【殉教の覚悟とは】

 【殉教の覚悟とは】
・殉教という言葉、私には余りにも遠くにあって、なかなか実感が出来ない言葉です どのような心境になればそういう事が出来るのか、迫害の時代、日本では数えきれな
い程の殉教者がでたそうです しかし、今日の日本では「死語」に近い、若し、本気で
言うと何かオカルト的変わり者扱いになりそうな感じさえします しかし、26聖人は別、
尊敬しなければならないという観念が染みついています 江戸時代末期、日本人が
知らない状況で列聖されました 殉教者のシンボリックな存在となっています 26聖人
が歩いた道を巡礼するぐらいの理解しかない なぜなら、迫害に耐えられる程の信仰
もなく、そのような生き方もしていないし、知識でしかないからです 尊敬の念は持つ
ことは出来るが、遠いよその精神世界、昔の事、現代的課題ではない 今なぜ殉教
なのか 右近は殉教者として列福に値するのか 信仰の問題として良く理解できて
いないのではないか
・そもそも殉教とは何か 右近は何故、殉教者と言えるのか 26聖人に失礼ではないか 右近が殉教者なら、他に列福に値するキリシタン武将がいるのではないか 何故右近
だけが、そう言われなければならないのか このように執拗に問う人がいます 悪意さえ
感じる時があります カトリック信徒が言うのですから何とも言えない気持ちになります 右近に対する敵意さえ感じることがあります 右近の信仰の核心部分についての真剣
な論議が必要なのだと思います 疑問、批判、不満等を言う人の方に、真剣さがあり、
むしろ救いがあるように思います 真剣な議論を必要とするからです それによって
私の理解も深まりますし、深く信仰の在り方を考える切っ掛けとなるからです ・右近の列福運動、私は自分の信仰の問題として真剣に取り組みたいと考えています
晩年を迎えた今、関心は如何に生きるべきかから、如何に死ぬべきかに変わりました
恐らく、戦国の世は、戦争や死は日常であった 右近も言っているように、戦国の世
の浮き沈みの激しい事、自分の意志とは関係ないところで翻弄されてしまう 何時
死が来てもおかしくない時代 これは如何に死ぬべきか、死後はどうなるのか、
そこに視点を当てた生き方が普通ではなかっただろうか 特に戦国武将の場合、その
傾向があったのではないか そうせざる得なかった 死は迫害の時代では今よりずっと
身近で普通の事であった もし、今日、一日しか命がないとしたら、信仰者として何を
選択するか 恐らくその人の信仰が本物であれば、キリストの本質に生きる上で最も
大切にすべき事を選択するでしょう 私は自分をこのように追い込んだ時に少し、
殉教を覚悟した人の思いを理解できたのかと感じることがあります 本当のところは 何も分かっていないのかもしれません 恐らく確信的な信仰心がなければ殉教はできないと思います 日常生活のあらゆる
場面で、本質的にはキリストの教えにふさわしくないと思われる事に、色々な理由を
付けて妥協を積み重ね、わけのわからない精神状態で、神に自分の願いを命令する
信仰ではありえないのではないか 相対的なご都合主義の信仰心ではありえない
意思が強いとか弱いとかではない キリストの本質に生きるという決断をしているかどう か、実際には困難でも、その問題意識を持っているかどうかがポイントなのではないか
という気がします
キリストの本質に生きるとはどういう事か 神と霊的に出会っていないと出来ないと、
思います 神と出会っているか そのような出会いで神秘的体験をしたか、本当に
神を求め、本気で関わったかという事です そのような体験がある人、出来ないけれど、目指している人は、殉教の心は身近に
感じることができるのではないかと思います 何を大事にするか価値観が別物になる
と思うからです そこで神の愛に出会えるからです 出会うと不思議な満足感と安心感
が広がります 恐らく殉教者の心は、惨たらしい世界に耐えるということではなく、全て
を神様に委ね切った、心が最も浄化(カタルシス)、昇華された状態まで高められなけ
ればできないと、私は想像します 恐らく、素晴らしい神体験を人生のなかで何回も
積み重ねた人が聖人と呼ばれる人達なのだろう このように考えると、右近の信仰心
の核心にあるものに辿り着き、理解できるようになるのではないかと思います
右近の信仰心で一番強く感じるのは、天地の創造主デウス、永遠の命、パライゾに
対する確信的な信仰です 右近の人生の中で多くの試練がありました 沢城での
受洗以来、沢城落城、白井河原の戦い、和田惟長との争い、荒木村重の謀叛、明智
