報告書・ブックレビュー集 - 筑波大学グローバルコミュニケーション教育

平成27 年度
TA・TF を活用した主体的学修を促す教育推進事業
TA を活用した
ライティング・チュートリアルの実践
報告書・ブックレビュー集
共通科目「国語」担当教員
はじめに
大 学 教 育に お い て ,日 本 語 によ る ア カ デ ミ ッ ク ラ イ テ ィ ン グ能 力 の 重
要 性が 認識され るとともに,TA(ティ ーチング・ アシス タン ト) など 授
業 を 担 当 する 教 員 以 外の 参 加 者が 担 う 働 きに も 注 目が 集 ま り ,様 々 な実
践 ・研 究が行わ れるようになってきています 。
そ の よ う な 状 況 の 中 , 本学 の 共 通 科目 「 国 語」 に お い て は 早 く か ら ,
ま た継 続的に TA によ るチ ュータリングに関する研究や実 践を 行ってき
ま した 。 今年度は,平成 25 年度人文社 会系プ ロジェクト 「TA を活用し
た 文章 指 導 ・チ ュ ー タ リン グ に 関す る 基 礎 的研 究 」 の成 果 を 基 盤と し た
「TA を活用し た ライテ ィ ング・チュートリアルの 実践 」が平成 26 年度
に 引き 続き平 成 27 年度「TA・TF を活 用した主体 的学修 を促 す教 育推 進
事 業」に採択 さ れ,1 クラ スに 2 名以上と いう豊 富な TA の確保を 継続す
る こと ができ, 質の 高い取り 組みを 実践する ことができ ました 。
こ の 取り組 みでは,
「国語 Ⅲ 」の授業 におい て全 4 クラ スの授業内 容を
統 一し , ① 先行 研 究 の リサ ー チ ,② 文 献 の 批 判 的 精 査 , ③ 研 究 の比 較 対
照 と そ の 文 章化 , と い うよ う な 手順 で , そ れら に 関 する 技 術 と 知識 を 身
に 付け る こ と を 目 標 と し て ブ ッ クレ ビ ュ ー の作 成 を 授業 の 課 題 に設 定 し
ま した 。そのた めに人 文 系分野の大学院 生の TA を活用 し,基 礎的な能力
の 育成 や 授 業の 効 果 的 な運 営 に いか な る 貢 献が 得 ら れる か , 授 業で の 実
践 を通 して調査 ・検討しました。
そ れ ぞれ専門 分野が 異なる TA を配置し クラス の枠を越え TA・受講生
の 移動 を 可 能に し た 柔 軟な 授 業 運営 や , 筑 波大 学 附 属図 書 館 と の連 携 に
よ る文 献リサー チ講習 など の独自の試みも 継続し,教員,TA,附属図書
館 のス ム ー ズな 連 携 の も と , 今 年度 も 水 準 の高 い ブ ック レ ビ ュ ーの 作 成
を 達成 すること ができました。
本 報 告 書は そ の 成 果の 共 有 ,こ れ ま で の, そ し て こ れ か ら の取 り 組み
へ の継 続性のた め,一部のブックレビューをまとめたものです。
( 代表者
大倉 浩)
実践概要
【「 国語 Ⅲ 」担当 教員 ・TA】
1班
大 倉浩 ( 人文社会系)
TA
和田 麦彦 (教育研究科 2 年次,専門: 社会科 教育学)
鶴岡里美(人文社会科学研究科 2 年次,専門:日本語学)
2班
長田 友紀 ( 人文 社会系 )
TA
越智仁紀(教育研究科 2 年次,専門:国語科教育学)
尾形 幸輝 (教育研 究科 2 年次,専門:社会科 教育学)
益子 拓也 (人文社 会科学研究 科 5 年次, 専門:哲学)
北夏 子
3班
(人文社 会科学研究 科 5 年次, 専門:哲学)
那須 昭夫 ( 人文 社会系 )
TA
池田晴奈(人文社会科学研究科 2 年次,専門:日本文学)
文昶允 ( 人文社会科学研究科 3 年次,専門:日本語学)
石川 航平 (教育研究科 2 年次,専門:社会科 教育学)
4班
田川 拓海 ( 人文 社会系 )
TA
石田 隆太( 人文社会科 学研究 科 4 年次,専門:哲 学)
横山 拓人 (教育研究科 1 年次,専門:国語科教育学)
【 支援 を行った 「国語」担当教員】
石 塚修
(人文 社会系)国語教 育学
本 井牧 子
(人文 社会系)日本文 学
島 田康 行
(人文 社会系)国語教 育学
【 受講 生】
人 文・文 化学群人 文学類 1 年次(約 130 名)が中心 で,各班 30-35 名の 4
ク ラス 。
【 目標 】
ブ ック レビュー 作成活動を通して ,文献の 調査/探索/収集・論 考の精査と
批 判的 検 討 ・文章 作 成における要約や論考の 対照のさせ 方など ,研究活
動 およ び 学 術文章 作 成基礎的かつ重要な技術 と知識を身に付ける。
【 春 C モジュール 活動 (平 成 27 年 7~8 月):文献 リスト作成】
専 門的 なテーマ を設定し ,ブ ックレビ ューの 対象 候補となる文献リス ト
を 作成 した。作 成に当たっては筑波大学附属図書館と連携し, サテライ
ト 室 お よび中央 図書館 で文献 の検索方 法と図 書館 の使用法に関する講 習
を 行っ た。
【 秋 C モジュール 活動 (平 成 28 年 1~2 月):ブッ クレビュー 執筆】
春 C モ ジュール に おいて 作成 した文献リ ストを元に,実際にブ ックレ ビ
ュ ーの 作成・執 筆活動を行った。活動はグループ学習・ピアレビューを
中 心に 行い,TA の専 門性 を活かすために異なる班の受講生 にも指導やア
ド バイ スを行っ た。
ブックレビュー集
国語Ⅲブックレビュー
太平洋戦争にいたる過程
青木大海
1.初めに
1941 年 12 月 8 日の日本時間午前 3 時 19 分の日本海軍航空隊による真珠湾奇襲攻撃により、
太平洋戦争は開始された。この戦争は 1937 年 9 月 18 日に奉天郊外で日本軍と中国軍が衝突し
たことにより始まった日中 2 か国間による戦争が日本対数か国連合の全面戦争に発展したもの
である。ヨーロッパ諸国はアジア・太平洋地域に深く関わっており、太平洋戦争以前より開始さ
れていた日中戦争の動向と密接に関係していたと考えられる。つまり、太平洋戦争にいたる過程
を考える上においてもヨーロッパ諸国や米国による影響を踏まえる必要がある。
そこで、今回は国際的勢力との関係性に注目して、太平洋戦争にいたる過程について『太平洋
戦争の起源』(入江昭 1991 年 東京大学出版会)をもとにレビューをしていきたいと思う。
2.過程
1.同盟
1940 年 9 月、日本はドイツ、イタリアとの三国同盟を締結した。この三国同盟は日本にと
って、「反英米的新アジア秩序という計画を実行する上での切り札」
(p.168)と考えられてい
た。三国同盟に対する米国の反応は対アジア政策の軟化を示すものではなく、反対にルーズベ
ルト政権は対日経済制裁を継続し、対英・対中国援助を不動のものとし、東南アジア、南西太
平洋の現状維持は米国の積極的介入なくして困難だとし、アジア・太平洋における日米の勢力
拮抗状態はこれ以後長く続くことになった。
英米同盟は決定的なものとなると、ヨーロッパ第一主義と太平洋第二主義が推進された。米
国は日本のアジアへの勢力拡大に抵抗する諸国との協調を図るようになり、非公式な段階であ
ったが中国、英国、蘭印との間で政策や戦略関係の定期的連絡と情報交換を行っていた。この
結果、日本の孤立はさらに深まり、日本に残された新政策もなく、日本の選択可能な政策の幅
は極めて狭かった。そのような状態で、日本は再び日中戦争の政治的解決を模索したが、支離
滅裂な政策が成功するはずがなく、事態は何ら進展しなかった。国民政府の回答は日本の期待
とは程遠いものであった結果、日本は汪兆銘政権の正式承認に踏み切ったが、これは国民政府
との和平交渉の可能性を断つものであり、日中戦争の長期化は確実なものになった。日本は南
進戦略のためソ連軍との軍事的対決は避ける必要があり、ソ連の中国支援が中止されるのみだ
けでなく、英米諸国の太平洋撤退をももたらす可能性があるとして、日ソ中立条約を締結した。
しかし、この時期において独ソ関係は悪化しており、中立条約はソ連の対独戦争における日本
の中立を義務付けるものであり、ソ連と英米の和解を促すものでもあった。この時期の日米の
対立について入江(1991)は以下のように述べている。
日米の対立はこの時点ですでに、著しい非対称性を秘めていたといえる。米国は迅速に軍
国語Ⅲブックレビュー
事力を増強しつつあり、ヨーロッパとアジアで事実上の軍事同盟を構築していたが、他方、
日本は反英米世界連合という構想の実現に失敗していた。(p.200)
日独同盟の重要性は低下していたのであり、これは ABCD 陣営が結束を強めつつあるのと
鮮明な対照を成すものであった。(p.206)
このような事態から、日本政府は対アジア政策を完遂しようとすれば、他国の支援を
期待することなく独力で実行しなければならないと認識するようになっていく。
2.戦争への道
1941 年 6 月までの時点で、日米政府は両国間の戦争を回避しようとしていたといえる。日
本は米国が英国の対独戦争支援とアジア介入をやめさえすれば日米戦争は回避できると考え
ていた一方で、米国は日本とドイツに対し旧態復帰を迫る世界的安全保障体制を着々と構築し
つつあった。
ヒトラーの対ソ攻撃の決定による独ソ戦争の勃発は、ソ連が米国の主導する世界的連合の一
員に加わることを意味し、その結果日本の孤立はさらに深まり、日本が英米ソ 3 か国を全面
的に敵に回す可能性すら生じていた。このような状況の下で、ソ連、中国、英国、米国のすべ
てを敵に回して戦争をすることは戦略的に不可能であると認められていたのにもかかわらず、
日本の支配を南部仏印に確立するとともに、英米ソ 3 国との戦争準備も並行して行うという 2
つの内容を併存させるものであった。戦争に必要な原材料の継続的供給を確保するため、日本
は南部仏印に進駐したが、これに対する報復として米国は在米日本資産の凍結を決定し、英国
やオランダなどもこれに倣った。このことは ABCD 包囲網の実質的な完成と考えられる。
「日
本は自らの軽挙により ABCD 陣営の結束を強化してしまった。
」(p.223)しかし、この米国の
強硬的な姿勢により日本は対ソ攻撃への準備重視から、北方での慎重策へと戦略を変更し、こ
れ以後、ABCD 諸国との抗争に焦点があてられるになりはじめた。
米国が事実上石油を禁輸したことにより、海軍の石油備蓄が激減する前に開戦する必要があ
り、一時的な戦略的優位を獲得するために、ハワイの米国艦隊を奇襲するという考えが現れた。
8 月末から 9 月初めにかけて、開戦決定前に戦争準備を開始するが、それと同時に戦争回避を
目指した外交努力も継続するといった合意がなされた。日本と米国との間の争点は中国問題で
あり、日本が譲歩をしなければ合意に達することは難しかった。戦争回避を試みていた近衛首
相は新内閣が白紙の状態で取り組むべきであるとし、辞職した。
3.開戦
新たに内閣を組閣した東条は新しい指針で米国との交渉を継続した。他方で対英蘭米戦争戦
略においても最終的な調整をしていた。しかし、日本の開戦時の戦略構想は非常に楽観的なも
のであった。これについて入江(1991)は
二つの点で重要な誤りを犯していたといえる。一つは、英米の決意と戦力の軽視で、英米が
国語Ⅲブックレビュー
早期に緒戦の敗北から立ち直り、反撃に出てこようとは思っていなかったことである。第二
は、ドイツ軍事力の過信であり、ドイツは英国を弱体化しソ連までも屈服させ得ると信じて
いた。しかし日本の最大の誤りは、数か国との戦争を戦う経験が欠如していた点でなかろう
か。第一次世界大戦は・・・(中略)二国間の戦争であった。ところが今や初めて、日本は数
カ国を敵に回す戦争に直面しようとしていた。(p.258)
東条によると、日本には 3 つの選択肢が存在した。1 つは対英蘭米戦争をしないというも
のであり、2 つ目は直ちに開戦を決意すること、3 つ目は戦争準備進行と外交交渉を並列さ
せることである。第 1 案は陸海軍の強硬な反対にあって放棄された。軍部は長期的に見れば
情勢の好転は可能であり、ABCD 包囲網という難局の打開こそが日本の直面する課題である
と論じ、早期開戦を求めた。最終的には東条の要求に折れて軍部が妥協し、11 月 30 日深夜を
交渉の最終期限を受け入れた。それまで半年以上にわたり断続的に行われていた交渉で見る
べき成果はなかったにもかかわらず、東条と東郷は最後の努力をする決意をしていた。米国
が現時点で対日戦争を期待していないなどいくつかの点で期待できる点があったが、日本で
は米国が中国支援を放棄し、ABCD 陣営の結束を緩めることはほとんどないと認識されてい
た。多くが対 ABCD 戦争の可能性を認めざるを得ない状況であったが、またこの戦争の遂行
が困難に満ちたものであることも承知していた。
二年間の無為無策は事態を悪化させる一方だが、また逆に開戦した場合少なくとも二年な
ら勝算がある。日本は南方帝国を二年にわたり領有することになり、日中戦争がこの間に
解決することはないにしても、消極策がもたらす状況悪化よりも事態が悪くなることはな
かろう。(p.266)
このような判断に見られたのは、長期的な見通しの欠如であった。緒戦の勝利以後、戦争
がいかに展開するのか定見を持つものはなく、ABCD 諸国が二年内にどのような行動に出
るか予想した者はいなかった。(pp.266-267)
アメリカ側の情勢判断も日本とそれほど変わらぬものであった。現状凍結における日米合
意、または米国の中国援助停止による日本との和解は、ABCD 陣営の結束を弱めるものにな
ることは明らかで、この懸念が米国の冷淡であった理由である。戦争を回避するためには日
米が大幅に政策を変更する必要があったが、それを許す環境はもはや存在していなかった。
11 月 27 日に日本政府がハル・ノートを受け取ると、直ちに大本営政府連絡会議が開催され、
最後通牒であるハル・ノートは日本に対して受諾不可能な条件を列記したものであるため、
日米交渉は失敗に終わったと判断すべきで、戦争の準備を始めるべきことで全員が一致した。
最終的に天皇も開戦決定を裁可し、12 月 1 日の御前会議で正式決定をみた。
そして、12 月 8 日日本時間午前 3 時 19 分に日本海軍航空隊による真珠湾奇襲攻撃が行わ
れた。
国語Ⅲブックレビュー
3.まとめ
このように見てみると、入江は日米関係が単なる 2 ヶ国間の関係でなかったため、改めて国
際関係全体の枠組みの中でとらえる必要があると考えていたと推察できる。ワシントン体制が崩
壊するとそれまで友好と共存であった両国関係は対立と抗争に変化した。そののち、日本に代わ
りソ連が参加したワシントン体制の修正版ともいえる日本の拡張に批判的な諸国間に非公式な
結合が生じた。この流れに反発しようと日独伊ソ間の新連合結成を画策したが、逆に日本の孤立
は深まった。そして日本は新秩序と国家の存立をかけた戦いを開始した。これは旧体制に戻るこ
とは不可能であったと考えられていたためであった。しかし、入江は太平洋戦争の結果は旧体制
の中での日本の生存も可能であったとしている。今後の日本の外交を考えていくうえでも、再び
あの戦禍を繰り返さないためにも、改めて太平洋戦争に至るうえで日本の指導者が国際社会に対
する取り組みを学び直す必要があると考える。その上で、日本は国際秩序の構築に貢献し、自ら
の孤立を防ぐ必要があるのではないか。
【参考文献】
入江昭(Iriye Akira)『太平洋戦争の起源』篠塚初枝訳
(東京大学出版会,1991 年 11 月)(『The
Origins of the Second War in Asia and the Pacific』,Longman Group UK Limited, 1987)
国語Ⅲ ブックレビュー
言葉に込める日本人の思い
秋本 祐一郎
1.はじめに
日本人は自分たちが使う日本語というものに対して言霊があるといった考え方を持
っていたり、何かと特別な思いを抱いている。こういった思いが含まれている日本語と
いう「ことば」そのものを、私たちが普段用いることわざ、また今日ではあまり見られ
ないわらべ歌等に着目し考えていきたいと思う。
2.大島建彦(1986)
『ことばの民俗』
私たちが普段使うことわざにはしっかりと設定された語源や由来が存在しているも
のがほとんどであるが、実際口に出すと分かるのだが妙に語呂がよいものが多く感じる。
これに関して大島(1986)は次のように述べている。
いわゆることわざは、すべて簡潔な文句ではあるといっても、その音数までが、そ
れほど厳密な制度をうけていたわけではない。しかし、現行のことわざには、おおむ
ね一定の傾向が認められ、そこに数種の音数律さえあげられるのである。
(大島建彦(1986)
『ことばの民俗』p17)
このようなことから、ことわざは意味ではなく「ことば」に着目すると「音」という
要素が出現する。また大島建彦(1986)はことわざを、非難、悪口を含めて特定の相
手に迫る「批判のためのことわざ」
(同書、p22)
、不特定多数に向けた道理や知識とし
ての「教育のためのことわざ」
(同書、p23)
、そして人の笑いを誘う「娯楽のためのこ
とわざ」(同書、p23)の三つの形式に分け、特に「批判のためのことわざ」について
は、
ごく親しい仲間どうしでも、たがいにひどい悪口をいいあっていた。そのような仲
間どうしのいいあいでは、本気に腹をたてようとはしなかったのは、それが本当の喧
嘩と違って、はじめから傷つけあうつもりではなく、ほかの勝負ごとと同じように、
ことわざの争いを楽しんでいたためであろう。
(同書、p24)
と主張しており、「ことば」としてのことわざは言い合うためのものであるため、語呂
や音律、テンポが重要になるのだと推測した。
3.宇井無愁(1976)
『日本人の笑い』
1
日本語の「ことば」としての特質である、言霊を本書は「しゃれ」から汲み取ってい
る。
本書における例では、お祝いとしての「しゃれ」では「春夏冬(秋ない―商い) 二升
五合(升升半升―ますます繁昌)」(宇井無愁(1976)『日本人の笑い』p143)、馬鹿に
する際には「貧乏稲荷―トリエ(鳥居)がない」(同書、p143)といったものがあり、
「しゃれ」に込められた言霊を人々は使っていたとされる。そして、このような「しゃ
れ」が転じ、人々の間で言霊信仰が誕生したと宇井(1976)は以下のように述べてい
る。
このような言霊の作用から、厄介な信仰が生まれる。落語の「しの字きらい」のよ
うに、病院やホテルではいまでも四号室を作らず、ビルの四階も借り手が少ない。ぜ
ひ四階を、というのは「歯科医」くらいのもの。戦時中千人針に五銭玉を結えつけた
のも、「死線(四銭)をこえて」という大マジメなシャレだった。
(同書、p143)
今日でも日本人は「しゃれ」だと分かっていても「四」を避けようとするのは、やは
り言霊というものを知らず知らずのうちに信仰しているのだということがここから推
測される。
4.名前に関する言霊信仰
4.1.楳垣実(1976)
『日本の忌みことば』
言霊について説明する上で、人の名前というものは外せない。今日ではあまり深くは
考えられてはいないが、個人名に対する言霊信仰は古代からあったと楳垣(1976)は
以下のように述べている。
原始人にとっては、人名はその人の一部であり、それを知られ、自由に口にされる
ことは、魂を支配されるやうに考へるので、反対に人の名を知って置くと、その人の
存在の一部を左右する力を持つこととなり、その人の幸不幸を惹起さすことができる
やうに思ふのである。
(梅垣実(1976)『日本の忌みことば』p33)
このような名前に関する言霊信仰は何も日本に限った話ではない。本書ではアメリカ
のチヌーク人が本名を名乗ることを嫌っていると記してあり、理由として「名はその人
の仮の身であり、従って名を他人の知識に委ねることは、すなわち身を人の自由の下に
投げ出すことになるから」
(同書、p33)と説明している。
また、日本における名前に関する言霊信仰はたしかに薄れつつあるが、その名残とし
2
て残っているものもある。梅垣(1976)は以下のように記述している。
わが国でも婦人が夫の名を呼ぶことなど、ごく近年までなかった。面とむかっては、
「あなた」「ねえ」「おまえさん」、他人には、「主人」「内の人」「宅」「宿」などが使
われ、「太郎」などと呼ぶことは全然なかったから、これはつつしみやはじらいによ
るというより、起源的にはやはり社会的タブーからだったようにも疑われる。
(同書、
pp33~34)
現在での名前に関する言霊信仰については次の項で説明する。
4.2.瀬戸口真規(2015)「恋するまじない」
今の世の中でも言霊信仰は形式を変えて続いている。それは、一種のまじない、俗に
言うところのジンクスである。特に人の名を使ったまじないとして、恋に関するものが
多いのでこれを参考する。なぜ恋愛のまじないに人の名前を使うのか。これに関して瀬
戸口(2015)は以下のように述べている。
まじないを用いられているアイテムとされる行為から見ていくといくつかの特徴
が伺える。
まずアイテムであるが、顕著にみられるがまじないの対象となる相手、または自分
の「名前」である。例えば表三四のように別のアイテムに相手の「名前」を書き込む、
または表一五のように相合傘の形で相手と自分の「名前」を書き込む。さらに表五七
のように相手の「名前」を唱える。このようにまず恋を扱うまじないの特徴として「誰
から誰に対するまじないか」を明確にするという点が挙げられるだろう。
(瀬戸口真規(2015)「恋するまじない」p61)
名前に関する言霊信仰では二つの観点から考えたが、結論として、名前というものが
他人を操作できるという考えはいつの世も大きな違いはなく、名前に対しただ表記して
ある文字としてではなく、名前が内包しているものに人々が関心を寄せていることが推
測される。
以下には瀬戸口(2015)の引用文に記載されているまじないを略記しておく。
(ⅰ)表一五にあたるもの
石鹸に爪などで彼と自分の相合傘を彫り、その字が消えるまで石鹸を使うと次の日
彼といいことがある(同書、p65)
3
(ⅱ)表三四にあたるもの
いつも使っている消しゴムに消えないように彼の名前を書き、それを誰にも触らせ
ずに使い切れば恋が叶う(同書、p66)
(ⅲ)表五七にあたるもの
1つ星を決めてその星に向かって彼の名を口の中でつぶやき、自分の名前を伝える
と、10 日ほどで彼が声をかけてくる
5.武田正(1973)『わらべ唄歳時記』
今日ではあまり聞くことのなくなったわらべ唄は、独特な言い方やリズムが存在して
おり、そのまま読んでも一体何を表現しているのかが不明確なものである。そのような
わらべ唄を武田(1973)は
① 生活のリズムの表現としてのわらべ唄
②節の折り目としてのわらべ唄
③民間信・社会生活の規則との関係でのわらべ唄
(武田正(1973)『わらべ唄歳時記』p314)
といった三つの形式に分けており、わらべ唄がその当時の社会、または生活とつながっ
ているということを述べている。
武田(1973)はその例として、手まり唄について注目している。まず手まりの発達
について述べるが、手まりは元々ぜんまい綿や木綿で作られていたものであり、その時
の手まり唄は
でんすけでんすけ
お手まり
つくか つかぬか
こしめ しめなわ
いとごんごんじゅめ
いとろくろくじゅめ
4
いとしちしちじゅめ
いとはちはちじゅめ
九十九文で
丁度
百ついた (手まり唄)
(同書、p316)
といったものであった。しかし、手まりがゴムまりに変わり始めた 20 世紀の手まり唄
は、
大助
大助
すっかっか
牛のきんたま 縄もってしばって
前の枯れ木にぶらんと下げて
あれは何だか あててみろ
(手まり唄)
(同書、p317)
といった、少しテンポが変化し、また意味が分かりづらいものになった。この変化につ
いて武田(1973)は「明らかにまりの弾力性に、その理由があるのであろう。
」
(同書、
p316)と述べ、その答えとして
生活のリズムの変化というのは、ゴムに手まりが変ったことによるテンポの変化を
含めて社会生活全体についても言えることである。それにともなって、「手まり唄」
も変化し、手まり遊びも変化して来る。元来の手まりの単純な遊び方を克服するため
にも、遊び方自体にも工夫がこらされる。また唄がとぎれても、ゴムの弾力性は遊び
を継続せざるを得ない。こんなことで、手まり唄には意味のない言葉が混入して来る
こともある。(同書、p317)
と、説明しており、またわらべ唄の全体の変化として、
全体として短く結ばれる形となり、語が語としてでなく、音として捉えられるよう
にさえなってしまうことも見られることは例を示すまでもないことである。
(同書、pp321~pp322)
5
と、社会生活の変化による唄の中の「ことば」の変遷を手まりから考察し、そしてわら
べ唄の意義の変化を結論づけている。このことから、わらべ唄等に見られる、ある一定
のリズムを刻む日本語の「ことば」というものは時代によって消されるわけではなく、
むしろその時代に適応するように形を変えることが出来る力があることが推測される。
6.おわりに
様々な面から日本語の「ことば」について調べたが、日本語が内包しているものはあ
まりも広く、そして深いことを痛感させられた。引用したシャレやわらべ唄などほんの
一部分のものであり、日本語の「ことば」を網羅したなど口が裂けても言えないという
のが、正直な感想である。このようなあまりにも膨大ともいえる「ことば」をどれだけ
把握することができるかが、今後の目標となるだろう。
【参考文献】
宇井無愁
『日本人の笑い』(角川書店 1976 年)
梅垣実 『日本の忌みことば』
(ケイ・エム・エス
大島建彦
『ことばの民俗』(三弥井書店
1976 年)
1986 年)
瀬戸口真規 「恋するまじない」
『昔話伝説研究』
(第 34 号.昔話伝説研究会.2015 年)pp59~69
武田正 『わらべ唄歳時記』(KMS
1973 年)
6
ブックレビュー「ホロコーストを学びたい人のために」
石井啓允
1.
はじめに
私が昨年受験勉強をしていた際に国語の評論でホロコーストに関連するものを読み、
とても印象に残った記憶がある。そのおおまかな内容は、ナチスドイツによってユダヤ
人が死を迎えさせられる場所である絶滅収容所において、ガス室や強制労働へ向かう
歩調を強めるために勇壮なマーチを演奏させられることで死を免れたユダヤ人の苦悩
をテーマとして論じたものであった。この文章を読んで以来、送り込まれた時点で死が
確定してしまっているというイメージのあった絶滅収容所やそれに類する施設におい
て「利用され、生かされた」人がいるという事実にとても興味を持ったため今回のブッ
クレビューのテーマとして扱うこととした。
2.
ナチス政権掌握前後のドイツにおけるユダヤ人をめぐる状況
まず、ナチスが政権を掌握した時点でドイツ国内には全人口の 0.75%である約 50 万
人のユダヤ人が暮らしていた。彼らは全体から見ると少数派であったのだが、商業分野
や医師や弁護士などの職業集団、芸術や文化産業といった職業で不釣り合いなほどの
大きな割合を占めていた。そのため、ナチスが政権を掌握する以前から反ユダヤ主義者
が一定数存在した。ナチスはナチ・プロパガンダにおいて、彼らのユダヤ人に対する「ド
イツ的なものの全てに敵意を抱き、暴利を貪る、悪徳商法三昧の異様な寄生生物の群れ」
(Benz, 2012, p.17)という湾曲したイメージを重要視して利用したのである。そして
1933 年の初頭、ヒトラーが政権を掌握して最初の数週間でユダヤ人の市民権や経済的
基盤がナチズムによって破壊され、
「国民的高揚」とともに反ユダヤ主義が公式に支配
的な教義となった。
そのような流れに対抗するため、各地のドイツ系ユダヤ人による様々な団体を統一
する動きが起こり、1933 年 9 月に「ドイツ系ユダヤ人全国代表部」1が設立された。し
かし、1938 年の 11 月ポグロム以降はナチスの支配機構の指令を受けて実行するだけ
で、権力は一切無く、ナチスの下請け機関となっていた。
3.
ホロコーストの概要
一般にホロコーストとはナチスドイツによって行われたユダヤ人の大量殺戮のこと
を指すものである。その語源はユダヤ教の宗教用語である「燔祭」2を意味するギリシ
ア語である。現在ホロコーストと呼ばれている行為はヒトラーをはじめとしたナチス
1
2
1935 年からは「在独ユダヤ人全国代表部」に改称
生贄の動物を祭壇上で焼き、神にささげる儀式のこと
1
によって行われた「ユダヤ人問題の最終解決」の結果であり、最初から大量殺戮が想定
されていたわけではないのである。当初はドイツからユダヤ人を「追放」することが目
的であったが、ナチスドイツの支配範囲の拡大に伴いそれは限界を迎えた。そのためナ
チスは「ゲットー」という名の、ユダヤ人を侮辱し、搾取し、さらにおびただしい数の
人を輸送するための中継基地としての強制居住地を設置した。ゲットーは劣悪な環境
下にあったため、輸送されてきたユダヤ人の多くはここで飢えや病気によって命を落
とした。
行政区長官ユーベルヘーアの命令では誤解の余地がなく次のように述べられて
いた。
「ゲットー建設は言うまでもなく一時的な措置にすぎない。(中略)ユダヤ人
が一掃されるかについては、権限は私にある。いずれにせよ最終目標は、我々が
このペスト腺腫を完全に焼き尽くすということでなければならない。」(Benz,
2012, pp.57-58)
上記のように、ゲットーはあくまで通過地点でしかなかった。その後彼らは戦局が混迷
を極めるとともに行動部隊の大量射殺という段階を経てアウシュヴィッツに代表され
る 6 つの「絶滅収容所」へと移送された。ここでは従来の銃殺だけでなく、ガスを用い
た殺害施設が作られ、大量殺戮が行われた。これによってナチスの言う「ユダヤ人問題
の最終解決」は様々な段階を経て、ガスを用いた大量殺戮に行きついたのである。
4.
具体的な事例
私の今回のブックレビューのテーマである、ナチスによって「利用され、生かされた」
ユダヤ人としてこの本の中で取り上げられている人物を一人紹介したいと思う。彼の
名前はアダム・チェルニャクフといい、第一次世界大戦前ワルシャワの工科大学で工学
士の学位を取得するなど教養のある人であったが、当時蔓延っていた反ユダヤ主義に
よって、ユダヤ人共同体以外で公職や一般職に就くことを妨げられた。彼はナチスによ
ってワルシャワ・ゲットー内の自治行政を担当し、責任を負う「ユダヤ人長老」に任命
された。ゲットーは前述のとおり大規模な住民移送の中継地として利用されたため、周
辺地域からワルシャワに移動させられてくる人々は時間とともに増え続けた。それら
の人々に対し彼は責任があり、食べ物、住居、健康の世話を焼き、さらにはそれと同時
にユダヤ人に対する SS の命令を実行しなければならなかった。以下にはそんな彼の当
時の状況が記されている。
このような強制された共同体の頂点にある「ユダヤ人長老」の職は救いようのな
いものであった。SS は絶えず長老を侮辱し、彼は何度も逮捕され、虐待される
が、その割にゲットーの住民には愛されなかった。逆に、彼をめぐって激しい議
論が戦わされた。多くの者は彼を単にドイツ人にとって都合のいい道具と見てい
2
た。まったく馬鹿げた噂によって、この推測が裏付けられた。虚栄心や権力意識
からこの難しいポストを得ようとし、自分の功名心を満足させるためにその職務
を果たしているという汚名を、チェルニャクフは、ウーチ3、あるいはヴィルノ4、
ルブリン5、リガ6、テレージエンシュタット7などの他のゲットーでドイツ人によ
って統治者として任命され、その手先として利用された全ての者たちと、共に背
負っていた。これらのユダヤ人評議員に死後の名声はなかった。(Benz, 2012,
pp.53-54)
1942 年にワルシャワ・ゲットーの住民の絶滅収容所への移送が開始され、彼をはじ
めとする一部のユダヤ人はナチスの手先として移送者リストを作り、移送準備を行わ
なければならなくなった。このとき彼はナチスによってこれ以上人殺しの下働きをさ
せられることを避けるため、毒を仰ぎ、自殺に逃げ口を求めたのであった。遺書には「奴
らはこの手でわが民族の子供たちを殺すように要求してきた。私には死ぬ以外に道は
残されていない。」(Benz, 2012, p.55)と記されていた。
5.
おわりに
今回はナチスによって「利用され、生かされた」人の例として一人を取り上げたが、
他にも様々な例が列挙されていた。自殺による最後を迎えたのはチェルニャクフ一人
であり、他はゲットーでナチスの手先として統治の一端を担わされたのち最終的には
絶滅収容所に送られ、殺害された。このように彼らはみな悲惨な最期を迎えたのである。
ここで私が主張したいのは、筆者のベンツ氏がドイツ人であり、タブーとされてきたド
イツ人の目線からホロコーストについて記述しているということである。それは「ドイ
ツ人がどれほどホロコーストについて知っていたのかということを、この犯罪から半
世紀たってもなお、ドイツ人はよく問うてみなければならない。
」(Benz, 2012, p.173)
という記述によく表れている。また、出来事だけに焦点を当てているのではなく、個人
的な視点からホロコーストを見ているという点も特徴的である。このような視点から
語られる記述こそ理解を深めることにおいて重要であると私は考える。
6.
