<グローカルの眼(52)> ブッシュ政権の新イラク政策 小倉英敬 1 月10日、ブッシュ政権が新しいイラク政策を発表した。12月6日に超党派の「イラ ク研究グループ(ISG) 」がイラク政策転換の提言を発表していたが、ブッシュ政権が示 した新イラク政策は、ISGが発表した漸進的な撤兵案を含む提言に比し、長期的には撤 兵を方向性として示しながらも、短期的には米軍増派を主眼にするものであり、ISGの 提言を充分考慮するものとはならなかった。一方、12月26日にイラク高等法廷はフセ イン元大統領による死刑判決に対する控訴を棄却して死刑が確定、同30日に死刑が執行 された。フセイン処刑の直後より、イラク国内の宗派対立がさらに泥沼化する状況を見せ つつある。 本稿では、ブッシュ政権の新イラク政策、イラク情勢、及び昨年末より地域紛争化しつ つあるソマリア情勢について整理しておきたい。 一.ブッシュ政権の新イラク政策 アメリカでは、11月7日に実施された中間選挙における共和党の敗北を機に、ブッシ ュ政権のイラク政策に対する批判が高まり、ラムズフェルド国防長官の更迭を含め、イラ ク政策の転換が大きなテーマとなっていった。ラムズフェルドの後任にISGメンバーで もあったゲーツ元CIA長官が任命されたことから、ゲーツを推薦したと言われるベーカ ー元国務長官の動向が注目された。 12月6日、ベーカーが共同議長を務める超党派のISG(共同議長:ベーカー元国務 長官、ハミルトン民主党下院議員)が、大幅な政策転換を求める提言書をブッシュ大統領 に手交した。その提言書は、①イラク情勢は深刻であり、特に宗派対立が激化しつつある、 ②イラク問題解決にイランとシリアの積極的関与を求めるべきである、③米軍の主要任務 をイラク軍支援(自立化完了)に限定すべきである、④2008年第1四半期までに米軍 戦闘部隊の大部分を撤退させる、との諸点からなっていた。 これに対して、当初ブッシュ大統領は、提言のすべての点を受け入れることはできない が、前向きに検討すると述べており、したがって提言内容をも踏まえた新政策がクリスマ ス前にも発表されるとの情報も流れた。しかし、12月12日になり、スノー大統領報道 官が、新イラク政策発表は「新年までない」と発表し、政府内の政策調整が難航している ことを印象づけた。19日には、ブッシュ大統領が『ワシントン・ポスト』紙のインタビ ューにおいて、イラク駐留米軍増派に関する具体案を検討するようにゲーツ新国防長官に 指示したと明らかにした。 他方、民主党は、ブッシュ大統領による米軍増派を含む新政策の発表を前に、1月5日 ペロシ下院議長とリード上院院内総務が連名で、増派の道を選ぶことは「深刻な過ちにな る」と警告する書簡をブッシュ大統領に送って牽制した。 しかし1月10日、ブッシュ大統領は宗派抗争が内戦状態にまで悪化したイラクの現状 は「許容できない」との認識を示した上で、「過ちがあった点については自分に責任がある。 戦略を変更しなければならないことは明らかだ」と述べ、新戦略を発表した。同大統領は、 さらにアメリカはイラク軍・警察を支援する目的で中流米軍を1月から段階的に5個旅団 をはじめ2万1000人増派する、イラク治安部隊に移譲する、イラン・シリアの影響力 排除に努力すると述べた。 明らかに、ISGの低減や民主党の警告、さらには与論の反対を無視した対話なき路線 である。また、過ちに責任があるとしながらも、責任とは何に対する責任であるのか明確 にしていない。 ニ.フセイン処刑問題 12月26日、イラク高等法廷が、シーア派住民を虐殺した罪(1982年に中部ドゥ ジェイル村でシーア派住民148人が殺害された)で11月5日に同法廷がフセイン元大 統領に対して死刑を判決したことに対し、フセイン元大統領が提出していた控訴を棄却、 死刑が確定した。イラク国内法の規定では、30日以内に絞首刑が執行されると規定され ている。しかし、死刑確定4日後の12月30日に、バグダッド北部の治安関連施設にお いてフセイン元大統領に対する刑が執行された。遺体は出身地であるティクリートの近く に埋葬されたと言われる。 処刑が予想以上早く執行されたことに国際社会は驚くと同時に、フセイン処刑がイラク 国内の宗派対立を増幅させるのではないかとの懸念が広がった。