光秀の謀叛から始まる秀吉の天下取りのための数々の戦、そして、秀吉の伴天連
追放令に伴う棄教命令、金沢への追放処分、マニラへの追放と、細かい事を含めれば、
恐らく、数えきれない程の試練に遭遇しました 信仰共同体のリーダーであっただけに、
質的にも本当に重たい内容のものばかりであったと思います これらの試練の中で、
最後まで本物のキリシタンとして人生を終える事が出来たのは、この確信的な信仰が
あったからだと思います この確信的な信仰が最初に素晴らしい形で表されたのが
荒木村重の謀叛の時だと思います その信仰心が完成の域に達したが今回の出来
事があった時で、その後益々霊的に深められ、右近の最大の望み、「教えに殉ずる」
行為がかなえられたのマニラへの追放処分であったと思います 何時も家族とともに
あったその信仰心は、村重の謀叛や秀吉の伴天連追放令で深く関わった、都地区の
布教責任者オルガンティーノ神父との霊的交流があったからこそ、完成の域に達する
事が出来たのだと思います 右近の臨終を看取ったモレホン神父も右近の霊的指導
司祭であったと言われています 巡察師ヴァリニア-ノ神父とも出会い、心の中を開い
て腹蔵なく話しあえる関係でした 右近とセミナリオの関わりは、子どもの信仰教育と
いうものを通じて、多くの信仰に関する事柄をきちんと学ぶ機会となったのではない
だろうか つまり、この時代における信仰心を育んでいく点では、最も恵まれた環境に
あったと言える そのような環境があったから、それを求めたから、本物の信仰心を持
ち得たのではないだろうか また、その信仰心を、自分の置かれた環境の中で、文字通り実践した事です
宣教師の福音宣教活動を献身的に支え、自らも教えを説き、多くの人々を受洗に
導きました 金銭的な、ハード面からの貢献だけでなく、自ら率先して教えを示し広め
たのです この姿勢は戦の場面でも何等変わる事はありませんでした これが自分の
手柄であるとしています 秀吉の伴天連追放令ではこれが、命取りになりました まさ
に、彼の福音宣教は「教えに殉じる」行為となったのです この行為の積み重ねがその
信仰心を深め、鍛え、確信的なものにしたと思います 人に説くという事は、とても大変
な事です 「ねばならい」の義務的信仰心では、何も発信できません 神と出会って
いないと出来ないことだからです 深い人間的な魅力もなければなりません
稀に見るキリシタンであるが故に多くの試練に遭遇し、本物の信仰心を持った魅力的
な霊的指導者との出会い・霊的指導を受け、そして自らが修道者の如く教えを広める
という献身的な福音宣教活動が、確信的な信仰心を形成したのだと思います
そして、この当時の宣教師の記録に右近について多くの事が記されて、今日それを
読む事が出来る環境にあるという事が凄い事だと思います 今日ある人が書いたもの
とは全く違います 色々な事が実感を持って理解できるようになります このような環境
を整えられた先人の御苦労に頭が下がります
・殉教とはなにか 殉教とは、特別な事ではない 殺される状況だけが殉教ではない 自分の苦しみ、
自分の命そのものを捧げて生きる事、侮辱、孤独、嘲笑、人生の苦しみなどを、信仰
を持って受入れ、ゆるし、孤独に耐え、他者のために祈り、奉仕していく生き方を目指
すことです これが愛の証し、つまり殉教です この生き方は、キリストがこの世に
来て、私達人間に教えてくれた事なのです (ペトロ岐部と187殉教者 資料)
つまり、殺されるまで、教えに殉じて亡くなるまでの過程の方が大事なのだと思います
命がなくなる程までに、神を愛し、信じ、教えに殉じたのか、その信仰心が本物であっ
たかどうかが大事なことなのです その信仰心が本物であったが故にその死を迎えた
のかどうかが大切なこととされているのでしょう それは本物の信仰心を持ち、日頃
から福音を生きていないと、実践していないと、殉教はできないことだからだと思います
如何に最後を迎えるべきかという事は、如何に生きるかという事なのだという事を気づ
かされます
殉教の定義があるそうです
・最高の愛の証であること -神と人を愛しそのために死を選ぶ行為-
・キリストの生き方と死に方に一致していること -すすんで愛のために死に向かう-
・自分の命を実際にささげること -信仰を守るという理由で死ぬ-
・真正な福音の証し -この世の価値観ではなく神だけに希望を置いて福音的な生き方をした-
-この世の苦しみの中にこそ神の福音があると信じ希望して生きた-
・神の民からの認証 -その地域で称えられ尊敬されていること-
・ローマ教皇による承認と宣言