参考文献
芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』(2008) 中央公論新社
ベンツ, ヴォルフガング (Benz, Wolfgang)『ホロコーストを学びたい人のために』
(2012) (“DER HOLOCAUST”)(1995) 中村浩平、中村仁訳 柏書房
3
4
5
6
7
現在のポーランド中央部の都市
現在のリトアニア共和国の首都
現在のポーランド東部の都市
現在のラトビア共和国の首都
現在のチェコ北部の都市
3
国語Ⅲ ブックレビュー
「ヤスパース
人間存在の哲学」
人文学類 1 年
今井春佳
《はじめに》
今回、レビューする本の題材を選ぶにあたり、私は高校の倫理の授業で初め
て学んだ時から強い関心を持っていた、ヤスパースの実存哲学に思い至った。
まさにそのヤスパースの哲学を「人間存在の哲学」として捉えなおすことが試
みられている『ヤスパース 人間存在の哲学』。本書に基づいて、ヤスパース
の哲学についてまとめた上で、私自身の考えも提示してゆくこととする。
《ヤスパース哲学の概要》
まず、ヤスパース哲学の基本的特徴について述べる。彼は、独自の「実存哲
学」を提唱した人物だ。「実存哲学」とは、それにおける思惟を通して人間が
自己自身になろうとする、つまり、その思惟する人間が自らの存在を明らかに
し、我が物にしようとする試みである。一方で、彼は自身の著作『哲学』にお
いて、実存のみならず、ヨーロッパ哲学の伝統的な根本理念である「存在の三
つの名前」、つまり世界・魂・神(超越者)をも探求している。このことからわか
る、ヤスパースにとっての哲学について、本書では以下のような記述がなされ
ている。
ヤスパースにとって、哲学することは、三つの名前において出会われ
る存在のそれぞれへと向って自らを分節しつつ、その分裂した道を通っ
て一者へと帰ってゆくことにおいて存在を獲得することを目差すもので
ある。すなわち、哲学すること(ないしは哲学)は、ヤスパースにとっ
て、存在を問うことないし「存在の探求(das Suchen des Seins)」[PhⅠ
1](*1)であり、「存在とは何であるかが哲学することの止むことのない問
いである」[PhⅢ1](*2)(吉村 2011, p.23)
そして、この「存在の探求」は、「可能的実存」によりなされる。「可能的実
存」とは、人間が現にその場に存在するということにおいて、実存、すなわち
「その人間が常にその人間自身であること」のできる可能性を持つ状態を意味
する。「実存」つまり「私が私自身である」ということは、本書によれば、「私
国語Ⅲ ブックレビュー
は私以外の何かによって決定されるのでなく、私の決定(決断)によって私が私
の根底となって存在する」(p.34)ということである。だからこそ、「可能的実
存」としての人間による「存在の探求」は、その人間が自身の「実存」を実現
し、「私が存在する」という状態を目指すのである。
ここにおいて重要なことは、「存在探求」における「私が存在する」という
ことの実現には「超越者」との関わりが不可欠だということだ。「超越者」と
は、「本来的存在である存在そのものないしは一なる存在」(p.42)であり、全て
の「現存在」を超越する存在である。「現存在」とは、「意識する主観に対する
対象としての客観存在」(p.32)のことである。ヤスパースは「現存在」の総体
を世界であるとしているが、「存在探求」は世界と分断されたものであっては
ならない。あくまでも「可能的実存としての人間に対して超越者は世界におい
て現れる」(p.42)のであって、人間は世界において超越者を探求し、目指すの
である。
以上のように、ヤスパースの哲学とは、人間、すなわち可能的実存が絶対的
な存在そのもの(超越者)を探求し、それを根底として本来的人間となり、自身
の存在を実現する営みである。そしてこれこそが彼の哲学の唯一にして永遠の
課題である。ここにおいて、彼の哲学の中心には「実存」に止まらず「人間」
があると言える。そしてこれこそ、ヤスパースが実存のみを唯一・絶対化する
「実存主義」論者でなく「実存哲学」の提唱者であること、さらには彼の哲学
を「人間存在の哲学」と言えることの所以である。
《ヤスパースにおける「人間存在」》
ここからは、本書の副題にもある、「人間存在」をヤスパースがどのように
捉えているのかについて述べる。彼は、人間を「包越者」であるとする。「包
越者」とは、筆者によれば「自らを対象として知られた対象存在に尽きず、む
しろそれを超越しつつ内から覚知される非対象的なるもの」(p.159)である。ま
た、「人間が人間になる」ということ、すなわち「人間が包越者になる」とい
うことには二重の転換が必要となる。第一の転換は、人間が「自らを一定の限
定された対象として把握している」(p.159)状態から「その対象性を超越する」
(p.159)ことである。第二の転換は、「人間が本来の人間(本来の自己自身)になる
という実存の自己実現」(p.159)である。さらに、人間の「包越者」としての様
態には、「現存在・意識一般・精神」の三つがある。ここにおける「現存在」
とは「全てのものが現に存在すること及びそれら自体」を指す。「意識一般」
とは「主観としての私(自我)が客観(対象)を思念しつつそれへと向けられている
という意識の根源現象」(p.28)が起こっている、思惟の場である。そして、「精
国語Ⅲ ブックレビュー
神」とは「思惟、感情、行為において一つに束ねられている全体」[VW
71](*3)(吉村 2011, p.191)であり、決して出来上がり完結することなく変動し続
ける「理念(Idee)」である。これら三つは、包越者の在り方として各々独自の
ものであるが、相互に深く関連し合っている。すなわち、一人の包越者たる人
間とは、現存在を基礎として現存在・意識一般・精神を内在的に一つに統合し
た存在なのである。従って、筆者の言葉を借りれば、ヤスパースの「人間存在
の哲学」において、人間とは「意識一般及び精神として現にここに存在する生
きた現存在である」(p.199)。
《おわりに》
上記のように、ヤスパースの哲学、そして彼にとっての人間存在について見
てくると、彼は哲学史上の大きな潮流の一つである「実存主義」と関連しつつ
もそれに染まりきらない独自の「実存哲学」を確立した人物だとわかる。「独
自」とはいえ、彼はあくまでも哲学の源流たるヨーロッパの伝統的思想を基盤
としながら自ら哲学している。彼はまさに「巨人の肩に立って」哲学界に一石
を投じたと言えよう。今回ヤスパースについての著作を読み、彼のように自分
の頭で徹底的に考え、自分で自分をしっかりと支え、裏付けられるような人間
になりたいという目標を持つことができた。今後は、ヤスパース自身の著作に
触れ、人生の糧としたいと思う。
《参考文献》
吉村文男『ヤスパース
人間存在の哲学』(春風社、2011 年)
i
《注》(吉村 2011, p.15「ヤスパースの著作の略記」より抜粋)
(*1)Karl Theodor Jaspers『Philosophie』(Drei Bände. 1932. Mit einem Nachwort
von1955, Berlin-Göttigen-New York 3 1956)
Ⅰ: Bd.1 Philosophische Weltorientierung p.1
(*2)上記と同著 Ⅲ : Bd.3 Metaphysik p.1
(*3)Karl Theodor Jaspers 『Von der Wahrheit』p.71 (Erster Band der Philosophischen
Logik. 1947, München 2 1958)
ブックレビュー
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
人文学類 1 年 岩崎直人
1.はじめに
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
(マックス・ヴェーバー著、大塚久雄
訳、岩波書店、1989 年)は近代ヨーロッパにおける資本主義的企業家や、資本家、上層部
の熟練労働者層、特に技術的あるいは商人的訓練の下に教育された従業員たちがプロテス
タント的色彩を帯びていることから、一見、その禁欲主義的な姿勢から現的・利己的な利潤
追求を嫌うように思えるプロテスタンティズムの倫理観が実は、近代資本主義社会を支え
る一要素である資本主義の精神を成立させたのではないかというテーゼを打ち立てた一冊
だ。今回は上記の本を中心として、ヴェーバーの思想の理解を深めていきたい。
2
2-1. フランクリンと資本主義の精神
近代以前の社会では「できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなくて、むしろ簡素
に生活する、つまり習慣としてきた生活を続け、それに必要なのを手に入れることだけを願
う」
(ヴェーバー、1988、65 頁)伝統主義的な生活態度が根付いていた。一方、近代社会に
おいては 18 世紀のアメリカのベンジャミン・フランクリンにすでに見られるように、
「自
分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想」
(ヴェーバー、
1989、42 頁)が労働者の心性に根付いており、これが近代資本主義誕生の原動力となる資
本主義の精神であった。フランクリンの思想は「幸福や快楽こそが人生の目的だとすれば、
それを追求するという意味での合理性とは著しくかけ離れた性格」
(山之内靖、
『マックス・
ヴェーバー入門』、1997、67 頁)をもっていた。この非合理的ともいえる禁欲的勤勉精神が
禁欲的プロテスタンティズムのとも合致することから、ヴェーバーはこの伝統主義に基づ
いた経済からどうやってフランクリンに見られるような労働が絶対的な自己目的、いわば
天職であるかのように励むという心情とそれを裏付ける倫理観が生じたのかを捉えるため、
天職という観念を作り出した、ルターに始まるプロテスタンティズムに考察を移していく。
2-2. ルターの天職観念
マルティン・ルターは宗教改革の過程で旧約聖書の外典であるベン・シラの知恵を訳した
際、それまでには存在しなかった天職観念を生み出した。これは「神によろこばれる生活を
営むための手段はただ一つ、各人の生活上の地位から生じる世俗内的義務の遂行であって、
それこそが神から与えられた『召命』―Beruf―にほかならぬ」
(ヴェーバー、1989、110 頁)
という観念で、世俗的職業の内部における義務の遂行を、道徳的実践の持ちうる最高の内容
として重要視した。これによって世俗的日常労働は宗教的意義を認められ、この天職思想は
のちのプロテスタンティズムの思想的特徴となって残っていった。しかし、ルター自身の思
想自体は結局伝統主義から離れはせず、むしろ現実の紛争に巻き込まれるにつれ、封建的体
制を擁護する側に回るとともに、現世の客観的な秩序に順守すべきだという伝統主義に戻
ってしまった。天職思想を中心とした資本主義の精神を支える倫理は、ルター派の後に登場
するいわゆる禁欲的プロテスタンティズムと呼ばれる、カルヴィニズムおよびその周辺の
諸派や、洗礼派とその流れをくむ様々な流派(ナノメイト、ブテスト、クウェーカーなど)
の信徒たちの生活の中で構築されていくことになる。
2-3.カルヴァンの予定説の影響
16,17 世紀、オランダ、イギリス、フランスなど資本主義の発達が最も高度だった文明
諸国の間で大きな影響を与えていたカルヴィニズムにおいてもっとも特徴的な教義と考え
られている予定説は、「永遠の昔から、ある人間は救いに予定され、他の人々は堕落に予定
されていて、人間側の善行や、さらに進行によってでさえもそうした事実を変えることはあ
り得ない」
(山之内靖、1997、87 頁)という言説だ。
「教会や聖礼典による救済という信者
の拠り所を完全に破棄した」
(ヴェーバー、1989、157 頁)ものでもあったこの思想は信徒
の心に内面的孤立をもたらし、信者たちはその精神的苦境から脱し、自らが救済される者に
選ばれている確信を求めた。またカルヴィニズムの教義上信徒の生存している理由は現世
において神の戒めを実行し、それによって神の栄光を増すためだけにあった。これら非人間
性をも帯びる禁欲的状況から、カルヴァン派の信徒たちは、
「自分で自分の救いを―正確に
は救いの確信を、といわねばなるまい―『造り出す』のであり、……どんなときにも選ばれ
ているか、捨てられているか、という二者択一の前に立つ組織的な自己審査によって造り出
す」
(ヴェーバー、1989、185 頁)という行為に到達し、このようにしてカルヴィニズムに
おける世俗内的禁欲のエートスと呼べるものが成立した。またカルヴィニズム以外の禁欲
的プロテスタンティズム諸派においても予定説のような特殊恩恵論は支持されており。同
じような形で信者は救いの確証を得ようとした。このように来世を目指しつつ、神の栄光と
恩恵の確証のため世俗の生活を合理化することこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職
思想を発展させた禁欲的合理主義の萌芽といえるものだった。
2-4.天職倫理の変貌
こうして成立した世俗内的禁欲のエートスは信徒の中で広く浸透していった。信徒たち
は「所有物の無頓着な享楽に全力を挙げて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺し
た」
(ヴェーバー、1989、342 頁)その反面、専心的な労働により蓄積した財は宗教的確証
の証となり、結果「心理的効果としても財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った」
(ヴェーバー、1989、342 頁)のだった。世俗内的禁欲のエートスからなるこのプロテスタ
ントの一連の行動は、結果として合理的産業経営を土台とする近代資本主義の社会的機構
をだんだんと作り上げることになった。そして、社会機構の構築が進むにつれ、今度は儲け
なければ経営を続けることができなくなってくる、すなわち資本主義の社会機構が逆に信
徒たちに世俗内的禁欲を外側から強制するようになっていった。世俗内的禁欲のエートス
は利潤追求を倫理的義務として是認するようになり、信仰による内面的機動力は次第にそ
の必要性を失い、やがて宗教的核心は消滅した。こうして構築された資本主義社会について
ヴェーバーはこのように語っている。
「今日の資本主義的経済組織は既成の秩序界であって、個々人は生まれながらにして
その中に入り込むのだし、個々人にとっては事実上、その中で生きなければならない
変革しがたい鉄の檻として与えられているものなのだ。
・・・・・経済生活の前面を支
配するに至った今日の資本主義は、経済的淘汰によって、自分が必要とする経済主体
―企業家と労働者―を教育し、作り出していく。
」
(ヴェーバー、1989、51 頁)
「今日では、禁欲の精神は、……この鉄の檻から抜け出してしまった。……資本主義
は、機械の基礎の上に立って以来、この詩集を必要としない。
」(ヴェーバー、1989、
365 頁)
3. 問題点
この本で私が注目するのは、ヴェーバーが資本主義の精神の例示として近代資本主義が
成立する以前のフランクリンを登場させたことだ。ヴェーバーは、
「
『資本主義精神』……は、
ベンジャミン・フランクリンの生地(マサチューセッツ)では、
『資本主義の発達』より以
前に明白に存在していた」
(ヴェーバー、1989、52 頁)と述べているが、その根拠はその土
地の人々が特に利益計算に乗じていることにアメリカ内部で非難が加えられていたという
ものであいまいなものに感じる。またフランクリンは父こそ厳格なプロテスタントではあ
るが、
「彼自身はどの教派にも属さない、理神論者であった」(ヴェーバー、1989,48 頁)
ということから、フランクリンの思想自体も理神論的な啓蒙主義からなるものではないか
とも分析でき、プロテスタンティズムと資本主義の精神の親和関係の根拠を揺るがしかね
ないのではないかと感じる。これに関しては「
『プロテスタントの禁欲的職業倫理』とフラ
ンクリンに見られるエートスは似てはいるが、異なった系譜の中にある。両者が似ているの
は、両者がともに、同じ資本主義の興隆という社会経済的状況に対応して生成したエートス
だからである。
」
(山本通、2008、83 頁)という意見もある。
4. おわりに
今回私が主として取り上げた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は全体と
しての論理展開が捉えにくく、非常に難解である一冊だった。
「フランクリン」
「ルター」
「カ
ルヴィニズム」
「メソジスト」など、この話の核となるキーワードをテーマとした書籍を読
み、予備知識をいれておくことがこの本をより深く読解するためには必要だと感じた。
<参考文献>
・山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』(岩波書店,1997 年)
。
・山本通「ヴェーバー、
「倫理」論文における理念形の検討」pp61-86、橋下勉・矢野喜郎編
『日本マックス・ヴェーバー論争 「プロ倫読解の現在」
』(ナカニシヤ出版,2008 年)
。
・Weber, Max , Die protestantische Ethik unt der “Geist” des Kapitalismus, Aufsätze zur
Religionssoziologie, 13d. 1, 1920, SS. 17-206(マックス・ヴェーバー、大塚久雄訳、
『プロ
テスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
、岩波書店、1988 年)。
国語Ⅲブックレビュー
認知言語学と語用論における not at all と「全然~ない」の関係性
人文学類 大竹瞭佳
1.はじめに
現代言語学研究の中心は専ら認知言語学や語用論である。かつてソシュールの構造主義
言語学、チョムスキーの生成文法が主流であった時は、認知や語用といったコミュニケー
ションに関わる領域まで言語学が広がるとはだれも考えていなかっただろう。しかし、現
代はグローバル化が進み、非母語であるが英語を話す機会が増えた人も多くなったことか
ら、言語学の研究分野は認知や語用を含むコミュニケーション言語学へと変容していった
と考えられる。世界はそうなっている中、日本はどうだろうか。日本人は英語をコミュニ
ケーションツールとして使うのが苦手であると言われる。本レビューでは認知言語学及び
語用論の観点から、日本人が苦手とするあいまいな表現が多数存在する否定形に関して取
り上げる。
2.有光奈美『日・英語の対比表現と否定のメカニズム 認知言語学と語用論の接点』
本著で有光は日常言語の否定性と程度表現に関して述べている。有光は、程度表現は否
定性と非常に密接に関係しており、その理由を程度において「多い」、「少ない」という概
念は、
「ある」
、
「ない」といった物の存在と非存在の対比に関連していることに加えて、
「な
い」という概念が否定性の根源的な意味の土台になっているためであるとしている。
(32) a. I do not have any friends in this country at all.
b. I have no friends in this country at all.
c. *I have some friends in this country at all.
(有光 2011: 37)
上は、日常言語の否定性と程度表現に関する一つの例として”at all”という語句がどのよう
に使われているのかを示している。なお、問題番号は本著に従うとする。(以下同様)この例
からわかるように at all は、否定文に現れることができるが、肯定文には現れることができ
ない項目、すなわち否定極性項目(negative polarity items、以下 NPIs と記す)であると言
える。これから文が否定性を持つかどうかを判断する手がかりになる NPIs と否定文の関係
に関して、at all と「全然」を中心に考察する。
はじめに、有光は、at all と「全然」は多くの場合、次のように明示的な否定辞と呼応し
て文を構成するとしている。
(34) a. He has no friends at all.
国語Ⅲブックレビュー
b. *He has a friend/some friends at all.
(35) a.彼は全然友達がいない。
b.*彼は全然友達がいる。
(有光 2011: 38)
この例からわかるように、肯定文の中で at all と「全然」をいきなり用いるのは非常に不自
然であり、no や not、
「ない」などの明示的な否定辞を持つ否定文の中で用いられるのが一
般的であると有光は述べている。
次に、有光は、形態的否定性における at all と「全然」に関して次のような例を挙げてい
る。
(38) a. He is not happy at all.
b. *He is unhappy at all.
(39) a. 彼は全然幸せではない。
b. *彼は全然不幸せだ。
(有光 2011: 38)
上の例から、有光は、語が形態的に否定性を有する、つまり否定接頭辞を有する場合、at all
と「全然」は、その形態的否定性とは呼応することができず、不自然な用法になると述べ
ている。
これまで at all と「全然」は NPIs であると有光は述べてきたが、ここで例外が存在する
ことを述べておく。はじめに at all が NPIs として扱われない場合、つまり at all が否定文
以外で使用される場合を見ていこう。
[A] 条件節における使用
(67) Kate: If it would be any help at all, you could practice on me.
[Alf (1986)]
[B] 疑問文における使用
(72) Jess: Did you call me at all?
[Gilmore Girls (2000)]
[C] 驚きを表す文の従属節における使用
(78) Marjory Frobisher: I was surprised to hear she’d got married at all, I mean
she wasn’t very attractive was she?
[To the Manor Born (1979)]
[D] without, luck, any など否定的概念を有する語との共起による使用
国語Ⅲブックレビュー
(81) SpongeBob: [sings to cheer up and encourage Plankton] `F` is for friends
who do stuff together, `U` is for you and me, `N` is for anytime or anywhere at
all…
[SpongeBob SquarePants (1999)]
(82) Austin Powers: …anything at all.
[Austin Powers: International Man of Mystery (1997)]
(有光 2011: 49-50)
これら[A]、[B]の使用環境は、以前有光が本著で取り上げた太田1の説く否定的文脈と矛盾
しないとしている。また[C]の使用環境については、Arimitsu(2000)において、驚きや予想
外などの概念が非明示的否定性と関連していることが指摘されている。Arimitsu(2000)に
よると驚きや予想外という概念は明示的な否定語・否定辞を有しないので非明示的否定性
の一つであると位置づけられると言う。[D]は without ,luck のように価値的な否定性が含
まれている場合であり、そこに any という代表的な NPI の一つが共に用いられていること
もあれば、単独で at all と呼応して用いられることさえも可能になっている。
次に「全然」が肯定文で現れる場合を見てみよう。一般的に「全然」は「ない」のよう
な明示的否定語と呼応して文中に現れると考えられているが、それが含まれていない場合
が以下のような例で見られる。
(58) a. 全然食べれます。
c. ? 全然走ります。
(59) a. 全然良いです。
b. ? 全然四角いです。
(有光 2011: 44)
(58c)において、
「全然」と「走ります」の結びつきが非常に不自然であり、動詞において可
能・不可能を問う文脈が存在している肯定文での「全然」のほうが、容認度が高くなると
有光は指摘している。また、(59)から形容詞においてははっきりした良し悪しの価値判断が
伴う表現のほうが、容認度が高くなる傾向が存在していると有光は述べている。
最後に最も日英で差異が現れる否定疑問文に対する返答に関して述べる。否定疑問文は、
上で述べた at all と「全然」は多くの場合、明示的な否定辞と呼応して文を構成するという
太田(1980: pp281-285)は、NPI が、顕在的否定の文脈(文中に明示的否定辞 not などを有
する)と潜在的否定の文脈、比較構文、間接疑問文を含む疑問文、If 節、Before 節、事実に
反する仮定といった否定の文脈の中で特徴的に現れることを指摘している。
1
国語Ⅲブックレビュー
点と、at all が否定文以外で使用される場合が総じて現れる。
(104) A: 緊張しなかった?
B: 全然。
(全然緊張しなかったよ。
)
(105) A: 緊張しなかった?
B: うん、全然。
(全然緊張しなかったよ。)
(106) A: 緊張しなかった?
B: いいや、全然。
(全然緊張しなかったよ。
)
(107) A: Didn’t you get nervous?
B: *At all. / *Yes, at all.
(108) A: Didn’t you get nervous?
B: No, I didn’t.
(109) A: Didn’t you get nervous?
B: Not at all.
(有光 2011: 55-56)
有光は、否定疑問文において、日本語では「うん、~でなかったよ」、
「いいや、~ではな
かったよ」と肯定語と否定語、どちらを最初において返答することも可能であるのに対し
て、英語では No, I didn’t. や No, not at all.というように否定語を最初において返答するこ
とが一般的であると述べている。(105)A「緊張しなかった?」/B「うん、全然。」において、
B の「うん」は「緊張しなかったこと」という事態そのものを肯定的に認めているもので
ある。それに対して、(106)A「緊張しなかった?」/B「いいや、全然。
」の場合には、
「あ
なたは私が緊張したのではないかと思っているようだが、それは違います」という相手の
予想・期待に対して否定しているため、まず「いいや」という否定語を用いると考えられ
る。このように日本語では、
「うん」
、
「いいや」の両方を態度表明によって使い分けること
ができるのに対して、英語では否定疑問文への At all. や Yes, at all.といった返答は、例外
で述べた NPI の使用環境下ではないので、非文になると有光は述べている。
3.まとめ
本レビューでは、英語の not at all と日本語の「全然~ない」を照らし合わせ、それぞれ
を多用な否定的文脈の中で分析した。not at all と「全然~ない」はそれぞれ否定性に対し
て敏感な要素であり、異なった現象を有していると有光は論じた。特に「全然」を日常的
会話の中で肯定的に使う点に関して、その否定的文脈の根源を探求した。その結果、
「全然」
は not at all ほど強く否定的文脈を求めてはおらず、歴史的には純粋に肯定的な量・程度表
現として用いられていた経緯を含みつつ現在まで変遷を経ており、対話例に見られるよう
国語Ⅲブックレビュー
な相手の否定的共感が存在する文脈において、肯定文の中の「全然」が自然で容認度が高
い用法になっていることを有光は指摘した。
4.おわりに
有光は、not at all と「全然~ない」はそれぞれ否定性に対して敏感な要素であり、異な
った現象を有していると論じたが、筆者は at all と「全然」は多くの場合、明示的な否定辞
と呼応して文を構成するという点や語が形態的に否定性を有する、つまり否定接頭辞を有
する場合、at all と「全然」は、その形態的否定性とは呼応することができず、不自然な用
法になるという点を考えると、at all と「全然」の基本的なとらえ方は同じなのではないか
と感じた。基本的なとらえ方は同様としつつ、英語圏の人間と日本語圏の人間の性格や他
人との接し方の違いが起因して not at all と「全然~ない」が異なった現象を保持するよう
になったと考える。
また、本レビューで not at all と「全然~ない」という表現の日英比較をすることができ、
さらに認知言語学や語用論における日英比較の研究を進めたいという願望が強くなった。
5.参考文献
Arimitsu Nami “A Review on Negation in Positive Sentences”,
『言語科学論集』 No.6,41-60, 2000, 京都大学
有光奈美『日・英語の対比表現と否定のメカニズム
認知言語学と語用論の接点』
2011,開拓社
太田朗『否定の意味』1980,大修館書店
国語Ⅲブックレビュー
インダス文明はなぜ衰退したのか
人文・文化学群 人文学類1年
加藤舜也
1.はじめに
インダス文明は、エジプト文明、メソポタミア文明と並ぶ四大文明の一つとして扱わ
れているが、その実態は依然として謎が多い。特に、インダス文明の衰退原因に関して
は、これまでに数多くの学説が提唱されてきたにも関わらず、未だに明確な結論が導き
出されていない。このような現状に対し、長田俊樹らは、インダス文明の衰退原因を解
明することを目的として「インダス・プロジェクト」を発足し、2007 年から五年間、様々
な視点からインダス文明に関する調査研究を行った。その成果をまとめたものが、長田
俊樹編著『インダス
南アジア基層世界を探る』
(以後「本書」と表記する)である。こ
のブックレビューでは、本書をもとに、インダス文明が衰退した原因について述べてい
きたい。
2.これまでに発表された、インダス文明衰退に関する学説
ここでは、本書の内容を基に、今日までに提唱されてきたインダス文明の衰退原因に
関する学説の一部を紹介し、それらに対しどのような見解がなされているのかについて
述べる。
2.1 アーリヤ人侵入破壊説
この説は、
『インダス文明』
(ウィーラー,1966)において、モヘンジョダロから出
土した四六の人骨1と『リグ・ヴェーダ』の記述をもとに、イギリスの考古学者ウィー
ラーによって提唱された。これは、文字通りアーリヤ人の侵入によってインダス文明
が滅亡したとする説である。しかし、現在では以下の三点をもって否定されている。
(1)アーリヤ人が侵入した年代とインダス文明衰退の年代との間に大きな差があること
(2)モヘンジョダロ出土の人骨に、虐殺と推定できるだけの形跡が見当たらないこと
(3)
『リグ・ヴェーダ』と史実との関係性が希薄であること
ところが、今日においてもこの説は一般書や一流の研究者によって堅持されており、
このような状況を長田俊樹は批判的に見ている(pp.404-405)。
1
『インダス文明 インド文化の源流をなすもの』
(辛島昇,1980)において、そのうち一
二体の人骨が不自然な形で発見され、それらの中には長さ一四六ミリにもおよぶ切り傷
の跡が認められた人骨も発見されたが、そのような事実を考慮しても、たった四六の人
骨をもってインダス文明が衰退した証拠とするには論理的な飛躍がありすぎると述べら
れている。
(pp.137-139)
1
国語Ⅲブックレビュー
2.2 メソポタミアの貿易停止説
この説はケンブリッジ大学の考古学教授であったオールチン夫妻により提唱された。
これは、地殻変動による河水の変化に加え、紀元前 2000 年頃にメソポタミアとの貿
易2が途絶えたことによる経済的な打撃が重なったためにインダス文明が衰退したと
いう説である。
この説に対し、本書では、宮内崇裕と奥野淳一が、地殻変動による海岸線および河
川の変化とインダス地域の湾岸都市の盛衰との間に関連性があることを明らかにして
いるが、これがインダス文明衰退の直接的な原因であると断定するには証拠が不十分
であり、あくまでもインダス文明衰退の要因の一つであることが示唆されている
(pp.68-99)
。
2.3 森林破壊大洪水説
この説は、
『インダス文明の流れ』
(ウィーラー,1971)において、アーリヤ人侵入
破壊説を補完する形で提唱された。これは、モヘンジョダロやハラッパーを建設する
際、レンガを焼くために大規模な森林伐採が行われたはずであり、それによって森が
失われて大洪水が生じ、インダス文明は衰退したとする説である。
この説に対し、『インダス文明
インド文化の源流をなすもの』(辛島 昇,1980)
では否定的な見解が述べられている。具体的には、モヘンジョダロにおいて三回以上
もの大洪水の跡が確認されたものの、それらはゆっくりと都市を沈め、水が引けば建
物の再構築や補修が可能となるような、極めてゆるやかなものであっただろうと述べ
ている(pp.142-143)
。また、大洪水の原因とされている森林伐採についても、遺跡周
辺で出土した動物骨から当時のインダス地域の自然環境は、草原や葦原が広がる暑く
て乾燥した気候であったことが示されており、燃料自体も、周辺に茂る灌木や牛糞で
十分であったのではないかとも述べられている(pp.144-145)
。
2.4 サラスヴァティー川消滅原因説
この説は、現在では水が涸れているガッガル・ハークラー川沿いにインダス文明の
遺跡が分布していることと、『リグ・ヴェーダ』に登場する神話伝説上の大河サラスヴ
ァティー川の所在に関する議論と結びついて誕生した。これは、現ガッガル・ハーク
ラー川が『リグ・ヴェーダ』におけるサラスヴァティー川であり、この大河の消滅が
インダス文明の衰退に何らかの関係があるのではないかとする説である。
この説に対し、本書では否定的な見解がなされている。具体的には、前杢英明と長
友恒人が、ガッガル・ハークラー川はインダス文明期において既に水が涸れていたこ
とを明らかにしている(pp.46-62)
。また、長田俊樹は、インダス川流域を除き、イン
2
本書 pp.100-107 において、メソポタミアの資料を基にインダスとメソポタミアの間で交
易が行われていたことを述べている。
2
国語Ⅲブックレビュー
ダス文明のほとんどの地域では夏のモンスーンによる降雨に依存する生産システムで
あったため、大河の消失はインダス文明にさほど大きな影響を与えなかったのではな
いかと推測している(pp.409-412)
。
2.5 気候変動説
この説は、イギリスのアバディーン大学を中心とした研究グループによって発表さ
れた。これは、4200 年前の気候イベントによる影響でインダス文明の衰退を招いたと
する説である。
この説に対し、本書では八木浩司らが、インダス文明衰退期においてモンスーンの
活動に変化があったことを明らかにしているが、気候イベントとモンスーン活動との
関連性に関しては不明瞭であり、さらなる研究調査と議論が必要であることを示して
いる(pp.110-130)
。
以上から、インダス文明の衰退原因は決して一つではないこと、また、当時のインダ
ス地域の様子を知るには、遺跡からの出土物や、遺跡の状況、遺跡を取り巻く環境等の
状況証拠に頼らざるを得ないために、客観的な解釈が困難であったことが推察される。
このような状況において、本書ではどのような説が導き出されたのか、次の項目で述
べていくことにする。
3.本書が提案する、インダス文明衰退に関する学説
本書におけるインダス文明衰退に関する学説を紹介するにあたり、まず、「インダス・
プロジェクト」での調査研究によって明らかになった、
「新しいインダス文明像」につい
て以下に提示する。
インダス文明社会は多民族多言語共生社会であった。多数の職能集団が独自の社会
を形成し、それぞれがお互いを補完しながら社会を支えてきた。
(中略)流動性も高
く、雨季や乾季に合わせて移動もした。その移動を円滑にするために、お互いイン
ダス印章を保持し、言葉が通じないところはインダス印章によって出身や職業を理
解し合い、コミュニケーションの一助とした。大都市はこうした移動民が一同に会
する場所で、常時都市に住んでいた人よりも季節にあわせて移動する人々が多かっ
た。(p.420)
インダス文明は、メソポタミア文明やエジプト文明に見られるような、強大な権力が
特定の地域を支配するという中央集権体制が存在せず、多種多様な人々が各地で共同体
を形成し、それらが自由な交易を通してつながった、ゆるやかなネットワーク共同体で
あったことが分かる。加えて、本書ではインダス文明衰退期において、インダス川流域
3
国語Ⅲブックレビュー
では遺跡数が激減しているのに反し、全体で見ると小規模の遺跡が急増していることを
明らかにしている(pp.420-421)
。長田俊樹は、これらを踏まえた上で、インダス文明が
衰退した過程を以下のように述べている。
インダス川はチベット高原の氷河を源流とする大河である。その水は涸れることが
ないが、上流の雨によって、洪水が起こる。
(中略)インダス川の洪水に悩まされて
いた彼らは、モンスーンによる降雨で比較的安定した作物が得られる地に移住をし
ていった結果、インダス文明ネットワークの均衡は保たれなくなり、市としての機
能をもった大都市は衰退し、交易のために必要だったインダス印章も使われなくな
った。それがインダス文明衰退のシナリオである。流動性が高く、国家や権力に固
執するのではなく、多民族共生社会だったからこそ、想定しうるシナリオではない
だろうか。
(p.422)
本書が提案するインダス文明衰退原因に関する学説は、様々な点で、これまでに提唱
されてきた学説とは全く異なっていると感じた。特に、インダス文明は多種多様な人々
によって形成された巨大な共同体であったことに関して、もしこれが真実であるならば、
エジプト文明やメソポタミア文明に代表されるような、一人の絶対的な権力者による統
治が一般的であった古代において、インダス文明は他の文明に先駆けて我々の文明に似
た文明を築き上げていたということになり、これまでの歴史観は大きく覆されるであろ
う。私は、インダス文明がこれほどの可能性を秘めていたことに対し、驚愕の念を禁じ
得なかった。
4.おわりに
ここではインダス文明の衰退原因に関してのみ焦点を当てて述べたが、インダス文明
に関しては未だに謎が多い。今後の更なる調査研究によって、インダス文明の実像がよ
り明らかになることを期待したい。
【参考文献】(著者五十音順)
ウィーラー『インダス文明』曾野寿彦訳(みすず書房,1966)
『インダス文明の流れ』小谷仲男訳(創元社,1971)
以下、長田俊樹編著『インダス 南アジア基層世界を探る』
(京都大学学術出版会,2013)
収録
長田俊樹「南アジア基層世界とは」pp.1-20
「新しいインダス文明像を求めて」pp.403-423
前杢英明・長友恒人「消えた大河とインダス文明の謎」pp. 46-62
4
国語Ⅲブックレビュー
宮内崇裕・奥野淳一「海岸線の変化と湾岸都市の衰退」pp.68-99
森 若葉「メソポタミアとの交流」pp.100-107
八木浩司他「南アジアのモンスーン変動をとらえる」pp.110-130
辛島 昇他『インダス文明 インド文化の源流をなすもの』(日本放送出版協会,1980)
5
国語Ⅲブックレビュー
人文学類一年 河野健
邪馬台国論争
第1章 はじめに
邪馬台国の所在については、古くから論じられてきた。特に、明治時代から九州説と近
畿説の議論が白熱している。しかし、この論争には何の意味があるのだろうか。山本はこ
の論争の意義について以下のように述べている。
もし九州であるならば、それは後に成立するヤマト王権とは別の勢力だという可能性
が高くなり、畿内であるならば、それはヤマト王権につながる政権である可能性が高
くなります。つまり、日本の王権の成立時期をめぐる論争なのです。1
それでは、なぜなかなか論争が終わらないのか。邪馬台国研究で最もよく使われるのが、
魏志倭人伝である。魏志倭人伝とは、
『三国志』の『魏書』東夷伝倭人の項をいう。
『魏書』
東夷伝の中でも倭人の項は最も詳しく、かつ正確で、三世紀としては第一級史料であるた
め頻繁に用いられるのだろう。2 しかしこの史料の解釈の違いによって論争を呼んでいる
のである。だが、明治時代から考古学が発達してきたことにより、史料的考察のみによら
ない見方も出てきた。ここでは、魏志倭人伝の考察と考古学のそれぞれの立場からの主張
を見ていこうと思う。
第2章 魏志倭人伝の考察
第1節
違いが生じる原因
九州説と近畿説の違いが生じる原因は、魏志倭人伝の行程記事をどう理解するかによる
ものである。帯方郡から邪馬台国までの行程を直線的(順進的)にみるのが一般的だが、
伊都国以降を分岐的(放射的)に読んで理解しようとする見解や、里程記事と日程記事を
帯方郡から邪馬台国までを示す二通りの記載とみる見解もある。3 それでは、どのような
読み方があるのか見ていこうと思う。
第2節
順進的読法
行程記事を順進的に読むと、帯方郡から邪馬台国までの距離の総計は、1 万 7000 余里に
1
2
3
山本(2013)p.121
平野(1998)p.1
三木(1979)p.53
1
国語Ⅲブックレビュー
人文学類一年 河野健
水行 30 日、陸行1月を足したものとなる。しかし、この他に邪馬台国の地理的位置を示す
記事は二つある。一つは、帯方郡から女王国の距離が 1 万 2000 余里であること。もう一つ
は、倭の地は 5000 余里あることである。これらが正しいとすると、不弥国から邪馬台国ま
での距離は、水行 30 日、陸行1月は 1 万 2000 余里から里数の明らかな 1 万 700 余里を引
いた、1300 余里にあてられることになる。しかし、中国の記録によって推定すると、陸行
は一日 50 里が普通だから、陸行一月 1500 里となり、この時点で 1300 里を超えてしまう。
行程記事の理解か邪馬台国の地理的位置を示す記述が誤りとなる。4
第3節
放射的読法
榎氏は、順進的読法を誤りであるとし、放射的読法を説いた。榎氏は、伊都国から記載
順序が変化することに着目した。これによると、帯方郡から伊都国までが 1 万 500 余里、
伊都国から邪馬台国までが 1500 里となる。しかし、この読法によっても、水行 10 日、陸
行 1 月をこれまで通りに理解すると 2500 里で 1500 里とは一致しなかった。5
第4節
並立的読法
放射的読法を改善するために榎氏が考えたのは、陸行 1 月を 1500 里であるとし、陸行す
れば 1 月、水行すれば 10 日であると読み替えたのである。こうすることによって先のつじ
つまを合わせた。6
第3章 考古学的考察
第1節
九州説の遺跡
