人rdl玄化 - 滋賀県立大学

滋 賀
人
県 立 大 学
間
文 化 学
日
音
研 究 報
/
人r
d
l玄化
2004.3
自
町
4..
。
ト
SCHOOL OF HU M A N CULTURES
THE UNIVERSITY OF SHIGA PREFECTURE
壬ヒ
仁1
-もくじ・
巻
頭
言/小林清一
・
ー
・ー
ー ・ ー・・ーー・・・・ー・・・….......
.
.
.
.
.
.
..
1
.論文
高島町勝野の古式水道
引水のしくみと共同利用の形態 /渡辺大記
.
.
.
.
.
.
..…
2
「明治・模範村 [
宮 村山 の 人 と 水
一 農 業 日 誌 は な ぜ 書 か れ た の か 一/ 岡田玲子・・・ … … ・
…….
.
.
・
・2
7
-調査報告
進取と望郷
力 ナ 夕、移民滋賀県人会の聞き 取 り 調 査 報 告
.
.
・
・
・
・
・.
4
4
/ 近 江 商 人 研 究 会 ...
-滋賀の考古学第
4回
4
滋 賀 県 の 製 鉄 遺 跡 調 査 の 現 状 と 課 題/ 大道和人・ー・・・田・・・・・・田.-7
-生活デザインの現場かう
第 2回
木匠塾の試み
木造文化の再生と循環型ものづくりをめざして /山根 周
79
-人間文化通信
日 本 考 古 学 協 会 2003
年度滋賀大会報告
・.
. ・… ・
.
.
8
4
人 間 セ ミ ナー ・ ー
....
.
..
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..
..
..
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...
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.
..
.
.
..
.
..
・
・
・
目
・
・
・
・
・
・
田
・
・
・
・
・
・
目
・
・8
7
退 官 メ ッ セ ー ジー
.
.
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.
.
・
• • •• • •• • •• • • •• • •• • •• • • •• •.
.
…
2003年度卒業論文 -修士論文・博士 論 文 覧
INFORMATION.
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ー
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・
ー
ー ー
ーー
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8
9
••••••••.
…9
0
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.
.
9
5
ー
編集後記
-犬上川・
滋賀県下の川は大小あわせて 4
6
0あり、県外に流れ出るのは瀬
田川と人工の琵琶湖疏水のみでその他の河川はすべて琵琶湖に
注いでいる 。一級河川の多くの川の名称は郡や古代豪族の名で
あったり、その歴史を垣間見せてくれる 。犬上川も古代名族の
犬上御回鍬であると想われる 。 さらに犬上の由来を探れば伝説
では日本武尊の子稲依別命であり 、それは稲の神であると言わ
れている 。草津市内の狼川 (
矢橋町老上) も同じように大神に
語源があると想われる。その ことはとにかくとして犬上川は河
口に至るまで鈴鹿 山中 の植物や小動物が数多く見られる 。 また
川は魚、の産卵場となっている 。 さらにまた伏流水は十王の名水
として知られている 。古代から農耕社会として早くから開かれ
ていたと想われる。 こうしてみると犬上郡地域の人たちは山・
川・湖と密接に関わって生活圏や文化圏が形成されて来たと 言
える。
サイズ 9
1
.0
cmx7
2
.
7cm 麻、岩えのぐ、箔
絵・文/安土優
口
一
一
林
人間文化学部
日連肩
番 露
子
かす
学部長
昔のことだが、ある教授が会合に遅れてやってきて、南アフリカ
のさる研究所の所長を接待していたのでと遅れた理由を説明した。
つづけて、この南アからの来客が、当時実施されていたアバルトヘ
イトを弁明して、 「
黒 人を平等に処遇すると経済成長率が低下する
から」といったと、その教授は不愉快そうに語ったのだが、同時に、
思わず、知らず、 「
成長しなくても良いではないか」 とポロッと口走
ったのだ。 この体験は、何十年かたって、今の私たちの状況に重ね
合わせてみると、気軽な逸話で、はすまないものとなっていた。
アメリカ的グローパライゼイションは、国内競争と匡│際競争を直
接的に連結した。 このことは、競争が無限の連鎖を帯びることを意
味した。生 き延びるには、全ての競争者を凌駕しなければという強
迫観念が私たちを 支配するようになる 。あるいは不分明な国際的要
因が、しばしば国内的条件を方向づけ決定する 「
錦の御旗のような
根拠」とされることにもなる 。南アの事例は巽なった形であれ、萌
芽的にこの関係を示唆していたのである 。
競争は弱者へのまなざしを備えて、初めて持続するゲ ームになる 。
現在の社会変動の震源地であるアメリカにおいてさえ、 一方で、「競
喧伝しながら、他方ではアファーマティブアクションを
争原理」 をI
とらざるをえなかったのである 。
しかし囲内的要因と国際的要因の同時決定ということになると、
これまでのように問題は ー固では制御できなくなる 。 この困難性が
現在の先行き不透明な展望と深刻な社会的疲労感を生みだしてい
る。新たな条件に基づいた競争と平等の新しい発旬、が是非とも必要
である 。
18 世紀のあ る 思想~ 家は、急激に 進行す る競争の拡大深化を見て、
「
適度なリズム J"
[
バランス J"
[
穏和な理性の戸 J[
"l
ri
J
;
l
rJに 「
幸福の
条件j を求めた。彼を現在に置くととのように語るだろうか。進行
中の大学 「
改革jの 1
1
的は、支配的な社会的イデオロギーに大学の
システムを適応させることだろうが、部分的にでもそのレベルをこ
忠を、大学は
えて、新たな競争と平等の 原理を提起できるほどの主n
もちたいと思う 。
人間文化・
論文
高島町勝野の古式水道
引水のしくみと 共 同利用の形態
渡 辺大 記
人間文化学研究科地域文化学専攻
博士前期課程 1年
、
1.はじめに
v
,
J
J
21
世 紀 は 、 水 の 世紀であると 言 われている 。 日本
9
6
0年 代 の 高 度 経 済 成 長 期 に 普 及 し 始
の水事情は、 1
め た 公 共 上 水 道 に よっ て 急速 に変化 した と言 え る だ
ろう 。 こ の 結 果 、 地 域 を 間 わ ず 、 飲 料 水 を 含 め た 生
f
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、戸
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本論で取り上げるのは、滋賀県高島郡高島町勝野
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の水 利用の例である 。 この地 域 の 生 活 用 水 は 、 山 水
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1白河遭い
1
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mい て 、 水 源地 か ら 各
、,
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、 " 郭調書島区
日芭神社
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下
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竜宝
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と初水の二 つ の 系 統 に 大 別 で、きる 。 こ れ ら は 両 者 共
に、古 来 よ り 石 や竹 製 の樋 を
一
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る 水 の 利 用 者 に す ぎ な い の で は な か ろ う か。
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与
日
、
った 。 人 間 は 水 と い う 製品 に 対 し て 、 そ の 使用 量 や
仰i
絡 に科金を支払 う。 現 代の生活では、 人 間は単な
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ぜケ ー/
←
、
安 定供 給や質を 追 求 し た 製品 の側 面 を 持 つ よ う に な
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、
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」
、
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く販売されている 。 こ うして、現代社会では、水は
軒目 、 可
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らに 現 在では、 飲 料 水 は ペ ッ ト ボ トルに詰められ広
、、
一 望1.\:~ ;
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国 わず
,
活用 水 を 便利 で快適に得る こ とが可能になった 。 さ
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勝野
港
、
、
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'、
近江高島駅伝
家へづ │
水する 形 態 をとってきた 。 それゆえ 、 何軒 か
,
織山 台 、
¥
1問 を組み 、 共 同で 維 持 管 理 を し な が ら
1
r
が集ま って 1
骨格
U
',,~
水 を利 用 してき たのである 。
1
ヘ¥
1喚
一般 的 な 井戸 に よる地 下 水 の利用に 加 え て 、 引 水
¥
という形で人間]と水 と が か か わ っ てきた地域には、
ど の よ う な 営 み が 存 在 し て き た の で あ ろ う か。 本 論
では、
,
‘;
(
図 1 高島町周辺地図
J
券野における水利用の実態を聴きとり調査に
基 づ い て 、 系 統 別 に 述 べ た い。 そ こ で は 、 水 を め ぐ
っ て ど の よ う に 共 同 利 用 さ れ て き た の か が語 られ
る。 さらに、これからの人 間 と
/
)
<
と のかかわりにつ
の整備が行われたのである 。
梓j
径があり、琵琶湖の舟返で栄えた。
勝 野 に は 大i
いて、若干の考察を 加 えたい 。
さらに、 │
経路である 西 近 江 路 が通 り、古 く か ら 物 流
2
. 高島町勝野の歴史 と現在
9
2
7 (昭 和
へ 江 若 鉄 道 が 延 び、 1
の 中 心 地 で あ っ た。 昭 和 に 入 る と 、 大 津 か ら 高 島 郡
(
;
:
¥i
訓I
Jは 、 琵 琶 湖 の 西 方 に 広 が る 高 島 郡 内 の 最 南
カつの
2) 年 に は 大 溝 駅
Y
i
t
のI
I
J
(
後 に 向 島町駅 に 改 称)が で き た。 当時の大i
端に位置し、勝野は高島町│
人jで 最 も人口が集中する
は、大津や京者1
1
方前i
への高島郡の玄関口として、活
集 落 で あ る。 こ の 周 辺 は 古 く は 大 講 U呼ばれた地域
況を呈していたという 。 しかし 、 路 線 は 1
9
3
1(
昭和
J
;1;みぞ
しんしょ q
で 、 か つ て は 大 溝 城 が あ った。 こ れ は 、 新 庄 城
6)年 に は 、 郡 北 部 の 今 津 ま で 延 伸 さ れ 、 大 講 の 町
(
現 在 の 新 旭 川 内 ) に い た 織 間信 長 の
j
!
}
j
である、織
が持 っていた集客機能は相対的 に分散してしま っ
のゆずみ
日l
信 澄 が 大 潟 地 方へ移り、 1
5
7
8(
天正 6) 年 に 築 城
f
こ。
した ものである 。 城 跡 に は 現 在も 、 当 時 の 石 垣 が 残
現 在 で は 、 県 の 出先機関や郡の消防本音1
¥
など、行
る。 勝 野 の あ た りは 、 比 良 山系 か ら の 山並 み が 琵 琶
政 機 関 の 中 枢 施 設 は、概 ね 今 津 町 に 置 か れ 、 商 業 機
湖l
に迫 る地 形 で あ り、軍事」二の利 点 を 考 慮 し た もの
能も大型小売庖告i
I
iの 集 まる、高島 町 に北 接 す る 安 曇
と思 われる 。大 溝 城 の 築 城 と 共 に 城 下 町 が 形 成 さ れ、
川 町方 面 に 移 り つ つ あ る の が現 状である 。
ひ勺
みなみいち
城下のl
般人 I
U
Jには、旧城下の新庄や南1'
1
1(現 在 の
安 曇川 町内 ) か ら 住 人 を移 住 さ せ た 。 その後、
わ け べ みつのか
1
61
9
(
元 和 5) 年 に 分 部 光 信 が 伊 賀 上 野 か ら この 地 に 入
封 し 、 2万 石 の 藩 主 と な っ た 。 こ の 時 に 再 び 城 下 町
2
-人間文化
3.古式水道と勝野における水利用の系統
3-1 滋 賀 県 内 の古 式水 道
現代の上水道システムには、 欧 米 由 来 の 有 圧 式 が
高島町勝野の古式水道一 引水のしくみと共同利用の形態 ー
取り入れられているが、こ れに対して、近代化以前
時代 に内掘に囲まれた 陣屋があ った場所で、その外
に水源地などから引水していた水道のことを 「
古式
水道」 と言 う 180
側には武家屋敷があり、そ こは外堀に閉ま れ、町人
この古式水道につい て滋賀県内 の事例を挙げる
れる山水は、古くから何軒かの家々が集ま って、共
と、彦根や長浜、大津などには、水源地を設け、そ
たけひ
こか ら竹樋や土管を 用いて引水し、各戸へ配水する
が住む地域とは区別されていた。郭内地 区に引水さ
同でその維持管理をしてきた。 ここでは、 そうした
共同組織のうち、現時点で最も加入軒数の多い、
古式水道が存在していた。特に、そ の規模などから
「日吉山山水組合J(
以下、山水組合と書く ) を例に
して有名なものは、近江八幡の古式水道である 。八
述べることにする 。
ひでつく'
幡 (
現在の近江八幡市)は豊臣秀次の城下 1汀であり、
0
0メー トルほ
この山水組合の水源は、集落から 4
6
0
7
近江商人発祥の地の 一つで、ある 。 この町には、 1
ど南に行 った日吉村l社績の日吉山の山中にある 。標
(慶長 1
2)年に創設さ れたと伝わる古式水道が現存
高は、集落から 30メートルほどの 高さである 。そこ
し、今も 利用 されている。 1
9
33 (
昭和 8)年当時、
1
.
1
]
か
ら 二筋に分かれて 山水が流れ出ており、
は岩の :
八幡の町にはおもの給水系統があ った 2。
右側にある筋の水量が多く、年間を通じて水量;
にほ
また、彦根の古式水道は、彦根城の城事¥
1
内にあり、
表御殿と槻御殿では泉水に、武家屋敷や 町
│家では、
とんど変化はないのだという 。
水源岩から 5メートルほど下流には、 「上の 沈砂
コンクリート製の 凶角 い池)が設けられてい
槽 J(
主に生活用水に使用されていたようである
高島郡内では、朽木村の市場地区に山水を水源に
る。 これは砂を沈殿させる設備である 。大きさは
した古式水道があった。市場地 区は 、京都から福井
1
1
0x1
6
0センチ、深さ 5
0センチで、 U
J水は i
t砂捕 の
方面へ抜ける街道筋の宿場町で、明治則 の創設と伝
短辺から入札反対側の欠き取り部分から、オ ーバ
わる古式水道は、 比較的小規模ながら、現干Eでも使
[まっ
ーフローして出て行く 。実際はほとんと砂で }L
われている
6メー
た状態であ った。 この沈砂槽を出た山水は、 3
3-2 勝野における水利用の系統
下流にある
l
!
1
1
の流れと合流 し、さ らに 2
2メートル
トル下流で、
左l
!勝野の集落における水利用 の系統は、水源によっ
I
/
I
Jの沈砂槽」 に入る 。
t砂械」 までは、自然の水の流れを利
この 「中の i
て三つに分類できる 。それは、
① 山水系統
南方にある 山水を引水する
②湧水系統・・・自噴している湧き水を引水する
③井戸系 統 屋 敷地内に井戸 を掘る
である 。 このうち 、地下水を利刑 しているのは湧
J
;
t
地から引水す
水系統と井戸系統である 。 さらに水 i
る形態の古式水道は、 山水系統と湧水系統の2種類
であり、この両者は、それぞれ異な った}J式で引水
されてきた。以下、それぞれの系統について具体的
に述べることにする 。
写真 1 山水組合の「上の沈砂槽J
写真上奥が水源の岩組み。このほかに二つの沈砂槽がある。
4.山水(系統①)
4-1,山水の水源地
1
事野の集落の南方に位置する
山水引水の水源は、 I
ひょし守ま
にある 。 E
I
吉山は西方の比良山 系から琵琶湖に向か
用 したものであるが、 ここからは、地中に :
H
R設され
函養水が豊富
つて延びる山で、その奥深さゆ えに 、i
た焼き物の土管の中を導水される構造にな ってい
であり、古式水道の水源、 として適し ているものと思
る。
j
尤砂槽はもう 一つある 。麓の里道近くにある 「
下
われる 。
3
i筒,
J
山水系統は、勝野の集落内でも、 主 に 「
と呼ばれる地区へ配水されている 。事1
¥
内とは、分部
の沈砂槽」である 。 この沈砂槽は、構造がほかの 二
つとは異な っていて、 三つの槽に 分かれている 。最
人間文化・
3
高島町勝野の古式水道一 引水のし くみと共同利用の形態 ー
- 日吉山山水組合系統
.
.
.
. 郭内上組用水系統
掴 駅前系統
O
立ち上げ ・会所
d
乙女が池
図2
¥
/
、 ミ ー と山手地区への水源地
山水系統地図
も深い柚i
では9
0センチある 。水源の岩私l
みから、距
四つの小水機ごとに違っている 。 山水組合では、小
自I~ にして 130 メートルほど下ってきた山水は、こう
水槽ごとに組が形成されており、小水槽は一つの配
して麓へ出る 。
水系統にな っている 。現在、山水組合には l
組から
かつて、麓の一帯には棚田が広がり、山から延び
た配管は、水田 地帯を縦断しながら、集務の方へと
イ
1
1
1びて いた。 しかし、現在、この水問地帯は住宅地
4組までの組があり、各組の構成メンバーは、近所
ごとに集ま っていると言って良い。
ところが、四つある小水槽のうち 一つは、現在は
にな っている 。1998 (
平成 1
0)年に完成した区画整
使われていなし、。これは、 高島駅前に 1958(
昭和33)
理工事で、 l
LI
J
.
K引水の配管は、新たに造られた大通
年、公立高島病院ができて以来、この病院が4組と
りの歩道に沿って埋設し直された。
して小水械を持ち、長らく 山水を敷地内 の池などで
配管は、最も古い時代は竹製だ、
っ た。水源地から
使用していた。 この病院が近年、 1
1
1水の引水をやめ
後述する 「
立ち 上げJまでの竹値は 1956 (
昭和31)
たからである 。 しかし、 4組を構成していたのは、
年よりも早い時期に、焼き物の土管に交換され、さ
高島病院だけだったため 、中 1
1:後にほかの各組を 蒋
らにスレート製のものが用いられたという 。スレー
編成する必要はなく、 5組を 4組として繰上げ改称
ト製のものは、重さと加工の容易さの而で難点があ
しただけだ った。
ったが、長さが取れて耐久性にも優れていることか
なお、現在の 4組(旧 5組)は郭内地区ではなく、
ら、重宝されたという 。その後間もなく、ビニール
管(続化ビニール管)が使われるようになった。
4-2 山水の分水方式
山水は、郭内地区内で分水される 。 この分水・分
た あ
Ji皮施設のことを地元では、 「立ち 上げj とか 「
立ち
上がり 」 と呼んでいる 。
山水組合の一番目の 「
立ち上げ」 は、レンガ積み
の七台の上に、コンクリ ート 製の水梢を世いたもの
である 。その上部の構造は、 一つの大きな水槽(以
下、大水糟と書く ) と凹つの小さな水槽 (
以下、小
水梢と書く ) に分かれている 。 山水は、まず大水槽
に入り、次に小水槽に分かれて入る 。大水槽と小水
槽とは、数本の鉄管でつながって お り、鉄管の数は、
4 -人間文化
写真 2 山水組合の「立ち上げ」
レンガを積んだ土台の上に水槽が載っている。山水はとこで
各組へ分水される。
高島町勝野の古式水道ー ヨl
水のしくみと共同利用の形態
2組
(2軒)
写真 3 .r
立ち上げJ上部
大水槽(写真左)へ落ちた山水は、口数と同じ数の鉄管を通
り
、 各組の小水港へ入る。
図3
みなと
立ち上げj構造図
大i
溝薄港周辺の 港
1 巷地区の住民で
車
fの組でで、ある 。
点で組合内最多の構成軒数 8軒
したがって、山水組合で、現在使用されている小水
槽は三つだが、実際は四つの組が存在している 。 こ
れは、 2組が小水槽を経ずに、大水槽の両端にビニ
ール管が直結されているからである 。つまり、この
配管自体が一つの組に相当する 。 このように、 「
立
ち上げJは分水・分岐設備であるが、複雑な構造に
なっている 。
こうして、小水槽ごとに分水された山水は、道路
に埋設された各組の配管を通って各戸へと配水され
る。 よって、組内においても家ごとに分水する必要
がある 。各家への分水は、各組の 「
立 ち上げ」 で行
われる 。各組の 「
立ち上げJは、「立ち上げ J(レン
ガ土台) を小規模化したものである 。 ここで U
J水は
最終的に各家へと分水されている 。
4-3
.1
口数
」 によ る山水分水
山水組合で、は、 「口数Jを基準に水を分けている 。
口数とは、大水槽から小水梢へつながっている鉄管
の数を表し、鉄管 l本が 1
1ヶ口 j 分である 。つま
り、その組の構成軒数にかかわらず 、分水の権利は
口数によって、決まっているのである 。
例えば、 4軒の家で構成されている 3組は、 「
立
ち上げ J(レンガ土台)で小水槽には2本の鉄管が入
っているため、
2ヶ円分の権利を持っている 。 とこ
ろが、各家が 2分の 1ヶ口ずつを均等に持っている
1*
1
'
が 1ヶ1
1を、残 りの
3軒はそれぞれ 3分の 1ヶ口ずつを持っている 。
日数の分配について、郭内地区は武家庭数のあっ
のではない。 4軒のうち、
たところであり、創成 ~Jーj には各家にどのような割り
振りがなされていたのかなど、興味のあるところで
あるが、 L
U水組合では資本│を欠いており、詳細は不
明である 。
では、各家によって口数が異なっている状況は、
どのようにして生じたのか。 2組のある家を例に挙
げると、かつてこの家は 2ヶ口を持っていた。 とこ
ろが、向かいに引っ越して来た家が、山水の引水を
希望したため、
2ヶ口のうち、半分の lヶ口をその
家へ譲渡した。 日数を譲渡してもらった家は、長ら
く lヶ口を持っていたが、その後さらに別の家へも、
その家から lヶ口の半分に当たる 2分の 1ヶ口を譲
i
度した 。
つまり、 2組の構成軒数は増えたものの、現在も
口数の合計は変わらないのである 。 山水組合の口数
の合計は 1
5ヶ口(平成 1
6年現在)で、口数の総数に
ついては、 2003 (
平成 1
5)年に明文化された規約に
も
、 「
立 ち上げJ(レンガ土台)における口数を増や
す新規加入はしないと決められている 。
これは加入者を増やさないというものではない。
限られた口数を分け合うことで、加入者の増加に対
応するということである 。
しかしながら、上ぷ道のなかったころには、山水
は生活用水の主体で、あり、現在のように簡単に口数
を譲り渡すことは稀だったと思われる 。 また、転
1
/'
,・転入する家の数も 、税干上ほどではな く、転入し
た家が新規加入することは頻繁にはなかったと思わ
れる 。
1
1数による水の分配は、今卜│の上水道に兄られる
ように、新規加入者は 1
古│人的に引き込み管を敷設す
れば済むということではない。 口数を分け合うこと
で、そこに 「
譲る ・貰う 」 という関係が牛ーまれる 。
この関係 は、組員それぞれの立場で、お互いに同じ
1間として、助け合いながら山水を維持管理してい
1
1
'
く意識を深める作用を持っているのではなかろう
か。
現在の事日内地区のうち、分音1
1
1時代に武家屋敷があ
ったところは、近代以降は凹んほと化した土地が多
い。 このあたりは、勝野の集落の中心地に隣接し、
駅や商庖に近く、利便性の面でここへ土地を購入し、
人間文化・ 5
高島町勝野の古式水道一 引水のし くみと共同利用の形態 ー
同じ勝野から移り住み、家を建てる人も少なくない
る音と共に、勝野のゆたかな水の風景を創り出して
という 。 しかし、現在では、転入してきた家には公
いると 言 えよう 。近年、増加 しているハイカーや城
共上水道が敷設されるため、山水を新たに引かなく
下町の散策で訪れる人たちにも、こうした雰囲気は
ても良い。
風情として捉えられているようで、山水自体の美し
しかしながら、若い人はともか く、年配の人は、
さと共に、好評なのだという 。
鯉などを自宅の庭の 「いけす」で飼うことを好んで
行う人もいる 。 また、家を建てた時に、庭も同時に
造ることが多い。 こうした庭にも池が設けられるこ
ともある 。
4-4.山水の維持管理形態
竹樋時代の維持管理で、最も苦労したのは、漏水
、
だ った。昭和初期ごろの話として、 「また山の水が
山水は、水量や水質の変化がほとんどない。山水
噴いたようだ。 どこが噴いてるのか、ちょっと見て
を 「いけす」へ落としておくと、エアー設備は不要
来い」と 言われて、まだ 6、 7歳だった自分が、地
で、水にカルキ分も含まれないため、1.1;(を飼うには
面を見ながら漏水の箇所を探しに歩いたことがある
最適である 。 また、絶えず流れる山水は、庭の泉水
という話を聞くことができた。漏水すると、末端で
用にも好まれている 。
は水が網1り、すぐに分かるのだという 。
ところが、地面へ水が噴き出ている箇所を発見し
真下を掘 っても、水は地中の弱い音l
r
分を伝 って地上
へ出ているので、必ずしも配管の漏水筒所に当たら
ないのだという 。
ごく初期には、漏水時の補修作業には構成以が出
ごろの話
役する決まりだ‘
っ たのだろうが、 l
I
Ei和初期1
として、子どものころに漏水箇所を見つけると 「
工
事屋のおじさん」 に言いに走ったとの話もある 。組
ごとに巡 っていたのか、このころから 業者への依頼
が多か ったのかは、定かではないが、 「
工事屋 のお
じさんjは、配管ルートを把握していた、│司じ地域
内の顔なじみの人物だったという 。
写真 4 庭の泉水
山水を引水している家には、こうした泉水や「いけすJがあ
るこ とが多い。(木津省三氏宅)
f
i
去には 2種類あって、漏水箇所を補
漏水の補修 }
修する場合と竹樋自体を交換する場合があった。補
Kを止め、
修で済む場合には、水源地や立ち上げでフ'
ぼろきれにセメン トを塗りつけ、これを竹樋の漏水
1.~{を飼うことや、庭に池を造ることに地域の人た
筒所に巻きつけ、両端を縛り、さらに純で巻き固め
ちの関心が強いのは、この地域の風土 というか、土
た。 こうして半日ほど回まるのを待ったという 。一
地柄というべきか。ある家では、創!を釣 って来た近
方、補修では済まず、竹樋自体を交換する場合には 、
所の人が、「お造りにして食べてお くれ」 と 「いけ
漏水筒所の竹樋を切り、その間に新しい竹樋をはめ
挽経っと鯉が可愛そ
す」に鯉を入れて帰ったが、 - 1
込み、つなぎ日には補修作業の場合と同じような方
うにな ってしまい、結局今でも 「いけす」にその鰹
法を施した。竹は加工性が良く、作業も容易だ った
を飼い続けているとい った話も聞 くことができた。
という 。漏水時の補修作業で地面を掘ると、竹樋に
こうした背景で、現在でも転入してきて家を建て
は過去の補修箇所やつなぎ目の音1
I
分の施工信i
T
f
rが癒
のようについていたという 。
ると、山水を引くことを希望する家があるのだろう 。
さらに、口数を持っている家も 、現在では上水道が
「
立 ち上げ J(レンガ土台)より末端の配管には、
あるため、山水は持て余し気味であることが多く、
前述のように 1956 (昭和 31)年まで竹樋が使われて
比較的気軽に口数を譲ることが可能なのである 。
いた 。 しかし、 「工事屋のおじさん」 が亡くなり、
しかし、各家の山水利用は、単なる個人的な趣味
ビニ ール管が普及し出したことから 、 これを期にビ
の域に留まるものではない。手入れされた庭や泉水、
ニール管への交換が行われたという 。その後の漏水
1
1水が流れ落ち
さらに 「いけす Jに飼われた鯉は、 1
はほとんどなく、落ち葉時期になると、各組の代表
6 ・人間文化
高島町勝野の古式水道一 引水のし くみと共同利用の形態 一
者が集まって、水源地 まで掃・除に行く程度だったら
しい。
現在、山水組合が抱 えている 問題は二つある 。一
つは 「
立ち上げJ(レン ガ土台)からオ ーバーフロ
山水組合では、道路拡張時の補償工事などを除い
た、日常の維持管理費や年貢などの経費に、行政か
らの補助などは一切受けていない。全て 地域の人た
ちが自主的に運営しているのである 。
ー した山水が、 i
詐へ流れずに近 くの 田んぼに入り込
んでいることである。 二つ目は、水源地付近を全て
4-5.家庭における山水利用
配管による導水にするものである 。 これは、構成員
さて、この山水は家庭ではどのように利用されて
の高齢化 を考慮し 、足場の悪い水源地付近での保守
いたのだろうか。古くから 山水を 利用している松下
点検の手間を軽減させるものである 。 この三つの改
芳子さん (
8
1)が以前住んでいた家 (
昭和初期のも
修工事が近々行われる予定である 。
の)を例に述べる 。
こうした工事は、専 門業者に依頼されるが、万が
山水はまず、道路に埋設された配管から屋内の流
一、ビニ ール管の漏水が発生しでも、アスフアルト
し場へ引き込まれ、 「
水ため」と呼ばれた水槽に竹
舗装された道路を、自分たちで開削することは不可
樋から落ちていた 。水源地から 「
立ち上げJ(レン
ガ土台) までは、竹樋は早くからビ、ニール管に交換
能であり、専門業者へ依頼する ことになるだろうと
いう ことであった 。
9
5
6(
昭和 3
1
されたが、末端部では前述のように 、 1
現在、修理を依頼される水道工事業を営む今西仁
:
4
:
:) まで竹樋が使われていたという 。竹樋のつなぎ
5
6)の話では、水の分水や分配については、
さん (
目や分岐点、屈折部分には、松の木の角材を竹が差
古くから決められていることで、その権利関係など
乎ばれた部材が
し込めるようにくり抜いた 「
枕」 とH
複雑な面があるだろうということは、後述する湧水
使われていた 。枕が腐ると、 「
工事屋 のおじさんj
系統で、井戸仲間の一員として古式水道を維持管理
にその部分に合った枕を作ってもら ったそうであ
してきた経験などから、実感と共に良く承知してい
る。
るという 。
そうしたことで、外部の者がこうした引水施設の
流し」があ
「
水ため Jの棋には炊事などを行う 「
った。「流し jへは 「
水ため 」から柄杓で汲んで利
修理にかかわる時、特に「立ち上げ」の修理時には、
片1
していた ので、「
水ため 」の枠に棒を渡し、柄杓
気を使うのだという 。小水槽から出る配管の高さや
置きにしていたという 。山水引水では、水源地が高
位置を触ることには跨踏するそうで、 「ただ配管の
所にあ り、水には相対的に圧力がかか っていて、水
漏れてると ころを直せと言われれば、はいと 言って
聞はかなりの高さまで上がる 。 このため 「
流し 」で
直しますけども 」 と苦笑いである 。
の炊事 は立 ち仕事だ、った。
山水ヲ│水で必要な経費のうち、施設修繕の工事代
山水には砂が含まれていたようで、 「
水ため 」 に
金は、水源地から 「
立ち上げJ(レンガ土台) まで
留ま った。 このため、 「
水ため」 の底には栓
は砂が i
の区間と、 「
立ち上げJ(同)自体の負担は、山水組
[両│
ほど、水を抜いて掃除
がついていて、年に 2、 3
合の全戸で分担し、それより末端部は、組内で口数
をしていた 。
に応じて負担している 。
さらに、水源地と 「
立ち上げJ(レンガ土台)の
さらに、屋内の 「
水ため」からオーバーフロ ー し
た水は鉄管 を通り、屋外にある 「いけす」 と呼ばれ
ある土地は、異なった個人が所有しており、土地代
た一畳ほど大きさの水槽へ落ちていた 。 この 「いけ
を地主に支払っている 。 1年分の 「
年貢jは、水源
すj は、上下 二段の槽に分かれていて、 「
水ため J
立ち上げ」では米 l斗分であり、
地では米 1俵分、 「
からの水は、まず上段の槽へ入る 。そこから溢れた
政府買入価格(区分 5類、等級 3等) をもとに算出
水は、下段の槽へ落ち、さらに溢れた水は、屋敷地
された金額を現金で支払 う
。
水源地の土地に対して年貢を払うことを、地主と
の外にある溝川へ落とされた。下段の槽には、鰹が
飼われていたが、これは水槽に生える藻を鯉が食べ
95
3(
昭和 2
8)年のこ
正式に契約を交わしたのは、 1
るからだそうである 。竹樋からビニ ール管に交換さ
とだ、った 。 この時の契約書の 一文に、 「
分部藩主が
れてからは 、 どういうわけか水槽に藻が生えやすく
使用せし水と 言われている」との記述がある 。分部
なったという 。
こあり
公はこの地の 「
お殿様」だ、ったわけで、今でもこの
山水組合の水を 「
殿さんの水」 と呼ぶ人もいる 。
上段の槽の横には、 「
小洗い」 と呼ばれた 「
流し J
があり、ここで洗濯や洗い物をしたのだという 。 さ
人間文化・ 7
高島町勝野の古式水道一 引水のし くみと共同利用の形態 ー
ボため掃除用の排ポ 11
道路
枕
i
常川
焚き [
1
士
I
t
'
.l
立ち上げ
勝手 L
I
裏のいけ
yJ
描
出内
-実線矢印は、山水の疏れ
-・は、蛇口
・二重線矢印は、排水の疏れ
図 4 松下家の水利用
らに、屋敷の裳には 「
裏のいけ」があった。 ここは
へ置き、そのまま水を汲み i
留める ことができて、洗
~IH に近か っ たため、野菜などを収穫し 、 「裏のいけ 」
濯の│時には便利だったという 。
で泌を洗い落としてから台所へ持 って上がった。
松 Fさんは、蛇口について 、子どもの ころに鮮明
こうした家庭での設備は、多少の違いはあれ、ど
に覚えているという 。それは 、隣近所同士で風巴の
この家にもほぼ共通のものだったようである 。 しか
貰い合いをする 「
貰い風呂」の風習があった ころの
し、必下さん方には、ほかの家にはない設備があっ
時、向かいの家の風呂に入りに行
ことである 。ある l
先いにカラン (
蛇口)がつい
た。それは、風呂と小 i
で、うめよう
くと 、湯船のお湯が熱かった 。そこで
フk
ていたのである 。つまり、 風日や 「
小i
先ぃ」で使う
と、自宅の風呂と 同じよ うに 蛇口 を探したが見つか
水は、蛇口から 出 るよ うになっていたのである 。
らず、子ども 心 に閃 り呆て た経験があると い う。そ
「
小洗い j に蛇 口がついていたので、闘を 「流し 」
の家のおばさんからは、熱い時に は桶に汲み置きし
てある水で、うめるようにと 言われていたが、普段と
は違うことに戸感っていたのか、とにかく熱いのを
我慢して、
f
Lっ赤な顔をして風呂に入 っていたのだ
と、松下さんは当時を思い返す。
これは、 1
1
1
水の水源が高所で、あり、務差があるた
め水圧がかかり、ポンプなどで人為的に力1圧しなく
ても蛇口で使えたのである 。電気ポンプや上水道が
I
皮
普及する以前の家庭で、は、蛇口は珍しく、その布1
;
J
(
をf
P
Jに汲んで、洗濯をしたり 、風 gへ J
)
くを巡び入れ
水ためJと流し場
写真 5 r
写真奥の「水ためJと手前のバケツへは、山水が常に藩とさ
れている。(
田中宏氏宅)
8 ・人間文化
写真 6 松下亀太郎氏宅の「裏のい1
1J
とと で野菜の下洗い芯どをする。写真はし じみの砂を吐かせ
ているとこ ろ。
高島町勝野の古式水道一 引水のしく みと共同利用の形態 ー
ることは重労働だった。こうした苦労があって、両
年であるが、
めた山水組合の 役職につく 。任期は 3
親が蛇口をつけるのを考えついたのではないかと、
再任を妨げないとあり、緩やかなものとな っている 。
松下さんは言 う。
4-7 多様な山水利用の系統
松下さんの現在の住居は、昭和初期の家を取り壊
現在、山水組合代表を務める木津省 三 さん (
62)
して、 1
0年ほど前に同じ敷地内に新築したもので、
の話によると、日吉山の山水は 、かつて江若鉄道の
その時に 「いけすj なども壊してしまったのだとい
大i
:
f
1
i
:(
高 島町 )釈構内で、蒸気機関車に水を補給す
う。しかし、現在では庭の一角に新しい池が造られ、
るためにも使われていたという 。当時は日吉山の水
山水が落ち、鯉が飼われている 。さらに 「装の いけ」
I
J線)Jおにあった給水塔まで単独で、引
源から駅構内の官 !
は、現在でも野菜洗いなどに利用されている 。
4-6 山水組合の設立とその運営
2
0
0
3(
平成 1
5
) 年に「日吉山山水組合規約 Jが作
成され、土地の年貢を算出する基準や組合役員の選
出方法や任期、また組合と各組との役割分担などが
明文化された。 これ以前は、普から の習わしに従っ
て、運営されていたようである 。
加えて、この山水引水では、ある人物が率先して 、
構成メンバーを取りまとめてきた。「立ち上げJ(レ
ンガ土台)の土地所有者である舟木広吉氏が中心と
i
堤前から管理が行われてきた 。 その後、
なって、 j
1
9
5
9(
昭和 3
4)年からは、息子である文忠氏へと引
写真 7 工若鉄道時代の大溝(高島町)駅
写真右端に見えるのが給水搭。蒸気機関車へ水を補給するた
め。ここへも山水が引かれていた。
(江若鉄道株式会社 f
5
.
工
若鉄道創立3
5
周年記念 j
1
9
55
年より転載)
き継がれ、近年まで続いた。当時は現平tのような役
員を置く組織 はなく、したがって舟木氏は選出され
かれていたようで、これは業務用ゆえの使用 語;の違
たのではなく、あくまでも「氏のご好意」であった 。
いによるものであろう 。
舟木氏は年貢の計算や維持管理に熱心に取り組んで
現在、 事
日
内地区には、山水組合のほかにも、山水
1
1水の運
いたことから、みなが了解し、長らくこの 1
を利用する共同組織がある 。一つは、駅前にある旅
営は、舟木氏が 2代に渡って巾心とな って行われて
館や商府など、 合わせて 3軒の集まりである 。江若
きた。
f
P
'
I
J
I2年) に合わせて、駅前へは旧街
鉄道の開通 (
I
l
特に水源地や 「
立ち上げJ(レンガ土台) までの
道から新道が造られた 。おそらく、この│時に駅前に
漏水の際には、舟木氏が組員に召集をかけるなど、
尚庖などができて、山水引水の配管が敷設されたも
常にこの前式水道を守ることに気をかけていた人物
のと思われる 。現在では、駅前にある家々の 「
立ち
だった 。 ある人は、「私らは水が来てるのは、当た
9
7
4
ヒげ」は歩道脇にある 。土台部分の様子から、 1
り前だと思ってますけど、ちゃんと気をつけていて
(
H
昨日 4
9)年の 湖JjJ可線開通で、駅前が再整備されて
くださる方があってのことだと思いますね。 こうし
現在の場所に移設されたもの と推測される 。
たご苫労は、お金で勘定できるものではないですj
と舟木氏の姿を振り返る 。
か〈念、ゆみくみようすい
もう 一つは、 「
郭内上組用水 J(
以下、 上組則
;
j
(
と
書く ) と干与する組織である 。かつては十数軒で構成
00
2
年 τF
( 成1
4)年に亡くな
ところが、舟木氏が2
していたようだが、現在は一般家庭の数軒と図光寺
ったことで、事態は変化する 。舟木氏は以前より、
と大手専寺、 f
前汚院の 3ヶ寺に配水されている 。 仁組
後継者と今後の運営について心に置いていたとい
m水の水源は、 111水組合や駅前方面の系統とは遠い、
う。 これを受けて、今後の運営などについて協議が
H古和1
1
f
tから谷筋を 2キロメ ー トルほど遡 った山 王
なされ、現在の 「日吉山山水組合」という組合組織
谷の水を水源としている 。かつての水源地には、 石
がつくられ、組合規約が作成されたのである 。また、
を積んで造られた小規模の堰があり、そこから引水
一人の人聞が運営を取り仕切るという形から、任期
されていた 。
たいぜ人し
子、.せついん
さん必う
せき
のある役員制にした。 山水組合の役員は 、各小水槽
この山水は、谷筋から 園光寺と大善寺の境界付近
組から代表者を 1名ずつ選出し、全日が組合長を含
0年前
を引水されて、策の道端まで出てきている 。 1
人間文化・ 9
引水のし くみと共同利用の形態
可
v
dHh
高島町勝野の古式水道
臨
F
ザ』←
写真 B 駅前地区の「立ち上げJ
ここで 3軒分の山水が分水されている。
写真 1
0 移設された「立ち上げJ
道路の妬張工事で、 上組用水の「立ち上げ」が移設され、新
調された(写真右奥)
l
m7l<では昔から、 「位話番 j と称する任期 l
上中I
年の役民カ '
1
1
1
(
[~こ当たることになっており、役.þlには
木製の鑑札が回されていた 。寺院も同じ仲間である
が、これらは世話番が免除されていた。
1
1手の大善寺付近には、数車!の 一般の民
さらに、 1
家があり、庭に 「いけす j のある家が見られる 。 こ
れらの家々は上組用水とは別の山水系統である 。現
復、山手地区への引水の水源は、上組用水と同じで、
前述の堰堤傍にある会所から分岐し、フレキシブル
r
/
:
.
管で日台神社の方向へ引水されている 。現在の梢成
写真 9 かつての石樋
石を くり抜いたもので、分水するための会所も石でできてい
た。現在は撤去され保管されている。
事T
数は 7
]
I
F
I
だが、この集まりは緩やかなもので、組
合や仲 間と H
乎べるほどの組織ではないと地元の人は
言 う。 i
Ll
水の出が悲くなると、「今日は、ちょっと
直しに行こうか j と、近所に声をかけ 「
樋直し 」 を
せきひ
まではこの付近に、切石をくり抜いた石樋が残って
おり、分水するための石製の会所も見られた。 これ
だけ立派な施設があったため、こちらが 「
殿さんの
水j だと 言 う人もいる 。
ところが、 1994 (平成 6)年に砂防目的の堰堤が
水源
、
地付近に完成し、 この工事の時に水源地や周辺
の水路の改修が行われた。現在では堰堤のすぐ傍に
するのだという 。
同じ 1
1
1水を水源にした系統でも、特定の人物を中
心に運営してきたところや、当番制を続けてきたと
ころ、さらには緩やかな集 ま りで維持管理している
ところなど、様々である 。歴史ある地域だけに、創
成期における山水引水の運営の歴史的な考察など、
さらに調査を進めていきたい。
コンクリー ト製の会所が地中に造られ、 1
11
水はそこ
から約 50メートルは蓋っきの側溝で導水されて、次
の会所へ入り、そこからはピニール管で麓まで引水
されている 。
5
. 湧水(系統②)
5-1.勝野の湧水地帯と元井戸
湧水系統の水源は 、勝野の集落の中心部から直線
1
0 ・人間文化
高島町勝野の古式水道一 引水のし くみと共同利用の形態一
図5 湧水箇所分布地図
c
.は1988年当時、使用されていた元井戸)
1
;1戸①
符へ約 400メートルの水旧地帯にあった 。 こ
距離で l
l
i激地内およびその近辺に品目られた )t
JI。鉄管なとを打ち込んでいるものが
の 一 位には、地|マ水が湧き出す I~t 水 」 と呼ばれた
多い。
箇所が集中していた。 湧水系統では、この生水を水
井 J'
,
1
.
源にして、集務ヘヲ│水していたのである 。
胡,&線から約 150mi!.Y側の水川地 '
R
tに
あるもの。打ち込み井戸。
後述するがI川改修│
侍の調査報告書 (
rf
l
H和 62年度
和凹打川調資報告書 j 滋賀県今津七木半務所、 I
I
H和
井戸③
集終から離れた場所 ( 湧水地千l~; の 3 地
6
3年 3月)によると、この湧水地帯は、ほぽ閃から
点) に掘られた井戸。鉄管などの打ち
東に向けて傾斜した典型的な扇状地の構造をしてい
込みは稀。
せんもょう
る。一般的に、扇状地では、扇]頁音1
1
からの 伏流浸
せんたん
透水が扇端部周辺で自噴することが多く、 1
I
長
田T
の人
I
二戸系統であり、新 n
l
T地区と H
子
井戸① は後述する:J-
びとが利用していた「生水」 も扇端部に位置してい
ばれる、 J券野の集落の北側にある地区に集中してい
たと思われる 。
た。
また、小旺l
川も地下水の i
函養源とな っていた。 小
田川は、両方の比良山系を水源とし、
i
勇水地帯から
勝野の集落の方向へ流れていた 。 この小旧川は 天井
川だったため、河川水位が地下水位よりも高く、地
下水を供給する補給河川の機能を持っていた。
,)~ニ μ② は、
ITI JH 水のためのものである 。 外観は、
地上古1
1
に鉄管が突き I
Uた形であり、使用時にはポン
プで揚水する方式だ‘った 。
そして )
1
二
戸③ が、湧水系統の水源とされるもので
勇水系統の水 i
原井戸を、地元では 「
元井戸 J
ある 。 i
こうした要因で、湧水地帯では地下水に恵まれ、
とか 「冗
;
1
'
iJと呼んで、いる 。 1
勇水系統で、は、元井戸
湧水箇所が多かったものと思われる 。昭和 62年度に
から竹樋などを用いて集落まで引水していた。元井
行われた勝野周辺一帯の 井戸と 地下水の調交 (
前記
戸のなかには、直線距離で約 800メー トル離れた港
と同)によると、 i
勇水箇所は湖凶線を挟んで、
西l
l
!
1
Jと
地 区まで配水しているものもあった 。
東側、さらに勝野の集落寄 りの三つの地帯に分かれ
昭和 62年度の調査(前記と │
司)当時、古式水道の
て集中していた。三つの湧水地帯や新町地区内を含
元井戸は、直径 1メー トル前後のコンクリート製で、
しんま句
めた勝野にあった 4
1ヶ所の井戸は、 三つの種類に分
ヒューム管を縦に沈めたものが多かった。なかには、
類できた。
井戸の側面下部に木製の桶を 使 ったものもあった 。
使用されていた 20ヶ所 6 の元井戸は、全て水質良好
人間文化 ・ 1
1
高島町勝野の古式水道一 引水のし くみと共同利用の形態 ー
π弁戸番号 権成車干数
.
九
円
的0
耳士出槽
。N-o
TP+87.75
一切お刃Y
TP+87.
55
2
1
1
42.
48
5
1
吐出繕 A
,
F円 F
59
60
39
井戸仲間の数 8
コンクリート弧枠
2
4
54
58
3
軒数 2
5
4
1
46
52
53
57
井戸仲間の数 5
1
0
10
9
吐出槽B
図B 伊勢町組の元井戸構造図
とされるものだった。
44
45
49
56
井戸仲間の数 5
1
に湧水が出て行く配管
元井戸の 内部は、壁而上音1
吐出槽 C
の口があり、水而がそれ以じは上がらないようにな
っていた。つまり、 j
勇水はオーバーフローし、配管
へと供給され配水されていたのである 。
湧水は、元井戸から
r
i
t
r
c
F)j式j と呼ばれる方式
55
吐出様D
弁戸仲間の数 1
井戸仲間合計 1
8
で各家に供給されていた。 この方式は、ポンプなど
で人為的に加圧せず、 自然の傾斜を利用して水を流
軒数 1
5
1
5
軒数 1
5
合 計 89
(勝野井戸組合、平成8
年調査)
すものである 。勝野の場合、元井戸の集中する地点
と集落の中心部とは、
5
軒 数 40
3
3
8
1メー トル以上の土地の高低
の古式水道は、元井戸と集落との高
差がある 。勝目f
表
1 吐出稽組と井戸仲間 (
図 5の元井戸番号と対応)
低差と 地下水の湧 出を利用して、引水されていたの
である 。 この方式は古式水道の開設以来のものであ
単位が共同でその管理を行うようになった 。
ト数中1
ろう 。
これが現在の井戸仲間の原型である 。井戸仲 間の名
称は、古くは 「
杉│屋組」など、元井戸のある家の屋
5-2. 湧水系統の井戸仲間
号を充てていたという 。
しょくにんまち
にします3
いせちょう
なかまち
元井戸からの湧水は、「チ│
二戸仲間」とか、「樋仲間」
現 在 で は 、 職 人 111]"組、西 町組、伊勢 町組、中間
と呼ばれる共│
司組織によって引水されていた。つま
組などと、井戸仲間のある 町名が呼び名になってい
り、
元井戸は個人が単独で使則していたのではなく、
る組が多い。 なかには二軒組のように、構成軒数を
一つの元井戸に何軒かが集まって井戸 仲 間を構成
呼称とする場合もあり、興味は尽きない。
し、その仲 間ごとにヲ 1
7
)
(されていたのである 。
!
勝野の古式水道の創成期の機子について、容易に
1
996 (平成 8)年の時点での井戸仲間の構成車 1
:
数
は、最小で 1刺、最大で 1
5
軒 であり、井戸仲間の数
t
iい資料などからの
は1
8あって、総 1
JU
入車│
ー数は 9
5軒だった(勝野井戸組
記述があり詳しいそれによると、古来より勝野
合、平成 8年調査)。 この井戸仲 間について 、以下
周辺では、生活用水を 山水や湧き水に頼り、水路を
本主主では 、伊勢町組 を例に挙げる 。
入手できる 『
高島町史 j には、
活用 して P
I
J
家へ引水していた。江戸時代、この地 に
│部屋を構えた分音1
1
氏は、城下 I
l
r
jに同つの石垣水路を
作り 、 もともとあった水路の錯綜状態を改修した 。
5-3 湧水利用の形態一伊勢町組の例一
伊勢町は、勝野の集落の北西に位置し 、集落の中
城下の町人は、この水路の水を使用し、生活用水を
心から外れた西 1汀筋の北の端にある 。近代になって、
得ていたので、城下の家々は 一般的な井戸を持って
武士が移住した地 │
支とも言われている 。伊勢町には
いなかった 。 こうした ことから、城下 町勝野には昔
1火を 「
今でも、道路の仁1
掘割り」 と称する分部時代
から、生活用水は引水するという生活形態があった
の水路が流れ、抑制りを挟んで両側に道路があり、
ものと推 i
)
!
l
J
される 。
この街路沿いに家々が立ち並んでいる 。
「
伊勢町組 j は文字通り、 「
伊勢町」 と呼 ばれる
さらに江戸中期以降になると、湧水地帯に元井戸
を掘って、竹右!uを地中に通し 、水を各戸に運ぶよう
になった。 そのため、井戸仲 間が生まれ、数粁から
12 ・人間文化
ほ匂わ
地区の家々で構成されている 。現在の構成戸数は 9
1月現在)。
1
好である(平成 1
6年
高島町勝野の古式水道
引水のしくみと共同利用の形態 ー
写真 1
1 伊勢町の町並み
分部時代の水路である「掘割 I
J
Jが、現在も道路の中央に残る。
1
9
7
6(
昭和 5
1
)年 1
1月から翌年 1月にかけて行わ
れた井戸調査
r高島 町井戸現況調査報告書 j水資
(
2年 3月)によると、当時の伊勢
源開発公団、 昭和 5
写真 1
2 福井市之進商庖の「井戸」
元井戸からの水は中央の 「
井戸Jへ入 り
、 手桶で汲んで右下
の「
流し」で使われていた。
町組の構成軒数は 1
5
軒だった 。 H
白和 62年度の調査
(
前記と同 )の時点でも、 f
l
'
l
i
1
&1
!
1
ニ数は 1
5
粁と変化は
なかった。このうち、 北へ向 かつて街路の右側では、
街路沿いに 3軒、それ以外 に 31
'
庁の合計 6軒あった。
ひりい
街路の左側では合計 9軒あり、 これらの家々は全て
方、勝野の中心地では、平入りの商家や住居が
街路に而していた。伊勢町には 、建物の妥面を街路
多い。 こうした民家では、 台所 は迎りから奥まった
に向けた農家形式の民家や妻入の住居などが見ら
南側にあることが多か った。台所には 「おくどさん」
れ、街路沿いに台所や風呂がある家が多かったとい
があり、流し場は述の向かいに位置し 、南側を向く
つ。
場合が多かった。 これは、南
側の家との境界にある椛へ排
小字名
巴地区
番号 元井戸の術進
2
3
4
5
榊地区
6
7
B
9
1
0
竜地区
1
1
12
13
14
1
5
1
6
宝地区
1
7
18
19
20
2
1
勇地区
22
23
冗井戸合計
'
構造男1
軒数
2
コンクリ ト
5
コンヲリート
1
1
コンクリート
コンヲリート
12
コンクリ ト
13
木(
桶)
18
2
木(
桶)
土
コンクリート
14
コンクリ ト
9
4
コンヲリート
1
5
コンクリート
コンヲリート
木(
桶)
コンクリート
2
コンヴリート
コンクリート
2
コンクリート
5
コンヴリート
8
不明
6
木(
桶)
2
5
コンヴリート
木(
桶)
23ケ所
コンウリート 16ヶ所
木(
桶)
5ヶ所
1ヶ所
土
1ヶ所
不明
「井戸 Jの構造
繍水方式
桶) 直結
コンヲリート 木製 {
ポンプ ツルベ手桶
2
5
2
3
1
1
9
2
1
2
6
自
13
B
5
14
3
1
1
2
水を落としていたからであ
る。
さて、湧水系統の各家で、は、
台所に 「
井戸 Jがあ った。 こ
れは、一般的な打ち込み井戸
や掘り 抜 き ~:Iニ戸ではなく、元
井戸から配管を通って来た湧
13
7
7
9
4
4
4
3
6
16
9
1
1である 。一般的
水が入る水 4
には「取井戸」 と表現される
が、地元では単に 「
井戸」 と
呼んでいる 。元井戸からの湧
水は「井戸」の F部から入る 。
i
t
l
二
戸
」 の
'
11
三は、丸いものも
2
2
2
3
あるが、全体的には四角いも
6
3
8
5
3
のが多い 。「流し 」 なとが置
6
1
5
かれる台所で、空間を広く使
2
えるからだろうか。四戸jい方
4
5
不明 (
ほとんど使用せず)
134
ヶ所
2ヶ所
1
ヶ所
が収 ま りが良いのだろう 。 さ
65ヶ所
7
1ヶ所
らに四 隅 を切り落とした変則
八角形のものも少なくない。
-番号 6
1主、極利のみ継続中が4軒
-番号 18は、権利のみ継続中が 1軒、「井戸」が 2ヶ所ある家が2軒
表 2 元井戸と家庭用 「
井戸J(
1
9
7
6
年当時)
この 「
井戸Jの隣には 「
流
し」が置かれ、洗い物や炊事
を行った。 しかし、 1
1
1水系統
3
人間文化・ 1
高島田I
勝野の古式水道一 引水のし くみと共同利用の形態 ー
とは巡って、水圧がほとんどかかっておらず、 「
井
いて、 引 き込み管 を経由して各家の 「井戸」の底面
0セ ンチくらいま
戸」の水而は、 地面から最大でも 4
へ湧7.Kが供給されていた。 この構造は現在でも変わ
でしか上がらなかったようである 。 しかしながら、
らない。しかし、元井戸からの湧水の供給は、自然
地面よりはある程度の高さまで上がるため、 「
流し」
の流下方式ゆえに、 絶えず行われ る。 このため、家
での炊事も立って行った。ポンプが普及する以前は、
庭にある「井戸」の水が溢れてしまう のではないか
「
井戸 j から手桶で「流し」へ水を汲み入れ、使用
という疑問が生じる。
していた。
しかしながら、上水道が普及するまでは、この古
1
f
f
j和 5
1年度の調査 (前記 と同)によると、伊勢町
式水道が生活用水を得る唯一の手段であった。 この
組の全 1
5軒のうち、「井戸」からポンプで揚水して
ため、各家での使用量も多く、元井戸の湧出量とバ
l
t
fが手柄で汲んでいた 。
いた家は 6軒で、残りの 9j
ランスの取れた状態であったと 思 われ、普段は「井
勝野では、 1
9
6
2 (昭和3
7
) 年に町営の上水道が開通
戸」から 水が溢れ出すことはなかったらしい。加 え
t
4jl
f
で上水道と併)IJしながら家事全般
していたが、 1
て、配水系統の末端部には、「井戸」の水を、庭に
に使われ、全ての「井戸 Jが水質良好であった 。
ある 「いけす」へ務としている家が数軒あり、こう
伊勢 I
I
J租l
の各家の 「
井戸 Jは、既にコンクリート
した家では水が流しっぱなしにされていた。
製のものであったが、ほかの井戸仲間の家では、
こういうわけで、普段は水が 「井戸 j の枠を盛り
「井戸 j の下部に木製の柄や壷を使用したものもあ
越すことはなかったと思われる 。 しかし、雨が降る
った。前述の元井戸や家民主の「井戸」に怖を使用す
と
、 「
井戸 j の水が増えて、枠を雌り越し、台所の
Zは、初期のものであろう 。
る桃 i
I
1
i
1
手1
1
5
11
1
:
:
当時、地上に出ている
仁問が漏れることもあったという 。
r
.,J十戸」のコンク
リート枠にタイルを張って、見た I
1を良くするなど
改造されたものも珍しくなかった。 このように、上
5-4.湧水系統の維持管理
i
勇水系統の配色は、占くは竹が使われたが、現在
水道の敷設後も占式水道は使われてきたのである 。
では全てビニール 1~: が使われている 。今西仁さんの
伊勢 I
I
J組では、道路に面して台所がある家が多か
話によると、竹樋からビニ ール管に交換され始めた
ったが、現在では、建築基準法ーによって、道路に面
のは、 11(-1手1130il~ ごろのことで、高島郡内でも最初に
して家屋を新築する場合には、防災上の観点から、
ビニール告:を使ったのだという 。
必ず道路からセットパックして建てなければならな
い。このため新築をすると、
r
J
,
.I
二
戸 Jを家の中に取
り込めなくなった 。安栗実さん (
6
2
) の住居では、
家を新築して台所の位置は変わったが、「井戸」の
竹樋│時代には、I1
J
水系統の場合と同じく、配管の
二
│
や屈折部分には、松の木の角材を くり抜い
つなぎ l
た 「
枕」と呼ばれた接合部材が用いられた。
しかし、今凶仁さんによると、昭和 3
0年ころまで
mい、
には、竹 I
f
i
J上をつなぐ場合は、まずチューブで巻い
横にステンレス製の流し台を置き、そこを洗い場と
て針金で縛りつけ、さらに 2
2縄でしばり、急結斉J
I入
位世は元のままにし、その部分を波板などで
して現在も使い続けている 。
りのセメントで巻き広│
め、最後にぼろきれなどで渡
元井戸からの本管は、家の前の道路に埋設されて
っていたという 。
竹樋の耐久性について、一般的には50年以上は持
FF
。。の。
TP+87
.
27
害
つとされている R が、砂などが湧水と 一緒に 竹樋 内
を流れるため、外皮一枚ほどの薄さに削れてしまう
らしい。加 えて、竹樋 内に溜ま った砂が樋 内を通 る
水を j
慮過すると 言われていたらしく、竹の耐久性と
TP+86.
9
7
共に、頻繁に交換する必要はないとされていたよう
N寸 O
である。
とい-"し人
漏水│
時などに、配管を修理することを 「
樋普請 J
などと 呼んでいた。竹樋時代には道路の大半が未舗
元弁戸より
図 7 安粟家の「井戸J横造図
1
4 ・人間文化
装道路であったため、井戸仲間が出役し、地面を掘
って補修するのが通例であった。湧水系統で、は、元
井戸は水団地帯にあったため、竹樋は田んぼの底に
高島町勝野の古式水道一 引水のしくみと共同利用の形態 ー
f
aまってし まった。配管は井 戸仲間 の手によっ
中に i
て敷設され、維持管}l!lが行われてきたものであり、
専門業者による工事のように、正確なレベル測量は
行われず、配管には凹凸があった。そのため、配管
が高くな っている箇所に空気が溜まり、いったん水
を止めると数日間は水が出なかったのである 。
このため、古くは竹同士の接続音¥
1
で、ある 「
枕j に
穴を開けた 「すてのみ」と 呼ばれた 栓を設けた e。
ここか ら空気を 抜 くのである 。 しかしながら、地域
の人の話では、水路を波っているところなど、地表
に出ている配管に直接、錐で穴を│井jけ空気抜 きをし
たこともあったという 。上水道が普及していなか っ
3
0年代までは、こ の古式水道はIlf
.
E
-の生活用
た昭和 1
水だった。 だから早く空気を抜き、水を来させるた
めの持│夫jの策だった ようである 。
も通っていた 。そのため、漏水の第一発見者は、日 l
んぽの所有者であることも多かったようである 。
0ヶ所近くある元井戸か ら、それぞれ
ところが、 2
の井戸仲間の各戸へ系統別に配水 されていたため、
水田地帯や集落内においては竹樋が錯綜しており、
1
:
戸仲間 の配管が漏
漏水が地上に出てきても、どの +
水しているのかが分からないこともあった。 このた
め、元井戸に赤い食紅を入れ、噴出している水が亦
くなれば、その井戸仲間の配管が漏水していると判
断したという 。
写真 1
3 空気抜き
現在のビニール管にも空気抜きが設けられている。
ねんIfん
伊勢町組では、 「
年番」という井戸仲間 の当番に
当たると、ツルハシ、柄杓、スコ ップが揃えて波さ
れたという 。カケヤで地面│を割 り、スコップで掘り、
このほか 「
水抜き Jとか 「
泥抜 きj と呼ばれた作
i
留まった水を柄杓でかい 出す のである 。樋普請に欠
[
1
1f
1
l
jを
かせない道具を受け渡す こと で、当番が井戸 {
業も行われた。 これは、配管内に溜まった泥や砂を
抜くための作業である 。伊勢 1
1
1
]組の本符の末端部に
取りまとめ、古式水道の維持管 J
l
f
lを、責任を持 って
t
が設けられていて、年に 一度ほど、この栓を
は、十f
行う ことを促す ものだ、ったのだろう 。
抜いて 「
水抜き 」 を行った 。 この時に、家庭の 「
井
ところが、ビニール管に交換後は、配管が割れて
まに i
留まった泌や砂をかき混ぜると 、本管へ
戸」の j
漏水する頻度は激減した 。 さらに道路が舗装され、
吸い込まれるようにして、泥や砂で濁った水が出て
樋普請が大掛かりになるため、補修が必要にな った
行き、 「
井戸」の掃除ができ たという 。
場合、大半の井戸仲間が業者に依頼するようにな っ
たという 。
竹樋の補修作業時には、元井戸からの配管の口に
安架実さんの話では、「井戸」は、井戸仲間同士
で本管と引き込み管を通じてつなが って おり、 「
井
井戸Jへ混
戸 j の掃除で、濁った水がほかの家の 「
詰めをして、水の供給を止めてから行われた 。 しか
じり込むことを心配して、普段は 「
井戸」の掃除は
しながら、当時の古式水道では水流に強い圧力がか
しなか ったそうである 。
かっておらず、い ったん水を止めると空気が配管の
人間文化・ 15
高島町勝野の古式水道
引水のし くみと共同利用の形態ー
5-5.大規模改修までの古式水道
古式水道の梢造は、近年まで大きく変化すること
はなかった 。 しかし、いくつかの出来事はあった 。
l
!
l
-f'の集落内を流れていた小田 川 とを、 l
J
券野の集務の
T
Jt:j方で合流させ、 l
立総化した新 川を造り、平地河川
化する計画だった。
まずーっは、 i
M
J内線の工事による元井戸の水位低下
この計画は、 二つの点で元井戸地帯に影響を及ぼ
である 。1
9
7
4(
昭和4
9
) 年、江若鉄道の路線を引き
したのである 。一 つは、平地河川 化 の影響である 。
I
J
.
ki
出
J
f
!9線が開通した 。湖西線は、全線が
継いで、J3<
地1
mを開削して、 l
e
地河川化することで、相対的に河
高架上を走り、踏切が一切ない路線として知 l
られて
川/.K位が地下水位よりも低くなり、地下水が河川に
M
J内線の高架がゆ水地併を通ることに
いるが、この i
供給される排出河川の機能を持ったからである 。前
なったのである 。江若鉄道の線路とは遣い、 l
f
E梨を
記の昭和 6
2年度の調査報告書によると、和田打川新
建設する工事で元井戸地帯の地 F水位が下がった 。
函養に重要な扇状地か
川の完成後は、元 井戸地帯の j
m削
これは、高架の建設による悲従工事で、地而が 1
らの伏流浸透水の流向が北に変わり、元井戸地帯と
されたのが原凶と考えられている 。 このため、元井
は反対の方向を向いてしまった。
戸に対して補償工事が行われた。
ところが、湧出量の減少を補うために、元井戸を
1
:
1J
I
I新川の流向方向の影響である 。
いま 一つは、小 1
これまでは湧水地'市を抜け、集落の方へ流れていた
抑Iり F
げると、水脈が変わり、湧出が止 まったり、
が、完成後は新川との合流点へ北流する ことになる 。
J
t
.
じる危険性があった。結局この │
侍の
湧水に金気がi
これは湧水地帯を凶益する伏流浪透水の流れる方向
補償'工事では、元井戸の周聞が広げられた。つまり、
にl
立交する形態になり、加えてがi
川は排出河川を持
元井戸の深さを変えずに底而和を増やし、湧出量の
つことになる 。
減少を補ったのである 。幸いなことに、湧水地帯の
和田打川の改修工事は、昭和 60年 1
1月から翌年の
付近は築堤工事が中心だったため、工事終了後には、
3月にかけて施工された。この工事の前(同年 1
0月)
湧出量は回復の傾向を見せ、
r
'
i
式水道を使い続ける
ことが可能になった。
2年度の調査
と後(翌年 3月)の水位変化 を、昭和 6
報告書(前記と同)に見ると 、湧水地帯である湖西
5年ごろに行われた、上水道の水源地
次は 、昭和 4
線を挟んだ西側と東側 、 さらに集落寄りの 3ヶ所の
を設けるための試掘揚水である 。当時の I
1
町営上水道
うち、湖西線より凶側の元井戸の水位低下が著しく、
は、琵琶湖から取水していたが、この計阿は、内陸
平均して70センチほど低下した。湖西線より東側の
の地下水を上水道の水源にするものだ、った。ボーリ
0センチの低下で、集落寄りの
元井戸は、平均して 2
勝野の集落から 2キ
ング試掘揚水が行われたのは、 l
元井戸は 1
5センチ程度であった。個人が単独で使用
ロメ ー トルほど北を流れる1
'
則 1沿いの野田 ・符野地
勇水地帯ほどでは
していた井戸系統の水位低下は、 I
区周辺だ、った。当初、勝野の住民はボーリング揚水
なかった。
1
二
が行われていることを知らず、河川の水が濁り、 J
戸の水が減り始め、異変に気づいたという 。
以前、上水道のボーリン夕、揚水に対する反対運動
が成功したことから、今回も和 田打川 と小田川の新
この時に行った地下の電波探査によって、勝野に
川が通る予定だった新 1汀地区の住民を中心に、反対
ある徳善寺と野田 ・宮野地区とを結ぶ線上に、鴨川
運動の動きがあった。 しかしながら、この工事は琵
と〈ぜんし
の伏流水が流れる筋があることが分かった。 この結
琶湖総合開発に伴う事業であり、それまで小 田川の
果を受けて、反対運動が本格化 した。 さらに、 I
I
I
Tが
洪水に悩まされていた住民は、最終的に この計画自
無許可でボーリンクふ易水を行っていたことが分か
体に反対しないとしたのである 。その代わりに、地
り、京阪神地方で地下水の汲み上げによる地盤沈下
下水利用への十分な対策を求めた。地下水対策の内
が問題化していた時期でもあり、結局この計画は撤
容を確認してから、土地の買収交渉に応じたのであ
回された。
る。
こうした出来事が重なったが、古式水道が使用不
1
I
i
1
杭1
6
0
)
能になることはなかった 。 しかし、 1
985 (
向島郡の土木事業を管轄する滋賀県今津土木事務
1
田打川改修工事
所(現、湖西地域振興局)では、手[
年から始まった河川改修で、従来の古式水道の使用
2年度に地下水調貸を行っ た。 この
の段階で、昭和 6
には、抜本的な改修が必要となる事態に直而したの
結果、今津土木事務所は小田川改修工事(平成 3年
である 。この河川改修工事は「二川合流」と称され
度)の完成後には、元井戸の水位のさらなる低下は
た。勝野の集落の北方を蛇行していた和 田打川と勝
免れず、古式水道の水源地で、ある元井戸は、従来の
i せん
1
6 ・人間文化
高島町勝野の古式水道
引水のしくみと共同利用の形態ー
機能を失うと結論づけたのである 。 こうして、湧水
十戸の機能回復の対策
系統の古式水道に対して、元 J
工事が本格的に検討されることになったのである 。
その結果、二つの改善案が出された。それは、
方法①
既存の元井戸を改造する方法
方法②
代替施設を新設する方法
である 。 では、実際に 二つの案はどうなったのか。
方法① では、元井戸を侃り下げることが考えられ
たが、この )
i
i
去には、前述のように水質変化の恐れ
があった。加えて、水量が必ず回復する保証はない。
は既存の各元井戸 にポン
さらに方法① として、当初J
プを設置し、揚水する案も山された 。 これは、方法
② を実行した場合に予想される、井戸仲間という人
的組織の再編から生じる影響に配慮し、元井戸の構
写真 1
4 新式水道の水源地
0
メートルがらポンプで揚水
元井戸は一つに統合され、地下3
されている。
造を変えることで解決を図ろうとした、地域の人び
とからの現実的な提案ではなかったかと思われる 。
しかしながら、元井戸は半径 50mほどの一帯に 1
0
製の入水槽が新設され、陽水された地下水は、まず
ヶ所ほどが集中していた 。そうした状況で、各元井戸
事実上、勝
この水槽に入る 。水源地から │
日小田)JI(
にポンプを設置すると、ポンプによる隣接する元井
野の集落付近の旧河道は廃川扱い)沿いの小道には、
戸 との水の取り合いになることが予想された。 こう
直径 1
0センチのビニール管が埋設された 。 この配管
した検討を踏まえて、 l
J
志野の古式水道に対しては、
で集落方向に導水される 。
方法② が本格的に示されることになった。
水源地から集落の方へ 1
50メー トルほどの地点に
方法② は
、 これまで各井戸仲間が単独で、責任を持
は、小田川沿いへの配管と南下する配管の分岐点が
ち、設置と管理をしてきた元井戸を 一つに統合し、
ある 。小田川沿いに伸びる配管は、統合井戸 Aにつ
ポンフ。
で、地下水を揚水するというものだった。 さら
ながっていて、南下した配管は残りの統合井戸 B~
に、一つの水源地から効率的に配水するため、 2
0組
Dに分岐する 。
近くある井戸仲間をグループ化 し、いくつかのグル
この 「統 合 井 戸 」 は 、 普 通 は 「 吐 出 槽 」 とか
ープごとに 「
統合弁戸」を新設し、配水するという
「タンク 」 と呼ばれていて、本体は FRP製のタンク
ものであった 。 以下、古式水道改修後の新方式を
であり、水源、からの地下水を 一時的に貯水する施設
「
新式水道 j と書くことにする 。
である 。 内部の構造は、水洗トイレのタンクと同じ
構造で、タンク内の水量は一定に保たれており、タ
5-6.水源地の新設と新たな吐出槽組
新設された水源地で、は、扇状地からの伏流浸透水
や和田打・小田川の地下水供給には頼ることができ
ンクから出て行った分だけが、水源地から補給され
る。 こうして、地下水を無駄なく利用することに配
慮されている 。
ない。そこで、ボーリンク事試掘揚水の時に行った調
l
吐出槽は、井戸仲間ごとに設けられたのではなく、
査で判明した、鴨川の伏流水 を水源、にすることにな
複数の井戸仲間が集まって、 一つの吐出槽組をつく
った。
新式水道の水源地は、何ヶ所かの候補地を試掘し
っている 。新式水道では、これが一つの配水系統で、
l
止U
'
,
槽の維持管理や費用の負担を行うのである 。吐
た結果、これまでと同様に湖西線より西側の湧水地
t
l
¥槽組は、 「
新たな井戸仲間」とも 言 えよう 。
帯の 一角に設けられた。水源地は、地下約 3
0メート
からポンプを使って汲み上げる揚水方式になった 。
吐t
l
'
,
槽
は Aから D までの四つあり、例えば吐出槽
A組は、八つの井戸仲間から構成されている 。つま
り、吐出槽 Aからはこの八つの井戸仲間を構成する
水源地には、 FRP (
ガラス繊維強化プラスチック )
家々にしか配水されない。各吐出槽組の構成軒数は、
ルをボ ー リングされている 。揚水方式も、流下方式
7
人間文化・ 1
高島町勝野の古式水道一 引水のし くみと共同利用の形態 ー
同じ l
吐出桝組に入れるのを拒否する 事態にな ったと
し
、
つ。
そのため、この家では地下水の代わりに、上水道
の水を 流し っぱな しにして、 「いけす」 に落とす行
写真 1
5 吐出槽 C
現在は、水源地から四つの吐出構へ送水され、そこから井戸
仲間の系統別に配水される。このため、新たに吐出僧組がつ
くられた。
為に 出た。当然、 仁水道代の請求は 高級になったが、
高額な水道料金の支払いを拒否したのだという 。 こ
の時の状耐を知る 人は、 「
水に関しては、よ っぽど
ご理解のあると ころでないと…」と当時の背労を振
り返る 。
1
5軒か ら40
軒 (
勝野井戸組合、平成 8年調査) と多
様である 。 このため、タンクの容量や水源地からの
配管の太 さも異 なっている 。 *
:
1
:
数の少ない 吐山槽組
は、タンクも小さく、配管も細いものが使われてい
5
-7 湧水系統の負担形態と漏水問題
日本では、井戸からの水を公のものとは考えない
ょうで、その利用には権利が伴う 。
元;11戸の権利関係について、 『高島1I
1
T史j では、
る。
つまり、河川改修の際には、水道の梢造 I~ 体を改
mの例を 挙 げている 。
向 それによると、 古く
井戸仰 1
修したのと同時に、吐出槽ごとに井戸仲間]が四つに
は元井戸の使月 l
に対しては水年貢として負担し、あ
F水
る井戸仲間jでは、玄米 2升がその基準 とな っていた
グループ化されたのである 。河川改修│時に、地
み ずね ん く
利)日の補償交渉を行うため井戸仲間の代表組織とし
との記述がある 。また、井戸仲間に加入する│祭に も、
て、新たに 「
勝野井戸組合」が設立された。さらに、
!
l
J
Iの負担が必要だ った。
加入者 j
止I
Ui
t
l!i組でそ
井戸仲間のグループ化に対しては、各 I
の調節に当たった。
しかし、前述の伊勢町組を見ると、ごく初期!の状
況は不切ながら、元労戸の使用やその借地料を支払
1
:
戸仲間や l
吐出槽組については、元:1"
1
:
戸から 引水
う習似は、 長らく なかったそうである 。 ところが、
司士の住民が一つの井戸仲
するという構造上、近所 l
時期は定かではないが、ある時に地主からの要求が
間を構成していると 言える 。 しかし、井戸仲間は、
あり、元井戸の使用代を支払うようになったという 。
'
,
1
地理的な条件だけで決められるものではなかろう 。
これは新式水道になるまで続き、年に 1同年末 に支
地域内 の生活で 、生活に必要不可欠な水を得るため
f
ムってい たという 。
に、同じ井戸仲間になるのである 。 ある人いわく、
n
一方、配管が通る問んぽの所有者には年貢を支払
「人 J
i
m
tでも、 『あいつは …1というのがいますから 」
う習慣はなか った 。 しかし、田んぼの中を通る配管
と言 うように、地域内でのつき合いなど、地域に生
が漏水すると、井戸仲間が配管を修理するのだが、
きる上で、の人間関係が作用することが予想できる 。
当然、土を掘り返すので、田んぼが「深く」なって
例えば、新式水道への改修時に、 1
8あった井戸仲
しまい、困 ったのだという 。 ある人は、 「年貢が欲
間がグループ化する必要が生じた H
寺のことである 。
しいくらいでしたよ」と、苦笑いしながら振り返る 。
この改修では、各家庭で水を流し っぱなしにする こ
古式水道時代は、流下方式だったため、湧水自体
とは禁止された。 ポンプで揚水する方式では、ポン
の水使用量は、実質的に無料であった。 さらに、樋
プの無駄な電気代がかかるからである 。
普請での業者への手間賃や元井戸の年貢などの負担
ところが、ある吐出槽組の 一人が、水の流れ落ち
る音がないと寝られないと 言い 出し、以前と同様に
は、各家に均等に割り振られたので 、実際 に各家が
支払う金額は僅かなものだったらしい。
「いけす」へ水を流しっぱなしにした 。 これまでは
ところが、新式水道で、は水源地 にあるポンプの'屯
湧水の利用は無料だったため、納得がいかなかった
気料金を負担する 必要 が出てきた 。井戸組合では、
のだろう 。 しかし、水源地のポンプの'屯気代は、各
一戸当たりの補償水量を算出し、ポンプの揚水能力
l
吐出槽の使用量に応、じて負担することが決められた
などを計算し、揚水にかかる電 力 料金の概~:を算出
ので、こういう人と同じ吐出槽組になれば、電気代
する作業が行われた。 1
9
9
2(
平成 4)年 3月に 、新
の負担が増えてしまう 。 ところが、流し っぱなしを
式水道の試験送水の結果が報告された。 その後、運
止めるように求めても、本人は湧水の流れ落ちる音
用が本格的に開始され、施設の引継ぎが行われた
を聞くことに固執したのだという 。こうして 当初は、
1
9
9
3(
平成 5)年から分担金の徴収が始まった。
1
8 ・人間文化
高島町勝野の古式水道一 引水のしくみと共同利用の形態 一
施設を実際に運用し、期間を綱1かく変えながら、
吐出槽組ごとに実際の使用水量とその経費を
mu
し、検討した結果、具体的な負担の金傾を規約に盛
り込んだ。 こうした算出も、全て白 主的に行われた
ものである 。その結果、ポンプの電力量料金は、水
1立方メートル当たり 5円とし、 l
吐出梢ごとの{即日
量によって、各 I
仕出槽組で分配することになった 。
吐出槽単位で水の使用量を知る必要が生
このため、 l
じ、四つの │吐出棺には 、水源地から流入する配管-に
量水一
指がつけられた。前述のようなタンクの構造上、
この量水俸によって吐出槽組全体の使)!J分が分かる
のである 。
当初は、この量水器の数値をもとに必要負担分を
計算し、例えば吐出槽 A組では、八つの井戸仲間が
吐出槽としての負担分を戸数割
所属しているので、 l
にして、各井戸仲間の構成軒数に応じて分配してい
写真 1
6 吐出槽出口の量水器
との吐出権組では、吐出槽出口にある各井戸仲間の配管に量
水器がつけうれている。
た。 ところが、ある吐出槽組では、各家での使用盈
にかかわらず、組内の全戸が同じ負担割合になるこ
また、量水路が必袈になったもう 一つの型 i
力は、
;
:の違い
とが問題化した 。 これは、各家の水の使川 i
漏水て・ある 。新式水道になると、配管の漏水が発生
が大きかったため問題化 したとものと忠われる 。つ
しやすくな ったのである 。 この原因は、配管の不備
まり、各家が同じような使用量であれば、使 )
1
1
1
五
:
に
と水流の変化と考えられる 。昭和 1
3
0年代に始まった
かかわらず均等に負担する戸数割でも、納得が得ら
4
中
l問の手
竹他からビニール官への交換作業は、井戸イ付仲
れるのである 。
、
人
f この H
によつて行われたところカがf多カか、つたカが
最良の方法は、各家に量水器をつけて、地
F水利
水道用の L
必,~ì司準
格,~のパイプを{使吏うところもあれば、安値i
\í
)
1戸
用分を戸別に出せば良い。 ところが、これでは :
l
こt
f
jJえるために t
j
l
'
水用のパイプを使うところもあ っ
0
0個近い量水絡が必要
組合加入の全戸にあたる約 1
A設された配管 l
土井戸仲間ごとに多様なものが
て、:t
l
!