また、審理の手続きに関 して「法廷の公正さに多くの懸念がある」(アーバー国連人権高等弁務官)と指摘されたり、 フセイン元大統領が告訴されていた13件の罪状のうちドゥジェイル事件だけが審理対象 されたことに対して、「フセイン体制下で筆舌に尽くしがたい被害を受けた多くの犠牲者 にとって、正義は下されなかった」 (コックス米国アムネスティ・インターナショナル代表) とする批判も生じた。 ではなぜ、マリキ政権は死刑を急いだのか。マリキ政権は、宗派対立が激化し内戦に近 い情勢が進行する中で、治安維持能力の欠如で国民の信頼を失っていたため、外圧の屈せ ず国民の意思を体現する強い政府」を演出して、政権への求心力を増す必要性に迫られて いたことが背景として指摘できよう。また、アメリカの新イラク戦略が1月に発表される という状況下で、一段落を付すことでブッシュ政権と歩調をあわせようとしたことも考え られる。 しかし、問題はフセイン処刑によって、イラク情勢やイスラム世界の動揺が好転できる のかという点である。国内では、スンニ派がフセイン大統領を殉教者として扱い、政治暴 力の増幅に利用しようとする傾向も見られる。また、国外でもスンニ派が多数を占める諸 国において、処刑に抗議する街頭行動も行われた。 それに油を注いだのが、処刑場面のビデオ映像の流出であった。処刑に立ち会った高官 2名が持ち込んだケイタイで撮影した映像がインターネットに流れた。映像には、立会人 らが「地獄に落ちろ」などと叫び、フセイン政権下で処刑されたシーア派指導者の名を連 呼、これに対してフセイン元大統領は「それども男か」と皮肉っている最中に、絞首刑が 執行された状況が映し出されていた。この映像が、旧フセイン支持者やスンニ派の人々に どのような心理的影響を与えるのか懸念される。 1月4日、マリキ政権は米軍の支援を得て、バグダッド市内においてスンニ派及びシー ア派双方の武装勢力に対する掃討作戦を強化し始めている。米軍増派とも併せて、力によ る解決が果たして可能なのか、事態はさらに悪化する危険性があると見る方が適切な情勢 にある。 三、ソマリア情勢 イラク情勢が混迷化する中で、中東・アフリカ地域にもう一つ懸念材料が顕在化してき た。ソマリア情勢である。 「アフリカの角」と言われるアフリカ北東部に位置するソマリア は人口823万人、その9割以上がイスラム教徒である。 ソマリアにおいては、1991年1月のバーレ政権の崩壊後、軍閥勢力であるアイディ ド派とモハマド派の間で内戦になり、餓死者30~35万人、難民100万人が発生した。 その後、周辺7カ国で構成する政府間開発機構(IGAD)の仲介で、2004年末にケ ニアでユスフ暫定政権が成立、国内に移転して統治体制確立に向けた動きを行ってきた。 しかし、2004年に結成されたイスラム武装勢力の連合体である「イスラム法廷連合 (UIC) 」が南西部で勢力を拡大、2006年6月5日には UIC が首都を制圧、9月24日 には第2の港湾都市キスマヨを制圧した。これに対して、本年2月に結成された暫定政府 派の「和平回復・テロ対抗連合(ARPCT)」がエチオピアの支援を得て、イスラム法廷 連合に対抗して内戦状態が続いてきた。 2006年12月6日、国連安保理がIGDAによる平和維持軍派遣を承認する決議を 採択したが、これに対して UIC が反発、19日から暫定政府の治安部隊訓練を口実に駐留 していたエチオピア軍と UIC が戦闘状態に入り、同24日にはエチオピア軍が越境攻撃し、 UIC の拠点に空爆を開始した。同日エチオピアのメレス首相がソマリアへの軍事介入を認 め、UIC との戦争を宣言した。エチオピア軍は25日には首都モンガディシオ国際空港に も空爆を加え、26日にはエチオピアの地上部隊がモンガディシオに向かって進撃、28 日にエチオピア軍に支援された暫定政府派の武装勢力が首都モガディシオを制圧、UIC は 首都から撤退棄。その後も、暫定政府派武装勢力が UIC の支配地域の拠点を次々に陥落さ せた。19日から始まった一連の戦闘で UIC はほとんど抵抗せずに都市の拠点から撤退し ている。 12月30日、暫定政府側は国内の95%を支配下に置いたと声明する一方で、山河月 間の戒厳令を布告することを発表、1月3日には港湾都市キスマヨを制圧した。これに対 して、UIC は世界のイスラム教徒に対してエチオピアに対する「聖戦」を呼びかけた。