右近がどのような亡くなり方をしたのか、右近の霊的指導司祭モレホン神父が書かれ
た「日本殉教録」に詳しく書いてあります モレホン神父は、右近を迫害を受けた殉教
者として考えています これを読めば、右近は殉教者であることが理解できます そし
て最期の「ローマ教皇による承認と宣言」という要件を除けば、殉教者としての要件を
全て満たしていると思います 右近については多くの研究者がおられます 多くの本
が出されています 最も大事な事は、宣教師の記録に多くの事が書かれ、当時の信
仰共同体から愛され、尊敬されていた事です 右近が亡くなると同時に、右近は聖人
だとして、列聖する動きがイエズス会であったそうです 本来この時にされておれば、
日本最初の聖人となったはずです それぐらい評価される生き方をしたのだと思い
ます
・最高の愛の証であること
村重の謀叛のときや秀吉の伴天連追放令のときやマニラへの追放に示された右近
の判断と行動のなかに、この要素が十二分に含まれています それは、当時の宣教
師の記録の中に見出す事が出来ます ・キリストの生き方と死に方に一致していること
これも同じように、三つの大きな試練は何れも、右近の命を危うくするような、霊的
決断を伴うものでした 何れも大きな痛み、犠牲を伴うものであったにも関わらず、
神を愛するが故に、その命をおしむことはせず、すすんで命を捧げる道を「静穏な顔 で極めて優しく」選択しました まさに聖ヨブの忍耐で試練を受け止め、神に全幅の
信頼をおくアブラハムの信仰を示しました
・自分の命を実際にささげる事
これも同じように、三つの大きな試練の中で示されています 何れも命を捧げることを
選択しました これが叶うのは、マニラに追放されてからです モレホンは右近の
死の原因は、「肉体的にも、精神的にも弱っていたから、航海の疲労が最後の病い
の原因となった」と記しています まさに、金沢からマニラで亡くなるまで、本物の信仰を試される一家の命をかけた
殉教の日々であったと言えるほど、緊張の約240日であったと思います
右近は、「私は金沢を出発してから長崎をでるまでの約160日間、生命の危機を
感じなかった日は2日となかった」と語ったそうです
約一カ月の航海は、装備が悪く、収容能力に元々問題のあったジャンクに、甲板、
通路にも人がいる程の、劣悪な、すし詰め状態で、長く苦しい航海で、人々は衰弱
し、なかには航海中、病に倒れ、亡くなった人もあった。
右近は到着後数日間は元気であったが間もなく病気(出血を伴う熱病)となり、到着
後40日にして、1615年、2月3日(晩)から2月4日(朝)にかけて亡くなった この
病気は金沢からマニラまでの幾多の困難の結果であった
これを殉教と言わずして何をもって殉教というのか まさに国外追放処分によって、
もたらされた死であったと思います
(僅か40日生きており、・・ひたすら己が救霊のことに専念しうる一軒の家を得ることより他を望まなかった・・
一日中聖なる事柄だけ従事していた 神は我等のドン・ユストをいにしえのヨブのように試し、それによって
生存中、また死において彼を嘉し、ついに天国において彼を待っている輝かしい栄冠の前表を示すようで
あった いまや、食物と気候の変化のため、更にかほどの過酷な追放と彼の身体に極めて有害な航海の
ため、彼はしばらくして出血を伴う熱病にかかり、それは間もなく彼の生命を奪った
(チースリク 右近史話 モレホン日本殉教録サラゴサ版)
・真正な福音の証し -この世の価値観ではなく神だけに希望を置いて福音的な生き方をした-
-この世の苦しみの中にこそ神の福音があると信じ希望して生きた-
これも同じように、三つの大きな試練の中で示されています と言うよりも、右近に
とってこれが日常であったと思います
右近がこの世の価値観に惑わされる事なく、神だけに希望を置いて生きた事は
縷々述べるでもなく、随所で感じとる事が出来ます そして神への愛を示すため
すすんで苦しみを背負う道を選択しました これも歴然としています
・神の民からの認証
これも全く問題がありません 右近が生きた当時からそのような評価があり、多くの
人から尊敬されています これまでキリストの本質に生きようと決心した信仰を持つ
人は、右近は間違いなく聖人になるべき人であると言っています
これは、この世の世俗的価値観によるものではないからです
人の評価はその評価する人の価値観によってお大きく異なってきます
信仰のレベルがどれほどのものであるかによっても、異なってきます
右近への中傷は、無知・無理解からくるものがほとんどです 伝える側に問題が
ある場合がほとんどです 核心に迫らないところで、関心を持ってもらおうとする努力