第1項 神籠石遺跡
神籠石遺跡を最初に邪馬台国の遺跡と考えたのは、久米邦武である。久米は自らの論文
で、この遺跡を探検すべきであると強調した。彼は雷山の石塁遺構を「もと伊都県主の墟」
と考え、高良山の遺構を「筑紫国造の古墟」とみなし、さらに女山神籠石遺構なども邪馬
台国関係の遺構と考え、研究すべきとした。しかし今日では、神籠石遺跡は、七世紀の初
頭から同世紀末頃の築造であって、対外防備を目的としての山城であるという意見が主力
になり、論争の舞台から姿を消してしまった。7
第2項 吉野ヶ里遺跡
九州の弥生時代を代表する大規模集落の一つに吉野ヶ里遺跡が挙げられる。この遺跡は
紀元前三世紀から紀元三世紀の約六百年間にわたって規模を拡大しながら変化・発展して
いった継続的な集落である。8 平野氏は、この遺跡について以下のように説明している。
4
5
6
7
8
三木(1979)pp.54-55
三木(1979)pp.55-56
三木(1979)pp.56-57
佐伯(2006)pp.16-23
平野(1998)p.181
2
国語Ⅲブックレビュー
人文学類一年 河野健
吉野ヶ里遺跡は、延長 2.5 キロの外濠をめぐらせた大規模な環濠集落で、その中には内
濠と中濠で二重に囲まれた内郭が二カ所存在する。この二つの内郭とその周辺には半
地下式の竪穴住居と掘立柱の高床建物など 100 棟近くが、各所にまとまって配されて
いる。また外濠の北辺には墳丘墓があり、その南前面からは大型掘立柱建物跡と祭祀
土器が各時期にわたって多量に出土しており、大規模かつ継続的な祭事がおこなわれ
たとみられる。これらの施設の構造・配置などは、
『魏志』倭人伝に記述されている居
拠・宮殿・楼観・城柵・邸閣といった諸施設と符合するところがあり、倭人伝のしめ
す当時の「クニ」の姿を具体的に描き出しているといえよう。9
第2節
近畿説の遺跡と物質資料
第1項 箸墓古墳
箸墓古墳が卑弥呼の墓であると最初に唱えたのは、笠井新也氏である。笠井氏は、まず
第一論文で、魏志倭人伝の文献学的研究を駆使し、考古学的研究も視野に入れながら、邪
馬台国大和説に立って、特に「投馬国」について新見解を示した。音韻面から、「投馬国」
が「出雲国」を指しているとした。第二論文では、卑弥呼の時代の九州は、すでに畿内の
文化圏に入っていたということを古墳文化の点から論じた。そして第三論文では、大和朝
廷の「皇統譜」にあらわれる倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼にあてた。卑弥呼の死と崇神天皇
の崩御が十年前後にすぎないことをもとに、倭迹迹日百襲姫命が、
「崇神朝第一の女傑であ
って、その神意を奉じて奇跡を行い、未然を識って反逆を看破する」など崇神朝の信頼と
畏敬とを受けるに十分な女性であり、その勢望が「帝王」をも凌駕するほどであったのは、
陵墓築造が大規模であったことからもうかがえる。10
こうして、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとして、大和説の重要な根拠となっているが、
最近ではこれを疑う説もある。
石野氏もその一人である。石野氏は、箸墓古墳を台与の墓としている。台与の治績はほ
とんど記されていないが、治政機関に相当する三世紀後半は、各地域の王の居館の独立、
地域独自の墳墓造営、列島規模の土器の移動など激動の時代であり、それを乗り切った台
与の治績は大きく、必ずしも卑弥呼の墳墓より小さいという前提は成立しないのではない
かという。卑弥呼の墓が三世紀中葉の最大規模の墓でないとすれば、選択の幅が広がり、
大和説が必ずしも成立しない。11 議論は長引きそうである。
第2項 纏向遺跡
都市纏向は、西暦 180 年ごろ、奈良県の三輪山の麓に突如として姿を現し、340 年ごろ
に急速に衰退するまで大いに栄えた。12
9
平野(1998)p.183
佐伯(2006)pp.134-141
11 石野(2001)p.130
12 平野(1998)pp.228-229
10
3
国語Ⅲブックレビュー
人文学類一年 河野健
纏向遺跡と邪馬台国の関係で注目すべき点は二つある。一点は外来者の多い町であると
いうこと。もう一点は邪馬台国の歴史との対応関係である。
それでは外来者が多いことについてみていこう。平野氏は土器に注目して、以下のよう
に述べている。
土器の多くは日常の生活用具であり、それぞれの地域で生産され、流通する。縄文時
代でも弥生時代でも同様であるが、土器の中に、時には地域の特産物をいれて他のム
ラやマチへと持ち運ばれる。なんらかの事情で人びとが移住した場合にも、最初のこ
ろは、新しい土地でも今までつくっていたのと同様の土器をつくったであろう。
さまざまな事情で他の地域でつくられた日常容器(土器)が弥生時代の一般的な農家
に持ち込まれる率は 5%前後である(奈良県唐古・鍵遺跡の寺沢薫の試算)
。これにた
いし、纏向遺跡では、時期や形式のわかる個体で数えると 15%、破片の土器胎土まで
調べて数えると 26%というはるかに高い数値が出ている。
その上、纏向遺跡は、遠隔地の外来系土器を含む点で同時期の他の集落と大きく異な
っている。13
このことから、多くの外来者がいる大都市であったことがわかる。
次に、邪馬台国との対応をみていこう。平野氏は以下のように述べている。
都市纏向の変遷のなかで邪馬台国の歴史に対応しているように見えるのは次の二点で
ある。
西暦 180 年ごろは、倭国乱(桓・霊の間、147~188 年)のあと、卑弥呼が王として共
立されたときに当たる(
『後漢書』東夷伝)
。
箸中山古墳が築造される少し前(247 年)
、女王卑弥呼は狗奴国と相攻撃する状況を魏
に説き、まもなく死亡。
180 年ごろにはじまる集落は数多いし、247 年ごろに築造された墓も各地にある。した
がって、この二点をもとに纏向遺跡を邪馬台国の中枢地とし、
「女王の都する処」と主
張するわけではない。強調したいのは、纏向の地が、180 年ごろから 340 年ごろまで
栄えた都市であり、同地域に日本列島最初の大王墓が築造されている事実である。14
第3節
三角縁神獣鏡
卑弥呼らは銅百枚を魏朝から賜与されたとされている。この銅鏡はなぜ三角縁神獣鏡と
されているのか。
13
14
平野(1998)p.209
平野(1998)pp.229-230
4
国語Ⅲブックレビュー
人文学類一年 河野健
三角縁神獣鏡は、「卑弥呼の鏡」ともよばれる。これは、戦後、小林行雄氏が、同じ鋳
型から作られた同笵の三角縁神獣鏡は、卑弥呼らに魏朝から賜与され、畿内にある邪
馬台国に長く保管された後、大和政権に継承され、畿内→西日本→東日本と段階をお
って服属の代償・地位の保証として配布された。15
現在、この三角縁神獣鏡が魏で作られたか、国内で作られたかで議論になっている。こ
れは、卑弥呼が魏で賜与された鏡かどうかという問題である。それでは、それぞれの説に
ついてみていこう。
まずは魏鏡説である。三角縁神獣鏡が魏で作られたと考えられる理由は三つある。一つ
目は三角縁神獣鏡の中に作鏡の年が魏の元号で記されたものがあるからである。
「景初三年」
とあるものや、
「正始元年」などである。これらは魏の元号である。二つ目は、三角縁神獣
鏡の銘文中に使用期間が魏代に限定される字句がみられるからである。三角縁神獣鏡の銘
文中にある「徐州・洛陽・師・保・昭」のすべてが使用可能なのは、漢代以前でも西晋以
降でもなく、魏代に限られる。三つ目は、『魏志』倭人伝にみられる卑弥呼が魏朝から与え
られた「銅鏡百枚」を国内出土鏡の中に求めると、その数の多さからいって同一式鏡式な
らば三角縁神獣鏡以外に考えられないからである。16
次に魏鏡説への反論を見ていこう。これは大きく四つある。一つ目は、魏の元号がある
からといって魏の国内で製作されたとは限らない。当時三国時代であった中国では、銅鏡
の主要な産地は呉朝の域内にあって、そこで生産されたらしいのに魏の元号を記す鏡が実
際にあるのである。二つ目は、使用時期の限定された字句や名辞から作鏡年代を導く方法
は、当然のことながら、その字句が他の時期には使われなかったことが前提となる。しか
し、たとえば「銅出徐州」の徐州が郡県名ではなく十三刺史が置かれた州名の徐州とする
と、時期の限定に有効ではない。こう考えていくと、先に使用時期が限定されると示した
「徐州・洛陽・師・保・昭」の字句にうち全く問題がないのは洛陽だけである。三つ目は、
卑弥呼が与えられた「銅鏡」が「百枚」ものまとまった数であることから、これを三角縁
神獣鏡にあてる点については、
「同一鏡式ならば」という条件を仮定して導き出されたもの
であり、実際は同向式・対置式・環状乳の各種神獣鏡などが含まれていたとする説もある。
四つ目は、三角縁神獣鏡が中国でいまだに一面も発見されていないことである。17
魏鏡説に対する四つ目の反論から、国産鏡の可能性も疑われる。1981 年、当時の中国考
古学会の第一人者であった王仲殊氏は、三角縁神獣鏡は三国時代の呉の工人が海を渡って
日本にき、各種の神獣鏡と画像鏡を参照にしながら製作したものと発表した。その論点は
大きく七つに及ぶ。一つ目は、中国で出土していないことである。二つ目は、
「徐州」は古
代の銅山がない徐州市付近ではなく、揚子江下流域北岸の銅鉱山を含む州名の徐州と考え
15
16
17
平野(1998)p.145
平野(1998)pp.146-148
平野(1998)pp.148-149
5
国語Ⅲブックレビュー
人文学類一年 河野健
られ、ここは当時呉の領域内であったことである。三つ目は、三角縁神獣鏡の特徴が魏の
領域である北方よりも呉の影響が強いということ。四つ目は、三角縁神獣鏡の一種で、神
像を仏像に置き換えた三角縁仏神鏡の系譜は、仏像を刻んだ異物が全く発見されない魏の
領域ではなく、仏像を配したものが出土する呉の領域に源があること。五つ目は、三角縁
神獣鏡の銘文中にある「海東」は、この場合日本をさし、この鏡銘は、工人が海を渡って
やってきた証拠であるということ。六つ目は、鏡師が遠隔地に亡命したと思われる銘があ
ること。七つ目は、三角縁神獣鏡にしばしば見える笠松形は、祖形を中国鏡に求めうるが、
これほど変形したものは中国鏡にはなく、中国で彫刻されたとは思えないということであ
る。18
それでは最後に、国産鏡説に対する反論をみていこう。まず、中国で三角縁神獣鏡が発
掘されないことに関して、魏朝の薄葬が原因ではないかと考えられる。有力者もほとんど
副葬品を伴わずに埋められた。また、魏の墓はそのためにほとんど発掘されていない。し
たがって、今後中国で三角縁神獣鏡が見つかる可能性も否定はできない。また、
「海東」は
必ずしも日本であるとは断定できないし、亡命説も誤読の可能性がある。呉の鏡の系譜を
示すとした三角縁仏神鏡も、現在の資料からすると、むしろ北方の仏像と関連するらしい
ことなど、呉工渡来説も決して万全とはいえない。19
第4章 終わりに
邪馬台国は、同時代の資料が比較的少ない時代であり、しかもそのそれぞれが確実なもの
ではなく、解釈のしようによっては熱い討論が生まれる。そうすぐには答えを導くことが
できず、どちらも納得できるものや懐疑的なものがあるため、現段階ではどちらが正しい
かはわからない。しかし、このように、なかなか答えが出ない問題に全力で取り組むこと
も、学問の楽しさの一つではないかと私は思う。
参考文献
石野博信『邪馬台国の考古学』
(吉川弘文館,2001 年)
佐伯有清『邪馬台国論争』
(岩波書店,2006 年)
平野邦雄『古代を考える 邪馬台国』
(吉川弘文館,1998 年)
三木太郎『魏志倭人伝の世界』
(吉川弘文館,1979 年)
山本博文『歴史をつかむ技法』
(新潮社,2013 年)
18
19
平野(1998)pp.150-152
平野(1998)pp.154-155,179
6
国語Ⅲ ブックレビュー
ブックレビュー「本能寺の変の真相について」
人文学類 1 年 鈴木景祐
1. はじめに
本能寺の変と聞いたら大半の人は明智光秀が主君の織田信長を弑逆した事件とすぐ
に思い浮かべることができるのではないだろうか。しかし、その原因はいまだに解明さ
れていない。そのため様々な説が唱えられており、
「百家争鳴の観を呈している」
(藤田
達生 2010:1)と表現さるほどだが、どの説も根拠が弱い、辻褄が合わないなどの理由
でいまだ正解とされるような説は確立されていない。このブックレビューでは、明智光
秀の子孫である明智憲三郎著の『本能寺の変 431 年目の真実』及び、藤田達生著『証
言 本能寺の変 ―史料で読む戦国史―』を主に取り上げ、変の原因や背景について考え
る。
2. 本能寺の変前後の概要
天正 10 年(1582)、中国地方において毛利輝元と対戦中だった羽柴秀吉(のちの豊臣
秀吉)から救援要請を受けた織田信長は、家臣の明智光秀に出陣を命じ、自身も軍勢を
率いて出征することを決めた。そのために安土より上洛し、京都の本能寺に宿泊した 6
月 2 日未明、突如として中国方面に向けて出陣したはずの明智光秀の軍勢に囲まれ、自
害した。信長の嫡男の信忠も上洛中で二条御所に立てこもり奮戦したが、衆寡敵せずに
自害した。こうして天下を手にした光秀だったが、6 月 13 日中国地方より大返しをし
てきた秀吉軍に山崎の戦において敗れ、敗走する途中に山城国小栗栖で落ち武者狩りに
遭い落命した。
3. 明智(2013)の解釈
3.1. 歴史捜査とは
明智(2013)は本能寺の変を調べるにあたって、他の歴史学者とは異なる独特な調査の
スタイルをとっている。
私は信憑性のある当時の史料から徹底して証拠を洗い直し、根本から本能寺の変
の研究をやり直しました。洗い出された証拠の全ての辻褄の合う真実を復元したと
ころ、ことごとく「定説」とは異なる答が出ました。その答に私自身も驚きました。
そこで、私の採用した証拠と推理を全て見直して誤りのないことを確認し、さらに、
別の答の可能性がないかを様々な観点で検証して、ようやく納得できたのです。私
は自分のこのやり方を「歴史捜査」と名付けました。一般的な歴史研究とは明らか
1
に次元が異なるからです。
(明智 2013:11)
このように、従来の研究結果に囚われず様々な証拠から蓋然性の高い事実を復元する
「歴史捜査」は、従来の「定説」とは全く異なる結論を導き出しており、事実への新た
な側面からのアプローチとして非常に有用であると言える。
3.2. 明智(2013)による本能寺の変の真相
明智(2013)によると、本能寺の変の原因は信長の革新的な改革にあった。光秀は信長
の天下統一、そしてその先を見据えた改革に恐れや不安を感じ謀反を決意したのだとい
う。その具体的な内容として三つのことが挙げられている。一つ目は、四国の長宗我部
氏に対する織田家内での処遇である。光秀は縁戚関係もある長宗我部氏の織田家内での
取次役として長年両家の良好な関係を築くことに腐心してきたが、織田家の勢力拡大に
伴う方針転換の影響で長宗我部氏との敵対関係に入ってしまった。長宗我部氏を自勢力
の後ろ盾にしようと目論んでいた光秀にとって、
「長宗我部氏の滅亡は片腕をもがれる
ほどに辛いことだった」
(明智 2013:124)とも言われるほどの事態であった。二つ目
は、天下統一に向けて信長が地方へ重臣を転封していったことであった。当時、北陸は
柴田勝家、中国は羽柴秀吉、武田家を滅ぼしたばかりの信濃には森長可、上野には滝川
一益というように家中の重臣たちは軒並み転封を受けており、畿内に大きな勢力を思っ
ている光秀もその対象にならないはずがなかった。三つ目は、信長の唐入り思想である。
明智(2013)は、信長は日本を天下統一後、中国大陸へと侵略する「唐入り」の発想を持
っていたという。後年、秀吉が朝鮮出兵を行ったのも信長に影響を受けたからだという。
一族の繁栄と安寧を願っていた光秀にとっては「唐入り」は無用の戦乱に思えたのだっ
た。これらの要因により光秀は信長への謀反を決めたのだった。
そんなおり、信長は家康とその重臣を本能寺に呼び寄せ、隙を突いて光秀の軍勢に襲
わせて討ち取る。そして首脳陣を失って組織的反抗ができなくなった徳川領を占領する、
という計画を立てていた。それを信長よりひそかに伝えられた光秀は、この計画を逆手
に取り本能寺の変が引き起こされた。光秀は、信長の改革によって一族である土岐明智
家が衰退し、いずれは取り潰されることを憂いたというのである。そこで光秀は家康と
逆に手を組みことを進めようとしたが、光秀の縁戚である細川藤孝が裏切って秀吉の味
方をし、秀吉は本能寺の変に乗じて天下を取ったのである。そして光秀の滅亡後、彼に
すべての責任を負わせたのである。
4. 藤田(2010)の解釈
藤田(2010)は本能寺の変の要因について、「秀吉との派閥抗争に敗れ左遷の危機に直
面した光秀が、旧主義昭を奉じて反信長派の戦国大名たちと連携して起こした政変」
(藤
田 2010:311)としており、室町幕府再興をかけた一種の反革命とも述べている。こ
2
こにおける旧主義昭とは、天正元年(1573)に京都から信長によって追放された室町幕府
第 15 代将軍足利義昭のことである。藤田(2010)によると、信長は中世からの伝統的な
領地観を打破し、実力主義の常識化を目指して家柄や格式に囚われない家臣編成を行っ
ていた。そのため、家臣間での出世争いや派閥間抗争が勃発しており、盤石とみられる
織田政権は脆弱な一面を抱えていた。実際に一度は織田家の傘下に入っていた松永久秀
や別所長治、荒木村重らは足利義昭を推戴する反信長勢力と呼応して挙兵している。そ
の原因としてあげられるのは激化した政権内での生き残りをかけた重臣間抗争であり、
「敗退した勢力が義昭と彼を推戴する信長包囲網と連携するという連鎖を断ち切れな
かった」(藤田 2010:21)のだという。光秀も、四国における三好氏と長宗我部氏の
織田政権内での処遇に関して、秀吉との権力闘争に敗れたことによって家中での地位の
低下、そして左遷という危機的状況に瀕した結果、義昭を奉じて挙兵に至ったと考察し
ている。その際、証拠として挙げているのが当時の変直後に書かれた書状の中の表現で
ある。例えば、変直後の 6 月 3 日に光秀の使者からの口上について上杉家家臣が言及し
た手紙を見ると、
一昨日(六月一日)に、須田満親の奉公人が、私(越後春日山城の河隅忠清)の
もとに遣わされました。その者が才覚を廻らせて言うには、「光秀方の使者が魚津
まで派遣され、
『上杉家が(我が陣営に対して)最大限のご奔走を申し上げるべき
である』とのことである」と私は承りました。(藤田 2010:172)
この文章中の「ご奔走申し上げる」の対象は光秀にはなりえない。その理由として、
「関
東管領上杉家の当主景勝と織田家重臣の光秀とでは格がかけ離れており、窮地に陥って
るとはいえ、上杉家が謀反人に協力する正当な謂れはない」
(藤田 2010:174)と述べ
られている。しかし、この敬語の対象を義昭とすると上杉家が奉公するということにも
辻褄が合い、義昭を奉じて信長を討ったという光秀の行動にも対外的な正当性が生まれ
るのである。
5. まとめ
両説に共通しているのは、光秀の立場や一族が危機に立たされて謀反を決意したとい
うことである。
「一族の生存と繁栄に責任を負った武将がこのような次元(個人的な感
情論)で謀反を決断するはずがない」
(明智 2013:51)ともあるように、光秀が一族
のためにやむを得ず謀反を起こしたという認識は正しいようである。
そのような謀反に踏み切るには必要条件が二つある。一つ目は謀反を起こさずに
いれば一族が滅亡してしまう危機認識があることだ。その認識がなければ、一族が滅
亡するリスクを負った謀反など行わないからだ。二つ目は謀反を成功させる目算が立
3
つことだ。謀反が成功しなければ、謀反を起こす意味が全くないからである。
(明智
2013:52)
明智(2013)の条件は藤田(2010)の説の中でも当てはまっている。
明智家があってこそ、
室町将軍である義昭を推戴できるのである。
反対に、両説で大きく異なるのは本能寺の変を起こした際に光秀が誰と共犯関係にあ
ったかということである。明智(2013)によると光秀と家康が手を組んで本能寺の変の構
想を立てて変を起こしたところ、事前に情報の横流しを受けていた秀吉により利用され
て滅亡に追い込まれたのであり、藤田(2010)は信長によって追い込まれた光秀が義昭と
彼を奉じる反信長勢力と手を組み挙兵に至ったとしている。明智(2013)の説で主な根拠
となっている信長の家康討ちや唐入りというのは蓋然性の高い史料から導き出した結
果とはいえ、どうしてもそこに推測が入ってしまう分、根拠は弱いと言わざるを得ない
点もある。また、藤田(2010)が言及しているように、嘉吉の乱や永禄の変で将軍を弑し
た人々も、その対抗馬として推戴する対象を掲げているのであり、そう考えると藤田
(2010)の説が理に適うと言える。しかし、藤田(2010)の説では秀吉や家康は変に関与し
ていないとされており、変後の両者の取った行動を見るにそれはあり得ないのではない
かと思う。諸説あるが、秀吉が変後に備中高松から京までを驚異的なスピードで手際よ
く移動できたことは事前にその情報を知り準備していたためではないかと疑わしい。ま
た、明智(2013)が言及しているように、山崎の戦いが終わったという連絡が秀吉よりも
たらされてなお西進しようとした不可解な家康の行動も光秀の残党を回収して秀吉と
の戦に臨むためとも考えられる。ゆえに、両説共にまだ完全な真実とは言えないのでは
ないだろうか。
現代に広まっている歴史は勝者によって形作られた歴史、つまり秀吉、そして家康に
都合のいいように作り替えられたものにすぎない。彼らにとって都合の悪いことは切り
捨てられてしまい、真実が別のところにあるのは確かなことのように思える。その当時
の状況を実際に見ることができない我々は、遺されたものから窺い知ることしかできな
いのである。それこそが歴史を研究することへの面白さなのではないかと私は思う。今
後の研究に期待したい。
参考文献
明智憲三郎 『本能寺の変 431 年目の真実』 文芸社 2013
藤田達生 『本能寺の変と群像 ―中世と近世の相剋』 雄山閣 2001
藤田達生 『証言 本能寺の変 ―史料で読む戦国史―』 八木書店 2010
4
国語Ⅲ
人文学類1年
岩本郁人
ブックレビュー:古代東地中海世界におけるウガリトの交易
1.はじめに
古代オリエントにおいて商業の発達は、文字の発達や都市・国家の成立を促し、広範な
地域間の文化交流を可能にするなど極めて大きな意味を持つ出来事である。中でも前 2 千
年紀以降の商業の中心となった東地中海では、従来対極的な存在と見られがちなオリエン
トとギリシアの間でも盛んな交易が行われ、人とモノの活発な移動が見られた。このよう
な東地中海の交易の中心地の 1 つとしてあげられるのが交易都市ウガリト1である。
本稿では、ウガリトの交易について交易品や交易対象の地域を中心に先行研究を取り上
げ考察することを通して、古代東地中海世界の交易の様相の一端を明らかにしたい。
2.1 H.クレンゲル(1983)の見解
H.クレンゲル(1983)は、前 2 千年紀初期の古代オリエントにおいて東地中海がペルシア
湾沿岸に代わる交易の中心地になったと述べ、その中で北シリア沿岸・キュプロス2・クレ
タの港市が交易の中心として繁栄したと主張する。その中でウガリトは商業の中心地とし
て青銅器時代後期に繁栄したとされる。クレンゲル(1983)は、
「ウガリトは一面では確かに
商品流通の仲介者だったが、それだけにとどまらず、発掘品や文書が明示しているように、
自身の生産物をも引っさげて商業に乗り込んでいった。
」(クレンゲル 1983:192)と述べる。
当時の文書からはウガリトは肥沃で降水量豊かな地域にあったため農業が発展し、穀物、
ワイン、油(オリーブ油)などの生産物を輸出したこと、また織物や金属加工などの手工
業が発達し、かつ金属貿易も盛んであったことがわかるという。そしてその交易相手とし
てはキュプロスやクレタ、ヒッタイト、エジプトなどの名が文書で挙げられている。また
ウガリトの交易相手は内陸にも及んだが、商業の重点は海上貿易におかれ、特にキュプロ
スやエーゲ海地方(最初はクレタ、やがてミュケナイ3)が重視されたとされる。一方でエ
ジプトとの交易も重視されたが、直接交易はほとんど行われず、ウガリトの交易の比重は
圧倒的にエーゲ海地域に置かれていたという。
2.2 P.C.クレイギー(1990)の見解
P.C.クレイギー(1990)は、ウガリトの発展の背景について以下のように述べる。
ウガリトは地中海沿岸に位置していることによって地中海の海路へ至る道となっ
たが、同時にそれらの海路から内陸に至るための入り口ともなった。この地理的な
シリア沿岸部にあった交易都市。後期青銅器時代(前 1500-1200)に繁栄するが、前 12
世紀に滅亡した。
2 東地中海にある島。現在のキプロス共和国にあたる。
3 ミケーネともいう。
ペロポネソス半島のミュケナイ市および同市を中心とする都市国家群
からなる文明を指す。
1
1
国語Ⅲ
人文学類1年
岩本郁人
事実は、当時の二大帝国であったエジプトとヒッタイト帝国の間にウガリトが位置
していたという事実と共に、東地中海域における貿易を支配する理想的な機会をこ
の国に与えた。ウガリトはその黄金時代にこの機会をとらえ十分に活用したのであ
る。(クレイギー 1990:65-66)
つまりウガリトはヒッタイト・エジプト間の緩衝国として両国の貿易を仲介できる立場
にあったのである。クレイギー(1990)は,ウガリトの国内経済の基盤は農業と手工業である
とする一方、貿易、特に陸路以上に海路による貿易がウガリトに繁栄をもたらしたと主張
する。ウガリトの交易は金属や穀物、手工業製品の輸出入であり、交易による租税や関税
の獲得もウガリトの繁栄につながったと述べられている。特にエジプトの金とヒッタイト
の銀を仲介する金属貿易がウガリトに大きな利益をもたらしたという。交易品はその他に
も地元産の織物、油、ワインが各地に輸出され、また商用のための船の購入や貸し借りも
行われたとされる。
2.3 山川廣司(1995)の見解
山川廣司(1995)は、古代ギリシア史研究者の立場から古代東地中海世界の交易について
検討を行っている。まずウガリトについて、当初クレタとの海上交易で商業上の地位を獲
得し、次第にクレタに代わって台頭したミュケナイと前 12 世紀に双方が滅亡するまで交易
活動を展開したと述べる。ウガリトの交易品はオリーブ油や穀物、織物などであり、キュ
プロスやクレタ、ハッティ(ヒッタイト)、及びシリア沿岸の交易都市などに輸出された。
また金属加工と金属貿易も盛んであり、キュプロスからの銅と各地からの錫による青銅加
工工業などがおこなわれた。このようにウガリトは商品流通の仲介者である一方、自らも
生産品をもって商業活動を行ったという。山川(1995)はウガリトの特に重要な交易相手
としてキュプロスとエーゲ海地方(最初はクレタ、やがてミュケナイ)
、そしてエジプトを
挙げ、
「このように海上交易に重点を置いたウガリト商業にとってミュケナイとの交易活動
は当然重要な位置を占めていたであろう。」
(山川 1995:46)と述べる。
さらにギリシア側からの動きについて山川(1995)は、A.アルトマンの論を紹介する。
アルトマンによると、当時のエーゲ商人はウガリトの港でメソポタミア、シリア、ハッテ
ィ、カナーン4、エジプトからの商業代理人に会うことができたため、危険を冒してまでエ
ジプトやカナーン沿岸の都市まで航海する必要がなかった、という。そして山川(1995)
は、ミュケナイ諸王国内での経済活動は未発達であったが、王宮を中心とする余剰生産物
の輸出と王宮が必要とした原材料や香辛料、奢侈品の輸入のため対外貿易が行われ、その
ためにオリエント地域にミュケナイ人が進出したと推測する。
4
地中海とヨルダン川・死海で挟まれた地域一帯の古代名。
2
国語Ⅲ
人文学類1年
岩本郁人
3.まとめ
以上の 3 つの論考からウガリトの交易について考察する。まず 3 つの論考は、いずれも
ウガリトが海上交易に重点をおいたとする点で共通している。しかし、ウガリトの主要な
交易相手として、クレンゲル(1983)と山川(1995)がクレタやミュケナイなどのエーゲ
海地域やキュプロスを挙げるのに対し、クレイギー(1990)はヒッタイトやエジプトとい
ったオリエント諸国を挙げている。クレイギー(1990)は、他の 2 氏と対照的にギリシア
とウガリトの関係性についてほとんど触れておらず、むしろオリエントとの関係性を重視
しているのである。またウガリトの交易について、ウガリトの農業生産や手工業を重視す
るクレンゲル(1983)やキュプロスからの銅と各地の錫による青銅加工工業について触れ
る山川(1995)はウガリトが商品流通の仲介者である一方、自らの生産物によって商業活
動を行った点を強調する。これに対し、クレイギー(1990)は農業と手工業を国内経済の
基盤として捉え、むしろ租税や関税の獲得やヒッタイト‐エジプト間の金属貿易の仲介な
ど、ウガリトの商業の商品流通の仲介者としての側面を重視している。加えて、山川(1995)
は他の 2 氏がオリエント(ウガリト)側から論考を行ったのに対しギリシア側からの論考
を行い、ミュケナイ商人が王宮を中心とした交易のためウガリトなどオリエント地域に進
出したと論じる。
交易品については、穀物や油、織物、金属が扱われたとする点で 3 氏は共通している。
このほかにクレンゲル(1983)はワインと金属加工、クレイギー(1990)はワインと船、
山川(1995)は金属加工を挙げており、多少の差異はあるものの 3 氏の交易品についての
見方はおよそ共通していると考えられる。
以上のように 3 氏とも主な交易相手や交易活動の在り方について意見の差異が見られる
ものの、ウガリトが海上交易に重点を置いたことや、その主な交易品などについては共通
の見解を持っているといえる。特に山川(1995)のようにウガリト以外の地域の研究者の
論考から新たな観点を見出すこともできるだろう。
4.参考文献
Horst Klengel, Handel und Händler im alten Orient, Koehler und Amelang, 1979
(ホルスト・クレンゲル(1983)
『古代オリエント商人の世界』江上浪夫・五味亨訳、山川
出版社)
Ugarit and the Old Testment, Peter C.Craigie Wm.B.Eerdmans Publishing Company,
1983
(P.C.クレイギー(1990)
『ウガリトと旧約聖書』津村俊夫監訳、小板橋又久・池田潤訳、
教文館)
山川廣司(1995)
「ミュケナイ・ギリシア期東地中海世界の交易について」
『釧路論集』第
27 号、pp.43-55
3
国語Ⅲ
人文学類1年
岩本郁人
図 前 2000 年紀の東地中海世界(クレンゲル 1983:190)
4
国語 III
ブックレビュー
自動車文化における「走り」のあり方
人文学類 神尾悠介
1. はじめに
今日まで、日本において自動車文化が学術的に研究された例は、他の文化研究の領域と
比較すると少なかった。そもそも「自動車文化」という言葉自体、自動車に関わる人々の
営みを総括するため便宜的に使用されることが多く、文化自体の十分な考察がなされて
いるとは言い難い。このように頼りない「自動車文化」の現状であるが、漫画やゲームと
いった場や、企業の広告での「車」と「クルマ」の使い分けを見れば、自動車が文化的な
要素を持つことは自明である。よって、本ブックレビューでは、それらに片鱗を見せる自
動車文化の形質の中でも、最も基本となる要素である「走り」について、それが現れる2
つの場面、即ち暴走族とモータースポーツの研究に関するレビューを行いたい。
2. 暴走族研究の比較
暴走族は、存在する国や地域によってその様相が異なるため一意に定義することは
難しい。しかし共通しているのは自動車(二輪車・四輪車)による危険な暴走を行う集
団であるということである。吉沢幸夫は、この暴走族発生の原因について、青少年の心
理状況と結びつけながら、以下のように説明している。
(反抗期を)調和を保ちながら乗り越えなければ、青年期特有の病態が現れることに
なる。不満や怒りがそのまま外に向かえば暴力、非行になり、内に向かえば神経症ひ
いては自殺となる。また不適応感のある者は自己と一体になる集団として、地元の不
良集団や暴走族集団を同一視して選び、反社会的集団に属することで不満を解消さ
せようとしがちである。
(中略)そして仲間と暴走行為をおこなうことによって、劣
等感を補い、自己拡大感、万能感を得て、自信をつけようと試みている。車は自己の
非力さに代わる強力な武器になり、自分の思い通りに走ってくれる頼もしい、いわば
恋人なのである。また運転技術にはそれなりの自負をもち、あえて危険な運転をして
も平気だと装い、仲間からの賞賛を受けて満足し、スピードの快感に酔って、日常生
活における不安や劣等感を吹き飛ばそうとするのである。[吉沢 1989: 37]
1
吉沢の説明によると、暴走行為は手段であって目的ではない。暴走行為はそれ自体で満
足し完結するものではなく、外部に対して抱いている不満や不安を解消するために行う
ものとされている。しかし、暴走行為が外部に対する目的を達するための手段となりうる
理由に対しては十分な考察がなされていない。それについては「スピードの快感」という
一人称な表現によって言及がなされているだけである。
これに対して、吉沢のような局外からの言及によって済まされてしまうことの多かっ
た暴走族に対する語りに、文化人類学の手法である「参与観察法」を用いて一石を投じた
のが佐藤郁哉である。佐藤は暴走族に対して局外者の立場から言及するのではなく、フィ
ールドワークを通して活動の実情や構成員の語りを受け取り、暴走族が持つ文化を「翻訳」
という形で民族誌としてまとめあげた。
佐藤は著書の中で、暴走族が暴走行為に求めるものについて以下のように述べている。
暴走のフロー状態[1]の最中は、通常の時間感覚でいう「時間」の痕跡は喪われてしま
う。暴走という特殊な世界においては、通常の「時」は動きをとめ、まったく異質の
時間が進行するのである。<アッという間に、時間が過ぎてしまった>と、終わって
しまった暴走を振り返った時に感じるのは、暴走の最中に特有の感覚でしか計れな
いその特殊な時間を、日常の時間感覚や、時間に関する記憶が捉えることができない
からである。日常の時間感覚で思い返すときには、暴走の間の時間は、どこか異次元
の世界、あるいは夢の世界に紛れ込んでしまった空白の時間としてしかとらえるこ
とができない。明確に記憶に残っているのは、暴走開始直前までの時間なのである。
(中略)暴走は、他の多くの「遊び」や「ゲーム」と同じように、その活動のプロセ
スそれ自体に楽しさがある。この点で、気がすすまぬながらもやっている勉強や仕事
のように、それを手段として何か他の(例えば成績・評価あるいは給与)
、その活動
自体の中には含まれていない報酬(=外発的報酬)を手に入れようとする活動とは基
本的に大きな違いがある。[佐藤 1984: 56-57]
佐藤は暴走族構成員の語りの分析を、チクセントミハイが提唱したフロー経験の見地
を引用して行っている。その帰結として、暴走行為はそれ自体に目的のある内発的報酬活
動であると結論づけている。つまり佐藤によれば、暴走行為はそれ自体が一種の「遊び」
としての楽しさを持った活動であり、本質的にはそこに外部報酬が存在するものではな
いのである。
2
3. 暴走族とモータースポーツの比較
2 において取り上げた、佐藤による暴走族の参与観察において、暴走行為が内発的報酬
に基づく側面があることを示した。過程そのものが目的となるというこの暴走行為の遊
びの一面に注目した時、それに類似した営みが想起される。それはモータースポーツであ
る。遠藤龍馬は、暴走族とモータースポーツの営みを客観的に区分することができないこ
とについて、以下のように述べている。
往来でテニスをプレーする迷惑者に、人は何と注意するだろうか。おそらく、
「こん
なところでテニスをするな」と注意するはずだ。いいかえれば、いつどこでそれをし
ようと、テニスはテニスであって他のなにものでもない。同じことが、サッカー・野
球をはじめとする大半のスポーツに妥当するだろう。だがジムカーナ–一~二速の低
速ギヤを用いる関係上、使用する速度域そのものは一般道と同程度である–の練習を、
広い空き地や駐車場で行う者の場合はどうか。もちろん、安全は十分に確保されてい
るとしよう。不適切な場所で練習するドライバーに対して、人は果たして「こんなと
ころでジムカーナ(MS、練習、等々)をするな」と注意するだろうか。答えはおそ
らく否である。エンジンを目一杯に回し、ブレーキングやターンではタイヤを激しく
鳴らし、ときには故意に滑らしさえするその運転の視覚的・聴覚的印象は、良識人を
して次のように語らせるに違いない。
「こんなところで暴走するな」
、と。[遠藤 1998:
64]
遠藤が指摘した事柄は、
「走り」を実践する人間と周囲の人間との間に、行為に対する
認識のズレがあることを導出する。加えてここで述べられている、暴走行為とモータース
ポーツのカテゴリー分けが困難なことを念頭に置くと、暴走行為を行う者の中にも、それ
を暴走行為と思うかモータースポーツと思うかという、2つの異なる性質が存在してい
る可能性が明らかになる。
4. まとめ
以上3点の先行研究のレビューから、今回取り上げた2つの視角、即ち暴走族とモータ
ースポーツの境界性が曖昧であることが明らかとなった。つまり、自動車を走らせるとい
う行為には、少なくとも自己目的的な性格がある。そしてその表出としての2つの形であ
る暴走行為とモータースポーツには、行為という点において明瞭な区分をつけることは
3
難しい。しかし、場という基準においては両者には明確な差が存在する。一方の暴走行為
については、現行の道路交通法において「共同危険行為」として処罰の対象となる違法行
為であることは揺るがない。他方モータースポーツについては、サーキットや定められた
手順で占有許可を得て封鎖された公道で行なわれる「スポーツ」としての地位を確立して
いる。行為の曖昧さと、場による明確な差分を行き来する「走り」という行為については、
ブルーノ・ラトゥールが提唱するアクターネットワーク論を参考に研究することができ
ると私は考えている。
「自動車で走る」行為は、人間や機械としての車、歩行者や近隣住
民といった人・モノの関係によって形作られる行為であり、同時に場でもある。この関係
のネットワークを分析することが、日本の自動車文化のあり方、つまり日本人の車との付
き合い方を知るとともに、その使い手たる人間自身について知ることにつながるだろう。
註
[1]心理学者ミハイ・チクセントミハイによって提唱された、人間が何かに熱中している
ときの特異な精神状態を指す概念。佐藤によると、チクセントミハイは次の6点をフロ
ー状態の特質として取り上げている。即ち、行為と意識の融合、限定された刺激領域へ
の注意集中、自我の喪失、コントロールの感覚、明瞭で明確なフィードバック、自己目
的的性格の6点である[佐藤 1984: 42] 。
参考文献
遠藤龍馬 1998 「「走り屋」の社会学—モータースポーツにおける「草の根」の考察—」
『年報人間科学』19 大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室: 53-70
佐藤郁哉 1984 『暴走族のエスノグラフィー モードの叛乱と文化の呪縛』新曜社
吉沢幸夫 1989 「暴走族発生の要因—背景と歴史」
『メンタルヘルス・シリーズ
屋久孝夫(編): 1-34
4
暴走族』
国語Ⅲ
ソ連崩壊後の中央アジアにおけるロシア語の言語事情について
人文学類 1 年
倉持明愛
1.
はじめに
ソ連時代、連邦を構成する各国の第一外国語はロシア語であった。これはソヴィエト政
府が連邦公用語をロシア語に定めるなど、政治権力によってロシア化1・ロシア語化をすす
めた結果である。しかし、ソ連崩壊(1991)後、この言語事情は大きく変わりつつある。
体制転換により、連邦構成諸国が独立したことで、ロシア語離れが進んでいる。現在のロ
シア語は、教育の場では単なる選択外国語の一つに成り下がっており、国際的地位が下が
りつつある。本稿では主に中央アジア2における現在のロシア語事情について、教育・国際
性・現地のそれぞれの視点からみた各研究者の見解を比較検討する。
2.
藤﨑の見解
藤﨑は主に教育の視点から、現在のロシア語の言語状況を説明している。藤﨑によると、
ウクライナなどの諸国では 1995 年以降、ロシア語を教育言語とする学校が増えているが、
中央アジアでは教育言語に個々の民族語を選択し、
「ロシア語を教育用言語に選ぶ比率は減
少の傾向にある」
(2003:49)と述べている。これには、新生ロシア政府が教育用言語を自
由に選ぶ権利を各国に与えたため、またそれによって中央アジア各国内のロシア系住民が
減ったため3、経済の発展や国際交流の拡大に伴い英語の実用性・重要性が高まったため、
などの理由があげられる。
中央アジアの中でもロシア語を教育用言語とする動きには違いが見られる。ウズベキス
タンは民族語(ウズベク語、またはウズベック語)を選択する比率が 85%前後と、他の 4
ヶ国の 50%程度の比率に比べるとロシア・ロシア語離れが顕著である4。
また、ロシア語の今後の優位性について、藤﨑は次のように述べている。
ロシア連邦では就職や教育の可能性を考慮すれば、全国的にロシア語と互角に競争で
1
「ロシア化」とは、非ロシア系住民に対し、ロシア語を教育用言語に強制的に定める、政
治的・文化的にロシアと同化させる、ロシア正教を布教するなどの行為を示す。
2 ここでいう中央アジアは、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ト
ルクメニスタンの 5 共和国をさす。
3 これは、
新生諸国家においてすでに基幹民族語が第一言語に定められていることが多いた
め。基幹民族語を習得していないロシア系住民にとっては、市民権の取得や就労の可否な
ど、生存権が脅かされているといっても過言ではない。このことについては『世界のロシ
ア語 2003』
(2006:4)に詳しい。
4МЕЖГО СДАРСТВЕНЫЙ СТАТИСТИЧЕСКИЙ КОМИТЕТ СОДРУЖЕСТВА
НЕЗАВИСИМЫХ ГОСУДАРСТВ(2002)による。
1
きる言語は存在せず、今後もロシア語の優位性は保たれるだろう。他の旧ソ連邦諸国
では現在の言語事情に何らかの特別な変化が生じなければ、ロシア語が二次的言語に
なる可能性があると言えなくもない。現在では、中央アジア諸国中カザフスタンとキ
ルギスタンではロシア語が公用語化され、タジキスタンとトルクメニスタンではロシ
ア語は諸民族間のコミュニケーション手段の言語として位置づけられている。
(藤﨑 2003:50)
このように、藤﨑は中央アジア(及びその他旧ソ連邦諸国)において、ロシア語は現在の
比較的優位な地位が持続するとは限らないとしている。グローバル次元に組み込まれてい
く中央アジアにおいて、ロシア語の優位は消失する可能性も否定できない。
3.
