ダウンロードはこちらから(PDFファイル

北海道
瞳を上げて
北海高等学校
3 年 松本
瑞季
空の青く澄み渡る、初夏の電車内でのことでした。その日の満員電車の人ごみの奥には、ある一人の女性が壁に背
を預けて立っていました。乗客は自由気まま、それぞれの時間を過ごします。ですがその日は、いつもののどかな車
内に誰かが苦しむ呼吸の音が響いたのです。
音のする方へ目を凝らすとそこには、眉間にしわを寄せ、苦しそうにおなかをさすり続ける女性の姿がありました。
私は彼女の大きくなったお腹をみて、やっと気が付いたのです。彼女は妊娠後期の妊婦なのだと。ですが彼女を囲ん
でいたのは、視線を下に向けはじめ、見て見ぬふりをする人々。スマートフォンに夢中になっている大学生や高校生。
優先席で携帯電話を見つめるサラリーマンだったのです。
私は今でも忘れることができません。
誰にも手を差し伸べられず、一人苦しんだ彼女の姿を。そして、苦しむ人が目の前にいたとしても、暗い空気を纏っ
てうつむき続けた、人々の姿を。
戦争などの人災や自然災害で危機に直面すると、そこには自分の利益を二の次にした相互扶助の社会が生まれると
いわれています。
夢のように現れ儚く消えてしまうその理想的社会は災害ユートピアと呼ばれています。
今から3年前、あの震災直後にも災害ユートピアは現れました。人々は多くの死を目の当たりにして、互いのつな
がりや人生の意味を共通して見いだし、見知らぬ他者をも助けるという行動に結びつけたのです。本来私たちは助け
合う力というものを持っているはずなのに、なぜ普通の生活の中で助け合うことができないのでしょう。東日本大震
災による災害ユートピアは失われ、私たちは今、変わるべき分岐点に立っているのです。
かつて人間は出産や医療といった生きる上で最低限必要なことを、家族や地域で相互ケアを行ってきました。とこ
ろが、社会が近代化してゆく中で、生命の基本といえる大切な営みをソーシャルサービスとして行政に委ねるように
なったのです。それと同時に、さらなる便利さや豊かさ、一時的な快楽を求め、暮らしを維持する労力までも外部化
してゆきました。その結果、相互ケアする能力と仕組みは失われ、私達の主体性、社会のつながりまでも消えてしま
ったのです。そしていつの間にか、私たちは手の差し伸べ方さえも忘れてしまったのです。
しかし、現在の私たちがかつての形での助け合いを取り戻すのは難しいと考えます。私はある一人の女性を知って
そう気づかされました。
『困ってる人』の作者、大野更紗さんは難病を抱えています。人の厚意、親切を受け取ることは当たり前と考えて
いた彼女は友人たちに頼りましたが、みな疲弊し遠ざかっていってしまったのです。私を助けられるのは私しかいな
いのだと知った彼女は「人が最終的に頼れるもの。それは社会の家族や友人といった“人”ではなく、社会の公的制
度。社会保障の充実しかない」と結論付けたのです。
公共的なシステムに頼りすぎ、主体性を失ってしまった現在の私達。だからこそ、また新たな「社会」や「制度」
が必要なのです。それは、生活保障や社会的承認が得られやすい、弱者にとっても生きやすい社会。また、彼らが一
員として社会貢献に参加してもらえる環境。そして、多様な社会の構成員を、寛容に受け止め包摂する、新しいコミ
ュニティづくり。
そうした、人々の公民性を高める社会づくりが必要なのです。助け合いを促進する社会制度が基盤にあるからこそ、
助け合うことは当たり前となり、長く続いてゆくのではないでしょうか。そして、その地域環境で行動をおこし、豊
かなものに育ててゆくのが私達です。1人1人がその社会で主体的に生きることによって、かつてとはまた違った、
新しい形の助け合いがみられる日がくると私は強く信じています。
本来の私たちの姿は、携帯電話に夢中になり、目をふせた姿ではないはずです。何も持たない“人”の原点に戻っ
た災害ユートピアにあった、互いに助け合う、彼らの瞳の上がった姿こそが、本来の人間の姿、人間らしい姿なのだ
と私は思うのです。電車の中で一人苦しんだあの彼女の子供は、多くの助けの中で生きてゆけるように。
私は身を以て助け合いの大切さを伝えられるよう、生きてゆきます。
瞳を上げて。
-1-
北海道
いつまでも人間らしく
北海道札幌月寒高等学校 2年 永井 佑佳
先日、私は小学校時代の友人4人と久しぶりに会いました。数年ぶりの再会に緊張しながらも、とても楽しみにしていた私。で
も、そのうちの2人は LINE を使って、私の知らない誰かと通信していたのです。人と話しているわけでもないのに、にんまりと笑
いながら1人で画面に向かう彼女たち。人の目なんて気にしない。彼女たちはこの場に居ながら、心は別の空間に居た。
スマートフォンは、今や私たちの生活の一部。私の学校でも移動中はもちろんのこと、授業中までも手放すことができない人が
います。そのため、万一没収されると一日中先生の後を背後霊のようについて回ります。
今、私たちはテクノロジーの発達に流され、無意識のうちにより簡単にチープに人とのつながりを手に入れようとしています。
本来、目を見て、面と向かい話すことで得られる信頼関係。これを、努力せず、自分の都合のいいように手に入れようとすること
で、結局、私たちが手に入れられるものは、チープなものにすぎないのではないでしょうか?どんなものも、それが人間関係であ
っても、安く手に入れたものはすぐに壊れてしまうのです。
私の祖父母は、海と畑に囲まれた一軒家に住んでいます。なんと、家の中には冷蔵庫が2つ。ある部屋にはティッシュや食べ物
がたくさん。近くにスーパーなどがないため、必要な日用品などを買いためておくのです。夏休みに能登半島の端に住むその祖父
母の家へ遊びに行くのは、いつも楽しみでしたが、普段の生活をおくるには、不自由で大変だなぁと感じていました。
しかし、私が携帯で札幌の友人にメールをしていたとき、祖母がこんな話をしてくれたことがあります。
「あのきゃあ、ここではなぁ、みんな仲良いさかい、みんな顔見て話すんだわぁ。だからなぁ携帯はあんまし使わんし、充電な
んきゃあ全然せんよ!人とはちゃんと顔見て話さんとなぁ。それが、ばあちゃんの楽しみやさかい。」
私の祖母や田舎に住むご老人にとって人と話すことは生き甲斐でした。生き甲斐。つまり、コミュニケーションは人々に人生の
喜びを与えるという大きな役割をになっていたのです!
こんな話をしっていますか?600年前、ローマ皇帝がある実験を行いました。まず、国中から生まれたばかりの赤ちゃんを数
十名集め、母親から離し施設に隔離させます。そして、その赤ちゃん達を乳母に育てさせました。その際、赤ちゃんを育てるうえ
である条件を付けました。「赤ちゃんに話しかけてはいけない。」「泣いてもあやしてはいけない。」「笑いかけてはいけない。」
「赤ちゃんの動作に反応してはいけない。」オムツを替え、ミルクもしっかりと与えましたが、かわいがることは決してしません
でした。この実験は人類が最初に発した言葉を知るという目的で行われたもの。しかし、実験は失敗に終わりました。なぜなら、
どの赤ちゃんも 1 歳になる前に、言葉を発する前に死んでしまったからです。
赤ちゃん達にとってコミュニケーションは有一の社会とのつながりであり、生き死にを左右するほど大切なものだったのです。
人々が人間らしい豊かな感情を持ち、同じ心の温度で時間を共有することに価値があります。それにうなづけるように、現在で
もテレビが家族の時間を奪っているため、家庭のコミュニケーションを守るためにテレビを置かない家があるそうです。今のスマ
ホはテレビの比ではありません。
人はずっと便利さを求め続け、これからも求め続けていきます。しかし、私たちは便利になった分だけ日々、大切なものを失っ
ています。
皆さん、どんなにコンピュータに囲まれようとも、どんなに便利になろうとも、いつまでも、いつまでも人間らしくひざとひざ
をつき合わせて語り合うことを大切にしていきませんか?
-2-
北海道
カタコトの約束
北海道旭川東高等学校
3年
南
愛
十歳の時、南米チリに向かう飛行機の中で、母は初めて重い口を開きました。
「これから、あなたのチリ人のお父さんに会いに行くのよ。」
「私にもお父さんがいるの!?」
母国チリで船の設計に携わっていた父は、造船の技術を漁業大国日本で生かそうと二十年前に来日しました。しか
し、その高い技術を生かすことなく、父は帰国せざるを得なかったのです。
「一位を目指す理由はなんでしょうか。二位じゃだめなんですか。」ある政治家の一言に代表されるほど、日本は
国際社会において常に一番を目指してきました。しかし一方で、私たちが発する「ガイジン」という言葉には未だ差
別と偏見が残っているように感じます。
母は、父のことをひたすら周囲に隠そうとしていました。強くあろうと一人で奮闘し、仕事から帰ってきては疲れ
を隠して家事をこなす。そんな母を見て、父という存在は私のコンプレックスになっていきました。
父が日本を去った最大の理由は「言葉の壁」でした。父は一年ほど日本に滞在し、一生懸命日本語を学んだそうで
す。しかし、必要最低限の日本語を習得しても、自分の専門分野の仕事をするには不十分でした。
「言葉が伝わらなくても通じるものがあるよ。」しかし、言葉無くして伝わるのは喜怒哀楽といった根本的な感情
だけ。言葉は、違う民族の間にふさがる障害となるのです。
父が日本に滞在していた時、父に日本語を教えたのは、当時日本語講師をしていた母でした。せっかく努力して日
本語を学んでも、仕事を得られず帰国せざるを得ない。「もう少し頑張ってみよう」と思っても、今度はビザが切れてしま
う。母は、こんな悲しい外国人たちを何人も、無念な思いで見送ってきたそうです。
高い志を持って来日する外国人はたくさんいます。私の父も、日本で船の設計をするという夢を持っていました。
日本側も、外国人という新たな戦力に期待し、外国からの研修生を募集する企業も増えています。しかし、即戦力を
求める日本企業に、言葉のわからない外国人を育成する余裕はありません。言葉の壁は、外国人に低賃金の重労働を
押し付け、それが経済的困窮につながり、結果、外国人を追い詰めていくのです。母国ではエリートでありながら、就労
ビザを取るために不本意ながら肉体労働に就く。そんな現実もあるのです。
少子高齢社会が進む中、労働人口を補う存在として注目されはじめた在留外国人。その数は、現在200万人を超えています。
見て見ぬふりをすることはできません。企業は、日本に夢を抱く外国人に対し、もっと寛容になるべきだと思うので
す。そして私たちもまた一生懸命語学を学び、他国の文化を知って、外国人に対する偏見をなくしていくべきなので
はないでしょうか。それだけで、この国は本当の豊かな国に近づける。私はそう信じています。
父の存在をひた隠しにしてきた母。そんな母を見て、父のことをなるべく考えないようにしてきた私。しかし高校
生になり、ハーフの私だからこそ持っている可能性を考えた時、父は私に力をくれる存在になりました。
コンプレックスであり、同時に夢へと向かう後押しをしてくれる。私はそんな父を愛し、感謝しています。だからこそ、
母には偏見を恐れて父のことを隠してほしくない。そして、堂々と生きてほしい。
私が人生でたった一度だけ父に会ったとき、父が私にカタコトの日本語で語った言葉があります。
「なんでもいいんだ。一番になりなさい。一番は、大事だ。」
私はこれから大学に行って法や政治の仕組みを学ぼうと決めています。短い滞在期間に束縛されてしまうビザ制度。
複数の省庁にまたがる複雑で難解な書類申請。私は、来日した外国人一人一人が日本語を学ぶための十分な時間を手
にし、夢を叶えることができるよう、日本のしくみを変えていきたいと思っています。国際化を遂げた日本が国際社会で本
当の「一番」になるために。そして、いつの日か父が日本を再び訪れた時に、「ああ、この国が一番だ。」そう言ってくれ
る日本を創るために、力になりたい。そう、強く心に誓っています。
-3-
北海道
伝えていく そして、守っていく
札幌大谷高等学校 3年 菊田 綾美
「いなくなればいいのに。」そう思いました。いっそ自分がいなくなろうとも考えました。どんな時でも笑っていた母と姉から
は笑顔が消えました。
私が小学二年の時に母が再婚し、新しい父が家族になりました。それまで祖父母が親代わりだった私にとって、父親という存在
は本当に誇れる人であり、いつも家族を大切にしてくれる父のことが大好きでした。
ある日のこと。トイレからリビングに戻ってきた父に話しかけようとしたその瞬間。私は自分を愛してくれていると思っていた
父に殴られていたのです。私が無くなったトイレットペーパーをそのままにしておいたことが、父の怒りの原因でした。その日の
夕食は食べさせてもらえず、夜は一人暗い中、リビングで正座をさせられ、寝ることを許されませんでした。これが私が初めて受
けたドメスティックバイオレンス、DVです。普段は優しくて温厚な父が私に暴力をふるった時の衝撃は今でも忘れられません。
それからは私の心には暗い影がかかり、精神的にどんどん追いやられていきました。そして姉と私への父の暴力は日に日に増えて
行きました。
内閣府は日本に家族からのDVを受けているのは既婚女性だけでも三人に一人と発表しています。被害者がたくさんいる一方、
DVを身近に感じられない人も多いという実態があります。その理由はDVの本当の姿が知られないまま、DVという言葉だけが
世の中に広まってしまったからだと私は思います。DVには暴力をふるわれるだけではなく、大声で怒鳴ったり脅したりする、避
妊に協力しない、生活費を渡さない、働きに行かせない、友人に会わせないなど、女性の行動を制限する行為も含まれます。また、
最近は女性が男性に暴力をふるう逆DVや、恋人や親密な関係の人から暴力をふるわれるDVも増え、多くの人が苦しんでいます。
しかし、DVを受けた私だからこそ、伝えたいこと。それは加害者を加害者にする前に守ることが必要だということです。一般
的にDVと聞くと被害者の方ばかりに目がいきがちです。しかし、加害者になってしまう人が出てくる限り、被害者はなくなりま
せん。被害者を守ろうとする風潮が広まりつつある世の中ですが、それだけでなく、加害者を守り、減らしていくことで日本から
DVを少なくしていきたいと私は思うのです。
そのために私たちが今できること。それは自分の周りの人の話をよく聞く姿勢を持つこと。ここから始めるのです。DVの加害
者になってしまう原因として大きなストレス、怒り、相手に話を聞いてもらえないことなどが挙げられます。本来なら、それらを
理解してくれるはずの家族や親しい人にわかってもらえずに愛情が歪んでしまい、暴力をふるってしまう。父の場合、仕事上、部
下の相談によくのっていたのですが、自分の話を聞いてくれる人がいなく、ストレスがたまっていたことが原因でした。そこで私
たち家族は父と話をするという形をとり、問題の解決を図ったのです。
言わなくてもわかっている。身近な人に対するそんな気持ちが一番危険です。つまり、私たちは今、身近な人の話にこそ耳を傾
けるべきなのです。自分が本当に大事に思っている人の心の奥に一歩近づき、寄り添うことができるか。それが私たちに問われて
います。
私は今、大切な家族と大好きな友達、そしてたくさんの人に囲まれて幸せに生きています。父との話し合いも進み、家族の生活
は安心できるものとなりました。そして、これからは、社会にDVの本当の姿を知ってもらい、もっと身近に感じ「かわいそう」
ではなく「守ろう」という意志が芽生えてほしいのです。人が人を傷付けてしまうのも一つの現実。しかし、その両者を守る義務
が私たちにはあります。守るべき人がいるはずです。あなたのすぐ隣に。
-4-
青森県
「日本人らしさ」を考える
青森県立八戸北高等学校
3年
長根
蕗
想像してみてください。
あなたは雨の日に傘を差して細い道を歩いています。前方から同じく傘を差した方が歩いてきました。さて、あな
たはすれ違うときどうしますか?――おそらく、傘を人がいない方へよけると答える方が多いでしょう。この外側へ
傘をそらす動きは、今から約四百年前、江戸で人々の習慣となっていた「江戸しぐさ」といわれるもののひとつです。
中でも、傘を差して人とすれ違うとき傘を外側へそらす動きは「傘かしげ」といいます。傘をつたった水が相手にか
からないように、という心遣いから生まれたものだと思います。当時、江戸には家々が隙間なく立ち並び、五十万を
超える人々が住んでいました。人々はそのような状況で争いや諍いが起こらないように、自然と相手を思いやって行
動していたのです。
「江戸しぐさ」とは、江戸商人たちの商売繁盛のための知恵袋であり、よりよく暮らすための習慣のようなもので、
人から人へ伝えられてきた文化のことです。このような日本の良い文化はどのような形で現代の人々に受け継がれて
いるのでしょうか?
人とすれ違うときに、お互いにぶつからないように肩をそらす「肩引き」。江戸では単にぶつからないためではな
く、相手を尊重し、思いやりの気持ちを表す行為として行われたものでした。現代では「肩引き」どころか、大人数
で歩き、道をふさいでしまう人たちも見受けられます。他にも、見ず知らずの人とレストランなどで相席になったと
きの「束の間のつきあい」も江戸では大切にされました。しかし、現代では、一人がけや二人がけの席が増えて相席
をする場自体が減り、たとえ、相席をする機会があっても、周囲に全く関心を持たない人も見受けられます。
江戸しぐさは、いずれも人と人との間で行われています。お互いに感情を持った人間同士の間で行われているので
す。江戸しぐさの多くは相手への「思いやり」の気持ちを、直接言わずとも行動で相手に伝えることができる行為で
す。現在では、海外の方から口数が少ない、自己主張が少ないと評価されがちな日本人ですが、このような形で自分
の気持ちを表現してきたのです。誰しも持つ「思いやり」の気持ちを、江戸しぐさのようなさりげない行動や言葉に
よって相手に伝えることができるのは日本人特有のものだと感じます。世界の国々と比べてみても、日本人は、さり
げない配慮で周囲を気遣う力に長けていると思います。これは、日本が世界に誇れる文化です。自分だけが持ち、誇
れるもの、これこそ、その人らしさです。江戸しぐさのような行為、つまり、「思いやり」の行為によって周りとよ
りよい関係を築けることが「日本人らしさ」だと思います。
しかし今、江戸しぐさ自体が知られておらず、動作そのものも見受けられなくなってきています。これは今の世の
中で「思いやり」の心が薄れてきているということでしょうか?――いいえ、そうではないと私は思います。電車や
バスでお年寄りに席を譲ろうとしたこと、ありますよね。でも、「断られたら気まずいな……」とか「誰も言わない
のに自分が言うの、恥ずかしいな……」とか思って、結局、声をかけられなかったこともありませんか?私はありま
す。相手を思いやる気持ちはあるけれど、どう伝えればいいか考えてためらっているうちに機会を逃してしまう。ま
たは、そういう思いやりの行為をしにくい雰囲気を感じ、ためらってしまう。そうです。一人一人に思いやりはある
けれど、その行為は社会の中で当たり前ではなくなりつつあり、そのうちに伝え方が下手になってしまったのです。
せっかく日本には江戸しぐさのような世界に誇れる文化があったのだから、それを取り戻し、思いやりの行為が日常
的に出てくるような毎日にしませんか。
昨年「東京オリンピック」の開催が決まり、「おもてなし」の言葉がブームとなりました。「おもてなし」には「思
いやり」の心に通ずる「日本人らしさ」があります。「おもてなし」をただのブームで終わらせてしまわないように、
「おもてなし」の行動、つまりは、「思いやり」の心をかたちにする「平成しぐさ」を実行してみませんか?
江戸の人々が日々の生活の中から自然に「江戸しぐさ」を編み出し、平穏な世を築いたように、私たちも「平成し
ぐさ」によって穏やかな社会を築けるはずです。
「日本人らしさ」を取り戻してみませんか、「平成しぐさ」で……。
-5-
青森県
子ども兵士から遠く離れて
八戸工業大学第二高等学校
3年
山口
芳南
子ども兵士という存在を皆さんは知っていますか。私たちがこうしている今でも銃を持って戦っている子どもたち
がいるということを。
世界には約 25 万人もの子ども兵士が存在します。子どもの権利条約で、18 歳未満の子どもは国の敵対行為に参加
することは禁じられています。それにも関らず、荷物運び、地雷の探索などの危険な任務を任され、殺害を強要され
るなど仕事はどれも残酷なものばかりです。日本の子どもが学校に通っているとき、アフリカや中東の子どもたちは
銃を持って戦っているのです。生まれた国が違うだけでなぜこんなにも差があるのかと疑問に思いましたが、子ども
は生まれてくる場所を選べないという言葉の意味を実感しました。元子ども兵士の一人は次のように話していました。
「僕は読み書きもできません。一番つらいのは未来を考えるときです。僕の人生は失われてしまいました。夜も眠れ
ません。眠ろうとすると自分がやってきたことを思い出してしまうから。」このような話を聞くとなぜ子どもたちが
戦い、一生消えない肉体的・精神的苦しみを味わわなければならないのか。私は疑問と悲しみを感じました。そして、
そんな現状におかれている子どもたちを助けたいという思いが込みあげてきました。
現在、武器の軽量化がすすんだことで子どもたちが兵士として使用されるようになりました。小柄で動きも機敏、
食料も少なくて済み、従順で洗脳しやすいことが子どもが軍隊で使用されやすい理由です。家族や親しい人の復讐の
ために、自ら志願して軍隊に入る子どももいれば、寝る場所を与えてくれるから、という理由ですすんで軍隊に入る
子どももいるそうです。また、子どもを兵士として売ることでお金を得ているといいます。生活を豊かにするために
は子どもの人権を無視してもよいのでしょうか。人身売買を繰り返してもよいのでしょうか。子ども兵士という問題
の裏には貧困問題も関係しているのではないかと思いました。
今、世界中の子ども兵士のために NGO が救済にあたっています。NGO のように国際的な行動力を手にしていない
私たちに何ができるのでしょうか。世界のことなんて関係ない。そう考える人もいるかもしれません。しかしグロー
バル社会で生きている私たちにとって、世界で起きている問題は他人事ではないと思うのです。なぜなら、私たち日
本はアフリカや中東からレアメタルやプラチナを輸入し、テレビや携帯電話などを作っています。日本が機械を作る
材料はアフリカや中東から輸入し、日本は国境なき医師団や難民キャンプなどで医療行為を行っています。私たちが
一方的に支援しているわけではなく持ちつ持たれつの関係があるのです。つまり、私たちの生活の基盤はつながって
いるということができるのではないでしょうか。教育の義務と権利や保障制度の充実の違いなどが原因でより多くの
生き方を選べないことで兵士となってしまうのではないでしょうか。
皆さんは街頭などで、「貧しい国に支援物資を届けるために募金をお願いします。」「ペットボトルのキャップを集め
てワクチンを作りましょう。」このような言葉を耳にしたことはないでしょうか。私たちが募金をすればそのお金で物
資が支給でき食べ物や水を供給することができます。ワクチンを作ることができたなら感染症の予防をすることがで
き医療をうけることができるようになります。しかし、本当にそれだけで解決できるのでしょうか。支給される物資
が十分でなければ、ワクチンの数よりも子どもの数が上回ってしまったならばその物資を奪い合うために争いが起き
てしまうことも考えられます。一度救われても、物資は一度限り。その一瞬だけのもので終わってしまい、本当にそ
の人たちの生活を根本的に助けたことにはなりません。つまり、お金だけではない支援も必要なのです。
「ペンは剣より強し」ということわざがあります。このことわざにもあるように、子どもたちには銃のかわりにペ
ンが必要なのです。つまり、子どもたちには教育が必要なのです。教育によって子どもたちは読み書きができるよう
になります。学びの基本である読み書きができる人が増えれば知識が増え、生き方を選べるようになります。そうな
れば、戦争をするという生き方とは別の人生を歩むことができると思うのです。しかし、子ども兵士から遠く離れた
ところにいる経験も乏しく、無力な私たちに何ができるのでしょうか。これからは、どんな行動が世界に平和をもた
らすのか、経験を積んでいきたいと思います。
私が考えるお金だけではない支援とは、青年海外協力隊のように自分がもっている知識を教えるというものです。こ
れまでに身につけていたことやこれから身につけていくスキルを活かして働くというものです。
私は将来、貧しい国々の自立を支援するために看護師として働きたいと思っています。国境なき医師団や難民キャ
ンプなど医療行為で支援している団体はたくさんあります。そのような場所で、戦争によって身体や心に傷を負った
子どもたちのケアをする仕事がしたいと考えています。
-6-
岩手県
未来の世界のため、環境保護と経済開発のどちらを重視すべきか
岩手県立水沢農業高等学校 3 年 川田 桃子
「今、南米のブラジル・アマゾンでは、農業やその他の開発のために、一時間ほどの間に、サッカー場約 150 面分の熱帯雨林
が消失している。」これは自宅で偶然読んだ、ナショナル・ジオグラフィックという雑誌の記事の内容です。
ブラジルでは大豆の栽培のために、森林が焼き払われ、化学肥料や殺虫剤による土壌汚染が深刻化しています。一度切り開い
てしまった熱帯雨林は取り戻すことはできません。
アマゾンだけではありません。今、世界中で開発のためにたくさんの自然が消えています。このような強引な開発を続けて行
ったら将来、地球の自然環境はどうなってしまうのでしょうか。私は、この記事を読んで、このまま環境破壊が進み、生き物が
住むことのできない星になってしまうのではないかと不安になり、環境保護が重要だと強く感じました。
しかし、経済開発について調べてみたところ、国民生活に余裕がない発展途上国などでは、なによりも開発や国民生活の向上
が必要だということも分かりました。
発展途上国であるケニアでは、水をめぐって争いが起こり、死者がでる事態が日常化しています。日本に住む私には、蛇口を
ひねれば綺麗な水が出ることが当たり前で、水がないために争いが起こるなど想像もつきませんでした。国連が指標とし、生活
の質や発展度合いを示す「人間開発指数」では、日本は 10 位の 0.9 なのに対し、ケニアは 145 位の 0.5 です。ケニアで暮らす人
々の生活を豊かにしていくためには、環境保護だけでなく経済発展も必要なのです。
そんな時、ケニアで 70 年分の使用量に相当する地下水が発見されたという話しを授業で聞きました。今回の地下水の発見はケ
ニアにとって、とても喜ばしいニュースです。一方で、この水資源をどうやって持続的に利用していくかが重要な問題だと思い
ます。今回見つかった水資源については、持続利用の可能性が調査されるとのことですが、しっかりとした活用計画を立てない
と自然破壊を招くことになりかねません。無秩序な開発は自然環境を破壊し、未来世代の資源を使い果たす危険性があることか
ら、環境保護を前提とした経済開発が必要であると考えます。
私は一昨年、奥州市の姉妹都市交流を通してオーストリアにホームステイする機会を得ました。オーストリアについてホスト
ファミリーの方々は、首都ウィーンに国際原子力機関など国連の諸機関の本部が置かれ、ニューヨークやジュネーブに次ぐ第三
の国連都市と呼ばれていることや、観光が重要な産業であり、環境保護が社会的・経済的にも重要と考えられていることを教え
てくれました。実際にいくつかの国立自然公園に連れて行っていただき、オーストリアにとって環境保護が経済と強く結び付い
ていることを学びました。
このような背景もあり、オーストリアは経済開発と環境保護の双方を重視しています。例えばアルジェリアにアフリカで 2 番
目の規模となる浄水場の建設に力を注ぎ水道の普及に貢献したほか、水くみなどの重労働から女性や子供を解放し、伝染病の蔓
延を防ぐという成果をあげました。
私たちの住む日本は、優れた技術力を持ち、豊かな自然環境に恵まれていることで、オーストリアとよく似ています。しかし、
諸外国からは日本は経済開発に資金を援助するだけで、国際貢献しているとはあまり思われておりません。
今、国際社会は開発途上国へのインフラ整備や技術提供などを日本に求めているのだろうと思います。日本は大震災で津波の
被害を受け、他国から多くの温かい援助をいただきました。そのお返しとして今後は、日本の優れた技術による経済開発の援助
や次世代へ向けての人づくりをする必要があると思います。
今年は、日本が 2002 年に提案し採択された国連ESDの 10 カ年計画の最後の年となっています。ESDとは持続可能な開発
のための教育という意味です。多くの人は開発=自然破壊と考えます。しかし、持続可能な開発とは、人がこれからもよりよい
暮らしをしていくために、健康で文化的な生活や差別をされない社会にするために、自然を守り適切に利用していくことが大切
だと考えることです。
自然を守るには、知識が必要です。しかし、今でも文字の読み書きのできない大人が世界で 7 億 7500 万人、教育を受けること
のできない子どもは 6100 万人もいるのです。原因は紛争や貧困はもちろん、親が教育を受けていないため、教育の重要性が理解
されないことです。このままでは先進国がいくら技術を提供しても、それを最も必要としている人々まで伝えることができませ
ん。先進国は技術提供だけでなく、教育についても支援していくことが必要だと思います。
私は、現在、環境工学科で地球環境の問題について学んでいますが、教科書や環境映像の学習では今一つ実感が湧いてきませ
ん。そこで卒業後は大学に進学し、語学力の向上と地球環境の保護についての知識や、技術を身につけ、JICA職員として開
発途上国で環境保護と経済開発の両立を目指した技術援助と語学支援を行いたいと考えています。
持続可能な発展こそが将来の子ども達への大きな贈り物になるに違いありません。
-7-
山形県
私のふるさと
新庄東高等学校 3年 髙橋 若葉
私の住む真室川町は、秋田県との県境にある人口 9000 人の小さな町です。町のほとんどが森林で占められている、自然豊
かな所です。冬の寒さはとても厳しく、毎年2メートル以上の雪が積もり、その影響で電車が止まることも珍しくありません。
春には桜や、梅の花が咲き、山菜がたくさん採れます。緑がまぶしい夏にはさまざまな野菜が実り、紅葉の秋にはおいしい米
が収穫されます。このような四季折々どれも素晴らしい顔を持つ真室川町で、私は育ちました。そしてもう一つ、私を育てて
くれた大切な場所。それは小学校と中学校です。誰にでも、多くの思い出がつまった母校があることでしょう。みなさんは最
近、母校を訪れましたか? 母校の校舎を眺めて、懐かしさにふけったことはありますか?
