラシなどの資料の
最近、 I
を検討
収集を 始めている 。 もともと浅草│二│
惜 の調査のた
(
]
)I
i
l
立健康栄養研究所との共同イリl
究 「
生活宵慣に起
する疾病の、生活習慣の改善による 一次予防確立
│
大l
めのものだ ったのだが、集めるうちに彦恨関係のも
のための運動 ・栄養・疲労の利E/~ 作)1]に|刻する統合
でいくつか披露して、社会人聴講生のブJーから逆にあ
的研究」の一部として、寒冷・拘束・計算など身体
れこれ当時のこ とについて教えていただいている 。
的 ・中
市
中'
1的ストレスがヒトの栄養代謝動態に与える
影響について実験を行い、分担として、ナイアシン
のを拾 ってき た資料もある 。むかしの本やチラシや
栄養の代謝について検討と以上のテーマで研究を行
手紙は、骨董としての価値があま りないせいか、ゴ
った。
のもいくつかr
l
j
'
まってきた 。「 人間行動論」の講義
偶然、近所の肢の I~平体にでくわして、落ちている
ミとして捨てられてしまうことが多い。が、手書 き
の一枚のメモが当時の生活を伺い知るヒントになる
118・人間文化
人・閏・文・化・通・信
こともあ る。蔵や家の解体の際には是非ご一報を 。
主が多いという 共通 点 が見られる 。 そこで、栄物、
-宮本雅子(みやもとまさと)インテリア計画
の1
i
温度 が身 体 に与える影響をみてきたところ、県 l
T
>
!
.
野菜類の I
j
'から数碕を選び、水分量 や摂取│時 の食 1
7
1
望ましい トイレ照明について、向齢者を対 象とし
時の食品の i
l
l
l
U
主だけではなく、食品成 分に休を冷や
た評 価実験を行 った。 f
l
i
'年度行 った大学生を対象と
す効果があることがわかった 。 今後、食 ,
'
,
,
'
,
1
昨
日
リ に多
した 実験再1; よ~との比較から高齢者にと っても若者に
種類の食品に ついて検索 し、食品成分の類似/,1、
につ
とっても望ま し
い
!
!
なl
珂環境について診 察していく予
いて I
V
'
Jらかにしようと考えて いる 。
また、滋賀の食文化財に指定された 51
"
,
'
1'
=
1につい
定である 。
また、 l
作5
1"-に引き続き、老人小規模住宅改造助成
卒 業利Jl
J
者宅の訪 問調査を 実施した 。 今年度は、県
内でもリフォームヘルパー制度を実施するなど、助
i
極的に取 り組んでい る愛知 川t
I
J
Iの利Jl
J
者
成事業に紅i
て、伝承されている調四方法や薬効等について彦般
市を1'
1
¥
J
!W:地 l
ヌにおいて調査を行な って いる 。
心に u
'
伝統食の1'
1
には '
1
二泊のまu
恵が随所に見られ、興味深
'
く取 り組んでいる 。
と彦根,1
1の平成 1
0年度利用者を対象に行 った 。 住宅
改造は住宅 勾
│ での移動や設備 の使い)降下に対して行
-浦部喜美子(ううべきみこ)食品学
c
.
i
で、戸外と のつながりについてまで
われることが =
私 たちの'
I
:
.
i
i
"
i
の1
1
'には、長い年月の I
I
Uに椛われて
検討されることは少ない 。 そのため、民介護 1
-の多
きたさまざまな,):.日の女IITJ!.があります 。 「冷 11~&Jil ,に
くは、デイサービス 利用時以外はほ とんど住宅 内で
i
l
j
:
z したド クダミを入れると臭いがとれる」も、こ
過ごしている 。 公共施設等身障者に配出、した胞設・
のひとつです。 あの独刊の香りを持ったドクダミが
設備が秩えられつつあることを与えると、これから
央いをとるなんて!
は、要介護 お でも I~I 分の意志で 地域 の施設が利川で、
ミの)j}~5~ 効栄について科学的に実証したいと思い、
きるような雫 問 を考えていく必要があると
J
5
eえる 。
*
1
な ぜ ?・
・
・
・
・
・
私は
、 このドクタ
数年i
l
j
i
ーから付│
究テーマとして取り組んできました 。
n宅の玄関やアプローチの段 jれはそ れを達
'
本年以は、このドクダミに合まれる i
i
i
央日刊成分の
成するためには大きな障害とな っており、今後さら
ひとつについて、そのfII
i
造を決定することができま
しかし、
に検討しなければならない課題である 。
また、
n'j齢社 会に対応した住環境に│刻 する l
i
J
I究 の
1卜
1の助 成 令 を初、
一環として、今年度は、鴻池奨学 1
「建 築 業 者 に 対 す る パ リ ア フリーについての J
i
ll
.
w
rと
考え}Jに 1M! する司~! 1ì'研究 j をわ っている 。
した 。 さらに リ|続 き、この消臭 ilí'l~主成 分とメチルメ
ルカ ブタン(山抗忠良物質 のひとつであり、 1
1九の
ì:.~ な "j ' ~.能成分でもある )
という央い物質との iì 'í~
反応機梢を I
VJかにするための X
!
検を行っていると こ
ろです [似究 テーマ・ドクダミ iì~ 央 ilí'I'1ニ成分とメチ
ルメルカ ブタンとの 作JI1機的について 。
]
f
食
t
l
仏
l
1
l
また、 そのほカか、 工
4
砂学会発表
1
.
Iトイレ 世
!r
V
Jの人 間仁学 的検討 」、 日本人 1
1
¥
1
1ソ
了
:
1的
'
1
内
w
下
'
ド
甘
1
(
J
で{
μ
L
、
J
爪
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利
利内
ド
,
的
作
n
Jに利 川 きれてきている +
植
直
物 の扮傑E索を行
f
i
日l
の新しい i
古川を
いながら、木利川の f
会第 4
0
1
1
1
1大会
2. l ìM~ U,\におけ る老 人小規模住 宅改造 助成引 業
の実態」、 1
1
本建築学会近畿支部研究報行会
抗閑効米を 川、すものを新たにみいだしたいと考えて
います 。 [
問先テーマ
-藤j
翠史子(ふじさわふみと)調理と食品機能
今私たちのまわりには健康食品と呼ばれるものが
I
J
f行し て、
身近に 1
'
1
'
.
1
:
している!J!j,
;
"の I
j
'
か
ら
、 i
'
i弘、あるいは
iì'í央効果、抗 l'f~ i 幼*をぶす
野小のr:tと宗 。
] これまでにいくつかの!J!-j-i
・
t
・
fにJ,しい
消失効*やtiC l~j 幼月とがあることを体認し、今年!立、
数多く 山川 っており 、ちょっとした漢方ブームにな
その 一点5
1をまとめて党去しました 。
っている 。 また、生活宵償病予防の i
u
l
.
'
.
'
i
、
か らも、食
[発表論文(共著)1
に
│
見'
!
L
、
が
野市のメチル メルカブタンに 対するii'i
~と; 力。" 本食
n
'たれるようになってきている 。ところで、
決)
Jでは食品には休を泊めたり、冷やしたりす るt
品科 学 I~ 予会 , ;ι
約 46 "'1 ,第7 日 , 484~486 ,
1
9
9
9
f
質
2
があると"われている 。 しかし、これらは粁忠史的
なものであり、 乎
利
科ト│J乍‘
そこで 、その科学 的実証を目指し て{
り
│
究 を進めて
-山根
周(やまねしゅう)地域生活空間計画学
・インド右1
¥
"
1訓作
j
'
lu民地に建設 された都 I
l
iのツHI
U
i
l
iについて i
j
i党的に検
いる 。今までにいくつかの食 l
梢j
主を I
V
Jら か に す る 調 査 研 究 プ ロ ジ ェク 卜に 参
.(令効果を実証してきた 。 4
'
:{
I
oは
体を冷やす食品を l
r
二
:心に検索を進めてきた 。体 を冷
加l
。 イントー
のチ ェ ンナイ (
マドラス )において 、
会・をおこない、
~':II~
ブラックタウンと呼ばれたインド人日住区のコミ
やすと 言 われている食 l
H
lには、商問産の)1占物や反;肝
ュニテイ j
i
.
i
j
1i:や宗教施設分布などを調 J
もまたチ
菜が多くあげられている 。 これらの食品には水分合
ェンナイ、ニュ ーデリーにおいて、イギ リスによ
19
人間文化 ・ 1
人・閏・文・化・通・信
る植民地時代に建設された、ガーデンハウスと呼
I
NAX/1
'
,
版 『アジア建
ドラス、ニューデリー 1
.(
ばれる庭園住宅の分布と現況を調査。
築研究.1 1
999.
