第一回 田辺聖子の評伝小説

市民のための現代文学講座・宝塚市立中央図書館
2013 年 10 月 31 日(木)藤本英二
第一回 田辺聖子の評伝小説
Ⅰ 作者田辺聖子について
年譜
1928 年 大阪市此花区に生まれる。
(田邉写真館、創業明治 38 年)
1944 年 樟蔭女子専門学校国文科に入学
1945 年
6 月田邉写真館焼失。10 月父死去。
1947 年 卒業。大阪の金物問屋KK大同商店に入社。習作を続け、懸賞小説に応募。
1951 年 「文芸首都」に入会、添削を受ける。 ※佐藤愛子、中上健次、津島祐子なども
1954 年 大同商店を退社。*七年間勤務
1955 年 大阪文学学校に通う。*27 歳
1957 年 「花狩」が「婦人生活」の懸賞小説佳作入選、翌年連載、最初の本となる。
NHK、毎日放送のラジオドラマの脚本を書く。
1964 年 「感傷旅行」
(同人誌「航路」掲載、芥川賞受賞*36 歳)
1966 年 直木賞候補で友人の川野彰子急死。その夫川野純夫(医師)と結婚。二男二女の継
母となる。別居婚を経て、大家族(舅姑小姑継子他)と暮らす。*38 歳
1971 年 カモカのおっちゃんシリーズ始まる
1972 年 『言い寄る』
(乃里子三部作の 1 作)
『千すじの黒髪』(最初の作家評伝)*44 歳
1974 年 『文車日記』
1976 年 神戸市から伊丹市に転居
1979 年 NHK銀河テレビ小説「欲しがりません勝つまでは」放映される
1987 年
『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』(女流文学賞)*59 歳
1992 年 『おかあさん疲れたよ』
1998 年 『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』*70 歳
(泉鏡花文学賞、読売文学賞、井原西鶴賞)
2002 年 川野純夫死去(1976 年脳梗塞、98 年から車椅子、享年 77)
2003 年 初の映画『ジョゼと虎と魚たち』(犬童一心監督、妻夫木聡、池脇千鶴为演)
2004 年 田辺聖子全集刊行開始(全二十四巻、別巻一、2006 年完結、朝日賞)
2006 年 NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」放映される
☆刊行された単行本は二百五十冊を超える。
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主な作品(ジャンル)
⑴恋愛小説……田辺聖子の作家としての最初の創作衝動は、
「女の子」の恋愛の心の揺れを
描く、この分野にあったはず。「大阪弁でサガンを」ということばも印象深い。
『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)
』……芥川賞受賞作。
《乃里子三部作》
①『言い寄る』
(
「週刊大衆」1972 年七月~十二月)
②『私的生活』
(
「小説現代」1976 年五月~八月)
③『苺をつぶしながら』
(
「小説現代」1981 年九月~十二月)
……2007 年に新装版として三十年ぶりに復刊されて人気を得た。川上弘美、津村記久
子ら女性作家からの評価も高い。
⑵中年小説
『求婚旅行』
、
『すべってころんで』、
『中年ちゃらんぽらん』他
⑶自伝的小説
『欲しがりません勝つまでは ―私の終戦までー』1977 年 *49 歳
『しんこ細工の猿や雉』
(
「別冊文芸春秋」1977 年 3 月~1978 年 12 月)
☆女学生の頃の「本ごっこ」
「著書ごっこ」から、金物卸問屋での会社員生活、大阪文
学学校での修業、投稿、最初の著書「花刈」の出版記念会、ラジオドラマの脚本制
