ラストクロニクル 灰色の英魂の章 - Last Chronicle ラスト クロニクル

灰色の英魂の章
『ラストクロニクル』ショートストーリー
滝 舜一
宿の外は、ひどい雨だった。
獣油のランプと暖炉から溢れ出す蜜柑色の光の中、澄んだ青い目が、じっと少
年を見つ め て い た 。
への扱いを変えるはずだった。 なんといっても、小柄でひょろりと痩せた「白
暁亭」の赤毛の小せがれが、貴族様の血を引くということになれば、これまでの
それを証明することができれば、彼を何かと軽く扱う近隣の悪ガキどもも、自分
ちらりと聞いたことがあった。彼は今、どうしてもそれを確かめたかったのだ。
少年は勢い込んでうなずいた。彼はまだ文字が読めなかったが、この酒屋兼宿
屋――「白暁亭」を始めた亡き父が、元は貴族の出であるという話は、母親から
「それで……その手記を、私に読んで欲しいというのですか?」
持ったやわらかい声を紡ぎ出した。
の前の整った顔が、小さく傾げられた。桜色の唇が静かに動き、不思議な陰影を
だった。ふと、秋の実りを麦畑を思わせる金色の髪がふわりと揺れて、少年の目
少年は我知らず、胸の鼓動が高鳴るのを感じていた。彼はまだ、エルフの女性
を見たことがなかったからだ。それは、まさにこの世のものとは思えない美しさ
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やりきれない状況を変えるには十分だ――そのために、今、この目の前の詩人の
力が必要なのだった。羊皮紙に書き連ねられたその記録は、この辺境の村では珍
しく、文字というものを扱える父が、忙しい店の仕事の合間に夜な夜な書き溜め
ていたも の だ っ た 。
少年はひょんなことからその隠し場所を知っていたが(書斎を兼ねた小部屋の
大 机、 そ の 一 番 下 の 隠 し 引 き 出 し の 中 だ )
、父と約束をしていたから、これまで
我慢していたのだ。父はそれを、「お前が文字を扱えるようになったら読めばいい」
と笑って言ったのだ。「それまでは、できれば読まずにいてほしいな」と照れく
さそうに笑った顔を、少年は未だに覚えている。
その父は、昨年オークの襲撃から村を守るため、戦場に立って亡くなった。少
年はできることなら父との約束を守りたかったのだが、先日、幼馴染の少女の前
で、村のガキ大将に自分の体格と父譲りの赤毛を馬鹿にされたことが、どうして
も我慢できなかった。母親は宿と酒場の仕事で忙しく、また、彼は彼なりに男と
男の約束を守りたいと思っていたから、これまでその隠し場所と父の遺稿のこと
を、母親に告げることはしないできた。けれど、もう限界だ。ここ数日、少年は
もっとも、その女性がこのあたりでは珍しい、エルフ族の女性だということには、
てわざわざ夜更けに彼女を呼び出し、母には内緒でその依頼を告げたのだった。
思えば、旅の女性詩人が、母親が経営する宿を訪れたのは、まさに天の配剤と
いうべきものだったのかもしれない。だから彼はこの機会を逃さなかった。そし
言い聞か せ た 。
うことだと。だからこれは正当な理由があることなんだ、と彼は自分自身に強く
それでもはっきりと分かっているんだ……今それを失うことは、きっと永遠に失
きっと自分は大事なものをひとつ失ってしまう。僕はまだ大人ではないけれど、
あまりに惨めじゃないか……それに、今ここでこの状況を受け入れてしまったら、
これはきっと、と彼は思う。自分が大人だったなら、へらへら笑ってやり過ご
せることなのかもしれない。けれど、今の僕にはそれが許せないんだ。だって、
できない で い た の だ 。
夜寝床に就く時、どうしてもあの屈辱のことが頭にちらついて、よく眠ることが
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さきほどようやく気づいた有様だったが(彼が最初、ちらりと宿に入ってくるの
を見た時には、彼女はまだ雨よけの外套とフードを目深にかぶっていたのだ)。
※※※
ヘウメネアは今、少し驚いた面持ちで、目の前に立っている、赤毛の少年を見
つめていた。痩せぎすで燃えるような赤毛を持った彼は、少し頬を上気させ、拳
を 固 く 握 り 締 め て い る。 そ れ に し て も、 深 夜 に わ ざ わ ざ 何 事 か と 思 っ て み れ ば
……死んだ父親の手記を読んでほしい、だって? ヘウメネアは、旅から旅の生
活を続ける吟遊詩人だ。彼女は確かに時折、訪れる村々で、文字を扱えない人々
の代わりに、手紙を読んだり代筆を頼まれることがある。しかし、これはかなり
珍しい種類の頼まれごとだった。
けれど、ずいぶん緊張しているらしい少年の姿を見ているうち、ふとヘウメネ
アは気持ちがほころぶのを感じていた。まるで、赤毛の子犬みたいだ……よくよ
くみれば、愛らしい顔立ちをしているようにも見える。また同時に、自分の心の
外の雨音は一向に止む気配を見せなかったが、ヘウメネアの心は、いつしかす
っかりその奇妙な手記の中に入り込んでしまったようだった……。
だ。
走らせる、理知的な雰囲気を備えた男性の姿が、なんとなく彼女の脳裏に浮かん
訓練された、男性のものにしては整った文字だ。夜な夜な机に向かって羽ペンを
子供なりにそのことを気にしていたらしく、ほっとした様子の少年を横目に、