1
2所 収 イ ン ド の ガ ー デ ン ハ ウ
• 2年日を迎えた川上村木匠塾:大学の建築教育で
スの現在の姿をレポート 。
はなおざりにされてきた木造建築について、木材
刊1 仁村木匠塾日記 j (
r群 居1
. 47号 1999.3所
の生産現場を体験することによって学ぶインター
収) :1
9
9
8年度におこなわれた第 l回川上村木匠
ユニパーシティ・サマースクール。当大学を含め、
塾の様子をレポート 。
近畿大学、奈良女子大学、大阪芸術大学、大阪市
立大学、大阪工業技術専門 学校、京都府 立大学、
大阪工業大学の学生や先生たち総勢約 8
0名と共に
三地域文化
8月初旬、奈良県川上村の林間で合宿、 学習、制
作。
I
[学会発表]
r
1
. インドにおける都市居住の研究とその視点 J
(日本建築学会農村計画委員会春期学術研究会
I
若手計画研究者の視点と方法」 と
1
9
9
9
.
6
)
題した研究会の 「アジア集住の現在と課題」 と
長浜市史第 4巻が、この 4月刊行の運びとなった。
通史編 4巻の完成を通じて、あらためて 長 i
兵に生き
いうセッションにおいて 、 インド、パキスタン
た先人たちが、町づくりにかけた再生への不屈の伝
の都市でおこなっている調査研究活動について
t
売を確言
思することになった。いよいよう〉野編 3のI
打
報告。 アジアをフ ィールドとする研究者間で研
域の各地の地域文化財の台帳づくりにむけて調査に
00
年を記念して
とりくもうとしている 。蓮如没後 5
究のスタンスや方法論について議論。
r
2
. インドにおける英国植民都市の形成と変容に
報告した 「蓮如の町づくり
J(大 谷 学 報 78- 2、
その 3 ニューデリーにおけるビ
'
9
9
.1
1)、「ガンダーラ遺跡の調査と保存 J(
シルクロ
ルデイングタイプの変平等』他 2編 (日本建築学
ード学術研究叢書 2)、「ガンダーラ仏教遺跡 J(
シ
会大会 1
9
9
9
.
9)
ルクロード学研究7)も仕上げた。
関する 研究
英領インド帝国の首都として
建設されたニューデリーの都市計画と、独立後
2月には、日本政府信託寄金によりユネスコがす
( 1947~ )の都市空間の変容についての研究。現
すめていたインドの仏教遺跡サーンチ一、サトダラ
地調査に基づき、建築物の建て替わり状況と、
の保存・調査の進行を土井さんと同行、見学し、検
施設分布の変化等 に着目した報告をおこなった。
9
9
2年以来、
討してきた。 3月には、 1
r
[著書] 都市史図集 j (
彰国社 1
9
9
9
.
9 分担執
筆
-西川幸治(にしかわこうじ)
都市史、保存修景計画、ガンダーラ遺跡の総合調査
インドにおいて、イスラーム勢力によって
J1CA、大
阪研修センターで、アジアを中心に勾年数名の専門
家・技術者を招きつづけてきた「文化財 修復整備技
建設された諸都市 (
アーグラ一、ファテープル ・
術コース 」 について、研修参加者の帰国後の活躍と
シークリ一、ラホール、ア ーメ ダーバード、ピー
各国の現状をみるためにスリランカとパキスタンへ
ジャブル、ハイダラーバード、ラクナウ )の歴史
演崎さん、宮原さん (
京都市埋文センター)と同行、
と都市空間の特徴について概説。
現地で旧交をあたため、コースの同窓会のような雰
r
[論文] ラホール における伝統的都市住居の楠
成
ラホール旧市街の都市構成に関する研究
そ
囲気にしたってきた。 9月には脇 田さんを 中心 に企
画されたパリでの日仏合同研究会に参加、 「
寺 内Is
T
. (日 本 建 築 学 会 計 画 系 論 文 集 No.521
の 21
1
9
9
9.
7) ・パキスタン、ラホール │
円
市街の都市空
と城下町」 について報告した 。
間構成についての研究論文の 2本目 。中庭式を基
“びわ湖と共に生きる"に参加。村一井さんの 「ぴ
、
わ
1
1月 5 日、日本学術会議が主催するシンポジウム
本とする伝統的な都市型住宅に焦点を当て、その
i
胡をめぐる文化
」 、脇田さんの 「びわ湖を こえて
空間構成や高密な居住を可能とする住居の集合原
近江商人の活躍一」 、堀越さん (
滋賀大)の 「びわ
理について明らかにした。
湖とくらし」に続き、 「びわ湖をめぐる 町づくり 」
r
[報告書] 植民地都市の形成と土着化に関する
比較研究.1 (平成 9年度
平成 1
0年度
について報告した 。
科学研究
1
1月2
0日
、 比較都市史研究会 11月例会が、学部会
費補 助 金 ( 国 際 学 術 研 究 ) 研 究 成 果 報 告 書
議室 DO
-20lでひらかれ、シンポジウム 「
比較都市
1
9
9
9
.
3
) 第 2章 第 2節 「ニューデリー J(
共
著ニューデリーの計画理念、設計方法、独立
後の変容をまとめたもの。
[その他] ガーデンハウスの行方 インド・マ
論の試み」で、高谷さん 「
東南アジアの都市 ・バン
r
120・人間文化
コク 」、黒田さん 「アフリカの都市 ・コンゴのキン
シャサ」、西川 「
南アジア ・ガンダ ーラ の都市」、鵜
ヨーロッパの都市史研究j に
川馨さん(立教大) I
人・間・文・化・通・信
参加│
し、翌 2
1
1
二
!、彦根・長浜の史跡 '
I
/
I
Jなみを見学
r
Woman and Cl
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s
si
n ]apanese H
i
s
t
o
ry J として
した。今年度からはじまった県下の捌究機│刻の述繋
1
1
¥版することができました。
による環琵琶湖地域文化研究会は、琵琶湖防物館、
/
I
T
安土城考古即物館をはじめ、県内の文化財保存 ・I
次はここ 5 ・6イ1
:
:やっている日仏│王│
際学術 i
i
J
f究
l
TJをテーマに、各 I
時代の比較をし
会、今回は 「
都r
づくり言│阿担 当者が参加l
し、地域文化財 の保存と活
ています。
!日について熱心に討議をつづけ、これからの充実 し
1
洋言語 ・文化砂│
究│淀教授)とフランス 1
_
1
'1
1
1
:考 1
1
学の
た展開が則待される 。
M. コラルデル氏(パリ民俗博物館長 )をお初きし
1て、東京と京都で '
1
1
1
:研究会を催しました。 1木だ
けでなく、 j
l
l
i
i
芋史・東洋史の考古学・歴史学の人々
-菱
徳相(かんとくさん)朝鮮近代史・日韓関係史
i
f
究 に没頭している今日この頃である 。
円運売のイJ
6 rJに日本 1
1
'
1
並史の P .
