音痴 音の楽しみ - Biglobe

音痴
音の楽しみ
アンギンマミッリからナチャゲへ 30 年の軌跡
#360
庵原哲郎
[email protected]
環境が悪かった。
私は漁師町育ちで、そこは粗野ともいえる荒々しい男社会だった。
歌でも唄おうものなら親爺は「河原乞食に育てた覚えはない」とご機嫌斜めだった。
昔の芸人はそう呼ばれる時代だったし、中等教育の音楽授業も、巡回教師が月一回講堂で全学年
に教える貧弱さで、うしろの席では声も音も聞こえずなんの授業かさえ判然としなかった。
戦時中ですべてが軍国歌謡で歌を選べない時代だった。
敵は幾万、露営の歌、海往かば、愛国行進曲、同期の桜、空の神兵、月月火水木金金、、、
。
戦さが終わり、怒涛のようにアメリカ文化が押し寄せた。
兄の影響で最初に聴いた洋曲はフォスターだった。Swanee、Old Black Joe, Beautiful Dreamer
ハワイアンも入ってきて灰田勝彦の人気は知っていたけれど、ピアノやヴァイオリンなど別世界
の品物、音楽を教えて呉れる人には会えずしまいで進学し上京した。病弱の兄は家でラジオを聴
く日が長く、それは AFRS(進駐軍放送)のウエスタンが多く、エデイアーノルド、ハンクウイ
リアムス、ハンクスノウなどのメロデイは覚えるとはなしに口ずさめ、それはデキシイジャズに
進化しサッチモ(ルイアームストロング)やベニーグッドマンになってゆき、門前の小僧習わぬ
経を読む、ファミリイクラシックやタンゴなどラテンも聴く機会はあったが、相変わらず音楽と
は無縁の暮らしだった。
街はたぶん歌声喫茶の時代だったと思うが、体育会系で、唄うとすれば応援歌だけだったし、社
会にでても仕事人間でビートルスが来たのも知らないで終わってしまった。
そこはインドネシア
海外、インドネシアに滞在する事になった時、その兄が「お前言葉はどうするのだ?」
「エイゴを少しは喋れる」 「現地語のことだ」 「?!…」
「その国の言葉が喋れないでどうする。喋るにはまず聞くことだ。その国の歌のカセットでもい
っぱい買って四六時中聞けば耳が慣れてイントネーションが良くなるから、初めはそうしろ」
私は素直に従い、到着後買ったカセットテープを終日鳴らしていたのがクロンチョン音楽だった。
初めて聴く異国の旋律は“けだるい南国の夜空に高音の矢を射掛けるような歌姫”の虜になった。
任地はスラウエシ島マカッサル 1969 年。
パンタイロサリの渚に西風が吹き寄せていた。
豊旗雲は茜色に染まり、つるべ落としの夕陽は水平線に、藍色だった海は思いもよらない早さで
金色の鱗を散りばめながら宵の儀式をはじめていた。
色黒のコーカソイド女は名をエヴェリンヤコブスといい、マナドの沖シアウの出とゆうからたぶ
んインド移民の出なのだろう。
バンガローにはふたりきりで、夕暮れの風が渉り、夜の帳りを開けようとしていたが、たぶん胸
のなかは違う思いだったのだろう。
♪ Angin mamirri kupasang, Pitujui tongtongganna, Tusarroa takka lupa,,,
そよ風に私は託す 窓を通して 忘れ去ったあの人へ届けと、
、
哀愁ある歌声は小さかったけれど、四囲に調和して流れていった。
アンギンマミッリ(そよ風)はマカッサルの州歌ともいえ街の別名にもなっており、カユアサム
の巨木並木を渉る海風がこの古い町並の情緒を醸しだしていた。
帰国しても歌とともにこの情景は忘れることが出来ず、心に残った。
1
1983年 十数年ぶりに再び彼の国と縁が出来て渡航しジャカルタに居を構えた。
ある日、駐在日本人会に現地の歌を習うラグラグ会があり入会を勧められたのは、客人が家で鳴
っているこの国のクロンチョン音楽を耳にしたせいだったのかもしれない。
水曜日の夕方会に出向いた。
1987 年 10 月 360 番めの入会で、テキストには 50 曲ほどの知名曲が採譜されていた。
「なにか知っている曲はありますか?」
「このテキストの曲の半分くらいは知っています」
「それはすごい、では一曲唄ってください」
私は兄の訓育からいつもカセットを鳴らしていたから有名曲は知っていたし、会がそうゆう仕来
りだと思い、躊躇なくアンギンマミッリを選んだ。
マカッサルロスクインギターに乗るバラードの歌詞はそらんじていて少しは自信があったから。
ピアノが鳴り私は歌い始めた。 ♪アンギンマミリクパッサン、、
、
エヴィの唄ったリズムとはかけ離れたルンバの伴奏でしどろもどろ、座は白けて失笑すら聞こえ
た。楽譜を読めない男の恥を晒した結果だったが、負け惜しみで俺のアンギンマミッリが正統だ、
と以後ラグラグ会に精勤することになる。
リズムの宝庫
音楽の泉
インドネシアはその地勢から東西文化のクロスロードなのは地図を見れば一目でわかる。
日本の東は茫漠たる太平洋の水地獄で文化の終点とは大きく異なるようだ。
育った日本は古くは中国大陸から文化が流入して各地に伝播していった一方交通で近代化する
まで続き、その後西洋音楽が参入したが僅かな時空でしかない。
それに較べて、インドネシア音楽の幅広さは、そのジャンルの原点が多岐にわたっていることで
はないだろうか。 代表的音楽のクロンチョンとムラユでは発生も歴史もまったく異なる地から
渡来したリズムで、流行に乗った歌謡でも発生はまったく異なるジャンルなのだが、それが渾然
と重層している。
これから少し書くが、インドネシアミュージックフィールドの音楽ソースは画一ではない。
世界最大の列島は東西5千キロに及ぶから、異文化の到来も島により大きく異なるのは当然で、
それこそが共和国を多彩以上の変化に富んだ佇まいをみせてくれるのだ。
歌は世につれ世は歌につれ、歌声はその時代とよって来たった歴史を伝えてくれる。
歌謡の始まりは征服軍の士気を高める為の手段だったともいわれ、オスマントルコの軍楽隊ジャ