も大切ですが、心ある殆どの信徒は、右近の名前や優れた武将でありながら信仰
第一の人生を送ったキリシタンである事は、大分部の人が既に知っています
問題なのは、信仰心という部分で、その真実の姿を、信仰者の観点から、本質的な
信仰の在り方を踏まえて、きちんと伝えていない事に問題があるのです 信仰の本質に触れない周辺部分や、歴史的な細部の憶測と推測でしかない処に
、時間とエネルギーが余りにも多く費やされているように感じます
・殉教者は「証し」する人
殉教という言葉は、もともと「証し」という意味だそうです 信仰の真理を示すために
死ぬことさえ惜しまないで証しした人たちのことを殉教者というそうです
信仰の真理とは、キリストそのもので、キリストを証しするとは、十字架上で亡くった
キリストの模範に倣う事だそうです
以上の事から、右近は「証し」する人であった事は間違いないと思います
・このバテレン追放令後、迫害下で、殉教が身近な問題となり、信徒への殉教について
教えを伝える必要性から、1591年、巡察師ヴァリニア-ノ神父が持ってきた印刷機で
「サントスの御作業」(様々の聖人伝を一書にまとめたもので、最後に「マルチリヨのことわり」
という付録がついていた)や、1592年には「信心録」、その4,5年後には「殉教要理」
ともいうべき手引書などが、印刷され、信者に配布されたそうです また、長崎奉行所
が信者から没収したものに、殉教者の伝記や殉教の条件と態度等を書いた書 -
「マルチリヨの鑑」、「マルチリヨの勧め」、「マルチリヨの心得」 -があるそうです
神父達は信者を励まし、殉教の覚悟を固めるように努力したそうです
「マルチリヨの心得」で、「殉教の条件」として、次のような事が書かれているそうです
「死すること、・・餓死、流罪に行わるるうちに死し、・・その他辛労難儀の道より死した
るにおいては、マルチルなり」、「死を甘んじて受けること・・その成敗を辞退せず、
快く堪忍いたして受くるにおいてはマルチルなり」、「キリスト教の信仰や道徳のため
・・キリシタンなりとて成敗せらるるか、又は善を勧むるとてか悪ををせざるとて害せ
られれば、これもマルチルなり」といった三つの条件が書かれているそうです
以上のことは、「キリストの証し人(チースリク神父著)」に書かれているもので、
「マニラへ追放され、その航海の過労で倒れた高山右近も、殉教者として認めても
さしつかえない」と書かれています(マルチル:殉教者:キリストの証人)
・右近の臨終見守った霊的指導司祭モレホンは、「日本殉教録」のなかで、「右近が亡く
なった直後、・・最も深い悲しみを示したのは、総督と大司教で・・、しかし、一方で
この正義の聖い人物の死は、追放によって生じたものであるから、殉教の栄冠を得る
に相違ないということが考えられるので喜びと満足を感じていた それは市中の何れ
の人々も同じであった」という事や、殉教者に対するように、棺収められた右近の遺体
の足に接吻しようと多くの人が集まってきたなどが記されている
そして、右近の生涯で最も輝いている事として、今回の棄教命令とバテレン追放で
示された右近の英雄的行為を記している さらに注目すべきは、潜伏期間中の事に
触れ、「・・一年以上俗世の風を避けて匿れ、何処にいるのか分からなかった これ
は、彼にとって神に一身を捧げるよい機会であると思われた 全ての時間を祈りや
そのほかの聖修練に費やし、神のために棄てた物や栄耀・栄華の絆を断ち切った
事を思い出さなかった」と記しています
最後に、「この偉大な神の僕の示した英雄的徳や謙虚・貞潔・忍耐、聴罪司祭や
霊的父に対する従順、神への畏れ、霊の救いへの熱意、良心への忠実、殉教への
希望、信仰の高揚の詳細及びかの諸国における信仰の確固たる柱であったことを
この短い報告に書きつくすことはできない」と記している
私は、右近の公式巡礼で列聖省に陳情するという機会を与えて頂いた事があります
ヴァチカンの広場での教皇様の祝福に感動しました 右近はもちろん父ダリオや右近の
家族の心情を思うと熱いものがこみ上げてきました 列福は、右近はもちろん、父ダリオ
やその家族、家臣、同時代を懸命に生きた河内のキリシタン等の都地区のキリシタン、
都地区のオルガンティーノ神父をはじめとする司祭・修道者に対する最大のプレゼント
になるものです 彼等は、日本のキリスト教の土台を築こうという気概があり、血を流す事
を厭わなかった その土台の上に今の信仰がある事を考えると、本当に凄い人達である
と讃美するとともに、其の血の滲むような御苦労に心から感謝せざるを得ない