が集ってくれました 。
スイリ一氏(東
9 月には、パリで1-1仏 j~ 1 υj シ
月連売といってもわからない人が多いかも知│
れない
ンポジ、ユウムを開催して、上記コラルデル氏とスイ
;
V
J鮮近代の卓抜した政治指導者である 。柏民地
が
、 '
リ一氏、そしてブッシイさんが、全ての凶 l訴をして
時代にIj-'惇l
の係文、日本の原敬、ソビエトのレーニ
くれました。パリで行うのは 4回日です。本学から
ン
、
トロシキ一、ベトナムのホーチミン、Ij,,:
mの江
精術、持介石、 F
I本の近衛文!夜、大川同 I
l
jJ
などと同
は凶川幸治、浜 11奇一志、水野主主二先生プJも参加、Ij'
1
止都 I
l
iや近郊 j
J
2村についての報告をしてくださいま
志的友詑関係をつくったり、意見を交換した人物で、
した。 また与古学の 1
:
1
:
1:
r
'琢・佐原真岡氏も参加・報
1
そのスケールの大きさはならぶものがなし、 。 もし、
告して下さり、コラルデル氏が30年近く発品 1
¥ してお
1947年季承 I~Ú に l暗殺されなかったら、
';VJ 鮮の分断は
の水 r
1
l
遺跡を見にいって、中1
られるパラドリュー出l
なかったのではないかとひそかに思 っている 。そう
当突っ込んだ議論が I L\ ~ました 。 これを契機に 11 仏
いう立味でこの人の研究は朝鮮の独立運動の全体像
中附の考古学:
や歴史・民俗の共同研究会をやろうと
1
'
1
司史か日
の研究でもあり、それだけに奥が深い。 '
いう機述が向まっています。
伐をくりかえしているが忠i
i
役目闘の連
本史との接近 i
著書の方は、修士課程の昔、演習のリポートで拠
続で、なかなか勝利の美酒とはいかない。攻めあぐ
出したものを温めていた 『中世京都と祇加│祭 J(
I
j
'
み、っかれてー休止。気をとり直して l
ヰ挑戦をして
1
¥しました 。 もう一つの都市論・もう
公新書)を 1
いる 。
民史 のつもりです 。
つの女性!と ・もう 一つの被差別l
昨
年
一
Sr
J
、 ご ・一巡動 8
0年の国際シンポジウムで
その他、論文は 11'1止の村や I
/
I
J
の共同体の祭礼にi!
l
iじ
講i
貨をしたのが縁になって、 T V、新聞等で「三 ・
られる布1I 能の性絡を論じた「神能の{立国 一狭~江iE の
一巡動」 について発言の機会があり、それがまた縁
寿祝性と在地共同体 J 芸能史研究 j 1
4
4サ)。絵 F
I
I
J
になって、 1
91
9
年 2月、当時の留学生が 「
ー
二・八宣
に被差別民を引き込むことの意味を問うた 「 ー
遍1
2
言
」 を発表した朝鮮 Y M C Aの跡地を1i1
t
7Eすること
絵 ・遊行上人縁起絵と被差別民 J 一遍些絵を読み
ができた。現在の M
'のたっている祈I
E
H猿栄 1
1
/
]
"
と
は
ち
解く 一動きだすi'i)
rL
F
l
l
i
i
象
がう、小川 I
/
I
J
の神田川沿いであるが、こんなことが
品経済の発展の具体像を論じた 「
社会的分業と r
l
T場
r
(
,
r
(
r
(
1所 収)。 中 1
1
:後 W
Jの商
11-1本女性史の
今までどうしてわからなかったのか不思議に思って
構造の転換 J 講座日本荘園史 J
)
0
いる 。
軌跡と ジェンダ一史の課題一中世研究から現代を見
r
(
9
8サ)。中世の大坂地域の都 il
J
像を
るーJ 思想 J8
-脇田晴子(わきたはるこ)女性史、中世商業史
1
9
9
9il
三
は
、 l
王
1
祭学術研究にあけくれた年でした 。
論じた I
P
o
r
t
s
.
M
a
r
k
e
t
s,
andMediervalUrbanismi
n
the Osaka RegionJ r
OSAKA-The Merchants'
まず、多年の念願であった『ジェンダーの円本史 I
Capital o
f Early Modern ]apanJ。 そ れ と 前 記
上下巻の 1
)
i
;認版を、アンヌ ・ブッシイ,上野千総子,
r
Gender and Japanese History1
. 所収の I
The
私の共編で刊行することができました。 これは本学
Fomationo
ft
h
eI
eandMedievalMythJです。 ミ
に留学していたクリスティーナ・ラッフインさん
シガン大学のものには 1Medi
e
v
a
l Household and
が、事務局として、英語圏ネーテイブの各専 門の翻
Gender R
o
l
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s Within t
h
e Inp巴r
i
a
lF
a
m
i
l
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.
N
o
b
i
l
i
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y
訳者や校言]者、約 35人を組織して容│却してくれたお
Merchants andCommone
r
s
J 0 それとフランスの
蔭です。 この刊行記念シンポジュウムを東京大学山
『アナール 』誌に ILA FEMME ]APONAISE
:L
'
上会館で、日独仏米の方々に基調報告やパネラーを
HISTOIRE DES FEMMES A U JAPON. La
お願いして聞き、多数の参加者を待ました。
また、ミシガン大学で 7年前におこな ったシン ボ
[
maison]
'
e
p
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n
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edansl
as
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ci
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m巴d
i
v
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l
eJ が出ました。
ジーユウムをまとめた本を、ミシガン大学 I
J
¥
版会から、
ヒトミ・トノムラ、アン・ワルソールと私の共編で
入
閣
文
化・121
人・間・文・化・通・信
活動を媒体に「地域jを考察しようというのであるか
-高谷好一(たかやよしかす)地域論
1
9
9
9年度の海外調査では、夏休み利用してスペイ
ら
、 一 日一 日が新しいことばかりの連続で、これほ
ン、イギリス、アイルランドなどの畑と牧場を見て
どの精神的高揚を覚えたことは近年にはなかった。
まわりました 。 これは 3ヵ年つづい文部省科研費
1日に、はじめて この作品 を本学の
一昨年の 7月1
「
熱帯半乾燥地でのミレット農耕と他農耕との接触
0
0名 に公開した 。
講義室で、県内の 一般の人々約 2
代表;京都大学応地利明)の最終年度の調
複合 J(
その後、大阪・ 神戸・名古屋・東京などの大都会や 、
山陰・四国・九州・長野・沖縄など各地で上映会は催さ
査でした。
国内での調査としては地元の守 I
i
Lの農業なとを調
れ、通算 4
0数回、参加者は延べ一万人に、寄せられ
べました。 これは県立大学と県 内の他の試験研究機
た感想ゃな見は 一千通を越えようとしている 。「地
l
k
:
i
が品目んで行う 「リサ ーチコンプレックス 」から布f
域」のさまざまな意見や情報が、郵便や電話やファ
究費補助を得て行ったものです。琵琶湖博物館、龍
ックス (僕にとっての最新兵器。 ただし発信操作は
谷大学の研究者らと一緒に行いました 。 この成果は
未習得。)を通じて日常'
的に交換されるようにな っ
年度内に 「
守 山の農業、漁業、生活 J(
仮題) とし
た。研究室は、全国各地と結ぶいわばホットライン
て発表する予定です。
が開設されたような観すら、呈している 。
学外で、の活動としては、 『
守山TIr誌』の編纂に脇
こうした動きの中で、特記すべきは、沖縄との交
役として係っています。他には次ぎのような委員会
流であった。沖縄からの最初の電話は 、伊江島の内
に係っています。県緑化碁本構想検討委員会、県高
向賢生さんという方からで、
齢対策審議会、県平和記念館(仮称)マスタープラ
1
9
9
9年2月24E
I
の記事で、映像作品“四季・遊牧"の
ン検討委員会など。
沖縄タイムス"の
ことをはじめて知った、というものであった。早速、
9
9
9W
地域間研
研究成果としては高谷好一編著、 1
1
1純タイムス"にも電話をかけると、学芸部の福
"
7
京都大学学術出版会) を出し
究の試み J上・下、 (
島輝ーさんという記者の方からの、「二、 三めぼし
ました。地域間研究というのは地域研究を 一段進め
いところがあるので、上映会の実行委員会を考えて
たもので、後数の地域を比較するものです。 この本
みてもいいで、すね。
」 という前向きの返事に、沖縄
1
:1心に、南アジア、
では東南アジアを 1
カ
、
l
r
:
l
束、アフリ
ド回、ヨーロッパを取りあげました 。論文とし
l
行きの夢は一気に実現へとむかっていった。
伊江島を皮切りに、本島の沖縄市や那覇市から、
Jr
人間文
.
5-6,や 「地球規模の地域州究 J( 坪内良 t~(
化.