作、などを経て、
「感傷旅行」で芥川賞を受賞するまでを描いた、自伝的小説。
⑷評伝小説
①『千すじの黒髪 わが愛の与謝野晶子』 1972 年
②『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』 1987 年 (女流文学賞)
③『ひねくれ一茶』 1992 年 (吉川英治文学賞)
④『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』 1998 年
(泉鏡花文学賞、読売文学賞)
⑤『ゆめはるか吉屋信子』
2002 年
⑸古典に関する著作
・
『文車日記』
、などの古典文学への招待
・
『新源氏物語』
『私本・源氏物語』、
「源氏物語」に関するエッセイ
・
『むかし・あけぼの 小説枕草子』
、
・
『隼別王子の叛乱』ほか古典ロマンス
⑹随筆・エッセイ
『カモカのおっちゃんシリーズ』…1971 年に『女の長風呂』で始まった「週刊文春」連
載のエッセイ。十五年続き、十五巻のエッセイになった。
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Ⅱ『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』について
A 田辺聖子のモチーフ(執筆の動機)
田辺聖子は『近代日本の女性史』シリーズ(集英社)で「杉田久女」を割り当てられた。
最初は乗り気になれなかったが、久女の資料を調べていくうちに、自分の久女に対する偏
見が、松本清張や吉屋信子の著作によって植え付けられたものであることを知る。
第一章では、伝説まみれの久女を描き、伝説の生まれた原因、増幅のメカニズムが語ら
れる。
「資料批判」であり、この評伝の出発点でもある。
「伝説」の解体を宣言している。
「伝説」の元になったものは
①松本清張「菊枕」昭和二十八年
⇒曲筆は感じられない。責任は反・久女的立場の人ばかりに取材したこと。
②吉屋信子「私の見なかった人〈杉田久女〉
」昭和三十八年
⇒正確な評伝ではなく自分で書き上げたオハナシ。よたっぱち。責任は大きい。
③秋元松代『山ほととぎすほしいまま』
④池上不二子「焔の女―杉田久女―」(『俳句に魅せられた六人のをんな』昭和三十二年)
⑤巌谷大四『物語大正文壇史』昭和五十一年
⑥戸板康二「泣きどころ人物誌―高浜虚子の女弟子」昭和五十七年
田辺聖子が拠って立つのは
⑦『久女文集』昭和四十三年、石昌子(長女)編
⑧増田連『杉田久女ノート』昭和五十三年
⑨『杉田久女遺墨』昭和五十四年
☆五年の歳月をかけて多くの資料にあたり、久女を知る人物に取材し、書き進めていくう
ちに、すべての元凶を発見することになる。
《久女伝説》
①長谷川かな女との確執
「虚子嫌いかな女嫌いの単帯」
「呪う人は好きな人なり紅芙蓉」
②長谷川零余子との醜聞
③大田柳琴(クリスチャン)との醜聞
④神崎縷々との醜聞
⑤昭和五年『玉藻』発刊(虚子の娘、星野立子为宰)……吉屋信子の「捏造」した事件
⑥昭和七年、菊枕を贈る。
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⑦昭和七年「花衣」五号で廃刊の謎
⑧昭和八年、短冊事件……曾田医師、久女、白虹
⑨句集の序文を虚子に懇願、相手にされず。
⑩虚子の小説「国子の手紙」
(昭和二十三年)…昭和九年の久女の手紙
⑪昭和十一年二月、虚子渡仏。箱根丸事件。久女は門司に見送りに行くが、虚子会わず。
⑫昭和九年ホトトギス同人となるが、十一年に突然同人を除名される。
⑬昭和二十一年精神病院で死亡。
「カルテ流失事件」
これらについて、田辺は資料を引用しながら、細かく推理していく。
