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特 集
英国における麻酔科医事情
関西医科大学医学部麻酔科学講座
浅井 隆
PROFILE ────────────────────────────────
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浅 井 隆 関西医科大学医学部麻酔科学講座 講師
Takashi Asai
1987年:関西医科大学卒業
同 年:関西医科大学附属病院 研修医
1990年:関西医科大学医学部麻酔科学講座 助手
1997年:英国ウェールズ大学院卒業、Ph.D取得
2001年:関西医科大学医学部麻酔科学講座 講師
2003年:獨協医科大学越谷病院麻酔科 非常勤講師
趣味:水泳…美しいバタフライを追求中
創作活動…できるだけ多くの人に親しんでもらえるものの創作
(執筆、講演、絵画など)
技と美の鑑賞…さまざまな人の思考過程(哲学、美学、言語、統計など)や創造的なもの
(絵画、建築、装飾、演劇など)
に接すること
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治療費タダの国、イギリス
“ゆりかごから墓場まで”イギリスの元首相チャーチルの有名な言葉ですが、こ
の精神は今でも受け継がれています。一部の営利目的の病院を除き、イギリスの病
院はすべてナショナルヘルスサービス(NHS)によって運営されており、治療費は今
でもタダです。これは、外国人に対しても例外ではありません。もし旅行先のアメ
リカで緊急手術を受けることになれば、何十万円、何百万円が請求されてしまうこ
とはよく知られていますが、イギリスではそういう場合でも治療費は請求されませ
ん。それでも医療費が国家財政を圧迫しないのですから、すごい国と言えます。
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不思議で特異な国、イギリス
私は1991年から 6 年間、イギリスに留学していました。この国は住めば住むほど、
なんとも不思議で特異、そして魅力的な国であることがわかってきました。この国
は、もう 1 つの極めて特異な国、日本に似たところがいくつもあります。自然や生
き物、歴史と伝統、ことば使い、そして笑いに対する感受性に関しては驚くほど似
ています。大阪という“お笑い”文化圏で育った私にとっては、日本での“つっこ
み”をそのまま英語に訳して言ってみると、意外と通じて、笑えるボケをしてくれ
るのが新鮮な驚きでした。また、「いんぐりもんぐり」というような言葉遊び的な
表現(nitty gritty, mingle mangle, wibbly wobbly)も数多くあります。これは同じ英
語圏のアメリカと違い、長い歴史と豊かな文化圏に育った人たちだからこそ可能な
のでしょう。
しかし、イギリスのシステムは、日本、あるいはその他のいわゆる先進国と違っ
て極めて特異です。例えば、この国には成文化された憲法がありません。議会の上
院
(貴族院)
はいまでも貴族で構成され、世襲制です。一般庶民からの選挙による議
員選出は下院
(庶民院)
でのみ行われます。このように、今でも王侯貴族と庶民は相
容れないシステムになっています。しかし、王侯貴族が庶民を支配している、とい
う雰囲気はありません。正に“君臨すれども統治せず”です。
また、“大英帝国”のシステムは今でも健在です。旧植民地であった国々のみな
らず、オーストラリア、カナダなどが今でもイギリス国家共同体として機能してい
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ます。日本にいればあまり気づかないことですが、この共同体の加盟国は54カ国、
世界の人口の実に25%、17億人が所属しています。
この共同体システムは医療界にも浸透しています。例えば、イギリスで働く医療
スタッフの半数以上は外国人です。なぜこれほどの外国人がいるのかと言うと、共
同体の多くの国々では、イギリスの専門医の資格がないと自国の病院の役職を得ら
れないからです。
また、日本にいるとAnesthesiology 誌が世界で最も読まれている麻酔科雑誌と思
いがちですが、17億人を対象とするBritish Journal of Anaesthesia(BJA)誌の方が
読者数は断然多くなっています。
さらに驚くべきシステムとして、医師国家試験がない、ということです。イギリ
ス国内外の認知された医学部を卒業すればイギリスの研修医として認められ、
General Medical Council(GMC)に仮登録されます。そして、1 年の研修の後、本登
録され、その後に専門医あるいは開業医の資格を得ることができるようになってい
ます。
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麻酔科の組織
麻酔科領域の団体は主に 2 つあります。王立麻酔科医協会(Royal College of
Anaesthetists:RCoA)とイギリス・アイルランド麻酔科医協会(Association of
Anaesthetists of Great Britain and Ireland:AAGBI)です。RCoAは機関誌BJAの
発行や、専門医の認定などの役割を担っています。
王立麻酔科医協会という名称からは、古くて権威があるように見えますが、じつ
はAAGBI( 1932年に創設)に比べ歴史は浅く、1988年に王立外科協会から独立、
1992年にようやく王立の名称が与えられたにすぎません。また、AAGBIは年次大
会がありますが、RCoAは学会を開催しません。
Fig.1. AAGBI年次大会(2007年)の特別講演時の懇親会での
RCoA前会長Judith Hulf医師と著者 学会懇親会は2種類あり、
“アカデミア”上層部会と一般の懇親会があ
ります。前者は、映画『ハリー・ポッター』の1シーンのようなお城
や貴族邸宅のホールなどでタキシード、イブニング着用の晩餐会が
行われ、楽しく優雅な時間を過ごせます。
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長く厳しい研修、難関の
専門医試験
イギリスの研修期間は 7 年です。医学部卒業後、マッチングと面接試験を経て働
き場所を見つけます。雇用は 1 〜 2 年契約なので、研修中に何度か就職活動を繰り
返すことになります。
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2 年間の初期研修の後、第 1 段階の試験を受け、合格すると、専門医研修