1N
o
編著、 1
9
9
9r
総合的地域研究を求めて J京都大学学
波って、上映会はつづけられた。
科
r
:
l1:"'版会所収)などがありました 。
tに
村に入った 。朽木村には"四季・遊牧"の編集 l
ては 「田舎の文化
私の字を例に
さらに八重山群島の石垣島から竹富島へと 三週間に
沖縄から 戻る とすぐ、 8月下旬に、滋賀県の朽木
現在最も気にしていることは、学科の名称にもな
も何度か足を運んでいる 。モンゴルの山岳 ・砂漠の
とは何なのか、ということです。
っている「地域文化J
村ツェルゲルとイメージを重ねながら、「森と砂漠
これを考える j
坊にしたいということで 『人と地域 J
を結ぶ J
次の「森の村」の作品として、“四季・山村
という小 t
I
r
子を発刊することにいたしました。すで
朽木谷の人々 一 "の構想が浮かび‘あがっていたか ら
に第 l号は 2
0
0
0年 1月に ,
'
1
1ています。 この冊子の編
である 。私は、この朽木谷の過去と今を重ねながら、
集などを行っているのは黒田末寺、武邑尚彦、上田
そこに生きる人々の姿を心に描き、その思いをあた
洋平と私の 4名です。
ためつづけてきた 。重苦しい“閉塞感"を打ち砕く、
新しい時代の到来を思わせる幽かな 明るみが、暗い
-小貫雅男(おぬきまさお)遊牧地域論・モンゴル近現代史
本年度の活動の基車h
Iは、なんといってもドキュメ
ンタリー映像作品“四季・遊牧
谷底に見え隠れする 。日本の一角のこの「地域」から、
何かが見えてくるのではないかという期待。二 O世
ツェルゲルの人々
紀末の世界の状況を打ち破る、何かがそこにはある
一 "の上映活動であった。地域研究者が普段一般に
l
r
のではないかという予感。 この思いは、 7
t
縄の屈辱
おこなっているように、それまでは「地域」を調査し、
的な現状と重なり合いながら、次第に両者は同じ主
資料を整理し、論文や本にまとめるというのが活動
題に到達してゆくことに気づくのである 。はじまっ
のこれまでの形であったのであるが、それがこの一
たばかりの“映像地域学"の課題は大きい。
年間はガラリと変わってしまったのだ。
七年前に、一年間、住み込み調査をしたツェルゲ
予定が少し遅れたが、 雪深い厳寒の朽木谷から撮
りはじめるつもりだ。
ルの 「
地域」
を 映像によって表現し、それをモンゴル
ではなく、日本という別の 「
地域」に持ち込んで、そ
こで暮らす人々にじかに伝え、論議もし 、こうした
122・人間文化
-トゥムル・ナムジム 中央アジア・ロシア極東地域論
1.昨年 7月から 8月の期間中、モンゴル固に滞在
人・閏・文・化・通・信
し
、 │
司国の文化 ・生活習慣 ・都市と 地方における
橿l
京市新沢千塚古墳群 の前方後 円墳を i
!
l
U量調査し
生活実態・ 社 会 ・経済の各分野に見られる変容 ・
0
0
模型も学生の
たO 併せて、うくいす塚古墳の 1/1
刷新の状況 について、調査をおこないました 。
0
0
0年度に刊行す
手で製作した 。 こちらも報告書 を2
2
. モンゴル国南部にある“アルタン・オボー"と
る予定である 。古墳時代 の鉄製刀剣 と工具の調査も
いう古来より謂われのある 山で、民間信仰の儀式
民俗館や鍛冶屋さんを 学生 と共に訪ねている 。 (
烏
に参加 し、その独特の様式に触れるとともに、貴
根、三重、和歌 山、奈良、滋賀の各県)。
重な写真資料としても記録することができまし
た。 こうした伝統的なオボー信仰は、 1
9
3
0年代か
②社会と研究チームでの活動
ら1
9
90年代まで 6
0年間にわた ってかえりみられる
わたしの本年の社会活動は、なんといっても奈良
ことがなかったのですが、近年になって復活し、
県南部の吉野 山中に位置する天川村立 山上ケ岳 博物
土着の民衆文化 として、関心 も高まっているもの
館の 開設である 。 1
9
8
2年に前任地の橿原考古学研究
です。
所で調査した 大 峯山頂の出 二
│
二l
zl(
重要文化 財で約
3.11書 “日本概説" ー 在 日モンゴル人による
2
50
0点) を展示・保管する陣物館で、規模は大きく
8
5ページ・ 9章構成・カラー 写真資料約 7
0点
(
全3
J
I
行をへて、匡l
の重文指
はないが、調査・報告書の F
制裁) を、モンゴル訴で 1
+
'
,版しました 。
定と努力し、ついに博物館が完成したのである 。学
4
. モンゴル国科学アカデミ一年報 (
Proceeding
s
芸委員 会を主宰 し学芸員をしている 。今後の目標は
│
二に
、
o
ft
heMongol
ianAkademyo
fSci
enc
e
s)誌一
「モンゴルの遊牧文明に関する問題によせて 」 と
修理である 。
いう論文を寄稿しました。
化財審議委員、那智勝浦 町、三 1
1
1市の調査委員、九
他 に、大和郡 山r
b、上北 山村、和歌 山県などの文
5
. 在ウランパートル ・モンゴル阿科学アカデ ミー
州歴史大学 の企画委員 なども委嘱されているので、
と、ユネスコとの共催で開催された“現代におけ
そちらへ行く機会も多い。極原考古学研究所、シル
る遊牧と牧地利用"をテーマとした国際学会にお
クロード学研究センタ一、匡│
立高岡短期大学、日本
いて、 「モンゴルの遊牧文明、その本質と未来」
国際文 化研究センターなどとの共同研究あるいは分
と題して発表をおこない、当学 会の報告集に掲載
担研究の項目も多く、学習の円々がつづく
O
されました。
③執筆など
-官谷
i
l
占史道洛墓」が編著で、 他に 3本の論文、 研究
文則(すがやふみのり)考古学
ノートが 刊行された。│
随筆 なとさ小品が 4本ある 。
①調査研究
建学 5年となり考古学研究室の現地調 3
2
Tも質量と
I
J
し
、
今年は、昨年から始めていたコンピュータを J
2件した。 11
*は凸版印刷株式会社、桐 山
もに充実 してきた。考古学研究は、なんといっても
た仕事を
野外での分布調査、発掘調査が大きいウ ェイトを占
企画事務所が、ソフトを開発し、わたしが資料を提
めている 。また 、その後の 室内調杏も極めて重要で、
供し、監修したもので、通産省の補助金を得て 「ア
野外と 室内の作業量は 1 3程度である 。造物の整
ーカイブミュヂ ァム (
コンピュータを 月jいたコンピ
理、実 i
W
J.トレース、 写真撮影、レイアウト、執筆
、 三角縁有1
I獣鏡とす1
¥
馬台国
ユータ上の博 物館 )Jで
とつづく 。それらのいくつかを紹介しよう 。
の I)),J 係を論じた 。 京都会館で、 1 998年 1 2 月 8 日 ~ 1O
(A)
関学 2年日から継続して調査している中国寧夏
を製作した。
│
二
│にかけて、開催された 。 リーフレットと CD1枚
回族自治区の 北周から !
苦に 至 る地下墓 の調査では、
もうひとつは、上記の二社と、橿原考古学研究所
1
9
9
9年の 3月末に、 40
0ページ以上もの大型の報告書
が刊行できた。 この本の凶 l
師は、すべて本学の学生
寺沢葉氏、田原本 I
I
I
T教育委員会藤田 三郎氏と共に作
の手になるもので、
の土吉井編年をコンピュータて、
表現したもので、
1 996年に 21旦I ~t で、 始めて発掘調
査に参加した 学生の成長の結果が、『唐史道治 墓一
成した弥生時代の様式遺跡である唐古 ・鍵遺跡出上
9月
4H ~ 5 1::lの唐 古 ・盟主遺跡史跡、指定記念シンポジウム
原州連合考古 │
泳発掘調査報告 1~ (
3
2
.