ヘウメネアはその羊皮紙の束に目を走らせ始めた。そこに綴られているのはよく
代は必要 あ り ま せ ん わ 」
「いいでしょう……ではその手記の束というのを、こちらに。……もちろん、お
ずくと同時に、にっこりと笑って少年に告げた。
異なる、彼女が独自に持ち得た資質でもある。だからヘウメネアは、小さくうな
奇心は、自身を今の生業へと導いた要因であり、同時に他の同族たちとは明確に
中で、そっと頭をもたげてきたものも、彼女は明確に自覚していた。それ――好
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※※※
ダグザとは、いったいどういう男だったのだろう。僕に分かることは少ない。一
見単純で陽気なように見えて、その実、誰にも容易に本心を明かさない男だった。
別に邪悪な意図があってそうしていたとは思わない。今になると分かるのだが、
あれは油断のできない世間というものを渡り歩くうち、誰もがいつの間にか身に
つけてしまう、用心深さの一種だったのだ。
彼のことを考える時、まず真っ先に思い出すのはそのゼフィロンの田舎なまり
のことだ。「どうっとこともねえ」
「すまんけどちっとばかしよ、銭ィ、貸してく
れ や 」。 次 に は、 そ の 姿 が 浮 か ん で く る。 茶 色 く 立 ち 枯 れ た ケ ダ の 森 の よ う な、
もじゃもじゃした髭。少し濁りの混じった、薄緑の瞳。唇の左端をちょっと持ち
上げ、にやりと笑う癖。耳たぶの辺りから下唇の脇まで、右の頬に長く刻まれた、
古い刀傷。左足をちょっとひきずりながら、ひょこひょこ歩く独特の歩き方。よ
く使い込まれ、手入れされた二本のショートソードと、陽に焼けて色の褪せた、
った剣の道で身を立てようと、十九の年にある傭兵団に身を投じたのだ。
かった。それはちょうど鋼の時代が始まりかけた頃で、僕も少しは身に覚えのあ
まもなく家は没落したが、僕には生来呑気なところがあって、あまり気にもしな
僕はグランドールとガイラントの間にある、トップル庄の田舎貴族の家に育っ
て、小さい頃から剣と冒険の世界に憧れた。十五の年に両親が疫病で亡くなり、
ずり回っ て い た 。
り実用的とは言い難い両手剣を意気揚々としょって、あちらこちらの戦場を駆け
ろんなことを、全くといっていいほど知らなかった。見栄えこそはいいが、あま
り前の時代のことだ。その頃、僕は駆け出しの傭兵で、世界や人間についてのい
――鋼の時代。それは、このアトランティカが戦雲に覆われた、今より少しばか
死んだ。
狐色の革鎧。誰もそれを確かめた訳ではないが、おそらく彼はバラッドの戦場で
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その傭兵団の名は「白暁騎士団」といった。白暁騎士団! たぶん、グランド
ール出身で詩人崩れのマーカシーの発案だったのだろうが、今にして思うと、少
し可笑しくなってしまう。まったく、よく付けたものだ。名前だけは立派だが、
その実態は、喧嘩だけなら自信のあるならず者や、戦場で一旗上げようと考える
山師ばかりを集めたもので、ひどくお粗末な代物だった――つまるところ、この
時代にはよくある類の傭兵団だったのだ。何しろ戦場を渡り歩くわけだから人の
入れ替わりは当然激しいし、報酬の分配だってあまり公平だったとは思えない。
でも、いくつか良いところがあって、そのひとつが、武器を持って歯向かわない
限り、十五より下の子供と女は襲わないし、殺さないことだった。団をまとめて
いた隻眼で長身のマーカシーは、若干けちな点を除けば、人の上に立つにはなか
なかの資質を備えた人物だったのだ。
ダグザはそんな白暁騎士団の、古参の一人だった。この小柄な男には「錆びた
投げ斧」といういささか妙な二つ名が付けられていた。この場合の投げ斧という
のは、ガイラントの野猟兵が使う、柄の曲がった小さな手斧のことだ。よくしな
るアッジスの若木に、薄い鉄製の刃を取り付けた武器だ。狩りや戦いで標的に投
僕が彼と最初に話したのは、遺跡から掘り出した貴重な宝を山と積んだ隊商の
何の敬称も付けず、まるで友達のように呼べるのは、彼だけだった。
ダグザは上品でも尊敬すべき人物でもなかったが、その人柄には恥を恥とも思
わない図々しさにも関わらず、どこか愛嬌があった。それに団長のマーカシーに
ういうこ と だ 。
戦場から姿を消した。その二つ名である「錆びた投げ斧」というのは、つまりそ
きをし、戦笛が引き上げの合図を告げると、手近な戦利品だけを掠めて、素早く
計の歯車のように、彼は黙々と戦場に出て、確実に後ろ指を指されない程度の働
わり、彼は華々しい手柄を立てることも決してなかった。まるで教会の古い大時
ダグザは数々の戦場に出たが、必ず生きて戻ってきた。矢傷や手傷を負うこと
はしょっちゅうだったが、それでも常に、その程度で済ませていた。だがその代
くるくると回転して手元に戻ってくる。
げつけて使うものだが、もし外れても、少しずつ空中で重心を移し替えながら、
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護衛のため、ギサ近くの交易商人に雇われていた時だった。それは、確か僕がま
だこの白暁騎士団に入って、半年も経たない頃だったと思う。
「なあ、新入りの兄ちゃん。ちっとばかし銭ィ、貸してくれや」