ッデイーンが知られている。太鼓と銅鑼も勇壮なマーチだ。
北インドの一種族がなぜか西への放浪をはじめたのがロマジプシーで、彼等の運んだリズムがそ
の後のフラメンコやファドやシャンソンにおおきく影響したとも聞くが、謡いはそれぞれの地域
の祭礼や巡礼や行事はたまた労働で唄われ、混合し影響しあい進化していったのだろう。
楽器も同じだろうから、やはり古い文化圏の他地域への影響、淘浸は大きかっただろう。
この地域で、いわゆる大衆歌謡が勃興したのはラジオ放送が始まる 1920 年台(わが国と同時期)
頃だったが、それ以前の遥かな昔から東西世界のあらゆる文化がこの地に流れ込んだ。
世界にその名を轟かせる古典ガムランは仏教・ヒンドウ文化とともにたぶんインドシナから伝え
られたと思われるのは、6世紀に建立されたボロブドール遺跡の石版に楽師達の姿が明瞭に刻ま
れている。
インドから
インドネシアはインドに続く島々とゆう学術ギリシャ語だとゆうが、その意味からインド文化の
影響が極めて大きい。その後この地を席巻するイスラム教もインド亜大陸で濾過されて到来した
雰囲気すら感じられる。
インドネシアに齎された初期のリズムはガムランに代表されるヒンドウ系音楽だろうが、インド
のタブラ太鼓(バーヤン、ダーヤン二連)を用いる音楽も、インド洋を越えて北スマトラ・デリ
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(今はなくメダン在)からマラッカ海峡両岸へ、リアウ多島海域を経てジャワに入ったと思われ
るイラマムラユ(マレー芸能)に色濃く残っていて、今のインドネシアの人々の骨肉になってい
るようだ。
マレーシアの俳優歌手だったラムリイ、サロマ夫妻が現代ムラユを完成させ、ボルネオ少数民族
のリズムも吸収して旺盛に発展し、新進のアイドル歌手シテイヌルハリザ、モラニザイドリスな
ども賑やかでモダーンとは申せ、まがうことのないムラユ節で西洋リズムと混血している。
インドネシアではサイドエフェンデイやベンヤミンが明らかに独自のジャンルを作った。
Makan Sirih,Dodoi siDodoi,Bunga Tanjung,Diambang Sole,Fatwah pujangga,Tudung Priuk
一時期影を潜めたような時期もあったが、どうして新しいリズムで大衆を席巻してしまう。
イスラム教
イスラム教は絵画、音楽には種々の制約があったにも拘わらず、中近東のリズムはスマトラ島最
西端のアチェからこの列島に影響した。宗教行事に謡われるヤシンやクァシーダはその後のイス
ラム教の地を圧する布教でこの地の基盤になった。毎日街に流れる祈りへの喚起アザンを聞けば、
異教徒の我々はその異質感で‘遥けく来たものよ’と感じたことだろう。
町の路地、村いわゆるカンポンに入れば俄然宗教色は濃厚になり隠然とした力を示し、最近イン
テリにも迎えられたナシードとゆう宗教歌も復活し、ライハングループなどがビッグネームだ。
キリスト教
それに較べれば西欧キリスト教はイスラムの皮膚のにきびの感があるが、大航海時代に続き彼等
がこの地を殖民地化した結果、影響の大きかった香料諸島(マルク州他)はじめ権益都市(ジャ
カルタ、スラバヤ他)には西洋のリズムが残り、洋風音楽が主流になったポップス界ではアンボ
ン、バタック人などキリスト教圏のミュージシャンの勢力が強い。
インドネシアとりわけ都市には華人が多いから中国調が歌や、楽器にも影響をあたえた。
ウチン、サヌシなどがラグブタウイやガンバンクロモン(笛と太鼓)で独特の歌を聞かせた。
Nina Bobo,Bintang Surabaya, BungaMawar,SayangKene、Kopi Susu, JaliJali,KicirKicir
ポルトガル
私が最初に耳にしたこの国のナショナルソングといわれるクロンチョンは、クロンコロンと鳴る
小型ギターの細かい弾弦にのせてセンチメンタルに謡われるポルトガル棄民が齎したリズムだ
ったのだ。
ギターはスペインのカナリア諸島で生まれたとゆうが、イベリア半島の二国は15世紀頃からそ
れぞれ東と西周りでスパイスアイランドを目指した。インドネシアが最終目的地だったのだ。
そうして新大陸を発見し南米に殖民して4弦カバキーニョなどの小型ギターを残してそれがシ
ョーロ〈悲哀〉やサウザーレ(郷愁)、サンバとなってゆき、最後の地ハワイに達してマニュエ
ルルネスが伝えたコア材のウクレレになる。
一方ポルトガルのラスカル(兵士、船乗り)の5弦チェンブレは遥か喜望峰をかわして東インドネ
シアモルッカ諸島で夢に見たナツメグスパイスナッツを手に入れた。
1950 年頃にジャカルタでハワイアンが流行り、クロンチョンにもスチールギターやウクレレが
使われ、奇しくもこの両者の楽器が 400 年の歳月でジャカルタで再会した事になる。
インドネシア列島を手中にしたオランダは、1661 年この街に棲むポルトガル系、スラニ(キリ
スト教に改宗した奴隷)やマイダイケル人などをバタヴィア北東の寒村トウグに幽閉した。
この人達(Quiko 家)が伝えてきたチェンブレを模した楽器を使うリズムは、土地柄とは遊離し
た(洋風の)リズムで、二度と帰れない望郷、もとに戻れない苦悩をメランコリックに唄いこみ、
その主題は Rindu(憧憬)であり Sedi(悲哀)であった。まさにショーロでありサウザーレは外領人
や移住人が多く住むコタ(下町)で人気が出て、その後遂に一世を風靡するようになるとは誰が
予想しただろう。
ブエノスアイレスの港の娼婦街で謡われた猥雑なタンゴが世界のニューリズムの発端になった
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のと似ているし、今をときめくアメリカンポップも元を正せば差別されたアイルランド人の鉄道