B 田辺聖子の方法
⑴膨大な資料にあたり、その中から取捨選択していく。
※「評伝は資料との闘いです。材料はテーマに合わせて取捨選択していくの。もったい
なくてもね。人の人生を書いてあげるときには、気品がないといけないの。为人公に
愛情がなければ書けませんからね。」
(全集別巻・島崎今日子「夢みる勇気」より)
※例えば、作品中で個人誌『花衣』を丁寧に紹介している。
「久女について、悪くいう人は、いったい「花衣」に目を通したのだろうか。」上・337
⑵資料にない部分については、小説的空想で埋める。〈
〉による会話部分。
※例えば、俳句会で初めて虚子と会った時の会話、上・126
※例えば、家庭での夫宇内との口論、上・185
※例えば、中村汀女との出会い、上・196
☆こうした部分は、厳密に〈
〉で示されている。小説的な空想だが、やや甘いという
感は否めない。
⑶基本的には、杉田久女の生涯を、時間にそって追っていく。
【久女略年譜】
・明治二十三年、鹿児島に生まれ、沖縄で育つ。
「お茶の水高女」卒業。
・明治四十二年、中学教師(美術)杉田宇内と結婚、小倉へ。長女昌子、次女光子。
・兄により俳句の世界を知る。
・大正六年、高浜虚子に出会う。
・大正八年、長谷川零余子たちの訪問を受ける
・夫との確執、離婚を考える
・俳句を捨て、太田柳琴により受洗(キリスト教に)。
・虚子の小倉来訪、櫓山荘での句会(橋本多佳子との出会い)、再び俳句の世界へ。
・昭和二、三年頃から、豊饒な世界を。
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・昭和五年「日本新名勝俳句」……十万三千余句の二十句の中に選ばれる。
・個人誌「花衣」発刊、昭和七年五号で廃刊
・昭和九年「ホトトギス」同人に……虚子に句集序文を請うが拒否される。
・昭和十一年「ホトトギス」を除名される。
・昭和二十年十月、精神病院へ
・昭和二十一年一月死亡。
⑷久女の句を多数(二百二十余句)引用し読者に手渡す。あわせて、久女の句に対する同
時代の評価(昭和八年、宇佐神宮での句なら中村草田男、虚子の評、昭和九年「雪颪す帆
柱山冥し官舎訪ふ」の句なら山口青邨、虚子の評)を紹介する。それだけにとどまらず、
田辺聖子自身の評価、判断も併記する。
本の口絵(写真)に添えて紹介されている久女の句は次の通り。
*花衣ぬぐや纏はる紐いろいろ
*白妙の菊の枕をぬいあげし
*あぢさゐに秋冷いたる信濃かな
*甕たのし葡萄の美酒がわきすめる
*南山や鶴の巣ごもるよき日和
小説の各章タイトルのあとに、久女の句をサブタイトルのように付記するという形で句
を紹介している。
(各章の内容を示すとともに、自分の好きな句を選んでいるのだろう)
序章
*虚子嫌いかな女嫌いの単帯
第一章 虚子嫌ひ かな女嫌ひ(久女伝説の謎)
*常夏の碧き潮あびわがそだつ
第二章 碧き潮(常夏おとめ)
*目の下の煙都は冥し鯉幟
第三章 煙都は冥し(小倉へ)
*争ひやすくなれる夫婦や花曇り
第四章 花曇り(自分に賭ける)
*個性まげて生くる道わかずホ句の秋
第五章 生くる道わかず(ひとり病む秋)
*足袋つぐやノラともならず教師妻
第六章 ノラともならず(美しい女弟子)
*夕顔やひらきか﹅りて襞深く
第七章 夕顔の襞(俳句にかえる)
*谺して山ほととぎすほしいまま
第八章 山ほととぎすほしいまま(自由と栄光)
*無憂華の木陰はいづこ仏生会
第九章 無憂華(
「花衣」創刊)
*うららかや蒼き祀れる瓊の帯
第十章 玉の帯(短冊事件)
*磯菜摘む行手いそがむいざ子ども
第十一章
行手いそがむ(序文懇願)
*盆に盛る春菜淡し鶴料理る
第十二章
春の鶴(国子の手紙)
*喜べど木の実もおちず鐘涼し
第十三章
木の実もおちず(同人除名)