UIC には、隣国のエリトリアのほか、イラン、リビア、エジプト、サウジアラビア、シリアな どのイスラム教諸国や、レバノンのヒズボラが支援していると言われる。 昨年6月に UIC がモガディシオを制圧した際、ブッシュ大統領は、「アルカイダの安息地 にならないようにしなければならない」と、UIC の勢力拡大を危険視する発言を行ってい た。ARPCTに加盟する一部勢力にアメリカが資金援助しているとの情報もある。しか し、UIC は過激派ではなく、聖職者らでつくられ、イスラム法に基づいて地域社会の秩序 を守ってきた組織である。 他方、アメリカは UIC の最高実力者とされるアウェイス立法議会議長をアルカイダの関 係者だとして行方を追っていた。また、UIC の中に1998年にケニアとタンザニアで発 生したアメリカ大使館爆破事件の容疑者や、2002年にケニア沿岸部で発生したイスラ エル機撃墜未遂事件の容疑者も潜伏中とみて、身柄の引渡しを求めてきた。いわばアメリ カは UCI をタリバーンと同じように、アルカイダと連携する組織であると見ている。暫定 政府に加わる武装勢力は、アメリカの見方に同調している。 アメリカは、今回のエチオピアによる軍事介入を「対テロ戦争」の一環として支持を表 明している。さらにそれだけでなく、1月8日にはソマリア南部に潜伏していると見られ るアルカイダのメンバーを標的とした空爆を実施した。 アメリカは、2001年10月に行ったアフガニスタン戦争と類似した構図でソマリア に介入しつつある。しかし、アフガニスタンでは現在タリバーンが勢力回復しつつある。 ソマリア問題に関しては、今後国連安保理決議に基づいてIGDAによる平和維持軍が 派遣されることになろうが、問題解決は容易ではない。今回の一連の戦闘において UIC 側 がほとんど抵抗せずに撤退し、勢力を温存していることから、情勢好転の兆しは見えない。 逆に、周辺の中東イスラム諸国が、アメリカとエチオピアに支援された暫定政府に対して どのように対応するかによっては、再び「イスラム」対「非イスラム」という対立構図が 強調されるような状況に発展する危険性もある。 四.イラク戦争を支持した日本の責任 イラク情勢に関しては中東研究者によって多くの分析が行われている。問題解決の特効 薬を提示できる者は誰もいない。しかし、過去の歴史に鑑みても、力によって紛争が解決 できた例は皆無に近い。イラク戦争自体がそれを立証している。フセイン政権は打倒でき たが、イラク問題は解決しておらず、傷を広げたとも言える状況が展開している。 1月10日に発表された新イラク政策は、現地司令官らが疑問視している増派に固執す る一方で、「魔法の解決策はない」 (ブッシュ大統領)と認めざるをえない状況を暴露する ものでしかなく、さらにイラク及び米国国内世論だけでなく、国際社会全体の傷口を広げ るだけになる可能性が大である。 アナン前国連事務総長も、12月21日に行った「お別れ記者会見」において、「国家に は自衛権があるが、国際社会への広義の脅威に対処するときに、行動を許可する正当性を 備えているのは安保理だけだ」と、米英によるイラク戦争を批判した。イラク情勢を現在 のような状態にまで悪化させてしまった責任を、アメリカをはじめ「有志連合」諸国の政 府はとらねばならない。深刻な人権侵害を繰り返してきたフセイン政権を打倒したことだ けで、イラク戦争を正当化することはできない。ブッシュ政権が、「ネオ・コン」の強い影 響下で、フセイン政権打倒を「中東の民主化」とすり替え、さらに「世界の民主化」を声 高に叫んだ事実をアメリカは真剣に考えねばならない。アメリカ式の「民主化」はソマリ アにおいても定着しないだろう。 そして、日本もアメリカに同調して「有志連合」の一員として、イラク戦争を支持した だけでなく、自衛隊を派遣し、現在もなお派遣し続けていることを改めて再考すべきであ る。それは、現在安倍政権がとっている外交路線を総合的に再考することにも繋がる。日 本のマスメディアがこのような再考作業を主導することが望まれる。毎日起きる出来事を 追っているだけがジャーナリズムの任務ではない。歴史認識や世界認識を問い直すという、 根源的な問題提起を行うことを忘れてはならないだろう。
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