1
1
からの補償
になる 。古式水道の改修工事は、行政 l
使用された。
の範囲だが、工事の終了後の運営にかかる分は、補
償の範囲外である 。
f
T式水道
さらに、 一般的な上水道府の量水器を、 T
を改修した新式水道に 用いること は、正しい使用方
さらに、前述のように、かつては空気抜きが行わ
れた 。空気抜きは、配管に錐で穴を開けたのだが、
その穴の処則は穴に竹串を挿して折り取る程度のこ
とが多か ったという 。
法ではないという 。上水道用の量水掠は、加圧送水
ビニール官に交換後の配管は 、基本的には新式水
された水を正確に感知する 。 したがって、公共上水
道に引き継がれている 。 これは、全ての配管系統を
道のような加圧配水する 構造と 異なる新式水道で
新たに埋設し直すには、多額の費用負担が必要だ っ
は
、 一般的な量水器の使用は向か ないのである 。加
たからである 。 このため、河川改修による補償工事
えて、新式水道のような流水を計る量水器は 、上水
で改修されたのは、水源地から各吐出糟までの配管
道用のものに比べて 、価格が 3倍ほどするのだとい
う。 この代金や取りつけ料金の負担は、使用者負担
だけだ った。
異種の配管の混用や専門業者以外の施工による不
となる 。
備や配管の老朽化、空気抜き後の処理などは、流下
吐出糟の流
このため当初は、上水道用の量水器を l
方式による通水では、水流も弱く影響は少なかった
入口にだけ取りつけるという、必要最小限に抑えた
ようである 。 ところが、新式水道で、は、吐出槽から
のである 。使用量の差による負担が問題化した吐出
配水する構造になった。 このため、 太さなどが異な
槽組では、吐出槽から出ている各井戸仲間の配管部
った井戸仲間の配管に、一つの吐 出槽から同じよう
分に、井戸仲間の量水器をつ けることが必要になり、
に水が流れ、水圧の関係で配管 によ っては不具合が
上水道府のものがつけら れた。
土出槽に溜まった
生じたものと思われる 。 さらに、 1
人間文化・ 1
9
高島町勝野の古式水道一引水のし くみと共同利用の形態 ー
水が流れ出る構造のため 、相対的に水流に圧力がか
かることになった。
こうした迎白で、改修後には配符の劣化箇所や施
工不良筒所などに負担がかかり、漏/1<しやすくなっ
たものと思われる 。 ところが、新式水道では漏水し
でも、吐 l
i
i槽から流れ出た分は、全て使用した量と
なる 。当然、漏水した分もポンプの電気料金を負担
しなければならず、漏水に対する人びとの関心も強
くなった。
~lk ;J<f得が各井戸仲間の配管についている吐出柑組
の場合、各井戸仲間の代表者がf
引 jの数値を記録し
1
攻し、 f
史
ている 。その月の数{
直と過去の記録とを 比 ;
川i
i
fが極端に多い場合は、漏水している可能性があ
ると判断できるのである 。
5-8.新式水道における井戸仲間
,
j
f
iJ&のように、井戸仲間ごとに量水器がついてい
U糟組では、井戸仲間単位で使月 J
主;が分かるの
る吐 L
で、その数値から算出された金額を井戸仲間jで負担
写真1
7 伊勢町組の分岐箇所
堀割り の両側へ本管を分岐させるのは、かつては会所 (
写真
中央)で行われたが
、 今は T字型の部材で直接分岐している。
集金するのではなく、年に 2回、半年分を先払いし
するようになった。 さらに、ある井戸 1
1
11問では、家
ている 。年に 2回の集金には 、「年番」 と呼ばれる
にポンプなどを設置していて 、水を多く使うことが
伊勢 I
/
I
J
細l
の役員があたる 。伊勢 I
/
I
J
組は
、 侃割りを挟
予 想~できる家には、量水器をつけてもらい、その量
んで、左右両側に家があり 、本管はまず掘削 りの左
水器の数値から算出した分を戸別に負担してもら
右に分岐する 。 このため、かつては年番も左右両側
う。そして、そうした家々の分を差しヲ │
いた金額は、
から 一人ずつ出していたのだという 。 しかし 、現在
量水採のない家々で戸数割にしていると ころもあ
、 │
止出槽 B
では年番は一人だけである 。 5年に 1度
る。
の代表の役が伊勢町組に回ってきた場合には、その
,
i述の伊勢町組の場合は 、 また少し違う 。伊勢町
年の年番が担当する ことになっている 。
y
組、西j
I
汀
組
、 二i
l
i
f組、職人
組は、地理的に近い中 m
0
0
0円だが、 こ
さて、半年分の先払いは、現在は4
川
非I
I
を含む五つの井戸仲間 と共に、吐出作l
B組を構
れは過去の数値の記録から算 出 した概算金額であ
成している 。│
吐出槽 B組では、各井戸仲間 の配管に
る。実際の支 出傾に少し余裕を 持たせた金額であり、
:
h
l水出をつけていない。つまり、│止山側 Bには、水
支出分を差しヲ │
いた残りの分は、積み立てにされて
源地からの流入 口にしか量水器がついていないので
いる 。請求額には、積み立ての残高分と、新たに集
ある 。
6
00
0円 (
4
0
0
0円 x 9粁)とを合わせて充
められる 3
伊勢町抱一
i
の場合、 B槽の全体の負担金は、 B槽を
てる 。集金時には、過去半年分での毎月の支出分が
構成する五つの井戸仲間の戸数全体で頭割りした分
度さ れ
、 井戸仲間として
書かれた明細舎が年番から i
のうち 、 伊勢 町 組の構成軒数分である 9~if 分がまと
B槽の代表者に支払 った金額と、伊勢町組の残高の
めであ5
求される 。
金額が報告される 。 この時に、 この先半年分の負担
各吐出槽組では、代表者が一人決められていて、
00
0円が集金さ れる。
金である 4
l
止山相 B組では 5年に 1回、各井戸仲間にこの役が
r
I
J
組 では、
ある時期から使用量が場え 続け、 伊勢 I
当たる。 この代表者は 、年に 1回行われる勝野井戸
積み立て残高が減り始めた。 これでは赤字になる こ
組合の総会に出席するほか、 B槽の負担金を算出す
とが予惣されたため 、伊 勢 町組 の寄り合いで年間
3日に量水器の数値を記録すること
るために 、毎月 2
6
0
0
0円だった負担分を 8
0
0
0円に値上げした 。 ところ
になっている 。 こうして各井戸仲間の負担分を計算
が、使用量が極端に増えた家は考えられず、漏水が
し、請求している 。
疑われ調べたところ、個人宅への引き込み管と本管
伊勢町組では、請求された負担金を毎月各家から
20 ・人間文化
の按統音1から漏水していたという 。 これが原因で使
高島町勝野の古式水道一引水のしくみと共同利用の形態
用量が増えていたのだった。 B槽には、各井戸仲間
設立されたが、井戸仲間は今も地域で自主的に新式
の配管に量水器がない。 このため、漏水が判明しに
水道を運営する基礎単位なのだ。
くかったらしい。 2
0
0
2(
平成 1
4)年に漏水箇所を直
すと、数値が減ったので、元の年間 6
0
0
0円に戻すこ
6
. 井戸(系統③)
とが検討された 。しかし、今後の支出などを考えて、
勝野の集落で、井戸系統が見られるのは新町地区
積み立ての残高がある程度の金額になるまでは、据
のうち、 三度川から勝野の集落の北端までの地区で
え置くことに決まった。
ある 。井戸系統では、地面を掘り抜いた井戸や、竹
勝野井戸組合の規定では、負担の範囲も決められ
ている 。水源地の維持管理費は組合加入の全戸で負
担し、吐出槽にかかわる費用は、吐出槽組で負担し
みと
や鉄管などを打ち込んだ井戸によって、屋敷地内か
ら地下水を得ている 。
しかし、新町地区でも、分部時代に今市新町と称
ている 。 さらに、末端の配管部については、井戸仲
された地区の約 20軒のうち、7ì~干は湧水系統で、あり
間で、責任を持って負担し、本管からの引き込み管は
(前記の昭和 5
1年度の調査)、集落の西方の水田地帯
各家で負担する 。井戸組合では、維持管理の責任範
の一角にあった元井戸から竹樋で引水していた。
囲と、 1立方メートル 5円という 算 出基準は規定さ
れている 。 しかし、前述の量水器をつけるかどうか
前記の昭和 5
1年度の調査から、井戸系統の水源は
4種類に分類できる 。それは、
など、各家に直接かかわる負担形態や徴収体系は、
井戸①
各井戸仲間の裁量に委ねられている 。つまり、勝野
2
0センチから1.5メートルほどの深
井戸組合という組織は、地下水利用をする地域の代
さまでコンクリート枠を埋め、その
表組織にすぎず、実質的には井戸仲間が新式水道を
底面から鉄管を打ち込んだ井戸。
井戸①
運営する受け皿になっているのである 。
鉄管やビニール管を打ち込んだだけ
の井戸。
新式水道をヲ │く場合には、勝野井戸組合に加入し、
専用用紙に著名して提 出する 。 さらに、新規加入者
井戸①
コンクリート枠を沈めただけの井
井戸④
一つの屋敷地内に、 2ヶ所の井戸を
は加入金が必要である 。 しかし、加入時の 費用は、
戸。
井戸仲間に支払うのである 。つまり、井戸組合には
所有し、どちらか一方の井戸からも
現金は一切入らない。
う一方の井戸へ水を送っているもの。
井戸仲間の裁量に依存する運営形態は、これまで
井戸仲間単位で極めて自主的に維持管理してきた、
各仲間の慣習や馴染みある運営に配慮したものと言
である 。
える 。新式水道への移行時に生じた様々な問題を解
井戸① は
、 一般的には 「
打ち込み井戸」と呼ばれ、
決する根底にあったのは、地域の利用者が納得する
地面を少し掘 り下げ、その底面から竹や鉄管を地下
こととは何かということであった。
利用者にと って、
へ打ち込んだ井戸である 。竹や鉄管の打ち込みの深
新たな運営やその費用負担などの而で、不安要素は
さは、約 40メートルのものと、 1
0メートル前後の 2
少なくなかったことだろう 。
種類がある 。前者は鴨川の伏流水を、後者は周辺河
こうした状況で、利用者からは様々な意見や要求
があったに違いない。 しかし、その全てを開き入れ
川や扇状地の伏流浸透水による 地下水を利用してい
たものと推測できる 。
ることはできない。これまで同じ元井戸から引水し、
鴨川の伏流水は、河川改修でも枯れることはなく、
共同で維持管理をし、苦労を共にしながら、生活に
良質の水で、ある 。 しかし、層の幅が狭く、数メート
必要不可欠な水を得てきた。その連帯感を持った井
ル離れただけでも水が出ないこともあるようで、こ
戸仲間は、個人が持つ不安や要求、それぞれの思い
の地下水を得るのが可能な場所は限られているとい
などを再形成し、不安の払拭や問題解決の契機にな
つ。
っていったのではなかろうか。集落単位ではなく、
井戸② は
、 8ヶ所のうち 6ヶ所でビニール管が使
もう 一つ小さな単位として、水で、つながり合ってき
われ、うち 2ヶ所は業務用のもので、それぞれ洗車
た井戸仲間の存在は大きかったと考えられるのであ
と冷蔵庫の冷却用に使われていた。 これらの打ち込
る。
みの深さも、約 36 メートルと約1O ~15 メートルの 2
言い換えれば、元井戸は一つになり、井戸組合が
種類あ った。
1
人間文化 ・ 2
高島町勝野の古式水道一 引水の しく みと共同利用の形態 ー
3ヶ所のみで、
井戸③ は
、
1-1.5メートルの深
さにコンクリート枠を沈めたもので、「掘り抜き井
戸」と呼ばれる井戸である 。
7
. 勝野の地下水と水源
Jf#-野の周辺では、「どこを打っても(鉄管ーなどを
打ち込んでも)水が出る 」 と言われている 。荒木良
チ│
ニ
戸④ は、水源、となる井戸と、そこからの水を 1
留
弘さんの話では、 この勝野の 集落付近 の地下に は
、
める「井戸」とが、同じ屋敷地内にあるものである 。
「
株太」 とH
乎ばれる古代の樹木の株が多数埋まって
4ヶ所のうち、 3ヶ所では、水源となる井戸は屋外
いるのだという 。株太がたくさん地中に埋まってい
にあり、屋内の台所に設けられた 「
井戸 jへとヲ│水
9
9
2(
平成 4)年から始まった F水道工事
るのは、 1
していた。「井戸 j からは手桶やポンプで水を汲ん
によって分かったのだという 。下水道工事で横穴を
で使朋していた 。「井戸」 のなかには、下音1
¥
に木製
トンネル状に掘り進めた時に、機械の先端のドリル
の桶が使われ、上部の枠はレンガ積みの古いものも
が地中の株太に当たり 、歯に絡ま る トラブルが多発
見られた。
したのだという 。 ドリルは、岩石など吸いものには
荒木良弘さん (77) によると、井戸①②④におい
て、井戸の打ち込みに鉄管を用いるほかに、お金が
強いが、市l
i
性のある繊維質には弱く、工事 関係者は
頭を抱えていたという 。
かからない竹がよく用いられていたという 。 これに
一般的に 、鉄は地殻に多く存在し、地下水に溶解
は、なるべくまっすぐな竹を選んで、
、 11))ごろに切
しているが、株太のような植物などの死骸が多数堆
り出 して j
日いた。打ち込む前には、先端部分に樫の
積していると、それらが分解してできる腐植によっ
木でできた三角形に尖った 「
鏑」 と呼ばれたものを
て、鉄などが沈積する 。 今西仁さんは、 「このあた
つけた。 これを地面に突き刺していく 。 この作業は
りで打ち込みを依頼された場合には、 『
金気で良か
人力で行い、 l
則立や梯子を台にして、叩いて打ち込
ったら、何!i'でもやりますよ j と言 うてました」 と
んでいった。 この時に、一気に日 1き入れると、竹が
言 う。 l
除i
l
l
}の集 i
各で井戸を掘る場合に、鉄管を打ち
割れてしまうため、 1
0
0回れって 一服するのを繰り
込めば、場所を間わず水は出るが、金気を合むこと
返しながら、打ち込んだのだという 。
が多く、水質については保証しかねるということだ
打ち込みが終わると、 「
節抜き 」 を行う 。 これは
鉄筋を上部から入れて、竹の節を抜 く作業である 。
ろう 。
このことを 示す例がある 。 それは、ある酒造会社
最後に鉄筋が竹の先端部の鏑に当たると、鏑ごとっ
がボーリングJ
易水を試みた時のことである 。和田
き抜いて、鏑を取ってしまう 。鉄筋が鏑に当た った
打 ・小 I
l
LJ
Iの河川改修によって、元井戸が使用不能
かどうかは、手応えで分かるのだという 。
にな ってl
有ったのは、集落内にある酒造会社も同様
す
次は、 「
小砂取り 」 と呼ばれる作業である 。 これ
であ った。 木津省 二
三さんによると、この会社では、
は、地中に打ち込んだ竹の先端部の同開の砂を 2、
M
J
I
'
Y線東側の湧水地帯にあ った井戸から、
もともと i
3
11
分ほど取る作業で、竹の先端部分に企洞を作っ
ポンプで貯木タンクまで引水して使用していたのだ
て、周 I
J
t
j
から地下水が集まりやすくするためである 。
2な作業であ
これは鉄管の打ち込みの際も、必ず必 1
"
1
家製の場合が多く、ブ
る。 この小砂取りの道具は 1
リキなどのナマコ板を筒状にし、鉄筋の先に取りつ
けた。 これを押し入れていくと、筒内に砂が入り掘
れる 。 f
c
1
iの r
l
'は、引き上げる │
時に砂が出ないように
弁のようなしくみになっているために、砂ごと引き
上げられる 。そうして引き上げた砂が、小豆粒の半
分くらいの粒子で、ベージュ色か黄色い茶色をして
しろかな 1
)
いれば、 「白金気」 と呼ばれる地下水など、金気を
気にせずに使用できる質の良い水が I
:
Hるとされた 。
これよりも粒が大きかったり、色が違う場合には、
金気などを含んだ質の悪い水がけ1
ることが経験的に
分かつていて、こうした場合には、屋敷地内で場所
を変えて、打ち込みを行ったのだという 。
22 ・人間文化
写真 1
8 上級用水の水源地にある会所
山水を引水し、生活用水としているため、注意を促す看板が
ある。
高島町勝野の古式水道ー 引水のしくみと共同利用の形態 一
という 。 ところが、 この元井戸が河川改修で使えな
利用 されるべき対象物、あるいはただの自然資源に
くなるため、集落 内の屋敷地内で 1
0
0メートルほど
すぎないように思われる。現代人の水利用は、まさ
ボーリングをして、水を得ることにしたのだという 。
に大量消費・大量廃棄却である 。
0
0メートル
この打ち込みで水は 出た 。 しかし、 1
かつて、物を大切に使い続けることが 1
n
-識だ、った
も打ち込んだものの 、酒造用にこれまで、使っていた
時代には、使い続けた物には魂が宿るなどと、人は
水と比べて、水質が満足のい くもので、なかった。 そ
物に対する独特のイメージを持っていた。現代社会
のため、結局はボーリングを諦め、もともとの水源
の水利用は、人間が水というものに対する具体的な
を改良してポンプで揚水することにしたのだとい
イメージを持つことができない状態なのではなかろ
つ。
この出来事は、水質の直l
で集落か ら離れている湖
西線付近の湧水地帯に 地下水 を求めた方が有利であ
った ことを 裏づけている。集落の西方にある湧水地
i
1に水は利用するものとして、日 7
5
・
うか。 だから、 l
生活では水の存在を t経視する傾向が急速に広まって
いるのだろう 。
現代社会では、公共上水道のように、水とのかか
帯では、 一時間ほど掘り下げれば、良質の水が湧き
わりを行政などに外事化した 。 こう したなかでは、
出るのだという 。事実、古式水道の元井戸で、十 J
ち
阪和 1
1・淡路大足災のような非常時になって、人 1
1
1
1は
込み井戸はなかった。
ようやく木の尊さを実感するのである 。 しかし、そ
こうした状況から判断すると、新 U
I
Jの北部を除く、
うした実感は、日常生活で水とかかわることの苦労
勝野の集落では、集落から離れたところに、生活用
や白身の経験などに哀づけされたイメージがないた
水を得るための水源、を設けて引水する水利 j日の形態
め、ある t
.
l
¥
'
!
mを過ぎればすくに忘れ去られてしまう 。
が古来より行われてきたと考えられるのである 。
2
1世紀は水の世紀であると言われるなかで、従来
の社会のありん-ゃ午前形態を再考するには、新たな
8
. おわりに
視座が必袋である 。 仁ド水道の整備に見られるよう
勝野の集落内では、金気の少ない良質の水を得る
に、効率性や合 J
I
[件を追求し、社会の構造が広域
ことが困難なため、 1
1
1水や集落か ら離れた湧 J.
K
地'
H
7
化・ システム化するなかで、水の問題や J~沈:zfUJ!速を
を水源として、竹樋やパイプを )
1
1いて生活用水を引
再考するだけでは不十分なのではないか。 t
=
1
身の身
水してきた。 この引水という形態には、チ:
1
戸仲間な
体でうた!感し苫労しながら、水とかかわ ってきた地域
どの共同組織での人びとの連帯や維持管理が必要だ
では 、生活実感が伴 った、水に対する具体的なイメ
った。引水という営みを 地域が 自主的に述常するた
ージがある 。暮らしのなかで、人間に生活実!惑が作
めに、歴史的に人びとは決まりを作り、 ~I 日iE を w し、
わなければ、地域を越えて発生する危機的状況に人
苦労を共にしてきたのである 。河川改修で、従来の
びとが共感し、その問題を自身の問題として捉える
古式水道において、元井戸が使用 不能になるという
ことはできないのである 。 閉塞状 j
兄にある現代社会
新たな問題が生じた H
寺にも、 地域の人たちは、その
で、直 r
f
l
iする諸問題に対して 、有効 な解決策を早急
時代に最適な形態を検討し、新式水道という J
L休的
にI
Y
!
l¥
Iさせるためには、 このような悦庄が必袋なの
な水道をっくり上げた 。水とのかかわりを通して、
ではなかろうか。
地域文化の持ったくましい側面が衣れ山たと 言えよ
つ。
こうした水と地域の人びととのかかわりを通して
調j
辞
滋賀県による 「
平成 1
5年度湖西わき水まちづくり
見えてくるものは、地域の人ぴ、とにとって、7](は尊
受託者、滋賀県立大学人間文化学
調査検討委託 J(
いものであると同時に、触り難い存在でもあり、ま
部教授武邑尚彦)の一環として、大学院生の上│封洋
た採め事の原因ともなり得る厄介なものとしても捉
平、戸田Mf一、岡山玲子を中心に溺j@地域の 5t
長決
えられていたということである 。生活 J
I
J水を引水す
で湧水利用の調夜を行った 。本論は、このうちの向
ることに人びとが直にかかわる こと で、こうした水
島町l
J
長野における湧水調査に基つ いたものである 。
のイメ ー ジが形成されてきたように忠われる 。
高島町を含む高島郡は、広域合併を控えている 。 こ
これに対して、生活用水を行政による公共上水道
r
うした状況で、全国的にも貴重な道路の中央に掘割
に依存している現代社会では、水のイメージとはど
l
りの残る街路や t
8
・並みなど、勝野の集落が持つ風情
のようなものであろうか。 日常生活では、水は単に
は、さらに重要な存在となるだろう 。いま勝野では、
人間文化・
2
3
高島町勝野の古式水道一 引水のしくみと共同利用の形態ー
古い町家を観光施設として再生するなど、具体的な
参考文献
地域づ くりが行われている 。 i
勇水を活かした勝野の
① 滋 賀 県 今 津 土 木 事 務所 作J
I旺l
打川 調 査 報 告 書 』
水 文 化 も 、 こ う し た 地 域 づ く り の ー っ として、持
続・展開していく可能性もあるのではなかろうか。
今回の調査の目的は、地域の目線で人と水とのか
かわりを見ることであった 。地域の方々にはご理解
とご協力をいただき 、 たいへん有難いものだった 。
「この町にして、この人あり 」、地域の美しさと共に、
地域の人たちの温かみを実感した次第である 。
特に、荒木良弘氏 (
地下水全般、井戸関係)、磯
1
9
8
8年、総頁数 1
3
7頁
① 水 資 源 開 発 公 団 『高 島 町 井 戸 1
J
t況 調 査 報 告 書 j
(
高島町勝野分) 1
9
7
7年、総頁数 1
1
2頁
① 「日吉 山山水組合」保管資料(木津省 三氏、松下
芳子氏提供)、総頁数 1
3頁
or
勝野井戸組合」保管資料(今西仁氏提供)、総
項 数9
1
頁
① 「琵琶湖がつくる近江の歴史」研究会 『
城と湖と
1
1水関係)、今西仁氏(勝野井戸組合およ
野宏氏 (1
近江 jサンライズ出版、 2
0
0
2年、総頁数3
0
0頁
i
勇水関係)、木津省 三氏
① 市川秀之 「滋賀 県湖西地域の伝統的上水道 J 前
び水道全般、
(
1
1
1水 │
刻係)、
1
1
竹下彰子氏(湧水関係)、松下亀太郎 ・芳子氏 (1
水関係 )、1;(架実氏 (
湧水関係) には、資料の提供
や地域の案内、聴きとり調査にご協力をいただいた 。
可先
また、滋賀県立大学教授の高谷好一、武邑尚彦 1
生には、現地調査から資料推定1
1
に至るまで、様々な
ご指導をいただいた。 ここに記して、深く感謝の意
f
t
i書j総頁数 1
9頁
r
r
⑦ 山岸常人 「高島 I
I
I
J旧大溝城下 1
1
]の民家 J 高島町
歴史民俗叢書 J第 9集、高島 町教育委員会、 2
0
0
1
年
、 総頁数4
4頁
③ 久馬 一 剛ほか 『
土 擦 の 事典 j朝合占応、 1
9
9
6年
、
総頁数 5
6
6頁
を表させていただきます。有難うございました 。
J
L
⑤ 水ハンドブ ック 編集委員会 『
水ハ ンドブック J.
註
⑬ 高島 町史編纂委員会 『図説高島 町の歴史 j2
0
0
3年
、
善 出版事業部、 2
0
0
3年、総頁数7
0
4頁
(
1)
制 農 山漁村文化協会 『江 戸 時 代 人 づ く り 風 土 記
2
5J1
9
9
6年
、 2
1
1頁
(
2)
制 農山漁村文化協会 『
前掲苔 J2
11-21
5
頁
7
2頁
総頁数 1
⑪ 水みち研究会 日│戸と水みち j 北 斗 出 版 1
9
9
8年、
0
2頁
総頁数2
(
3)
附農山漁村文化協会 『
前掲 i
l
;
:J2
1
5一2
1
6頁
(
4)滋賀県教育委員会 『滋賀県の近代化遺 産 J2
0
0
0
年
、 1
7
7頁
r
(
5) 郭内」 とは、厳密には分古¥
1
氏の陣屋があ ったと
ころを指すが、武家屋敷などがあった、事1内を含
んだ外堀の│刈側の地区のことを 「惣郭」 と言 う。
「郭内 Jとは、この惣事1の内側という意味で使わ
れているようである 。
(
6) 使用中の 2
0ヵ所とは、昭和 6
2年度の調査報告
書と、勝野井戸組合保管の資料による数字である 。
昭和 6
2年度の調査報告書で、使用状況の欄が空 白
だったの井戸の使用者が、勝野井戸組合の加入者
一覧に、井戸の番号と共に記入されていたからで
ある 。
(
7
) 高島 H
町 史 編 纂 委 員 会 『高 島 町 史 1
.1
983年、
375-376頁
(
8)
船農 山漁村文化協会 『
前掲書 J2
1
4
頁
(
9) 市 川 秀 之 「滋 賀 県 湖 西 地 域 の 伝 統 的 上 水 道 」
I
近畿民具学会年報 j 第2
5i附別刷、近畿民共学会、
2
0
0
2年
、 1
7頁
同 高 島 町史編纂委員会『前掲書 J9
53-954頁
24 ・人間文化
図表
① 図 5 滋賀県今津土木事務所『前掲書 j をもとに
作成
① 関 6、 7および表 2 水資源開発公団 『
前掲 者 j
(高島 町勝野分)をも とに作成
① 図 8お よび表 l 勝野井戸組合提供の資料をもと
に作成
高島町勝野の古式水道一引水のしくみと共同利用の形態 一
Comment
水野章二
人間文化学研究科地域文化学専攻
本論文は高島町勝野の古式水道(近代化以前から
み出し、また都市住民の増大が、城下部分における
の水道)の引水のしくみや利用形態を明らかにした
勇水系統の水道を付加さ
水利用に、近位中期以降、 i
ものである 。当該地域の古式水道は、その水源によ
J
!
1
J
で
き
る 。そして近代以降の都市構造
せたことが推 i
って大きく山水と湧水の二系統に分類されるが、そ
の変化も、水道の利用形態などに影響を与えている 。
れぞれ聞き取り調査などを通じて、詳細かっ丁寧に
特に上水道が敷設され、古式水道と併用されて以降
まとめられている 。
は、機能などにも大きな変容が訪れたはずである 。
勝野は近世の分割i
務城下 J
O
J大講の中心部分にあた
論文からは卜分には読みとれなかったが、飲料水は
るが、山水系統は「郭内」と呼ばれる陣屋などがあ
上水道に、洗い物や 「いけす」は古式水道に使い分
った地区に配水しており 、i
勇水系統は問屋などのあ
った城下部分に対応するという 。かつては竹樋で、導
あり方と密緩不自E
!の関係にあり、大溝という都市的
水されていたが、やがてスレート製・ビニール管な
空間の展開課程の中に位置づけて論じて欲しかっ
けがなされているのであろうか。水道は地域社会の
どに代わるとともに、昭和37年に上水道が敷設され
た。それによ って逆に、早くから水道を不可欠とし
て以降は、それと併用される 。 また湧水系統では、
たこの地域の特質を浮かび上がらせることもできよ
平成 3年の河川改修以降、従来の水源、地が機能を失
つ。
い、ポンプで揚水するなど、大きく姿を変える 。
河川改修などによる近年の変化は古式水道 の性格
関わる集団のあり方など を調 査・記述した~重な報
を大きく変えてしまったかにみえる 。量水器が取り
付けられ、ポンプ代が支払われるようにな ったが、
告として評価されよう 。 それを前提とした上で、
それは普通の上水道への接 近と いってよいであろ
二 ・三の感想を述べておきたい。水利用という生活
う。はたして古式ぶ道は今後どうなるのであろうか。
本論文は古式水道の近年の実態や、利用・管理に
に密着-した切り口は、この地域の特質を考える上で
このような システムを維持していくべきか、そのた
きわめて有効である 。 しかし聞き取りをベースとし
めにはどうすればよいのか。簡単に答の見つかるよ
た現状報告という性格が強いため、このような古式
うな問題ではないことは重々承知しているが、正直
水道がなぜこの地域で発展 したのか、今後どうなる
なところ、著者の気持ちを聞いてみたかった。それ
のかなどという問いかけはあまりみられない。
は著者のいう 「
水に対する具体的なイメージ」 をよ
古代以来の水陸交通の要衝であった大 i
Y
i
i
の地に都
り鮮明に表現することにもつながるであろう 。今回
市を建設するためには、金気による井戸水利用の限
とりあげられた生活用水あるいは農業用水など水の
界を克服して、都市住民の生活用水を確保すること
利用・管理などの問題が地域社会を考える 重要な分
が不可欠となる(近江八l
怖や彦被の古式水道の場合
析視角となることは間違いない。著者のいっそうの
も同じである 。
) 論文の部分的記述からも、近世都
活躍を期待する 。
市の持つ身分構造が二タイプの水源による水道を生
人間文化・
2
5
高島町勝野の古式水道
引水のし くみと共同利用の形態 ー
Comment
武
E 尚彦
人間文化学研究科地域文化学専攻
自然との共生、地域との共生、人との共生など。
いろんなところで共生の大切さが叫ばれている 。だ
合でさえ、結局は) 一人一人の行いの積み重ねにあ
ることは、安全や防犯の問題を考えてみても │
列らか
がどれも実際となれば簡単なことではない。水との
なことである 。 しかし残念ながら、それがそうはい
共生も同様のことである 。どうすれば、きれいな水、
かないのが日本の現状であり、世界の現状でもある 。
安全な水とともに日々を暮らすことができるのだろ
だから 2
1世紀は水をめぐる戦争が顕在化するだろう
うか。
といわれるのである 。
こうした問いは今日の日本では、説にと っても 、
/
1
]1
勝野で古式水道についての聞き取
渡辺君が高島 1
ごく当たり前の聞いになった。むしろそれは問いと
り調査を始めたのは 2
0
0
3年の初夏のことである 。勝
いうより 「
願ぃ」 という相応しい。「安全と水はタ
ダ」というのも今日の日本では、ほんとうにタダの
野における古式水道はその淵源を分部公の│時代に遡
神話にな ってしまった。
古式水道が今もなお連綿と受け継がれていることで
私が暮らす琵琶湖の南部では、高度経済成長が始
ることが出来るのだが、興味を引かれるのは、その
ある 。井戸を掘っても金気が多くて飲料水には適さ
まると同時に上水道が敷設されて、水はタダではな
ない。そうした集落内の土地の性質が集落外の湧き
くなった。 1
9
6
0年頃ではなかったかと記憶する 。河
川の砂利が業者間で取引きされるようになって地下
水や山水を利用して共同で引水する慣行を存続させ
てきたのは IIJJ述いない。そうしざるを得ない事情が
水位が低下し、軒並み井戸7.Kが枯れたからである 。
あったからである 。 しかし、所得倍増論、:YI
J!詰改造
当時は環境問題や環境訴訟などという考え方はなか
論、そして高度経済成長へと日本は大変動を遂げた。
ったから、井戸水が枯渇した原凶は経験的に 分かっ
勝野の他もその例外ではありえなかった。公共上水
ていたけれど、 地域の誰もが黙って半抱したのであ
道の敷設はいうまでもなく、琵琶湖総合啓発や河川
る。
また安全がタ夕、でなくなったのは、 一般的には、
改修が行われ、そのたびに古式水道は存亡の危機に
ごく最近のことだと思われるだろう 。 しかし、よく
考えてみると、やっぱり高度経済成長期が境日だ、っ
たれている理 8
1は何なのか。おそらくそれは 「いの
ちの水」という尖'感を、地域における日々の暮らし
たように思われる 。体力のある青壮年層がみんな働
の中で確認し合う生活があったからに追いない。そ
立たさ れたのである 。だが今もなお、その命脈が保
きに I
I
Iてしまったのだから、いざというときにはど
の意味で勝野における古式水道の歴史は、人と水の
うにもならないというのが、そのころから当たり前
共生の歴!とそのものなのである 。
になったのである 。そのために地域でも行政でもさ
しかし、 「いのちの水 Jという 笑感はどこからく
まざまに対策が講じられたのだが、いかんせん地域
るのか。 この実感が薄れたとき、水は冒頭に述べた
のつながりはル ーズになる 一方で、いまや讐察官の
のとは日Ijの意味で「タダの水」になるのかもしれな
地
J
.J
と地域にある交番の機能回復に、あるいは地域
い。 インテンシブな聞き取り調査は、このあたりの
消防団の活性化に、国家レベルで
ているのでで、
ある 。
法である 。湧き水や山水に着目した 「きれいな水と
少し同り道をしてきたが、きれいな水とともにあ
る暮らし、それは今日の日本では誰の願いでもある
だろう 。その実現の可能性が(字宙規模で考えた場
26 ・人間文化
ことを深く追求することを可能にする唯一無 ー
.の万
ともにある暮らし」の実現に向けて、何らかの提言
を期待したい。(平成 1
6年 2月lOR)
論文
「明治・模範村『宮村 j
Jの人と水
農 業 日 誌 は な ぜ書 か れ た の か
岡田玲子
人間文化学研究科地域文化学専攻
1
専土後期課程
時代に表彰されたこのことが 21
世紀の今になっても
はじめに
滋賀県甲賀郡旧宮村(現在の甲南 I
I
r
[南部)は、低
「
模範村」宮村といわれて、 この地の人々の 誇りに
い丘陵が速なる 山聞の小さな村である 。ここは大昔、
なっている 。 これほどこの地の人々の心を支えて い
古琵琶湖の底であったと ころが隆起したために 、水
る 「
模範村 Jとは何だろうか。
をf
呆つような山もなく、そ こから流れ出る川もな く
、
回の水源は谷頭にある 小さ な溜池の水だけだ.った 。
つまりすべての凹の用水を天水に頼るという天候に
そこで、 まず 「
明治の模範村 」 について の情報を
集め、その成立の背景を調べてみた。
次に、宮村がなぜ模範村に選ばれたのかを調べる
ために、'
白村の近隣の 同じような水環境と特殊重粘
左右されやすい稲作地域であった。
その上 この地域の土壌 は
、 古琵琶湖の )
:
f
1:積土であ
土からなる龍池村と伴谷村と宮村の三村の、この時
り、しかも宮村周辺は 火山灰を 主とする 特殊重粘土
代の水環境と人 々の暮ら しを比較検討してみた。特
から成るために、少しの早魅でも凹而に危裂が入っ
に、模範村で、なかった隣村の龍池村 と、模範村であ
て減収となった。 また、早魅に会 って 田に入 ってし
まった危裂は 二 度と元には戻らず、
r
U
I
H
n
¥り」 ゃ
った伴谷村と符村の 三村を比較することによ って
、
模範村はどういう村であったかを考えてみたい。 こ
「
床張り 」 などの重労働を 伴 う聞の復旧作業が必要
うして明治の模範村の全貌が明らかになることによ
であった。 このような早魅の被害を最小限にするた
って 、 その ", の宮村の位置や 特徴がは っ きりし、 ~p:;
I
Jにしてお
めに、この地域の凹はすべて年中の滞ぷ J
村の人々が周辺の村人よりもなおい っそ う勤勉に働
かなければならなかった。そのため、この地の農作
1々の記録を残しながら計画的に芥らし、
き、かつ 1
業は、日常の農作業で も他の地域に比べて、特別な
そして什 '
1
'協力し合って暮らさなければならなかっ
技術と労力を必要とするものが多かった"
。
I
l
j
Jらかになると思う 。
た要肉と その過れ が
1
このような厳しい水環境と土壌条件を克服してき
た、この地の人々の農作業や生活の工夫を調貸する
H
l
の農業日誌を見せて
途中で、ある炭一家の方から -I
1
. 明治模範村
明治模範村 l
i
lいのうち、木稿に最も │
主Jjillがある先
r
r模範村 jの成立と構造 J(4-33ぬ
いただいた 。
引 それは昭和
]
10年代の数年間にわたっ
行研究としては
た毎日の農作業の記録であった 。
がある 。本稿ではこの中で指摘されて いる全│
主1
7
9
模
0歳)
山間の小さな村の、ごく平均的な農民 (
当時 4
範村のうちの 8ヶ村が集中する滋賀県周辺地域と、
が書いた日誌 3
1の内容の歴史的な価値とともに、こ
時の人々の暮ら しを、特にぷ環境と
この 8ヶ村のお │
の著者の F
I
々の暮らしの 中での地に付いた知性と教
土廃条件の視点から検討を試みる 。
養の高さに目を見張っ た。 この日誌を読んで私は、
'
1で、きちん
細かくめんどうな手仕事の繰り返しの '
l
;
p民の生活
と米を収穫して一年が終わっていく古の j
の一部始終を知り、また昔の村に暮らす人々の、地
域に根付いた生活風景と 知恵、を再認識した。
4)
において遠勝氏は、 明治の模範村について
論文(
(
1)
まず者I
l
d
i音I
1
およ
びその周辺には模範村はない。束
北・九州もほぼ選ばれていない。
選ばれているのは都市と辺境の中間地である 。
(
2)
模範村が極端に集中した地域が存在する特徴があ
この日誌のほとんどすべての記事が、その │
二
l
に行
る。 これは模範村がこれらの地域の特質ないしは
った数種類の農作業と周囲の人たちとの出 来事に終
地帯構造的な 原則に密着している ことが考え られ
始している 。 しかしその一つずつがあまりにも平凡
る。
であることに新鮮な驚きを感じた。その 一つをみれ
r
的な分布を調べ、また模範村成立の原
と、その地主r
ば茶飯に見える行動が、いくつも組み合わさって終
因としては、 「その農民の構成が、 一般の村と比べ
::1ずつが
わる 一 日の時間の重さ 。 また そのような ー 1
て土地所有の構成が高く、 純小作農の構成比はきわ
積み重なって成り立って いる 一年の暮らしが、もは
だって低い特徴がある 。 しかし、その土地所有の階
や文化と もいえるほどの輝きを 持っていた。 これを
層形態は 1
1
1
1
T
-51
町の中堅土地所有者層と 5反以下
見出したとき、 この地の昔の風景や、その時の農民
の零細土地所有者屑の 2グル ープを形成しており、
たちについて知りたくなった。
両者に階層的上昇と没落の両極分解傾向がある 。 こ
1詞のよう
たちまちわかったこと は、こ の村には1'
に 「
模範村jがついているということである 。明治
の危機を同避し、 一村団結と各個人の安定した経営
を維持するために努力した村が模範村とな った 。J
人間文化・
2
7
「明治・模範村 f
宮村 J
Jの人と水 一 農業日誌はなぜ書かれたのか ー
l
、‘
、
、
、
,
'
岐阜県
極井県
'
,
'
‘・
、,
,、,-
と分析している 。
まずは、論文(
4)
を基礎にして検討を始めるが、そ
の前に 「
模範村」といっても、その時期や選定基準
、
.
,-
r
,
ιP
、
‘
0ιi
が様々であるので整理をしておかねばならない。単
に模範村というだけでもその時期は明治初期から昭
和初期まで、渡っている 。 またその選定も、国による
、
f
北品
ものや県や郡によるものなどがある 。 しかし今は、
、
本稿の内容に閲るものに限定するために、模範村は
I
均な
谷、
村鎌掛村
,
明治のものだけに絞り、明治後期に、地方改良運動
の成果によ って国家から表彰された模範村を 「
政府
認定の模範村」ということにする 。 これに対し て
、
明治初期から自発的に村を活性化し、早くから模範
村といわれていた村がいくつかあった。 このほとん
図 1 滋賀県周辺の模範村
どが江戸時代後期の報徳主義の影響によって自 主的
に村を運営していた 。 このうちのいくつかが後の
水ポンプの出現とその性能の向上とともに、地元の
「
政府認定の模範村 」設定におけるモデルとなって
住民もこの苦労については過去のものになってしま
いる 15
っている 。 また小津村はその水利は上流から流れ来
このような明治の初期に、おのずから活性
化した村を 「自主的な模範村 j と定義して、本稿で
る水によっていたので、田の水量は 一般の村並みで
はこの二種類を区別して検討する 。
あったが、琵琶湖に面した村の一部では水が引かな
いという苦労があった。 これも土木工事の技術向上
1
1
. 滋賀県周辺の模範村
1.各模範村の水環境
とともに今の住民には過去のものになっている 。
このように湖岸の 2村については、増収のための
全国 7
9
模範村のうち 8村が滋賀県周辺地域に集中
"
O これは近畿地方、特に滋賀県南部
している (4-38J
律速条件となっていた回用水さえ確保できれば、そ
の琵琶湖南部および伊賀地方にわたる範囲に限定さ
水機能向上に比例して増した増収の成果により、模
れている 。 もっと範囲を限定すれば、滋賀県と 三重
範村として取りヒげられたと考えられる 。
の収穫量は目に見えて増えたことがわかる 。 この揚
県の県境にかけての半径 l
O
k
mの円の中に、小田村、
)
納田村、玉滝村、宮村、伴谷村、鎌掛村がある(
図 1。
2
_ 模範村の条件
またこの宮村、 f
半谷村から野洲川に沿って 2
5
k
m下流
(
1
)純農村であること
の平野音1の琵琶湖岸に兵主村と小津村がある 。
、
この 8村のうち小 田村、納田村、王滝村、 宮村
明治政府が描いた理想、の村は純出村である必要が
あった(
住4)。だから 工業や商業が感んであっては困
伴谷村、鎌掛村の 6村は古琵琶湖層の上に位置する
る。 このため大きな街道に遠く、交通が不便なとこ
山間部の集落であり、その自然、地理的条件はほと
ろの集落が選ばれることになった。滋賀県周辺にあ
んど同じである 川
。 この山 間部の 6村はいずれも古
る 8ヶ村のうち山 間部の 6村が位置する古琵琶湖 層
琵琶湖層に堆積した特殊重粘土により田用水の確保
(
i
12)
と早魅時の問の復旧作業 (
畦堀り、床張りなど)
地帯では、小さな丘陵が無数に残り、現在でも道路
に苦しんできた。
工場設置にはたいそう不利である 。 また琵琶湖沿い
これと 反対に兵主村と 小津村は琵琶湖岸の平野部
を直線的に取れないような地形であるため交通網や
の 2集落では、近世まであった湖上を使っ た船の使
の集落であるが、兵主村は自の前に豊富な琵琶湖や
も考えられるが、それも琵琶湖の風向きなどの条件
それに注ぎ込む川の流れがありながら、わずかに集
によって琵琶湖岸イコ ール良港というわけにはいか
落の田畑の位置が湖や川の水面より高かったので、
ない。 こうし て小津村と兵主村も交通の便からみれ
自村の田にその水を入れるには足で踏み込む水車
ば商業の発達より取り残された。
(
蛇車や龍骨車とよぶ) を利用しなければならなか
ム (
注 3)
つに
。
この苦労は 明治期、大正期のことであり、後 の揚
2
8 ・人間文化
また純農村でかつ大地主のいない自然農村の形態
をとる集落を形成するには、広々とした団地が取れ
ない所や、団地があったとしても牛や機械が導入で
「
明治・模範村 『
宮村 j
Jの人と水
農業日誌はなぜ書かれたのか一
きない所が、純農村でかつ大地主のいない自然農村
を兼ね備えたリーダーでなければならなかった 。だ
の形態をとる集落を形成しやすい。
が三重県王滝村の木津村長のように全国にその名が
古琵琶湖層地帯の村では、その地形条件により田
轟いていた人以外は、そのリ ーダーの業績も書物に
は小さい田ばかりしか作れなかった。 しかもその限
も書かれていなかったりする 。そのような村は、現
られた水源のため、団 地を拡大するなど不可能な こ
地へ行 って村のお年寄りにその ことを聞くしかない
とであった。 また年中の j
甚水田のために牛や機械は
U'
i6
)
田にはまってしまって使えず、農作業はすべて人力
この時代にも 、ど この村にも能力、人柄、家柄、
に頼るしかなかった。そのために、この地の小作地
学歴などを兼ね備えた人が必ず一人や二人はいた {IJ。
の回の階級は 1
0
段階にも分かれ、その水源、を得る難
しかし、その能力が発揮できる機会が来なければ、
0段階に分かれてい
しさにほぼ比例して 小作料 も1
このような人でもリーダーにはなれな L、
。 これは村
た。 このように耕作条件と水利条件が複雑に入り組
に何らかの問題が発生しなければ特に優れたリーダ
んだ土地では、農地の管理はそれを十二分に知る各
ーは必要とされないことでもある 。つまりよきリー
U
l
J前後を持つ自 営
個人の農夫に任せるしかなく、 l
の小農家からなる村が昔から存在し続けた ほ 5。
) だ
ダーは、村人の先に存在するものではなく、人々の
からこの地に大地主は育ちにくかった 。
また琵琶湖岸の小津村、兵主村の場合は平坦な土
地は広がっているが、その水源を得るにあたっては
要求と必要の中から生まれ、村人たちによって育て
上げ、られるものである 。
(
3)
やI
カfトラブルを f
包えていたこと
滋賀県周辺の模範村 8ヶ村は、いずれもその特殊
明治期では人力に頼るしかなく、やはりその耕作は
の用水不足という大問題を抱え
な水環境により、匠i
各小農家に任せるしかなかった。
ていた 。鎌峰村はその上に、長く続いていた山の権
しかし以上のような条件の村は 、隣村を含めても
利の紛争まで抱えていた(
判
。 これらの難問をリーダ
かなりの数に上るはずで、ある 。それがなぜその村が
ーの統率の元に、村民団結して解決し、増収という
模範村に選ばれたかというと、以上の条件をふまえ
実績を上げて表彰されたのが模範村である 。
て次の条件が大変大きい。
(
2)
すぐれたリーダーがいたこと
地形や風土では同じ条例なのに、その村が模範村
特に山間部に位置する 6村は、古来より皐魁の災
害におびえて来た地である。
5~6 年 ごとにや って
くる皐魅に備えて日頃から人身は他の村以上に助け
に選ばれたのは、その村の「人」の違いで、ある 。模
合い、数多くの講を作って備蓄する習慣があった
範村に選ばれるには、少なくとも選考されるまでに、
例えば、米議は、毎年収穫後に何俵かをかけておい
きちんとした村是ができているという必要条件があ
て、これを万ーのときに利用した 。 この村では、東
った 。
北地方の冷害の ように、米に全く実が入らないよう
この当時のすべての村が、 一戸ずつの年間の収入、
な被害は少ない。 むしろ早魅の年は 「
乾田化」 され
支出、生産や消費、また村の全農産物の生産高など
てよく 実っ た。だから日ごろの貯蓄は、その翌年の
の項目 ごとの細かな内容の把握ができ、集計できる
回の復旧工事の手伝い人の給J/
E
I
-や、技術指導のお礼
事務能力を持っているとは限らなかった。 もし、事
や、復旧が間に合わなかった分の減収の場合の備え
務能力が{憂れていたとしても、その村是に白村の特
徴を表せる能力も必要だ、った。村是に出てきている
であった。
他の村以上の備えをしていても 村人たちだけでは
村ごとの特徴で、その村の評価の差がついた。 だか
手に負えないほどの災害では 、県や国への補助の申
ら明治政府の要求する必要項目を網羅し、政府好み
請が必要であり、この地ではそのような役所への陳
の村是に仕上がった村が選ばれたともいえる 。 これ
情の経験も豊富であった 。だから この地のリーダー
が第一次の書類審査であった。 これでパスすれば中
央から現地に審査団が調査にやってきた i6)
が広かった。
は、他村のリーダーより災害復旧における能力の幅
こうした村是が作成できた村、すなわち 事務管理
昔はどの村でもそうであったが、各家の周り持ち
能力の優れたリ ーダーがいた村が、模範村となる十
で、助け合いのグル ープである各種の講の幹事をし
分条件であった 。 このリーダーは事務能力だけでな
た。青年の頃より、親がする幹事の仕事を見習い、
く
、 この村是を 中央政府に提出し、名乗 りをあげな
白然に若者たちはこのような実務やリーダーシップ
ければならないので、宣伝力または政治力と実行力
を身に付けることができた 。 また、起こってしまっ
9
人間文化 ・ 2
「明治・模範村 『
宮村 J
Jの人と水 一 農業日誌はなぜ書かれたのか 一
た災害復興のためには、優れたリーダーが必要だっ
た。その復興のための技術者とリ ー ダーの育成は村
の存続のためにも村をあげて日ごろから 心がけてお
かなければならないことだ、った 。災害を受ける度合
いに比例して、少年少女の教育に熱心であったのは、
このような村民の中に潜む危機意識の現われであっ
た。
この地の早魁の被害の程度が白本有数であったの
と同 じように、この地のリーダーや村人たちの災害
復旧能力は日本でも有数で、あったといえる 。
図 2 宮村周辺川
3.滋賀県周辺の模範村とそうでなかった村一宮村
と龍池村の場合
次になぜ宮村が模範村に選ばれたのかをみてみよ
宮村と同じであったと考えられる 。 また村人の助け
合いのグル ープである講の数も多い!
il
うO そのために宮村と隣り合っていて、風土も地理
さらにその村是は両村とも同程度の内容で調査項
的条件もほぼ同じで、人身の交流も盛んであった龍
目も遜色ない。村の人材面でも、両村ともに昔から
池村と宮村の様子を調べ、なぜ龍池村が模範村でな
かったのかを検討してみる 。
現在に至るまで I
U
]長や n
I
]会議員などの地域のリーダ
ーを輩出し、育てる村であった(12)。 また昔から龍法
(
1)両村の風土
師村は、水利権を始め、いろんな点でその周りの村
宮村と龍池村は並びあった村同士である 。龍池村
から一目おかれる 村 であった(野田の M さん)。 そ
は宮村と境界を接していて人与の交流も盛んであっ
の要因は、優れた人物が輩出したということもある
た。両村とも古琵琶湖層地帯に位置し、その土壌は
が、その存在位置により、昔から農業以外の産業が
特殊重粘土を含み、地形的には似ている 。ただもう
也村も、耕地を拡大する余地もな
盛んであった。龍 j
少し詳しく見れば、宮村の田の大半がたとえて 言 え
ければ資源もないところであったので、産業は、住
ば、ちょうど手のひらの 5本の指にあたる谷筋に添
民が知恵を絞り付 加価値の高い産物を生み出した 。
っているが、龍池村は 5本の指の付け根あたりから
製造酒、製茶、製薬などである。「その売薬のこと
手のひらにかけた部分にあたる 。(図 2)
きは遠く他国に行商す」 仰とあるように、全国にま
龍池村の端には柚川が流れ、その周辺は川原にな
って平野が広がる 。 また柑l
川の周辺の回の土壌は粘
たがる配置薬 (
置き薬) は富山と共に全国の 2大産
地であった。
土質ではなく砂質であった 。 また現在の風景でも、
この点でも、明治政府がイメージする 「
模範村と
高低のある山間部に集落が点在する宮村に対し、龍
は純農村であるべき」という資格に龍池村は反して
池村の方が平野も多く、明治の調査官の目にも宮村
いた。
の風景の方が自然農村の好ましい姿に映ったと思え
(
2)
宮村と龍池村の産業
る。
地元の人の話によれば、
このように村に仕事があったので、龍池村 の村人
I
~吉村も龍池 村
も早害を
は離村することなく村に留まることができた 。 これ
受けたときはほぼ同程度の被害であった 。j が、両
を宮村と比較してみよう 。両村是からデー ター をと
方の土地を同時に耕作した人はいないのでこのよう
ったが、宮村の資料が明治 4
2年度の記録しかないの
な難易度を比較しでも無意味なことである 。しかし、
で、この年の村の人 口 と人の 出入りを 比較してみる 。
この地の人は、昔は耕一作の手伝いやアルバイトにあ
ちこち出かけていたので、広範囲の地域の農作業を
2年 度 の 現 在 人 口 比較
表 1 ,明治 4
の(注 1)
(
注 2)よりわかるように、出て行った人たちのほ
体験していた 。 「龍池村の 中の大字野尻の平年の回
とんどが、町への 7稚奉公や工員などの従業員であ
の乾燥度が、皐)也の年の宮村の乾燥度と同じであっ
る。 n
I
T
へ出て所帯を持って働いている人は、本籍を
た
。 Jというから、その早魅の被害の程度は、宮村
村へ残したままということはな いので、現在村 に住
と同程度かさらにそれ以上であったかもしれない。
んでいない人たちは、本籍を村に残したまま 他の地
だか ら龍池村の人々の皐魅に対する備えや心構えは
へ出て行っている 人たちである。
30 ・人間文化
「明治・模範村 『
宮村 J
Jの人 と水
農業日誌はなぜ書かれたのか
O
'
悼
時
2
年度の現在人口
表 1 明治4
村へ入 ってきた人数(人)
1
1
戸当りの 村の外へ出て いる人数(人)
男 │ 女
I0.
4
5
065
1
.
4
7
5 (* 1)
(
*1)この内訳は 、農業1
4人、工業 5人
、 商業 5人、僧侶 3入、教員、巡査4人
、 ド女 7人、工 R21
人、看護婦、車夫 4人、無職業
1
2
人となっている 。
(* 2)この内訳は、商業 2
1
6人、工業 4
0人
、 農業 3
5人
、 学生 9人、教員 5人、軍人 6人、弁護士、会社員、 医師、僧侶 1
1人、其の他
6人
無職業のもの 6
また*1
. 2の無職業のものは一家て
*
一O4
表 2 田 1反歩かうとれる生産高
也村
龍i
)
(
l
国
宮村
数量
単位
単価 (
円)
単価
i
t
の単位
数量
単位
単価(円 )
単価の単位
産米
2.
30
0
石
2
0
.
0
0
0
/石
2
.
4
0
0
石
11
.7
00
屑米
0
.
20
0
8
.
0
0
0
/石
0.
20
0
与
守
宅
ポ
Z
1
0
0
石
束
0
.
01
5
/束
1
17
.000
石
束
/石
/石
0.
1
1
0
11
0束
目半旦
0
.
0
2
0
11
.0
0
0
/石
0
.
0
3
0
石
0
.
0
8
0
/升
籾糠
1
0
0
.
0
2
5
11
0貰日
1
2
.
0
0
四
只
0
.
0
1
0
/貫
石
質目
合計
5
.
0
0
0
3
0.
5
3
9
4
9.
34
5
(
*) 村の村是が書かれ た年代が違うた め、両村の生産高を算 出する のに重要な項目である米価が異なっている 。このため宮村の利
径が小さくなっている 。この表で米価を同じにし て計算すれば宮村のほうが収益は大きくなる 。宮村の ほうがコス トが少なく米を作
っている ことになるがその 差はわずかであ る。従って稲作での両村は 、ほと んと同じ内容の農作業をしていて 、反当りの収穫高も同
じ程度であったといえる 。
この表 1か ら 、 龍池村 の 人 々 は 村 か らけ1
て奉 公 や
い て 卜 分 生 活 で き て い た こ と が わ か る 。 龍池村は、
出稼ぎに行 って いない こ とがわかる 。 この原 肉 を み
このような地場 産業があっ た た め 町 へ奉 公 や 出稼ぎ
るために両村の生産高を調べてみる 。
表 2;田 1反歩から と れ る 生 産 高 を 見 れ ば 、 龍 池
に 行 か な く て す ん だ。 龍池村は、 背から この地に 伝
わった技術と伝統を守り、村の知恵と人脈を大切に
村と宮村の米の反当りの生産高はほぼ同じで、その
して若者が村から出て行かずにすんだよい村であっ
必 要 経 費 も宮村 25
.
0
7
0円/反、龍池村 27.630円/反山 1151
たといえ る。
とほぼ同じであ ったので、両村の農業による収入は
同程度であったことがわかる。
龍 池 村 の よ う な 産 業 を 持 た な い 宮 村 は 、 こ の 4割
i
E
細 正や養蚕、養鶏など村の中で の副
に当たる分を E
一方、龍池村村是では、配置薬が職業として統計
業 で 稼 ぎ 出 さ ね ば な ら な か った。 また収入 の 絶 対 量
で 数 え て い な い の で 、 こ の 売 薬 ( 配 置 薬 )の 人たち
が少なければ生活の工夫により節約するしかなかっ
は統計上の仕事は農業として表されている 。 そして
た。 これが宮 村 の 人 たちをい っそ う結束させた要因
売薬 (
配置薬) の 売 上 高 が 村 の 年 産 出 高 に 入 っ て い
の一つでもあり、後の村を挙げての生活改善運動や
るので、この配置薬を商っている人たちの売り上げ
自立更正運動へと展 開 し て い く ば ね に も な った。
収入に入 っている 。 しか
は、村にもって帰って村の l
(
3
)能 池 村 と 宮 村 の 農 民 の 規 模
し村から出て行ってよそで働 いている人の給料は村
両 村 の 自 作 小 作 農 戸 数 の 割 合 を 表 3に示す。 後に
の年収入に入れていない。つまり、配置薬の収入は、
検 討 す る 同 じ く模範村 で あ る 伴 谷 村 の 数 値 を 一緒 に
農民の副業の形になっている 。
示しで ある 。
龍池村の配置薬の売り上げは、龍池村の年間のう
(4-42頁) で は 、 表 3に お い て 遠 藤 氏 は 龍 池 村
るち米、もち米あわせた産 出高の 4割 に も 達 し て い
を含めずに、つま り龍池 村 を よ そ の 村 と み な し て 宮
る。 また 産 出高には村民が食べる米も含まれている
村と伴谷村だけをみて、模範村は小作が少ないとい
ので、実収入において薬の売り上げが占める割合は
って い る。 しかし龍池村も小作が少ない 。 この 3村
4割 と い う 数 値 以 上 に 大 き か っ た 。
は共に小作が少なく、県平均、 全 国平均よ り際立っ
表 1よ り 、 明 治 42年 、 宮 村 で は 1戸につき1.4人
て少ない 。 そ れ は 模 範 村 に 選 ば れ て い る か ら 少 な い
が村から出て働きに行かねばならなかったが、龍池
のではなく、また少ないから模範村に選ばれたので
村 で は 男 0.
65人 、 女 0.
45人 に と ど ま っ て い る 。 だ か
は な し こ の 地 が 古 琵 琶 湖 層 地帯 の 重 粘 土 地 帯 で あ
ら龍池村で、もし次男に生 まれでも、村にとどま っ
るからである 。 そ の 特 殊 な 土 壌 に よ っ て こ の 地 の 農
て農業を手伝いながら 、年 の 半 分 を 配 置 薬 を 売 り歩
作業が他の地域に比べ数段の労力と技術を必要とす
人間文化・ 3
1
同月治・模範村 『
宮村 J
Jの人と水 ー 農業日誌はなぜ書かれたのか 一
表3
(
,削抑制時
自小作別農家戸数(カッコ内は%を示す)
自作
自
ノj
、
作
宮村
龍j
也村
{半谷村
93 (
36.
2)
16
6(
45.
1
)
170 (
34.
4)
243 (
49.
2)
小作
48 (
1
8
.7
)
16.
4
)
81 (
202 (
4
3
.
5)
235 (
50.
7)
27 (
5.
8)
県 (
1899)
全国(1908)
(
3
5.
4)
(
3
8.
4)
(
2
6
.
2)
(333)
)
(
39
.1
(
27.
6)
(*)宮村、龍池村、{半谷村は各「村是 Jよりとった。県、全国のデーターは
表4
ドジョウの産出量
(4)による。
0~岬副
クマシの産出量
O~由時
産出量 (
貫目 ) 単価 (
円)(lf.l:目につき )
宮村
967
4
.
0
0
0
fí'~ì也村
1
5
5
3
.
2
0
0
るため、大規模な大地主が育つことはなかったから
の人に l
l
:
f
J
いた ヘ ドジョウがぐっすり寝込んだら水
である 。
面に浮き上がってくるのでそ こを捕ま える 。その道
この地域では、自分の回だからこそやれるのだ、
白手
I
117年 3月上
という農作業が続く 。農業日誌(3)の n
具も近くの};!iで、は売っていたそ うだが、みな自分用
旬の記述をみても、この家の一番大事でよい田であ
の道具を手作りした。
表 4を見ると宮村のほうが捕獲量も多く、単価も
t
l
r袋詰はその年にも よるだろうが、「宮村の
る川原石の凹に 、
家族総出て、真っ先に客土している 。
高い。
その後も自分の回の客土作業が続く 。 また夏の水替
ドジョウはよかった 」
。 という聞き取りにも 一致す
え作業(ため池からオケで汲んで田へ水を入れるこ
る。 ドジョウの生育のためには 、水が年中減らずに
と)も向分の回が真っ先であり、小作地である宮田
溜まっていて、えさが豊富な自のほうがよい。宮村
は後まわしになっている 。 この前年に、この家は患
の回の条件がこれであったといえる 。宮村の回のほ
っていた奥さんを亡くしていて、それまでは田仕事
うが「中干しなどもしたほうが よいことは知ってい
もみんなの力を借りてやっとできていた状態であっ
たけど、やりたくてもできな か った 。
」 聞であり、
た。余力のできた この年、今年は「借りよか?Jと
回の肥料も分解されずにそのまま残っていたような
思い、また自分の回の田植えが終わ って 、余力がで
田であった。 ドジョウの繁殖に適した環境と、稲の
床
きた 6月下旬に、これまで荒らしてあった閏の 「
成長に適した環境は全く相反する環境条件である 。
張り j作業をして、水を溜めて、きわめて遅い植付
ここの住民たちの嘆きがこの ドジョウの表から読み
をしている 。 このように、この地の小作地は、村民
取れる 。
[
作ろ
たちの余力があって初めて「借りよか?J"
か ?Jとなった。
•J
I
巴土(クマシ)の産出量
また両村の肥土の産出量を比べてみる 。表 5の数
(
4)
龍池村と宮村の回の環境について
値は肥一
仁を必要とする田がどれくらいあったかを示
両村の凹仕事の内容は両村是の米作 l反歩収支計
算表の項目より理解することができる (].I)(]に その農
している 。
作業項目も共通しているし、数量、単価 とも両村と
には肥土(クマシ.有機物を土に混ぜて十分に酸化
させたもの)を問に放り込むしかなし JI}。表 5から
も大差はないので両村は、ほぽ同じ良作業内容であ
った。
では回の状態も同じであったのか、両本j是の内容
より調べてみる 。
この地域のように重粘土よりできている田の肥料
わかることは、 J
I
巴土を 必要とするような重粘土の回
は、宮村が龍池村より一割多いということである 。
ところが旧の総面積は龍池村が宮村の約 2倍ある 。
ドジョウの産出量
つまり龍池村の回の約半分が宮村と同じ重粘土の田
E
r賀郡には海も大きな川も湖もないのに、甲賀郡
であり、残りの半分が肥土を必要としない、柏川沿
農協には 「
水産部」があった。 ここの主な取引物は
いの砂混じりの問であったとい うことがわかる 。 ま
ドジョウであった。 この地の回 は、年中の i
帯水田で
た龍池村の肥土の単価が高いのは、龍池村の土取り
あったのでドジョウがたくさん棲んでいて、村人た
場が村のはずれにあり 、土の運搬用 の牛車などの運
ちが捕まえてきて食べたり売ったりしていた。主な
搬費用のコストが宮村より高くついたからである 。
る出荷先は京都であった。村人たちはドジョウを養
しかし肥土の中味と価値は両村ともほとんど差がな
殖しているつもりは全くなかったのだが、重粘土地
こ。
かっ f
の回のドジョウは丸々太って、上質のドジョウだ、っ
表 4、表 5より 、龍池村には、宮村のような皐魅
た。
「 ドジョウは夜 9時に寝るのは??;識や。Jと地元
に会うと大きく危裂が入り、年中 i
帯水田としなけれ
3
2 ・人間文化
「明治-模範村 [
宮村 j
Jの人と水
農業日誌はなぜ書かれたのか
ばならない回が村の半分を占め、残りの半分は裏作
も可能な砂交じりの乾田であることがわかった 。
このように村の回が大きく 二つの種類に分かれて
いたことは、その農作業も異なった 二つに別れ、農
民の利害も一致しないものがあった。 これは同じ米
を作るという作業でありながら、その手間や皐害に
対する恐怖心では全く異なる田であ ったから当然の
ことである 。特に大字池田村の田はちょうど半分ず
つに分かれていたから、この村の 「
話し 合い」はな
かなか大変だ ったそうだ(池田 Hさん)。池田村の
村人は山手の人、川手の人というようになんとなく
別れてしまっていた 。最近行われた耕地整理の際に
も、田の地 l
床土がお互いに混ざらないように、工事
図 3 伴谷村周辺川
また、このあたりは野洲 I
JI
と日野川水系の二つに
その地で必死に農業をやってみないとわからない
3年(18
4
2年)の天保
分かれていたため、先の 天保 1
三 上 ~ t~ (iì 7 ) の 際には、この村の周辺の人々は近
ような 一工程における少しの違いが積み重な って
、
隣に住んでいても力をあわせることができなか った
が一部ずつおこなわれた。
村の中でもあっちの人、こっちの人というように村
(
伴谷村の住人の話しによる )
。 このようなことも明
人が分かれてしまう 。
龍池村は村人の意思に反して、
治の合併の当時で、は大きく尾をヲ │
いていたようだ。
回の土の条件によって分れがちであった。 しかし宮
明治に伴谷村になった 5つの村のいずれの地域に
村は、村中の田が同じ条件であったから、しかも宮
も特殊重粘土の田を含むが、この割合の違いと水利
村だけが特殊な土壌の回であったから、村人たちが
の条件が交錯して、伴谷村の村民一人一人の立場が
分かれるどころか、その点だけでも全村が一致団結
全部違うという複雑な条件の村だった。 このような
する要素になった。
人々に唯一共通していた悩みは水不足であった。逆
4 滋賀県周辺の模範村聞の比較 一伴谷村と宮
利害 と気持ちがバラバラであったといえる 。
に言えば、水が欲しいという点以外では村の人々の
村の場合
(
1
)
伴谷村について
伴谷村も滋賀県甲賀郡にあり、宮村、龍池村とは
「
明治1
6年と明治26年の 2度の大皐魁で、他村と
同じく伴谷村も大きな被害 を受けた。そこで伴谷村
は明治 1
6年の大早魁の後、村をあげてのため池の改
m離れている 。 この村も古琵琶
直線距離にして約 5k
修、新築、養水、悪水 (
排水)路の整備をはじめた。
湖層地帯の上にあり、特殊重粘土でできた田を持つ。
5年のため池改修工事にあた っては、村 当
特に明治 2
古琵琶湖層からできた地形特有の樹枝状の谷に畦の
局のイニシャチブのもと、なかば強制的にその必要
高い段々に形成された凹で、その谷の頭に必ずため
経費と必要労働力の提供を村民に求めた 。特に必要
池が形成されていた。宮村と同様にため池の水だけ
経費については 「
毎年 1
1月に 至 り
、 一反に付き玄米
が頼りの稲作であり、しかも乾燥すれば亀裂が入 っ
一斗を参集し、その代金を以って工事費の実施に応
てしまう回であった。 またこの村の中には野洲川と
じ支払いするものとす」 という、 「源泉徴収」のよ
日野川が流れ、その水系が入り組んでいたわりには、
うなやり方を強行した。
川の水の思恵が少なかった。
J
l
I
/
J
村制施行の際に、水口
伴谷村は明治初期の市市I
その後、ため池の水を利用するための養悪水路の
新設、改修工事も村当局の指導の下に行われた。明
丘陵にあった 5つの村を合併してつくられた行政村
5年以降、大正中期に至るまで新改築されたため
治2
である 。 この合併はそれぞれの村の利害が一致せず
池のうち、村の経営になるものは 70ヶ所にものぼり、
に問題を残したまま行われた lへ それゆえ村人の意
個人のため池の約 2
0倍にもおよぶ行政村主導型の水
利体系が作られていった。J(4-47貞)
見が全村 一致をみるような村であったとはいえな
い。 また地理的条件や環境も、この 5村は異なり、
現在も合併した当時のままの姿で 5ヶ所に集落が点
在している 。
人間文化・ 33
「明治・模範村 I
宮村J
Jの人と水 一 農業日誌は芯ぜ書かれたのか ー
(
2)
伴谷村が模範村に選ばれたいきさつ
龍池村のため池の量をも上回っていたので、その勢
.難村 伴谷村
いは大変なものであった。
この村の人に聞くと、伴谷村の人は 「
何をやるとき
にも反対する人がいなし、」というおとなしい人材注 8)
聞を乾田化するためには、前年の秋に乾かした回
に、翌年の春にほぼ一年間に必要な水を 一度に入れ
であったそうだ。そのような村に明治の初期、中央
る必要があり、田の面積分の水がため池にたまって
から派遣された戸長がやってきた。合併しても戸長
いないと不可能なことである 。 これを伴谷村は明治
もうまく決まらないような難村で有名で、あ ったこの
40年までに 全村分をやりとげてしまった。
村へ中央からやり手の官僚がやってきた。その人が、
龍池村でさえ、つい最近になってや っと大きな調
村民にとっての 唯一の共通点であった「水」 をもっ
撃池が村の真ん中の平野部にできた。調整地とは大
て村をひとつにまとめようとした。
量の水を溜めておいて、 村に点在する各ため池に水
このリーダーがよそからや ってきた人であったこ
をポンプで送るものである 。 もちろんこの大きなた
とが、常村と伴谷村の後の運命を分けることになる 。
め池には 川の水をポンプで汲み入れる 。 このような
村の外からやってきたこの戸長は、田が割れること
強力なポンプと配管技術をもってやっと村人の悲願
の怖さを身でもって知らなかった。 ひび割れた田の
の池ができたのをみると、 これをや り遂げてしまっ
厳しくつらい復旧作業の経験がなか った。一瞬たり
た明治則の伴谷村の村人の力強さに敬服する 。
とも出の水を切らしてはいけないと、身をもって体
宮村の~!Z: D..I化は、|礎の県 の滝谷池の水をもらい、
験してきた地元の人とはこの点で違 った。 この村の
耕地整備して耕作機微が、その高い畦を釆り越えら
外から来たリーダーは年中の滞水田を、生産量を上
れるようにな って 初めてできたものである 。だから
-8化しようと計画した 。「中干し
げるためだけに乾 1
宮村の農業は人が耕していた時代か らいきなり機械
したらょうけとれることも知と ったが、こわくてよ
の時代に入 って、牛を使う時代を全く経験していな
、。
し
'
=に、この
うでけんかった。」という 地元 の人を民 I
リーダ ーは、ため池を増やすと同時に乾凹化を計画
伴谷村は、 r
Y
J
i
台に乾田化してすぐに 1
'
二を使い始め、
J
I
の割合が少
し実行した。宮村とは違い、重粘土の I
村の鍛冶屋は「伴谷式スキ」を改良して生み出した。
なか った ことも幸いした。おとなしい村民は、この
牛の後には、耕運機を経て現在の大型機械化の│時代
リーダーに従い、この大事業に従 った。
になった。
その後の戸長 は村人から選ばれるようになるが、
5年には全村の耕地の 7
その路線は統行され、明治 3
割の乾 I
f
l
化を達成した 。 この乾田化により、回仕事
-伴谷村の模範村認定
Y
J治則の、大変な増収の実績によ って伴谷村
この r
"
E9)
は明治の優良模範村に選ばれた 。1i
に
よ│
二
馬が使えるようになり、ますます 1
1
1
の肥料の分
その表彰内容は、村人が力を合わせてよく工事を
解度も良くなって施肥の方法も易しくなり、稲の根
やり遂げ、大変な増収の実績をあげ、よくがんばり
張りも良くなって大いに収量が上が った。その収量
ました、というものである 。おとな しい村人だけな
r
i6斗がl吃出化後 で
は、湿凹であったときの反収 1:
らこの増収の結果だけで満足していて模範村ーに選ん
伴谷村村是)
山 5割以上の増収と
は 2石 4斗となり (
でもらおうという気はまったく持たなかったと思う
なった 。 また乾田化により裏作が可能になったが、
が、明治の初めから、 この地は中央政府とのパ イプ
水はけがまだ悪かったので特に裏作には励まなかっ
ができていたのだろう 。
村人たちの無反対のもとに、
た。
ここのリーダーたちは模範村に応募したと思われ
-伴谷村の水環境
る。
ここで伴谷村がどの くらいため池増設に励んだの
5.伴省村、宮村、龍池村の村人の暮 5し
かを 他村と比較してみよう 。
表 6 宮村と龍 j
也村のため池の比較
には伴谷村の
数値はないが、 {
半谷村是によるとこの │
時(明治 40年)
にはすでに公共のため池が67個できていた。
I
状況
また表 7 伴谷村、宮村、龍池村の水平J
(
1)
伴谷村¥宮村、龍池村 の土壊
興味深いことに、伴谷村と宮村は自村の凹の土嬢
分析を依頼してその結果を村是に載せている 。龍池
か
村は村是にその項目もない。 これはその村にと って
らわかるように明治3
0年代にはすでに伴谷村は宮村
田の土がどのくらい重要視されていたかのバロメー
5倍のため池を作り上げていた 。 このときには
の2.
