アジア太平 洋文化 への 招待 アジアの文化遺産保存への新たな挑戦 イクロム の取り組み ※1 ムニール・ブシュナキ Mounir Bouchenaki イクロム ( 文化財保護修復研究国際センター ) 所長 フランスで考古学・古代史博士号を取得。アルジェリア文 化情報省古美術・博物館・文化財所長、ユネスコ文化担当 事務局長補佐などを歴任。2005年11月より現職。 イタリア、ローマ市のイクロム外観 められ最も知られているものの一つである 文化遺産という概念 イクロムの 研修プログラム と言えます。 この1972年条約の第1条にはこう記され 「文化遺産」という言葉は、その歴史を ています。 「この条約の適用上、 『文化遺 無形文化遺産の内容を検討するにあた 見ても分かるように常に同じ意味合いで 産』とは、次のものをいう:記念工作物、建 って私たちは次のことに気付きました。目 使われて来たわけではありません。特にこ 造物群、遺跡」(抜粋)。 に見える遺跡や遺構は、それだけではその こ40年の間に文化遺産の概念は大きく変 このような中、1990年代に1972年条約 真価は理解できず、周囲との関係や、自然 わりました。 の枠組みの中で初めて使われ、ここ15年 と人間両方の物質的・非物質的な環境の 様々な文化の最も代表的な美術品や歴 の間に注目されはじめた「文化的景観」と 相互関係を知る事によってはじめて解って 史的建築物を指し示すために使われ始め いう概念は、更に明確な文化遺産のとらえ くるということです。 た遺産という概念は、徐々に産業遺産な 方を模索した末の成果といえます。文化的 社会の存続や発展において文化遺産が どの非芸術的な分野や水中文化遺産など 景観を文化遺産のひとつとする考えは「遺 持つ役割について理解すればするほど、 の特殊分野まで、幅広い意味を持つよう 跡」の定義である「人間の作品、自然と人 文化遺産は脆く危機に瀕した複雑なもの になりました。 間との共同作品及び考古学的遺跡を含む であると、現実として認識されるようにな 今日、文化遺産という概念は、固定され 区域であって、歴史上、芸術上、民族上又 っています。文化遺産やその保護の重要性 た過去のイメージではなく生きた文化を反 は人類学上顕著な不変的な価値を有する は1931年のアテネ憲章やイコモス※3(国際 映し、新たな意味を内包する広義なものと もの」という考え方から生まれました。この 記念物遺跡会議)の1964年ヴェニス憲章 なっています。ここ40年間で、文化的発現 考えをテーマとした出版物『文化的景観: によって、意識されるようになりました。 や表現を本当に理解しようと思えば自然と 保存への挑戦』(Paris,2003)が、1972年 このような状況の中で、イクロムはアジ 文化は切り離して考える事はできないと私 条約30周年記念に、ユネスコ世界遺産セ ア地域における有形文化遺産・無形文化 たちは気付きました。これは特に人間と自 ンター主催によって行われたイタリア、フェ 遺産に対する研修プログラムを開発しまし 然環境の深いつながりを重視する文化的 ラーラ市でのワークショップを受けて発行 た。これにはCollAsia2010プログラム※4を 発現や表現において言えることです。 されました。 通してつくられた予防的な保護アプロー 21世紀に入った現在、文化遺産の定義 さらに新しい動きとして、遺産の別の面 チなどの長期型戦略や、東京文化財研究 を示す重要な国際的文書は、1972年のユ を概念化また具体化することへの関心が 所と共催した国際研修「和紙の保存と修 ネスコの「世界の文化遺産及び自然遺産 高まっており、これが、無形文化遺産とい 復」などのパートナーとの事業などがあり の保護に関する条約(1972年条約) 」で う新しい概念に関連しています。これは個 ます。 あると広く認識されています。現在では、 人が創作活動を行うにあたって、個人やコ イクロムのカトリーナ・シミラ氏は次のよ 183か国が批准しています。この数字を見 ミュニティの知識体系を精神的かつ哲学 うに述べています。 「C oll A sia2010プロ ても分かるとおり、この条約は世界的に認 的な視点から注目し始めた結果です。 グラムによって遺産保護に携わっている ※2 ※1: ICCROM: International Centre for the Study of the Preservation and Restoration of Cultural Property ※2:一般には「世界遺産条約」と呼ばれることが多い 2 ※3:ICOMOS: International Council on Monument and Sites ACCUニュース No.363 2007.9 ア ジ ア太 平 洋 文 化 へ の 招 待 のためにも東京文化財研究所との長期的 と比較してみたいと思います。