敷設や鉱山労働者のティンパイプ(ブリキ笛)やフィドルに源があるらしい。
Kg.Stambur
クロンチョンはそれまでのこの地の音楽とは異なるバタ臭いリズムだった。
コタの小屋掛け芝居ヤップとマヒューのスタンブール劇団に呼び込まれて当初はスタンブール
と呼ばれたのも東西世界の架け橋イスタンブールをもじった名前か一抹の郷愁だったのかはわ
からないが、歌手もタンチェンボク、ワッシュ、フランス、フェルナンド、クイーコなど名前も
様々でムステーソ混血集団なのがわかる。
大衆歌謡が勃興して芸能で暮らせる時代が来てトウグ村楽師が結成した楽団が‘クロンチョンの
至宝 1661 モレスコ トウグ’
(Orkes Kroncong Pusaka 1661Moresco Toegoe)と名乗ったのも意
味ふかい。モリツコはクロンチョンの原曲だが、彼等は祖父の歌といい明らかにファドだ。
Kg.Moretsko Stb.Jampang,Stb.Pusaka,Krokodir,De Sterren, Sirih Kuning,Schoon ver van jau
オーセンティックスタンブールは短い 8 小節の即興詞を交互に繰り返す形式で、在来の詞形式の
パントン四行詞も多く流用されて歌唱にのり、シンプルだが味があり歌手によって雰囲気はがら
りと変るが、もう知る人は少ない。
わが国歌謡の初期も数え歌や鉄道唱歌など似た形式が多かった共通点も見出せよう。
歌謡曲初期には Miss Toe,Miss Ribut(姦し娘)などが機能の低いマイクに向かい金きり声を張
って歌う盤が僅かに残っている。
Mamungsa ati, Strykorkes de Nachregaal, Kg.Dardanella. Djula Djuli. JopieJopi
オランダ殖民地
オランダは商売だけに熱心で文化的な遺産は残さなかったが、かすかにそれと思われる輸入曲も
残っている。最古の流行歌といわれる Bunga Anggrek や Bulung Kakatua,Selamat Tinggal など
で、初期の流行歌のインドネシアトラデイッショナルソングといわれる曲の多くに蘭国の残影が
感じられる。ネテイ、アフマド・ザエラニ、スユデイなどが活躍しクロンチョンの基盤となる。
殖民時代が長かった香料諸島モルッカのアンボンの地唄も同じような西欧調で、それらは 1945
年独立後の新興国認知に用いられ一般化していった。
Ayo Mama,Nona Manis,Ole Sio,Sayang Kene,Hela Rotane,Panggayo,Nusa Niwe,Tanase
侵攻した日本軍は3年余この地を占領したが、当時ラジオ宣撫工作で流されたソロ川(Bengawan
Solo)は復員兵士が日本に持ち帰り大流行したものだ。 日本とインドネシアの友好にこれほど
寄与したものはなく、今もってインドネシアのイメージはこの曲に象徴されていると申しても過
言ではない。 Bengawan Solo, Terang Bulan
Ismail Marzuki
独立前後の騒然とした時期にこの国を代表する天才作曲家イスマイルマルズキが登場してクロ
ンチョンに新しい息吹を吹き込み、それは多民族国家の統一に偉大な貢献をし、初代大統領スカ
ルノはクロンチョンを国民音楽として奨励したからこの優雅な旋律は名歌手リバニイ、スジェク
テイ、リタザハラ、イスナルテイなどを得て全国津々浦々に響き渡った。
マルズキは神に与えられた役目が終わったかのように 1958 年早逝する。
Sepasang Mata Bola, Selendang Sutra,Saputangan dariBandung Selatan,Gugur Bunga,
Lagu Daerah 地方曲
32 小節洋風クロンチョン(Kg.Langgam)に刺激されたかのように、広い列島の各地にお国言葉
で歌われる楽曲が現れるのも時代の趨勢だった。 ジャワではクロンチョンを取り込んでジャワ
風のチャンプルサリが、マルクはいうに及ばずスマトラの雄族バタック、ミナンやスンダ、スラ
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ウエシをはじめどんなに小さい種族にもそれぞれの土地柄を反映した名曲があり、それは今も活
発に続いている。探せばまだまだ埋もれている地方佳曲は多いだろう。地方で名を為したエミリ
アコンテッサ、エルフィスカエシなどが中央で活躍する。
Anju Ahu, Lisoi,Madekdek Magambiri,Ketabo, Babendi Bendi,Bunga Parawitan,Pakarena
ラグラグ会で恥をかいたアンギンマミッリもこのジャンルにはいる地方曲だ。
1960 年代に全盛期を迎えたクロンチョンはスハルト独裁期と足並みを揃えたかのように、それ
まで庶民の膝元で奏でられたアンサンブルは巨大化し、傑出したライターも表れないままステー
ジ化が著しくなり、国策五原則パンチャシラ、国威掲揚愛国歌の色彩が濃くなるにつれ方向性を
失ってゆく。
Kg.Tanah Airku, Kg.Senja,Kg.Suburlah Tanahku,
Nostargia
マルズキには到底及ばないと自覚があったかなかったか、セリオサ、ノスタルギアと呼ぶ西洋ス
タイルのポップ歌謡曲がリントハラハップ、A.リアントがヒットを飛ばし、ブラムアチェ、グレ
ースシモン、ブルーリイ、ボブトトポリ、クスエンダン、ワルジーナなどヒットシンガーはクロ
ンチョンと掛け持ちで参入した。
これらの洋風曲は邦人の好みとも合致して、後述のラグラグ会の発展に大きな力になったようだ。
Gubahanku,Widuri,SepanjangJalanKenangan,LihatlahAirmata,SenandungRindu,Aku jatuh cinta