ターになっている 。龍池村も村の半分は重粘土地帯
3
4 ・人間文化
「明治・模範村 『
宮村 J
Jの人と水 一 農業日誌はなぜ書かれたのか 一
表 6 宮村と龍池村のため池の比較。
骨
ため池 1つ
当りの面積
│ため池の平均
│直径(* 1)
0
3
3反7
1
30m
1
41
4
1
9
1反515
1
0
.
2
2反
18m
0
6反6
1
4
6m
1
2
5
7
1
7
5反31
2
1
0.
30反
1
9
.7m
ため池 lつ
当りの 面積
│ため池の平均
│直径(* 1)
(* 1)ため池の直径の平均値を計算したものである 。この数値から村にあるため池の大きさがわかる。
。
表 7 伴谷村、宮村、龍池村の水利状況
a
j
l
9
1
村の総面積に対する
田の面積 (%)
1反のため池で"
i
l
lさなければ│宮村を Iとしたときの
1ため池の水の量
ならない田の面積 (反) (* 2)
4
4
30
.
2
3
3
0
.8
9.
2
10
2257.
3
8.
9
2
3
.
7 OL9)
40
73.
12
4
5.
1
1
1
.8
日
一I一
却
田の面積(反)
(
*1)伴谷村は明治3
0
年代、宮村と龍池村は 4
0
年代の数値である 。
(
*2)この榊l
の数値が大きいほど一つのため池の水に依存する回が広く多いことを 示す c 伴谷村、龍 j
也村は少しは川の水を利用できた
回があったので宮村の数値は特に大きいことがわかる 。これを自衛するための点くからの村人の知官、により、この村にはタンポというも
のがたくさんあった。タンポは水を i
留めた小さい池であり、大きさは畳 1{~;くらし、から大きいものまでさまざまである 。 また水の{更の悪
い山臼なとは問一枚ごとにタンポを付属させた凹にな ってい た。つまり 同の半分がタンポの池になっていて 、残りの半分に稲がMえられ
ていた。現在は減反政策のため このような凹は点 っ先 に減反の対象になったために今は稲が作られていないが、数年前までは私の口でも
見ることができた。資料上では このようなタンポは湿地と凡られている c 7
弓村は特に (
1然の沼地があるわけで、もないのに湿地の而績が多
いのはこのためである 。この湿地をイケとみてイケ の数値に入れて計算したものがこ の去の括弧に人って いる数値である 。このタンポを
ため池に含めてようやく龍池村の数値にそろうことになる 。しかしこのタンポは水面が比えないような沼であり、その水をかい出して使
えたかとうかというくらいの水量のものである 。皐魁時には兵っ先に i
回れたであろう が、普段の年には稲が吸収 Lない分の水を保つ役目
Eの半分をタンポにするという数値がi
た
ま ったのであろう 。
はしていたと思える 。長い年月の体験により I
に 入 っ て い て 、 そ の 田 に か け る労力は山村、
w谷村
ある 。 龍池村は符村と 内 容 が 酷 似 し て い る か ら 上 壊
を上回るものでありながら、 村j差を告く人には取り
分析も参与にしたと思われる 。
上 げ ら れ な か っ た 。 これは村 是 を 書 い た 人 が 、 屯 粘
は一 需 先 に J
i
かれているのでどの村の影響も受けな
土 の 回 を 持 た な い 地 区 の 人 だ ったと 忠 われる 。 I
:
L
I
の
い。 だ か ら 、 そ の 当 時 の 村 人 た ち が 育 ス リ ン を あ ま
土 に つ い て は 実 際 に そ の 土地 を 持 っ た 人 で な い と 分
り使っていなかった こ とがわかる 。
からないものである 。この 3村 の 現 花 の子孫たちも、
1らない人ばか
今はもはや昔の田の土の苦労話など主1
とこ ろが十I~ 谷村 村 是
この~いはもちろん伴谷村の単い時期における乾
田 化からきている 。 宮村では、
1年 中 の治水R:f
であ
る か ら 有 機 物 と し て 卒 や 藁 を 肥料と して鋤きこめな
りになっている 。
い ず れ に し て も 伴 谷村 と 宮 村 の 村 是 担 当 者 は 、 か
い。 また肥料 の 分 解 速 度 も 遅 い の で 、 地 上 で ほ ぼ 元
ねてより問題意識を持っていた凶の地味上の分析を
iUOI
依 頼 し た 。(
素 状態ま で 分 解 し た 肥 料 分 で な い と 田 に 入 れ ら れ な
次に宮村村是だけには、もう 一種類の七壌の分
は明治の i
i
tい l
時期から客土作業の必要がなかったこ
i
I
'
l1
1が 載 っ て い る 。 その試料は、 「
第 3紀
析結果 (
いので客上作業が必要なので、ある 。 だ か ら 作 谷 村 で
とカ fわ かる 。
I
r
Tズ
この 「汗ズ、リン 」 の性質については、彩、も地元の
リン 」 は 、 宮 村 や 龍 池 村 の 重 粘 土 地 帯 の 人 々 に と っ
こ聞いたり、 f
L
f
分で土壊分析してみたりと検討し
人l
凝 灰 岩」、つまり 「青 ズリン 」 である 。 この
f'
であった 。 これ を
「クマシ J(肥土)
てきた t。 ところが今回、 f
J
!
;村 村 是で、 l
明治 の I
時代に、
に し て 「土持 ち J(
客 土 ) し た 。 この 「 苛 ズ リ ン 」
も う す で に 地 元 の 人 が この 「土 」 に 興 味 と 疑 問 を 持
ては「宝の土
1
¥
た 村 もあっ
の出る土の所有権を巡って死者まで 1
っ て 分 析 依 頼 を し て い た ことを知 った こ とは大きな
た。 ま た こ の 土 を 取 っ て い て 欲 深 く 抑 り す ぎ て 山 崩
発 見 で あ った 。 ま た 、 今 回 は 、 土 壌 の 専 門 家 の 説 明
れを起こして埋もれて死んだ、 というようなことは
(
注 11) を 聞 い た の で 私 も 始 め て 村 是 の 記 事 の 内 容
各地でよくあった。
がよくわかったが、明治の村民には、 この 分 析 結 果
ところが伴谷村 で は こ の 土 の 分 析 を 依 頼 し て い な
の内符を見ただけではよくわからなかったと思う 。
い。 現 在 の 伴 谷 村 の 人 に 聞 い てみると、 「こ の 村 で
もし明治のこのときに専門家が、この結呆を村民に
も育ズリンは出た 。 また 青 ズ リ ンのことはようま[1っ
わ か り や す く 解 説 し て い た ら 、 青 ズ リンを使った客
とる 。 知 っ と る け ど 使 わ へ ん 。」 の だ そ う だ 。 また
土 を 「な ん と の う や っ と っ た。
」 という人 や 、 「効 い
土持ち(客土)も したことがないと いう 。
て い る の か 、 ど う も わ か ら ん か った。
」 という人も、
村是が脅かれたIi
I
N
番は、 伴 谷村、宮本j、 龍 池 村 で
もっと積極的に向信を持ってやれただろうし、がん
人間文化 ・
35
「明治・模範村 f
宮村 j
Jの人と水 ー 農業日誌はなぜ書かれたのか一
(
俵)
M陣幼時
同一側一問一回
米の生産高 (反当り収量)
ω 一白
ぽ一刻 一
心
石
一
梗米
2
.
5
2
.
15
2
.
4
表日
精米
2
.
2
5
2
.
1
0
(
6
.
0
)
2
.
2
0
(
俵)
(
*)括弧内の数値は石を俵に換算したもの
ばりがいがあったかもしれない。 また専門家が今 こ
q
(
3)
伴谷村、宮村、能 i
也村の生活 '
jの比較
の村是の分析をみて、 「明治にこれだけ分析できて
以上のように 3村の生産高が同じであったので、
いたのか。今もあまり変わらないなあ 。」 と感想を
次 に生活費をみてみよう 。村是の生活費の項目の中
述べておられた。現在でも通じるようなせ っか くの
で 3村に共通している飲食賓と消耗品の量を 比較す
分析が農民たちの役に立たなか ったことは残念であ
る。 これを表 1
0にまとめた。飲食費には 、主食、高J
I
る。 と同時に、専門的な知識は、誰もがわかる 言葉
食
、 l
格好品や i
y
q類、調味料や菜子、果物などが含ま
で解説して初めてその知識はみなの役に立つことが
れる 。消耗品は、先熱費や生活雑貨資である 。
わかる 。専門家が、専門家だけを相手に議論するだ
次に、飲食費 の うち、 主食の米をどれだけ消費し
けでなく、広く大衆がわかる 言葉で説明しないと、
ていたかを表 1
1にしてみる 。表 1
1;1年間に消費し
'
谷村の表*の条件を考慮しでも、こ
の1'1
その知識や思想は世に存在していることにならな
た米の量
、。
し
の 3村の人々の米が食べた米の誌は、ほとんど変わ
(
2
)
伴谷村、宵村、龍池村の生産高の比較
らなか ったといえる 。 では、この飲食費の差は何か
次に宮村、龍 j
也村、伴谷村の生産高を見るが、い
らきているのかというと、特に大きな要因は見当た
ずれの村も主な産業が農業であり、裏作が全 くまた
らない。年毎の米の価絡の違いを考慮したとしても、
はほとんどないところなので、村の生産高を、米の
宮村と伴谷村の人身は、少しずつ生活費を節約して
生産高で比較する 。
いたと考えられる 。
反当 り収量) からみると、 3
表 9 米の生産高 (
そこで、この飲食費の差、つまり年間 7
0円
、 -)
J
村とも同じような反収であ ったことがわかる 。 旧の
当 り約 6円を 生み出すには、その 当時ではどれだけ
広さはこれまでに見てきたように人口にほぼ比例し
働けばよいのかを調べてみる 。
ていたから、 一人あたりでは同じような米の産出量
であったことがわかる 。
この 6円をもし、建織りをして稼ぎ出すとすると、
.
0
7
5円である1
¥
'
1
)の
この当時の蓬の工賃は 一枚当たり 0
この 3村とも新田を開発する余力もなければ土地
もなか った(
i
i
'
J
2
1ので、 一 人一 人が工夫をして反収
力の去によれば、大人が 1日か つて慈 3枚編めれば
で
、 一 ヶ月に 8
0枚縦まないといけない。村是の労働
人前とあるので、 8
0枚編むには 2
7日かかる 。 これ
をあげるしか生活が豊かになる方法はなか った。
また、宮村と龍池村ではよ
│
→
が耕作に使えなか った
は一 円中編み続けていて 2
7日なので、これでは農業
ので、その家の耕作面積は家族の働き手の人数に比
どころか他の仕事も何もできない。 ちなみに宮村で
例した。持 っている土地の広さより、それを耕す健
4
4
0
枚編まれている 。 これ
は村全部で 1年間で廷は 1
康で数多い家族を持った家が豊かであった。 ここの
は村人が余業 に編んだもので、 一戸 当たりにすると
村の人たちはそのためにも家族を大切にし、隣人を
5枚となる 。 当時各家は 1
0
0枚近い径を持っていた
も助け 合いの労働力の候補として大切にした。 その
が
、
ような利害の直接的な感情はなか ったとしても村の
たのだろう 。
中に、このような家族や人を大切にする伝統は昔か
らあった。 これはこの地で米を作って生きてい くに
次にこの 6円を茶摘みのアルバイトで稼ぎ出そう
1の労働力の値から、宮村の
とすると、同じく村是 11
1年で新 旧交代するのはそれくらいの数であ っ
は、自分ひとりでは絶対にできないことであり、自
女の人は 1日に 4北日 摘んで一人前とある 。隣の龍
分ひとりで生きていくことはできなかったことを、
池村 では同じく女の人は、 5貰目摘んで一 人前と あ
この地に育 った人は体で感じてきたからである 。
る。 しかしここは宮村の話なので、 4貫目をとる 。
表1
0
宮村
(
2
94
戸)
龍池村
(
60
8
戸)
伴谷村
(
4
9
3戸)
36 ・人間文化
生活費の比較
04))~即時
村年間飲食費(円)
村年間消耗費 (
円)
5
4
2
7
.
6
0
0
8
8
8
9.
0
7
4
l戸当り飲食費(円) l戸当り消耗費(円)
1
8
4
.
4
3
0
.
2
1
5
4
5
8
8
.
6
3
9
1
3
6
01
.0
7
0
2
5
4
.
3
2
2.
4
91
3
3
2.
2
6
9
1
4
8
81
.7
2
6
1
8
5
.
3
3
0
.
2
「
明治・模範村 『
宮村j
Jの人と水
1 1年間の米の消費量 (1戸当 り)
表1
梗米(石)
精米 (石)
7
.
5
2
4
0
.
6
64
0
.
6
0
0
.
7(
*l
7
.
3
8
0
8
.
2 (*l
農業日誌はなぜ書かれたのか
。綱引時
(
*l伴谷村の値は、 一人当たり消費した量で示されていたので、これを他の
2村と同じ一戸当りに換算した。これにはその時の現在人口を戸数で害J
rっ
て
、
一戸当りの人数を出した値を使用した。これにはそのとき村に住んでいなか
った人の数 も入 ってしまっているので 、実際に消費した量で示している他の
2村より、この村の消費量が多くな っている 。
両村是の労賃の表より、 4貫目摘むと 36
銭の摘み
賃が入る 。茶摘みで 6円稼ぐには一 日中茶摘みをし
の考え方を見てみよう 。
-報徳思想の村人への影響
て1
7日間かかる 。 これも農業をしながらでは不可能
明治新政府が欧米の列強に肩を並べるために 「
古
であることと、茶摘みは季節労働で年に l、 2回の
いものはよくない 」 と、それまでの人々の伝統や生
仕事であるから収入は年間を通しではない 。
活を切り捨てたのとは違って 、明治後期の 「
地方改
年間 70円というのは、よく 働く 女の人、普通の男の
良運動」では、政府は人々の精神面の改良に 「
古いも
(
i
J
I
3)
の」を利用した 。 この 「
古いもの 」が 「
報徳思想 J
人の年俸の約 2倍である。これをみてもこの 70円と
である 。この 3村の村是にもその影響が見える(
正 (4)。
また当時の伴谷村の農作業雇給をみると (
表1
2
)、
いう額が大変大きな金額であったことがわかる 。
またこの当時は、人の賃金は物の価値に比べてと
尊徳、が始めた報徳思想、も、その教義のほとんどが、
人々が古来より行ってきた生活習慣であり、また慣
ても安かった。物が今のように世の中に溢れていな
れ親しんできた道徳である 。 その一つずつは特に目
かったので、物が少なく珍しかった 。後の昭和初期
新しい事項はない。 ただなんの繋がりもないように
でも、一日田仕事に雇われて、もらうのが一升の酒
社会に存在してきたこれらの生活習慣を、それぞれ
であった例もある 。伴谷村是にも米の増収方法の項
の一定の量的な規範を示し、またこれらをいくつか
で、稲に付く害虫駆除手段として 「
稲に付く摂虫を
まとめてセ ァトにして人々に具体的に、また量的に
駆除するのには人を雇えば最も安くっき 、一日 何十
示すことを始めたのは尊徳の独創であった 。
銭で済み、しかもこれで反収は上がる 」 とある 。 こ
さらに尊徳は、その時まで人々の意識の中になか
のような記事をみても、 この 当時の人件費は殺虫剤
時間)を 、誰 もが分かる 「お金」
った「時の流れ J(
よりよほと 安かったことがわかる 。
という形に変えて示してみせた。つまり無駄に捨て
3
このように、どれだけ村の中で がんばっても 70円
られていた細切れの時間を使って、人々に縄ないや、
のお金を一つの手仕事だけで生み出す こと はほぼ不
蓬織りのような時間に比例して出来上がる仕事をさ
可能であったので、{半谷村、宮村の人々は飲食費を
せて、それによって時間の流れを人々に見える形に
節約するしか方法がなかった 。 しかし米を食べる量
してみせた。 この点において、尊徳が斬新で独創的
はどの村も変わりなかったので、米以外のものを買
であり、後の時代にも通じることになった。
わない方法で知恵を絞って暮らしていたと思われ
こ うして時間を積み立ててつくった縄や廷は、換
る。 しかし、伴谷村はま だ甲西、水 口の平野部に近
金されて人々の手に入った。 人々は 今 まで無駄に流
く、仕事が良くできる女の人は 二毛作で時期のずれ
れ去っていた時間を金に変えることを尊徳に教わっ
た農作業のアルバイトに出かけることができた 。伴
た。 これを知ると、人々は少しの時間や、寝る間も
谷村の女の人たちの このと きのアルバイトの習慣
惜しんで働くようになった 。こうしてできた 「余剰 j
は、後には広く外の 地域に出て 活躍するのに跨踏し
をまた尊徳は新たな市場拡大へ用いて、また教化を
ない人をつくる ことになる。宮村はアルバイトに出
広げ、ていった。
かけるにも、どちらの平野部にも 2、 3村を超えな
いといけなくて、大変地の利が悪 かった 。
(
4)
伴谷村、宮村、龍池村の人々の生活思想
明治期と 尊徳の時代の報徳思想の違い
尊徳がおこなった荒村復興は、荒れ地を耕地に変え
る土木事業と、人々の 「
心凹の開発Jすなわち、時
これまでは、宮村の周辺 三村 の風土と生活におい
間を 金に変える ことができる実感を体験させること
て主に物質商からみてきたが、次に 村 人たちの当時
であった 。尊徳の 「
荒れ地から耕地 Jへの土木工事
は主として湿地の水抜きの土木工事を行った問
。 余
時
。
分の水を抜けば湿地が耕地になることを見つけたこ
表1
2 伴谷村作業賃金表
農作展給 男年給
女年給
農作日展 男
女
養蚕日展 男
女
一
七
45円
38円
50
銭
40銭
55室
長
45銭
38円
30円
40室
長
30
銭
45銭
35
銭
下
とと、 こ うした大きなプ ロジ、エクトを計画、実行す
25円
1
8円
25
銭
20
銭
30銭
25銭
る手腕が、尊徳の偉大なところであった。 このよう
な土木工事によって、荒れ地は耕地へ変わり、増収
という形の成果を上げる こ とができた 。
ところが明治期の日露戦争後にできた臼本各地の
荒村は、人々の心が荒れている荒村であった ほ 15)
ので、その仕法は土木工事ではなく、 「人々の心」
人間文化・ 37
「明治 ・模範村 『
宮村J
Jの人と水 一 農業日誌はなぜ警かれたのか 一
を対象としなければならなかった。同じ策村復興で
らゼ ロへの回復、またプラスへの転換はどの村でも
も、尊徳が得意とした土木工事ではなく、教化を主
l
Oi
l二が限界であった。 これを長くや って効果がなか
としなければならなかった点をみても、ここに大き
った場合は 、内輪もめで誰かが音をあげて破綻する
なずれがあった 。
か、または事業が自然消滅している 。尊徳はそれを
-報徳思想における限界
ちゃんと承知していたので、 他村から農民をどんど
尊徳、が依頼され、引き 受けた荒村復興の仕事は、
ん受け入れるというような手段で、他の系(よその
すべてマイナス(借金)の時点からのスタートであ
村)からのエネルギーの導入を図りながら仕 j
去をお
った。それをゼロにまで回復し、さらに少しのプラ
こなっていた。
スにしたところで、その仕事は大成功という評価を
明治後期の村々の復興において、尊徳の思想、を用
受けた。すなわち尊徳の仕事の成果は、荒野からま
いた場合でも、その「むら 」 という体系の中に潜在
だ使われていなかったその地のエネルギーを取り出
していたエネルギーをある程度までは取り出せた 。
し、その分を増収の形で表したことによる 。
尊徳が大変苦労した「教化」の部分をうまくやり遂
また尊徳は、村人を教育して、米ができなくて遊
げて、 一村団結し、村人の余暇を 「
余剰金」 に変換
んでいる冬の半年間と、それ以外の毎日、数時間余
し、それを 一村分まるごと貯蓄することができた村
分に働くことで増収を生み i
J
'
,
さ
せた。 これはその村
が成功をおさめて模範村と評価された。
の、それまで人々の間に埋もれていて、目に見えな
かった時間やエネルギーと資源を取り出したことに
よる増収である 。
終わりに
しかし村の中の資源開発だけでは限界があること
これまでみてきたように 「
政府認定の模範村 」は
、
を知 | っ ていた尊徳は、更なるエネルギーを I~I 分の仕
その村が抱える歴 史、地理的、また人的条件を、政
事の系 (
村や領土)に取り入れるべく、雌んに領主
府のイメージどおりに兼ね備えていた村であった 。
に働きかけ、人と金の協力を ~II し 1 1 '1ている 。 これで
政府の立向に別おうと努力してこれらの条仰を揃え
領主側にあ ったエネルギー (
具体的には資本と労力 )
た村もあ っただろうが、宮村は本来からこの条件を
が、村人の f
t
l
lJへ移動して、最終的には村人の米がた
兼ね備えていた。それは厳しい条件の農耕をやりと
くさん取れることになった。領主が持 っているだけ
げるためと、数年ごとに必ずやってくる災害に備え
で活用していなかった資本を、 一時的に村人に借り
るための、この村人たちの長年の経験と知恵の蓄積
出してきて、これを活用して米を増やし、増収とい
のたまものであった。誰のためでもなく、自分たち
う形の年貢で領主に返したことにな った。
が生きていくには、村民和して 一致協力しなければ
jは、領主側の資本を借りる形
だから尊徳のやり }
ならなか った。その厳しい条件の大きな要因の一つ
で移動させただけで、社会のイ I
:
M
lみを変える方法で
が、村の UI の土撲で、ある特殊重 *I~ 土で、あったから、
n
はなか った。f
;主側の{寺が貧乏にな ったというよう
全国の 「
政府認定の模範村」の l割近い数が、この
な反!惑がかなりあったが、領主を取り佐えたり、社
古琵琶湖周地'市で選ばれたのも白然な成り行きであ
会の仕組みを変えてしまうものではなか った。社会
ったといえる 。 これは、荒廃した心と生活を送る
の仕組みを変えないということは、閉じた空間 (
系)
人々がいくら日本中に増えようとも、この地の人々
での富 (
エネルギー )の移動を試みたにすぎない。
は少しの心の緩みも許されなかったことを表してい
しかし尊徳の時代では、その系の中のエネルギーは
る。 しかし村民の日頃の苦労には関りなしこのよ
二げられてい
年賀という形で、下層から上層へ吸い l
うな節度ある人々と、村民の協力の村が明治政府の
た仕組みであったので、その逆行を試みたのことは、
描いた理想の村であった。
当時としては斬新であ った。
当時 「
政府認定の模範村」の一般村への影響は少
ともかく尊徳はこのエネルギーの逆行を、領主側
なくはなか っただろうが、せっかく選定された模範
と村人たちへの 「
教化Jという手段によってのみ行
村を皆が見習うことは少なかった。 またこの │
時に選
った。 またその具体的な手段は、主に水利の土木工
0ほどの模範村も、時とともに普通の村へ
定された 8
事によって荒地を開発し、新たな収穫を生み出すも
と移ってい った。 しかしその後も模範村であり続け
のであった。
た数少ない例外があった 。 伴谷村と宮村であ ~ 4 一回rn。
しかし、尊徳の業績の記録を見ても、マイナスか
38 ・人間文化
伴谷村が明治模範村に選ばれた当時は、伴谷村民
「明治・模範村 f
宮村 J
Jの人と水 ー 農業日誌はなぜ書かれたのか ー
はおとなしいけれども快活であり、その個人の力を
(注1) 1
明治 3
8年の日露戦争での勝利にもかかわら
十分に発節して、大きな実績を残したことは本文で
ず戦争がもたらした政府の財政破綻や国際的興│径が
述べた 。 明治の合併ではばらばらであ った村民が、
必ずしも個人の利益につながらない、という民衆の
生活実感に根ざした疑惑 J
1
21-4m より 、荒廃して
明治模範村選定後は、その村民のおとなしさゆえ
「政策的 に自然村に再編成され統合されていき J
1
4r
o
i
il
今一度、「昭和の模範村」となる 。 この様子はまた
別に述べる予定である 。
きた地方農村を 立て直 すため、明治政府は、 「地方
改良運動」 を始めることになった問
。 この 「地方改
良運動」の具体的な内容は「当時大多数を占めた農
さて宮村は、その風土的 な特長"I~こより、他村と
民に、きちんと納税させる目的で農民に税金を払う
交流できない状態にあったため、エネルギーや人を
力をつけること (
地方産業の振興と勤倹貯蓄 )と、
よそから導入する こ とな しに、その系をし っかり と
納税の義務の立 l
床を持たせる こと (
教化)と、 村や
閉じたまま │
時を過 ご して しまった。宮村ーでは、その
固の 一員である自覚を持たせる こと(
村民の組織化)
後、自村のエネルギーを村民たちに均一 にばらまき、
であ った。
しかもそれまで未開であった土地のエネルギーまで
このために向│町村を克明に調査分析した上で、村
をも、ほほ完全に取り出し尽くした。野山の草まで
是を樹立し、計阿的に運動を推進していく 「町村是」
堆肥として回へ入れ、水という水は一泊所長らず溜め
つくす C
iI
'
1
6
) という、閉じられた村という系の中で
調倉作成運動を推し進めた。 また同時に村人を精神而
の完全なエネルギーのリサイクルの体系を作り l
二げ
した てつの政策によって、いわば物心両国にわたって
地}
jを校こそぎ l
玉!家へ投入しようとした 12
1-5(
1
。
た。 このリサイクル体系の完成度がおか ったから こ
から統合を 1
>
.
:
1ろうと、神社合併政策を強行した。 こう
そ、人々は自分たちの村の暮らしを誇りに思い、ま
このような諜起の克服に対する具体的な政策実行
た白村の暮らしが住み易く、これを崩すという変革
およびその成米として、政府は 「
模範村 」を認定し、
の道を j~ ばなかったと 思 わ れ る 。
l 明治 43 年からぷ J13 を ~fì めた 。
このため宮村は、明治の模範村の姿の まま、 H
百
平1
(
注 2) 1 1111))11: り 」 大水及川掛の問は少して IIII~掛 りと称
初期の法山漁村経済更正運動でも優等生として、そ
し、聞の );'Ij 阿川 111・I~ の 存する部分を、 j采凹尺 T'J:ii 七尺
の先頭を歩み続けた。 これは村人が優等生でありた
位 j氏 IIJl~ 約 一 尺両 iWJ 五分法にて 「 ヌリ J J
晋に達する迄
いと願ったからではなく、困難と闘ってこれを克服
掘割り、之にメJ金として 「ヌリ 」 を入れ、 i
斬次締め
して生きていくには、村人の 一 人 一 人が I~I 主的に、
上げ、以て漏水を|坊 ぐ 。 此の I ~ 事は木村山の始んとな
計画的にかっ万ー に備えて日々勤倹な生活を送らざ
全部に施したり 。
m
るを得なかったからである 。 このような暮らしは 、
I
J
g
:
張 り」
古来より日本の人々が普通にしてきたことであり、
せるものにして、此lJlは底張りと称し、耕七八寸下
決して 「
惨め」でも「古臭い」ものでもない。 これ
をー I
U
Iに掛矢を以て打倒め、以て漏水を防げり 。
川
山
[
l
I
j
l
泣奥の問は凡て個人布市l
i
i
l
iを 水と
は、明治の l
時代にほとんどの人々が 「
投げ山して 」
(
注 3) J
T
j
;
)
<は、須原及井口は、全部揚水機によ り
しまった暮らしである 。今のこの地の人々は、先人
ま水を 利用し、他は大字野旧 の取堤
内訪日放野洲川 のj
たちがこのような生活を 「
投げ出さずJにず、っとや
により貯水せるもの及堀溜より漸次蛇卓或は龍骨車
り続けたことを見直してみて、このことを今一度誇
りに,思ってほしし、。
により汲み上げ、iW
f
i
n
正せるものにして、其の労力持
だ大なり 。
円
謝辞
y
:
j
治初期から自発的に活性化し
れていた。それらは I
(
注 4)明治政府には模範村のモデルがイメージさ
本稿作成にあたっては数多くの人々の協力を得る
た村々である 。 この 「自主的な模範村」の成立過粍
1
静岡県稲
ことができ、これらの方々の力の大きさを感じるこ
を静岡県稲収村の例よりみてみよう 。
とができたのが大変うれしい ことであ った。
取村は、伊立半島 "
"
1央音1
¥
の東岸に位置し、 天城山脈
特に、数多くの文献収 集に協力してくださ った
を背にした 急勾 配の傾斜地と「浜」地帯とから成 っ
方々、調査に協力してくださった滋賀県甲南町、水
ていた 。「浜」地帯は、漁業、商業が営まれていた
口町、 三重県阿山町の地元の方々に感謝します。
が、傾斜地は純農村の 「入谷 j 区があ った。 この入
4
5戸からなり、 浜地区とは独 自な村落をつ
谷区は 1
くっていた。入谷区の地味は黒ぼくの火山質で甚だ
人間文化・
39
「明治 ・模範村 『
宮村 J
Jの人と水
農業日誌はなぜ書かれたのか 一
1年の反収穫
しいやせ地であった。 この地区の明治 1
高IJ業としては、養蚕と 柑橘栽培と 林業を取り入れた。
量は、全国での最低値と同じであった 。その上、天
しかし耕地のないこの村では、新たな桑:J:
I
Uの造園は
城山脈を背にするために耕地の拡大も不可能で、、生
過酷な労働を伴う 山林の開拓を意味し、農民たちは
産物の絶対量は限定され、いったん飢きんが襲えば、
副業の導入にかなりの抵抗を試みた 。ある農民は、
松食たちどころに尽きた。 このように入谷区におけ
桑苗の分配にたいして、 「おれとこは人の食う米だ
る農民の生活は慢性的な窮乏状態に世かれていたと
けでさえも作りかねているのに、虫の食う物までも
いえる 。
作るのはいやだ。 まあお前どこかよそへ配ってくだ
このような劣悪な生活条件の下で入谷区では、明
治 5年の地券取調査の自己負担金の共同負債の'145
戸で 1
5
2
0円も生じてしまった。 また明治 1
0年天城山
さい」 といったという 。
このような農民の啓蒙活動のーっとして、農民に
農業円誌をつけさせ、年間を通じての農民の労働時
が宮内庁の御料地となり、村民は一足も山に入るこ
間を調査し、農家経営の改革の必要性を良民に理解
とができなくなり、炭焼きはおろか燃料確保や飼料、
せしめる方法をとった。 しかしこれも失敗に終わり、
肥料の獲得手段にも事欠くことになった。 このため
田村翁は村長を辞し、村民のレベルで、矯風組織の結
村民は二重に生活が窮乏していった。
6年 「
戸主会Jl母の会Jl青年
成にのり出した。明治 2
この時、副戸長に就任した田村翁は、村民に勤倹
修身会Jl処友会Jl者老会jを結成した。この目的は
貯蓄を奨励し、労働時間を延長させて、純ないをさ
「
戸主会jの決議を各家庭内に周知徹底させ、反対を
せてこれを毎月末、余剰金として貯蓄させた。 これ
なくし、すみやかに実現することであ った。時も日
に際しでも田村翁は、村の人が朝寝しているのを一
清戦争と重なり、 一村団結して開墾地拡大と、かな
りの地収の成果を挙げることができた。J(お 378-392((j
戸一戸起こして周り、夜更かししている人を寝させ
5
20円の負債を 2年間で返
のであったが、ともかく 1
(
注 5) 宮村は l反につき 2
5,9人の人手が必要で
J
歩では 2
5
9人必要であること、
あった(
11)。 これは 1I
済した 。
つまり普通の男性が一人で耕作すると米を得るまで
て回った。 このおせっかいに村人の反発は大変なも
このときのことを田村翁は次のように述べてい
に2
5
91::1かかることになる 。 このうちには技術を要
る。「手前はよーく困った 。手前の村氏は自治の観
する農作業がかなり含まれるから、いくら人手を借
念がねいから仕方がない。 まるで税金は役場にただ
りるとしても、雨、雪の日を除いた日にちを考えれ
取られるように忠っている 。 これには何でも自治観
ば
、 一家では l町歩程度がやっとということになる 。
念を起こさせるのだが、急速には参らぬ。仕方がな
春先には 1
2
0日間くらいは畦ばかり塗っていた 。
」
いから…毎戸幾段歩かの萱を刈らせあるいは純を絢
というような農作業が要求される地域であった。
わせて月末にそれを役場に述ばせて貯蓄することに
(
注 6)例えば、滋賀県伴谷村の場合では、どのよ
した。…怠惰癖の付いた人を働かせる程むつかしい
うな歴史書にも全く書かれていないが、村人たちの
ものはない。一時は色々説き諭してみた 。そうする
間では言い伝えられてきた名村長が(正確には戸長
と成る程と感心して働く気分になるが、直とまた;怠
さんだとまで地元の人は訂正した 。)明治則にこの
ける 。手前はそれを励ますために毎日朝晩村内を巡
村にいた 。(伴谷村 M さん) この人の業績は、村の
回して朝寝の者を起こし、宵張りは早く寝かせ、考
公民館の前に記念仰になって建っている 。 これほど
f
多遊;定、を戒めました。 さあ不平の声が高く、非難攻
の人でも│町の歴史書では全く触れられていない。
撃が益々盛んになってきた。手前はちっとも頓着せ
(
注7)天保三上一授…野洲川水系の幕府領にある
ずどしどし実行していきました。J
回の検地に反対して甲賀、野洲、栗太 3郡の農民 1
しかし明治 1
7年米価の低務に見舞われ、地租の負
万人が一撲をもって抵抗し、その目的をとげた。 し
担額が急上昇し、村費の滞納者が続出した。 この現
かしその際の義民の数は多く、地元では今も毎年そ
象は全国のいずれの村でも同様であり、政府も全国
の義民祭の行事が行われるとともにこのー撲を語り
に「済急趣意書」 を発している 。稲取村は直ちにこ
継いでいる 。
れに答え、その内容は、勤勉、節約、!討z蓄の 3項目
(
注 8)伴谷村の人々が、無気力でおとなしかった
であり、さらに村の納税組合を設置し、新しい農家
のではなく、自由に素直に暮らしていて、上の人に
の刷業の開発を企画した。その方法は、部落の地縁
は逆らわずおとなしかった様子が、伴谷村是に書か
組織を利用して徴税を確立するものであった。 また
れている 。「人々は実にのんびり働いていて、少し
40 ・人間文化
「明治・模範村 『
宮村 J
Jの人と水一農業日誌はなぜ書かれたのか
表 8 硫酸へ溶解するもの (乾燥土について)
o
'
)
第 3紀層壊質埴土(地味土)
第 3紀凝灰岩 (
脊ズリン)
4
.
9
7
2
6
7
.5859
1
4.
5
1
7
2
.
1791
5
1
.7
1
7
9
痕跡
手が空けば女はお茶を飲んで=話ばかりしているし、
土であるといえる 。窒素吸収係数は(lO
Ogの土壌
男は…で、困る 。Jと村の幹部が仕事の効率を上げ
吸収量 「
ミ リグラム J
) 地味土 173.4400、青ズ リン
ようと嘆いていた。
274.
6100と青ズリンが地味土より高いので、 青ズ リ
(
注
9H
協同絹陸
相率きて克く公共の事に渇くし、
整理経営見るへきもの少なからず。今後尚 一層の
ンに窒素分を吸収させる目的でクマシを作ることは
良い効果が期待できる 。 (
川地)
Fe203とFeOの両方合計で地味土は 3%含
奮励を以て互に相劾力し、益々其の実績を挙くへ
i
i
i)
し。姦に金五百円を授与す。明治 43年 2月25日内
んでいる 。 これは普通の土と変わりない。 ところが
務大臣 J"である 。
育ズリンは 5%
含んでいて、相場より多い。 υ1地)
(
i
主 10) この分析の依頼は村ごとにしたものと思っ
つまり育ズリンは鉄分が大変多く、鉄を酸化させる
てよいが、両村是の分析結果は数値がすべて全く同
ことによ って鉄に酸素 を抱かせ、固に酸素を供給し
じものとなっている 。分析結果は普通の場合、ほと
たという私の説(
1
)にもあてはまる 。 また背スリンは
んど同じ試料で同項目の分析でも、 一つずつ分析を
Mgも多い。 FeとMgが多いのは塩基の│湯イオン交
行ったら必ず数値はばらつくものである 。 しかしま
換容量が多いということで、肥料の持ちが良いこと
ったく同じ数値で結果を 出し てきたということは、
を意味し、良い仁である 。だから青ズリンを客土し
分析担当者が両村の土を 見ただけ で同ーのものだと
て入れると効果があったと思われる 。
t
士
t
l
!
.P
;
f
C につしての明治の分析官の考察にある
判断して、どちらか先に出した方しか分析せずに、
i
v)
後の集落には同じ結果を送ったのかと疑問がわく 。
「……水分の流通不完全なると水分を吸蓄すること
そのくらい土壌が似ていた 両村であったといってし
l
l
lに富たる肥料即ち錬及び組の干
強大なるを以て脂 l
まえばそれだけであるが、あまりいい気はしないの
魚、共の他
で、明治の技官の名誉挽回のためにも専門家 (滋賀
れると駿欠になるかまた、分解せずに異常発酵して
J については、油っぽい肥料を聞に入
県立大学環境学部川地教授)の意見を聞 いてみた 。
l分の少ない
メタンが出たりして作物の筈になる 。l
川地先生は、明治の分析では精度が悪かったので、
}.¥¥肥はよろしいといっている 。 (
JI地)
このようなことはありうるという意見であった。つ
宮村の人は 「
ニシンを聞に突っ込んで、行 った Jと
まり分析結果の計算だけを精度を上げておこな った
いっているが、これが害にならなかったのは、まず
ということになる 。私もこの方が明治の人らしいと
このニシンをドジョウが食べ、このドジョウのフン
思うので納得した。
がよい肥料となったと考えられる 。 ドジョウが丸々
(
注1
1) 宮村村今是に載っている宮村の地味土と青ズ
太っていたのはこのためで、またこれを食べたり売
リンの分析結果についての説明と考察を川地先生に
J内の記事は宮村
ったりしていたので結局はよい結果になっていた。
v) 明治の分析宵の考察,....
.岩魂を首地方に於
分析表の硫酸へ溶解するものの項 目の数値に
岩中作物の肥後分となるべきものの不溶解性に存在
していただいた。 また以下の ,
村是の記載内容である 。
i)
けるが虫 1
1く冬 W
J
'
I
'寒気に爆露するは最も良法にして
ついて
するものを溶解性に変ぜしめ作物の摂取するに易か
表 8 硫酸へ溶解するもの(乾燥土について )1'
土擦の中のアルミニウム 、シリカ、鉄が硫酸に溶け
らしむるを以てー一 Jについては、 「青ズリンを 、
lてるということは、凍結乾燥を繰り
冬期に寒気に、i
る。中山上のうち活性粘土化していないものは溶けな
返すことによって粘土をサラサラにしている行為で
い。つまりこの項日の数値が大きいものほと粘上質
ある 。J(
JI地)
であるといえる 。
表 8からは背ズリン がよほど粘上質であるといえ
る。 このため背ズリンを客仁すると砕けて細かい粒
子になり、
I
nの}氏に沈んで漏水止めの効果が則待さ
地元の人の訴では、青ズリンは 「
叩いても細かく
ならず、そのまま川に放り込んでもいつまでもその
ままあ った 。 J という I~. なので、冬期の凍結乾燥に
よって刺]
1
かくなることを、この 地の人たちは発見し、
地)
れたのではないか。 (
J
lI
i
去を{
ム/兵によって 引き継いできた 。回に治:土
この H
i) 地 l
床仁と青スリン共に、リン般 l
吸収係数 (
こ
するまでに 5年も 6年も切り返しながら刻1
1
かくして
れは肥料をやったときに土に取られてしまう分をし
1
1
1もの冬の凍結乾燥を繰り返すためで
いたのも、何 1
めす。 この数値が高いのは肥料の利きがJ
Eく
、 j
立
一
業
あった。何年もかかったということは、つまり上質
I
l
l
i
!}jともいい
にはよくない。
) は低い値であるので"
の青スリンであ った証拠かもしれない。
人間文化・ 41
「
明治・ 模範村 f
宮村 J
Jの人と水ー農業日誌は忽ぜ書かれたのか
v
i
)
r
腐植質に富たる極めて軽穏なる土壌に施用
(
注 14) 報徳思想の影響を見るには、事項の 一つず
せば・
一」
つをみても判断しにくいが、その影響を受けた人々
土嬢中の有機質は団粒形成(ミミズのフンのような
や事業の場合では、 「分度」 と「推譲」、「心田の開
ポロポロの土の状態にする)には欠かせない 。この
発 J(
教化) と 「自得」 などの項目が必ず何点かの
ようなポロポロの土が作物には良い土である 。
(川地)
セ ッ トでみられる 。 また報徳思想、に特有の 言葉を使
i
l
a田は、硫化水素が出やすく、植物のまわりが還
用していればその影響の証拠だと考えられる 。例え
元的な雰囲気になる 。 これは植物の根ぐされの原因
ば伴谷村村是では村民の規則の中に 「
分度 Jという
となり、ひどくなれば根が死んでユしまう 。乾固化す
言葉が使われている 。「分度j は報徳思想独自のも
ると水はけが良くなることによって、根に酸素が行
のだから、村民の生活規則の考え方も、その影響を
きやすくなる 。 この根の周りの酸素が十分になるこ
受けていると思ってよい。 この伴谷村村是を手本に
とにより根が元気になり、活力が大きくなって稲が
してつくられたと考えられる宮村は、報徳の独自の
よく笑るようになる 。 また乾田化したときから稲ワ
言葉使いはみられないが、その精神は伴谷以上に報
ラを回に入れることができるようになるが、これは
徳的である 。 さらに後の龍池村村是でも精神而の項
旧の肥料分というよりは田の土の団粒化のための効
目がそ っ くり日│き継がれている 。
果が大きい。土が有機質により団粒化すると、水は
5) この 当時の'自・
村でも普通の村人たちの問で、
(
注1
けが良くなり、恨の周りの酸欠がなくなり、根の周
日常的にばくちが行われていた。 この当時の農民の
│到の状態がよくなり、根が十分生育できるようにな
生活は節季払いで、日常では現金を持たなか ったか
るというような物理的条件の効果である 。 また湿田、
ら、ばくちでは白分の回を賭けておこな っていた。
l~l: 11
によらず肥料が効くためには、まず根の状態を
わずかしかない回を賭けていたことを知 った奥さん
良くすることが大切で、肥料の良否、多少以前に根
:1:1の名義を総て親類の名義に 書
が、親矧に相談して 1
を般欠状態にしないことが稲にと っては必要である 。
き換えて I~III] に賭け事ができないようにして、 111 を
u
i
ニ1
2) しかしこの土地の人も 5l
i
三とか 1
0年という
守 ったという話を │
笥いた 。(甲南 I
I
I
T
Oさん ) この 書
長い年
き換えたときの証文が今も残っている 。ばくちの仲
nをとってみれば、少しずつ凶を広げてきて
;
I
Ji
l
JU
I
T西湯舟の Bさんによると、 「
背は、 「
今
いる 。 I
間が、村の│捺近所の家であったというか ら、その荒
年は旧がこんだけ広がった」 ということを村人たち
れ方は Hを見張るものがある 。また、この隣村では、
がよく白慢しあった 。jという 。自分の山があれは¥
ば くちで山を失 って自殺者も出ていたそうだ。
少し水がしみ出るところを開墾し始める 。 もし山が
収穫物の原料
(
注 16) その村にエネルギーや資源 (
ない人は、土地を交換したり買い取 ったりするとこ
となる元素)を増加させるには、村の外から肥料を
ろから始める 。そして得た土地の木を切り、草をと
買い入れて使用するなどの方法がある 。 しかし宮村
り、lIi主を作り、凹の底をつくっていく 。地味士は運ん
の場合は、田の水の確保のために滞水旧にしておく
t
もが機会があ
でくるか、掘り起こしてつくる 。
ニ首
は
i
i
1
必要があ ったので、購入した肥料では直接凹に使用
れば凹を広げていった。少しずつやれば確実に自分
不可であった。 この地の回の肥料として最適なもの
の日:1は広がっていく 。目で見える成果に村人たちは
は、村民たちが自分で作った完全発酵した堆 JJ~ (
ク
者しい労働の中にも喜びを感じていたに違いない。
マシとよぶ)であった。 i
(
注 13) 報徳思想は、江戸時代に 二宮尊徳が始めた
(
日常生活の労働体験を通してこそ真
もので、 「自得 J
理を理解することができること )によ って農民たちに
自信と誇りを植え付けた。 日々の生活の予算を立て
て、その範囲内での生活する 「
分度」 を決めて、さ
らに生活費を節約して、また労働時間を延長して
「余剰」をつくる 。この 「
余剰」 を自分のために 「白
談」 したり、村や他人のために 「
推譲」 して地域や
国の発展に尽くす。特に他人や世に 「
他譲」するこ
とは大変な苦しみを伴うものなので 「
心回の開発」
(人々の教育)がこの思想では大きな比重を占めた。
剖
42 ・人間文化
「明治 ・模範村 I
宮村 J
Jの人と水
農業日誌はなぜ書かれたのか 一
Comment
黒田末書
自己の言葉と尊敬に満ちた比較農村研究
人間文化学研究科地域文化学専攻
甲賀・伊賀の特殊重粘土地帯の風土は、いまだに
も実証性を欠く表現が目立つし 、著者が情報をもっ
地域の人以外にはその特異性はほとんど知られてい
ていながら表現が不十分なところもいくつかある 。
ない 。 また、模範村についての研究も少ない中で、
それらの 一部をあげて改善をうながしたい。
村是と積み重ねてきた聞き取り資料とで土撲・地勢
1)宮村が「明治期」 に模範村指定されたとは、
条件が微妙に異なる村同士を 比較し、特殊重粘土地
村是・甲南町史・ふるさと柑子 ・自力更正模範村宮
背
干 内の風土や村民気質の多様性を示しつつ、模範
村のいずれにも古かれていなかったと思うが、これ
村 ・宮村の性格を浮かび
tがらせた本論文は、
実に
はどの資料に表されていていつの こ となのだろう
か。
興味深い。
J
2民文化
明治期か ら第二次世界大戦までの日本の j
2)作谷村のi
;
'
:
er
U化が明治則におこなわれた のは、
は民俗学の分野を│徐けば、「農村ファシズム 」のレ
著者がいうようにリーダーの(無知ゆえの?これも
ッテルのもとに切り捨てられることが多く、その研
実証性に乏しい )力が大きいことは疎かだろうが、
究は連綿と続けられてはいるけれども大きな流れに
当時の校術でも巾規模の潟池を多くつくることがで
なり得ていない。経済成長期には世代聞の文化の断
きた地勢的要肉も与慮すべきである 。 これに対し宮
絶を歓迎する風潮が強かったことも、
j
J
E民文化研究
1
'規模
村は '
i
m池造成の地勢に恵まれず、1I{
1和 2
9イ1
:
:
に
を妨げる要因になっていた。 しかし、 4
0年前まで 1
完成した法制の大規模溜池と高度な導水技術によっ
本人の大多数は農民であったから、今 1の文化の基
i
則l
J水が確保で、きたのである
てようやく i吃川化の様l
盤には形はともかく農民文化が深く影響しているに
(
黒 日1
2
0
0
4
)
。
!
.
I
I
J
:しは
違いなく、近代化の過程を見直すにはそのよ .
低成長 ・循環型社会では伝統文化の継承と泣かさの
3)特殊司l
i
'
,
c
, 1::の村は必ずしも昔から勤勉な気風
を培っていたわけではない。宮村と 三重県側で隣接
0年代までは
する王滝村は 1!Jc灯台の僕範村だが、明治 2
認識が重要な位置を占めるはずであり、その立 i
床で
破雇状態で
も近い将来に民民文化研究の大きなうねりが出現す
長と u年 I
I
Iの主導で、再建し模範村指定されたので、
あ
ると思われる 。
る
避けて通れない。 ことに、私たちが突入しつつある
1
"
賀
・
好奇心が旺盛で、現代の水文化の研究から 1
u
n
t
専がはびこる村だった。それを木津村
(
f阿山 111]"~と J) 。
4)丘陵地部;の特殊重粘土地帯で大地主が 1
[
'
,
現
し
伊賀地方に広がる特殊重粘土地帯の民業技術・文化
なかった理山を、水田維持・補修に労力がかかり小
研究に入 った阿 問さんにとっては、既成の観念は関
竹ーばかりでは水 f
U羽目守カ tできないとしているカ人こ
係なかったのだろう 。 ひたすら 、この地の j
J
t民が困
れだけで説明になるだろうか。
難な条件下で工夫と勤勉さで生きてきたことを尊敬
5)背スリの上成分析はとくに耕作上の有効成分
し、その実態をとらえる 研究 に逝進していったこと
l
1fしで
を含む結来にはな っていない。 この客土が r
が、この間の数本の論文から伝わってくる 。明治か
きる乾 f
Uに劣らない収穫を湛水凹にもたらすのは、
ら昭和前期のこの地における民民の感覚に通じるよ
著者が初めて指摘したように、
己の言葉で
うな、地道な開き取りの積み重ねと、 (1
入るため巡元反応で酸素補給源になることと分解が
Z民文化
語る岡凹さんのスタイルは、やがて新しい j
進んだ肥料を入れるためと考えた方がよさそうだ
研究の一角を形成する ことを 予感させる 。
が、どうだろうか。
とはいえ、その予感を実現す るには苦言 も呈した
方がいいだろう 。たとえば、報徳思想の影響にして
ト分酸化させて旧に
r
0
0
4I
溜池のある風景 J 環琵琶湖 地域論j
黒田末誇 2
8
7226、思文│羽出版
西川幸治 ・村井康彦編 :1
人間文化・ 43
調査報告
進取と望郷
ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告はじめに
近江商人研究会
ラフイン氏 (コロンピア大学院生)の「日系カナダ
滋賀県立大学を中心とする近江商人研究会では、
移民の研究史」、末永岡紀氏(同志社大学教授)の
2
0
0
3
年 7月、カナダのパンクーパー、カルガリーの
「近 江 の カ ナ ダ 移 民 に つ い て 一 商 業 活 動 を 中 心
滋賀県人会を対象に、聞き取り調査を行った。以下
に 」 の 2報告を得て、討議を行った。
はその報告である 。 いまだ中間報告 とも云うべきも
のであるが、 一応のまとめをしておきたい。
翌日日午後、松林氏のお宅において、以下の方々
からお話を承り、かつカナダでの縁者を紹介してい
まず、このような調査を始めるに 当たった端緒は、
ただくなど聞き取りの準備をした。参会者は、稲本
滋賀県立大学 の所在する八坂 1日の地、とりわけ、開
義昭、 ヒ
」 川雅行、田沢雪枝、寺村義三、西 │
羽清、西
出今の土地が、カナダ移民を多く輩出した土地で、あ
村浩一、西村隆男、宮崎八重子、松林美佐枝の諸氏
ったことから始まる 。
である 。 ここで伺った話も何らかの形でまとめたい
5j
fほど前に、パンク ーパーのブリティッシュ・
コロンビア大学を訪れた脇田は、当時同大学図書館
と思 っている 。
さてここで報告するのは、以上の予備調査を行っ
日本司苫の椛並恒治氏から、 「八坂の地に県立大学
た上での本番のカナダ調査である 。パンクーパーに
がiJ¥
来たことを喜んで、滋賀県人会から、カナデイ
おいては、
アン ・メープルの苗木をたくさん、お祝いに送った
ージセンターにおいて、オードリ・小林氏の i
j
i
没後
7月1
9日午前に、ナショナル日系へリテ
が、よく育 ってますか」と聞かれた。そのことから、
カナダ移民の状況」、鹿毛達雄氏の 「
戦前の近江移
滋賀と りわけ八坂からの移民が多いことに話がおよ
f
1
T(
パウエル街)の状況Jを聞き 、質疑
民と日本人 1
んだのである 。県大に居る以上、何らかの調査をす
応答を行 った。午後、滋賀県人会の方々との懇談、
べきである、と思って、権並氏とは再会を約してわ
聞き取り会を五班に別けて行った (
P47参照)。翌
かれたのである 。
2
0日は滋賀県人会の方々は、恒例のピクニックを計
その後、滋賀県立大学教務課長で、あった松林利和
画しておられたので、私達も招待を受けて参加│
した 。
氏から、松宮増雄氏の 『聞出今物詩 j をお借りした
2
1日はブリ ッティ
脇田は、その移民についての記述に魅せられた 。開
究所において、権並恒治氏の 「日系カナダ人アーカ
y シュ・コロンビア大学 ア
ジア石iJf
出今の富裕な家々は、中世から商業活動をしていた
イブについて」のお話を伺い、続いて同大学 中央図
故と思 っていたのが、そうではなくて、カナダから
書館スペシヤル・コレクション「日系カナダ人アー
の仕送りの結果だと知ってひ‘っ くりした 。 しかし、
カイブ」 をジョージ・ブランダック氏の案内により
囲内に行くような感じで、明治大正にカナダに出掛
拝見した。 また、│百!大学アジア図書館を後藤朋子氏
けた人々の進取の気性は、 ,
+
,世の近江商人から培わ
の案内によ って見学した。 さらに、オードリ・小林
れた結占
Ii:に違いない。
氏の案内によ って、日本人町であったパウエル街を
さて、 2
0
0
2年 1
2
月 4日に松林さんのお宅に伺って、
2- 31
時間]歩いた 。滋賀県人の応の助もあちこちに
大体の打ち合わせを行い、その H
寺も 3人の方 (
松林
あったが、いまは廃嘘となっていて、焼けつく暑さ
i
l
jいた
美佐枝、宮崎八重イ、西村│佳男 )からお話を /
にもかかわらず荒涼としていた。熱中病症状を示す
後
、 5)
J
1
O・1
1日に研究会を持 った。 1
0円は、この
もの も現れて、引き上げた次第である 。
)
J而の先行研究の研究会として、クリステ ィーナ・
2
21-1午前からカルガリーに移動、 午後から、滋賀
県人の方 々で作られている寿会の方々の歓迎を受け
て、単速聞き取りを始めた (
P55参照)
。 また、県
人会の方々から、バ ーベキューの御馳走を受けた 。
2
3円も有志の方々が出てくださって、日本人の働い
ていたて場跡のフオート・カルガリ一博物館を見
て
、 一番の成功者、シルク・オ ・ライナの桑原佐太
郎氏の展示 なども見た。
以J
_で、私たちの聞き取り調査旅行は終わ ったの
だが、有志はその前に、パンクーパー烏に波 って
、
ピクトリアにお住まいの移民史研究の著書 を古ヵ、れ
パウエル街 (
1日日本人街)にて、中央はオードリ・小林氏
4
4 ・人間文化
ているミチコ・ ミッ ジ・アユカワ氏のお話を聞きに
進取と望郷 ーカナ夕、
移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
いった。 もっとも印象に残ったのは、広島移民は農
に新しく独立した国家となった。今まで隣国のアメ
業が多く、和歌山は i
魚
、
業
、 近江はやはり商業が多か
リカの影響を大きく受けていたが、今は、カナダの
ったということである 。その他、有益なおはなしを
独自性を出そうとしている 。 なぜ、カナダは多人種
聞いたが、それも後日に期したい。
国家とな ったかと 言 うと 、出生率が低く、人口の自
以上、大体の日程な どを説明した。以下には各人
然増が望めないため、毎年、 20 ~3 0 万人を外国から
の執筆になるバンク ーパ一、カルガリ ーでの聞き取
受け入れている 。政争で困っている人を受け入れる
り、権並氏のアーカイブの解説、ラフィン氏のシル
政策もあ った。例えば、コソボやチェコの暴動で、行
ク ・ オ・ライナの解説 ( P71 ~73 ) の翻訳、さらに今
き場のない人々を受け入れた。 カナダは常に人道的
回の調査行の発端を作ってくださり、諸事お世話い
であ ったかと 言 うと、必ずしもそうではなく、過去
ただいた松林氏に御家族の事を中心と しての有り様
にアジア人排斥の時期があっ た。中国人と口本人に
I
J
.
f
J
出今の移民の
対して、公的に談会で決めて、 1
930年代から 1
9
5
0年
あり方を紡俳とさせるものである 。 まことに中間報
代に移入を 1
1
1
]
11
浪した 。それは 、最初にアメリカのカ
を書いていただいた
(P68~7 1)
0
告に過ぎないものであるが、今後の展開を期したい。
リフォルニアで始ま った。アジア人の移入によ って
、
(
脇田晴子)
自分たち の労働市場が合かされるとして、アンチ・
オリエンタリズムが起こってきた。 カリフ ォルニア
(
→日系カナダ人史研究権並恒治
カナダ移民の出身で 一番多いのは彦根市の八坂、
が法律として、 1系排斥法を制定した。そのような
こともあ って、カナダのブ リテ ィシュ ・コロンピア
関出今、と米原町の磯が多い。 カナダに移住した理
(
BC) もlド凶人は完全に移入禁止、日本人に対して
由としては、明治 1
8年に犬上川が氾濫し、水田が冠
は、日本との協定のもとに移入を制限した。
水し、大水害のため作物が不作とな った。そのため、
1
崎県の水野万蔵が最初にカナダに来
明治 10年に長1
1T
J5千
たまたま誰かが、カナダ に渡航し 、次々と H
千び寄せ
て以来、カナダへの移住は明治の末には、
たのである 。 カナダでは 、苦は、県人会、村人会、
人から 1万 6千人程で、大正の初めには、 2万 3千
あき
字人会まであった。村人同士の結束は強か った。現
人程であ った。 そのうち 30%程が滋賀県出身、 2
5%
在、カナダでは、滋賀県人会が最多で、次に多いの
は和歌山県 I
L¥身で、あとは広島県、熊本県、稲岡県
は、和歌山県人会である 。和歌山県人は漁業に従事
の出身者である 。職業は 一次産業で、農業、漁業、
していた。ある時、和歌山の漁民がカナダにきた時
山林伐採、炭鉱および鉱工業に従事していた 。今で
に、フレーザ一 川に川 が真黒になるほど,牡がいるの
も、カナダの BC州は一次産業が中心で、 二次産業
を見て、次々に呼び寄せて移住した。
はオンタリオナ1
1
が中心である 。戦後、日系人はオン
滋賀県人は商業と農業に 従事した人が多く、パン
タリオ州に移住し 、専門職についているが、戦前は
クーパーのパウエル街で別名ジャパンタウン (
戦前
知的な職業、例えば医者、薬剤師、弁護士、教 n
mの
はリトル東京) とも言い、そこで庖を聞いた人が非
ような職業にはアジア人はっけなかった 。医学部や
常に多い。 J
;5の裳に寝室を作って生活したり、 2階
ロースクールのような学校に入学できなか った。 そ
に住居を作 って生活した。
のことは、大限 F
I械などの新聞を見ればその時代の
0
日系カナダ人の資料についての研究は今から、 3
年前から始まった 。 カナダは異民族で成り立 ってい
状況がよ くわかる 。大陸日報については、 彦線市立
図書館にマイクロフ ィルムがある 。
るので、国策として多人種、多文化主義に基づく多
日本には、アメリカ村が 2箇所ある 。一つは和歌
元国家を国の政策として、挙げている 。 しかし、フ
山のアメリカ村で今の美浜町であ る。 もう 一つのア
レンチ系カナダとイギリス系カナダがうまくいかな
メリカ村は 彦線市の八坂、開 出今 1
1
汀あたりである 。
くて、いまだに、ギクシャクしている 。 そのため、
よく、あの人はアメリカから帰ってきたと 言 うが、
ピエ ール ・ツルゾ一政権時代に 多人種 ・多文化を図
それはほとんどがカナダである 。滋賀県人はアメリ
の政策とした 。移住してきた人の言語と文化をその
カ合衆国に行 っている人は少ない。 それから、ブラ
まま維持して、その上でカナダを創ろうとした 。 カ
ジルに少し 行っ ているが、農業移民である 。ハワイ
ナダはかつて、イギリスの連邦国家であ ったが、独
も同様である 。
立 して、国旗もユニオンジヤァクからメイプルリー
ブルにして、 1
9
6
4年(昭和 3
9年東京オリンピ ック)
和歌山も I
l
i
J機で、よくアメリカに行っていると 言
うが、実際はカナダであって、ブリティ ッシュ ・コ
人間文化・ 45
進取と望郷 ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
ロンビ アである。 和歌山の日 高 1町にアメ リカ館があ
年の水筈のころカ ナ ダに渡る 。八坂,大薮の移民が
るが、今はカナダ館に変えたようである 。
多かったが、 出身地は多賀町敏満寺。父は日本生ま
滋賀県のアメ リカ村に関しては、
O立命館大学 人文科学研究所稿
れであるが、父以外の叔父、叔母はパンク ーパーに
『湖東移民村の研
究 J(
1
9
6
4
)
生まれる 。 父は小学 4年でカ ナダに 波る 。
本人もパンク ーパーで 1930年 3月 1
5日に生まれ
谷岡武雄先生の地理学教室と歴史、経済、社会、
る。 8歳の時、日本へ教育のために帰国。滋賀県人
思想分野などとの共同研究であって学際的な研究
は和歌 山県人に比べ教育熱心で、子弟を教育のため
である 。 カナダ移民史資料にも含まれている 。
日本に帰す人が多かった。 また、 当時は出稼ぎ気分
O 松宮増雄箸 f
開出今物語一 梅の花と楓 J(
1986)
が強く 、金が貯まると日本に送金し、教育も日本で
サンライズ出版
自費
1
おこなった 。和1
崎商業を卒業し 、1
957年カナダに帰
1
O 川 11奇愛作者・ W
i
毎を渡 った近江の人たち j (
1986)
国。 1958年に結婚のために一時 日本に 帰る。妻は須
越出身。 カナダに帰国後は i
漁業に従事した 。漁業と
滋賀県庁の 出版
この 3j
1fj-が代表的なものである 。他に 末永先生や
佐々木先生の論文がいくつかある 。
で魚、を買い付ける仕事で、缶詰会社と契
いってもれ 1
'
約。 3人乗りくらいの舟に乗り、沖合で現金で買い
また、ブリティッシュ・コロンビア大学でカナダ
付けた。漁民も日本人なので、日本人が乗り込んで
移民史資料を作成した。現在、 i
ヰ次だけを英文にし
買い付けていた。舟は日本人の元締めから借りてい
た。それは H本の研究者には役に立たないが、英語
た。買い付けの仕事では製材工場の l年分の収入を
歪
│l
の研究主には役に立つ。将来は、本文も英訳して
4ヶ月で得ることができた。漁業に就業する人は和
4 ヶ月も 1~å ってこないので、
いく予定である 。 また、彦般市 立医1 ,~~Ni の西村氏の
歌山県人が多かった 。
寄贈の資金で大│
箆日報などの新聞や資本│
などが、マ
娘に反対され、買い付けの仕事をやめた 。 その後、
イクロフィルム 化 されて国会 l
支│
古館、彦被市立図書
造船の仕事につく 。松本造船所に転職し、アルミ船
館、和歌山県立図書館や 同志社大学に所蔵されてい
を作る 。従業員 70人 くらいの 規模の会社で、あった 。
る。 (文立 回亀田彰喜)
68.
Jで退!被し、現。ニ
7
3才。
口 パン ク ー パ 一
ぎくらいの気持ちで来ていた 。戦後も口に/:1,' して、
戦前のカナダでは人種差別が激しく、移民も出稼
日系ヘリテージセンターにて
聞き取り調査
聞き取り調査日時
2003年 7月18日
口本人の排斥をする人がいた 。 1955年くらいまでは
排斥が続いた。現在は表だってはない。
1
988年、 カナダ政府が戦時の日本人の扱いについ
滋賀県人会について
i
l
没後結成
て謝罪し、
トロ ントでは青柳会が戦前にあった 。 (
青柳
、
.000ドル の補償 金を支払 ってくれ
l人21
た。収容所で、
は 1時間 2
5セントで、 薪きり、道づく
(戦前は無かった)
1
m
りなどをさせられていたし、 収容されるときは財産
1
:
1
:
¥今、八坂出身者の集まり )今でもト ロントには滋
を一週 11
¥
1
以内で処分しなければならなか ったため、
賀県人が多く、新年会には 350人くらい集まる 。多
足元を見られて買いたたかれた。 そうしたもの全て
すぎるので県人会が幾っかにわかれている 。 アルパ
を含めた補償金であった。(文責:i
却l
奇一志)
ート のレスブリッジにも滋賀県人会がある 。パンク
ーノ〈ーとあわせて 3つ。パンクーパーでは 200世帯
聞き取り対象者藤本義男
ほど。県人会では新年会と夏のピクニックがメイン
大正1
5年 3月27日
行事。世界大会が昨年、パリで開かれた 。 (国外 1
4
団体
2団体)次回はロサンジ、
エ ルスで第十回
囲内 4
大会が開かれる 。(文責・武田佐知子、今井倫子)
カナダ生まれ
高宮 I
H
J中北出身の父が、明治の終わ りごろカナ夕、
にi
度る 。兄はj
l
堤前I
にカナダに渡る 。
本人は大正 1
5年 3月27日、カナダに生まれる 。 4
才で帰国し、 1
5才くらいで戦争にな り、カナダに戻
聞き取り対象者北坂博
れなくな った。 1950年に再度カナダに渡る 。弟 2人
(西部カナダ滋賀県人会会長)
と妹が日本に残る 。三男が高宮で家を継ぐ。三男は
5日 パ ン ク ー J
.
i
'
一生まれ
1
9
3
0
年 3月1
百姓を継ぐ。
祖父母が移民。祖父の名は北坂岩次郎で,明治 2
9
46 ・人間文化
1
949年に日本人がパンク ーパ ー に帰還可 能と な
進取と望郷 ーカナダ移民;蕊賀県人会の聞き取り調査報告ー
る。 1
9
5
1年、パンク ーパー の東 8
0
0
k
r
nに位置するゴ
作るのに対し、この闘の服はすぐほころびてくるの
ールデン(ダーナル製材工場)から帰還した父と兄
で補修ばかりしている 。
は漁業に戻り、鮭をとる 。漁
自j
jは シー ズンオフは暇
ご主 人は船関係や、化粧品問屋
様々な仕事につ
く。二 │止で英語は達者であった。終身雇用ではない
であった。
1
9
5
0年にカナ ダに来て 、 1
9
7
0年まで日本に帰国で
から仕事はよく変わるが、ちえこさんはそれが不満
きなかった 。製材工場に勤め、試験を受けて木材の
で、郵便局に勤め始めてから は
、 「もう ここを やめ
選別師になり 、 さらに検査仰に なった。 日本人の仕
たら私は日本に帰りますよ」とまでい った という 。
事は製材、漁業、農業等が多かった。滋賀からの移
さすがに郵便局の仕事は 2
4年間勤 めたが、 2
5年目に
民は農家の出身者が多いが、須越、八坂からの移民
あっきりやめた。 この同では 2
5年働くと年金が貰え
は漁師になる人が多 か った。 1
95
0
年の製材工場での
るのだが、彼はその一年前にやめてしまった。年金
賃金は 1時間 9
0セ ン ト。
は人らないわけではないが、多くはない。 しかし、
1
9
5
5年、大薮出身の女性と結婚。妻の父親と 一緒
この│五│は物価が安 く、ま た食料にあまり税をかけな
にカナダに来た縁で結婚。娘二 人、息子一人。 長女
い。 だから手取りが令官民的に低 くても、
は日本人と結婚し、シア トル に住む。次女と長引は
ていける 。衣料品には現在 1
4
.5
f
'
。
の GSTがかかる 。
卜分暮らし
白人と結婚。戦前、出稼ぎ気分でおl
地にとけ込まず、
食料品でもドーナツなとーの資沢品への諜税はある 。
1
1]結納
排斥を招いた反動からか、異人傾向、異文化1
1-1佐知子、今cJl
倫子)
(文ぷ .武 1
が多い。 3世には日本人の意識が少ない。滋賀以人
としての意識は!
こ
│
分らにはあるが、子供を H本に行
かせる気はない。千供にも 日本人という感覚はない。
子供たちにとって
H本は遊びに行くにはいいところ
聞き取り対象者清水源太朗
(西部力ナタ滋賀県人会副会長)
昭和 4年 3月 2日生まれ
だが、住むのはいやがる 。 1
9
7
5:
q
.
:
にツ ーパイフ ォー
のプ ロモーションで 4年間東京にいた。長女を j
生れ
て東京へ赴任。
6
才で、
滋賀県人会の故年長は 9
M化二 世は 5
5-8
0
カナタへの移民
1
.
'
頃、水害で水川がだめにな って こちらにきた。
大1
米を作 っても旧んぼが水びたしになって米が取れな
才くらい。 それより若いのは新移住者で移民とは全
か った。三年くらい絞いたという 。 それ l枚、親'"主を
く立識が違う 。(文責:i
却l
奇 志)
頼 ってこちらにや って きた人が多か ったが、製材所
で働く人が多か った。
お父さんは H本で丸紅で働いていたが、その後カ
聞き取り対象者西沢ちえ子
昭和 3年 3月 4日 パンクーパ一生まれ
ナダへ移民する 。最初jは薬をつくるメーカ ーで、統
1
9
2
8年、カナダで結婚 (
当 時では晩婚)
御主人は彦恨の l
判J
I出身。 J
J
!
.イ
Eは日本での親族は
抜かなにかの関係の楽 土場で働いていたが、それが
いない。
らい )それ後、白分で雑貨商をはじめ、清水さんが
大正頃に父親(彦根市開山今 1
1山身)が水符でカ
ナダへ 。 ちえ子さんはカナダ生まれだが、
H~ のと
だめになり、雑貨尚になった 。(昭和元年、
2年 く
t
l
二まれた頃には、すでに1/
1役所の下のほうで雑貨商
をしていた。 よくはやり、だ、いぶ儲けたという 。多
に日本からカナダへ(トロント → パンク ーパー 。
)
1
1
6キ
"8年頃。 当時はこちらの一 円
賀に家を建てた (
q円、五円。 l
凡│官庁か、五倍 くらいですよ)。
が 1本の p
兄弟はたくさんいるが、みなあまり円本には興味が
強制収符 の時期 、父はオンタリオで収符所へ入って
きに日本へ帰国する 。 2
5年
!
