384 最初の山岳俳人、石橋辰之助 繭干すや農鳥岳にとはの雪 朝焼けの雲海尾根を溢れ落つ 人小さく雪崩のがれて尾根はしれり 彼はこれら本格的な山の句を詠んで颯爽と俳壇に登場した。 時代は満州事変勃発から2、26事件のころだ。石橋辰之助 は日本橋の裕福な問屋の四男坊。開成中学に入り一高東大へ の道を進むはずが、家庭事情で学業を中断し昼間は商工省で 働き夜学で学ぶ。 俳句は大正の終わりから昭和の初め「ホトトギス」「馬酔木」に投稿、水原秋桜子らを知る。 昭和13年北京郊外の盧溝橋から日本は第2次世界大戦に突入していく。昭和15年彼は 西東三鬼、平畑静塔、三谷昭、杉村聖林子ら京大の俳人らと共に、“京大俳句事件”に巻き込 まれ、特高に逮捕4ヶ月も留置場生活する。これはまったくの濡れ衣だった。特高がいくら拷 問しても、辰之助からマルキシズムのカケラも出ない。彼は本来この思想とは無縁だった。 失望した特高は彼にマルクス思想の本を読ませ、知識を与えた上で転向声明をさせた。 ところが彼は釈放後にこれが本物になった。戦争中はまったく俳句を詠まず、ひそかに地下 活動もしたらしい。戦争末期には妻子を白馬山麓の細野へ疎開させ、自分は東京に居残った。 終戦後は素早く「新俳人連盟」を創立し幹事となり昭和22年委員長に。 23年にウエストン祭に参加するため上高地へ出かけた。そのとき白馬村の妻子を訪ねてし ばらく過ごしたが、8月21日、結核が悪化して永眠した。享年39才。 こんな異色な男が最初の山岳俳人と言われるのは、それまで俳壇にまったくなかった山岳、 登山の世界を本格的に詠んだことにある。 ザイル干す我を雷鳥おそれざる 霧ふかきケルンに触れるさびしさよ 雪崩見し穂高の岩にわれすがる 人黙り冬日の岩にいどみいる じりじりと真白の夏雲のもとあゆむ 谷氷り日輪のもとあゆむ 蒼穹に雪崩し峪のなほひびく 岩灼くるにほいに耐えてザイル負ふ 雪渓の夕日まぶたに背のザイル 穂高岳真っ向にして岩魚釣り 諏訪の町湖もろとも凍てにけり 落葉松の立のまばらに雪の峰 岩焼くるその岩かげの雪あわれ
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