Dangdut
1970 年重苦しいスハルト独裁にそれまで鳴りを潜めてきたインド・ムラユ系の歌手ロマイラマ
が彗星のように登場しプロテストソングを突きつけて喝采を浴びる。
意識してか血のせいかアッラーの神も巧みに歌い込まれ大衆の喝采を浴び、瞬く間にクロンチョ
ンを放逐してゆく。ビートを利かしダンと打ってドットと応じる大音響で奏でるダンドウットは
概して稚拙で刹那的な詞で、底辺の下品な流行と眉を顰める階層もあったが、ここの人達の血が、
西洋ではなく近東インドだったと気ずくような猛烈さは、歌謡が誰のものでもない大衆のもので
あるのを証明した。30 年台のジュピジュリ 60 年台に流行ったムラユのクアグンガントハン(偉
大なる神)やヒドウップブイ(泡の人生)などもリバイバルし色を添える。
Sakit Gigi,Tidak Semua LakiLaki,KeagunganTuhan,Pasrah,Memory cinta,Izinkanlah
“クロンチョン:バタヴィアに咲いた仇だ花
ダンドウット:ジャカルタムラユの狂い咲き“
こうして二十世紀も終わりに近ずくと、この国もバブル絶頂期で所得が向上すると同時に貧富、
地方格差は増大してゆく。歌好きな国民性もあって安価なキイボード楽団が林立し、まがい物ロ
ック、レゲエ、ボサノバ、ソウルなどなんでもありのバンドやシンガーが日替わりのように現れ
ては消えてゆき、歌手は若年化し短命化した。テレビの普及は声ではなく見せる音楽の様相にな
ってしまったようだ。
がさつで刹那的な世相はポチョポチョダンス、ゴヤンイヌル(尻ふりイヌル)が人気になってし
まった。
21 世紀の音の洪水は、ルスサハナヤ、イッケヌルジャナ、デイヤクトウット、ハリムクテイ、
ヘリナエフェンデイ、イエットブスタミ、アングン、エリック、アダバンドなどなどそれぞれの
ジャンルで巧みな歌唱を披露するが、多すぎてもう追えない。
インドネシア大衆音楽の特徴
アジア諸国にも固有の佳曲は多いだろうが、外国人グループが週一回集まって異国の歌を歌うラ
グラグ会のようなクラブは聞いたことがない。それが 30 年も続き 700 余名の会員数なのは、明
らかにインドネシアポップが我々の耳にも親しみ易かったからではないか。
音楽フィールドが豊穣でなければ外国人にこれほどの興味を与えることは出来ないだろう。
その意味ではクロンチョンとマルズキの影響力は大きいといわざるを得ない。
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インドネシア人が無類の歌好きなのも影響していよう。
大統領が日本皇太子の為に日本の曲に作詞して歌ったり(スカルノ)
、総選挙で有力政党党首が
ダンドウットを演説に代えて歌ったり(アミンライス)、スラバヤ市長が作曲した曲がビッグヒ
ットしたりするお国柄だ。
ここの人たちは音に鈍感じゃあないのかと訝るほど、街中は音に満ちている。
アネカムジク(音いろいろあり)CD 店はいつも客でいっぱいだし、物乞いも手にはカスタネッ
トや手製ギターを抱えている。若者達が集まって歌えば自然とハモっているのは、先生と生徒が
いる日本の合唱や斉唱とはおおきな違いがあった。
言葉
それにその言葉だ。
インドネシア語は広義のマレー語で、この言語はマイナーだが使用人口は世界第三位とゆう。
多民族多言語海域の交易語として普及して、独立後の国語として急速に発展した。
スカルノが独立のリーダーだが、彼のマレー語の緩急を得た名演説が独立達成に資したほどこの
言葉は聞く人の耳に心地いい。村の結婚式の祝辞も彼等の方が日本のそれとは圧倒的に上手だ。
話し言葉にも抑揚が感じられ、微妙な韻を踏んで余韻があるからこの言葉で歌われる歌が悪かろ
うはずはない。
マレー語(インドネシア語)の上をゆくのが各地方で通常使われる地方語で住民の日常語だ。
これは系統は同じでも方言とゆうよりも独自の言葉で、これがすごい。
地方の短い地唄でも歌詞が初めから終わりまで脚韻を踏んで流れ、聴く人をうっとりさせる。
残念ながら日本語にはない大きな特徴といえよう。
国語インドネシア語は同じ共和国の住民といっても、彼等は殆んどバイリンガル民族で、ふたつ
以上の言葉を自由に操るが、地方語に影響された訛りは顕著に表れ常用単語にも違いがある。
マレー語は西スマトラミナンカバウ族のマラッカ海峡交易から広まったといわれるからミナン
語とインドネシア語は基本的には同じはずだが、発音は違う。吃音や無声音は標準より強く、私
達にはむずかしい R,L も e と u の違いも語尾のh,K,T もしっかり発音している。
。
スンダ人の訛りも強く固有のスンダ語風でインドネシア語を喋っている。
標準インドネシア語とゆう最大種族ジャワ人の発音は心なしか e に癖が感じられ、これはバリに
行くと一層強いが、同じ e でも東に行くほどイーと発音するし語尾音のh、K,T も発音しないか
らアンボン曲は日本人には似合っているだろう。
インドネシア語は移入外来語で出来上がっているのではと思うほどで、思想宗教日常語はアラビ
ア語からなのはイスラム教伝播からだろうし、本来なかったであろう喉頭音もその影響かもしれ
ない。法律機械はオランダ語から、今は英語の流用が顕著だ。
それが便利ならすぐ導入してしまう。ツナミ、ロームシャ、バッキャロなども通用する。
ミニバスの別称コルトは三菱コルトからだし、プレマン遊び人ヤクザは Playman が訛ったものだ。
この言葉は略称が非常に多く頭文字をとったのがシンカッタンといい KTP は身分証明書、DKI は
主都、アクロニンは合成語で Abri 国軍、Jabotabek は首都圏などで、頻繁に新語が登場し、知
らねば暮らせないが幸い歌には余りでてこない。
首都の若者の言葉は乱れていて聞いてもわからない。彼等だけに通じるのは日本とて同じだ。