日j日本です ご し
、 1
9
6
0
:
:1
二
ない 。 1
9
6
0年カナ夕、へ帰る (
30.
j
-くらい 。
) 四歳の
おり、財産はすべて没収された。治水さんは 7つの
ときに日本に行ったので 、言葉は忘れてしま ってい
時
、 一人で日本へ州り、長浜の民学校に通っていた 。
て、大変だ‘った 。
日本で洋裁を宵う 。東京文化学院 (
大阪・ 三 I
J
i
l
)
(
ハラ夕、シゲル校長先生) 日本で切った洋裁は
r
3
W
i
カナダでの仕事
庭師i
l
の仕事をしている 。 インド人を 三人か四人く
過ぎ、金儲けにならないからだめだとカナダ人に言
らい雇 ってました。 昔は日本人を使 っていたが、日
われた 。 この国の服は外側は格好いいが、裏地は適
本人は働かないから、イン ド人を使 う。昔はインド
当であっ た。 日本では裏地も きちんとあてて上手に
人は製材所などで働いていたが、製材所での仕事が
人間文化・ 47
進取と望郷 ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
なくなったので雇いました。二人のインド人はうち
言 う問題。
で1
8年ほど働きましたが、私が 6
5歳のとき、自分の
客を半分あげました。 この国の庭は花。仕事は 一年
年金は
に一度は必ず、石楠花が咲くようにすること 。 きれ
製材所年金は大きい。政府からもらえる国民年金
いに手入れしないと咲かない。生き物相手の仕事は、
5
0ドルと決まっている 。若いときから f
効いてい
は4
とても而白い。
た年金がもらえる (
掛け金 による )。大体 2
5
0ドル/
月です。清水さんはめいいっぱいかけていたので、
0
0万ドルくらし、。現在でもカナダの 1
0
0ドルは
現在 8
カナダの就職状況
0年前は日系だから
この国で大学を卒業しでも、 5
日本の二万円くらいの価値がある 。
就職が難しかった。
今ではインド人でも中国人でも、
志水さんは志願兵として予科練にもいっていま
頭がよくて、コンピューターができればいい仕事に
す。 ちょうど栃錦、若花田が活躍し、テレビが街頭
つける 。だから、 一世が苦労したように、子供には
時代、 1
9
5
7年 (
昭和 3
3年)頃にカナダに
に出始めた l
必ず教育をつけさせようとしている 。昔のようにあ
きた。昔ここに入 ってきた人は、庭の仕事 をするか、
まり荒い仕事につかなくてもいいように。
製材所の仕事をするしかない。
カナダでは、七月から九月まで、夏休み。学生達
は会社に働きに行く 。そしてその後成績が良ければ
夕食は日本食が多いですね。奥さんは彦恨出身。
朝はブレ ックフ ァーストで、昼は仕事の関係でサン
その会社で働く 。その問、会社の社員は家族を連れ
ド
イ ツチなどだが、夜は日本食。食料はこの近くに
てホリデイに行く 。そのポジションを 学生が穴埋め
ある平居さんの経営するフジヤという日本食料品庖
するが、日本にはそういうシステムがない。
で買 う (
平居 さんは滋賀県出身)。
[
;
1
1
:
業
認I
I
f
f
:
!
l
1所もあり、
現在のカナダでの就職状況は、 1
(
文 責 :I
E
:
i
I
I
I
佐知子、今井倫子)
それほど悪くはない。言語能力、技術能力など、き
ちんと規定に達していれば、外国人でもま ったく構
聞き取り対象者福原富美子
わない。
1
9
1
3年 6
月1
5日カナダ生まれ(日系二世)
フランスではフランス人と結締しないと仕事にあ
主人が彦根市野瀬I
1
町出
お父さんは鳥取県出身。術l
りつけないが、カナダではそんなことがあ ったらボ
主人がお友達)。御主人の ご両親が
身 (
松宮氏と街l
イコットがおこるだろう 。一世の場合、大学 を出て
生存中は何度か滋賀に来たことがある 。
も仕事に就けないので、
トロントにい ったこともあ
る。つい最近までそうだ、った。優秀な大学を 卒業し
でも、仕事がないので、
日本での教育
トロントに行く 。 ここブリ
日本からきた 一 世の人はこちらへきても日本へ
ティッシュ・コロンピアではイングリッシュの勢力
の愛着があるが、 二 世の人にはあまりそういう感情
はない?
が強いので (
ハイポジションは今でもイングリ ッシ
ユで占めている )。 しかし、彼の次男は、システム
二 世の人でも思うが、 三世になるとさすがにない。
エンジニアで、人の三倍も五倍も給料をもらってい
富美子 さんはカナダで生まれて、 5才で日本へ帰 っ
る。会社に入ったら不景気にな ったら首だから、独
6、7歳くらいのとき
た。 日本で高等小学校に通い、 1
立開業が好まれる (
弁護士・ 医者 ・職人など)
。
にカナダに再 び戻 ったが、その後日本と日本語が恋
移民の人種問題
の兄弟はカナダに残っていた。だから兄弟でも話す
しくなった。すぐ下の弟と私だけが日本に帰り、上
移民の中での階層関係などはなか った。能力主義
英語がちょ っと退っていた。サカエミナトではおば
で、人種差別はなかった。同
月Jの脱落者に対する県
あさんのうちに住んでいた。その後は、娘が結婚し
人会の保護はなかった。仕事の斡旋程度。現在カナ
て日本に行くようになったので、時々波日した。 日
ダ全体で六万人の日系人。韓国人が三万人、中国人
1年間おり、 1
9
8
9
年にカナダへと 戻 ってきた。
本には 1
が増えてきた。一般のここで生まれた子供たちは、
この I
U
Jで家がもてないですね。香港チャイニーズの
富椅層の流入
→住宅難
技術を持 ってきても、この国で使えるかどうかと
4
8 ・人間文化
両親
両親は 富美子 さんが日本から帰ってきたときは、
ピク トリアのメーナーバンドで百姓をしていた (
養
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取 り調査報告一
鶏
、
トマ トの栽培など)。父は結婚する前、 1
6
、7
歳
4
7
年)。
ってから解除されていた(19
の頃カナダに来た。 (
18
8
5
年生 まれ) (父の 出身は鳥
バンク ーバーでは木材関係の仕事をしていた。富
取のサカイミナト、アガ リミチという I
1
可)実家は百
美子氏は五人の子供がいたため外では働いていな
姓であったが、船もあった。父たちはまずハワイへ
い。て子供たちが修学後、働きに出た。家では洋裁の
移り、その後サンフランシスコ、カナダへとわたっ
仕事をしていた 。(結婚以前か ら習っていた )洋裁
た。カナダでは、漁師の 日本人が魚 をとってくると 、
では主に白人向けの服を縫っており、日本人のもの
それを集めてバンク ーパーへ トラックへ運ぶ仕事を
は作 ったことはなかった。子供の世話をしながらだ
していた。お母さんは 9
6歳まで、す‘っと養鶏場で働い
から、なかなかはかどらない。
ていた (
母親もサカエミナト 出身)。 しばらくパン
H系女性には洋裁をする方多い。洋裁が一番、女
クーパ ーで富美子さん と暮らしていた時期もある
性の仕事としては持及しており、多くの人が習って
が
、
いた。その ころ一 口、 2、 3円ほどの稼ぎがあった 。
トロ ン トの兄弟の とこ ろに行ってから 亡 くなっ
一一一 番 ご苦 労 が あ っ た の は、どの時期でしょう
た。
か?
戦時中で、
すかね。 E
I
本と追って食料は豊富にあっ
強制収容時代
御主人はグロッ サリー を経営していた。富美子さ
たのですが。強制移住させられてから 一、二年がつ
んは ヨッ トの航海中 ご主人と、 カナダで 出会う(ア
らかったです。お金がなくて 、 自分の思うようには
マチュアのヨットマン)。収容所への強制収容が始
いかなかったので、つらかっ たです。
まった頃 、すべて没収さ れた。強制収容が始ま った
娘 :私が印象に残 っている話は、汽 1ドから降りた最
のは富美子さんが2
8才の時でした。富美子さん一家
初の冬、
は収容所へはいかなかず、列車をスコアラックスで
かったらしいという話です。隙間風が入ってくるの
トラックで 1
1
1奥へ逃げた 。当時富美
で、冬の間凍って死んでし まう かと思ったという こ
途中下車して、
mい板で小屋を作ったのですが、非常に寒
子さんは長男があり、もう 一人を妊娠中だった。家
とでした。零下 4
5度でしたから、 -1
晩中火を焚いて
や土地は没収されたが、食料は豊富で、お金も少し
ました。 臨時に建てた家だから、 一枚の紋で、裏に
有った。製材所だけしかない 山の中へ、手で持てる
オイルを塗った紙を内側から張っただけだったか
ものだけ持って逃げた。 山奥 に住んでいた家族は 2
0
ら、とっても寒かったです。 トイレもなく、小屋か
軒もなかったくら い。滋賀 県人 だけではなく、機々
ら離れた速いところに穴を掘っておりました。 いく
な地位からきたミックスの村。
つかの家で共通で使うのです。 山の中だから 、一週
1
9
4
2年 7月に長女が生 まれ た。二番面の娘の出産
間jに一度
、
トラ ックで山を降りて 一 円がかりで食料
は、近くの町の病院で。パンク ーバーでの初産の!時
を買 ってきてもらうのです。(文責:武田イ左知子、
は日本人の産婆さんがき たが、その後は皆病院で 1
1
:
今井倫子)
産した。 自分で '
f
!
(用を 出す ことができれば、収容所
に入らない生活も選べた。住みついた当初は、ある
聞 き 取 り 対 象 者 平 居 茂 ( 日 本 食F
u
j
i
y
aオーナー)
百姓のガーデンの手伝いをさせてもらっていた 。 そ
の後もお金が無いから職を転々とした(材木の切り
出しゃ、農業などの兼業)。農業シーズンには農作、
他の季節は製材に 山に入って木を切って 、馬で運ぶ
祖父や父母の移民
うちは、おじいさんから 、来てたんです。滋賀に
おるよりも 、マシだから 。 出稼ぎに来てた、ってこ
など。最初の頃は、近くの大きな i
却j
のそばにある百
とですね。稼いで、お金を儲けて、それを日本に仕
姓 (
白人)の馬の世話を していた。
送りする、というようなスタイルで、来てたらしい。
出身は滋賀県の土田村です。おじいさんは、一稼ぎ
戦後
1
9
4
2年にパンク ーパー を出て
、 1
9
61
年に戻ってき
た。戻ってきたのは、子供 たちが大学に行かなけれ
して帰ったそうです。 ただ、お 父さんは帰らなかっ
たんです。戦争後に、帰りました。 1
9
4
6年、私は 9
歳でした。
ばならないから 。 i
j
没後、収谷所の日本人はロ ッキ一
00マイル以上離れな
山脈 よ り東、西海岸沿いから 1
ければならなかったが、その規定は戦後しばらくた
戦争前の日本人街 (
J
, ウ工ル街)
パウエル街には、 3万人くらいいたらしいんです、
人間文化・ 49
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
日本人が。 l
二
│
本人のところで買い物をして、 1本人
うひとたちの収容所は、逃げたらすぐに判 るように
のと ころで食事をして、固まって暮らしてた時代で
なっていたそうで 、そ こに入っていたひ とたちは、
した。
日本が戦争に"寄ったら私はホテルパンク ーパーをも
前川商庖ていうのがパウエルでいちばん良い百貨
らうんだ、 とか、日本が勝ったら私は この村の首長
庖ゃったらしくて、今もピルに M AIKAWAてサ
になるんだ、 とか、毎 日、そんなことを話すのだけ
インが残ってますけど、昔、 うちのおじいさんがそ
を楽しみに暮らしていたみたいです。他のやつらは
こで働いていました。
日本に反対したやつらだからな、と 言 いながら 。
その時分は、母が散髪屋やってまして。母の話で
収容所では、食総難はなかったです。うちの母は、
は、散髪屋が3
8
]
1
汗あったそうです。 うちの庖の裏に
やっぱり 、手に l
織があるんで、毎日、忙しく暮らし
はお風呂がありました。髭そって、裏行って J
f
i
t日は
てました 。 4
0
0
1
1
[
1
・の家があったら、散髪屋は、
いるという感じゃったんです。 日本の料理屋さんも
いろいろあって。朝日とか、有名な野球チームもあ
4軒はあったんじゃないかなあ。毎日 、散髪に追わ
れてました 。ー
ム 迷と共同生活みたいな感じでした 。
りました。 i
j
災4
f!が始まったときは、大変だったそう
ただ、日本語はあまりしゃぺらなかったです。英語
3、
です。 うちの散髪屋は、お平等さんのほとんどは、白
ばっかりで、。 カナダ生まれが多かったから 。戦争に
人ゃったらしいんですけど 、
戦争が始まると同時に 、
関して、 日本のニュ ースも聞いたんです。 カナダの
ひとりも来なくなった。 ひとりだけ、おれはジャパ
ニュ ースとえらい逃うんで、すね。 1
=
1
本のほ うは全部
ニーズは嫌いじゃない、って 言 って来たらしいんで
l
嘘ゃった。 そういうことは、小さいなりにも覚えて
すが、
椅子に座ったと同時にrI
人の男がやって来て、
ますね。
ちょっと来いって連れ山されてしまって、外で殴ら
れているのを見た、と母が言 ってました 。 だから、
終戦後日本へ
うちの母がいうには、やっぱり戦争いうのは恐ろし
戦争直後、
いもんやね、と 。今日は友達でも、戦争が始まった
9歳の1
1
寺に 、 うちの父が日本に帰る、
ていう ことで、滋賀に帰りました。 ぼくは、あまり
ら、sJ
JI::Iは敵、ていうもんで、徹底的に、やられた
日本詰も判らなかったし、帰りたくはなかったけど、
らしいですよ 。
お父さんが帰るというので、しょうがなかったんで
す。
戦争の勃発とスローキャン収容所
U4:に帰った ころは、カナダ帰りの者だけで、寄
スローキャン収容所には、 5年近く入っていまし
ってました。すごくいじめられました。 ヤンキ ー と
00軒の家がありました。
た。 4歳ごろから 。 300-4
かアメリカンとか胃われて。行くたんびに頭しばか
収容所というと、なんだか奴隷みたいに聞こえるけ
れて。帰って、ちょうど、十日たった ころ、頭を坊
ど、そうじゃないんですよ 。子供 は、喜んでました。
主にしました。 カナダ生まれは髪を 仲 ばしていたん
楽しくてね。行ったときは家がなくて、テントで │
国
ですけど、日本人はみんな坊主だったんで、 仲 間入
ヶ月くらい住みました。食事も大きなテントでばー
りせなならんと、やられました。
っと集まって食べるんです。 カンカンカンと音が鳴
ったら集まってね。子供には、毎日がキャンプみた
1
6歳で単身カナダへ
いに思 えました。
5
4年に、私がいちばんにカナダに戻り ました 。中
学を卒業して、高校に入るっていうときです。 1
6
歳。
2年後に母と弟が来まして、さらに 2年後に 、お父
当時、戦争がどうなっても私は日本につく、とい
うひともあったんです。 そういうひとたちは、また
特別の収容所に入れられました。私の知ってるひと
さんが最後に来ました。 その時分は、誰か一人がカ
のお じさんも、そ こに行きました。私は絶対カナ夕、
ナダに来て働いて、お金を貯めて 、それで家族を │
呼
にはっきません、日 本が勝つと信じています、とい
ぶとい うのが、 1
)
巨番だったで すね。私は 、い ちばん
うひとは、そうやって、別の収容所に入ったんです。
に来 たから、いちばん苦労し まして、家族を全員 l
呼
うちの父なんか、 一時はそこに入ったけど、やっぱ
んだころには、もう 2
1歳くらいになってたんですわ。
り家族と 一緒でないと、ということで、こ ちらの収
カナダに戻ってきたときには、おじさんのと ころ
容所 に戻ってきました 。 まだ移動はできたんです。
に行ったんです。来て、一週間目から 働きま した 。
でも 、来なかったひともいっぱいい ました。 そうい
体が大きかったんです。大きくて力がある な ら働 け、
5
0 ・人間文化
って言われて。おじさんは、当 I
I
c
¥
e、アルパータ州で
百姓をやってました。 アルパータに行ったのは、政
府によって強制的に移住させられて、それで、その
まま残っていたんです。百姓でも、大きな百姓です
パンクーj(一日系へリ テージセンターにて
ね。ジャガイモだけでも千エーカーくらし、。初めは、
U本人は、戻ってきたときには、
おじさんが、「カナダに来たら学校に入れてあげる
仁地から買うお
よ」 と言っていたんです。 ただ、カナダに 着いて、
金のあるひとが少なくて、みな、{門家だったんです。
私の姿を見たら、体も大きいし、体力があったもん
目い以すよりも、
だから、 「
働け」 って言われて 。 それに、英詩も忘
して、 j
i
没後、戻ってきて、みな、返してもらったん
れてなかったんで。英語も分かるのに学校で習う必
です。政府にーIl寺渡した、というだけで 。でも、カ
要ないゃないか、っていうことて、。
ナダの場合は、政府に売るか、中国人に売るか、と
それで、荘、は夏は百姓して、冬はずっとアラスカ
m
'家でね。 usの場合は、違いま
なっちゃって、全部売ってしまった。
I~I 人に
1
9
5
7年におじさんのし、たアルパータか らバンクー
バカにされてね。零下 4
5度くらいでもはたらきまし
ノ t ーに1.1',てきました 。 うちのほは散髪}~をやってい
の近くで、林業をしました 。 力がないから、
た。休むのは零下 70度くらい fがったときでした 。
て、お l
i
r
iもなんか i
肢を持ったんがいいぞ、って 言わ
日も聞けられないですね。でも、そうやって、 1
6
1
:
.
え
れたので、それからじ年くらい、はと-緒に散髪崖
の時から苦労してるから、病気もしたことない。 そ
をしました 。 57 年というと、父が 11 -1くから~たころ
れが、学校に行かなかった自分の、いちばんのプラ
で、お父さんが*たもんだから、ちょ っと生活に余
スだと思ってます。 あんまり体こわさないし、辛抱
桁が 1
1
¥来て、母も、子校に行かないんなら、何か手
はできるから 。
にi
[
I
lk:を、って言ってね。 8年くらい、ゃったかな、
放
髭
}
'
1
l。 あんまり忙しくて、病気で倒れました。毎
パンクーパー・ パ ウ工ル街で散髪屋
戦争で、バンクーパーから日本人がヲ│き揚げさせ
n
、ゴハンも食べす、
にがんばったんです。倒れるま
でがんばって、病院に犯ぎ込まれました。結婚した
られましたが、 j
i
没後、帰ってきたときにも、パウエ
のは、この頃のことです。 24歳のとき 。 ワイフは熊
ル街に帰ることはできました。 でも、廿の 1
1/]とは迎
本です。 といっても、殺は熊本ですけど、本人は、
I本人は 1
0
0マイル離
いますからね。 あそこから、 L
僕らと 一緒で、やっぱりカナダ生まれです。 もう、
れたところに移動したわけで、そのとき、残ったビ
ラブラブでね。 ノ?の恭い子には 、「
必ラブラブ」っ
ルを買い取るときに、政府が千ドルで買うなら、中
て
nうんですけど
(
笑)。
国人は 「
私は 1
0
1
0ドルで買います」 と言ってね。 そ
れで、あの辺はぜんぶ、中国人に買われたんです 。
食堂開業
0ドルで
強制的に売らされたんで、それだったら、 1
l
i
xlJ.f屋をやめたあとは 、今度は 、レストランを始
も高く売ったほうが得ですから 。 だから、あの辺、
めました。場所を変えて、レストランを、だいたい
全部、中国人が令部、タダみたいな値段で買ったん
1
2年くらいやりました。 そのときに、水産関係の方
ですよ 。戦後、戻ったときに、私たちは高い似段で
といろいろ友達になりまして、輸入とか輸出のこと
買わなきゃなりませんでした 。私も、中国人から、
もいろいろ判ってきたんです。だから、日本食品を
もとの庖あたりを買ったんですけどね、散髪属の j
占
白木から輸入して、1=
1
分で広を出そうと思ったんで
を。隣にはお医者さんがいてて、それが私の生まれ
す。 レストランをやったから、日本食品、お客さん
たところだそうです。
に何を 言われでも、作り方は知ってるんです。 それ
私たちが戻ってきたときは、市のほうでも、ここ
は、すごくプラスになったで、すね。
らを日本人街として延ばそうじゃないか、という話
した。 日本人街として作ろうと 。 だから、仏教会も
Fu
j
i
y
aJ
日本食品百 f
フジヤは、今年でもう 2
5年です。 円本食品では、
古いのを立て直して、語学学校も新しくしたんです。
いちばん古いと思うんです。
がありまして、何回も、市のほうと 一緒に相談しま
それが、今ではごろっと変わっちゃって、今では、
麻薬患者のいる、いちばん悪いところです。
売っているものは、日本のスーパーと同じです。
弁当、寿司 。今、パンクーバ ーは寿司ブームで、 寿
人間文化 ・ 5
1
進取と望郷 カナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告一
司の伸び方は 、すごいですよ 。 日本人レストランっ
て名前のついた底、今、 3
0
0軒以上ありますけど、
歌山か、滋賀県ですね。
でも、今の若い人たちは、近江商人て意識はある
そのうちでもいちばん寿司が、仲びてます。でも、
んですかね。昔のことばっかり歴史で出てきて、近
日本の寿司とは違います。生もののあまり入ってい
江商人、近江商人、ていうけど、現在、若い人たち
ないのがし、し、。 カリフォルニアロ ールが、いちばん
のなかで、そういう意識つであるんですかね。あん
人気で?すね。アボガドが中に入ってて、マヨネーズ
まりきかない。
が入ったヤツです。 うちの府は、寿司セクションだ
けでも、 4
0人くらい働いてます。
私は、自分流で今までがんば ってきたんですよ 。
がんばれば、商売 って儲かるもんだな、と 。 カナ夕、
寿司の原料は、米はカリフォルニアの米です。酢
の人って、あまり仕事しないですよ、はっきりい っ
も、ミツカン酢だけど、カリフォルニアのミツカン
てね。だから、いつも思ってた 。 カナダでは 、仕事
酢ですね。魚は、地元です。近海。 まぐろ、サーモ
さえすれば、絶対に白人には負けないな、って。 だ
ンとか。でも、まぐろとかの寿司は、あんまり人気
って仕事をしたら怒るんだから 。 こんな国つてない
ないんですよ 。寿司っていうのは、ヘルシ ーだとい
と思うな。仕事 したら怒る 。だから、仕事をしたか
うので人気あるわけで、サラダとか入ってるような
ったら、自分で商売しないとダメですね。すればす
のが売れますね。 日本食品は、現在、神戸から、自
るだけ利益があがるんだから 。私は 、仕事は自分で
分で輸入してます。 日本には、年に四回くらい、行
ほとんどやってきました。おじさんのと ころにいた
きます。
ときだけ 、人の下で働いて。今は庖も土地 もみんな
もう 一つ、夜、が25年や ってるのは、繰り製品です。
工場を持ってます。 自分の庖でも売りますし、スー
ノT
ーに卸したり、余所の庖にも出します。原料は、
アラスカから、すり身を買ってます。
自分のものです。 自分のペ ースをも ってがんばった
から 。
苦労 したとは思 つてないで、す。好きで仕事をして
きたんだから 。生き甲斐だから 。 日本の商売する方
0パーセントは白人ですね。今は、白
売り上げの 9
人のひとに売れなかったら、商売にならないです。
とよく話しますけど、やっぱり関西人は こういうも
んかと思います。
ここのケアセンタ ーのレストランも 、 うちがや っ
私
、 9月にまた日本に行くんですけど、今度、 滋
てます。今度初めて出来た、 H系の老人ホームなん
賀県のほうから 、いつでも県庁に来なさいってい っ
です。今まで、年寄りの方が老人ホ ーム入ろうとし
て、交流の役をもら ったんですよ 。国際ビジネス交
ても、や っぱり、そういう施設では、洋食ばっかり
流協力 員。千年灸とか、滋賀県のものをカナダに持
になっち ゃうんですよ 。死ぬ前になってから、嫌い
ってこようと思 ってます。
な洋食たべて、っていうのものね。 だから、 今度
、
日系で、できたんです。 うちの会社からも、日本食
3世 ・4世とこれかうの 日系カナダ人
を、ボランテイアワークみたいな形でやってます。
うちの娘は 3世だし 、孫は 4世。 日本語は判んな
フジヤの応は、パンクーバーに 二軒あって、あと、
いですね。娘は判るんですけどね、ぼくらが日本語
ピクトリアにもあります。今は、ワーキングホリデ
しゃべるので。でも、うちの娘の代になると、もう
0人くらい、日
ーというのがあ って、うちの応は、 2
英語ばっかりしゃべります。主人は日本人やけど、
本人の若い人が働いていますよ 。全国各地のひとが。
全然、日本語判 らないし 。日本に行った こともないし。
「江州もん」の商売
結婚相手も、親戚中で、うちの娘だけが日本人と結
家では日本語しゃぺらないもんだから、全部、英語。
カナダではよく 言 う言葉があるんですよ 。「 日本
人でも 、江州もんはジャパニ ーズ
ジュ ー」 って。
ジュ ーっていうのは、ユダヤ人。 ジャパニーズ
ジ
婚していて、あとはもう、全部、中国人か、白人か、
全然、インタ ーナショナルです。 日本人どうしで結
婚すんのは、 もう珍しいです。
ューと いうのは、つまり、金、 金、金、で金のため
ぼくらの時代は、日本にいったりしてるもんだか
に働く、ということです。戦争の頃なんか、 話 をき
ら、日本人と結婚するチャンスはあ ったけど、 子供
0パーセントくらいは、
くと、ビジネスのおおかた、 7
たちはもう、 学校に行 ったら、クラスのなかに日本
滋賀県のひとだ ったです。商売はみんな、滋賀県の
人二人、とかね。親も、もう、気にしてませんので。
ひと 。パンクーパーは、滋賀県のひとが多くて、手[J
、 4世の世代だから、顔は日
誰と結婚しでも 。 3世
5
2 ・人間文化
進取と望郷 ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告一
本人の顔してますけど、中身は白人と 一緒だから 。
卒業後は、京都の会社に勤めた。しかし 3か月でや
そういうひとたちを、今バンクーパーで、 「
バナナ」
めて、カナダに再渡航した。 カナダは大きいし、社
と言い ますね。 日本人はあまり言わないんで、すけど、
会も開放的であって、自分がチャンスを賭けるのな
中国人が言います。「
あのひとはバナナだ」
。 つまり、
らそこだという思いがあった。だから再渡航という
外は黄色いんだけど、中を向けば白い、というわけで、
9
7
5年の
よりも、カナダに帰るという感覚だ‘った。 1
す。外は日本人だけど、中は白人と同じだ、という 。
ことだ った。
今は、 1世がなくなり、 2世が私ら くらいの年齢
パンクーバーでは、いとこが経営しているレスト
、 4世の時代になってきました。滋
になって、 3世
ランで{効いた。おいしい仕事にはすでに中国人など
賀県人会も、年齢があがってきてね。若い人たちが
が進出していて、最初からよい条件の仕事を望んで、
来ないんです。だ、って、若い人たちは滋賀県を知ら
も無理である 。78年にはレス トランの仕事を辞めて、
ないから 。ぼくらでも、よく言われるんですよ 。あ
日系の水産加工会社で、
働いた 。その年にはカズノコ
んた故郷滋賀県なの、って。でも故郷はバンクーパ
がブームになり、日本からの買い付けラ ッシュがあ
ーですからね。滋賀じゃないんです。
った。会社では、 中国人と 一緒にな ってサケの頭切
これからの日系人ていうのは、そういうふうにし
て、カナダ人になっていくんでしょうね。 だから、
今度は、どこと戦争しようと、もう tJ~ 斥はないと思
りなどの仕事をした 。サケは日本向けの輸出品であ
った。
中国人などと仕事をしてい て、日本人としてず っ
いますね。というのはあの持分は 1世の時代だから、
とも ってきた価値観がくつがえされた。 自分にとっ
、 4世の時
あんなことがあったんです。今は、 3世
てのカルチャーショ ックで、それをつうじて 「自分
代になりましたから 。 (文責:山口佳代子)
を壊す」 ということを学んだ。そうしなければ、こ
の国では生きていけないということを学んだ。 また
聞き取り対象者平居利夫
平居シゲル氏(パンクーパーの食品スーパ-
F
u
j
i
y
aのオーナー)のいとこにあたる 。両氏のカナ
英語も徹底的に勉強した 。
水産加工 会社の仕事 は 6~7 年つづけた 。
しかし
不況で会社を解雇され た。それを契機に独立した 。
ダとの関係は、共通の祖父のカナダ来航に始まる 。
グリコのポ yキィーなどのキャンデイーを輸入し、
祖父は滋賀県多賀町土田の 出身で、明治末ごろに単
発売する仕事を始めた。 とくにポッキィーの売り込
身でカナダにやってきた。そのときにはすでに結婚
みを 一生懸命した。 日本からの包装ラベルをカナダ
していたが、妻を日本に残しての来航であった。祖
向けのも のに貼 り替える ような仕事も、自 分で考え
父のカナダでの生活はよく分からないが、日本に 一
て行なった 。 カナダでのキャンデイーの流通経路も
時帰国するごとに子供が産まれ、合計 4子をもうけ
分からなかったので、それも試行錯誤しながら自分
た。そのうち長男と 三男は天死した。 自分の父は四
で調べてい った。問屋を訪ねてポッキイーを扱 って
0歳くらいの時の子であった。父が生ま
男で但父が 5
もらうことを頼み、小売屈を訪ねては庖棚に世いて
れたころには祖父も日本に帰国していた。
もらうことを頼んでまわった。そのために各地に行
父はカナダに行かないで、す‘っと日本にいた。 い
まも 8
4歳で存命である 。戦争中には、父は 8年間兵
士として出征した。
った 。
それをつうじて、 「
知らないこと、つまり未知は
チャンス のもと 」、「
拒否されることが、逆にチャン
自分も日本で=育った。 しかし子供の頃から日本が
スをつくる 」、「
矩有されてドア ーが閉ざされるとき
よい所とは思わなかった。狭い日本は嫌だと思 って
から、チャンスが始まる 」 という教訓を得た。そう
いた。 だから英語を一生懸命に勉強した。大学 3年
した売り込みを懸命につづけているうちに、
50ドルを持ってブリッティシ
のときに休学し、 1
HawsonDayのマネージャ ーがポッキイ ーに興味を
971
年のことだ った。ユ
ユ ・コロンビア州に来た。 1
もってくれた。それからポッ キ イーを扱ってくれる
ダヤ人の老夫婦の家に 下男として住み込んで働い
応が増えてい った。
た。報酬は月に 25ドルであった 。その問に大学は退
学して しま った。
8
6年頃にカナ夕、のバブルがはじけた。 また内輪も
めもあって、グリコ製品の販売から手を引くことに
カナダに来てから 2年半後に、病気になった父を
した。 しかし このままでは、 4人の子供を大学に ま
看病するために帰国 した。大学にも復学した。大学
で進学させる ことはできないと思った。以前に長ら
人間文化 ・
53
進取と望郷
カナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告一
くやってきた水産関係の事業に帰って 、 向分を賭け
した。 その後母を H
乎び寄せましたが、母は 1
9
9
5年9
4
ることにした。 カナ夕、の漁獲と日本の市場を結びつ
歳で亡くなりました。
けることを考えた。普通のやり方では商社などがす
カナダに帰ってきた当初、歩いて仕事探しをして
でに始めている 。 日本での農産物の産直方式を、カ
いたところ、道で、会ったのが製材会社の社長。 2
8歳
ナダの治、獲物と日本の市場との間で始めることを考
の時のこと 。 その社長の会社に勤めました。運命的
えた。この仕事は英語と日本語をともに使いこなし
な出会いでした。社長の子どもは一人っ子で、それ
また双方の事情によく通じている人間でなくてはで
も遅く生まれたので自分のことを実子のように思っ
きない。
て大事にしてくれました。 この会社には H系人は 2
る。船主が魚、をとり、自分が H本の i
!
i場に直送して
- 3人いたと思います。
5年くらいしてから検資資格を
会社に勤めて以後 1
売るという分担である 。 日本の主要市場の価格変動
取りました 。夜学へ行き、働きながら取った資格で
をきめ細かく 把握し 、それをもとに直送する市場を
す。 この同の人はこちらがブロークンでも優しく接
決める 。 それをふまえて、とるべき魚種も決める 。
してくれます。
今は、ノルウェ 一人の船主と組んで仕事をしてい
いま主に扱っているのは、キチジ、メヌケといった
H本へたまに帰ると、狭いな、と思います。子ど
水深 1000mくらいの所でとれる深海魚で、ある 。 また
もの頃は日本食は食べられなかったです。子どもは
ムラサキイカ、イワシ、ピンチョウなどを扱うこと
円本へは帰さず、日本語学校へ行かせました。現在
もある 。(文責 :!在地利明)
は日系の人々で相撲や落語の会を持つなど、パウエ
ル祭やお盆の l
侍にあわせて行事を計画一
lしています。
聞き取り対象者森一雄
(文責: 1
1
:
/
端
泰
子)
昭和 5年 5月 B日 パンクーパーアイランド生まれ
0歳の時、
兄弟は 二人、妹は八重子といいます。 1
日本認を学ぶ必要があるということで、円本に帰さ
聞き取り対象者夏原薫
は
十H母の住む亀山のキヨサキ 1
8
'です。父の弟は束京
1
9
2
4
年カナダ生まれ
私は 1
9
2
4年カナダの生まれです。父は滋賀県出身、
母は奈良県出身でした。妹が三人いて、皆パンクー
とここキヨサキ I
I
I
Tにいたのですが、戦争になったの
パーで生まれました。
れました 。 あ~はこちらに残りました 。 対ったところ
で兵隊にとられ、キヨサキ 町の弟はフィリピンで戦
1
9
3
1年ころ、 4年生くらいの時でしたか、大阪の
死しました。祖母にはカナダの親が送金していまし
(
i
可内)小阪に教育者だ.った伯父がいてそこに家族
たが、近隣の人々のすすめで祖母は債券を買わされ、
で帰同しました。そこで、小学校の 5、 6年をすごし
それが償還されなかったので、お金はなくなってい
ました。でもカナダとは遊び方ひとつとっても追う
ました。高等学校まで、行ったが、祖母と 二人で脊労
でしょう 。 ソフトボールやバスケットボールなど日
しました。
本ではしませんからね。ですからさびしくて殺によ
1
9
4
5年、終戦を迎え、親は妹 (
1
5歳)と共に帰国
しました。 そのとき物も持って帰ったが、売って生
活の足しにしたようです。妹は白人のところでタイ
く戻りたいと 言 いましたよ 。 2年ほどして家族全員
9
4
2年戦争にな って、日本
でカナダに戻りました。 1
プを習っていたので、語学ができたので重宝がられ
ばならなくなり、牧場みたいなところで豚や牛の世
たが、 1
6歳の時に残念ながら駅でI'l
'
fって亡くなりま
話をして暮らしました。 しかしそこには学校がなか
ったので学校に通うために 一家で、パーノンに移りま
した。
夜、は終戦直後は高校を卒業した後、進駐軍に働き
人はバンクーパ ーから 1
0
0マイル内陸に入らなけれ
した。冬などは山の上で、木を切ったりしました。戦
に行きました 。
後1
9
4
9年までここを離れられなかったので、許可が
1
95
8年、ようやく落ち着いてきたので、 一人でカ
ナダへ渡りました。茶碗とはししか持っていなかっ
たが、働いて働いて 4
2歳で家を建てました。結婚は
かなければなりませんからね。妹たちは翌年にな っ
滋質県彦根東高校出の妻としました。事ll.が病気にな
出ると私はすくずパンクーパーに /
:
Hました 。学校へ行
てパンクーパーに戻って来ました 。
1
9
5
7年お父さんがミカドという名で喫茶底と日本
り
、 1
0ヶ月ほど親の世話をしましたが、母親は日本
の薬を扱う j
苫を開きました。 その頃から氷川丸とか
に残るといったので、母親を残してカナダへ帰りま
比叡丸など日本の船が入るようになり、船長さんが
54 ・人間文化
進取と望郷ーカナタ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
よくコ ー ヒーを飲みに来たことから船に品物を入れ
日本人排斥 の運動はきっかった 。危険な目に遭う
るようになりました。食料品、 ウイス キー 、煙草な
心配があったから、夜階くなってからの外出は出 来
どです。男たちはその仕事をしましたが、柔道や空
なかった。
そのころ父は材木の仕事で、裕福だった。働いてい
手のク ラブができて、妹たちはそのユ ニホーム、ワ
タナベやミツピシなどのものを仕入れて売る仕事を
る上司は日本人びいきであり、再帰国したとき会い
はじめました。今はお客の 7
0%は白人さんです。
に行 ったら ものすごく 喜 んで、くれた 。父の名前はジ
結婚は 1
9
6
0年でし た。相手は二 世ではなく日本の
ョウジ 。
親類の世話でした。その頃伯父は枚岡に越していま
帰同時にはお金を持って帰れなかった。 日本に 帰
したから樟蔭女学校のあたりでデートしたもので
って初めて食事したらカンパン だ、った。 そのカンパ
す。 日本で結婚し妻は一人でカナダにやってきまし
ンもって地元の子に釣り竿と交換して遊んだ。 その
た。それ以後ずーっといっ しょに尚売をやっています。
'
1
に乗って彦根にきた 。誰も住んでいない家だ。
後汽1
私たち夫婦に子供はいま せ んが、今は妹たちとその
戦後に日本相手の材木の商いはあ ったが、戦前は
夫、その子供たちなど ほとんどが家族による経営で、
殆どなかった。戦後はカナデイアンハウスが流行っ
私は 1
3人の社長です。みんな近くに住んで、います。
たまに日本へ帰ると狭いなあと思いますが、いい
ところもあると思います。どこへ行ってもタクシー
た。 カナダは漁業と材木が主な産業。収父のいる愛
世話にな った。
知川に 1
行政に対してはみんながわいわい 古 うから、無 2
1
5
があるし、食べ物屋もありますからね。 カナダの家
はできへん。みんなが}
Jを持っている 。 日本は高速
庭では日本の妻はストロングねえ 。 日本の1'
1
1い人は
道路で、i
'
fくとこいくとこみな金を取る 。
まじめに自力で稼ぐのが当たりが!と考えています
この凶の人は終身雇川ではなく、化粧品 の仕事を
が
、 二世
、 三 世となるにつれ、 カナダ人風になって
したり、郵便局をしたりすぐに仕事を変わる 。郵便
行くようです。 (文責 :工藤早弓)
局を やめたら日本に刈るといった 。 2
5
:
1
1
ニ
働くと年金
聞き取り対象者
ロイ束川
¥
'一生まれ
昭和 8年 4月3日 パンクー J
現在 7
3歳カナダ生まれ。 三 位です。おじいさんが
日本からきた。
仕事はばあさんがパンクーパーで民宿みたいなこ
とをしていた 。 日本人の潟、仰の人が利用していた 。
その日本人も移民者である 。 父は材木屋で働いてい
た。戦時中もカナダにいて、 1
946
年に日本帰国。 1
1
がもらえる 。
0
0ドルの金が 1本円で 2)
j円か 2万 5千
ここの 1
円 ぐらいの値打ちがある 。 なぜ日本では食料に税金
がかかるのか。 ここでは食うものには絶対かからな
い。 カナダでは 1
4.
5%かかるし BC州は 7
.
5%かかる
食料品にはかからなし、。 この国は老齢者はパス代は
等は月火水とはかからない。
背7
7
柳会というのがあった。 おふく会というのも
J
利)
あった 。(文責:松林平 I
歳半頃。小学校 4年から中学校 2年頃まで勉強した。
キャンプ大津に英語を忘れないため仕事にいった 。
国カルガリ一日系老人センターにて
聞き取り調査
親がカナダの財を処分して帰国。本当は帰りたくな
かった 。 日本の戦争の焼け野原の写真を見ても伝JlI
聞き取り調査日
2
0
0
3
年 7月2
2日
しなかった。浦賀にあがって食べたのは堅いカンパ
ンだった。
収容場はデンバーに送られた。が収容場では働い
聞き取り対象者西畑英治
昭和 3年 力 ナ タ 生 ま れ
ておりません。 日本に帰る者と帰らない者とに分け
られた 。 日本に帰る者は、またパンクーパーに送ら
れた、アメリカの船で日本に送られた。収平等場生活
家族史の概略
最初にカナダに来住したのは父方の祖父T'i
l
畑駒次
は最初はテント生活し、子供だ ったから キャン プに
郎で、愛知川町の大字石橋 7
0
4
番地の出身であった。
きている気分だった。家が出来るまでちゃんと食事
駒次郎のカナダへの来住時期ははっきりしないが、
は与えられた。
戦争に反対した者や 、言うことを聞かない者はさ
らにイ ーストの収容場 に送られた。
1
8
9
8年と 考えられる 。それは、駒次郎の長男の長治
郎(18
97年生) は円本で生まれているが、双子の次
三列である二郎と 三郎(1899
年生)はカ ナダ生まれ
5
人間文化 ・ 5
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
8
9
8年がカナダ来住の年
なので、この間に介在する 1
I
YesJ とある 。長治郎はこの時はじめてカナダに来
と考えうるからである 。
たので、その識字能力は日本語に関するものであろ
駒次郎がカナダに移住した動機は不明だが、 1
8
9
8
S
h
i
g
aKenJ と記入され
う。 また両人とも同じ欄に I
年に姉のすゑが、現彦根市の大薮に嫁入りしたこと
ているので、識字能力についての質問も、この欄の
がきっかけとなったのではないかと想像される 。大
記入も、ともに日本人によってなされたのであろう 。
8
9
6年の大風水害を機にカナダへの出稼ぎ
薮では、 1
祖父の駒次郎から英治までの家族構成の概略は、
移住者が輩出した。姉の嫁いだ大薮でカナダ移住の
下記のとおりである 。なお下線のうち実線はカナダ
話を聞き、カナダ行きを決意したのではないかと思
生 まれ、波線は日本生まれでカナダに来住したこと
われる 。駒次郎は長男ではあ ったが、 1
2歳の時に父
を示す。
と死別していて、身の振り方を自由に決め得たので
はないか。家は農家だ、ったが、弟も養子に出ている 。
8
9
7年に生 ま
父の長治郎は、駒次郎の 長男として 1
れた。駒次郎のカナダ移住時には乳児であ ったので
、
但母のまつは、前記の 1
9
0
8
年の KagaMarui
船舶簿j
に3
4歳とあるので、その生年は 1
8
7
4
年と推定される 。
父の長治郎は、製材工場で働いていた。母しずと
9
2
5年に届出されている 。父は 2
8歳、母
の婚姻は、 1
日本に残 ったのであろう 。長治郎の母はまっといい、
は2
4歳のときである 。その年に長男の信夫がカナダ
夫の駒次郎とともにカナダに移住したので、おそら
で誕生しているので、母は婚姻と同時にカナダに来
く祖母が長治郎を育てたのではないか。
住したのであろう 。
2歳まで日本にいて、 1908年に Kaga
長治郎は 1
7年間在住して 1
9
1
5年
祖父の駒次郎はカナダに約 1
1
加賀丸」か)でパンクー パーにや ってきた。
Maru (
その時 のKagaMaru の“ S
cheduleP
a
r
t
i
c
u
l
a
rt
o
t
h
eV
e
s
s
e
l(
1
船舶簿 J)..のコピーが残 っている 。
に帰国した。 この時に祖母も帰国し、その翌年に 六
郎が円本で生まれている 。 このときには、父だけで
それから摘記すると、つぎのようになる 。
ーに残った。幼い子供だけを連れて、祖父母は帰国
K呂田 Maruのトン数は、 g
r
o
s
st
o
n
n
a
g
e(
総トン )
なく、叔父の二郎
、 三郎も帰国しないでパンクーパ
していったことになる 。
3
0
1トン、 n
e
ttonnage (純トン )で3
9
0
7トンで
で6
英治は長治郎の次男で、兄弟は男ばかりの 4人で
あった。外航船としては、あまり大きな船舶ではな
あった。父が住居を転々としたので、子供たちの出
かったようである 。
生地もすべて異な っている 。長男の信夫はステブソ
9
0
8年 1
0月 2日に横浜を出帆した。船は、
同船は、 1
5
6番地、
ン市、英治はパンクーパー市のパウエル街3
「中国と日本の港からシアトルへの航路」 に就航と
4
3帯地、四男の j
青は岡
三男の勇は岡市の酋第 3街 1
96人」
されている 。 この時の 「
大人の総乗客数は 2
市の西第 2街 1
5
7番地と、兄弟の出生地は 4人とも違
であった。そのうち 「
旅行者 (
T
o
u
r
i
s
t
s) とカナダ
っていた。
ReturnedCanadians) をのぞく総
国籍の帰国者 (
i
主治 郎
乗客数」は6
5人で、その内訳が記されている 。それ
(
1
8
97'
ド
ヨ
三)
r-,¥
( k
7人・女 2
9人で、ヨーロ ッパ
によると、日本人は男 2
人とアメリカ人が男 4人 ・女 3人であった。両者 と
fとして各 1人が記入されている 。「船舶簿」
が何を意味
には 「
大人の総乗客数j とあるので、 f
するのかは不明である 。
も
、
乗客のうち 「
パンクーパーを最終目的地とする 者」
i
s
h
i
h
a
t
aMatsu
は
、 4人であ った。そのなかに、 N
(
西畑まつ) とN
i
s
h
i
h
a
t
aCho
j
ir
o(
西畑長治郎)の
4歳
、 1
2歳と記されてい
名があり、年齢はおのおの 3
る。 N
ishihata Matsuは英治の祖母、 Nishihata
C
h
o
j
i
r
oは英治の父で、ある 。母が日本に残していた
長男を連れ帰るべく、 一時帰国したのであろう 。
「
船舶簿」 には、 2人の識字能力についても 記載さ
れている 。 2人の I
ReadJ と i
W
r
i
t
e
J は、ともに
56 ・人間文化
092
5年生)
しず
監;
1
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/
i
0901年生)
J
l
1
f
l929i
f生)
L. 立
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J
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8
9
9年生)
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巳
f
l
8
99年生)
,
f
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l
1
1
(
]91
2年生)
主
r
I
J
.
,
(
]
91
5年生)
六 日1
I
091
6年生)
図1
.西畑家の家族構成の概略
(
]
9
3
0年生)
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取 り調査報告ー
少年時代一 一Ji.ンクーJi.ーの思い出
後述するように、長治郎一家は 1938年に帰国した。
バナナが食べられないことなどであった。 またロ ー
ラースケートを持って帰った。当時ローラースケー
英治は 1
9
2
8年生まれなので、 1
0歳で帰国することに
トは珍ししそれで道を滑って行くと、通行人もび
なる 。その頃、父は製材会社で運転手として働き、
っくりして眺めていた。それが、得意だった。
tとGeor
g
i
aS
tの交点に居住してい
家族は HawksS
た。周辺の住民は、ほとんどが白人であった。
小学校は自宅近くの Sul
morePrimary Schoolで
、
父は、農業を継いだ。耕地は 3反ほどで少なかっ
た。そのため叔父 2人が送ってくれる母の事故補償
金で息をついで、いた 。補償金は月々送られてきた 。
クラスの生徒数は 30人くらいであった 。そのうち日
全額を送金すると、父が浪費してしまうとの配慮か
本人は 1-2人で、中国人はいなかった。英治の成
ら、月ごとにわけで送られてきた 。当時は、カナダ
績はよく、クラスのトップクラスであったので、
ドルは 4円で、アメリカドルよりも高かった。 しか
Hi
ghS
c
h
o
o
l進学を希望していた 。
し1
941
年には送金停止となった 。
小学校の授業は 3時ころには終わった。そのあと
それを契機に、父は伊藤忠平衛の芦屋別邸の留守
日本語学校に行って、 3時半ころから 1時間ほど日
番として働くことになった 。芦屋から豊郷へ伊藤家
本語を習った。 日本語学校は 4学年まであった。 I
の荷物を鉄道で疎開させる仕事もした。
学年の子供の数は、 1
0名くらいだった。
英治は、 1942年に高等科 2年を修了した 。すぐに
Powell S
tでは日本語をしゃべったが、自宅の周
岐阜県各務ヶ原にあった各務ヶ原航空工廠の職工養
辺では英語のみが通用した。遊び友達もほとんどが
成学校に入学 した 。寄宿舎に入った。各務ヶ原には
白人であったが、子供だけで遊んでいるときには、
I年いた 。 しかし空襲が激しくなり、大阪の八尾に
彼らに差別されたという覚えはない。 もっともよく
ある航空工廠の本廠に移った。そのあとすぐに八日
したのは、 Marboloというビー玉遊びだった。それ
市飛行場に転属となり、養成工として働いた。家か
は、地面に円を描き、そのなかにビー玉を並べて置
ら通勤した 。
き、それにビー玉を命中させて円の外にはじき出す
安土と能登川との間に捕虜収容所があり、オース
と、それを貰えるというものであった 。英治は、
トラリア兵が大八車をヲ│いて働いていたのを覚えて
Marbolloの遊び、のチャンピオンであったという 。
いる 。
帰国と日本での生活
またアメリカ帰りと 言い立てられた 。終戦はうれし
職場では、 髪が伸びているといってはな ぐられ、
戦前 ・戦中・ 戦後
父の長治郎は、 1938年 8月に 一家をあげて祖父の
もとに帰国した。しかしその直後に祖父は死去した。
帰国の理由は、反日運動の高まりにくわえて、前年
かった。 これでカナダに帰れると思った。
戦後は京都に出て、旧軍属というのを隠して進駐
軍の通訳として働いた。そのころ者1
1
ホテルは佐官級
の37年に母しずが自動車事故で、)仰を祈り、子供の世
の、京都ホテルは尉官級の宿舎になっていた。 また
話ができなくなったこともあった。 また 1915年の帰
狛旧の弾薬庫でも働いた 。それから東京に行き、大
世話を
国後、祖父の中風が悪化したが、祖母はその l
森の進駐軍宿舎で、
houseboyをした。
できず、父の妹にあたる未婚の叔母が而倒をみてい
た。そのことを父は大変に気にしていて、日本に帰
りたがっていた。それも帰国の理由であった 。
カナダへの帰国と生活
1955年にカナター
に帰った。和歌山県の三尾にあっ
英治の教育を日本で受けさせるというのも、帰国
た和歌山県人会連絡会が、帰化二世を助けるためト
の大きな理由であった 。 日本の学校を卒業したあと
mushroomfarm)への
ロントにあるキノコ農園 (
は、カナダに残った叔父の二郎と 三郎が英治を呼び
就職の斡旋をはじめた。 2年の契約労働で、旅費は
寄せると約束してくれていた 。 自分も、そのつもり
農園が貸与してくれた 。それに応募した 。
だった 。
愛知川に帰り、小学校に編入学した。 日本語があ
から来たワラに鶏糞と水をまぜて堆肥をつくる 。そ
まりできなかったのが原因で、 2学年への編入だ っ
れを大きな ~fi のなかに入れて、深さ l フートくらい
農国での労働は、屋内作業だった 。競馬場の厩舎
た。 日本に帰って困ったことは、いくつかあ った。
の堆肥照に和みあげる 。そのうえを消毒 した 土で覆
便所がくみ取り式で水洗便所ではないこと、川魚、ば
い、そこに 白キノコ (
西洋まったけ)の菌を植えつ
かりで肉がないこと、砂糖も手に入りに くいこと、
ける作業であ った。毎日キノコは発芽し、収穫した。
人間文化・ 57
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の筒き取り調査報告ー
5
人くらい働いていた 。住
その農場では、日本人が4
完全にカナダ社会に同化 している 。中国系カナダ人
居っきであった。帰国の旅費は毎月返済した。 また
の約 1
0万人、韓国系カ ナダ人の約 2
2,000人にくらべ
0ドル送金していた 。そのため、お金は
日本に毎月 1
て、はるかに少ない。韓国人は 5年ほどまえにはほ
たまらなかった。
とんどいなか ったが、近年急増している 。 日系人の
2年間の契約労働を終えて、 1
957年 1
1月 1日に陸
組織としては、 Kargal
y ]apanese Community
箪に志願入隊した。軍隊は衣食住のすべてが支給さ
Associ
a
t
i
o
nがある 。その会員数は、約 300人である 。
れるという経済的な理由にくわえて、民国では日本
会賞'は、年に 1
0ドルである 。会員の半分近くが60歳
人ばかりで、日本語で話していたので英語が上達し
以上の女性で、 「
寿会」 という独自の会もつくってい
ないということも、志願の理由だった。実際、箪隊
る。 また
では英語も学べた。
新兵訓練の時にも、 上官が威張りちらしたりする
5-ωo人の新移住者がいる 。彼らは大半が
キリス ト教徒で、 Kargal
y ]apanese Communit
y
Associ
a
ti
onには入らず、独 自の組織
(
1
新移住者会 J
)
こともなく、また同期兵から馬鹿にされたり、差別
を設けている 。 また白人男性と 結婚した日系女性の
されたりしたという記憶もない。そのため軍隊は居
会もある 。(文責.感地利明)
心地がよかった。 イスラエルのガザに駐惜したとき
には食料や人員の輸送部隊に属し、運転手として働
聞き取り対象者西畑千代子
いた 。 またノルウェ ーで、行われた NATO
の軍事訓
昭和 7年 1月25日生まれ(西畑英治の妻)
したこともあった。
練に参加l
1
9
5
9年
、 3
1歳のときに結婚した。両親が相手を探
してくれ、いわゆる写真結婚だ、った。妻は彦根市の
おいたち
犬上郡守初1村須越(現在の彦根市須越 I
J)生まれ、
*
J
U
迭の出身で、そのときは 2カ月間の休暇をとって
旧姓疋旺!
といいます。 3人兄弟の真ん中で、姉と弟
│
二
│
本に行き、結婚式をあげた 。 カナダに帰国後は、
がいます。 カナダに来たのは私だけです。 カナダと
9
6
4il
三にカルカ
トロントで部屋を借りて暮らした。 1
の縁は、祖母がパンクーバ ーに一時来ていたことが
リーに転勤とな った。そのとき、カルガリーで家を
あるということです。父は農業をしていました。湖
買った。将来ともパンクーバーに住むことは、まっ
岸の集落ですが、 漁業はや っていませんでした。小
たく考えなかった。
1
9
7
2年、4
4歳のときに陸軍を除隊した。 15年間の
さい頃からよく農業の手伝いをしました。 1
3才でカ
ネボウの学徒動員で働きに行きました。
軍隊勤務であった。除隊時には、軍 '
N
tこ舛級してい
2歳に短縮されているが、
た。いまでは軍隊の停年は 4
当時は 5
0歳であった。除隊後は、カルガリーに住ん
だ。軍人恩給は最終給料の約半分で、あっ た。
カルガリーでは、いろんな仕事に従事した 。運転
写真結婚
1
9
6
0年
、 28
才の時にいわゆる写真結婚でカナダに
i
l
立ってき
ました。その夫を紹介して くれたのは、大
i大堂 IUJ)のおばさんで、おは、さんの息子
堂(彦根 d
手などをしたのち、テレビの販売・修理の!市をもっ
さんがカナダのトロントにいた関係で紹介されまし
た 。 1981~三 か 82 年まではカルガリーはオイル・ブー
た。夫になる人は、親が愛知川出身でバンクー パ一
ムで景気がよく、仕事も順調だった。 しかしそれ以
生 まれで、カナ夕、の軍隊に入っていました。エジプ
988年
、 60歳にな ったと
後は、景気が悪くなった 。 1
きに!苫を閉じることにした。
トに派遣されていて、任務が終わ ってカ ナダに帰国
する途中に円本に寄って、そのまま夫と 一緒に氷川
1960年には息子が生まれた。子供は 、この子だけ
丸でカナダに渡 って来ました。 なので、厳密にいえ
である 。不景気のため大学には行かせてやれなかっ
ば写真結婚でないかもしれませんが、写真と釣書だ
た。今は白人女性と結婚し、企業で働いている 。彼
けで結婚の約束ができていたので、よく似たような
は日本語ができず、英語しか話せない。息子を連れ
ものです。夫が軍隊に入っていたために、結婚の手
て1
9
9
0年に日本に行き、世界滋賀県人会に出席した。
続きが早く進んで、任務の途中で日本に寄 ることが
自分だけでなく息子も、家族のルーツなので、また
できただけで、本当はカナ夕、で、会って結婚するはず
出席したいとの希望をもっている 。
でした。同じ氷川丸では同級生の女性 3人も 一緒で
500人は
カルガリ ー市には日系カナダ人は、約 2,
した。その人たちは文字どおり写真結婚でした。そ
いる 。出身府県は、広島が多い。そのうち、 3世は
の一人の蓮華寺の 田中さんという人は、女学校出で
58 ・人間文化
進取と望郷 ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り謂査報告ー
英語がよくできましたが、私はできませんでした 。
人の女性と結婚しました 。孫が 2人います。別居し
2
8才になってカナダにやってきたので、なかなか英
ていますが、週に ー 凹くらい家族揃って来てくれた
語が上達せず、その ことでいつまでも苦労しました。
り
、 こちらから行ったりしています。 ところが、息
子とは日本語で会話ができ ますが、あまり日本語が
カナタでの移民生活
得Jj~でないので こ みいった話はできません 。 息子の
結婚してから 2年間は トロントで、いとこの家の
嫁や孫たちはまったく│イ本語ができないので、あい
2階に住んでいました。 1
9
6
0年に男の子ができまし
た。1
9
6
4年、夫の転勤でカルガリーに移住しました。
さつ以外にはほとんど訴ができず、今はそれが悲し
く半いです。
十年後に夫は退役しますが、そのままカルガリーに
住みました。子どもができて 1
0年間は、専業主婦で
したが、子育ての問、ボランテイアで他人の子ども
日系社会での交流
今は、週一回サタデーに息子の家族と会うことと、
も預かつて里親をしました。息子一人だけだ、ったの
この会館 (日系文化老人センター )で週一回ウェン
で、遊び相手にもなると考えたからでした。 こちら
ズデーに;事会で日系の人たちとの集まりが一番の楽
では、よくあることです。 ときには、息子が里イに
しみです。 また、
Jに 2
1口!の仏教会のサンデースク
やきもちをやくこともありましたが、一人っチで育
ールも楽しみの
つです。 この会館は、日本人への
てるよりはいいと思 し、ました。
戦後補償 (リトレス )で建設されました。それ以後、
1
9
7
0年には、子育ての手が離れたので、私も勤務
日系人の交流が盛んになりました。 カルガリ ーでは
にでました。 その会社は、ブレジグランドというけ
1系人が附ま って住んで、いなくて、普段はほとんど
本人オ ーナー の食糧の卸の会社でした 。そのオーナ
合うことがなく、成と ってきたらこうや って会うの
ーは沖縄出身 で玉城さんといい、リヤカーで行耐を
が楽しみになってきました 。 このように、ここに集
して財をなして会社を起 こした人です。その奥さん
まってくるのは私らのような年代の I世や 2世だけ
の父親は彦根市平田の名 刺明 H?:~ 寺の息子さんで、守
で、,0
、fの年代のような 2i
吐や 3析は集まっては米
を継ぐのがいやで若いときにカナダに渡ってきたそ
ません。ただし、年に 2阿史のレクレーション (ピ
うです。その会社には、 1
9
7
0
l
:
j
oから 1
9
9
6年まで 2
5年
クニ
間勤めました。 2
5
1
:
1
三
勤務の褒美に指輪とハワイ旅行
まります。 これは、家族ぐるみの参加で 3
0
0人ぐら
をプレゼントしてもらい ました 。子どもの頃から r
与には、普段は
いの大きな集まりになります。 この H
姓仕事をしていたおかげで、制l
屋の重労働の仕引が
一緒にならない新移住者の会 (
4
0.
j
代が多い )の人
やってこれました。その会社には従業員が4
0
5
0
¥
'、
たちとも 一緒にな ります。 この新移住.fi'の会の人た
y
ク) と冬の新年会には息チの世代の夫婦も集
ましたが日本人はほとんどいなくて 6-7人だけで
ちは、私たちとは別の H
信Hにこの会飢を使って集ま
した。仕事での会話は英語でしたが現場での仕事で
って、コーラス、ク ッキング、クラフト、バザーな
したので簡単な英語だけですみました。買い物はス
ど出発な交流をしています。息子の年代の 2世や 3
ー
ノ Tーでほとんど英語を使わないし、カナダ人との
i
U
ー
が
、 1系人と してと くに集まる機会を持たないの
近所づきあいも少なかったので、英語はほとんど l
二
とは対称的です。 こち らで生まれた人たちは、日系
達しませんでした。
人というよりはカナダ人という;官、識のガが強く、Il
系入社会をつくる必裂はないと思 っているようで
家族との交流
す。(文責:高橋美 久 .)
日本にはよく帰っていました 。 とくに両親が生き
7o:
l
:
に
ている問は 5年世きくらいには州りました。 6
聞き取り対象者桑原敬子
父が、 8
7年に f
まが亡くなってからは遠のきました 。
(シルク・オ・ ライナ桑原ヒロシ氏の妻)
3年ぶりに帰 りました。 1ヶ月間、実家
今年 3月に 1
1
9
2
0
年 5月 1
0日生まれ
の弟の家に滞在して、京都や長野を旅行しました 。
父は広島県佐伯郡山身の佐キ木しゅういち 。
日本からは弟が 2年前に訪ねて来てくれただけで両
義父の桑原佐太郎は学校の先生をしていた節子と
親や姉はついに来てくれ ませんでした。 それが心残
絡的。桑原佐太郎は 1
9
4
2年、パンクーバーからカル
りです。
ガリ ーに移り、井上、北川、桑原の 3人で日本シル
私の子どもは 6
0年に生まれた息子 1人だけで、白
クを始める 。
排斥を受けないよう同化する努力をし、
人間文化・ 59
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告一
応名もシルコリ ーナとした。戦前はエド モ ントンほ
かに 7広あったが、 2年前に最後のカルガ リーの庖
をたたむ。
仕事をし、シャツなどをつくってい ました。
1
9歳で結婚しました。夫は沖縄名護生まれの人で
す。男の子 3入、女の子二人ができました。子ども
佐々木の父は通弁としてカナダに渡る 。佐々木と
たちは日本語学校へ行って日本認を勉強しました。
桑原佐太郎はカナダに来たときからの知り合いであ
そして戦争。夫は予備兵に入っていて、イン ドへ
った。佐々木は材木を扱い、白人がオーナ ーの会社
行ってしまいました。私は夫の家族と 一緒にレスブ
の代表を勤め、日本に材木を輸出していた。
リッジへ行きました。私たちはもともとアルバー タ
(
文
J
'
t:i
知!
奇一志)
州にいたので、レジスタ ー (登録)をしなければな
りませんでした。夫は 4年前に亡くなりました。
聞き取り対象者米田 (
夫妻)
1
9
2
5年
日本の習慣はこちらではよく伝えられています。
スティーブンストン生まれ
寺参りだとか墓参りだとか。食事の時は父が先で、
円本の故郷は弓削島。 カナダには弓削島や因島出
身の人は多いですよ 。
子 どももそれを見て育っているので、父を大切 にし
ますよ 。
戦争前の 1
939年から 40年頃スティ ーブンストンに
r
Jで、カナダは日本 よ りいいですよ 。
「
住めば者¥
来ました 。そこで戦争を迎えました 。兄と 二人で、
「
滋賀ニュース 」 はよく送ってもらっています。戦
レスブリッジから 40マイルのところにあるアルパー
後こちらへ来た人はよく日本へ帰るね。でも戦前か
タ
ナト
│のアイランドスプリングスへ行き、砂糖大根栽
らいる私たちは帰らないよ 。 カナダへの移民はこれ
培の百姓をやりました。朝から夜までよく働きまし
からもどんどんした方がいいと思う 。
た。
(文責:田端泰子)
その後20歳くらいの頃でしたか、カルガリ ーへ来
て板前をしました。兄も 一緒でした。次にカナデイ
アンパシフイツク鉄道に入り、機関士の仕事につき
ました。 これは62歳の定年まで続けました。結婚は
聞き取り対象者
ヒロシ・クワハラ
(
シルク・オ ・ライナの経富者)
1
9
1
4
年パンクーパ一生まれ
25歳の時。妻はアルパータ生まれ、 三重県出身の人
ヒロシ ・クワハラさんは 1
9
1
4年パンクーバーの生
です。戦争中は一番つらかったが、それでも食糧は
まれ、 89歳。23年にカルガリーに来た。父が創業し
日本より良かったと思いますよ 。
日系商庖でもっとも成功した会社と言われる 「シル
(米国さんのおつれあいとは、食事の時に歓談、
r
明るいしっかりものの奥様でした 。
) こちらでは、
私は美容師を今もしていますよ j と話して下さいま
した。(文責
凹端泰子)
ク・オ・ライナ」の経営者だ‘った。 5年前に リジャ
古を、 2年前にカルガリーの庖を閉めた。
イナの j
彦根 1
1
¥身の桑原佐太郎と松林セツの 5男 1女の一
番上に生まれた。家族は英語で話していた。父の佐
太郎はパンク ーパーのカトリックスクールで学び、
聞き取り対象者比嘉美子
1
91
9
年ピクトリア生まれ
生後 3ヶ月でjIj'縄に帰りました。母の妹が病気 に
はじめはホテルのベルボ ーイをした。 きょうだいの
うち 3人はカルガ リーで生まれた。次男はトム、 3
男はサイパンで戦死した。
なったからだそうです。
祖父が巡査で、鹿児島や沖縄本島に住んだのです
シルク・オ ・ライナ
0
歳の時、お父さん、お母さんと 一緒にカナダ
が
、 1
1
9
2
2年にニッポン ・バザールという名で、カルガ
に来ました。奥タケさんという父の友人が連れてき
リーに庖を開いたのが最初。北川 (
源蔵) さんと井
てくれました 。 この時50人ほどが一緒に来たと思い
上 (しげ次郎)さんの 2人が父のパ ー トナ ーだ、った。
ますよ 。
はじめ家 b
長はブリティッシュコ ロンピア 州のミッシ
カナダ太平洋鉄道)に入り、
お父さんはC.P.R (
ョンに住んでいて、 23年にカルガリ ーに来た。41
年
私はカナダの学校へ入りました。 これとは別に日本
に庖名はシルコライナーに変わ った。 ヒロシは3
1年
語学校へ週一回通いました。
カナダの学校はジャンプして (
飛び級のこと )上
1歳で辞めました。 母は妻方の
へ上がりましたが、 1
60 ・人間文化
に庖で働き始めた 。5
3年に父が死去し、北川 さんが
社長にな った。63年ころからヒロシが交代した。
カルガリーには最終的に 5庖あ った。 はじめの広
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告一
は中心街の 8番通り に出し た。 2番目はノースヒル
のショッピングセンタ ー内に。 3番目は シュヌ ツク
家族のこと
41
年に佐々木敬子 (ヒロ シさんはケイと呼ぶ) と
ショッピングセンタ 一、 4番目はサウスセンタ ー、
結婚した。 39年にバンク ーパーに支庖を出し、
5番目はデ イア フット 。 アルパータ州、カルガリー
月間行 っていたとき にお見合いをした。戦前はほと
の北にあるエドモントンには 5庖出した。 イノウエ
んど見合いで結婚した。見合いでなく知り合うこと
さんが担当し、全て布地のみを扱った。サスカチユ
は、ち ゃん としたものと見なされなか った。
ワン州のリジャイナには 3庖出し、うち 2庖が布地
6ヶ
敬子はパンク ーパーのパウエル街生 まれ。父のシ
を扱 った。 ホリ ・ゼンヤさんが担当した 。彼はヒロ
ユウイチは広 鳥出身、佐太郎とは友人で、丸太の輸
シのおば松林ハルの夫で、 北川 さんのあとに社 長を
出をしていた。 1
941年 1
2月 7日の開戦と同時に逮捕
勤めた (
ホリ氏の ご子息 も、 この日会場にみえてい
され、商売をやめ オンタ リオの収容所に入れられた 。
た)。 アルパ ー タ州南部の レスブリッジとメディス
2年後に釈放されたあとは 紙箱を作る 会社を作 っ
ンハットにもそれぞれ 1庖を 出 した 。
た。兄のヨシヒデは、カナデイアンタイヤという、
車関係から始まり今は家具からクッキ ー、ソ フトド
リンクまでい ろいろなもの を扱う 、金物屋の大きな
仕事の内容、廃業の理由
ヒロシとトムの 2人でカルガリーの庖を 全部見て
いた。扱 った商品は 2種類、織物・布地 (
ヒロシの
担当)と女性ファッション(トムが担当)だった 。
商品の多くは日本から輸入した。昔は個人的に輸入
ものといった趣きの大チェ ー ン庖に勤めた。全国の
経理長まで、勤めて 5 ・6年前に退職した。
ヒロシとケ イの子ども は 2男 l女が生 まれた。 3
人とも 白人と結婚し た。スコットランド、フランス、
する ことはできず、カ ーテ ンやポリエステルは日本
アイルランド系である 。 今は日系人も 90%は日系人
の会社が大きな量でしか取 り引きしなか ったので、
以外と結婚する 。
間に卸売り業者が入っ た。戦前 は日本に多くのスタ
最初の子である長男は、ノパスコシア州のハリフ
ッフを置いて、陶器も扱った 。全部で"
2
2
種が揃 った
ァクスにい る。 カナダ箪の下 にあるデ イフェンス ・
茶器セットは 、 1931年に 89セントで、売 ってい た。海
リサ ーチの科学者で、潜水艦などの NATO関係の
を渡り山を越えて、税金と 利益を入れてこの安さだ
仕事をしている 。最近ベルギ ーのブラソースから帰
から、日本の人たちはいくら取っていた のだろう と
り、来月オーストラリアへ行くという 。彼が就職す
思うが、そのあたりは父が見ていたので知らない 。
る前に、政府は彼の周 辺のいろいろな人にアンケ ー
そのころ 1ドルでフルコ ースのディナ ーが食べられ
トをと ってい た。 ナガタさんという人もメデ ィスン
るくらい、給料は時給 2
5
セント
、
ハ ッ トで同様な仕事 をしている (
※今日、 この よう
1日 2ドルで、月
に100ドルくらいだっ た。
シルク ・オ ・ライ ナが最も繁盛したのは 63-64年
ころだった。 その頃まで カルガ リーにはそうい った
庖が少なく、白人女性が主な顧客だ、った 。
庖を閉めたのは跡継ぎがいなかったからだ。子ど
な国家機密に関する職でも、日系人であるかとうか
より仕事 に対する専門性が重視 され、誰でも 雇 う。
ただしカナダ人である ことが条件。大学でも、ポス
トはカナダ人優先が建前。 日系人には実力 と信頼は
あるといえる )0
2番目の次男は、 ENCA石油会社
も達以外の庖員に譲る ことは考えなか った。 また日
のカルガリ一本庖で財務の仕事をしている 。(※こ
本の繊維は商売になりにくくな ったし、 家賃が高く
の会社は、米国の石油会社が大きすぎるので、対抗
なり利授が出なくなった。
するため買収を繰り返 して大きくな った。現在カナ
カルガリーでの家賃は 1立方フィ ー トが年 に 5 ド
ダ最大かもしれない。 カルガリ ーの街中いろいろな
ルの計算で
、 2000立方フィ ー トが年 1万ドルになる 。
ところに建物がある )0 3番 目の娘は、ブリテ ィッ
1
0年くらいその値段だっ たが、やめる 3年前には 2
5
シュコロンビア州の南部、シユ ースワ ップ湖の近く
ドル、その次の年には 27.
5ドルと上がり、最後の年
に住んでいて、 1
事業主婦をしている 。
には 3
0ドルになった。 カナ ダのインフレで、売 って
いるものが高くなっている。昔は 1ドルで行:
入れた
カルガリー最初の日系人
ものが 2 ドルで売れたが、今は家賃 ・人件費が上が
カルガリーに最初に来た日本人は、イナマスとい
って 3ドルで売って もコストが出ない。他の会社 は
う人だった。桑原佐太郎は 2番目に来たが、イナマ
よ くやっている と思う 。
スさんのことはしばらくの間知らなかった。 レスト
人間文化 ・ 61
進取と望郷 ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告
ランを経営していたが、庖はだいぶ昔に閉めた 。有
光旅行にも通訳として 同行している 。大陸日報社は
名な競走馬を持っていた。 3人の女の子と 5人の男
5年毎に 1
5・1
6
才のこども 5、 6人を日本に 2ヵ月
の子がいた。 うち 3人は今もカルガリーに住んでい
滞在させ、日本の 印象を記事に警かせたが兄鉄夫も
歳くらいだと思う 。
る。長女のメアリ ー さんは 96
1928年に選ばれて参加した。 太平洋戦争勃発時、父
桑原家のす こしあとにカルガ リーに 来 た 日 系 人
親(日露戦争に従軍している)は 一人前の男子は兵隊
で、ロイ ・キヨカさんは詩人であり美術や小説もよ
になるものと日本軍兵士になることを勧めた 。 兄は
くした。弟のハリ ー さんは油絵を描き、いまもカル
カナダ生まれはカナダの兵士になれといい、本人も
ガリーにいる 。
希望したが許されなかった。食料品庖を閉鎖、財産
(
付記)
を没収され強制移動させられた 。父は 1952年ごろ 一
この間き書きでは、ヒ ロ シさんとがjなじみの河村
旦 ゴースタウンに、その後長男が商売をしていた レジ
澄雄 (レスリー)博士の 助力 を頂いた 。河村先生は
ャイナに移り、最後は トロントで 9
1才で亡 くなった。
1
9
35
年レイモンドの生まれ。両親は米原町磯の出身
948年。委愛子の父
英夫がカルガ リーに 来たのは 1
で、自身も磯に帰って日本の学校で教育を受けた 。
小林伝兵衛は長野県出身で俳句の先生でもあり、オ
現在カルガリ一大学教授で、仏教哲学を研究してい
カナガンの近くのケロナで大きく果樹園を営んでい
る。 父君が浄土真宗本願寺派の開教使でカルガリ 一
た(リンゴ、相ふアプリコ
周辺を担当し、ヒロシの父佐太郎とは同郷なことか
リ一等を栽培)
。 ここで 4年ほど働いたが、農作業
ら親しかった。文中※印を付した部分は河村先生の
が性に合わず、辞めてカルガリーのコープで栄樹の
意見である 。
卸業として 30年間 働 く。コープはイギリスで始ま り、
y
ト
、 ネクタリン、チェ
J
業について
桑原佐太郎とシルク・オ ・ライナのおI
アルパータやサスカチユワンは農業従事者が多く共
4
ミ
ノk
l
剖紀先生の研究をはじめ比較的よくま日られ
同出資する購買組合が発達した。小 林の呆樹図は現
は
、
ているので、ヒロシさん自身のことを中心に聞くよ
在
、
うにした 。(文責:野間直彦)
わっている 。
聞き取り対象者堀英夫
以下簡単に紹介。 よし子一 兄弟のうちただ一 人日本
ドイツ人の経営するグレイマンクワイナリに変
兄弟は 8人で、よし子、鉄夫を除く 6人が健在。
1
9
1
8年
パンクー J
.