私にはそれができません。私
の母校はもうないのです。
私の思い出の場所がもうないのは少子化、過疎化が大きな理由です。かつて真室川町にあった8校の小学校は3校に、2校
あった中学校は1校に減ってしまいました。このような現象は私の住む真室川町だけではありません。近年、山形県全体で閉
校した小中学校は166校、日本全体では5000校を超しています。つまり、日本中に私のように母校がなくなり、寂しい
思いをしている人がたくさんいるのです。
私は小学校3年生の時に、母校となる及位小学校に転校しました。それまでの学校では考えられなかったことが及位小では
多くありました。例えば、全校生徒17人と先生10人が同じ部屋で給食を食べます。体育の授業も掃除も文化祭も賑やかに
全校生が協力して行いました。生徒が少ないため、他学年との関わりがとても深く、そこには強い絆も生まれました。生徒全
員がまるで兄弟のようでした。
及位地区には「わらべ歌」という長年歌い継がれている歌があります。地域のお年寄りから教えていただいてからもう何年
も経ちますが、今でもわらべ歌独特の歌詞やメロディーを覚えています
「ばっけ ばっけ ふきのとう
ばっけ ばっけ ふきのとう
ふぎゃあ 吹いたら なんじする あーげーかだびら すっかぶる」
わらべ歌を歌うと、小学生の頃を思い出します。私たちに教えてくれたお年寄りも、きっとそうでしょう。時代を超えて、多
くの人たちの想いがつまったわらべ歌。わらべ歌は、及位地区に住む人たちが受け継いできたバトンです。私が受け継いだこ
のバトンをどのように次の世代に渡していけばよいのでしょう。
真室川町は平成22年から今年までの4年間で人口が 1000 人以上減っています。働き口が少なく、交通の便が悪いため、
子供がいる家族やこれから家族を持とうとする若い世代の転入者が増えにくい環境です。このまま真室川町の人口が減り続け
れば地域の祭や、わらべ歌も消える日がくるでしょう。そのようなことがあってはならないと、私は思います。どうしたらふ
るさとを守っていけるのでしょうか。
真室川町には美しい山里の風景と、恵まれた豊かな自然があります。それを生かした町おこしや、地元に伝わる伝統芸能を、
広く宣伝していくことが大切だと思います。今、真室川町では、甚五右エ門芋、勘次郎胡瓜、とっくりかぶといった伝承野菜
の栽培が行われています。稲作が行われなくなった休耕田を、このような伝承野菜を作る畑に再利用し、加工品の開発・販売
を町全体で協力して行っていくのはどうでしょう。そして閉鎖的にならず、他の地域からも、町おこしに協力してくれる人を
多く募集し、地域の垣根を越えた活動が必要です。現在、真室川町は「地域おこし協力隊」や「空き家バンク」など、町の活
性化のための策を多く提案しています。一部の人たちだけではなく、真室川町を「ふるさと」として愛している人たち全員で、
町おこしを行えば、何かが変わっていくかもしれません。
みなさんにとって「ふるさと」とは、どんな場所ですか?家族との思い出。友達との思い出。また、地域の方々との思い出。
たくさんの思い出がつまった場所でしょう。私のふるさと真室川町は、私の原点です。何歳になっても、ふるさとの存在は生
きていくための強さや心の支えになります。将来、社会に出た私が、何か大きな壁にぶつかり悩むとき、私を励ましてくれる
のはふるさとでの思い出かもしれません。私の母校はなくなってしまいましたが、変わらない想いと失うことのない記憶があ
ります。場所・物・人。変わりゆく多くのものの中で、私たちは出会いや別れを繰り返していきます。だからこそ私は、信念
を持って大切なものを守っていきたいと思うのです。そして、一瞬一瞬を大切にし、私を取り巻くすべてのものに精一杯愛情
を持って、過ごしていきたいと思います。
-8-
山形県
この世界に今を生きる ―生まれてきてくれてありがとう―
山形県立山形西高等学校 3年 杉山 みなみ
片目がない。その女の子は、
「私の目を見て驚いたでしょう?自分でも醜いなって思うわ。」
と可愛い笑顔でつらい過去を話すのです。これが、北日本ガールズフォーラムで見た映像に、私の世界平和に対する
期待が引き裂かれた瞬間です。言葉が出ませんでした。
世界で女性支援に尽力する、国際ソロプチミストという団体の主催のもと、北日本各地の女子高校生が国際ボラン
ティアについて意見を交わすこのフォーラムに、私は山形県代表として参加しました。
私が世界に興味を持ったのは、中学生の時。英語の授業で聴いた「ウィーアーザワールド」や「イマジン」をきっか
けに、世界で平和を祈る人々の存在を知ったのです。同時に、その願いは、歌が世界中に浸透した今でも叶っていな
いことも知りました。しかし「発展途上国」という言葉が、根強く蔓延る差別意識をも孕み、人間らしい幸福が得ら
れない事実を容認する言葉と化している中でも、必死に世界を変えようとしている人がいたのです。私は彼らの勇気
ある行動に、世界が一つになる日を夢見ると同時に、未だ叶っていない歌の続きを私たちが実現させなければならな
い、そう思いました。しかし、世界の現状はそんな私を嘲笑うのです。
「一億人の女性が消えた。」
これは、フォーラムで見たあの映像のタイトルです。皆さんはこの言葉の意味が判りますか。
カンボジアの豊かな自然の木々の間から、太陽が照りつける昼間が過ぎると、夜の繁華街はネオンの電飾で照らされ
る。私はやっと知ったのです。このネオンの光の影とでも言うべき現状、そしてこの言葉の意味を。
私と同じ年頃の女の子。つい最近まで売春宿で店主から何時間も暴力を受け、ご飯をもらえないこともあったとい
う彼女の言葉は、重く、そして鋭く、私に響きました。
彼女は言いました。
「ある日、私の親友が店主に逆らって私の目の前で殺された。もう怖くて、私は逃げたんだけど、見つかって目をつ
ぶされたの。痛いし血だらけでも、客は酔っていて気づかないって客を取らされた。」
彼女が保護された時には、もう目を取り除くしかなかったそうです。しかし、彼女は笑顔で続けました。
「でも、恨んでいないわ。それより、今苦しんでいる女の子たちを救いたい。」
と。彼女は今、売春宿で働く女の子に健康診断を受けさせ、本当は怖くて憎くてたまらない大人の男の人たちに直接
訴える活動をしています。
「少しは役に立てたかな。」
と、無邪気に白い歯を見せて笑いながら。
世界には、自分の名前も誕生日も、親の顔も愛の温もりも知らずに人手を垂らすために生まれ、兵士や労働力として
短く儚い生涯を終える小さな命、教育を受けることも友達と夢を語ることも許されず、「消耗品」と呼ばれ、使い捨
てにされる女性が何億といるのです。彼女たちが安心して明日を、そして未来を夢見ることのできる世界をつくって
いくことが、今を生きる私達の使命ではないでしょうか。
私は小さい頃から、隣の一人暮らしのおばあさんの家の雪かきや毎日のゴミ捨てといった身近なボランティアをし
てきました。中学生の時、真冬の東北を襲った大震災。同じ東北に住みながら、募金しかできない無力さの中で、せ
めてもと学年に呼びかけて被災地の子供達に贈る絵本を手作りしたこともありました。そして、生徒会での石巻ボラ
ンティアで見たのは、「ありがとう。」と涙を流して喜んでくれた被災地の方々の前を向いて頑張る笑顔。私は海外
経験も、専門知識もないけれど、積み重ねてきたボランティアは、どんなに小規模でも確かに誰かの力になっていた
のです。あなたも、できることから始めてみませんか。この世界が笑顔であふれる、そんな幸せな日がくることを信
じて。
私は将来、彼女たちの代弁者として、世界が見過ごしている現状と小さな叫び、そして、今日を懸命に生きる笑顔
を多くの人に伝えたいと思っています。今日の現状を知り、動き出すことが、世界の明日を築く新たな一歩になると
思うのです。そして誇りを持って生きていいんだよ、生まれてきてくれてありがとう、そう言ってあげたい。もう一
人もこの世界から消えることのないように。
-9-
福島県
障がいとの距離
幸せとの距離
福島県立郡山東高等学校
2年
日下部
真由
たとえば皆さんがバスや電車に乗っていて、大声を出している子供を見かけたらどうしますか。隣りにいる母親を
非難の目で見るのではないでしょうか。でも、待ってください。その子は、病気かも知れないのです。
私には九歳下の弟がいます。弟は二歳になっても言葉を話すことができず、病院に行って「自閉症」と診断されま
した。自閉症は、うつ病やひきこもりというような認識をされることが多いのですが、決してそうではありません。
社会性や他者とのコミュニケーション能力に困難が生じる障がいの一種です。具体的な症状は個人によってかなり違
います。弟の場合でいえば、小学二年になった今でも、ものごとに集中することや、人の目を見て会話すること、話
の内容を理解することなどがあまり出来ません。道路を渡るときも手をつないでいないと突然飛び出してしまいます。
安全や危険ということが理解出来ないのです。
弟を、自閉症を理解したいと考えていたある日、私は一冊の本と出会いました。戸部けいこさんの「光とともに…」
という本です。その本では、重い自閉症をかかえた息子とその母親、そして病気のことをあまり知ろうともせず「自
閉症は、母親のしつけが悪いからだ」と思っている父親、ほかの子と違うからと嫌な目で見る、近所の人々や幼稚園
の母親たちなど、たくさんの人々が出てきます。そして、それは本の中の世界だけではないと思います。きっと、私
たちが生きているこの世界でも、正しい知識を持っていないのに、自閉症は、母親のしつけの悪さが原因であると思
っている人は多いのではないでしょうか。自閉症は、母親のしつけの悪さで発症するものではありません。生まれ持
ってくる障がいなのです。かつては「母原病」といって、子供が普通でないと母親の育て方に原因がある、という考
え方が一般的だったと聞いたことがあります。時代が変わって、自閉症などは育て方でなく脳に原因があるというこ
とがわかってきました。理解が進んで変わってきたこともあります。でも、最も大事なことが昔とひとつも変わって
いないように思われるのです。
最も大事なこと、それは障がいを持った人に対する視線であり、態度です。
バスに乗っていたときのことです。中学生くらいの女の子が乗り込んできました。その子の顔つきや体の動かし方
から「ダウン症なんだな」とすぐにわかりました。その子はステップのところでバランスを崩し、転んでしまいまし
た。もちろん自力ですぐ立ち上がる可能性もありますから、近くにいた人が誰も手を差し伸べなかったことを非難す
るつもりはありません。ただ、私がその時のことを忘れられないのは、皆が視線をそらして「見ない振り」をしたか
らです。それは、関わりたくないという無言の拒絶でした。
私は、この光景を見た瞬間とても胸が苦しくなりました。その子だって同じ人間です。必死に今を生きているので
す。同じ今を生きている人同士が、こんなことではいけないと思いました。
でも、仕方がないのかも知れません。自閉症の弟がいる私にとって障がいは身近な、当たり前のものです。しかし、
世の中の多くの人にとって、そのような病気や障がいは「未知のもの」です。「未知のもの」を恐れるのは人間にと
って当たり前のことですから。
でも、そんな社会でいいのでしょうか。病気や障がいから目を背ける、そんな社会は不幸だと思います。病気や障
がいを持った子供はこれからも生まれ続けます。何より、今日は健康な私たち自身が、明日は病気や障がいに持つ身
になるかも知れないのです。
だから、幸せな社会をつくるためには、病気や障がいから目を背けるのではなく、それらと向き合い、一歩また一
歩、近づいていくことが大事だと思うのです。そのためには、まず、その病気について知ってください。障がいを持
った人に関心を持ってください。自分には関係ないと思っている人が多いからこそ、障がい者を巡る状況に本当の変
化が訪れないのです。病気や障がいを持った相手を理解しようと努め、相手の気持ちを考えること、今の私たちには
このことが足りないのではないでしょうか。いいえ、障がいを持った人だけが対象ではありません。健常者同士もお
互いを思いやることでもっともっと幸せな社会が築けるはずです。障がいとの距離は、幸せとの距離なのです。障が
いに一歩踏み出すことは幸せに一歩近づくことなのです。そのことに気づいてください。
自閉症の弟がいる、それを聞いて多くの人は「大変だね」と思ったことでしょう。確かに大変なこともあります。
でも、私は障がいをもって生まれてきた弟に感謝しています。それは将来の夢をもらったからです。私の夢、それは
言語聴覚士になることです。そしてコミュニケーション能力に困難を持つ方々の役にたちたいと思っています。意思
疎通が困難な弟が身近にいたからこそ持ち得た夢、だから弟の存在に「ありがとう」と言いたいのです。
障がいとの距離は、幸せとの距離。一歩、踏み出してみませんか。
- 10 -
福島県
『フクシマへようこそ』
福島県立須賀川桐陽高等学校
3年
小磯 愛
私は骨折して入院していた父を見舞うために病院にいましたが突然激しい揺れに襲われました。2011年3月1
1日2時46分のことでした。父を車いすに乗せなんとか外に連れだしました。その後、アスファルトがゆがんで斜
めになった道路を通って帰宅しましたが跡形もなくなっていた家屋もありました。それから約10日間、ほとんどの
ライフラインが途切れました。テレビが映るようになると、そこには信じられない、まさに『悪夢』の光景が広がっ
ていました。私のふるさとであるフクシマにはさらなる悲劇が待ち受けていました。『原発事故』です。ありとあら
ゆる情報が錯綜する中で私はただただ見えない恐怖に怯えていました。たくさんの識者が放射能についてのレクチャ
ーを述べていてもどれを信じればいいのか、私の友達や家族はどうなってしまうのか、私はこのまま死んでしまうの
ではないのかなどいろいろな良くないことばかりが走馬燈のように頭をかけめぐり眠れない日々が続きました。
あの出来事から3年経とうとしています。多くの人の心温まるご支援などもあり私は笑顔で登校できています。し
かし、目を転じればここ『フクシマ』には放射能による立ち入り禁止の区域、非難して仮設住宅で暮らしている多く
の人たち、小さな子どもたちを抱えて見えない放射能に怯えて生活している人たち、いまだに続く風評被害という言
葉の暴力に耐えて生活を余儀なくされている私たち。『セシウム』『ベクレル』『体内被曝』などが日常語となった
フクシマで、私は『復興』という言葉を信じて黙って生活しています。
しかし最近、辛いことに目を背けて沈黙して生活していることは私たちの罪ではないかと考えるようになりまし
た。原発事故を題材にして講演している他校の演劇部などもあり、少しずつ若い世代が『フクシマ』を知ってもらう
ための発信を始めたことなども聞きました。
一歩前に進むことが大切なのではないか、私はそのために3つのことを考えました。福島県には多くの伝統行事が
あります。私の高校がある須賀川市にも花火大会や『松明あかし』という伝統行事があります。そうした行事に際し
て、市町村と学校が連携して多くの高校生をボランティアとして参加させて欲しいという提言が1つ目です。
迷子になった子どもたちに言葉をかけ不安を与えないようにしたり、地元の産品の販売を手伝ったり何かしらできる
はずです。私たちが伝統行事を見る側から伝統行事を担う側に立つことで、より一層伝統はこれからも継承されます。
私たちの地域理解という精神的な誇りが生まれて、地域の伝統行事が点から面へと拡大していくはずです。本当の復
興は私たち若い世代がふるさとに誇りを持つことから始まるのです。
2つ目の提言は3月11日を『フクシマの日』として高校生がその地域におけるボランティア活動にあたることで
す。1日だけのボランティアでも私たちは『フクシマ』の置かれている現状を知りつつ、今後何が出来るかを学ぶこ
とが出来ると思うのです。悲しみにうちひしがれ、沈黙している私たちではなく、生き生きと頑張っている私たちの
姿を、そして未来に向かって進んでいる私たちを見て欲しいのです。
そして3つ目の提言です。高校卒業後、進学や就職で多くの私たちの同世代が県外に行きます。そこで、私たちが
『あの時から今まで』に感じたこと、見たこと、そして私たちが今考えていることを多くの方々に伝えることです。
3つ目の提言は少しの勇気さえあれば誰にでも出来ることだと思うのです。
『フクシマ』・・・もう海外でも有名になってしまったこの言葉。しかし私たち『フクシマ』の若者が取り組もうと
していることは日本全体を取り巻くたくさんの差別や偏見という厚い雲に一条の光をさすことにもつながるのです。
目をそらさずに『フクシマ』の中で頑張っている私たちを見て欲しいのです。
たんさんの人が、明日への一歩を踏み出そうとしている私たちを知ろうとしてくれた時・・・
私たちはいっぱいの笑顔で、大きな声でこう答えるはずです。
『フクシマへようこそいらっしゃいました』
- 11 -
茨城県
未来を拓く私たちの物語
茨城県立水海道第一高等学校
3年
髙橋
涼香
「活気がない」「魅力もない」私は自分の住む町があまり好きではありません。見渡せば東京などの大都市が発展
する一方で地方の町はすたれるばかり…。町おこしは全国共通の課題です。シャッター通りとなった地方の商店街、
猫と老人しか見かけない過疎の村。そんな地方をどのように活性化するのかが今、問われています。私自身も「水海
道が賑やかな街になる事は到底無理」と心のどこかでは思っていました。
調べてみると「地方の活性化」は思い通りにはいかずとても厳しい現実が見えてきました。最近話題の B 級グルメ
による町おこし。宇都宮の餃子、富士宮の焼きそばなどが大きな話題となり一時は観光客が押し寄せますが、ブーム
が過ぎ去れば閑古鳥が鳴く。大河ドラマの舞台となった高知や会津も同様です。全国のほとんどの町おこしは失敗に
終わってしまうのです。
私たちは町おこしといえば、観光や産業で町を経済的に豊かにすることをイメージします。果たして日本中の町が
なんらかの取り組みをすれば成功するのでしょうか?私はそうは思えません。現在、急速に少子高齢化が進む日本は
2100年には人口が5000万人、現在に約半分まで減少し、65歳以上の高齢者が4割を占めると言われていま
す。近い将来確実にやってくる急激な人口減少と年齢構成のアンバランス化。最近よく耳にする「限界集落」という
言葉。住民が減り、病院、学校がなくなりコミュニティーが崩壊し、日本全国に空き家ばかりが目立つ。これらはこ
れまで当たり前と考えてきた経済的な成長・拡大がよいことだという考え方の限界を表しています。
本来、私たちは自分の生まれた土地に限りない愛着を持っているはず。私たちがすべきことはどこにでもあるよう
な街づくりではなく、そこでしか見ることのできない風景、そこでしか会うことのできない人々との出会い。そうし
たローカルなものにとことんこだわることで持続可能な自然と人間とコミュニティーの豊かな関係を再構築すること
です。
私の住む町、水海道は「ロケの町」として毎年、百本以上の映画やドラマの舞台となっています。私は先日、観光
課の土井さんにお話を伺いました。常総市のフイルム・コミッションは2000年に土井さんが中心となって撮影支
援のために立ち上げたそうです。その経済効果はロケ隊のお弁当代、宿泊代など年間で3000万円以上。常総市の
受け入れ体制が整っているためロケ隊はリピーターとして訪れ、今や常総市は国内有数のロケ地として知られていま
す。でも経済効果がフイルム・コミッションの役割でしょうか?自然との共存、受け継がれている文化、都会とは違
った時間。常総市ならではの魅力がそこにはあるはずです。そして、撮影を支えるエキストラやボランティアとして
参加している住民の存在です。普段見慣れた光景が影像となったり、撮影に参加した方々が作品を作り上げる苦労や
楽しさなどの話題を共有したりすることで、住民一人一人が地域の魅力を再認識することができるのです。こうた共
同作業を通じて私たちの居場所を地域に作るのです。「フイルム・コミッションは手段であって目的ではない」と熱
く語る土井さんの一言一言に自分の故郷水海道をどうにかしたい!というシンプルな思いが伝わって来ました。
人口減少時代における地域活性化を考えると、正直頭がクラクラしてきます。それでも私をスタッフとして撮影に
誘ってくれた土井さん、昨年長崎の東彼杵町で出会った地域町おこし隊の小玉さん。地域活性化の核となる人々の「こ
の町が好き」という素直な思いこそが、全ての出発点になるはずです。地域の自然と伝統を育て、共有する。ここに
しかない魅力溢れる個性的な物語を生み出す。私たちが主人公となって地域ととことん向き合う。その一人一人の物
語が、私たちの物語として共有された時、私たちの町が直面する多くの課題を解決しようとする小さな試みがきっと
日本の、そして世界の未来を拓くはずです。私はそう信じてこの町の未来の物語をみんなと書いていきます。
- 12 -
茨城県
ユース・ギャランティ
―未来の若者たちのために―
茨城県立太田第一高等学校
3年
髙橋
卓
私の幼い頃の夢は、薬剤師になることでした。理由は、薬局で働く人がかっこよく見えたからです。皆さんもなり
たい職業や就職活動のことについて詳しく知らなかった幼い頃は、憧れの職業に対して純粋に夢を抱いていたことで
しょう。
高校生になり、職業のことをより現実的に考えるようになると、期待よりも不安のほうが大きくなりました。就活
によって引き起こされる問題を知ってしまったからです。それは、「就活うつ」です。NPO 法人 POSSE の調査に
よると、就活経験者の 7 人に 1 人は「就活うつ」の状態になっているとのことです。エントリーシートを100枚以
上送っても一社として連絡がなく、就職自体あきらめてしまう人もいると聞きました。就活とは、人生を豊かにする
ための活動であるはずです。自分が毎日楽しい、幸せだと言える人生を送るためには、仕事とどう付き合っていくの
か考えることが必要不可欠です。本来であれば、自分自身が幸せになるための活動であるはずの就活が、逆に彼らを
うつに追い込んでいるというのです。なぜ、就活うつは生まれるのでしょうか?
その原因の一つとして、就職希望が大企業に偏っていることが挙げられます。「寄らば大樹の陰」ということわざ
通り、不況に強く、倒産しにくいところを選択するという安定志向の結果です。「大きな会社で、自分の希望する仕
事をしたい!」それが、現在の大学生の就職に対する理想だと言えるでしょう。しかし、理想とは裏腹に、限られた
会社に大勢の学生が殺到し、就職を決めることに躍起になって狭き門を争い、破れ、最悪の場合「就活うつ」になっ
てしまうのです。私の姉は、現在大学三年生で就活の準備中ですが、就活の現実に直面して悩み、模索しています。
各国の高校生に将来就きたい仕事を調査したところ、多くの国で、起業家が人気の的となっていたなかで、日本の
高校生だけは公務員が圧倒的に人気だったそうです。「人の役に立ちたい」という理由で公務員を希望する人も多い
ようですが、一般的に公務員のイメージといえば「給料や身分が安定している」、それも人気の理由の一つなのでし
ょう。このことから、日本人は高校生のうちから安定志向だということが伺えます。なぜ日本の若者は安定を好むの
でしょうか。それは、幼い頃から失敗できない環境に育つからだと考えます。日本人は「失敗を恐れる」という気質
がとても強い傾向にあります。何か失敗をすると、周りからはやし立てられ、消極的になってしまいます。就活でも
同じことが言えます。失敗したくないあまりに、不本意な職業選択をしてしまい、結果的に悩む若者が増えているの
です。この現状を変えるには、若者の失敗を恐れないチャレンジ精神を育み、何度でも就職できる機会を提供する社
会の仕組みが必要だと考えます。
私は、若者の就職活動支援策として、新たな制度を提案します。それは、ユース・ギャランティというものです。
これはオーストリアではじめに導入された制度で、二十五歳未満の若者が職業紹介の窓口に来た場合、技能教育や職
業体験の場を必ず迅速に提供し、若者が就職をするまで面倒を見ることを義務付けるというものです。また、若者雇
用に前向きな企業には税金の優遇措置を行うなどして、積極的に若者を雇用し、若者に魅力ある仕事を提供できる体
制を保証する制度でもあります。実際、この制度を導入したことにより、オーストリアの若者の失業率は9パーセン
ト台と、ギリシャやスペインの5分の1になったそうです。この成功を聞いたEU大統領も、この制度をヨーロッパ
全域に拡大させようとしています。これにより、若者が失敗を恐れず、何度でも就職試験にチャレンジができる環境
が整い、夢が破れることなくやりがいのある職業に就くことができるようになると私は考えます。
私も大学へ進学し、いずれは就職活動をする時が来ます。その時までに、このユース・ギャランティ制度が成立し
ていれば、就活うつの心配をすることもなく、安心して大学での勉強に励むことができます。私はこの先、夢とチャ
レンジ精神を持つ若者のために、日本でのユース・ギャランティの実現を広く呼び掛けていきます。そして、未来の
日本が、若者への就職支援が行き届いた社会になることを信じています。
- 13 -
栃木県
言葉を伝える
宇都宮短期大学附属高等学校 3年 沼野井 万希子
私は言葉が大好きです。言葉はたとえ私が絶望している時でもずっと私のそばにいてくれます。本を開くたび楽しい気
持ちになり、歌詞を聴くたび心身は癒され、誰かと話す度、生きがいを感じる、そんなあたたかい言葉がある限り、私の
周りから何もなくなるものはありません。言葉は私たちの希望です。
私が大事にしている言葉の一つにこんな短歌があります。「国難の地震と津波に襲はれし祖国守れと若人励ます」。「な
い」とは地震のことです。この短歌は東日本大震災の二日後、台湾人の蔡焜燦さんがお詠みになりました。蔡さんは司馬
遼太郎の『街道をゆく』の中で「老台北」と呼ばれる、今年で創立四十六周年を迎える台湾歌壇の代表です。終戦前、台
湾には日本統治時代があり、そのときに日本語教育を受けた方々を中心に現在も短歌が詠みつづけられています。一昨年
三月、蔡さんにお会いする機会に恵まれ、私はこの短歌を贈られました。私自身が一日本人として震災後の日本に向き合
う必要があると自覚したのはこのときです。蔡さんはまた、こうおっしゃいました。「がんばれ」。今もその真剣なまな
ざしを覚えています。日本への愛情にあふれていました。震災後、まるで合言葉のように使われている文字ではあるけれ
ど、蔡さんからは本物の励ましの気持ちが言葉として伝わってきたのです。驚くと同時にうれしかったです。震災から二
年経った時点でも、異国の地から私たちを熱く思いやってくれていること。蔡さんの持つ言葉の力強さは私の心に響き、
息づき、常に私と共にあります。贈られた短歌に込められた日本人への深い愛情にすごく安心させられます。台湾と日本
の歴史に横たわる複雑な関係性をも乗り越える親愛の情に胸が震えます。
また、食糧が不足しがちなアフガニスタンの少女の言葉との出会いも忘れられません。「おなかはすいているけど、絵
本を読めば楽しい気持ちになって、ぐっすり眠れるの」。この言葉に衝撃を受けて、私はボランティアに参加し、ビルマ
の難民キャンプとアフガニスタンへ絵本を一冊ずつ送りました。絵本という形態をとって、言葉が子どもたちの心の空腹
を満たしてくれる喜びを感じました。
日本人を励ます蔡さんの言葉のように、アフガニスタンの少女を満たす絵本の言葉のように、誰かの「心」を託された
言葉が他の誰かの「心」にとどまりながら力を与え続けてくれるのです。私も自分の言葉で人々に希望を与えたいと思う
ようになっていきました。
それを作文に書いたことがきっかけとなり、マレーシアへ行く機会を得、より身近に異国人と異国語を認識するように
なりました。「カカッ、チャンティー。(お姉さん、かわいい)」。「アバン、カチャ。(お兄さん、かっこいい)」。
覚えたてのマレー語で積極的に話しかけると、マレーシア人は皆うれしそうに笑います。そこで、大喜びになってほめま
くりました。ホームステイ先の母、バスガイドさん、みやげもの屋の店員さん、空港の係員さん……。あまりに新鮮な経
験でした。マレーシアの人々とマレー語でコミュニケーションがとれたうれしさだけではなく、私の言葉でマレーシア人
が笑顔になった喜びに満たされました。
異国へ行って文化の違いに戸惑うのは当たり前です。けれど、言葉は言葉自身を媒介として人間の心にある普遍性を実
感させてくれます。「うれしい」「悲しい」といった感情は異国人とであっても通じ合えるのだと気づきました。生まれ
た時代や場所がつくる障壁を乗り越えて様々な言語が同じひとつの心を共有しているのです。言葉は国籍など背負ってい
ないのです。異なる綴りがあるだけなのです。思っていることを言葉にして表そうとするとき、それは世界中どこへでも
伝わっていきます。確かに日本語で浮かんでくる言葉を異国語に翻訳すれば微妙なニュアンスの違いが出てくるかもしれ
ません。それらは尊び合えばよいのです。そうして、そういうものに左右されない根っこにある普遍の心が込められた言
葉こそ、たくさんの人の心に希望の光を灯すのです。
世界の未来のために私にできることは何であるのか。思えば、私が国際について興味をもったのは、中学一年のとき、
台湾生まれの陳瞬臣氏が日本語で書かれた『青玉獅子香炉』を読んだのが始まりでした。陳氏の文章に深い感銘を受けて
書いた作文で、私も、「言葉で書き続ける。」と決意しました。その決意は今も変わっていません。私は大好きな言葉を
使ってものを書き、時代に即した私の心を伝えたい。そしてたくさんの人を笑顔にしたい。心を込めて言葉を紡ぎ、深い
愛情をもって、世界中の人々の心のそばにいきたい。寄り添いたい。居続けたい。人々が毎日を前向きに生きることがで
きるようなものを書いていきます。そのためにも先ずは…
「国難の地震と津波に襲はれし祖国守ると若人誓う」
- 14 -
栃木県
あたりまえのありがたさ
栃木県立鹿沼高等学校
3年
宇賀神
祥菜
この地球のどこかで、命の炎が今この瞬間にも燃え尽きようとしています。貧困・飢餓・紛争などにより、一秒間
に何人もの尊い命が失われているのです。
「あなたの夢は何ですか。」と聞かれて、「私の夢は大人になるまで生きることです。」と笑顔で答えた少女がい
ます。彼女は東南アジアの貧困が激しい地域で、生きるために毎日ゴミを拾って生計を立てています。これは、私が
国際問題に興味を抱くきっかけを作ったとある本の一節です。
世界人口約七十億人を突破した現在、そのうちの約十億人が十分満足のいく食料を得ていません。特にアジアのあ
る特定の地域や、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国での貧困・飢餓が深刻な状況です。命を落としている多くが幼い子
供です。両親の生活のために売られていく子ども、予防や治療可能な病で亡くなる子ども。「一度でいいからおなか
いっぱい食べてみたい。」と、身も心もボロボロになりながら真剣に生きようとしているのです。皆さんはこのよう
な事実を自分事に考えることができますか。この事実を知ったとき、これまで海外に言った経験もなく、ごく普通の
高校生活を送っていた私は衝撃を受けました。衣食住の心配もなく学校に通い、甘えられる両親がいます。いかに自
分が恵まれているのか。私たちは、まぎれもない事実をまっすぐ見つめなくてはなりません。このような国際問題は
私たちの暮らしと密接につながっているからです。
それでは、私たちになにができるでしょうか。途上国で食料や衣類が不足した場合、先進国はすぐに物資を集めて
供給しようとします。しかしここで考えなければなりません。かわいそうだから、気の毒だからと自分たちの善意に
酔ってはいないだろうか。日本や米国のような経済大国から物資を供給された貧しい国の人々はどのような行動をと
るだろうか。募金するにしても、募金をしたという行為そのものに満足してはいないだろうか。ただ単に供給すれば
いいという問題ではないのです。そもそもなぜ貧困に陥っているのかという根本的な原因も背景に隠れています。多
様化する国際問題では、一部の専門家や政治家だけの閉鎖的な理論に基づいて行動するのではなく、広い視野から総
合的に判断し行動することが必要だと思います。問題に立ち向かう際、なぜどのように関わるか、なにを変えること
を目的としているのかを忘れてはなりません。
国際理解・協力には、「知る」・「考える」・「行動する」といった三つのプロセスが重要だと思います。私には、
そのうちの「知る」・「考える」のプロセスについて考えることがあります。小中高の教育課程で国際問題について
考える機会がほとんどありません。一部の間で徐々に広まりつつも、国際理解や協力といった考えがあまり一般に認
識されていないというのが今の日本の現状だと思います。自国に関わる大きな問題はニュースになりテレビや新聞で
報道されるけれど、海外で起きている様々な問題の多くは自分自身で興味や関心を持って調べないと知ることができ
ないのです。私たちは常に好奇心を持ち、考えるべきです。たとえば、今日食べたものはどこの国から来たのだろう。
日本のように蛇口をひねると安全で美味しい水が出る国はいったいどれくらいあるのだろう。もはや受験教育だけで
は急速なグローバル化に追い付きません。わたしは、もっと日本が積極的に開発教育を取り入れ、自由に学び、自分
の意見を発信できる国家であってほしいと思います。そして私自身も将来、海外で異文化に触れ、学び、様々な現状
を実際にこの目で確かめたい。もっと多くの日本人が世界で活躍できるように、日本の英語教育を見直し、コミュニ
ケーションを交えた実践的な教育の開発に関わりたいと思っています。
皆さんは国際人の定義をどのように考えますか。想像してみてください。自分が暮らしていきたいと思う理想の社
会を。すべての人々が恐怖や欠乏から解放され、愛と笑顔でいっぱいの世界を。真の国際人とは、国籍や人種や宗教
を越え、柔軟な思考と強い志を持ち、小さな行動から始めようとする勇気を持つ者のことだと思います。苦しみなが
ら亡くなっていった人々がまた生まれ変わっても「この世界で生きたい」、そう思えるような地球をつくっていくこ
とが今を生きている私たちの使命です。
これからの時代を担っていく私たち。私はずっと忘れないでいたい。繋がれてきた命の大切さを。誰もが未来を想
像し、自ら創り出す力を持っているということを。そして、私たちが守るべき幸せは特別なことではなく、この当た
り前の日常の中にあるということを。生まれた地域の違いで生きる権利や幸せになる権利に大きな差が生じているな
んて、おかしいと思いませんか。いくら時代が流れても時々立ち止まって考えるべきです。あたりまえのありがたさ
を。
- 15 -
群馬県
平和な社会を築く
群馬県立高崎高等学校
3年
田崎
陸
「戦争はいけない」。
この言葉は多くの人が、共通の認識として持っていることでしょう。私はちょうど1年前、改めてこの言葉の重み
を実感し、平和について考える機会を得ることができました。
昨年の夏休み、高校生全国総合文化祭に参加するために、私は長崎に行きました。長崎といえば、鎖国中の江戸時
代も世界に扉が開かれていたことで有名です。異国情緒あふれる街の雰囲気が、私はとても気に入りました。しかし、
長崎がカタカナで書かれていたら、どうでしょう。そうです。長崎は太平洋戦争の末期、原子爆弾が落とされた都市
でもあります。私たちは、長崎に着いてすぐ、平和公園を訪れました。原爆資料館では、原形をとどめていない鉄塔
や、炭と化した弁当、そして何よりも衝撃を受けたのは、人の影が跡となって残った木の板でした。69 年前、そこに
は確かに、1人の命があったのです。
続いて訪れたのは、平和祈念館です。そこで、1人のおじいさんが私たちに話しかけてきました。その方は、原爆
が投下された当時、長崎の中心部に住んでいましたが、昼間は郊外の工場で働いていたため、無事だったそうです。
しかし、家族は帰らぬ人となりました。おじいさんは、その日の夜の光景を鮮明に覚えていると言います。
「工場から山の中を通って家に帰ろうとしていたら、全身にやけどを負った人や、血を流した人が、フラフラになり
ながら歩いて来たんだ。」
15 分、いや、20 分くらいだったでしょうか。私たちのために、原爆の残酷さや平和について語ってくれました。最後
に、原爆が投下される前と後の長崎の上空からの写真を見せてもらいました。教科書やテレビで見たことはありまし
たが、まるで違う写真のように見えました。たった1つの爆弾で消え去ったのは、建物だけではないのです。そこで
暮らしていた人たちの命も、一瞬で奪われていったのです。
私は長崎を訪れて、実際に自分の目で見て、肌で感じ、そして、生の声を聞くことの大切さを知りました。確かに、
学校の授業でも戦争はいけないことだと教わります。でも、自分でその事実を確かめるということは、全く別のもの
でした。
ここ数年、インターネット上では、中国人や韓国人に対する差別的な書き込みが、多く見られます。また、反韓・
反中といった感情に任せたデモや、ヘイトスピーチが、全国各地で行われ、もはや嫌がらせのようになっています。
これらの人たちは、本当に中国人や韓国人のことを知っているのでしょうか。ただ単に、インターネットの情報を鵜
呑みにしているだけなのではないでしょうか。
いずれ、戦争を経験したことのない人たちだけの世の中がやってきます。その時、日本はどうなるのでしょうか。
再び戦争の道を進まないか、私は不安でたまりません。友達の中には、「日本は中国と戦争になっても仕方がない」
と言っている人もいます。どうして、そのようなことが言えるのでしょうか。戦争の悲惨さを知らないのでしょうか。
だからこそ、戦争の恐ろしさや、お互いの国について知ることが重要です。「戦争はいけない」と、頭でわかって
いるだけではダメです。戦争を体験した人たちから生の声を聞きましょう。長崎県では、8月9日に生徒は学校に登
校し、平和学習をするそうです。全国の学校も、そのような機会を設けるべきです。また、「中国人や韓国人は悪い
人たちだ」と決めつけるのも危険です。多くの場所で、世界の国を知ることのできるイベントが開かれています。そ
ういった機会を通して学びましょう。
「戦争はいけない」。
この言葉だけでなく、1人1人ができることをして、平和な社会を築いていきましょう。
- 16 -
群馬県
ぐんまの純情畑に生きる
―農業は人に支えられている―
群馬県立利根実業高等学校
3年
竹之内
史哉
私の住む昭和村は、「日本で最も美しい村」に登録され、全国的に見てもとても美しい農村です。
赤城山西麓に広がる扇状地、標高は260メートルから 1,500 メートル、伏流水も豊富なことから、標高差を活か
した農業が行われています。
また、都心へは高速で1時間と立地も良く、生鮮野菜の生産が盛んな地域です。そして、全国のおよそ25%の生
産量を占める日本一のコンニャク村です。
私の家は、トマトとフキ、コンニャクを生産する専業農家です。耕地面積は4ヘクタール。専業とはいえ、3割近
くを農家が占める「農業立村」では、10 ヘクタールを超える農家が多く、村の中では小規模な農家です。
農業は、母が一人で切り盛りをしています。母は、私に、「史哉、農業はもういい。家のことは考えなくていい。
おまえは、自分のやりたいことをやればいい。」と口癖のように言いました。
私にとって「文化の日」は、祝日ではありません。父の命日です。小学生の時、「バレーがんばってきてね。」そ
れが父への最後の言葉。手を振る後ろ姿が今でも脳裏をかすめます。今では、コンニャク畑で過ごした毎日が思い出。