*土濡れて久女の庭に芽ぐむもの
第十四章
芽ぐむもの(久女変幻)
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*鶴舞ふや日は金色の雲を得て
第十五章
金色の雲(虚子韜晦)
終章
⑸小説の前半は《夫杉田宇内との確執》
、後半は《師高浜虚子との確執》を描きながら、夫
や師を捨てることができないという久女の限界をしめす。この小説を通じて、田辺聖子
は「女性」の置かれた立場を常に考察している。
「女性」の生き方を抑圧するものへの怒
りがあり、フェミニズム文学として評価できるし、田辺聖子の声が響いている。
⑹「ホトトギス」の統率者虚子という人物の持つ「政治性」にメスを入れる。
☆女性俳人を育てていくという進歩性
☆水原秋桜子、山口誓子ら新興俳句に対する抑圧、対抗策
☆《悪人ぶり》を、虚子自身の文章(小説)を分析することであぶりだす。
・
「厭な顔」……秋桜子の「ホトトギス」離脱の際に。自身を信長になぞらえて。
・
「国子の手紙」……久女の娘昌子の手紙を利用しつつ、久女の狂乱を印象づける。
⑺俳句結社というものの特殊性、閉鎖性、を描く。あわせて九州の俳句界の動向も。
「小悪党」と言うべき横山白虹。⇒焼き芋のエピソードから、久女の醜聞の噂拡大、小
倉での久女評価に対する抑圧(増田連氏などへの)
、久女の矮小化。
⑻対比という手法。久女という女性を多面的に照らし出すために,多くの人物を登場させ
ながら、ある「軸」に関して、久女との対比を試みる。
☆虚子の客観写生、花鳥諷詠論に対する四S(水原秋桜子、山口誓子ら)の活躍と対立
を描きながら、久女の位置(为観性の強い久女が、虚子の信奉者となる矛盾)に言及。
☆「東大俳句会」……俳句を論じ合える友人の存在
☆「ホトトギス」からの離脱……水原秋桜子
☆貧富、対人関係……橋本多佳子
☆夫との関係……久保より江・猪之吉
☆離婚……柳原白蓮(美貌の歌人、金満家の夫を捨て、書生に奔る)との対比
☆短冊の販売……竹下しづの女(応援してくれる友人を持つ)
⑼多くの女流俳人が紹介されているが、中で特に印象深いのは、橋本多佳子の存在であり、
『花衣ぬぐやまつわる……』のもう一人の为人公は橋本多佳子であるといってもよい。
・第七章櫓山荘・文化サロン。多佳子との交流。
ここで「多佳子の眼」を借りて、田辺は久女の相対化、批判を行う。
多佳子のバランス感覚、順応力、洞察力。芯の強い、ひとすじ縄でいかぬ女。誰にも心
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を開かず、誰とも親和する。
・山口誓子を師として、昭和十年「ホトトギス」から離脱し「馬酔木」へ。
・夫豊次郎の存在によって芸術家としての自分を育てられ、その死(昭和十二年)によっ
て、橋本多佳子はさらに大きく成長していく。下・133
・戦後、奈良俳句会で、西東三鬼、平畑静塔らと命がけの修業を。下・141
・橋本多佳子、昭和二十九年病院を訪れる。
「青葦原をんなの一生透きとおる」下・190
《多佳子は、生涯、まっとうで澄徹で、人を誣いることなく生きた久女の人生を、「透き
とおる」と観じたのである。
》
(多佳子に託した田辺聖子の久女観)
☆橋本多佳子に対する田辺聖子の書き込みは細やかで愛情に満ちている。ほとんど田辺
聖子=橋本多佳子という風で、久女に対する自分の思いを多佳子に託している。
《評伝に書いたから当然ですけれど、あの作品ではもう一人、橋本多佳子も好きです。
〈月
光にいのち死にゆくひとと寝る〉という俳句がありますね。昔から好きでした。》(坪
内稔典との対談・全集別巻)
⑽田辺聖子自身の「紀行文」(取材旅行)を織り交ぜる。(久女の生涯を辿ってゆく時間と
は別の、作者田辺聖子自身の現在の時間が流れる)