I
'
一生まれ
に帰り祖母に育てられ 1
8才の時再波加した。英 語 が
8
9
5i
rに波加。 父
祖父持次郎は犬上郡大薮山身、 1
915年から
普怖は大薮出身で母ハルエは彦桜出身。 1
1
9
4
1
:
(
=
r
ニにかけてパンクーパーのパウエル街で食料品
分からないことや、考え方が違ってカナダの生活に
馴染めなか った。鉄夫 (トム )ー
レジャイナから
トロン卜に移って洋服庖 (ドレスメーキング、ベビ
府 「
堀一
昔 」を営む米 、味噌、醤油、種々の漬け物な
ー ウエア等)を営む。花子
トロントに住む。夫は
どを日本人相手に商っていた 。当 Il~i パウエルスト リ
岐阜の 人。英三 (ボブ)
レジャイナで祁貨庖を
ートで商売をする人はは殆どが滋賀県人だ、った。 な
経営。 ひろし (
フランク ) ー
かでも前川兄弟が一番で、雑貨から向動車の修繕ま
会社経営。みきお一 桑原シルコライナに勤めていた 。
で手広く商売をしていた 。 日本から来るのは独身者
(
文責・積崎一志
、 堀井靖枝)
歳
8
し回
と在
さ現
ま
田れ
永ま
生
者年
象国
取
対旧
り年
の製材所で働いていた。l
J
i
l
¥
善
商
庖 の哀に音 1
1
屋を作っ
てそこに泊めていたが、ルーミーハウス(下宿屋)
き正
聞大父
で、従兄弟などの親戚連れが多く、ニュースミス等
ヴイクトリアで戸板
ができて移っていった 。娯楽では朝日ペースボール
の観戦や、仏教会の行事をよく覚えている 。午後 3
お父さんが鹿児島指宿生まれ。 1
906年に鉄道移民
時まで白人の学校に通い、 4時から 6
1
時まで日本語
でパンクーパ ーにい らした 一世の 日系人。鉄道移民
学校に通 った。 日本語学校の佐藤・秋山先生夫妻に
とは、 二年間の契約で、鉄道の敷設のために来たが、
はたいへん良くしてもらい帰国されてからも交流が
ほとんどただみたいな契約だった 。二 年で漁協へ移
あった 。 円本語の修得は、強制移動前にへステイン
らされた。 オールの船で漁業をする (日本人は排斥
6
されて、機械を積んだ、船を使ってはいけない こと に
ヵ月開通弁(通訳)の仕事をした i
時に活かされた 。
なっていた 。
) 父と 、その従兄弟の 二 人で・
船に乗り、
1
9
6
4年東京オリンピックの年、仏教会主催の日本観
従兄弟は船から落ちて亡 くなった 。
グパ ー クに 2万 2000人の日本人が集められた際、
62 ・人間文化
進取と望郷 ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
から晩まで。
本人
製材工場で働いてからさとう大根工場で働く 。
1
9
4
4
年より以前に弟子入り(それ以前は製紙工場で
働く )0
r
漁 業 が し た く な く て 船 大 工 に な っ た 。」
年金
恩 給 年 払 3万ドル
カナダのペンション (
年金)
とL
o
c
a
lA
u
t
h
or
it
y (文立:武田佐知子、今井倫子)
1
9
4
9年 2
9歳で結婚。 (奥さんは広島県の松 山出身 )
その後カルガリ ーヘヲ│っ越す。子供は日本語学校へ。
聞き取り対象者米田ゆりこ
(カルガリーは 3
0
0
0人の近江人。 1
0万人の中国人)
ミシン庖 (
修理)
日本からハワイで働く
(
一年か
2
0年間働いて、大工をリタイヤする 。 1
9
8
8年オリン
二イ
│
三
)。パンクーパー冬はレイモンドで百姓
ピックでは通訳をしていた。 ニューファウンランド
兵結婚
でマグロ船を買う 。
三重県の母。
カナダでの仕事
友知1
1
で、
Farmer (さとうだい こん )。
1
9
1
1年に帰ってきた 。市民権を得る (イギリスの
父
→
写
逃げた (
長い間ほうっておいたので)。
5
8歳で死去。母が父の変わりに児の仕事。 (
3
6
市民権)0 1::1本人はオ ール で、船を動かす。 父親は従
歳で未亡人 ) 1
川人の子供。 1
92
6年にレイモンド着。
兄弟と 一緒に船に釆り 、従兄弟の方は務ちて 亡 くな
った。戦前、僕は漁師したくなかったので、船大工
L
I本入社会から排斥。
1
9
歳、カルガリーの美作自
j
j学校へ入る 。 1
9
4
9年から
になった 。弟 子 入 り す る (二 卜歳ころ )。戦争にな
ノfーマ犀を始める 。 子1
・り
、 I
I
I
l洗いの仕事をしなが
ってしまって学校に行けなかった。 オーシャンフロ
ら貯金し、りへと仕送り 。 子供ー リjの子は電気のエ
ート の製紙工場で働いていた。そこでも 1本人の 1
)1
ンジニア 。妹の子は 二 人が弁護 1
_
'
0 (
文立
斥は激しかった。 日本人と白人の給料には大きなえこ
1
:
1f
¥ 今11=倫 f
)
武1
1佐
1
;
j
(
人
は5
0
があった。 白人が 1ドル貰っていたら、 1
セント 。 カルガリ一
日本人は 3
0
0
0人、小国人は l
万人。
家族
J
I
Aの仕立て
奥さんは二世。奉仕が好き 。着物の平 I
聞き取り対象者伊賀正亮
1
9
3
1年 4月 1
1日 愛 媛 県 温 泉 郡 川 内 町 生 ま れ
1大学、*京農業大ワ:を卒業。就職、結婚後、
松1
1
9
6
2年トロント大学大学院に f
i
fJ'{:
民業経済学を専攻。 トロント大学の分割によ り大
をしていた (
結婚後も )。
子供達に教育を受けさせることは重要なこと 。
長女
I 中国人の弁護士と結婚。
高校教師j
長男
日本の水産学校へ研究に行き、カナタ事で弱j務。
学 がG
u
e
l
p
h大学 とな り、最初の f
l
i学生に 。 2年間
:
!
tl
i
j教会の奨学金を待て、 1
9
6
4年まで学ぶ。その後、
2{
I
三半日本に帰国。地元の農業高校の教員に決ま り
鹿児島大学で修士号、北大で同 士号取得。 日本人と
かけるが、教員免許の関係により採用が見送られた
結婚。
ため、 1
9
6
6年ウ ィニペグのマニトパ大学へ f
l
f学 し
、
次男
UCLA カナダ政府の防衛の研究 白人と
P h, Dを取引 。 その後 1::1'問ブリティ ッシュコロ
コンピューターネットワークの専門家
倣に就くために人
は、教員やエコノミストとしての l
ンピア大学の リサーチアシスタント 。 当時 BC州で
結婚。
三男
次女宝石加工の学校に通っている
交通事故の後
科系別が残 っていたため、他のナ卜│へ移ることを決意
l
l
i1
i
E。
(
BC大学内などでも 差別があ ったという )。 しかし
リッチモンドに妹が二 人。
他でも、大学の教員になるためには、未だに学:閥や
-血 .
.
.
.
で
人種による 発別があり、研究者としての道は相当狭
人種差別
一番つらかったこと
一一一 戦 争 、 排 斥 、 差 別 が
つらい。
白人は日本人をばかにする 。 白人がf~ .ìl!i 。 中国人
や韓国人に対する態度、民族差別はひどかった 。 ト
ロントは向人よりも多い白人はどんどん山ていって
しまう 。中国人、総国人の移民には差別意識はない。
1
8
0万人の中国人。
さとう大根畑の仕事もつらかった。!擦が痛い。朝
か った。
1
9
7
0年 ?(このあたりはっきりと年は言われなかっ
た)マニトノ {
l
'
H政府の大学を担当するエコノミストと
して就職し、大学の学部予算配分や経済予測に携わる。
1
9
7
3年 A
l
b
a
r
t
a
W
h
e
a
t
P
o
o
l (アルパ ー タ農業組合
という訳で良いのか?)にエコノミストとして採用
0歳の定年まで 1
8年間つとめる 。モルモン系
され、 6
の方に誘いを受けた (
モルモン系の人々は戦前の
人間文化・ 63
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
B
C
1
'
!
'
1
の日系人迫害の時などにも、日系人を助けて
の明があったという ことです。英語はカナダに来て
おり、余り差別感を持っていない)。
覚えました。
北米自由貿易協定などの時期で、農業部門の様々
母方の伯父がパンク ーパーの近く、スト ロベリー
な対策を行った(州政府の抑し進める自由化と農民
ヒルで、農業をやっていて、父はそこで 3年間働い
を守ろうとする県の狭間で苦労した)。
ていました。その後、パルプ工場で、戦争まで働い
1991年から 9年間、日本の四日市大学で農業経
ていました。
済・数量経済・経済英語を担当。バンフで開かれた
国際学会の席で誘いを受けた。
2000年にアルバータに戻り、日系寿会のカラオケク
ラブの会計を務める 。
寿会は関心に基づくグループに 分かれており、グ
ループに人数制限があるとのこと 。
戦後の移住者は新移住者協会を作っており、古い
鑑別師の仕事を開始
カナダで鑑別師の仕事を始めました。その頃、ア
ルパー タ州の南は、全部、私がひとりで鑑別をして
いました 。忙しくなったあとは、助手を震い入れま
した 。 アルパ ー タ州の南半分のにわとりは、全部、
私が見ていたんです。
日系の方々とは付き合いの全くない人たちもいると
各地に出かけていました。今は 、中央に大きな会
のこと 。 また、近年はカナダ人と結婚した日本女性
社があって、 一本化されていますが、当時は、南ア
達が若妻の会を作っているが、それぞれの連携は今
ルパ ータに、ひよこの解化場が1
5
軒く らいありまし
後の課題である 。 (文責宇佐見隆之)
た。 ひよこを解して、農家に売るんです。 アルパ ー
聞き取り対象者
飼うんです。養鶏は、麦を作る農家の副業みたいな
タ州は、農業がさかんで、、農家が副業でにわとりを
富本博(初生雛雌雄鑑別師)
もんです。
祖父や父母の移民
卵字化場を車でまわりました。免許はこちらでとり
私は山口県の大島郡の出身です。一つの島が一つ
ましたが、初めは、勝化場のひとが車で迎えにきて、
の郡になっているところで、私らの住んでいた町は、
仕事が終わると、次の仕事場まで送ってくれていま
東和町といいます。 日本でいちばん男の人の寿命が
した。農場をやっているのは、日本人の方もいまし
I
I
Jってことで、新聞に出たことがあります。長
長い !
たが、 5軒くらいで、ほとんどが白人でした。
生きの問です。島の人は、漁業と農業が多いです。
大島からは、カナダに移民するひともいましたが、
初生雛雌雄鑑別師
主に、ハワイに行っていました。私のおじいさんは、
ひよこの雌雄鑑別という仕事は、白人にはできな
父から聞いた話では、財産を売って北海道に行って
いんです。 世界中に日本人が送られて、やっていた
いたそうです。北海道に行 って、失敗した。それで、
んです。
鑑別は 1
5
0
0羽を 60分くらいでやりますから、
島に帰ってきた。
まずは目が良くなくちゃいけない。ついで、勘が良
父は、日本にいた頃、悲兵隊にいたんです。母の
くなくちゃいけない。
親戚がカナダにいて、来ないか、ということになっ
白人がやると、正確さが、 95パーセントいかない
て。母の出身は、伺じ島の│鈴村です。ただ、その支
んです。 日本人がやると 、1
0
0羽のうち、 98羽以上
度しているときに、母は亡くなりました。でも、も
は間違わない 。農家にしてみたら、 100羽買って、
う行く支度をしていましたから、父は移民しました。
そのなかから 5羽も卵を産まない鶏が出てきたら、
損でしょう 。飼料を与えて、育ててみて、それで、雄
1
7
歳でカナダヘ
私がカナダに来たのは、 1
9
3
8年です。数えの 1
7歳
だったら 。 100買って 1羽しか間違わないのと、
5
羽間違うのとでは、全然違います。だから、白人は
でした。父の十年くらい後です。 日支事変が始まっ
ダメだったんです。全カナダで この仕事は日本人が
たころ、学校をやめて、名古屋に行ったんです。名
古屋には、初生雛雌雄鑑別師の学校がありました 。
やっていました。 日本人を呼んで白人に教えようと
した こと もあったんで、すが、無理で、した。 白人には
学校のコースは三 ヶ月で、試験に受かれば資格が取
できなかったんです。
れます。私は、父に言われて、カナダに行くために、
ひよこは、一人前になるのに 5ヶ月くらいかかり
その資格を取りました。後から考えれば、父に先見
ます。 6ヶ月になると卵を産むようになります。そ
64 ・人間文化
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告一
して、 6ヶ月間は、生むんですが、それを過ぎると、
そのころは、近くに住んでいた日系人はみんな知
あまり生まなくなる。毎日生んで、いたのが、 三 日に
り合いで、ピクニックをしたり、お正月には演芸会
一度 とかになる 。すると、また新しいひよこを仕入
をしたりしました 。 出身地はいろいろで、 桑原さん
れることになります。 6ヶ月ごとにひよこを入れ替
が滋賀県の出身です。シルクの庖をやっていました。
えるんです。今は、大きな会社になったので年中や
他に 、鳥取の出身のひともい ました。 日本人どうし
っていますが、昔は農家の面J
I業でやっていましたか
は、標準語で喋りました。各地の人が集まって、カ
ら、そのくらいのペ ースでした。
ナダの日本語ができていました。
忙しいときは30時間、 40時間、寝ずに働きました。
白人の競争相手がいないので、自分がこれだけ欲し
い、 と要求したらそれだけ報酬がもらえました。 だ
カルガリ一市との訴訟
戦争が始まると同時に、カルガリーでは、日系人
から 6ヶ月働けば、ひとの 1年分以上、収入があり
町に入れない、という ことに なりました。だから、
はl
ました。 6ヶ月働いて、あとは遊んで、いました。仕
家内は、入れなか った。家内はカナダ生まれの日系
事は春がシーズンで、春から 6ヶ月仕事をして、す
人だ ったのでね。
んだら 、パンク ーバーに帰 っていたわけです。
だから、私は、弁護士をやとって、市を相手に争
ったんです。 弁護士は、ユダヤ人の弁護土でした 。
日系人も排斥されていましたけど、ユダヤ人も排斥
戦争の勃発とカルガリー移住
1
9
4
1年、戦争が始まったときには、私はパンクー
パーにいた んですが、その とき、もう、 アルパ ー タ
で次の仕事が決まっていたんです。契約が決まって
いて、それは私じゃなけりゃ、できなかった。 だか
されていましたから 。それはけしからん、というこ
とでね。
1
9
45年、争いに)J券ちました。それから、日系人は
誰でも 11]に入れるようになった。
ら、父や伯父は収容所に行きましたが、私は行かす、
私が裁判で、勝ったあと、カルガリーには日本人が
にすみました。戦時中も、アルパータ州で変わらず、
増えました。学校があるので、下宿をしている若者
仕事をしていました 。
が来て、その子供が学校を出て働くようにな って殺
を呼んだり 。
戦時中のカルガリー
カルガリーに戦前から暮らしていた人は戦時中も
裁判をしていた頃は、アルバータに日系人は 5
0人
くらいしかいませんでした。 日系人が少なかったか
変わりなく生活してい ました。 でも排斥はありまし
ら、裁判の こと も、あまり知られていないと思いま
た。家を買うことはでき ませんでした。私は一年働
す。新聞には絞りました。記念に、その新聞は、切
いたら、家を買うくらいのお金はあったんですが、
り取 って 、残しています。
戦時中は、法律で、それができなくなった。子供が
出来ても、家が買えないんです。家を借りるのも難
しか った。戦争前はそんなことはなかったです。
勝手に余所にいく こともできませんでした。 ポリ
戦後の仕事
5
'
.
1
でやっ て、やめました。時計と 宝
鑑別の仕事は、 4
石の修埋の資格を通信でとって、鑑別の仕事のない
スの許可がなかったらダメで、仕事はいいんですが、
ときに、知り 合いの庖 を手伝っていたのです。その
月に 一回、私はここにいます、という報 告を しなけ
知り合いの宝石商が、私が55
歳のときになくな って 、
ればならなかった。
代わりに庖に 詰 めてくれないか、といわれたので、
戦時中に移住させられたひとは、砂糖大根の農業を
鑑別の仕事 をやめて、その!苫に引退まで勤めました。
やっていました。砂糖大根の収穫は、 9月か 1
0月ごろ
父は、収符所に行 って、戦後はトロントに行きま
で、ちょうとな鑑別の仕事が空いている時期だったので、
した 。伯父は、 j
i
没後、収容所を出たあと、日本に帰
手伝った ことがあります。 とても大変でした。
りました 。母の父母が、戦争前に帰っていたので。
戦争は、日本に勝って欲しかったです。戦時中は、
トロントの日本語新聞をと っていました 。
三世、四世と日系社会の変化
NewCanadianという、二世の新聞です。 日系人の
子供が五人い まして、四人が女の子です。息子が
3、 4年前につぶれ
一人いて、彼は歯医者になりました。女の子 は、薬
状況が判るので。 この新聞は、
てしまいましたが。
剤師とか、教師になって、みんな、良い結婚をしま
人間文化 ・
65
進取と望郷
カナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告一
した 。白人と、です。
間でも英語を使っていた)読書や作文では苦労した。
三世になると 、国際結婚が多いです。昔は排斥が
龍谷大でマスタ ーをとり 、 4年ほ ど開教使として活
多くて、日系人向土と結婚していましたが、子供た
動した。 1
9
5
7年照子と結婚、翌年カナダに戻り父親
ちは、もう日本人と言うより、カナダ人ですから 。
J
+
Iで開教使となった 。 8つ
の引退にともなって BC
日本人と結婚して欲しいとも思いましたが、諦めま
の寺を担当した。 カナダでは一般に日系人への差別
した 。二 世の方は、 70 ~80 % は日系人と結婚しまし
は少なくなり、主に日系 2世の頑張りで、日系人の
たが、 三世となると、もう変わりました。二世の頃
社会的地位は向上していった。照子のパンク ーパー
は、排斥が強かったですけど、 三世になると、人権
での印象は文化がまだ低い こと、日系人は外部との
尊重の教育で、顔とか人種で区別したりしないで、
交流が少ないことであった。照子は関教使の妻とし
もう自由でしょう 。
、 3世
て特に l世に対しては言動を慎んだが、 2世
昔は、言葉が難しかったりもしましたし、日系人
同士が出逢うことも多かったですけど、今は日本人
も固まっていませんから 。 (文責.山口佳代子)
きょうじよう
間では気楽に振る舞う こと ができた 。
1
9
6
8年享成は日本でドクタ ーを取るためにカナダ
政府の奨学制度で京都に行き、京都大学と龍谷大学
の博士課程で学んだ。家族も翌年には京都に移動し
聞 き 取 り 対 象 者 生 田 享 成 ・ 照 子 夫妻
9
7
2年に再びカナダに移り、(パンク ー
た。その後 1
カナダ仏教教団 (
西本願寺)
パ一、
トロント、スティーブス トンには大きな寺が
0ヶ寺
、 4ヶ
(現在全カ ナダで、浄土真宗の寺は 2
あったが) カルガリ ーに寺院がないので、その地で
1
司教使が7
人。 2
0
0
5年はカナダ仏教教団
寺は道場。 )
寺作りに努めた。 カルガリ 一周辺には戦中、多数の
0
0年。)
の削教 1
享成の父は西本願寺の僧侶で京都に居住。 1
9
3
7年
日系人が収容され、その後カルガリー市内に出てき
1
止が多いことの他に 、既存の関係の少ない
た 2 ・3-
(
n
行
手1
]
1
2)父母は享成を長男とする子供 5人と共に
ところで自分の考える活動をしたいという思いもあ
BC州ニューウエストミンスター(以下 NWMと記
す)に移属、西本願寺の開教使として活動。当時 N
WM'こは 2
0
0家族余りの日系人が居住。 日系人は 主
にBCナ│‘│にいた 。 NWMでの日系人の主な仕事は製
った。 1
9
8
2年カトリックの教会を貰い仏教寺院にし
た。昨年総長を引 退して、カルガリーに戻った。今
材、イチゴ栽培、漁師。東洋人の収入は白人の半分
はカルガリ ー とレイモンドの開教使をしている 。
[
O前、全カナダの浄土真宗の総長となりステ
た。 6i
ィーブストン近くの総長宅に移居、単身赴任してい
とのはー律により、また日系人のボスがおり、ボスが
日系人の若い人が英語のみ使うようになり、寺に
収入の 一部を取ったため、日系人の生活は働いても
で
、 2
0年後
来る人が;急激に減っている 。今は過渡期1
2歳の時、戦争が始まり、アルバ
貧しかった 。享成 1
はどうなっているかわからない。一方で、仏教に興味
ータ州レイモンド村に家族共に強制移動させられ、
を持つ白人は増えており英語で書かれた仏教の本が
誕の父親は移動 2年目に
砂糖大桜栽培を行った。享j
よく読まれている 。調査でもカナダでの仏教徒の人
1
日教使になり、 例外的にレイモンドを出
仏教寺院の )
数の仲びは著し L、
。先日も、寺で 8週間入門コース
ることを許可された。 アルパータ州のコーリデール
を開くのに、新│
却に数センチ四方の小さな広告を出
他の地域を回る 。
享!或は終戦時、ハイスク ールにいたが、 卒業後ト
したら 70~80 人が集まり、ほとんど白人だった 。 寺
に来る白人はカトリック信者だ‘った人が多い。改宗
ロントの大学に進む。 トロントは日系人の差別は少
したいと申し山てきた場合、もう 一度あなたの宗教
なく、終戦時に日系人のリベラルな人はトロントへ
を真剣に調べ直しなさいと言って帰す。多くは 2 ・
移居した例が多い。同じ頃、アルパータ汁│
や BCJ
十
│
3週間して再びやってきて、どうしても、カトリッ
では日系人は医者になることが出来ない等、まだ日
クについていけなくなったと言う 。小さい頃から
本人の差別は残り、戻った日系人は漁師や材木の仕
「
ネ
1
1
1の恐れ (
f
e
a
r
)Jで育てられ強迫観念のような面
事、庭師などで働いた。皆戦争時の財産没収と強制
があり、それから開放されてほっとしたという人が
移動で、 ーからの出直しであった。
多い。 もう 一つ、キリスト教の神と人との間には距
事成はトロント大学で西洋哲学を学んだが、それ
離がある 。事1が地獄に落とすと救いがない。仏教で
に満足出来ず、 1
9
5
2年日本に留学し、龍谷大学のマ
は自分の中に悟りがあると教える 。例えば禅の場合、
スターで学ぶ。当時享成は日本語を話せたが(家族
いつかは悟りが聞ける希望がある(欧米で、仏教の
66 ・人間文化
進取と望郷
カナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告一
中では禅が最初に受け入れられたのには、そのよう
「先生は自分がいい目を見るためにやっているので
な能動的な聞の要因が大きいと.l
Aう)。真宗ではそ
はないから 」と 、誰も文句を言わなかった。
れは言わないが、 「
煩悩具足の道具」 である相対的
0
8
それが今は鉄板焼きのファ ースト・フ ード の 1
な自分たちから働きかけて初めて絶対的なものに近
軒チェーン庖とな っている 。エド・ ジャパンという 。
づけると教える 。「一如j というように、全てが持
カルガリ ーに 8軒、カナダ、米国、オ ーストラリア
ちつ持たれつで「縁」が宇宙を動かしていると考え
に広がっている 。 オーストラリアでは 三菱系でエド
る。地獄はあるが、それも真理!の一部である 。 この
という庖があったのでオウミを名乗っている 。 ファ
ような哲学が現代の科学にマッチしているようだ。
ース卜・フードは不況に強い。以前、日本食は栄養
カルガリ ーの寺にはインテリ、専門職の白人が多く
価が高くダイエ ッ トに惑いと思われていたので、庖
来ている 。 メンバーには大学教授が 3人、弁護士、
内にカロリーを H
占り出した。 フランチャイズにした
会計士、石油の街なの で地質学者もいる 。法話のあ
ら仰びた 。 ピザハットの副社長だった人を引き抜い
D
i
s
c
u
s
si
o
n)をする(これはこ こだけ かも
と談合 (
たのが大きい。 この人とは気が合って、 全て任せて
しれない)が、そのとき鋭い質問が活発に出るので、
口出ししないで、うまくいっている 。 管理する人 5~
うっかりしたことは言えないと思っている 。
米大陸の仏教のはじめは、日本人が持ってきた花
6人が20
軒ぐらい受け持って回っている 。庖の多く
はショッピング・モールの中のフ ー ド・コートにあ
:
1
]
国でも、入って
のようなものだ。歴史をみれば、 1
る。 カルガリーの大きなモ ール である 「シュヌック
きた仏教が中国仏教になるのに何百年もかかってい
センター Jのファースト・フ ード のコーナーでは、
る。だから、米仏教は日本仏教でいえはまだ‘山岳仏
i
1
5i
l
fあるうちの売りヒげ l位になっている 。市の中
教の段階だと思っている 。真宗に来るのにあと 5-
心部に先週開いたばかりの宿は、 5人くらいが働い
60年かかると思うから、 慌てない。ステッピングス
て 1112000ドルの売り上げが出ている 。 もう少し上
トーンになればよし、。 カルガリーの寺に来る人は 1
がるだろう 。 まねをするチェーンが 3つぐらいでき
系人も多くは 2 ・3世だから、法事は少なく、話を
ており、うちのマネジャー・コックを引き抜いてい
j
する 。小さな寺だから新しいことをできる面があり、
く。 ぶは l
e
jをやることで買うことカ fできた。 カトリ
本来の仏教の仕事に戻りつつある 。
ックなどの、土地を持って経営していたり事業して
1
9
7
2年カルガリーで開教使にな った時、会長は 20
儲けて布教しているやり方に学んだ。お布施ではや
人ほどしかなく、 4人の子供た ちも高校生くらいで
っていけない。資本主義の国では資本主義で行かな
生活が苦しいので、 一方で日本食堂を経営した。当
ければと思っている 。 自前で稼いでいるので言いた
時は lつも日本食の庖はなかった。享成が中学校で
いことが言える 。
日本語を習ったカメガイ先生が、ロサンゼルスの紅
3世である子供たちはそれぞれ自分の仕事を持ち
花という鉄板焼屋でシェフ兼マネージャ ーをしてい
頑張っているので、チェーン応経営は夫妻の段階で
た横山けいすけ氏(画家の横山大観の孫)を紹介し
止めることにしている 。長男は歯科医でカルガリー
てくれ、彼がコックを 3人連れて来てくれた。 メニ
に、次男は医師でレスブリッジに、 三男は僧になっ
ューは牛、鶏、豚、シーフード、!野菜妙めなどとご
てトロントにいる 。娘は BC州のロァキー寄りにい
飯である 。近江牛肉をイメージしてオウミという名
て薬剤師。全員、ハイスクールを出てからは全部自
にした 。照子も帳簿を習い手伝ったが、はじめは経
力で大学へ行った。息子たちはエドモントン、娘は
5軒までは自分た
営の ことなど何も知らなかった。 1
BC大学。全員、寺の活動には理解が深く、現在、
床を 一定にするため、野菜妙めのソ
ちで経営した。 l
長男は日曜学校の責任者を 、次男は寺の手伝いをし
ースを粉末にするのに 4年かかった。照子は寺に生
ている 。チェーンを売却した金を寄付するか財団を
昆室育ちだ ったと思うが、!苫の経営でいろいろ
まれ j
作 って、新しい開教使を育て たい。今 は、面白い人
なことを学んだと思っている 。始めるとき、照子の
生だと思っている 。好きなことをしてきたので↑毎い
父はレストランなどとんでもないと 言い、大喧│
醸し
はない。(文責.中野節子、野間直彦)
たが、私服を肥やすためではないので理解してくれ
た。大変だったときもある 。オイルショ ック後にオ
聞き取り対象者
ウミがだめになったときは、 2人で首を吊ろうと思
1916
年岐阜県揖斐郡生まれ
った こともあ った。そんなときも寺のメンバーは、
山本あさえ
私は 1916年岐阜県掠斐郡で生まれましたが、小さ
人間文化 ・ 67
進取と望郷 ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
い頃滋賀県に養女にきました 。一人娘で育ちました。
母は一度も会わす、に写真結婚でした。母は今度生ま
父は彦根の八坂の出で、 1
9
0
3年頃カナダ、に渡って鉄
れたら絶対好きな人と結婚するんやとよく言うてい
道づくりに行っていました。彦根のアオナミ学校の
ました。
6才の時に結婚呼び寄せで父
高等科を卒業した後、 1
三才のとき 一時帰国しておばあさんのところで育
のいるアルパータ州へ一人で来ました。英語を覚え
てられ ました。子供を残しておくと 必ず仕送りある
るためイギリス人の子供のいない家庭で英語を習い
からね。何の苦労も せず大切にぜいたくに育ちまし
ながらハウスキーピングで働きました。給料はま見と
た。両親がカナダで苦労していることなんか夢にも
半分に分けていたと思います。
知らんかったです。
1
9
才の時サ ーモ ンのバイヤーをしていた西村と結
1
9
3
0年にカナダに戻りましたが不景気の最中でし
婚しました。if!1<争が始まった時はバンクーパーのエ
た。三年ほど白人の学校へ通い、そのあと白人の家
ンプレスホテルに住んで、いました。 日本人は BC州
庭へ子守に行きました。
から内陸へ移動させられることになって、 一週間く
結婚したのは 2
2才でした 。相手は、ニューウエス
らいの間に一人1
0
0ポンドまで許された荷物と、大人
トミンスターで働いていたお父さんの呼び寄せで、
一人 2 ドルを持たされてゴースタンへ行きました 。
中学を卒業したあとお母さんと 二 人でカナダに来は
自由行動といって金持ちゃ商売人の中には BC州を
った彦根の人でした。 その頃滋賀県人は他県に人と
離れてアルパータへ来るだけでよかった人もいはっ
付き合わず滋賀県同志で結婚しました。島根県の人
たと思います。 それからシュガービーツなどの百姓
もそうやったと思います。藤原のお母さんはカナダ
になるならゴースタンへ行かずにすむ人もいました。
がいやで、いつも日本へ帰りたい帰りたいと言うて
私のとこは子供もいて家族が多かったので収容所
たね。夫は製材会社に勤めていました。
の食料の配給が多く、うらやましがられました。 こ
戦争の時は藤原の両親と夫、生まれたばかりの子
こでは日本の赤十字から米や醤油が送られてきたこ
供と五人でゴースタンへ行きました。 ここで三人子
ともあったよ 。BC1
'Hで子供が二 人生まれましたが、
供が生まれました。 日本人のドクターがいて不自由
白人のナースを雇って家で産みました。戦後のお産
はなかったね。食べ物は配給ゃったけど、日本人は
は病院でしますけど。 こどもを連れて移動した時、
食べ物を工夫するでしょう 。土地が空いていたら白
マンテンポリスが付き添って親切にしてくれまし
人さんに聞いていろいろやりました。 山でわらびを
た。子供は人生の卵ゃから大切にしなさいと 言 うて
採って塩づけにしておいて、あとで、炊いたりしてお
ました。マンテンポリスは法律を守る人たちだから、
いしかったね。 日本人の奥さんたちは豆を炊いて醤
あの時のようにカナダ人のわたしらを移動させるこ
油をつくったりしていたね。タトには出られなつかた
とを法律違反だと思っていて円本人にはとてもよく
けれど、(収容所の)中に白人の庖があって買い物
してくれたのやと思います。
ができました。マンテンポリスが移動の時や、ゴー
戦後西村が死に山本と再婚しました。子供が次々
と生まれ、多すぎるわと 言 うと、ナースが体が丈夫
スタンにもいたけど、皆日本人びいきで親切でした。
日本人は法律違反をしないからね。 その同じマンテ
だからという事なんですよと 言 うてくれました。子
ンポリスがインデアンにはひどい態度なのはどうし
供を育てるのは大変でしたが、皆大学を出て看護婦
てかなあと思ったこともあったよ 。戦後夫はず‘っと
をしていたりで今の喜びは人より多いかもしれない
鉄道に勤めていました。家庭では子供たちにとても
ね。二世の夫もカナダ風の教育をうけているから家
気をつかってくれましたが、 二世と違 って日本で生
庭でもいばったりしないし、カナダに来てよかった
まれた男の人は日本スタイルのままでした。子供た
と今は思うています。 (文責 :工藤早弓)
ちが、ママはパパの 言うことそんなに聞かんでもえ
えのに、とよく 言 うてました 。 けれど日本風にお父
聞き取り対象者藤原ふみ
さんを大切にする風習はうちの子供たちにも伝わっ
1
9
1
8
年カナダ生まれ
9
1
8年カナ夕、生まれです。父は滋賀県彦板簸
私は 1
ていますよ 。(文 U:工藤早弓)
中の中村家の出身で、増田家へ養子に入った人でし
聞き取り対象者堀愛子
た。私が生まれる こ、三年前に呼び寄せでカナダに
1
9
1
6年 パ ン ク ー パ 一 生 ま れ
私は BC州パンクーパーで 1
9
1
6年に生まれました 。
来たんやと思います。材木商をしていました。父と
68 ・人間文化
進取と望郷 ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
くつかあった。
私が高校生あるいは大学生ぐらいの頃、カナダか
ら手紙が来たことがある 。相手はおそらく祖父 「
平
カルガリー滋賀県人会の方々と
両親は 1
9
0
0
年ころカナダに来たと聞いています。父
はプリンスルパーで漁師をしたり山で働いたりして
次郎」であったろうが、内容は殆ど記憶がない。母
は何らかの返事を書 き、宛名だけ私が代筆した。そ
のたびに母から過去の話を聞いた。
要するに 「
平次郎」はすでに渡加していた父親の
「
平三郎」 を頼 ってカナダに渡る 。多くの人が親戚
いました。
夜
、
は1
9
3
8年ころはドレスメーカーとしてパンク ー
バーで{動いていました。戦争が始まったのでキャロ
ナーへ帰りました。そこでカナダ生まれの日本人と
や知人を頼 ってカナダ 出稼ぎに出かけていた、 当時
りでは、当たり前の風景であった。
の開出今 H
ここから大 1日な推測になるのだが一一
結婚しました。そうして三年くらいハミルトンに住
「
平次郎」は
、 一旦、開出今町の 「
西崎とめ」 と
みました。それからカルガリ ーへ引越し、夫と 二人
結婚するため帰国する。 自転車もないその 当時、高
で雑貨庖を経営しました。コーア ップ という庖です。
価なバイクを釆り回し結構ハイカラであ ったと聞
私自身はそのほかにドライクリーニングの仕事を 1
7
く。大正 4年に 「
平助」 を、大正 1
0年に 「いと 」 を
年間やりました 。私は 7人の兄弟がいて今はトロン
授かり、再び単身で i
度加する 。田園を維持するため
トやプランプトンに住んで、います。私たちの子供は
か、とめが嫌がったのか、数年で帰国するつもりだ
女の子が一人で、デンバーに暮らしています。です
度加した年も不
ったのか単身の理由は不明であり、 i
から今は夫と 二人暮らしです。(文責:工藤早弓 )
明械である 。「平次郎」 はカナダに渡ってすぐ、広
回カナダ移民の現地調査を終えて
途絶えた 。
島県出身の久勺性と再び結婚し 、殆ど仕送りも連絡も
松林利和
仕送りをあてにしていた開 出今の家族は困窮に陥
る。開出 今では 5反ほどの田園を耕作し、何とか最
旅の前に
私にとっての 「
祖父」 と言えば、母方の祖父 「巳
低限の生活は出来る程度であったが、田植え等の農
之助じいさん」が全てである 。同年の従兄弟がいて、
作業はいつも親戚などの助けが必要で、かなり 肩身
開出今在住とあって、殆ど同居気分の気楽さで、遊
の狭い思いであ った。
び、あちこち連れて行ってもらった。花札を教えて
5才前後の頃、[平次郎jが広島の
父 「
平助 Jが1
もらったのも巳の助じいさんであり、この花札で遊
女性を連れて帰国した。広島に戻る途中、母 「
みよ 」
ぶとき、ど真剣の顔になったのを妙に覚えている 。
に彦根駅に来いという電報に、親族会議で逢わせな
後で母から聞いたの だが
、 「じいさんのあのばく
いこととしたそうだ。嫁「 とめ」に対する配慮の結
ちのせいで結局一銭も残らんかった 。他の人はみん
果
だ
‘ った。 しかし 「
平助 Jだけは一人で、新しい背
ないい家立てたのに 。Jといつも憎く憎くしげに愚
広を 着て広島 まで逢いに行った。 これが 「
平助」が
痴っていた。でも、子供の私には巳の助じいさんは
父 「
平次郎」 と逢 った最後の時となる 。
物わかりのいい大事な友達であり、時々シ ッダウン、
その後、カナダを訪ねた人や、帰国した人から
スタンダップの英語を話す、田舎の村では結構新し
「
平次郎」の耐を耳にしたが、確かなことは、 「
平次
い風を感じる人でもあった。その巳の助じいさんも
郎」は再び再婚をしたこと、併せて数人の子供が居
カナダからの帰国者である 。母もパンク ーパーで生
ること、
まれ、 2、 3才の頃に帰国して、開出今の家を見て、
人ホ ームに居ること程度で、結局 「平次郎j の経歴
「マイハウスじゃない」 と諮った逸話をいつまでも
は殆ど空白の状態であった 。
面白そうに話していた。
子供の頃の私にとって 、カナダ移民とはせいぜい
この程度のことしか記憶にない。
父方の祖父は私には存在しなかった。いわば父の
トロント近郊のニッポ ニアハウスという老
この「平次郎」が私の前に大 きな存在となったの
は、今から 1
5、 6年前のことである 。突然、カナダ
から、手紙が来た。誤った漢字使用とカタカナが自
に付 く、たどたどしい日本語の手紙であ った。差 出
父としての意識しかないが、記憶を探ってみるとそ
人は 「
松林脱 (
あきら )Jとある 。病気をして永く
の 「
父の父」がカナダに居たことによる関わりはい
ないと悟った 「
平次郎Jから、始めて彦根に息子が
人間文化 ・
6
9
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告
居ることを知らされた、といった内容の 、 「平助」
の弟になる人物からである 。
この「暁」は、
いていた、まさしく その通り の街に変貌していた。
過去の観察者で な く、古 びた建物や路地、壁など
トロン ト郊外に住み、リタイアの
身で地域の日本人会の世話役をしているという 。東
京の板橋区との交流の窓口役でもあり、その後、日
本を訪れ、我が家にも立ち寄り、それなりの新たな
つき合いが始まっている 。
の現体験感覚のと ころに、突然オ ー ドリ ー小林から
声をかけられた。
「
松林さん ここがパウエル通り 30
1番地ですよ 。J
「ここに北川商庖があって 、その一 角で宝石の扱
いを任されていたらしい」
991
年百才で没する 。
結局、 「
平次郎Jは1
ここまでが、今回の研究会出発までの私のカナダ
移民に対する意識の底辺である 。
とオ ー ドリーの説明は続く 。
そこは、食料品庖の駐車場となっており 、30台ぐ
らいの車が止めら れる大きさで、手前に濃い黒色の
倉庫のような建物が強烈な日差 しのなかに件んでい
旅の途中に
た。木立が数本駐車場の端に植えられており、前面
7月 1
9日ナショナル日系へリテ ー ジセンターでオ
にパウエル通り、西側も道に接している 。瞬間、静
ー ドリー小林先生の講演が行われた。 1940年頃のカ
寂を感じる 。記念に記録写真を撮ろうとするが、都
ナダ国の移民記録等の資料をデータベース化された
合の悪いことに数分前からカメラの電池が切れて、
もので、いとも簡単に 「平次郎 J 平三郎Jのデー
やむを待ず、亀田先生にその場所に立つ私を写して
タを探し出した 。二 人はパウエル通り 301を住居と
もらった。
r
少な感覚を覚えた。
そのとき若手 d
していた。
その 11 の午後、パンクーパーの r~1 心街から東郊外
に位置する日本人街を探索した。あるいはパウエル
r
日本では殆ど軌跡の見えない「平次郎 J 平三郎J
が、この地ではしっかりとその足跡を残していた 。
街、リトル東京とも H
芋ばれた 一角であり、 1877年の
人並みの仕事に就き、日々必死に生きていた。その
最初の円系移民から 1942年の強制移動の l~fJ ~台まで、
息吹がまるで今もそこに残されているような感覚で
ほとんどの日系人がこの通りからカナダの生活を始
ある 。
めた、とある記事に書いてあった。 日系人の聖地と
もいえる街である 。
0
0人ほどの日系人
ここに、製材所を中心とした 5
コロニーがあり、必要なことはこのコロニーですべ
オードリー小林による日本人街探索はその象徴で
て賄えた。西海岸に住む2
2
.
0
0
0人の日系人の中心と
あるオッペンハイマ一公園の東側にある仏教寺院か
なり、仲間がいて、お互い寂しい物同士堅い述携で
ら始まった。
結ばれいて、 「平次郎」 は意外と楽しい日々を送 っ
2、 3日前から、本格的な夏となったパンクーパ
ていたのではなかろうか。 日々現金が動き、災害や
ーの日 差 しは、紫外線を特に感じさせるほど強烈で、
天候に左右され 1年に 1度の米の収穫を待つ日本の
あるが、日陰はすこぶる涼しく、さわやかである 。
田舎暮らしとはとても比較にできないほど、この地
海の気配もすぐそこに感じ、景色も 気候も 申し分な
は大きな夢の広がる地だったのだろう 。
い最も素 1占らしい季節である 。
その日本人街は、 1980年代までは
u
本の食料品等
坂道を下ると海辺に製材所がある 。 こざっぱりし
たJj~を新た仲間違が声を掛け合い、慈しみあい、か
を売る j
苫が営業していたそうだが、今は当時のまま
ばい合いながら、労働にいそしんでいる、そんな当
の商庖や建物、看板や小屋が残存するものの、日本
時のこの街の風景が浮かんで、きた。
人の原点、賑やかで、貧しいながらも活気に満ちた
7月2
1日(
月) ブリティッシュ ・コロンピア大学の
生活をしていたとは、とても想像できないほど、う
セントラル図書館でカナダ移民の資料の説明を聞き、
らぶれた荒んだ雰囲気がある 。数人のアジア系の人
昼食後、アジア図書館に移動したときのことである 。
物が胡散臭そうに座りながら、眺めている 。町工場
今井さんから、「先ほどの資 料 の中の新 l~iJ
r
大陸
のイ土事の手を休めこちらを凝視する人述。足下がふ
日報 Jに松林平次郎さんの宣伝があったよ」と打ち
らついている歩行者。
明けられた 。写したデジカメの画像を見ると、 『
松
「こんなところにいたんだろうか」と唖然とする 。
苫、松林平次郎、パウエル通り 30l
J とある 。
林時計j
正直 言っ て声が無くなった 。県人会の人が 「
麻薬、
i
・状のよ
いかにも大正期のように、縦書きで周りに f
売春、浮浪者のたまり場でバンクーパーの恥 j とI
嘆
うな僕様のある広告だ。時計庖だ、ったのかと驚くと
70 ・人間文化
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
ともに、頑張っていた んだ なと肩をたたきたくなる
ような親近感を覚えた。 時計)
;!5を主にしながら宝石
も扱っていたのだろう。宝石を扱うよりは何か現実
味がある ような気がする。
の説明をするガイドの話で ある
。
従って 、数年前に出来たその陸橋を 通る動物はま
だ見かけたことがないという 。
人類の移動の発端は天候や災筈などの自然的要
7月2
3日同 カル ガリー の日系 人会寿会のメンバ
因、戦争などの人為的な要 因など、様々な ことが考
ーの方との聞き取りの 時のことである 。松林時計庖
えられるが、 │
掲出今U
I
Jにお けるカナダ移民は要する
のことを知っている人があれば教えて下さい、と自
に金儲けであった ことは確かである 。
己紹介をすれば、移民 2世の85才の場秀夫さんが見
今回、パンク ーパ一、カ ルガリー でカナダ移民の
たことがあると話をしてくれた。 5軒ほど並んで、 l
時
2世 ・3世の人々と会った 。 カナダで生まれでも、
計庖があり、主に時計の修理をしていた。小さい);!5
日本教育のため、あるいは戦争のため一度は日本の
でどれもそんなに流行っていなかったそうだ。幼か
生活を経験した人身であり、いわば日本人の血がカ
ったせいで、それ以上は記憶が無いという 。
ナダ人として同化されていく過渡期の人々との交流
しかし大きな収穫である 。
であった 。そういう意味では二つの国をまたぐ得意
私には 「
平次郎」は父の父という位置づけであっ
な文化思考を持ち続けている 一集団でもある 。
て、祖父は存在しないのが私の常識であった 。
彼らは、選ばれた裕福者であり、屈託のない笑顔
01
番地をこの足で踏
ところが今回パウエル通り 3
の持ち主でもあり、大きな花を咲かせている 。 カナ
み、彼の行動の証である新 聞広告を確認し、さらに
ダにおける 1系人の異邦人としての違和感が、 2世
、
第 3者の目撃談も直に 聞 くことができた。運がいい
3
1止と年の経過とともに、カナダ風民の中に同化さ
のか、それともそれだけ彼が幅広く活践していたの
れようとしている 。
か不明だが、期待以上の成果であった。
平次郎はここで働いていた。おそらく精一杯働い
寺が必要だ。
人類の認知もまさしく 3代の H
彼らは 一様に日本は好きだが、日本の生活は良く
ていた。夢があるとはいえ、故郷から遥か離れて、
ないと 言 う。 カナダという大きな国の文化は小さな
排日の激しい異国で、さらに戦争時日本に帰る選択
品凶の日本を飲み込んでしまうほどおおらかで、合
肢もなく、財産没収の憂き日にあい、そういった荒
J
II1的である 。
波の環境のこの地で新たな家庭を築きあげた。かな
悠前」の使い分けをする狭小な精神は
「本音 JI
0
0%
りの努力だったと想像する 。 しかし必ずしも 1
この大陸文化を経験した人から見ればとても受け入
の幸福で、はなかった 。いつもどこかに俄悔の気持ち
れられない文化だと非灘する。
を持っていたはずだ。そういった悔恨が彼を 1
0
0歳
また、この旅行中、行き日本人をよく見た。留学
まで生かせる原動力となり、「私たちにとってはい
生や観光客もいるが、観光客相手に仕事をする円本
い父でした 。j と「眺」からの手紙にあるように子
0
0
0人のう
人がとりわけ多い。特にバンフでは住民 8
供達により強い愛情を注いだのではないか。
当時、日本とバンク ーパーは 1と月の船旅である 。
ち8
00人が日本人という 。今の季節だと千人は越す
そうだ。そのうち何割かはカナダに帰化、市民権を
旅立ちの時は故郷を捨てるような決死の覚悟が必要
得ょうとする 。そうい った彼らは実に誇らしげだ。
だった。 この遥かな距離が このような不幸な家庭を
彼らは、 一つにはその風試に魅了されたのだろうが。
生んだ側面であるかも知れないが、しかし、過去の
そればかりでなく、カナダの社会、特に基本的には
JL
で触れる
経過はともかくとして、直接彼の経歴を I
例人のことは個人の責任で行う市民生活の合理性に
ことにより肉親であったという親密さがわずかで、は
共感を得たのだ。
あるが芽生えてきたような気がする 。「平次郎」 の
裏返せば日本批判である 。微に入り、細に入り規
我が子 「
平助jに逢い たいという一念がこのような
l
tのない日本。住
制や規則で事細かく決めていく自 r
偶然を演出したと思うのは考えすぎだろうか。
みにくい日本。それは今に始 まったことではないが、
英語力が進むとともにこのような H本離れが加速度
旅の後に
『自然林に人工物を造るとそれを動物たちが認め
的に増えていくと思える 。
るのに 三代の時が必要だ。』
気ある若者は国を捨てる 。文化の交流、血の交流が
バンフ国立公園内の道を横断をする動物専用陸橋
これは新たなカナダ移民である 。いつの時代も勇
為されていく 。 こういった歴史はいつも繰り返され
1
人間文化・ 7
進取と望郷ーカナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告ー
るものであり、平次郎の足跡は、今までこの地球で
1
9
1
2年 4月25日にビクトリアのメソテイスト教会
行われてきた同じような交流の一つの情景に過ぎな
91
4年
で松林節子 (
セツコ ・マツバヤシ)と結婚し、 1
いのではないかと感じたりする 。
3月29日にヒロシが生まれた。 1
9
1
4
年に佐太郎 (
サタ
とはいえ、パウエル街の日本人学校にあった日本
ロウ)の継母が病気し、節子 (
セツコ )とヒロシは多く
語新聞 「カナダ・ジャーナル」には日系人野球チー
の義兄弟の面倒を見るために日本に渡った。第一次
ム「朝日 」はリトル東京から産声を上げ、ユニーク
世界大戦の問、太平洋を渡る船が少なか ったため 4
な戦略でパンクーパーの最も人気のある野球チーム
年間佐太郎 (
サタロウ )は家族と別れていた。 1
91
4年
に選ばれたといった記事が掲載されてあり、また帰
1
0月24日に佐太郎 (
サタロウ )はカ ナダ国籍を取得し
fvA
た。パンフ ・スプリングズ・ホテルとウイニペッグ
国の飛行機の中で手にしたウイークリ一新聞
NJの記事に、もうすぐ、今年もパウエル祭が行わ
のロヤル ・アレックザンドラ・ホテルで働いた。
れる、その中のパウエル街探索ツアーこそがパウエ
ベルマンとして働きつづけるにはあまり将来性が
ル祭の「魂」に直接触れることができるとある 。や
ないと感じ、佐太郎(サタロウ )は千葉 (
チパ)氏とい
はり、現在の日系人を語るにも、パウエル街無くし
う人物と共に農業を始めるように説得した 。 1
917年
ては認れない。
1
2月 4日にブリティッシュ・コロンビア 州のミッシ
パウエル街はあくまで日系人の原点の象徴として
ヨンで 1
5エーカル(6ヘクタール)の毒類用の土地を
位置づけられており、人々の心の礎となっているこ
買って 、そ のうち 5エーカル (2ヘクタ ール)を開拓
とをこの目、この耳、この足で実感した移民研究の
した。千葉 (
チノ¥)氏は農業があまり気に入らなかっ
旅であった。 (松林平I
j
和)
たため、佐太郎(サタロウ )は一人でベリー・フ ァー
国 日系イメージ ーカルガリー出身の息子、
桑原トムによる小売商人の父 、桑原佐太郎
(
1
8
8
6・1
9
5
3
) の伝記(カナダ日系博物館の紀
要)ーの翻訳
人の息子が生まれた。 ミッションに住んで、いた他の
ムを営んでいた。 この農場でトムとミツオという 二
日系人よりも英語が話せたため、代わりに多くの商
談に参加し、通訳を務めた。
日本の商品を輸入する会社の経営者西尾一平 (
イ
1
886年 1
1月 1
9日に桑原佐太郎 (
サタロウ ・クワハ
ツペイ ・ニシオ)は佐太郎 (
サタロウ )の友人となり、
ラ)は滋賀県彦棋市で生まれた。若い頃のことはあま
カナダ西部の州へ商品を売りに行くように佐太郎
り知られていないが、英語を少し学校で勉強し、カ
(
サタロウ )に勧めた 。農業のオフ・シ ーズンに佐太
ナダで稼ぐことについて大変興味を持った。キリス
郎(
サタロウ )は販売員 となった。旅しているうちに、
ト教について学び、メソディスト教の信者にな った。
佐太郎 (
サタロウ)は日本とカナダとの貿易の将来を
18歳で父の留次郎 (トメジロウ )にカナダに渡 っ
感じた。先ず、自分の庖を持ちたいと考え色々な場
て、通訳者になる決心を伝えた。佐太郎(サタロウ )
所を調べた。 ょうやく、いつも泊まっていたカルガ
は 7人兄弟の長男だったので、留次郎 (トメジロウ )
リーの宿の向かいに良い場所を見つけた。
は多いに悩んだが、最終的には諦めて、息子が英和
の通訳者になれるように願った 。
カナダに渡る船中で佐太郎(サタロウ )は自分の英
友人の二人北川げんぞう (
ゲンゾウ・キタガワ )
氏、井上しげじろう (
シゲジロウ・イノウエ)氏と共
に 「ニ ッポン ・バザール」 という会社を開き、西尾
語を試したが、船員たちと話しでも残念ながら理解
(
ニシオ )氏が発送する商品を売った。 クリスマス前
することもさせることもできなかった。
の 1ヶ月だけ営業する計画だったがあ まりにも利益
そのため、カナダに着いてからは英認が上達する
があったため、続けて小売会社を経営することにし
まで、下働きしかできなかった。 1908年に一流ホテ
た。佐太郎 (
サタロウ )はミッションの農場を斎藤
ル 「ホテルパンクーパー Jでエレベーターボーイに
(
サイトウ )氏に売却した。 1923年に家族とカルガリ
なり、すぐにヘッドベルマンとな った 。 この役職の
ーに移 って 、庖の近くに家を借りた。 ここでもう 3
閥、彼はパンフ、レ ーク ・ルイーズ、ウィニペ ッグ
、
人の子供、ケン、グレース、デイ ツクが生まれた。
カルガリ ーで他の日系人にも仕事を与えた。 1
2年間
最初は西尾(ニシオ)氏は玩具、小物、ネ ック レス
CPR)に勤め、合間に英語を
カナダ太平洋鉄道会社 (
のような小さい商品を送っていたが、顧客からシル
勉強し、二、 三l肝家を建て、後に妻となる松林節子
夕、レ ーヨ ン、綿のような商品のリクエストがあっ
(
セツコ ・マツバヤシ )と
まn
り合 った。
た。 このような商品を扱う数が大変多くなり、対応
72 ・人間文化
進取と望郷 ーカ ナダ移民滋賀県人会の聞き取り調査報告一
するために 「オリエンタル輸入会社」 という卸売会
た。 カレン ・テ イナという婦人既製服を 売る庖を設
社を開いた 。葬儀会社にレーヨン錦が棺の裏地とし
;5を聞いた 。
立し、多くの支 J
て大量に売られた。安価で様々な色 の綿クレープは、
佐太郎 (
サタロウ )は自分が大変恵まれていると感
多くの卸売業者に売られた 。 ウィニペ ックザへ特急列
じ、他の人の役に 立 ちたいと考えた。 カルガリ ー に
車で絹糸を送り、シルク・ストッキングに製作した 。
円本人が来る度に駅で出迎えて、見知らぬ人であ っ
「ニッポン・バザール」 は絹糸製作 には関わ ってい
ても歓迎 し、接待していた 。 日系人社 会団体の会長
なかったが、シルクのス トッキ ングを大量に顧客に
となり、強制移動されていた日系人の援助をした 。
販売した 。
この団体で生協を聞き、手に入りづらい食料を補給
1932年に 「日本シルク商品有限会社Jと会社名を
した。 ゴルフに興味を持ち、アルパータ ー州日系ゴ
改名し、ウ ール ウォ ース社に而し 、ベイ 百貨!古から
ルフ協 会 を設立し、多くの年次トーナメントのスポ
半ブ ロ ックのところにあっ た8250フ ィート (
2
51
5平
ンサーとなった。
方メ ートル ) のビルに移った 。 28人の従業員が勤務
戦争は佐太郎 (
サタロウ )やその頃に暮らしていた
し、 カルガリーでシルク ・スト yキングと織物の商
人にと って大惨事であ った。 当時、 F
I本に住んでい
品販売のリ ー ダーと 認められた 。
1935年 3月 3日に北)11(キタガワ )氏経営の下にレ
た息、
子が徴集兵となり、サイパンで死んだことが分
か った。 父の留三郎 (トメサブロウ )が死んで、他の
ジャイナで新しい庖を 開き 、若林 徳次郎(トクジロ
親戚は絶望的な貧困生活をしていたと知 った。 1
950
ウ ・ワカパヤシ )氏が雇われた 。数年後、井上 (イノ
年 4月に佐太郎 (
サタロウ )が脳梗塞を起こし、医師
ウエ )氏と息子のフレッド氏がエドモントンで支庖
は数週間で死ぬと判断したが、
を開いた 。据えいぞうポッブ (
エイゾウ・ボブ ・ホ
1
953年 7月11Rにこの世を去った 。
3年間生きのび、
リ)氏が会社に加わった 。 日
力J
I関係悪化の中、 1939
佐太郎 (
サタロウ )が開始し、早年育てた会社は彼
年に佐太郎(
サタロウ)たちが「ホテルパンクーパー 」
が死んでから家族経営のもとで長年続いた。 1
9
58年
に面した庖を聞いた 。杉浦 三平 (
サンペイ・マツウ
5片にメデイシン ・ハ ッ トで支 J
苫を聞き、 1
9
7
1年 4
ラ)と松岡 二郎 (ジロウ ・マツオカ )は この 「日本シ
月にレスブリ ッジでまた支 j
苫を開いた。 ピー クの頃、
ルク ・ブリティ ッシュコ ロンビ ア有限会社」 という
カナダ西部の 6箇所にて 1
8支庖を経営し 、最高のロ
会社の新パ ートナーとな った。
ケーションで 5つの建物を所有し、 2
00人の従業員を
真珠湾の侵略が起こり、佐太郎 (
サタロウ )は努力
雇用し、年間平均五百万ドルを売り仁げた。佐太郎
して得た成果を全て失うのではないかと心配した 。
(
サタロウ )の成果はカルガリ ー市民に認められ、フ
彼はカナダと日本を結ぶ大きな貿易商社を築く 夢 を
オー ト ・カルガリ 一 時物館で特別展示が最近聞かれ
見ていた 。 日本語を学び、商品を購入するためにミ
た。
ツオという息子の 一 人を 日本に行かせた 。 日本でも
近江!恋史博物館、同志社大学教授の末永園紀氏は
このような貿易が拡大する こと を望んでおり、 1
936
カナダの桑原 (クワハラ )一家に日本の滋賀県にも桑
年1
1月25日に日本産業協会から勲章が与えられた 。
原佐太郎 (
サタロウ ・クワハラ )の成果を 語 る展示 が
1
9
4
1年 1
2月 7日に 「日本」 に関わる名前を全て除
あると伝えている 。 近江商人は何百年もの問 、 日本
名しなければならなかったので、絹の営業を強制す
でも っ と も 成 功 し た 企 業 家 と し て 知 ら れ て い る 。
るシルク ・オ・ ライナ という 会社名に改めた。 同時
1868年に明治維新後、近江が滋 賀県となってから、
に、日系人として庖を借りることはできたが、所有
カナダと日本の問で戦争から生まれた重大な問題が
することができなくなった 。 1946年 3月 6日にこの
あ ったにも関わらず、佐太郎 (
サタロウ )は近江の伝
制限が撤廃されたため、 1946年 7月 1
8日にレジャイ
統をカナダの草原地荷まで運び、息子たちと共に成
ナの庖を購入、 1
947年 1
0月2
0
F
Iに 3階建てのカルガ
功したのである 。
リ一応も購入した 。
(
税j
f
'
R:クリスティーナ ・ラフイン、補 i
'
.
R:田沢幸江)
スト ッキング以外のシルク織物商売を減らし、婦
[後記]
人既製服に専念した 。数週間毎にウイニペ ツグのタ
これは 滋賀県立大学 を巾心 とする科 学研究補助 金
ン・ジ‘ェ ー というカナダ最大のスポーツウェア製品
基盤研究 (
A)(2)(
諜短番号 14201034)による近江街
会社からトラックて、商 品が届 いた 。 こうして彼らは
人の総合研究 (
代表:脇田晴子)の 一環として行った
カナダ西部のタン ・ジ
‘
ェ ー製品 の最大卸業者にな っ
ものである 。
人間文化・
7
3
滋
│l
翼
│
県
│
の
│
考
│
貫
│
宇1
9
.J
ad 厳賀県の製鉄道跡調査のJ
J
l
枕と課題
財滋賀県文化財保護協会主任技師
1.古代近江の製鉄史料
大
道
和 人
の可能性のある漢人を想定した こと、等にまとめる
近江国の製鉄に関する史料は、 『
続日本紀』大宝
ことができる 。 これら一連の調査は日本における製
3年 (
7
0
3) 9月辛卯条 I
!
J
易四品志紀親王近江国鉄
鉄遺構に対する本格的発掘・ 研究の第一歩と位置付
穴
」
、 『
続日本紀j天平 1
4年 (
7
4
2)1
2月戊子条 「令
けられており、この調査で得られた知見を基礎に、
近江国司禁断有勢之家専貧鉄穴貧賎之民不得採用 j、
その後の滋賀県の製鉄研究は進んでいく 。
『
続日本紀j天平宝字 6年 (
7
6
2
) 2月甲戊条「賜大
師藤原恵美朝臣 押勝近江国浅井 高嶋二郡鉄穴各一
3
. 1986
年までの調査歴・研究史
処 Jの 3点で ある 。 これらの史料には製鉄の経営の
1
9
8
7年 1
1月、広島大学文学部を会場として、たた
相違がでており、これを掌理すると、 (
1)政府、 (
2)
皇
0周年記念として「日本古代の鉄生産」を
ら研究会 3
3)
J'U
、
英
. (
4)
有勢の家 、(
5)
貧賎の民 ということに
族
、 (
テーマとするシンポジウムが開催された 。 その│祭、
なる 。なお、直接的に近江の製鉄に │
刻する史料では
滋賀県教育委員会の丸山竜平氏が滋賀県を中 心に近
ないが、 『日本書紀』の天智天皇 9年に「是歳造水
畿地方の製鉄遺跡調査・研究の現状について発表し
i
i
f
t而冶鉄」 とあるのも、当時の都が大津宮であった
た。その中で、 1
9
8
6年までの滋賀県下の製鉄遺跡の
と推定されるところから 、近江の製鉄に関する記録
調査・研究を学史的に以下の 4期に段階設定を行っ
であった可能性が高い。
ている 。
古代近江の製鉄史料はその経営や??対の推移をう
第 1J
明(
1
9
4
3-1
9
6
1年)は、樋口清之氏による伊
かがうことのできるものとして他に例がなく、その
吹山山総での分布調査により、滋賀県下に製鉄遺跡、
ため 8世紀の近江国の製鉄を考古学的に把握できる
が存在する可能性が出てきた段階。第 2期 (1970-
ならば、文献資料を欠く大部分の製鉄遺跡にたいし
在、千
1
9
7
4年)は先に 述べた北牧野製鉄遺跡群の調:
ても手がかりをあたえることが予想されるのであ
Ib,jl~ 氏・ ÆJ )J;(秀雄氏のよる逢坂山製鉄遺跡群の分
歳見J
る。
布調査。滋賀県教育委員会による湖西・湖南を中心
とする分布調資が実施され、県下の製鉄追跡;が発見
2
. 北牧野製鉄 A遺跡の発掘調査
近江の製鉄そのものへの関心と、それを通じて他
され、「遺跡、日銀」にも 掲載されるようにな った段
1
9
7
7-1
9
8
2年)は
、 1
9
7
7年に大津市源
階。第 3期 (
9
6
0年代後
地域の製鉄との比較の出発点を玄関し、 1
内峠遺跡、 1
9
7
9・1
9
8
0年に草津市野路小野山遺跡の
半に同志社大学考古学研究室の森浩一氏により、滋
調査が実施され、 製鉄遺跡、が開発により発掘され始
町北牧野製鉄 A追跡の党 t
k
t
i調査と
賀県高島郡マキノ l
める段階。第 4i~j (
1983-1986
年)は、 1
9
8
4・1
9
8
5
周辺地域での製鉄遺跡・古墳群などの分布調査が実
年に木之本町古橋追跡、 1
9
8
5年に大津市源内 111宇遺跡、
9
6
7
{
1
三1
0月・l1}
J、 1
9
6
8年 7
施された。分布調査は 1
1
9
8
7年に大津市南郷遺跡が発掘調査され、製鉄炉の
月・ 8月
、 1
9
6
9年 4月に実施し、牧野製鉄遺跡群に
構造が具体的に判 I
V
iしはじめ、また製鉄関連造物の
f
E定されるところ l
おいて製鉄遺跡 6ヵ所、鉄火と t
自然科学的分析も導入されてきた段階。
ヵ所 、凶浅井製鉄遺跡群において製鉄遺跡 7ヵ所、
以上が、丸山氏が 1
9
8
7年に行った滋賀県下の製鉄
鉱石採取場かと推定されるところ lヵ所、北牧野製
遺跡の調査 ・研究を学史的に段階分けしたものであ
鉄遺跡付近の大規模な群集墳を 2ヵ所確認した。 ま
る。
た、北牧野製鉄 A遺跡の発掘調査は、 1
9
6
8年 8月に
実施された。
4.1987
年以降の研究史・調査歴
これら発掘調査 ・分布調査の結果を要約すると、
2
0
0
3年 1
0月、滋賀県立大学交流センタ ーを会場と
①I
L¥土した 土器によって操業年代が 8世紀であるこ
と
、 ②断面 U字形の長方形の土坑を製鉄炉の一部と
して、 日本考古学協 会 2003年度大 会 が 開催され、
『渡来人の受符と生産組織』 をテーマとするシンポ
していること、③滋賀県北西部の製鉄遺跡が急流の
ジウムが行われた 。その際、草津市教育委員会の藤
川に近接していることが多く、 r
l
i本詐紀j天智天
居朗氏が県内の発掘調査を実施した製鉄遺跡、につい
是歳造水碓而冶鉄」 とは│羽連性がありそう
皇 4年 「
て概要を述べ、近江の製鉄遺跡の特徴を指摘してい
であること、 ④鉄鉱石(磁鉄鉱)を原料としている
2ヵ所の製鉄遺跡の発螺調
る。藤居氏の報告では、 1
こと、 ⑤高島郡の製鉄に角氏が関与していた可能性
査結果が報告されている 。 このうち、先の丸山氏の
があること、⑥在地の人々に外来系手工業者の末喬
9
8
7年以降に発掘調査が笑施さ
論考以降、すなわち 1
74 ・人間文化
0
1
│
滋│
賀│
県│
の│
考│
盲│
学1
れた事例としては、草津市木瓜原遺跡 (1991-1
9
9
3
年)、大津市平津池ノ下遺跡(19
9
4・1
9
9
8・2
0
0
0・
2
0
0
1年)、大津市月輪南流遺跡、(19
9
5年)、大津市芋
谷南遺跡(19
9
6年)、彦根市キドラ遺跡(1996年
)
、
9
7・1
9
9
8年)、草津市野路小
大津市源内峠遺跡(19
2000年)、今津町.
東谷遺跡 (
20
0
1年)が
野山遺跡 (
ある 。
9
8
7年以降の製鉄遺跡の調査・研究に
以下では、 1
関して、藤居氏の報告で触れられていない点の中で、
特に重要と思われる調査成主~と今後の諜題について
私見を述べてみたい。
木瓜原遺跡
(8世紀前半)
報告書および藤居氏
の報告では、 1
4.5mx10.0mの盛上で、作られた長 )
j
形の基台を築き、その上面のすI
L
担而に和 )
1
三炉を設 i
'
i
I~
し、操業当初から操業最終 H
寺まで同じ製鉄炉を使 )
I
J
しているとしている 。 しかし、基台を構成する土や
その下からも製鉄 l
i
Y
I
述遺物が比較的まとまって出上
しており、特に製鉄炉の北阿部では顕著である点か
ら、検出された製鉄炉の下に史に古いl
時期の製鉄炉
が存在している可能性が高い。源内峠泣跡でも、製
鉄炉が場所を変え、矧 i
宰場を利
mし整地を行い、
.
.
'
1
-
4
層から上層へと操業を継続していく状泌がみてと
れ、木瓜j点遺跡でも製鉄炉の構築に I~祭し、同様の構
図1
築方法を採ったと考えられる 。
また、製鉄炉の長 ;
I
i
l
lに平行する位置で、ド面形長 )
j
形をなす浅い掘り込みを検出 し、踏みフイゴ型の送
風装置を;[、定している 。踏みフイゴによ る送風技術
は
、 7世紀後半の非鉄金属の溶解炉、
8I
l
t紀前半の
製鉄用半地下式竪形炉に共伴していることが判明し
ている 。 I
J
¥現期 の踏みフイゴは、大 11
径;
J
;
J仁1(
通胤
管) を一本用い、通風と排出 (
鋳造の場合は浴けた
汗することを特徴と
金属を流す)方向を直線的に配 i
する技術に1'
'
1
うものであった 。踏みフイゴを箱形か
に使用した事例は、福島県中"民・原 I
I
J地域の 8世紀
後半から 9世紀前、!
三
の ものにみられ、炉の小口側に
踏みフイゴが設置される 。木瓜 j
点遺跡のように製鉄
炉の長 !
I
i
l
lの両側に設 i
置される事例は、,1
'
代のものと
しては他に類例がなく、非常に特典な事例であると
言 えよう 。木瓜)京遺跡に │
浪らず、箱形;炉に具体的に
u
:が伴っていたのかについては現
どのような送風装 i
時点では解明されておらず、"本製鉄技術史を研究
する上で重要な課題となっている 。
平津池ノ下遺跡 (8世紀後半)
全問 l
I
9にも極め
て珍し L、2基直列型の箱形炉が検出されている 。 2
基の箱形炉の間にある 排浮坑は微地形的には尾根線
図 2 木瓜原遺跡製鉄炉
人間文化 ・
7
5
│
滋│飼県│
の
│
考│
吉
│
学1
0
1
u二位置すると考えられ、製鉄操業時の 主排 i
宰は
、
が予想された。保存及び調査期間の制約もあり、詳
2基の製鉄炉の間にある排浮坑とは反対側に行われ
な調査ができなかったことは非常に惜しまれる 。
細n
た可能性が高い。それぞれの箱形炉を単体として考
また、調査区北端、丘陵南斜而裾部では、 10-20
えるならば、斜而に対して直交して構築され、炉の
c
m大の黒色の角磯(脈石)が堆積する層を検出した。
長軸端部一方を 主排淳とする構造の箱形炉と捉える
ここからは角礁と問サイズから微細な鉄鉱石および
ことができる 。このような縦世きタイプの箱形炉は、
鉄鉱石粉が大量に出土した。鉄鉱石は原、機及び 1 -
県内て、は野路小野山遺跡、県外では北陸地方でみら
2而の剥離面 ・節四!面をもっ大型の分割礁の比率が
れ
、 8世紀中頃以降の箱形炉の系譜関係を検討する
極めて高い。 このような鉄鉱石の出土状況をする県
内の製鉄関連遺構は今のところ例がない。 さらに調
上でも重要な事例となろう 。
なお、平津池ノ下遺跡は多年度にわたり比較的広
査区から北に 15mほどの、丘陵商斜面に 9 mx 8 m
範囲に調査が実施されており、 7世紀後半の鍛冶炉
と12mX 7m の不自然な窪地が 2ヵ所存在してい
や、広範囲から鉄鉱石 (
原隊も含む)が出土してい
る。発掘調査および地表面観察の結果から、黒色タj
る。瀬田川に近く交通の要衝であり、製鉄のみなら
B
襲堆積層は、鉄鉱石の採掘時に、脈石や不純物の多
ず、鉄器生産 や、鉄素材・鉄原料の流通を考える上
い鉄鉱石が斜面に捨てられ堆積したもの、丘陵商斜
でも、重要な遺跡であると考えられる 。
面の不自然な窪地は鉄鉱石の採掘;場と推定される 。
月輪南流遺跡 (7世紀後半)
これら 一連の造怖は、口元日本紀』 にみえる「鉄穴」
鉄浮を多量に含む造
物包含層が確認されたが、明 M
l
iな製鉄関連遺構は検
の一種である可能性がある 。
出されていない。 しかし瀬田丘陵に展開する製鉄造一
なお、キドラ遺跡の南約 7.5kmに位置する多賀町
跡群の中でも i
1
i手の遺跡、になると推定され、また、
敏i
前寺遺跡では、 8位紀頃の横口式木炭窯が 2基検
近年鴎尾が出土した山ノ事jJ遺跡、にも近く、 今後周辺
出されている 。 8世紀以前の製鉄用木炭は横口式木
での調査が期待される 。
炭窯で生産されることが一般的であることから、敏
滋賀県では製鉄炉を 完掘
i
前寺逃跡およびその周辺に製鉄追跡が存在している
した調査は南郷遺跡と芋谷南遺跡の 2例のみであ
可能性は極めて高い。地質学的にみても米原町 ・彦
芋谷南遺跡 (7世紀末)
る。特に、芋谷南遺跡、は造存状況が良好であ ったた
被市 ・多賀町の名神高速道路沿い付近は鉄鉱石を産
め、製鉄炉の炉底および地下構造を全体的に把慢で
する可能性があり、分布調査の結果しだいでは、こ
きる事例は、県内では唯一の事例である 。
の地域に製鉄遺跡群が存在している可能性が高い。
炉の長刺!が斜面に対して平行して構築される、所
源内峠遺跡 (7世紀後半) 1
977年
、 1
985年に試掘調
訪横置きタイプと呼ばれるもので、炉底面下には、
査・硲認調査が行われているが、 1
9
9
7・1
9
9
8年に発
20-50cm大の石が敷き詰められており、石敷きの内
掘調査が実施され、筆者が調査を担当した。
部には、炭と砂質土が充填されている 。
調査の結果、時期の異なる製鉄炉を 4基検出した。
B
I際や脈石が多く含ま
製鉄炉の下部構造は、 ① チャート円礁を多く含む土
れており、鉄鉱石の産地が近くに存在している可能
層上に炉底粘土を貼る 4号製鉄炉、 ②約 1
5
c
m大のチ
出土した鉄銀石の中には、
ャート問機を敷きその上に炉底粘土 を貼る 3号製鉄
性が高い。
キドラ遺跡 (8世紀
1
9
9
6年最終処分場建設 に伴
炉
、 ③ 約lOc
m大のチャート円僚を敷きその上に炉底
い調査された。調査途中で、比較的大規模な製鉄造
粘土を貼る 2号製鉄炉、 ④ 船底状土坑を掘り、その
跡となることが判明したため、製鉄関連遺構の大部
中に木炭や木炭を含む砂質土を充填し、その上に炉
分を工事影響範囲から外し保護策を講ずることとな
底粘土 を貼る l号製鉄炉、と変遷していることが判
った。 したがって、製鉄炉と排浮場については一部
明した 。 しかし、炉底の規模は 4基とも、長さ 2
.
5
調査を実施したのみである 。
広い範囲に製鉄関連遺物を大量に含む造物包含層
が広がっていたが、その一間に大型の炉壁が集中し
て検出されている部分が存在する 。 これらの炉壁は
m前後、幅 0
.