臼山の見解
臼山は、主にロシア語の国際性、及び「ルソフォニー russophonie(ロシア語圏)」5につ
いて述べている。中央アジア諸国では、程度の差こそあれ「ロシア離れ」、
「ロシア語離れ」
という脱ロシア化が進んでいる。特にも、政治的、外交的な独立を確かにするために、基
幹民族語の国家語化が早急に進んでいる。この影響によって、ソ連時代とは大きく民族・
言語構成が変わり、思想的基盤(宗教面)を根本的に変えた。
現在の中央アジアの言語現状について、臼山は次のように述べている。
脱ソヴィエト化、脱ロシア化現象の中で一時的に冷遇されていたロシア語は、現在、
ロシア連邦との経済的・政治的・外交的・文化的・学術関係の実用的価値が再認識さ
れ、再びかつての輝きを取り戻し始めている。こうしたロシア語の再評価と併せて、
社会のグローカル6な秩序への積極的な関与という視点から①国家語(基幹民族語)
、②
ロシア語、③英語の 3 言語中心の言語教育を志向する新しい言語教育観、すなわち、
言語教育におけるグローカルパラダイムシフトの流れが確実に形成されている。
(臼山 2014:27)
このように、中央アジアではロシア語はその優位性を取り戻しつつあり、グローバル化も
あい合わせて 3 言語中心の新たな教育方針が進んでいる。
また、
「ルソフォニー(ロシア語圏)
」の存在について、臼山は次のように述べる。
歯止めのかからないロシア系住民の人口流出により、残されたロシア系住民の社会に
おける民族的孤立化、ディアスポラ化7が進んでいる。その結果、ソ連時代のような活
フランス母語話者 francophone から成る言語共同体を意味する「フランコフォニー
francophonie(フランス語圏)
」をヒントに臼山自身が造語した用語。ロシア語話者
russophone から構成される言語共同体を示している(臼山 2014:23)。
6 ローカル
(地域的)な秩序とグローバル(世界的)な秩序の共存状態のこと(臼山 2014:27
脚注参照)
。
7 ディアスポラとは、ギリシャ語で「撒き散らされた者」の意。元の国家や民族の居住地を
5
2
力ある言語生活空間の「ルソフォニー」はすでにかつてのような形では存在せず、弱
化・縮小の一途を辿っている。ロシア連邦との社会的・経済的な結びつき次第では、
今後半世紀のうちに良質なバイリンガル空間としての「ルソフォニー」が消失する可
能性すら否定できない。とはいえ、中央アジアにおけるロシア語の社会的重要性は非
常に大きく簡単に揺らぐものではない。中央アジアはもとより、独立国家共同体(CIS)
全体における「ルソフォニー」の存在価値は、経済的、政治的、外交的、文化・学術
的、地理的にも自明である。まさに「ルソフォニー」の存在そのものがロシア語の国
際性であり、国際コミュニケーション語としての可能性なのである。
(臼山 2014:28-29)
このように、臼山は現在の中央アジアの状況から考えると「ルソフォニー(ロシア語圏)
」
の存在は不可欠である。コミュニケーション語として話される英語よりも、非英語圏世界
のユーラシア地域をつなぐ言語として必要なものだ。
4.
エルタザロフの見解
エルタザロフ8は主に中央アジアの現状を現地に住む者として見解を述べている。エルタ
ザロフは、
「民族文化と言語に関する対立こそ、政治と社会の争いを引き起こす要因」
(2010:
序章ⅲ)であるとし、度々勃発する内戦や民族抗争を少なくするためには、文化と言語の
理解が不可欠だとしている。
中央アジアはソ連以後独立したものの、いわゆる代表的民族の国民のほかにも様々な国
民や民族が暮らしている。これらの民族は、それぞれ独特の文化、伝統を有しているため、
民族の統一、発展は、中央アジアの国々には必要なことだ。
エルタザロフは中央アジア地域において、ソ連時代のロシア化の事態を再び起こさない
こと、また諸言語、文化、そして伝統の存続と発展のために、以下の4つの条件と方向性
を提示している。
i.
中央アジア諸国では歴史的に、最近の過去における政治的・地政学的プロセ
スと関係する、また新しい独立国家の形成された時代に特有であった民族間
関係における非敵対的、また解決策の見出せる複雑性が存在する。国家間の
外交政策で、また内政でこのような状況に必ず注意を向ける必要がある。
ii.
この複雑性を、悲劇的な結果をもたらすような、また地域的平和と安全に対
する破壊をもたらすような紛争に至らせるような可能性を与えてはならない。
iii.
中央アジア地域におけるそれぞれの国家の民族的政治で構成員となっている
全ての民族グループは、言語、文化の価値と要求に注意を向ける必要がある。
離れて暮らす民族集団、国民、あるいはコミュニティをさす。
8サマルカンド大学で教鞭を取っていたことがあり、ソ連崩壊後の中央アジアにおける急激
な社会変化を自ら体験した。
3
中央アジア地域の、またそれぞれの国家における民主主義的思考に、この地
域で生活する国民や民族の運命の共有化、統一、平等、寛大さに基づいて生
活する運命にあるという考えが取り入れられねばならない。
iv.
中央アジアにおける政治的、経済的、文化的、そして知識上の統一は、全て
の民族や部族の利益に適った形で実行され、また中央アジアの全ての人々の
ために、ただひたすら地域的、文化的、言語的、経済・政治的な平穏地域が
形成されるまで継続されなければならない。
(エルタザロフ 2010:267)
このように、中央アジアでは基幹民族語が国家語と定められているが、様々な民族が存
在する以上、マイノリティー民族を同化させるようなことは紛争を招く結果となる。必要
なことは文化の統一を直ちに目指すのではなく、多角的視点から多民族を理解し、文化の
共有を考えていくことである。
5.
比較検討
藤﨑はロシア語と基幹民族語について、中央アジアでは基幹民族語の優位性がみられ、
学校教育では民族語が主に使用されていることに言及していた。ただこれは今 10 年前に調
査した結果であるため、より現在のことについて言及されているのは臼山の論文だ。
臼山は、中央アジアがグローバル化に組み込まれたことにより、英語の必要性も高まっ
てはいることについて言及している。しかし、もとより中央アジアは非英語圏であるため、
ロシア語がグローカル言語になることで、中央アジアにより合った国際化が進むと主張し
ている。
一方、エルタザロフは中央アジアにおいて国家語に定められた基幹民族語に言及してお
り、ソ連時代のロシア化のような民族同化をしてはならないと忠告している。現在も起こ
っている民族抗争を少なくするのに必要なのは他民族に対する寛容さと、伝統や価値観の
同一化を目指す柔軟さである。
6.
おわりに
1990 年代に新しく誕生した中央アジア諸国は、国家としての年月が浅いながらも必然的
にグローバル社会に組み込まれることになった。独立した結果、ロシア語の地位は「ロシ
ア離れ」
、「ロシア語離れ」により一旦低下した。しかし、近年はグローバル化、及びユー
ラシア圏の公用語として見直された面もあり、基幹民族語、ロシア語、英語の 3 言語中心
での学校教育がすすめられており、ロシア語はまだ優位性があると考えられる。
現在もなお民族問題が多い中央アジアにおいて、グローバル社会に組み込ませて英語を
公用語にすることはますます状況を悪化させる可能性がある。現在の状況から考えれば、
基幹民族語とロシア語の共存が最適である。中央アジアのアイデンティティの確立の手助
けとなるロシア語の動向に、これから注目すべきである。
4
参考文献
臼山利信.2014.「民族国家語とロシア語――グローカル化する中央アジアの言語状況」『ロ
シア語学と言語教育Ⅳ』
(堤正典編)神奈川大学ユーラシア研究センター
ジュリボイ・エルタザロフ.2010.『ソヴィエト後の中央アジア――文化、歴史、言語の諸問
題』
(小松格・吉村大樹訳)大阪大学出版会
藤﨑好子.2003.「旧ソ連邦構成諸国の言語事情――ロシア連邦と中央アジア諸国を中心に」
『国際社会文化研究』高知大学人文学部国際社会コミュニケーション学科
МЕЖГО СДАРСТВЕНЫЙ СТАТИСТИЧЕСКИЙ КОМИТЕТ СОДРУЖЕСТВА
НЕЗАВИСИМЫХ ГОСУДАРСТВ.(2002).' НАСЕЛЕНИЕ И УСЛОВИЯ ЖИЗНИ В
СТАРАНАХ СОДРУЖЕСТВА НЕЗАВИСИМЫХ ГОСУДАРСТВ' МОСКВА
2006.『世界のロシア語 2003』
(中澤英彦・臼山利信訳編)ロシア連邦外務省報告書,上巻.
東京外国語大学語学研究所・筑波大学外国語センター
5
国語Ⅲ ブックレビュー
国家神道の定義と成立要因
人文・文化学群
人文学類
清水 郁晶
1. はじめに
国家神道は、明治維新から第二次世界大戦の敗戦までの約80年間にわたり
日本人の精神的支柱として機能した国家制度である。しかしながら、国家神道
は宗教か否か、何を持って成立とみなすかなど、その定義は今もって定まって
いない。だが、靖国問題と共に政教分離がクローズアップされる現代において
国家神道について知ることは欠かすことができないだろう。本報告では先行研
究を3つ取り上げ、比較することによって国家神道の定義と成立要因について
考察を試みたい。
2. 国家神道の定義
村上(2005)は日本の原始社会で成立した民族宗教の要素を受け継ぐ神社神
道と、天皇家の宗教であり国家的公的性格を持つ皇室神道を結合することによ
って国家神道が成立したと考えた。農耕社会であった原始日本の民族宗教の中
心は豊作を願う農耕儀礼だった。神社神道は「仏教、儒教、道教、キリスト教
等と習合して、自己を形成し展開したが、主体をなす神社祭祀そのもの」1は、
「原始宗教以来の共同体の祭祀」2であった。また、天皇が国土に豊穣をもたら
すために農耕儀礼を主宰することが、皇室神道として受け継がれてきた。そし
て、国家神道は地域ごとに信仰されてきた神社神道を天皇家の皇室神道によっ
て統一したものであった。また、村上はその国家神道を「日本の民族宗教の特
徴を、十九世紀後半以来の約八〇年間にわたって、復活し再現した宗教的政治
制度」3であったと捉えた。地域集団の祭祀であった神社神道を皇室神道で統一
することにより、集団が国家規模に拡大されて、中央集権を促す役割を果たし
たのである。
一方、阪本(2005)は神道指令による国家神道の定義4を根拠に村上の論を批
1
村上重良『国家神道』,岩波書店,1970 年,10 頁.
同上.
3 同上,223 頁.
4 該当する記述は以下のものである。
「本指令ノ中ニテ意味スル国家神道ナル用語ハ、日本
政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神道乃至神
社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派
(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル」,(阪本是丸『近代の神社神道』,弘文堂,2005
年,138 頁)。
2
1
国語Ⅲ ブックレビュー
判し、国家神道を「国家の法令によって非宗教的国家祭祀とされた神道」5と捉
えた。さらに皇室神道が国家神道成立のはるか以前からの独立した伝統・由緒
を基盤としており、一般の国民とは直接の関係を持たない皇室独自の祭祀であ
るとした。神社についても、国家は宗教に介入すべきではない説く真宗僧侶の
島地黙雷の主張を受け入れ、政府が神社を非宗教扱いとしたと主張した。それ
ゆえ、村上の国家神道は皇室神道と神社神道とが結合することによって成立し
たという考えを否定している。
また、井上(2006)は国家神道の定義について、次のように述べている。
すなわち、国家(天皇)への国民の一元的な天皇の統治権を正当化する、
国家的イデオロギーとしての本質を持つ「神道」教説(=国体イデオロギ
ーに基づく「復古神道」論)を日本固有の宗教的施設である神社と結び合
わせ、それを媒介とすることによって天皇制ナショナリズムを「日本国民」
の中に注入し、もってその思想的・精神的一元化を推進しようとした、近
代日本に特有な神社と「神道」の理論的・制度的再編成としての国家的宗
教システム6
つまり、政府の統治を正当化するために、古来から日本に存在する神社を利用
して国民の思想・精神に天皇への忠誠を刻み込もうとしたのである。一見する
と、天皇の統治権を正当化する目的があったことや、国家神道を国家的宗教シ
ステムと理解した点は村上の主張と同じようにも見える。だが、国家神道の前
提となる「神道」の捉え方には両者の間に大きな差異があった。村上は日本固
有の民族宗教の要素を受け継ぐ神社神道が国家神道の前提にあったと主張した。
だが、井上は国家神道の前提にある「神道」は「仏教やキリスト教などの諸宗
教と性格や次元を異にする」7ものであり、
「国家・天皇による民衆統治のための
8
政治支配思想」 だとして、民族宗教の要素を引き継いでいることを否定したの
である。村上の定義を用いて言い換えるならば、神社神道の中から神社という
施設のみを取り出し、そこで民族宗教的な祭祀ではなく天皇制イデオロギーを
広めるための祭祀を行わせたということだ。
3. 国家神道の成立要因
5
阪本是丸『近代の神社神道』,弘文堂,2005 年,138 頁.
井上寛司「
「国家神道」論の再検討:近世末・近代における「神道」概念の転換」,『大阪
工業大学紀要. 人文社会篇』51(1),2006 年,41 頁.
7 同上,44 頁.
8 同上.
6
2
国語Ⅲ ブックレビュー
村上は、国家神道が成立する要因として明治 10 年代の祭神論争9を挙げている。
この議論を経て神道が宗教として未成熟であることが明らかになり、
「神社神道
から宗教としての機能を切り捨て」10ることにより、「宗教としての中身を欠い
た形式的な国家宗教」11が誕生したと主張し、次のように述べている。
祭祀と宗教の分離によって、宗教ではないというたてまえの国家神道が、
教派神道、仏教、キリスト教のいわゆる神仏基三教のうえに君臨する国
家神道体制への道が開かれ、世界の資本主義国では類例のない、特異な
国家宗教が誕生した。この国教は、いわば宗教としての中身を欠いた、
形式的な国家宗教であり、国民は、国家によってこの国教を新たにあた
えられ、その信仰を強制されることになった。12
つまり、国家神道は宗教ではないという建前の元に信教の自由を超越して国民
に強制され、天皇、言い換えれば国家への忠誠を要請させたのである。村上の
論では国家神道の成立は神道が宗教として未成熟であるという「想定外の」事
態によって宗教としての中身が「偶然」取り除かれ、国家神道が成立したとい
うことになる。
一方、国家神道が成立した要因について、阪本は真宗教団の対神社観が重要
な意味を持っているのではないかと考察した。
神社は「敬祟」すべき存在ではあっても、決して宗教的存在ではないと
いう理解が一般化すれば、これほど真宗教団にとって好都合なことはな
い。なぜなら、競合する他宗教が少なければ少ないほど、真宗教団の宗
教に占める位置は安泰であり、さらにはより教勢を拡大できる。神社を
非宗教として、その宗教的活動を封じ込めておければ、敵はキリスト教
だけになる。(他の既成仏教教団は無視できる存在である)。13
神社を非宗教化することができれば、真宗教団は信仰を増やす上で大きな競合
者を脱落させたことになる。このような戦略から国家神道を成立させる主体と
なったのは政府ではなく真宗教団であり、政府は真宗教団の巨大な宗教的政治
9
神道政策の中心機関である神道事務所の神宮遥拝所で大国主大神を祭神に加えるように
出雲大社大宮司の千家尊福が主張して繰り広げられた論争。神道界を伊勢派と出雲派に二
分して紛糾したが、最終的に明治天皇の勅裁によって千家の主張は退けられた。
10 村上重良『国家神道』,岩波書店,1970 年,118 頁.
11 同上,119 頁.
12 同上,118-119 頁.
13 同上,142 頁.
3
国語Ⅲ ブックレビュー
圧力を受けて祭祀と宗教を分離したのではないかと主張した。国民への国家神
道の強制についても否定し、当時の人々の「臣民の義務」14についての捉え方を
考察して、信教の自由は保障されていたと論じている。阪本の論では宗教とし
ての中身は真宗教団の戦略によって「意図的に」取り除かれ、国家神道が成立
したということになる。
これらの主張に対して、井上は「神仏分離」と神社の再編成の二つを国家神
道成立の要因であると主張した。井上は「神仏分離」によって仏教との関係を
断たれた神社が、それに代わる理論的支柱を天皇神話に求め、そのことによっ
て宗教施設である神社が世俗権力である国家への「全面的で直接的な癒着と従
属とを強いられた」15と述べている。武家政権である幕藩制下の宗教勢力が自立
性を保持していたのと異なり、神権的な天皇制下の神社は宗教的な自立性を侵
され、
「専ら世俗的な政治的イデオロギー(=国体イデオロギー)実現の場とし
て機能させられ」16たのである。また、神社の再編成によって神社の祭神が「記
紀神話体系への統合と再編成」17が推し進められ、神祇官の再興により伊勢神宮
を頂点としてすべての神社を一元的に掌握・統制する神社制度が作られ、太政
官布告によってすべての神社が「国家の宗祀」と定められた。井上はこの出来
事を「神社のあり方そのものの重大な歴史的転換」18と捉え、「信仰対象として
の宗教施設から、国家的儀礼の場への転換を意味していた」19と主張した。井上
の論では宗教としての中身はそもそも前提となる「神道」の時点で存在してお
らず、
「神仏分離」と神社の再編成によって宗教施設としての神社が国家に掌握
され、政治支配思想としての「神道」を布教させたことによって国家神道が成
立したということになる。
4. おわりに
以上、まことに不十分ではあるが、3 つの先行研究から国家神道の定義と成立
要因について考察した。無論、ここで取り上げた 3 つは国家神道研究のうちの
ほんの一握りにすぎないが、それでも国家神道の定義、成立要因についての解
釈は実に様々なものがある。特に重要な点は、国家神道を成立させた主体が何
であったかという問いについてすら、3 人の結論が一致しなかった事である。国
14
帝国憲法で信教の自由は保障されたが、
「臣民タルノ義務ニ背カザル限ニ於テ」という制
限があった。
15 井上寛司「
「国家神道」論の再検討:近世末・近代における「神道」概念の転換」,『大
阪工業大学紀要. 人文社会篇』51(1),2006 年,42 頁.
16 同上.
17 同上.
18 同上,41 頁.
19 同上.
4
国語Ⅲ ブックレビュー
家神道が国家制度であったことは冒頭に述べた通り周知の事実だが、阪本のよ
うにそれを成立させた主体が国以外の真宗教団であったという主張も存在する
のである。これは国家神道に研究の余地が多く残されている証左であると考え
る。
5. 参考文献
村上重良『国家神道』,岩波書店,1970 年.
阪本是丸『近代の神社神道』,弘文堂,2005 年.
井上寛司「「国家神道」論の再検討:近世末・近代における「神道」概念の転換」,
『大阪工業大学紀要. 人文社会篇』51(1),2006 年.
5
国語Ⅲブックレビュー
「保護」と「観光」の狭間の世界遺産
人文学類1年
鈴木太陽
1.
はじめに
2016 年現在、世界遺産は全世界で計 1,000 件を超え、登録された遺産を含め周辺地域の
観光地化が急速に進展している。その地域経済の基盤が観光業による収益で成り立ってい
るのも事実だが、その一方で自然遺産における生態系のバランスの崩壊、文化遺産におけ
る遺跡の荒廃などが問題視されつつあるのもまた事実である。
本報告では、現在巨大観光ビジネスとなりつつある世界遺産を「保護(保全)
」と「観
光」双方の観点から捉え、今世界各国が直面している問題点を浮き彫りにする。世界遺産
が抱える問題は非常に多岐にわたるため、本報告でとりあげる話題はそのごく一部である
ことをご容赦いただきたい。
2.
「観光」から見る世界遺産
当初の世界遺産の理念は「人類共通の遺産を後世に残す」というものであり、現在もこ
の理念は変化していない。しかし 1990 年代以降、世界各国が世界遺産の持つ経済的価値
に気づき始めた。そこに高速鉄道や航空機の発達が相まって、世界遺産登録地の急速な
「観光地化」が進んだのである。
日本の『白川郷・五箇山の合掌造り集落』を例に挙げてみたい。世界遺産登録前は日帰
り客、宿泊客の合計が 70 万人弱であったのに対し、登録後は 100 万人を超え、現在は毎
年平均 150 万人が訪れている。世界遺産登録によって観光客が倍増したのである。
このように観光客が増加すると、それに伴い地域経済が潤うのは自明の理である。それ
ほどまでに世界遺産がもたらす経済効果は大きい。世界遺産が「保護」から徐々にほかの
意義を孕むようになっていったことについて、木曽功は次のように述べている。
世界遺産という制度を作った専門家の念頭にあったのは純粋に保全の意義だけで、世
界遺産に登録されると観光地化が促され、それにともなって大きな経済効果が生み出
されるとは、おそらく考えていなかったと思います。観光業界は早くに気づいたかも
しれませんが、それでも当初は一般的にはまだまだ知名度は低く、各国政府やマスコ
ミの扱いも小さいものでした。1
このように木曽は世界遺産の性質の変容について述べている。世界遺産の観光資源化は
いわば後付け効果であり、観光業界、さらには政府やマスコミが観光地化の潮流に乗った
1
木曽功(2015)『世界遺産ビジネス』,小学館新書,pp44-45.
1
国語Ⅲブックレビュー
と言っても過言ではない。
3.
「保護(保全)
」から見る世界遺産
一方、世界遺産に登録されてもなお極端な観光地化が進んでいないものもある。青森
県と秋田県の県境に位置する白神山地である。白神山地の代表的な観光地である十二湖は
登録地域外であるし、「暗門の滝」も同様に世界遺産エリアに入っていない。白神山地に
おいては、保護すべきブナの原生林が広がる地域はアクセスできる道路がほとんどなく、
さらに入山の際にもガイドの同行が必須である。そのため、本当の意味での世界遺産に触
れることは容易ではない。人跡未踏の地域が多いがゆえに、屋久島や小笠原諸島でみられ
るようなオーバーユースによる自然破壊は免れていると言える。
行き過ぎた観光地化について、佐滝剛弘は「世界遺産は崇高な理念を掲げた原点に戻るべ
きだ」2と主張しており、世界遺産本来の目的である「保護」を重視すべきであると述べて
いる。
4.
「観光」と「保護」の両立
また、観光地化が進みつつも景観保護に努めている地域もある。先に例に挙げた『白川
郷・五箇山の合掌造り集落』である。この遺産は岐阜県と富山県にまたがっているが、富
山県側の位置する相倉という集落は伝統的な景観を保持している。景観保持の過程につい
て、金田章裕は次のように述べている。
住民によるこの価値の共有によって初めて、美しく、かつ好ましい文化的景観が保存
されてきたが、家屋を使用する家族数が減少し、経済的環境が大きく変化する中で、
伝統的なシステムのみでの合掌造りの維持は極めて困難を伴う状況となった。その部
分の支援が、重要伝統的建造物群保存地区としての選定による政策的支援や世界遺産
への登録である。3
このように金田は景観保護に努める世界遺産について述べている。岐阜県側の合掌造り集
落は観光地化が進み商店などが立ち並ぶ光景が見られるが、富山県側では伝統的な景観が
残っている場所が多い。同じ世界遺産内でも景観保持がなされている場所となされていな
い場所があるということである。
このように国や自治体からの支援によってその景観を保持する取り組みが各地で進んでい
る。例えば小笠原諸島では外来種の駆除が自治体主導で行われており、屋久島では一部地
域の入山規制がなされている。観光を重視した戦略から保護も視野に入れた戦略へとその
2
佐滝剛弘(2009)『
「世界遺産」の真実』,祥伝社新書,p268.
金田章裕(2014)『文化的景観の意義と役割―水辺の文化的景観をめぐって―』,奈良文化
財研究所研究報告 第 13 冊 文化的景観研究集会(第 5 回)報告書,p56.
3
2
国語Ⅲブックレビュー
性質を変化させていると言える。
5.
終わりに
いくつかの書籍・論文を比較し、
「観光重視論」と「保護優先論」が対立していること
が分かった。これは学者たちの間だけではなく、自治体や国家間でも議論が積極的になさ
れている。しかし現状としては経済戦略として世界遺産を活用し、国益をあげようとして
いる国家が大半である。一方で生態系の崩壊、遺跡の保全などを危惧して対策に乗り出し
ている国家・自治体があることも事実である。「世界遺産 1000 件時代」に突入し、世界遺
産の本質そのものが曲がり角に立っていると言える。十分に議論がなされたうえでその方
向性を決定づけていくことが非常に重要である。
6.
参考文献
金田章裕(2014)『 文化的景観の意義と役割―水辺の文化的景観をめぐって―』,奈良文化
財研究所研究報告 第 13 冊
文化的景観研究集会(第 5 回)報告書
木曽功(2015)『世界遺産ビジネス』,小学館新書
佐滝剛弘(2009)『
「世界遺産」の真実』,祥伝社新書
3
国語Ⅲ
ブックレビュー「民族音楽学とは何か」
人文・文化学群 人文学類 1 年
田中えみ
1.
はじめに
民族音楽学とは音楽学の一分野であり、人間との関係性に着目しながら音楽を研究する
学問である。このような定義がなされている一方、
「民族音楽学とは何か」という問いはこ
の学問の領域内で話題にされ続けている。民族音楽学を研究する上で無視できないこの問
いについて、本論では薛羅軍・徳丸吉彦・水野信男の論を挙げながら考察する。
2.
薛羅軍「音楽との学問的対話」
薛(2014)は民族音楽学について、
「「真・善・美」」(p.109)という語を挙げて論じている。
民族音楽学は「真」のみを求めている。世界の音楽文化の「いつ、どこで、だれが、
なにを」をそのまま記録するのが、民族音楽学の仕事である。[薛 2014:109]
要するに、民族音楽学は脚色されていないありのままの人間の姿を研究する学問である
ということである。
「真・善・美」とは真実の事柄[薛 2014:110]、倫理上の善、美学上の美を指し、人間が
求める普遍的な価値とされているものである。
「善」と「美」は個人の意識や感じ方であり、
環境に合わせて変化していくものだ。その一方、
「真」は各個人の認識であり、
「善」や「美」
の変化をも一つの事実としてここに含めることができる。
民族音楽に限らず、音楽は自分が楽しむための行動である。だれかの気持ちがこもった
音楽が共感を呼べば、同じ気持ちを持った他の人々にその曲は演奏されていくだろう。気
に入った曲であれば、歌詞の意味が分からなくても思わずそのまま口ずさんでしまうだろ
う。もちろん人から人へ伝わっていく過程で曲に多少のアレンジが加わるだろうが、わざ
わざ曲を大改編しようなどという人はそういない。今までの曲にない新しい感情や状況を
歌いたいならば新しい曲を作る。こうして音楽は大きく姿を変えることなく脈々と受け継
がれていく。歌詞とともに古い言葉や作詞者たちの歴史もそのまま受け継がれていく。
こうした音楽文化の「真」
、薛(2014)が言うところの「
「いつ、どこで、だれが、なにを」
」
(p.109)を記録することは、その音楽文化を保有する民族の歴史や営みを知ることにつなが
る。言い換えれば、民族音楽は何かしらの民族に属している我々人間を知るための一つの
手がかりなのである。
したがって民族音楽学とは、民族音楽を通じてありのままの人間を記録・研究する学問
1
であるといえる。
3.
徳丸吉彦「民族音楽学再構築と自分の歴史」
徳丸の民族音楽学に対する考え方は以下の通りである。
現在でも、私の基本的な考え方は次の二点に集約される。第一点は、民族音楽では
ない音楽はないという考え方であり、そこからの帰結として民族音楽というレッテル
を使用しない、というものである。第二点は、民族音楽学を人間と音楽の関係を中心
に考察する行動科学的な音楽学の部門であるとする考えである。[徳丸 2002:22]
要するに、民族音楽学が対象とするのは全ての音楽であるということ、当学問で追及す
べきものは音楽という行動と人間の関係性であるということである。
第一点のキーワードは「民族」という言葉である。これについて考える上でよく用いら
れるのが「民族料理」の例である。一般的にタイ料理やヴェトナム料理は「民族料理」と
して扱われるが、フランス料理は「民族料理」として扱われない[徳丸 1996:138]。これと
同じことが「民族音楽」でも起こっているのである。東南アジアやアフリカの音楽を「民
族音楽」と捉える人は多いだろう。ではクラシック音楽はどうか。人間は全て何かしらの
民族に属している。欧米諸国の人々も例外ではない。したがって国の発展の度合いや豊か
さは関係なく、我々人間が生み出した音楽は全てどこかの民族が生み出した「民族音楽」
ということが出来るはずなのである。したがって民族音楽学が対象とする音楽は、この世
界に存在する全ての音楽であるといえる。
第二点のキーワードは「行動科学」である。
「行動科学」とは人間の行動を科学的に解き
明かすものである。人間と音楽の関係を研究する際、民族音楽学者には、実際に生活して
いる人々の音楽活動に触れ、人々がなぜ音楽を演奏し、それが、その人々にとってどのよ
うな意味があるのかを考えることが求められる[徳丸 1996:18]。したがって、ただ音楽の物
理的な法則や規則を研究するのではなく、音楽における人間の立ち位置や、人間が音楽を
するに至る過程を追及するのが民族音楽学であるといえる。
4.
水野信男「民族音楽学の課題と方法」
水野は民族音楽学の目標について次のように述べている。
民族音楽学の究極の目標とは一体何か。それは音や音楽をとおして民族や人間をしる
こと、いいかえれば異文化を理解することである。また同時に、自文化をも理解する
ことである。[水野 2002:17]
つまり、民族音楽学とは音楽を通じて様々な文化の人間を理解するための学問であると
2
いうことである。
自分と異なるものに触れない限り、我々は自文化で固有の特徴に気が付くことができな
い。他から見れば異質なものも、その文化内では当たり前のものであるからだ。様々な文
化があり、その文化の違いによって価値観が異なるということが分からなければ、異なる
文化の人間を認めることは難しい。自文化が正しく最も優れている、といった間違った思
考にも走りかねない。異文化を知ることは人間の相互理解において大切なのである。
ところで、なぜこの異文化理解の役割が民族音楽学に与えられるのかといえば、音楽が
素の人間を知ることのできる媒体であるからだろう。人間が自分たちの思いをそのままぶ
つけた音楽には、喜怒哀楽の感じ方や物事のとらえ方などが如実に表れている。そしてそ
れらには民族ごとに異なった特徴がある。この違いを研究することこそが民族音楽学であ
り、異文化理解につながるのである。
したがって民族音楽学とは様々な文化の人間を理解するための学問であるといえる。
5.
おわりに
今回 3 人の研究者の著作を挙げてみて、民族音楽学は人間を知るための学問なのだと考
えた。あくまで「音楽学」であるから、もちろん音楽の研究をする学問ではあるのだが、
どの研究者もこの学問を通じて明らかにしようとしていることは我々人間のことであった。
音楽には感情・歴史・文化といった人間のあらゆる要素が詰め込まれているため、これを
解き明かすことで他の学問とはまた違った人間の見つめ方ができる。薛のいう「真」を記
録することは民族音楽学の基礎であるように思われる。ここから発展して、徳丸が言うよ
うに民族の定義を考えなおしたり、民族音楽学を行動科学の一つの手段として利用したり
することができる。また、水野のようにこれを異文化理解に生かそうとすることもできる。
したがって、民族音楽学とは音楽を通じて広く深く人間を知ることができる学問だと言
える。
6.
参考文献
薛羅軍
2014 「音楽との学問的対話」
『社会科学』第 44 巻第 2 号、同志社大学
徳丸吉彦
1996 『民族音楽理論』
、放送大学教育振興会
2002 「民族音楽学再構築と自分の歴史」『民族音楽学の課題と方法―音楽研究の未来を
さぐる』、水野信男(編)、世界思想社
水野信男
2002 「民族音楽学の課題と方法」
『民族音楽学の課題と方法―音楽研究の未来をさぐる』
、
水野信男(編)、世界思想社
3
国語Ⅲ ブックレビュー
「日本人の起源」における 3 つの説
人文学類 深見 由利子
1.はじめに
現在でも日本人の起源については多くの疑問が存在している。ここでは縄文人がどこか
らきたのか、どの大陸からどの経路を経て日本列島にやってきたのかを話題とする。骨や
遺伝子学など考古学的な視点から有力とされる3つの説をもとに、日本人の起源について
考えてみたい。
2.日本人とは
日本人とは何か、という問いに答えることは難しい。日本語を話す人たち、日本国籍を
持つ人たち、などと多くの答えが出るだろう。しかし○○だから日本人である。と簡単に
定義づけすることはできない。そこでここでは日本人を埴原の定義に則って、
「縄文時代以
来共通の人種系統に属し、かつ日本独特の文化を共有する人々の集団」1と定義することに
する。
3.埴原恒彦「アジア大陸東縁説」
埴原は頭蓋骨の特徴やそれをもとに復元した顔の立体加減から、縄文人はアジア大陸東
縁から来た集団であるという説を唱えた。そこには2つの根拠が存在する。1つ目は、縄
文人の頭骨はアフリカやアメリカ、オーストラリア先住民の頭骨と類似性がある一方で対
照的であるという点。2つ目は、縄文人は東南アジアと北東アジアの頭骨に類似点はある
が、顔の立体加減が対照的であり、アメリカ先住民並みに立体的な顔をしていたという点
である。この2つの論点から埴原は「北上説」2を仮定し、次のように述べる。
現在のアメリカ先住民やオーストラリア先住民は、少なくとも形態的には大きく異な
る集団であるが、これら2集団を特徴づける形態をわずかながらでも合わせ持つ集団
が東アジアに残存し、その一集団こそ縄文人、アイヌ人であった。そうすると、縄文
人、アイヌの系譜はアジア大陸東縁の旧石器時代人で、現在のような北と南の東アジ
ア集団の形態分化が起こる以前の集団にまで遡れると考えられよう。3i
このように埴原は、アメリカ先住民などとの類似性を頭骨に持つと同時に東南アジア、
北東アジアの人々とも類似性を持つのは、アジア大陸東縁の旧石器人が日本列島にたどり
着く過程で、環境に適応していったからであると述べる。また、アジア大陸東縁の人々が
縄文人、アイヌの祖先であると結論づけている。
1
4.尾本恵市「北方起源説」
尾本は骨から抽出された DNA やたんぱく質をもとに分子人類学的手法使って、縄文人は
北方(ここでは北アジアを指す)由来の集団であるという説を唱えた。さらに日本の遺
跡から発見された居住の跡や石器などからも北方起源説を支持している。尾本は縄文人の
祖先となった後期旧石器人の渡来ルートを3つ仮定した。以下の3つである。
1)シベリアからサハリンをへて北海道にいたる
2)中国北部から朝鮮半島をへて西日本へいたる
3)中国東部から琉球列島をへて九州へいたる
4
3つに共通する点は、縄文人が渡来したルートのスタート地点が、シベリアや中国北部
などいずれも大陸の北方であるという点だ。またアイヌの人々は従来ヨーロッパ系統だと
されてきたが、尾本は縄文人の渡来ルート(1)を参考に、アイヌも縄文人と同様に北ア
ジア系統であると反論した。そして尾本は縄文時代の住居の跡や遺物から次のように述べ
る。
まだ土器はなく、後期旧石器時代または中石器時代にあたる時期ですが、特に細石器
と呼ばれる細長く剥いだ鋭い石器がたくさんでてきます。これは、動物の角などで作
った柄に埋め込んで、槍の穂先として用いたらしく、同じものがシベリアからも多数
発見されています。縄文土器は約一万二千年前に日本で発掘された土器が、最近極東
ロシアのアムール河流域からほぼ同じ時代で形も似た土器が発見されています。これ
らの時代の考古学的資料のほとんどは日本列島への北方からのヒトの移住を示してい
ます。5
このように尾本は、日本で発掘された細石器や土器がロシアで発見されたものと類似し
ているという点を根拠に、ロシアや中国北方のヒトが日本列島に移住してきたと述べる。
つまりシベリアやロシア、中国の北方の旧石器時代人が、縄文人、アイヌの祖先であると
尾本は主張している。
5.埴原和郎「東南アジア起源説」
埴原は、まず日本列島をおおまかに 6 つの地域に分類した。そして発掘された頭骨と現
代人の頭骨の特徴や血液型の分布などといった、地域差を主に調査対象とする形質人類学
の視点から、縄文人の祖先は東南アジア地域の集団であると提唱した。発掘された頭骨の
歯の形に注目し、埴原は次のように述べる。
アイヌと縄文人の歯の形態的特徴は東南アジア人と共通の「スンダドント」で、中国
2
人や韓国、朝鮮人の「サイノドント」ではないのです。サイノとは「中国人の」とい
う意味で、ドントは歯のこと、またスンダは氷河期の東南アジアにあったスンダラン
ドから来ています。6
このように埴原は、日本列島で発掘された頭骨の歯の形態的特徴が東南アジア人に類似
しており、東アジア人とは異なっていることから、縄文人は東南アジアからきた集団だと
唱えている。また埴原は次のように述べる。
日本人は日本列島という狭い地域に住んでいますが、少なくとも現代人を見る限りで
は、身体的特徴にも文化にも、かなり大きな違い、つまり地域差があるということで
す。日本人の起源を考えるということは、まさにこのような地域差が何を物語ってい
るのか、そしてなぜ地域差が生じたのかという原因を追究することにほかりません。7
埴原は、日本人の起源をたどるにはまず、地域差が生じた原因から追究することが第一歩
であると述べる。現在日本は島国だが、かつては大陸つづきだったため、日本人の起源を
知る際には、日本だけを見るのではなく、周囲の地域にも注目しなければいけないという
ことを埴原は喚起している。
6.まとめ
ブックレビューで日本人の起源について異なる 3 つの説を取り上げた。三者の結論は異
なるが、共通点もあった。それは、周囲の国々や地域に目を向けヒントを得ていたという
点である。未だに日本人の起源については多くの説があり、議論がなされている。考古学
的資料に注目することは確かに大切である。しかし、その資料に固執するのではなく埴原
が述べたように、周囲の地域や環境にも注目することで、真実により近づくことができる
のではないかと考える。
1
埴原和郎(1989)
『日本人の起源』 小学館 p.11
旧石器時代に北上したとされる 2 つのグループ
1)東シナ海の沿岸沿いを北上し南西諸島をへて日本に来た集団
2)中国の内陸部を北上し南シベリアから北東シベリアへと北上した集団
3
埴原恒彦(1998)
「縄文人はどこからきたか」 『遺伝』裳華房
p.47
4
尾本恵市(1996)
「分子人類学と日本人の起源」 裳華房 p.171
5
同上
pp.172-173
6
埴原和郎(1989)
『日本人の起源』 小学館 p.24
7
同上
p.11
2
参考文献
尾本恵市 (1996)
『分子人類学と日本人の起源』裳華房
埴原和郎 (1989)
『日本人の起源』 小学館
埴原恒彦 (1998)
「縄文人はどこからきたか」
『遺伝』裳華房
3
国語Ⅲ ブックレビュー
「沖縄御嶽信仰と本土山岳信仰の関わりについて」
人文学類 1 年
藤崎綾香
1.
はじめに
沖縄の御嶽は神社に相当する聖地であるが、神社と根本的に異なる点が存在する。神社は人工
的な社殿が信仰の対象になるのに対し、御嶽には人工的な建造物が存在しない。樹木に囲まれた
聖域の中心に、石や木があるのみである。これをイベと呼び、神が依代とする対象となるいわば
ご神体のようなものである。失礼な言い方をすれば「何もない」空間である御嶽から放たれる清
らかかつ厳かな空気は、実際に御嶽を訪れれば感じることが出来るだろう。私自身、初めて訪れ
た際に御嶽の存在自体や放つ空気に衝撃を受け、強く心惹かれた人間である。
御嶽の起源やそこに来訪する神々についてこの場で簡潔に述べることは、その複合的成立過程
を考慮すると困難である。そこで、御嶽信仰を考えるうえで重要な要因の一つとされている、本
土における山岳信仰との関連性に注目し、述べることとする。
2.
