人の誇りを崩す神の知恵

人の誇りを崩す神の知恵
新約単篇
第1コリント書の福音
人の誇りを崩す神の知恵
1 コリント 1:26-31
今朝は、使徒パウロのコリント書簡から感想を述べます。今の朗読の 4 行
目から始まる言葉が、私には、若いころからとても印象的でした。「ところ
が神は、知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に
恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」そしてこの文章の最後
はこう結ばれます。「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるため
です。」
この書簡を書いたキリストの使徒パウロという人は、まだ鉄道も馬車も無
かった時代にアジアとヨーロッパを股にかけて、イエス・キリストを伝えた
人でした。それも、キリストの教えを説いて修養や人格形成を勧めたのでは
なくて、イエス・キリストという人があなたにとってどんな意味と重みを持
つのか、この人の死があなたの生き死にとどう関わるか……という角度から
“福音”を説いて回ったのです。
この手紙を受け取ったギリシャのコリントの教会も、元はと言えばこの約
5 年前……パウロがギリシャ滞在中に、ユダヤ人地区に住んで、テント職人
までして生計を立てながら、ユダヤ会堂に集まるユダヤ教徒とギリシャ人の
求道者を相手にキリストを伝えた結果、このコリントの町に生まれた教会で
した。
コリントという町は、アテネから列車で 1 時間ほどのところ……ペロポネ
ソス半島の首の所にあります。私も数回往復した記念に、列車の切符やバス
の指定席券をアルバムに貼って残してあります。コリントは今は寂れた一地
方都市ですが、当時のコリントは、今で言えば上海とシカゴを足して二で割
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ったような、商業と享楽の町として栄えていました。その全く異質の土地に
産み落とされて、信仰の経験もまだ未熟な信徒たちに送られた励ましの手紙
が、このコリントの信徒への手紙なのです。
このくだりは、同じ頁の上の段に太字の書体で「神の力、神の知恵である
キリスト」という見出しがついています。どうやら、「パウロの教えたキリ
ストは力がない」と言われたらしいのです。「もっとグーッと来るような宗
教性に欠けている」という批判が、狂信的なユダヤ人の側から出たらしい…
…これは、すぐ前の 20 行ほどから分かります。また、「パウロの教えたキリ
ストには“深さ”がない。哲学的な魅力に欠ける。単純すぎて、あんなのは、
大の大人が真剣にやれるものではない」という声……これはギリシャ人の知
識層から言われたらしくあります。
それはそうかも知れません。「十字架で処刑されたイエスという人が聖な
る神の独り子である。このイエスに神はあなたの罪を全部負わせる形で、あ
なたを丸ごと清めてしまわれた。それどころか、死んだイエスを生かして引
き上げた神は、もしあなたがイエスを信じるなら、復活の命をあなたに吹き
込んで、イエスと一緒に天の命に引き上げる。あなたは絶望じゃない。豊か
な命で生かされるんだ。喜べ。」これはギリシャの知識人から見ても、ユダ
ヤの宗教人から見ても、正気の沙汰とは見えなかったのです。ここの二十数
行のパウロの言葉は、その一見“無力”と見えるキリストが、本当は神の力
そのものであること。そして、哲学的な説得性を欠くと言われるキリストこ
そ、実は神の知恵そのものであることを、力をこめて語ります。今わたした
ちが朗読を聞いたのは、そのパウロの文章の後半です。
1.教会を構成する人の背後に神の知恵が見える。
:26-28.
26.兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。
人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄
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のよい者が多かったわけでもありません。 27.ところが、神は知恵ある者に
恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世
の無力な者を選ばれました。 28.また、神は地位のある者を無力な者とする
ため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた
のです。
この文面から判断すると、コリントの信徒たちの出身階層を見るかぎり、
その中に貴族階級出の人とか、権力とつながる有力者とかは、まあいなかっ
たのでしょう。またギリシャ人の知識層からもてはやされるような、いわゆ
る「知識人」とか、哲学者もいなかったのだと思います。この「知恵のある
者」という言葉は、具体的な世渡りの知恵や経営上の手腕をも指しま
すから、今で言えば、松下さんや堤さんのような有能な経営者、実業家もい
なかったと……いう意味にも取れます。仮にもう少し次元の高いユダヤ的な
意味に理解して、正しい生き方とか、しっかりした人生観や信念ということ
でも、人を引っ張って行ってくれるような、指導性のある、頼りになる人材
はいなかった……ということでしょうか。いずれにせよ、そんな素材で構成
されたキリストの群は、お粗末もいいところだ……と評されたのでしょう。
ところが、その人間的には、こんな素材で何ができる……と思わせるメン
バー構成をようく見たら、生ける神の凄い力が見えてくるし、また、それを
選んだ神の意図も分かる、とパウロは言います。それはたまたまそんな人が
集まって来たのではない。この人たちをわざとお選びになった神様の強烈な
主張が、そこに見えないか、とパウロは鋭く問うのです。知恵と実力で人生
に勝てると思っている賢い人間が最終的には絶望に沈む。実力も地位もあっ
て、「この自分こそは“存在”の名にふさわしい。外の人たちはカスみたい
なもので“存在”の名に値しない」と思っているような人たちを、神はわざ
と無視して、逆に、「世の無に等しい者、身分の低い者や見下げられている
者」をお選びになったのです。
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それは、単に神の評価の基準が人間とは違う……というだけではありませ
ん。己の力と知恵を誇る人、自分の愛と精神力に絶対の自信を持つ人は、つ
いに人間としての深い悲しみを知りません。悲しみと弱さの中から受けられ
る本当の力を味わうこともなしに終わります。福音書を読みますと、イエス
が有力者やエリートと席を共にされることが殆どなく、いつも「徴税人と娼
婦らとアウトカーストたち」と食卓を共にされたのですが、このコリント書
簡の著者は、それがなぜだったのかを、鋭い霊の洞察眼で見抜いていたので
す。そのことが次の「だれ一人、神の前で誇れないように」という言葉に表
されています。
2.キリストで生きる人に、神の知恵が発動する。
:29-31.