2-0.3m程度と同規模の箱形炉で、炉
の構築方法は、長 i
l
i
hを等高線に対して平行して構築
した、所謂 「
横置き 」である 。
i
原内峠遺跡で検出されたような 「
横置き 」で、長制l
泣存状態が極めて良好で、検出状況からそれらの炉
が 2 m以上ある箱形炉は、滋賀県内では古橋逃跡、
壁が原位置で倒れているものと判断されたことか
南郷遺跡、芋谷南追跡、木瓜原遺跡で検出されてお
ら、非常に良好な状態で製鉄炉が遺存していること
り、古墳時代後期から律令期にかけて政治的中心地
76 ・人間文化
│
滋│賀│県│の│考│吉│
学1
0
1
写真 2 野路小野山遺跡 2号製鉄炉検出状況
写真 1 源内峠遺跡 4号製鉄炉
である畿内の周辺部に集中してその分布が認められ
検U
¥
:した製鉄炉の炉形に関しては、箱形炉とする
る。 また、北陸・関東・東北南部などの東日本で製
説と、近江で発達した方柱状ないし円筒状の自立炉
鉄が導入される 7世紀後半から 8世紀前半、最初に
であるとする説の三説が存在していたが、 2000
年に
採用される製鉄炉の炉形も 同様の箱形炉またはその
実施された 2号製鉄炉の確認調査の結果、箱形炉で
改良型である場合が多い。製鉄炉の炉形の系譜関係
あると判断されるに至った 。
からは、東日本の製鉄に おいて近江が強い影響力を
以前の調査で、 2号製鉄炉では原位置を保った状
幸義功氏は
態で炉底塊が検出されている こ とを、穴 I
持っていた こ とを窺い知ることができる 。
生成鉄や鉄種については、出土した鉄塊系造物の
1
984年の論考で指摘している 。 2000年の確認調査に
統計処理や金属学的分析をする ことによって検討し
おいても穴淳氏が指摘しているように炉底塊が検出
た。 その結果、生成鉄の単体は 5
0
.1~ 1
00.
0g程度、
されている 。炉底塊は炉底の両)
協の位置で帯状に薄
約 5cm大の不整形な鉄塊で 、それらを炉底塊や炉壁
く残留しており、中央部では生成した鉄塊を採取し
内から丁寧に割ることによって採集し、鉄素材を生
たためか残留していなかった 。類似した炉底塊の出
産する工程にまわされたのではないかとする結論に
土状況としては木瓜原遺跡製鉄炉内の「できかけの
至った 。生産鉄種は亜共析組織クラスから過共析組
炉内生成物 Jとする部分がそれに当たる 。
織クラスの鋼で、金属鉄に含有する炭素量は 0 . 02~
2%程度であったと推定さ れ る。
箱形炉の本体は操業後破壊されてしまうという基
本的属性をもっ。 そういった状況の中でも、炉底塊
しかし、製鉄実験の結呆を重視する立場の多く研
が炉底に残留するような状況で検出された場合は、
究 者 か ら は 、 少 な く と も 数 kgあ る 鉄 塊 が 生 産 さ れ
炉の規模や、送風間隔をはじめ、操業時の炉内状況
ていたはずだとする批判 が多い 。 1回の製鉄操業で
や、鉄の生成状態、を遺構と遺物の両方から検討する
の生産量や鉄種に対する議論は今後も盛んに行われ
ことができる事例となる 。
るこ とが望まれるが、製鉄遺跡の調査結果や、その
東谷遺跡 (7世紀後半
当時の鉄製品や鉄をめぐる 社 会状況を重視する視点
場の東辺を調査した 。 同時に 実施した磁気探査の結
は忘れてはならない 。
果から、
野路小野山遺跡 (7世紀後半. 8世紀中葉
1
979
~80年および 1983~84年に発掘調査が実施され、製
2
002年度の調査では排淳
f
J
F
i
宰場の範囲と製鉄炉の位置を推定した 。
土器類の出土は数点のみで、 何 れも細片で詳細な時
期決定は困難であった。 出土木炭の放射性炭素年代
鉄炉 10基などが検出されている 。 8世紀中葉に比定
測定値からは 7世紀後半を前後する年代を得ること
される 1~6 号炉は、東西方 向 に整然と並んだ状態
ができた 。 これまで銀塊と見られていた遺物は、鉄
で検出された 。 6基以上の製鉄炉が整然と並んで検
I
宰や鉄塊が凝結して 二次的に形成された酸化物の再
出された事例は古代のもとしては国内には類例が無
結合淳であることが判明した。
く、短期間における大規模生産を想定した計画性が
うかがえる 。 国庁より上位機関の経営による官営工
房である可能性が高い。
5
. おわりに
以仁、 1
987年以降に調査さ れた製鉄遺跡、について、
人間文化・ 7
7
│
滋│縄県│
の
│
考│
古│
学1
0
1
発掘調査の成果を検討しつつ、今後の諜題をいくつ
本考古学年報 4
9(
19
9
6年度版 )j 日本考古学協
か提示した。古代製鉄遺跡の研究は、分布調査 ・発
メ
〉
、
掘調査等の考古学的研究を基礎に、文献史学 ・冶金
学等多くの研究分野の共同作業であることを再認識
A
7
. 彦根市教育委員会 1
9
9
6r
キ トラ遺跡発掘調査現
地説明会資料』
r
する 。 1
9
8
7年以降の発掘調査を振り返ると、如何に
丸山竜平 1
9
9
6 キトラ遺跡の発見と意義』鳥居
多くの情報や新たな成果を生み、製鉄遺跡研究の礎
本の自然と文化 を考え・守る会
となっていることがわかる 。製鉄遺跡の調査は大規
模な調査となる場合が多く、単に製鉄技術の追求の
みならず、生産組織の実態、原料・燃料の搬入およ
び生産物の流通の実態にも追りうることのできる研
8.中村智孝ほか 2
0
04r
敏i
荷寺遺跡 』滋賀 県教育委
員会 ・例)
滋賀県文化財保護協会
9
. 丸山竜平 ・演 修 ・喜多貞裕 1
9
8
61
滋賀県下に
おける製鉄遺跡の諸問題 Jr
考古学雑誌』第 7
2
究対象である 。それととともに、滋賀県の製鉄研究
巻第 2号
を地域の立場から語ることは、畿内と東日本を結ぶ
大 道 和 人 ほ か 『 源 内 峠 遺 跡 1滋賀県教育委員
地理的環境から語ることでもあり、その研究は意味
会・日付)
滋賀県文化財保護協会
深い。滋賀県の製鉄遺跡の調査は、滋賀県はもとよ
日本考古学会
r
1
0
. 大橋信弥ほか 1
9
9
0 野路小野山遺跡発掘調査報
り日本の製鉄研究や古代史研究にとって重要な調査
告書 J滋賀県教育委員会・草津市教育委員会・
機会であったこと、調査担 当者はそうした立場にあ
側)滋賀県文化財保護協会
ることを強く意識すべきであることを痛感する 。
発掘調査は言うまでもなくそれ自身が破壊を伴
うO しかし、それに よって得られた成果は考古学研
究に大きく寄与していることも否定できない。鉄淳
や炉壁など製鉄関連遺物を多量に扱う分析視点や方
法は、製鉄研究にも有用なものであることは実証さ
れつつあ る。 この分析方法は出 土品をめぐる保管や
J
除居 朗 2
0
0
3r
野路小野山製鉄遺跡発掘調査報
告書 (
平成 1
2年度分)j 草津市教育委員会
1
1.穴 i
幸義功 1
9
8
41
製鉄遺跡、からみた鉄生産の展開」
『
季刊考古学 J第 8号 雄 山 閣
1
2
. 大道和人ほか 2
0
0
4r
東谷遺跡 J滋賀県教育委員
会 ・側滋賀 県文化財保護協会
1
3
. 富岡正美 2
0
0
01
古代近江の鉄生産 Jr
かしこう
活用問題にも 一石を投じるであろう 。 また、近年で
けん友史』第 5号
は、大学や行政内担当者以外の一般市民から滋賀県
友史会
奈良県立橿原考古学研究所
r
の製鉄遺跡に関する論考なども盛んに発表されてお
田部善一 2
0
0
31
近江の古代製鉄について J 北
り、一般市民を巻き込んだ製鉄遺跡の研究および遺
近江』創刊号
跡の活用などの取り組みも確立していく 必要があろ
つ。
-参考文献
1.森浩一編 1
9
7
11
滋賀県北牧野製鉄 A遺跡調査報
r
告 J 若狭・近江・讃iI皮・阿波における古代生
産遺跡の調査』同志社大学文学部文化学科
2
. 丸山竜平 1
9
9
11
各地域の製錬・鍛冶遺構と鉄研
究の現状
r
近畿地方 J 日本古代の鉄生産』六
興出版
3.藤居 朗 2
0
0
31
近江の渡来人と鉄生産 Jr
日本
0
0
3年度 滋 賀 大 会 研 究 発 表 資
考古学協会 2
料』 日本考古学協会
4
. 横田洋三 ・大道和人ほか 1
9
9
6r
木瓜原遺跡』滋
賀県教育委員会 ・側)
滋賀県文化財保護協会
5
. 大津市教育委員会 1
9
9
5r
平津池ノ下遺跡現地説
明会資料 1
6
. 青山
r
均1
9
9
81
滋賀県大津市芋谷南遺跡 J 日
78 ・人間文化
北近江古代史研究会
生活デザインの現窃から
回
木匠塾の試み
一木造文f
tの厚生 と循環l
1
2>
1のづぐりをめざ工て間文化学部生活文化学科生活デザイン専攻 山
今年度より、生活デザイン専攻では「生活デザイ
周
根
がら多くの学生が参加する活動となっている 2。
)
ン学外演習」という新たな科目を設けた。教員が学
滋賀県立大学は、有名な吉野杉の産地として知ら
生とともに学外で実施するプロジェクトやワ ークシ
れる奈良県川上村で 1998年に始まった川上村木匠塾
ョップなどのプログラムを積極的に単位として認め
に毎年参加してきた。岐阜の木匠塾に参加されてい
ることにより、学生の参加モチベーションを 高め、
た、現在岐阜県立森林文化アカデミー教授(当時は
実践的な教育の機会を増やすことを目的としたもの
大阪芸術大学講師)の三浮文子先生の│
呼び、かけで白台
である 。具体的なプログラムは各教員あるいは教員
められたもので、当大学からは環境科学部に在籍さ
グループにより個別に設定され、今年度は 3つのプ
れていた林、杉元両先生と 一緒にわたしも学生を伴
ログラムが実施された。そのひとつに木匠塾があ る。
って参加することになった 。実は私自身、学生時代
木匠塾は、デザインや建築を学ぶ学生を対象とし、
に高根村の木匠塾に参加 l
し、熱気にあふれた楽しい
製作活動や体験学習を通して、木という素材やその
活動を経験していたこともあり、誘いの話があった
生産現場の山や森について、広い視野に立って学ぶ
ときに、ぜひにと参加を決めたのである 。川上村木
ことを目的とした活動である 。生活デザイン専攻と
匠塾には、ほかにも大阪芸術大学、大阪工業大学、
環境科学部 ・環境建築デザイン専攻の学生が、過去
近畿大学、奈良女子大学、大阪デザイナー専門学校
5年間奈良県川上村をフィールドとした川上村木匠
とい った関西地区の大学、専門学校が参加し (
当初
塾に毎年参加し
は京都府立大学、大阪工業技術専門学校なども参
てきた。今年度
加)、大学の枠を越えた交流の場ともな っている 。
}
I
I
I
二村は、古事記や日本書紀に笠場する 「
井氷
はさらに、大学
ゐひか
Jj~
に近い滋賀県多
あさづをの
井光Jゃ 「
蛇蛤野 j がこの地に関連するのでは
賀町をフィ ール
ないかとする地名伝承があるなど、育野地方の一地
ドとした多賀木
域として古代より│刻かれた地であったようである 。
匠塾も新たに始
また中世には後南朝の舞台ともなり、悲運の皇子自
まり、より充実
天王、忠義王の点史が現在も語り継がれている 。
した活動内容と
なった J)。
有数の多雨地帯という自然条件から杉の育成に適
今回は木匠塾の
し、室 1汀時代末には早くも造林がおこなわれていた
林業の歴史も古く、水はけのよい土壌と日本でも
活動を紹介し、
という 。その後伏見城や大阪城をはじめとする畿内
これからの展開
材として吉野材が大量に伐出
の城郭その他の普前月 i
と可能性につい
されるようになり、近世を通じて大阪市場への建築
て考えてみた
用材や酒樽用材の供給地として、人工造林による林
、。
し
図1 J
I
I上村と多賀町
句、
やま
業が発展していく 。その過程で借地林制度 J' や山
出!
i
l
J
I度 け といった独特の制度が生まれ、また密植、
J
伐、長伐期 5)により本末同径 (
丸太の根本側
多
f
l
J
川上村木匠塾の歩みと活動
と木末側が同じ太さ )でまっすぐな、 1
=1の詰まった
木匠塾はそもそも、木造建築や木造住宅について
節のない優れた材を産出する造林技術が発達してい
学ぶ機会が非常に少ない大学の建築教育に問題意識
った。近代に入り全国的な造林ブームが起こる中で、
を持った関東の 三大学(芝浦工業大学、千葉大学、
吉野式造林法は全国各地の モデルとな り、川上村は
東洋大学)の研究室が、木造建築の素材である木に
吉野林業の代表的生産地として発展してきたという
ついて 、その生産や流通のプ ロセスも含めて現場の
歴史を持つ。
山林で実地に学ぶことを目 的 として、合同ゼミの形
その川上村を開催地とした木匠塾は、第 1回目
式て、始めた活動で、ある 。岐阜県前線村を開催地とし
(
1998) が井光地区、その後 2回目(1999) 以 降 5
て 1991年に始まった木匠塾は、その後年々参加大学
回目 (
2002) までは高原地区を、そして第 6回目と
が増え、開催地も岐阜県加子母村、秋田県角館町、
なる今年度は下多古地区を主なフィールドとしてお
山形県村山市、奈良県川上村
、 京都府美 山町と他地
こなわれてきた。
域へも広がり、各地で独自のプログラムを展開しな
活動の柱は夏休みを利用して 8月におこなわれる
人間文化 ・
7
9
生活デザインの現湯から
固
J君、
図2
一 …
腎九
川よ村木匠塾製作風景 (
2
0
0
1年度)
サマースクールである 。約 1週間現地で合計jをし、
6)
1
1
1
1
=
1
となる今年度は、過去 5五:
1
:1/1]の活動をふまえ、
製作活動や林業体験をおこなう 。製作活動は、村似)
1
より積極的に村の )
J々との交流を依│
る製作活動が校
と協議しながら毎年のテーマを決め、大学Jl
J
Iのミー
索され、下多古地 |文京 f象神社の布 l' 餓所の改築、 l~jJj~
テイングを屯ねながら、 1
1
1
)伐材丸太などを利)J)して
地区各所に設置するベンチの製作というプログラム
学生自ら設計、製作をおこなうプログラムである 。
が実施された。 各大学の神僕所の設計案を地元の万
1週間あまりという短いサマースクールの則問での
に審貸してもらうコンペをおこなったり、地元の大
完成を目指して、毎年学生たちは事前に数ヶ月間さ
工さんと 一緒に施」二に取り組むなど、住民の方々と
まざまな準備をしてサマースクールにのぞむ。 これ
の共同作業という活動のあり方が模索されつつあ
まで仮設的な組立式実験住民(1998.
1999)や山間
る。
の遊歩道沿いの展望休憩施設(1 999~200 l)、林道
沿い広場の休!日施設 (
2
0
0
2
) などを製作してきた 。
林業体験は、地元のベテラン林業家の指導を受け
ながら間伐、枝打ちなどの作業をおこなうもので、
全国の木匠塾の中でも、木の生産現場を実際に体験
できる数少ないユニ ー クなプログラムである。急峻
な山道を登り、 l
時には林業家の方に怒鳴られながら
(ヨキやチェーンソーを使うので集中していないと
ケガをする )丸一 1山林の中で作業する中で、木と
いう素材がどのような労力をかけて育てられている
かを、学生たちはいやでも実感させられるようであ
る。 また、自ら針を入れた木がメリメリと音を立て
て斜面に倒れる様チに驚き、伐ったすぐ後の樹皮が
l
師向いようにつるりと剥け、中から現れるみずみず
しいすべすべの木 )
)
J
Lに感動するなど、学生たちは製
1
1
1
1
!として製材された材木ではない、木の生の姿を林
業体験を通して感じ取っているようである 。
図3
川上村木匠塾製作物 (
2
0
0
2
年度)
川上村木匠塾ではこのほかにも、樹齢300年を越
える人工林や、木材市場、資料館などの見学もおこ
議諸訟
なっている 。 なかでも村が水 i
m
t
i
函養林として取得し
保存している 三之公地区に広がる天然林(匡│
指定天
然記念物のトガサワラ原生林がある)の見学では、
吉野川の源、流域に広がる太古からの紀伊山 地の自然
を知ることカ fできる 。
このように、ものづくりを入口として、さらに木
を育てる現場を体験する ことで、 循環する素材とし
ての木材について考え、また森林がもっ多くの環境
維持機能についても学べるのが川上村木匠塾の特色
である 。
図4
80 ・人間文化
川上村木匠塾製作風景 (
2
0
0
3年度)
生活デザインの硯場から
固
W:て、学生 たちは 主体的に現地見
とにな った。 その l
学や製作物に│却する学 内コンペをおこな い、サマー
jには詳細な実施図面を作成するなど、参
スクール, i
加 のモチベーションも高く、かなりのエネルギーを
かけて準備が進められた 。
9)
J上旬に開催したサマースクールでは、 1
'
1阿先
生や、同じく地元の建築士竹内 さんらの指導と協力
を得て、敷地の i
J
!
i
J
泣から基礎 コン クリ ー ト打ち、材
の墨付け、接合 i~11 のほぞ加工など、木 造構築物の基
本的な施[プロセスを実地に学びながら製作をおこ
'
j
f
やテレビにも取
なうことができた。 その様子 は新 b
) さらに 1
0月、 1
2月 にプチ木民主品
りあげられた 6。
と称しておこな った作業によって 、最終的に完成皮
の
!
士Jい遊 Hを作り上げる ことがで きた。
サマースクールでは、 1
01-1間の合宿のなかで生活
図 5 林業体験 (
J
川
上村木匠塾)
デザイン専攻、建築デザイン専攻の学生たちが学部
を越えて交流を深めることができ、相互にさまざま
な刺激をうえあ ったようである 。 これま でにない規
多賀木匠塾
多賀木匠塾は、昨年度川上村木匠塾に参加│
したメ
模で学部 I
l
i
j述銑のあり}]を実現できたことは多賀木
匠塾の大きな立義であると思う 。
ンバ ー らが、多賀 町在住の建築家で 当大学環境科学
疋塾で、は 、サマ ースクール以外にも、
また 多白木 l
部の非常勤講師も務めている中西先生たちと ←緒に
多賀大社万灯祭で参道を照ら す行 燈のデザインコン
おこなった間伐体験やものづくりの活動がき っかけ
したり (
優秀作に選ばれた作品 は、来年度
ペに参加l
となり、今年度新たに始められた活動である 。多賀
の万灯祭で参道を照らす ことにな っている )、祭り
町役場、大滝山林組合などの協力も待られ、初めて
当日には学生が運営して模擬広を出庖するなど、地
の実施ながら大変充実 した活動と なった。
7cの行事にも和極的に参加で、きた。 また i
M
J京地区の
昨年度からすでに間伐体験などへ学生が参加 lして
商工会の述合組織である 「
ねっと湖東」が主催する
きた こと もあり、 30 名以上の 学生が多 J~ 木匠塾へ参
地域おこ しセミナーや、特産 品開発事業に参加した
加し、川上村木匠塾同様こちらも 4月以降活発な議
りと、大学から近いという 地の利を生かして、様々
論を重ね、 地元 とも協議する 中で、向取 山ふれあい
な活動の中で地域の文化や産業を!よく知│
る機会にも
公図に丸太を使ったアス レチ ック遊具を製作する こ
忠まれた。
‘四申 J
会
長F
図 B 多賀木匠塾製作風景 (
2
0
0
3年度)
図 7 多賀木匠塾製作風景 (
2
0
0
3
年度)
人間文化・ 8
1
生活デザインの現場から
固
暗
黒g
その他の活動
う影響を与えているのか、等々、これまで設計やデ
今年度の木匠塾では、 中西先生のご尽力により家
ザインの前提となっていた部分にも目を向けて、学
具や建具の工房、住宅の建築現場の見学会をおこな
生一人一人が自らのスタンスを見つめる目を持つよ
うことができたほか、 2
0
0
3年 1
2月には、人間文化セ
うになってほしい。木匠塾がその 一つのき っかけ、
ミナーにおいて │
岐阜県立森林文化アカデミーの三浮
入口になればと考えている 。
文子先生を招き、地域産木材を使った住まいづくり
の講演会を実施するなど(本号 「
人間文化セ ミナ 一
地域における実践という点については、例えば川
上村では 、 1
9
5
9年の伊勢湾台風による大被害をきっ
報告」参照)、サマースクール以外にも広く木造建
0
0
2年に完成し 、村の
かけに計画された大滝ダムが2
築について学ぶ機会をもつことができた 。
景観や自然環境が大きく変わりつつある 。その中で
、紀ノ川流域の水源地という特性をふまえ、
吉野JlI
下流地域 との交流を積極的に図りながら、水源 1
函養
今後の展望
林としての森林環境の維持など森林との新たな共生
木匠塾の活動には、学生の教育と地域における実
のあり方を模索している 。また木材不況が続く中で、
践という二つの側面があると考えている 。それらを
林業の再生という大きな課題も抱えている O 建築や
うまく、より高いレベルで融合させていくことが、
デザインに関わる立場から、村の課題に対して何ら
今後の活動の大きな方向性となるだろう 。
かのアイデアや形あるものを提供す ることができな
教育面については、学内の演習では図面や模型上
いかと考えている 。まだまだ模索中の部分が多いが、
でしかイメ ー ジできない中で、実際のものに触れ、
現在、木匠塾の広報にも力を入れ、村内の住民との
製作、施工を体験することによって得られるものは
さらなる連携を図ることを推進中である 。一方多賀
大きい。製作作業を始めると、なかなか事前の設計
町では、現在間伐材の有効利用促進の取り組みがな
通りにいかないことも多い。学生たちは現場で木と
されており、ねっと湖東などの地域組織との連携に
格闘しながら素材の特性や加工方法を学んで、いく 。
より、 地域産業に木を生かしたものづくりを再興さ
そうした経験は必ずや学内での演習課題の取り組み
せるアイデアと方法を探るといった活動が木匠塾の
にもフ ィードパックされていくであろう 。
一つの方向性として考えられている 。
同時に、体験だけがすべてではなく、体験を通し
このように木匠塾は、地域の山や森林で学び、 一
て感じたことをき っかけとして、木造建築や住宅、
方で学生のアイデアとエネルギーをうまく 地域のた
森林環境を取り巻くさまざまな問題に目を向け、考
めに生かすというサイクルを試行錯誤の中で創り上
える視点を持ってほしいと思っている 。建築や住宅
げていくことを目標としている。そうした考えのも
を作る材料はどこから来てどこへ行くのか、現在当
と、人間文化学部 と環境科学部教員の共同プロジ、エ
たり前に使っている安い木材はどのようなシステム
クト 「
木造建築・木造文化の継承発展および木造文
のもとに調達され、それは地球環境にとってどうい
化を基盤とした地域再生をめざす総合的な研究・ 教
育・実践プログラムモデルの構築」の一端を担うプ
ログラムに木匠塾も位置づけられている 。新たな木
の文化の創造を目指す総合的な活動として、さまざ
まな分野の知恵とエネルギーをと りいれ、ネットワ
ークを広げながら、木匠塾を継続発展させていきた
いと考えている 。
註
1)今年度の活動は 「
木匠塾 2
003活動レ ポート 」 と
してまとめられた。レポ ートに関 する詳細は生活デ
TEL:0749・
288431/eザイン専攻 山根研究 室 (
図8
地域おこしセミナーへの参加 (多賀木匠塾)
82 ・人間文化
m
a
i
l
:syamane@shc.
us
p
.
a
c.
j
p
) まで。
2)全国の木匠塾の活動については、群居刊行委員
生活デザインの現窃から
固
会 『群 居 47号 J
、建築フォ ー ラ ム 木 匠 塾 サ イ ト
h
t
t
pJ/
www.a.
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l、かしも木匠塾サイト
加 が/www.vi
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Lkashimo.
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lmokusho
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村木匠塾サイト h
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kamimur
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巴
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.htm、秋田県立大学角館木匠塾サイト h仕pノ/www.
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p/s
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em/a
e
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/mtrl
/APUmokuweb
/t
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page.html、京都建築専門学校美山木匠塾サイト
h仕pJ/
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mokusyo
/
miyama
-m
o
k
u
s
h
o
.
h
t
r
n
lなどでも紹介されている 。
3)土地の所有権と使用収話椛を分離する賃貸契約
制度で、元禄年日]頃始まったといわれている
│
。人工
造林が進展する 一方で、 村 │
付には植林のための資本
J
.外の商業資本、 j
立
をもたない土地所有者が多く、;j;
図 9 多賀木匠塾製作物
(
2
0
0
3
年度)
業資本に土地を貸し、造林を促進する方法がとられ
るようになった。伐出時の収益の一部を林地所有-14'
が受け取る契約を交わし、 借地契約方法 (
地!権設
V
J.年
│
浪一代│浪りがあ
定)には、立木一代│浪り・定 )
る。現在はごく 一部を残すのみという 。
4)借地林制度が発達する中で、村外資本家が林地
そのものを購入し 山主となる場合が増え、次第に山
i
反していった。そこで 山林所 在
林所有は村外へと移l
の地域住民から信用のおける者を選び、
1 11 林 の行 J~[
を委託するようになった 。 これを山守制度という 。
山守は所有者に代わって人夫を集め、山林の保護竹二
1
司伐などの育林を進める 。 l
LI
守は
理、植栽手入れ、1
代 -1
5代続 く家もあるという )、
一般に世襲で(10
立木一代間の包)1][報酬(山守料)は、日給、月給な
どではなく立木皆伐時の売り上げの 3-5%が支払
われる 。立木は山守に優先的に販売される慣例があ
り、山守が木材流通に従事する場合も多い。林業技
L
.I林経営の実務を担当する山守のイFイ
E
術を熟知し、 I
は大きく、借地林制度が衰退する1/1で、山守制度は
現在も有効に機能している 。
5)他地域では 3-4.000本 /ha紅!立が一般的な他殺
.
0
0
0
1
2
.
0
0
0本 ha
密度とされるが、吉野地方では 8
(
最近は 7-8.000本 /ha程度が多くなったという )
もの綾端な密植をおこなう 。 これは iY~ 待用の J-j'W
を生産するためと、土地売買土、樹木本数が多い万
が高く売れたために採ら れるようになった方法であ
る。 このように管植された 山林 を約 1
0年間隔でIl
J
I
伐
1
1
]伐)、最終的に 1
50-200年で皆伐
を繰り返し (
多1
する (
長伐期) という育林、施業方法が吉野林業の
特徴である 。
6) I
京都新聞 J2
0
0
3年 9月 61
1
付滋賀欄
びわ湖
放 送2
0
0
3年 9)
'
J2
5日「ぶるるるぶびわこ 」
人間文化・
83
人・間・文・化・通・信
日本考古学協会 2003年度滋賀大会報告
はじめに
たことに決断をするだけで、ほとんどの準備を院生
日本考古学協会は、全同の大学や都道府県市町村
1
を1
:
1
心 とした学生たちで整えてくれた 。 また 、卒 業
などに所属する考古学研究者で構成される、会員数
生たちにも連絡をとって 、多くの卒業生が参加 して
3728名の日本最大の考古学の全国組織である 。 同協
応援することを表 明 してくれた 。 このときほど、本
会では、毎年の春の総会は首都圏の大学等で実施し、
学で考古学を学んでいる在学生や卒業生を頼もしく
秋の大会は全 l
五│
各地で開催してきた 。滋賀県の考古
思ったことはなかった 。大会当
学関係者も 、木県で考古学協会の大会を 開催するこ
の先生方からも、滋賀 県立大学生の会場で、諸i
;
t{
J
i
lや
とが永年の念願であった 。 それが、滋賀県立大学の
段取りの手際にお室長めの こ とばをいただいた。
¥
委員
Hには協会本音1
共催を得て、 2
003年 1
0月にようやく本学を主会場と
して開催することができた 。 その経過と成果を報告
大会の開催
段取りよく進んだといっても 、大会開催一週間前
したい。
からは、準備のための作業が深夜まで及ぶ こ とも多
大会までの経過
く
、
2 ・3目前には徹夜の準備となった 。準備万端
この大会を実施し、成功させるために滋賀県内の
整えたと思っても、当日になるとどんなことが起こ
考占学研究-ttによる実行委只会を組織して、実施計
るかわからないので、不安の中で当日を迎えた 。 と
画案を作成していった 。 そのための最初Jの打合会を
くに、 応援のスタッフが予定通り来てくれるか、さ
小笠原好彦滋賀大学教授の発条でおこなうこととな
らにこの大学に全凶からどれだ けの人が集 まってく
5人が2001
った 。県内の研究者に呼びかけた結果、 1
れるか心配であった 。 ところが、 それは杷憂でしか
年1
0月 27日に大津市埋蔵文 化 財センタ ー に集まっ
1には協会本音 1
ないことがすぐに 判明 した 。午 前 '
1
1
委
た。 そこで、滋賀県に考古学協会の大会を誘致する
9名、実行委主i
会2
0名、滋賀県内の自治体の考古
員1
ことが決まり、実行に移すこととなった 。 第 1回の
学研究者 35
名や滋賀大学卒業生 ・在校生 1
3名、本学
実行委員会は、 2
0
0
1年 1
2月 3日に草津市アミカホ ー
の在校生 ・卒 業 生 35名がぞくぞくあつまってくれ、
ルでおこない、以後月一│口l
のペースで実行委員会を
受け入れ準備は着々と整った 。 そして 、午後からの
開催して、具体的なスケジュールなどを相談した 。
本番には、受付がてんてこ舞いになるほどの盛況で、
会場、見学会、 倒 究発表会テーマ、資料集の刊行、
翌日の研究集会には各会場が満員で 、立ち見席や会
大会費用などいずれも難問題があり、毎回の実行委
場に入 れ ない人も 出てくるありさまであった。大会
員会では議論 l
'
=
ilJjで、はたして大会ができるのかと
fIIiの考古学協会員の参加申 込者は 2
52名であったが、
危ぶまれた時期もあった 。 しかし、議論を重ねる内
参加者は 1
0月 25口290名(内会員 194名)、 1
0月 26日
に、知恵を山し合い協 )
Jしあいながら、次第に具体
451名 (
1
よj会員 2
2
0
:
?
'
1
) で、参加 者総数は 741
名であ
案ができあがっていった 。
った 。 これは、あくまでレジュメ等の売り上げ部数
本学での準備
者には多く、実数は確実に 1
000人を越えていた 。 な
によるもので、レジュメを購入しない人も一般参加
本学では、大会の事務局と大会会場を引き受ける
こととなった 。 大きな学会をはじめて引き受けるこ
お、実行委員会が作成した資料集の売り上げ部数は
約1
0
0
01
冊であった 。
とで、現状の {
E校 '
tだけのスタッフだけで運 f
fでき
るかどうかの不安は大きかった 。とくに、会場設営、
大会内容
図書交換会の受付 と運営、各会場での視聴覚機材の
期
日:2
003年lOJ
J
25R比)
取り扱い、各会場との連絡調整、全国から来る人た
公開講演会および懇親会
ちの大学までの誘導、大学 │
人
jで、の各会場への誘導、
26日(
R) 研究発表会・図ぅ l
:
;交換会
27日()J)比学会
懇親会、弁当の準備i
等どれをとっても不安だらけで
/
1
¥発した 。この準備の方も、約千T会を重ねるたびに、
次第に準備が経っていった 。 とくに、毎年 1Jlに本
会
場 :滋賀県立大学(滋賀県彦根市八坂 I
l
f
f2
5
0
0
)
主 催 :日本考古学協会
学で開催している 「
古代武総研究会 j などでの経験
共 催 :滋賀県立大学
がものをいって、教員側よりも学生の方が段取りに
後 援 :彦根市教育委員会
手慣れていて、つぎつぎと分担を決めて自主的に進
003年度
事務局 : 日本考古学協会 2
めていってくれた 。 おかげで、教員側は相談を受け
84 ・人間文化
滋賀大会実行委員会
人・閏・文・化・通・信
大会委員長西川幸治
「
古墳時代の [
居館』 と大型建物」
大 会 副 委 員 長 菅 谷 文則
シンポジユーム
実行委員長小笠原好彦
「
弥生集落における大型建物 ・
方形区画の出現と展開」
事 務 局 長 高 橋美久二
司会
日程
+10月2
5日出公開講演会および懇親会
会場
滋賀県立大学交流センターホール
広瀬和雄 (
奈良女子大学)
-伊庭
功 (
滋賀県 文化財保護協会)
-研究発表 2
卜渡来人の受容と生産組織」
青柳泰介 (
奈良県立橿原考古学研究所)
.臨時総会
・公開講演会
挨拶
「大和 J
協会会長
甘粕健
挨拶
大会委員長
西川幸治
挨拶
彦根市長
中島 一
凹中清美(大阪市文化財協会)
「
摂津・河内地域の 斡
i 式系土器」
丸川義広(京都市埋蔵文化財研究所)
「山城の渡来人」
講演
富山直人 (神戸市立博物館)
「
古代近江と宮都 ・国府
考古学の 成果と歴史地理学」
I
t
l
f
i磨における大陸からの移住者」
古水真彦 (
大津市埋蔵文化財調をセンタ ー)
京都大学教授金田章裕
「
近江の渡来人」
講演
l
i
度来したひとび ととその遺跡」
E好
奈 良 大 学 教 授 水 野J
-懇親会
会 場 滋賀県立大学学生生協食堂
。
I
J
I中史生 (
関東学院大学)
「
古代史からよLた渡来人」
黒石哲夫 (
和歌山県文化財調査センター )
「
紀伊の渡米人
~横穴式石宅からみた渡米人の動向 ~ J
1
0月2
6日(
日) 研究発表会および図書交換会
・研究発表 1
植野浩三 (奈良大学)
「
陶邑と渡米人 J
亀岡修一 (
岡山理科大学)
「
弥生集落における大型建物・ 方形区画の出現と展
開」
於 :A2
2
0
2教室
於:交流センタ ーホール
近藤
「
吉備の波来人と鉄生 1
主j
藤届
広(栗東市文化体育振興事業団 )
J
「
滋賀県 (
下之郷遺跡・伊勢遺跡 ・下曲遺跡、 )
朗 (草津市教育委員会)
「
近I
上の渡米人と鉄生斥」
j
賓凹竜彦 (
鳥取県教育委員会)
「
伯者地域における弥生時代中 J
!
:
J
古墳時代前期 の集落構造j
七回忠昭(佐賀県教育委員会)
シンポジューム 「
渡来人の受容と生産組織J
司
会 :大橋信弥 (
滋賀県立安土城考古博物館)
花田勝広 (
野洲町立銅鐸博物館)
「
佐賀平野の弥生時代環壕区画と 大型建物
~吉野ヶ里遺跡、を中心として ~ J
鈴木敏則 (浜松市立博物館)
-研究発表 3
「考古学からみた近世城郭の成立」於:A
3
3
0
1教室
岩橋隆浩(滋賀県教育委員会)
「
東海・関東地方における大型建物 ・
方形区画の出現と展開 J
「
安土城の構造 J
力1藤理文 (
静岡県教育委員会)
大久保徹 也 (
徳島文理大学)
「山陽・四国地域の弥生時代大型建物について」
森岡秀人 (芦屋市教育委員会)
「石垣の出現と展開」
中村博司 (
大阪減天守閣)
「金箔瓦論~金箔瓦のプ ロテe ユーサー ~ J
「
近畿の様相」
久 住 総 (福岡市教育委員会)
I ~ヒ部九州、|における弥生時代の
特定J
J
f
ii
梓区画大型建物の展開」
辰巳和弘 (
同志社大学)
森島康雄 (
京都府埋蔵文化財調査研究センタ ー)
「中世末から近世初頭の土探・陶磁器」
金 森 安 孝 (仙台市教育委員会)
1
1
1什城 の発掘調査成果 J
奈良俊哉(近江八幡市教育委員会)
5
人間文化・ 8
人・閏・文・化・通・信
「
八幡山城遺跡
-図書交換会
~滋賀県近江八幡市八幡 山城跡 の調査成果 ~ J
乗岡
会 場
交流センタ ー 1 階ホワ イエ・研修 室 1 ~4
実(岡山市教育委員会)
「
岡山城の発掘調査J
松田直則(高知県埋蔵文化財センター )
.10月2
7日(
月) 見学会
1.弥生・古境コース
「
土佐におけ る近世城郭の成立
岡豊城から大高坂城・そして浦戸城へ 」
山内淳司 (
八代市教育委員会)
主な見学場所:神郷亀塚古墳
銅鐸博物館 (
昼食)
蔵文化財セ ンタ ー
「
麦島城の発掘調査
大岩山古墳群一野洲
伊勢・下之郷遺跡一守山市埋
]
R守山駅解散
~ 九州におけ る初期織豊系城郭の構造 ~ J
黒田慶一 (
大阪市文化財協会)
2
. 歴史コース
主な見学場所:紫香楽宮関係遺跡 (
宮町 ・鍛冶遺跡
他)
滋賀県埋蔵文化財セ ンタ ー (
昼食)
「
韓国内の 『
倭城J発掘調査の現状J
シンポジ、
ユーム 「
考古学からみた近世城郭の成立」
遺跡近江田庁跡
司
3
. 城郭コース
会・ 木戸雅寿 (
滋賀県文化財保護協会)
中井
均 (
米原町教育委員会)
木瓜原
]R石山駅解散
主な見学場所:彦根城跡一上平時館跡
京極家墓所
(
清滝寺 ) 安 土城 考 古 博 物 館 ( 昼 食)
跡 八幡 山城跡
、 ]R近江八幡駅解散
安土城
(
高橋美久二)
沼 本 考 古 学 協 会 2003年 度 滋 賀 大 会
ゐ
網'-wo一
一
_
..
8
6・
人
間
文
化
.
講演者と県立大スタッフの記念写真
人・閏・文・化・通・信
-人間文化セミナー
「スリランカ丈化三角地帯における 溜池
「白木の 森林を 暮 らしから見つめる
シス テムの再生に よる歴史遺産の保存」
一 山 と町を つなぐ木造デザイン」
とき平成1
5年 1
1月26日
場所 A3
・
301
講義室
講師サミタマーナワドゥ氏
と き 平 成1
5年 1
2月 12日
場所 A2-202
講義室
講師三津文子氏
(
建築家 岐阜県立森林文化アカデミ ー教授)
D
r.
Sam
i
t
haManawadu
(
スリランカ モラトゥワ大学建築学科教授)
上記の通りサミタ ・マーナワドゥ氏を招き、 「ス
平成 1
5
年1
2月1
2日
、 A
2
20
2
講義室において、建
リランカ文化三角地帯における溜池システムの再生
築家で岐阜県立森林文化 アカデミ ー教授の三津文子
による歴史遺産の保存」 と題し、スライドを交えて
氏を招き、 「日本の森林を暮らしから見つめる
講演をいただ、いた。一般市民、学生、教員など総数
山と町をつな ぐ木造 デザイン 」と題する講演会を開
7
4名の際議があり 、質問も活発に飛び出して、有意
催した。
義なセミナ ーだ、った。講演の要旨は以下の通りであ
る。
三淳氏は、 1
9
8
0年代後半から木造住宅の設計活動
を続けてきた建築家であり、木造建築の専門家の育
スリランカにおける王者1
¥
の変遷には、溜池システ
成に情熱を傾ける教育者でもある 。氏の設計手法に
3
世紀の終わ
ムが大きな役割を果たしてきた。だが 1
は、無垢の構造材がもっ姿をインテリアや外観の表
りごろには このシステムは放棄され、世界遺産 にも
~l に生かすという考え方がある。昨今の木造住宅が
登録されているアヌラーダプラからキャンディに至
構造材を新建材などで隠し、 化粧材によ って表面上
る 「
文化三角地帯 Jでは開発が進んでしまった 。 こ
の美しさを求めてきたのに対し 、少々節があって も
う し た 歴 史 巡 産 を 保 護 す る た め に 「聖者I
S
S
a
c
r
e
d
C
i
t
yJという新たな概念が導入されたが、望者1
[
アヌ
それを木のあるがままの姿として受け入れ、木の住
まいが持つ本来の性能を発揮させながら、自然の美
ラーダプラの保存は地域社会に大きなしこりを残し
と味わいを見出そうとする考え方である 。その中で、
たといわれている 。 したがって、 1
9
8
0年から続くユ
住まい手が安心して長 く住み続けられるように、 ひ
ネスコによる 「
文化三角地'出ープロジ ェク ト」 では、
び割れや変形を起こしにくい乾燥した丈夫な木を使
歴史遺産の保存に新たな方策が採り入れられてい
うことにこだわり、育林や木材の乾燥土i
法などにこ
る。講演当日には 、歴史遺産の保存における潟池 シ
だわりを持った I
1本各地の林業家とのネァトワーク
ステムの再生とその影響、歴史遺産保護の新たな方
づくりをも展開してこられた 。そして卜│本の林業が
策とその効果などについてお話しいただいた 。
Jで、生産現場から家づくりの現場、
不例に苫しむI[
(
武 邑 尚 彦)
1
1eまい下へとつながるプロセスが経済的にも成立し
Jされてきた 。 そこには、
うるシステムつョ
く りにう子 )
'
i
'
I
:
.がおこなわれることが、
住宅を通して木の循環、 l
"本の住かな森林環境を守り市f
U
.
¥
ーしてい くことにつ
ながるという忠似がある 。
講演では、そうした活動の
J
J
iを数多くの事f9JIと
ふんだんなスライドを使 って紹介していただ、いた。
l
折半は、 三i
幸氏が I
f
;
{り組んでこられた設立│や林業
家とのネ
y
トワークづくりを1[1心とした内容であ
る。 自然の力を利用し効果的に合水準を減らす葉枯
らし乾燥にこだ、わり、良質の木村供給を続ける徳島
TSウ ッ ドハウス 」 とその木材を使った家づ
県の f
くりの事例 。 良材として知 l られる *iJ~!k ひのきを使い、
ハイブリ ッ ド乾燥やプレカットを導入して、国内の
講師のサミタ・マ ナワドゥ氏
大手住宅メーカーの住宅と比較しでも、性能、価格
において対抗しうる住宅づくりに取り組んだ 「
束波
ひのきの家」の事例。森林文化アカデミーのスタジ
オで取り組んだ、長良杉を使った住宅づくりの事例。
人間文化 ・
87
人・間・文・化・通・信
また、中小径木を利用した新たな構造用面材である
として単位化されたのを記念して企画されたもの
Jパネルとその性能などが紹介された。
で、生活デザイン専攻や環境建築デザイン専攻の学
後半は、再生可能な素材としての木材について考
生や教員を中心として、県内の工務庖や建築士の
える内容であった。木材の生産、消費が環境に及ぼ
方々なども来聴し、関心の高さをうかがわせた。特
す影響を定量的に比較するためのウ ッ ドマイルズ、
に、講演後に学生から木造建築を設計する上での考
ウ 7 ドマイレージといった考え方が紹介された。 さ
え方や手法について多くの質問が寄せられ、予定時
らに地域材を使った家づくりがいかに環境に対する
間を大きく超える活発なやりとりが行われた。
負荷を少なくが!Iえられるかということが、具体的事
例と研究成果に基づいて紹介された。
講演会後には、学生ホールにて 三淳氏を囲んだ懇
親会を聞き、学生からの質問が飛び交うなど、なご
最後に、丸太を使った 三淳氏の最新の作品や、森
やかで活気にあふれた交流がもたれた。岐阜県立森
林文化アカデミーでのスタジオの活動の様子などが
林文化アカデミーと県立大が、今後いろいろな機会
紹介され、講演は盛りだくさんで中身の濃い内容で
を利用してさらに交流を深めようという気運も生ま
あった。
れ、大変意義深いセミナーとなった。
この講演は、これまで学外活動として継続してき
(L
L
J根 周)
た木匠塾が 「
生活デザイン学外演習 Jのプログラム
講演会風景
懇親会風景
88 ・人間文化
人・間・文・化・通・信
-退官メッセージ.
安土
が実現し複合的な条件も整い、各地に文化施設が設
疫 位 以 併 似 必 デ ザ イ ン 材j
置されてきた。かくして、滋賀県も全国的に遅れを
昭和 44年に大阪市立工芸高等学校美術科から滋賀
なして来たがようやく複合的な運動がさざ波となっ
県立大学の家政部保育科 (
4
5年幼児教育学科に名称
て、草の根文化運動によって文化施設が整備された
変更)に就任、美術、図画工作、絵画制作等を担当
と言 えます。
しました。当時は彦根城の南に近い彦根西高等学校
昭和 60年代に入り県立短大における将来計画に 4
に隣接する老朽化した木造建築、足音のきしむ階段、
年制による大学構想、文部省の方針と他府県の動向、
これは大阪市内にいた時とはかなり遠い、都落ちし
そして平成 3年に 4年市J
I
移行整備懇談会の設置とな
たような心細い想いをしたものです。 しかし人情に
った。 また自治省との協議により具体的に動きだし
あたたかく、家族的で、今から思うとゆっくりとし
た。基本方針はスクラップアン ドビルデ イングとい
た時の流れであったようです。その後昭和45年1
2月
う、大きなハードルの課題をどうするか。私の所属
に家政部も工業部のある八坂町に学舎を共にするこ
する幼児教育学科は、幼児人口が減少しそれにとも
とになる 。以後、 30年余り今日まで長いようで短く、
ない幼稚園教員の需要が減少していたことや、県庁
それでいていろいろなことがありました 。
がある大津市内に滋賀大学教育学部幼児教育課程20
まず認識を新たにすることになったのは滋賀県出
人、滋賀久子短大幼児教育学科 1
2
0人、北部坂田郡
身でありながら県下各地域のことを、ほとんど知 ら
のi
u質文教短大初等教育学科 50人で知的な 資格職業
H和 40年に韓国、
ないことでした。夏休みを利用し H
が頭打ちになっている等々、県立大学に幼児教育学
4
1年に沖縄、北海道、九州等にテーマを求めてスケ
科の必要性のロジックを立てて協議を重ねました
ッチ旅行を重ねてい ました。展覧会 出品等も京都や
が、県立大学に幼児教育学科を継承発展させる打開
東京を目標にしていました。
時代の趨勢とはいうものの誠
策とならなかったのは l
滋賀県の文化遺産に関心をもっき っかけとなった
のは、児童画の原理 ・教育法の思師の病気見舞いの
に残念至極でありました。
いろいろとハードルの高い 4年制移行問題のなか
帰路、縁があって見た蒲生町の 三重石塔であった 。
で幼児教育学科の廃科、それに伴う付属幼稚園の廃
それは韓国の古寺巡りで見た塔と同文化圏のものと
止、県立付属幼稚園は県立短大幼児教育学科の実習
感銘を受けました。それ以来、滋賀県各地域や山々
医!として設置され地域の幼稚園をリードしてきた 。
を歩くようになりました。 また車窓、から見える四季
改組転換した今でも県立付属幼稚園の廃止に対する
折々の景観はすばらしく、あきることはありません。
批判を聞かされることがあります。廃止した理由は
現在見る湖国の景観は 30年前とはかなり変容しまし
全国的に共通した様々な事情がありましたが、結果
たが、今でも通勤電車の車窓から古墳や山河や田園
だけが一人歩きすることは如何ともなし難いことで
風景が見られ自然も残されています。雪晴れのすば
す。 ともあれ、幼児教育学科は県立大学人間文化学
らしい夕陽に浮ぶ石塔を発見し、途中下車したこと
部生活文化学科人間関係専攻という子どもの発達か
等々 。過去のすばらしい遺産に比べ今日の文化とな
l
:
J形成という形
ら成人の学習までの生涯にわたる人 t
ると昭和 40年代までは各種の文化施設、大学施設等
に転換して継承発展しています。当初、大きなハー
は全国最下位にあまんじていたと思います。明治以
ドルも幼児教育学科を始め関係者の協議が重ねられ
降、大都市の東京からは遠く県庁は京都市に近く利
た結果、生活文化学科の 3つのコースに決定された。
便性はありましたが、それはかえって諸施設や文化
その内で私は生活デザインコースの所属に配属され
に対するタックスペアとしてのパックアップの行政
たのであります。担当科目はデッサン法、生活造形
が遅れる原因となっていたと思います。滋賀県美術
基礎実習、生活デザイン論 I等であり、幼児教育学
の最大イベン トである県展も各地域の体育館を借 り
科の美術・図画工作等における造形の基礎と内容は
ての催し、それも秋の体育祭と重なっていた。 また
多くは変らなかった。ただ、衣 ・住・道具のサブコ
県下の高校にも美術科は 無く唯一滋賀大学の教育学
ースによって卒論に至るシス テムと 方法は私の想い
部に美術科があるという状況、大学への就学も県外
と追い、かなりとまどいを感じることでした。そこ
に求めるという等々であり、私も結局 4
0年近く美術
で議論や勉強会を重ねてきました 。私の見解として、
運動に深く関わってきたことになる 。 はじめは県の
改組転換によるいろいろな事情制約のなかで甚だ少
行政に文化部の開設、県立美術館の設置、高等学校
ないスタッフ、それも生活文化学科に生活デザイン
に美術科を設置することをスローガンとした運動で
専攻、食生活専攻、人│商関係専攻 (
スタ ートは各コ
ありました。その問、東京オリンピッ夕、大阪万時
!
i
I
J
)があり、そのなかで生活デザインはさらに
ース f
以後、科学技術の進歩がもたらした豊かな経済社会
3つのサブコースに分かれ│幅広く奥深い内容です。
人間文化・
8
9
人・間・文・化・通・信
4年生とは言え、短期間内でそれぞれがどのように
目標とする美意識が、ユニ ークな生活デザイン専攻
展開 し発展いくのかが問われています。私の生活デ
の教育と研究に特質をもたらすと考えます。さらに
ザインの基本理念を 言 えば、生活デザインという
また生活文化学科とは、文字通り生涯学習を通して
人々の生業のなかでどのように生活を快適にするか
深化させる謂ゆる人々のよりよい生き方そのもので
インテリアをコーデイネートするかであり、サブコ
あり、古くて新しい研究分野であると 言 えます。 い
ースとかそれぞれのセクト主義にならない方が良い
ろいろな面で転換期に入った 2
1世紀の今日、日本文
という考えて、す。充分なスタッフによる学科であれ
化の特質をどのように捉えるかの認識にたち「足を
ばともかく、少ないスタッフによる生活デザイン専
知る」日本の生活の知恵を生かす l
時に来ていると想
攻の教育と研究は、それぞれの専門と異分野とのコ
います。
ラボレイションによって、総合的な生活デザインを
.2003
年度卒業論文・修士論文・博士論文一覧
地域文化学科
稲見 俊輔
堀内佐記子
炭ある暮らしに還る人々
森本
私の夢と与那国馬
~ζ
和田 智 子
私の小さな畑
門谷明日香
1'f詰の大地 モンゴル旅行記
父のふるさと大字市木一未来の基
上 杉 晴香
照明が人に与えるもの
ソウゾ、ウスルカラダ
大西育子
ハレハレの生活考
大野 祐護
太宰治と人1/:] I
人間失格」にお け
原田
紀
尾辻亜沙美
る 「
道化」から
日本のこころ的音楽
加藤
麻子
川端
美少女ゲ ームの構造分析
小泉
瀬戸
尚子
涼子
輝明
中崎正浩
燃をもとめてー
にほんしん
北村菜々子
i
呈
尋司
吉 田 閉子
フ
呂
才
=
て
近藤
岡本
健
武内
歌代
日本心の中の忠臣蔵
庭園のこころ
荒木美奈子
舞子
吉良奈々恵
香奈絵
山本
悦子
大坪
寛子
『
ある日、白から鱗がおちたい。j
異世界で得るよろこび
山梶
阿貴
感謝の気持ち
近江八幡左義長祭りをかつぐ
え
山田修平
地域へ還る
内山 正 太
FURUSATO-広島県高田郡
働くということ
河端さやか
N G Oの問題から日本を考える
一開発に関するさまざまな角度か
大分
らの検討一
人間のための教育
子どもたちの
窪崎
富林万里子
中川
直美
インドにおける離婚問題
イン ド人女性の意識の変化
忍
中北成浩
天蚕 現状と新たな活用
釜ヶ崎について考えたこと
文庫の歴史と経緯から
激変する下町
福家
淳一
労働者の街で
干1
1
/
戸華僑 ・華人社会のー側面一村l
父親の姿を通して
松本
良太
常一
9
0 ・人間文化
インドヒマラヤのチベット社会に
おける世帯構成と水利用
イン ド・ヒマ ーチャルプラデー
環境をめぐって
夜、と手仕事 ーガラス ごしに見る日
福 島 泰裕
私を育 ててくれたもの
地元論
シュ州スピティ地方の事例より
現代社会におけ
る生き方の問題として
ふるさとに描くユ ー トピア
l
喫茶庖を作りたい
-j
胡風祭は地元を造り出せるか
荒木家の現在とユートピア家族
下 坂 一浩
太一
音の ある生活
風景発見による心の再生
県宇目 I
I
I
J河 内
道輸
伝統食からはじまってー食の未来
森
向原町坂へのふるさと創生 事 業
奥村
忘れられゆくもの
を模索するー
小石川後楽闘を中
農的基盤を求めてー
有木 一宏
体験を通して
“h
appy,
slow,
live-オキナワから
心とした大名庭園の橋
遠山の霜 )
J
祭り
い
頓宮 幸 明
留学
見えてきた私
その周
辺と表現について
モンゴルサッカーの夜明け
「
地域」 としての子育て 子ども
日雇
戸中華 同文学校についてー
現代日本におけるタトゥーの流行
人・間・文 ・化・通・信
について
門脇
智
河合卓也
の意識
戦後、伊吹が歩んできた道
一日本人大学生へのアンケート調
ロ ックという音楽文化
査から一
日本におけるロ ックミュ ージ ッ
依固有加里
滋賀 における在日コリアンー 滋賀
池田
近世・近代における商家の奉公人
県日野町を中心に
クの変容について
日置 淳 志
『
自
J
Iぎ落とす Jという舞台表現方
法について
について
小谷奈々
近江における中山道沿いの民家の
一主に西 川伝右衛門家文書を対象
徹
として
空間構成
木村大喜
仁保川用水をめ ぐる遡保庄と桐原
北前船主の館における空間構成に
辻本祐子
江戸時代の化粧文化
関する 一考察
西
湖東地域の山村における住空間の
平光真美
木戸京子
高齢者の利用 を前提とした伝統的
黒崎瑛子
l
町家の保存と活用
桑野朱希
郷
否奈
鎌倉時代の大井荘
検注 l
阪と名 寄l
帳に みる 「
竹」か
歴史的考察
I
Tを事例として
彦般市男鬼 I
左近 江 美
グル ープホ ームと地域社会
らの考祭一
松村友理
『
昼の王子 さま 』 に読む幸福論
景観行政
大石英人
琵琶湖水運と船奉行
明治初期の │
町家の空間構成に閃す
都築季代子
彦恨の音 風 景
西村典恵
地域と女性をつなぐもの一婦人会
広告媒体としてのパス のあり方と
+ゥ,トスケープ
内藤恵以子
鐘の音の見守る地域 一
る研究
近江八幡市江頭 │
町を事例とし
活動からみる j
i
没後史
て
中野貴裕
中山道武佐宿におけ る景観保存と
増田倫子
*同の高句麗系渡来人
桑山章子
麗郡
古墳出土の須恵持
芥川宿の保存と j
舌J
I
Jを 考 え る
田中梨絵
近江の宝箆 印塔 について
城下町縁辺音¥
1
における I
r
jなみに │
謁
増田洋平
特殊器台形埴輪について
する歴史的考察
山本孝則
斎王群行と 伊勢への道
一彦根市 ・七曲 が り を 事 例 と し
石塚潔子
琵琶湖に残る水没伝添村
て-
嘉瀬井陽子
近江の古代寺院
小谷春香
された背景
保良宮
藤井克哉
琵琶湖と 丸木舟
活用に 関する 一考祭
漬知
正崇
北摂の西国街 道の IlIrA~. みの空間構
成に関する考察
不破亜由美
横山伸吾
力1 恵~転用枕を t.J.1 心 に
歴史的町並みの活性化とまちづく
り
一花しょうぶ通り附!苫街を事例と
してー
宮本祐輔
方山
圭
{
ることカ fできたのだろうか
筏
倫子
田内
Y
主主
E
言
松本久美子
銀座商庖街 とその地域住民を例
大久保成
大峰 1
1寺本堂奉納絵馬からみる山
中村田海
f
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i
1
言仰
興からみる日本人の朝鮮人観
「
北朝鮮帰還事業」 をめぐる日本
の対応、
~ 江川時代 に描 かれた f~)J 鮮通 信 使
淳
I
l
j
i資料を 中心 に
絵l
南健太郎
日韓国交正常化と 1
1
本の対緯認
弥生時代における北部九州連合体
市I
J
の成立と展開
誠一「過去の ì"f t:~: Jをめぐ ってー
-銅鏡の分布か ら探る九州の連合
明治期におけ る工場法制定をめぐ
体制
る動き
山田
合i
j
役絵の馬体表現
として
朝鮮通信使の 「
発見Jと地域交流
地方自治体の活動を中心に
黒河皇子
湖北地域に造営
縄文時代にはたして琵琶湖を渡
伝統的商!苫 f
i
l
i
jのi
t
t観の変遂とそれ
に伴う地域消資者の立識の変化
武l
海国高
j
度遺
玄
滋賀県内 出土・弥生時代の木製鍬
工場 1
去を骨抜きにした資本家た
について
ち
在日韓国 ・朝鮮人に対する H本人
の考察一
一滋賀県内出土弥生時代の直柄鍬
人間文化・ 9
1
人・閏・文・化・通・信
高橋朋子
遊び環境から見る子どもの居場所
谷口友英
遊路
地域に開く共生集合住宅
彦根市城南小学校区における回
生活文化学科
生活デザイン専攻
市 ・田 の字地区における母子位帯
作本末利
柿渋の染色性に関する研究
橋本菜穂子
男性ファッションの変遷と現代若
土橋はづき
者の個性化 についての制究
荒井那緒子
視覚障害者用ブロックと舗装床の
のi
豊かな暮ら し
キチン ・キトサ ン/セル ロー ス複
合繊維の天然染料による染着性
カチ オ ン性天然染料 (
キハダ)
色彩の組み合わせ方による視認性
と景観評価に関する研究
飯島里沙子
の染着性
ソファーと壁の色から受ける印象
の研究
中川由香
デイケアホ ームを中心とした地
J
或ネットワ ー ク
琵琶湖におけるブラァクパスを釣
長原亜季
るためのルア ーデザイン開発
板坂真理菜
これからの高齢者ライフスタイル
一高齢者と若齢者の比
較一
池島哲平
新聞広告からみる電気冷蔵庫のイ
c
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都市にお
けるカフェの新たな可能性
西岡範子
メー ジと広告手法の変化
小学生が使う学習机 の考現学的調
査
一現状 とその使われ方一
井原車矢子
近江八幡における酒蔵の再生
新田文子
橋立の 「
風景」の再構成
井俣久美子
酒湯館
触覚に訴える筆記具の提案
畠山大介
段ボール製椅子の市J
I作
花びらのアントシアンによる染着
花田菜津子
今村香菜江
~JI'ï 出本家跡 地 の活用~
性の研究
入岡
梨恵
植野由美
照明条件の変化 による燦のプライ
平井達也
尾田恵子
具の提案
南 蛮 服 の 再 現と 現 代 服 へ の 応 用
「下着の上着化」現象に │
刻する 一
自 由な発想によるパタ ー ンメイ
考察
グレイについての 一考察と低彩度
麦林敬子
キング
これからの生活を豊かにする こヶ
現代の
入浴剤の現住
所居住の提案
一亦と青
緑の場合
真弓
森川紗千子
児童向け雑誌の組み立て 紙ふろく
森永宏美
人間的な関わりを豊かにする 1
1
町
と
について
商 品と消費者意
市場
識に見る入浴剤l
服飾を通した自立識の研究と製作
住宅の提案
嘉瀬井朝子
暖簾のある暮らし
加藤啓太郎
滋 賀 県 立 大 学 に お け る Visual
I
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n
t
i
t
yマニュアルの作成
翼
日本の古典柄と水の表現
中心市街地彦根市
旭町でのまちづくり
コミュニケ ー ションと衣装
角江
エッジライ ト方式を用いた!照明器
松田政門
現代にみる表衣脱皮
色の見かけのグレイ化
岡野
オエを中心としてみた橋立北前船
主型民家の研究
パシ ー との関わりに関する研究
岩崎佳世
京都
吉田奈生
「
縫う 」 ということ
吉田龍司
ワー クを暮らしに
長く愛されるジャパニーズ和み木
ニ一ドル
の制作
一和服
のデザインー
河合美菜子
高齢者の生活から考える集落での
暮らし
彦根市幹光寺 1
1
8におけ
千里
る豊かな老後
あぶらとり紙の現状と普及背景
楠林真樹
人々の意識とこれから
きれいと感じる色、きたないと感
岸
生活文化学科← 食生活専攻
浅井真弓
食品の価格に見る食文化現象
稲田多希
未利用植物資源の有効利川 に関す
る基礎的研究(
1
) 一野草 ・野菜の
消臭活性の比較
じる色についての研究
下城圭映子
山県市立伊自良北小学校跡地の利
稲野 美 穂
用について
白井万里
ココアは冷え症を改蒋するのか
銘物裂に用いられた赤色染料の鑑
別
92 ・人間文化
ココアの摂取による体表織の変化
江守 弘絵
朝食摂取習慣の有無による継貿コ
人・閏・文・化・通・信
ルチコイドの概日リズムの変化
大平真沙子
住民検診における高脂血症の状況
岡絵美子
柿の寒 j
京性とカキタンニン の関係
岡本真由美
膜下困難食の研究
虞瀬遼子
増田亜希子
と食事摂取内容
片栗粉および
チアミンの許容上限摂取量の設定
松井延子
松 岡久美 子
員藤こす恵
響-1:¥"への影響ー
小塚原直子
日本人に望ましい食糧消費のあり
佐合井 j
台美
ADL (主に身体活動度)から見
湊
裕美
治療食の精度管理
減塩食調理
の研究「魚のつけ焼き J-
第一報食料自給率について
南野可奈子
植物抽出物のメタンチオールに対
た高齢者の骨密度
する消臭活性の比較
リボフラビンの許容上限摂取量の
棄部位等と野草一
三輪純子
設定に関する研究
佐藤由佳
内分泌撹乱物質がトリプトフ ァ
ンーナイアシン代謝に及ぼす影
対する配位斉IJの影響(l)
佐藤志織
食事内容の遠いによる血糖値・イ
ンスリン値への影響
茶 カ テ キ ン ー Cu2+, Fe2+,
Fe3+による OHラジカル生成に
方
中高年男性における内臓脂肪蓄積
型肥満と生活習慣との関連
に関する 研 究
桑原 敬 子
地j
或住民の食生活状況と肥満・ 高
脂血症との関連
増粘剤の形成するトロミついて
葛谷真子
トレハロ ースのでんぷん老化防止
効果
治療食の精度管理
野菜・廃
目的の異なる老人福祉施設を利用
する高齢者の骨密度
滅塩食調理
の研究「魚のつけ焼き J下村麻理子
植物抽 出物の抗菌力の比較
一野
莱 ・廃棄音1
5
位等と野草一
鈴浦 千 絵
カf トリプ トファン
ナイアシン代
謝に及ぼす影響
鈴木那緒美
首我千晴
しいた け酢の効用に関する研究
土木美奈子
母親と母性愛
橿 まきこ
有j
翠直子
永住外国人の住民投票権
知里
て
日本人に望ましい食糧消費のあり
りの事例研究を中心に一
江川由希子
食品摂取後の運動時心拍出量測定
パントテン酸の許容上限摂取量の
食品のヒ トに及ぼす生理機能
遠藤愛子
大島
由子
岡本
麻里
就学前児童の育ち学ぶ施設の今目
的課題
小川奈見子
一幼保一元化 の意義一
幼児の会話の発達
一 5-6歳児
の給食場面でのおしゃべりの観
察一
米手Ij用植物資源の有効利用に関す
る基礎的研 究(
2) 一野菜・野草の
大学生の携帯電話の使用状況に関
する調査研究
アルコ ール代謝に及ぼす影響
田中優子
4-5成児における描画表現と発
話について
~ ショウガの i1fi~熱作用とその季節
に よ る 差 柿 ・柿渋の摂取が
ストレスが身体・心理に与える影
響 と思考様式との関連性
第二報栄養評価について
設定に関する研究
竹田陽子
地方都市活性化 についての一考察
一静岡県掛川 市生涯学習まちづく
に関する実験系の検討
高橋
母性への理解
血圧降下作用に及ぼす効果につい
方
袖岡里映
生 活 文 化 学 科一 人間関係専攻
内分泌撹乱物質ピスフェノール A
清香
保育園における 1-2歳児のあそ
門由起子
広告におけるキャッチフレ ー ズの
角崎
抗菌効果の 比較一
び
谷口智子
トリプ トファンの許容上限摂取量
中野真里子
摂取エネルギー制限がニコチンア
兼子理恵
儒教文化と家族のあり方について
ミド代謝に及ぼす影響
川 原崎克 弥
子 どもたちの放課後を豊かに
特徴と購買者の反応の研究
の設定に関する研究
永田優美
ルと栄養指導の効果
西
祥子
放課後児童クラブの現状と課題ー
早期糖尿病患者の血糖コントロ ー
北沢
友佳
茶 カ テ キ ン ー Cu2+
, Fe2+,
Fe3+による OHラジカル生成に
佐々木優子
2
)
対する配位剤の影響 (
一杉
聡子
ハスの葉茶の温熱作用
ライフル射撃選手を対象とした集
中力向
tトレ ーニング効果
現代の女子学生の化粧観・化粧行
動と心理的効果の関係
三徳
佳子
2-3歳児のこ"っこあそびの発達
人
間
文
化・93
人・間・文・化・通・信
杉山はるか
瀧本
創
思春期における対人関係と自己肯
戸田雄一
生き方としての地域学のために
定感の形成
中川穂花
j
英画像石墓および遼河流域壁画墓
仕事を通じて 得た死生観
看
の墓室構造・画像配置に関する 一
護 ・介護士のインタビューから
田中久美子
考察
女子大学生における摂食障害傾向
生活環境と対人関係ストレスの観点か
安岳三号墳への影響一
南井佐知子
ら
田中径子
屋
うつ病の リハビリテ ー ションのあ
り方について
玉置勝浩
一北野社関連史料を中心として
武藤恭子
2本の手は 3人をどう空間に表象
するか
遠山由希子
中世後期の京都における風呂 ・湯
人のあり方を考える 一自分自身を
題材にして
山根聖美
甫と湖 北沿岸地域
中世菅 i
出会いの手段はいかにジェスチャ
ーによって表現されるか
仁木克枝
ジェスチャ ーにおける視点の使い
生活文化学専攻 → 佐論文
分け
西川浩司
「優し い」 ということ
服部多恵
現代の親子関係について
林
恵子
の存在
デイサービスのスタッフと利用者
森脇
愛子
現代女性と靴の選好に関する考察
父親
井本将志
到津の森公園における 7-8歳チ
ンパンジーの描画研究
のコミュニケーションについて
地域文化学専攻 一 博
士
論
文
20-30代前半を中心に
山崎
純子
同居形式の変化か らみる現代日本
家族
和田亜矢子
-
I
老親と娘との同居 J-
加藤美恵子
日本中世の母性と綴れ観
両手を接触させるジェスチャ ー
ーその性質と機能一
生活文化学専攻 一 博
士
論
文
地域文化学専攻
川上
博子
修
士
論
文
i
莫画像石墓における車馬画像一山
水野友有
チンパンジ ーの母子コミュニケ ー
東地域を中心としてー
シ ョ ン 一 生 後 4ヶ月の発達的変
川端博明
デジタル写真測量による考古資料
化一
の三次元データ化の有効性と問題
金
指紋押捺拒否運動と在日外国人の
Motheri
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隆明
未来
野口
洋
「暮らし j への立!側、 「経済」 か
らの脱却
一桜井家の農のかたちから一
堀添伸一郎
韓国自由党創党における歴史的意
義
国会議員選挙を中心に一
柾木
摂
新彊ウイグルの地域と民族
トラマ ト家の人々
北川太郎
自然 ・ 愛・人々-~荷村の世界か
ら
(
映像作品と解説)
佐藤美沙子
愛知川旧流域における水郷景観の
復元と考察
9
4 ・人間文化
人・閏・文・化・通・信
.INFORMATION
(
】
=生活文化
-鄭
1
) NHK 1
クイズ日本人の質問」 で焼肉特集
2) NHK 1
アンニョンハシムニカ 」 のハングル講
大費 (
ちよんでそん)食文化
2
0
0
4年 1月 6口
、 1月1
1日
、 1月 1
8日
、 1
1. 学会発表
住
1)韓国食生活文化学会主催 “アジアの食文化交流
月2
4日出演 :焼肉とキムチの話
シンポジウム"にて
3
)KBSラジオ"焼肉の話.. 9月 2日生放送
6日
「日 ・韓の厨房文化の交流 j 発表 4月2
4).
.SA R Sにキムチが効くか?.. (T V朝日
ソウ
のヤジウマワイド
ル
朝
5月 8日)
5) ・脅威のキムチパワー・ヒマラヤ登山とキムチ"
2)平成 1
5年度日本生活文化 史学会大会にて
「食品の価格からみた食生活文化現象」発表 9月
2
7日 東 京
3) 日韓拠点大学水産学術シンポジウム (
韓国慶尚
(
TV
l
l
D
J日 6月2
4日)
の解説
5 新聞・雑誌(インタビ、
ユー記事)
1
)1
市l
白研究室 J(
読売新聞 2月2
3日)
SARSに効く?.. (毎日新聞
5月
大学校 1
2月14-18日)にて
2) ..キムチは
「日韓食生活の比較」分科にて司会として参加
6E
I
夕刊一面)
3).
.SA R Sに効く食 1
1
7
1、キムチ.. (
サンデー毎日
2 講演会、セミナー
1)
シ
ナリオ作成、出演担当
1
食文化、韓国と日本の比較 J1
韓国の食文化
の特徴 J(
放 送 大 学 京 都学習センター 2)
i8
6月 1日4
5
6
1号)
4) ..世界の鍋料理"シリーズ
間
日
、 9日)
キムチ鍋 (
朝日新
1
2月 8日)
2) 1
韓国の食文化と儒教 J(
i
i
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H
治会主催 4月 1
9日
3月一杯で退官です。l
f
)
.
J
学以来お世話になりました。
大阪上六)
3) 1
朝鮮半島の風土と食文化J(日本大学経済学部
主催
"世界の風土と食文化"シリーズのひと
4) 1
食べものがどうして文化 なのか J(
滋賀県立虎
J(10月 1
7日)
6
)1
キムチの秘密とその価値 J(食品研究者主催
1
1月 7H
年代にギリシャのドキシディス博士が 「人間の居住
の科学
」 として提唱し、以来,世界中の 多 くの学者、
k
i
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i
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sの発展に学際的に取り組み、その
実務家が E
大阪)
7) 1
肉と健康」滋賀県立大学人間文化セミナー
機関紙として雑誌 I
E
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sJ が出版されてきまし
た。 1
9
7
5年にドキシディスが亡くな った後、 World
1
1月 8日
0
0人弱
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WSE) とし、う会 員約 2
8
)1
キムチ教室 J(
高月 間
J2
0
0
4年 2月2
8日)
3 論文 ・著書・解説など
の世界組織が結成 され,この人間の届住の科学を発
I
BSE後の焼肉庖の影響について Jr
(
焼│州市
「サム料型と焼肉 J(月刊雑誌 『ロータリ -j
3月号
「参 鶏 湯 J(
月 刊 雑 誌 『ロータリー J4月号
『よくわかる焼肉・韓国料理の歴史 J(
単行本
7月 刊 こ の 本 に │
羽しては紹介記
事が読売新聞、京都新聞、毎日新聞の滋賀版に
年 1月出版)
賀県立大学で聞かれることが決定され、その準備が
はじまり、すでに忙殺されています。
9
9
3年からユネスコを通じて日本の基金で
また、 1
行われている、インドのサンチ ー とサ ッダー ラにあ
出ました。
4
. T V・ラジオ
っております。昨年 1
0月末から 1
1月にかけてシカゴ
で評議会が開かれ、 2
0
0
5年 9月にこの世界大会が滋
J
)
日本ハム干I
・キムチと日本人 J(p H P新書
す。 2
0
0
3,2
0
0
4年はその学会の Executivecouncil
(
評議会) のメンバーに選ばれ、その運営にも携わ
日本ハム干1
]
)
旭屋出版
展させるために活動しています。毎年、世界中から
会μが集まって、シンポジウムと総会を開いていま
特集 J1
0月 号 旭 屋 出 版 )
f
焼肉
や っ と昨年中ごろ出版されました。編集者の仕事量
k
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9
6
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の関係で大変遅れたようです。 この E
大谷大学人権セミナ ー
“漬物セミナ ー" シリ ー ズのひとつ
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A future f
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4
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1
7が合併号として
5)1
韓国の食文化の特徴 J(
10月 3日)
「韓国の食文化、日本との関わり
l
i
]から予定されていた私の論文
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f HikoneJ が掲載された雑誌
・
・ミニ大学講座.. 9)
J6日)
姫高校
-土井崇司 (どいたかし)集住地研究および設計
.研究活動
4日 東 京)
つ 6月1
2
0
0
4
る大規模な仏教遺跡コンプレックスの発掘、修復の
事業に、ユネスコの expert として、また日本の政
府1
l
!