父が亡くなり、叔父が父の後を継ぎ、祖父とともに私に農業を教えてくれました。その叔父と祖父も、父を追うよ
うに相次いで倒れ、逝ってしまいました。
母が、「農業を継がせたくない。」と考えるのも当然のことです。でも、私は農業をやりたいのです。「かぁちゃ
ん、俺、農業やりたいなぁ。」と呟くと、いつも母は、「苦労はさせたくない。」という悲しい眼差しで、私を見て
いました。
私が農業高校を選んだのは、農業をやりたいからです。母は、自分の熱意に押され進学させてくれました。「高校
ぐらいは、自由に勉強させたい。」と考えたからでしょう。
昨年、東京の銀座にある群馬県のアンテナショップ「ぐんまちゃんち」で2日間の販売実習を行いました。先生に
お願いし、自宅で生産したトマトを販売しました。大消費地東京での消費者の意見を直接聞きたかったからです。
市場に出荷できない裂果のあるトマトを販売しました。価格は、直売所の価格を参考に2玉100円に設定しまし
た。「見た目が悪いから売れないよな。」と考えていましたが、予想に反して、トマトの売れ行きは良好で、5ケー
スを販売しました。
お客様に感想を聞くと「これ、安すぎるよ。東京では倍はするね。」と言われました。理由を尋ねると「新鮮さが
違うよ。みずみずしいしね。いつ収穫したの。」と逆に質問され、「今日の朝です。」と答えると。「目がこえた人
はね、野菜の張りをみて買うの。自信をもって販売してね。」とアドバイスをいただけました。
このことがとても嬉しく、母に話すと「おまえはやっぱり農家のせがれだ。農業をやってみたいのかい。」と声を
掛けられ、「俺には農業しかないんだよ。どうしてもやりたいんだよ。」と話すと、母は、「うん。そっか、わかっ
たよ。」とほほ笑んでくれました。
私の農業を応援してくれる人が現れました。現場実習でお世話になった先輩です。先輩は、短大を卒業しレタスの
生産をしています。
「史哉さー、村には、若いもんが結構農業継いでるよ。農業は一人でやるもんじゃんねぇ。若けえもんが協力して
やるもんだ。」と話してくれました。先輩は、その夜家を訪れ、母に「史哉が農業に就いたら、俺たちが協力してや
る。安心してくれ。」と話しました。30歳と若いのにも関わらず、言葉に重みがあり、「こちらこそよろしくお願
いします。」と母は安心した様子で答えていました。
私は現在、この地域特有の排水性の良い軽石土壌と、昼夜の寒暖差が激しい内陸性気候を活かした、糖度の高いト
マト栽培の研究に取り組んでいます。
昭和村のキャッチコピーは「群馬の純情畑」です。この言葉通り、「純情」あふれる人々に支えられ、私は生きて
いるのです。
私は、父と叔父そして祖父が愛した『純情畑』で、一生懸命頑張りたい。そして、母とともに農業を守っていきた
いと思います。
千葉県
- 17 -
日本の未来を考える
千葉県立幕張総合高等学校
3年
内山
菜々海
「総理大臣になったらどのような社会に変えたいか。具体的な方法も示せ。」これは私が通う学校の授業で出され
た課題です。私が総理大臣になったら・・・まだ未熟で無知な高校生の考えですが、17 歳が考える日本の在り方の一
端を聞いてください。
この度、首相公選制が取り入れられて、初めて、例外的に未成年で内閣総理大臣を拝命しました、内山菜々海です。
我が国をどのような国にしたいか、日本は数々の問題を抱えていますが、今回はその中でも特に、若者独自の発想を
生かした二つの方策について述べさせて頂きます。
まずはじめに、保育施設の問題について。女性の社会進出がいっそう進む中、保育施設の不足が常に課題となって
います。未就学児の保育については、小規模保育施設の増設、社内保育所拡充などといった、一定の効果が上がって
いるこれまでの対策を更に推し進めてまいります。
今回、新たに提案したいのは、小学生の放課後保育問題に関する方策です。慢性的な放課後保育施設の不足、小学
校3年生までという年齢制限、超高齢社会の問題を総合的に捉えて、高校・大学に、社会貢献を目的とした、地域ふ
れあい部やサークルを立ち上げるのはいかがでしょうか。その学生をスタッフとして、学校を終えた小学生、さらに
一人暮らしの高齢者などが自由に行き来でき、安全に過ごすことができる居場所を作りたいと考えています。夜遅く
まで働く保護者が安心して仕事と子育てを両立することにも、また一人暮らしの高齢者が有意義な時間を過ごすこと
にも、さらに、学生たちの夢発見や支援にもつながると思います。
さて、東日本大震災から3年と数ヶ月が経過しました。現在は、専門技術や専門知識を必要とする復興段階に入っ
ていること、また、歳月の経過とともに、震災の記憶が薄れたことなどから、最近、ボランティアの数が急激に減少
しています。震災2ヶ月後の2011年5月には、約18万人のボランティアが活動していたのに対し、3年後の2
014年5月には、約7500人というデータがこのことの顕著さを示しています。そんな中、私は、復興ボランテ
ィアを体験した方の「仮設住宅に住む方々は、話を聞いてくれる人を求めていたよ。今もその状況は変わらないよ。」
という言葉を思い出します。また、私が 3 年前ミュージカル公演のために被災地を訪問して感じたことは“画面越し
では真実は伝わらない” ということです。同じ日本とは思えない目の前の悲惨な状況に私はただただ呆然といし、涙
することしかできませんでした。
しかし、このような状況下でも、私達が届けようとした何倍もの笑顔を返してくれた子供たちがいました。また、
どうにかもう一度立て直そうという前向きさで、私たちにパワーを与えてくださる方が大勢いらっしゃいました。「こ
の力強さを私と同世代の人にも直に感じてもらいたい。話し相手になるという単純だけれど大切なことができる。こ
のことを知ってもらいたい。」
この思いから提案したいのが、若者向けのボランティアバス定期便です。具体的には若者のユーザーが多いインタ
ーネットを通じて、参加者を募ります。数ヶ月ごとに日帰りで現地に向かい、東北の現状を自分で見て、聞いて、感
じて、そして考えてほしいのです。同じ日本という国に住む人間として、自分に何ができるのか、何をしなければい
けないのか、現地の若者との交流会も開いて多くのことを吸収して帰って来られるような、そんな機会を提供できる
バスにしたいと考えています。もちろん、仮説住宅の需要がなくなるように、復興を進めますが、それが完了するま
での期間、若者にもできる支援で東北の方々を支えます。
これが、私が目指す日本のあり方の一端です。今の安全を維持し、ギヴとテイク、与える・与えられる、もてなす
・もてなされる、助ける・助けられるという価値観を大切にしてきた日本の美点を生かし、若い力で新しい日本を作り
ます。
以上、17 歳の視点で日本の二つの問題について考えてみました。私も約2年後、有権者となります。私の意見も日
本を動かす。成人としての大変大きな役割だと思います。「日本の未来を考える」ことそれは私の大切な家族、仲間、
これから出会う人々、そして私自身の未来を考えるのと同じです。みなさんも、大切な人とどのような日本に住みた
いか一緒に考えて見ませんか。ご清聴ありがとうございました。
千葉県
- 18 -
「さとり世代」は渡り鳥のように
千葉敬愛高等学校
3年
石野
瞭人
「車やブランド品に興味がない」、「高望みはせず、無理な努力も好まない」、…堅実で欲のない今どきの若者た
ちを、近頃は「さとり世代」などと呼んでいるそうです。モノが溢れた社会にいながら不況しか知らないこと。イン
ターネットで情報が簡単に手に入るぶん、社会を覚めた目で見てしまうこと。そんな背景が「さとり世代」を生んだ
などと言われていますが、皆さんは、どう思われますか。
「団塊の世代」、「バブル世代」、「ゆとり世代」、時代によって様々な世代の呼び名がありますが、それらの名
づけに、そもそも意味はあるのでしょうか。もし名付けることに意味があるとするならば、では、「さとり世代」と
名付けられた私達若者は、今後どのように生きていくべきなのでしょうか。
唐突かもしれませんが、私はこの問題について「恐竜の絶滅」という観点から論じてみたいと思います。なぜなら、
私は恐竜が大好きだからです。
私と恐竜との出会いは幼稚園児の時。祖父が買ってきてくれた恐竜図鑑がきっかけです。その大きさ、かっこよさ
に、私は一目で恐竜のとりことなりました。幼稚園から帰宅すると寝るまでずっと恐竜図鑑を眺めていたほどです。
小学生になっても熱は冷めず、恐竜の博覧会があれば何度も足を運びました。当時の友達からは「恐竜博士」と呼ば
れていて、将来の夢ももちろん恐竜博士になることでした。
恐竜の魅力と言えば、なんといってもその大きさです。最大級の草食恐竜の全長は三十メートル以上、バス三台を
並べた長さと同じと言います。もちろんそれだけではありません。種類の多様さもまた恐竜の大きな魅力です。皆さ
んは今から二億年後の地球の姿を想像できるでしょうか。実は二億年という途方もない期間、恐竜はその環境適応力
の高さで様々な種を生み出しながら、繁栄を続けました。しかし、六千五百万年前、恐竜たちはこの地球から忽然と
姿を消したのです。
恐竜絶滅の理由として最も有力なのが「隕石衝突説」です。巨大な隕石の衝突によって巻き上げられた塵が地球環
境を破壊したことが絶滅の原因だというのです。他にも理由があるのでは?と私は考えますが、とにかく何か大きな
力が働き、恐竜たちはこの地球から姿を消しました。しかし見方を変えれば、すべての恐竜が完全に絶滅したわけで
はないのです。六千五百万年前とは大きく姿を変えながら、恐竜は今なお生存し続けています。それは、「鳥」です。
ハトやスズメと巨大な恐竜。到底結びつきそうもありませんが、体のしくみや生態を見れば、すべての鳥が恐竜の子
孫であるのは明らかだと言われています。私は生命の不思議を強く感じました。環境の激変にさらされながらも、恐
竜はかろうじて次の世代へと子孫を残したのです。
六千五百万年前も今も、生命の営みというものに変わりはないのではないでしょうか。そして、人間もまた同じな
のではないでしょうか。
いつの時代も、人の生き方の基本は変わらないと思います。私たち高校生も同じです。東日本大震災の津波で壊滅
的な被害を受けた岩手県大槌町。避難所となった大槌高校で炊き出しなどに大きく貢献したのは、在校生たちでした。
「自分たちがお年寄りを支えたい」、その思いから、避難所となった学校で奮闘した中高生が他にも沢山いたと聞き
ます。また、18歳で亡くなるまで難病「ユーイング肉腫」と闘い続けた大阪市の久保田鈴之介さんは、「自分より
つらい思いをしている人のために役立ちたい」、その思いから、自分は自宅療養しながらも市に働きかけ、高校生の
ための院内学級制度を実現させました。久保田さんは最後まで大学進学をあきらめなかったと言います。精一杯生き
たいという願い、誰かの役に立ちたいという思いは私たち高校生も同じなのです。私は今、文系クラスで学んでいま
す。今でも恐竜は大好きですが、恐竜博士になるという壮大な夢は、「さとり世代」らしく、諦めました。しかし、
今の私には別の夢があります。それは英語の教員となって若者が世界で活躍するための手助けをすることです。環境
が恐竜を鳥へと変えたように、グローバル社会という現代の環境が、私たちに、世界に羽ばたく翼を持つことを要求
しています。だから私も、たとえ不器用でも翼を手に入れたい。環境が私たちの振る舞い方を変えさせたとしても、
いつの時代も変わらない大切なもの。それを守りながら、いつかは鳥になりたい、そう思うのです。何万キロも旅を
続けるたくましい翼を持ったあの渡り鳥のように。
- 19 -
東京都
つながっていく愛
日本大学第一高等学校 3年 岸野 萌生
2年前、
脳死と判定された 6 歳未満の男の子から 10 歳に満たない女の子へ心臓が移植されたというニュースを目にしました。
6 歳未満の乳幼児に脳死判定がなされたのは初めてのことだそうです。この移植手術のおかげで、女の子は元気に普段と変わ
らない日常をおくっています。この事例に限らず、日本では臓器移植を受けて元気に生活している人は 15000 人以上いるとい
うのです。
このニュースを見て、私は臓器提供を希望しようと思いました。なぜなら、私の臓器を提供することで生きられる命がある
と思えたからです。死んだ後でも私は誰かのために少しでも貢献したいと思ったからです。
そこで私は、臓器提供の意志を明示しようと、保険証の裏の 1 の番号に○印を付け、母に署名してもらおうとしました。し
かし母からの返答は思いもよらないものでした。
「あなたには臓器提供してほしくないわ」
「あなたの体にメスを入れられるのは耐えられない」
しかし、私は臓器提供の意志を翻すことはありませんでした。むしろ、この言葉に私は違和感を覚えたのです。例えば、私
の命を救うために手術の必要があって、体にメスを入れなければならない場合はどうでしょう。きっと両親はこう言うことで
しょう。
「子供を助けるためならやれることは何でもしてください」
つまり、私の体にメスを入れることは許されるのです。そして、心のどこかではこう思っていることでしょう。
「子供を助けるためなら他人を殺してもいい」
確かにこれは子をもつ親の性の一つであり、否定されるべきことではありません。しかし、なぜ臓器移植の場合と手術の場
合でこれほど対応が変わってしまうのでしょうか。「生きるべき生命を救う」という点では同じなのに。私は「他人のために
貢献したい」と本心から思っているのに。人々はこういって私を非難するでしょう。「それが親の『愛』というものだ」と。
両親は一所懸命に私をここまで育ててくれました。私が幼い頃、転んで顔に傷を負ったことがあります。その時両親は、顔
に傷が残ったら大変だ、きれいに傷が治るようにと、必死になって病院を探し、傷が完治するまで治療にゆきあってくれまし
た。
両親にそこまでさせた「愛」というものは、たかが高校生の考えた理屈を容易に超えるものである、きっとそう言いたいの
だと思います。
では、何が私にこの理屈を考えさせたのでしょうか。
それもやはり「愛」なのです。
私は臓器提供について打算的な考えなど全く持っていません。ただ純粋に「助けられる命を助けたい」、「どんな形でも役
に立ちたい」と思っているのです。それで人が助かるなら、どんなに私の体が切り刻まれても構わない。それが私の「愛」の
具現なのです。
それでも「親の子への愛と他人への愛は異質なものだ」という意見は出てくることでしょう。
中国の思想家である荀子の言葉にこのような言葉があります。
「青は藍より出でて藍より青し」
本来は弟子が師匠よりも優れていることの喩えとして、教育や努力によって生まれもった資質を越えることができることの
喩えとして用いられる言葉です。ですが、これは「愛」についても言えるのではないでしょうか。
私の愛は、両親が私を愛してくれたからこそ生まれたものなのであり、親の子に対するそれよりも大きな、より普遍的な愛
へとなることができるのです。そして一見すると親の愛を無碍にするかのようなあの理屈をとることで、私の愛は普遍的な愛
へと成長することができるのです。つまり、その二つの愛は同じところから生まれた、全くと言っていいほどに同質なものな
のです。
「臓器移植」は私なりの「愛」の表現方法のひとつです。それは決して両親の「愛」を無駄にするようなものではありませ
ん。むしろ一身に受けた「愛」、を多くの人に分け与えることのできる、大きな愛へと昇華させることのできるものなのです。
それでもまだ臓器移植に抵抗がある人もいるでしょう。しかし、「臓器移植」という形で「愛」を繋ぎ、その「愛」を受け
取った人がまた誰かに「愛」を与える…、こうして綿々と人と人とを「愛」で繋いでいくことができる…、
そんな世界になるなら「少しいいかな」と思いませんか。
ご静聴ありがとうございました。
- 20 -
東京都
第二の故郷の平和を願いながら
東亜学園高等学校 3年 ジェンディ 今夢
八月十五日、終戦記念日・九月十一日、アメリカ同時多発テロ・三月十一日、東日本大震災。これらの日は特別な日として私たち
に記憶されています。そうして強く記憶されることで私たちはその不幸に対し、改めて追悼の念を深くするとともに、誓いを新たに
したり、現状の問題点を改正・改善しようとの思いを強くしたりするのです。この他にも大きな事件、紛争、自然災害など、多くの
記憶されるべき日が存在します。しかし、それはあまりにも多すぎるが故、多くの場合、忘れ去られ、風化されてしまい、現実の意
味、力を失ってしまうのです。
二〇一二年八月二十日、みなさんはこの日の事を覚えているでしょうか。シリア北部のアレッポという都市で日本人ジャーナリスト、
山本美香さんが銃撃を受けて死亡したのです。この不幸は日本で大きな注目を集めました。そして、山本さんの行動は称賛され、シリ
ア問題への関心はどんどん高まっていったのです。
私の父はシリア人であり、私自身も小さい頃に何度か訪れたことから、シリアは私にとって第二の故郷といえます。その故郷で起き
た惨劇ということで、私は他の日本人以上に強い衝撃を受けました。
しかし事件から数週間もするとほとんど報道されなくなり、多くの日本人の記憶の片隅に追いやられてしまいました。シリアの状況
は刻々と悪くなるのに、日本では忘れられていったのです。
あれから三年、シリアにおける死者は15万人、難民・避難民は九百万人を越えているといわれています。しかし国際社会はあまり
にも目まぐるしく変化し、日々重大な事件、出来事が発生しているためメディアはそれらの動静を伝えるだけで精一杯です。その結果、
新しい動きがなく、ただただ被害が増えているだけのシリアという国は忘れられ、それ以上に、其の地で命を落とした山本美加さんと
いう個人を思い出すことはなくなってしまったのです。
人は二度死ぬといいます。一度目は肉体の死、二度目は人々の記憶からなくなってしまう時です。誰しもいつかは忘れ去られてしま
う存在です。しかし、その人の意志を受け継ぎ続けることはできるのではないでしょうか。山本さんは「戦闘ではなく、戦争で苦しん
でいる市民のことを伝えるために取材している」と述べていました。戦争をとめることはできない、戦争で苦しんでいる市民を直接救
うこともできない。しかし目の前の事実を取材し、メディアを通じて世界中に発信することで状況を改善できるかもしれない。
山本さんはシリア市民の苦しみを伝えることで、今の私たちに何をしなければいけないのかを問いかけているように感じます。
山本さんは生前、母校での講演で「知ったら責任が生まれる」と述べていました。戦地や災害地の人々の悲惨な状況を知ったからに
は、それを伝える責任が自分には生じるというのです。
では山本さんの命がけの行動を知った私たちにはどんな責任が生じるのでしょう。英語では責任を「レスポンシビリティ」と表現し
ますが、レスポンス、反応を示すことこそが責任の元なのです。見て見ぬふりをしたり、無反応で忘却してしまうことこそが無責任な
のです。
山本さんの行動を知った私たちの責任。それは何もシリアの人々を助ける運動をするということではないと思います。山本さんが社
会の中における自らの役割と責任をみつけ、日々、目の前の出来事を伝え続けたように、目の前の事柄に精一杯取り組もうという強い
意志と覚悟を持つことなのではないでしょうか。
こうした思いを持つことが、山本さんの遺志を受け継ぐことであり、山本さんを知ったものの責任だと思うのです。
私たち人間は忘れやすい生き物です。さまざまなことを忘れられるからこそ、幸せに生きていけるのかもしれません。また、世界中
には多くの悲惨な出来事が溢れかえっています。その全てに関心を持ち、解決のための行動をとることなど、到底できません。だから
こそ、私たちは日々、目の前にあることがらに精一杯取り組み、少しでも自分を高めるとともに、社会の中で他者に貢献したいという
思いを持たなければならないのです。
現在の私はシリア問題に対し、それを改善するための方策も力も持っていません。だからこそ、将来、国際紛争等で苦しむ人々の力
になれる職に就きたいと強く思っています。シリア人の血をひく日本人である私に課せられた役割があると感じているからです。その
ためにできること、それは当り前のことながら日々の日常生活を無駄にせずできる限りの努力をすることで、さまざまな力を高め、い
つでも他者を思う気持ちを持つことだと思うのです。そうした「当たり前」の積み重ねの先にしか将来はないと思うからです。
私は第二の故郷であるシリアに平穏な日々がくることを願い続けながら、高校生として目の前の日常を精いっぱい生き抜きたいと決
意しています。
- 21 -
神奈川県
農業が繋ぐ地域の絆
神奈川県立中央農業高等学校
3年
峯尾
昇汰
2011 年 3 月 11 日。東日本大震災によってコンビニ、スーパーからは食べ物が消え、普通であったことが普通で
なくなりました。
震災後 1 週間は流通がストップし、生鮮食品をはじめ様々な食品が店頭から姿を消しました。
さらに計画停電などで米が調理できなくなったり、水道が止まったりした地域も多くありました。
しかし、我が家は都市部にありながら三代続く野菜農家であるため、収穫した新鮮な野菜などが、食卓に並び、
店頭には食べ物が無い中で「家の野菜が食べられる、食べ物がある」という当たり前に感じていたことが、幸せで
あると実感しました。また、地域の方と、食品と野菜を物々交換したり、生鮮食品が品薄な状況で、地元の生産者
が頼られたりする光景を見て、食を通した地域の繋がりは、とても大切だと考えさせられたのです。
農業高校へ進学した私は、以前にもまして、我が家の手伝いをするようになり、収穫した中でも、見栄えが悪い、
大きさが不揃いといった理由だけで出荷できないトマトを見て、「もったいないなぁ」「丹精こめて作ったトマト
を、最後の1つまで食べてほしい。」と思っていました。
そんなことを考えていた昨年の夏休みに、インターシップとして農家さんの家へ研修に行きました。お世話にな
ったトマト農家の渋谷さんの家では、乾燥機を利用し、ドライトマトを作製し、直売所で販売していたのです。
その時、「これだ!!」と閃きました。規格外のトマトをドライ加工すれば、無駄にならないのではないか?ま
た、乾燥させるため、日持ちし、保存可能な非常食になるのではないか?
2 年生の修学旅行で被災地ボランティアに行くため、事前学習で、非常食について調べていた私は、我が家の規
格外トマトを利用した非常食作りを思いついたのです!!
生鮮食品が不足する災害時において、カリウムやリコピンがたくさん含まれているトマトならば、不足する栄養
分を補えるのでは。また乾燥させるため、たくさんのものが食べられないお年寄りの方や子供に、少ない量で多量
の栄養を得ることが出来るのではないだろうか。様々な発想が頭を過ぎり、私もドライトマトを作ってみたいと思
い、本校の先生にお願いをして、食品加工用の恒温器を借り、試作をはじめました。
その 1 ヶ月後、私は神奈川県内では初となる復興支援のボランティア修学旅行に行きました。被災地、陸前高田
市はまだまだ復興とは程遠く、見渡せば瓦礫の山、そして壊れたまま放置された防波堤などが目に入り、胸が締め
付けられる思いでした。ボランティアが終わり、民泊の方へ、震災への備えとして試作したドライトマトを、非常
食としての手がかりとなればと差し上げると、「高校生がこういったことをしてくれると心強い」と大変感激してく
ださり、応援してくれました。そして、語り部の方からは地元の中学生が先導して地域の人々と避難をした話など
を聞かせて頂き、「いざ」という時の為にも、地域と信頼関係を築いていくことの大切さを実感しました。
高度経済成長とともに発展して、置き去りにされてきた地域との繋がり。もし、今、都市部で大地震が起きたら、
流通網は麻痺し、食料確保の大混乱が起きるのではないでしょうか。
近年の農業生産は、利益を追求し、自分だけが儲かればよいという考え方が多くありました。しかし、先の大震
災を受けて、これからは自分だけのために農業をやっていては、いけないのではないかと思うようになりました。
そこで、「現代都市型農業」の新形態といえる、「地域と共生する」農業を行い、対策を考えることが急務であ
ると訴えていきたいのです。
農業を地域の食糧生産を担う大切な基幹産業として位置づけ、災害時の備蓄や、地域の食糧確保に努める食糧倉
庫の役割を担い、さらに農家だけで食料を備蓄するのではなく、ドライトマトをはじめとした防災食品を、行政と
連携し、災害時に多くの人にいき渡るようにするべきであると、強く考えています。
今後、私は地域との絆を深めて行くために、農場を開放し、野菜の収穫体験を通して、地域の方と一緒に防災食
品の加工を行い、地域のニーズを聞く食事会を行うことを考えています。そして、小中学校とも連携して農場が地
域コミュニティーや食育の場となれば、地域の住民同士の結びつきが強くなり、そのことによって災害に強い地域
作りができるのではないでしょうか。「現代都市型農業」とは利益を追求するだけではなく、「防災」、「備蓄」、
「食育」の役割も担う、人、世の中の為になる農業であると考えています。
東日本大震災で東北の人々がお互いを信頼し合える仲で助け合い、安心できた教訓から、農家が「地域の食糧倉
庫」、「農業が地域と人々を結ぶ絆である」と言われるように。
- 22 -
神奈川県
Shadowday を日本に!
鎌倉学園高等学校
2年
千葉
博史
皆さんは夢について考えたことがあるでしょうか。私にはパイロットになるという夢があります。でも、とても不
安です。なぜなら、机上の勉強だけではパイロットがどういう仕事か。どういう過程でパイロットになるのかなど分
からないことが多くあるからです。
では、どうすればいいのでしょうか。じゃあ、職業体験をすればいい。しかし、パイロットの職業体験などできる
はずがありません。あったとしてもそんな時間はないでしょう。だったら、働いている様子だけでも見てみたい。
そして、ある文章を思い出しました。それが、「Shadowday」です。なんとアメリカには職業の現場の様子を実際
に肌で感じることができる特別な日があるのです。その働いている様子を影のように密着して見る様子から、この日
は「Shadowday」と呼ばれていて、その「Shadowday」を日本でもキャリア教育の一環として、高校生活にたった一日
でも取り入れるべきだと私は考えます。
「Shadowday」の中で私が特に注目しているのは、実際に働いている大人を影のように寄り添い、仕事内容や仕事
に取り組む姿勢、職場での様子を観察できる「jobshadowing」と言われているものです。
その目的は生徒が社会に対する「気づき」を得ることで、仕事のイメージを持たせて、日々の学習での意欲を高め
ることです。また、仕事を見せる大人であるメンターや受け入れ企業についても、仕事の内容や仕事に取り組む姿勢
を見られるということは、自分の仕事を顧みる、また生徒に対し「憧れの人」になろうとする自己啓発につながり、
企業にとって人材育成の効果が期待できます。
ところで、「jobshadowing」は職場体験やインターンシップと同じように思われていますが、全く違います。例え
ば職場体験やインターンシップは三日から五日行われ、実際に体験するため職種が限られてしまいますが、「job
shadowing」は半日から一日行われ、仕事を「見る」だけなので職種が限られることがない、費用や時間がかからない
など、様々な点で違いがあります。
実は、沖縄県ではこの「job shadowing」が平成 19 年度からすでに実行されています。それは、「沖縄県キャリア教
育推進プラン」という若年失業者の改善を図る施策です。小学6年生は職場見学。中学2年生は職場体験。高校2年
生はインターンシップをしますが、それぞれ一年前に「jobshadowing」を行います。これはとても重要な役割をして
いて、小学5年生の目的として、夢と希望を育むための仕事についての観察軸を作ること。また、中学 1 年生の目的
として、生き方の自覚を深めるために、仕事と自分を結びつけること。高校 1 年生の目的として、具体的な進路選択
に生かすことや閉じた社会にいる生徒にチャンスを設けることと、それぞれ成長に合わせた目的があります。
そのおかげで、平成24年度に沖縄で行われた「jobshadowing」にはたくさんの感想が寄せられました。「自分へ
の挑戦状だと感じた」といった働くことへの意欲が向上することはもちろん、「相手が話している時に相手の目を見
ることができるようになった」というように普段は意識しないマナーが身につき、「働くのは自分の為じゃなく、他
人の為であると分かった」というような働くことへの価値観の変化が見られ、期待以上の効果がありました。
児童生徒と接したメンターからは「自分自身や仕事を省みて再認識できた」、「引き締まった」や「チームワーク
が強まった」など、表面上からは見えない社内効果もありました。このように、児童生徒だけでなく、受け入れ企業
にもたくさんのメリットがあるのです。
ところで、働いている皆さん。あなたは何のために働いていますか。生活をするためのお金をもらう。そういう人
もいますが、ほとんどの人は仕事にやりがいを感じているはずです。つまり、やりがいを持っているからこそ働き続
けられるのです。その「やりがい」を大人は再認識し子供は気付くことで、大人はその仕事をより一層頑張ろうと思
い、子供は将来の向上心をより一層高めることができます。
だからこそ、「Shadowday」を国民の日としましょう。つまり、私たちの生活の一部とするのです。未来を想像し
てみてください。私ならこう言います。
「今日、パイロットの人に会ってきたよ!パイロットは人の命を乗せるという意味で責任感が重くて大変なんだ。で
も、空から見る世界はとてもいい景色らしいよ。だからこそ、やりがいがある仕事。僕もあんなパイロットになって、
世界を飛び回ってみたいな。」
このように、将来に不安を持たない未来はそう遠くないのかもしれません。
- 23 -
山梨県
もしも、あなたの家が海に沈んでしまったら
山梨県立市川高等学校 2年 佐野 芽美
あなたの家が、海に沈んでしまうとしたらどうしますか。
私たちの今の暮らしは、経済開発により、大きく発展してきました。より便利になった暮らし。しかし、その便利さの代償として、
私たちは環境を犠牲にしてきました。
ゲリラ豪雨などの異常気象、水質汚染に大機汚染。いろいろな所で、異常なことが起こっているというのに、まだ、見て見ぬふりを
する気ですか。もしかすると、「自分には関係ない問題だ」と思っている人がいるかもしれませんが、これはあなたの住む地球の問題
です。あなたにも決して無関係ではないのです。
皆さんは、「ツバル」という国を知っていますか。そして、そのツバルという国で、今、一体どんなことが起こっているか知ってい
ますか。
ツバルという国は、オセアニアにある国で、南太平洋のエリス諸島にある島国です。さて。この国と環境問題、この二つに何の関係
があるのでしょう。実はツバルは海抜五メートルという、海水が浸水しやすい土地です。そのツバルが、今、沈没の危機にさらされて
います。なぜ、そんなことになっているのか。それは、温暖化の影響で、標高の高い場所にある氷河や永久凍土などの氷が溶け、海に
流れ込み、年々海面が上昇していることが原因です。ツバルの中でも、海抜の低い地域からだんだんと沈んでいきます。そして、最終
的には、すべてが海の中。
しかし、ツバルが沈みそうなのには、まだ理由があります。それは、人為的な開発。ツバルは、あまり丈夫ではない珊瑚礁が基盤と
なっています。そこへ、近代的な都市整備をおこなったことで、珊瑚礁が削られ、穴が開き、崩れやすくなってしまったのです。つま
り、基盤が弱くなり、地盤沈下も起こっているのです。さらに、島が沈んでいくと、土は海水を吸いやすくなり、土の中に海水中の塩
分がたくさん含まれることになります。すると、畑に作物が実らなくなり、食料不足に陥ってしまうのです。
今、お話ししたことは、何も「ツバル」に限ったことではありません。ツバルのように海抜が低い土地すべて、このような事態にな
っているのです。
日本は島国です。将来、このまま温暖化がこのスピードで進んでいけば、日本も沈むかもしれません。今、私の話をきいて「実感が
湧かない」「自分には関係ない」と少しでも思った人がいたならば、日本が沈んでしまったときのことを想像してみてください。その
時、辛い思いをするのは、あなた自身です。あなたの大切な子どもが辛い思いをするかもしれません。そんなの嫌ですよね。少なくと
も私は自分の子どもにそんな思いをさせたくありません。
私の住んでいる所は田舎ですが、自然がいっぱいで、人の温かく、とてもすてきな所です。少し不便なことはありますが、自分に子
どもができたら、そんな自然がいっぱいある場所で、のびのび育ってほしい。そして、そんな温かい場所で、温かい心を持った人に育
ってほしい、そう願うのです。だから、そのために、私は環境を守りたい。多くの自然を、未来の子どもたちに残してあげたい。私の
ふるさとだけではなく、日本中の自然を残してあげたい。日本はとてもすてきな所だから。
今、ツバルの人たちも、おなじ想いを持っているはずです。自分たちの子どもに、この国を残してあげたいと。海に沈んでしまったら、
足米です。その想いは叶わない。そんな悲しい思いを私は誰かにしてほしくはない。人ぞれぞれ、住んでいる土地には、大切な思い出
や思い入れがあるはずです。写真になんか収まらないくらいたくさんの思い出があるはずです。みなさん、そんな場所を守りたいと思
いませんか。あなたにだってできるはずです。
地球の環境問題は、大きな問題です。でも大きなことを為すには、いつも小さなことの積み重ねから始まります。あなたが少し気に
して生活するだけで、何かが変わるかもしれません。でも、あなただけではまだ、足りません。日本中、世界中の人々の力が集まらな
ければ、大きく変えることはできません。次の世代の子どもたちを守るのは私たちなのです。
あなたが、水を少し早く止めるだけで、誰かの命が救えるかもしれません。あなたがこまめに電気を消すだけで、誰かの笑顔を守れる
かもしれません。見て見ぬふりをするのではなく、きちんと向き合わなければいけません。あなたが少し生活を見直すだけで、見直し
てくれるだけで、問題解決への一歩を踏み出せるはずです。
さあ、変えていきましょう。私たちの未来を。私たちの力で。よく考えれば分かるはずです。最後にもう一度目を閉じて、ゆっくり考
えて見てください。もし、このまま地球温暖化が進んでしまったら、あなたの家が、海に沈んでしまうとしたら、どうしますか。
- 24 -
山梨県
航海 ―船乗りの使命―
北杜市立甲陵高等学校 3年 杉山 もなみ
海を船で渡ること。大航海時代、人々は自分の使命を遂行するために、荒れ狂う海、地図のない海に乗り出していきました。
あれから 400年。時は21世紀。「国際協力」という名の船も今この瞬間も航海しています。その船乗りの一人が、私が住む、山
梨にもいらっしゃいます。雨宮清さんという方です。
皆さんは日立建機の雨宮清さんをご存知でしょうか。カンボジアやアフガニスタンで地雷を取り除く機械の開発、そして実際に現地で
地雷除去活動をされている方です。実は私は、雨宮さんの地雷除去製作所の前に住んでいます。部屋の窓から何台もの地雷除去機が見
えるのです。私は、この光景そして雨宮さんが働く姿を見ながら成長して来ました。私が今の家に引っ越してきたのは3歳のとき。「あ
れはなあに?」窓から見えるその景色を不思議に思い、私は両親に尋ねました。『地雷除去機よ。あそこで働いている人は、カンボジ
アの地雷をなくすためにお仕事をしているのよ。』 『地雷除去機?カンボジア?』幼い私はこの両親の答えがよくわかりませんでし
た。しかし成長し、私の目の前に広がる世界の持つ意味を知ったとき。そのとき私は雨宮さんの生き方に深い感銘を受けました。そし
て「私もこんな生き方がしたい.開発途上国の人のためになりたい。』そう思うようになりました。
しかしやはり迷いもありました。「国際協力」という船に乗ることに。その船乗りになることに。恐い。不安。そして何より、自分
に国際協力ができる能力があるのだろうか。と。これもまた、隠すことができない私の気持ちでした。『どうして雨宮さんは地雷除去
活動をされているのだろう。私と同じように不安な思いはなかったのだろうか』それが知りたくて雨宮さんにご連絡を取ると、雨宮さ
んからお手紙をいただくことができました。 「今になって思うのです。神様は私をカンボジアの救世主とするために、あの老婆と少
女に引き合わせたのだ。と。」雨宮さんは,こう、書き連ねていました。雨宮さんは、中学卒業後高等学校には進学せず、すぐに就職
されました。仕事でカンボジアを訪れたとき、ある出会いをされたそうです。「あなた、日本人でしょう?日本人なら、私たちを助け
てください。」両足をなくし、それでも少女を背負った老婆から言われたその言葉。雨宮さんは言います。「その瞬間、私は自分の使
命を悟った。」と。機械製作に関してはプロとしての意識があったものの、地雷に関する知識はゼロ。でも、それが自分の使命である
と感じたから。地雷の除去は大きな危険がある。命が惜しくないわけじゃない。でも、「自分ひとりの命で何千人の命を救えるのなら
ば。」そんな思いで雨宮さんは使命を成し遂げることにしたのです。四年間という異例の速さで地雷除去機第一号が完成。「必ずあの
老婆と少女との約束を守る」という信念を胸に9 億円以上の開発費をかけ、通常の就業時間以外の全ての時間を使い、取り組んだ結果
でした。
そして雨宮さんはこう結んでいます。「夢を持ちなさい」「使命感を持ちなさい」と。 夢に向かって突き進むことで、使命感が出
てくるから。と。 そういう使命感が人間の力を最大限にする。自分が成し遂げたいことを描きなさい。その中で使命を見つけてあな
たが生きる道を決めなさい、と。私の夢。それは、世界に平等な医療をもたらすこと。そのために、医師となり途上国の医療を改善す
ること。それが私の夢。その夢に向かって突き進むことで見えてくるもの。それが私の使命。
ある調査によると、10代、20代の日本人のうち、途上国の未来が明るくなることを願う人は、ほぼ100パーセント。しかしそ
のうち、自ら途上国に行き、何らかの支援活動を希望する人は、わずか0.02パーセント。恐い。不安。自分には能力がない。
と考えている人が、たくさんいるのです。人は皆使命を見つけるために生まれてきました。確かにこの世の中のすべての使命が、国際
協力に関することであるわけではありません。でも、もしあなたの夢が、世界の平和や平等に関することであるのであれば、勇気を出
して、突き進んでください。すでにあなたは1万人に2人の道へ歩み始めているのです。
途上国の医療を改善する。
そんな夢を持つ私は、これから先、さまざまな困難に出会うことでしょう。そのとき私は、自分にこう問いかけるつもりです。
『己の使命は何であるのか。』と。恐い、不安、そんな気持ちは誰にでもあります。私にも、あなたにも、そして雨宮さんにも。
ですがどうか、そんな思いを乗り越えて、海を渡る決意、地図のない海を航海する決意をしてみませんか。そこにはあなたのその手で
救える命、変えることができる未来があるのですから。私も自分が描いた夢を持ち、その夢に向かい、歩み続ける一人、夢の実現の先
に待つであろうものを目指し,海を渡り続ける一人でありたいと強く思います。
- 25 -
- 26 -
新潟県
音楽と私
開志学園高等学校
3年
相田
あすか
あなたには、「ずっと諦めきれない夢」はありますか?