吉成直樹『琉球民俗の底流』
吉成は御嶽信仰と山岳信仰(タケ信仰)の関連性を、伊勢・志摩の境に朝熊山で行われる「タ
ケ参り」と、沖縄久高島で行われる「タキマーイ」という 2 つの儀礼を比較し、それらの類似点
を挙げることによって説明している。朝熊山における「タケ参り」について、吉成は次のように
述べている。
朝熊山信仰を端的に表現するのは「タケ参り」である。例えば、死者儀礼に際して、死者を
埋葬した翌日などに、女衆は、口寄せの巫女を喪家に招いて死者の口寄せを行うとともに、
男衆は、朝熊山にタケ参りをする。新亡供養のために、四九日忌にタケ参りを行ったり、命
日、春秋の彼岸、年忌ごとにタケ参りを行うこともある。また男女とも十三歳になると、
「十
三参り」と呼ぶタケ参りをするが、これは成年式、成女式のイニシエーションとしての意味
を持つ。1
久高島の「タキマーイ」については、吉成は次のように述べている。
久高島の「タキマーイ(タケ参り)」は、旧暦三月、六月の麦、粟の収穫祭、それに一年で
最も重要な祭りとされる八月行事群の一つの儀礼(ヨーカビ―)として行われる。…(中略)
…ヨーカビ―は、八月行事の三日目にあたる旧暦八月十一日の午前に行われる。ノロを中心
とする神女たちによって「タケ参り」が行われるが、本来は十四~十五歳までの女性も参加
したものだという。さて、神女たちは集落の村境から北に向かって歩き、フボウ御嶽に行く。
…(中略)…ここで神女たちは円陣を作って日の丸の扇を手に持ち、神歌を謡いながら踊り、
1吉成直樹(2003)
『琉球民俗の底流』,株式会社古今書院,p.141.
1
その後、神酒を全員で飲む。…(中略)…このヨーカビ―が行われる日は、村境より北は死
霊がさまよっていると考えられている。2
この二つの「タケ参り」を比較し、第一に、
「『タキマーイ』とは『タケ参り』であり、名称が
一致する」3こと。第二に「調査時点では、ノロを中心とする神女組織が『タケ参り』をするが、
本来は、十四~十五歳までの女性が参加しており、
『十三参り』にみるような成女式としての性
格を持っていたと考えられる」4こと。第三に「集落のはずれの境界より北には墓(グショウ)が
あるが、そこにかかわると考えられる死霊が跋扈すると考えられており、女性たちがあえてその
ような世界に入っていき、儀礼を行うということのなかには死者供養の意味合いがあると考えら
れる」5ことなどの類似点を発見できることから、久高島の「タケ参り」は山岳信仰のタケ信仰の
影響を受けている、と吉成は指摘している。
吉成の表現では、本土の山岳信仰が南下し沖縄の御嶽信仰に影響を与えたと解釈できる。しか
し、上の例はただ「タケ参り」と「タキマーイ」の類似点を示しただけであり、山岳信仰南下の
根拠を説明してはいない。それゆえ、なぜ吉成が類似点のみで本土の信仰が南下してきたという
解釈をしたのかが不鮮明である。ここで彼の判断の根拠となるのが「天上の世界」を意味するオ
ボツ・カグラ信仰である。吉成はオボツ・カグラ信仰が天上の神の観念を含んでおり、
「オボツ」
という言葉が奄美諸島~沖縄本島北部に聞かれることから、オボツ・カグラ信仰が北方的な文化
要素であるとしている。そして北方的文化要素の影響を受けた地域出身である第二尚氏王朝の尚
真が、民間信仰であった御嶽信仰にオボツ・カグラ信仰を結び付け国家レベルの信仰に押し上げ
た。その証拠に琉球王府によって採録された古謡集である「おもろそうし」以外の資料からはオ
ボツ・カグラ信仰の概念が見当たらないことや、琉球王府が「琉球列島に存在する多くの種類の
神山を『タケ信仰』にかかわるとされる『御嶽』という名称で一括して表現した」6ことを挙げて
いる。これらのことが、御嶽信仰は南下してきた山岳信仰(北方要素群)の影響を受けたという
吉成の判断に影響したと考えられる。
3.
小島瓔禮『琉球学の視覚』
一方、小島は別の視点から御嶽信仰と山岳信仰の関連性を述べている。今日見られる御嶽は、
イベと人々が参拝する場所であるイベノマエとが「同一平面上にあり、距離もすぐ後という感じ
であるのが普通である。
」7しかし、小島は山の山頂近くにイベがある御嶽が少なくない国頭地方
を例に挙げ、沖縄の御嶽も古来は本土のような山岳信仰の形態をとっていたと説明している。小
島は次のように述べている。
国頭地方にかぎらず、沖縄では、古い村落は、丘の頂とか山の中腹を選んだもので、平地は
2吉成直樹(2003)
『琉球民俗の底流』,株式会社古今書院,pp.142-143.
3同上,p.143.
4同上,p.143
.
5同上,p.143.
6同上,p.144.
7小島瓔禮(1983)
『琉球学の視覚』,柏書房株式会社,p.101.
2
きわめて少なかった。今日、フルシマ(古島)と呼ばれている旧村落の遺跡が、たいてい、
丘陵地帯の中腹から頂にかけて残っているのは、そのなごりである。それが、山地に御嶽を
まつり、村の守護とする信仰があったためかどうかは即断できないが、古い形態の村落が、
山地を一つのよりどころとして形成されていることは、たしかなようである。…(中略)…
生産活動の舞台として平地が中心になるほかに、山や海もある方がいいにきまっているが、
ここでは、精神的な中心をなすオタケのために、ぜひとも山地が必要であった。これを歴史
の流れにしたがっていえば、山岳的なオタケの減少は、村落の平地への移動が原因であった。
8
また、小島は御嶽が山岳から平地に移った御嶽の名残として〈お通し〉の御嶽の存在を述べて
いる。
〈お通し〉の御嶽とは、村近くにある御嶽を拝むことで、山岳に存在するイベに向かって
間接的に拝むための御嶽である。彼は伊良部島にある〈お通し〉御嶽を例にあげ、その形成過程
を説明している。
〈お通し〉と称して、沖縄では、間接的に神を拝む作法が発達している。…(中略)…山か
ら離れた御嶽がふえたのも、移住にともない、新しい村落に、本来の御嶽に対する〈お通し〉
の御嶽を設ける習慣があったからである。伊良部島の比屋地御嶽は、そうした変遷の跡がよ
く知られている。島で一番高い巻山の山頂近くにあるこの御嶽は、大きな岩をイベとし、そ
の前に拝殿を建てただけの山岳的な御嶽であるが、その近くにあった旧村落から移住、分村
した伊良部、仲地、長浜などの部落には、比屋地御への〈お通し〉の御嶽ができている。9
つまり、古来沖縄にも本土と同様の山岳信仰が存在し、山自体を村の守護的存在とするために
村も山岳地帯に作られた。しかし、次第に村が平地に移るとともに、御嶽も平地に移動した。そ
の名残が〈お通し〉御嶽である。というのが小島の主張である。村が平地に移動したのは、「日
常の便宜から、山岳的なオタケを、村に移した例も、そちこちにあったようである」10ことから、
同様に日常生活の利便性を考慮してのことであろう。
4.
下野敏見『ヤマト・琉球民俗の比較研究』
下野は元々御嶽も本土の山岳信仰に共通したものであり、その後本土で独自に発展した山岳信
仰が南下したと唱えているが、その根拠を本土~南西諸島における修験道の受容度合いに求めて
いる。修験道は「日本古来の山岳信仰に外来のシャーマニズム、仏教、道教、儒教などが習合し
て、平安時代後期(十一世紀中頃)に成立した」11とされている。日本人は古代から山を神の居
場所として崇めていたが、
「山での修行を旨とする仏教や道教」12の伝来により、山で修行した者
に神から得た験力を期待するようになった。「彼らのうち特に験力を修めた者は修験者または山
8小島瓔禮(1983)
『琉球学の視覚』,柏書房株式会社,p.102.
9同上,p.68.
10同上,p.103.
11宮家準(2007)
「民俗宗教と修験道」『
, 山岳修験
12同上
p.7.
3
別冊 日本における山岳信仰と修験道』,p.6.
伏として崇められた。
」13日本の山岳信仰を語る上で、修験道は外すことの出来ない重要な要素で
ある。下野は本土と沖縄諸島の中間にあるトカラ列島を境にして、本土と沖縄諸島とでは修験道
の影響に差がみられることを指摘している。下野は次のように述べている。
漁願儀礼を実修する琉球文化圏の祭祀集団の聖地は、御嶽・神山・拝山などと称する、森ま
たは村落近くの小丘である。沖縄においては、琉球王朝創始の語「御嶽」の名称が優勢とな
り、今日、八重山の拝山も御嶽と改称されている所が多い。御嶽はもともとヤマト文化圏の
御嶽信仰に連なり、山岳信仰である。本土の山岳信仰は修験道と結合しており、それは薩南
諸島を南下し、トカラ列島まで顕著に分布している。トカラでは各島の最高峰をオタケと言
い、霜月祭の巫女舞(内侍舞)の時には、修験道系の剣舞をして神降しの儀礼をする。この
ように、トカラまでは山岳信仰・修験道という本土式祭祀内容であるが、琉球では御嶽信仰・
琉球神道というセットで構成され、本土の御嶽信仰が変質して出来ている。14
つまり、元来共通する信仰だった御嶽信仰と山岳信仰がそれぞれの地域で変化し、その後修験道
が形成された本土の山岳信仰が南下してきた。そして、トカラ列島を境目として本土と沖縄の祭
祀形態を比較するとその様子が顕著に表れる、というのが下野の主張である。
5.
まとめ
以上三冊の御嶽信仰と山岳信仰の関連性について述べた文献を取り上げた。吉成は御嶽信仰が
外部の山岳信仰の影響を受けたと述べ、小島は元々御嶽信仰も山岳信仰も共通したものであった
が、御嶽信仰が自主的に今の形に変化したと述べている。一方、下野は共通していた沖縄と本土
の信仰がそれぞれの地域で変化した後、御嶽信仰に影響したとは言い難いものの山岳信仰が沖縄
方面へと南下したと主張している。三人とも主張が少しずつ異なるが、どの説も現在の御嶽信仰
が出来上がるまでの複雑な形成過程の一要因であると考えるのが妥当である。海を隔てた本土と
沖縄には古来より自然に対する信仰が共通して存在し、それぞれ地理的、歴史的背景によって形
態が変化していった。そして現在までの本土と沖縄との交流の中で、本土の信仰形態が南下し、
その一部を御嶽信仰が受け入れたと言えるだろう。そして、変化した後の本土の山岳信仰が沖縄
へと南下、受容され得たのは、形態は違っていても元々共通している自然への信仰が共感された
からではないか。一見遠く離れた地域に存在する、異なる信仰のように見える御嶽信仰と山岳信
仰だが、その根本は自然を崇拝する人々の心意でつながっているのである。
参考文献
小島瓔禮(1983)
『琉球学の視覚』,柏書房株式会社.
下野敏見(1989)
『ヤマト・琉球民俗の比較研究』.
宮家準(2007)
「民俗宗教と修験道」,『山岳修験 別冊 日本における山岳信仰と修験道』.
吉成直樹(2003)
『琉球民俗の底流』,株式会社古今書院.
13宮家準(2007)
「民俗宗教と修験道」『
, 山岳修験
別冊 日本における山岳信仰と修験道』,p.7.
14下野敏見(1989)
『ヤマト・琉球民俗の比較研究』,p249.
4
人文学類一年 水野柊平
ブックレビュー 「リグ・ヴェーダの研究」
1.はじめに
リグ・ヴェーダとは古代アーリア人によって書かれた神々への讃歌集である。これは 10
巻 1028 篇からなっており、アーリア人の社会や宗教の重要な資料である。そして、アーリ
ア人の宗教の直系であるバラモン教、ヒンドゥー教はもちろん、仏教やジャイナ教にも大
きな影響を与えている。本ブックレビューでは、リグ・ヴェーダに対する研究の前例を取
り上げていきたい。
2.稻津紀三(1954)
「リグ・ヴェーダのヴァルナ讃歌について――ヴァルナ讃歌に關する
考察の一節――」
リグ・ヴェーダはすべての詩が同じ時代に作られたのではない。アーリア人がインドに
侵入したばかりでパンジャーブ地方にいた頃の古詩篇や、侵入が進んで、クル地方に定着
した頃の新詩篇が混ざって収録されている。その中でも稻津は「古インドから今日まで一
貫しているところの、インドの最も高い精神の傳統を知るためには、リグ・ヴェーダの古
詩篇をさぐることが必要になる。
」1と述べて古詩篇を重要視している。その理由を稻津は「後
期の讃歌では、古詩篇を生んだ自然的生活的基盤をはなれて、前代の型を踏襲するので、
創造的精神が乏しくなつている」2からであると述べている。
また、リグ・ヴェ-ダのなかには様々な神への讃歌が含まれているが、稻津は
アグニ讃歌とインドラ讃歌は、数も全讃歌の半ば以上をしめ六家集を通じて、同様の
重要さをもつてとりあつかわれていて、明かに、民族的な信仰であることを示してい
るが、ヴァルナ讃歌は、藪も少く、かつ、ヴァシストハとアトリ家集にまとまってい
るだけで、他には籔篇散見されるにすぎない。これは、民族的な信仰でなく、特殊な
一族に傳承されたか、或はすぐれた人格によつて把握された信仰であることを、示し
ている。3
と述べてインドラ神、アグニ神への信仰は広く民族的なものであった一方で、ヴァルナ神
への信仰は狭くて特殊であった可能性を指摘し、ヴァルナ神への讃歌は民族性から離れて
いるため他の讃歌より宗教的、哲学的に優れていることを主張している。
1
稻津 紀三(1954)「リグ・ヴェーダのヴァルナ讃歌について――ヴァルナ讃歌に關する考
察の一節――」
『印度學佛教學研究』 Vol.3,No.1, p.330
2同上,p.330
3同上, p.330
1
3.佐保田 鶴治(1955)
「リグ・ヴェーダに於ける密儀思想」
佐保田はリグ・ヴェーダの扱い方には方法論的原則がないと指摘し、リグ・ヴェーダの
詩篇のなかの「哲学的諸詩篇」4と呼ばれる詩篇を解釈学的に扱うことによってそれを見出
そうとする。アーリア人の宗教は呪術的な実践と結びついた宗教であり、それを反映した
リグ・ヴェーダの詩篇も、もちろん宗教的実践を離れては成り立ちえないものなのだが、
そんな中でも実践と離れているように見えるのがこの哲学的諸詩篇である。佐保田はこの
詩篇を実践から切り離すことによって生じる問題を三つ挙げている。
第一には、
「哲學的諸詩篇」だけを他の詩篇から分離して祭儀の實際に關係がないとす
るのは、リグ・ヴェーダ解釋の上で一貫性を缺くことになるといふ點である。第二に
は、これら「哲學的諸詩篇」が祭儀の執行に無關係であつたとすれば、どうしてこれ
らの詩篇が讃歌として聖典の中へ編入されるに至つたのか?といふ疑問が生ずる。第三
には、これら「哲學的諸詩篇」の中には、祭儀に關する用語や観念が目立つて多く現
はれてゐるといふ事實をどう處理することができるか?といふ問題が起る。5
この三つの問題のなかでも第三の問題に注目した研究者にポトダル教授がいる。佐保田
は「氏の意見は大體に於て從來の印度學研究者の考へ方を無批判に踏襲したものである」6と
述べて、彼の意見を批判することで方法論的原則がないという問題を解決しようとする。
ポトダル教授は哲学的諸詩篇に祭儀に関する用語や観念が多く現れている理由を、詩篇
の作者が祭儀に慣れ親しんでおり、作者の表現したかった哲学的観念を祭儀的な表現で表
現しようとしたからであるとする。つまり、哲学的諸詩篇に含まれる祭儀的表現はただの
比喩、哲学的概念を伝えるための媒介であり、祭儀の実践には無関係であると述べている。
すると、第二の問題に注目せざるをえない。祭儀の実践に無関係ならば、なぜ聖典に哲
学的諸詩篇が含まれているのか。ポトダル教授は哲学的諸詩篇の土壌となった「神の真性」
を求める趣向と祭儀の観念は、元々平行する別々の観念だったが、時がたつにつれて一つ
になった。だから哲学的諸詩篇は祭儀の聖典に含まれるのだと説明する。佐保田はリグ・
ヴェーダとして一つにまとまっているものを二つの潮流の一体化と見るのは不自然である
とする。また、哲学的諸詩篇の土壌の「神の真性」を求める趣向とやらは否定される根拠
はないが、肯定される根拠もないとして、「神の真性」を求める趣向はリグ・ヴェーダの哲
学思想を刺激する要因であっても、リグ・ヴェーダの哲学思想そのものではありえないと
4
「天地開闢説や自然哲學を歌ふのが主旨で、インドラやミトラの如きヴェーダ神話的神々
の名さへ出てこない」詩篇であり、最も新しい層に位置する。佐保田 鶴治(1955)
「リグ・
ヴェーダに於ける密儀思想」『印度學佛教學研究』Vol.3,No.2,p.736
5 同上,pp.736-737
6 同上,p.737
2
指摘する。
以上のように、ポトダル教授の論を批判していくと、彼が前提としているヨーロッパ系
印度学者の独断が浮かび上がってくると佐保田は主張する。
ヨーロッパ系學者達の獨斷とは何かといふと、それはリグ・ヴェーダの中に見出され
る哲學的な觀念や思想がリグ・ヴェーダ宗教の世界即ち其の宗教的な動機、要求、體
験、信仰などから全く獨立に發達したものであるかのやうに考へることである。彼等
印度研究家達は最初リグ・ヴェーダ諸詩篇の内から哲學的だと思はれる用語や觀念を
拾ひ集め、然る後にそれらの用語や觀念がリグ・ヴェーダ宗教の世界から全く獨立に
形成され發達したものであるかのやうに考へるのである。7
その独断とは、リグ・ヴェーダに含まれる哲学的諸詩篇をリグ・ヴェーダと関係のないも
ののように扱ってしまうことであり、この独断のせいで哲学的諸詩篇に対するアプローチ
は迂遠なものにならざるをえなかった。
佐保田は「どうしてもつと簡明に、哲學的諸詩篇と雖も他の諸詩篇と同様にリグ・ヴェ
ーダの宗教體系の内で其の宗教的實践の必要に促されて、恐らくは祭儀の現場で作られた
ものであらう、と考へなかつたのであらうか?」8と疑問を呈する。確かにこうして考えれば、
哲学的諸詩篇を実践から切り離してしまうと生じる三つの問題も回避することができる。
しかし、このように考えるとさらに解決の困難な問題が新たに出てくる。
「それは何かとい
ふと、かの「哲學的諸詩篇」を必要とするやうな祭儀とはいつたいどんな種類、どんな性
質のものであつたか?といふ問題である。」9佐保田はこの問題を避けるためにヨーロッパ系
印度学者はあのような独断に陥ったのだと考察する。佐保田はこの問題について以下のよ
うに論じている。
リグ・ヴェーダ宗教は形式の上では終始一貫、祭儀 Kult の宗教であつたが、内實的
には供儀 Opfer-kult の宗教から密儀の Gehim-kult の宗教に転換した。この密儀の精
神状況に即應して「哲學的諸詩篇」は生れた、といふのである。リグ・ヴェーダの宗
教は初めは供儀宗教として、人格的に表象された神々を觀請して其の恩恵に預かると
いふ意味を持つてゐたのであるが、後には祭儀に即して直接に感得される絶對者との
7佐保田
鶴治(1955)
「リグ・ヴェーダに於ける密儀思想」
『印度學佛教學研究』
Vol.3,No.2,p.738
8 同上,p.739
9 同上,p.739
3
共生或は合一を介して所期の實利を収めようとする意味を含むやうになる。この後者
の如き宗教體系は宗教類型學上密儀とよばれるのである。さて、このやうにリグ・ヴ
ェーダ末期の宗教を密儀の宗教として類型的に性格づけて見ると、そこにヴェーダ哲
學思想の思想發達史的構成を可能ならしめるところの方法論的原則を確立する手樹り
も亦得られてくるやうに思はれる。10
つまり、佐保田はリグ・ヴェーダの宗教が密儀宗教へと転換し、供儀の宗教のような実際
的な実践から密儀の宗教のより抽象的な実践となった結果、密儀の宗教の抽象的な実践に
応じて哲学的諸詩篇が生まれたと考えているのだ。
哲学的諸詩篇の解釈が終わったところで、リグ・ヴェーダの方法論的原則に話を戻そう。
佐保田はリグ・ヴェーダの宗教末期を密儀宗教であるとすることで哲学的諸詩篇の問題に
迫った。それをさらに進めて、こう述べている。
密儀的宗教から神秘思想的宗教への展開の理想類型的な圖式を設計圖とした時に、始
めてリグ・ヴェーダからウパニシァッドに至るまでのヴェーダ哲學思想全體の思想史
的建築物がドッシリとした重量感を以て組立てられることができるであらう。11
つまり、リグ・ヴェーダの宗教は供儀宗教から密儀宗教、神秘思想的宗教へと転換して
いった宗教であるということを佐保田はリグ・ヴェーダを扱う際の方法論的原則とすべき
だと主張しているのである。
4.針貝邦生(2000)
「ヴェーダからウパニシャッドへ」
針貝は「第八節
リグ・ヴェーダの詩作行為および言葉について」でリグ・ヴェーダの
聖典としての権威とその作詩について検討している。まず、リグ・ヴェーダの聖典として
の権威とはどういうことか?
以上のウパニシャッドまでの文献は<天啓書(シュルティ[śruti])>とされる。すなわ
ちこれらの文献は人間が作ったものではなくて、霊感をえた聖仙(リシ[ṛṣi])が天から
10佐保田
鶴治(1955)
「リグ・ヴェーダに於ける密儀思想」
『印度學佛教學研究』
Vol.3,No.2,p.739
11 同上,p.739
4
聞き(√śru)さずかった聖なるものであるとされるのである。12
ヴェーダ文献の成立後、ヴェーダの権威を認める正統派とそれを認めない非正統派の二つ
の学派が生まれた。正統派は引用のように、ヴェーダの詩句は聖仙が天から授かったもの
で、人の手によるものではないと考え、それをヴェーダの聖典としての権威の根拠とした。
正統派の一派であるミーマーンサー学派はさらに進んで、ヴェーダ詩句の無謬説を唱えて
いる。
なぜヴェーダの詩句は人の手によらないという考えが発生したのか。その答えに肉薄す
るために引用されるのが、ミーマンサー派の大哲学者クマーリラの言葉である。彼のヴェ
ーダに対する畏敬の念、驚嘆を表す言葉を引用したのち、針貝は「ミーマーンサー学派の
標榜するヴェーダの<非人為性(apauruṣeyatva)>、すなわち<ヴェーダは人によって作
られたものではない>という主張は根源的にこのようなヴェーダに対する驚嘆を伴う感覚
を前提したであろう。
」13と述べている。つまり、この考えが発生した理由は詩句のクォリ
ティにあるということである。
針貝は詩句がそのようなクォリティとなった作詩のありかたについて考察している。
「作
詩の行為は先ずもって神々に対する感謝と祈願であった。
」14作詩は祭儀行為のひとつであ
るということである。「讃歌は詩人の恍惚状態、没我的状態で生み出される。そのような状
態は例えば神酒ソーマを飲んだ時に生まれる。」15神酒ソーマとは覚醒作用のあるソーマ草
をすり潰して成分をとり、水や牛乳を混ぜて作られる酒である。祭火に捧げられたり、飲
んだりと祭儀には欠かせないものであった。それを飲んで作詩者はトリップ状態になった。
「そのような詩人の状態から生み出される言葉は日常的な言葉とは異なるものでなければ
ならない。」16「多くはヴェーダの言葉は秘密の意味を付与されたものであり、
(中略)謎は
ヴェーダの言葉それ自体でもある。詩人は作詩の競技においてことさらに意味不明瞭な言
葉を用いて作詩する、というようなことも頻繁に行われた。」17つまり、どのような作詩の
ありかたをしていたのかというと、祭儀の中で、恍惚状態、没我状態となりながら言葉に
秘密の意味を込めたり、言葉を意味不明瞭な使い方で扱ったりして作詩するようなありか
たであったということである。
5.まとめ
以上、三つのリグ・ヴェーダに対する研究を見てきた。稻津はリグ・ヴェーダの讃歌の
12
13
14
15
16
17
針貝邦生(2000)
「ヴェーダからウパニシャッドへ」清水書院 pp.21-22
同上,p.65
同上,p.66
同上,p.66
同上,p.67
同上, p.67
5
なかでもヴァルナ神に捧げられた讃歌は特別であることを主張していた。佐保田はリグ・
ヴェーダ研究には方法論的原則ないことを指摘し、哲学的諸詩篇を解釈学的に扱うことで
それを見出そうとした。結果的に、リグ・ヴェーダの宗教は供儀宗教から密儀宗教、神秘
思想的宗教へと転換していった宗教であるということを方法論的原則とすべきだと主張し
た。針貝はリグ・ヴェーダの聖典としての権威とその作詩について検討していた。リグ・
ヴェーダの権威はその詩句が人の手によらないという信仰からきていること。その信仰は
尋常ではない詩句のクォリティによること。そのような詩句は祭儀のなかで、恍惚状態、
没我状態となりながら言葉に秘密の意味を込めたり、言葉を意味不明瞭な使い方で扱った
りして作詩するようなありかたで生まれたことなどを主張していた。
結局、リグ・ヴェーダを扱う際には詩句にある成立年代の差や、捧げられた神の立ち位
置、詩句が祭儀と切り離せないこと、言葉の意味解釈が困難であることなどに注意が必要
であるようだ。
6.参考文献
稻津 紀三(1954)「リグ・ヴェーダのヴァルナ讃歌について――ヴァルナ讃歌に關する考察
の一節――」『印度學佛教學研究』 Vol.3,No.1
佐保田 鶴治(1955)
「リグ・ヴェーダに於ける密儀思想」『印度學佛教學研究』Vol.3,No.2
針貝邦生(2000)
「ヴェーダからウパニシャッドへ」清水書院
6
国語Ⅲ
ブックレビュー「科学における『説明』とはなにか」
人文・文化学群人文学類
渡 智一郎
1.
はじめに
水の沸点が窒素や酸素の沸点よりも高いのは、酸素は電気陰性度が高いため、水分子の
間に水素結合による分子間力が働くからである。このように、現実世界の現象がなぜ発生
するのかを説明する根拠として科学の理論が用いられる。しかし、なぜその説明が正しい
と言えるのかは明白ではない。ある説明は正しく、そうでない説明は正しくない、または
少なくとも適切ではないという判断はなぜ下せるのだろうか。科学的説明が満たすべき条
件とは何かという問いは科学哲学のテーマの一つである。ここでは小林道夫、サミール・
オカーシャ(Samir Okasha)、中才敏郎の三人の科学的説明に関する記述を比較する。
2.
小林道夫によるヘンペル批判
小林は、自然科学が自然現象の普遍的構造を探求し、その統一的記述を目指しているこ
とを指摘したうえで、科学は「非対称的」な「因果過程」や「因果的相互作用」が認めら
れるような普遍的規則性を求める営為であると述べる。因果的説明が科学的説明の本質に
あるとする小林は、科学的説明から因果性を排したヘンペルの説明理論を批判する。
ヘンペルの説明理論は包摂法則モデルというものである。ヘンペルによると、科学的説
明の本質とは、
「説明項」(これは規則的な一般法則と個別的な事実命題から構成される)が
「被説明項」の事実命題を包摂していることであると考えられる。ヘンペルは、科学的説
明の典型例として「単振り子の法則」を挙げる。単振り子の場合では、振り子の長さと振
り子の周期についての一般法則と、この振り子の長さが 100 センチメートルであるという
個別の事実命題から、この振り子が一往復するのに 2 秒かかるという事実命題が説明され
る。ヘンペルの説明理論に従うならば、この例のように、科学的説明には因果関係は必要
ではないということになる。しかし小林は以下のように因果の非対称性を根拠としてヘン
ペルの説明理論を批判する。
しかし、科学的説明とはこのような論理的構造を満足するものであるということに
なると、これに対して先に台風の襲来と気圧計の針の低下についてのべたことと同様
の難点を指摘できる。というのも、台風の襲来と気圧計の針の低下との間の法則的な
関係に基づき、その間の因果過程を無視して、気圧計の針の低下の方から台風の襲来
を説明しても、ヘンペルのいう科学的説明の条件は満足しており、そのような説明で
も立派な科学的説明であるということになるからである。この説明理論は前述の自然
現象に本質的な非対称的関係というものを考慮にいれないものになってしまうのであ
る。それは、ヘンペルが科学的説明をもっぱら論理的、認識的観点からだけ規定しよ
1
うとして、自然現象の科学的説明とは、単に事象の間の規則性や論理的関係を対象と
するのではなく、物理的自然という存在のレベルでの自律的非対称的規則性を問題に
するものであることを見過ごしているからである。1
このように、小林にとって科学的説明とは、とある自然現象が発生した理由を、原因と
結果という非対称的な関係に則って説明するものである。
3.
オカーシャによるヘンペル批判
オカーシャは小林と同様に、ヘンペルは因果関係の非対称性を無視しているとして包摂
法則モデルを批判する。オカーシャは、ポールと影の例と経口避妊薬を飲むジョンの例と
いう二つの例を取り上げて包摂法則モデルの難点を指摘している。
ポールと影の例とは以下のような例である。15 メートルのポールがあり、20 メートルの
影ができているとき、包摂法則モデルによれば、
「光は直進する」
「三角比の法則」という
一般法則と、
「太陽の仰角は 37°である」
「ポールは 15 メートルである」という個別事実か
ら、
「影の長さは 20 メートルである」という正しい科学的説明が導き出される。しかしこ
こで、
「影の長さは 20 メートルである」という個別事実から「ポールは 15 メートルである」
ということを説明しても、包摂法則モデルによれば正しい科学的説明となってしまう。し
かしポールの長さが 15 メートルであるのはポール業者が 15 メートルのポールを作ったか
らであり、影の長さが 20 メートルであるからではない。
また、経口避妊薬を飲むジョンの例とは次のような例である。ヘンペルの説明理論に従
えば、
「経口避妊薬を規則的に摂取しているすべての人間は妊娠しない」という一般法則と、
「ジョンは人間である」
「ジョンは経口避妊薬を定期的に摂取している」という個別的な事
実命題から、「ジョンは妊娠しない」という正しい科学的説明が導かれる。しかしジョンが
妊娠しないのはジョンが男性だからであって、経口避妊薬を摂取しているかどうかは関係
がない。以上の二つの例のように、ヘンペルの包摂法則モデルは、誤った説明も正しい科
学的説明として認めてしまうという問題があることがわかる。そこでオカーシャも小林と
同様に自然現象の非対称的な因果関係を問題とする。
しかしオカーシャは、小林と異なり、科学的説明とは単なる因果関係の説明にとどまる
ものではなく、現象を理論によって同定することも含まれると述べる。
Causality-based accounts of explanation certainly capture the structure of many
actual scientific explanations quite well, but are they the whole story? Many
philosophers say no, on the grounds that certain scientific explanations do not seem
to be causal. One type of example stems from what are called ‘theoretical
identifications’ in science. Theoretical identifications involve identifying one
1
小林道夫『哲学教科書シリーズ 科学哲学』, 産業図書, 1996 年, pp.60-61.
2
concept with another, usually drawn from a different branch of science. ‘Water is
H2O’ is an example, as is ‘temperature is average molecular kinetic energy’. In both
of these cases, a familiar everyday concept is equated or identified with a more
esoteric scientific concept. Often, theoretical identifications furnish us with that
seem to be scientific explanations. When chemists discovered that water is H2O,
they thereby explained what water is. Similarly, when physicists discovered that an
object’s temperature is the average kinetic energy of its molecules, they thereby
explained what temperature is. But neither of these explanations is causal. Being
made of H2O doesn’t cause a substance to be water – it just is being water. Having a
particular average molecular kinetic energy doesn’t cause a liquid to have the
temperature it does – it just is having that temperature. If these examples are
accepted as legitimate scientific explanations, they suggest that causality-based
accounts of explanation cannot be the whole story.2
以上のように、オカーシャは、「水は H2O である」
「温度とは分子の運動エネルギーの平
均である」のように、科学的説明にはあるものが別のあるものであると示したり定義した
りする働きもあると主張している。オカーシャの言うように、「あるものは別のあるもので
ある」というタイプの説明も科学的説明の中に含めるとするならば、因果論的説明である
ことを科学的説明の条件とする小林の主張は不十分であるということになる。
4.
中才敏郎による、サーモンの統計的関連性モデルの紹介
中才は、ヘンペルの包摂法則モデルの代替として、ウェズリー・サーモンの統計的関連
性モデル、略して SR モデルを紹介している。サーモンの SR モデルによれば、科学的説明
とは被説明項と統計的に関連する事実の集まりであるとされる。SR モデルを先に挙げたジ
ョンの例に適応すると、男性が経口避妊薬を摂取していることと男性が妊娠しないことの
間には統計的関連性がないため、ジョンの例のような説明を正しい科学的説明から除外す
ることができる。
しかし、中才は、サーモンの SR モデルでは原因と結果の非対称性を上手く説明できない
と指摘している。
当初サーモンは、説明に含まれる因果的要因のすべてを統計的関連性によって分析
できるのではないかと期待していた。しかし、彼はもはやそれが可能であるとは思わ
なくなる。それは右記の旗竿の例にみられる説明の非対称にかかわる。もし A が B を
説明するとすれば、B は A を説明しない。しかし、統計的関連性だけではこの非対称
2
Samir Okasha, Philosophy of Science: A Very Short Introduction, Oxford, 2002 年, p.52.
3
を説明できない。3
中才も小林やオカーシャと同様に、正しい科学的説明には因果関係を含むことが必要で
あり、サーモンの SR モデルもまた、ヘンペルの包摂法則モデルと同様に、因果的要因によ
って補完される必要があると述べている。
5.
まとめ
以上のように、小林とオカーシャと中才の三者による科学的説明に関する記述を比較し
た。三者ともヘンペルの包摂法則モデルを科学的説明の古典的理論であると認めながらも、
因果の非対称性を無視しているために不十分な説明理論になっており、因果的要因を加え
て修正する必要があると述べている。しかしヘンペルやサーモンによる説明理論は因果関
係を排したために明快となっているのは確かであり、また因果関係を説明理論の内部に含
めると、
「因果関係とは何か」というまた別種の哲学的問題が生じる。因果関係の実在を認
めるか認めないかによって正しいとされる科学的説明の理論もまた変わらざるを得ず、科
学哲学の中でも決定的に正しいと思われるような説明理論はまだ存在していない。
参考文献
小林道夫『哲学教科書シリーズ 科学哲学』, 産業図書, 1996 年.
Samir Okasha, Philosophy of Science: A Very Short Introduction, Oxford, 2002 年.
中才敏郎「科学的説明の構造」
『岩波講座 哲学 9 科学/技術の哲学』, 岩波書店, 2008 年.
3
中才敏郎「科学的説明の構造」『岩波講座 哲学 9 科学/技術の哲学』, 岩波書店, 2008 年, p.28.