惜しむらくは、概していえることだが、詞が直接的で深い表現力に乏しいようだ。
心の陰影とか、情景と心を交差させるとか、心根を喩えるとかの繊細な詞心に不満を感じる。
作曲者の教養によるのか、言葉自体の語彙が少ないのか、季節がないからか、民族性かはわから
ないが、唯一イスマイルマルズキの詞は抜きん出ている。
不朽の名曲 Sepasang mata bola(円らな瞳)は戦場に赴く少年兵と停車場の乙女の一瞬の邂逅
を捉えているが、このような曲はこの国では稀有といえよう。
禁畏から酒の歌、酒場歌がないのは当然だが(バタック族にはある)
、不倫の恋歌がないのも宗
6
教の影響だろう。恋歌失恋歌は当然だが、それに較べ故郷賛歌や母を偲ぶ歌が圧倒的に多い。
なんの取り決めもないかのように、新旧楽器を平然とコラブレートするのも魅力だ。
クロンチョン全盛時代にも本来の編成から竹笛をフルートに、ハモンドオルガンやアコーデイオ
ンを加えるのに躊躇しなかったし、スンダのスレンドロ音階でニューポップをリリースするパフ
ォーマーも現れるし、エレキギターとブドウク、クンダン(太鼓)スウリン(竹笛)を使ったの
がロマイラマダンドウットだった。これからもなにが出てくるか予想出来ない多様さを秘める。
確かに今の街はアメリカンポップ系の洪水だが、重層する歴史と伝統はおいそれとは失われない。
ライターも無意識にでもそれを背負っているから、新曲の中にそぞろ種族の持つリズムを合体さ
せた曲も聞かれて魅力は倍加する。
ラグラグ会
外資法が制定された 70 年台に多くの上場企業が現地法人を設立して駐在員が増えた頃、国広大
使の肝いりで 77 年インドネシアの歌を習う男性プライベートクラブとして発足したそうで、私
がテキストの半分は知っていると大見栄を切ったのは、ほかでもないクロンチョンビートと銘う
った 10 枚ほどの LP レコードを持っていたからに過ぎない。
このシリーズはクロンチョン全盛期の 1964 年に Pringadie 准将が私財を投げ打ってトップシン
ガーを糾合してプロモートした保存盤で、その後すべての盤 20 枚を入手したのは 2004 年のこと
だった。古い曲、各地方有名曲を網羅したクロンチョンを語る時必須の名盤だった。
会員番号 300 番台は街が開発ブームに沸いて年6%の成長期だったし、個性ある会員が多い中興
時代だった。水曜日夜の練習だけでなく歌を求めた行脚はひと言で賛同を得た。
ジャカルタ在籍中には、多くの地方曲を発掘したフォークソング重鎮のゴードントビン夫妻と親
交し、トウグ楽団との共演に参加し、ついでにカナンガの大木を切り倒し 30 竿のクロンチョン
を復元したりした。下手でもいい一曲をインドネシア語で唄おうと、努力に見合う卒業証書
Izazah を発給したのもこの時代だった。
良き友を得て 1992 年テキスト 22 版は、楽譜も読めないのに多くの曲の和訳詞を担当し 100 曲を
越す曲を収録し、テキストはその後 15 年にわたり使用された。
世代
歌唱には世代が大きく影響するようだ。
時代ごとに、時代を反映して好まれる曲も変ってくる。
日本人の海外関与は間歇的で、時代により大きく異なった。
明治維新までは鎖国で外国は無きに等しく、最初の海外渡航はからゆきさんの後は兵隊だろう。
インドネシアへの渡航も同じで、集団では太平洋戦争だった。
この世代の任地への思い入れが殊の外強いのは、若かった事や命を賭けていたことにもよろう。
軍務の合間に現地事情に深い関心を持った兵士も多いし、戦友会の活動も強固だったが半世紀以
上たち、その数も大きく減るのは致し方なく歴史の中に沈んでゆく。
彼等の音楽教育は特別な例を除き貧困だったから、好きでも口ずさむ程度だったろうが心に刻ま
れた思いは強く、当時の強烈な経験から一生一曲を持って生きていった人は多かった。
Bengawan Solo, Terang Bulan, Bunga Sakura、Saputangan、ジャワのマンゴ売り、空の神兵
第一世代
やや間隔があって(30 年)次が外資解放での企業進出で、ラグラグ会もこの世代から始まった。
現地にはまだ日本占領記憶が残っていて、日本人には別格の親日感情がありトアンと呼ばれた。
いわゆる団塊の世代前期で、おぼろげながら戦争の記憶があるかないかの世代で、彼等の音楽指
向は日本叙情歌やフォークソングだったから、ロマンチックでセンチメンタルなクロンチョンの
情緒に一致したとも思われ、まだ古きよき南国の情緒がゆったり流れる風土があった。
現在の活動の中核をなしているようで 20 年ほど続く。
7
Indonesia pusaka,Layuan Pulau Kelapa,Kg.Bandar Jakarta, Saputangan,Jumbatan Merah
第二世代
バブル経済の破綻、スハルト独裁崩壊と政経両面で時代は大きく変りはじめた二十世紀の最終。
駐在社員も家族から単身赴任が多くなり首都に集中し任期も短く交代する。 街はジャボタベク
と呼ばれる首都圏に拡大して生活様式も日本と大差なく、物売りの声、鶏の鳴き声はエンジンや
警笛の騒音に変り、高速道路が走り渋滞は日常的になり、いちど帰宅してからラグラグ会にとい
った余裕はなくなった。外国人居住者も増えて、市民も外資慣れとゆうか日本人を特別な眼で見
ることもなくトアンはバパ、普通の外人のひとりになった。
当初外人は別格で大衆と交流する事はあまりなかったから、インドネシアの音楽と申しても学習
するのは特殊なケースだから、駐在員がそれに興味を持てば、歌うのも情報もラグラグ会の存在
はおおきかったが、首都にカラオケ店が林立するようになると、流行歌をそこで仕入れて上手に
歌う人も増えてきた。
この世代の学校音楽教育は高度になって殆んどの人は楽譜を理解し、ひとつくらいなら楽器も演