私にはあります。そして、その夢はある学校との出会いで「絶対に叶わない夢」から「叶うかもしれない夢」に変
わりました。
私は幼いころから歌とダンスが大好きで、将来は歌手になりたいと思って毎日歌って踊っていました。しかし、小
学校に入ってしばらくして、私は「現実」という壁にぶつかりました。
私の地元では歌手になるチャンスはありません。なので、わざわざ東京まで行ってオーディションを受けなければ
ならないということ。習い事を色々していたので、これ以上親に迷惑をかけたくないということ。もしオーディショ
ンに合格しても家からの通いではないと親が許してくれないこと。などのたくさんの問題点がでてきました。なので、
当然誰にも相談するころができませんでした。そして、その夢を人に隠し続けて、気が付いたら中学三年生になって
いました。
三年生といえば受験。皆が高校を決めて、その目標に向かって勉強している中、私はまだ進路を決めていませんで
した。理由は、将来の夢をまだ諦めきれていなかったからです。
高校の最終決定日の三日前になって、さすがに決めないといけないなと思い、わたしがよく相談する先生に相談す
ることにしました。先生に事情を説明すると、「ちょっと待ってて」と言って、ある学校のパンフレットを持ってき
ました。これが開志学園との出会いでした。開志学園にはヴォーカル科というのがあり、プロの歌手の方から直接レ
ッスンが受けられるそうでした。私はすぐに惚れ込んでしまいました。けれど、やっぱりあと一歩を踏み出せない私
に先生は「夢があることは素敵なことだと思う。人生一度くらい失敗することはある。そして、それが自分の選んだ
道ならまた頑張ればいいんだから、後悔しない選択をしなさい。」と言ってくれました。私は何かに解放されたかの
ように涙が溢れてきました。
しばらくして、私は担任の先生と両親を説得して、無事、開志学園に入学することができました。そして、念願だ
ったヴォーカル科に入りました。最初の方の授業は歌わないで、ライヴなどで必要な進行の練習として、自己紹介や
休日にどんなことをしていたかなどをマイクを使って皆の前で何度もやりました。しかし、みんなに比べて私は上手
くできませんでした。そして、できない状態のまま歌の授業に入りました。先生の出した課題曲は、皆が歌うと凄く
カッコいいのに、私が歌うとせっかくの歌も雰囲気がなくなっちゃう…そう思って、いつも声が小さくなっていまし
た。なので、私はいつも先生に「もっと自信を持っていいんだよ」と言われていました。自分でも分かっているけれ
ど、皆が上手すぎて自信を持って歌うことができませんでした。「歌が大好きなのに、どうして思いっきり歌えない
んだろう…」毎日がその繰り返しでした。
高校に入って初めての夏、国際音楽エンタテイメント専門学校で毎年行われているアニソン・ヴォーカルコンテス
トの募集が始まりました。「どうせ私は賞になんて入れないだろう…けど、ステージやコンテストに慣れるいいきっ
かけになるかな」と思い、エントリーすることにしました。そして、やっぱり出場するからには賞を取りたいという
来待も出てきたので、必死に練習をしました。
本番当日、楽屋に入ると何十人もの人の緊張感が伝わってきました。本番前に少しの練習時間があったので、その
時間をめいっぱい使って最後の練習をしました。自分の番が近づくにつれて緊張が大きくなっていって、今にも逃げ
出したい気持ちでした。とうとう自分の番になって歌い始めました。すると、だんだん楽しい気持ちが出てきて、自
然と緊張が解れてきて、今までで一番思いっきりうたことができました。結果発表の時に、私は絶対に賞には入って
いないだろうけど、楽しく最後まで歌いきることができたから満足していました。そして結果発表。オーディエンス
賞が発表され、「準優勝…相田あすか」…「え…今、私の名前呼んだ?」私は頭の中でパニックを起こしながらステ
ージに上がり、準優勝の賞状もらってからもしばらく実感がわきませんでした。帰りの電車の中、改めて賞状を見て、
実感がわきました。声が出ないほどの喜びでした。
その後、コンテストが終わってから自然と自信がついたのか、先生に「声量、前より大きくなったね!」と言って
いただけるようになりました。
今でもまだ自信を持って歌えない時があるけれど、コンテストがあったからこそ今の自分がいるのだと思います。
一年生の時から入っているチアリーディング部や、二年生から始めた第Ⅱ選択のダンスで、全身の表現力、リズム
感、笑顔が身に付くように日々励んでいます。チアやダンスはヴォーカルにも共通することがあるので、これからも
たくさん学んでいきたいと思います。
最近では、歌手以外にもやってみたい夢ができました。それは声優です。最近の声優さんは歌うこともよくあるの
で、歌って、踊って、声で役を演じる。そんな声優さんになりたいです。
どれも中学の時に決めた「後悔しない道」を選んだからこそ、今とても幸せなのだと思います。そして、開志学園
に入ったからこそ新しいものへの挑戦をすることができたのだと思います。
あなたは、「諦めてしまった夢」はありますか?
人生一度くらい失敗しても大丈夫。だから、一度は自分に正直に生きてみてはいかがですか?
後悔しない人生を生きてください。夢は自分で掴むものなのだから。
- 27 -
新潟県
平和学習のあり方について
新潟県立柏崎高等学校
3年
清宮
一貴
戦争をするのは良くないことだと誰もが考えていると、私たちは思っています。科学の発展が描くSFのような社
会は、子どもの頃には大変魅力的に思えました。しかし今、世界の現状を知ると、科学の発展そのものが人々のささ
やかな幸福をおびやかしている、矛盾した現実に気付きます。今の私たちに、本当に戦争のない平和な世界を目指し
ていくことができるのでしょうか。
小学生の頃からずっと私たちは、戦争をするのは良くないことだと教えられてきました。しかし、当時の私の実感
ひ と ご と
としては、言葉で聞いたり戦争に関する本を読んだりしても全く響かず、他人事のように考えていました。そんな時、
私は、中学校の平和学習で沖縄に行きました。アブチラガマという実際の防空壕の真っ暗な闇に入ったり、ひめゆり
部隊の資料館に行ったり、戦争を経験された方の話を聞いたりしているうちに、自分の中で何かが変わっていくのを
感じました。実際に戦争があった場所に行ったことで、今まではイメージでしかなかったもの、印刷物や画面の中の
平面的な世界で見ることしかできていなかったものを現実にあるものとして、今までは他人事でしかなかったことが
自分のこととして、捉えられるようになったのです。
この沖縄での学習を初めとして、中学生の時に私は、かつて戦争捕虜を収容していた施設のある新潟県上越市直江
津の平和記念公園、かつて天皇の避難場所として造られ日本帝国軍の本部など国の中枢が集められた長野県の松代大
本営と、さまざまな場所に平和学習に行かせてもらいました。
私の小学校時代の同級生に聞いたところ、実際に戦争があった場所へ行ってみたことなどないよと驚かれただけで
なく、その同級生たちは戦争に関して、何も知らなかったのです。教科書からの知識はあっても、自分が立っている
新潟の地が、長崎、広島と同じように原爆が落とされる予定の場所であったとも知らずにいるのです。
私は、このような現状を変えていかなければならないと強く思います。日本は唯一原爆を落とされた国であるから
こそ、平和の尊さや大切さについてもっと真剣に考えるべきです。そのためには、平和の尊さについて実感できる平
和学習が必要です。確かに、実際に戦争があった場所まで行くにはお金がかかります。しかし、平和の尊さをかつて
の戦地で実感することは、お金には換えがたい価値です。子どもの頃から何度でも実際に現地に行き、お金には換え
がたい大切なものを得ることができる平和学習を、すべての子どもたちに体験させるのです。平和の尊さというもの
は誰か一人でも知らない人がいたら意味がありません。
現在、戦争を体験された方が急激に少なくなってきており、戦争を語り継ぐ語り手がいなくなろうとしています。
元ひめゆり学徒隊の方の出張講話も、隊員の減少により終了を余儀なくされました。そこでビデオに撮って語り継ご
うという動きがあるようですが、私が実際に沖縄の地で戦争を体験された方の話を聞いているうちに自然とこぼれた
涙は、ビデオでは経験できません。情報の保存という観点ではビデオは優れたメディアです。しかし、その場での経
験にはどうしても劣ります。そこで、元ひめゆり学徒隊の方が生きていらっしゃる限り、スカイプなどのテレビ電話
を通じて話を聞くことを提案します。互いに相手の目を見て表情もわかり、質問もでき、なによりライブ感がありま
す。このライブ感が非常に重要だと思うのです。
経験することに勝る学び方はないと私は思っています。しかし、私たちはそのために戦場に行って実際に戦争をす
るわけにはいきません。医療現場などで実用化されているバーチャルリアリティーの技術を、平和学習に活用できな
いでしょうか。既存のゲームという疑似体験の世界では、戦争ものの多くは兵士対兵士の戦いです。しかし逆に、バ
ーチャルリアリティーによって民間人の立場で戦争を疑似体験し、無意味に命が奪われることの意味を実感すること
ができれば、それは平和学習になり得ます。科学が発達した今だからこそできる平和学習のあり方を、私たちは本気
で考える時期に来ているのではないでしょうか。
- 28 -
- 29 -
富山県
人と自然がつながる未来
富山県立中央農業高等学校
3年
有澤
翔太
「翔太、林業は 10 年、いや 50 年、100 年先の未来をつくる夢のある職業や」
祖父が口癖のように私に聞かせてくれた言葉です。私の祖父は富山県砺波市で山を3つ所有し、林業に携わってい
ました。今では、木々の大きさを測る際には機械を使いますが、祖父の時代には目と手で測っていたのでとても苦労
したそうです。林業は体力がなければ続けられないので、毎日本当に大変だったと言います。それでも祖父は、退職
した後も、「木をさわっていると落ち着くがよー」と言って自分の山に手入れに行くのを楽しみにしていました。私
もそんな祖父に連れられてよく山に行ったものです。
祖父の山は、スギの木が大半を占めており、その下では山菜もよく採れました。山菜やきのこの名前、食べられる
もの、食べられないものの区別など、祖父が話してくれることは小さな私にとってとても刺激的でした。
「これがタヌキの足跡や」「この木の傷はクマがひっかいたものなんやぞ」
直接見たことはありませんが、タヌキやクマも生息していると教えてくれました。しかし、祖父が木々の手入れを
することで、その下に草花や山菜が育ち、動物の食料となる木の実などをある程度残しておくことで、動物が山から
降りてくることが防がれていました。そのことで、人間と動物が共存できていたのです。しかし、私が小学五年生の
とき、祖父は亡くなってしまいました。それ以来、誰も山の手入れをしなくなり、山は荒れてしまいました。今では、
木が伐採されなくなって地面に光が届かなくなったために、草花や山菜も生えてこなくなり、小さな頃大好きだった
蝶々や昆虫の姿もあまり見られなくなってしまいました。たった数年で祖父の山から豊かな生命の鼓動が消えてしま
ったのです。
そうか、林業は木を育てて売るだけの仕事じゃない。山の手入れをすることで、動植物の生命を育む大切な役割があ
るんだ!祖父が言っていた「100 年先の未来をつくる」という言葉の本当の意味に気づかされました。
日本の木材自給率は約3割で、残り7割を外国からの安い輸入木材に頼っています。TPP など自由貿易が進められる
中で、日本の林業の衰退は、森の多面的な機能が失われることにつながります。
このままではいけない。祖父が誇りをもっていた林業という職業と祖父の山を守りたいのです。しかし、残念なが
ら富山県には林業を学べる高校がありません。どうすればよいか悩んでいると、農業を学ぶ従姉が「アグロフォレス
トリー」ということばを教えてくれました。アグロフォレストリーとは、農業を表すアグロと、林業を表すフォレス
トリーからできたことばで、カナダやロシアなどで始まった林業と農業の複合経営のことです。日本でも以前は、里
山という「人と自然が共存する場所」があり、林業と農業が同時に成り立っていました。今は人と自然の共存関係が
崩れてしまい、クマをはじめ野生の鳥獣による被害が増えています。この古くて新しいアグロフォレストリー、つま
り農業と林業の複合経営は、人と自然が共存する上で重要な切り札なのです。
アグロフォレストリーという新たな目標をもった私は、中央農業高校に進学し、環境にやさしい農業について研究
するとともに、棚田の保全活動や中山間地での野菜栽培にも取り組んでいます。林業については学校では学べないた
め、「とやまの森づくりサポーター」に登録し、「森づくり塾」基礎研修を受講しています。そこで森づくりを学ぶ
人の多くは 30 代以上の社会人で、高校生は私ひとりです。「もっと若い人たちに関心をもってもらいたい」と思うよ
うになりました。そんなとき、森づくりに取り組む高校生がいるという話を聞き来校された「草刈り十字軍」創始者
・足立原貫さんから「若い世代に身近な環境に目を向け、森作りに関心を持ってもらうための活動に協力してくれな
いか」と依頼がありました。40 年を超える歴史のある草刈り十字軍ですが、最近は高校生や大学生など若い世代の参
加が減少しているそうです。問題意識を共有する足立原さんとは、今後、高校生をはじめ若い世代への啓蒙活動を行
う際に協力していくことになりました。
私が思い描く未来、それは、祖父の山を受け継ぎ、「人と自然が共存する場所」を作ることです。そして、地域の
子供たちを招き、自然の中で共に学びたいと考えています。3つの山には、富山県が誇る無花粉スギやバイオマスエ
ネルギーに適したヒノキなど、それぞれ種類の違う木を植えます。平地に近い場所では山の豊かな土壌を使い、化学
肥料に頼らない農業を実践します。以前のように動植物の生命あふれる山を取り戻すのです。そのために、卒業後は
農業大学に進学し、先進事例を学ぶとともに、森づくりの研修や啓蒙活動にも継続して取り組みます。
人は自然を壊し続けては生きていけません。共に生きていくしかないのです。かつて祖父が私に教えてくれたよう
に。私はこれからもがんばります。人と自然がつながる未来を目指して。
- 30 -
富山県
「主張しよう」という僕の主張
富山県立魚津高等学校
3年
近藤
雄真
「近藤でいいんじゃない?」という無責任な言葉によって、クラスのみんなは一斉に賛同し僕は弁士に選ばれまし
た。そう、友達の放った無責任な一言によって話し合いもすることなく決まったのです。僕の学校では 1 年に 1 回弁
論大会というものがありクラスから代表を選出しなければなりません。積極的に出たがる人は少なく僕は多数決によ
って半ば無理やり選出されました。みんなに認められたというようなうれしい気持ちもありましたが、「こいつにや
らせとけばいいだろうという」という気持ちで嫌なことを押し付けられたような気がしました。僕は「多数決につい
て」という題で「何事も多数決で決めるのではなく話し合いをするべきだ」という主張をしました。それと同時に日
本人はあまり積極的に自己主張しないのではないか。自分やクラスのみんながそうであったように声に出して主張す
ることを避けているのではないか。そう思うようになりました。
日本人というのは、あまり自己主張しない国民であるといわれています。なぜでしょうか。
まず、一つには、教育の問題があると思います。僕は、中学校の時、集会の準備をしているとある先生に「マイクの
準備は私がするからいいよ」と言われました。準備をしないでいるとほかの先生に「なぜマイクの準備をしないのか」
と言われ「他の先生にしないでいいと言われました」というと「言い訳するな」と怒られた経験があります。こうい
う事はよくあることだと思います。誤解を解こうと説明しようとすると逆にもっと怒られる。つまり、弁解するより
だまっているほうがあまり怒られずにすむのです。日本の教育には、黙っていい子にしていればいいという風潮があ
るのではないでしょうか。おとなしくしていれば大人からいい子だ、賢い子だと褒められるのです。自己主張の強い
子供はあまり褒められないのです。
そして、もうひとつには「かっこいい」というのがあると思います。黙っていることに対しては、「潔い」「クー
ル」「男らしい」「謙虚」など様々なほめ言葉があります。みなさんは柔道の篠原という選手を知っていますか。シ
ドニーオリンピックの無差別級決勝で、明らかな誤審で負けてしまいました。一番近くで見ていた副審は篠原選手の
一本と判断したのですが、主審は見にくい位置におり、逆に相手に有効のポイントを与えてしまったのです。見てい
た監督やコーチ、アナウンサー、日本国民はみんな怒りました。おかしい、間違いだ、絶対篠原の勝ちだといいまし
た。しかし篠原選手の口からでた言葉は意外なものでした。「僕が弱いから負けたのです」と。なぜでしょうか。な
ぜ、篠原は「本当は僕の勝ちだ。僕の技は完全に決まっていた」と言わなかったのでしょうか。彼がもし日本人でな
かったらきっと「僕が弱いから負けた」などと言わなかったと思います。たぶん、これが日本人としての「かっこい
い」ということなのだと思います。しかし、これは本当に「かっこいい」ことでしょうか。
現在インタ-ネットやスマートフォンの普及で自分たちが言いたいことを言おうと思えば文字にして言うことはで
きます。だから「日本人は主張しているではないか」と言う人もいるかもしれません。しかし、僕はこのことが、み
んなが声にして自分の主張をしない原因の一つではないかと思います。文字ならば、顔もでないし声も出ない。ある
意味、言いたい放題で、自分の言葉に責任がない。インターネットでなら何でも言えるけれどもいざ面と向かうと何
も言えない。そんな人もたくさんいるのではないでしょうか。今日、ラインなどが原因で若者による殺人事件も起き
ています。これは、顔が見えないので悪口も面と向かって言うよりも言いやすく、エスカレートしてしまい犯罪につ
ながっているのだと思います。ぼくは、やはり、声に出して言うこと、自分の言葉に責任を持つことこそが今の僕た
ち、特に若い人たちにとって大事なことだと思うのです。
グローバル化が進む今日、ビジネスや外交で意見を問われることが多々あります。日本には「以心伝心」という言
葉があるように、言わなくてもわかるだろうという考えがあるのではないでしょうか。しかし、外国の人達と接する
ときは、物事をはっきり言う必要があります。日本と外国では文化が違います。こちらの考えや思いは言わないと伝
わらないのです。そして、日本人も相手の国の文化を理解することも忘れてはいけません。そのうえで、自分達の主
張をしっかりとしていくことが、今後、日本人が国際社会の一員として活躍していくためにもっとも大事なことだと
思います。
弁論大会の後、「多数決について」は大変反響を呼び多くの方々から意見をもらい、多数決についてみんな真剣に
考えてくれました。そして無責任な発言をしたと思っていた友達は僕に言いました「近藤の弁論すごく良かった。僕
もそのとおりだと思った。」この言葉を聞いて僕は弁論大会に出て良かったと思いました。そして自分の意見を発言
することはとても大切なことで、それを聞いてもらうことは素晴らしいことだと感じました。顔の見えるところで、
自分の声で発する言葉は、大変重みがあり、人の心をも動かすものであると思います。僕たちは言葉に責任をもつと
ともに、人間としても責任のある行動がとれる人へと成長していかなければなりません。自分の声で責任のある主張
をしましょう。これが僕の主張です。
- 31 -
石川県
里山里海と私
―未来につなげたい想い―
石川県立志賀高等学校
3年
坪野
里紗
みなさんの地域に、 お祭りは ありますか。昔からずっと続いているお祭り。太鼓や笛のお囃子が聞こえたり、獅
子舞が舞う 伝統的な祭りのことです。
私の地区の秋祭りにはそれらに加えて「巫女の舞」があります。幼い頃から巫女の衣装にあこがれてきたので、「巫
女をやってほしい」と頼まれた時はとても嬉しかったです。
とはいえ、お祭りは八月。獅子舞に比べれば優雅に見えるかもしれませんが、巫女の衣装は手首まで隠れる袖に、腰
から下全体を覆う袴。実際は、暑くて、重くて、結構大変なのです。
それでも毎年頼まれ、断る理由も見つからないので、私は中学生の時から巫女を引き受けてきました。ただ、今年は
少し違った思いで、巫女をしました。
天地の
神にぞ祈る朝なぎの
海のごとくに
波
立たぬ 世を
これは 巫女の舞の一つ「浦安の舞」の歌詞です。「浦安」という言葉には、「心の穏やかさ」という意味があり、
「朝なぎの海のように おだやかで争いの無い世の中を、天や地のあらゆる神にひたすらに祈っている」。
つまり、心安らかな平和を祈る心の舞であることを知って、私の中で何かが変わりました。
袴の「赤い色」にも意味がありました。あの赤は、正確には緋色といい、穢れを払い、生命力を意味するそうです。
また、手に持つ「神楽鈴」は上から3個、5個、7個の小さな鈴が付いていて、これは「稲穂」を表したものでした。
なんとなく憧れていた巫女の衣装ですが、それには、平和や五穀豊穣への願いが込められていたのです。そして、巫
女の舞はすなわち「自然との共生」をカタチにしたものだったのです。
ところで私が
こんなことに気がつくようになったのは、今年5月、「世界農業遺産」GIAHS(ジアス)の国際会
議が、能登で盛大に開催されたことがきっかけでした。能登に生まれ育った私ですが、はじめはその価値がよくわか
りませんでした。
どんなに「自然が豊か、空気や食べ物が美味しいじゃないか」と言われても、近くに大きなショッピングモールはな
く、ライブやコンサートに行こうにも、移動だけでかなりの時間がかかってしまいます。交通が不便な上に、少子高
齢化が進み、人口の減少も止まりません。かわらずあるのは 見渡す限りの 田んぼや畑ぐらいです。
しかし、授業で学んでいくうちに、認定された理由がだんだん解かるようになっていきました。
「千枚田」に代表される棚田やため池、それらをつなぐ水路、舳倉島の海女漁、定置網漁など、能登では昔からその
土地に合わせた、持続可能な農林漁業が行われてきました。
大きな奉燈をかついで、集落を練り歩く「キリコ祭り」や、田んぼの神様を家の中に迎え入れてお風呂をすすめたり、
ご馳走を振舞ったりしてもてなす農耕儀礼「あえのこと」なども、その農林漁業の営みのなかから生まれてきたもの
です。
現代の日本の多くの地域で失われてしまった昔ながらのいいものが、能登にはまだたくさん残っているのです。
私は そんな 伝統が息づく能登に育ち、能登の未来を担う一人として、今後も巫女として舞い、後輩たちに伝えて
いきたいと思っています。それこそが、この能登に生まれ育った者の責任だと思います。
作家の阿川佐和子さんは、「能登の若者たちへ」と題して次のようなメッセージをくださいました。
「日本人は長い年月 無い物ねだりをし過ぎたきらいがあります。それに若者たちが気づいて、大人たちに示してほ
しい。『ほら、こんなに優れた技が、愛おしい自然が、黙々と働き続けている先達が生きているじゃないか』と。」
世界はいまだに 混沌と憎悪が渦巻く社会を作り出していますが、この豊かな自然との共生が息づいた能登から発信
できれば、行き過ぎた人間の欲望にも歯止めがかかるのではないでしょうか。
私は、そんな思いを重ねて今年も舞います。
天地の
みなさんも
神にぞ祈る朝なぎの
海のごとくに
波
立たぬ 世を
自然との共生に思いを馳せて、お祭りに、伝統行事に、参加してみてはいかがですか。
- 32 -
石川県
「おふくろの味」は知らなくとも
石川県立七尾高等学校
3年
嶋田
有莉
「『おふくろの味』ってどんな味?」私はこの問いの前で立ちすくんでしまいます。
子どもにとって、親はとても大きな存在です。子どもは特に、母親に多くのことを教わり、成長していきます。無
条件に子どもを認め、成長を喜ぶ母親の存在は、子どもが困難に挑む大きな力となるのです。
ですが、この世には不完全な家族形態を持つ子どもがいます。親の離婚、病気、死別などが理由で、親ときちんと
向き合えないまま育つ子どもたちがいます。近年問題となっている少年犯罪。家族をナイフで刺すなどのおぞましい
犯罪。罪を犯す子どもには、不完全な家族形態を持つ子どもが多いのです。
実は、私も不完全な家族形態を持つ子どもの一人です。
私は今、父と弟との三人暮らしです。私が三歳の時、弟を産んですぐに、母は脳梗塞で倒れ、以来十三年間、植物
状態で病院に寝たきりです。その時から私の胸には、何か不透明な黒っぽいものがわだかまっています。
運動会の時、みんなは「お母さん!」と手を振り、最高の笑顔で頑張るのに、私には手を振るお母さんがいない。
病院に行けば母はいますが、私には母の声を聴いた記憶がありません。私にとって母は、透明な存在です。
父に「お前は普通の家の子じゃない」と言われるのは悲しいことでした。普通がどんなものかもわからないのに、
自分は何かが違うのだと常に感じていた私。家にも学校にも、自分の机はあるけれど、自分がどこにいるかわからな
い、そんな状態でした。私は次第に口数が少なくなっていきました。自分を本質から理解してくれる人がいない。本
当はありのままの自分をさらけ出して、子どもらしく遊びたい。でも、どうして良いか分からない。
小学三年の時に、家が火事になり、全てを失いました。表現する言葉を持たなくなっていた私は、だんだん周囲に
心を閉ざすようになりました。その頃、ひどいいじめに遭い、人を信頼できなくなっていました。
「お母さんに相談したい」病院で泣いてすがっても、返ってくるのは機械音だけ。
そんな私が、罪を犯さずに今まで生きる事ができたのは、逆説的ですが、家族の存在が大きいと思っています。確
かに母が不在の状態ですが、その分、父の存在が大きくなっています。父は、「お前は普通の家の子じゃない」と言
いながらも、他の子と比べても恥ずかしくないお弁当を、毎日作ってくれます。熊のように大きな背中を丸めて、毎
朝、台所に立つ父を見ると、愛されていると感じます。本当の「おふくろの味」ではありませんが、父のお弁当は、
私を温かく包んでくれます。
母が倒れたとき、父は私達兄弟を捨て、新たな人生を歩くこともできたはず。しかし、私達を育ててくれた。植物
状態の母を毎週訪ね、反応がないのに、懸命に話しかける父を見ると、私は愛情の子だと思えるのです。
人間には「承認欲求」があります。日本人は昔から、社会に抱かれて生きてきました。社会の中での自分の位置に
敏感な日本人は、他者からの承認を、特に必要としています。しかし、罪を犯す子どもは、その欲求が満たされませ
ん。自分に自信がないため、少しのことで動揺し、失敗し、また自信をなくす。この自信のなさが、自分を社会から
切り離し、また、自分から関わろうとしない人を、社会は排除するのです。
イギリスでコヤといううどん店を経営する小田周子さんは、イギリスと日本の両国の教育を受けました。小田さん
は、日本は独特の国だと言います。イギリスは他民族が共存し、さまざまな価値観が渦巻いてますが、その中で、個
人を尊び、その人のよいところを引き出す。反面、日本は和を尊ぶ集団主義ですが、だからこそ異質性を持った人に
は冷たく、無意識に人を区別すると言うのです。また、現在の日本では成果と承認は切り離すことができません。そ
のような中で、自信を持てない子どもの承認欲求は満たされるはずがありません。
罪を犯す子が抱えるこの悪循環は、自分の力では断ち切れません。温かく包むようではなくても、すばらしい言葉
をかけてくれなくても、悪いところも含め、無条件にその存在を認める母のような人が必要です。
私は、「おふくろの味」を知りません。ですが、もう立ちすくみません。本当の母の味ではなくとも、私を包んで
くれる味があるからです。その大きさを感じた今、心がすさぶ手前で救われたことに感謝し、血は繋がっていなくと
も、「おふくろの味」を人に感じさせ、無条件に人を包んであげられる人になりたい。そして、無条件に認め、支え
る人の大切さを、社会に発信し続けていきたいと思っています。
- 33 -
福井県
里からの恵みをつないでいくために
福井県立若狭高等学校
2年
新田
美優
「お母さん田んぼ靴買って。」それは私が田んぼの魅力に気づいた小学 5 年生のときのことです。総合的な学習の時
間の中で、学校近くの田んぼを見学に行き「なにがこの違いを生み出すのだろう?」という疑問をもちました。近く
にある田んぼ同士なのに、その様子は全く異なっていました。ある田んぼは、雑草もなく稲だけが生えており、水の
中には生き物の姿も見えません。中に入ってみると、土は少し硬く足がなかなか抜けないので歩くのが大変でした。
しかし、もう一方の田んぼには、カエルやタニシなど、たくさんの生き物の姿が見えます。中にはいってみると、土
がトロトロでずっと田んぼに入っていたい気分になりました。雑草も所々生えてはいましたが、その中の稲もなぜか
たくましく感じました。生き物がいっぱいいたのは、無農薬・無化学肥料でお米づくりをされていた田んぼ。 お米の
つくり方や、田んぼや水路の整備が、生き物のすむ環境に大きな影響を与えているということを知りました。
それ以来私は仲間と共に生き物と共生できるお米づくりに挑戦しています。活動の幅も少しずつ広がり、ハスプロ
ジェクト推進協議会、三方五湖自然再生協議会の方々と共に里地、里山の再生に向け取り組んでいます。
環境省の報告書によれば、全国の希少種の集中分布地域の5割以上が里地里山にあたるそうです。しかし、近年は
農山村の過疎化や都市近郊での開発の進展などの影響で、里地里山の質の低下や消失が目立っているといいます。
私たちの住む若狭地域でも、農業者の高齢化や過疎化よって里地里山が荒れていたり、農薬の空中散布などの影響
で、多くの生き物が姿を消したりしています。
高校生になった私はスキューバダイビング同好会に入りました。そこで海の調査や研究などをしていくと、海もま
たアマモやアサリなどの生き物も減っており、里地里山だけでなく里海も質の低下や消失が目立っているということ
がわかりました。海の生き物が減っている原因を調べると海に湧き出る豊かな水の減少でした。その海の湧水の減少
は、里地里山が荒れて山や田んぼに豊かな水をたくさん貯えることができなくなったからです。そう、里地里山を守
ることは里海を守ることにつながっていたのです。
だからこそ、里地里山里海を守る活動が重要になってくるわけですが、私は活動をする中で、充実感とともに大き
な壁も感じています。その壁とは、里地・里山・里海を守る活動が、一般の方々になかなか広がっていかないという
ことです。活動に対して、「ご苦労様」という言葉をかけてはくださるものの、どこか他人ごとで自分自身も関わっ
ていこうという意識が薄く、そこに、大きなジレンマを感じています。でも、実際田んぼに入ったり川や海で遊んだ
りすると、自然と直接触れ合う楽しさ、周りの人と世代を超えてつながれる楽しさがあります。もちろん美しい水か
ら生まれるおいしいお米、自生する山菜などの食べ物は本当に豊かなものです。この自然と触れ合うこと豊かな自然
の恵みをいただくことは、本来人と密接な関係であった里地里山里海に人が再び入ることとなるので、その環境保全
につながるのです。
里地・里山・里海。里から私たちが頂いている多くの恵みを受け継ぎ、次の世代へと繋いでいくためにはどうすれ
ば良いか。それは私たち若い世代が、里地、里山、里海の中に入り里の恵みを実感できる体験活動を行い、その保全
の重要性を感じ、共有していくことが大切だと考えます。昨年の夏、国連大学高等研究所との共催で「SATOYA
MA国際会議2013inふくい」が開かれ、私はそこで会議を締めくくるクロージングスピーチを世界に向けて行
う機会を得ました。そこで訴えたのは、以下のフレーズです。
「Everyone
other
and
in
Let’s
Fukui,in
work
Japan,and
hard
to
in
realize
the
our
world.Let’s
bright
hold
our
hands.Let’s
enjoy
learning
each
future!」
スピーチを聞いていた外国の方々は、「すばらしい。あなた達みたいな若い人材が必要だ。これからあなたたちが
先頭に立ってひっぱってね」と言ってくださいました。そして今、多くの人に自然と関わる楽しさや自然から頂いて
いる多くの恵みのすばらしさを知ってもらうべく、この場にいます。
みなさんも、小さな活動から始めて見ませんか。ちょっと野山や海へでかけ、カエルをさわったり、おにぎりを食
べたり、魚釣りをしたりすることから、里からの恵みをつないでいく活動が始まります。茨城の皆さん、日本の皆さ
ん、そして世界中の皆さん。みんなで手をとり、楽しみながら学び、里を守る活動に参加しませんか?里からの恵み
をつないでいくために!
- 34 -
福井県
私の世界を広げた音楽
福井県立ろう学校
2年
奥田
杏奈
私は、生まれつき聴覚障害があります。人の声も、音も全くない世界に生まれてきました。補聴器をつけています
が、全ての音を聞き取ることはできません。でも私は音楽を聴くことが大好きです。耳が聞こえないのに音楽なんて
わかるの?と不思議に思う人もいるでしょう。確かに聴覚障害者の中には音楽が苦手な人が多いです。でも、私にと
って音楽はなくてはならないものです。
私が音楽を好きになったきっかけは、あるドラマのテーマ曲でした。その曲を聞いたとき、音楽ってこんなに楽し
いものなのかと、自分の世界がパッと明るくなった気がしました。それからどんどん音楽が好きになりました。同時
に、好きな音楽を全部聴き取れないのが悔しいという気持ちも強くなりました。とうとう私は母に「どうして私は耳
が聞こえないの?もし聞こえていたら好きな音楽を思う存分聴けるのに。」と悔しさをぶつけてしまいました。する
と、母は「耳の聞こえない子に産んでごめんね。」と涙を流しながら何度も謝りました。けれど、こんなことを何回
言っても母を苦しませるだけだ。私の耳は治らないのだと泣きながら自分に言い聞かせました。それからは、気持ち
を切り替えて音楽をより良く聴ける方法を考えました。思いついたのは、母に音楽と同時に歌詞を指差してもらうこ
とです。すると前よりもずっと音楽を楽しめるようになりました。
この歌詞はどんな気持ちで書いたのだろう?この歌の世界はどんなだろう?と想像するのはとても楽しいことで
す。私の音楽の世界はさらに大きく広がりました。
高校生になると、自分の考えに自信が持てず、悩むことが多くなりました。そんな時出会ったのがゴールデンボン
バーの「らふぃおら」という曲です。この曲を聴くと、正解も間違いもないのだから、自分の想いを大切にして!自
信を持って!と背中を押されているように感じました。この曲は私の心の大きな支えとなりました。このように、音
楽には人の心を揺り動かす力があります。悩んだ時は答えを出してくれます。落ち込んだ時には元気づけてくれます。
時には考えを180度変えてくれます。
大好きなゴールデンボンバーのライブに初めて行った時、嬉しい驚きがありました。スクリーンに歌詞の字幕がつい
ていたのです!おかげで周りの人と同じようにライブを楽しむことができました。字幕さえあれば母に頼らなくても、
自分の好きな時に一人で音楽を楽しめるのです。音楽以外にも、例えば、映画やテレビの生放送、CMなど、全ての
映像に字幕がつけば、聴覚障害者も健常者も一緒に情報を得て、楽しむことができます。でもそういう配慮はなかな
か普及しません。それは障害者がどういうことで困っているかを理解している人が少ないからだと思います。聴覚障
害者は見た目では困っていることが分かりにくいのでなおさらです。
障害者と健常者が共に活動することで障害理解が深まる-そう考えた私は、いろいろなことに挑戦し始めました。
昨年は一人で地域の高校に交流に行きました。一緒に授業を受けたり、休み時間に筆談で話をしたりしました。また、
別の機会には一般の高校生に交じって保育のボランティア活動に一人で参加しました。そしてこの弁論大会にも参加
しました。こういう活動を通して、私が出会った多くの人に、聴覚障害について少しは理解してもらえたと思います。
何より私自身が多くの貴重な経験をすることができ、成長することができました。
私が音楽から得たもの、それは想像力、元気、勇気、そして行動力です。音楽は私の世界を大きく広げてくれまし
た。耳に障害があっても、ほんの少しの配慮で聴覚障害者の世界は大きく広がり、豊かになります。私は、これから
もいろいろな人との出会いを求め、自分の障害についてきちんと説明したり、手話を学んでもらって手話でコミュニ
ケーションを取ったりなど、積極的に働きかけていこうと思っています。障害を正しく理解してくれる人が増え、健
常者も障害者も関係なく、いろいろなことを楽しむのが当たり前の社会になるように、私は一歩ずつ前に進んでいき
ます。
- 35 -
静岡県
18 歳の君へ、投票できますか?