29.それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 30.
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わた
したちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 31.「誇
る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
1 行目の「キリスト・イエスに結ばれ」という一句は、英語で言うと“You
are in Christ Jesus.”です。この“in Christ”は、「キリストの中へ身を置
いて」とも読めるのですが、むしろキリストで生きている……と訳した方が、
パウロの使ったギリシャ語の表現をよく表せるかと思います。ギリシャ語の
“in”()は、「~で」の意味も強いからです。
あなたは一体、何で生きるか……自分の知恵と力で、自分の正しさで、自
分の愛と誠実で勝負するのか……。もしそうなら、それは、「神の前で誇る」
人の生きる姿勢です。「私の能力で」、「私の学識で」、「私の地位と権力
で」、「私の精神力と愛で」生きる。「何が崩れても、私の誠実と愛は崩れ
ない!」人間的に言えばこれほど高貴な、noble な、力強い在り方は、考えら
れません。しかし更にノーブルで力強いのは、その自分の知恵と力の限界を
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見た人が見いだす生き方です。自分の誇る力の底に澱んでいる死を見て悲し
んだ人が、本当の希望を発見した時の生き方です。その人には、キリストが
与えてくださるものの貴さが分かります。その人には、天の父がなぜイエス
を死の中から復活させたのかが、見えてきます。そして、「自分で」勝負せ
ず、「キリストで」生きる新しい人間がそこに生まれます。そのような生き
方に変えられた人は、このキリストこそ神の知恵そのものであることが、肝
に銘じて分かったのだとパウロは結びます。
30 節の中心は、「神の知恵」という言葉にあると思います。パウロは多分、
ギリシャの知識人にも通じる言葉で表現したのでしょう。これに対し、すぐ
後の「義と聖と贖い」は、これを聖書から取ったユダヤ人の概念に言い換え
たものです。原典の文の流れから見て、「神の知恵」の「神の」は、後の三
つの言葉ともつながっていて、それは、「神の義」でもあり、「神の聖」で
もあり、「神の贖い」でもある……となります。自分の義ではなく、神がく
ださる義という意味です。自分の聖なる清さや美しさではなく、神がくださ
る聖です。「贖い」は終わりの時の救いの完成を指すヘブライ特有の表現で
すが、多くのユダヤ人が「その贖いにふさわしいものに自分でなる」真剣さ
を誇ったのに対して、このコリント書を書いた人は「その最終的な贖いも自
分の力を誇りはしない。私は神の贖いに依存する」と告白したのです。
《 結 び 》
大阪市大の学生時代にイエスに出会った私は、キリストで生きる生き方と
パウロが言った“in Christ”の姿勢でこの 46 年間歩んできた……と、口は
ばったいことを言えれば恰好いいのですが、正直に告白しますと本当は、試
行錯誤をしていた年数の方が多かったと思うのです。つまり自分では、「キ
リストで」生きている―“in Christ”の人間のつもりでいながら、本当は
「自分の知恵で」、また「自分の義と聖で」勝負して、“in my power”,“in
my wisdom”で、「神の前に誇る」愚かしさを、性懲りもなく繰り返してい
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たのです。
若い頃の私は、聖書とキリスト教は、几帳面人間が自分を磨くためのやす
りか道具(!)みたいに考えていた嫌いがあります。もちろん、私の救主と
してイエス様を信じていなかった訳ではありません。その時はその時なりに、
真剣に信じていたと思います。でも、私が追い求めていたのはやはり、誰か
らも後ろ指を指されないだけのクリスチャンとしての成果でした。パウロ式
に言えば、「私の知恵」と「私の義と聖と贖い」が私の誇りでした。ですか
ら、ほんの少しでも、自分にそれができていないと指摘されることは、私に
は心外で死ぬほどの苦痛でした。今から考えると私のキリストは、一種の完
全主義者の鎧のようなものでした。そんな時期の私がどんなに鼻持ちならな
かったかは、想像がつきます。
もう 20 年もそれ以上も前の話になりますが、日曜学校に来ていた子供のお
母さんが、「うちの子は、教会で習って来たことを何でも、私をやり込める
ための材料にするんです」と言って来られたことがありました。「お母さん、
なんでこんな偶像を拝むんや?」……とここで、暗唱聖句が持ち出されます。
「お母さんウソ騙した!」「大人はなんでも汚な過ぎる。」結局、この子は
両親の命令で、教会へは行かせないことにされました。今は良いお母さんに
なっていますが……。でも、あの時もう少し時間をかけて大人の信仰を身に