4
国語Ⅲ ブックレビュー
現象学解釈
新井 洸樹
1.はじめに
現象学はフッサールによって確立された哲学である。現象学の解釈は現象学者の数だけ
存在するといわれ、フッサールの後継者たちの中で次々に変容を見せている。それだけでな
く、フッサール自身においても現象学に対する解釈は変化している。本稿では多くの現象学
者に批判的に摂取されてきた、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティそれぞれの現象
学の特徴を取り上げ、現象学について考えたい。
2.フッサール:超越論的現象学
2.1. 意識の存在不可疑性
フッサールの現象学は意識が不可疑的に存在していることを強調する。ここでの意識は
現象学における概念なので通常の意味を持たない。現象学の意識は以下のような分析を通
して判明するようなものである。
フッサールによれば、われわれは自分の意識を反省することができる。その反省では〈~
を意識している〉ことを意識するである。意識は常に何かに直進的に向けられており、われ
われは自分が何かを意識しているということや意識の仕方に対して無自覚である。
「反省を
つうじてこそ、われわれは直進的に与えられた端的な事象」の代わりに、
「それらのものに
対応する主観的な体験を把握する」(1)である。つまり、意識を反省する分析によって、意
識とは物、感情、イメージ、世界という事象が現れている場であることが判明する。
この分析においてフッサールは通常の意味での意識に特に注意を促している。
「経験され
る『外的なもの』は志向的な内在に属していないが、しかしながら、その経験そのものは、
外的なものについての経験として、志向的な内在に属している」ので、「現象学的反省を遂
行するときには、反省されていない意識のなかでなされた客観的措定をともに遂行するの
をいっさい禁止せねばなら」(2)ない。つまり、通常の意味での意識は客観的に存在する世
界の中にあり、その世界の中にいる数多ある人間の意識の一つだ。しかし、
〈世界〉も〈そ
の中にある自分の意識〉も本来は意識という場において現れているのだから、意識の外に客
観的な世界があるとは想定してはならないということである。
現象学の意味においての、事象が現れる場としての意識は不可疑的に存在する。このこと
についてフッサールによれば、
「意識生の主観性」が「疑いえない存在の地盤」であるのは、
意識が「普遍的な問いである限りの超越論的な問いが、問いのうちに立っている[=疑いう
(3)
る・疑わしい]とみなしているようなものと混同されてはならない」
からである。これが
意味するのは次のことである。意識は意識に現れる事象とは異なる。例をあげると、見えて
いる〈あるもの〉は錯覚であることが否定できない。同様に体験している世界は夢かもしれ
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ない。事象の意味と存在は不確かなのである。だが、本来事象は意味と実在性をもって意識
に現れる。錯覚では見えている〈何か〉はなくならず、意識が初めは〈何か〉を〈あるもの〉
として把握し、次に、
〈何か〉を〈別のもの〉として把握し直している。この時、
〈あるもの〉
は変わっても〈何か〉は同じままである。また、夢とは体験している世界が非実在的に意識
に現れたということなのだ。意味や存在の不確かさとは意識が事象を把握する仕方の問題
にすぎずない。それとは別に、意識という場とそこに現れる〈何か〉は不可疑的に存在して
いるのである。
2.2. 世界と意識
フッサール現象学において顕著なのは世界が意識によって構成されているということで
ある。フッサールによれば、世界が夢や錯覚という形で不確かな存在である一方、意識は不
可疑的に存在している。また、
「世界がひとたび意識主観性に関係づけられたならば、その
世界は意識主観性の意識生の中でこそまさにそのつどの意味をもった『この唯一の』世界と
(4)
して立ち現れる」。
つまり、反省によって世界が意識に現れると、世界は意識の作用に相
対的であると判明する。世界は想像によっていかようにも変様できるからだ。意識の不可疑
的な存在と世界の相対性から判明するのは、意識の場に現れる世界や様々な事象に先だっ
て意識が存在していることである。そして意識が後れて存在する事象を構成するというこ
とである。世界を構成するこのような意識をフッサールは超越論的主観性といい、世界の源
泉である意識を研究する超越論的現象学として現象学を特徴づけている。
2.3. 厳密に基礎づけられた学問
フッサールは学問全てを基礎づける役割を超越論的現象学に与えている。学問で用いる
概念や分類を精査するには「疑いえない存在の地盤を前提にするのであって、[その問いの]
解決の手段はすべてこの地盤のなかに含まれているのでなければならない。この地盤とは、
ここでは、可能な世界が総じて意識生の中でこそ眼前に存在する世界として構成されてく
(5)
るかぎり、そうした[超越論的な]意識生の主観性である」
からである。つまり、世界は意
識に構成されたものであり、不可疑的に存在する意識はそれ自体絶対的な基盤となり得る。
それ故に世界は意識に依存し、世界は意識によって基礎づけられるということである。フッ
サールは研究者としての初端で主観的心理的作用から客観的な対象がいかに生じるかを研
究していた。人それぞれ主観的な体験から客観的な学問がどのように基礎づけられるかを
問題にしていたのである。その問題意識はそのまま現象学にも引き継がれている。
2.4. フッサール現象学のまとめ
フッサール現象学では、意識の存在は不可疑的であることが強調され、世界は意識によっ
て構成されている。このことが現象学による学問全体の基礎づけに密接に関連している。フ
ッサールは研究の初端において学問を基礎づけるという問題意識を持ち、晩年の超越論的
現象学は基礎づけを実現するものとしている。そうであるなら、現象学全体に学問基礎づけ
という思想が伏流し、意識や世界についての発見がその思想に絡むのは当然のことだとい
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える。
3.ハイデガー:現象学的存在論
3.1. 現象学と存在論
ハイデガーは「現象」
、
「真理」、
「ロゴス(学)」の原義に立ち返って、
「現象」+「学」を
形式的に定義している。
「
『現象学』とは」
「じぶんを示すものを、それがじぶんをじぶん自
(6)
身の側から示すとおりに、じぶん自身の側から見えるようにさせること、なのである」
。
この意味は現象学が意識に現れるままに事象を捉える学問だということだが、それは現象
学の基本的姿勢そのままである。しかし、以下に見るように、ハイデガーにとってこの形式
的な現象学によって顕わにすべき事象とは存在者の存在に他ならない。
現象学とは存在論の主題となるべきものへの接近するしかたであり、それを証示しな
がら規定するしかたである。存在論は現象学としてのみ可能である。現象に関する現象
学的概念とは(自分を示すもの)であって、それは存在者の存在、その意味、さまざま
なその変様と派生したありかたを意味している。(7)
「しかた」を強調するように、ハイデガーは現象学を単に方法論と捉え、現象学によって顕
わになる事象自体を規定していない。意識に現れるままに事象を捉えることは存在を顕わ
にするのに適切な方法なので、現象学における事象を存在に限定して扱っている。しかし現
象学は存在論の方法に過ぎず、あくまで目的は存在論であると述べている。
3.2. 現存在という意識
ハイデガーは現象学によって存在論を展開する前に、存在を問うこと自体を問題にして
いる。存在者からその存在を正しく開示されるためには、次のような存在者の存在をまず解
明する。
存在の問いを仕上げるとは、それゆえ、或る存在者―まさに問う存在者―を、その存在
において見とおしがよいようにすることにほかならない。存在の問いを問うというこ
とは、或る存在者の存在様態として、問いにおいて問われているもの―存在―の側から、
本質からして規定されている。この存在者は、私たち自身がそのつどそれであるもので
あり、またとりわけて問うという存在可能性を有するものである。その存在者を、術語
的に現存在ととらえよう。存在の意味への問いを明示的に見とおし良く設定ためには、
或る存在者(現存在)をその存在にかんして、先だって適切に解明することが要求され
(8)
る。
つまり、われわれは存在を問うという特殊な存在者なので、われわれにおいて存在を問う仕
方と存在を問うこと自体を問題にしなければならない。ところで、ハイデガーでは現存在と
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はわれわれであり、存在の研究では現象学的に、意識において現れるままに存在を捉える。
それ故に、その現存在が存在を問うことを問題にするとは意識自体を問題にすることであ
る。ただし、存在を問うという点でのみ意識は問題にされている。
3.3. ハイデガー現象学のまとめ
フッサールにおいて現象学は意識に現れるままに対象を捉えようとするものである。こ
れはハイデガーも同様である。しかし、それはもっぱら存在を問い、存在論を展開するため
の方法である。意識を問題にするのも存在論を展開する土台を作るためである。フッサール
(9)
とは異なり現象学を規定せず、
「現象学を可能性としてとらえ」
ている。哲学史家であっ
たハイデガーは古代ギリシャから哲学史を俯瞰して哲学とは存在論であると考えていた。
そこに無規定な現象学が方法を提供してくれたということなのである。
4.メルロ=ポンティ:現象学の現象学
4.1. 世界と反省
メルロ=ポンティは意識を反省することを見直して、意識が世界に先立ち世界を構成す
ることを否定している。
私が反省を始めたとき、私の反省は非反省的なものについての反省だった。反省がそこ
で一つの真の創造として、意識構造の一つの変化としてあらわれてくると、もう反省は
自分自身を[世界内の]出来事として認めないわけにはいかなくなり、したがって、反省
は[反省作用という]自分自身の作業の手前で[それに先立って]世界というものの存在す
ることを認めざるを得ないわけであって、この世界は、主観が主観自身にたいしてあた
(10)
えられている以上、もともと主観にたいしてあたえられているものである。
つまり、徹底的に意識を反省すると、その反省がむしろ反省される前の生活をきっかけと
し、その生活に依存していることが明らかになる。それ故に、世界とは「それについて私の
(11)
なし得る一切の分析に先立ってすでにそこに在るもの」
であり、そうであれば意識は世
界を超越するのでなく「世界に身を挺している主体なのであ」(12)る。
4.2. 世界との関係
フッサールは、事象が意識の外に客観的にあると想定してしまうことに注意を促した。事
象を意識に現れるままに捉えるためにはその想定は障害であるからである。しかし、メルロ
=ポンティはこのように述べている。
われわれは徹頭徹尾世界と関係していればこそ、われわれがこのことに気づく唯一の
方法は、このように世界と関係する運動を中止することであり、あるいはこの運動との
われわれの共犯関係を拒否すること(中略)であり、あるいはまた、この運動を作用の
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外に置くことである。それは自然的態度にもっている諸確信を放棄することでなくて
(中略)むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として〈自明なものとなっ
ており〉、それと気づかれないで適用しているからこそそうするのであり、したがって
それらを喚起しそれとして出現させるためには、われわれはそれらを一時差し控えな
ければならないからこそそうするのである。(13)
メルロ=ポンティの考えでは世界を意識していることに無自覚な態度が人間に根源的で
ある。フッサールにおける意識の外の客観的な事象という想定もこの態度の中に含まれる。
現象学はその無自覚な態度をどこかに捨てるのでなくむしろ詳しく調べるために態度を差
し控えるのである。
4.3. 現象学の無規定さ
現象学はその確立から数十年を経てなお、一義的に規定されていなかった。このことに対
して現象学と他の学問を対比してメルロ=ポンティは次のように述べている。
現象学は(中略)自己自身を基礎づけている。あらゆる知識が公準の〈地盤〉のうえに
(中略)支えられているのに、哲学[現象学]だけは徹底的な反省として、このような手
段を原理的に欠いてしまっている。[けれども]、哲学もまた歴史のなかに在るのだから、
哲学もまた[あらゆる知識と]おなじように世界および構成された理性を用いているわ
けである。したがって、哲学は自分があらゆる知識にさし向ける問いを、自分自身にも
さし向けねばならぬであろうし、したがって哲学は、自分を無限に二重化してゆくこと
だろう。こうして、哲学はフッサールも言うように、(中略)それが自分の意図にあく
までも忠実にとどまるちょうどそのかぎりで、それは自分が一体どこに行くのかをけ
っして知らないと、いうことになるだろう。こうした現象学の未完結性と、いつも事を
はじめからやり直していくその歩みとは、一つの挫折の兆候でなくて、むしろ不可避的
なものなのであって、それというのも、現象学は世界の神秘と理性の神秘とを開示する
ことを任務としているからである。(14)
例えば、自然科学的な見方では、世界の全ては数式で表現できるものであり、我々が体験
するのは主観的な世界である。自然科学のこのような前提とは異なり、現象学は意識を分析
することに前提を置かない。事象が意識に現れるまま捉えるのなら、分析した結果の正しさ
を保証するのは事象だけである。また、事象の現れが同じとは限らないのだから、以前の分
析結果を前提に分析を継続することは許されない。分析は事象に即していつも初めからや
り直さなければならないのである。こうしてメルロ=ポンティは現象学の学的体系性を否
定している。
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4.4. メルロ=ポンティ現象学のまとめ
意識を徹底的に反省することを通して、メルロ=ポンティは意識が世界に先だってはい
ないと主張している。何故なら、意識は根源的に世界を無自覚に意識しており、この無自覚
な態度での生活にきっかけがあって意識を反省し始める。その生活に意識の反省は依存す
るので、意識はそれ自身が世界に身を挺している状態で発見されるからだ。メルロ=ポンテ
ィにとっての現象学とは世界を意識していることに無自覚な態度を差し控え、その態度で
の意識の仕方を明らかにすることである。調べる対象には論理法則や意識分析の結果など
の思惟の前提が含まれるので、現象学は体系哲学でなく毎度初めからやり直す省察となる。
5.批判と考察
フッサ-ルは意識が世界に先立ち、世界を構成するものだと捉えている。意識の存在は不
可疑的であり、世界の存在は不確かだ。また、世界は意識に対して相対的だ。それ故に、存
在において先立つ意識が世界を構成している。しかし、フッサールのこの思想は思弁的な推
論にすぎない。現象学では意識の場で事象が現れるままに世界を捉えなければならないは
ずだ。世界が構成されることを推論によって導いてはならないのである。
加えて述べると、メルロ=ポンティの学説を採用して、意識を反省することに先だって世
界が存在していると結論付けてはならない。さらには、意識の反省を通して事象を捉えるこ
とを徹底すれば、メルロ=ポンティの現象学として参考にすることも許されない。参考にす
るのでなく、意識に現れた〈メルロ=ポンティの現象学〉という事象として見ていくのであ
る。その事象が〈現象学というこの反省はいつも初めからやり直す〉と意識に現れているよ
うに、もはや現象学は学知として共有されることを原理的に拒否しているといえる。
また、現象学的研究において事象の現れに忠実であろうとすれば、その研究をいつも始め
からやり直さなければならない。意識の場では〈私〉
、
〈自分〉
、
〈メルロ=ポンティ〉という
概念すら意識にどのように現れるか問題にするように、全てを前提にしない地点から始め
るのである。しかし、そのような意識の場で現れる事象は捉え難い。既存の概念、論理法則、
思考法は前提とされないので、事象の現れは無規定的であるからだ。フッサールは事象が持
つ構造に着目して認識と学問を基礎づけようとし、ハイデガーは現象学を存在を顕わにす
る単なる方法とした。このように現象学の規定が現象学者によって異なるのは事象の捉え
難さにある。それ故に、ハイデガーは現象学を可能性として、メルロ=ポンティは無限の省
察として捉えたのだろう。
註
(1)エトムント・フッサール『ブリタニカ草稿』,谷徹訳,筑摩書房,2004 年,11 頁
(2)同上書,16~17 頁
(3)同上書,36 頁
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(4)同上書,30 頁
(5)同上書,36 頁
(6)ハイデガー『存在と時間』、熊野純彦訳、岩波書店、2013 年,201 頁
(7)同上書,205 頁
(8)同上書,94 頁
(9)同上書,215 頁
(10)M.メルロ=ポンティ『知覚の現象学 1』,竹内芳郎・小木貞孝訳,みすず書房, 1971
年,6 頁
(11)同上書,6 頁
(12)同上書,8 頁
(13)同上書,12 頁
(14)同上書,25 頁
参考文献
エトムント・フッサール『ブリタニカ草稿』
,谷徹訳,筑摩書房,2004 年
ハイデガー『存在と時間』
,熊野純彦訳,岩波書店、2013 年
M.メルロ=ポンティ『知覚の現象学 1』
,竹内芳郎・小木貞孝訳,みすず書房, 1971 年
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水戸学における尊王攘夷論
― 会沢正志斎の思想から ―
飯塚
光
1. はじめに
19 世紀半ば、欧米諸国の接近や幕府権力の失墜によって日本は変革を迫られていた。こ
の危機的状況の中で尊王攘夷論1と呼ばれる思想が生まれ、多くの武士に影響を与えた。や
がては明治維新の原動力となるこの思想には、水戸学2が深く関係している。本稿では水戸
学の会沢正志斎に関する論考を比較検討することで、水戸学における尊王攘夷の思想につ
いてまとめる。
2. 会沢正志斎
会沢正志斎(1782~1863)は幕末期の水戸藩士である。後期水戸学の祖である藤田幽谷を師
とし、尊王攘夷論を体系づけた。正志斎が考える尊王攘夷論について、張(2008)、大川(2007)
の考察を基に検討する。
2.1. 張(2008)の考察
正志斎は諸外国に対する日本の優越性を創出するために日本神話を利用し、さらに「儒学
の華夷思想に基づき、日本を世界の中心としての神州と位置づけ、西洋諸国を夷狄と見なし
て卑しめる、という上下関係の理論を展開している」(張 2008:49)と述べている。その一方
で、正志斎は儒学の易姓革命を完全に否定し、日本は皇統が続いているから他国より尊いと
している。その理由は、君臣の義としての忠、父子の親としての孝が日本では完璧に実践さ
れてきたためである。この内容について、張は次のように説明している。
天皇は祭祀によって天にいる天祖に孝行をすることができる。人民は天皇に学んで自
らの祖先を祭祀することによって孝行ができるにとどまらず、さらに祖先の有してい
た天皇に忠義を尽くすという遺志を継受することによって当然、孝行の一環としても
天皇に忠誠を尽くさなければならない。(張 2008:50)
つまり、天皇、人民がそれぞれ孝行を実践し、その中でも人民は祖先に倣って天皇に忠義
を尽くす必要がある。人民による天皇への忠孝がシステムとして機能していたのである。
幕府に対する正志斎の考えについては、
「徳川家康も豊臣秀吉に次いで君臣の義を守って
1
尊王攘夷論とは、天皇を支配者として尊ぶ尊王論と、諸外国の接近を排斥しようとする攘夷論が結びつ
いた思想である。
2 一般的に、水戸学は江戸時代初期に興った前期水戸学、幕末期の後期水戸学に区別されるが、本稿にお
ける水戸学は後期水戸学を指す。
1
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皇室に忠誠を尽くしたから、二百年の太平の治世が成り立ったと指摘している」(張 2008:50)
と述べているように、人民と同じく天皇に対する忠義が徹底していることを示している。し
かし、この太平の治世が長く続いたことによって人民は忠孝を忘れてしまった。それだけで
なく、正志斎は民衆に対する不信感を抱き、民衆は仏教やキリスト教などの邪説によって動
かされる可能性があると指摘している。
このような背景があったために、尊王攘夷論について、
「天皇が天祖を祭祀して忠孝の道
徳理念を尊ぶと同時に、それによって人心を結束し、さらに幕藩の封建体制を護持し、強化
しようとする正志斎の意図がうかがわれる」(張 2008:51)と張は考察している。結局のとこ
ろ水戸学の尊王攘夷論は幕藩体制の維持を目的としたものであり、幕藩体制そのものの改
革という考えには至っていないのである。
2.2. 大川(2007)の考察
正志斎の尊王攘夷論は「自然」に基づいたものである。この「自然」とは、「おのずから
という自己生成的な内容を第一義」(大川 2007:116)とするもので、言説や理性による支配で
はなく、人民の心から自然と湧き出る天皇への忠義を活用するものである。国家的危機に瀕
した日本は、統一的なイデオロギーの構築が必要であった。藤田幽谷もイデオロギーを構築
したが、その方法は「正名」3を思想の原理とした言語的作為によるものであった。正志斎
はこの言語的作為を否定し、「秩序の『自然』なる性格を強調することで、イデオロギーの
統一化を企てた」(大川 2007:117)のである。
次に、正志斎は人の心を「活物」と捉えていた。大川は、
「正志斎は、万物を活動・流行
する『活物』として捉え、その流行・活動を重視する一方、その実相は不可知で畏敬するべ
きものだと述べている」(大川 2007:116)と考察している。心という曖昧な存在であるがゆえ
に良い方向にも悪い方向にも向かう可能性がある。そのエネルギーは膨大であるため、正志
斎はキリスト教への警戒心を募らせ、不安定な「活物」たる民心に一定の方向性を与えるこ
とが必要だと考えたのである。大川は次のように述べている。
正志斎は、
「活物」たる人心の活動に注目し、その活動エネルギーを祭政により結集し
統一的国家を形成することで内憂外患の国家的危機を打開できるとして強い期待感を
示した。(大川 2007:122)
人民の心を重視し、国家的危機を乗り越えるという意識を人民自らが持つことを正志斎
は渇望したのである。
3
「正名」とは、
『論語』子路篇に典拠を持ち、
「名」
(名称・名義)と「実」
(事・物の実態)との一致を
行うことである(大川 2007:113)
。
2
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3. まとめ
正志斎の尊王攘夷論について、張は、正志斎は神話や皇統の継続性といった歴史的観点、
人民の天皇に対する忠孝という視点から日本の優越性を強調しているとし、人民には不信
感を持ち、あまり高い評価をしていないと述べている。その一方で大川は正志斎の自然につ
いて取りあげ、人心を活物と捉えることでそのエネルギーを重視していると述べている。正
志斎が考える尊王攘夷論の根拠として、張は歴史に、大川は人に重点を置いていることがわ
かる。しかし、両者とも祭祀による人民の統合という点は共通している。
水戸学は江戸時代初期から存在する学問であり、幕府とも密接な関わりがある。それゆえ、
水戸学の尊王攘夷論には人民を「上から」統合する姿勢が表れており、国家の改革を目的と
した思想ではあるが、人民の統制をはかる意図が見え隠れしている。やがては討幕論へとつ
ながるこの思想は、その人民が中心となって全国に影響を及ぼすこととなる。水戸学から始
まる尊王攘夷論がどのように変化したのか、さらなる調査が必要だと感じた。
【参考文献】
大川 真(2007)「後期水戸学における思想的転回―会沢正志斎の思想を中心に―」
『日本思想
史学』39 号,pp.112-128.
張
惟綜(2008)「水戸学と吉田松陰」
『哲学・思想論叢』26 号, pp.45-59.
3
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ナショナリズムの今後の展望
伊藤 千敬
1.はじめに
昨今、混迷する世界情勢の中で盛んに話題となっている言葉がナショナリズムである。
しかし改めてナショナリズムと社会の関係性について考えようとしたときに、この言葉は
かなり漠然としているため、なかなか明確に捉えることができない。そこで今回はナショ
ナリズム論における議論で特に受け入れられている二つの著作を相互に検討しながら、今
後ナショナリズムという考え方がいかに世界に影響を及ぼしていくのかということを考察
していきたい。
2.ネイションとナショナリズム
ナショナリズムを考えるにあったてはそれを行う主体である国民及びネイションという
概念について考えなければならない。アンダーソンは『想像の共同体』において
国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体-imagined political
community-である。-そしてそれは本来的に限定され、かつ主権的なもの{最高の意
思決定機関}として創造される1
とし、国民という概念が想像の産物であり、確固とした基盤を持たない文化的人造物であ
ると主張している。この議論を踏まえさらにアンダーソンは「18世紀末に至っておのず
と蒸留されて作りだされた」2ナショナリズムが「きわめて多様な、政治的、イデオロギー
的パターンと合体し、またこれに合体されていった」3ために捉えようのないものとなった
としている。この点においてはスミスも『ナショナリズムの生命力』においてネイション
とは
歴史上の領域、共通の神と歴史的記憶、大衆的・公的な文化、全構成員に共通の経
済、共通の法的権利・義務を共有する特定の名前のある人間集団4
であるとし、この定義の抽象性ゆえに様々なイデオロギーと結合することができるのだと
主張する。ネイションという極めて曖昧な想像の産物によって生み出される政治的運動及
1
2
3
4
B・アンダーソン『定本 想像の共同体』(2007,書籍工房早山) pp.24
B・アンダーソン『定本 想像の共同体』(2007 書籍工房早山) pp.22
B・アンダーソン『定本 想像の共同体』(2007 書籍工房早山) pp.22
D・スミス『ナショナリズムの生命力』(1998,株式会社晶文社) pp.40
国語Ⅲ ブックレビュー
びイデオロギーとしてのナショナリズムは曖昧かつ人々に単純なことしか求めない純粋な
創造物であるゆえに強力な運動となりうるのである。
3.ナショナリズムの起源
ではこのナショナリズムを作りだしたものは何なのだろうか。ナショナリズムの起源に
ついては近代以降に生み出されたという説と近代以前から存在していたという二つの説が
ある。アンダーソンは
人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新
しい形の想像の共同体の可能性が創出された。5
と主張して、近代の出版資本主義がナショナリズムを成立させたと考える。小説や新聞な
どの出版物に資本主義が結びついた出版資本主義は産業革命が勃興した近代以降に成立
し、人々に同時性の概念を定着させた。同時性の概念とは複数の人間が同じ時期に別々の
場所に存在しているという概念である。小説と新聞の登場によって人々は初めて、同時性
の概念を手に入れ、お互いが共同体の一員であると認識するようになったとアンダーソン
は主張している。しかしかくも現在において強力な影響を及ぼすナショナリズムが出版資
本主義の登場だけで成立するのだろうか。
スミスはナショナリズムの成立の前段階として近代以前から存在するエスニーの存在
を提唱している。エスニー6の持つ属性としては
1 集団に固有の名前
2 共通の祖先に関する神話
3 歴史的記憶の共有
4 一つまたは複数の際立った集団独自の共通文化の要素
5 特定の「故国」との心理的結びつき
6 集団を構成する人口の主な部分に連帯感がある7
としている。ではなぜスミスはネイション及びナショナリズムの起源をエスニーに求める
のか。それは様々な集団がネイションを創出しようとするときには集団特有のエスニーを
利用しているからである。私たち日本人は日本人いう名前を持ち、イザナギ、イザナミに
代表されるような共通の神話、縄文時代からの継続した歴史認識、すしやわびさびといっ
た固有の文化、日本列島内における連帯感を持っている。私たちが日本にアイデンティテ
5
6
7
B・アンダーソン『定本 想像の共同体』(2007,書籍工房早山) pp.86
スミスの導入している概念。民族共同体を指す。
D・スミス『ナショナリズムの生命力』(1998,株式会社晶文社) pp.52
国語Ⅲ ブックレビュー
ィを見出すときには無意識のうちにこれらを利用するのである。こういった民族的基盤に
依拠することによって、私たちはネイションを創出したのである。
4.ナショナリズムの今後
ここまではネイション及びナショナリズムがどのような性質を持ち、どのような背景を
持って生まれてきたのかということについて考えてきた。この章ではこれまでの議論を踏
まえたうえで、ナショナリズムが今後、世界にどのような影響を及ぼしていくかを考えて
いきたい。昨今グローバル化の波が世界を席巻している。このグローバル化によって私た
ちは国家というものをなくすことができるのだろうか。アンダーソンはナショナリズムの
今後についてあまり言及していないが、スミスは「ネイションが越えられるとか、ナショ
ナリズムが新しい何かにとって代わる可能性は極めて小さい」8と主張している。私は人類
が一つの言語だけでコミュニケーションを図り、一つの国家だけで社会を構築していくの
は不可能であると考える。私たちの大半はある特定の国家のもとに生まれる。その土地に
古くから根付く文化や言語の規範のもとで育っていく私たちの行動は、そういったものに
規定される。言語や文化はその土地固有の様々な生活様式に依存して変化していくため、
同一の地区に住まない限り、言語も文化も多様化していくのである。したがって帰属意識
を持つはずの文化や地域も多様となるため、ネイションを超えていくのは不可能であり、
ナショナリズムは今後も大きな影響を及ぼすだろうと考えられる。
5.まとめ
昨今の排外主義とグローバリズムが混在する中で私たちは争いの裏に潜む利権や領土問
題を見据えつつ、異文化をよく理解し、認め合うことが大切であるのだと思う。ナショナ
リズムが盛んに叫ばれている時代だからこそ、その概念をよく理解し、考えていくことが
必要だ。
参考文献
B・アンダーソン『定本 想像の共同体』(2007,書籍工房早山)
D・スミス『ナショナリズムの生命力』(1998,株式会社晶文社)
8
D・スミス『ナショナリズムの生命力』(1998,株式会社晶文社)pp,296
書きことばに表れる話しことば的要素
梅里
文
はじめに
三宅(2005)は、携帯で音声言語でなく文字言語を使うのは、相手との適切な距離感を作り
出し、その中で相手への配慮を行うためだと述べる。携帯という持ち運びのできる親密性の
ある道具で、文字言語という間接的なメディアを使う。そうすることで適切な距離を作りだ
して、相手への配慮を行っている(三宅 2005)。
携帯メールなど、持ち運びのできるメディアが広まったことで、書きことばは話しことば
的要素を持つという新しい特徴を持つようになった。そうした新しい特徴は、書きことばに
おいてどのような役割を持つのか。本稿では、話しことば的要素が表れやすい携帯メールや
手紙における話しことば的要素の役割について記す。
1. 話しことばと書きことばの違い
書きことばに表れる話しことば的要素とは、どのようなものを指すのか。話しことばと書
きことばの違いを整理する。
1.1. 話しことばと書きことばの特徴
「話しことばと書きことばの最も基本的な相違はことばの完全さの違い」(畠 1989)であ
る。話しことばは即時性を持つ。そのため話しことばは不完全でもよく、受け手の反応を見
ながらその不完全さを補ったり修正したりする。対して書きことばは受け手の反応をすぐ
に確認できない単方向性の強い表現である。一回で話し手の意図を過不足なく伝える必要
があるため、書きことばには完全さが求められる。そのため、受け手へ伝わる前に修正する
必要がある(畠 1989)。
1.2. 話しことばの要素
ことばは何らかの意味内容を伝える。話しことばではその意味内容と同時に、表情、視線
といった身体表現、イントネーションやアクセントといったプロソディー(韻律)などの意味
内容以外の情報も伝える。意味内容以外の情報には女性や老人であるといった、話し手の意
図しない情報も含まれている。書きことばに比べ、話しことばはより「多様な情報を伝達し
ている」(森・前川・粕谷 2014)といえる。森・前川・粕谷は、話しことばの意味内容以外
の要素を「ノンバーバル」とした。その中で特に声の大きさなど、話し手が自由に強度を変
化させることのできるものを「パラ言語情報」とよんだ。
2. 書きことば
携帯メールなどのメディアの登場によって、書きことばのなかには、書きことばでありな
がら、
「
『まるで話しているようだ』と評されるほど、
『話しことば』的」(三宅 2005)なもの
が現れた。本節では、携帯メールと手紙を取り上げ、それらに現れる絵記号がどのような役
割を担っているか検討する。
2.1. 携帯メールにおける絵記号
携帯メールは書きことばでありながらある程度の即時性も併せ持つことから、不完全な
書きことばだといえる。
「携帯メールは『まるで話しているように』書く」(三宅 2005)とい
われるほど話しことば的であり、話しことば的要素を含んでいる。三宅は携帯メールにおい
て話しことば性は以下のように現れると述べる。
①
返信の速さとテンポ
②
語りかけ→応答
③
絵記号類でポーズ、あいづち、トピック転換
④
挨拶 (pp.246-249)
①、②に関しては、携帯メールの持つ即時性が関係している。タイムラグが少なく、会話の
ようなテンポを保つことができるためだ。携帯メールは「親密性が高く」、
「返信が早」いと
いう特徴を持つ。そのため、携帯メールでは「とくに文末と文頭の諸要素に会話らしい構造
の特徴」(三宅 2005)を見ることができる。④の挨拶もその一環である。
しかし、携帯メールは話しことば的であるとはいっても、文字言語である。そのためパラ
言語情報は欠けてしまう。しかし、三宅によれば、対面の会話でみられるプロソディーやパ
ラ言語を、携帯メールは視覚表現性によって補っており、そればかりか、その視覚表現性を
使って新たなコミュニケーションをとっている。
携帯メールでは、対面会話のコミュニケーションで重要な役割を果たすプロソディ
ーやパラ言語は失われてしまう。それを補うために、視覚に訴える表現として、絵
文字・顔文字をはじめとする様々な工夫がみられる、というのがこれまでの主要な
解釈であった。(中略)しかし、表情・動作などの欠如を補うばかりでなく、それ以上
の効果を狙って使われているように思われる。すなわち、メールの視覚に訴える表
記は、対面会話では実現しにくいコミュニケーションを可能にしているのではない
だろうか。(pp.252-253)
絵文字の中の定番と考えられるものの多くは、これまでも漫画や親しい友人間の手
紙などに表れていた。(中略)携帯メールではそれが定型化されて絵文字として定着
した。ボタンを押せば選択できる文字の一つとして提示され、一瞬のうちに表出で
きるようになったのである。(p.253,括弧内は本稿筆者)
携帯メールでは、顔文字によって表情を表現することや、意味内容の補足としての絵文字
を使うことで、プロソディーやパラ言語を補っていると考えられてきた。しかし三宅は、絵
記号の役割はそれだけではないと述べる。意味内容と全く関係のない絵文字を使ったり、句
点の代わりに絵記号を使ったりする。これらの使い方は、パラ言語情報の補完という解釈で
は説明できないからだ。
携帯メールは絵記号を用いて、パラ言語情報だけではなく、視覚的なコミュニケーション
をとっているとされる。
2.2. 手紙における絵記号
本項では、手紙に現れる絵記号について検討する。手紙は、携帯メールに比べ、より単方
向的であり、即時性が低く、より書きことば的である。手紙に現れる EGS1(Emotive Graphic
Sign,使用者の意図を表現する媒体)は、「書きことば(特に私信)」である。特に、
「カジュア
ルな、友達同士の、秘密の、情感にあふれた、遊び心のある、といったコンテクストを即時
的に醸成する」(片岡 2009)ため、携帯メールの親密性に通じるといえる。
片岡によれば、手紙に現れる絵記号は意味内容の補強の意味を持つものがある。その一方
で、意味内容とは関連しない絵記号が付与されることがあり、これは絵記号自体の意味以外
を表すとされている。
EGS は(中略)「間接指標」として、その機能とプロセスが潜在的かつ意識外にあり、
隠密裏にテキスト構築上の共有知識を具現していると考えられる。(中略)強く情緒
を指標する終助詞(『ね』や『よ』など)と同期しながらコンテクスト化を推進する。
(p.108,括弧内は本稿筆者)
EGS は、ことばに重層的にかぶさるプロソディックな、パラ言語的特徴に比類し得
る。つまり、高い声や低い声、ある種の音調や強弱のリズムと同様、ある種の字体
やエモティコンの使用が特定の人物像やジャンルと結びついているのである。
(p.109)
手紙文における絵記号は、携帯メールのように定型化されていない。しかし、定型化して
いない絵記号も、機能、プロセスを共有しており、話し手と受け手両方において、共通の意
味を受け取っている。また、私信の中で用いられる絵記号は、「終助詞と同期」して、句点
的な役割を持つ。
1
EGS は図画的記号のみならず何らかの情緒的意匠を凝らした事態の変異も含める。
一方で、
「エモティコン(本稿における絵記号)が命題内容との不一致や齟齬をきたす」(片
岡 2009)ことが指摘される。これは絵記号が意味内容を補強するだけでなく、パラ言語情報
を含むことを示している。
3. 比較・検討
携帯メールと手紙における絵記号の使用には共通点がみられる。まず、意味内容と同一の
意味を持つ絵記号を用いることで意味内容の補足としたり、句点的な役割を絵記号に負わ
せたりすることで視覚的な表現を行ったりするところがあげられる。
また、手紙文における絵記号は「特定の人物像やジャンルと結びつく」ことから、携帯メ
ールのように定型化されていないながらも話し手と受け手において共通する意味を持って
いると考えられる。
前節で手紙文において絵記号はパラ言語情報を含むとされたが、携帯メールを音読する
実験においても、絵文字のついているほうがより高く発音される結果となった(久保田
2012)。この結果は、絵記号がパラ言語情報を含有するということを示唆している。
手紙と携帯メールにおける相違点の最も大きいところは、自由度だと考えられる。携帯メ
ールでは、機種により文字数やフォントに制限される。対して手紙文では、丸文字や文字の
一部分だけの改変などを自由にすることができる。また、形式も自由に変えられることで、
手紙全体の用紙、装飾などの情報も併せて発信することができる。これらはすべて話しこと
ばにはすることのできない、書きことば独特の視覚重視のヴィジュアル・コミュニケーショ
ンということができる。
書きことばは、このようにして、絵記号やフォント、文字の選択に代表される視覚表現性
を加えることで、書きことば独特の表現を得たといえる。
4. おわりに
書きことばは、ある程度まで話しことばに近づけることが可能だとわかった。さらに、話
しことばでは表現できない書きことば独特の視覚表現を行っていることも知ることができ
た。これらは書きことばの可能性を広げるといえる。
今回の文献では主に手紙と携帯メールを取り扱った。これらに現れる絵記号などの図象
だけでなく、漢字や記号を用いた「(笑)」などの記号を使うことで読み取ることのできる情
報はさらに増えるのではないかと考える。また漢字でも、
「分かる」と「判る」など、常用
外の漢字を用いることで表現が広がる可能性がある。視覚重視のヴィジュアル・コミュニケ
ーションは、書きことばの表現をさらに発展させると考えられる。
【参考文献】
片岡邦好 2009「口語的手紙文における字体と絵文字の指標的特性―その特殊性と普遍性につい
て」
『論集:異文化としての日本』pp.103-112
久保田ひろい 2012「絵文字は何を伝えるか―携帯メールにおける絵文字のパラ言語的機能とテ
クストの構造化―」山梨正明編『認知言語学論考 No.10』pp.143-192,東京:ひつじ書房
畠弘己 1989「話しことばと書きことば」
『日本語学』,8(12),pp.88-100,東京:明治書院
三宅和子 2005「携帯メールの話しことばと書きことば」
『メディアとことば 2』pp.231-261,東
京:ひつじ書房
森・前川・粕谷 2014『音声は何をつたえているか
東京:コロナ社
感情・パラ言語情報・個人性の音声科学』
国語Ⅲ ブックレビュー
清末の対日留学
古山 幹人
1. はじめに
19 世紀から 20 世紀にかけての清末には多くの清人留学生たちが日本へと渡って来てい
た。1911 年に始まる辛亥革命を目前に控えた時期において、対日留学は西洋化を進めてい
た日本を通じての西洋と清との間の交流点となった。このブックレビューでは、清末にお
ける日本への留学について取り上げることで、中国の転換期における一面を考察していき
たい。
2. 歴史的前提
1840 年に始まるアヘン戦争での清の敗戦後、中国王朝の長きにわたる東アジアでの覇権
体制は崩れ始め、当時の王朝であった清の支配地域は西洋列強諸国の侵略と支配とを受け
ていった。この情勢は清に西洋化を迫ったが、その中でも特に日清戦争で同じ東アジアの
日本に敗戦したことは大きな衝撃となった。日清戦争(1894~1895)の終戦の翌年から清は
政府としての正規の留学生を日本へ送り始めた。この留学運動は、最盛期には公費と私費
をあわせると留日学生の数が少なくとも 8000 人を超えるほどの大きなものとなった。
3. 清側から
ここでは黄福慶による『清末における留日学生派遣政策の成立とその展開』を取り上げ
る。この論文の中で黄は、
「学生を海外に派遣し、
(中略)中国の内政改革を意図すること
は、清末における重要な政策の一つとみなされていた」(黄 1972:37)としたうえで、その
中でも清では日本への留学が特に重視されていたと述べる。
このような状況において、留学政策の一環として作成された当初の留学規則は「あまり
にも粗末」(黄 1972:41)であった。その結果として、当初は留学生の管理・監督は公使館
が行っていたが、官費生はもとより特に政府の目が行き届かない私費生の増加により次第
に管理・監督が不可能な状況となってしまったとする。この点については、黄は清にも
「私費生を監督下に収めなければ、重大な事態が起る恐れがある」(黄 1972:45)との認識
があったとする。この認識の上でなお、実際に日本が革命運動の拠点となったことは当時
の清の監督が行き届いていなかったことを示している。
黄はその後の留学生派遣も省ごとに独自に行われたこと、そして各省がそれぞれに監督
官を日本に派遣していることから一時置かれていた清人留学生の総監督の役職も二年余り
で廃止されたことに触れている。これらは清が国家として統一された留学政策をとれてい
なかったこと、更に各留日学生の国家的な管理が行われていなかったことを十分に示して
いる。そして留学規則の改定や留学生を監督する部署の変更が何度も行われたことに留意
国語Ⅲ ブックレビュー
しつつ、留学生の日本への派遣は「一時の急に応ずる目的で行われたものに外ならなかっ
た」(黄 1972:62)と結論付ける。
また、黄は清の対外関係にも目を向け、留学熱の高まりは日清戦争での敗戦から起こっ
たものであるとしている。さらに 20 世紀に入ったのちも北京議定書を契機に軍事を学ぶ
留学生の派遣政策が決定されるなど、
「学生の海外派遣もこのような受動的な変法改革に
伴って実施されたもの」(黄 1972:62)と断じている。
4. 留学生側から
ここでは小島淑男による『留日学生の辛亥革命』を取り上げる。小島は、清末の留学生
の中に日本を拠点に革命運動に身を投じるものや、帰国後に清国内で革命運動に従事する
者が少なからず存在した事実に触れつつ、彼らは「民族運動や革命運動といった具体的な
政治運動において牽引車の役割を果たした」(小島 1989:4)と述べる。小島はまた、その革
命活動の源の一つに清の対外関係を挙げる。小島は、まずロシアの侵略に対抗するために
留日学生らによって組織された拒俄義勇軍を清が取りしまったことから、その運動が反清
的な運動に転換していったことを例に挙げる。そして、留日学生の活動は当初、列強諸国
の侵略に対する排外運動・救国運動であったものが、清の政策や対応を知るうちにやがて
反清革命運動に変質していったとして、
「救国運動(中略)そのものが革命運動に直結し
ていた」(小島 1989:83)と指摘する。彼らの革命運動は激しいものであり、その証左とし
て小島は、辛亥革命の前年の 1910 年には、日本から帰国してまで孫文らが清の広州で起
こした黄花崗蜂起に参加し、戦死あるいは処刑された者もいた事を紹介している。
5. おわりに
黄は清朝の留学政策は場当たり的かつ対外関係によって常に受動的な政策であったと主
張している。また、小島は留日学生の日本での活動に焦点を当て、彼らの母国を救おうとす
る運動が、結果として清に対する革命運動へとつながっていったとしている。これらを合わ
せて考えると、次のような構図が浮かび上がってくる。列強諸国の侵略を受けて近代化を迫
られていた清は、先に西洋化を進めていた隣国の日本に留学生を送り込んだ。日本へとやっ
てきた彼らは憂国の思いを持っており、当初、彼らは清政府と同じく反列強運動によって中
国を救うことを目指していた。しかし、彼らは本国から離れた日本において清政府の迷走を
目の当たりにするにしたがい、母国を救うためには列強諸国ではなく清そのものを倒すべ
きだと考えるようになった。当時、清の留学政策の不備もあって留学生には政府の監視や管
理が行き届いておらず、そのために彼らは反清的な運動に参加できる状態となっており、次
第に革命運動を行うようになっていった。
今回は、末期の清の対日留学政策と日本における清人留学生の活動についてまとめた。こ
れは当時の日本が清にとって大きな意味を持っていたと考えたためである。一方で、孫文が
ハワイで興中会を立ち上げるなど、辛亥革命には日本以外の他国の影響も見逃せない。今後
国語Ⅲ ブックレビュー
は、辛亥革命に対するそれら他国の影響を研究していきたい。
参考文献
黄福慶「清末における留日学生派遣政策の成立とその展開」
『史学雑誌』81 巻 7 号,37 頁
~65 頁,1972 年
小島淑男『留日学生の辛亥革命』青木書店,1989 年
国語Ⅲ ブックレビュー
御柱に込められた意味
清水 康寛
はじめに
2016 年は長野県諏訪市で御柱祭が開催される年である。日本三大奇祭のひとつに数えら
れる七年ごとのこの祭でひときわ目を引くのが長さ 10 メートルを超える御柱である。そこ
でこのブックレビューでは御柱と、御柱を立てるという行為の意味について、大林太良氏、
三輪磐根氏の両氏の論を引いて考察する。
1. 大林太良『聖空間の構成原理』より
諏訪大社は上社・下社の二つの社にそれぞれ二つ、あわせて四つの宮がある。御柱は四宮
の社殿の四隅に、社殿を取り囲むように立っている。この様から御柱には聖空間を設定する
役目があると主張するのが大林氏である。
御柱祭において柱を立てるのも、同様に秩序の更新をあらわしていると考えてよい。た
だ、それは、(中略)家庭内の秩序の更新ではなく、共同体の秩序の更新である。その
共同体とは、御柱祭に奉仕するすべての市町村を包括する大きな諏訪の祭祀共同体で
ある。1
御柱祭において御柱が市中に引き入れられるのは四月の初旬から中頃であり、およそ一ヶ
月後には田植えを控えた時期である。御柱を立て替える、つまり年を越すのと同じように秩
序を更新することで新しい生命力と豊穣を迎える意味合いがあるというのだ。
大林氏は四本の柱についてさらに考えを発展させている。
四本の柱による秩序の設定には、さらにもっと深い意味があるのかもしれない。諏訪大
社の四つの柱それぞれに、空高く四隅にそびえる御柱は、宇宙的な秩序の更新、つまり
天を支える四本の柱を私に想起させるのである。2
大林氏は、天地創造の過程で天を支えるために柱を立てたという内容の神話が東南アジア
地域に見られることを指摘し、御柱に囲まれた聖空間を小さな宇宙とみなす観念が残って
いると述べている。神話の上で諏訪大社は国譲りの争いに敗れた建御名方神が逃げ込んだ
最終地点という位置付けであるので、天津神に介入されない空間を作り出す目的で柱を立
てたとも考えられる。
国語Ⅲ ブックレビュー
2. 三輪磐根『諏訪大社』より
一方で御柱には別の意味を見出すことができる。三輪氏は御柱の起源については仏教
や中国の四神思想の影響も考えられるとして言及を避けている。しかし御柱の今日の捉
え方として次のように述べている。
(前略)山出しの木遣りの第一声が『奥山の大木里に下りて神となる』とあるようにさ
らに上社御柱には建て御柱に際し、御柱の天辺の御弊束を取り付けることになってい
ることを考えると、まさに御心霊の降臨を示すものであり神霊の依代と考へることが
もっとも妥当の説ではないかと思われる。3
諏訪大社は本殿を持たない神社で、御柱とは別に神体木がある。しかし三輪氏は木遣り歌や
御柱に御弊束を取り付けるという点から、御柱にも神が降臨する依代としての性質がある
と主張している。自然物に神が宿るという考えは、大神神社や宗像大社など比較的古い神社
に見られるものである。また、山から神が去来するという考えは、盆になると氏神が里に降
りてくるという祖先信仰とも類似しているように思われる。
3. 両氏主張に対する意見
両氏は御柱や御柱を立てる行為の意味を、それぞれ異なる視点から理解しようとしてい
る。その中で両氏とも共通して他のアジア地域や仏教などと複雑に絡み合ったものとして
御柱を見ていた。
個々の主張を見ていくと、大林氏は御柱を立てることは秩序の更新を意味すると主張し
た。しかし、諏訪市で行われているのは主に稲作である。稲作は一般に一年単位の循環とし
て考えらえるものである。一方、御柱祭は七年ごとという長い周期性を持っている。これは
山間部の一部を切り開いて行われるような焼畑耕作にみられるものであり、稲作を主とす
る諏訪の風土にはなじまないように思われる。また御柱を天を支える柱だと捉える主張も
やや強引な感が否めない。四本の御柱にはそれぞれ一之御柱から四之御柱まで番号が振ら
れていて、一之御柱の長さが 16.6 メートルで、以降 1.6 メートルずつ短くなっていく。天
を支えるのにわざわざ長さを不均一にするのはつじつまが合わないように思われる。
三輪氏は御柱に憑依するものを単に「御心霊」、
「神霊」と述べるに留まっている。この論
で重要なのは、どのような神が御柱に降りてくるかではないだろうか。憑依するのが諏訪大
社の祭神なのか、あるいは諏訪の人々の祖先神なのか、はたまた全く別の神なのか。その種
類によって御柱の解釈も大いに変わってくるはずである。
4. おわりに
以上御柱に関する著作のレビューを行ってきた。御柱の解釈の難しさは諏訪大社がたど
ってきた歴史の複雑さに由来すると私は考える。諏訪大社成立以前の土着信仰に加え神道、
国語Ⅲ ブックレビュー
仏教など複数の宗教が組み合わさり一筋縄では理解できないものだ。諏訪や神道だけでな
く、国家・宗教を超えるような視野を持って御柱の研究は行われるべきなのである。
【参考文献】
1 大林太良(1987)
「聖空間の構成原理——文化人類学の視点から」上田正昭ほか『御柱祭
と諏訪大社』p.83. 筑摩書房
2 同上 p.92.