とある街の市場の外れで小休止になった時、後ろからそう声がかかったのだ。
振り向くと、革鎧に身を包んだ髭面の小男が、薄汚れた鞘と剣を肩に、にやにや
笑いながら突っ立っていた。それが、ダグザだった。どうして僕に声がかかった
のか分からず、僕はじっと彼を見た。
「えっと、そうよなぁ……銀貨百枚でいいからよォ」
僕がまだなんとも答えないうちに、少しだけ遠慮がちな風を装いつつ、その男
は言った。銀貨百枚は節約すれば大の男がひと月は食いつなげる、そこそこの大
金だ。彼は僕に目ざとく小金を溜め込んでいそうな雰囲気を感じ取ったらしかっ
た。もちろん、僕がまだ比較的新入りで、彼の唐突な頼みを断りにくいだろうと
僕はその図々しさにかすかな不快感を感じたが、結局彼に十数枚の銀貨を手渡
いうことも、その理由に入っていただろう。
すことになった。彼はそれを、露天商からガイラント特産の噛み煙草を買い貯め
彼はひとしきり笑って、こう言った。
その時、そばにドリスコという陽気なドワーフの斧使いがいて、その様子を見
ていた。僕がちょっとほっとした顔をしていたせいだろう、ダグザが去ったあと、
のときっちり同じ枚数の銀貨を押し込んだ。
乗り、ありがとな、兄ちゃん、と相変わらずにやにやしながら、僕の手に貸した
外にも金は、小休止が終わった直後にすぐ返ってきた。そこで男は初めて名を名
のも嫌だったので、僕は特別、彼らに問いかけることもしなかったのだ。だが意
その直後、一部始終を見ていた周囲の傭兵たちの間から、かすかな笑いの波が
沸き起こった。それは何やら意味深なものだったが、彼を疑っていると取られる
すぐに人ごみの中に消えてしまった。
を覚えた。やがて彼は金を受け取ると、片手をちょいと上げて恩に着るぜと言い、
その態度はふてぶてしいわりにどこか落ち着きがなく、僕はちょっとした不信感
するための代金だと言った。あいにく、今は持ち合わせがなかったのだという。
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「まあツイてたよな、やつの“噛み煙草”の調子が良くて」
その声に釣られたように、再び周囲からいっせいに笑いが起きた。意味が分か
らず、僕 は
「調子? 」
と小さく呟いた。ドリスコはまだくっくっと肩を揺らしながら、今度は片目を
つぶって 言 う 。
「ああそうさ。やつの噛み煙草は、四つ脚でぴょんぴょん跳ねるからな!」
彼はそう言って、豪快に笑ったのだった――あとで分かったことだが、ダグザ
はその時跳び蛙の博打に凝っていて、しょっちゅう人に金を借りては、こてんぱ
んに負けているらしかった。ほかに彼は、ダイスにも目がなかった。まったく、
ダグザは生まれついての博打好きで、なおかつ偉大なる負け犬だった。彼は博打
についてはすぐに熱くなる性質で、胴元の巧みな煽りや挑発に、いちいちそれと
気づかず乗せられてしまうのだ。こういう人間が賭博で長期的な利益を得ること
は、闇夜に鴉を射止めるより難しいことだ。
ダグザはとにかく身持ちがだらしがない男で、博打のほかに酒と女にも目がな
かった。彼がひどい二日酔いでふらふらしながら行軍についてくる姿は、とくに
彼は神に祈ることを知らないらしかった。僕が知る限り、政治や世の中のこと、
いうし。だったら、銭ィ使うより仕方ないだろうが」
「え……だってよぉ、マーカシーはうちの団にいる限り、女を襲ったらいかんと
すると彼は髭をなでながら、河原の石ころ集めを咎められた子供のように不思
議そうに 答 え た 。
「ダグザさん、いい加減にしたらどうです? そんな金があるなら、さっさと小
金を貯めて、この稼業から足を洗えるんじゃないですか?」
なイースラ渡りの青年剣士が、ダグザにたまりかねたように言ったことがある。
の娼館通いは、どこかしら度を越えたものがあった。いつか、団にいた生真面目
いのだが、娼婦と寝るのだって、決して安くつくわけではない。何より、ダグザ
先々の町で娼館に行くのを習慣にしていた。まあ、僕にも経験がないわけではな
大きな戦いがあった後には必ずといっていいほど見受けられた。また、彼は行く
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精霊神たちへの信仰のことなんかには、完全に興味がないようだった。人生に何
かを求めることもなく、ただただ生きて、戦って、博打を打つ。毎日それを繰り
返して、飽きないようだった。……もしくは、そのように見えた。
僕がダグザと仲を深めるきっかけになったのは、ある請負い任務で、とある龍
人部族同士の小競り合いに参加した時だった。信じている教えや流れる血の違い
から生まれた戦いは、激しく凄惨なものになりがちだ。けれどこの戦いは、そう
いったものからは無縁で、言ってみればほとんど茶番劇のようなものだった。そ
もそもこの争いの当事者である龍人の族長たち自身が、血を分けた兄弟という間
柄だったのだ。彼らは互いに相手を威圧し、偉大な王だった父から相続した領地
をめぐる問題に白黒をつけたいだけで、最後の一兵に至るまで殺し合うなんて気
は毛頭なかったのだから。戦いは終始僕らのついた側が優勢に進み、賊軍(もち
ろん、マーカシーが言うには、報酬の支払いの悪い側のことだ)は、ついに巨大
な岩山を利用して作られた、古い砦に立てこもってしまった。そうなってしまっ
ては、ただの傭兵である僕らには、しばらく出る幕はない。