星陵高等学校 3年 相垣 梓
『震災から三年が経ちました』テレビから聞こえるその声に、気付かされた3・11。私の住む静岡県も地震のため、停電や断
水を経験し、震災というものを肌で感じました。それにも関わらず、今後を大きく左右する政府の対応や方針に、これといって興
味を示さない毎日。そんなある日、『選挙権、十八歳に引き下げか?』というニュースを耳にした私は、「え?来年から選挙に行
くの?そんなの無理だよ、私が国会議員を選ぶなんて…。」そう思ってしまいました。選挙権を与えられるという事に、なぜか当
事者の私は大きな不安を感じてしまったのです。それは、震災の一件のように、社会問題に関心があるとは決して言えない私が、
今持っている知識だけで投票に臨んだとしたら、たまたま街頭演説で見かけたことがある、テレビのワイドショーで耳にしたこと
があるなど、その程度の基準で投票してしまうからです。また、友人との会話で政治の話を持ち出した時に、自分が周りから浮い
てしまうのではないかと不安に思うこともあります。そのことを裏付けるように、日本の二十代の投票率は、たったの三十五パー
セントです。では、私たち若者は、なぜ政治について、こうも関心がないのでしょうか。どうすれば高い関心を持つことができる
のでしょうか。
選挙に関する各国のデータを調べてみると、解決へと導く鍵がスウェーデンにありました。みなさんは、「政党青年部」という
言葉をきいたことがありますか。これは、スウェーデンにある、若者たちだけで構成された政党団体のことです。私が興味をひか
れたのは、この団体が一般政党の下に属しているものの、思想や方針は党本部とは完全に独立しているということです。そのため、
本部と青年部は意見が対立することがしばしばあり、私は、若者の意見が大人と同じ様に尊重されている場だと感じました。さら
にスウェーデンでは、模擬選挙や立候補者を招いた討論会が定期的に開催されます。このような環境の中で育ったスウェーデンの
二十代の若者の投票率は、なんと約八十パーセントに達しています。政治に対する自分の意見を聞いてもらえる、そしてそれが政
治に反映される、だったら選挙に行こうではないか、という循環が、高い投票率の要因だと、私は考えました。
それに対し日本では、若者が政治に対して意見を述べたくても、それを国政に届けるルートがありません。これでは、自分の意
見が政治に反映されるという実感を持つことは不可能です。国政において、若者の考えを主張できる場が与えられていないところ
に最大の問題があるのではないでしょうか。
そこで私は、日本の若者の投票率を引き上げるために、一つの提案をしたいと思います。それは、新しい政党、『学生党』を設
立することです。これは、十八歳から二十代までの人々が集まる政党です。私はこの学生党に三本の柱を立てました。その一、十
八歳以上の若者なら誰でも党員資格を得ることができます。その二、学生党の中から国政選挙へ出馬する立候補者を立てます。そ
して、その立候補者になる人を党員による選挙で選びます。その三、学生党は国によって保障される存在であることです。他の党
によって、つぶされてしまっては困ります。以上のことを踏まえ、学生党の設立により、若者の主張が国政に届き、それが反映さ
れると実感できたとき、若者は積極的な一票を投じることができるのではないでしょうか。
さらに学生党の活動として、私が挙げたいのが摸擬選挙を行うことです。実選挙の前に模擬選挙の結果を公表することで、大人
の目が私たちに向きます。そして、若者の票を得るために立候補者は私たちの意見に耳を傾けようとするはずです。このような活
動をすることにより、学生党は 国政選挙に影響を与える事のできる存在になると思うのです。
社会性に未熟な若者が多い中、選挙権年齢を十八歳に引き下げることに、反対の立場をとる人々もいるでしょう。しかし何もし
なければ、若者がさらに、政治から遠ざかる結果になってしまいます。いま大切なのは、社会性に富んだ若者を育む環境を創るこ
となのではないでしょうか。私たちが、暮らしやすいと思う未来を創ることができるのは、今の私たちだけなのです。だからこそ、
十八歳のあなた、学生党を通し、若者による新しい風、一緒に吹き込んでみませんか。
- 36 -
愛知県
知識のワクチン
東海高等学校
2年
内田
智之
「救急車を呼んでくれ。」これは、授業中にねんざをした生徒が叫んだ言葉です。私は、足をくじいただけで救急
車だなんて非常識なやつなのだろう、ただ、と軽蔑していました。しかし、調べてみるとさらに非常識な利用があり
ました。「今日は入院日だから、早く診察してもらえるから、タクシーだとお金がかかるから」などです。
現在救急車の出動のうち
救急車の必要がない利用は 60%です。
私は初め、いかに日本人のモラルが低下し、救急車の不適切利用が多いのかと単純に思っていました。しかし、原
因はさらに根深いところにありました。確かにモラルが低下していて、また、以前と比べて救急車の安易な利用が増
加したことも否定できません。しかし、多くの利用は、自分では適切だと思っていたにも関わらず、結果的に救急車
が不要だったというケースです。 救急車
利用者のなんと 60%以上は初めての利用、つまり今まで救急車を呼んだ
ことがない人です。結果的には切り傷で血が出ただけ、熱が出ただけなのかもしれません。しかし、多くの人にとっ
ては今まで体験したことがなくパニックに陥ってしまうというのが実情です。
今、自分には関係ないと思わないでください。適切だと思っていた利用でも実は大部分が不適切利用なのです。自分
たちはそもそも救急車の必要の有無を判断できていないのです。
しかし、現実には、救急車の台数には限りがあります。救急車は限り有る財産なのです。
そもそも、救急車の本来の役割は、重症者をいち早く搬送することです。ただの病人を運ぶタクシーではない以上、
重症者が救急車を利用できるために、軽症者は別の手段で病院に行ってもらう必要があります。
この問題には、二つの対策が必要です。それは、今の救急車の安易に呼べる状況をなくすこと、その一方で救急車
を適切に呼べる知識を身につけること。
まず、現在の救急車を安易に呼べる状況は改善する必要があります。どんな公共サービスであっても、無料であれ
ば、水道水と同様
無駄遣いが生じます。これは医療においても同じことが言えます。かつて、高齢者の医療費を無
料にした時期がありました、その時、病院は高齢者で溢れかえり、救急や外来を正常に行えなくなってしまいました。
そこで。高齢者の医療費を一割負担にし、ようやく診療が正常に行えるようになったという経緯があります。救急車
も医療であり、適正利用には、今の医療費と同様、三割負担などの自己負担は必要です。現在の保険制度と同様、自
己負担をすることで、適切な利用が促せます。
しかし、これだけでは不十分です。
我々自身が自ら、いつ救急車を呼ぶべきかという知識を身につけること、知識のワクチンを打つこと。
が必要で
す。どんな感染症でも、ワクチンを打ち免疫を作れば、早く、正しく対処できます。知識でも同じことが言えます。
これが知識のワクチンです。自分たちが知識を得て、練習すれば現場でパニック状態に陥ったとしても、その中で救
急車を呼ぶべきかどうかの判断ができるようになります。
知識を得る、と聞くと。難しいように感じるかもしれません。しかし、実は難しいことではありません。最近では、
様々な病気を扱った病気やサイトなどがあり、必要な情報は十分載っています。それを自分で練習するだけでも大き
く変わります。また、各消防署や日本赤十字社でも救命講習が開催されており、誰でも参加でき、本格的な練習がで
きます。また、忙しい方でも、依頼すれば、消防署だけでなく、自分の職場や学校などで講習を受けることができま
す。
私は、この問題について、現場の救急隊員の方に、話を伺いました。その方は、二時間ほど今の問題点などについ
て話した後、最後にこのように述べました。「自分は救急隊員だから、どんな要請でも、呼ばれれば現場に行く。そ
れがこの仕事の誇りであり、やりがいでもある。しかし、今のまま救急要請が増え続けたら、本当に必要な人の元に
たどり着けないかもしれない。」
もし、今のまま我々が不必要な利用を続ければ、救急車が来れば助かったはずの命を落としかねません。そして、そ
れがいつ私たちの身に降りかかってもおかしくないのです。救急車という医療資源は限られています。そしてその資
源を枯渇させるのも、守るのも、我々一人ひとりの行動にかかっています。そして一人ひとりの行動が命を救うので
す。
- 37 -
三重県
農業が秘める可能性
皇學館高等学校 3年 城 貴斗
日本農業には国を栄えさせる力がある。
農業大国のアメリカ、カナダ、オーストラリアなどには、日本にはない広大な農地がある。農林水産省は輸入食品に頼る日本社
会に警鐘を鳴らす。TPP 問題では高い関税で農作物を守ろうとする政治家たちの姿が連日報道される。恐らく、日本の農業と聞け
ば前述した三点に加え、年中無休の重労働の割に収益が多くない、価格が他国と比べ高いなどのマイナスイメージが思い起こされ
る。
十八世紀後半のフランスで活躍した経済学者「ケネー」は 経済の立て直しのために農業を重要視すべきとの考えを表し、重農主
義の祖とされた。私は、ケネーを知る以前から日本経済の立て直し、日本国の飛躍のためにはまず農業を発展させるべきだと考え
てきた。そのための方法は三つある。これから政治の視点も踏まえつつ述べていこう。
第一は競争を生みだすこと。すなわち国が助成金を大幅にカットし農家の力のみで農業を行うということだ。日本は「減反政策」
つまり作付面積を減らし余剰を減らすという政策をとっている。因みに、この政策は 2018 年をめどに廃止される。農業を守るなら
むしろ逆で、たくさん作ってもらったほうが良い。そうすれば十中八九、価格に見合った「味」や「うま味」を出せない作物を売
る農家は淘汰される。「福祉国家の日本は弱き者を守るのが仕事」だと言う人も居るだろうが、それは違う。ここにきて初めて本
物の農家と趣味の菜園家とに差が生じるのだ。本物の農家は生き残るために必死に解決策を練る。家族経営がダメなら作物別に組
合を作ることも視野に入れるべきだろう。現に「アメリカ ポテト協会」「イギリス人参 協議会」などが海外では存在しており、
「ポテト協会」は独自の戦略でアメリカのみならず世界にシェアを広げている。また農家を農産企業とみなし、流通から販売まで
一手に担うのも選択肢の一つだろう。
第二は農地の海外移転。冒頭で述べた通り、日本に広大な農地が無いのは周知のことだ。どんなに品種改良がなされても収穫量
では他国には及ばない。一般的に、「農業は国内で自国民のための食料を生産するもの」というイメージがある。しかし、農業も
アパレル企業や自動車メーカーと同じビジネスである。人件費を抑えつつノウハウを生かせる場所で海外と戦うべきだ。
第三は「保育園、幼稚園から高校まで完全無償の給食制」を行うこと。皆さんの中にはご存知ない人もいるかも知れないが、世
界から豊かな国と認識されている日本であっても、毎日まともに食事が摂れない子供たちや私たちと同年代の若者がいる。「朝食
を抜くと勉学に支障をきたす」というデータも出ている。ならば、せめて給食によって栄養が摂取できるようにしなければならな
い。これこそ福祉国家日本として本来のあるべき姿だと確信する。また、学校はなにも学問だけを教える場所ではない。教育を受
ける場所だ。それなら「食育」も重要と考えられる。そもそも「食」とは人を良くすると書く。小説家、村井弦斎の著書『食道楽』
の一節に「徳育よりも体育よりも食育が先」とある。伊勢神宮の外宮に豊受大神という食物・穀物を司る神様が祀られているよう
に日本の根幹には食がある。日本が裕福になるにつれて、食も豊かになってきた。現在の日本の味は他国に劣るどころか、より優
れており「日本食を世界遺産に」という声があるほどである。その上、値段に見合う確かな味がある。だからこそ給食に使う食材
は原則、地産地消とする。どうしてもダメなら海外移転した日本農産企業が作った作物を使う。米も野菜も肉も魚も牛乳も。そし
て、子供たちに食育の授業として年に数回は、自分たちの給食の過程を知る校外学習として農業、漁業、畜産、酪農を体験させ、
その作業の大変さや面白さ、重要性、達成感を肌で感じさせる。農家の後継者不足は子供が農業に従事する機会が全国的に激減し
ていることにも起因する。体験型授業を施すことにより、子供たちの中から将来就きたい職種の一つとして農家や漁師といった職
種が挙がることが期待される。
もちろん完全給食制に伴って、各校に給食室を増設して職員を雇わなければならない。約二万校の小学校、約一万校の中学校、
約五千校の高校すべてで行えば少なくとも二十万人以上の雇用が生まれる。この無償の給食制度は莫大な税金を使うことになる。
しかし教育面でも経済面でも大きな利があるのは間違いない。全国民によって育てられた子供たちが次の世代の子供たちのために
給食費を払うという意識が芽生えれば納税の見方も変わる。
世界史で見る「農業革命」は鉄製農具の誕生や農具の発達という過程から始まる。だが、これからは違う。農業は単なる農作物
を生産する産業ではなく、収益を生み出す商業でもあり、人の能力を向上させる産業でもある。
日本で農業革命が達成されれば、「教育革命」そして「経済の発展」、つまり「国力の向上」に繋がっていくものと確信する。
私は日本農業が秘める可能性に壮大な夢を持っている。
- 38 -
三重県
「当たり前」って何だろう?
三重県立相可高等学校
3年
村岡
菜摘
「このゲーム楽しいからやってみ」
電車内の優先座席で話す学生。
「優先座席やからスマホの電源切りなよ」
そう心の中で思いましたが、言葉にできませんでした。
「スマホ依存症」最近よく耳にする言葉です。食べながら、お風呂につかりながら、歩きながらなど「ながらスマホ」
をやめようの CM が流れるほど、スマートフォンに向き合う若者達。
特に、私は、食べながらスマートフォンに触ることが信じられません。時間と手間をかけて料理を作ってくれた人
に対して、さらには、命の代償である食べ物にも失礼だと思います。
私が毎日食べるお弁当は、誰にも負けないおいしさだと自信をもっていえます。なぜなら、母の手作り弁当だから
です。母のつくる弁当には、冷凍食品やスーパーで買った惣菜はいっさい入っていません。母が手間と時間をかけて
作ってくれるお弁当には愛情がたっぷりとこもっています。
毎日「当たり前」のように作ってもらって食べていますが、その「当たり前」に感謝する気持ちを忘れないでいた
いと思います。
「当たり前」とよく言いますが、「当たり前」とはどういうことでしょう。
私は、「当たり前」には、生活していく上での「当たり前」と、人間としての「当たり前」があるように思います。
「当たり前」に食べること、「当たり前」に寝ること、「当たり前」に勉強すること、「当たり前」に遊ぶことな
ど、
私の生活の中には「当たり前」のことがたくさん存在します。
しかし、私たちが「当たり前」に生活している今、この「当たり前」のことが「当たり前」でない人たちが世界に
はたくさんいます。例えば、ガーナの子どもたちです。ガーナの子どもたちは、私たちが安い値段で「当たり前」の
ように食べるチョコレートの原材料カカオ採取の仕事をします。子どもたちは、学校にも行かず、働いています。ガ
ーナの子どもたちには、日本の「当たり前」が存在しません。このことをどのように考えていくのか。私に何かでき
ることはないのか。チョコレートを食べる時には、そのもどかしをもちながら、「当たり前」とは何かを考えていま
す。
「人間としての当たり前とは何か」
現代社会において、素晴らしい能力や技術をいくら持っていても、遅刻をしたり、約束を守れない人は信用されま
せん。遅刻をしないこと。約束を守ること。「当たり前」のことです。
いくら能力や技術が高くても、人としての基本ができていなければ、社会からは受け入れられません。他人に対し、
遅刻をせず、誠実な態度をとり、約束を守ることができて、はじめて人は評価されるように思います。遅刻をしない
ことや約束を守ることに関して、高い能力や技術は必要ありません。
「当たり前のことを当たり前にする」
この「当たり前のことができる力」を身につけることが、人間としての「当たり前」だと思います。
ある企業の「当たり前のことを当たり前にする」エピソードをインターネットで見たことがあります。そのエピソ
ードを紹介します。
今まではトイレ点検を行う際、単に汚れの有無を見るだけでした。しかしあるスタッフが、考え方を変えたそうで
す。それは鏡を普段より念入りに磨くことでした。お客様がトイレに入って、そのお客様がどれだけ気持ち良くトイ
レから店内に戻っていただけるかを考えた時に、出る直前に見るであろう鏡をピッカピカにすることで気持ち良くな
っていただこうと思いついたというエピソードです。
汚れをきれいにするのは「当たり前」ですが、さらに、鏡をきれいにする。なるほどなってすごく感じました。
「当たり前」のことを「当たり前」にする。このことってすごく難しいことだと思います。
「当たり前」のことを「当たり前」にする。この一つ一つの実践が、自らを高める大きな原動力になると信じたい
です。
何事に対しても、一つのことをやり遂げるのに近道は存在しません。「当たり前」のことを「当たり前」に一歩一
- 39 -
歩、
着実にこなしていきたいです。そして、「当たり前」のこととは何かを常に考えながら、しっかりと人生の道を歩ん
で
いきたいと思います。
滋賀県
人は画面に何を(夢)見る?
立命館守山高等学校 2年 中合 真依
まず、質問させてください。あなたは「画面」と言われたときどんなものを思い浮かべますか?私の周りの大多数の人たちは「テ
レビ」と答えていました。ほかにもパソコンやディスプレイ、ゲーム機にケータイ、スクリーンと電光掲示板…―私たちの周りは
ありとあらゆる「画面」であふれています。特にテレビは一家に一台、ケータイは一人に一台あるというのが当たり前の世の中。
画面はもう人間にとってなくてはならない存在です。
まず、1日に1回は電源をつけるテレビ。
国産テレビ第一号が発売された 1953 年から今年で 60 年目になりました。発売当初の番組内容は大相撲やプロレス、プロ野球な
どスポーツ番組がほとんどでした。しかし今では、たくさんの情報を手軽に知ることができます。国内外のニュースは毎日チェッ
クできる、アーティスト本人の映像を見ながら音楽を聴ける、外国の旅行番組を見て思いをはせることができる、などテレビは私
たちの生活を鮮やかに彩ってくれます。
しかし考えてみてください。あなたは昨日見た番組の中でどんな疑問点が浮かんだか覚えていますか?また、その疑問点は解決
しましたか?
私が考えるテレビの問題点は、多くの人たちが分かったつもりで視聴しているのではないか、ということです。テレビは流れて
いく情報量が多すぎてどうしても理解に個人差が出てきてしまいます。自分の理解力にテレビは合わせてくれません。それにもか
かわらず、人はそのとき感じた疑問点をメモすることも調べることもなく、曖昧に流してしまっているのです。これではいくらテ
レビを見ても、新たな知識を継続させることができません。有限な時間を「ただテレビを見て楽しかった」という無意味なものに
してしまっているのはあなた自身なのではないでしょうか?テレビの情報を「知ったつもり、わかったつもり」の人だらけで、自
分の知識にする人はほんの一握り。これはテレビが作り出した“知識の希薄化”だと私は思います。
次に、触らない日はないといっても過言ではないケータイ。
初のデジタル方式携帯電話が発売された 1993 年からたったの 20 年で日本人のケータイの所有率は 94%を超えています。さらに、
タッチパネルで操作を行うスマートフォンは初登場からわずか5年で所有率 50%を超え、まさにケータイを“携帯”するのが当た
り前の時代になりました。私も現在、スマートフォンを使っていますが、本当に便利な画面だと思います。気になったことはイン
ターネットを介してすぐに検索することができるというのはスマートフォンの一番の良さといえるでしょう。また、知り合いとチ
ャットができるアプリや自分の想いをつぶやくアプリなど様々な種類のアプリを活用することによって自分の知らない世界を知る
ことができます。
しかし、考えてみてください。あなたは家でも外でもケータイの画面とにらめっこしていませんか?また、誰かと時間を共有す
るとき、常に手にケータイを持っていませんか?
私が考えるケータイの問題点は、1日の空き時間のほとんどをケータイに費やしてしまう、ということです。暇になったらすぐ
にケータイを開く人がいます。友達と会話しているときに平気でケータイを開ける人がいます。さらには家の中にいる家族同士で
の会話をわざわざケータイでおこなうお家があります。あなたはどうですか?違和感を覚えませんでしたか…?
ケータイはどうしても触り始めると止まらなくなります。それは、触っているうちにどんどん気になることが増えたり、友達の
メッセージに返信したりとやることがたくさん出てくるからです。しかし、その行為がたとえ目の前にいる人を無視した形になっ
てしまっても…それは、やらなければいけないことなのでしょうか?ついついケータイ画面を見てしまう、が互いに日常になって
しまったとき、2人の会話はほとんど無になります。また電車の中ではみんながうつむいて小さな画面に目をこらしています。そ
れに気づいたとき私はとてもぞっとしてしまいました。目の前の友達よりも画面の会話。いつからこんな風になってしまったので
しょうか?これはケータイが作りだした“人間関係の希薄化”だと私は思います。
☆私たちが「画面を活用するためにほしい!」と生まれてきた道具たちに、今、私たちは飲み込まれています。こんなにテレビは
面白い?こんなにケータイに会話の履歴がたまっている?ではあなたの中には何がありますか?画面から離れたとき、あなたの手
には何が残っていますか?画面で得ていた“知識”“人間関係”は、すべて本物ですか?それとも現実にはない、夢…?
- 40 -
滋賀県
農業に対する私の思い
滋賀県立湖南農業高等学校 2年 時岡 桃加
今年、2013年9月16日に台風18号が近畿地方を通過し、滋賀県には「特別警報」が発令され、大きな災害となりました。私
の町でも、強風が吹き荒れ、視界が遮られるほどの豪雨、川は増水し、はん濫して道路が見えなくなってしまいました。嵐の去った次
の日、いつものように通学路である田園沿いを走っていると、思わず、その場に立ち止ってしまいました。よく目を凝らして見つめて
いると、大きな湖があったのです。かすかに稲の葉の先端が見えました。確かにここには見慣れた田畑が広がっていたはずです。しか
し、汗水を垂らし、手間暇かけて大切に育ててきた農作物が一瞬にして無残な姿となってしまったからです。農家の人の悲しげな顔が
脳裏に浮かびました。しかし、何も出来ず、その場をあとにしました。
そもそも農業とは何なのでしょうか。農業とは土地を利用して作物を栽培し、または家畜を飼育して衣食住に必要な資源として生産
する生業のことをいいます。この8月に長野県にある八ヶ岳中央実践大学校で体験実習に参加しました。豊かな自然、澄んだ空気、広
大な敷地の中にある学校で、私は酪農コースを選び、3日間、学習をしました。主に乳牛の世話を中心に様々な作業に取り組みました。
この実習を通じて生き物を育てる楽しさ、辛さを学びました。動物は自分を頼りにしてくれば愛情が深まるし、親心も付いてきます。
それは作物でも同じことです。ただ言葉を発さないだけでちゃんと命あるものです。
学校でも自分の畑を持ち、ダイコンとハクサイの栽培をしています。害虫駆除、草引きなどの管理だけでなく、「元気に成長してね」
と語りかけながら、おいしい野菜が育つように努力しました。この経験から農業の魅力とは農業が単なる仕事ではなく、田畑を中心と
した生活も含めた営みの中で、その楽しさにあると思っています。こうして、自然の恵みを享受する中、私たちは生きているのです。
身近な環境にも目を向けてみました。私たちの営みで出る生活排水。下水道は整備されたものの、琵琶湖の富栄養化の問題は解消さ
れていません。南湖には、大量の水草が繁茂し、船の航行の障害となり、固有種の魚の減少につながるなど、大きな問題となっていま
す。もちろん、多くの栄養分を琵琶湖に垂れ流しているのが大きな原因ですが、何か対策はないのでしょうか。
以前、琵琶湖周辺の田畑は、琵琶湖で刈り取った水草を鋤込み、肥料としていたようです。草津市でも湖岸の農地では、一反あたり
10俵のお米がとれ、内陸部では6俵しかとれなかったそうです。先人の知恵ともいえる、琵琶湖の水草を緑肥として利用した物質循
環が行われていたのです。
本校では、この水草を堆肥化したものを利用して、農作物の生産に取り組み、収量や食味においてその優位性について研究を進めて
います。また、環境教育のモデルとして、地元の園児・児童らに水草堆肥を知ってもらい、この堆肥を用いた、農作物の栽培をして、
おいしく食べる活動を行っています。
小学校への出前授業でも琵琶湖の物質循環をテーマにした環境学習を行い、子供たちの環境への興味関心が高まっています。
これらはまさに「Act Locally」、地域に根ざした、物質循環や地球温暖化防止など環境問題に焦点をあてた取り組みだと言えるで
しょう。また様々な世代と次々と取組が繋がっている点は、人的な循環もできる、有効な環境保全活動だと思っています。
先ほども述べましたように、生活と環境、そして農業には密接な関係があります。将来、本当の意味での「環境に優しい循環型社会」
を実現するためには、スマートな農業の存在が不可欠なのです。「私たち人間が、自然と調和し、「命」を連綿と紡いでいく。」永続
的な人類の繁栄には、生きていく生業として農業が本当に必要です。
げんたん
現在、日本の農業を取り巻く環境は、TPP への参加や減
反政策の廃止など多くの課題を抱えています。でも、これらの課題を解
決するためには、農業の本質を理解することが不可欠です。
本当に、農業の持っている「本質」を問い直したいのです。
多くの事を話して、話つくして、実践して、そして考えて、考え続けて、やっと答えが出るはずです。
本質が、解った時、今の多くの課題を乗り越える事ができると思っています。だからこそ、これからは、農業に対峙し、そして、農
業を、私の「生業」として生きていきたいと考えています。
- 41 -
奈良県
伝える?伝わる?
奈良県立高田高等学校
3年
吉原
智美
夢は、小さければ小さいほど美しく、儚ければ儚いほど魅力的です。現実の厳しさや自分の弱さから目をそらし、
清らかで美しいものに憧れるのが、青年期に特有のものではないでしょうか。
私には小学校の頃、その時の私にとっては途方もないほど大きな夢がありました。高校野球の奈良大会のテレビ放
送で見た一人の女子高校生がその夢の始まりでした。彼女は華やかで、知性や教養ととびきりの笑顔で元気よくリポ
ートをし始めました。小学校六年生だった私は強い感動を覚えました。
私は現在生徒会の副会長をしていて、同時に放送部にも入っています。今までに、私は人に何かを伝えていく時に、
うまくいかなかったことはあまりありませんでした。普段生徒会の役員や友人達と話をしますが、身の回りにいる人
同士は何でも話し合え、互いにわかり合えるのが当然だと思って過ごしてきました。
しかし、実際には、言葉数の多さや美しさだけでは伝えきれないことがあると感じはじめました。恐らくこれはこ
こにいる皆さんが経験したことだと思います。
私たちは小さい頃から携帯電話などでのメールを当たり前のように使ってきました。メールも伝えることができる
大変便利なものですが、時として顔を合わさないのをいいことにして、メールによって一人を集中攻撃して、それが
原因で自ら命を絶つという悲しい事件も起こっています。
高校に入学し、あの先輩にあこがれていた私は、スタンドリポーターに応募しましたが二次面接の結果不採用に終
わりました。手ごたえがあったのでとてもショックでした。それからは、レポーターって何なのか、そもそも「伝え
る」って何なのか、生徒会役員として全校生徒の前に立つときにどうしたらみんなに正確に伝わるか、そんなことを
考えるうちに「伝える」ことについてこんなふうに思い始めました。
私が何かを伝えようとする時、何とかして自分の思いを「伝えよう」としてきました。そこには「自分はこう思う
ので、聞いているあなたたちはそれがわかって当然なのだ」という自分がいます。いつでも自分が高いところにいて、
相手に伝えているのだと、無意識の中にそんなことを思っていました。しかし、「伝える」ということは高いとか低
いとか、伝えるとか、伝えてもらうとかではなく、自分の中の豊かさや謙虚さによって「自然に伝わる」のではない
かと思うようになりました。「伝える」というのではなく、「伝わる」ように努力すべきであることに気がつきまし
た。
「目は口ほどにものを言う」とか、「以心伝心」という表現や、「秘すれば花」という世阿弥の言葉は、「伝え
る」ことの大切さや難しさを示すとともに、技術や飾り以上に大切なものがあるいということを意味しているのでは
ないでしょうか。
二年生になって、再度スタンドリポーターに応募しました。面接では私の思いが全部伝わるようにと思いで臨み、
念願の合格をいただきました。
レポーターの仕事のある日は、選手や監督の方々、またはご両親にインタビューさせていただき、本当に充実して
いました。そのほか高校野球に関する知識も必死に学びました。戸惑いや悩みもありましたが、高い低いではないこ
とをいつも心に持って「伝わる」レポートを心がけました。後から母や友達から「元気いっぱいでよかったよ、楽し
そうやったよ」と言ってもらい、私の何かが視聴者に伝わったのは、言葉遣いや態度だけによるものではなく、私が、
謙虚で豊かな何かを持てるようになったからではないのだろうかと、感じることができました。
昨年、二〇二〇年のオリンピック開催地が東京に決まりました。その時の最終プレゼンテーションで、骨肉種によ
り足を失われた、パラリンピック女子走り幅跳び代表・佐藤真海さんが「そして何より、私にとって大切なのは、私
が持っているものであって、私が失ったものではないということを学びました」と伝えた時、その思いが伝わらなか
った人がいたでしょうか。
私にはアナウンサーとして東京オリンピックに関わりたいという淡く儚い夢があります。伝えることで人が命を落
- 42 -
とすことがないよう、伝えることで命をはぐくめるよう、伝えることではなく伝わることの喜び、伝わることの力強
さ、をいつも思いながら、夢を夢で終わらせないための青春後期を送っていきたいと思います。
奈良県
つながりの世界を生きる
奈良学園登美ヶ丘高等学校 2年 塚本 真衣
高校生になったある日、私は友人と東大寺の大仏を見に行きました。多くの観光客でにぎわう中、突然、一人の外
国の人に写真を撮ってくれないかと頼まれました。私はもちろん快く引き受け、彼にカメラを返しましたが、写真を
見た彼の表情はどこか不服そうです。外国の人である彼が何を考えているかわからず、戸惑っていたとき、一緒にい
た友人が彼にどう撮ればいいかを尋ねて撮り直してくれました。彼が笑顔で立ち去った後、私は友人に「外国の人に
も冷静に対処できてすごいね」と言いました。しかし友人は「普段から写真を撮ることが多いだけだよ」と答えたの
です。外国の人だと壁を作っていた私とは違い、友人はその人を外国の人としてではなく「写真を撮って欲しいと言
っている一人の人」としてだけ見ていたのだということに気がつきました。私は、普段見慣れない外国の人は、自分
たちとは違うと心のどこかで考えていました。しかし日本人ではないということで壁を作ってしまうと、異文化の人
々を理解することはできず、上手くコミュニケーションがとれなくなってしまうのです。
この経験から、壁を作ることなく世界の多くの人と交流したいと思った私は、今年の春から海外留学を目指す高校
生のためのプログラムに参加しています。その授業の中である日、先生が「外国から来た方に、どこに行くことを勧
めますか?」と尋ねました。身近な地域である大阪や奈良や京都などを挙げた私たちに、先生は「大阪にはたくさん
お店があるし、奈良や京都には歴史的な建物や場所がたくさんあるけれど、その何がどう魅力的なの?」と質問を重
ねました。そして、その質問に答えることができなかった私達に先生はこう言ったのです。「本当に日本人だよね?」
日本人としての意識の低さ、知識の不足を痛感させられました。世界に出ると、私達は一人の個人としてだけではな
く日本という国を母国とする日本人として見られることの方が多いのではないでしょうか。異なる国に住み、異なる
文化を持つ世界の人々と交流するためには、外国の文化を知るだけでなく自分達の文化を発信することも大切なので
す。外の世界に目を向ける前に、生まれ育った母国、日本のことをもっと深く理解しなければならなかったのです。
グローバル化が進む現代社会を生き抜くには、世界中の様々な地域の人々との円滑なコミュニケーションが不可欠
です。私は、これまで英語が話せさえすればいいと思っていました。しかしこれらの経験を通して、壁を作らずに積
極的に話をすること、そして、自分の日本人としてのアイデンティティを確立し、日本を世界に発信していくこと、
この二つによってこそ、本当の意味でのコミュニケーションがとれるのではないかと考えるようになりました。グロ
ーバル社会を生き抜く私達高校生に必要なのは、相手の出身国や国籍にとらわれないで人間対人間の国境をこえた「世
界とのつながり」を持つこと、そして自分はどんな人で日本にはどのような魅力があるのかと自分自身を見つめなお
す「自国とのつながり」を持つことなのです。
今年の 6 月、私は学校の研修でオーストラリアにホームステイに行きました。初めて会う人の家で生活するのはと
ても緊張しましたが、気がついたことはなるべくホストファミリーと話し合おうと心に決めていたのですぐに打ち解
けることができただけでなく、日本にはない様々な文化や習慣を知ることもできました。向こうの生活にも慣れてき
た頃から、ホストマザーと日本について話す機会が増えました。古くから伝わる伝統文化や行事、和食、そしてオー
ストラリアとは違う食べ方や調理方法の食材、海外の人に高いイメージを持たれがちな日本の物価は大してオースト
ラリアと変わらないことなどを話すとマザーはとても興味深そうに聞いてくださり、最後には「近く、絶対に日本に
行くから案内してね」と言ってくださいました。自分とは異なる文化を知ること、そして日本の文化を海外の人に伝
えることができたという自信は、一日本人として世界で活躍したいという夢に自分を近づけてくれたような気がしま
した。
これから、私たちが外国の人と交流する機会は多くなるでしょう。グローバル化が進むことで、世界がもっと身近
に感じられるようになり、世界中の人々と壁を作ることなく、より深いつながりを持つことが必要とされます。また、
世界に目を向けがちな今だからこそ、自分の国をもう一度見つめなおすことで、世界に日本の素晴らしさを発信し海
- 43 -
外の人とコミュニケーションがとりやすくなるだけでなく、同じ国に住む人々ともより深くつながることができると
思います。これから社会へ羽ばたく私たち高校生は、自分のまわりの世界と、そして自分自身と正面から素直に向か
い合うことで、きっと様々な背景を持つ人と近くなれる「つながりの世界を生きる」ことができるはずです。
和歌山県
一所懸命 ―その場所を好きになるんだ―
高野山学園高野山高等学校 3年 落合 智哉
「一所懸命」と「一生懸命」、みなさんはどちらを使っていますか。どちらもよく似た言葉で自分がどちらの方で使っているの
かあまり区別せずに使っていると思います。まず、演題にもあります、場所の「所」という言葉を用いた方の「一所懸命」は中世
の武士が先祖伝来の土地を命がけで守ったことに由来しています。しかし、近世以降、「一所懸命」は命がけで何かをするという
意味だけが残ったため「一所」が「一生」と間違われ、人生の生涯をかける「一生懸命」となりました。このように、本来は「一
所懸命」が元となっているのですが、この言葉を通じて思うことを私の体験からお話します。
私は現在、親元を離れて高校生活を送っています。入学を決めた当初は、高校三年間家族がいない寮で生活していけるのだろう
かと不安な気持ちで仕方ありませんでした。家族と離れた寂しさで時には涙を流したこともありました。寮生活を始めて間もない
頃は、なかなか環境にも慣れず、毎日がとてもつらいことと感じ、苦しかったことを覚えています。しかし、そのようなつらい、
苦しい気持ちを背負いながら生活し、一年、二年と月日が流れました。そして三年生になった今、考え方が大きく変わったのです。
それは今、自分がいる環境に慣れた結果、その環境を好きになったということです。当初はあんなにつらかった、苦しかった気持
ちを持っていた私でしたが一年、二年と我慢して、ようやく今の環境を理解して楽しく生活できるようになったと同時に、家族の
ありがたみが寮生活を通してよくわかりました。「石の上にも三年」ということわざがありますが、石のような座りにくい場所で
も我慢して三年座れば、自分の身体が石の形に適応して座りやすくなるという意味です。つまり、石の形が変わったのではなく身
体が馴染むようになるには三年はかかるということです。当時の私のように苦しい状況でもすぐにあきらめてしまうのではなく、
今、それぞれ与えられた場所、その環境で精一杯耐えて好きになるまで生活するのです。それが私にとっての「一所懸命」です。
ところで、中学、高校、大学を卒業して就職した、いわゆる新卒者の就職者の中で、途中でやめてしまう人の割合が 36.7%とい
う数字になっています。この割合は就職できたにも関わらず五人に二人が辞めていると言えます。一体なぜでしょうか。もちろん
自分がしたい仕事にすべてが就職できるとは限りません。でも、就職試験を受ける時にやめるつもりで試験を受ける人はいないと
思います。仕事をやめるには大きな覚悟が必要で、それぞれに事情があると思いますが、一つ言えることがあります。それは、先
ほども述べたように、その仕事が好きになる気持ちが足りない、またその努力が足りないのではないかと思います。それぞれの仕
事先でつらいこと、苦しいことがおこるとそれに耐えられなくなり、やめてしまう。この現状になっていないか考えてほしいので
す。仕事先が自分に合わしてくれることはありません。自分自身が仕事先に合わしていかなければならないのです。これは仕事先
に限ったことではありません。どこで生活していようが、どこに行っても同じことなのです。
「人生楽ありゃ苦もあるさ」 テレビで放送されていた水戸黄門の主題歌である歌詞の一節です。目先にある楽なことばかり求
めるのではなく、苦しみを乗り越えてこそ得られるものがあるはずです。そして我慢して耐え抜いた先に必ず喜びが芽生えるはず
です。一つの場所で、とにかく与えられた環境を好きになって一所懸命努力すること、自分でその環境に合わせていくことが必要
です。「住めば都」という言葉もあるように、その場所に身も心も捧げ、好きになれば自分にとって最高の居場所となるのです。
つまり、「一所懸命」とは、その場所を自分が好きになることです。今、自分がいる場所に誇りをもって好きだと言えますか。
もし、好きになることが出来れば、人生の苦しみもおのずと楽しさに変わります。
- 44 -
和歌山県
食べることは生きること
海南市立海南下津高等学校
3年
佐藤
麗帆