( 5 年間)
に進みます。研修終了後に最終試験があります。
イギリスの研修医は、まるで臨床研修と医師国家試験の勉強を同時にするような
忙しさです。そのため、スポーツ系の“ガタイのいいヤツら”ですらフラフラと倒
れそうになっているのをしばしば見かけました。
最終試験の合格率は例年約50%と、極めて難関です。そのため、研修を終了で
きない者が続出し、研修医として働き続けることになります。しかし、試験を落ち
る度に就職先が見つけにくくなり、さらに辛い日々が続くことになってしまいます。
最終試験に合格すると、王立麻酔科医協会会員(Fellow of the Royal College of
Anaesthetists:FRCA)となることができ、名前の後ろにFRCAを付けることが可
能となります。また、研修修了証が与えられ、晴れてGMCに専門医として登録さ
れます。
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コンサルタントという役職
イギリスでは教育機関の役職
(教授など)
と、病院の役職とが明瞭に区別されてい
ます。病院の専門科で指導する立場の人をコンサルタントと呼びます。
コンサルタントの職は、専門医試験に合格し、専門医登録された者だけが応募で
きます。そのため、コンサルタントの職は、日本の大学、病院の役職の任命法と違
い、長く厳しい研修と公正な試験に合格した者だけがなれるわけです。
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明瞭な給与体系
NHS病院での給与は明確で、どの科の医師であっても基本給は同じです。コン
サルタントには、能力差により報酬が出され、開業医(general practitioner:GP)
に比べ高収入なのが一般的です(Table 1)
。
Table 1. イギリスの医師の給与
研修年
初期研修医
専門科研修医
基本給
*1
1年目
£22,412
2年目
£27,798
3年目
£29,705
4∼7年目
報酬
*3
£36,807∼£70,126
コンサルタント
−
£74,504∼£100,446*2
開業医
−
£53,781∼£81,158
+ £2,957∼£74,676
*1:1週間に40時間以上、あるいは平日の7:00∼19:00以外の時間帯に勤務した場合、時間外手当
として基本給の30∼50%増となる。
*2: £1=140円換算として、基本給で1,000∼1,400万円、物価からすると£1=170∼200円とな
ると思われ、その計算では1,300∼2,000万円程度となる。
*3:コンサルタントの場合、専門医としての優秀さの程度により、clinical excellence awardsとい
う報酬(£2,957∼£74,676)が追加される。
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アカデミアの崩壊
イギリスの麻酔科領域における学問、教育機関は現在、崩壊状態と言わざるを得
ません。
近年、公的資金から出る講座運営費は、各講座が民間や寄付団体などから得た助
成金額および論文が掲載された雑誌のインパクトファクターが高いほど、多額にな
るように改訂されました。麻酔科は他科に比べこれらが低いため、講座維持費の獲
得が困難となり、教授席、あるいは講座自体の廃止を余儀なくされている大学が増
えています。
また、専門医研修中の臨床研究の必要性が縮小されたことや、コンサルタントの
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収入は臨床努力に応じて増えることも研究志向の人が減少している原因となってい
ます。
私は留学中にPhD(哲学博士医学部門)を取得しましたが、PhD取得者は年間10
名以下、さらに医師免許を持っていてPhDを取る人はたかだか数年に 1 人なので、
よほどの学業好きだと考えられているようです。
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資格への敬意
最後にイギリスの特異な点をもう 1 つ。それは資格への敬意です。イギリスにお
いても外国人や違う人種に対しての差別意識がないとは言えません。また、貴族制
度や大英帝国の影響もあり、上下意識は強いと言えます。しかし、学問や試験など
の公平な手順を踏んで資格を得た人に対しては、多大な敬意が払われます。
例えば、手術部の更衣室はコンサルタント用とそれ以外用に分かれており、後者
は汚い運動部の部室のようですが、前者はサロンのようになっています。さらに、
病院敷地内にスタッフ用のパブがあるのですが、これもコンサルタント専用の優雅
な空間が設けられています。資格を有する者に対する敬意の念は、映画『ハリー・
ポッター』に出てくる大学の学者達の部屋や尊敬のされ方などを思い浮かべれば理
解できると思います。
私は研修医でもなかったので、教室員は愛想程度の態度でしたが、PhDを取った
翌日から教授たちも含め、突然“偉い人なんだ”という扱いをしてくれるようにな
りました。この急変に、なんだかくすぐったい気持ちになってしまいました。また
帰国10年後
(2007年)
にはAAGBI年次大会で例年、学会総長や退官前の有名教授な
どが行う特別講演をさせていただきました
(すいません、自慢させて下さい)。この
際、推薦者や選考者は一切知らされませんでした。どこかで誰かが自分を認めてく
れている、という嬉しさとともに、推薦者が名乗らないというのは、いかにもイギ
リスのカッコよさだな、と感じました。
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将来
イギリスでの麻酔科、特にアカデミアは、現在困難な状況にあり、日本も同じ経
��
路を辿る“運命”にあると思われます。しかし、イギリスには、政治や打算に興味
を示さない“象牙の塔”に生きる志の高い人たちが何人も存在しています。彼らは
研究、論文の手助けなどを求められると、何の見返りも期待することなく、とこと
んアドバイスをしてくれます。また、コンサルタントの中にも、日々の臨床をしな
がら、医療の進歩のみを願って臨床研究などのアカデミックな活動をしている人が
います。これらの人たちがいる限り、仮に今の講座システムが崩壊したとしても、
個々の貢献がより評価される新たな“かたち”の真のアカデミアが構築されていく
と固く信じています。
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