奏出来る。メデイアの発達で常時膨大な音楽ソースに囲まれて成長したから音楽素養は前世代と
は雲泥の差だ。インドネシアも同様で、新しいリズムが外国から押し寄せ安価なキイボード、VCD
テレビなどマーケットは格段に発展している。世代格差は大きい。
ビートの効いたハイテンポな曲が氾濫し、詞も饒舌と思うほど会話的になってゆく。クロンチョ
ンなど昔の曲は刺激がなくナツメロに転落したが、逆にヒットソングもシンガーも消耗品で、曲
の寿命も短く移ってゆく。メデイアの影響で地方の特徴は薄くなり首都一点集中に変った。
インドネシア芸能といえば古典ガムランで外国ではそれしかない程有名である。
近隣諸国にこれと並ぶ芸能はないからインドネシアは幸せともいえよう。
近年邦人特に女性も単身で海外旅行を愉しむ時代になると、バリに人気が集まり、インドネシア
のバリではなくその逆の現象が生じているようだ。バリガムランを学ぶ女性も多く、帰国して多
くの教室がありステージにも立つが、伝統文化、言葉、骨格すら異なるようで、異邦人がマスタ
ーするのは至難だろうが、興味と努力は誰のものでもない自身のものであろう。
この他では竹楽器アンクルンで、教材に使う学校もあると聞くが、本来の竹楽器は造った人だけ
の音階で、その人にしか使えないとゆう。スンダスウリン(竹笛)は何処にもない音階で進む。
エスニックが流行り始めると、アジアンミュージックに共鳴する若者が増え、それに乗ったのが
ダンドウットで、この異質なリズムに惹かれる層が現れたが、あの調子は外人特に日本人には歌
えないだろう。しかしインドネシアンポップは日本ではまったく知られていない。
ラグラグ会の会員は 2006 年で 750 人を越えた。
ジャカルタ邦人の女性コーラス、男性コールなどが活動しているが、音楽素養がないラグラグ会
のようなグループはない。それが 30 年も続くのは珍しい。
ラグラグ会員の殆んどが上場企業社員、日本人学校教師で、滞在3年前後で帰任する。会社によ
っては申し送り事項に入会も含まれていたそうだ。
過去の例をみると、その約一割が継続的に興味を持ち、またその一割が熱心に行動するようだ。
年一回開かれる東京大会もこのパーセントで参会者 70-80 名、10 名前後が吾を忘れて熱心だ。
好まれる曲は日本の叙情歌風な洋風の歌で、異質なムラユ系に反応が鈍いのは育った音楽環境の
せいだろう。やはり私たちにはイスラムのアザンに代表される近東のリズムには違和感があろう。
ラグラグ会ベストヒット:Gubahanku,Sepanjang Jalan Kenangan,Jangan ditanya, Kg.Bandar
Jakarta,Dibawah sinar bulan purnama, Widuri,Aryati,Takana jo kampuan,
歌は世につれて移ってゆく。世代と年齢により選ぶ曲も好む歌も同じではない。
半世紀に喃々とするラグラグ会も、第一世代と第二世代では環境も嗜好も違うだろう。
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インドネシア自身の激変もあり、独立も既に遠い過去の歴史に埋没しようとしている。
第一世代が涙したクロンチョンも第二世代にとっては間延びしたナツメロでしかないか。
さて元に戻ろう
確かに鼻歌でも歌詞を辞書を片手に訳したり、唄っていれば語学の上達は早かった。
しかし自分流に唄うだけで、楽譜に添って唄えない決定的な欠陥がついて回った。
市販テープから採譜されたテキストの楽譜は、違うテープで暗記した歌唱とは違っていた。
最初のショックがアンギンマミッリで、私のそれはその名のようなゆったりとしたバラードだっ
たが、譜面は軽快なルンバなのはどこでどう変ってしまったのだろう。
リーダーに注意されても、教えられても、基礎がないから 4 分休符といわれてもわからない。
そして一度覚えた歌の調子は容易には変らない。
しかし歌とはたしかに不思議な感性で、絶対音感は生まれ落ちて備わった資質だともゆうし、譜
面を読めない名歌手(バヴァロッテイ?美空ひばり?)は多いと聞くし、喋れない外国語でネー
テイーヴより巧みな発音で歌う歌手も多い。
しかし複数(伴奏も含め)で歌うには楽譜に基ずき、その約束で進行しなければ進まない。
最初のアンギンマミッリも正にそれで、楽譜と暗記のリズムはキイも違っていたぶっつけだった
からだ。中には歌手の癖を巧みに吸収して合わせながら伴奏する人もいるとゆうが特別だろう。
ひとり鼻歌で愉しむほかは基本的な音楽素養は欠かせない。 少しでも音楽教化がある人なら呆
れるような初歩的でまことにプリミテイヴな事で恥かしいが、無教育なら致し方ない。
しかし歌は唄えるのだから音楽とは奇妙な楽しみである。
音痴
音痴と呼ばれる人には二種類ある。
音程が狂う人とリズムがとれない人だ。キイ(音階)が狂う人も入るかもしれない。
音程が狂う人は重症のようで、本人は正しいと思っているから始末が悪く矯正は大変だ。
リズムをとれない人は自分だけいい気持ちで唄っていて人に迷惑をかける。
私の場合は楽譜通りのリズムに乗れないのだ。
まず出だしの合わない曲があり、休止符を無視し、感情が篭り過ぎるのか伸ばし過ぎたりする。
カラオケで誤魔化せるのは装置には感情がないからで、歌い手に関係なくどんどん進行するから、
気がついたら修正出来るがピアノではそうはゆかない。
プロシンガーはリズムを(故意も含めて)外しても、小節の終わりにはキチッと合わせてくるの
が素人とは異なるようだ。それが固有の味なのかどうかはまだわからないが。
そんな音痴が伴奏に合わせてまともに唄うにはどうすればいいのか。
楽譜を見ても解らないのだから、テープを聴くよりしょうがない。徹底的に頭に叩き込む。
採用される楽譜とプロ歌唱(テープなど)と同じなのを確かめたら、その演奏を再生しながら