みなさんに一つ質問です。豊かな人生を送るために必要なものとは、一体何でしょうか。それぞれ十人十色の答え
があるはずです。私はこれから「食」のもたらす不思議な力についてお話します。
現在の日本は、食べ物に恵まれています。レストランやスーパーでは、期限切れの食品が食べられることなく、捨
てられています。その一方で、働く女性が増え、少子高齢社会を迎え、一人で食事をする「孤食」をする人が年々増
加しています。
私が幼い頃、両親が共働きだった為、一人で食事をすることがほとんどでした。テレビを見ながら母が用意してく
れた食事を食べる。そんな日が続いていました。私のような両親と食事をする機会の少ない子どもが増えていること
は、大きな社会問題といえるのではないでしょうか。「孤食」をしている子どもは、自分が寂しい食事をしているこ
とに気づいていません。食卓に食事が用意されていなければ、スナック菓子やカップ麺、ファーストフードやコンビ
ニ弁当を買って、一人で食べることになります。それらの食事は、栄養バランスよりも「味のインパクト」を重視し、
カロリーや塩分が高いのです。そんな食生活が続くと、心が不安定になり、感情がうまくコントロールできなくなり
ます。いわゆる「キレやすい子」を増やしてしまうといわれています。また、私自身もそうでしたが、一人で食べる
ことが続くと、「いただきます」や「ごちそうさま」といった家族との語らいのない食事に慣れてしまいます。この
ような食生活では、幼い子ども達の心身の発達に大きな影響を及ぼしてしまうのではないでしょうか。
昔は、「孤食」をしていた私ですが、高校生になり、友人と食事をする機会が増えていきました。同じ料理でも、
一人で食べるのと、誰かと一緒に食べるのとでは、味の感じ方が全く違うのです。好きな人と美味しい物を食べる、
それだけで自然と心が和むのです。
「食」は幸せの原点です。「食」には人と人とをつなぐ力があります。食べるということは、ただ栄養を摂取する
だけではありません。一口一口、幸せな時を噛みしめるのです。身近なことだからこそ気づきにくい、けれども、「食」
には人生を彩る力があるということは確かです。
一方、「食」に翻弄される人も多くいます。思春期になると、自分の外見を気にするあまり、過剰なダイエットを
試みる人もいます。私もそうでした。しかし、偶然見たテレビ番組で、摂食障害という病気の恐ろしさを知りました。
そこに映し出される痩せ細った人達の姿を見て、改めて食事という行為の重大さを考えさせられました。摂食障害に
なってしまう原因は様々です。しかし、勘違いしてはいけません。本当の美しさは、健康で、心が豊かであることで
あり、大切なのは、正しい知識と食習慣を身につけることです。
私の祖父母は、現在病院に通っています。祖母が私に言いました。「病気になって、料理をするのも、食べるのも、
とても面倒になった。」その言葉を聞いて、私は悲しい気持ちになりました。楽しいはずの食事が、煩わしいものに
なってはいけません。「「食」がもたらす幸せを、祖父と祖母にもっともっと感じてほしい。」
現在、私は、食物科の高校に通い、「食」について勉強しています。食べることは生きること。「食」について学
べば学ぶほど、私はそう感じます。「食」は人を幸福にする力を秘めています。私は「管理栄養士」として、そんな
「食」の魅力を伝え広めたいと考えています。
中学生の頃の不登校。そして、高校受験の失敗。不本意のまま入学した食物科だったけれど、ここで私は大切な仲
間と出会い、生きる上で欠かせない「食」の大切さに気がつきました。何よりも、食物科で「食」について専門的に
学ぶ中で、「管理栄養士になる」という将来の夢ができたのです。私から、「学びたい」という情熱を引き出し、目
標をもって歩くことの喜びを教えてくれたのはまぎれもなく「食」でした。
食べることは生きること。「食」は幸せの原点。「大切な友人と食べる幸せな時間」との出会いが、これからの私
の歩む道を教えてくれました。
- 45 -
さあ、みなさん、今夜の夕食、誰と一緒に食べますか。
鳥取県
我が家の介護元年
鳥取県立米子東高等学校
2年
平塚
千遼
「おばあちゃんね、難病になっちゃったんだ」
私の祖母は「大脳皮質基底核変性症」という病気に冒されています。現代の医学でも原因が分からない特定疾病です。脳のあち
こちの神経細胞がしだいに死滅し、その影響で徐々に身体が動かなくなり、最後には歩けなくなったり、話ができなくなったり、
口から食事をとることができなくなったりする、そんな恐ろしい病気なのです。
幼い頃から両親が共働きだったこともあり、私は父方の祖父母の家で過ごすことが多くありました。祖父は私が生まれる前から
腎臓病を患っており、祖母はいつも私と妹の面倒を見ながら、祖父の看病をしていました。
私はお世辞にも良い子ではなく、それどころか、偏食でまともに食事はしない、好物を見つけると際限なく食べる、遊び食いに、
風呂嫌いに、夜は寝ずに騒ぐ、そんな子でした。ただでさえ祖父の世話で忙しい祖母のことを思うと、今でも本当に申し訳なくな
ります。祖母はそんな私と必ず食事をとり、嫌がる私をお風呂までだっこして連れて行き、私が夜眠るまで歌を歌ってくれました。
ご飯を食べさせてくれた祖母が、自分で食事もできなくなる。お風呂に連れて行ってくれた祖母が、歩けなくなる。子守歌を歌
ってくれた祖母と、会話もできなくなる。そんな現実は受け入れたくない。これが私の正直な気持ちでした。
祖父母の介護をどうするのか、という深刻な問題が、私たち家族にとって徐々に現実味を帯びてきた、ちょうどその頃、父は鳥
取県米子市に転勤することになりました。そのことを聞いた祖母は、まだ病状が進行していなかったこともあり、これまでと同じ
凛とした様子で、「私は先祖代々住んでいるこの土地を離れずに今のままの生活をします。あなたはあなたの仕事を全うしなさい」
と父に言いました。父は「忠ならんと欲すれば…だな」と独り言のようにつぶやきました。
昨年の冬休み、私は父、母、妹と四人でお正月前に帰省しました。いつも通り空港まで迎えにきてくれた祖母を見て、私と妹は
これまでとは違う祖母の様子に驚きました。祖母の左腕が、胸のあたりで握られたまま、全く動かないのです。
「おばあちゃん、左手どうしたの?」と妹が聞くと、祖母は以前と比べてどこかぎこちない笑顔で「左手、病気で、動かなくな
っちゃったんだ」と言いました。手や足が思うように動かなくなるというのは、大脳皮質基底核変性症の典型的な症状です。父と
母はすでに聞いていたようで、格別驚いた様子は見せませんでした。そして、父はまた「忠ならんと欲すれば…だな」と、つぶや
いたのです。
いわゆる老老介護の状態にある祖父母は、父や母に迷惑をかけないよう、かなり無理をして暮らしているようです。そんな祖父
母の様子を痛いほどよく分かっている父は、米子での同居を祖父母に勧めています。しかし、祖父母は父母のことを気遣い、その
申し出を断っているようです。
「私たちと一緒に住もうよ」
こんな当たり前のことを私が無邪気に言えるほど、祖父母の介護をめぐる問題は単純ではないようです。
「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず」
このセリフは、平重盛という人物が、主君である後白河法皇と、親である平清盛の対立の板挟みに苦悩して発したものです。主
君のために忠を尽くして働くと親への孝行がおろそかになる。逆に、親のために孝行を尽くすと、主君への忠義が成らなくなる。
父の言っている言葉の意味が、今になって、自分なりに分かってきました。息子として親に孝行したい。でも、勤務先のために
働かなければいけない。もちろん、平重盛と父は全く違う境遇ですが、父はそんな自分の現状を、「忠」と「孝」の板挟みと表現
したのだと思います。
父と母は、祖父母の状態が悪くなった時のことを考え、真剣に介護休業の取得を考えています。しかし、勤務先のことを考える
と、個人的なことを言い出しにくい、と躊躇している様子も見えます。
仕事と、介護と。その板挟みにある父母の苦悩は、高齢化社会にある日本の社会を象徴しているような気がしてなりません。
この夏、私は妹と一緒に介護ボランティアに参加します。
「忠ならんと欲すれば…。」
- 46 -
この古くて新しい悩みの解決策を求め、今の自分にできることを福祉の現場で精一杯学んでみたいと思います。
我が家の介護元年がいよいよ始まるのです。
鳥取県
まあるく生きる
鳥取敬愛高等学校
2年
田中
梨
里
「小指の痛みを全身の痛みとして感じてほしい。」
これは沖縄が日本に復帰する運動の際に、声高く叫ばれた言葉です。戦後七十年を迎えようとする今、日本は確か
に豊かになりました。しかし、私たちはその豊かさを、目で見える範囲でのみ確認しがちなのではないでしょうか。
私が中学三年生の時、両親は離婚しました。別れる一ヶ月ぐらい前から、両親は殴り合いや罵りあいをするように
なっていました。その日のケンカはいつもより激しく、夜中、母と私は近くにある鳥取砂丘の駐車場で夜を明かすこ
とにしました。長い沈黙が流れ、得も言われぬ感情に押しつぶされそうになった私は、一人車を飛び出しました。砂
丘の馬の背をのぼりはじめ頂上へさしかかった時です。海から朝日が昇ってきました。そしてその光景を目にしたと
き、一気に涙がこみあげてきました。今思えば、自分を頼りにしている母の前では、強い自分でいたかったのだと思
います。
それから気がつけばいつも笑っている自分がいました。学校で家で、私はとにかくその場をまるくおさめたかった
のです。けんかはもうたくさん。まして自分のせいで誰かが傷ついたり、苛立ったりするのは耐えられない、そう思
っていました。そのためいつも自分の感情を押し殺し、周囲に笑顔で合わせ、とにかくまるくおさめよう、まあるく
まあるく、そう自分に言い聞かせ生活してきました。
そんな毎日のなかで、自分の進路のことなど全く考えていませんでした。ただ時折ふと思うのです。私は将来どう
なるのだろうと。中学生の弟、小学生の弟と妹がいるのに、自分が進学してもいいのだろうか、もし進学するとして、
経済的に可能なのであろうか、そんな思いが頭から離れません。
奨学金を受けながら進学するという選択肢があることも知っています。しかしその場合多くは就労と同時に返金し
なければなりません。現在この制度を利用している人は一一八万人とも言われ、大学生の二人に一人が利用している
計算になるそうです。そのなかで、返金を滞納している人の割合は約一割、そう聞くとわずかのように思われるかも
しれません。しかし私は、自分がその一割、十八万人のうちの一人にならないという自信がないのです。
日本は世界有数の経済大国です。しかしその一方で、奨学金を返納できない一割の人々がいること、そして私のよ
うに経済的不安を抱えながら生活している高校生がいることも事実なのです。「小指の痛みを全身の痛みとして感じ
て欲しい」。今こそ私たちはこの言葉の意味を私たちは考えてみるべきではないでしょうか。
奨学金の返納が困難な理由として最も多いのは、本人や家族を含め家計の収入が減ったというものです。その背景
には就職難や増税など、社会的背景があることも事実だと思います。また「しっかり働いて返納しろ」と思う人もい
るかもしれません。しかし中には本人の病気や事故による入院が理由となっている場合もあるそうです。そしてこの
ことは、誰にも起こり得ることではないでしょうか。
現代社会は、変化を求めすぎていると思います。情報は一日の中でさえ次々と更新され、戦争や貧困など人権に関
わる社会的問題さえも、単なる情報として受け流されているように感じます。そんな社会のなかで、自分が抱えてい
る不安や苦しみを誰かに安心して打ち明けることなどできるのでしょうか。大切なのは、一人で支えるには大きすぎ
る現実を、社会全体で支えようとする思いです。
私も今まではまあるくまあるくといいながら、単に表面を取り繕うことしか考えていなかったのだと気がつきまし
た。そしてそんな私だからこそ自分の将来と向き合う勇気も持てずにいたのだと思います。今は世の中や家族の現実
をしっかりと受け止め、アルバイトをしながら家計を助けています。そして漠然とではありますが、将来は誰かの役
に立つ仕事に就きたい、私のように一人で涙する誰かを支えたい、そう思えるようになりました。
私は思うのです。真に豊かな社会を作るのは心豊かな人々なのだと。心豊かに生きるとは、自分の今をしっかりと
- 47 -
見つめること、社会の痛みや苦しみから目をそらさないこと。そうして心豊かに生きていくことで社会はまあるくつ
ながっていく、それこそが今私が求めている「まあるく生きる」ことなのだと気づきました。私もまあるい地球に生
きる一人として、心豊かに生きていこう、今はそう思っています。
島根県
前向きに生きる
石見智翠館高等学校
2年
河上
光
障害者というと多くの人は知的障害者や身体障害者を思い浮かべると思います。でもそうした障害以外にもう1つ
発達障害というのがあるのを皆さんは知っていますか?こうしてお話している僕自身、実はADHDと高機能自閉症
という2つの障害がある当事者なのです。発達障害というのは見た目ではわかりにくいため誤解をされたりいじめの
対象になったりすることが多いです。ここで発達障害って何?と思っている方のために少し解説をしておきたいと思
います。発達障害とはその文字通り脳の発達の仕方が偏っていて生活に支障があるという障害です。僕たちの日常生
活での困難さをわかり易く説明すると、例えば、ひらがなの「ま・み・む」という字を書いてみてください。特に問
題はなく書けますよね。ところがそれを左右逆に書いてみてください。そう言われると戸惑いますよね?僕たちの困
難さはわかり易く言うとそんな感じです。日々の生活の中でこのような戸惑いの場面が結構あるのです。
さて、僕の障害の1つ、ADHDは注意力散漫、多動、衝動性があり、しかも自分でコントロールすることが難し
いという障害です。だから落ち着きがなかったり、思い付きで行動したりします。実際に僕自身もそんな自分にちょ
っと困っています。でも、そんなADHDも長所はあります。人より発想力が豊かだったり、好きなことにはとても
集中できたり、気持ちの切り返しが早かったりします。そして、僕のもう1つの障害、高機能自閉症は一般的な自閉
症の中で知的障害がないものをいいます。物事に執着したり、特定の物や音に不快を感じたりします。こうした発達
障害は病気と勘違いされてしまうことがありますが決して病気ではありません。
さて解説はこれくらいにして、中学校の頃の話をしようと思います。僕が通っていた中学校では総合学習の時間に
身体障害を含めた障害についての学習をしていました。僕はその学習は自分を知ることだけではなく、クラスの人た
ちにも発達障害を知ってもらうチャンスにもなると思いました。そんなある日のことでした。発達障害について調べ
た班の友人がこう発表しました。「発達障害になる原因の多くは母親にあります。」僕はこの言葉を聞いてちょっと
カチンときました。なぜなら発達障害の原因は母親ではなく先天性のものだからです。このことをわかっていた僕は
もちろん手をあげて意見を言いました。その時は勇気が必要でしたが、先生のフォローもあったお蔭で何とか間違っ
た情報を正すことができました。
こうして僕は自分の障害を理解し、向き合っていく中で僕の障害は「個性」なんだと考えるようになりました。そ
して発達障害のことを知らない人たちに正しく知ってもらおうと思うようになりました。それで僕は高校へ入学して
文化祭で行われた弁論大会で自分自身の障害についてカミングアウトし、発達障害への理解を呼びかけました。そし
てもし僕と同じように発達障害がある人がいたら悩んでいるのは自分一人だけでないということ、仲間として励まし
合おうということを訴えました。このことで僕の周辺は変わりました。1つ目は僕の日ごろの行動に対して周囲の人
たちから理解が得られるようになったこと、2つ目は僕の弁論を聞いた同じ障害のある先輩から話がしたいという申
し出があったことです。その人は障害をネガティブにとらえて学校を休みがちになっていたのです。僕と話をするこ
とで自分が変われるかも知れないからと言っていました。
このようなことは障害のある人だけに言えることではありません。皆さんの中にも相手のことをよく理解しないで
判断したり自分の抱えている問題を悪くとらえて落ち込んだりしている人はいないでしょうか。人はものの見方を少
し変えるだけで変わることができます。そして理解をしてもらう努力をすることで周囲の目は変わってきます。障害
のある人もそうでない人もそこは同じです。お互いに対する理解と自分自身の努力により自分の置かれている状況を
変えることができるのです。こう考えてみると僕は発達障害と出会ってよかったと思います。僕は僕の障害を「個性」
として今後も前向きに生きていきたいと思います。
- 48 -
島根県
私の今からのシアワセ
益田東高等学校
2年
大羽
健太郎
ラジオを聴きながら静かに本を読んでいる、そんな母の姿が大好きです。母が沈んでいる時は、武田鉄矢の「この
バカチンが」とか、井上陽水の「お元気ですか」などとモノマネをして、笑顔の母を見ることが、私の今のシアワセ
です。
まちなか
みなさんは、街中などで障害がある人を見かけた時、ガイジだとか、キモイとか、かわいそうと思う人はいません
か。おぼつかないしぐさを不思議そうに眺めたり、一生懸命に生きている人を馬鹿にしている人はいませんか。ガイ
ジやキモイなどと、何気なく放った言葉が、他人をどれだけ傷つけるか、想像したことがありますか。かわいそうと
いう言葉を、まるで相手に聞こえるように言う人を見かけることがありますが、私にはとても言うことはできません。
なぜなら、かわいそうと思うことなど何もないからです。周りにいる人たちと同じように笑い、泣きながら精一杯生
きている人をかわいそうと思うどころか、心や体にハンデがありながらも、みんなと同じように生きている姿は、む
しろとても立派ですごいと思うのです。
私の母は、私が二歳の頃から精神病を患っています。統合失調症という、精神の病に冒され、感情が乏しくなって
無表情になり、外に出ず家にこもりがちです。ひどい時には、幻聴や幻覚症状が現れて被害妄想にもなります。自ら
の首を絞めて、「死なせてくれ。」と叫んでいる母が、現実として目の前にいるのです。私たちには見えない、聞こ
えないはずの現象が、母には嘘ではなく見えて聞こえているのです。そんな中で、母はもがき、一人で苦しみ闘って
いるのです。いちばん驚いたのは、母が包丁を持ち、天井にいるというおじさんに向かって、「おじさんの首を切っ
ている。苦しいか。」と叫んでいたのです。普通では考えられない母親の姿ですが、これが私の、そして母の日常で
起きている現実なのです。
毎日、学校から帰ると、まず母のことが気がかりです。最近は、母に喜怒哀楽がなくなってきました。笑顔の母は
見ることが少なくなりました。この幻聴・幻覚は毎日のように続きます。そんな母のことが理解できなくて、何度も
母に腹を立てたこともありました。「何なん、この病気。」と、母から目を背けたこともありました。しかし、私は
今までただの一度も「こんな母のところに生まれたくなかった。」と思ったことはありません。一人で病気に苦しむ
母の姿が、どれだけ切ないことか。父と妹と私に助けを求めてくる母を、どうして放っておくことができるでしょう
か。私にとって、たった一人のかけがえのない母なのです。この母の姿に、キモイとか、かわいそうと思う人がいる
なら、母をバカにされているような気がしますし、一生懸命に生きている一人の人間に対して失礼ではありませんか。
そんな母に、私が教えてもらったこと。それは共に生きる、みんなと平等に生きるということです。私は父と母の
お陰で生きていて、みんなの支えがあって、今日まで生きてこられました。母の精神状態は、ますます悪くなってい
ますが、それでも家事をしてくれ、私に大好きな野球をさせてくれます。当たり前のように学校に通わせてもらって
いて、心から感謝しています。
世の中には、生まれながらにして障害がある人や、不自由な体になって大変な生活を送ったりしている人がたくさ
んいると思います。病気や障害の有る無しにかかわらず、すべての人たちが助け合い、支え合って生活できる世の中
を、誰もが望んでいいはずです。また、そうすることこそが差別や偏見をなくし、みんなが平等に生活できるのだと、
私はそう信じています。病気や障害がある人たちに対して投げかける言葉が、キモイという心ないものや、同情や哀
れみからくるかわいそうではなく、一人の対等な人間として、「何か手伝いましょうか。」という、優しい心遣いの
言葉に変わって欲しいのです。
この弁論を機に、月に二回程度、福祉施設や各種団体の会合で、スピーチと一緒にものまねをしたり歌を歌ったり
- 49 -
しながら、皆さんの笑顔を求めてボランティアをしています。将来の夢は、消防士になることです。こんな私でも、
何か人のお役に立つことで皆さんの笑顔が広がっていくこと。それが私の今からのシアワセです。
岡山県
「今」をつかんで
岡山県立総社南高等学校 2年 三島 夏歩
「今やらねばいつできる わしがやらねば誰がやる」
これは、鏡獅子で有名な彫刻家、平櫛田中さんの言葉です。田中さんの出身地、岡山県井原市には田中美術館もあり、その近く
に住んでいる私達はこの言葉に親しみを持っています。しかし、私が真剣にこの言葉を受け止めたのは、中学生になってからでし
た。
入学してすぐの部紹介の時、剣道部のかっこいい胴着姿を見た私は、『これだ。』と思ってすぐに入部しました。ところが、実
際に部にいくと、ろくに活動をしていません。先輩達もあまり来ないし、来ても適当にしています。『こんなのおかしい…!』と
思ったものの、顧問の先生もなかなか来られないので、先輩達に頼るしかなく、歯がゆい思いで一年を過ごしました。
そんな私にチャンスがきました。二年になって部長に選ばれたのです。『今しかない。ちゃんと部活ができるようにしたい。私
がやらんと・・・。』と意気込みました。そして、顧問の先生や副部長にも相談し、『今やることをはっきりさせ、すぐ練習にとりか
かれるようにしよう。』と思ったのです。それまでは、先輩がその日の気分で練習内容を決めていたので、しまりがないかんじで
した。『今日はこれをやるということが分っていると、頭と体がすんなりと切り替わり、もっとやる気が出るはず。』と部員のこ
とを考えながら一生懸命に練習計画を練り、実行していきました。すると、だらけていた空気がだんだん引き締まり、「剣道部の
声と竹刀の音、外からでもよう聞こえるようになったなあ。」と言われるようにもなりました。そして最後には他の部員から、「三
島じゃないと部長は務まらなかった。」と言われ、私は晴れ晴れとした気持ちで部を引退しました。その気持ちのまま、受験勉強
においても、『今やらねば』と思って、頑張ったのです。
高校に入学しても私は、剣道部で経験したように、計画を立て、やる気を出す、というふうに心掛けました。しかし、気が乗ら
ないことだと、『やらんといけんなあ。』と思いながらも、なかなかできずにいました。みなさんもそんなおぼえはありませんか。
ちょうどそんな頃です。「いつやるか、今でしょ。」と何度も耳にするようになったのは。流行語大賞にもなったこの言葉は「今
やらねばいつできる」の現代バージョンだと思います。すぐにやることの大切さを、端的に表し、忙しく生きている私達の心をう
まくとらえます。私は、中学時代を思い出し、『嫌なことこそ、小さい予定をたて、今すぐにやることをはっきりさせ、達成した
喜びを味わいながら、進めていこう。』と改めて心に決めました。
現代社会は情報量も多く、流れも速くて、いつのまにか自分自身を見失ってしまうことがあると思います。鬱病になる人は年
間100万人程いると聞きますし、身近で登校拒否になる人もいました。そんな人々の力になりたいと、私は今、臨床心理士にな
ることをめざしています。その人らしい人生を歩んでいけるようにサポートし、「今できることを少しづつ積み重ねていけばいい。」
そんなメッセージを実感を込めて伝えたいと思います。そのためには、まず私自身が実行することが必要だと考えています。「今」
を大事にして、少しずつでも行動していくこと、それは「流れに乗り遅れない」ためではなく、「自分の人生を確かなものにする」
ために、大切なことだ、とも思うのです
みなさん、先延ばしにしていることはありませんか?行動しなければ何も起きません。「今」このときをつかんで、ちょっとで
もやってみれば、きっと何かが変わるはず。さあ、今、心に浮かんできたことの、はじめの一歩を踏み出しませんか。
- 50 -
岡山県
「孤立」から「支え合い」へ
岡山県立高松農業高等学校
2年
勝
あいり
私が叔父の死を知ったのは、4年前の3月のことでした。近所からの通報で、亡くなっている叔父は発見されまし
た。鼻がもげるような臭い、飛び交うハエ、郵便受けにたまった新聞。検死の結果叔父は、2 か月前に亡くなってい
たことが分かりました。誰にも看取られることもなく息をひきとった叔父。奥さんを早くに亡くし、独り暮らしにな
り、近所とのつき合いも少なくなっていたようです。お通夜の時、父の姉が棺のふたを開けて「なぁなに寝とんよ…
はよ起きてぇや…なぁ」と叔父の遺体に向かって言いました。それを見ていた父の弟は「もうおらんのじゃ。こいつ
はもう…おらんのじゃ。俺やって…俺やって信じられんわ。あいつがおらんなんて。なんで、なんで俺に連絡せんか
ったんなぁっ」と耳元でどなるように言いました。当時まだ中学1年生だった私は、叔母たちの泣き声、父の悲痛な
顔、親戚たちが初めて見せる表情や異様な空気を「怖い」と感じ、震えが止まらなかったことを今でも思い出します。
あれから何度か親族で集まることがありました。でも、叔父のことを話す人はいません。みんなのその素振りは、
かえってあの夜のことを思い出させ、私は叔父のことを考えずにはいられなくなります。仏壇の前で寂しげに笑って
いる叔父の写真を見る度に、私を自分の娘のようにかわいがってくれた日々を思い出します。あの日から私は、叔父
と同じような死に方のニュースにはとても敏感に反応してしまいます。先日も「住宅の一室で白骨死体発見、孤立死
増加」というニュースが流れていました。
調べてみると「孤立死」という言葉には明確な定義はありません。『独り暮らしをしていて、誰にも看取られずに
死亡し、死後すぐに気づかれなかった場合』と書いてはありますが、それも曖昧なため、全国規模での統計はないよ
うです。平成22年の白書において東京都23区では、65歳以上の独り暮らしの方が年間2000人程度、死後4
日以上を経て発見され「孤立死」として届けられています。高齢者の多くは、健康で家族や地域とのつながりを持ち
ながら生活されています。その一方で、私の叔父のように独りで暮らし、家族がいても行き来がなくて、隣人や友人
とのつき合いも乏しく、人との交流がない孤立した生活を送っている人がいるのも現実です。地域における独り暮ら
しの高齢者や家族間の孤立化を防ぐためには、社会とのつながりを継続的に失わせないような、地縁や血縁にとらわ
れない新しいコミュニティを作りあげる必要があります。地域の人、友人、世代や性別を超えた人々との「顔の見え
る」支え合いによって「つながり」のある地域づくりが大切だと思うのです。「見守り訪問活動」「食事サービス」
などを定期的に行っている市町村があると聞いています。また、安心して生活するために行政の支援を受け、高齢者
本人やその家族が、必要な時に必要な医療や介護が受けられるようにしているところもあります。しかし、多くの市
町村で、まだまだ体制が整っていないのが現状です。日本は、世界一の長寿国です。2020年代には、3人に1人
が65歳以上という時代を迎えます。そして、高齢化率に比例して「孤立死」も増えると言われています。私の家族
のような思いをしないためにも、家族が、地域が、民間業者や行政が、これからの日本が抱える問題点として話し合
い、対応策を早急に考えなければならないと強く思います。
今私にできることは、普段からのつながりを大切にし『支え合う』人間関係作りをしていくことです。現在、学校
での園芸セラピー活動や近所に住む車椅子のおじいちゃんへの「元気しとった!」「また来るね」などの声掛け、地
域のボランティア活動などへ積極的に参加しています。その中でつながりを作って支え合って生きていき、新しいコ
ミュニティづくりの原動力になれるように頑張っています。
日本の人口、1 億 3000 万人。つまりあなたと出会える可能性は、1 億 3000 万分の1。そう思うと今周りにいる人
との出会い、それって奇跡に近いと思いませんか。今まで出会った人、家族や親戚、近所の人達、高校の同級生や先
輩方、先生方と一緒に最高の時間を過ごし、想い合える人と支えあって生きていきます。
- 51 -
広島県
消えない記憶 消せない夢
広島県立広島井口高等学校
3年
本田
夢歩
Dame dinero! これはスペイン語で「お金をください」という意味です。
私たちの車が信号で止まる度にサーカスのような芸をしたり,新聞を売ったりして,車の窓に手を伸ばし,先ほどの言葉を
発していたのは,コロンビアという国のストリートチルドレンでした。ボロボロの服に細い体,子どもだけでどうにか生きよ
うとしている,日本では見られない光景に,当時 5 歳だった私は,大きなショックを受けました。同じくらいの年なのに,生
活や身なりがこれほどにまで違うことが,私にはとにかく驚きでした。けれど,それは,現地の人々にとっては,驚きでも何
でもない,普通のことだったのです。
成長した今,当時のことを振り返ってみると,私は「人の格差」についても考えずにはいられません。私たちの日本では、
「男女平等」や「国民主権」といったものが憲法で保障され,どの人も平等です。そして,何より,日本は平和な国です。し
かし、コロンビアでは,ゲリラと政府との対立のニュースがしょっちゅう報道され,誘拐事件は当たり前のように毎日起こっ
ていました。ゲリラの多い村の住民は暴力で征服され,ゲリラの言われるままに働かされていました。私の家に勤めていたメ
イドは,そのような村で生まれ育ち,幼い頃からずっと働いていたようでした。その証拠に,メイドは言葉は話せるものの,
文字は書けませんでした。「日本語を教えて」と言われ,単語をいくつか教えると,紙に独自の記号で書いて覚えていました。
また,時には,「e」という文字の書き方を聞かれたこともありました。ただ,当時の私は幼すぎて,そうしたことにも特に
何も感じていませんでした。しかし,学校に通えない,また,文字が書けない辛さが,今になるとよくわかります。学校に通
えなければ,勉強ができず,さまざまなことに対する知識も少なくなります。また,言うまでもなく,文字も書けないため,
自分のプライドを捨てて,10 歳足らずの子どもに聞くことになるのです。周りの子どもが学校に通っている時に,自分の村
で働き続けていたことの辛さは,経験した者にしか分からないでしょう。世界には,教科書の中には載っていないことが沢山
あるということ,本当にさまざまな人がいるという現状を理解する必要があるということ,これらのことを私は今心の底から
感じています。
昨年度,私は,総合的な学習の時間の一環で,「社会に有為な人間となるべく志を高くする」という目的で,JICAを訪
問し,そこで,青年海外協力隊として派遣された方の話を伺いました。そして,彼の「私は数学を教えに2年間そこに滞在し
た」という言葉を聞いた時、私は「これだ!」と思ったのです。コロンビアでの貴重な経験から,全ての人が等しく,文字で
表現する楽しさを味わうべきだと考えていた私にとって,それを実現する方法の一つを示してもらったような気がしました。
帰国してしばらくは,コロンビアでの生活で思い出すのは楽しいことばかりでしたが、しかし、,心の片隅にはあの
ストリートチルドレンの眼差しがやはり消えないでいました。そのようなコロンビアの現状やストリートチルドレン
の姿をどうにかして伝えたくて、けれどもちゃんと伝えられるか不安で、自信が無くて、周りの友達に言えずにいた
けれど、JICAへの訪問によって,その心の靄が晴れたように感じられたのです。今,思い出してみると,コロンビ
アにいた頃から,JICAに携わっていた方々が身近にたくさんおられました。その方々に続いて,私もJICAの仕事に携
わりたい。それは,単に,井戸を掘ることや道路を作るといった,物質的な援助だけにとどまりません。その国の貧しい現状
と未来を変えるために,学校に通えない子どもたちに文字を教え,文字で表現することの喜びを伝えるといった支援をしたい
のです。
現在も支援はなされていますが,まだまだ十分ではありません。途上国の人々がどのような望みを持って,どのように感じ
ているのか。そして,今,私たちができることは何なのか。それは,観光で通り過ぎるだけでは見えてきません。幼かった私
が目の当たりにしたストリートチルドレンの姿は,10 年以上たった今も私の心に強く刻まれています。テレビでは報道され
ない途上国の現実を,日本に持ち帰って正しく伝え,一人でも多くの人が賛同し,行動を起こすきっかけを作りたいと思いま
す。
- 52 -
今までは,ストリートチルドレンやメイドのことを,伝えたくても伝えられない自分がいました。しかし,JICAできっ
かけをもらい,自分の意志が固まった今なら,自信を持って伝えられます。その自信を行動へ移し,「人の格差」を少しでも
なくすよう,貧しい国の現状と未来を変えていきたいです。
広島県
信頼の架け橋
広島県立尾道東高等学校 2年 古谷 玲奈
「何で中国なんかに行くん?マジで?」、いろいろな人から言われました。
私は、中学3年の12月、福山市の代表として中国の北京に行きました。
福山市は平成20年から年に1回、北京教育交流訪問活動を行っています。その活動は、「中高生が国際理解感覚を身に着け、
相手に理解されるように努める」ということが、その目的です。
中国では、日本政府とのトラブルがあるたび、日本製品の不買運動や、反日的なデモもあり、町も汚いというイメージを私は持
っていました。しかし、実際に、北京では、日本で報道されるほどの反日感情は見られませんでしたし、治安もよく、身の危険を
感じたこともありませんでした。また、北京は私が想像していた以上に都会で、高層ビルが建ち並び、多くの車や人が行き交う大
都市でした。
そんな大都市、北京で交流会は開催されました。
そこで、中国の学生との交流会に臨んだ時のことです。一緒に行った友達は、中国語が少し話せたので、とても楽しそうに話を
していました。私は中国語を知らなかったので英語で話しかけました。そんな中、中国の生徒は英語だけでなく、日本語でもコミ
ュニケーションを図ろうとしてくれました。その日本語は片言で聞き取りにくいところもありましたが、私はとても嬉しかったこ
とを覚えています。私も何とか片言でも話せるよう、中国語を学んでいくべきであったことを、後悔したことも思い出します。
中国の生徒は、日本のアニメや漫画が好きだと言ってくれました。日本の文化についてもっと知りたい、日本の自動車、東京、
秋葉原、京都など、様々な方向に話が広がります。他にも、学校で何を勉強しているのか、どんな行事があるのかなど、お互いの
日常生活のことにまで話は広がりました。私はそれまで、中国の学生は、私たちのことを好意的に思っていないだろうなと思って
いました。でも、実際には、私たちのことに興味を持ってくれて、国が違っても、同じ学生として沢山話をすることができました。
それがとても嬉しかったし、「もっと中国について知りたい、この人たちともっと仲良くなりたい、友達になりたい」と、その時、
心底、私は思いました。
現在、私は尾道東高校の国際教養コースに通っています。私は、外国語、時に英語を介して日本と他国との架け橋になりたいと
考え志望しました。クラスメイトのほとんどが英語を中心に学びたいと思ってきています。もちろん、私も英語を勉強したいと思
っていますが、中国語も勉強して話せるようになりたいと思っています。
私が2年前の体験から学んだことは、人とつながるには、同じ立場に立って、同じ目線で話すことが大切なこと。その気持ちが
相手に伝われば相手は嬉しいですし、友好的になります。特に、現地の言葉で話すことによって親しみが生まれ、お互いがより深
く理解し合えた体験を今でも大切にしています。
今、政治レベルでは日中関係は大きく冷え込んでいます。尖閣諸島問題、中国の防空識別圏の設定など、戦後最悪の状態である
とニュース番組は報道します。しかし、政治レベルでは関係が冷え込んでいても、私たち生徒レベル、個と個のレベルから対話に
より生まれる信頼の輪を広げていくこと、そこに解決策は見いだせるのではないかと考えています。
私の夢は日本と中国の友好関係に貢献することです。そのために、今、英語と中国語を勉強しています。英語から始まった日本
と中国の架け橋の夢、中国で温かく迎えてもらった人たちのためにもぜひ実現したいと思います。
- 53 -
愛媛県
世界に羽ばたけ和菓子の力
愛媛県立内子高等学校
3年
池田
遼太郎
「へえ、おまえのうちって、もみじまんじゅう作りよるん?」
もみじまんじゅうと言えば、皆さんは、すぐに広島のもみじまんじゅうを思い浮かべられる方も多いと思います。
実は、愛媛県の大洲でももみじまんじゅうが作られているのです。そして、僕の家は、80年以上の歴史を持つ和菓
子屋です。先々代の祖父が、近所の稲荷山のもみじをイメージして創ったのです。元祖のもみじまんじゅうは黒あん
ですが、うちのは白あんで、その上品な甘さと自家製のカステラとの絶妙なハーモニーが口の中に広がりとても好評
です。
父は、その三代目にあたり、僕は自称四代目です。和菓子一辺倒だった井筒屋に新しい風を吹かしたいと、洋菓子
にもチャレンジしたのが、僕の父です。洋菓子もやってみたいと言い出した父と祖父の間には確執があったそうです。
たとえば、和菓子は、蒸しものが多く、そのため工房は高温になります。一方、洋菓子は、生クリームやチョコを使
用するため涼しい環境が必要になります。等々、様々なことで父と祖父との間には口論が絶えず、父は投げ出したく
なったことも何度もあったそうです。でも、「俺が継がなきゃこの井筒屋は無くなってしまう、この井筒屋を変えて
やる」と思ったそうです。父に当時のことを聞いても、息子の僕には何も語ってはくれません。母が、祖父と父の確
執をこっそり教えてくれました。でもいつも父は、「やっぱり、じいちゃんにはかなわん。あんこをつめる手さばき
はだれにもまねできん。」と悔しそうにとてもうらやましそうに言ってたそうです。
そして、現在の井筒屋は、もみじまんじゅう・水まんじゅうなどの昔からの伝統的な和菓子とバターやグラニュー
糖を使ったケーキの洋菓子がお客様にとても喜ばれています。
さて、もみじまんじゅうのように、日本各地には様々な郷土の特色を生かした和菓子がたくさんあります。そして、
そのお菓子の一つ一つにはそれぞれのストーリーがあります。スト―リーとは、その土地土地の文化や歴史がお菓子
に反映されていることです。京都に行くと八ツ橋、宮城ではずんだ餅。などそれぞれの都道府県でユニークで面白く、
さらに美味しい和菓子が数え切れないほどあります。日本の美しい四季に合わせた和菓子や、その土地にあった和菓
子。日本のお菓子は食べても見るだけでも「美」が味わえる、素晴らしい「財産」なのです。文化が存分に一つのお
菓子の中に表現されているのは、日本の和菓子しかないというのは、言いすぎでしょうか。決して言い過ぎではあり
ません。
たとえば、洋菓子のケーキはデコレーションされていますが、クッキーやマカロンなど、ほとんどのものがシンプ