0
0
0
f
工
] 文部
で公開した 。 CD1枚と、編年表 1枚を作成し、相
省助成刊行物)である 。その後も、 こ
│
七周の大官 ¥
1
:
1
弘
互をマイクロ・バーコードマークで連結した 。わた
墓の調資報告書 (
428ページ)を目ざして、目 下 、
進んで、
連日の作業が、 1回生から院生まで、の協力で、
しは、全体を監修した 。
いる 。実習室の電灯は、 二
七日
程日も日曜日も早朝から
で
、
夜更まで灯 っている (3月末刊行済)。
まで、他機関の初│
究者 2名、本学の田 中俊明助教授、
国内の調査では 、1
9
9
8年に奈良市のうぐいす塚と、
科研費は 「中日 出土銅鏡の比較
『
り│
究Jのタイ トル
3年計画の 1年目が始まり、 1
2月 1
6日から 2
7日
院生の 川上博子、飯田史恵らと 中国山東省に調査に
人間文化・ 123
人・間・文・化・通・信
行き、 3
0
5枚もの青銅鏡を調査した 。 中国寧夏 (
1
t
校本的な組み直し、人類社会形成論の試論を展
谷一尚氏)の調査は、 2回生から院生まで 2
0
開。以文社。
『新版ピグミーチンパンジーj (
同
表者
名の学生と 7月1
4日から 9月2
8日まで実施し、黄土
社) など。
社会活動 ・八坂 1
1
1
]憩いの家、城陽小学校などで類人
台地で汗を流した。
猿や人類進化 について 8回講演。 わかりやすく
話すことの難しさを痛感した。
④趣昧の世界
シルクロード写真展 (2)
J2
8F
I
~ 4月 2H 於:
奈良県桜井l
r
iPho
t
o
f
a
r
mギャラ リー)0 1
5オーからの
一年を振り返って
学生諸討のゼミの多くが、 「白
分は何者なのか」、「どう生きたらいいのか」 と
登山は、日帰りで 5因。来年こそ、高い 山へ、岩へ、
いう悩みとの格闘を 言葉にしたものであった 。
氷へと想いをはせっつ、本年もすぎた 。来年こそ、
そういう場に居合わせる職業のありがたみを感
春の相沢へと夢をもっている 。 ちなみに、本年の最
じる O 美味しい菜っぱができたものの、木平日凹
.
9
80m9月2
4日 付
!
高到達点(青海省天俊県約4
判l社前の知
│を草ぼうぼうにしていたことが悔や
秋の口)であった。
まれる 。今度は 「自然農 Jではなく 「
耕作」 を
してみたい。
-黒田末書(くろだすえひさ)
人類学 ・人類進化学
教育 ・研究活動
-高橋美久二 (
たかはしょし くに)考古学、歴史地理学
、地域文
「人間と白然界」、「人間文化学 aJ
講義
奈良平安時代の古代交通の考古地理学的な研究で
r
(
は
、 1
9
9
9年に「占代の近江の東 山道J 地理と歴史
化学演習など。
初夏:j
f
¥
ガ知u
に君主琵琶湖文化実習で訪れた。老人会
00
0年刊行予定)、
空間 』足利健亮先生追悼事業会、 2
(
r
を始め多くの方のお世話で 山里の暮らしゃ木地
「
交通関係遺跡 J 地球環境調査事典 j フジ ・テク
師の伝統の誇りがもっ重みを日
!L
に感じることが
ノシステム、 2
0
0
0年刊行予定)などの論文を 書いた。
奈良暦史地理の会講座)、
また、 「
古代の駅と駅路J(
できた。
夏.ガボンのモカラパ保護区で 『アフリカ熱帯森林
「
古代の山陽道と阿国街道 J(
向日市文化資料館特別
住民の文 化 保全と内発的発展に関する研究 J
展記念講演) など 1
0回の講演をおこなった 。 この数
(
文部省の科 1
ul
費、共同研究)の調査。保護区
年、敦賀市教育委員会の要請によって愛発関調査委
では 山菜・薬草採集、漁労が許可されていたが、
員会に加わり、 北陸道の愛発関の調査にかかわるこ
動物の生息密度は高く類人猿の調査地として手i
0日間、
ととなった。昨春と昨夏も厳寒と炎天下に各 1
望である 。村人は 「
チンパンジーが人間と同じ
木学:
の 学生を述れて試掘調査をおこなってきたが、
く思いやり深い動物なので殺さない 」 と話し、
1
¥なかった。 こ
愛発関の位置を 明 らかにする成果は /
1代が薬草利用の伝統文化 を維持するなど
若い 1
興味深い 地域だ、った。
の調査は次年度も継続していきたい。 また、丹波と
出雲の山陰道の遺跡の調査にも行って来た。
で甲南のため池と段々知l
の美しい風景が早害と
9
9年 5月には ロシア沿海州 と中国黒竜江省、吉林
省にある古代の湖海国の遺跡見学に行った。 f
f
'
J
J
i
!
i
J
:
へ
秋・岡 ~II さん(本号地域フォーラム参照 )
のおかげ
の闘いで作られたと知り、 「
風景とは地域の生
の旅は、ロシアのウラジオストックから時計と反対
活のことである 」 と実感した。来年度は皐害 と
の北回りで中国にはいり、ロシアと中国の励海時代
の闘いの歴史を本誌で紹介したい。
の都、平城、 山城、寺院跡、墓、駅跡 などを見学 し
冬 人 と 地 域 Jの共 同発刊。武邑尚彦 (
主宰)
高谷好・ ・上田洋平・学生と卒業生有志、の皆さ
両国の溺海時代の遺跡の保存状況の良さと、そのス
J
。 より
んと、フォーラム誌 『
人と 地域 Jを発干I
ケールの大きさに改めて感激した。 もっとも感激し
ながら、南からふたたびロシアに入って帰ってきた 。
よい地域を作る方策を自分自身の生きる問題と
たのは、法g
J
i
海時代の日本への 出港基地・ 東京竜原府
して考えた作品を広く紹介し、 地域のとらえ方
の郊外の 「日本道」沿いの駅跡と推定されている石
や生き方を議論しようという趣 旨である 。
頭河子古城、 日本への 出航の港・ポシェッ ト湾とポ
その他
I
後氷期のニホンザルの成立過程 J(
文部
省科研費、共同研究)、「人間性の起源と進化J
シェッ ト湾を望む j
勃海時代の平城 ・クラスキノ土城
を見学した ことであった。 日本への 出航の港 ・ポシ
(
サント リー 研究助成金、共 同研究)、「人と動
*い天然の良港の地形を
エツトが袋のように湾入の i
物の関係 J(本学特別捌修費)などと取り組ん
だ。
示すものであるとわかり、日本側の励海への出航の
港・福良港(石川県羽咋市)のことが思い出された。
出 版 人 類 進化再考斗士会生成の考古学 j類人猿
それは、 「
福良」の字はもとの 「
袋」 という地名を
と人間 との関係史の問い 直し、 類人猿社会論の
二字の好字に変えたときにできた 地名であろうと考
124・人間文化
人・間・文・化・通・信
'
.
f
!l.~ i
J
{i~'}I~ んでいるように以う 3 それは、
もっと深刻な j
1
1
'きるんの点失」 とでも iえょうか。
1
1
怪汗しく思わずに、何でもよいから思うことを
:
1
1
1
{
:
t
,
.
l、てごらん 。
」
もうずいぶん長いこと、こうした
実践を続けてきた 。 1
1
)川の綬業の後で、学生たちに
~fU必を lli いて IZ うのである 。 学生たちの何'~ !
s
.
X
;
は
い
ろ
いろである 。 繰り返し i
l
lいて:買うのだから、そのう
1ずと本立が文市にぷれる 。彼 ら の I
)
'
jI
(
r
iにi
,
P'
t
l
:し
ち(
ている.'~',~、も伝わ ってくる つ そうして主11 らされるこ
とは、あらゆる立│味で
11
"界を知れば主1るほど、 M
をじじればよいのかわからない 。 どう生きて行けば
よいのかわからない 」 という彼らの思いである 。 ま
さに彼らの内而に生じている 「虚 ろ な る も の j を'人
感する 。 それは社会令体の「生きる }J の l~~J につ
ながりかねないものである 。
もちろんフィールドワークにもでかけ、
I
,
J
;じ径の
{収を l
喰らう 。 しばしば行 E
到
動
J
Iを共にすると、 3
現l
ら実長を受
7
科
;
半
千
す
る
学
/
ぺ
性
ド
│
=たちの!感
必
l
剖
芸
長
刻
,性│
代を J
判
│
川
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うJ
桁
t
:
者
i
'
行
P
T
;たちの i
似
f
以
l
もしさを 1
覚工える 。 在、念があっ
たり、 J
I象的な概念に允たされていたりすると、イj
るがままの現実はこころに突入してこないというこ
とだろう 。 だが地域の必らしや (
1然 と 抜 し 、 ナ マ の
現実に触れる学牛た ちは述う 。 人 Ilij がその JJì~ で造り
1.1',した制度や物質的発 i
主を、そのままぶ朴に成熟の
勃
,j
毎の都の石灯箆
ql ましい )j 向と Lよるほど、 f皮らの!~X;'I''I:は 3世つてはい
えられ、
LI+と湖 i
f
i
jの │耐HlJ
のj
径の r
,
が 「 袋」 であっ
ない 。 '
J
i
'
夫
、 F
Iらと (
1らの足 Jじを比州えて、世界を
広みはじめる学生たちが1
1
¥始めている 。 それを 就 職
ny,'l~を越えた地名のおもしろさにも感激
ーに生かす乍 I
J
二もi1l~fì めた 。 イ"J とも布り j!fí
や人件設,1
した 。 また、│昨秋には北淘迫北 i
I
1の泣跡を見学:にい
い、教師~-;-~利に 1手(きる 。 こうした学 JI たちと共に aえ
たことに、
i
)
ll
時代 の i
l
l跡 で :
U.