自分の歌唱を別の機器(ヴォイスレコーダーなど)で録音してみると、ズレがはっきり解るから
奥の手として有効だ。
歌詞
歌詞も初めは解らないから門前の小僧習わぬ経を読むの伝で、暗記するしかない。
発音もこの時点で歌手の真似をすればいい。真似るのが大切で理屈ではなさそうだ。
歌手にも同じインドネシア語でも訛りがあり、Di はディだがスンダ人(名歌手が多い)はジと発
音する。
すべての歌詞の意味を知ればいいのは当然だから、出来ないながらも辞書を引いてみよう。
大意が判らないと歌への感情移入も出来ないからこれも大切な学習になろう。
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いつでもソラで唄えるようにしておくのが最も大切なのは、歌詞を紙に書いていてはいつまでも
自信が湧かず声も出ないからこれは必須だ。声が小さければそれだけで落第だと思う。
大きい声を小さく出すのと初めから小声とでは全く違う。
そうして楽譜との違い(あれば)を把握する。テープのキイが高くて唄えない曲もあろうから、
調を変えるのも学習になろう。
リズムは大切で、それで進行するからメトロノームとは言わないが、拍子を取りながら唄うのも
いい勉強になる。
こうみてくると、歌唱で大切なのは口ではなく耳なのが解る。
外国語会話でも話すより先に聴く力が大切で、ヒァリングレッスンの無かった日本式教育が遅れ
をとった理由だ。耳のいい人は会話も早く覚えるようだし、歌も同じだと考える。
言葉
外国語会話力は右肩上がりの斜線ではなく階段状で、停滞の後一気にレヴェルアップするようだ。
停滞していても、その時はヴォキャブラリイを蓄積しているのだろう。
環境も大切で、母国語を使えない状況にするのがいい。
会議で覚えたての現地語を使ったのはスタッフの大半が英語も理解出来なかったからだが、その
時はみんな解ったと言ってくれ「大学のフランス語は可だったのに、俺も満更じゃあないナ」。
年が経ち同じミーテイングで同じ意向を伝えると、今度は「解らないから言い方を変えて」とき
た。最初は外人だからのエクスキューズがあったからで、実際は何も通じていなかったのだ。
少なくても仲間意識が芽生えれば、僅かな発音の違いでも聞き返されるのを知った。
Jalan は道、経過、方法だが Jarang は稀に,まばらとゆう意味だし Jalang は不品行だからやや
こしい。歌っていてもクスッと笑われる時があるのは発音が奇妙に聴こえるからだろう。
耳がよければ、発音の違いや音階の僅かな差も把握できるしその真似も出来よう。
だが耳は天性のもので、その差は訓練ではなかなか埋まらないとも聞いたが。
声質
声の質は生まれながらだそうだ。
歯並びも影響し歌手は歯列を大切にしているとゆうから入れ歯になったら終わりかもしれない。
スマトラバタック人の声量と美声はあの顎の張った四角い骨格が資しているのか。
自分の声は自分で聞けないのは、口から出る声と耳朶を通して聞こえる声とは違うからだ。
発声練習も当然必要だろう。訓練すればオクターブの声は出るらしいし音程も矯正出来よう。
好み
好きな歌、歌いたい曲と、歌える曲とは違う。
いわゆる難曲はあり日本人には異質な中東系リズムや発音からスンダ語、ジャワなどは難しい。
歴史がある土地の方言はむずかしい発音なのが多いように感じる。
その調子と発音はそこで生まれ育った人だけのもので、到底真似すら出来ないから。
和音
歌と隣り合って暮らすと、驚いたことには違った能力も開花するような体験があった。
それは和音だ。ハモれるのは特殊技術だと思っていたのだが、2部を教えて貰わなくても一緒に
歌っていていつの間にか和音をとっている自分に気がつくのだ。
和音の基本は 4 度の差だとゆうが、譜面が解らないのだからそんな事を言われても解るはずはな
い。ハモり易い曲とゆうのが確かにあるようで、そんな曲なら二度と同じにはゆかないが耳に心
地よい和音が聴こえる時がある。
この感覚がインドネシアの人達の即興ハーモニイなのだろう。
Nacage
こうして音痴の音楽行脚は続いて、集めた音源は千本を越えた。
インドネシアの大衆音楽の傾向やジャンルも朧げながらわかってきて、多くのソースから年に数
回、好みの一曲に出逢った時の感激が愉しい。
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何処の国の曲でも名曲は心に沁みる。私はどうも軽快曲、愉快曲より哀しみや哀愁のある小品が
好きだ。
古い世代だからといわれても困るが、古くから歌い継がれてきた庭の千草(The last rose of
summer)や Amazing Grace,琉球民謡も棄て難く小品が好きだ。リンドウとスディがあればいい。
もちろんこの国にもこのような小品は多く情緒があり、それらは昔の地方曲に多い。
Esa Mokan,Anju Ahu, Ale Inang,Pitun Take,Malam Hari, Ole Sio, Minasa Riborita ETC
今年出遭った最高の感激がヌサテンガラ州フローレス島のナチャゲとゆう一風変った曲だった。
何回聴いてもむずかしい曲で、おおまかなジャンル分類も出来ず、外国の影響もなく、それまで
聴いたどこの地方曲とも違っていた。
作曲家は育った土地や師事した人、身を置いた環境で作風は自ずと定まると思うから、この曲も
東インドネシアの特徴の範囲での曲風だと考えるが、それすら曖昧、むしろ似ていないのだった。
ニューポップでもクロンチョンでも勿論ダンドウットでも、郷土フローレス島固有の曲ですらな
くモダーンで、わけがわからなかった。
曲に魅力がなければ?で終わるのだろうが、聞き捨てならない魅力に溢れていた。
サックスのイントロで始まるのも異質だった。普通ここではブラス楽器は非常に稀なのだ。