具体的には、松本(墓参り)
、小倉、英彦山、大宰府病院、愛知県小原村(宇内・久女の
墓参り)などの紀行である。
☆序章(松本行)……墓を探す(実際との違い)
、諏訪大社の近くの温泉宿の奥さんから
カルチャーショックを受ける(これが久女の対人関係の独特さへの暗示となる)下 107
へ
☆田辺聖子の英彦山紀行
《久女は、ほととぎすの声を実際に聞き、雄大で自由だと捉えた》(田辺)
☆終章(小倉行)……横山白虹の死によって小倉での久女顕彰の動きが始まる、この評
伝の登場人物のほとんどが死に、作品が残る。句碑を前に講演。久女の恋はあったか
もと思う。
瀬戸内寂聴との対談(全集別巻一)より
・
「あとの三分の一ぐらいから推理小説を読むみたいね。」
(寂聴)
・
「高浜虚子の悪口をこれだけはっきりと書いたというのは、勇気があるなあと思ったんで
すけどね。
」
(寂聴)
・「中途で私はすごく宇内に腹を立てて、何ていやな男だろうと……。」(聖子)「でも、終
わりはあなたはすごく愛情持って書いてるじゃないの。」(寂聴)、「そうですね。宇内に同
情するようになりました。かわいそうだしと思って。」(聖子)
7
・
「虚子の門からも出ない。宇内からも去らない。」
(聖子)、
「ねえ、あれが不思議ね。」
(寂
聴)
川上弘美との対談(全集別巻一)より
田辺
評伝を書き出したのは二つ理由があって、一つ目は五十歳過ぎると、他人の生涯が
俯瞰できて、興味も共感も持てるということ。二つ目は文体ね。恋愛小説で「はっと驚い
た」なんていうのを、うんと書いたもんだから、わかりやすく、かるくという文体に飽い
てしまって、今度は「一驚を喫した」と書きたくなるんです。字も知ってまっせ、という
ことを知ってほしいわけ(笑)
。
川上 わかります(笑)
。書きたくなりますよね。
田辺
評伝を書き出したら、これはまた楽しかった。その人の一生をなぞっていくという
ことは、小説と一緒なのね。謎が多くて、なんでなんでと謎を埋めるのは小説家の空想が
必要になる。
川上 ああ、わかります。
田辺
それから評伝に転じると、とたんに賞がきた。自分の小説のほうが、私からいえば
上なんだけど。あれはロバが口をきいたという、びっくり賞ね(笑)
。
Ⅲ 『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』に
ついて
この小説は、大阪の川柳作家、岸本水府(「番傘」为宰者)を中心にしながらも、筆を彼
に限らず、彼の周辺の人々、時代や世相に、視界は自在に伸びやかに広がってゆく。芝居
の世界から芸妓色里の世界、そして大阪での米騒動、東京での関東大震災、あるいは第二
次世界大戦へ、戦後社会へと広がってゆく。これは、庶民の位置から描いた、川柳を通し
た、明治、大正、昭和史である。
その描き方は、具体的な人物の眼と川柳によって綴っていく、織物の如き手法である。
田辺聖子は「番傘」をはじめ、日本各地の川柳誌(膨大な)を読み込み、句だけでなく、
川柳論、川柳界の人々の動向、ちいさな埋め草コラムまで引用しながら、川柳の世界に集
う市井の人々を描こうとしている。その文学者としての志、膂力、持続力には瞠目すべき
ものがある。
『花衣ぬぐやまつわる……』が、杉田久女という一人の俳人の生涯を描いたものなら、
『道
頓堀の雨に別れて以来なり』は、岸本水府の生涯を辿りながらも、そこにとどまらず、木
村半文銭、食満南北、井上剣花坊・信子、鶴彬、小田夢路、小島祝平・林照子、など魅力
的な川柳作家の群像を縦横無尽に描き出している。この小説には数百のドラマの種が埋め
込まれている。
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