1
J
の代表として当初から関わり、
4回にわたって
人間文化・ 95
人・間・文・化・通・信
インドを訪れてインド考古局側と連携し調査、指導
0月には文
てさらに数十冊の編集にあたった。 また 1
をしてきました。 この 1月末から 2月にかけて、最
部科学省で研究終了の事後ヒア リングを宮岡伯人代
終的な調整のために再び派逃されることとなりまし
表 (
大阪学院大学)とともに受けた。すでに本誌 1
3
た。そのときには現地にイコモス (
国際遺跡記念物
号で紹介した私の成果、 Studies o
f Minority
会議)の会長も来るということで、この事業が大変
、
Languagesi
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.(
2
0
0
3
)は
ミクロネシア連邦のミクロネシア大学図書館(在ボ
注目されていることがわかります。
あと 2年問この大学にいることとなりますが、な
ーンペイ州)から教材用に使用したいと 1
0冊の追加
んとか時間を作り私の研究をまとめ、出版したいと
申し出があった。現在、内外の研究者による共同研
考えております。相変わらず多忙な 1年になりそう
究の成果をオ ックスフォード大学出版局から 2
0
0
4年
です。
中に刊行するため、宮同教授とともに原稿整理と編
。社会活動
集作業を行っている 。そのほか、本研究に関わる共
4
年度には交通バリアフリー法にもとづく彦
平成 1
同研究の成果として人間文化学部一般研究費の 一部
根市交通バリアーフリー基本構想の策定協議会で会
崎山編 『
消滅の危機に瀕した 言
を原稿整理にあて、 l
長を務め、多くの市民も含む委員の方々の協力を得
国立民族学博物館調査報
語の研究の現状と謀題 J(
て、彦根駅、南彦根駅両駅構内、及び周辺の主 な道
告3
9、2
0
0
3年 6月)を刊行した。
路、公共パスのバリアフリー化を目指す基本構想を
古代日本語研究は、私のオ ーストロネシア語族研
策定し、彦被市長に答申しました 。法律上、鉄道、
究から派生した産物である 。 1
1月、福井県三方町立
パス会社、道路管理者は 2
0
1
0年までにこの基本構想
縄文博物館 (
梅原猛館長)から依頼され、平成 1
5年
を実現する義務があります。 また現在、野洲町交通
度第 2回縄文学講座において 「
純文から現代へ一日
バリアフリー基本構想策定委員会も進行中で、委員
本語の遥かな息づかい Jと題する講演ならびに民族
4年に「ユニヴア
長として参加しております。平成 1
ーサルデザインのまちづくり研究会」 という市民団
考古学者の小山修三氏と対談を行ったのが、私の
2
0
0
3年最後のイベントとなった。
9期日本学術会議東洋学研究連絡委員と
なお、第 1
して日本言語学会から推薦され、 1
0月2
1日付けで辞
令を受けた (
任期 3年)。現在、日本学術会議も独
立行政法人化問題の渦中にあり、県大ともども安か
らぬ年が始ま った。
体を、行政、専門家、市民有志で立ち上げました 。
定期的に理事会や総会、研究会、シンポジウムなど
を開いて少しずつ活動をしております。
-崎山
理(さきやまおさむ)言語人類学
今年度は 「
環琵琶湖文化論実習 BJ を 5名の教員
が担当したが、私自身も琵琶湖をめぐる文化を勉強
-佐々木隆造(ささきりゅうそ'
う)食品生命科学、生体情報応答学
する良い機会であった。私は民俗芸能と民俗知識を
.論文、総説、その他
指導し、外部からも講師(漁師の戸田直弘氏、方言
学者の増井金典氏) を招いて臨場感あふれる講義を
拝聴した 。 9名の学生がみずから選んだテーマは、
結果的に、方言、昔話、住居、 富田人形および漁法、
風名となったが、学生それぞれがテーマの奥行きの
深さを理解してくれたものと思う 。 7月には調1I馬班
と合流して学生たちと沖島を訪問し、 i
胡魚料理を賞
味したほか、島の歴史的なたたずまいを観察した 。
r
f
l島の山立
私自身は、島の滅び行く民俗知識として I
て(ヤマテ)についての小文を認めた(月刊 『
言語J
2
0
0
4年 1月号、なお本号は特集 「島のことばJで巻
頭に形質人類学者の片山 一道氏と私の対談記事が掲
2月1
5日送信の同誌メールマガジ
載されている 。また 1
ン<げんごろう >10
号(
発信元gengo@t
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.
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.
j
p)
に「私が言語学者になったワケ・その 1Jとして崎
山がアップされている 。
)
文部科学省の特定領域研究 「
環太平洋の<危機に
瀕した 言語>にかんする緊急調査研究」は 3年半の
共同研究期間が終了したが、研究成果の刊行は今年
度に入っても引き続き行われ、私は総括班代表とし
96 ・人間文化
1
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2
1
4
9(
2
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0
3)
2
. 佐々木隆造 工リスロポエチンの腎外生産とそ
の機能。AnnualReview腎臓 2
0
0
3,
中外医学社
、 1
1
6
1
2
1(
2
0
0
3
)
3
. 佐々木隆造:学会の学術活動強化。 日本農芸化
2
0
0
3)
学会、77.1 (
4.柴田克巳、福波務、太田万迎、木村尚子、佐々
木隆造、神 l
b
l
j
'佳樹:妊娠時のトリプトファン代
謝。必須アミノ酸研究 1
6
6
.
1
3
1
7
(
2
0
0
3
)
5
. Kimura N
.
. Ful
王u
watari T
.
. Sasaki R.
.
Hayakawa F.andS
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4
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1
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2
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0
3)
8
2
.佐々木隆造:JJì~ とエリスロポエチン 。 臨床透析、
日本メデイカルセンタ一、 1
9,
9
5
9
7(
2
0
0
3)
8
3.成田宏、佐々木│塗造.ホスホグリセリン酸ムタ
ーゼ、ビスホスホグリセリン酸ムターゼ。広川
タンパク質化学 第 4巻、商事素 (
福井哲也、伊
4
7
1
51
. 1
5
7
1
6
1
藤正樹編集 )、広川書応、 1
人・間・文・化・通・信
(
2
0
0
3).
84.柴田克巳、福渡務、佐々木隆造:ニコチンアミ
ド代謝が寿命を支配する 。 ビタミン、 77.
46
5
4
7
0(
2
0
0
3).
-社会的活動
滋賀県芸術祭美術展覧会実行委員会委員 ・滋賀県文
化振興事業団評議員 ・滋賀県立美術館友の会理事・
京都市立芸術大学美術教育研究会研修企画委員
(鈴木昭憲、荒井綜一編集)、
8
5
. 農芸化学の辞典
朝倉書庖 (
2
0
0
3
)
4
砂主な所属学会
4
砂学外活動
京都市立芸術大学美術教育研究会 ・京都日本画家協
1.日本農芸化学会授賞選考委員会委員長 (
平成 1
5
日本美術教育学会・基礎造形学会 ・大学美術学会・
会 ・滋賀県造形集団 ・滋賀県美術協会
年 4月 1日より)
2
. 招待講演および地域活動
- 小 林 清 一(
こばやしきよかす)社会・経済政策、社会思想史
-赤血球造血因子(エリスロポエチン )の新たな
生理機能の発見と神経疾患治療への利用 。滋賀
バイオ技術フォーラム、滋賀県立大学、
1月1
6
最近の研究テーマ
(
1
)社会政策の国際比較
(
2)ナショナリズムの形成と社会
(
3)アメリカ社会と消費の歴史
目
、 2
0
0
3
.
-赤血球造血因子(エリスロポエチン )の新たな
生理機能の発見と神経疾患治療への利用 。佐賀
4日
、
大学海浜台地生物生産研究センタ一、 1月2
2
0
0
3
.
-滋賀県生涯学習研修会講師(滋賀県栄養士協会
主催)0 I
糖質の栄養」、滋賀女子短期大学、 7月
1
9日
、 2
0
0
3
.
-高校模擬講義(産経新聞高校内進学相談会主
催)
。 東大津高校、 1
0月 l目
、 2
0
0
3
.
(
1)福祉国家の将来的可能性と展望を、英米系とド
イツ (ヨーロ ッパ大陸型) と北欧型、日本との比較
をとおして考える 。
現在は、アメリカの高齢者問題への対応のパター
ンを、 高齢者の介護問題と家族という観点から整理
し、強い個人主義の国で高齢者介護がどのように行
われているかを明らかにし、
ドイツ及び日本との異
同を解明する 。 これに北欧型とヨーロッパ大陸型の
政策パターンの考察を加えて、将来めざすべき社会
-安土 優(あづちまさる)美術・造形
政策のモデルを検討したい。
.本年度の主たる活動・制作
(
2)アメリカン ・ナショナリズムの系譜。
6年 3月定年をむかえ、一つの区切りとして
平成 1
ナショナル ・アイデンティティの+見点から、国
これまでの活動の成果であるかどうか、とにかく作
家・国民が生みだされ、 一体性を確保するに至 るプ
品集の出版と回顧展をしなければならないとの想い
ロセスとメカニズム、および現代におけるその有効
で準備等多忙な年でした。過去を振り返り新たな出
性を、アメリカを事例にして分析する 。
0
0
3年の制作発
発の糧としたいと思います。以下は 2
1)4
8
t
h 滋賀県美術協会展
「
風景 J(
F50号 日 本
0世紀への転換期に、大量 に流入した南
析、および2
東欧系移民とナショナリズムとの関係の分析は終え
画出品)
2
0
0
3年 5月大津歴史博物館
2)2003滋賀双線美術展 「犬上川河口 」他 3点
た。
9
9
0年代に焦点となった、マルチ ・カルチ
現在は 1
ユラリズムを生み出した階層間関係、アジア系、ヒ
6.
0x5
6
.
0水彩画 出品)
(
各7
2
0
0
3年 9月滋賀県立近代美術館
3)第 1
5回 F展 「
風景 J(
各 F100
号日本画出品)
2
0
0
3年 1
0月大阪市立美術館
4)第2
9回造形展 「
光と影 J(
F100号 臼 本 画 出 品)
.rr.m(各55cmx15cmx52cm 陶
「
灯り Jr
スパニ ック系移民、および黒人アンダークラスとミ
ドルクラスとの緊張関係人種とナショナリズムエ
スニ ック集団関関係、福祉政策とマイノリテ イ ・ア
ンダークラスの問題を最後に整理している 。
(
3)アメリカの歴史における消費の意義と重要性の
変化を、現在におけるその重要性と絡めて明らかに
器出品)
2
0
0
3年 1
1月滋賀県立近代美術館
5)第57回滋賀県美術展覧会
号日本画出品)
1
9世紀後半までの、アメリカの支配的意識である
WASP的文化とイデオロギーが成立する過程の分
表です。
「
犬上川河口 J(
F20
2
0
0
3年 1
1月滋賀県立近代美術館
6)4
9
t
h滋賀県美術協会展 「
暁 J(
F50号 日 本 画 出
する 。 さしあたり手をつけているのは、 1
9
3
0年代の
大不況期と 第二次大戦中、と戦後の消費の位置の変
化。
今年度公刊されたものは (1)I
優生学と人種主義
阪上
進化の科学 と人間の改造 (
アメリカの場合)J(
孝編 『
変異するダーウイニズム J京大出版会)
2
0
0
3年 1
2月大津歴史博物館
(
2) 書評 「
アメリカ経済史の新潮流 J(
rアメリカ
人間文化・ 97
人・閏・文・化・通・信
す。発刊 のぎりぎりまで執筆に追われました。この
史評論』、2
1号、関西アメリカ史研究会)
本にはわが専攻の土井・面矢 ・山根先生も私と同じ
ような立場で関わりました。 できばえはいかがでし
-早川史子(はやかわふみと)公衆栄養学
やはり茶に関する研究を主体に行ってきた。 7月
ょうか。
和歌山県の龍村1
村において日本自然茶研究会が発足
そして 4月からは、石 川県加賀市橋立の伝統的建
し、秋篠宮様をお迎えしての設立総会では 「
西日本
造物群の保存調査の報告書作成にかかり切りでし
の茶粥習俗」 と題して講演を行った。茶粥に関して
た。橋立はもともとは海岸に近い半農半漁の集落で
は昨年の 学会賞受賞講演「茶および茶がゅの研究」
したが、江戸時代後期から廻船業を始めるものが現
1
3)に総
を日本食生活学会誌 (単著 .1
4巻 1号. 6-
れ
、 1
9世紀には40軒以上の船主が住み、船頭や船乗
説としてまとめたが、このテーマは 当分続行せねば
りたちも住む廻船集落に発展しました。廻船業は明
ならない。 また、 1
5年前から 実施してき た日本にお
治後期から衰退しましたが、いまでも大きな北前船
ける緑茶の飲用実態調査の結果は日本食生活学会誌
主の家がいくつも残されています。01
年と 02年の 2
270頁および1
4巻 l号. 5
6
6
0
(
共著. 1
3巻 4号. 264・
年にわたって調査を続けたそのまとめです。最終的
頁)にまとめたが、これらの成果をさらに発展させ
に 2月に原稿を渡し、現在印刷中です。地元は町並
るため日本同様に緑茶を飲む習慣を共有してきたモ
み保存に積極的で、 04年には保存計画と条例を策定
ンゴル・中国・韓国の若者の緑茶飲用状況に関する
し
、 05年ぐらいには実際に町並み保存が始まるよう
調査を 実施し、ほぼそれらの回収も終え. 2004年に
にしたいものです。
はこれらの国々の茶の飲用実態を明らかにする 予定
である 。一方、滋賀医科大学生命科学研究室との共
-郡須光章 (
なすとうし よう)心理学、教育心理学
同研究で、行っ ている茶カテキンの発ガン作用とガン
.教育研究活動
大学生のストレスとコーピングの関連性、学校で
抑制作用という両刃の剣になり得る特質、特にその
作用に関するカテキ ンの構造依存性の解明を 行って
の心理健康相談のあり方、青年期の進路選択 ・就職
いるところである 。
支援の方法などに関する研究をおこなっています 。
上記以外の成果は次のようである 。
日本健康心理学会や日本進路指導学会での講演や シ
論文:共著. V
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49.
149-155
オリジナリテイのある研究はあまり進んで、いませ
んが、今までに発表したものに加筆して次のような
喫茶習俗調査,茶の起源
報告書.単著,モンゴルの l
著書・論文等にまとめました。
.I
子 ど も と 若 者 支 援 の 心 理 学 J(
単著 )2004年
研究 3
. 社団法人豊z;会.1
9
2
8
口頭発表:共著,女子学生の食物摂取状況調査によ
る食料自給率の実態, 日本栄養食糧学会
近畿支部大会講演要旨集. p52
講演(1)藤樹の里創年塾「人とお茶のかかわり J
.
安曇川 I
f
I
J
教育委員会)
(
2)暮 らしの専門講座 「
茶と人のかかわり
ンポジウムでその I部を報告しました。
北大路書房
「
教育実習完全ガイド J(
共著) 2004年
ヴァ書房
「
家庭や地域での子育て J(単著)
部落
J
.
ミネル
月刊滋賀の
6
3
1号 嗣 滋 賀 県 同 和 問 題 研 究 所
学生指導としては、今年度は卒論指導で「母性と
滋賀県立消費生活センター
母性愛」、 「うつ病のリハビリテーションのあり方」、
. 土屋 敦夫(っちゃあつお)建築史、都市計画史、都市開発史
子学生の化粧観と化粧行動の関係」、「スポーツ選手
「大学生の携帯電話使用状況の調査研究」、 「
現代女
2003年は、 3月に 『
長浜市史 7地域文化財 j が発
刊されました 。私はここで、旧 長浜の北の神照地区と
いう農村部について、そこにある地域文化財の紹介
の集中力向上トレーニングの効果」 などのテーマに
ついての研究を指導しました 。
+
t
也域活動・地域貢献
を担当しました。地域文化財とは何かについて、い
県の「滋賀の子どもの権利を考える懇談会」、 「
子
ろいろ悩んで検討を重ねました 。『長浜市史』の通
どもの世紀を考える滋賀県懇話会」 の委員として参
史編では長浜を舞台にしたさまざまな 「
歴史」が語
加し、会の提言を まとめて知事に提案することにか
られているが、地域文化財編ではそういった 「
歴史」
かわりました。
がその地域に何を残しているかを見てきました。 た
多賀町の教育委員会・中央公民館の 「
地域ボラ ン
とえば、村l照地区には鉄砲生産で有名な国友村があ
テイア研修会J
、「
子育てサボーター養成講座」 に人
るが、地域文化財編では鉄砲を生産してきたことが、
間関係専攻が協賛して地域活動、子育て支援研修と
いまの国友にどう影響し、鉄砲生産をしてきた遺産
実践にかかわる機会をえまし た。
が具体的にどのように残っているかを調べたので
98 ・人間文化
個人的には、日野町・蒲生町・米原町などでの高
人 ・ 間 ・ 文 ・ 化 ・ 通 ・信
"
J民会議などでの講
校生の親の会、青少年健全育成 I
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演と懇話会に参加 して、青少年問題の啓発に若干の
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n Programme and Abst
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貢献をしました。 また、 教育心理学を現場で活用す
ることの機会として、 指定自動車教習所の教官法定
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yandOutcomes 9E
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n:Quant
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y,Qua
1
1 September 2
003, pp90-9lJがある 。共同実
研修会や労働安全衛生管理者講習会などへの参加の
態調査に基づく学力到達度の低・ 高の分裂化傾向に
機会を得て、教授学習論理の産業場面での実践の方
ついて、両極とも学力形成上の質的な問題点をはら
んでいる事実と、競争イン セ ンテイブの下で進めら
法を深めることができ まし た。
れる教育政策との関連を指摘した。
なお、社会活動としては、 県立大学の周辺地域と
-八木英二 (
ゃぎひでじ)教育学
20
03年度の著書の 出版とし ては 、 「教育実践と人
権
共著
教育権規定の 一般 的意見について J(
I
新
のかかわりで、彦根市生涯学習講座 「
教師と父母が
共に考える現代教育講座」 を2
0
02
年秋から 2
0
0
3年春
教育学 j ミネルヴァ書房、 1
81
頁 -1
9
7頁)がある 。
先まで担当。 同年秋には多賀 町の生涯学習講座など
これまで蓄積してき た教育学の基礎的な知見につい
を担当 。 また、全国 レベルの 「子どもと自然学会」
て、共同執筆者とともに総括的にまとめることがで
(
高橋哲郎会長 ) を共同でたちあげ、記念講演 「自
きた。
然と子どもの自然」 を行い、当面の副会長を担当 。
1つ
関西地域では、兵庫県の箕谷において 、実践保育研
には 、「今日のカリキュラム開発と評価の諜題を探
究会を母体とする幼児教育セミナーを担当し、前年
さらに、学会 ・研究所関連の活動としては、
るJ(
教員養成カリキュラム │
1
日発研究センタ ー 『
研
度の記録冊子 『
保育の 眼・研究シリーズ:年間を見
究年報 JVo
.
l2、東京学芸大学、 81-83頁)がある 。
通した保育 J(ぎんのすず幼教出版) を共同執筆で
2
0
0
3年度は、東京学芸大学教員養成カリキュラム開
,
'
1
:
1)仮している 。
発研究センタ ーの研究員を兼任。
2つには 、「教師の役割変化 に関する国際的合意
r
(
形成 J 教師教育学会年報 j第 1
2
号
、 1
7
4頁一 1
7
5貞)
がある 。秋の同教師教育学会の総会では、シンポジ
ウムのパネラ ー として 「
大学改革と教育専門職の愛
成一 「地位勧告」吏新化 なと、国際教育機│
羽の論議
とかかわ って
」 と題する報告を行い、大学におけ
る教師養成の国際動向比較の論議に参加│した。
r
(
3つには、 「教育実践と発迷保障論 J 障害者 1
1
i
j
題研究 j第31
巻第 2号
、 1
4
8頁 -151頁)がある 。 同
論文では、教育実践分析や教育評価の方法論的なあ
り方を示し、その立場から発迷保障論と教育実践論
の区別と関連を明らかにした。
4つには、
雪の伊欧山 (
長浜市常喜町)
i
r評価・評定j をどう論じるか J(
r子
J口本教育 学
-灘本知憲 (
主主だもととものり)食品栄養学、食昂生化学
会 ・中部教育学会、 7
5頁 -87頁)がある 。継続研究
本年も変わらず、私どもの分野が人間文化の中で
でとり くんでいる 「
教育評価・評定論」 のテ ーマに
果たせる研究テーマに 卒論生の諸 J
fとともに取り組
どものための教育評価と学校づくり
ついて昨年の論考に新たな資料を追加し、日本教育
んだ。身近な素材、民間伝承の中から健康や生活に
学会・中部教育学会の研究シンポジウムで発表した
役立つ知恵、を科学的に抗¥
1り起こす作業である 。余談
ものである 。
となるが、以内を中心に食品企業からの相談、問い
(
r
5つには 、「人権教育と教育実践 J 部落問題研
合わせが多 くあったのも今年のイベントかも知れな
6
4号
、 1
9
7頁一 20
1頁)がある 。 これも継続
究』 第 1
い。本専攻で、
笑│僚の食『日lを対象とした研究の必要性
研究のひとつで、 ① 「 人権」 の名による人権侵害、
を
J
i
"
l
Ii
惑した。
(
1
)
天然物中の消臭・抗菌活性の検索
②「人権教育」のおしつけ、 ③ 「人権」 についての
教育内容・方法、など近年の人材I教育動向を分析し、
あるべき方向を示唆した。
.'ll~ 臭物質の 一 つであるメタンチオールに対する消
失活性を調味料や香芋
ー 料などから検索することから
6つには、オ ックスフォードの国際学会 (
The
始まった研究は、検索対象が徐々に野草を中心とし
7t
h Oxford I
nter
na
ti
onalConference on
0Septemb巴r2
0
0
3)
Educati
onandDevel
opment, 1
で発表した i
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た植物材料に、検索活性も消臭活性に抗菌活性を加
えたものに進展した。本年は特に野菜類とその廃棄
部分の活性検索を行 った。
人間文化・ 99
人・間・文・化・通・信
(
2
)
食晶による自律神経制御作用
漢方や日本での伝承に見られる食品の温冷効果の
科学的実証を目指すことから始まったこの研究は、
特にショウガの体表温上昇・交感神経賦活効果、柿
やハ ーパーマスらの公共性論の展開を、日本の生活
指導論はどのように受け止めるのか、という視点か
らもついきゅうしたいと思っている 。
昨年は、このような問題意識にたって、何人かの
f
新・教育 学 J(ミネルヴァ書房、
の体表温低下 ・副交感神経賦活効果をとりまとめる
共著者とともに、
ことができた 。 また高ポリフェノール健康茶の祖冷
2003、4吉 田 執 筆 部 分
作用についても研究を開始した 。
造をめざす生活指導 J
) を出版した。
第 5章 「
新たな公共性の創
(
3
)
その他
l
唾液糖質コルチコイドの概日リズムが、なぜ朝食
-柴田克己(しばたかっみ)ビタミン学、代謝栄養学、食品
欠食者で狂うのかは今も不明であるが、今年度は他
機能科学、栄養生化学
大学 にも協力を依頼して、被験者数を増やし、現象
私どもの研究室では、
確認を行えた 。 その他他大学 との共同研究も進めつ
(
1
) 日本人のビタミン必要量に関する基礎研究
つある 。
(
3) 食品中に含まれる内分泌撹乱物質 ・シックハウ
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ス症候群の候補であるフタル酸エステル,ピスフェ
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.
.6
7(
1
)
,2
3
2
8(
2
0
0
3)
法に関する研究を中心に研究をしており, 2
0
0
3年に
野草 メタノール抽出物のメタンチオールに対する消
1論 文
1
)
、 23?
27
臭 作 用 、 日 本 栄 養 ・食糧 学 会誌、 56(
l ラットにおけるインスタン トコーヒー のナイア
(
2
0
0
3)
朝食の欠食はヒ卜唾液糖質コルチコイドの概日リズ
ノール Aなどの毒性発現機構とそのリスク軽減の方
は下記に 示す成果を発表することができました.
シン活性
日本家政学会誌 5
4
(
1)
,7
7
8
2 2
0
0
3
2 Diurnal v
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2)
、
ム を 変 え る 、 日 本 栄 養 ・ 食 糧 学 会 誌、 56(
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野草抽出物による E
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taphylococcus
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sの生育抑制、日本食
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sおよび B
品科学工学会誌、 5
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8
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9(
5
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,3
0
1
3
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9(
2
003)
.吉田一郎(よしだいちろう)人間関係論専攻,教育学
般の専門性の再検討を引き続き行い 、こ こ数年
教l
来の関心である人権論を内包した教育指導論の構築
を目指して研究をすすめている 。 そこでの関心の焦
点の 一つは、教育指導をコミュニケーション過程と
してとらえる 立場から、人権論としての内心の 自由
論と表現の自由論を教育指導の本質論 の中にどの よ
3 R
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students.
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J Nutr
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. Vitamino.
l 49,1
4
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3
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mice.
ExperimentalAnimal
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s 2
0
0
3
2書 籍
うに内的にくみこむことができるかという問題であ
l 栄養学総論改訂第 3版 南 江堂
る。
持っている 。 「公共性」 の創造という観点から、生
2 食品力n
工学改訂第 3
版 南 江堂 2
0
0
3年
3 マ ッキーの生化学 (
訳 本) 化学同人 2
0
0
3年
4 食べ物と健康 2 化学同人 2
0
0
3年
活指導論の歴史的な再検討を行う作業にも着手して
3 その他の成果
いる 。主権者としての国民、市民養成に取り組んで
l 寿命と栄養素
きた生活指導が、教育の公共性の解体 ・衰退と い う
5
7 2
0
0
3
くわえて、教育の公共性に関する 論点にも関心を
状況にたいして、どのように 主権者的な公共性を・
再創造できるのかという観点から、 生 活 綴 り 方 や
「
集団づくり 」 の再検討を行 っている 。
「公共性」 をめぐる議論は、歴史的に見ても近年
新しい展開をみせており、哲学、社会思想、の 分野で
も大きなテーマとして論じられている 。 アーレント
100・人間文化
2
0
0
3年
New Food Industry 45(
3
)
5
1
-
2 ナトリウム依存性マルチビタミン (
パントテン
酸,ビオチン, リポ酸) トランスポーターに関
する最近の動向
ビタミン
7
7(5,6),324
・
326
2
0
0
3
3 ニコチンアミド代謝が寿命を支配する
7
(
8)
,4
6
5
4
7
0 2
0
0
3
ン
,7
ピタミ
人・閏・文・化・通・信
4 厚生労働科学研究費補助金
確立推進臨床研究事業
ン必要量に関する基礎的研究 平 成 1
4年度
括 ・分担研究報告書
演題名 「肉はたんぱく質 ・脂 質 ・ビタミン ・
効果的医療技術の
ミネラルの宝庫」平 成 1
5年 1
1月 8日 滋賀県立
日本人の水溶性ビタミ
大学地域産学連携センタ ー
総
pp.
l1
9
7 2
003
産学研究交流室
1
0 平成 1
5
年度厚生科学研究費補助金 第 4回 「日
本人の水溶性ビタミン 必要量に関する基礎的研
究」講演会 元気なカ ラダとビタミン摂取一水
4 学会発表
省略
5 社会活動
51.講演
溶性ビタミンの必要量 につい てー
1 平成 1
4年度ビタミン B研 究委員会シンポジウム
5
年1
1月2
2日 高
基準策定に関する現状j平成 1
演題名 「日本人の水溶性 ビタミンの食事摂取
i
B群ビタミン 必要量 と食習慣の関係j
演題名 「第7次改定 日本人 のB群ビタ ミン栄養所
要量の策定に 向けて」平成 1
5年 2月 1
4日
知]女子大学
1
1 食の安全・安心 シンポジ ウムーみんなで考えよ
う 食の安全一
東京商工会議所ビ ル 8階東商スカイルーム
5年 1
1月
演題名 「
食の安全に 関 して」 平成 1
2
4日 ピ ア ザ 淡 海 県民交流セ ンタ ー
(
東京都)
2 平成 1
4年度厚生労働科学研究 効果的医療技術
の確立推進│
臨床研究
1
2 辻学園栄養専門学校講演会
i
寅題名 「食品仁l
'
のビ タミ ンの消 化 ・吸収率」
生活習'
間病分野成果発表
i入
5年 1
2月 1日 辻学園栄養専門学校 (
大阪
平成 1
i
寅題名 「日本人の水溶性ビタミン 必要量に閑す
市)
"
'
る基礎的研究」平成 1
5年 2月24日 虎ノ
1
持 プリムロー ズ (
東
門パス トラル新館 4[
1
3 日本トリプ トファン研究会 第26回学術集会シ
u
f究の主庁展開
ンポジウム
トリプ トファン f
i
寅題名 「トリプ トファ ンーニコチンアミド代
京都)
5
年1
2月 5日 兵庫県
謝と寿命との関係」平成 1
3 平成 1
5
年度厚生科学研究費補助金
立淡路夢舞台国際会議場 (
兵庫県津名郡東浦町)
第 3回 「日本人の 水溶性 ビタミンの必要最 に
│
剥
する基礎的実験」講演会「ビタミンはどれだけ
52.外部委員な ど
摂れば よい か ? 水溶性 ビタミンの 必要量につ
滋賀県食の安全対策委員会委員長
いて」
滋賀県成人病セ ンタ ー
演題名 「パン トテ ン酸でどんなビタミン?J
平成 1
5年 3月 1日神戸国際会議場 (
神戸市)
4 日本栄養 ・食糧学会
治験審査委員会 委 員
滋賀県小児医療センタ ー
治験審査委員会
日本生活協同組合連合会
食品添加物研究会
日本生活協同組合連 合 会 健 康 食 品 研 究 会
近畿支部役員会
ビタミン B研究委員会
必須アミノ酸研究委員会
都市)
日本ビタミン標準化検討協議会
日本栄養 ・食糧学会
演題名 「
朽木村の特産品を栄養素からみると 」
5
年 7月 3日 滋賀 県高鳥郡朽木村
平成 1
新本 I
l
i
l
i
日本ビタミン 学会トピ
日本家政学会近畿支部役員
(
岡山県倉敷市)
8 訪問指導事業に係る事例検討会
演題名 「栄養摂取にお けるサプリメントの 利
委
委員
日本ビタミン学会評議員
論と課題 J平成 1
5年 7月 1
1日 独立行政法人国
と課題j平成 1
5年 9月 1
8日 J
lI
I
崎医療福祉大学
副理事長
7 クス委員会
日本栄長 ・食糧学会評議員
7 第5
0回 日本栄養改善学会シンポジウム 「第7次改
定日本人の栄養所要量について」
i
寅題名 「
水溶性 ビタミンの所要量策定の理論
委員
栄養所要量検討委員会
6 健康 ・栄養研究所セ ミナ - 1
D
I題名 「第七次改
定日本人の水溶性ビタミン栄養所要量策定の理
立健康・栄養研究 所 (東京都)
委員
委員
委員
i
寅題名 i
Trpから ビタミン denovoNAD生
5年 4月26日新都ホテル (
京
合成の意義 J平成 1
5 朽木村食文化セミナ ー
委員
日本 j
立芸化学会関西支部評議員
日本人の栄養所要量 一食事県取基準
策定委員会委
員
-鈴木伸子 (
すすきのぷ之)色彩学、服飾造形論
色が人の心理、生理に与える影響や種々の現象を
見聞きする時、あらためて 色彩の威力を感じます。
0数年の問、 何の抵抗 もなく色彩学の研究と
今まで 3
称して色が人に与える種々の問題点を数値や記号な
5年 1
0月28日 京都市伏見
用法について J平成 1
どの前字で図表を用いて表現 し、検討してきました。
保健所
それと併行して色彩文化 に関心 を向けるよう努めて
9 平成 1
5年度第 2回食生活専攻セミナ ー 「肉と健
康と生活」
きました。講義用には各種の視覚現象 ・効果の説明
や裏づけとなるものを探し求め、資料作りやスライ
人間文化・ 101
人・間・文・化・通・信
ド作りに徹した時期が何度もありました。 自分では
2枚組で昔話2
4話、伝説 ・談話 9話、わらべうた 7
悔いのない非常に充実した半生だったと自負してい
曲を収録している 。語り部の出身地(戸入)は言語
ます。今後は 、これまでの教育研究活動を活かし色
学的 にも非常に貴重なことばを用いていた所として
のもつ線々な可能性をボランテイア活動という実践
注目さ れている 。 この方言 を使用し、また聞き手に
而で模索してみたいと思っています。
理解されることもだんだんと少なくなってきている
4
砂教育研究活動
f
:
J
i3回生は 2
0
0
3年秋、学外でもフ ァッションシ ョ
ーを 2回行いました。そのリーダー的存在で服飾系
読売、毎日、中日 、岐阜の各新聞やタウン誌等に紹
のが現状である 。それゆえ記録保存に対して、朝日、
介され評価を受けている 。
(
特 に製作)分野に関心の強い数名の学生 を後期か
また 2
0年来の調査資料をまとめた 『岐阜揖斐渓谷
らのプレゼミで引き受けています。本専攻では服飾
の昔話と│唄 lを刊行した。昔話はかつて旧徳山村全
製作系科目が少ないことに加えて、理論の講義を受
8ヶ村より聞き取りを行なった話を今一度聞き返し
けても彼らにとっては理解し O
C
1
Eいようです。そのた
て、整理I
I
分類したものである 。 また唄は、元中部大
めパターンメーキングの基礎を限られた時間の中で
8歳の
学教授大橋和華氏らが岐阜県揖斐郡藤橋村の 9
可能な限り体験できるように行っていますが、半年
古老から聞き取ったものを分類整理したものであ
のプレゼミ程度では少ししか出来ません。服飾系カ
る。 こちらも CD同様各新聞、タウン誌に紹介され
リキュラムにおける製作面の改善に取り組めなかっ
評価を受けた。
たことを後悔し、いまさらながら 学生に大変 申し訳
なく思 ってい ます。
二つにはかつて滋賀県犬上郡多賀町で聞き取り調
査を行なった伝承文化の資料を整理分類して記録に
退職にあたって、フ ァッションデザ イン業界を支
残児童文化財化の試みをしているところである 。す
える将来の担い手を育成する意味で本専攻服飾分野
なわち伝承文化の継承と創造の視点から文化財の保
の人員増とカリキュラムの充実を切に期待したいも
存に努めている 。
のです。
三つには、子ども参加の祭礼行事と調査とその分
今年度掲載の論文その他は次のとおりです。
-自然対観の仁]
1の白と黒、円本色彩 学会誌 Vo.
l2
7
、
l
. 9
4(
20
0
3)
No
.;
w:境色彩と しての青瓦屋根、
析を行っていてまとめの最終段階となっている 。
四つには、平成 1
3年に設立した滋賀県紙芝居研究会
の活動として平成 1
3
年に続き、平成 1
4年 11月に 「
出
円本色彩学会誌
Vo
.
J
2
7 NO.
2、1
4
5(
20
0
3)
・ ~t 活文 化としての赤、白、 黒 、
前紙芝間大学」 の講座を開催、県内外より約 3
0
0名
の参加者をえた 。 この催しは滋賀県立大学学術交流
家庭科教育 7
7・
1
0、2
83
3(
20
0
3)
・
「街の色研究会 ・京都 J1
0周年に寄せて 、 『京都
助成金を受けた。
また滋賀県紙芝居研究会では、県内各地の図書館
や市 l
u
r村において講座を開いている 。教育保育に携
の長観色彩を考えるー伝統と現代-J1
2
7(
2
0
0
3)
わっておられる方々の協力を得て、児童書 ・絵本 ・
。社会活動
紙芝居の瞥蒙・啓発運動として活動しているところ
NPO日本カラーネットワーク協会推進会員とし
である 。
てグループで休日に施設訪問しています。 ほんのわ
五つには平成 1
5年 1
1月彦根お話し会の方々と 「
彦
ずかな時間,;
i
fでも障害者の方々の心がうるおい、癒
線昔ぱなし大学」を開催した。この催しは、日本口
されるひとときを共有したいと願うメンバーのボラ
承文芸学会会長、つくば大学名誉教授の小潔俊夫氏
ンティア活動です。が、残念ながら時間l
的な問題も
が主宰されている昔ぱなし研究所の協力でイl
tされる
あるため、活動は思うように進まないのが現状です。
もので 6i
l
lシリーズの 1回目の開催であった。以後
平成 1
8年まで予定 している 。
- 野 部 博 子 (のべひろと)児童文化
・ 伝承文化
.社会的活動
・研究教育活動
昨年は手の怪我で本欄を 喜
一
く ことができなか った
滋賀県環境影響評価委員
ので、本年は合わせて報告する 。
一つには、日本一の巨大ダム建設によりダム湖に
紙芝居文化の会運営委員
滋賀県紙芝居研究会代表
子 どもの文化学びの舎主宰
沈む、岐阜県揖斐郡旧徳山村の昔話、伝説、あそび、
わらべうた等、伝承文化の保存に努めているところ
-福井富穂 (
ふ くいとみ l
ま)臨床栄養学、臨床栄養活動論
である 。平成 1
1年から平成 1
4年にかけて音声による
重点的に取り上げ
今後の管理栄養士教育におい てZ
保存として語り音防、ら直 に話や唄を聞き分類整理し
られている教科、とくに「臨床栄養学」、「公衆栄養
て
、 CD3枚の制作を行なった。『 たあばあちゃんの
学」および「給食経営管理論Jなどの謀目にあ って
4
話を、第 2集は
菅がたり j として第 l集には昔話 1
は、臨床や地域の現場における実施教育が不可欠で
1
0
2・人間文化
人・間・文・化・通・信
ある 。 臨床栄養学におけるフィ ールド ワーク(社会
学等における現地 (
実施 ) 調 査 ) は 病 院 ・医 院 な ど
において患者さんに接することである 。 とくに現在
急増している糖尿病、肥満、高血圧症、動脈硬化症、
心 疾 患 な ど の 生 活習 慣 病については、遺伝や加齢、
ストレスや感染などの外部環境要因および食事、運
動、喫煙、飲酒、休養などの生活習慣要因が複合し
て発症すると考えられている 。
5年 1
0月 1日より 、臨 床栄養管理の 一貫とし
平成1
3 新聞等掲載記事(評論、コメン卜)
読売新聞 J(
2
0
0
3年
「県 議 選 市 民 イ ニ シ ア チ ブ Jr
3月 2
8日)、 『中日新聞 j (
20
0
3年 4月 4日)、 『朝 日 新
2
0
0
3年 4月 7日)
聞.
1(
読売新聞 J(
2
0
0
3年
「地方選市民イニシアチブ Jr
7月3
0日)
「政 治 倫 理 条 例 市 民 試 案 Jr
朝 日 新 聞 J(
2
0
0
3年 9
月2
3日)、 『京 都 新 聞 J(
2
0
0
3年 9月 2
3日)
r
「地 方 選 挙 一 選 ぶ 側 主 体 の 選 挙 へ の 転 換 J 滋賀
て、また、管理栄養士として地域医療に対して協力
地 方 自 治 研 究 セ ン タ -N
E
W
S
.
! Vol
.3
7(
2
0
0
3年 1
0
する必要もあり、食生活専攻から 3名が彦根市立病
月)
院において患者指導にあたっている 。糖 尿 病 、 高 脂
3回衆議院議員総選挙Jr
産経新聞 j (
2
0
0
3年
「第4
血症、 高血圧症や腎疾患などの慢性疾患催患者の 多
1
0月 1
1日)、 『朝日新聞.1 (
20
0
3年 1
0月 2
6日
、 1
1月 1
1
くは生活習慣の改善がなかなか進まな い状況にあ
日)
る。 この栄養食事指導の実践を過して 、望 ましい生
活習慣を醸成していくための阻害因子を明らかにし
ながら、患者さんの生活習慣行動の変容を図ってい
「
湖国この l年
Jr朝日新聞 J(
2
0
0
3年
総選挙
1
2月2
7日)
4 講演活動
くことが実際の栄養教育であり、学生が体験しなけ
0
0
3年 度 法学シ ンポジ
・大 阪 経 済 法 科 大 学 法 学 部 2
I
I
Tおよび能登
ればならないことである。また、甲西 I
ウム
川町において、地域住民の成人検診等に 合 わせて食
0
0
3年 1
1月 1
4日)
於:大阪国際交流センター、 2
事 摂 取 量 調 査 (FFQ) を 行 い 、 総 コ レ ス テ ロ ー ル
5 テレビ出演
高 値 者 の 食 事 摂 取 内 容 等 を 分 析 評 価 し た 。 今後は、
両町の健診事業に協力しながら、急増している動脈
硬化、高 j飢庄、高脂血症などの疾病予防のための健
康 ・栄養教育を行っていく予定である 。
管理栄養士は、卒業と同時に直ちに社会で適応で
きる能力を持たなければならない。 とくに、重点的
に取り上げられている対象者の栄養スクリーニン
グ、栄養アセスメント、栄養ケア・プログラムの作
成、実施、評価、改善、フィード、パックなど具体的
な対象を取り上げ、この実践体験を通して管理栄養
士の職務を考える機会にして欲しい 。
超高齢化社会の到来と少子化の進む現代社会にあ
って健康の維持 ・増進、疾病 の予防や治療など栄養
との関わりについて実態を把握することが望まれ
る。 そのためには、養成施設だけでなく、病院、事
r
地方政治と市民イニシアチブ J(
パネラ一、
r
「滋 賀 県立 大 学 の 紛 介 J う おーたん の こ ど も +
び、わ訪日放送、 2
0
0
3年 1
0月 1
9
F
I、1
8
:
0
0-1
8
:
1
5)
ワン j (
r
「第 4
3回 衆 議 院 議 日 総 選 挙 の イ ン タ ビ ュ ー J ぶ
っi
N
打点送、 2
003年 1
0J
J30日
、
る る る ぶ び わ こ J(ひ1
1
7
:
2
5-1
9
:
5
0)、 『ニ ュ ー ス DANj (びわ抑l放送、
2
0
0
3年1
0月30n、22:00-22:15)
「第 4
3回 衆 議 院 議 只 総 選 挙 開 票 速 報 コ メ ン ト 」
r
2003総 選 挙 有 権 者 の 選 択 ・改 革 の 行 方 は ! ?-滋
出
j
放送、
賀選挙区開業迷報 j (コメンテータ一、びわ j
2
0
0
3年 1
1月 91、20:55-23:
4
5)
r
BBC報道特別企画徹底討論!!2004新 春 回 会 議
以 庵 談 会 j (コ メ ン テ ー タ 一 、 び わ i
却j
放送、 2
004年
1J
l4
l
:
:
l、19:00-21
:5
5)
6.共 同 研 究
新地方自治研究会 (
代表
青木版容俄教大学社会
業所、市町村、福祉施設、学校など栄去を上としての
学部 教 授)で、 昨年度尖施した首長調査のデータ分
職域すべてをあげて取り組んでいかなければならな
析を行い、現{
:
E報告告を作成中 。
、。
し
7 自治体史
『
高月 1
1
]史 j の編纂事業も 4年 l
二
l
に入り、現在第
-大橋松行(おおはしまつゆき)政治社会学、教育社会学
本年度の主な活動は次の通りである 。
1 分担執筆
1巻 (ビジュアル資料編 H
iJ行に向けた作業が進展中。
8
. 社会活動等
-滋賀県明るい選挙推進協議会委員
「
住民投票の役制とはやすか」 憲法研究所・上田 1
寿
美編 『日本国憲法のすすめ一侃角と争点一 』 法律文
-彦 根市行政改革委只会委員
.T
l
i民 団 体
r
d
i民運動ネ y トワーク滋賀 」 の代表と
化社、 2
0
0
3年 4月。
して、本年度は 4月 の 統 一 地 方 選挙の際に、 「県 議
2.論 文
1民イニシアチブ 」 活 動 に 取 り 組 ん だ。 また、
選d
9
「
地方選挙のあり方を考える一 「
県議選市民イニ
)
Jには県民サ イドに立った政治倫瑚条例市民試案を
}、 滋 賀 県
シアチブ Jの試 み -J 人 間 文 化』 第 14J,
発 表 し 、 県議 会 各 会派に 1
1
3し入れを行った 。 これら
0
0
3年 1
0月。
立大学人間文化学部、 2
I新問、読売新聞、毎日新聞、
の活動については、朝 L
r
人間文化 ・ 103
人・間・文・化・通・信
産経新聞、京都新聞 、中日新聞、滋賀報知新聞に、
それぞれ数回にわたって報道された 。
論文としては、 「
英国の家庭用風呂の近代化:近
代家庭機器のデザイン史 J(日本デザイン学会 「デ
ザイン学研究」 第5
0巻)、および 「
英国における電
-面矢慎介 (
おもやしんすけ)道具デザイン論
数年がかりで難行していた 「
長浜市史」第七巻・
地域文化財慌が、昨春ょうやく発刊されました。た
気 ケトルの発展過程:近代家庭機器のデザイン史j
巻、い
(日本デザイン 学会 「デザイン学研究」 第50
ずれも掲載予定・ 2004年近刊)を 書 きました 。
とえ公に指定されたものでなくとも、地域の人たち
にとって重要な意味をもっ「地域文化財」 をできる
-竹下秀子 (
たけしたひでと)発達心理学
かぎり拾い出し、解説・描写したユニークな 一書。
1
)
竹下秀子・板倉昭 二
今年度公刊した論文は, (
この種のプロジェクトには手慣れた他の学部教員た
(
2003) ヒトの赤ちゃんを生みだしたもの,ヒトの
ちに教わりながら調査 ・執筆に参加して、良い勉強
赤ちゃんが生みだすもの.日本赤ちゃん学会誌
になりました(私は中心街の旧長浜町地域を担当
)
。
0
3
0.(
2
)
竹下秀子 (
2
0
0
3) 母
ビーサイエンス, 2:2
5月の発刊記念講演会をも って無事終了。
専門のデザイン史関係では、若手のデザイン史研
子日
!j
の動きの伝達一霊長類の比較行動発達学.日本
発育発達学会誌:子どもの発育発達, 1・3
0
6
3
11
.
究者たちの新しい研究会 (
デザイン史学研究会)の
(
3
)
竹下秀子 (
2004) ゆっ くり育 って新しく生きる
立ち上げに関わりました。会誌 「
デザイン史学jの
霊長類の進化と比較行動発達.小児歯科臨床,
創刊 と、英国のデザイン史家ジョナサン ・ウ ッダム
9: 374
4
. その他
氏を招いての記念シンポジウム(10月・埼玉大学)
など。 日本でもようやくデザイン史が本格的な研究
領域として認知されてきたことを実感します。かつ
ては日本にデザイン史を専門に教える大学はなく、
デザイナー養成コースの中でほんの一科目として教
ベ
Infant Behavi
or and
Development誌に, T
a
k
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.
.F
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.D
.M.
.
Mizuno. Y
.
. Matsuzawa. T
.
. Tomonaga. M
.
.&
Tanaka. M..Expl
oring by Doi
n
g
: How young
chimpanzees di
scover s
ur
f
a
c
e
s through a
c
ti
ons
with o
b
j
e
c
t
s を投稿,現在審査中です。 口演は,
えられるにとどまっていました。 しかし今では若い
4月の日本赤ちゃん学会第 3回学術集会シンポジウ
デザイン史専門家がどんどん育ちつつあることに隔
ム 「
共同注意の発達ー社会的認知│
における意味と役
世の感があります。 なぜか女性が多く、みな語学堪
割」で行いました 。 また,指導大学院生である,博
能で、上記の会誌はすべて英日パイリンガル投稿。
羽生の水野友有さんが,論文 「
チン
士後期諜程第一J
すでに旧世代に属する私はこの流れについてゆける
パンジーの母子コミュニケ ー ション
か心配ですが、日本発のデザイン史を海外にむけて
の発達的変化
発信することはさきのウ
7 ダム氏も熱望していまし
f
こ。
1
0月には梢想 ・企画段階からす胡 っと関わってきた
生後 4ヶ月間
」により,博士学位 (
学術) を授与
2004年 3月)
。 チンパン
されることになりました (
ジー乳児にも,新生児微笑の生じることを明らかに
し,社会的微笑や泣きによる母子相互交渉の発達を
仏壇関係の大型イベン卜 「
座 .BUTSUDANJ (
全
とらえたものです。比較認知発達研究の領域に大変
国伝統的工芸 品仏壇仏具展、 彦根仏壇展、その他の
興味深い新たな知見をもたらしたことが評価されま
イベント群)が米原町と彦根市で同時開催され、成
した 。博士前期課程の井本将志さんは,福岡県北九
功裏に終わりました。 これまで業界関係者だけの行
州市の到津の森公園にお世話になり,双子チンパン
事だったものを 一般の方にたくさん来てもらえるイ
ジー (
キララとクララ )の描画を観察して修士論文
ベントにするにはどうしたらよいのか、彦根仏恩組
にまとめました。
合の人たちと案を繰ってきたことが現実の出 来事に
なりました 。夜、にとっては、本学 に着任してまもな
学部 4回生ゼミでは
4人が卒業論文にとりくみ
ました。全員が市内の保育園に受け入れていただき,
く仏壇組合の人たちと知り合い、その後もたびたび
1- 2歳児のことばや物遊び,
つきあい続けてきたことの集大成でした。 メイン会
遊び
2- 3歳児のこ、っこ
場の受付嬢を務めてくれたのは私のゼミの 学生た
4歳児のことばと描画, 5- 6歳児の給食場
面での会話など、子たちの園での生活をさまざまな
ち。同時開催の記念講演会 (
ひこね市文化プラザ)
視点で観察しました 。学部 3回生ゼミでは,フィ ー
では、本学ともご縁のある山折哲雄さんに講演して
ルドワークについて文献による学習を進めたのち,
いただきました。
彦根市や長浜市で最近設立された NPOの活動を取
県内デザイン団体のデザインフォーラム SHIGAで
材しました 。 さまざまな問題意識に触れた ことを、
はユニバーサルデザイン研究会が続行中。県・健康
卒業研究に生かしてい ってほしいと思います。
福祉政策課の主催する 「
淡海ユニバーサルデザイン
0年研修会、
社会活動としては,滋賀県幼稚園教諭 1
懇話会 Jにも委員として出席。県としてのユニバー
滋賀県理学療法士会の定例研究会、時l良養護学校校
サルデザイン行動指針のまとめに関わっています。
内研究会,彦根市立教育研究所調査研究発表会、県
1
0
4・人間文化
人・間・文・化・通・信
立安曇川高校などでの講師を務めました。 NPOの
2
0
倍の大きさの埋め立て地であり、日本と同様の社
Jゃ 「ポポハウス (彦根
「
元気っ子クラブ (
長浜市 )
会問題が噴出している地域で 、小さな小学校を借り
市)
J の活動、甲良養護学校の保護者や教師で進め
50名との共同生活を行
切って、韓国中の大学生約 1
ておられる障害児 ・者生活支援活動 r
Mel
o
d
yJに
った。他に韓国との関連では 、 6月にソウル大学の
も,学生とともに参加し ました。 また,臨床発達心
建築学科のゲストクリティックを担当。 また 5月に
理士としては、彦根市 内保育 園からの依頼を受けて,
SAスクールの南イタリア 世界遺産ツア ーを学外実
随時発達相談を実施してい ます。 さらに、彦根市教
習の講師として同行した 。その中で訪問したイタリ
育委員会生涯学習諜主催の生涯学習通信講座 ・現代
アの巨匠ジオポンティ設計のソレン 卜のホテルはイ
教育講座で講師を担当し、「赤ちゃんは未来からの
ンテリア、家具、建築すべてにおいて研究対象とな
贈りもの (
全 5回)
Jを執筆しました。
る至宝であ った。秋には、京都の西乙訓高校でデザ
インに関する授業を行った。
・研究室活動
4月早々に、昨年に引き続き北陸地域アルミ産業
ベルト地帯の工場視察を行った。今回は足を延ばし
て、能登地方の漆職人の現場を見て歩き、大小零細!
の地域産業 を感じてくる ことができた 。 9月には、
ゼミ生をフィレンツエで靴職人に弟子入りさせた 。
沈んだ試みである 。 また、フ エラーラ市役
卒業後も l
所の自転車訴を訪問して自転車交通によるまちづく
りの実践を調査した。それから、北イタリアの木工
産業調査をゼミ生 2人と共にスロベニア国境近く の
アパー トを借りて行った。その時の両学生の感想文
が写真 と共に雑誌「室内」に掲載されている 。その
後、ピエモンテ州ブラにあるスロ ーフー ド協会の本
町なみ見学(八幡堀)
部を訪ね、 2年毎に行われている世界チーズ祭りに
参加 した 。車で約 2
5
0
0キロの行程であ った。
1
1月には、昨年より通っている奥 1
1
9万十川の大正
-印南比呂志(いんなみひろし)道具計画論
着任後 2年が経過し 、多彩な人間関係に恵まれ、
問l
においてゼミ生らとモニタリングツアーを行 っ
た。地元のお年寄りから料理や草社、竹能づくりな
近江に根を張りつつある 。受託研究、特別研究、在
どを伝授してもら った。 これら活動は、現在進めら
外研修、地域研究会など充実した I年であ った。
れている 1
1
1
]村合併協議会への意見書として、まちの
4
砂教育活動
価値づくりへの支援としていきたい。
今期からデザイン専攻 1回生向けの新設科目 「プ
レゼンテーション技法」 を開始したが、 3学部全学
。デザイン活動
約 4年間携わ ってきた東品 川プロジェク卜が 6月
年に i
度る約 2
0
0名の履修希望者が待ちかまえていた。
に竣工した。サイン環境デザインを担当したもので
講演形式ではなく、もの 、材 料、手先までもが凝視
ある 。「新建築 J2
0
0
4年 1月号に掲載。 ソウルです
できるスケールの対話授業を想定していただけに 、
す め て い た 複 合 ビ ル プ ロ ジ ェ ク ト も 竣 工 した 。
結局、教室及びカリキュラムの再考を迫られた 。
棚瀬先生宅をモニタリングさせていただき、民家の
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3年 6月 号、
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MARU
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3年 9月号に掲載。数年前から│刻わ っ
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a
l
l
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ている北朝鮮国境横の文化村 l He
照明デザインを実践した。 また、食器のパ ッケージ
開発プロジェクトも 1
0月に 町開きのイベントが行わ
「
道具デザイン演習 Jにおいては、地域文化学科の
デザイン課題においては、彦根の食器メーカーの協
れ、徐々に界│渡性ができつつある 。現在ここでは 3
力で倉庫で授業を行い、現場を経験した。
つのプロジェクトに関わっているが、 2
0
0
4年中に完
7月の環琵琶湖実習では米原・上丹生の木工職人
了予定である 。
村に滞在した。 このときの調査報告書 は地元にも利
埼玉県中小企業振興公社よりの依頼でスピーカ ー
用してもらえる資料となるよう、編集、印刷の基礎
のベンチャー企業の支援が始まった。 このデザイン
勉強も含め魅力あるものが完成した。
開発の技術調査のために、
今年から単位取得が可能となった 「
生活デザイン
0日間を韓国のセマン
学外実習」では、 8月初旬の 1
グムでワ ークショップを行った。長崎の諌早湾の約
1月ラスベガスでの CES
ショーに赴き、世界中の技術者と交流を行 った。
近江地域における地場産業との関わりについて
は、守山の手1装小物メーカ ー と協同で新しいカ ー ド
人間文化・ 105
人・間・文・化・通・信
ケースの開発を行った。滋賀県工業技術センターを
管理が簡単に正雄 に実行できる よう、調理学実 験
窓口として研究を続けてきた成果がやっと 実ったも
(塩分の精度管理があ いまいになりやすい調理、魚
のである 。実用新案登録も済ませ新年 より販売開始
類の照り焼きについて 、つけ込み│時間別・脂肪含有
となった。 また、彦根の食採メーカーからの受託研
量別塩分測定) にてその方法を検討した。
究で、新しい食器のデザイン開発を行っているが、
①血圧降下効果があるとされている食酢、干し椎
食器のみならず、彦根市内の飲食業の活性化も含め
茸を用いて、その効果について検討。 さらに、その
たコンサルティングにまで発展している 。 これと同
応用として、 7
成:fJ.1食の献立作成(コツとレシピ)、
様に 、現在水口の酒造メ ーカーの広報物のデザイン
椎茸酢を使った献立の提案についても研究した。
コンサルも行 っているが、これらの活動にはすべて、
来年度 に向けては、 ① 、①の研究の他、新調理シ
わが研究室のメンバ ーや本学卒業生が関わってい
ステム(真空調理)を利用した集団給食管理に関し
る
。
て、調理研究 を通して、給食経営管理の経済性、合
学内プロジェクトとしてのホ ームペ ー ジ製作や、
理性、 細菌学的 ・食品衛生学手法により安全性等に
キャンパスガイドのデザインなどにも、これからは
ついて研究の予定である 。
学生 を参加させようと考えている 。
4
砂教育活動
.社会活動他
スローフード協会滋賀支部を 設立する ために、イ
今年度は
r
l
啓好と調理実習」、「給食管理実習 J
、
「
給食管理」を担当 。経験を活かし、具体的な内容
タリアの本部との交渉を開始。近江の食文化、農業、
となるよう努めた。
流通、サービスなどの情報拠点としていきたい。
.社会活動
2
0
0
4年 6月よりイタリアのピエモンテ州とロンパ
十
│
に食の総合大学が設立される 。食に関す
ルデイア j
養指導に協力した。
地域医療への参画として、彦根市立病院の外来栄
る科学、芸術、哲学、経済など全てにおける教育を
5年聞かけて進められる 。食器という道具の研究を、
この大学と述携して行っていくための交渉が現実的
になりつつある 。
[受賞]
「千葉おゆみの駅景観計画」一連の実績に対して
土木学会デザイン賞優秀立を受賞
[講演]
国道明美保子(どうみようみほこ)染色学
ここ数年、染色の伝統的技法を現代の科学から検
証し、さらに発展させていく方法を探ろうとしてい
る。
4
砂海外調査
4月には、藍染文化協会の方々と 、中国 j
昆州郊外
の宜 山鎮の農家の板締め工房を訪ねた 。正倉院の御
「
地域産業とまちづくり 」 シンクタンク KHDI
物の中にみられる 「
爽綴」 といわれる板締めの技法
(7月3
1日・ソウルロ ッテホテル)
は、江戸時代以降、京紅板締め、山陰の藍板締めの
「パッケージデザインについて」滋賀県酒造組合
中に、大正時代まで問機なものがあったが、現在は
(
1
0月 1日
・ 滋賀県工業技術センター )
その工程を見た人も亡くなり、知ることができない。
「
景観形成とまちづくり JH
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中国の板締め工房がまもなく廃業されると聞き、記
(
1
0月 3日 ・韓 国へイリー情報館)
録に残す最後の機会と考え出かけた。 また、藍印花
rUDセミナ ー滋賀 j コーデイネーター
布染色工場の見学やシルク博物館を訪問し、参観 ・
(
12月 1
9日 ・ピアザ淡海)
「
地場産業の商品開発とデザイン j彦根市商工謀
(2月・彦被市役所)
交流し 、多く の知│
見を得ることができた。
4
・学会発表
羊毛や絹、和紙なと苧に対する 低温で の等温平衡染
色を行い、染料の疎水性や繊維、染色条件による染
-吉田龍平(よしだりょうへい)給食経営管理論
給食経営管理関連の研究に取り組んで、いる 。今年
度の研究は、次のとおり 。
①要介護高齢者のための食事づくりや医療機関等
における摂食 ・
!
I
旅下困難者のための食事調整のため
色結果の熱力学的諸関数値を比較検討し、日本家政
学会第 55回大会で発表した。 また、秋の日本家政学
会では、廃棄される花弁の色素の有効な染色方法を
検討した結果の一部を口頭発表した。
4
砂教育・地域貢献
の基礎実験(各種とろみ斉J
Iの粘度等調理学実験)に
今年度は 4人が卒業研究に取り組んだ。定員 2名
基づき、医療機関等の状況を把握し、介護食、摂
が限度の狭い研究室で、限られた設備・機器を活用
食・膜下困難食に有用な調理の研究を行い、献立作
し、各人が工夫し、研究成果を 出した。試料は、花
成、料理指導のための資料作成を行った。
弁、柿渋、名物裂、キチン/セルロ ース複合繊維と
②高血圧、糖尿病、高脂血痕、虚血性心疾患など
様々だが、染料 ・染色に関する検討であった。 これ
の生活習慣病の治療 ・予防に 必要な塩分制限の精度
らの研究内容が、今後後輩に百 │
き継がれ、さらに深
1
0
6・人間文化
人・間・文・化・通・信
められる ことを期待している 。
正j
切に作られた覗きからくりを調査した。押絵に透
社会活動では、前年度 に引 き続き、多賀町生涯学
かし絵がほどこされた見事なもので、「幽霊の継子
、 草木染め講座の講師を
習講座(前 ・後期) 6日間
いじめ」 という不思議な物語 とあいまって想像力を
務めた。その成果は、草木染めによる作品展示とし
かきたてられた。物語の由来については 「人間文化」
て発表され、好評を得た。
に書いたが、いずれからくりの仕組みについても詳
細に論じたい。
美術ライターの山下型加氏の誘いで文楽を定期的
-岡本秀己(おかもとひでみ)健康栄養学
今年は来年度からの「地域の保険医療機関と連携
に見るようになった。文楽の背景画は、遠近法を強
した栄養管理 ・栄養教育システム 研究」の準備段階
調した透視図法で描かれている こと が多いが、これ
として、彦根市立病院で半年間患者の栄養指導を実
はじつは覗きからくりで用いられている「浮絵」 と
際にさ せて いただき、改めて健康における栄養管理!
同様のものだ。覗きからくり はそもそも 「
竹田 から
の重要性とその効力には驚かされた。 この経験をぜ
くり 」 と呼ばれる文楽のル ー ツから発祥したものだ
ひ研究・教育に活かして行きたい。栄養士として卒
が、文楽の背景画との関連について述べられた文章
業する本専攻生のみなさん、栄養士とはすばらしい
を寡聞にして知らない。 このこともいずれ詳しく 論
職業ですよ 。
じねばならないと思う 。
夏季を利用してヨーロッパの寺と 美術館、図書館
.研究
「
高齢者の身体活動と骨密度に関する研究」彦根
刻する研究」指定介
「高齢者の ADLと骨寄度に │
護老人福祉施設
I
台告知」 をは
を巡 った。 フラ ・アンジ、ェリコの 「
受J
じめ、数々の受 Jlt 告知 I~ を比較することができ、こ
市立老人福祉センタ ー
特別養護老人ホ ーム青浄苑、長
れを視覚変容とコミュニケ ーション論から論じるこ
とができることに気づいた。 このアイデ イアは本年
度の 「こころの自然誌」の講義に取り入れた。また、
浜市
「
高齢者の ADLと骨密度に │
刻する研究 J 介護老
人保健施設
長浜メ デイケアセンタ一、 長浜市
「
地域住民に対する生活習慣病予妨対策としての
栄養食事指導
血清脂質異常者に対する健康・ 栄
大英 │
百l
!
,
?館で 2
0世紀初頭の絵葉書文献を調べ、発祥
期の絵葉 書文化や絵菜,!?による日英交流について知
004年より雑誌 「
ユリ
ることができた 3 この知見は 2
イカ 」で始まる述載に生かされる予定。
彦恨は近江八景と花んで、 明治則に 多くの写真絵
養教育とその成果について 」滋賀県甲西 1]
「
非侵襲な手法を用いた生体評価I
I
パラメ ー タの統
葉占が発行された場所である 。以前から彦根の絵葉
合と応用化 j ,平成 1 4~16 年度文部科学省科学研
古ーを見つけたらなるべく買い集めるようにしていた
究費 (
萌芽的研究)
が
、 2004年度はこれらの絵薬害が撮影された場所を
.論文および学会発表
特定す る作業を通じて、環琵琶湖文化論実習と 市民
.D
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nhumanu
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son
diurnal vari
a
ti
o
n
s
. February 2003
The
プロジェクトの連動を考えている 。
本年度に行ったジ ェスチャ一実験から、記憶の問
題と ジェ スチャーの生成には密接な関係があること
!n
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l7
7
.
American J
o
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n
a
lo
fCi
がわか ってきた。おもしろいことに、ある状況下で、
4
0
6
4
1
0
I/{ナナ摂取形態の追いが持久迩動 I
時のエネルギ
は、話している人よりもそれを聞いている人のほう
が訴の内容をよく覚えているという結果が出た 。従
一代謝および疲労度に及ぼす影響 j, 日本体力医学
来、記憶の問題は例人の問題として研究されること
会第 1
7回近畿地方会
が多か ったが、相互作用としての記憶についても っ
滋賀
.I
水溶性ビタミンの食事摂取基準の妥当性の検討 J
平成 1
5年 5月日本ビタミン学会第 5
5回大会
烏
1
'
1
[
1
と考える必要がありそうだ。 これに ついては 、社会
I
J
¥科学研究会などで発表した。
言話学会、次世代人I
「ライフコーダによる日常生活活動量の評価 1
-誤
差 にでる活動の測定サイドでの補正の可能性J 平
成1
5年 9月
第5
8回日本体力 医 学 会 大 会 静 岡
「ライフコ ー ダによる日常'生活活動量の評価トラ
l
が難しい身体活動 J 第58四日本
イフコ ー ダで、詳細i
体力医学会大会
静岡
- 細 馬 宏 通 (ほそまひろみち)コミュニケーション論
新たな見聞の多い 一年だ、った。
2
0
0
3年 3月に、新潟県巻 1
1
1
]郷 仁資料館を訪れ、大
-宮本雅子 (
みやもとまさと)インテリア計画
今年度は、主に 2つの研究テ ーマに ついて取り組
みました。
まず、高齢者の色彩感情について (
科学研究費基
盤砂防''e (C)) は
、 CIE2003で I
PHYSICALAND
PSYCHOLOGICAL CHANGES IK COLOR
APPEARANCEWITH AGINGj を発表 しました。
今年度は、室内色彩としてソファと壁而をとりあげ、
l
U
i実験を行い
高齢者および大学生を被験者とした評 f
人間文化・ 107
人・閏・文・化・通・信
をもたらすのだろうか。 また、子どもの発達ととも
ました。
京都女子大学短期大学部の図 1烏助教授との共同研
に、親の子どもに対する意識や行動はどの よう に変
)I
住宅における効果
究(科学研究費基盤研究 (B)
わるのだろうか。 こうした問題意識にもとづき、妊
的昼光利用と光環境の快適性に関する基礎研究 j で
娠中から出産後までという長期にわたり、子どもと
は
、 1昨年度の実態調査の結果をまとめつつあると
その親のようすを調べている (
滋賀県立大学人間文
ころです。 また、今年度は 「ウインドートリートメ
化学部 ・竹下秀子先生、京都府立大学・五十嵐稔子
ントとして燦を利用した場合の室内と屋外の明るさ
先生との共同研究)。聞き取りやアンケ ート 調査、
の違いによる在室感や屋外からの室内の見えやす
実験による測定など、さまざまな 心理学的手法を用
さ」および 「
前室 と居室の明るさの違いによる 居室
いて、殺の側の変化と、子どもの身体的 ・心理的変
の明るさ感Jについて検討しました。
また、昨年度までに行った戸建住宅のアプローチ
化を調べ、双方の関連性を明らかにしようとしてい
る。
の実態調査の結果をまとめ、 「
戸建住宅の玄関アプ
2)霊長類研究者およびヒューマノイ ド・ロ ボッ
ローチの現状と居住者の意識」 について日本建築学
ト (ヒトらしい身体をもっロボット )の構築をめざ
会大会で発表しました。
す工学研究者との連携による模倣研究:ヒトは進化
f識された生活デザイン 学外演 習 で
今年度から日J
の過程で、模倣という能力を特異的にもつことで、
は
、 「中山道守山宿ふれあいの場計画」 と題し、学
生たちゃ町の人たちとともにまちづくりに取り組み
どのような知性を獲得し、ヒトらしさを成り立たせ
てきたのか。 ヒトとチンパンジーの模倣能力にみら
ました。学生 にと っては、 実際に使う人の立場に立
れる類似点や差異を探るために、行動レベルで厳密
ったものづ くり体験ができ、良い経験にな ったと思
な統制下で比較する研究をおこな っている(京都大
います。
学霊長類研究所・松沢哲郎先生との共同研究)
。 さ
。社会活動
今年度から守Ll
J
市 UDまちかどウオッチャーのこ
知見と統合し、検討することでヒトの認知モデルを
ころづくり部会に所属していますが、地域内の人と
作成することを目標としている (
東京大学工学部 ・
人とのつながりの大切さを感じています 。 また、
「
住みよい福祉のまちづくり立」審査委員会の委員
図吉康夫先生らとの共同研究)
。
3) ヒトという種にのみみられる認知機能が、ヒト
として審査に加わることができました。今後ますま
の脳のどの部位にあり、また、どのように可塑的に
す、誰にと っても住みやすいまちづくりが進むこと
発達的に変化していくのかを 、!lì~科 学 の分野から調
が期待されます。
べる試み:模倣や視線の認知機能に関連する実験を
-明和政子(めいわまさと)比較認知科学
「ヒトの認知能力は、どのような生物学的基盤を
もち、いつ頃、どのように、ヒトに特有のものとし
の活動を 、 fMRIや光トポグラフイーといった非侵
らに得られた結果を 、工学という奥分野の研究者の
ヒトの乳児におこない、その聞にみられる脳内部位
裂的(苦痛を伴わない)手法を用いて調べようとし
ている 。
て発達するのかん こうした疑問を明らかにするた
め、これまで、社会的認知、他者理解、コミュニケ
.
f
:
公嶋秀明(まつしまひであき)臨床心理学
ーションにかかわる実験研究に取り組んできた 。具
本学に赴任して初年度ということもあり、教育活
体的には 「
比較認知科学
」 とよばれるアプローチに
動においては試行錯誤しながらのとりくみであ っ
より、ヒト、ヒトに系統的に最も近縁なチン パ ンジ
た。学生との対話の場を設けるための授業感想文を
一、小型類人猿に属するテナガザルなど、ヒトを含
実施したり、意見発表の場を多く設けた。卒業研究
めた霊長類の乳児を対象として、 「
身体による模倣」
の指導にあた っては、ストレスと身体化の問題、あ
と「他者の視線の認知」 をテーマとしてきた。
平成 1
5年度からは、以下の 3点の研究課題に取り
組みはじめた 。
1)ヒトの母子を対象とした 「
親と子の発達j に
るいは死の受容、素朴感情概念、介談者の発達とい
ったテーマでとりくんでいる 。加えて、本年度後期
からは学生相談室担当となり、迎 2コマ分の相談業
務を担当している 。
関する研究:コミュニケーション研究を遂行するう
研究活動としては、まず、雑誌論文として以下の
えで重視しなければならない点は、その相互作用的
3編を発表した。いずれも、筆者が大学院時代から
な側面にある 。発達的に変化するのは、子どもの側
とりくんでいる更生保護施設のけるフィ ール ドワー
だけではない。子どもの生活世界が広がるにつれ、
クがもとにな ったものである 。 ともすれば自明視さ
子ども同士がかかわる機会が増えれば、親同士の社
れる 「
非行少年」の問題概念そのものが、いかに
会的なネットワークも変化し、より広がりをみせる 。
社会的関係性のなかで作られていくのかということ
子どもの誕生は、親の心理I
I
や行動にどのような影響
を、エスノグラフィー的記述によ って明らかにした
108・人間文化
人・間・文・化・通・信
一方、食品の価絡を通して食文化現象の変遷を探
ものである 0
・松嶋秀明 (
2
0
0
3
) .非行臨床のナラティブ・プラ
ろうとしている 。魚介類、野菜類、果実類の価格変
クティス現代のエスプリ, 433.
12
9
-1
41
.
動の特徴を分析することで、動物性食品と槌物性食
-松嶋秀明 (
2
0
0
3).関係のなかで構成される 「
非
品の価格変動を比較し食生活の変化を探 ってきた 。
そして、 1
5年度生活文化史学会総会で発表すると共
行少年」 発達.94,5
167
-松嶋秀明 (
2003).非行少年の「問題」はいか に
語られるか:ある更生保護施設 l
隊員の諾りの事例検
に、論文 (食品の価格からみた食生活文化現象 -生
活文化史
N0
.
45
)にまとめた。
また、最近話題になっているスローフードにつて
.
討発達心理学研究, 1
4
.1
11
また、著書として は以下のものが発刊予定である 。
月刊誌メニュー・アイデイアに分担執筆する機会が
心理学は一般に人気あるが、その実態となるとほと
あり、伝統食の重要性を再認識し、現在の食生活を
んど知られておらず、疑似心理学的な 言説と間違わ
見直すよい機会を得ることができた。
れていることも多い。本書は初学者や一般読者にも、
そのエッセンスを損なうことなく心理学の面白さを
伝えようと志されたものである 。筆者はこのうち第
1章の臨床心理学を担当した。
-進藤聡彦・尾見康宏(編著).
心理学の視点 (
仮)j勤草書房
r
現代社会を見る
園浦部貴美子 (
ううべきみこ )食品加工・保蔵
雑草をも含めた野革、また植物性食品に由来する
廃棄物など、未利用植物資源の有効利用をめざすた
めの基礎的な研究を行っています。 これまでに、抗
菌性や消臭性を持っている 野草のスクリーニングを
学会発表としては 以下の 2つを行 った。前者はお
ほぼ終え、高い消臭性あるいは抗菌性を示す野草 を
金の問題を 、社会的な視点からとらえなおそうと企
見いだすことができました。現在、作用に関わ って
画されたシンポジウムである 。子育て、教育、非行
いる成分を明らかにするための実験へと進む一方
、
といった様々なテーマから話題提供が行われた。筆
一般栽培野菜や山菜との比較を行ってきました。そ
者は指定討論を担当した。後者は筆者がこれまで
の結果、多くの野草は一般栽培野菜よりはるかに強
に発表してきた諸論文を反省的に再検討したもので
い作用を示し、また 三次機能を持つ成分としてのポ
リフェノールにも 寓んでい ることがわかりました 。
ある 。
-松嶋秀明 (
2
0
0
3
) お金と逸脱.日本教育心理学
このことから、野草は 、生理活性物質を始めとした
大阪教育大学
さまざまな機能を示す成分を豊富に含んでいること
指定討論
-松嶋秀明.(
2003) 観察者の 「
私j の物語り的構
が予測されます。今後はこの点についても検討を行
成という方法.日本心理学会第6
7回大会.東京大学.
4
砂発表論文および学会発表
会第49回 大 会 自 主 シ ン ポ ジ ウ ム
最後に地域貢献としては、 8月に行われた滋賀県
の新人教員研修会において、青年心理学というテ ー
マで講談をおこなった。実習をとりいれた講議形式
が好評であった。
他に、いくつかの NPOの活動に臨床心理学者と
っていきたいと考えています。
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-野草抽出物による E
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sの生育抑制:日本食品
科学工学会誌, 5
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5
5(
2003).