tしてい
って、そこでロシアの湖 f
ませて釘 って いると、どんな些出Iなことでも、積み
l
i
;イil':Jlを見'''j:し、、i
'時 の交流の j
よさを
るものと同じ '
許i
信たる
重ねの大切さを実感する 。 H
うた!啓し た。
えるなら、ともかくも↑|司々に実 I:~: I切 な凡地から 11又り
交通遺跡の訓u
l1tのほかに、
ー│作年度から滋賀県 │
人j
の金石文等の文化財に占かれた銘文資料をあつめて
パソコンでデーターベースを作成しているが、
1-1~の未来を,長
組むことが求められる 。 地域文化ザ不│の実践は、ま
すますそのおもしろさを附している 。
9
9イ│
二
度にはそのデーターベースに山像データーベースを
J
J
I
Iえる作業を継続しておこなっている 。
-林 博通(はやしひろみち)日本考古学
4JJ ぶ ~5 刀初旬には",回東北 I~I) の,', ':j !,,)出遺跡、を
'"1"'心に現地踏併した 。 :
t
I
!
'
.
(
l
i
I
l
rの高間山城・ノ川友銀i
[
美代
-武邑尚彦(たけむらたかひこ)社会学、地域研究
|て J成 ・ ~城・ 11 卜老城・ 1 ' , Jì究室 二|二 城・ j且 i'í J
r
'
iの I
!
J
i
J
,
I
.
!
:
j
実践が、少しずつ実を結びつつあることを強く実感
u
ピム=の 三 室 塚 ・h悩t
.
1
1.将 J
T
U
ぷ .H太 王 碑 . j
r
J
J
氏塚・抑制塚.)
(F
I
波・L11
城 子 山 城 .L
L
i
城下 占 的
J
作
・ 1
"
1内城作所の城!l
t
;'千秋塚・ 1'
4大 塚 ・赤羽"松 1
'
,
させられる出米 自
r
r
.が多かったからである 。
城・恒仁 dJ の五 ~III 城. ~::;力墓 f.
Ilí ò 年ほど、 ,r.H'lî~.Ç 干 IJ に尽きる,tL いをしたことがな
い。 地域文化の似│究をめざす
A
辿のささやかな教育
日本は今、深刻な危機の '
:
"
1にある 。 す で に 多 く の
地・
1
;,
'
i
城 子 域i
l
l
.
r
,
'
,
員群・滞│湯川 の石内子 1
1
1城 ・ 新 楽 j
l
i
;助、な
卜
.,~i J
J
&
j
j
1本 よ り や や j
怪いが ー帯 は 木 の が 時 期 で 、 遺 跡
人迷が指摘しているように、それは卜│
本を取り巻く
、
と。
'1'1';きかからすれば、経済と安全保 I~i~i の問題であろう 。
地にもタラの芽やコゴミ・ワラビなどが多く見ら
だが何よりも教育や社会意識 ・
も1
1値 観 ・信 念 大 系 の
れ、イ"
J処もあ っさりと 、多彩に料 '
J
t!された山菜がふ
e
i
J迷こそ、
11本 の 危 機Jの も っ と も 深 刻 な 現 れ で
ある 。さらに、そうした刻象としての危機の版には、
“
Eみ を 満 喫。 川
心
山
I.
;
1
j
1
Jイ
んだんに椛られ、イ手の J
泊
満
声
前i
j
l
附
j
井
:
J
羽
日
;
j
の ス モ モ が渦
i
l
前
埼
ち渦
i
h
的
│
l
i
均
i
ち
つた集安はいたるところ i
人間文化 ・
1
25
人・間・文・化・通・信
て、│
士
│
と 1
=
1
'
酸っぱい香りが強く印象に残り、 「
春の
占者 I
l
t
長女」 の歌(
詞 .u
l
l)ができた 。
報交換等をわった 。
今年も多忙で充実した 1年でした 。
夏から秋にかけては、ゼミ学生たちと琵琶湖湖底
追跡の訓査を断続的に実施した 。 i
削阿の 三 ツ矢千粁
-田中俊明 (
たなかとしあき)
朝鮮古代史・古代日朝関係史
i
i
j
;跡、.湖北の │
河曽津千軒遺跡・葛能!毛湖底追跡・湖
1
'
,
i江千 i
l
q辿;跡などで、今年か
東の多対応湖底追跡 ・1
'
1ロボットを導入し、ロボットに 1
又
り Hけたビ
ら
7
1
<'
あいかわらず、腕国 ・中固など東北 アジアの約 十
史研
究の対象とする地域のみですが、いまのところ他地
デオカメラから送られてくる湖底の映像が、船上の
域 を 訪 れ る 余 裕 が あ り ま せ ん 。 韓国へは 51
1です 。
1
9
9
9年も、たびたび海外調査の機会がありました 。
モニター凶 | 而に m~: r列 に映し出される 。 スクーハダイ
1月は新たな文字資料の発見ときいて広ナト│
へ行きま
ビングと水 I
j
'
ロ ボットをうまく官j:)
1
Jして効果的に調
したが、文字と認めることはできませんでした 。 2
脊することができ、各所で大きな成*があ った。が
、
月には梨花女
f大所蔵の文字瓦を調査し、非武装地
奥琵琶湖l
といえども湖底 ・湖 岸はゴミだらけ 。 おま
目玉陵を見
帯 に 近 い 統 制 区 域 に あ る 新 羅 最 後 の 敬1
けに透明肢も極めて思い 。 浅いところは泌がひ、っし
学、さらに友人の早稲田大学李成市氏とともに木
6世 i
M
Jの将来に危機
りと繁比して調査不能の状態。 5
l
i
j
l.光州、1・告 j
十
1・釜 1
1
1・慶州、│と各地の陣物館 ・大 学
のま1
1
己を訪ねる旅をしました 。 3
1
1には、これまで
を感じると共に、今後の初公が J
4
1いやられる 。
ì~~ i
l
l
J学 術 .1
i
JI
究フォーラムの
五日として、 「琵 琶
行ったことのなかった仁川 ・育松・央防を訪れ、
9
湖jがつくる近江の歴史」研究会を発足させ、県下の
月には i
[似道地んーとソウルの j
瓜納 j二城発抗 r
i
.
f
J
W
)
jをみ
与,'1 学研究者 ・ 文化財関係者と :;!~H で、琵琶湖を直
ました 。ヲiH
l
i
J
l
J
JU必があれば、積械 I
'
f
(
]に訪れるように
後の媒体として展開した近江の歴史・文化を新たな
しております 。 3世 紀 の 百 済 壬 城 の ,
(
0)
候補地で、
視点から与えていくこととした 。 初年度の今年は湖
1
'
話40mにおよぶ巨大な版築士塁で、百済の I
l
q家形成
9)
Jには 「湖上
から J~ る近江の城 j のテーマで 2 1をかけて、船で
}
;
'
i
J
し、各所に残る水城の笑十!?を調査した 。
琵琶湖を -
の過れをうかがわせるたいへん興味深いものでし
畔の城と湖底追跡、を研究対象とし、
1)
Jには「城の船入 j について資料を村一ちす'1:り、検
た。 l
OJにはソウルの高句麗研究会の大会で 「
城郭
施設からみた向句麗の防禦体制 」 と ~m する発表をし
ました 。また I
jI
j
:
R
Iへは 3回訪問の機会がありました 。
討会を!日l
いた 。 湖底追跡調査も断続的に行い、地元
4)
Jには向旬臨の r
i
i
T
W
J
.中期の王者日のあった i
空軍省
での湖底遺跡、(千軒伝承) に│刻する I
l
f
Jき取り調査も
恒仁と J
7林行集安へ行きました 。 桓「へは 7I
n
l
l
lに
なります。9
0年代初頭に開放されたところですから、
実施した 。
1
1)
Jには {
I
二外研修 「日韓,',代遺跡の比較研究 3J
として 2.
i
i
!