青空の下、草原に寝転がり、上半身裸のドワーフやノームの工技兵たちの手で
破城槌や攻城櫓が組まれていくのを見ていると、まるで戦争をしていることなど、
ダグザは照れくさそうに、少し欠けた前歯を隠そうともせず、にやりと笑った。
「たまたま賭場が立ってたんでよぉ。ま、おかげで勝たせてもらったさぁ」
「おっと 」
彼は律儀にも、僕に金を借りたことを覚えていたようだった。
「ああ。跳び蛙の博打だったんだってね」
「いつかは、ありがとな」
調子も何も見ての通りなのだが、とにかくダグザは僕に陽気に声をかけると、
隣に腰を 下 ろ し た 。
「どうで え 、 調 子 は 」
が、視界の端に立った。僕はゆっくりと身体を起こした。ダグザだった。
みずしい草の匂いを含んだ風がそよいでいた。ふと、薄汚れたなめし革のブーツ
忘れてしまうようだった。季節はもうすぐ夏で、あたりには爽やかな熱気とみず
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「そりゃ 、 よ か っ た 」
「うん」
ふと彼の目が、僕の身体のそばに置いてあった両手剣に止まった。
「……ふ む 」
ダグザが意味深に小首をかしげた。
「何だい ? 」
すると彼は、こう言った。
「兄ちゃん、悪いことは言わんからよ、もっとみじけぇヤツをよ、そのぶん、二
本持ちな よ 」
「予備の短剣なら、いつも持ってる。それに、切れ味はいいよ」
「けどよ、長過ぎら。ぜってぇ、いつか命取りになるぜ」
彼はその言葉に、妙な確信を持っているようだった。確かに、当時僕の愛用し
ていた両手剣は、取り回しが難しい代物だった。その長い刀身は、乱戦の時など
には動きの妨げになることは、僕も薄々感じてはいた。
「いや……でも、これが扱いなれているし、好きなんだ」
ず、軽口を叩かれることはあっても隊の誰にも尊敬されるようなことはなかった
目にもはっきりと見えるというものではないようだった。その後も彼は相変わら
うになった。だが、ダグザの中にあるように見えるそんな不思議な資質は、誰の
な男だな、と僕は感じ、それから団の他の面子とは、どこか違う目で彼を見るよ
つかの傭兵隊を渡り歩いていたことなどを言葉少なに語っただけだった。不思議
とや、マーカシーとは古い戦友同士であること、白暁騎士団に入る前には、いく
になりがちだった。ゼフィロン辺境の村の生まれで、十五の年に傭兵になったこ
それから僕たちは、ぼつぼつとお互いの事を話すようになった。ダグザは表面
的にはわりに多弁なほうだったが、話が自分の過去のこととなると、途端に無口
「……」
「兄ちゃん、なんぼ言ってもなぁ、くたばったら、おしめえよ」
まだ若かった僕はある種の照れ隠しで、そう答えた。するとダグザは、ふっと
真面目な表情になり、ぽつりと呟いたのだった。
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し、戦いで特別な働きを示すこともなかった。だが、少なくとも僕は――彼の中
に、何かしらの軽んじがたいものを見出していたんじゃないか、と思う。別に自
慢したいわけではないけれど、今になって、ますます強くそう思うのだ。
いつか、こんなこともあった。ゼフィロンとグランドールの国境地帯のとある
街でのことだ。もともとそりが合わないこの両国は、ゼフィロンの遊撃兵がたび
たび聖王国の穀倉地帯を掠めることで争いになり、両勢力ともが戦いに備えて各
地から兵を募っていた。マーカシーは元詩人という経歴からグランドールに多少
肩入れしていたことと、豊かな王国ならではの高額の報酬に釣られて、この地に
やってきた。だが戦いの直前で、グランドール側が有能な交渉者を立てた使節を
出したことでかりそめの和睦が成立し、仕事はフイになった。
マーカシーが、せめて旅費だけでも補填してくれないかとグランドール側と交
渉している間、僕らはしばらく、この国境地帯の街で時間を潰すことになったの
だ。久しぶりに訪れた平穏に、街の外れにはさっそく市場が立つことになった。
野菜や果物、日用品なんかを売る露店に紛れて、僕は古書を扱う商人の露店を覗
いてみた の だ 。
彼の顔を見た。すると慌てたように、ダグザはぼそぼそと言うのだ。
さっきも説明したとおり、彼は本なんて、焚き火を起こす時にくすぶり始めた
小枝の後にくべるものだと考えているような人種だったので、僕は少々驚いて、
「これ、 な ん の 本 だ ? 」
僕が本の山にうもれていた古い博物誌を見つけ、手にとって眺めていた時、ふ
とダグザが何気ない様子で尋ねてきた。
り悪げな顔を思い出すたびに、僕はふとおかしくなってしまったものだった。
求められた彼は、酔ったふりをして僕に代筆を頼んだからだ。あの時の少々決ま
彼が字を書けないことも僕は知っていた。いつか辺境の酒場で、つけのサインを
うものを死体の上をのたくる這い虫のごとく毛嫌いしていたからだ。ちなみに、
めたが、地図上に書かれた地名を読み取るにも少々手間取る有様で、字や本とい
僕の目当ては、古人の書き記した旅行記や冒険記だったが、暇つぶしというこ
とで僕と連れ立っていたダグザは、終始退屈そうにしていた。彼は文字は多少読
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「いやさ、なんかよ、ガキの頃に見たことがあるような気がしてな……」