微生物の生育抑制効果:日本食品科学工学会第
49回大会発表 (
2002年 9月,名古屋)
いう立場からかかわった。来年度以降も継続しでか
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s法により測定した野草 中の総ポリフ
かわっていく予定である。
ェノール量.日本農芸 化 学会 2004年 度 大 会 発 表
-藤津史子 (
ふじさわふみと)調理と食品機能
ここ数年、漢方等で言い伝えのある食品の温冷効
果について、その科学的実証を目指して研究を進め
.共同研究
パイカモの食素材化に関する研究:パイカモ
ている 。今までにいくつかの食品について温・冷効
適否の判断、組成分析、加工・調理法に関する基礎
果があるのか否か食品群別に検索し、柿が身体を冷
的情報の獲得 (
米原町商工会)
(
2004年 3月,広島)
(
梅花藻)の特産品化を目指して、食素材としての
やす効果が有ることを報告してきた 。本年はショウ
野草拙出物の魚、臭に対する消臭効果に関する研
ガの温効果をまとめつつある。また、昨年から取り
究:野草抽出物など天然成分を用いて養殖トラフグ
入れている皮膚温の変化 と同時に自律神経活動の i
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偲周辺組織に発生した臭い を消す方法の開発 ((株)
定を平行して行い、温冷効果の発現の仕組みを探る
関門海)
とともに、 一定の傾向がみられた食品を選び、一歩
進んで、成分を目指す方向で実験を進めてきた。 し
-山根
かし、ヒトを対象とした実験の困難性を感じた 一年
・調査研究活動
2002年 7-8月にかけて、インドの都市 ・建築研
であった。
周 (
やまねし ゅう)地域生活空間計画
0
9
人間文化・ 1
人・間・文・化・通・信
究者を中心とするグループでおこなった、インド、
-その他
カッチ地方でのインド西部地震による歴史的建造
2001
.5-2003.12の約 2年半務めた日本建築学会誌
物、歴史都市の被害実態調査の結果をまとめる作業
『
建築雑誌』編集委員の仕事が終わった 。建築学の
をすすめ、報告書として刊行した。 この活動は今後
各分野の方々と議論する作業は、視野が広がる楽し
も継続し、被害を受けた歴史的建造物や伝統的街区
いものだった。期間中、学会誌で初となるインド建
の修復、復興に役立てるための、さらなる調査研究、
築特集のほか、木質構造の特集などに関わり 、 また
修復計画案の作成などを行う予定である 。
「
地域の眼 (
まなこ)Jと題する連載コーナ ーを担当
また、数年来作業を続けていた長浜市史地域文化
した。 自然環境と共生的な関係を築き、歴史的遺産
財編がなんとか刊行の運びとなった。私は市南東部
を継承する、持続性をもった公共事業やまちづくり、
の西黒田地区、神田地区の担当であった。地区内を
住宅設計を模索する新たな動きが各地で活発に展開
くまなく歩き回り、地域の人々に継承されている文
していることを知ることができた。折しも滋賀県で
化財を確認、発掘する作業は楽しくもあったが、 一
は豊郷小学校問題が注目されていたこともあり、地
方で具体的なモノや空間から地域の歴史を考えるこ
域文化財の活用のあり方や地方の公共事業をめぐる
との難しさを感じさせられる作業でもあった。
構造など、多くを考えさせられた。
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カッチ地
方における 2
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2年度の調査報告書』 グジャラート・
プロジェクト研究グループ編 (
2
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3.
3)
∞
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「
豊郷小学校問題が意味するもの J 建築雑誌』
(
2003年 9月号)
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「
複眼的眼を、そして地域の眼を J 建築雑誌j
2月号)
(
2003年 1
『長浜市史第 7巻 地 域 文 化 財』長浜市 (
2 35
)
「パラマリボ(スリナム)の都市形成と宅地割に
関する考察 H 日本建築学会計画系論文集 j(投稿中)
。教育活動
これまで 5年間継続してきた 「
木匠塾」の活動が、
今年ー度より新設された 「
生活デザイン学外演習」の
ープ ログラムとして実施できる ようにな った。また、
これまでの開催地である 奈良県川上村に加えて、 滋
賀県多賀町でも同様のプログラムを実施できるよう
になり、単位化ともあいまって43名の学生が参加し、
かつてない規模での実施となった。川上村では 8月
上旬に、多賀町では 9月上旬にそれぞれサマース ク
ールを開催し、間伐材を用いたアスレチック遊具な
どの制作や林業体験をおこなった。多賀町では、地
環琵・今津ヴォ ーりズ資料館の見学(今津町)
元の建築家で環境科学部の非常勤講師も務めておら
れる中西先生や、同じく地元の建築家竹内さんらの
指導と協力を得て、初めての実施ながら大変充実 し
-福渡
努(ふくわたりっとむ)食昂栄養学
ヒ卜、実験動物、培養細胞を用いて、ビタミンや
た活動をおこなうことができた。その様子は新聞や
アミノ酸などの食品成分とヒトの生理機能の問に成
テレビでも取りあげられた。学生たちが目を輝かせ
立する複雑な 相互関係を解明することにより、食生
て作業に取り組む姿がとても印象的であり、現場を
活を通じて現代人の健康に寄与したいと考えていま
体験させることの重要さを改めて強く感じた。 1
2月
す。現在は日本人の水溶性ビタミン必要量を明らか
には│岐阜県立森林文化アカデミーの三津文子先生を
にすることを目的として、 「食品中のビタミンの生
招き、地域産木材を使 った住まいづ くりの講演会も
物有効性に関する研究」、 「
内分泌、撹乱物質がビタミ
実施した。木匠塾は、環境科学部の先生方と共同で
ン代謝におよぼす影響」、「
疾病や加齢などがビタミ
進めている特別研究 「
木造建築・木造文化の継承発
ン代謝におよぼす影響j などに取り組んで、います 0
展および木造文化を基盤とした地域再生をめざす総
.発表論文
合的な研究・教育・実践プログラムモデルの構築」
-ラットにおけるインスタントコーヒーのナイアシ
におけるプログラムでもある 。木を通して地域の森
,
7
7
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.
ン活性. 日本家政学会誌 (
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) 54
(
1
)
林環境と生活環境が循環的に持続する、新たな木の
.Diurnal variations i
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文化を創造することを目指し、教育、研究、実践を
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n Nutr (
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結びつける総合的な活動として、木匠塾を継続発展
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させていきたいと考えている 。
110・人間文化
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人・閏・文・化・通・信
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5年 1
1月・大
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他 8編
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2003)
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2003)
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- 脇 田 晴 子(
わきたはるこ)女性史・中世商業史
2003年はまあまあの年であった 。あいかわらず駆
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け足のうちに 一年が過ぎ去ったことは変わりはない
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けれども 。 4月 5日には福岡で開かれた医学会総会
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のジ、エンダ一部会で「ジェンダーと女人禁制」の報
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告をした 。 そのついでに小貫先生のご紹介で、 「グ
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リーンスト ックの時代」の著者、熊本大学の佐藤誠
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ご夫妻の案内で、阿蘇のグリーンストックの実際を
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2004)
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みた。 ここ 1
5年ばかり懸案の 『
天皇と中世文化』 を
-内分泌撹乱物質候補ビスフェノールA、スチレン
だしたが、各新聞が取り上げてくれた。直ぐにわか
モノマーによるトリプトファン?ニコチンアミド車元
ってもらう本などを書いてはダメだ。十年ぐらい経
換経路の撹乱作用.食品衛生学雑誌 (
2004)印刷中
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つてはじめて評価されるものでないと、というのは
林屋辰三郎先生の 言だが、そして私も、そう思って
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いたが、やはり悪い気はしない。去年出した
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hemetabolismo
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:被差別民の研究 Jが角川源義賞をもらった。
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.その他
そして去年は、春に 「
求塚」、秋に 「
井筒」の演
能をした。どちらも間狂言は夫の修である 。そして、
・脂肪と味覚.肥満研究 (
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(
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1
8
1
2月中旬から 1ヶ月南インドのポンドシエリーの郊
・ナトリウム依存性マルチビタミン (
パントテン酸,
外にある芸能研究所にお招きを受けて行った。毎日
ビオチン, リポ酸) トランスポーターに関する最近
晩には、現代 ・古典とりまぜてパフォ ーマ ンスがあ
の動向.ビタミン (
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) 77 (
5
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り、アンタ ッチャフールの芸能も 三つほど見た。それ
・ニコチンアミド代謝が寿命を支配する.ビタミン
はすこぶる興味があった。夜、も能楽を中心とする芸
(
2003)77
(
8
)
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6
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0
能史の講義と 「
舞燐子Jを演じた。古典芸能者や映
。書籍
画や舞台の l
常督、男女の俳優、研究者などで、それ
・マッキ一生化学(第3版)
分子から解き明かす
ぞれ演技をして説明するので、結構面白かったが、
生命 (
共訳).化学同人, 2003年.
菜食主義でお酒も飲まず、修道僧のような生活だ、っ
4
砂講演
た。 インドの人はどうしてあんなに求道者的なんだ
「
脂肪の美味しさのメカニスム 」 日本油化学会主
催油化学関連シンポジウム
1
1
1香川(平成 1
5年
高松市)
I
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曲目旨の美味しさについて」
ろうと思 った。
7月 ・
- 高 谷 好 一 (たかやよしかす)地域研究
日本植物油協 会主催
最後の年ということで雑用からは解放していただ
2003年植物油栄養懇話会(平成 1
5年 1
1月・東京都)
いた 。おかげで 2冊の本を書くことができた 。『地
.学会発表
「フタル酸エステルがトリプトファン
域学の構築一大学改革の基礎』 と 『
二人の湖I!Ijで
ナイアシ
ン代謝関連酵素におよほす影響 」 日本農芸化学会
2003年度大会 (
平成 1
5年 4月・藤沢市)
「ヒト妊娠時におけるトリプトファンフナイアシ
ン代謝変動」第5
7回日本栄養 ・食糧学会大会 (
平成
1
5年 5月・福岡市)
「
水溶性ビタミンの食事摂取基準の妥当性の検
討 :V
I ナイアシン 」 日本ビタミン学会第55回大会
(
平成 1
5年 5月・出 雲市)
ある 。 ともにサンライズ 出版から出した。先のもの
は黒田、武邑両氏とともにやってきたゼミの過去 9
ヵ年を振りかえったものである 。堅苦しい書名にな
っているが、実際にはゼミ生の文章なども多く入れ
て柔らかいものであり、結構楽しみながら書いた 。
出版社からは“身近な人には面白いかも知れないが、
絶対売れませんよ 1" などといわれている 。
後のものは安土優さんとの共著である 。二人でよ
く一緒に山を歩いていた。今度もたまたまいっしょ
「ヒ卜およびラットにおけるカツオ由来ナイアシ
に退職するので、共通の思い出に何かを作ろうとい
ン高濃度含有パウダ ーのナイアシン活性」第25回日
うことで合作にしたものである 。前半に安土さんの
人間文化・ 111
人・間・文・化・通・信
絵数十点をのせ、後半には「美しい湖匡Uと題して私
の滋賀県論を書いた。ゼミ生が企画してくれて、
1
月2
3日には最終講義を行なった。i
寅題は「私はゼミ
毎月出される “
菜園家族だより"は、全国各地に散
在する参加者同士を結びつけ、大学と地域をつなぐ
重要な役割を果たしてきた。来年度以降は、こうし
を楽しみました」とした 。 いよいよ演台に立って、
た経験と実績をふまえて、小さいながらも住民参加
卒業生やゼミ生の顔を見ると、とたんに用意した演
の新しいタイプの“地域研究"誌に育ってゆけばと、
題は少し不正確だ‘ったなと思った 。むしろ、 「
私は
願っている 。 また、遅ればせながら、この問、ホ ー
ゼミ生から教わり、ゼミ生に変えられました」の方
ムページ (
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/www.satoken-nomad.com)
がよかったナ、という気がした。 9年前の奉職時に
を準備してきたが、これは、この“学校"がはじま
は、いいオカアチャンになるよう教育してやろう、
って以来、地域の人々との連携が深まり広がる中で、
などと考えていたのだが、若いエネルギーにもみく
その必要性を痛感するようになってきたためであ
ちゃにされている聞に、こちらの方が変えられてし
0
0
4年 2月末には公開の予定である 。
る。2
まった。 というのが本当だったのである 。いずれに
“
菜図家族の学校"がはじまって以来、 「
地域に
しても実に愉快な最終講義と懇談会だ、った。ありが
学び、地域に還元する Jとは、 一体どういうことな
とう 。
のか、今までになく考えてきたように思う 。 こうし
長後に同僚先生方に一言。退職するにあたって、
た状況に身をおくことによって、「菜園家族」構想
やっぱり気にかかるのは地域文化学科の将来のこと
についても、理論的にも整理し、いっそう内容を深
です。既存の専門分野を超えるものとして、地域文
めることができたように思っている 。遅れに遅れて
化学なる理想、が掲げられたのですが、その理想への
いるが、これをより充実した形にして、 『
菜園家族
接近は遅遅として進んで、おりません。相変わらず旧
仮題、共著者・伊藤恵子)として近く出
のくに j (
版することにしている 。
来の専門分野にしがみついているように、私には見
えてなりません。 このままで、は老舗の有名大学の陰
出版が遅れた浬由は、この“学校"に触発されて、
にかくれ続けて 、私達は芽を出すチャンスを失って
新たに解決しなければならないテーマが出てきたた
しまうのではないでしょうか。他大学が持たない
めである 。その主たるテーマは、 「
菜園家族」とい
「
地域文化学」 という新しい芽を、ぜひ大馬力をか
うこの新しいタイプの家族小経営を、人類史上にど
けて育てていただきたいと思います。それともうひ
のように位世づけ、それをどのように評価すべきな
とつはせっかくの県立大学です。滋賀県民の税金で
のか。そして、それは地域未来にとって、どんな意
支えられている大学でもあります。今少し大きな部
義をもつのか、という問題であった 。つまり、「家
分を滋賀のことを考えることに費やしてもいいので
族」 というものを、歴史を遡って、生産手段との関
はないでしょうか。存在感のある大学、タックスペ
連で fl~ 源的に聞い直してみなければならない必要性
イヤーへの義務ということを考える時、こんな 2つ
に迫られてきたのである 。 この問題を解決するため
のこと、 「
地域文化学の確立」 と 「地域貢献」 を強
には、原始的自然状態での人間と生産手段(生産用
くお願いせざるを得ーないのです。 どうぞよろしくお
具と土地)との関係を問いただすことからはじめて、
願いいたします。
近代資本主義の段階ではじめて出現した、生産手段
園小貫雅男(おぬきまさお)遊牧地域論
2
0
0
3年 4月、“菜園家族の学校"がスター卜した。
のない直接生産省の賃金労働者を、今日の l
時点でど
毎月第 3土曜日に本学のA4205大教室に、全国各
題を新たに考えなければならないのである 。 このこ
を失い自己の労働を商品として売る以外に生きる術
う評仙し、未来へどうつなげてゆくのか、という問
0
0名を超える老若男女が集い、 1
3
:
0
0から
地から 1
とは、科学的社会主義といわれてきた理論体系の評
1
8
:
0
0まで熱心に語り合う 。
価にもかかわる重大な問題をはらんでいるのである
が、科学的社会主義とは一体何だ、ったのか、という
こうした催しを、年間を通して毎月つづけておこ
なうこと自体、その準備を含め、並大抵の努力では
できないもである 。 この“菜国家族の学校"が、世
問題にも行きつく 。
1
9
世紀末までに、いわゆる科学的社会主義は、資
代を越え、地域を越えて学び合うユニークな“学校"
本主義超克の道として、生産手段の共有化を基礎に
に育ちつつあるのも、この“学校"の運営と司会と
社会の共同管理・共同運営を理論的にも導き出した
“菜園家族だより"の編集を担当した、非常勤講師
のであるが、それは、単万直入に言 うならば、導き
の伊藤恵子さんの力に負うところが大きい 。 また、
出されたこの生産手段の共有化の理論そのものの中
ゼミの学生や院生たちが長期にわたって、この“学
に、のちにソ連社会主義を崩壊へと導かざるをえな
校"の準備に協力し、討議にも参加することによっ
かった必然性が秘められていたと、見るべきではな
て、“地域研究"のほんとうの意味を、身をもって
かったのか。
つかむことができたのではないかと、思 っている 。
1
1
2・人間文化
結局、 「
菜園家族」構想とは、従来の社会主義が
人・閏・文・化・通・信
追求してきた生産手段の共有化 による道ではなく
、 1
3章
、 44項目からなる 571ページの
これは、 2部
て、賃金労働者と生産手段との 「
再結合」 をなしと
r1
現状認識の試み」では、 1
9
9
0
年以
本です。第 l音s
げ、その結果生まれる、人類史上きわめてユニーク
降、モンゴルですすめられてきた社会経済における
な 「
菜園家族」 という家族小経営を持続的に発展さ
改革について分析し、総括しました。第 2部 「
未来
せることによって、資本主義を克服しつつ、究極に
年までのモンゴル国の発
像を展望する 」では、 2021
おいては、“高度に発達した自然社会 "への回帰で
展の方向性とその方途について、私自身の考えると
あり、止揚なのである 。 こう した道は、ロパ ート・
ころを述べました 。
オウエンをはじめとするいわゆる空想的社会主義か
9世紀の社会思想や社会理論の
らマルクスに至る、 1
-応地利明(おうじとしあき)地域研究
到達点を再吟味し、その後の世界と、今、世界が直
1世紀 COE
の本格的な始動に表徴
大学法人化や 2
面している地球環境問題や、イラク戦争をはじめ新
される大きな変化が身辺にもやってきた、と 実感し
帝国主義戦争とでも 言 うべき新たな問題をも組み込
、
た l年であ った。研究者自身も、人文社会科学 も
むことによって、おのずから導かれてくるはずのも
のなのである 。 さ き の (?今回の
nr菜園家族の
中期的な大型プロジ、エクトで自己の存在と必要性を
成果説明しなければならない時代に入ったという実
くに Iでは、こうした現実克服の課題とともに、未
感もある 。 自然科学では以前からそうであ ったが、
来への手がかりを人類史的視野から、地域論として
人文社会科学も 「
成果はすぐには出ない」 という特
も展開することになろう 。
殊性を主張するだけでは駄目な時代になったという
この一年間は、形としては、遅々として進まず渋
ことだ。「 どのように成果を積みあげて、目指す目
滞したかのようではあったが、そのことがかえ って
標を達成するか」 というプロセスと結果が問われる
問題を深めることにつながったように思う 。問題を
時代になったと思う 。
深め、究めることのたのしさは、何ごとにも代え難
こうした 実 感をもつのは、今年になって 5~7 年
という中期的かつ高額経費のプロジ、エクトへ複数参
いものである 。
大学は今や、 「
独法化」の“自己評価 "を挺子に
画を求められたからである 。 これまでも大型プロジ
して “
競争" と “
効率"が煽られ、その大合唱のさ
ェクトには毎年 1件くらい関わってきたが、今年に
なかにある 。 “評価とは、優劣の彼方にあるもの"
なってその数が急増した。それは、次のようなもの
とは、名言である 。 自在にものを考える自由な精神
だ。
風土とそのたのしさが奪われた時、教育と研究の場
日本学術振興会・人文社会科学振興プロジェクト
としての大学 は、その生命力を失う 。“八坂温泉¥
「
生死の現場から考察する、豊かな人間像の獲得」
それはむしろ結構なことではないか。誹誘であるど
ころか、ある意味では、この場にとっては、ふさわ
5年プロジェクト 。
総合地球環境学研究所「ユーラシア 学の構築
多
しい名誉 なことなのである 。守るべきものは、守ら
次元交雑的生存空間の解明」一一 7年プロジェクト 。
なければならないのである 。説明責任すら果たそう
京大文学部・ 2
1世紀 COE 11
5・1
6・1
7世紀成立
とはせず、上は知事から学長に至 るまで、思考スト
ップしたかのように、ただただオウム返しのように
の絵図 ・地図と世界観J-
5年プロジ‘ェクト 。
京都文化会議 「
地球化時代のこころを求めて」
“
避けられない"の一辺倒 で片づけようとさえする 。
5年プロジェクト 。
そして、それをゆるす風潮すら生まれてくる 。たま
超領域的な議論は好むところであるが、 長丁場だ
0年も経たない創立時の自
ったものではない。 まだ 1
なという 気 もしている 。今年は、前記の 京大 COE
主 ・平等 ・自由の精神、理想は、どこへ行 ったのか。
で 「カンテ ィーノ図 (
1
502) の読解と 「
遊解 J
J、日
なぜ“避けられない"のか?不思議でならない。 自
本南アジア 学会で 「インド都城論の射程
然災害ではないのである 。 イラク派兵をはじめ、
東南アジア 」、京都文化会議で 「
京都という都市」
中固と
“避けられない"症候群が国中に蔓延する中、今や
のテーマで発表した。論文としては 「アジアの都城
大学 もずるずると深みにはまってゆく 。その恐ろし
布野修司編 『アジア都市建築史 1
とコスモロジー J(
さと虚しさをひしひしと感じつつ、それ故になおさ
2003、昭和堂、所収)、またかねて編集と執筆にあ
ら、この一年間は、そうであってはならないと、未
たってきた 『
守 山 市 誌 地 理 編 資 料 古 絵 図』が刊
来に理念構築の確かな手がかりをもとめて、模索し
行された 。
てきたのかもしれない。
KEIBUN文化講座では、春期には 「東南アジア
生 態 と と も に 生 き る 多 様 の 世 界 」、秋期には
「インド世界への旅立ち j を担当した 。本年も福岡
置トゥムル・ナムジム
中央アジア ・ロシア極東地域論
2003年には、著書 『
モンゴルの現在と未来一現状
をモンゴル語で出版しました。
認識と未来への展望 J
アジア文化賞学術研究部門の委員長職を大過なく務
めることができた。
人間文化・ 113
人・閏・文・化・通・信
-菅谷文則(すがやふみのり)考古学
テーマはシルクロ ー ドの住であった。和歌 山県龍神
2003年度の活動
村鶴ヶ域調査の準備を 1
1月 3日から始める 。 1
1月 8
本年の研究室の構成は、博士後期 l名 (7月に留
日には、 3
6年間も願望していた信州安楽寺八角塔を
学から帰国)、博士前期 5名、学部 4回生 5名
、 3
見ることができた。古代八角堂の論文を書き改める
回生 1名である。今年度も学内の会議が多く、学生
気力をいただいた。 1
1月 1
3日-1
7日は三重県神島の
諸君には大きな迷惑を掛けた。大学は会議が多すぎ
八代神宝調査に学生 3名 とゆく。講義で呼びか けた
0年前 までの職場では会議は今
るし、それが長い。 1
ところ、
以上に多かったが、時間は短かったし、夕刻からや
手を務めた。推薦入試の前 日に山の考古学会の総会
土、日曜にも開催していた。教員が大学を運営して
に出席し、会長を辞し 、翌朝 41
侍に宿を出て 、上越
いるというのは、そうあるべきであるという建前で、
9日には天理大
新幹線に来るも、 地震で停車する 。 2
意見を実行に移すというエネルギーが充ちていない
学での砂岩シンポジウムに基調報告者として出席す
と思われる 。
l回生の村上美友紀君が参加 して、写真助
る。石と地域と政治について考えた。 この日から推
学生らとのフィ ールドワ ー クなどを記しておく 。
薦入試の手違いについて対応にあたる 。 1
2月 3日に
5月 1
4日-15日、福井県武生市月光寺大仏の調査。
5月2
4日からは日本大学で開催された日本考古学協
突然、左胸周辺にヘルペスが発症する 。 6日には痛
みをおさえて、石野博信氏古稀記念会を主催する 。
会の視察。 6月 3日- 5日、岡 山大学を訪問。 中川
1
0日-1
7日に院生の飯田、早川
、 大島、学部 3回生
秘花君宅で穴子と絡を沢 山いただいた。自在が夏魚で
の大木、学音1
¥2回生 4名、研究生の清原、で鶴ヶ城を
5日-17日、韓国金海博物館
あることを知る 。 6月1
乎び掛け
調査する 。 1回生の中居和志君が講義時の H
l
1
長の i
7月 3
1
l-5日は環琵琶湖実習で中山道を歩く 。 8月 2日
1ノ島調査に田中俊明先生と同行する 。
- 4日は高岡短期大学での鋳造実験に講師として参
に応じて参加してくる 。冬の集中講義は山本輝雄氏
であった。
年があけて、
1月1
0日-11日は第 5回古代武器研
加する 。帰って集中講義の森下恵介氏と毎夜討論を
究会を開催する 。その翌日から鶴ヶ城の調査報告書
楽しむ。 8H9日から院生の飯田史恵君がモンゴル
に向けての作業が土日もなく、深夜まで続く 。 卒
(9月 6日まで)0 8月2
6日
-28日は公用車を運転して学生 3名と 山形県羽黒三
論 ・修論が終わって、川上君が国原東 j
英墓、1:
1
リ1君
1:¥土鉄万類を借用にいく 。
山千
I
j時土に 1
-22日まで北京に出張し、科研 の鏡録資料の収集に
の調査に山発していく
本年は SARSの影響で、中国調査が延期していた
のを 9月 1
2日-20日行う 。院生 3名と 学生 4名で集
4日
が科研費の報告書に励んでいる。飯田君は 2月1
あたった 。
わたし自身としては、論文等 4本、編集した図書
安と北京で銅鏡の調査をする 。吉林大学留学中の東
出版が 4
1
1
1
1
あ った。 だんだん疲れを感じる年齢にな
I
Jであるので、
大│民生石川岳彦君も合流する 。国境の I
ってき た。
全てが難しい。 町中の遺跡写真をとり、全員が拘束
された。約 2時間半で放免されたが、高句麗考古学
の大発見である大王陵鈴銘金銅鈴を見た興奮も吹き
0月2
5[1-26日に本学で
飛んで、しまった。帰国後は 1
1
mした日本考古学協会の総会・大会のJ
I
.
f
J
催準備に
1
J
f
.
J
-高橋美久二 (
たかはしょしくに)考古学、歴史地理学
奈良平安時代の古代交通の考古地理学的な研究で
r
(
第7
r
;
1
ヒ国街道 Jと
は、「古地区l
に見る景観の変遷 J 長浜市史
巻J
、2
0
0
3年
3月 f
リ行
)
、 「
古代の
高橋美久二先生とともにまい進する 。 11
JJ1日は第
『
北国 l
協往還』の歴史地理 J(滋賀県教育委員会 『中
31
IT1の日経新聞シンポジウムの発表と司会。今年の
) などの論文で、従来は 『
延
近世古道調査報告 7j
喜式 j に駅名が載せられている官道のみが古代道路
としてとりあげられてきたが、主要官道と官道を結
ぶ連絡道も占代の道路網であることを述べ、その例
として近江の二つの道を論じた。 また、研究会では
「
古代の瀬戸内海航路J(
第 2回石結文化研究会、於
大阪歴史博物館)、「駅家の構造 J(
古代官街 ・集落
研究集会 「駅家 と在地社会」 於奈良文化財研究所)
などの発表をおこなった 。 さらに、 「
街道をさくる
一 古代 11
陰道について -J (
ささやま市民文化講座
「
丹波の文化とくらし J
)、「平安京と交通 J(京都 S
KY大学 京都の歴史 3)などの講演をおこなった 。
交通関係遺跡、の現地調査では、 1
1
1陽道踏査 (
備後 ・
鶴ヶ城跡発掘調査(和歌山県龍神村)
1
1
4・人間文化
安芸路)、山陽道駅家遺跡の前原遺跡(備後国芦田
人・間・文・化・通・信
駅跡)、落地遺跡 (
播磨国野磨駅跡)などの遺跡の
③ 5月、人間文化セミナー「インド伝統舞踊バラタ
現地調査にも行って来た。
ナ ッティアム J(
インド、ハイデラバッドワイズメ
交通遺跡関係以外の調査では、滋賀県下の条里制
ンズクラブ、アナンダ氏)の企画演出、④ 6月、学
遺構と古代荘園の調査、銘文史料の集成研究、箸 -
外研修 「
富 山県立山 ・砺波地方の生活文化 J(1泊
2E
I
)、⑤ 6月、湖風祭 ・夏祭り出展、 @ 7月、オ
匙の食文化の造物の研究も進めた。
2
0
0
3年 1
0月には滋賀県内の考古学研究者が集まっ
ープンキャンパス出展、 ⑦ 8月、信州大学森林学科
て実行委員会を組織し て、滋賀県立大学で 日本考古
と研究交流会(1泊 2日)、⑧ 1
1月
、 i
胡風祭出展と
学協会の滋賀大会を開催す ることもできた。夜、の研
1月、つづらお荘にて
近江猿楽 「多賀座」出演、⑨ 1
究室を事務局としたが、多くの人の協力、とくに本
湧水調査合宿(1泊 2日)、⑩ 1
2月、学外研修[鳥
学の学生や卒業生の全面的な 支援によって、成功す
、
取・ 島根の風土と地域文化 J(2泊 3日)、⑪ 1月
ることがで きた。
高谷好一先生最終講義の企画演出 など。
2
0
0
3年にも、地域史の調査研究にも積極的にかか
わってきた。
『長浜市史 J景観編に執筆し、
I
近江八
0総括責任者を務める
「
環琵琶湖文化論実習 AJ
では、新たな試みを提言実施。①従来の 4班編成を
幡市史 1街道と町並み編も執筆中である 。一昨年来
6班編成に改め、少人数実習を推進。 ②実習成果の
執筆し編集してきた『南 山城村史
資料編jがよう
地域還元をめざして、報告書の形式を刷新。① コン
やく刊行され、ついで本文編も執筆した。彦根市史
ピュータとプリンタ技術の発達に見合った自由形式
関係の調査として、遺跡分布調査や測量調査、泣物
とし、学生たちによる主体的な研究報告書作成を支
実測調査の成果をまとめつつある 。本文編の準備も
瞭然で、カラ ー版報告書も出版
援。その成果は一 日l
0
0
0年からはじめた湖北の木之本町
進行中である 。 2
され、参画した学生たちはもちろん地域の方たちか
の遺跡分布調査も継続しているが、 2
0
0
2年度にまと
らも大変喜ばれた。
めた報告書 『
木之本町埋蔵文化財調査報告書第 3集
木之本町遺跡分布調査概報 2Jもようやく刊行され
2 研究上でのトピックス
I
近江文化の発折¥
I.再生 ・保存 地域の未来像
0
0
3年度にも木之本町西山 の小山古墳群の i
J
!
l
J
l
i
f
た。 2
をめざして
調査の指導をおこなった。これらの成果を、本学の
事業一地域文化を生かしたまちづくり
学生たちと 一緒になって本報告書としてまとめる作
と湖問再発見調査研究事業」、「湖西わき水まちづく
博物館学芸員課程の教育、 研究もおこない、学芸
員課程報告書
j、「
安曇川町生涯学習 I
I
I
Tづくりモデル
-J
、「
ふるさ
り洲斎検討事業」、「
ふるさと創生事業 『
三津町・心
業も続行している 。
員課程で発行している報告書 『
滋賀県立大学
o
学主
第 6号1には、匙の食文化の造物の
研究と収集の成果を発表し、その一部を執筆した。
のふるさと構想 j 魁れ、いのちと水一 」などの調
査研究を受託。 これらの調査研究は大学院生や学部
生の参加I
協力によって順調に推進され、平成 1
4年度
末には 6冊の報符』を 刊行した。
3
. その他
- 武 巴 尚 彦 (たけむうたかひと )社会学、地域研究
1
. 講義、実習、演習でのトピックス
0小学館発行の全国誌 rBE-pALJ (
2
0
0
3年 4月
号)にわれわれの「地域学ゼミ」が取り上げられ、
O特色ある大学教育支援プログラム、自己評価委
員会、オープンキャンパス、アジア ・地域文化コー
ス主任と厚生補導委只など、あらゆる場面で教員、
~1.;jj先 )J 、学生の接点を担った。 0 人間文 化 セミナー
「
地域に還元してこそ、学問の成果だ。環境学と地
では、 ① 「 中江藤樹に学んだ人たち J(
安曇川I
1
日総
J と題して広報さ
域学に力を注く 『われらの大学 J
務謀長補佐中江彰氏)、② [インド伝統舞踊バラタ
れた。0毎週リポートを義務づけている担当授業で
ナッティアム J(
ハイデラパッドワイズメンズクラ
は、優秀な作品を編集して「地域学ゼミ 」のフォー
ブ、アナン夕、氏)、① 「 スリランカ文化三角地帯に
ラム誌 『
人と地域j3
1号に掲』依した。 2
0
0
3年度ぶに
f
i
;産の保存」
おける淑池システムの│り生による歴史 i
5号に達する見込みである 。 O
は 『人と地域j も3
(スリランカ・モラトゥワ大学建築学科教授サミ
「
地域学通信 JVoU-VoL4
、「こせい減水新聞 J~
l号 第 2号
、 「
地域文化 を歩く 」 第 7号 第 8号
など、われわれの多様なゼミ活動を報告するメディ
アも出版した。
0次に主たるゼミ活動を列記する 。
タ ・マーナワドゥ氏)を実施。Oまた地域の人たち
とI
U按語り合う機会も多く、①藤樹の '
R創年塾 「地
域文化を生かしたまちづくり」、 ② つがやま市民教
2朋) I
ぼんなり一近江の宗教風
養文化講座 (
第2
上一 」、③ 彦根市民支え愛大学講座、第 3回 「地域
① 5月、西浅井町菅 j
甫「
つづらお荘」でグリーンツ
を生きる 」、④ 生涯学科まちづくり実践研究交流会
e
l21)
、① 5月
、 1
1A
>
:
ーリズム研究会を開催(1i
の地域文化を生かした │
町づくり 」、⑤湖風祭
「
安公JlI
タイ交流協会(京都)と共同でタイ王国マハーサー
に安公川町西万木 「
地域文化を考える会」会員と今
:
I)、
ラカム大学学生 5名の招科事業を実施(2泊 3l
在家 「
老人クラブ」を招待して、大学院生上田洋平、
人間文化・ 115
人・間・文・化・通・{言
戸田雄ーによる「心象図法による今在家図扉風」の
欲望も生むことなど発表、欲望の拡大 ・欲望を欲望
お披露目会を実施、@彦被市民支え愛大学講座、第
することと 抑制 の意味などについての討論。
8回(総括) r
地域のみんなと考えよう わたした
+2月から
ちのできること ~ J 、 ⑦彦根市鳥居本地区公民館総
志・県立大有志と 「
湖西市民大学j の企画を進めて
いる 。
合講座 「
ふるさとに学ぶ いまわたしにできること
~J 、 ③ 生涯学習フェスティパル ・ 安曇 川 ふるさと
再発見 「
ふるさと先達の知恵とくらし」 など。 こん
「人と 地域 JNP0、湖西地域住民有
4
砂 論文は 『
文化 人類学文献事典 Jに伊谷純一郎著
『
霊長額社会構造の進化Jなど 3点の解説な ど。
な具合に旧倍の斤!事があったので、残念ながら 2
0
0
3
年度は海外でフィールドワークを行う時間的余裕が
-潰崎一志(はまざきかすし)都市史,保存修景
なかった。
.研究活動
目黒田末寿(くろだすえひさ)地域文化学、人類学
2月には奈良女子大学生活環境学部主催のシンポ
ジウム 『シルクロー ドに沿う建築造産 j にて「パル
.毎年、卒論には感動することが多く、多少しんど
いが楽しみな作業である 。 ここ数年、自分の半生を
いて基調報告をおこな った。
ミラ墳墓の内部に展開する建築の特徴と意味」につ
振り返り地域社会や家族の問題を考える卒論が一つ
3月には、前年に調査を実施した彦根市胞団 l
町の
の流れを作 っている 。必
然
、的に親とのさまざまな関
鹿 島 氏所蔵の肥田村人家間 取 り I~I から肥田 村 の景観
係、深い信頼、葛藤の泥沼や、死に別れた親のイメ
復原をお こ なった 。 JJ~ 田村人家間取り図は幕末から
ージに重ねる自己の成長、親と故郷で生きる決意な
明治初頭に描かれたと考えられる絵図で、各戸の部
どを読むことになり、それを通して学生たちが、こ
屋割りと面積、 土問、土座、上げ聞の記述がある 。
の 4年間に親との関係でもおとなになったこと、そ
この図をもとに考察をすすめ 、報告書 を発行した
れを社会の中で生きていく自信の根拠にしているこ
となと がわか ってくる 。地域文化学科の存在価値が
彦根市史景観部会)
。
ε
あったと思える瞬間である 。 また、近江猿楽多賀座
r
(肥 田村 人家間取り図をもちいた肥田の景観復原 j
このほか 『日本の町なみ IJ
(平凡社) の滋賀県
の協力を得て、県大内に現代猿楽グル ープができた。
GI
S)
系
の部分を分担執筆 し
、 「
地理情報システム (
万燈祭、湖風祭、高谷先生最終講義に大活躍である 。
ソフトウェア 」 と い う 紹 介 記 事 を 『建 築 雑 誌 j
これも楽しい。
。今年度春から学内教員 ・学生有志でエコ・キャン
v
ol
.
l1
8N
O
.1
5
0
7
に掲載した。
4
砂教育活動
パス ・プロジェクト (
h
t
t
p:
/
/www.
s
h
c
.
u
s
p
.
a
c
.
j
p/
ecocampus/i
n
d
e
x.
htmJ)を開始した 。専心できず
において町なみ調査を 実施したほか、彦根市男鬼で
応援団のようになってしま ったが、活動は軌道に乗
山村集落の調査をおこなった。
り、本学の環境マネッジメン ト
・ システム (
EMS)
の一部を担う存在に発展しつつある 。
学生とともに近江八幡市の旧八幡町や武佐、江頭
1
1月には近江八l
隣市江頭の江頭の皇まちづくり推
進会の主催する江頭塾で江頭のl
I
n
・
並と建物について
。 4月・自閉症児のお母さんたちの 「メロデ ィーの
講演したほか、 滋賀大学産業共同研究センタ ーの主
会」に対応するボランティアグループ 「
ハーモニー」
催する環境・ 景観フォーラムで基調報告をおこな っ
発足、甲良養護学校の先生の指導を受けて順調に発
た。 また、独立行政法人奈良文化財研究所主催の埋
進。顧問.黒田・竹下 0
蔵文化財技術者特別研修で「
地域文化財と地理情報」
について講義した。
+5
月:日本記号学会で
「
表情と情動:個と共同性
の問」 シンポジウム ・パネル参加。来年度から情動
+7月
4
砂海外調査
7月にはカナダのパンク ーパー とカルガリ ーにお
研究会の発足準備。
国際人類学会 (
フィレンツェ )でチンパン
いて、近江からのカナダ移民の 聞 き取り調査をおこ
ジー属の食物分配について発表。会場のフィレンツ
ェ大学博物館で、
調査、 これまでの資料と併せて、コ
なった。
9月には、シリア ・アラフぬ共和国パルミラの東南
ンゴ民主共和国中央のンガンド ゥ族の婚資が南部ル
墓地において 実施した H号墓の発娼調査に参加し、
パ族の武器由来と判明。
貼り付けられた部材の寸法を精査し、造営尺の復原
「ボノボ保護国際
会議」、保護策、エソグラム作成など討議。
を試みた。
+7月:京都大学霊長類研究所で
+9月: NP0 r
平和環境もやいネ ッ トワーク 」発
足。代表:高谷 ・古川久雄。
+
l
l月.東京外語大学
「
欲望と資源」 シンポジウ
ム・パネル参加。欲求の抑制が分配を生むと同時に
116・人間文化
1
1月にはイラン ・イスラム共和国のヤズドで開催
された日干し煉瓦建築の国際会議に出席し 、情報交
換をおこなった。
4
砂社会貢献
2月から 3月にかけて、道路事業における客観的
人・間・文・化・通・信
評価基準検討委員会委員と滋賀県湖東地域道路整備
規発見の遺物の認められた地点もあって少し興奮し
アクションプログラム策定ワ ーキングの座長を務
た。現在でも宗像大社の方々(女人禁制)が交代制
め、道路整備事業の客観的評価基準の検討をおこな
で沖ノ島に常駐して神に仕えており、その信仰の深
った。
さを実感した 。
2月から 6月にかけて、国際協力事業団(jICA)
の文化財保存修復技術コ ースのコース・リーダーと
今年度の湖底遺跡の調査は、米原町沖の尚江千軒
遺跡、に集中して行った。エクシウ、沖の湖底が粘土質
して研修体制を組織し、ボリビア、中園、ジャマイ
になっている地点には人為的に掘りこまれたと見ら
カ、マレイシア、ミャンマ 一
、 パキスタン、パラオ、
れる土坑二つがあり、 二十分のーで、実測し、詳細を
スリ ・ランカからの研修生 8人を対象に研修をおこ
調べた。
なった。 また、講師の委託を受け、約 3週間にわた
り、保存修復技術の講義をおこなった。
1
1月から近江八幡市景観条例策定懇話会委員と近
年末には、科学研究費による共同研究の成果、
『
環琵琶湖地域論』がようやく発刊された。 このな
かには湖底遺跡 ・三 ツ矢千軒遺跡の調査成果も収載
江八幡市景観条例策ワ ーキング委員会座長として近
されているが、これは林ゼミによる一連の水没村伝
江八幡市の景観条例の策定に携わっている 。
承遺跡調査成果の第一弾となるものである 。
林
博通 (
はやしひろみち)考古学
今年度、特に印象深かった出来事は九州宗像大社
-田中{愛日月(たなかとしあき)朝鮮古代史、古代日朝関係史
の沖ノ島へ渡島し、 「
海の正倉院」 といわれる祭杷
民共和国を指す。北朝鮮と略するのは、はたして差
遺跡を目の当たりにした ことである 。 6月中旬のこ
別用語なのか。朝鮮半島全域をいうようにみられか
昨年 4月に予定していた北朝鮮 (
朝鮮民主主義人
とである 。 まず、その総本宮である福岡県玄海町に
ねず、かつて共和国と略していたこともあったが、
ある宗像大社(辺津宮)にお参りしてお払いを受け、
共和国では、どこの共和国かまったく明確にならな
高向権宮司に ご挨拶した後、宇都宮権禰宜のご案内
いため、やめてしまった 。確かに南韓とかいわない
で神湊からフェリーで大島に渡り、中津宮に参拝。
で、韓国と呼んでいるので〔昔、南朝鮮と呼ぶ人た
この日は大島で泊まり、翌早朝チャ ーター船で沖ノ
呼ぶべ
ちがいた 〕、それとあわせるならば、朝鮮と l
島へ。渡航不能の風波を 心配したが幸い波静かで無
きかも知れないが、なかなかなじめない。民主朝鮮
事沖ノ島に到着。途中、
とか呼んだりすると、イメ ー ジにあわなし、。朝共な
トビウオが船の周りを飛び
交う姿を、海の神の歓迎の意志とかつてに想像。約
んでいうと、昔、中国共産党だけでなく、現中国を
1時間半で沖ノ島に着くが、近づくにつれ玄海灘に
自主立する岩 山はまさに人を寄せ付 けない絶島で、古
呼んでいた人がいたことを思い出してしま
中共と l
代以降今日まで神の宿る島として崇めつづけてきた
わせていただくことにしたい)旅行は、イラク戦争
信仰がわかる気がした 。宇都宮氏の先導でまず素っ
開始とほぼ同時にダメになった。外国人旅行者の入
う。 ということで、とりあえず北朝鮮をつづけて使
裸になり海水に身を沈めて棋を行う 。初めてのこと
国制限という 。実際は SARSのためだ‘ったのかも
であったが、なんだか清らかですっきりした気分に
知れないが、予定が狂って、 4月連休には珍しく自
なった。 この後、沖津宮に詣でてお払いを受け、祭
宅にいた。 1
0月に毎年行っている中国東北 も、北朝
最E
遺跡、を粛々と見学。 タブを中心とした穆蒼とした
鮮に予定を変更していたが、そちらもだめで、かと
森の中に巨岩が累々と並んでいる 。その岩上や岩│塗
0
いって中国に戻すのも面倒で、やめてしまった。 1
に遺物が置かれていたという 。昭和 4
6年の調査後遺
月末に日本にいるのは、 9
2年以来になる 。 ちょうど
物がそのままの状態で見られる地点もあったが、新
大学の在外研修も、はずれたので、都合がよかった
ということでもある 。 しかし東北の山城調査は、ま
だ数年はつづけないと完結しないので、今年から再
開したいと思 っている 。北朝鮮も、今年は OKだと
いうことになって、 l年ずらした準備をしているが、
どうなることやら 。結局、昨年は、韓国へのみ 6回
行ったことになる 。 2月は科研の調査と夏の調査の
打ち合わせで、国立公州博物館 ・国立扶鈴博物館 ・
r
k
:
、
会:
長 も
国立扶絵文化財研究所 ・国立全州博物館などを訪
問。前年オープンした国立春川博物館と春川の江原
大・翰林大へも行った 。 いずれも知人がいるため、
久しぶりに会うことも目的である 。 4月中旬に金海
尚江千軒遺跡の潜水調査(米原町沖)
市の加耶シンポジウム (
於国立金海博物館)に参加。
人間文化・ 1
17
人・間・文・化・通・信
これは 2泊 3日のみ。 8月には 3週間ほど、文字瓦
5月1
7日出草津市穴村地区講演会「安羅加耶とは 」
の調査。昨年同様、公州 ・扶徐に加えて全州の国立
博物館・全北大学校などでも実施した。 9月には西
(
於穴村会館)
5月25日(
日)
橿原考古学研究所 附属博物館研究講座
海岸の島々をめぐる、というテーマの旅行で、安眠
15 ・6世紀の朝鮮半島と倭」
島 ・智島・紅島・黒山島 ・長 山島・珍島を訪れた 。
7月 6日(
日)
日韓古代文化研究会 「
新羅の交通路と西
紅島は、韓国人が誰でも一度は行きたいと思 ってい
海岸 J(於大阪教育青年センタ ー)
る島、らしいのであるが、岩ばかりの外周めぐりは、
9月2
7日出日朝友好促進婦人会議 「
加耶諸国と倭の
さすがにあきてしまった 。それよりは黒 山島 ・長山
島に残る百済進出の痕跡、のほうが、ず、っと興味ぶか
関係史 J(
於京大会館)
というと ころである 。 このうち特に草津の穴村の
1月に忠州で白山学会の
かった。 これは職業病か。 1
講演会は、 当地に天日槍を祭神とする安羅(やすら、
シンポジウムがあって参加したが、これも 2泊 3日。
と呼ぶ)神社があり、加耶諸国のなかの、倭国とも
ついでに梨花女子大で別の学会発表のコメンテータ
深い関わりをもっていた安緩固 と関わ りがあるので
ーも させられた。 1
2月には、徳島大学東教授の科研
はないかと想像さ れるところから、氏子のひとたち
で、公州、卜 扶鈴へ。特に発掘中の水村里という古墳
が、安維国の故地慶尚南道成安のひとたちと交流を
群が、武寧王以来の大規模発掘とさわがれ、確かに
したい、という希望をもち、事前に知識を得ておき
出土した遺物も、金銅製品や武器・馬具も多く、た
たいということで開いたもので、日文研の千田先生
いへんおもしろいものであった 。
に、天日給の話もしていただき、地区の人を 中心 に
関係があるとかで、金海の博物館長のおともをして、
200人ほど集まっていただいた 。今後、交流が実現
するように、わたしも努力したい 。その関係から、
沖の 島祭把遺跡を訪れる ことがで きた。すぐそのあ
環琵琶湖文化論実習も、そこを含めて 「
渡来人の里
昨年は、国内でも、 6月、菅谷先生が宗像神社と
と、呼子沖の加唐島を訪れ、さらにはじめて沖縄を
の国際交流」 というようなテーマにした。大学の特
訪れた 。加唐島は武寧王が生まれたと 『日本書紀』
別研究費 ・重点研究をもらい、最終年度であったが、
に記す筑紫の各経島にあたると考えられるところ
そうした問題も含めて、渡来人の定住について、報
で、現地には産湯をつかった、というような伝承地
告書を刊行する予定である 。年度末にはいったん簡
ができていた。沖縄は、扶鈴の博物館長を招請して、
単な報告をするが、それとは別に準備をすすめてい
科研の文字瓦の調査の一環で、 「
高麗」銘の瓦を調
る。滋賀県は、特に渡来人の痕跡が多く残るところ
査した 。韓国といい囲内といい、なぜか、島づいて
であり、滋賀文化の形成にも、大きく関わったこと
いるようである 。
が知られる 。 これは、 今後も継続して、調査・研究
活字になったものは、「百済と北斉 J(
千田稔・宇
をすすめていきたいと考えている 。
野隆夫共編 『
束アジアと 『
半島空間 j 一 山東半島
と遼東半島』忠文間出版) (
これは前年出た 、日文
研の研究報告がさらに市販されただけ)、「朝鮮古代
園梅原賢一郎(うめはうけんいちろう)美学
2
0
0
3年は 9月に沖縄の久高島を訪れた。旧暦の 8
初期王権研究委
における小国の領域拡大と王権 J(
月におこなわれる「満月祭り 」 にあわせての訪問で
員会編 『
古代王権の誕生 J
1東アジア編
ある 。 1回生から大学院生、卒業生、聴講生、総勢
角川 書庖)、
「
百済と倭の関 係J(
森浩一他『検証 古代日本と百
1
4名の旅である 。
済j 大巧社)、 薬害』 に拙かれた 「
倭J
J 新視点
6、新人物往来社)
古代倭国の研究 J別冊歴史読本 4
私に関していえば、久高島は 2度目になる 。 1度
5年ほど前であった 。そのとき、前日
目は、今から 1
m
r
(
美徳相先生古希 ・退職記念論文
「
倭の五王 と朝鮮 J(
に、本島の久高進拝の聖地、セーファウタキを訪れ
集刊行委員会編 『
美徳相先生古希・退職記念
ていた 。今から思えば、その日は、私にとって、記
日朝
関係史論集』新幹社)、「アジア海域の新経人一九世
紀を中心に一J(京都女子大学東洋史研究室編 『
東
念すべき日ともいえるものである 。
「
聖 なる場所」 というものにほとんど関心をもっ
アジア海洋域閏の史的研究』京都女子大学研究叢刊
ていなかった私にとって、人工物はなにもなく、樹
3
9、京都女子大学。科研の報告)、「
新羅の交通体系
に対する予備的考察 Jr
(
朝鮮古代研究 j 4号) など
木がうっそうと生い茂り、あちらこちらと岩の塊に
である 。
えない、そのような場所は、それが存在するという
また、 一昨年からはじめた、生涯教育関係は、
図綾された、ただ 「
聖 なるスポット 」 としか表現し
ことだけで、大変なショックで あった 。「 こういう
2月 2日(
日)
日韓古代文化研究会 17~ 1O世紀 アジア
ところが、神々と交信する場所なんだ」 と思った 。
海域の新羅人 J(於アピオ大阪)
「
祈りの場所とは、こういう場所のことなんだ」 と
3月 8日出野洲町教育委員会 15 ・6世紀の朝鮮半
思った 。
於銅鐸博物館)
島と近江 J(
II8・人間文化
それまで、私は西洋哲学 (その圏域にある芸術論)
人・間・文・化・通・信
をかじっていたのであるが、そのとき、私は、この
はそれでいいと思っている 。一人一人が世界へむけ
人工物はほとんどなにもない 「
ス ポット 」で、不思
て開かれていくことに意味があるのだから 。
議と、人工物からなる「芸術世界」のことが、より
しかし、なによりも、 2
003
年は、単著での私の処
深いレゥーェルで理解できたようにも思った。ここは、
女作、 『カミの現象学一身体から見た日本文化論 -J
「
偶像Jのない世界である 。「偶像」の世界 は
、 「
偶
(
角 川書庖)を 出版できた年だった 。 いろいろな反
像」の ない世界の上に、かろうじて存在しているに
0月1
2日には、鎌田東二氏による
響をいただいた。 1
すぎない、そのような直観が走ったのである 。つま
書評が「日本経済新聞」に、篠原資明氏による書評
り、それまでの私は、「偶像」の世界しか見ること
0月2
6日には、鷲田清一
が 「
京都新聞」 に、また、 1
のできない、「近視眼」だ‘ったということになる 。
、 感動の涙の連続だ、った。
さて 、2度目の久高島 は
氏による書評が 「
朝日新│
現」に、 1
1月 9日には、山
折哲雄氏による書評が 「
産経新聞」に、それぞれ掲
日の前で、頭に草を巻いたナンチュらによるゆった
載された。 また、たくさんの読者からお手紙をいた
りとした円舞がくりひろげられていく 。襟足のまま
だいた。 こうして、多くの人に読んで、もら って、な
大地を踏みしめているおばあさんもいる 。上を見あ
にがしかの観念を広く共有できたことは、 「
学」を
げると、脹らみを増しつつある月が、夕暮れの空に
志すものとして、幸せなことであった。 これからも
かかっている 。誌となって群がる雲が、円舞するお
意欲的に書いていこうと思っている 。
ばあさんたちの頭 │
二をすっととおりすぎていく 。
カチャ ーシイがはじまると、つぎからつぎに、鳥の
-水野章二 (
みすのしようじ)日本中世史
人たちが、踊りのなかに吸いこまれていく 。烏の人
の本格的な荘僚│
現地調査を基礎に、琵
滋賀県最初J
たちの体を貫くリズムは 、 自然の鼓動のようであっ
琶湖の環境変動など、環境史に重点を置いた論文集
て、人工のっくりなせる窮屈さやわさとらしさはな
r
Ij'附村落の景観と環境 j を編集し、研究史や環境
い。自然とダイレクトにつながっているようである 。
をとらえる視点などを整理した序卒、山門領木津荘
「山村留学」の子ども たちも師りのなかに吸いこま
;
'
t, および中世荘
の成立とその変化を分析した第 2?
れていった。 ちょ っと照れた様子もかわいい。上級
凶・村落と環境との│刻わりを総括した終草を執筆し
生が下級生をおんぶして、カチャーシイのなかに登
た。かなり新しい内容の本になったと、自負してい
t
易したときは、踊りをとりまくエネルギーカ fひとき
ウタキにお詣りをしてきたナンチュたちを、島の
1¥
版社の対応が遅いのが気
'
1I
止地名一近江の 二つの荘園
がかり 。「環境変化と '
(1本歴史 J668) は、中世史料に現れた
から Jr
人たちが出迎える 。 カチャーシイがここでもはじま
地名の残存度から、琵琶湖の水位変動なとによる湖
誌に帰ってきた、本向
る。感動のシーンがあった。 j
点、検討したもの。 また数年前に
岸環境の変化を復 j
の施設ですごす、高齢のおば、あさんたちが、若い人
執筆した 「人と自然の関係史素 t
U
i
一 中世前期j
の環琵
わ倍加したようにも!惑じた。
る。近刊予定であるが、
J(I
J
q川幸治・村井康彦編
たちの導く車いすのまま、カチャ ー シイの輸のなか
琶湖j地域を中心に
にはいり、手を動かし、 踊 ろうとしたときである 。
琵芭湖地域』、忠文閣出版)がようやく1'1
)
行された。
『
環
戻を禁じえな
私の胸に熱いものがこみあげてきて、 i
科研費の報告書をベ ースとした I
J
¥版であったが、続
かった。 とにかく、結晶した美 しいシーンとしかい
編の論文の方がかなり早く出てしまった。歴史科学
いようがない。
協議会編
r
J
経史をよむ1
.(
近1'
)
1
)に は
、
「
地籍 1
j
:
(
I
Jを
男たちの祭りの最後に、浜辺で相撲をと った 。小
執情。地籍凶は従来は歴史地理学の恭本史料とされ
さな子どうしの対戦ではじまり、やがて、中学 三年
てきたが、文献史学からの関心も盛り込んだ。黒田
生くらいの子と初老のウミンチュの取り組みがはじ
まった 。私にも中学三年生の息子がいて、しらない
11
1¥男他編 『日本史文献事典 J(弘文堂)では自分
L
i
Eの解説を担当したが、他人の本を扱う 1
jが気
のX
ところで子の成長を見る思いがしたせいかもしれな
楽でよい。
戻を
いが、ここでも、熱いものがこみあげてきて、 i
徹底的に地域に密着した方法をとりたいと考えて
禁じえなかった 。 そこには、強い強い、 ~Iミ と生の交
進めてきた尚月町史の編纂は、古地図類の収集、水
流があった。
平)
1や民俗の調査などがある程度進捗し、第 1f
l
f
t目の
包盛を呑みながら、学生たちもまじえて、懇
夜
、 j
H編間版のメドが立ってきた 。町長と約
景観 ・文化 t
談しているときに、土地のある有力者が、 「久高は
束した市 I
I
I
J村合併までになんとか I
lHに合わすことが
みなさんのものです」とおっしゃった。私は、その
できそうである 。去年からスタートした湖西の清水
含蓄のある言葉に、なにかありがたい幸せを感じた。
山城 (
新旭町)調査では、引き続き県立大学と京大
学生たちはここへきてなにを学んだというのであろ
の文献史学および歴史地理学のメンバーが主力にな
うか。 なにかが鱗築されたというよりも、ぶっ撲さ
って、 4地区の伝承や地名、集落の祭記や墓 i
側、水
れたというほうがあたっているのかもしれない。私
利 シス テムなどの調査を進めた。来年度報告書ト作成
1
9
人間文化・ 1
人・間・文・化・通・信
す。翻訳の方は大体完成しましたが、出版がいつに
なるかは分かりません。
ここ数年興味をも っているドルジェフ (
ブ リヤー
3世の腹心で ロシアとの連携を画
ト僧。 ダライラマ 1
策 した 。)研究も継続しています。 チベ ッ ト諾で書
かれた彼のメモワールは翻訳し終わりました。 ただ
その外交活動を裏付け ようとすると、ロシアやイギ
リスの膨大な外交文書に取り組むこととなり、ちょ
っ と二の足を踏んでいます。しかし 「ロシアの密偵 j
という、日本における彼の評価を麗すためにも、い
つか形にしたいと 思 っています。
鶴ヶ城跡発掘調査 (
和歌山県龍神村)
また弘文堂から出版予定の 「
文化人類学文献事典」
予定であるが、肝心の清水山城に関する史料や伝承
の為 、チベ ッ ト│羽述文献の項目をい くつか執筆しま
などは、なかなか出てこない。 さまさまな形態で実
した。
施される共同調査に参加する院生 ・学生らにと っ
今年度は、人が機嫌良く勉強しているのに、あれ
て、他大学 ・機関の研究者・ 学生や地元古老たちと
やこれやでうるさいことが多々ありました。 あまり
の接触は、大変よい刺激にな っている 。 また内閣府
乱される ことなく、粛々と進んでいきたいものです。
主催の 「
災害教司Ijの継承に関する 専 門調査会J小委
員会に参加し、寛文 2年近江 ・若狭地震分科会に所
-京禦真帆子(きょううくまほと)白本古代史
今年はいろいろな成果が形にな った年でした。
属。災害史は初めてであるが、 自然科学の研究者と
の議論は刺激的であり、今後は確実 に重要性を増す
1・活字になったもの
「
平安京の空間構造一 見えなくなる右京一」
分野である 。
今年度は特には海外調査は行 っていないが、私的
には 4月にタイに行き、なかなか興味深か った。東
政期文化研究会編 『院政期文化論集
院
第3巻 時 間
と空間 J森話社
書評
アジア 全体の中での日本の特質を考えるために、今
増田繁夫 『源 氏 物 語 と 貴 族 社 会 日
後もアジアの村々を歩きたいと思 っている 。
本史研究.
J4
9
3号
圃棚瀬慈郎(たなせじろう)文化人類学・チベット学
号
r
「
平安京の周縁一稲荷と都市住人-J 朱 j 第 4
6
環境科学部の伏見先生と共同で、 「ヒマラヤ及び
「私の 『
両住まい j 人生」 両住まい女性研究者
チベット高原における環境・文化の総合的研究」 と
の実情編集委員会 (
代表久保加津代)編
いう名のプロジ ェクトを始め、大学の重点研究に採
い女性研究者の実情』
用されました。
地球温暖化の影響は、私がフ ィールドとしている
『日本女性史研究文献目録 j N (
共著) 女性史総
合研 究 会 編 東京大学 出版会
ヒマラヤ地域にも及んでいます。例えばヒマラヤの
2:講演会など
氷河は目に見えて退縮し、積雪量 も減少しています。
・平成 1
5年度
それは畑作に不可欠な融雪水の減少をもたらし、耕
作を放棄せざるをえない状況がそこかしこに 生 まれ
ています。
またネパールヒマラヤでは、逆に大量の融雪水が
夕、ム湖を形成し、その決壊が危倶されている場所が
あります。 そうい った自然環境の変化が、 当該社会
に与える影響 を調べることがテーマのひとつです。
プロジ ェクトとの関連で、 8月から 9月にかけて
『
両住ま
滋賀県立大学公開講座
2
0
0
3/
5
/
3
1
「
古代近江の女たち」
5周年記念講演会(彦根市春 の
-彦根地歴グル ー プ2
文化祭協賛 )
2
0
0
3/6
/2
1
r
一 古代・中世一 彦根を通 っ
た女性たち 」
・ウイングス京都
r
2
00
3
/
9
/1
8 平安京の女性た ち」
・平 成 1
5年 度 京 都 学 夏 期 公 開 講 演 会
2
0
0
3/71
29r
道長との道行き
花園大学
牛車 からみる道長像
-J
2
0
0
3/
8
/
3
0
ヒマラヤで調査をおこないました。 フィールドは 当
-早雲
然とんでもない僻地にあるので、デリーから陸路で
3:海外調査
.2
0
0
3/
9
1
2
0-1
0/
5 イタリア (ヴェネティア ・ア
片道 5日もかか ってしまいます。すると全体で 1ヶ
平安時代の牛と車」
月の調査では、半分が移動期間にな ってしまい、甚
クイエリア・キオ ッジア ) ・フランス (
パリ
・ ルー
だ非能率です。賛沢はいえませんが辛 い所です。
アン ・サンテミリオン ・ボルドー )のフィ ールドワ
今、インドヒマラヤのラホール地方のチベ ッ ト社
会に関する民族誌を英語で出版する準備をしていま
120・人間文化
ーク
この他、昨年度から継続中の 「
彦被の女性史」 の
人 ・閏・文 ・化・通 ・信
調査は佳境に入っています。ゼミ生たちも初めてまu
班定例研究会で 「
録音資料の「活用」作業に従事し
る事実に興味津々で、まとめの作業を進めています。
て一学習院大学東洋文化研究所所蔵 「
友邦文庫」録
また、別の地域の女性史史料も預かることができ、
音記録を中心に」 を発表。
朴1
蜜槌文庫整理は、量的には大分進めることがで
この調査も徐々に進めています。
ゼミ生 ・卒業生たちの努力によって研究室のホー
きたと思いますが、より詳細な目録作成など、質的
t
t
p:
/
/www
ムページができました 。アドレスは、 h
な面ではまだまだです。本年度は韓国国史編纂委員
s
h
c
.u
s
p
.
a
c
.
jp/kyouraku/ です。是非ご覧下さし、 。
会が、昨年に本学との間に締結された学術交流協定
担当者が楽しみながら更新してくれています。ゼミ
に基づき、資料のマイクロフィルム化を申し出、膨
での研究の成果を世界に発信していきたいと思って
大な量を撮影しました 。来年度も継続の予定です。
います。
7月には、故朴慶植先生がつくられた学会である在
今年の初め、以前の勤務校での教え子を病気で失
日朝鮮人運動史研究会の大会が本学で│州起きれ、遠
いました。 この哀しみ を当時のゼミ 生たちと 一緒に
方ーからも多くの方々に参加していただき、嬉しい限
乗り越えながら 、これ以上教え 子の死にあわないた
りでした。 この大会にあわせて、これまで整理が完
めに教師としてやるべき事を実行していきたいと思
了した分について、地域文化学科と して仮目録冊子
います。
を作成して関係者にお配りしたところ、大変喜んで
いただけで良かったです。
圃河かおる (
かわかおる)朝鮮近代史
いきなり私事ですが、
1月 9日に、 夫と長男、助
産婦さんに見守られて、次男を自宅出産しました。
- 武 田 俊 輔 (たけだしゅ んすけ)社会学
0月に着任し、慌ただしい中あっという間
本年度 1
陣痛開始からほぼ 4時間の超安産で、産後も駆けつ
J
寺が過ぎてしまったという印象の半年でした。今
にI
けてくれた実家の母の助けをかりで、慣れた自宅で
年度は先生方のご配慮を賜り、ゼミや講義といった
穏やかに過ごすことができ、回復も早かったです。
教育活動の多くを免除していただきました関係で、
自宅出産は、 6年前に総合病院で長男を生んだ時
しばらく引越しを見合わせて彦根と東京を往復する
から、病院での出産に疑問を抱き続けてきた帰結で
1
要を落ち着
生活でしたが、 2月末には彦根に完全に1
したが、いろいろな人に助けられ、縁にも恵まれて
ける予定です。東京でいただいていた仕事のうち、
実際に無事何事もなく 終えてみると、 「
何でこんな
持ち越していたものを終わらせるともに、 4月以降
にいい ことづくめのことを、ほとんどの人は選択し
の授業やゼミの内容について構想を繰ることに時間
ないのだろう?Jと思います。今、日本では自宅分
を割いておりました。以下、着任後に行った仕事に
1
病院などの施設分娩で
娩は 1%以下で、残りは全音1
ついて順に列挙します。
第一に、本業である近現代日本における民謡と地
す。本当に 「日から鱗」の体験でした。
域アイデンテイティをめぐる研究については、長野
.教育活動
産休に入る関係で、繰上げで土眼目に集中講義を
県の大糸線沿 いにある松川村という所で大正末に当
行って、産休前に概ね終わらせましたが、やはりパ
地の人々によって創出され、この時期の地域振興に
タパタしてしまい、反省点が多いです。 しかしはじ
重要な役割を果たした 「
安曇節」 と呼ばれる新作民
めて実施してみた授業評価 アンケートの結果は予想
謡について、役場に残る当時の資料を中心に調査し、
より良かったので、励みになりました。授業の最後
執筆 I~ Iです。筆者,き文字を読むスキルがなかったた
に 「
元気な赤ちゃんを産んでください Jとメ ッセー
めに背労しましたが、歴史学者の助けを借りてどう
ジをくれた学生さんがいた こと も嬉しかったです 。
にかや ってきました 。春秋社よ り発行予定の日本音
11
楽とナショナリズムをめぐる論集に掲載されること
私が 3回生から直接受け持ったという意味では
期生」 となるゼミ 生たちが、それぞれ頑張 って卒論
に取り組んでくれたことも嬉しかったです。
になっています。
第二 に、カルチュラル・スタディーズ (
以下 CS)
系の文化社会学者であるマイケル ・ブル 『
サウンデ
.研究活動
5一杯で、研究者と
妊婦生活と教員生活の両立で中1
イング ・アウト・ザ・シティ :都市の聴覚的経験 j
してはほとんど活動できなかった l年でした 。「朝
(ひつじ書房より近刊)の 翻訳と解説の執筆があ り
鮮金融組合婦人会について J 姿徳相教授退職記念
ます。 ジンメルの都市論やフランクフルト学派の社
0
0
3年)が
日韓 ・日朝関係史論文集 J(明石者応、 2
会学理論を批判的に読み替えつつ、若者のパ ーソナ
r
出
干10 4月に 「
批判と連帯のため の東アジア歴史フ
ル・ステレオの受容経験を通して聴覚の観点から都
ォーラム 」共同ワークショップに通訳を兼ねて参加。
市を揃き出すユニークな研究で、日本における CS
7月に東京外国語大学 2
1世紀 COEプログラム 「史
の多くが表象の政治性についての批判に留まるとい
資料ハブ地域文化研究拠点」オ ーラル・アーカイ ヴ
う現状に、愚直にエスノグラフイツクな調査を重ね
2
1
人間文化・ 1
人・間・文・化・通・信
つつ記述を立ち上げていく社会学の良き伝統を提示
会も、準備から終了まで色々考えながら、楽しく取
する意図を込めました。
り組むことができました。
第三 に、東京大学文学部による現代日本における
調査継続中の古文書のうち、 「
野洲村野口家文書
r
(本学)学芸員課程報告書j第 6号に
文化ナショナリズムについての調査 ・研究に参加し
4)
Jが
、
目録(
て、現代日本において 「日本的なるもの」として理
掲載される予定です。 また、図書情報センタ 一所蔵
解されている文化が、メディアや文化産業の活動を
「
高宮宿楓谷家文書」のマイク ロ娠影を行い、 CH
通じて(再)構築され、演出されていくプロセスを、
焼 ・製本したものを本学部文献資料室 (
D
3
3
0
3)
、
サッカーを中心とするスポーツとナショナリズムの
及び図書情報センターに配架する準備をすすめてい
関係ゃいわゆる「日本人論」の創出と受容について、
ます。
文化産業論の観点から明らかにしていく作業を行い
日本史研究会大会に専念していたため、それ以外
ました。年度内に調査報告書が出ることになりそう
の研究が余り進展しなかったのですが、 随
│分前に執
です。
筆 した 「江戸時代における琵琶湖の鳥猟について
教育活動に関してはゼミ・講義を持たなかったた
猟場支配の観点から
J(
r環琵琶湖地域論』、思文
め全く胸を張れないのですが、研究室にやってくる
閣出版)が活字化されました。来年度はもっとどん
学生が意外に多く、彼(女)たちに講義やゼミの構
欲に研究したいと考えています。手始めに、この冬、
想、をぶつけて反応を見ながら、多少なりともそこに
研究仲間と琵琶湖の「藻 j の歴史に関する研究会を
修正を加える機会を得られたのは収穫でした。
立ち上げました。 ほとんど手が付けられていないテ
滋賀県は様々な芸能が存在していいて、民謡や民俗
ーマなので、これから何が明らかになるのか楽しみ
芸能について観光や地域振興、地域アイデンティテ
です。
ィといった観点から論じる私の中心的な研究にお い
て極めてありがたく感じられる環境です。そうした
中で自身にできることを、社会貢献の面も含めて模
投稿欄の新設について
・・・
:
H
H
索し、発展させていきたいと考えています。
編集部では、紙面を一層関かれたものとす
-東幸代(あすまさちよ)日本近世史
今年度は、 1
1月末の日本史研究会大会で報告をさ
せていただくことになり、半年以上をその準備に費
1
9世紀 における 『漁政 j
やしました 。報告題は、 1
:
るために、次号より掲載論文に対する感想、
ご志、見、また、より 一般的に、大学、 学 部へ
: の提言 を募ることとしました。
投稿原稿は 4
0
0
0字以内としますが、電子メ
の展開と漁業社会Jで
、 1
9世紀前半の漁業観の問題
ール、打ち出しの原稿、或いはフロ ッピ ーデ
を扱いました。当日は、研究仲間でもある東京農工
イスクの形式 でも結構です。活発なご投稿を
大学の高橋美賀氏に関連報告をお願いし、 一 日続く
お待ちしております。
報告と討論を何とか釆り切りました。準備が本格化
紙而への掲載の採否については、編集部で
する半年の問、精神的・体力的にかなり消耗しまし
協議し、お断りする場合もあります。 また表
たが、準備過程や当日の質疑を通して、新たな課題
現などについて、修正をお願いする場合もあ
が浮き彫りになってきました 。 当日の報告は、 『日
ることをご了承ください。次号(16号)への
本史研究 jに掲載されることとな って おり、現在は、
投稿料?切は 2
0
0
4年 6月末日といたします。
:
報告の原稿化にかかっています。
宛先
大会報告が終わると、敦賀いきいき 生 涯 大 学 (福
井県敦賀市)で 「
江戸時代の魚食と漁業一鯛を中心
(郵送の場合)
に 」、高月間I
ふるさと講座 (
本県高月町)で「彦
〒5
22-8533
根藩の船奉行一高月町との関係から一 」、つがやま
滋賀県立大学人間文化学部
市民教養文化講座 (
本県守山市)で「琵琶湖の近世
(
電子メール) s
t
a
n
a
s
e@s
h
c
.
u
s
p
.
a
c
.
j
p
漁業一鳥猟からみた近江の特色一 」、と 立 て続けに
3度の講演会の機会を与えていただきました。 当日
は、熱心な社会人受講生から、地元について色々ご
教示いただき、こちらも勉強になりました。講演は、
研究や自治体史編纂の過程で得られた歴史情報を、
如何にわか りやすく地元の方々に還元し、地域につ
いて考えていただく材料とするか、ということを、
準備段階から十分に考える 必要がありますが、どの
1
2
2・人間文化
彦根市八坂町 2
5
0
0
棚瀬研究室宛
:
・
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-編集後記・
此号に関しては、多数の論文をご投稿いただきまし
た。 紙 数 に 制 限 が あ る た め 、 数 本 の 論 文 を 次 号 の 掲 載
と せ ざ る を え ま せ ん で し た 。 次 号 掲 載 と な っ た方々に
は 、 ご 迷 惑 を お か け し た こ と を お 詫 び 申 し 上 げ ま す。
また次号 か ら は 、 読者 の 方 々 か ら の 投 稿 欄 を 設 け る こ
ととしました 。 今 ま で 県 立 大 学 か ら の 発 信 を 旨 と し て
まいりましたが、紙面をより関かれたものとしてはど
うか、という声が挙がったためです。一体どれほどの
数の投稿が寄せられるのか未知数ですし、 当面 は 試 験
的運営とせざるをえませんが、必要ならば、スペース
を拡充してゆくことも考えて行きたいと,思います。
(
棚 瀬 慈 郎)
編集委員.
林
博 通 ・棚 瀬 慈 郎 ・灘本知憲・野部博子・山根
周
マキノ高原、マキノスキー
.
4kmの直線
場へ通じる延長 2
道路の両脇には約5
∞本のメタ
セコイ ア (
和名アケボノスギ)
の木が植えられていて美しい
並木道が形成されている 。北
海道の雄大な景色を紡併させ
9
9
4年(
平成 6年)
るこの景色は 1
読売新聞の「新 ・日本の街路
樹百景 jに選定され一躍脚光
をあびるよ うになった 。
沢、寺久保、石庭、牧野の
集落を 貫通するこの道路は、
もともと 幅 2mほどの栗園に
続く道であった 。1
9
8
1
年(
昭和5
6年)に学童農園「マキノ士に学
ぶ里J整備事業の 一環としてマキノ町果樹生産組合の手によ
ってメタセコイヤが植えられたのがは じまりで、その後県道
にも植えられて組合関係者 、地域の住民の人々の世話で育ま
れ、轄す高は35mとなっている。
メタセコイヤは芽吹き 、新緑、深緑、紅葉、落葉、裸樹、雪
花と四季折々の景観を呈し、道行く人達の心を和ませてくれ
ている 。
写真・文/野部博子
人間文化
1
5号
15号
2004年 3月 31日
滋賀県立大学人間文化学部研究報告
発行日
発行滋賀県立大学人間文化学部
〒522-8
533滋 賀 県 彦 根 市 八 坂 町 2500TEL0748-28-8200刊
発 行 人 小 林 清一
印刷サンライズ出版株式会社
本誌は再生紙を使用しています。
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遺品
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滋賀県立大学
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同
メタ セコ イア 並木 (
マキ ノ町)
類
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→
工│豆
m
I
主
詰