ルなお菓子です。もちろん職人さんも作りますが、家庭でも作れるものがほとんどです。一方、日本の和菓子は、素
人には真似できない職人さんだけが作ることができる手仕事でプロしかできない技の局地です。
だからこそ、僕は、こんな「歴史」 と「文化」 がある日本の和菓子の魅力を、もっともっと世界中の人たちに伝えた
いのです。
しかし、一体どのような方法があるのでしょう。そこで、SNSを使うことを思いつきました。SNSとは、今は
やりのラインやフェースブックなどのインターネット上で会話などが楽しめる物の総称です。近い将来、日本と外国
で「今度、新しいお菓子作ったんだよ。見て。」「おいしそうだね。あんは、何で作っているの。」「実は、柿の果
汁とあんこを練ったものなんだよ。」「へえ、おもしろそう。今度日本に行った時に食べてみたいな。」なんて、こ
とになるかもしれません。
このように、和菓子を通じて日本の素晴らしい財産を世界中の人に広め、これをきっかけにもっと日本を好きにな
ってもらえるようにしていきたいのです。
その思いを叶えるためには、僕は、これから多くのことに取り組まなければなりません。英会話力やプレゼンテー
- 54 -
ション力を身につけ世界中の人に和菓子の魅力を伝えられるようになりたいです。もちろん、祖父や父に負けない新
しい和菓子を作り出す発想力や繊細な技術など学ばなければならない事は、山積みです。
愛媛の大洲のとても小さな和菓子屋ですが、僕はその四代目として、父のようにチャレンジ精神を忘れず、伝統と
味を守り続けていきます。父との確執なんか想定内です。そして、夢は世界に羽ばたけ和菓子の力。まずは、身近な
ところから。
さあ、皆さん、大洲名物もみじまんじゅうはいかがですか。
愛媛県
人類の軌跡
松山東雲高等学校
3年
中村
実央
人は何故歴史を学ぶのか―それにはさまざまな理由が考えられるでしょう。その中で私は、先人が築き上げてきた
文明・文化・伝統を守り、受け継ぐため、そして過去に犯した過ちを二度と繰り返さないようにするため、この二つ
が特に大切だと思います。
しかし、今も世界のどこかで争いが起こり、尊い命が失われています。
これらのことが起こるのは、国益や自国の名誉のため、また宗教や民族の対立などがその理由として挙げられます。
それを解決するアプローチの一つとして、相手の背景を考える、つまり歴史を学ぶことが大切なのではないでしょう
か。
その例の一つが、今日の日中・日韓関係です。中国・韓国では徹底的な歴史教育が行われており、両国の若者の歴
史に対する関心は日本の若者に比べて高く、知識は深いものです。
しかし、そこで教えられているものの一部は、反日感情を植え付けるような歪曲した歴史であり、こうした歴史の
教育が他国への批判的感情を生み出し、過激な反相手国へのデモ活動を行う動機の一つとなっています。つまり、こ
こで言う歴史や歴史教育というものは、国家が政治活動を円滑に行うために国民思想を統一するツールとして利用さ
れている面もあります。一方で、敗戦国である日本では他国からの大きな攻撃を受け、甚大な被害を被っているにも
かかわらず、加害者としての責務を果たすために反省的な歴史教育が行われています。このことを歪曲した歴史と考
えるのであれば、私たち日本人が本来学ぶべき歴史は反省的なものではなく、より保守的なものとなるでしょう。そ
うは言っても、日本が前述したような歴史教育を推し進めたならば、他国からの反感を買い、国家間の関係がさらに
悪化する可能性は高いでしょう。
ではこれらの食い違いが起こっている歴史教育の在り方を打破するためにはどうすれば良いのでしょうか。もし各
国の歴史研究者らが数々の史料を基に、歴史的和解を目指して検討したものを世界で共通した歴史教科書として執筆
することが可能であれば、歴史認識の差異の問題は少なくとも解決されるでしょう。しかし、そのようなことはほと
んど不可能だと思われます。なぜなら、それは、全人類の持っている主観を統一することであり、歴史に対するそれ
を持つなと言っているのと同様だからです。
ところが、国家間の友好関係が滞っていたドイツとフランスが手を取り合って、2006年に共通の歴史教科書を
発刊したのです。この歴史教科書は両国の歴史学者らが偏った見解を持たないように議論を重ね、両国の歴史的和解
を目指して執筆された初めての共通歴史教科書です。このことは人類史に残る快挙であると共に、私たちが模範とす
べきことだと私は思います。ただ、日中・日韓においてこのようなことは不可能だと思われる方も多いでしょう。し
かし、日中・日韓と同様な関係であったドイツとフランスにできて、なぜ私たちにできないのでしょうか。歴史的和
解を可能にするためには、私たち一人一人の歴史に対する見解を変えていくしかないのです。ドイツとフランスは、
行動を起こしたのです。歴史的和解を目指した、共通の歴史教育を行うことは、世界平和実現への一歩に繋がると私
は考えます。
私は大学へ進学したら歴史学を専攻したいと思っています。そして歴史を学ぶことの大切さを人々に伝え、また、
他国との歴史的和解を実現できるように行動したいと考えています。
歴史の流れと共に社会は大きく変化しており、グローバル社会に生きていく私たちは、他国との対外関係を考えた
歴史の見解を持つことが求められます。歴史認識の差を埋めるために、他国の人々と文化交流を行ったり、国際問題
について話し合う場を設ける必要があるでしょう。
私たち人類は先人が残した軌跡の上に立っています。歴史を学ぶことは、その軌跡を未来へと繋いでいくことだと
- 55 -
私は考えます。私たちは先人から重大な義務を課せられているのです。先人が命をかけて繋いできたバトンを少しで
も良いものにして、次の世代へと繋ぐのが私たちの使命なのですから。後世へと続く軌跡を少しでも、ささやかでも
良い方向へと導いていくのは私たちです。
福岡県
凶器と包帯と
福岡県立三潴高等学校 2年 有村 綾美
日常何気なく使っている言葉。私は今までに、言葉について深く考えさせられる三つの出来事に出会い助けられてきました。今
日はその経験をお話しし、もう一度皆さんと言葉について考えてみようと思います。
一つ目の出来事。それは昨年の秋のことでした。人気が少なくなった放課後。私は帰ろうと教室を出ました。廊下では一人の女
子生徒と先生が話をしていました。「ねえねえ、先生、そういえばさ、あのファイルどこあったっけ。」そばを通りかかった私は
「敬語で話せば」と軽く促しました。すると先生は意外にも、「いいとよ、別に。」との一言でした。その先生の言葉は私の中で
くすぶり始め、先生の言葉の真意は何だったのでしょうか。「敬語を使わない方が気楽だからいいよ。」という意味だったのでし
ょうか。私が考えるに、敬語には大きく2つの効果があります。第1に公私の区別をつける効果があります。これは自分自身の気
持ちの切り替えもでき、社会に出るに当たり必要不可欠なものだと考えます。第2には、敬語とは本人の人格、品位が形成されて
いく要素の一つだと思うのです。私は時と場合に応じた美しい日本語が使える素敵な大人になりたいと思うのです。では、友達に
はどうでしょう。もちろん敬語は使いません。しかし何でも話しやすくなります。無意識に強い言葉も使い、言葉は威力を増しま
す。面白半分に言ったことが相手を傷つけ、言葉は凶器と化します。
二つ目の出来事。中学二年生の時のことです。親しい友人とクラスが離れてしまった私は、周りになかなかなじめませんでした。
それが原因で三年生ではあまり喋らずついに笑わなくなってしまいました。私は、せっかくクラスメートが声をかけてくれている
のに、そっけない態度を取って自分が嫌で嫌で仕方ありませんでした。するとある日担任の先生が、「お前は人と話すのが得意じ
ゃないのか。」と聞かれました。突然で何も言えませんでした。やっと一言「はい」と答えると、先生はこうおっしゃいました。
「そうか。でもお前は、人を思いやるようなあったかい心の持ち主に見えるから、すぐに友達もできると思うぞ。」この言葉を聞
いた瞬間、涙が溢れそうになりました。先生は私が人とうまく話せずに悩み苦しんでいることに、気づいてくださったのかもしれ
ない、そう思いました。その日からです。私だってみんなみたいに喋りたいし、にこにこ笑っていたいと強く思い、少しずつクラ
スメートと打ち解けるよう努力しました。すると周囲も私にたくさん話しかけてくれるようになりました。二学期の半ばでは、私
は全くの別人のように変わっていました。「学校に行くのが楽しい、休みたくない。」と思うほどでした。私を変えてくださった
のは、担任の先生の言葉でした。傷ついた心を優しく包み、治していただいたと、心から感謝しています。
そして三つ目の出来事。昨年の夏休みのことです。福岡県高文連の弁論ゼミナールに参加した私は群馬県立女子大学の安保博史
先生のお話を聞く機会に恵まれました。お話の中で一番心に残っている言葉が、「言葉は使い方次第で、人の心を傷つけるナイフ
や爆弾にもなり、逆に落ち込んだ人を慰めるための包帯にもなる。」という言葉です。今思えば、中学時代の先生の包み励まして
くださった言葉は、まさに包帯そのものでした。
古く日本では言葉には魂が宿るという言霊信仰がありました。ただ意思伝達のための道具としてだけでなく、魂の宿る神聖なも
のとして大切に扱ってきたのです。何を見ても「かわいい」、おいしくてもおいしくなくても「やばい」。挙句の果てには平気で
「死ね」「きもい」などと語彙力を失い、凶器を振りかざしている今だからこそ、私は言葉の大切さ、言葉の力、日本語の美しさ
を見直さなければならないと考えます。言葉は神様が人間だけに与えてくださったプレゼントです。いつか私も誰かを励まし、心
の傷を癒す言葉がかけられるような、素敵な大人になるために、日々の言葉を大切に使っていこうと決意を新たにしています。
- 56 -
福岡県
トイレの神様
福岡県立八女高等学校
2年
溝上 賢史郎
生ぬるく、ヌルヌルと両手にまとわりつくような感触、そしてむせかえるようなアンモニア臭。暑かった昨年の夏、
八月下旬のその日も35度を超える猛暑日でした。その時の体験は私にとって忘れられないものとなりました。
私が参加したのは、希望者による本校の恒例行事「心を磨くトイレ掃除」研修会です。素手で便器を掃除するとい
うもので、先生方から、「便器に手を突っ込んだ瞬間に何かが変わる」と勧められ、友達と二人で参加しました。あ
らかじめわかっていたとはいえ、除菌のためのワックスを塗っただけの素手と素足でトイレ掃除を行うことには、最
後までためらいがありました。非常に薄いサンドペーパーを手に小便器の前に立った時に感じたのは、とにかく臭い
ということです。でもせっかく自分を変えようと参加したのだからと覚悟を決め、両膝を床につき、左手で縁をしっ
かりつかみ、右手を便器の中に突っ込みました。その瞬間、グループのメンバー全員が「臭え」「汚ねえ」などと騒
ぎたてました。しかし次に思ったことは、今までの掃除では気づかなかった、というより気づかないふりをしていた
細かいゴミや小さな汚れがあること、きれいに見えた便器も全体的にくすんでいるということでした。一生懸命に便
器を磨いていき、先生からの指示で、便器の底の水漉しを持ち上げてみました。すると、長い間掃除されていなかっ
た水漉しには、茶色いドロドロとした汚れがべっとりと粘着していました。喩えるならば、風邪をひいた時に咳とと
もに出てくる痰のような、ヌルヌルとした汚れです。あの感触と臭いは、今思い出しても吐き気を催すほどです。し
かし、勇気を出して一度触ってしまうとウソのように躊躇は消えていきました。そして気づいたらいつの間にか、み
んなも無言のまま、真剣な表情で、ひたすら便器を磨き続けていたのです。約四十分間の掃除を終えた時、見違える
ようにピカピカになったトイレを前に、誰の表情も達成感に満ちあふれて輝いていました。
この体験を通じて私は、これまで物事を表面的に、大まかにしか見ていなかったことに気づきました。細かいこと
にも気付ける人間は、他人にも気配りができるようになると思います。さらに、トイレ掃除をしない人の心の中に共
通してあるのが、そのうちまとめて一気にやろう、または自分がやらなくても誰かがやってくれるだろうという、甘
えだと気付きました。毎日少しずつでも、自分で徹底して行動し、それを継続することは、トイレ掃除だけに限らず、
あらゆることに通じる大切なことだと思います。そして、今まで考えられなかった素手でのトイレ掃除をやり終えて、
ピカピカの便器を見たときには、こんなに白く光るんだと感動し、すがすがしくなりました。汚いトイレの床に跪き、
先生の指示を素直に聞き入れるという謙虚な心があって初めて、このような大きな感動を味わうことができました。
それは、目先の利益ばかりを追求していては決して得られなかったものです。他者への気配り、自分を律し甘えを排
除する心、凡事を徹底し、継続する力、日常の些細なことにも感動できる心、謙虚さ。現代のさまざまな社会問題は
これらの大切な心が見失われたことで引き起こされているように思います。「取り戻したい日本人の美徳」その存在
に気づかせてくれたトイレ掃除でした。
皆さんも「トイレの神様」という曲はご存じですよね。トイレにはきれいな女神様がいて、毎日きれいにトイレ掃
除をしたら女神様みたいにべっぴんさんになれるという内容でした。人の嫌がるトイレをきれいにすると、自分
の心もピカピカに磨かれていく。心が美しくなれば、それはその人の表情をも美しくする。 今、私はそう
理解しています。
心は見えない。だから私たちは心を磨く努力を怠り、心がくすんでいっても気づかずに過ごすことが多いのだと思
います。あの「心を磨くトイレ掃除」研修会以来、私は漫然とやっていたさまざまなことに、「心を磨く~」という
思いで真剣に取り組むことにしました。例えば「心を磨くゴミ拾い」「心を磨く黒板の溝掃除」「心を磨く立ち止ま
って挨拶」「心を磨く古典の授業」などです。何事も真剣な思いで取り組めば、消極的な気持ちでやっていた時とは
違うすがすがしさを味わうことができます。もちろん、自宅でのトイレ掃除は今でも続けています。
- 57 -
皆さんも「心を磨くトイレ掃除」を実践してみませんか。大便器の奥底や小便器の水漉しの中から女神さまが微笑
んでくれるかもしれませんよ。私がこの全国大会の舞台に立てたように。
佐賀県
あの日、あの地へ
佐賀県立伊万里高等学校
2年
吉永
沙希子
三年と四ヶ月。あなたはこの年月を長いと思いますか。それとも短いと思いますか。三年四ヶ月とは、2011年
三月十一日から今日までの年月です。この間、私は、中学から高校へと進学し、新しい友だちもでき、環境が少し変
わりました。東北では、あの日から今日まで、どんな日々が流れていったのでしょうか。遠く離れた九州に住む私た
ちには、到底想像することさえ難しい過酷な日々だった事でしょう。
テレビや新聞では、復興という文字が躍り、日々変化していく東北の様子を伝えています。その一方で、なかなか
前に進むことができない被災地の方々のことも伝えています。
私はこれまで、長期の休みを利用して、東北を訪れています。東北に行く前に私が必ずすることがあります。それ
は、三年四ヶ月前、あの地で、何が起きたのか、人々はその時どういう体験をしたのか、しっかりと自分で感じるた
めに、震災関係の本を読んだり、当時の報道を再度見直したりすることです。そういったことをせずに、被災地に足
を踏み入れると、変わりつつある東北の一面ばかりに目がいき、あの地で起きた甚大な被害を忘れて、被災者の方々
を傷つける言動をとってしまいそうだからです。
私が東北を初めて訪れたのは、震災から九ヶ月目のその年の暮れ。石巻市の住宅地で側溝の泥上げの手伝いをしま
した。二回目は、浦戸諸島でのがれきの分別。三回目は、大川小学校のひまわり畑の整備を遺族の方と一緒に行いま
した。
そして去年の夏、私は、宮城県南三陸町を訪れました。町民に避難を呼びかけていた役場の女性職員が津波にのま
れたという防災対策庁舎の無惨な骨組みがひっそりと残っていました。何もない街で、動いているものと言えば、整
備された道を走る車と信号機だけで、後はシーンと静まりかえっていました。
そんな南三陸町での私たちの作業は、農地のがれき処理でした。一見しただけでは、がれきは既に撤去されており、
まだ処理の必要があるのだろうかと疑問に思いながら作業に取りかかりました。でも、私の想像とは違い、土を十数
センチ掘り起こしただけで、その辺りがかつて住宅地だったことを物語る品々が次々と出てきました。カーテンやぬ
いぐるみ、点滴のチューブ等々、生活のにおいのする物ばかりです。
ボランティアスタッフの話では、「機械を入れてのがれき処理は既に終わっている。後は、人の手でしか撤去でき
ない細かながれきがまだ残っている。その一つ一つを取り除かない限り、ここを農地として蘇らせることは不可能だ」
ということでした。かつてこの辺りに人々の営みがあったことを物語る品々を見ていて、言い知れない切なさのよう
なものが、私の心をいっぱいにしました。あの震災を経験していない私でさえ、こんな気持ちになるのだから、この
作業を、被災者の方、現地の方々に任せるのはとても酷なことで、できるなら避けたいと思いました。
そして、朝九時から午後三時まで、四十人がかりで取り組んでも、進んだのは、たったの五メートル。その先には、
処理を待っている土地がずっと遠くまで続いていました。一つの町を復興させるのに、あと何年かかるのだろう。途
方もない年月だと言うことだけは、私にも分かってきました。その一端を私たちが担うことはできないのか。一人一
人があの日、あの地に思いをはせ、もう一度考え直さなくてはいけないのではないかと思います。
東北での経験から、私がもう一つ気付いたことがあります。それは、今私たちが当たり前だと思っている日常は、
奇跡に近いということです。いろいろな好条件が重なって、今日の生活があるということ、私たちの隣に笑い合える
仲間がいるということ。条件が一つでも欠けていたら、私たちは、今ここで、こうして生活することができていない
のかもしれません。今のこの生活に感謝して、日々を過ごすことができたらと思います。
もう一度、考えてみてください。三年と四ヶ月、あなたはこの年月を長いと思いますか。短いと思いますか。あの
日、あの地で、起こったこと。それからの日々のこと。そして、東北の方々が流された涙を、決して忘れないでくだ
- 58 -
さい。
佐賀県
人と人をつなぐもの
早稲田佐賀高等学校
2年
内田
佐和
「九州の佐賀の人が、見ず知らずの私達のことを忘れないで助けてくれるなんて、本当にありがたいねぇ。勇気が
出るねぇ。」
宮城県石巻市の仮設団地で暮らす阿部澄子さんは、私の訪問を涙で迎えてくれました。阿部さんは同じく被災した
主婦 3 人と、布製のひな人形などを作っています。私は、去年の 3 月、その人形の売上金などを持って、初めて東北
を訪れました。私たちが佐賀市のバザーで販売した売上は、これまでで最高だったそうです。阿部さんの涙に、私は、
人と人の繋がりの不思議さと素晴らしさで、胸がいっぱいになりました。
私は東日本大震災で被害にあわれた方々への支援活動をしています。その活動を通じて、思いがけない出会いが沢
山ありました。その一人が東京の大学生、渡邉雄士さんです。渡邉さんは、東京で復興支援をしている NGO の一員
で、私が通っていた中学校が参加するバザーのホームページを見て、突然連絡してきました。「被災地の人たちが作
った人形をバザーで売ってくれないか。」私が役員をしていた生徒会はこの申し出に応え、販売のお手伝いをしまし
た。東京と佐賀。全く接点のなかった人たちが、インターネットを通じ、被災者の力になりたいという思いを通じて
つながったのです。
被災地支援の「きっかけ」を作ってくれたのも人との出会いでした。仙台市で被災し、佐賀市の実家に戻ってきて
いた主婦、砂子啓子さんとの出会いです。地震から 3 ヶ月後、私の中学校に講演に来てくれた砂子さんの話を聞いて、
自分たちにできることはないかと考えました。砂子さんのアドバイスで、私の学年の 158 人全員が雑巾を縫い、仙台
市の中学校に届けました。また、生徒会独自で被災地支援バザーを開きました。砂子さんが仙台に帰られてからもメ
ールなどで交流を続け、去年 3 月、私は初めて東北を訪れ、砂子さんの案内で被災地を回りました。
想像してはいましたが、実際に見聞きする被災地の状況は私にとって、辛く重いものでした。校舎ごと津波に巻き
込まれ、ほとんどの子どもたちや先生が亡くなった小学校。広大な原っぱになってしまった住宅街。被害の状況はあ
まりにむごく、見たくなかったというのが、その時の私の正直な気持ちでした。誰もが身近な人を亡くす経験をし、
仮設団地に住むおじさんは、家も仕事もなくして、新しく家を建てるような気持ちにはなれないと希望もなくしてい
ました。「支援バザーとかしてきたけれど、そんなもの、ただの自己満足にすぎなかったのではないか」「私は何も
わかっていなかった」。ただただ申し訳なくて、旅の途中から、周りの人と何も話せなくなりました。
そんな私に、ずっと東京で被災地支援の活動をしてきた渡邉さんは、フェイスブックで、こう話しかけてくれまし
た。
「15 歳の女の子には苦しかったり、辛かったりしたと思う。でもその体験を、ぜひ友達に伝えて、みんな東北のこ
とを忘れないでいてもらいたい」
3 歳しか年の離れていない人が、被災地の人たちに寄り添い、活動している姿は、とても眩しく見えました。「お
前に何がわかる」といわれようとも、勇気づけられる人、笑顔になれる人がいるならば、私は、こうした現実の伝え
手になろうと強く思いました。
絶望に打ちひしがれたとき、「人の温かい心」がどれほど人の心を明るく照らすのか。阿部さんの涙がそれを実感
させてくれました。そしてそれは、伝えることで、つながり、届けることができた明かりです。
人と人をつなぐ仕事につくこと、人の笑顔をつなぐ仕事につくこと、それは、私の夢になりました。10 年後、20
年後も、胸が締め付けられるようだった東北のあの風景を、心の痛みを忘れないで、伝え続けていこう。私は今、そ
う、決心しています。
- 59 -
長崎県
エール
長崎県立長崎東高等学校
2年
川瀬
愛
理
「親は、自分の子どもがどんなことをしたら一番悲しむと思う?」
ある日、買い物へ行く車の中で、母が私にこのような質問をしてきました。私はすぐに答えられなかったのですが、
しばらく考えて、いくつかの重い言葉が頭をよぎりました。「家出、万引き、いじめ、病気、事故・・・。」そして
最後に、「死ぬこと」と私は答えました。母は、「愛理の言うとおりだね。もし自分の子がひどい罪を犯せば悲しい
よ。でも一番悲しいのはね、自分の子が親よりも先に死んでしまうことなんだよ。」と少し声を詰まらせて言いまし
た。母のこの言葉を聞いた瞬間、私は3歳年下の妹の事がぱっと脳裏に浮かびました。
妹の名前は智恵理。今でも私たち家族は、この妹のことを「ちいちゃん」と呼んでいます。ちいちゃんは、「先天
性の心臓病」という重い病気を持って生まれてきました。ちいちゃんは、全身に血液を送り出す大動脈が狭くなって
おり、また、心臓の中にある大動脈の弁が正常に動かない症状があり、早急な手術が必要でした。そして、生後2週
間で、約8時間にも及ぶ大手術をして、一命を取り留めました。家族みんなで新しい命の誕生を心待ちしていたのに、
その後もちいちゃんはなかなか家に戻って来られずに、福岡と長崎の病院で入退院を繰り返しました。そして、亡く
なるまでの7ヶ月半、幼い体でこの病気と闘ったのです。小さな体に、命をつなぐための管をいくつも入れられ、そ
の痛みに泣いていました。母は、その泣き声を聞いて、健康な体に産んであげられなかったことを悔やみ、何度も自
分自身を責めたそうです。そして、我が子の死を受け止められずに苦しみました。母は十年以上経った今でも、一日
でさえも、ちいちゃんを忘れた日はないと言います。母の話を聞いて、子どもの存在が親にとってどんなに大切なの
かが私にもよく伝わりました。
最近、人の命が簡単に奪われるというニュースをよく耳にします。親が子を殺したり、子が親を殺したりと悲しい
ニュースが後を絶ちません。さらには、日本における一年間の自殺者の数は、平均して約3万人を数え、昨年は、1
0代後半から20代を中心とする若い世代の自殺者が増加しました。ニートと呼ばれる若者が増え、生活保護を受給
できない若者が、ついには自らの尊い命を自らの手で奪ってしまうという悲惨な事態を知りました。たえられないほ
どの辛さがそこにあったとしても、なぜ自ら生きることをやめるのか、なぜ生きている人の命を軽く扱うことができ
るのか、生きる意味を実感できないこと、これは人間存在の根本にかかわる大きな問題です。
さて「生きる」ということはいったいどういうことなのでしょうか。ちいちゃんは、生きることのすばらしさを知
らないまま亡くなってしまったのでしょうか。私はそうは思いません。短くても、与えられた時間を精一杯に生きた
と思います。そして私に、命の大切さを、与えられた命を輝かせて精一杯「生きる」ということを教えてくれたので
す。私はふと気づきました。「生きる」ということの本質は、決して長さの問題ではなく、その命を精一杯輝かせた
中身にあるのだ、そしてその命の輝きが、今現在の命、そして未来の命にどんな影響を与えるのかということだと。
薩長同盟、大政奉還の成立に尽力し、明治維新に大きな影響を与えた坂本竜馬は、わずか33歳の若さで暗殺されま
した。しかし、この33年間がどんなに命を輝かせたものであり、その精一杯の生き方が後世の人々にどれだけ大き
な影響を与えたかは周知のとおりです。
仏壇の前で、私は静かに目を閉じ、両手を合わせました。そして、ちいちゃんに向かって語りかけました。
「ちいちゃん、私は高校生になりました。自分の夢を叶えるために、この高校を選び、進学しました。毎日往復3時
間という長い通学距離ですが、ここで私は、夢を叶えるための挑戦をしています。私の夢。それはちいちゃんのよう
な難病を持つ子どもたちを助ける小児科医師になることです。そして、最新の医学を研究し、難病を根治できる治療
法を見つけ出して多くの幼い命を救って見せます。高校の勉強はとても難しいです。苦手な数学をどうにかして克服
- 60 -
しなければなりません。それは簡単なことではないけれど、最後まであきらめずにがんばります。そして私は、私に
与えられた時間を、この命を使って精一杯に生きていきます。壁にぶち当たったときでも、苦しくても乗り越えてい
きます。精一杯生きたちいちゃんに恥じないような人生を送ります。」
ある日の車の中での母との会話。最近、何気なく続く毎日を、淡々と過ごしている私に、母がエールを送っている
のだと思いました。「精一杯生きること」これが、ちいちゃんと、ちいちゃんを産んだ私の母からのエールです。ち
いちゃんの、精一杯生き、輝かせた命は、未来へのエールとなって繋がっているのです。あなたの人生を輝かせるた
めに、困難なことにもチャレンジしてみませんか。失敗しても後悔しない生き方をしてみませんか。
これが、私からみなさんへ送る「生きる」ということへのエールです。
長崎県
平和へのヒント
長崎県立長崎北高等学校
2年
近藤
絵理
「原子爆弾をアメリカが日本に投下したことは、間違っていたと思いますか?」
中学三年生の夏、平和学習の一環で私は外国から来た方々にインタビューをしました。アメリカ、中国、ドイツ…。
様々な国から来た方に質問をしたのです。あるアメリカの方は「戦争とは戦場で兵士同士がやるもの。罪のない女性
や子供を巻き込むのは間違っていた。」と答えました。また、あるイギリスの方は「核爆弾を落とすことで、投下さ
れてからも長い間苦しむ人がいる。ここまですることはなかった。」と答えました。意見は様々でしたが、返ってき
た答えはほとんど「日本に原子爆弾を投下したことは間違っていた。」というものでした。
しかし、その中に一人だけ、「日本に原子爆弾を投下したのは正しかった。」と答えた人がいました。シンガポー
ルから来ていたその女性に理由を聞くと、「日本もいろんな所へ攻撃をしたのだから、仕方がない。」というのです。
私はその日はじめて、戦争とは相対的なものだと感じました。異なる立場から見ると、私が見ていたものとは全く異
なる見え方がする。戦争とはそういうものなのだと思いました。
私は原爆が投下されたことを決して正しいことだったとは思いません。しかし、だからといって、原爆を投下した
ことは正しかったと言ったあの女性を、すべて否定することもできません。日本も攻撃をして多くの命を奪ったのは
紛れもない真実であり、忘れてはならないことだからです。立場によって戦争の見方が異なるとすれば、平和を一体
どのように捉えたらいいのでしょう。「本当の平和」とはどんなものか、私はわからなくなってしまいました。
しかし、この疑問にヒントを与えてくれる出来事があったのです。
私はオーケストラ部の部長です。大地の鼓動のような打楽器に、降り注ぐ太陽の管楽器、そして海の底から響きわ
たるような弦楽器の旋律。異なる音色が重なり合い溶け合って、一つの音楽を作り上げることは、私にとって何より
も楽しいことです。ところが、実際に練習を始めると、うまくいかないことばかりでした。
「管楽器、音ちっちゃかばい。」「ちゃんと指揮見んね。」「ただの自己満足じゃなかと?」
それぞれが自分の主張ばかりして、意見がぶつかり合うことがよくあったのです。しかしある日、それを見ていた
友人の一言が、私を変えたのです。
「絵理、なんばイライラしよっと?そんなイライラせんでもいいじゃん。」「だってみんなバラバラになっとるた
い!」そう言い返した私に、友人はこう言いました。「みんなだって絵理だって、良い演奏をしたいというのは変わ
らんばい。だけん、その気持ちを大切にすればいいんじゃなかと?」
それを聞いて私は、大切なことに気付いたのです。私もみんなも、良い演奏をしたいという気持ちは同じです。め
ざす頂上はひとつしかありません。でも、そこへたどりつくまでの道のりは一人ひとり違います。「頂上からの景色
を見たい」という気持ちが自らを突き動かしているのは、みんな同じなのです。「みんな言うことは違っている。そ
れでも、気持ちは同じなんだ」それに気づいてからというもの、たとえ意見の違いがあってもいい演奏にするために、
気持ちを一つに頑張ることができました。
本当の平和とはどのようなものなのでしょう。まだはっきりと答えは出ていません。しかし、家族と笑って過ごし
たいという思いが、世界中の人々の願いであることは間違いありません。そうだとすれば、平和を実現するための第
一歩は、「意見の違いを認め合うこと。さらにそれを乗り越えて、同じ気持ちに気付くこと」ではないでしょうか。
弦楽器に管楽器、どちらの音色も本当に素敵です。しかし自分の個性ばかりを主張しても、良い演奏にはなりませ
ん。みんなの思いがひとつになったとき、ひとりでは作ることの出来ない感動的な音楽を奏でることが出来るのです。
同じように、一人ひとりが思い描く平和な世界は、それぞれ違っているかもしれません。しかしその中に、家族と笑
- 61 -
って過ごしたいという思いがあるのはみな同じです。その思いに気付けば、平和な世界への扉は開かれるのです。
日常にひそむいじめや差別に、紛争や領土問題。世界は今、様々な問題を抱えています。私は本当の平和とは、意
見の違いを認め合いながらも、誰もが持っている「同じ気持ち」に気づくところから始まると思います。あの夏の日、
私のつたない英語をうなずきながら聞いてくれた外国の方々。たとえ意見がぶつかっても、一つの頂上を目指してと
もに歩いてくれる仲間たち。その一人ひとりの心の中に、本当の平和へのヒントがあるような気がします。
熊本県
「ちょっと、そこのお前さん」
真和高等学校 3年 松尾 夢佳
きしきし。カタカタ。柱の軋む音が、ものが動くかすかな音が聞こえませんか。誰もいないはずなのに、何かの話し声が聞こえ
てきたり、そんな経験をしたことはないでしょうか。
電気が普及し、街にも家にもいつでも多くの光が灯るようになった現代。そして今とは対照的に家の隅や、街中に闇が満ちてい
た昔。この時代では、わけのわからない不可思議な現象は大体妖怪の起こしたものとされました。
つ
く
もが
み
そして同じくこの時代、大事に大事に使われ壊れずに長い年月を経たものは九十九神になる、とされていました。このつくも、
漢数字では九十九と書き、長い年月や経験、多種多様な万物を表します。簡単に言えば昔の人の、モノを大事にするようにという
価値観から生まれた妖怪のようなものです。そして私は、たくさんの九十九神をつくりたい、そう思っています。
「使い捨て」という言葉がある現代社会。せっかく作られたものを、一度使うだけで捨ててしまうのです。確かに、一度しか使
えないように作られたものもあるのでしょう。ですが、もったいない、もっと何かに使えないかな、と考えてしまうのは私だけで
しょうか。昔の人は破れた衣服を何回も何回も繕って、ついに着られなくなったときにはそれを雑巾にして使うなど最後まできち
んと物を使っていたのです。流石にここまで徹底して使うのは難しいでしょうが、私たちも見習うところがあるはずです。
さて、九十九神をつくるとはどういうことか。具体的に言うと、私は文化財修復の仕事に携わりたいのです。文化財修復とはそ
の名のとおり、昔の人が残してくれたもののうち、傷ついてしまったものを治す、いわば文化財のお医者さんのような役目です。
大切に使っていてもいつかものは壊れてゆく。そんな九十九神見習いの状態で壊れてしまったものを直し、九十九神になるお手伝
いを私はしたいのです。
はじめはただ、物を作ることが好きだったんです。そして、幼い時に肥後象眼のネックレスを見た時から、私の古きものたちと
の縁がつながり始めました。いいなと思うものがあるとつい作ってみたくなる性分で、両親の好意により中学二年生の時に肥後象
眼を習うことになりました。肥後象眼とは、土台となる鉄の生地に金や銀などで装飾を施し、小物やアクセサリーを作るという熊
本の伝統工芸です。肥後象眼と出会ったことで、いろいろな伝統工芸品、そしてそれをつくる職人の方に出会いました。そんな環
境でたくさんの話を聞いているうちに、将来自分がどうありたいかという道が少しずつみえてきたのです。つくる側の立場に立っ
たことで、人に愛されるものが作りたいという気持ちが湧いてきて。昔の人もこんな思いで作っていたのだろうかと考えると、古
いものが一層愛おしく大切になりました。
その上で私は断言します。古きものの修復こそが私のやりたいことだと。日本の伝統文化を守るだとか、そんな義務的なことを
ごちゃごちゃと考えるよりも前に、もっと純粋に。きれいなものを、昔の職人が込めた魂を、これからも見てゆきたいと思ったの
です。
今、あなたの周りには、どれだけ古いものが残っていますか。汚れたから、古くなったからという理由でほいほい捨ててはいま
せんか。
たまには九十九神見習いたちのもとへ足を運んでみてください。こんな声が聞こえるかもしれませんよ。
「ちょっと、そこのお前さん。使っておくれよ」
- 62 -
熊本県
チーム上村の“きせき”
熊本県立東稜高等学校 3年 上村 和代
チーム医療、チームマイナス6%、チーム日本――。今の日本には、チームと名のつく団体があふれています。ところで、我が
家にもチームがあります。私の家は小さな兼業農家です。六月には田植え、九月には稲刈りや籾すりを、家族みんなでしなければ
なりません。この時期はとくに、私たち家族・チーム上村は、一丸となって仕事を乗り越えるのです。
そんなチーム上村に、六年前、前代未聞の大事件がふりかかりました。我が家の祖母が、認知症になってしまったのです。元気
で明るかった祖母は、少しずつ、色んなことを忘れていきました。まず歩行がもたつくようになり、気がつくとわずかな段差も自
分では上がれないようになっていました。私の名前も間違えることが増え、認知症の発覚から一年が経つころには、排泄の始末も
自分ではできなくなっていたのです。
祖母の介護に慌ただしい日々が始まりました。たとえば、祖母にはズボンを腰まで上げない癖があったため、家の中が排泄物だ
らけになることがしょっちゅうありました。そのたびに私が祖母の体を洗い、そのほかの家族が家中を大掃除するのです。臭いも
ありますし、かなりの時間が取られました。
こんな話をすると、ずいぶんつらい思いをしたんじゃないかと思われるかもしれません。ところが、上村家ではそんなことはな
かったのです。今日一日の祖母の話題を母が明るく話すと、父がそれを笑いに変えてくれます。また、食卓で祖母が何か粗相をし
てもため息が漏れることはなく、いつも、温かい笑いが生まれました。私たちが笑うと祖母も笑ってくれます。だから、家の中が
暗くなることはありませんでした。それは、家族がお互いを思いやる強い気持ちを持っていたからです。
家族全員が家族のために、自分のできることをする――。それがチーム上村の方針でした。私もチームの一員ですから、もちろ
ん仕事があります。私の主な担当は、トイレ・おむつの交換と、ご飯を食べさせてあげること、そして入浴介助でした。祖父と母
はもっとたいへんでした。少し目を離すと、玄関のガラス戸を割って転げ出てしまう祖母に、日中付きっきりでしたから。だから、
家族全員が集う夜には、祖父も、母も、決して一人で介護をさせませんでした。
また、チームの一員であることは祖母も同じです。たとえば食べこぼしがあっても、少量であれば自分で口元をぬぐってもらい
ましたし、お風呂では腕や前髪などはできるだけ自分の手で洗ってもらいました。また、食べ物の好き嫌いが多かった祖母に嫌い
なものも食べてもらおうと、「これおいしかね。」「おばあちゃん、これおいしかよ。」と家族みんなで大合唱したりもしました。
介護は確かにたいへんでした。しかし、それが「嫌」につながることはありませんでした。一人ではなかったからです。家族み
んなで乗り越えようとしたから辛くはありませんでしたし、だからこそ家族の絆が強まる場になったんだと思っています。
祖母が亡くなったのは、私が中学二年の、三学期最後の日でした。棺に入れる前に祖母の遺体を清めてもらったのですが、祖母
の体を洗った記憶や、二人っきりで話した色んなことが頭をめぐって、涙が止まりませんでした。
実は祖母は祖父の後妻で、父とも、もちろん私とも、血が繋がっていません。でも、お話ししたいエピソードがあります。祖母
の、くの字に曲がった人さし指にまつわる話です。祖母は上村家に嫁いできてから、冬になるとほうれん草を束ねるのが仕事にな
りました。それを何年も続けているうちにこんなふうに曲がってしまったんだ、と言いながら、私の指と重ね合わせ、「和代ちゃ
んの指はきれいかねえ。」と誉めてくれました。祖母もチーム上村として指が曲がるまで働き、そして私を本当の孫のように扱っ
てくれたのです。祖母の親戚の方が遺影に向かって言った、「上村家に来て、こんな孫ができて、幸せだったねえ。」の言葉が忘
れられません。血のつながりは関係ありません。義務感から介護をしたのでもありません。お互いがお互いを思いやるとき、人は
チームになるのです。これは、介護にとどまらず、今の日本に届けたい言葉です。
みんなで頑張ってつくったお米を食べると、ほっぺたが落ちそうになります。介護も同じ。チーム一丸となって囲んだのは、本
当に、あたたかい食卓でした。私たちが支えあって歩んだ軌跡が、家族をチームにするという奇跡を生んだのです。これからも、
私たちは決して家族を一人で悩ませたりはしません。だって、チームなのですから。
- 63 -
- 64 -
大分県
TSUTAERU?つたえる?