3 三輪磐根(1978)
『諏訪大社』p.165 學生社
国語Ⅲ ブックレビュー
神隠しと「音」
谷井 美優
1. はじめに
今日、
「神隠し」という用語はあまり日常では使われない語になっている。今ではおそら
く、多くの行方不明事件は神隠しだとは判断されず、人間社会の中にある原因を以って判断
されるはずだ。とはいえ、有名なアニメ映画のタイトルに含まれていることもあり、この語
は現在でも広く知られている。神隠しとは、人間社会の外にある何者かによって引き起こさ
れる行方不明事件、またはそれを引き起こす現象のことである。
ここでは多くの事例を基に、神隠しにおける山の位置づけと失踪者探索時の音について、
小松和彦著『神隠し 異界からのいざない』を中心に考える。
2. 松谷みよ子『現代民話考 1
河童・天狗・神隠し』
本論に移る前にまずこの本をあげたい。この本は、河童や天狗、神隠しについて、著者が
多くのエピソードを集めたものであり、神隠しとはどのようなものかを知る事ができる。こ
こでは神隠しの章について述べたい。
ましま
松谷氏は、
「まことに、山のふところは深く、そこには何者かが 在 したのである(p.354)」
と、山に対する人々の認識を語っている。かつて山には何者か不思議なものたちが存在、ま
たは山自体が不思議なものであり、それが人を連れ去ったり、狂気を起こさせたりすること
があったのだ。
神隠しにあった人間が、多く行くのは山であった。勿論、それ以外もあるが、多くの事例
で山やその領域と似た、谷、川へと連れ去られている。親族や同じ村の人々が山に分け入り、
鉦と太鼓で音を出したり、枡の底を叩いたりして失踪者を探している描写も多くみられ、
人々も神隠しにあった者は山へ行くと認識していることがわかる。これらのことから、山は、
神隠しを「現実に存在するもの」と考える人々にとっては人間社会の外にあるいわゆる「異
界」であったことが推察できる。
また、枡の底を叩くことについては、富山県魚津市の話にこのような記述がある。
彼の太鼓を敲くのは暗夜の物凄さを忘れるための附け元気であろうが、枡の底を敲く
と、天狗の耳が破れそうになるので、捕った子供を樹上から解放するからだと信じられ
て居る。(p.367)
天狗については後述するが、ここでは音が異界に対する働きかけのできるある種の道具と
して認識されていたことがわかる。
国語Ⅲ ブックレビュー
3. 小松和彦『神隠し
異界からのいざない』
これは、小松氏が様々な神隠しの事例からその傾向や特徴を分析し、まとめた本である。
平易な文章で読みやすく、民俗学の知識が無くても理解しやすいものとなっている。異界訪
問についての論があるため、神隠しだけでなく、神隠し的な異界訪問の民話(例えば浦島太
郎など)についても触れているが、ここでは現実に起こった事件としての神隠しについての
み述べる。
多くの事例において、隠し神として「天狗」という言葉が登場する。または「山伏姿の男」
や、
「背の高い男」もそれに入れてもよいかもしれない。というのも、天狗の姿というのは
山伏の姿から取られたものであるからだ。赤ら顔の鼻の高い大男で、手には団扇を握り、山
伏のような法衣を纏って、高下駄を履いているとされる。山伏が自身と敵対するものとして
設定した、翼があり、空を飛ぶ、超常的な力を持つものである。それと戦い倒す者という位
置に自身らを置くことで、信仰を強めようとしたのだ。山伏は山に籠るものであり、天狗も
山に居るものである。天狗は民間に浸透するにつれ、山伏の宗教的な敵というよりは、山に
いる不思議な力を持った生き物で、人をさらう、という認識になっていった。そのことから、
神隠しを多く起こす天狗に連れ去られた人々が山に行くと考えられたのであろう。それに
ついて、氏はこう語っている。
つまり、民俗社会の人びとの多くは、人を異界へ連れ去る隠し神は天狗であるとする
共通の観念をいだいていたということになるはずである。天狗信仰はそれほど深く民
俗社会に浸透していたのだ。いや、こういうべきかもしれない。天狗信仰は民俗社会に
あっては、神隠し信仰と結びついて浸透していた、と。(p.91)
勿論、天狗以外にも「狐」
「鬼」
「山姥」
「河童」
「山の神」なども神隠しをすると伝えられて
いるが、それらの多くも山やその周辺に住むと考えられた者たちであった。神隠しは、必ず
と言っていいほど山が関係する事件であったのである。
人々にとって異界たる山に、人を探しに入るとき、人々は鉦や太鼓をならし、大声で失踪
者の名前を呼んだりする。音を聞いた失踪者がそれを頼りに戻れるように、という理由もあ
るだろう。しかし、事例を見る限り、多いのは「かやせ」
「もどせ」という掛け声である。
つまり、この「音を出す」という行為は異界への働きかけなのだ、と小松氏は言う。
(…)長い間鉦や太鼓などの音は、この世とあの世をつなぐ効果を持っていると考えられ
ていた。この音ならば他界にいる神隠しにあった者にまで届き、この世とあの世を繋ぐ
音の力によって、この世に引き戻すことも可能だと考えられたのではなかろうか。つま
り、神隠しにあった人を探すときに鐘や太鼓が使われたのは、鐘や太鼓が異界とこの世
を繋ぐ効力があったからに他ならないのである。(p.75,(・・・)は本稿筆者による省略)
神隠しにあった者を奪還するには、
「異界」またはそこにいる何者かにはたらきかけるしか
ないのである。
国語Ⅲ ブックレビュー
前述のように殊に天狗には枡の底を叩くと耳が破れるといったように交信だけでなく攻
撃手段としても用いることができる。このように失踪者捜索のための音に付与されていた
意味は一つではない。「神隠しにおける鉦、太鼓は、捜索に参加する者たちの威勢づけや捜
索者たち相互のコミュニケーション、神隠しにあった者への合図、異界へと捜索隊が踏み込
んでいくための象徴的回路、隠し神の招霊、隠し神に対する攻撃、あるいは最後の捜索のし
るしなど、地方によって異なる説明付けをされていた(p.77)」と小松氏は語っている。
4. 柳田國男『山の人生』
ここで、民俗学の土台を築いた人間の一人である柳田國男氏が山について書いたこの本
を参照してみたい。この本は大正 15 年に書かれたもので、著者は明確にそう言っているわ
けではないが、超常的な出来事はすべて迷信で、人々はそれに気づいていない、といったス
タンスが見て取れる。女性が山に入ってしまうのは厭世などではなくすべて狂気のせいだ
とするなど、少し違和感のある解釈も多いのだが、山にふらりと入ってしまう人々や定住せ
ずに山に住んでいたといわれる人々、また神隠しにあった人々について書かれている。
本書にも、神隠しにあった人々を探すときに鉦や太鼓を使ったことが述べられている。そ
じつ
れについて柳田は「子供にもせよ紛失したものを尋ねるのに、鉦太鼓でさがすといふは實は
へん
變なことだが、それは本來捜索では無くして、奪還であつたから仕方がない(p.32(()内は本
稿筆者))」と述べている。小松氏の論はここからも来ている。鉦や太鼓で失踪者を探すのは
柳田氏の時代ではもう出来上がった形であったらしいのだが、神隠しでない人も最初から
鉦や太鼓を鳴らして探すことについて、次のように述べている。
若し迷子が只の迷子であるならば、斯んな事をしても無益な代りに、大抵は其日其夜の
中に消息が判明する。二日も三日も捜しあるいて、如何しても見付からぬといふのが神
たい
隠しで、これに對しては右(鉦や太鼓で探すこと)の如き別種の手段が、始めて必要であ
けいけん
つたのだが、前代の人たちは久しい間の經驗に由つて、子供が居なくなれば最初から之
そうおう
を神隠しと推定して、それに相應する處置を執つたものである。(p.32)
失踪に関しては神隠しでないものももちろんあったのだが、子供の失踪は神隠しとして
判断されることが多い。そのために子供の捜索には鉦太鼓が使われることになったのだろ
う。
5. まとめ
神隠しにおいては、山は失踪者が連れてゆかれる異界であり、通常の方法では行って帰っ
てくることができない場所である、とどの本でも述べられている。失踪者は異界のもの、多
くは天狗によってその境界を越えて異界に入り、捜索者は音によってその境界を越えて隠
し神に働きかけ、失踪者を取り戻そうとする。音には異界と私たちのいる世界を繋ぐ力があ
ると考えられている。神社には神に呼び掛けるための鈴があり、寺には鐘がある。フィクシ
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ョンにおいては、源氏物語の中に、梓弓の弦を鳴らすことで怪異を追い払おうとする描写が
存在する。この力には地域によって様々な解釈があるため、一概に「この役割だ」と一つに
決定することはできないが、力を持たない普通の人間たちがシャーマンなどの力を借りず
に異界にコンタクトできる手段の一つであったと考えられる。
一方、神隠しといえば山、という図式がどうしてできあがったのか、また、どうして隠し
神の多くは天狗なのかについての具体的な理由は記述されていないため、まだ研究の余地
があるといえる。天狗などについては資料も豊富なため、これからもう少し文献を読んでい
きたいと思う。
【参考文献】
小松和彦『神隠し 異界からのいざない』(弘文堂、1991 年)
松谷みよ子『現代民話考|1|河童・天狗・神隠し』(立風書房、1985 年)
柳田國男『山の人生』(郷土研究社、1926 年)
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「日本のケインズ」の誕生
― 高橋是清の幼少期 ―
永井 裕士
はじめに
高橋是清は、戦前の日本を代表する財政家、政治家である。昭和初期に勃発した世界恐
慌の際、時の大蔵大臣として、当時としては極めて画期的な方法で日本を恐慌からいち早
く解放した功績から、世界で最も有名なイギリス人経済学者 J.M.ケインズの名を借り「日
本のケインズ」と呼ばれている。本稿では、そんな高橋の幼少期の過ごし方に特に注目
し、のちに「日本のケインズ」となるに至った経緯や根拠を探っていく。
1. 高橋の幼少期
1854(嘉永 7)年、高橋は幕府に仕える狩野派の絵師の家に非嫡出子として生まれた
が、4 日も経たぬうちに仙台伊達藩の藩士、高橋是忠のもとに養子に出されたという。足
軽の養子、すなわち武士の世界においては最下級の身分として世に出たのである。
ただ、高橋にとって幸運だったのは、アメリカからマシュー・ペリー提督が黒船を率い
て日本に初めて来航した 1 年後に生を受けたということである。リチャード・J・スメサ
ースト(2010)は、高橋が「国内における争いと西洋の圧力によって一八六八年に徳川体
制が崩壊し、近代化を志向する明治政府が成立する時期に成長期を迎えた」ことに着目し
ている。
加えて、足軽の養子という最下級の身分であったことも功を奏した。当時はまだ参勤交
代制度が存続していたため、足軽である高橋は仙台ではなく江戸で生活していた。仙台藩
のなかで西洋の言葉を学ぶ必要性が説かれ、英語を学ばせるために誰を横浜の外国人居留
地に送るかという問題があがった。そんな折、横浜から程近い江戸に在住し、最下級の身
分である、当時 10 歳であった高橋に白羽の矢が立ったのであった。
次項からは、こうした幸運が重なった高橋是清が幼少期に経験した「英語教育」と、生
涯を通じて見られた高橋の徹底した「楽観主義」的な考え方に焦点を当てていきたい。
2. 特異的な英語教育
横浜の外国人居留地に通うようになった高橋は、2 年に渡って外国人から直接英語を教
わる機会を得た。スメサースト(2010)は、1860 年代の日本における英語教育は二つの
学派に分かれていたとして次のように述べている。
福沢諭吉のように、長崎の蘭学の流れを汲むやや年配の学生たちは、書物や新聞の翻
訳を通じて英語の読解は学習していたが、話すことができなかった。これに対して、
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高橋(中略)は、(中略)英語を母国語とする人たちから英語を学び、したがって、
会話力が上達した。
(スメサースト 2010 p.13)
この 2 年間の経験の後、高橋はアメリカに向かう外輪船に乗った。同乗者のほとんどが
中国からアメリカに移住する労働者たちであったため、サンフランシスコに到着するまで
の 3 週間の航海の間もやはり英語によるコミュニケーションが必要とされたという。サン
フランシスコでの 1 年半の経験も含め、江戸末期から明治初期にかかる時期に、日常的な
英会話による英語の習得を 10 代という若さで実践できたのは、ごく限られた人間であっ
た。この経験によって得られた卓越した英会話能力が、高橋の生涯に多大なる影響を与え
たことは言うまでもない。
3. 楽観主義の萌芽
さて、ここで高橋が英語教育を受ける前の時期にさかのぼる。高橋正雄(2003)は、
「
(高橋が)自他ともに認める楽観論者となったのは三、四歳のある出来事に由来する」
として次のような事例を挙げている。
(1857 年)当時、仙台藩中屋敷の通用門の側に稲荷の祠があった。
(中略)ある時、
是清たちが遊んでいると、藩主の奥方が参詣するという知らせがあり、一同人払いに
なった。ところが、一人稲荷の神殿の後ろに隠れていた是清は、奥方が礼拝している
ときに這い出て奥方の前に進み、そのきれいな着物を手に取って「おばさん、いいべ
べだ」といったのである。
(中略)奥方が「どこの子だか、かわいい子だネ」と頭をな
でながらいったため、妻女が「これは高橋という者の子供です」と答えているうち
に、是清はのそのそと奥方の膝の上に這い上がってしまった。
(高橋正雄 2003 pp.62
括弧内は本稿筆者)
藩主の奥方の膝の上に這い上がるなど、当時としてみれば大変無礼な行為である。その日
の夜、高橋の家に奥方から明日あの子を連れて来るようにというお達しが来た。恐縮した
父親とともに高橋が参殿すると、奥方は大変喜び、叱る代わりに沢山の品物を与えた。こ
の話を聞いた近所の足軽の家の者たちは、「高橋の子は幸せ者よ」と口々に言ったとい
う。
また、高橋正雄(2003)は似たような事例として、高橋が 5 歳の頃、御三家の一家の上
洛に際して一同が通りを見物していたときのことにも触れている。
(御一行を)待っていると、(中略)彼(高橋)を可愛がっていたおばさんが、通りの
向こうから「おいで、おいで」と手招きをした。是清は思わず飛び出したが、途中で
躓いた。そこへ前駆の騎馬士が二人、疾風のごとく馬を飛ばしてきたため、是清はそ
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の馬蹄に踏まれてしまった。皆が驚いて抱き上げると、わずかに羽織の紋の上に馬の
草鞋の型があるばかりで、どこにも怪我はなかった。(高橋正雄 2003 pp.62 括弧内は
本稿筆者)
このときも「高橋の子は運のいい子だ、幸福な子だ」という評判が立っているのを、高橋
は耳にしていたという。
こうした出来事を経験した高橋は、自伝の中で「私は子供の時から、自分は幸せ者だ、
運のいい者だということを深く思い込んでおった。それでどんな失敗をしても、窮地に陥
っても、自分にはいつかよい運が転換してくるものだと、一心になって努力した。今にな
って思えば、それが私を生来の楽天家たらしめる原因じゃないかと思う。
」と述べている
(高橋是清著、上塚司編 1976)
。このようにして生まれた高橋の楽観主義が、政治家、財
政家となった折にも、自由で枠にとらわれない思考を可能としたのであろう。
4. 考察
さて、ここまで高橋の幼少期における「英語教育」と、当時の経験によって生まれた生
来の「楽観主義」について述べてきた。これらが彼の政治家、財政家人生に具体的にどの
ように影響したか考えていく。
スメサースト(2010)はやはり、
「非嫡出子であり、足軽の養子であった高橋が、七回
も大蔵大臣を務め、総理大臣にまで出世する鍵となったのは、彼の英語能力であった」と
述べている。これはすなわち、
「明治藩閥政府の権力者たちが、英語のできる高橋に重要
な任務を託した(スメサースト 2010)
」ことにほかならない。高橋は、当時としては稀有
な、翻訳だけでなく英会話をこなすことができる人間であった。10 代前半という時期に、
横浜の外国人居留地や渡航船の中、サンフランシスコでほとんど毎日のように外国人と会
話をしていたという経験は、政治家としてアメリカ人やヨーロッパ人を前にしたときに臆
したり、劣等感を抱いたりすることなく彼らと接することを可能にしたのである。
また高橋は、アメリカ人金融家ジェーコブ・シフ等、関わった外国人政治家と長きにわ
たって文通を行ってきた。
「彼ら二人は温かい友情で結ばれた友人であっただけでなく、
お互いに国際政治経済について意見を交換し続けていた(スメサースト 2010)
」ことによ
って、日本だけでなく、他国の経済感覚も絶えず取り入れることができたのだ。持ち前の
楽観主義による柔軟な考え方と相まって、革新的な経済政策を打ち出すことができたので
ある。
5. まとめ
本稿では、私が最も注目している日本史近現代の偉人である高橋是清に焦点を当てて論
じてきた。政治家、財政家として極めて画期的な政策を打ち出せたのは、彼の特異な幼少
期に裏打ちされていると言ってもいいだろう。彼が己の武器としていた「英会話」と「楽
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観主義」による自由な発想は、今日においてですら充分役立つファクターである。そんな
高橋の生涯について更なる理解を深めていくため、今後も研究を続けていきたい。
参考文献
高橋是清著 上塚司編(1976)
『高橋是清自伝』中央公論社
高橋正雄(2003)
「
『高橋是清自伝』にみる幼児体験―楽観主義の起源―」
『日本醫事新
報』No.4114 61-64 日本医事新報社
リチャード・J・スメサースト著 鎮目雅人・早川大介・大貫摩里訳(2010)
『高橋是清
日本のケインズ―その生涯と思想』東洋経済新報社
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カフカの短編作品「掟の前」の物語テクストの読み方
松浦
俊
1. はじめに
カフカの小説は、第二次大戦後、実存主義、文学、ユダヤ学など、様々な文脈で語られて
きた。以前私も、カフカ文学に挑戦したが、内容を読み解くことが難しく、物語の意味が理
解できなかった。そこで私は、描かれたテクストを直接どう読み解くか、というアプローチ
は、カフカ文学を読むうえで有意義だと感じた。作者の背後にある思想や環境から作品を読
み解くアプローチがあるが、物語る方法自体が特殊であるカフカを読むには、
“描かれたも
の”としてそこに存在するテクストから分析するのは内容の深い理解に必要だと考えた。ま
た取り上げる作品は、様々な解釈がなされている「掟の前」とする。
2. カフカ文学の読み方『フランツ・カフカ「掟の前」の解釈と読みの構造』から
カフカの短編「掟の前」は、男が掟を求めて、掟の門番に中に入れてくれるように懇願す
る物語である。男は掟の門の中に入れてくれるようにいろいろと手を尽くすが、門番は先延
ばしにするばかりで入れることを許可しない。この膠着状態は続き、ついに男は門の中に入
れず死去する。この作品は難解でそれゆえ多様な解釈を誘うが、先行研究は体系的にまとま
っておらず、個々の解釈を一義的に包括することができない。そこで、中井(1995)は『フ
ランツ・カフカ「掟の前」の解釈と読みの構造』のなかで、
「テクストと既存の解釈の間に、
テクストの読みを介在させ、解明・構築することによってカフカの作品解釈の問題状況を解
決する糸口を探る試みである。
」と述べている。つまり、解釈をする上で誰もが行う“テク
ストを読む”という行為に着目し、論じている。では、まず前提として、作品に登場する掟、
掟の前の門番、そして主人公の男をどう読み解くかという問題が生じる。中井は以下のよう
に論じる。
「掟の前に門番が立っている」が、我々に作中の世界を開くテクストの最初の文である。
この文は最初の登場人物として「門番」が示されている。
(中略)この「門番」が「掟」
の前に立っていることから、我々には一つの矛盾が生じることになる。なぜなら、その
位置関係から推すと、掟は門番の「後ろ」のある「門」の向こう側に位置することにな
るが、我々の通常の観念では掟は空間的に存在しうる「もの」では無いからである。
(中
井 1995 54)
要するに、
「掟の前に門番が立っている」というテクスト自体に、概念上の存在である掟が、
空間的に存在するという矛盾が組み込まれている。読むだけでは単純なこのテクストも、言
葉の意味を“読み解く”ことを考えれば齟齬が生じることになる。そのうえ、概念上の「掟」
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に「門」という“境界”が存在する不可解さ、そしてその「掟」に“入ろうとする”男の矛
盾が存在する。よって中井(1995)は、
「掟の門」のテクスト自体が、読まれる過程の中で
矛盾を提供し、そのたび読者の解釈が必要になることに言及している。
3. デリダのカフカ論-『カフカ論「掟の門前」をめぐって』から-
ジャック・デリダは脱構造主義の哲学者である。彼のカフカ論もまたその視点から語られ
ているが、デリダもテクストに注目し論じている。
(脱構造論について述べることはこの文
の趣旨からそれるので控えておく。
)デリダもテクストの中の「掟」について、以下のよう
に述べる。
彼は掟を見たい、掟に触れたいと望む。掟に近づき、その中に「入りたい」と望む。と
いうのも、彼は掟とは見たり触れたりすべきものではなく、解読すべきものだというこ
とを知らないからである。これがおそらく掟の接近不可能性の最初の徴(しる)し、あ
るいは掟が田舎者に強いる遅延の最初の徴しなのである。(デリダ 1986 39)
彼は「掟」について深く言及する。彼にとって掟とは、歴史も起源も持たない存在である。
掟が絶対的、普遍的なものであれば、その絶対性のため、他のものとは、派生を持っていて
ははならない。よって、掟を求める男は、掟の起源や、その力を行使できる理由を知られず
にはいられず、起源を必要としない掟の関係はずっと平行線である。したがって、この物語
は、出来事が常に先送りにされ、結局は何も起こらない物語へなるのだと、デリダは解釈し
ている。また、この先送りは、門番によってなされる。門番は、門の中へ入ることは可能で
ありながら「しかし今はだめだ」という。男が門の中をのぞくと、そんなに入りたければ入
ってもいいが、中にはさらに強力な門番がいるという。賄賂をもらっても受け取るだけであ
る。デリダ(1986)はこの先延ばしを、掟が中に入ってはいけないと自らを禁じ、門番が力
を行使するという形で、男に“禁止に反抗する”役割を与えているとしている。そして役割
が与えられつつ掟とは接近が不可能な状態がいつまでも続く。前に述べた通り、これは何も
起きない物語だが、男が掟に接近できないという関係でのみ、掟とかかわれるという、矛盾
を抱えた物語になる。デリダにとっての掟の前の解釈は、掟の持つ普遍性、接近不可能性に
着目しつつ、掟と男の関係が描かれた矛盾したテクストを持った物語だと考えることがで
きる。
4. まとめ
中井(1995)とデリダ(1986)のカフカ論に通じるのは、
「掟の前」のテクストがそれ自
体矛盾を起こしていることだろう。中井にとって掟は概念上のものであり、そもそも掟の前
に門があり門番があるという、空間上のものとして配置された状況と、そこに入ろうとする
男の矛盾を論じる。
「掟の前に門番が立っている」というテクスト自体の齟齬に着目してい
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るといえるだろう。一方デリダは、掟の特性について掘り下げる。普遍的であるため接近で
きない掟と、それに接近したい男の矛盾、さらに、その接近できないということにおいて関
係する、という物語の構造上の反自然性について論じていた。比較というよりは両者の共通
項を考えれば、カフカ文学を読み解く際のテクストの矛盾と、掟、門番といったことについ
て私たちが前提としている概念による、言葉の解釈の混乱が、様々な解釈を引き起こしてい
ると考えられるのではないか。また、それこそが、今日まで研究されている、カフカ文学の
一元で語れない不可解さ、未両区をなしていると考えた次第である。
参考文献
ジャック・デリダ 三浦信孝 訳 (1986)
『カフカ論 掟の門前をめぐって』朝日出
版
三谷研爾 (2014)
『境界としてのテクスト カフカ・物語・言説』鳥影社
中井真之 (1995) 「フランツ・カフカ『掟の前』の解釈と読みの構造」stufe(15)
http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/handie/123456789/13914
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国際共通語としての英語
横尾 夏澄
1. はじめに
世界がグローバル化する今日、英語は国際共通語としての地位を確立しつつある。英語
の母語話者は 3 億 5 千万人で中国語に次いで世界第 2 位、公用語話者にいたっては様々な
変種はあるものの 14 億人で世界第 1 位である(D.クリスタル 1992,p.413 参照)ことか
ら、英語の国際共通語化は必然的でやむを得ないことであるようにとらえられる。本稿で
はこうした現状を踏まえた上で、英語が国際共通語になることに対する 2 つの異なる主張
を紹介し、両者の比較検討を通して新たな考察を得る。
本稿では、第 2 節で「英語が国際共通語でいいのか?--言語環境学の確立に向けて」
(津
田幸男)
、第 3 節で『国際共通語としての英語』
(鳥飼玖美子)をそれぞれ取り上げ、引用
を含みながら 2 つの主張を紹介する。さらに第 4 節では、本稿筆者による比較検討を行
う。
2. 津田幸男「英語が国際共通語でいいのか?--言語環境学の確立に向けて」
津田は当論文の中で、政治や外交、芸術など多くの国際活動が英語で行われている今日
の状況を「英語支配」と呼んだうえで、英語が国際共通語になることに伴う問題について
論じている。
2.1. 英語支配の本質
津田は、現在の「英語支配」は究極的には「人類破滅の選択」であるとしている。今日
のように英語が国際共通語として世界中で用いられるということは、西洋文明が世界的膨
張を遂げたことの象徴である。そしてその西洋文明というのは、自然を破壊することによ
って成り立つ攻撃的な文明である。つまり英語が国際共通語になるということは、西洋文
明の源泉であり産物でもある攻撃的で破壊的な思想が世界を支配することを意味するの
だ。影響を及ぼす域が言語にとどまらないこうした「英語支配」は、自然破壊や文化破壊
などの多くの問題をはらんでおり、人類の滅亡につながる可能性もあると津田は苦言を呈
している。
さらに津田は、
「英語支配」に対する言語学の姿勢にも警鐘をならしている。言語学は
「現状に対して無関心、かつ無力」であるというのだ。英語学をはじめとする言語学は、
現在の「英語支配」がはらむ問題をほぼ考慮せずに研究を続けている。こうして研究者た
ちが英語という言語を盲目的に研究することは、言語としての付加価値と、国際共通語に
君臨することへの正当性を英語に与えている。こうした言語学の無関心さが、
「英語支配
を助長している」のだ。
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2.2. 英語支配の問題点
津田は当論文の題名通り、英語が国際共通語として用いられることに異論を唱えてい
る。その根拠として、「英語支配」がもたらすいくつかの具体的な問題を述べており、そ
れらはコストに関する問題、および言語文化に関する問題の 2 つに大別することができ
る。
コストに関する問題というのは、英語が国際共通語になった場合、母語や第二言語が英
語である人々とそうでない人々との間にコスト上の格差が生じてしまうというものであ
る。ここでいうコストとは、英語獲得のための学習及び教育上の負担のことである。英語
圏の人々は国際コミュニケーションのための新たな英語学習が必要でないのに対し、非英
語圏の人々にとって英語学習とそのための教育は不可欠であり、多くの時間と労力が要求
される。こうした獲得コスト上の格差は、非英語話者への差別やそれに基づく階級社会の
形成を引き起こしかねず、
「英語支配」による影響は社会問題にまで及ぶ。
また、言語は文化や思考、価値観と強く関連しているために、英語の国際共通語化は文
化の画一化をもたらすことになる。これが、
「英語支配」が引き起こす言語文化に関する
問題である。英語が世界で支配的な位置を占めるということは、英語圏、ひいてはアメリ
カの文化が支配的になることに等しいため、
「世界文化のアメリカ化」が起こるというの
だ。また同時に、英語の国際共通語化は少数言語の衰退や消滅を意味している。世界の
人々は英語がもたらす経済的価値の大きさゆえに自分の言語を捨て、英語を使うようにな
る。こうして話者を失った言語は次第に消滅し、またその言語によって表現されていた文
化も消滅してしまう。英語が国際共通語になると、こうして多くの問題が生じることにな
ると津田は主張している。
3. 鳥飼玖美子『国際共通語としての英語』
鳥飼は、今日のグローバル化に伴う英語の国際共通語化や、それに準じた社会の動きを
認めながらも、国際共通語にふさわしい新たな英語のあり方を提示している。
3.1. 国際共通語としての英語の性質
鳥飼は、「英語を国際共通語として使うというのは、英語を母語としない各国の人々が
英語を使う必要性に迫られて、やむなく使うということ」であると主張する。近年は国際
交流が盛んになり、異なる言語を母語とする人たちともコミュニケーションを図ることの
必要性が高まった。しかしその国際コミュニケーションのために、互いが互いの母語を学
びあうという手段はかなり非効率的である。そこで、最も多くの話者をもつ英語が国際共
通語として機能し、国際コミュニケーションのための手段となっている。こうした風潮が
常識として定着してしまった以上、仮に非英語母語話者であっても、英語でのコミュニケ
ーションが求められる。
この性質を踏まえると、国際共通語としての英語は、誰もが自由に運用できる一方で、
コミュニケーション上の理解が容易であるという、必然的でありながらも相反する 2 つの
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側面を持つことになる。共通語である以上、すべての人たちが少ない言語的負担で使用で
きる自由度の高い英語であることが求められるが、自由さを極めるあまり、本来の英語か
らあまりにも逸脱していては、かえってコミュニケーションが不可能になってしまう。鳥
飼は、国際共通語としての英語に備わるこれら 2 つの側面を考慮した新たな英語のあり方
を当著書内で提案している。
3.2. 国際共通語としての英語のあり方
国際共通語としての英語には、前章で述べたような二面性が必要である。鳥飼はそうし
た国際共通語としての英語において重要なのは、
「正確さでもなければ流暢さでもなく、
『通じる』という『分かりやすさ(intelligibility)
』」であると述べる。ここでいう「通じ
る」というのは、ネイティブスピーカーと対等に英語で意思疎通が図れるという意味では
なく、
「必要性に迫られて、やむなく」英語を使っている非母語話者どうしのやりとりに
おいて、自分の意図が相手に通じるという意味である。つまり、鳥飼の主張する「分かり
やすさ」の基準は、ネイティブスピーカーの話す英語や正しい英語ではなく、
「英語を使
っている世界中の人たちが分かり合える英語」にあるのである。
この新しい英語の基準となる「分かりやすさ」を定めるための取り組みとして、鳥飼は
英語の「コア」の特定を挙げている。
「コア」とは、変種を含む様々な英語間における共
通項のことで、英語を英語たらしめている要素のことである。鳥飼は、その「コア」の特
定について次のように述べている。
ここで肝心なのは、
[中略]共通語としてのコアを見出す基準は、母語話者が話す英
語ではない、という点です。ネイティブ・スピーカーが基準となるのではなく、英語
を母語としない者同士が英語で話し合った際に、お互いがお互いの英語を理解できる
かどうかという「分かりやすさ(intelligibility)
」が基準となります。そのために、
各国の人たちに英語を話してもらい、その英語が理解できたかどうかを検証するなど
の研究を続けることで、この音をきちんと発音しないと分かってもらえない、この文
法規則は少しくらい間違えても相互理解が可能、などの分類ができれば、守るべき英
語の「コア」が見つかったことになるわけです。
(p.87,括弧内は本稿筆者)
こうして特定された「コア」を、国際共通語としての英語体系の規則として話者同士が互い
に守ることで、英語での国際コミュニケーションが可能になるということだ。鳥飼の提案す
る国際共通語としての英語というのは、このように「通じる」ための「コア」をもちながら
も、その他の部分は許容範囲として各話者による自由な使用を認めるという新しい英語で
ある。
3.3. 国際共通語としての英語と英米文化
鳥飼はまた、現在の日本の英語教育を例に出しながら、英語の国際共通語化に伴う英米文
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化の扱いについても言及している。小学校、中学校、高等学校それぞれの学習指導要領では、
教育の目標として異文化、特に英米文化への理解が挙げられており、英語という言語自体の
習得は、その文化理解のための手段として位置付けられている。つまり、現在の日本の英語
教育は、国際共通語としての英語ではなく「英米の文化を理解するための英語」の教育とい
う従来の枠にとどまっている。
しかし鳥飼は、表層的な英米の文化を無自覚に教えることは避けるべきだと主張する。英
語教育の結果として、英米文化の優位性を児童生徒に刷り込むことを防ぐためである。英語
が共通語として「帝国主義的覇権」を得ている今日の状況下では、英米文化の無自覚な教育
は、最終的に英語による文化の抹殺や画一化を招きかねない。ただし鳥飼は、言語自体に刻
み込まれた歴史的文化が存在するために「言語から文化を捨象することなどできない」こと
も認めている。そのうえで、国際共通語の教育だと割り切って教えることで「『文化的負担』
をなるべく軽減する」ことが重要であるとしている。
4. 比較検討
英語が国際共通語になることについて、津田は「英語支配」がもたらす諸問題を理由に反
対し、一方で鳥飼は、現状を認め、受け入れた上で国際共通語にふさわしい新たな英語のあ
り方を提示している。また津田の論考は言語文化的観点に、鳥飼の論考は言語形式的観点に
重きが置かれているため、両者には主張の方向性だけでなく着眼点にもわずかながら違い
がある。しかし、両者の異なる主張を、コスト的観点および言語文化的観点という新たな観
点から比較検討したとき、英語の国際共通語化がはらむ諸問題への、ある種の弁証法的な解
決策を見出すことができる。
鳥飼の提案する国際共通語としての英語、すなわち「分かりやすさ」を備えた英語を共通
語に用いた場合、研究によって英語の「コア」が特定されているため、発音・文法上の規則
は最小限になり、必然的に非英語母語話者の英語獲得へのコストは軽減される。そうなれば、
獲得コストの格差によって生じる差別や階級社会の形成などの社会問題も間接的に解消さ
れうる。
また鳥飼の主張にもあるように、教育現場に英語圏の文化をむやみに持ち込まないこと
で、津田の危惧する文化の消失や画一化は免れることができる。もちろん津田、鳥飼がとも
に認めるように、言語と文化の結びつきは非常に強固であるため、それらを完全に分離する
ことは不可能である。しかし本稿第 3 節第 3 章にもあるように、
「文化的負担」の少ない英
語教育をすることで、それぞれの母語に備わる言語文化は尊重され、英語による他文化の淘
汰も最小限にとどめることができる。
5. おわりに
本稿では、英語の国際共通語化に対する 2 つの異なる主張を取り上げたうえで、本稿筆
者による比較検討を行った。英語が国際共通語になると、それに付随してさまざまな問題が
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生じかねない。しかし、新たな英語のあり方の提案により、それらの問題の多くは解決され
る可能性がある。本稿で取り上げた 2 つの主張から導かれたこの考察は、国際交流がます
ます盛んになる今後において言語が抱える諸問題に対し、新たな活路を見出すきっかけに
なるだろう。
参考文献
津田幸男(2002)
「英語が国際共通語でいいのか?--言語環境学の確立に向けて」筑波大学
外国語センター編『外国語教育論集』24,205-220.