つけるまで行っていたら……と思うと惜しまれます。しかし、子供は聖書と
キリストをその次元でしか消化できないでしょう。それでいて、子供は自分
は偶像を拝せず真の神を礼拝していると信じています。神の教えに従って清
く生きている。自分の中にある醜さや悲しみに気づくには、あまりに幼いの
です。私が子供の日曜学校というものに、あまり熱心でなくなったのは、そ
の事件だけではありませんが、いくつかの悲しい経験がこれとつながってい
ます。
今のは子供の話で御愛嬌ですけれど、大人の場合はどうでしょうか。几帳
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面主義で完全主義の大人がイエスの教えに感激して、聖書とキリストを使っ
て“完全武装”するようになりますと、これは命取りになりかねません。も
ちろん、たいていはどこかで、私が経験したように、その「私の力で」の人
間、「私の知恵で」の人間が砕かれてキリストで生きる人に変えられる時期
があるものです。でも現実は、「私の知恵で」の人間が、「神の知恵で」に
変わるのに随分時間を食うケースはよくあるのです。私は必ずしも、怠惰な
人間の方が信仰のことが良く分かるとは考えません。また、几帳面な計画主
義の人よりチャランポランの暢気な人の方が真の信仰に近い、などと言う気
はありません。ただ、几帳面主義で真面目主義、計画主義で完全主義の人間
の方が遥かに、この落とし穴にはまる危険が大きいことを、自分の経験から
知っております。
パウロは言いました。「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないよう
にです。」そして、また言いました。「誇る者は主を誇れ」と。
私は文学には詳しくないので、大江健三郎さんの小説は殆ど読んでいませ
ん。ただ、20 年ほど前に発表されたオペラ「暗い鏡」を FM で聞いてテレビ
で見て以来、この人の作品の中に潜むあるテーマには興味を持ってきました。
オペラは大江さんの作曲ではなくて、亡くなった芥川也寸志さんのものです。
広島で被曝した主人公が、白血病で死ぬ危険を承知で、ケロイドの手術を受
けるのですが、その先に死の運命と二重写しになって命の希望が見えている
……というラストです。ノーベル章が決まる前に放映された NHK の特集の
中で、その絶望であるはずの人間が、決して絶望ではないというテーマを、
大江氏はその二部作の小説のラストを“Rejoice!”(喜べ)という言葉で結
ぶことで表しておられました。彼はこの希望の響きを自分のものにするのに、
ある宗教画からヒントを得たと語っていましたが、画面に出たのはキリスト
の復活をテーマにした絵でした。多分、大江さんはパウロのようにはキリス
トを見ず、単に“希望”の主題をそこに見ただけなのでしょう。人の命と尊
厳を否定してでも生きる醜い人間にも、希望は必ずある。彼は絶望ではない。
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希望は死の先の命のように厳然としてあると。大江さんの宗教性は、特に何
教ということなしに、彼が自分自身の中に見いだした“希望の影”のような
ものではないか、と私は思います。
この深い問題を、他人の中にではなく自分の中に見た人が必ずしも、「神
の力」であるキリストを発見する訳ではないでしょう。自分の深い所にある
悲哀と、生きた知恵の欠如を知って衝撃を受けた人の全部が全部、「神の知
恵」であるキリストを知る、とは言えないでしょう。でも、言えることは、
自ら勝ち誇って目下自信満々の人に、
「神の知恵」は当分見えないとしても、
自分を支配する罪と死の存在を知って愕然とした人には、この聖書という本
の中心が見えて来る可能性は大きいのです。それこそ、“Rejoice!”と言っ
ていいのだと思います。
(1994/10/23)
《研究者のための注》
1.パウロの最初のコリント到着を AD 50 年の初め(Stählin),エフェソ滞在を 54~57
年(Fr.会訳序)と見て、「約 5 年前」と言いました。
2.「召された」は救いへの神の召し calling(エフェ 4:1,フィリ 3:14)をさします。
ガラ 5:8,エフェ 4:1 はこれを動詞で表しています。
3.「人間的に見て」(:26)は“according to the flesh”で Wendland-
塩谷-泉訳は「肉的基準によれば」と直訳しています。単に外からの評価を言うので
はなく、Morris が“de facto”と言い換えているように、“人間としてだれが見ても
事実上”の意味でしょう。
4.イエスが貧しい人と徴税人と社会的追放者に近づかれたことについては、マコ 2:16
以下,ルカ 15:1-2,同 19:10 を参照。
5.エレミヤ 9:22,23 からの引用(:29)は原文の「私(神)を知ること」を誇れですが、
パウロは「キリストを」誇ることと同一視します。
6.「神の」が「義・聖・贖い」にもかかることは、……
のつながりから判断しました。
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