僕は思わず彼の手にしている本に目をやった。それは物好きな民話学者が、ゼ
フィロンのとある山岳地帯の伝承を集めてまとめたものだった。
彼が開いているページには、ゼフィロンのスワント族独特の衣装をまとった少
女と、冴えない羊飼いの姿が描かれていた。それは、盲目の翼人の少女と醜い羊
飼いの男の恋物語だ。有名な話でもあり、僕も小さい頃に読んだことがあった。
それは哀愁漂う叙情的な話ではあるが、同時に少々凡庸な型にはまった民話でも
あった。幼い頃のことでもあり、僕は確かに感銘を受けたものの、内容自体はす
でに忘れてしまっていたほどだ。
だがダグザは、本の内容を説明する僕の方をろくに見もせず、古びて色あせた
そのページをじっと見つめていた。それは妙に真剣な表情で、どこかしら人をは
っとさせるところがあった。その後、驚いたことに、彼は懐から銀貨を取り出し、
古書商に 支 払 っ た の だ 。
「ただの 気 ま ぐ れ だ よ 」
そう彼は言って、鼻の下をそっと擦り上げた。その夜のことだ。逗留していた
安宿で、虫に刺されて寝付けなかった僕は、夜中に用を足すためにベッドから出
「いや、ちょっと煙が目に染みちまってよォ……」
「まあね 」
「何だ、起きてたのかい?」
でも、それはほんの一瞬だった。僕の姿に気づくと、ダグザははっとしたよう
に顔を伏 せ た 。
赤くなっ て い た の だ 。
を見た――目元の古い刀傷の上の辺り。目尻が、かすかに熟れたリンゴのように
れ出す黄金色の光が、不意にダグザの表情を明るく照らし出した。僕はその横顔
のがもどかしいらしく、彼は必死でページを追っている様子だった。暖炉から溢
けていた。ダグザだった。彼の手には、昼間のあの本があった。すぐに読めない
聞こえてきた。不思議に思って広間をのぞくと、古びた椅子の上に、誰かが腰掛
た。宿の中は寝静まっていたが、なぜか広間から、暖炉で火の爆ぜる乾いた音が
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ご丁寧にも節くれだった拳でごしごし目元をこするふりまでして見せながら、
彼はそう言った。元より僕は詮索する気もなかったのだが、どちらにしてもこん
な夜更けまで起きていた理由にはなるまい。僕はちょっとしたおかしさを感じな
がらも、どこか新鮮な驚きに打たれていた。だってそうだろう? 世の中には、
子供だましの古い恋物語に、戦場を這いずり回ってきた古参の傭兵が心を動かさ
れるなんてことが、本当にあるものらしいのだ。
それ以来、僕はこの男にさらに興味を抱くようになり、折を見て彼と話すよう
になった。彼もまんざらではないらしかった。相変わらずあまり自分の話はしな
い男だったが、戦場をめぐる生活の合間に、それなりに気を許せる話相手がいる
のは悪いものではない。そういう感覚は、僕にももちろんあった。傭兵という存
在は多くが身寄りを持たず、またその過酷な生業ゆえに、いつこの世界を去るこ
とになってもおかしくない存在なのだから。
※※※
境地帯の森は深く広く、母親の懐のように、バストリアの戦士たちを覆い隠す。
とも悩ませたのは、黒い戦狼にまたがった狂戦士たちの度重なる襲撃だった。国
押せば引き、引けば押し返してくる戦術の巧さもさることながら、僕たちをもっ
バラッドは、バストリアとグランドールの国境地帯にある大森林地帯だ。そこ
に着くまでに数週間かかり、短い夏の間に、数度の小競り合いと奇襲があった。
とも分が悪い、まさに「鎖鎧に泥を浴びる」類の仕事だった。
カシーが珍しく後日何度か愚痴ったように、白暁騎士団が手をつけた中ではもっ
そしてある夏――バラッドの戦いが訪れた。それはバストリアの戦士たちの侵
入に悩まされるグランドールの国境地帯で行なわれた戦いだった。そして、マー
トの裏地に縫い込まれていった。
に稼いだ少なくはない報酬は、すべて宝石と金塊に変えられ、秘密裏にジャケッ
そんな風にして、僕がダグザと会ってから数年が過ぎた。その間に僕たちの傭
兵団は三つの戦争に参加し、無数の小競り合いと依頼を請け負った。僕がその間
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やがて十日ばかりが過ぎた頃には、僕たちは巨人に踏みつけられたボロ人形のよ
うに、すっかり疲れきっていた。バストリア兵の奇襲は、日に数度続く時もあれ
ば、二日に一度あるかないかの時もある。低くドロドロと轟く、狂戦士たちの戦
いの雄叫び。独特の彩の羽を持ち、鋭く空を咲くオークたちの毒矢の唸り。それ
らを耳にするたび、焼け付くような無残な死の予感が、心を掠める。どんなに硬
い岩も風雪にさらされれば、やがて削り取られひび割れてしまうように、繰り返
される戦闘の緊張と重圧は、どんな強靭な精神も、少しずつ疲弊させてしまう。
りんごの皮を薄刃のナイフで剥いていくかのように、魂の芯に染み込んでいく恐
怖は、たやすく心の繊細な形を浮き彫りにする。
純血主義のグランドールは、バストリア兵との小競り合いによる直属軍の消耗
を避けようと考えたらしく、珍しく僕たちのほかにいくつかの傭兵隊を雇ってい
た。だがそれらのうちいくつかが、意外に少量の死者と驚く程大量の脱走者を出
して、壊滅状態に追い込まれた。グランドールから与えられる報酬、仲間の命、