2007年7月 な協力関係が重要であると感じています。 現在で78か国が2003年条約を批准してい この研修を通して伝統的な和紙の台紙の ます。 技術や材料、そして和紙保存にあたっての 1972年条約は183か国の締約国をも 原則的な考え方について見識を深めるこ ち、世界で最も多くの国に認められている とができます。 条約ではありますが、この数字にたどり着 くのにも、世界文化遺産や世界自然遺産 の概念を広く受け入れてもらうのにも34年 ベトナム国立博物館で、収蔵品管理について経験 を共有する東南アジアの美術館・博物館関係者 (CollAsia2010プログラム) 有形・無形文化遺産の つながり 専門家たちの活動が活発化しています。 有形・無形文化遺産の研究、そして研修 で、遺産の無形価値の概念を理解しても 2002年以来、東南アジアを中心に100人 プログラムにどのように取り組んでいくべ らうのには3年しかかかりませんでした。こ 以上の専門家が関わって5つの事業が展 きでしょうか。全く異なった性質を持って のように、今後3、4年でこの2003年条約は 開されました。 いるのにもかかわらず、両者とも人類の記 1972年条約と同様に世界的に認められる 東 南アジアには国際的な協働の仕組 憶を伝えているかけがえのないものだとい ものになると私は考えています。 みがたくさんありますが、今のところ保護 う点で、この両遺産は1つの事実の2つの イクロムにとっても、78か国もの国がこ 専門家が関与しているものはほとんどあ 側面であると言えます。有形文化遺産・無 れほど短期間で2003年条約を批准したこ りません。その中で、地元の文化遺産関 形文化遺産の意味や重要性を知ろうと思 とは非常に重要な意味を持っていると感 連団体と共同し数々の国で開催している えば、両者を切り離して考えることはでき じています。専門家集団の内部で、また日 CollAsia2010のワークショップは、異なる ません。人類の最も偉大なる産物ともいえ 本の協力者とともに、有形と無形の文化 形態や多様な状況の中で文化的な資料に る、これら有形・無形の文化が「複合され 遺産をつなぐ研修の重要性を考えること ついて学ぶ貴重な機会を専門家に提供し た形態の遺産」について、その特定と促進 は、この条約を実施するにあたりとても大 ています。 を可能にする特別の方策が今必要とされ 切になってきます。 今日、東南アジアの動産遺産保護に関 ています。 具体的な例としてカンボジアのアンコー しての文献が非常に少ないのが現状です。 ここでユネスコの「無形文化遺産の保 ※6 もの年月がかかった事に留意せねばなり ません。その一方で、世界の3分の1もの国 ルが挙げられます。アンコールの寺院群や したがって、個々の専門家がそれぞれの所 護に関する条約(2003年条約) 」の特殊 周辺からの美術品、その地域そのものの 属団体の所蔵品を研究して得た経験が、 性について、この条約が2003年10月のユ 復旧や修復は、アンコールの文化遺産の この地域で専門的な知識の基盤を構築す ネスコ総会で採択されてから各国に批准 有形及び無形両方の側を考慮することな る重要な資源であることは間違いありませ されるまでの速さに注目し、1972年条約 く行うことはできません。このことは、アン ん。問題解決に重点をおいたり対話形式 で進めたりする、このワークショップの優 れた手法は、東南アジアにおける所蔵品 の特異性について共通理解を築く重要な 要素として、専門家交流の持つ可能性を 明らかにしました。」※5 イクロムは日本国内では、東京文化財 研究所、奈良文化財研究所、そしてユネス コ・アジア文化センター(ACCU)と大変密 接な関係にあります。日本の専門家に特に 求められるのは世界的にも認められてい る和紙の修復分野での経験です。その高 い価値を考えてイクロムは、日本国外で和 紙の収蔵品を担当している専門家の研修 CollAsia2010「持続可能な収蔵品管理のためのチームワーク・プロジェクト」ベトナム、ハノイ市 での1か月間フィールド研修参加者 ※4:東南アジア11カ国において、遺産の専門家や美術館・博物館の関係者などを対象に、動産遺 産の保存状態の改善を目的として、7年間(2004年~2010年)のプログラムで実施されている。 ※5:ICCROMニュースレター32、ローマ:2006年6月、p.13 ※6:一般には「無形遺産条約」と呼ばれることが多い ACCUニュース No.363 2007.9 3 ア ジ ア太 平 洋 文 化 へ の 招 待 コールの保存に携わる専門家研修活動の ハノイ建築大学、オーストラリア・ディーキ カリキュラムにも取り入れなければいけま ン大学やその他のアジアン・アカデミーの せん。 協力団体によって実施されました。 イクロムは2 0 0 6 年から2 0 07年の2年 遺産マネジメントのための アジアン・アカデミー 間、遺産マネジメントのためのアジアン・ア カデミーによるフィールド・スクール活動の 1つを支援しています。さらにイクロムはユ 有形・無形の両方の文化遺産の研修プ ネスコ・バンコク事務所と共同で遺産マネ ログラムに対するイクロムの取り組みに ジメントのためのアジアン・アカデミーのネ は、ユネスコと共同で行っているアジア太 ットワーク活動も支援しています。イクロム 平洋地域における活動もあります。 とユネスコ・バンコク事務所は2006年から 遺産マネジメントのためのアジアン・アカ 2007年を通して遺産マネジメントのための ルで世界遺産に関係して働く人々の研修 デミーはイクロムとユネスコ・バンコク事務 アジアン・アカデミーのプログラム開発や に関し、日本の専門家との共同事業を拡 所によって2002年に設立されました。アジ 調整作業を支援することに同意していま 大していこうとしています。その際、ACCU ア地域で、文化遺産の管理に関するプロ す。2007年までに参加団体が調整業務な との関係は非常に重要であると考えられ グラムをより効果的に実施する能力を強化 どを受け継いで行く予定です。より具体的 ます。 したいと考えている教育・研修組織への に言うと、イクロムは参加団体の管理や交 連携支援を目的としています。現在14か国 流、参加団体数の増加、科学活動の開発 から30以上もの団体が参加しているこの 支援などの分野において遺産マネジメント 共通の場を通して、参加団体は共同事業 のためのアジアン・アカデミーの事務局を を行ったりしています。 支援しています。 特にアジア太平洋地域において、世界 このうち、最も重要な取り組みのひとつ 最近の世界遺産委員会の会議ではいず 遺産が直面している問題の一つは、観光 に参加団体が組織するフィールド・スクー れも、管理技術が優先事項になってきて 業のあまりにも急速な発展です。これは、 ルの推進があります。香港大学建築学科 いる事が、はっきりと指摘されています。 イクロムとユネスコによってすでに研究さ とマカオ観光学院がイクロムとユネスコ・ 上海の同済大学に、アジア太平洋世界遺 れ、現在も重要な懸案事項である側面で バンコク事務所の密接な協力によって、 産研修・研究所を設立するための覚書を す。イクロムと世界観光機関との間には、 2003年12月に中国のマカオで実施したの イクロムとユネスコが2007年5月に調印し 近年協力関係が築かれています。地球規 が初めての例です。このフィールド・スクー たのは、このような理由があります。 模の開発において文化遺産が重要な役割 ルは、マカオの町をフィールドとして活用 主に世界遺産管理の研修に貢献する、 を占める他分野との交流に関連して、様々 し、都市保全について考えることを目的と このような研修・研究所の設立は、アジア な取り組みがおこなわれています。 して計画されました。2回目のフィールド・ 太平洋地域に重要なインパクトを与えるこ 例えばその1つには、地中海考古学的観 スクールは2005年にベトナムのハノイで、 とになるでしょう。イクロムは、様々なレベ 光のためのイタリア交流があげられます。 2007年5月中国、上海市の同済大学にて。 「アジ ア太平洋研修・研究所」開設に際し、覚書にサイ ンする季副学長と筆者 世界遺産と観光業 これはイタリアの州のひとつによって行わ れている取り組みです。毎年、世界遺産の 1つが、世界遺産の管理者と観光業の実施 者の間の意見交換の場として選ばれるの です。他の場所、例えばカンボジアのアン コールの寺院群やネパールのカトマンズ渓 谷、ベトナムのフエの遺跡も、同じような取 り組みから恩恵を受けることができるかも しれません。 奈良で開催された、アジア太平洋地域の文化遺産保存及び修復コースの参加者 4 ACCUニュース No.363 2007.9 (写真提供:イクロム、原文英語、翻訳編集部)
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