!
l
I
lU
、隣国の東部地域を I
}
j北に縦断する形
ほぽ毎年のように行っていることになります。 集安
へは 9
1
1
1
1
1
1になります。 ともに、案内を兼ねての訪
で実地『背任した 。彦陽の文石落 ・日城、度ナト│の明活
問です。 l
OJには占林省の束、│綜 i
l・長I''lなどの鴨
111 城・~~: i
l
l
i守 展 示 館 敷 地 遺 跡 制 作 現 場 ・ 九 黄 l
i
i
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緑江
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1:日目1f:現場・│有 1
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仁城 ・南
くむJ!1辺地 I
メなどを訪れ、高句麗 .i
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城・ 1
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i城・ i
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i泊 i
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城を多く断作しました (これは大学の在外研修費に
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伴、大郎の不老制古墳群・ )
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辺i
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よります )0 1
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)J には、同僚の菅谷先生の手1' 1iJI:~~に
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JiE地域および I
完
封
一 ・主
1
1
春なと‘豆満江流域をふ
場、夫人 ~'F 、íf.}成 三 尊右京、$:城然 II !, /I, I白石 i;存・ rî
よる 1
1
1東約の釧鋭調1fに同行させていただき、 1
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椛1
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.)jl\:'U I:~fi'1 石塔 ・ 塔可ii\ J:ft1伴、 1 11 防 1M 撚谷.'J!.文石
能興 .
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朝 鮮 へ は こ こ し ば ら く 訪 れ て お り ま せ ん )、大学の
J-J)j 、 }fs( 州興 j去二子力J:、江陵下詩 ì~Jr'7tj'W'( .草堂 i
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J古 墳
研究資 ・ 旅~~で調査に行けるようになることを強く
群・傾注 1
1古墳群、 裏│陽湯陳 山
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t.芳洞
は、研究旅~'iが有効に{史え、外国を対象とする研究
111. 高句麗 I~î~良、ソウル風納洞遺跡、ほか多くの遺跡、を
者には使えないというのはおかしいと 思 っておりま
巡凡し、 ,
'
i代朝鮮 の歴史・文化の奥深さを実感した 。
す 。 昨年までは、わたし自身の科刷費が、外凶旅~'i
また、同立!主州問物館・慶北大学↑1
1物館・嶺 l
有文化
に使えたのですが、今年受領している利 l
J
i
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1'iは、外
財研究所 ・安東民俗博物館・忠州博物館・関東大学
|玉It~1f が使えません 。 上記の 8 回の旅行のうち、
M物館・江│凌大学博物館
3
・翰林大学│専物 2
1
3・江原大
|旦l は 1~11l(でした 。 特に韓国などは、医!内旅行よりも
学 時物館 .i
初林博物館などを訪ね、幌国研究者と情
むしろ安 く行けるのですから、何とかならないもの
126・人間文化
人・閏・文・化・通・信
か と 思 っ て お り ま す 。 同付
│ の調公は、初│吋で新たに
す。 じ ゃ あ ど の よ う な 身 体 に な っ た と い う の で し ょ
発見された 'F訂也岳の tlllff~ 石を、時 |王| の 11 1 城研究有と
うか 。 ]見代における身体の問題を論じたものです 。
ともに訪れました 。
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付行の、
もう 一 つ は 、 ほ ほ l
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司'[:,こなったのは、「高旬麗前期J
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岩波講座世界歴史Jl 9、岩波書),
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失われた身体を求めて-Jlに ト
「い ま こ こ で 身 体 は い か に 所 作 す る こ と が で き る か J
で す。 こ こ で は 、 い ろ い ろ な 祭 礼 や 儀 礼 の 見 開 を 通
1'Jに分け、それ
じ て 、 伝 統 的 な 所 作 を い く つ か の 矧j
11]うています。
らの本質的な志│床を 1
1
i1' 1一 I済斉 i漢英城時代における 二土七者都|目i の変足選~J
(
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ジアの到~ If,}と{~同 J
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1Jには│玉│際協力 L
J
i業
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生1
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JICA)の 依 頼 を 受 け 、 ス
リ ラ ン カ と パ キ ス タ ン で 、 文 化 財 保 u修 i
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1
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J
する
と仏教{ム*Jl古川弘文館)です 。 特に、 r i;UJ 鮮 I~Î 代
故新技術の向1\'f~'Íi;をおこなった 。
研究Jlは、わたしたちが点打1
1
でI
J
f
Jいている i
i
)
f究 会 の
パキスタンにおける文化財似作修復の現状について
5年 " に し て よ う や く 創 刊 す る こ と が で き
会誌で、 1
調命した 。
正年
ました 。 i
また、スリランカ、
3JJ にはいII;~~ 1
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JICA)のえ;化財保存修復
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Jの}三}とです 。
技 術 コ ー ス の 講 師i
の委, ;
Eを'乏け,アジアからの似│修
生 9人 に 約 2週間l
にわたり,保存修復校祁lの講義を
-栂原賢一郎(うめはうけんいちろう)美学、芸術学
的 年 も い ろ い ろ な 祭 礼 や 儀 礼 を 矧 ま し た 。え
nに、
n怖を象った!愉を l
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には、もう
l祭 と 呼
│年もすれば消滅するやもしれぬ、まさに:r
目
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しい、さざ♂なぎ流」の祭りを兄間しました
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には、 1
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1の 「 モ リ 供 長 」 に 参 り ま し た 。 I
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は、兵貌の而をかぶり、マジカルなステップを踏ん
で管場するケベスが、またたくまに、境内を
1
1
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uと 化 し て し ま う 、 大 分 県 は I
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q京 半 島 の 「 ケ ベ
ス祭」に R -~,:しました 。
卜 ')Jには、七 d干 の 長 蛇
を八人の干I
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jがずにもち、祭場をところせましとすf
J
おこな った 。
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には、シリア・アラブ J
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1パ ル ミ ラ のI
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4年から
実施してきた
F~J. ~~の光州i 訓千t が終
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i業を実施することになり、
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には、パルミラ i
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こな った 。 8}
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こ な っ た 。 │川内では,
「シリア・パルミラ追跡の J 出 I~. ~~の彼以的仰l 究」を
すすめ、現地での彼J
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(作 業 に )
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│映した 。
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う、シャーマニスティックなJ
反りをもっ、 J
急
十{
iMの
った│を俗り上げ、版築で!収を築いている 。 1
二黒
「 大 ]êtql~J に驚叫しました 。
に は 約 200mお き に 敬 介 が も う け ら れ 、 約 2kmお
また、Li l また山の秘
境 の 山1
'
1で 、 土 地 の 人 び と の 信 心 に さ さ え ら れ 、 き
きに城似
わめて柊然とした邦いを伝える、下çlll*j!!;l の村t !4~は仰
めのドl
L水を倣 d、した 。
尾の 「村上葉祈l
楽」に│泣 1
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しま した 。
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十l本の) 1;~1国1'1守な!ぷ'1'1
が築かれ、尿成には敵の仙移動を阻むた
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J にはフ
ランスにおいて 11 仏共同 I~II祭'手術 liJI 先
とはいったいなにか 」
をおこな った c 部t!i
の比較的総 f
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ということを、たえず考えながら、ときには'
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絡に、いろいろな場所を歩きまわっています 。
昨年は、いままで見聞したものを、とりあえず、ま
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毛皮 に 丈 部 省 科 学 制 究 費 の 交 付 を 受 け た
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とめる機会があり、 二 つのドl
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戟した、 「身 体 の 地 質 学 一 身 体 所 作 の フ ィ ー ル
科うよ!とコンピ ュ ータ J
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8年 度 報 告 書 Jに発表した 。
ドワーク
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人文
」 で す 。 現 代 は 身 体 の 変 符 の 1,
)代という
このほか、彦根市において日本ナショナルトラス
ことができます。 子どもの遊びも変わってしまいま
トから訓有伐の交付を受け、 J~ 恨の IIIJ なみの調査を
fども
進 め 、 ま た 、 近 江 八 幡 市 に お い て 近 江 市i
人伴庄右衛
した 。 た こ あ げ や お し く ら ま ん じ ゅ う を す る
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J松をたてたり
もほとんど見かけなくなりました。 [
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1
で見られてしまいま
人間文化 ・
1
2ワ
人・閏・文・化・通・信
チベットの女性聖人の什伝です。彼女は父がチベッ
-水野章二 (みすのしよう じ)日本中世史
これまで書いてきた日本中 │
止村落 ・荘閑に関する
ト人、母がネパール人、生まれたのはインドで、正
論文を 『円本 r
l
'
1
止村治とヰE
同j
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J
I
jJという著書にまと
規の僧院教育を受けていないにも │
期わらず、後半生
め、校合書房から 1
¥版する予定であったが、 j
全中何
は聖者として布名になり、多くの信者を集めました 。
度か '1 ' 断を余{義なくされ、事~iI,臼 000年 5 月 FIJ 行とな
彼女の自伝を調べることで、チベットの宗教文化の
った 。 これ以上遅れないとよいのだが。他に 『
地図
もつダイナミクスや、或いは仏教と女性性といった、
と歴史空間一 足利健亮先生追討論文集
興味深い、しかし踏み込むと恐ろしげなテーマの糸
』 に「版
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f
[
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JJの )
'
ef
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(
- I'
1
止成立 J
!