己の人望と身の安全。いくつかの要素を素早く天秤にかけたマーカシーは、すぐ
に基本方針を固めた。何といっても彼は、毒蛇とならず者の喧嘩は遠くから眺め
いないという保証はどこにもないのだが! 僕らは彼の石頭にうんざりしていた
まったく、やれやれだった! 仮にこの戦いに勝機があったとして、僕らの首
がその頃、胴体から切り離されてバストリアの暗黒司祭たちの祭壇に掲げられて
後に勝機を掴んだ時、橋を落としてしまうとこちらが押し返すのに困るとも。
で勝手にそれを落とすわけにはいかない、というのが彼の言い分だった。また、
橋はこれでもグランドールの聖なる建築物にあたり、聖王様や教皇様の許可なし
たかったのだが、例の監視役のグランドール騎士殿が、頑固にそれを拒絶した。
べだった。マーカシーとしてはすぐに橋を渡り、向こう岸から安全に橋を落とし
赤河は上流の山岳地帯から流れ下ってくる鉄分まじりの泥水をたたえる、そこ
そこの大河だ。そこには粗末な木の橋がかかっており、それが唯一の河を渡るす
赤河のほとりまで引き返してきたのだった。
ランドール騎士様をうまく説得し、辺境とグランドールの支配圏を隔てる境界線、
ろ、が口癖の男だったのだ。そんなわけで、僕らは監視役として同行していたグ
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が、傭兵というのはこういう時には立場が弱いものだ。
そんなわけで、僕らは仮の野営地を築き終わると、橋を落とす準備だけを先に
進めて、その実行は、騎士殿が判断する「来るべき時」まで待つことになった。
時刻はすでに夕暮れで、太陽は、どこまでも続く黒い森の果てに、最後の残光を
投げかけつつ、そっと消えていこうとしていた。
幸いバストリア兵の襲撃はなく、ほどなく作業は終わった。橋はまるで寺院の
尖塔に吊るされた鐘のように、いまや数箇所に結ばれた大縄でのみ、その重みを
支えられている状態だった。それらを切れば、ごうごうと音を立てて流れが逆巻
く河底に、すべてが落下する仕組みだ。全ての作業が終わる頃にはあたりはすっ
かり暗くなり、たいまつに灯されたかがり火が、僕らの頬を照らしていた。
そんな時だ。見張りをしていた者が伝令を送ってきて、バストリアの斥候らし
き一団と出会ったことを告げてきた。彼らは軽装の偵察部隊で、ある程度戦うと
すぐに森の中に退却してしまったという。マーカシーは低く唸った。斥候が出て
いるということは、大部隊がすぐ近くまで迫っている可能性が高いということだ
からだ。野営地は一気に慌ただしくなった。
るのだ。だが、橋を落とすということになると、ひとつ問題があった。向こう岸
狂戦士たちが駆る黒い戦狼は、ずば抜けて足が速い上に、いつでも血に飢えてい
渡りきったとしても、橋を落とさなければ敵の追撃は緩まらない。バストリアの
事ここに至り、マーカシーの決断は素早かったが、狭い橋の上を渡って向こう
岸に撤退するためには、ある程度の秩序だった動きが必要だった。また、無事に
ことは明白な事実だった。
まったようだった。しかし準備が整い次第、新たな襲撃が仕掛けられるであろう
だが、こちらの守りが固いと知るや、彼らはそれ以上の襲撃をいったん思いとど
中、慌てて火を消した僕らは、そのまま円陣を組んでバストリアの襲撃に備えた。
来すると、それらは野営地のあちこちに突き立って、草を焼き始める。煙が立つ
それは近くの森から射かけられた火矢だった。鋭い音とともに空を裂きながら飛
渋るグランドールの騎士殿をほとんど脅迫じみた方法で説得し、ようやく橋を
落とす許可を取り付けた時……闇を切り裂いて、赤い炎の糸が数本走り抜けた。
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ラストクロニクル 灰色の英魂の章
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で橋を支える大綱はともかくとして、こちら側から橋を支えている大綱とその足
場をどうするか、ということだ。
答えは誰もが分かっていた――誰かが橋げたの下か付近の森に潜む。そして、
みんなが渡りきった後に、頃合を見てそれらを破壊するのだ。だが、これがとて
も危険な任務であることは明白だった。なにしろ、敵に橋を渡らせないために、
自分の手で唯一の退路である橋を落とすことになるのだから。それは高い確率で、
バストリアの戦士たちの群れの中に取り残されることを意味する。
この地方独特の青みがかかった突きが、冷ややかに森の中を照らしていた。円
陣を一旦解除し、広場に集められた一同にマーカシーから手早く状況説明があっ
た。そして、あたりに沈黙が降りた。
「誰か、 い な い か 」
誰からも返事はない。僕らはそれぞれが、腹巻やジャケットの裏地や下着に仕
込んだ自分の財産のことを考えていた。焼けた鉄板の上で炙られるような、じり
じりした気詰まりな時間……その時だ。
ひょこひょこと左足を引きずるようにして、誰かが前に出た。ダグザだった。
周囲は一瞬静まり返った。彼がいつでも、戦場では生き延びることを第一にして
「ん」
「なあ、 ダ グ ザ 」
ただけだった。僕は黙って考えていた……彼にかけるべき言葉を。
後にも先にも、自惚れ屋で本質的に傲慢なところがあるマーカシーが、本気で
誰かに頭を下げていると感じられたのは、その時だけだ。ダグザは軽くうなずい