それまでの地方ポップはギターとヴァイオリンに笛などが多く最近キイボードが参入したがブ
ラスはない。辺境ともいえるフローレスではなおさらだ。
高音でヴォーカルがでて音域はとても広くアルトで綺麗に歌う。
曲の構成も変っていて長い休止を含んで転調もあいまいに後半になだれ込みさっぱりと終わる。
秀逸な技巧のサックスの間奏があり2コーラス歌われていてドラムもモダンなリズムを刻む。
この曲はフローレス島西のマンガライ語で作られていて意味はまったく解らなかった。
その後 Nacage とは My sweet heart(愛しい人)で、それを知って歌っても気持ちは乗らない。
そして詞の大意がインドネシア語で送られてきて、曲はラヴソングではなくエレジーなのを知っ
てからなんとか曲想を理解することが出来た。
Nacage (Kekasihku)
Tung naca ge
Tung ta naige
Toe holes kole
Toe poe ngoeng Belot naige
Yo nacage
Eie i somba Somba ta
Somba landing Momang naca ge
Ide de aram hitu wada Naige
Wada kukut lata nawag ta
Ide de naige Com mole
Bombang beli naca ge
インドネシア語大意
Aku merindukan kekasihku
Aku sangat merindukannya
Kerinduanku ini tak tertahankan lagi
Kekasihku Oh Kekasihku Aku menyembahmu
Karna aku sangat menintaimu
Tapi sayang mungkin sudah takdir
Hatiku sudah di ikat orang lain
いとしい人、狂おしいほどの恋心で耐え切れない。しかし私には定めがあり添い遂げられない、
Takdir 定めとは親の決めた許婚者か宗教上の逃れられない掟とゆうことができよう。
異質のメロデイの曲想がわかり、従来の曲とはまったく異なるこの曲の魅力は倍増した。
インドネシアの歌に魅せられて長い時間が過ぎた。多くの歌を聴き、歌の背景なども勉強して、
最初に覚えたあのアンギンマミッリからこのナチャゲでひとつの区切りのような気がした。
ソロ練習会
東京ラグラグ会のメンバーが、それまで合唱(斉唱)に限って練習していたのを、新しい伴奏者を
得たと独唱練習日を作り、誘われて参加した。
今まで歌詞を覚えるのに紙を見る事はあったが、解らない楽譜を見るのは億劫で、なまじか
歌えるようになればあとはカンでよしとしていた。
やはり歌えても伴奏と合わないが、合わない処を記憶して2回目はなんとか終わらせることは出
来たが、ナチャゲはそうはゆかなかった。
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曲調も従来の曲とは違うし長い全音休止符が二箇所もあるからだ。小節の終わりが少し乱れても、
出だしが僅かでも外れれば歌唱としては台無しになる。
先生が4分音符の拍子をとって歌うよう指導された。
24 小節に 96 の拍子があるわけで、それを飽く事なく練習した。
音域が広く、出だしの音にあわせると、あとの低音が篭って出ないので調を二度あげた。
最後の手段で、CD 演奏を聴きながら唄い、それを録音して歌手との遅速をチェックした。
何ヶ月かナチャゲに明けてナチャゲで暮れたが満足は得られず、益々おかしくなってゆく。
東京ラグラグ会は年一回の大パーテイを開くのが恒例になっている。
今まではいつも練習もせず飛び入り指名で慌てて舞台にあがるが、その時はアルコールも入って
いるから伴奏もなにもない。北スマトラの曲でフリーテンポでとゆう Sing Sing So なら自分勝
手に唄うとゆうよりも吠えて、
ハイテンポの曲なら誤魔化せる Sayang Kene などがオハコだった。
今年はソロ世話人の指名でまともに歌う事になってしまい、曲もナチャゲとゆう。
困った。自信が無いからだ。もう少し西欧調の親しみ易い曲もあるからそっちを選びたいと申し
出たが。先生は私の為に特別に伴奏符を作ってくださったからもうあとには引けない。
プログラムに生まれて初めて名前が載った。
がんばればがんばるほどリズムが狂うのは、多分サイクリングしながら唄うのでペダリングの速
さになるのだろうか。一生懸命教えて下さる先生に失礼だから片耳で音を拾うと情感が消えて棒
歌唱になる。練習が終わると今まで感じた事のない疲労感があり、まったく最後まで御迷惑をか
け、最後に行き付いたのが自分流のバラードで流すことで、たぶん先生も匙を投げたのだろう。
大会当日、百名強の参会者、幸いだったのはそれまでの練習伴奏がキイボードだったのが備え付
けのピアノに代わってとても唄い易いのを体感した。マイクもあった。
私としたことが、旧知にお逢いしてもグラスに手を出さなかったのは酒と歌唱は両立しないから。
こうゆう舞台には糞度胸があるから動じず‘俺流’で唄おう。曲の情景を頭に想い浮かべて。
ワンフレーズ終わる頃、彼等とて方言詞は判らないのに、最前列のインドネシアン客からまず拍
手が湧きこれが自信になった。あとは唄い切るだけだ。
大過なく拍手の中を退場し、ソロ会の責任は果たせただろうか。先生はさぞお疲れだっただろう。
良き友と歌に恵まれ豊穣のインドネシアを過ごせたことを感謝しながら、アンギンマミリから三
十年が経ち、私のラグラグインドネシアはナチャゲで一区切りの想いがあった。
もう譜面は諦めたが、これからも佳曲を探す旅は続け、その想いを拙文に載せる無礼をお許しい
ただきたい。
Sept.2007
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