Hの近江から j を執筆、
8JJF
リf
]予定。環境問題に脈!と学的にアプローチを
口になるのではないかと期待しています。
試みたもの 。 j茅恨rI-i'とは J:lUi~と料編の FIJ 行に向けて
おいて 「モンゴル I
J
qにおける仏教リヴァイバリズム
)京杭執筆中。
について」という出題で発去をしました 。
学会活動としては 5r
J
の H本民族学会研究大会に
J1
1
本年度から県立琵琶湖博物館・>;(都大学の│お )
とともに、 1
1
1
門領木津荘
U
J
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I
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J)の現況調査を、
-東
幸代(あすまさちよ)日本近世史
新旭1
1
町教育委1.1
会協力の│ごに I
J
i
J始。 2
0年 l
i
Tに凶場整
"
l
三が経過しました。授業
昨年 8Jに着任し、約 l
J
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:
1
'
f1'iの記憶はまだ鮮
や学外実,J
{等で学生と接する機会を早々に得て、は
備が終了した地械で、あるが、
-~11 レベルの水利システムや俗称地名、
じめはとまどうことばかりでしたが、ょうやく "
1分
伝統的な川水 慣行、集 i
会の祭雨Eや葬儀・幕 i
l
i
l
jなどを
のペースをつかめるようになってきたところです。
I
:
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Jき取り調 1
fし、得られた歴史 '
1
'
;
'
)淑をカード化し、
これまで、江 )-'- 1時代の対後地域(};~都府北部 ) の
1
止・近
漁村史を研究しており、昨年は 1
2
;
i
主務役人の漁業制
明で、田地
4
1. 000 分の l 地 j l~ 図に記録した 。
その上で ~I
│止史料との突き合わせをわい、地域の歴史的変遷を
,
(
(
¥
#
1利用秩庁,の変容との関係について
と、漁師問の i
!
l
j
Jらかにしていきたい。土地に主J
Iまれた J
f
t史情報は
の論放を発表しました。 また、かつて漁獲物の流通
すでに耕作者の記憶の中にしかなく、耕作者の死亡
について発表した論放をもとに、現地で講話{会を行
は直ちに p~ifI な史料の iì'íì滅につながる 。 出来うる限
う機会に豆、まれました 。現在も漁業が重要な生業で
り多くに地域でこのような記録作成を進めていきた
ある地域だけに 、背さん大変興味をもって聞いてく
い。 なお中央大学を幹事校とする汁波固山国荘 (
京
ださいました。夜の懇親会でも、ご先祖と漁業との
ヒU1J)の共同研究なども開始され、歴史的景
総府京 1
かかわりを熱っぽく語る方、江戸時 代の問題を現在
観の調査を担、i
I。参加した院生 ・学生にもよい刺激
の漁獲物流通がかかえる諸問題に 引 きつけて語る方
になったと 思 う。
等、様々な方々から様今な反応、が何られ、大変楽し
1月に i
'
'
I
制
、 2月に特 i
王│
の伝統的村落の調査を行
く過ごさせていただきました。学生の頃から古文書
ったが、 日本 「
本土」の村落を考える上で非常に参
閲覧等でお世話になっていますが、お こがましくも
与になった 。東アジア全体の中での 日本の特質を考
こんな形で地域にご思返しができ、 研究 をするもの
¥
'
f
'
-.
中 国の勉強もし
えるために、今後も継続して朝 f
として大変嬉しく思いました。
ていきたいと 思 っている 。
これからは、近江の研究もすべく、 現在は本学部
が購入 ・所蔵している堅 田浦 (大津市)の古文書の
-棚瀬慈郎(たなせじろう)文化人類学、チベット学
この所毎年夏には 、モンゴルやチベットといった
整理を行っています。 なにぶん独りで行っています
涼しい場所へ行くのが '
I
'O!:例となっていたのですが、
研究の進展 に寄 ラできるようにじっくり取り組んで
ので、笠理がな かなか進みませんが、琵琶湖漁業 史
今年は久しぶりに ー夏を日本で暮ら し
、 暑さに耐え
いきたいと 思 ってい ます。 また、昨年の秋には、高
ながら文献を読んで、過 ご しまし た。今とりくんでい
島郡新旭町 の旧木津荘域の聞き 取 り調査に参加し 、
るのは、 1
9世紀半 ばから 2
0世紀の半 ばまでを生きた、
近江の村社会に触れ る良い機会を得 ま した。
128・人間文化
-編集後記・
2向 日 の 卒 業 生 を 送 り 出 し 、 ま た 新 入 生 - 新 院 生
を 迎 え る ぷ に な っ た。
この冬は前半が異常な暖冬だったために、キャベ
ツ の 青 虫 が 大 抵 発 生 し て 大 変 だ っ た が 、 後 半 の 大雪
をともなう冷え込みで一掃された。交流センター前
にあるモチノキの大木も小枝についたカイガラムシ
が減り、少し元気になっ たように見える 。 はからず
も冬の厳しさの大切さを認識することになった。 お
そらく 4月 は 、 例 年 に な く 花 々 が一 斉 に 咲 く 晴 れ や
かな春になるだろう 。
#
i
院 生 諸 君 、おめでとう 。(黒田)
新 入 坐 ・J
編集委員・
黒田末誇而矢慎介.
j
)
j
i
f
本知憲・竹下秀子 ・棚瀬慈 郎
i
E
工・町なみの席最 (
3
)
甲良町下之郷の割取り(かっとり)
出Jm の ~IU目的な J)!i 1'J J長潟である叩良同l ド之郷では、集 i 存|付
を水路が流れ、法ちついた出l
いに満 ちた景観が見られる 。水
JI
!から引き込まれた民業川水は、集;存の中を流
源であるよ J
I
皮し凹J:
I
Hに
ノkをもたらしてきた。
れ、幾i)};にも分!
11
に平等に水を配分する
各水路の分岐点には、その先の[lJ:
ために 、
1
.
11力1のI
(
U般に比、じた割合でユ正維に水路幅を分割する
ための I~判取り」と呼ばれるしかけが設けられた 。 木路を分
ける,[バt
i
みの岐を設け、その先端は三角に自 1
)られ水路の分割
点を指し小す。 どのような割合で水がそれぞれの木路に流れ
込んでいるか
1
=1
!欧然である 。
1
川が多く 、周辺の農村では洪水と J
tに少し
近江の川は天 )
日照りが続くと水枯れにも大いに悩まされ、かつては上流と
下流の集務 1
i
'
r
Jでしばしば激し い水争いが繰り返 されてきた。
その限られた水を f等に分け合うという考えが、集落内で徹
底されていたことが分かる 。岡場整備が進み、
J
J
1イkではこれ
らの割取りもその役割を徐々に失っているが、水をめぐる先
人達の主!!!むと l
u
)1Iれこ、かつての益活の厳しさをも J
u
i
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)
比る思
いがする 。
写真 ・
文 /!
I
!収 周
人間文化 8号
滋賀県立大学人間文化学部研究報告
発行日
8号
2000年 3月 31日
発 行 滋賀県立大学人間文化学部
〒5228533滋賀県彦根市八坂田J2500TEL0749-288200附
印刷
発行人杉本悦郎
サンライズ印刷株式会社
本誌は再生紙を使用しています。
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滋賀県立大学
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