大分高等学校
2年
緒方
優紀乃
そこは、まさに神聖な場所でした。吸い込まれるように真っ暗な観客席。その先に投げかけられた照明の明るさで、
舞台だけが煌々と輝き、まるでギリシア神話に出てくる楽園です。オーケストラの演奏者たちが神々ならば、指揮者
は大神。そして楽園の真ん中に秘密に隠されていたかのような、凛としたブラックピアノ。私は、楽園の真ん中でピ
アノと向き合い、その冷たくて白い鍵盤にそっと指を触れました。
先日、若い演奏者のために海外からオーケストラを招いて行われたピアノコンチェルトのコンサートがあり、私は
その演奏者の一人として参加しました。今までこのようなコンサートに出演するのは初めてで、少し不安な気持ちで
したが、お世話になっている友人や先生方を思い切って招待しました。すべての出演者の演奏が終わってもなお、私
はまだ天にいるような幸せな心地で、エントランスホールに出ました。するとそこに招待した友人や先生が待ってく
れていたので、私はとても驚きました。ある友達は私を見るなり駆け寄ってきて離しません。「すごかったよ!」「か
っこよかった!」とはちきれんばかりの笑顔で、自分のことのように喜んでくれるのです。私がコンサート出演する
ことを知ると「行きたい!」とすぐに言ってくれた人でした。その両腕のぬくもり、身体ごと預けられたその重み、
耳元でほめてくれた言葉の熱さはなんてありがたく幸せなことだろう。私は胸が熱くなるのを感じました。
その時に感じたことの一つは、『直接』であることの確かさ、強さ、温かさでした。ありきたりの日常の中で見過
ごしていたこの重要なことを、このときの体験を通じて改めて思い出したのです。自分の目で相手の笑顔や姿が見え、
声は媒体なしに私の耳に届く。相手に自分の気持ちを伝える手段は様々ありますがそばで直接気持ちを伝えるという
事には、それにしかない、シンプルな、しかししっかりとした温かさが存在するのです。
ただ、今までには、この直接であることが、時としてつらさの種だった時期もありました。あるとき私はちょっと
した行き違いから、友人の言葉に傷つき、自分だけの殻に閉じこもっていました。直接自分の気持ちを伝えるのが恐
ろしく、相手の気持ちを確かめることもできずに、毎日がつらく涙を流すばかりでした。この時にはどうしても『直
接』ぶつかって気持ちを伝えるということが大きな壁となっていたのです。
そんな折、ふと目に留まった携帯…私の気持ちをメールにして送ったら友達はどう思うだろう…どんな返事をくれ
るだろう…そんな気持ちが頭をよぎりました。
でも私はケータイを見つめたまま漠然と感じたのです。「そんなやり方で相手は本当の気持ちを語る気になるだろ
うか。そんな終わり方で心から納得できるのだろうか。」と。やはり、何も介さずに、直接ぶつかって解決するのは、
苦しい事でした。しかし勇気を出して直接顔を合わせ、話をしてみると、友達は私の話を真剣に聞きそして自分自身
の気持ちも一生懸命伝えてくれたのです。それはメールの文字だけでは伝わらない友人と私の心のつながりを感じら
れる時間でした。今になって思えばこの時のつらさや経験は現在の自分の一部となって、私を一回り成長させてくれ
たように思えるのです。直接であるゆえのつらさは、とても大きなマイナスになっていましたが、逆にさらに大きな
前進をもたらしてくれたのです。
スマートホンが普及し、SNS 上でのコミュニケーションが一般的になった今日だからこそ、今目の前にある人を、
直接肌で感じられる体験を、一番大事にするべきだと私は思います。面と向かって話すわずらわしさや恐怖をネット
や携帯電話は見事に避けてくれます。それに、ネット上のつながりでは、気に入らない相手なら、スイッチを切って
しまえばよいのです。しかし、そのような手軽さに甘んじて、いたずらに解決にはしるべきではないと思います。そ
れよりも、苦しさや摩擦を乗り越えた先に、きっと本当の理解や前進があるのです。喜びと苦しさの、相反する側面
を持つように思える『直接』のコミュニケーションは、表裏一体。そこから得られる体験はどれも、自分自身にとっ
て、最終的に大きな価値になるのです。ITの発達した現代、ダイレクトによる熱さや感動を忘れてしまわないよう、
積極的に直接の触れ合いを求めようとする姿勢は、私たち若者に、世界中に今まさに必要な力なのではないでしょう
か。
私はこれからも恐れずに自分の気持ちを『直接』伝えていきたいと思います、友人が私の耳元で伝えてくれた強く
温かい言葉のように。
- 65 -
大分県
端っこの問題
大分県立大分商業高等学校
3年
工藤
妃菜
「百聞は一見に如かず」という古い諺がありますが、昨年の夏、まさに私はそれを体感しました。大分から225
1㎞、北海道の北の端に、その四島はあります。校内で選出された県の視察団の一員として、私は国後島などの北方
領土を望む土地を訪れました。
雨の、根室中標津空港に降り立った私たちは、バスに揺られて三時間後に、少し霧のかかった殺風景で、どこかさ
びしげな場所に到着しました。バスから降りてまず目に入ったのは、私の背丈の何倍もある大きな石碑でした。その
石碑の大きさに圧倒されながらも、私はふと気になりました。石碑は、なんだか時代に取り残されて、ぽつりと佇ん
でいるように私の目には映ったからです。
北海道にいる四日間で、合計四カ所の北方領土に関連する場所を訪れました。私たちはたくさんの経験をさせても
らい、船の上で鯨を何度も見たり、世界遺産に指定されている知床の大自然に触れることができました。そこは、ま
るで自分たちの住んでいる日本とは思えない光景が広がっていて、ずっとこの光景を見ていたいと思いました。私た
ちは行く先々で強烈なメッセージを持った大小様々の石碑を目の当たりにしました。「領土を返せ」島民の悲痛な叫
びが、私の頭の中で何度も響き渡ったのです。私は石碑に刻まれた文字の一つ一つを指でなぞり、日本が辿ってきた
歴史の揺るがぬ重みを感じました。
北海道二日目、ホテルに戻った私たちを、一人の老人が出迎えてくれました。その方はかつて、北方領土に住んで
いた島民で、私たちはその当時の貴重なお話を伺うことができたのです。
それは、幼い頃の彼の身にふりかかった想像を絶する悲劇でした。ある寒い日の真夜中。六歳だった彼は、漁師の
父に肩を揺すられて目覚めました。緊迫した父と母の表情に、ただならぬ雰囲気を感じつつも、優しい母に手を引か
れ船着き場へと向かったのです。戦争が終わったにもかかわらず、ソ連兵が銃を構え、島をうろつく現状に恐怖感を
覚えた島民たちが、今夜島を出ようと話をしたからです。彼は両親と祖母の四人で暮らしていました。父と母はもち
ろん、家族そろって島を出るつもりでいましたが、祖母は「おじいさんが残してくれたこの家を離れることなどでき
ない」と言い、たとえ一人でも島に残ると言って聞かなかったのです。祖母一人を残す決断をしなければならなかっ
た、両親の苦悩は計り知れませんが、かといってこんな恐怖と隣り合わせの島に幼い息子と残ることは、もう、考え
られませんでした。引き裂かれたのは家族と故郷、引き裂かれたのは当たり前の存在と当たり前の居場所でした。
その後老人は、北方領土の現状をスクリーンに映る写真を使いながら語ってくれました。その中には、建っていた
はずの沢山の墓が崩れた積み木のように、そこここに放置されている墓地の写真がありました。どこに自分の祖先が
眠っているのかわからず、拠り所を失った、島民たちが墓の代わりに船の上や石碑の前で手を合わせている姿。この
時私は、おじいさんと過ごした家を命懸けで守りたいと言った、彼の祖母のことを思い出しました。愛するおじいさ
んの眠る墓もまたきっと守りたかったでしょう。
北海道へ行って、現地の生の声を聞くことができるという機会は、とても貴重で有益なものでした。私たちは、や
やもするとテレビやインターネットから流れてくる情報を鵜呑みにして、都合のいい解釈をしてしまうきらいがあり
ます。私たちを取り巻く数多の社会問題について、正しい理解に根差した意見を持つためにはそれらを自分の問題と
して捉えることが大前提です。広島や長崎の原爆問題「忘れてはならない」という言葉をよく使いますが、私たちは
北方領土の地で起こった出来事や光景を、忘れることすらできません。なぜなら私たちは知らないうえに、興味を持
たないという冷たい心を持ってしまっているからです。それは自分たちには関係ないし、遠いし・・・自然と私たち
は頭の端っこに北方領土の問題を追いやってしまっています。北方領土は地理的に言えば端っこの問題ですが、その
前に私たちの抱える問題なのです。国土を取り合うという発想から抜け、北方領土を二国同士が文化や伝統などを共
有し合える場所とできるはずです。皆さんもこの話をきっかけに自分たちの問題として考えてみてほしい、そう私は
思うのです。
- 66 -
宮崎県
優しい関係
宮崎県立延岡高等学校
2年
田原
彩
それは、文化祭の準備中のことだった。
展示する作品を作っていた友人に、「これ、どう思う」と聞かれ、もう少しこうすればいいのに…、と思っても「う
ん、いいんじゃないかな」と、作品を否定しない程度に気を遣う。
また、教室で愚痴をこぼしている友人のそばにたまたまいあわせたとき。自分のことを言われているわけではない
のに、「じゃぁ、私はどのように見られているのだろう…」と不安になり、自分が悪口を言われないように相手好み
の人柄を演じようとする。 ちょっとしたトラブルの際、心配してくれる周囲の人たちに対して本音を語ることなく、
「大丈夫だよ」とその場を終わらせる。私の本音がどこでどうなるかがわからないから。
皆さんにも、思い当たる節があるのではないだろうか。
私の場合、文化祭の準備での出来事だが、日常生活の中
で自分では気付かないうちに、そんな場面に出くわすことがあると思う。
このような現状に対し、一般的な意見(親から)は「相手にしっかりと自分の意見や考えを伝えるべきであり、周
りに併せて流されるようではいけない。しっかりとした自分を持つべきである。」というふうになると思う。ただで
さえ人間関係が希薄になりつつあるといわれる現代社会においてはなおさらであろう。
しかし、私は逆の立場だ。曖昧な感じで人間関係を結ばなければこじれていく一方だと思うからだ。
そのことを教えてくれた本がある。対立の回避を最優先にする若者たちの人間関係のことを「優しい関係」と定義
し、現代社会の人間関係がいかにきつく、生きづらくなっていることを説いている。この一節に「周囲の人間と衝突
することは、彼らにとってきわめて異常な事態であり、相手から反感を買わないように常に心掛けることが、学校の
日々を生き抜く知恵として強く要求されている」という部分があるが、ここの「彼ら」とは、まさに私たちのことで
ある。自分も傷つきたくないし相手も傷付けたくない。こういった人間関係に対する極めて敏感な意識が働いている
からである。また、底を否定されると、私たちの日常そのものが否定されてしまうからでもある。
必要以上に相手に気を遣い、当たり障りのない程度で、言いたいことも言わずに続ける人間関係。このような現代
の若者像と重なるのが、携帯やスマホの主要機能、そう、メールやラインである。このようなバーチャルの世界はそ
れこそ否定されがちであるが、実はリアルの世界以上のリアルさを感じることがある。
例えば、私たちがよく利用しているラインやメールなどの間接的な付き合いの中では、直接的な人間関係のときよ
りも本音をぶつけ合っているからだ。そうでなければ、誹謗中傷やライン外しなどの問題に発展するはずもないのだ。
しかしそれだけみると、それこそ一般的(親)には違和感が生まれる。直接話をしていないことが本当のつながりに
なるのかと。画面上のバーチャルな世界が生身の人間関係ではない以上、本当ののつながりとは言い難いのかもしれ
ない。とはいえ、携帯やスマホがなければならない、むしろ携帯でないと伝えられないことがあるのも確かだ。
私は部活で卓球をしているのだが、ある大会のダブルスでベスト4に入ったことがあった。「ありがとう。」ただ
それだけを一緒に組んだ友人に伝えたかったのだが、練習仲間でありライバルである彼女に直接伝えることがどうし
ても照れくさく、家に帰るまで言いたくても伝えられず、とった手段がメールである。
「今日は本当にありがとう。もっともっと強くなれるよう努力するから、これからもよろしくね!」
すぐに返信されてきたメールには「こちらこそありがとう!一緒に組んでくれたからこその結果だと思ってるよ!本
当にありがとう。」
とてもくすぐったかったが、このときとても心の距離が近くなったように感じたのだ。近くにいないからこそ、素
直な言葉にその人自身を身近に感じたのだと思う。
このようなことも実際にあるからこそ、ラインやメールによる人間関係を否定する気持ちにはなれない。もちろん
直接的な人間関係を否定する気は毛頭無い。
そこで私は考えた。どちらがいいとか悪いとか、そういうことではない。不可避の時間の流れの中で、大切なこと
や伝えたいことは、直接であれ間接であれ、とにかく「今」伝えるべきであるということである。先延ばしにするの
ではなく、伝えるならば「今でしょう」。相手のためを思って「今」伝えることを実践していこう。
そのことが、本当の意味での「優しさ」につながると信じて。
- 67 -
宮崎県
五ヶ瀬発
つながりづくり
宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校
6年
黒木
靜
「大好きです。」
私は時々、山に向かって叫びたくなることがあります。私の第二のふるさと、五ヶ瀬への愛の言葉を。
宮崎県北西部に位置し、深い緑に囲まれた五ヶ瀬町。そんな五ヶ瀬を、私が強く愛するようになった大きなきっか
け、それは、ホームステイです。ホームステイ、と言っても、海外に行くわけではありません。生徒全員が寮で生活
をする私の学校には、年に一度町内の家庭に一泊するという行事があり、それをホームステイと呼んでいます。
中学一年生の時、初めて迎えるホームステイに、私はとても緊張していました。しかし、親しみやすい家族の笑顔
と、私を気遣ってくれる言葉一つ一つに、いつの間にか緊張が緩み、家族にとけ込んでいる私がいました。一泊二日
という短い時間でしたが、自分の家だと言える場所を、私は見つけたのです。
こうして、6年生となった今日までの間に、私には毎年家族が増えています。一緒に親子丼を作った家族、蛍を見
に行った家族、私に弟ができた家族、というふうに、その家族によって思い出は違います。しかし、どの家族にも共
通して言えることがあります。それは、本当の家族のように私を安心させてくれるということです。将来の夢や地域
の歴史などについて話しながら、一緒に美味しいご飯を食べ、同じ時間に眠ることで、互いを深く知ることができま
した。
ホームステイを通して感じたことは、五ヶ瀬の、人のあたたかさでした。もっと五ヶ瀬を知りたい。近づきたい。
祭りのお手伝いや、老人ホームでの合唱など、五ヶ瀬のために自分ができることを探しました。
「来てくれてどうもありがとうね。」
行く先々で、五ヶ瀬の皆さんは、いつもそう言って笑ってくれます。その笑顔をもう一度見たくて、私は何度も会
いに行きました。
大切な人は次第に増え、今では、五ヶ瀬は私の第二のふるさとです。日々の寮生活では、携帯電話もインターネッ
トも使えませんが、私は五ヶ瀬の人々とつながっていると胸を張って言えます。
しかし、五ヶ瀬を離れたら、どうなってしまうのでしょう。私はもう一度、人々とつながり、支え合うことができ
るのでしょうか。
インターネットや電子メールなどが普及した現在、多くの人と、一瞬で「つながる」ことができるようになりまし
た。しかし一方で、「人と人とのつながりが希薄になった」という言葉は、毎日のように耳にします。電波を通して
「つながった」つもりでも、本当は誰もが孤独を感じているのかもしれません。
そんな時代を生きる、今の私たちだからこそ、本当の意味で人と「つながる」ことが必要なのです。実際に人の声
を聞き、顔を合わせることのあたたかさ、自分の声に応えてくれる人のいる喜びに、優るものはありません。
「つながる」とは、自分と相手の存在を認め合うこと。そのことでお互いに自分の居場所を見つけることができる
のです。
また、グローバル化が進む今日、発達した通信技術があるのにも関わらず、次の世代を担う私たちは、実際に広い
世界に出て、人と出会うことが求められています。それは、文字や映像だけでは伝わらないものがあるからではない
でしょうか。相手の顔を見て、声を聞いて、手を握って、初めて理解できることがあります。同じ場所で、共に過ご
し、感動を共有する時間が、人と人とをつないでくれるのかもしれません。
この直接人と出会い、相手を知ろうとする姿勢、人とつながる力が、多様化するこれからの社会を生きる上でも必
要なのだと思うのです。
だから私は、どこに行っても、人と出会い、人を知り、そして「つながること」を自ら求めて生きていきたいです。
はじめの一声、はじめの一歩、自分から人に向かって歩み寄る勇気。私にその勇気を与えてくださった方々に心か
ら感謝しています。
五ヶ瀬は、「人を好きになる」町です。だからこそ、私自身も素直な心で人と向き合い、五ヶ瀬でもらったあたた
かさを相手に感じてもらえるような人でありたいと思います。
そして、皆さんに伝えたいのです。「つながる」ことの喜びを。知ってもらいたいのです。家族になれるというこ
とを。「つながりづくり」は、あなたの一声、あなたの一歩から始まります。
- 68 -
沖縄県
一冊のノート
沖縄県立八重山高等学校 2年 浦内 桜
「勉強は好きですか?」
突然この質問を受け「はい。好きです」と答えられる人はあまりいないと思います。私自身「はい。」とは答えられません。むしろ
「いいえ。嫌いです。」の方が当てはまっていると思います。
勉強しなくてはいけないと頭の中では理解しています。なぜなら、私には「教師」という夢があるからです。おそらく「勉強がやり
たくないのに教師。」と失笑されることでしょう。しかし、こんな私も中学校までは周りからは「努力家」や「頑張り屋」で通ってき
ていたのです。
中学校を卒業し、希望する高校へ入学した私は、楽しい高校生活がこれから始まる予感にワクワクし、新しい自分になれるような気
がしていました。友人とのおしゃべりや優しい先輩との楽しい部活動。一日一日があっという間に過ぎていき、いつの間にか勉強は二
の次になっていました。
そんな時、母から「最近勉強しないね。これからが大変なのよ」と言われました。近頃母と目が合うたびに母の口から出る言葉は「勉
強」ばかり。正直、私の理想の高校生活に、水をさすようなその言葉が嫌でたまりませんでした。
しかし、ある日テーブルの上にある1冊のノートが私の目に止まりました。そこには、いつの間にこんなに書いたのだ?と驚くほど
ノートいっぱいに書かれた漢字がありました。
思い返せば、母は「桜の受験が終わったら、お母さんは漢字検定に挑戦したいな。」と言っていました。私の母は韓国人で、日本に
は25~6年前に来たと聞いています。私が幼かった頃は、本の読み聞かせや、色々な科目の勉強を教えてもらっていたので、母の漢
字力の不十分さは全く感じませんでした。しかし成長していくにつれ、いつの間にか母が私に漢字の読み書きを聞くようになっていま
した。
母が漢検に挑戦するのは応援したいです。ただ、母が受けようとしているのは小学生レベル。応援したい自分もいるけれど、そのこ
とを周りに隠したい自分もいます。だから、一度母に「今は、パソコンの時代だから漢字なんて変換すればすぐわかるし、別に今さら
漢検を受けることないでしょう。」と反対したこともあります。しかし、母は「確かにね。でも、機械なんかに頼らなくても、文字を
スラスラと書けるようになりたいのよ。」と瞳を輝かせながら言っていました。
母は十分な教育を受け、日本に来たのにも関わらず、50歳を過ぎようとしている今、あえて小学生レベルに挑戦しようとしている
のです。よく母は言います。「明日よりは今日始めたほうが、一文字でも多く覚えられるでしょう。それに、今まで分からなかった漢
字が読めたり書けたりすると、とても嬉しいの。千里の道も一歩から、ね。」周りから何と言われようと、いくつになろうと、チャレ
ンジ精神を持ち続ける母は、明日への希望に満ち溢れていてとても眩しく、綺麗だと思いました。
そんな母と一緒に、今年の春、私は初めて韓国を訪れました。マスコミで報道されている現在の日韓関係のこともあり、多少不安も
ありましたが、さくらが満開の市内はとても綺麗で、出会った人々は皆親切でした。勉強し始めて間もないハングル文字を懸命に、読
もう、話そうとする私に、対応した方皆が、辛抱強く、優しく応じてくれました。帰国の途につきながら「次はもっと話せるようにな
って来るから。」と心の中で叫んだことを思い出します。
ふと、私は母の気持ちがわかったような気がしました。もっと知りたい、理解したい、その純粋な気持ちが学びに繋がるのだと。目
標を持てば、学ぶことは喜びとなるのだと。
2020 年には東京オリンピックが開催されます。そこで私は通訳のボランティア活動をしたいという夢ができました。また、日本と韓
国との架け橋になるような「教師」という夢に向かって、これからは迷わず進んでいこうと思います。そのためにも、母のような強さ、
チャレンジ精神を持ってさまざまなことに挑戦していきたい。
漢字がたくさん書かれた一冊のノート。気づかせてくれてありがとう。
- 69 -
沖縄県
児童虐待から目をそらさないで
沖縄県立北中城高等学校
2年
普天間
加菜
あの時、私達はあまりにも衝撃的な光景を目の当たりにして、ただ立ちすくんでいるだけでした。男の子が泣きな
がらエスカレーターを逆の方向に向かって歩いていて、その傍で母親らしき女の人が笑っていました。警備員の人が
注意しに来たので、母親は男の子と一緒に謝ると、男の子の腕を強く引っ張ってどこかへ行ってしまいました。警備
員の人が来たからよかったものの、もしあのまま誰も助けに来なかったら、私は何をするべきだったのか。何もでき
なかった私は幼いながらもひどく後悔しました。その出来事から六年経った今でも、泣いていた男の子の顔が忘れら
れません。男の子があの後どうなったのか、今どうしているのか、気になってももう確かめようがないのです。
近年ニュースなどで頻繁に「虐待」に関する事件を耳にするようになりました。先日も広島県でわずか二歳の男の
子を母親の交際相手が虐待し、死亡させた事件や、横浜市で浴槽の水に六歳の女の子の顔を沈めて殺害し、その遺体
を雑木林に遺棄した事件がニュースで報道されていました。このような事件を聞く度に私は、何故自分がお腹を痛め
て産んだ子供にこんな酷いことが出来るのだろうと疑問を抱いてきました。中でも私が最も胸を痛めたのは、去年の
十月に母親からの虐待によってひとりの女の子が亡くなった事件です。当時小学校五年生だった女の子は母親から日
常的に虐待を受けていて、人生のほぼ半分の期間を乳児院と児童養護施設で過ごしていたそうです。暴力としつけを
同じものだと勘違いする祖母からも彼女は虐待をうけていました。母親の暴力はエスカレートしていき、ついには彼
女の命をも奪ったのです。私はきっと彼女が母親を恨んでいたのだろうと思いました。しかしそれは違いました。虐
待を受けた多くの子どもが親を愛し、自分も愛されたいと願います。どんなに痛い思いをしても辛い思いをしても、
たった一人の母親だからいつまでも愛情を求めるのです。そして彼女も同じように母親を愛していました。その証拠
に、彼女が母親に宛てた手紙には「お母さん
ありがとう
お母さん大好(き)と大きな字で書かれていました。そ
の大好きな母親に殺された少女は、何を思いながら殴られ死んでいったのでしょう。
どうしてこのような事件は起きてしまうのか、そもそも周囲の人達は気付かないのだろうか。これには二つの理由
があると思います。まず一つ目は、加害者が「しつけ」と主張していることで「しつけ」と「虐待」の境界線が曖昧
になってしまっているということ。そして二つ目は、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という精神病の母親が虐待し
ているケースがあるということです。「代理ミュンヒハウゼン症候群」とは周囲から関心や同情されたいが為に自分
以外のだれかを傷つけて、その人を心配したり、看病したりすることで「いい人」だと思われたいという精神病の一
つです。つまり、自分で放火しておいて、中にいる人を助けて英雄になろうとするような人のことです。
この症例は子供をもつ母親によく見られ、自分の子供を傷付け、懸命に子育てをする母親を演じて「いい母親だ」
「なんて子供思いなんだ」と同情をひいたりします。その為、周囲の人々は母親に虐待の疑いを持たないというわけ
です。
虐待が起きてしまう原因は貧困や心理的不安、家庭環境や夫婦関係など様々です。しかし、私はもっと複雑で一言
では片付けられない問題があるのではないかと思います。
例えば、虐待をした親は過去に自身も虐待された経験があり、その傷が癒えることなく、身体だけが成長し、心は
完全に大人になりきれていないまま親になってしまいます。その結果、親は幼少期の痛みを子供にぶつけるという悲
しい連鎖が悲劇を生んでしまうのではないでしょうか。
児童虐待は非常に複雑で奥が深い問題であるが故に、様々な側面から関係機関が着実に取り組んでいく必要がある
と思います。
しかし何より重要なのは、未来の親となる私達がこの問題に関心を持ち続け、想像力を働かせることです。もし、
将来子供を持つ親になった時、自分の中に「児童虐待」に近い感情を抱いてしまったら、それがどういう結果を招く
ことになるのかを想像する力が、虐待を防ぐ強力なブレーキになると思うのです。
私が親になり、子供に手をあげてしまいそうになったら、その手を子供を抱きしめる手に変えて、あなたを愛して
いるのだと伝えたいです。
- 70 -
茨城県
日タイ交流で学んだこと
―ムダのない食生活とは―
茨城県立水戸農業高等学校
3年
渡邉
怜奈
「こんな所で4日間も生活出来るだろうか…」
タイ北部、チェンマイ県から車で約3時間。私は、少数民族の村にホームステイをすることになったのです。ホー
ムステイ先に案内されると、私の中に衝撃が走りました。部屋は高床式で、下を見ると地面が見える板の間。トイレ
には水溜めがあるだけで、紙なんてありません。日本で生活している文化や習慣から180度変わった世界を目の当
たりにし、私は不安な気持ちを隠し切れませんでした。
翌朝、外へ出てみると村の空気は日本で味わえないほど清々しく、澄んでいました。お母さんと山のふもとの畑に
野菜を取りに行き、新鮮な野菜を使って調理してくれた朝食をいただけたことが印象に残っています。この村では昔
からずっとこの生活スタイルを守り続けて、自然と共存しているようなのです。
翌日は、村人と協力してその日の夕食を作る、ディナープロジェクトを行いました。村人とグループになって、山
や川から食材を集めます。森へ入るとバナナやパパイヤが生い茂っていて、豊かな自然を肌で感じることができまし
た。集めてきた食材は、日本では見たことのないものばかりでしたが、身振り手振りを交えて調理法を教わりながら
実施しました。そして、村では普段はあまり食べないという鶏を私たちのために準備してくれたのです。日本での食
生活には欠かせない食材ですが、所変われば動物の肉は貴重な食材となり、このとき私たちに最高のおもてなしをし
てくださったのだと感じました。自然の食材だけを使って生活していくことは、私たちが収穫や調理に丸1日かかっ
たように、とても時間がかかることです。それと同時に、自然を感じ自然と共に生きていることが実感できて、村で
の生活に魅力を感じるひとときでした。夕食後は心もお腹も満たされ、達成感でいっぱいでした。
私が食後の片づけをしている時のことです。みんなの食べ残しを捨てようとすると、村人は私に何か言いたそう…。
通訳を交えて話をしてみると、この村で残飯を捨てることはほとんどなく、調理にでた野菜くずなども捨てずに家畜
のエサにすると言うのです。さらに、食材はその日に食べる分だけの量を収穫し、調理しています。私はこの話を聞
いて「はっ」と気付きました。私は農業高校に通い、農業や食物について学んでいるにも関わらず、余ったものは捨
てるという考えしかないことに…。
よく考えてみると、日本も昔食べる物が少なく、自給自足の生活をしていたはずです。時代が進むにつれて、農業
の機械化によって大量生産ができたり、輸入によって安価で入手できたり…。私たち日本人は、不便を感じない生活
を送ることが当たり前になっていたのです。日本ではスーパーに行けば欲しい物は手に入ります。私の知らない所で
もたくさんの残飯やまだ食べられる食材を捨てている現状があることを考えると、私たちはなんて無駄なことをして
いるのだろうと思い、とても恥ずかしくなりました。私たちは便利な生活と引き換えに、自然から恩恵を受けている
ことや食べ物のありがたさを忘れてしまっているのです。
日本は今、飽食の時代です。だからこそ、少しでもムダのない生活を心掛ける必要があるのです。実際に今の日本
で、この村と同じ生活を送るというのは難しいことですが、一人ひとりが食べられる分だけの食料を購入することで、
食べ残しや賞味期限切れの食材を捨てるという、もったいない無駄な行為は減っていくはずです。
今回のホームステイを通して、私は食べ物のありがたさや農業の大変さを再確認し、今ある日本の生活に感謝する
ことが出来ました。人間は自然と共に生きていることを教えてくれた村人たち。これからもこの村の生活スタイルは
変わらないでほしいと願います。
私はこの村で経験したことを生かし、帰国後は家庭菜園程度ではありますが、家族で食べる分の野菜を作るように
なりました。これからも家族や友人に今の食生活について見直す部分がないかどうか話し合い、少しでもムダのない
生活を送るよう心掛けていこうと思います。そしてみなさんもスーパーやコンビニに行った時、欲しいものを手に取
る前にもう一度考えてみて下さい。それは本当に必要なものなのかどうかを…。
- 71 -