「すまん 、 頼 む 」
じっと見つめた。やがて彼は頭を垂れ、ぽつりと一言だけ言った。
をしているようには見えなかった。マーカシーは、ダグザの皺と髭だらけの顔を
彼はちょっぴり苦笑してみせると、静かにそう言った。僕はその言葉に、思わ
ず彼の足を見た。だがそれを引きずっているのはいつもの癖だし、どこにも怪我
「ちょっとな、足をやられた。だからもうさ、この稼業も無理だからよ」
きたことを、みんな知っていたからだ。
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「賭けを し な い か 」
「賭け? 」
「もしあんたが帰ってきたら、僕の持ち金の十分の一、あんたにやるよ」
僕の声は、ちょっとかすれていたと思う。ダグザはそっと誰かが差し出した煙
草に火を点け、ぼかっと煙を吐き出すと
「おもし れ え な 」
とだけ答えた。彼はまるで春の牧場の老牛のような、穏やかな目をしていた。
「で、もし俺が……戻ってこなかったら?」
間があ っ た 。
「……笑ってやる、みんなで。根性なしって」
ダグザはにやりと笑った。
「 そ れ じ ゃ、 賭 け に な ら ん や な。 ど っ ち に 転 ん で も お め え の 得 に は な ん ね え。
ダグザは言いながら、右手を差し出した。そこに握られていたのは、彼愛用の
……ほれ 」
ふた振りのショートソードのうちの一本だった。
に夜襲を食らっちまってな。俺らは河べりに追い詰められた……仲間が何人もや
「俺がひよっこだった時によ、やっぱり小さい傭兵団にいたんだ。その時よ、敵
彼はなかなか話し出さなかったが、待ち受けている運命へのぼんやりした予感
は、やはりどこか人を素直にするようだった。
ダグザはそっと人差し指で頬を掻いた。
「まあそりゃ、いろいろとな……」
「どうし て っ て … … 」
「……でもさ、どうしてあんたが?」
僕はさっきからずっと感じていた疑問を、口に出すかどうかためらっていた。
だが最後には決心し、まっすぐにそれを彼に投げかけた。
ダグザはしばらくして小さく言った。
「ありがとよ。世話んなったな」
「これが俺の賭け札だ。俺が負けたら、好きにしろや」
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られちま っ て よ ォ … … 」
ダグザは一度ふう、と息をついて、ぼそぼそと続けた。
「そん時、俺が見張り役でよ……なのに、酒ェかっくらった挙句、うっかり眠り
こけちまってたのさ。気づいた時にゃ、敵に火ィかけられて、あたり一面真っ赤
だった。んで、河の一本だけの橋を渡るにゃ、誰かがしんがりで残らなきゃいけ
なかった ん だ 」
「……」
僕は黙って、珍しく饒舌な彼の話に耳を傾けていた。
「したらよ、いつもトロくさい俺を怒鳴りつけてた隊長の野郎が言ったんだ。俺
の横っ面を一発、思いっきしぶん殴ってからな。俺が残る、とさ。そん時、おり
ゃびっくりしたよ……すげえな、と思った。夜襲食らっちまったんは、俺の落ち
度だ。何となく、しんがりしょわされてもしょうがねえと思ってたからよ……隊
ダグザは時折、目をしばたたかせながら話した。
長ってぇのは、なんちゅうか、偉えもんだと思ったよ」
「でよ、やっぱり隊長は駄目だった……」
は、逃げられねえし逃げちゃならねえ……そうだな、
“借りはいつかは返さなき
何かこう、どでかいものに縛られるってことが。でよ、その縛られてるもんから
「何かやっぱりよ、でっかい借りからは逃げられねえもんなんだ。あるんだよな、
ダグザは再びそっと目を閉じた。どこかしら、自分の少ない語彙の中から、そ
の気持ちにぴたりと寄り添う言葉を探すのに苦労しているようだった。
なんだ。あの時と、同じなんだよな。……つまり、そういうことよ」
彼はここまで言うと、ゆっくりと髭を撫でた。
「でもなあ、マーカシーが誰かいねえか、って言った時な、ドキッとした。同じ
自分でも不思議だったんだぜ」
となくだ……ただ何となく、おっ死ぬことから逃げてたんだな。ヘンな話だが、
それは、でっかい夢だとか野心のためだとか、そういうんじゃなかったのさ。何
そう言って軽く目を閉じる彼を、僕はじっと見つめていた。
「おりゃあよ、今までとにかく、生き延びることだけ大事にしてきたんだ。でも
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ゃならないもん”なんだよ、たぶん」
ダグザはまるで自分に言い聞かせるかのようにそう言って、話を結んだ。
「……な あ 」
僕は少し黙っていたが、ようやく口に出す。
「何か、僕にできることは?」
「別にね え や な 」
と、笑いかけたダグザは、ふと思い直したように言った。
「いやそうだなぁ、ちょうど銀貨百枚でいいや。カラリアの街の月影亭って安酒
場のさ、ミリィって女にさ、俺が借りてた銭ィ、折りみて返しといてくれや」
少し照れたように笑う彼に、僕はうなづいた。僕の後、何人かが彼に声をかけ
た。ダグザはその全員と言葉を交わすと、やがてひとり、森の中へと消えた。
まもなく、木々の間から最初のバストリアの黒狼が現れた。誰かの腕がかじり
取られ、また誰かの剣の一撃が、牙を剥いたその首を両断した。その背にまたが
っていた狂戦士は無様に転げ落ち、すぐに心臓に刃を突き入れられて止めをささ
れた。だが間髪入れず、森からは次の黒狼が湧き出してくる。後から後から、ひ
て歩き出したのだった――。
やがて物音は止み、あたりには赤河の激しい水音だけが残った。僕らはみな、
無言だった。疲れきった顔で、赤河にほど近いグランドールの辺境都市に向かっ
きに紛れて、かすかに聞こえてきた。
きの音が上がった。バストリア兵たちの怒号と悲鳴が、急流のごうごうという轟
赤河の流れに飲み込まれていった。それと同時に、渦巻く流れの向こうでもしぶ
その背の狂戦士たちごと橋げたの落下に巻き込まれ、ものすごい叫びを上げて、
の合図に答えるように縄が切られ――橋は落ちた。バストリアの戦狼が何匹か、
その声に答え、誰かが火矢を真っ暗な夜空に射ち放った。それはまるで花火の
ように、夜空に赤い炎の軌跡を描き、やがて中空で弾けた。そして、まもなくそ
そして最後にひとりが橋を渡り終えた直後、マーカシーが大声で叫んだ。
「やれ! 」
っきりなしの攻撃を防ぎながら、僕たちはじりじりと橋を渡り始めた……。
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戦いのことだけで言うと、結局バラッドの戦いで、グランドールは辛うじて勝
利を収めた。バストリアの戦士たちが赤河を渡るのを手間取っている間に、増援
の白エルフの弓兵たちが到着し、彼らを河畔で迎え撃つことができたのだ。
戦いが終わった後、僕らは一時の拠点となっていた辺境都市の広場に集められ
た。報酬は申し訳程度だった。お目付け役の騎士殿は、僕らの撤退の顛末を、し
っかりと彼の上官たちに報告したのだ。グランドールの前線指揮官だというアガ
トーという聖騎士は、磨き上げた白銀の鎧を着込み、声高に勝利の喜びを語った。
広場の急ごしらえの演壇に敷かれた赤い絨毯の上で、彼の声は朗々と響き渡った。
だが、彼の演説の間、僕は帰ってこなかったダグザのことを考えていた。
半年後、ゼフィロンの国境にほど近いカラリアの月影亭で、僕はミリィという
商売女に会った。確かに割と美人だったが、どこか野暮ったさの抜けない女だっ
た。ダグザの弔意報酬の一部を渡した時、彼女は驚いて、馬鹿正直にも自分は誰
にもそんな大金など貸した覚えはないと言った。改めて彼女に話を聞くと、実の
ところ、ミリィはダグザのことをあまりよく覚えていなかった。ただ一度だけ、
言葉のなまりがきっかけで、互いの故郷が同じだということが分かり、盛り上が
ものだ。ほの暗い運命の予感と、確実で冷徹な出来事。それを冷ややかで静かな
正直なところ、僕には未だに分からないのだ。それは例えば、火事場の中に無
我夢中で飛び込んで、取り残された赤ん坊を助けるのとはまったく違った種類の
ふと考えることがあった。
僕はその後、大切な人ができて、傭兵稼業から足を洗った。それから故郷にほ
ど近い街に戻り、小さな酒場を開いた。ダグザのことは、忙しい日々の合間に、
のだった 。
起きていることを分かってはいても、たぶん本人にはどうしようもない種類のも
り、僕の内面が変化してしまったのだ。それは緩やかだが確実なもので、変化が
に何かが少し変わってしまったと思う。たぶん、隊の雰囲気が変わったというよ
ダグザの存在が隊にとって、どれほどのものだったのかは分からない。何しろ
彼のあだ名は「錆びた投げ斧」だったのだから。でもバラッドの戦い以降、確か
ったとい う こ と だ っ た 。
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心をもって眺めた上で、すべてを知っていて、奈落の中に歩を進めるのだ。
僕が分かっているのはたったひとつだ。ダグザは決して英雄気質の人間などで
はなかったし、あらゆる意味で立派な男でもなかった。たぶん最後まで神に祈っ
たことはなかっただろうし、酒癖が悪く博打狂いで、誰かに本気で愛を囁いたこ
となど、あったかどうかも疑わしい。
彼のことを考える時、僕は凡庸で卑小なものと、大きくて美しいものの間にあ
る違いのことを考える。明るい夜の庭を照らすのが、月の光なのか星のそれなの
かを区別することが難しいように、僕には時々、本当によく分からなくなる。考
えているうちにやがて、もしかしたら両者の間には、あまり大きな違いはないの
ではないかという気がしてくるのだ。少なくとも、あの広場で勝利の演説を行な
ったグランドールの聖騎士が着ていた白銀鎧と、ダグザのくたびれた狐色の革鎧
を見比べて、質屋が値踏みしそうな硬貨の枚数の差ほどには。
※※※
そっとたぐり寄せた……。
数の言葉の群れの中から、ようやく語り出しに一番ふさわしいと思われるそれを、
人は、最大の繊細さと注意を払って言葉を選んでいた。やがて彼女は心の中の無
いる。それをまだ幼い少年にどういう形で告げるべきか、美しいエルフの吟遊詩
していた。それは世間でよく謳われるものとは、少し異なった形と輝きを持って
とのなかった無名の英雄譚が浮かび上がり、言葉の群れとともに生まれ出ようと
目を閉じ、じっと無言で考え込んでいた。彼女の脳裏には今、誰にも知られるこ
いつの間にか、暖炉の灯りが弱まり始めていた。夜更けの雨は、いつしか止ん
でいたようだった。ヘウメネアはその羊皮紙の束に目を通し終えると、しばらく
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