鳥飼玖美子(2011)
『国際共通語としての英語』講談社.
D.クリスタル(1992)
『言語学百科事典』風間喜代三・長谷川欣佑監訳,大修館書店.
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普仏戦争のはじまりとプロイセン国民
人文・文化学群
人文学類
角田
小雪
1. はじめに
1871 年、ドイツ帝国が成立した。その契機となったのが普仏戦争である。普仏戦争とは
1870 年 7 月から翌年の 1871 年 5 月まで続いた、プロイセン王国とフランスとの間の戦争
である。これはスペイン王位継承問題に端を発するもので、プロイセン王がフランスの駐在
仏大使との会見について綴った電報を、プロイセンの宰相であるビスマルクが一部を改竄
して公表し、両国で物議を醸した後に開戦に至ったものである。
本稿では、その普仏戦争開戦に際してのプロイセンの人々の反応について、3 つの先行研
究を取り上げて考察することを目的とする。
なお、
「普仏戦争」はプロイセン王国だけではなくドイツ諸邦がプロイセン側について戦
ったため「独仏戦争」と呼称されることもあるが、本稿ではプロイセン人に焦点を当て議論
するため、
「普仏戦争」で統一するものとする。
2. セバスチァン・ハフナー『プロイセンの歴史 伝説からの解放』
ビスマルクの目的は、北ドイツにおけるプロイセンの拡張であった。彼は北ドイツのほぼ
全域をプロイセン国境内におさめることに成功したが、ドイツという一つの国民国家を形
成することを望むドイツ・ナショナリストのために「抜け道」という形で北ドイツ連邦を発
足させたとハフナーは述べている。ビスマルクはあくまで「プロイセン」を北ドイツ連邦の
中で優位に立たせることに努めた。その中で勃発したのが普仏戦争であるが、ハフナーは普
仏戦争について次のように述べている。
一八七〇から一八七一年の戦争は、一八六四年や一八六六年の戦争とは異なり、
ビスマルクが自ら求めたものではなく、先の見通しすらまったくもたずに仕方な
く背負い込まされたものであった。この戦争は、ビスマルクにとっては不慮の災難
であり、準備ナシの即興であり、彼は何カ月間も、これを政治的にコントロールす
ることができなかった。1
ビスマルクは普仏戦争におけるドイツの勝利を、フランスとドイツの国境線に位置する
エルザスの獲得・併合と同一視しており、同地域を併合するためには南北ドイツに共通する
1
Sebastian Haffner. (1979) Preußen ohne Legende , Gruner + Jshr AG & Co. (セバスチ
ァン・ハフナー著、魚住昌良監訳『プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000),p261.
フランスへの憎悪を利用して全ドイツ連邦国家を樹立するより他なかった。しかしそれは、
プロイセンがドイツ連邦内で独立性を失い、ドイツの中の一国家でしかなくなってしまう
ことを意味しており、「プロイセン」を維持することを望んでいたビスマルクにとって普仏
戦争はまさに「不慮の災難」であったとハフナーは述べている。
3. 木谷勤『ドイツ第二帝制史研究』
ビスマルクはドイツ統一を妨害し、ナポレオン三世との対決に備える必要があった。また、
彼は帝国議会を創設することで南ドイツ諸邦に政治に参加してもらうことを望んだが、依
然諸邦の反プロイセン感情は強かった。結局、フランスに宣戦布告をさせることで国民の反
仏感情を呼び起こし、一致団結することに成功した。当時の宣戦布告に対する帝国議会の反
応について、木谷は以下のように述べている。
かつて六十四年対デンマーク戦争で戦費支出を議会に拒否され、六六年には開
戦一ヶ月前に議会を解散し、議会のいっさいの協力なしに普墺戦争を遂行せざる
をえなかったビスマルクは七〇年七月二〇日フランスの宣戦布告を帝国議会に報
告したとき議員の歓呼をあびた。2
木谷は、こうした戦争に対する熱狂的支持は帝国議会だけではなく南ドイツ諸邦でも見
受けられ、各邦議会も相ついで戦費の支出を可決したとも述べている。こうして普仏戦争は
国民戦争としての性格を帯びることになったのである。
4. 松井道昭『普仏戦争 籠城のパリ 132 日』
普仏戦争に対する一般の国民の反応を、松井は以下のように述べている。
戦争が勃発したとき、プロイセンは準備万端であった。しかし、一般のドイツ人
はそれを予期していなかった。時季は七月の麦の収穫期に当たり、人々は日々の農
作業に追われていた。だから、ライン川の対岸からいきなり突きつけられた宣戦布
告はまさに青天の霹靂の出来事だった。3
松井は、1870 年当時、プロイセン国民の間ではナポレオン=ボナパルトが統率していた
頃の強力なフランス軍のイメージをまだ払拭しておらず、普仏戦争開戦の報はその軍隊が
攻め込んでくるという恐怖を抱かせたのだろうと考察している。しかしその恐怖は後に憤
怒へと変化し、市民のすべて、党派のすべてが戦争でひとつにまとまることになった。
2
3
木谷勤 (1977)『ドイツ第二帝制史研究』青木書店, p84.
松井道昭 (2013)『普仏戦争 籠城のパリ 132 日』春風社, p42.
5. 比較検討
第二節から第四節にかけて、プロイセン国民の普仏戦争に対する反応を為政者、特にビス
マルク、と帝国議会議員、そして一般の市民の三者に大別して概観してきた。
初めに取り上げておかなければならないのは、ハフナーが普仏戦争は「ビスマルクにとっ
ては不慮の事故」としているのに対し、松井が「プロイセンは準備万端であった」としてい
る点である。これについては、木谷が議員は普仏戦争に対して好意的であったと述べている
ことから、松井の言う「プロイセン」は「帝国議会」のことを指していると考えるのが自然
であると考えられる。
またハフナーと木谷の意見は、ビスマルクがドイツ統一に不安を抱いていた点で一致し
ている。しかしながら、三者が述べているとおり、国民の大多数は共通する反仏感情の下に
ドイツとして統一することを望み、結果的に普仏戦争が勃発・進行して 1871 年 1 月 18 日
にドイツ帝国が建設されることになった。
参考文献
Sebastian Haffner. (1979) Preußen ohne Legende , Gruner + Jshr AG & Co. (セバスチァ
ン・ハフナー著、魚住昌良監訳『プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000)
木谷勤 (1977)『ドイツ第二帝制史研究』青木書店
松井道昭 (2013)『普仏戦争 籠城のパリ 132 日』春風社
国語Ⅲ ブックレビュー
ラス・カサスの新大陸征服に対する批判的思想
酒徳理美
1 初めに
本稿は、大航海時代に行われたスペインによる新大陸征服について、その征服事業を批判
したバルトロメ・デ・ラス・カサスの思想について考察することを目的とする。彼がスペイ
ン人による新大陸先住民に対する残虐な行為を告発し、その不当性を主張していたことは
広く知られていることであるが、彼は初めから征服行為に反対していたわけではなく、むし
ろ新大陸発見当初は自身もインディオを奴隷として所有する等、自国の政策及び自身のイ
ンディオの扱いに関して疑問を抱いてはいなかった。本稿では主に三つの先行研究を取り
上げながら、征服を批判し告発するに至った彼の回心の経緯、批判の根拠となった彼の思想
を考察する。
2 新大陸征服の実態とラス・カサスの回心の経緯
まず、ラス・カサスの思想について考察する前に、その前提となる彼が批判したスペイン
による新大陸征服の実態と彼の回心の経緯について述べておく。
2.1 スペインによる新大陸征服
スペインによる新大陸征服の主な特徴としては、キリスト教の布教を伴っていたこと、エ
ンコミエンダ制を導入したことの二つが挙げられる。コロンブスによる新大陸発見後、スペ
インは比較的早く征服事業を開始するが、当時のスペイン王であったイサベル女王とフェ
ルナンド国王は「カトリック両王」と呼ばれるほどの篤いキリスト教徒であったため、その
事業はキリスト教の布教を一つの目的としていた。その点で、この征服は単なる武力による
征服ではなく、魂の征服もあったとも言える(国本 1992, p.51)
。また、スペインは新大陸
の征服に当たり、エンコミエンダと呼ばれる制度を導入してインディアスの統治を開始し
た。そしてここにもキリスト教の布教による魂の征服としての一面を読み取ることができ
る。このエンコミエンダは「スペイン人に一定数のインディオを委託し、貢物もしくは労働
を強制する権利を認める代わりに、彼らのキリスト教化と文明化を義務づけた制度」であっ
たのである(染田 1990, p.34)。しかし、こうした定義が存在するにもかかわらず、「この
エンコミエンダは導入後たちまち奴隷制と変わらなくなり」
(染田 1990, p.188)
、結果的に
現地の大勢のインディオを死に至らせることとなった。
2.2 ラス・カサスの回心(ラス・カサス伝)
彼の回心の経緯は、染田秀藤によって『ラス・カサス伝』の中で以下のようにまとめられ
ている。コロンブスによる新大陸発見後最初にスペイン人居留地が建設されたエスパニョ
ーラ島へ、ラス・カサスは 1502 年に渡航し、そこで奴隷としてスペイン人に分配されたイ
ンディオの一人を所有した。その後再び島へ戻った際には彼はエンコミエンダに基づきイ
ンディオを使役しながら農業や金の採掘に従事していた(染田 1990, p.36)
。この頃の彼は
インディオの奴隷としての使用を他のスペイン人と同様に受け入れていたと考えられる。
しかしその後、ドミニコ会士、特にモンテシーノスによるエンコミエンダへの批判、インデ
ィオの人間性の主張を聞き、カオナオでのインディオ虐殺を見た際にスペイン人の残虐な
行為に疑問を抱き始め、最終的には自身が行うミサの準備の際に旧約聖書の一説を読んだ
ことで、エンコミエンダを不正かつ圧制であると判断、糾弾する決意を固めたのである(染
田 1990, pp.38-47)
。この出来事について染田は次のように記している。
一五一四年の聖霊降臨祭にサンクティ・スピリトゥスでミサを行うことになっ
たラス・カサスは、その準備のために読んでいた旧約聖書第二聖典『集会の書』
(第三八章)にある「不正の獲を供物にするのは、あなどることである。悪人
の供物を、主は受け入れない。
(中略)」という句に引き付けられた。それは、
インディアスでインディオに対して行われていること、とりわけエンコミエン
ダ(=レパルティミエント)が不正かつ圧制にほかならないと判断せざるをえ
なかったからであり、その結果、彼はエンコミエンダ制を糾弾する決意を固め
た(染田 1990, pp.45-6)
。
こうしてラス・カサスはインディオに対するスペイン人の征服を批判する道へと進むこ
ととなった。
3 ラス・カサスの思想
ここまでの征服の実態に基づき、石原、染田、ハンケによる三つの先行研究を参考に、
実際にラス・カサスがどのような思想を持って新大陸征服を批判したのかについて述べ
る。
3.1 インディオの人間性の主張
新大陸の征服に当たり、当時のスペイン国内では、インディオがスペイン人と同様の
生活を送る技能とキリスト教を受け入れる能力を持つかどうかという議論が活発に為さ
れ、各人がインディオの本性について判断を下していた。ここでの判断はスペイン人が
有する規範を基準に行われ(ハンケ 1979, p.61)
、故にスペイン人の多くはインディオを
自分たちよりも様々な点で劣った存在であるとみなし、征服を正当化していたが、その
一方でラス・カサスはインディオを自由人として認めるだけでなく、世界で最も高潔な
人であるとして、彼らを「高貴なインディオ」とみなしていた(ハンケ 1979, pp.17-8)
。
ここで注目すべき点は、彼はインディオが自分たちと同様の人間性を有しているだけで
なく、むしろ自分たちよりも優れた存在であるとの認識を持っていたという点である。
彼は
3.2 エンコミエンダ制への着目
また、ラス・カサスは征服の基盤となっていたエンコミエンダにも着目した。この点
について染田秀藤は以下のように考察している。ラス・カサスはエンコミエンダの政治
的性格に焦点を当て、エンコミエンダがインディオの同意を得ずに導入されたものであ
る以上、インディオは植民者に対する抵抗権を有しており、また同時に、そのような人
民に共通する正義に反する行為をする君主は暴君であると主張し、この制度が国王にと
っても有害かつ不正なものであるとしてその廃止を訴えた(染田 1990, pp190-1)
。つま
り彼は、インディオの人間性の尊重だけでなくスペイン国王の支配権の不当性をも提唱
することで、エンコミエンダに対する根本的な批判を展開していったのである。
3.3
1942 年のコロンによる新大陸の「発見」と翌年以降の「征服」の区別
また、上記のような批判の直接の基盤となった思想の他に、彼の新大陸征服の捉え方に
関して非常に興味深い考察が石原保徳によって為されている。当時のスペイン人たちは、
「発見=征服」であり、また同時に発見は征服に正当な根拠を与えるものであるとして、
新大陸の発見と征服の両者を同様に「聖なる事業」であると位置づけ何の疑問も抱いて
いなかった(石原 1980, p.36)
。これに対しラス・カサスは、コロンによる新大陸の「発
見」は「神の御業」を実現させた「偉業」であるが、続くスペイン人による征服事業は、
その偉業と、インディアスの地と住民をスペイン人に託した神の真意を踏みにじるもの
でしかないとした。つまり彼はコロンの「発見」事業とスペイン人の「発見=征服」事
業を明確に区別し、そのうえで後者のすべてを告発の対象とする態度を貫いたのである
(石原 1980, p24-5)
。このように、ラス・カサスは征服の発端とも言えるだろうコロン
の新大陸発見に関連する事柄にも焦点を当て、批判を行っていたのである。
4 まとめ
ここまでに見てきたように、ラス・カサスの思想に関して、ルイス・ハンケはインデ
ィオの人間性の主張、染田秀藤はエンコミエンダの不当性への批判、石原保徳は「発見
=征服」という概念への批判を、彼の思想の一つの要素として挙げている。ここで言え
ることは、ハンケと染田が着目した点は関連性を有しているということである。ラス・
カサスが、インディオの人間性を主張することで彼らが正当な抵抗権を持つことを明ら
かにし、それを基盤としてスペインによるエンコミエンダの不当性を訴えていたことか
らもその関連性を読み取ることができる。実際に、ハンケと染田は自身の著作の中で、
その重点の置き方は異なれどこの二つの要素の両方ともに触れている。前述のような関
連性を考慮すれば、彼らが両方をラス・カサスの思想の柱として挙げていることは妥当
であると言えるだろう。しかし、このようにハンケと染田がラス・カサスのスペイン人
の征服行為自体に対する批判姿勢を重視している一方で、石原は、当時のスペイン全体
で共有されていたコロンの新大陸発見から生じた思想概念への批判に着目している。石
原も著作の中で述べているが、このラス・カサスの考えは実際に本人による記述が残さ
れているにもかかわらず、比較的軽視されているものである。故にこの点に注目した石
原はハンケや染田とは異なる側面からラス・カサスの思想を紐解き、その思想の奥深さ
を明らかにしようとしていると言えるだろう。
また、以上の三つの先行研究の比較及び検討から、ラス・カサスの思想については次
のようにまとめることができる。ラス・カサスは新大陸征服を批判するに当たり、限ら
れた視点で特定の事柄に焦点を当てていたのではない。彼はスペイン人の征服行為自体
やインディオという人種自体に留まらず、当時共有されていた概念や用語に対しても疑
問を提唱する等、様々な側面から征服行為の批判を展開し、インディオの救済に努力し
ていたのである。
〈参考文献〉
石原保徳(1980)
『インディアスの発見 ラス・カサスを読む』、田畑書店
国本伊代(1992)
『概説ラテンアメリカ史』
、新評論
染田秀藤(1990)
『ラス・カサス伝 ―新世界征服の審問者―』、岩波書店
ルイス・ハンケ(染田秀藤訳)
(1979)
『スペインの新大陸征服』
、平凡社
国語Ⅲ
ブックレビュー「古代メソポタミアにおける『聖婚儀礼』
」
人文学類 1 年
菊浦実優
1.はじめに
古代メソポタミアにおける数多くの都市国家及び住民は、メソポタミアの神々の所有物で
あった。また、都市国家の王とは、神々から王権を授与された者のことであり、民衆を代表
して都市国家の秩序を保つ存在だったとされている。古代メソポタミアでは、王に王権を授
けるために数々の宗教儀礼が行われていた。この儀礼の 1 つに、ウル市iとイシン市iiで行わ
れていた「聖婚儀礼」が挙げられる。これは、シュメル神話に登場するイナンナ女神iiiと地
上の王との婚姻になぞらえ、イナンナ役の女官と王によって行われた。この「聖婚儀礼」が
「多産豊饒」性を持つかについては研究者によって捉え方が大きく異なる。したがって、当
ブックレビューでは、月本昭男、トーキルド・ヤコブセン、J・ボテロの論を紹介したうえ
で、
「多産豊饒」性についての見解を比較、考察する。
2-1.トーキルド・ヤコブセン「古代オリエントの神話と思想」
ヤコブセンは本書で、
「聖婚儀礼」について「毎年女神イナンナの男女ドゥムジ、つまり
タンムズとの結婚の儀式を執り行った(トーキルド・ヤコブセン、p249)」と記述している。
また、女神イナンナとドゥムジをそれぞれ、
「多産性」と「春の生成力」の象徴としており、
彼らの婚姻の儀礼が「春における自然の再覚醒(トーキルド・ヤコブセン、p249)」を意味す
るとしている。さらに、
「聖婚儀礼」のように、人間の登場人物が神に扮して儀式を行うこ
とによって、人間を神と同一視することができたと主張している。これによって、人間は
その神の持つ能力を身に着けることができ、自然に働きかけを行うことができたと主張し
ている。
2-2.J・ボテロ「最古の宗教<古代メソポタミア>」
ボテロは本書で、
「聖婚儀礼」は紀元前 3 千年紀から紀元前 2 千年紀にかけて、ウル市と
イシン市で行われたと述べている。この儀式に登場するイナンナとドゥムジは互いに愛人
関係であったとされており、このことについて次のように述べている。
イナンナは肉体愛のパトロンとしてまたその代表者としてよく知られており、その
ことが結果的にこの祭りに恋愛情緒的、あるいは我々がいうところの「官能的な」様
相を加味することになる。(J・ボテロ、p255)
ボテロは、この儀式そのものは神殿か宮殿のいずれかで行われているとしている。また、
婚姻の儀礼における初夜の場面を、イナンナ役の女官とドゥムジ役の王が具現していたと
記述している。
1
国語Ⅲ
二人の肉体的結合は具体的に上演されると同時に、イナンナとドゥムジのそれが秘
儀の形をとって「再現」されたのである。(J・ボテロ、p256,p257)
また、この婚礼の翌日、婚姻を承認し歓喜を国中に伝えるために、盛大な宴が催された。
ボテロは、この儀礼の持つ特性について「豊饒性」よりも「むしろあり余る豊かさと繁
栄とを国にもたらす(J・ボテロ、p258)」ものだったとしている。なぜなら、イナンナ(また
後のイシュタル)は本来的には「妻」であったことはなく、彼女を母性と捉えることはでき
ないからである。ゆえに、彼女と王の結合は、王に子孫を残すための力を与え、権力の繁
栄と永続を保証し、王権を行使する権利を与えることを意味していたと考察している。
2-3.月本昭男「古代メソポタミアの神話と儀礼」
月本は本書において、ウル第 3 王朝並びに続くイシン第 1 王朝期に残されたシュメル語
の讃歌について述べている。このうち『シュルギ讃歌(X)』において、次のように述べてい
る。
ウルクの町に到着した王シュルギは贈り物を携えてイナンナ女神を祀るエ・アンナ
神殿に入り、そこで装束を整える。すると、この王の容姿に心奪われたイナンナは、
ドゥムジと同一視されたこの王と愛の床の上で情を交わした時のことを具体的に想
起し、この王に支配者(「国の牧者」)としての数々の祝福の約束を与えるのである。(月
本、p106)
月本は、同時代の「イナンナ讃歌」と別の文書(王名不明)についても記述しているが、こ
れらの文書には共通して、イナンナ女神から王に対する祝福や、王の威光を表す言葉が贈
られている。月本は、このような記述が見られることから、
「聖婚儀礼」が王権に関係する
儀式であったとしている。
また、月本は J・G・フレイザーの提唱した、
「聖婚儀礼」の持つ多産豊饒を祈願する1、
という特性について言及している。フレイザーは女神イナンナを「豊饒の地母神」
、男神ド
ゥムジを「死んで甦る」とみなしているが、これには文献学的に十分な証拠がないため、
信憑性は低いとしている。
3.
「多産豊饒」性についての論の比較
まず、
「多産豊饒」性についての月本、ヤコブセン、J・ボテロの主張を以下にまとめる
ヤコブセンは、イナンナはそれぞれ「多産性」と「春の生成力」の象徴であり、彼らの婚
姻儀礼は「春における自然の再覚醒」、つまり「多産豊饒」の性質を持つと述べている。一
方、ボテロは、イナンナは「母性」の象徴ではなく「肉体愛のパトロン」としての存在で
あったことから、彼らの婚姻儀礼は「多産豊饒」よりむしろ「王の権力の繁栄や永続」を
表していたと述べている。一方、月本は、イナンナとドゥムジが持つとされている多産性
と甦りの性質は、文献学的に十分な証拠がないため、彼らの婚姻儀礼が「多産豊饒」の性
2
国語Ⅲ
質を持つとは言い難いと述べている。これらの主張を比較すると、
「多産豊饒」性の根拠は、
イナンナ女神の持つ性質にあることが読み取れる。
ここで、イナンナ女神について簡潔に述べる。イナンナ女神iv(のちの時代ではイシュタル)
は、古代メソポタミアの多数の神話に登場する女神である。とりわけ、
『ギルガメシュ叙事
詩』vでは、主人公ギルガメシュに対して執拗に求愛し、ギルガメシュが彼女の男癖の悪さ
を批判する描写が見られる。
このような描写から筆者は、ボテロと月本が主張するように、イナンナ女神が「愛欲」
の性質を持っているとするのは的確であると考える。一方、筆者はヤコブセンの主張した
イナンナ女神の「多産性」説も、完全に否定することはできないと考える。肉体的結合か
ら生じるのは子孫であるため、
「聖婚儀礼」が結果的に「多産豊饒」性を持つとも考えられ
るためである。これらのことから、筆者は「聖婚儀礼」におけるイナンナ女神とドゥムジ
の肉体的結合の点のみから考察すると、
「聖婚儀礼」は彼女が「愛欲」を満たすことのみを
目的とした儀礼であったと断言することは不十分であると考える。
4.おわりに
「聖婚儀礼」の「多産豊饒」性については、現在は否定的あるいは的確ではない説であ
る。これは月本が主張したように、イナンナ女神の「多産性」が文献学的に確証を得られ
ないためである。しかし、イナンナ女神が「愛欲」という性質を持つのは明らかである。
それゆえに、イナンナ女神と人間の王の肉体的結合を模した「聖婚儀礼」の性質が、豊か
さや繁栄をもたらす、という主張も否定しがたいものとなる。
「聖婚儀礼」が行われていた
ことに関しては、多数の文献が根拠となっている。しかし、その意義については今後発見
される資料やイナンナ女神に関する記述に基づく考察が求められる。
参考文献
H・フランクフォート他著、トーキルド・ヤコブセン共著「古代オリエントの神話と思想 哲
学以前」(山室静・田中明訳)社会思想社、1978
J・ボテロ著「最古の宗教<古代メソポタミア>」(松島英子訳)法政大学出版局、2001
月島昭男「古代メソポタミアの神話と儀礼」岩波書店、2010
i
古代メソポタミアの都市。ウル第三王朝などのシュメル時代の主要都市として繁栄した。
ii古代メソポタミアの都市。ウル第三王朝の伝統を引き継いでいる。
iii
イナンナ女神はシュメル王朝時代の名称であり、のちの時代にはイシュタル女神と同一
視された。
iv 紀元前 1800 年頃に、シュメル語で記されたギルガメシュ諸伝承をもとに成立した「古バ
ビロニア版」と、紀元前 2 千年紀末に大幅な改定が施された「標準版」やそれを基にした
写本が存在する。主人公ギルガメシュ王が親友のエンキドゥと共に苦難を乗り越え成長す
る物語である。
3
蒙古襲来絵詞」の奥書成立時期に関する現代の見解の比較
―飯島勇(1964),宮次男(1975), 太田彩(2000) ,服部秀雄(2015)を用いて―
松本晟也
1
はじめに
蒙古襲来絵詞(以下絵詞)は鎌倉時代に成立したとされる 2 本からなる絵巻物で、元寇で戦
った御家人竹崎季長を中心に描く。成立から長い年月を経ているため、当初の形態を全体で
忠実にとどめているとは言いがたく、加筆、欠損等の議論は江戸時代から存在する。本史料
も絵巻の基本的形態に漏れず、絵画部分と詞書部分に分けられる。本稿では詞書部分につい
て、特に上巻下巻各末尾につく奥書についての先行研究を比較、検討する。また、絵詞には
多くの複本が存在する。その中で、今回は俗にいう旧御物本を扱う。これは、熊本県大矢野
家に伝わったもので明治 23 年に宮内庁が買い上げ、以来皇室の宝物として保存されてきた
ものである。現在は宮内庁三の丸尚蔵館が保管する。
本稿で主題とする奥書とは、「記録・著述・経文などの巻末にその伝来、書写の年月、経
緯を自筆または異筆で記したもの」(日本史用語大辞典編集委員会(1978):108)である。絵詞
においては、前巻第 43 紙と後巻 43 紙が奥書として見られてきた。本レポートでは前者を
甲、後者を乙とする。なお、甲は前巻第 31 紙から第 34 紙に当たる詞書 7 と同文である。
乙には未来年号が使用されている。すなわち、乙には「永仁元年二月九日」(松下隆章
(1975):104)と書かれているが、永仁への改元は 8 月 5 日であり上記の日付は存在しないこ
とになる。
飯島勇(1964) 及び 宮次男(1975)は、奥書の作者を竹崎季長に比定し論を述べる。太田彩
(2000)は、奥書には竹崎季長は関与しないもののそれほど時期を離れず作成されたものであ
るとする。服部英雄(2014)は 2 通の奥書の両方が後世の手によるものであるとして論を展
開する。
2
飯島勇(1994)
飯島(1994)はまず、奥書に記された年号について、未来年号ではあるものの制作年代のお
およその推定が可能であることから、蒙古襲来絵詞は史料として扱うに値するとする。また、
奥書甲乙は共に記載された内容に特殊性が見られることから、奥書と判断してよいとする。
絵詞は前巻・後巻それぞれが元来 2 本の異なる絵巻からなっており、それらが時代を経
る中で合体して現在の各 1 本の絵巻となった。奥書甲・乙共に内容が文永の役に関するも
のであり、損傷状態に共通性が見られる。それに対して、筆致は両者の間に差異があり、甲
は専門的な能書家によると見られる整った筆致であるのに対し、乙は素朴で力強いものを
感じさせる。これに加えて、絵巻が竹崎季長と中心とするものであること、文章の内容も竹
崎季長の心情を率直に吐露するものであることにより、乙の作者を竹崎季長に比定する。こ
のように作者を特定できることから、当初作られた絵巻のうち 2 つ目の絵巻が 1 つ目と同
程度の重要性を持ったものであり、1 つ目は竹崎季長が信仰していた甲佐社に奉納されたも
のであると考えられる。奥書乙は本来 1 つ目についていたものを、子孫に甲佐社の神恩を
伝えるために借用したと述べる。次に、奥書甲について考える。これは、元寇後の恩賞に対
し自分自身を戒め、その戒めを子孫にも継承するよう述べるもので、甲佐社に奉納するもの
に存在していたとは考えづらく、2 つ目のみに存在したとする。すなわち、これも竹崎季長
自身を作者に比定しうることとなる。なお、これは前述の筆致の差異と矛盾するが、飯島
(1994)ではその点について特に触れられていない。
3
宮次男(1975)
奥書甲については紙巾が絵詞の部分より小さく、損傷状態、傷の間隔から割り出した軸心
の太さから絵詞と同一のものではないとする。しかし、まったく無関係というわけではなく、
別に調巻されていたか、添状の形態をとっていたと考える。そして伝来するうちに、ともに
調巻されたとする。奥書乙も甲と同様の理由から絵詞とは別個のものといえる。さらに内容
も文永の役の恩賞に関するものであり弘安の役に関する巻の巻末に付けられているのは不
自然とする。未来年号についてはその年が竹崎季長にとって記念すべき年であったことを
表すとし、問題ないとする。竹崎季長が作成したとされる別の古文書で竹崎季長自身による
改変がなされた史料が存在することも援用している。その他、奥書に記された内容で絵詞と
切り離すと意味の通る部分が複数存在することも提示した。
4
太田彩(2000)
太田(2000)は絵詞の詞書を 5 つのタイプに分けて考察している。その中で、奥書甲・乙は
タイプⅣとⅤにそれぞれ該当する。奥書甲・乙共に絵詞とは別文書であるものの大きく時代
を隔てずに成立したと考える。奥書甲については、絵詞の他の詞書に同じ内容のものがある
こと、右側に絵があること、竹崎季長の恩賞に関する別文書が含まれることから、既存の絵
詞を写して制作された別の絵巻のものであるとする。奥書乙については、根拠を明確に挙げ
ていない。その後、絵詞の詞書の作者について触れた際、竹崎季長自身の詞書への関与の可
能性も否定できないとしている。そして、竹崎季長が関与した絵巻の後に作られた絵巻に奥
書甲が存在し、ゆえに他の詞書と奥書甲が共通した内容を持つとする。すなわち、奥書甲の
存在は既に成立していた絵巻とそれを清書して製作したもう一つの絵巻の 2 つの絵巻が存
在していたという根拠になると結論づける。
5
服部英雄(2014)
服部(2014)は、奥書が後世のものであると主張する。その根拠として、以下の 3 点を挙げ
る。まず、奥書の存在そのものが問題であるとする。通常絵巻に奥書は 0 ないし 1 つ存在
するものであり 2 つも存在するということはそれ自体異例である。次に、内容は重複する
が筆跡の異なる他の詞書が存在することを述べる。最後に、未来年号を不自然とする。
そのうえで、各奥書について先行研究のデータを参考にしながらさらに細かく見てみる。
奥書甲については紙質、筆致から絵詞作成とは異なる時間、場所で作成されたもので竹崎季
1
長による関与を完全に否定する。奥書乙については内容が絵詞本文に記されていないこと
が記載されていること、それには甲佐社の意向を強く感じること、語呂合わせが絵詞の格調
高さに合わないことから否定している。
奥書成立時期についても検討を行っている。先行研究では当初から目的の異なる絵巻が 2
本作られたという説があるが、これは紙質の違いや記載方法が仮名と漢字・フリガナで違う
という点から反論している。埼玉県立博物館本には、近世後期の画家、福田太華の子の蔵書
印が押されているが、この摸本の書風と奥書甲の書風は共通する。世代としては太華より 1
世代前に寛永の修理が行われたため、そこで埼玉県立博物館本、奥書が作成されたとする。
すなわち、奥書甲は鎌倉時代ではなく江戸時代に作成されたものであると主張する。
6
終わりに
以上みてきたように、奥書は竹崎季長の手によるものという意見から後世のもので竹崎
季長は全く無関係という主張までさまざまな論が存在する。飯島(1964)は奥書が竹崎季長の
手によると主張するが、甲と乙の筆致の違いは無視されたままであった。宮(1975)は、奥書
については竹崎季長の手による可能性を否定しなかったが、絵詞とは切り離すべきである
と考えた。太田(2000)は、奥書は竹崎季長が関与した絵巻を同時代に写した絵巻に付属した
もので後世のものではないと主張した。しかし、時代の隔たりが大きくないと考えた根拠が
明確に述べられていない。服部(2015)は、奥書は近世に作成されたものであるとする。主張
は説得力を持つものの、書風のみで近世に作成されたものとするのは根拠が弱いと考える。
上記 4 つの文献の主張は文献が書かれた時期が下るにつれて、作者が竹崎季長であると
いう意見が徐々に薄れていく。とするならば、現在では奥書を竹崎季長の手によるものでは
なく後世のものであるとする見方が主流となっているのではないか。これはあくまで長い
研究史の中で今という時間の切り口から見たものに過ぎず、今後新たな史料、論説が現れ現
在の主流な見解が変化する可能性は十分にありうる。作者を竹崎季長に比定する意見から
後世の偽文書とする考えへと徐々に傾いていった潮流がこれからどのように変化していく
か楽しみである。
参考文献
飯島勇(1975)「蒙古襲来絵詞の詞書ならびに奥書についての二、三の問題」
『東京国立博物
館研究誌』160,pp.22-28,東京国立博物館
太田彩(2000)「蒙古襲来絵詞」
『日本の美術』414,pp.85-102
日本史用語大辞典編集委員会(1978)『日本史用語大辞典(全 2 巻)Ⅰ用語編』柏書房 p.108
服部英雄(2014)『蒙古襲来』山川出版社 pp.291-306
不明(不明)『蒙古襲来絵詞』
松下隆章(1975)『新修 日本繪卷物集 第 10 卷 治物語繪卷 蒙古襲來繪詞』角川書店 p.104
宮次男(1975)「蒙古襲來繪詞について」松下隆章編『新修 日本繪卷物集 第 10 卷 治物語繪
卷 蒙古襲來繪詞』pp.70-88
2
日本におけるダキニと狐の結合について
杉本 賢理
1.はじめに
日本においては、狐にまつわる様々な伝説や伝承が存在している。日常生活に近いもので
言えば、古くは「狐の嫁入り」や「狐火」、最近のものでは「コックリさん」の流行などが
記憶に新しい。また、現代、特に都市部においては実際の狐を目にする機会は少ないが、我々
は全国に祀られた稲荷神を通じ、狐との接点を持っていると言える。日本全国に神社は十数
万社存在するが、その三分の一が稲荷神社によって占められており、その祭祀形態も多岐に
渡る。本文で取り上げるのは、中でも仏教的稲荷神として祀られているダキニ天である。
ダキニ天はヒンドゥー教の神、ダキニに由来している。今日でこそ、ダキニ天は狐に騎乗
し、稲荷神として祀られているが、ダキニはその原点において、狐とは縁もゆかりもない。
そこで今回は、ダキニがいかにして狐と結びつき、稲荷として扱われるようになったかにつ
いて述べたい。
2.日本における狐と稲荷
ダキニと稲荷・狐の結びつきを考えるにあたり、そもそも日本における稲荷と狐の関係と
はどのようなものであったのかを考えておくべきであろう。
日本では、山の神が田に降りることで田の神になるとされる。狐は、このような田の神と
関連付けられて祀られているとされる。吉川(1979)はこれを踏まえた上で、次のように述
べている。
狐は現在よりも山野に多く住んでいたと思うが、他の獣物と若干異る所があり、秋
から冬にかけて人里へ降りて食物をあさるが、春になると里人の前から姿を消す
という。これが、春、旧の神は里へ降り、冬、山にこもりて山の神となる信仰に裏
うちされて、目に見えぬ神の先ぶれとして考えられたのではないかということで
ある。
(吉川正倫(1979)
『稲荷信仰と狐の民俗』p.165)
また、吉川は
中古、伏見稲荷に田中社が摂社として祀られた時、全国の田中の社と狐の伝承が、
そのまま稲荷大社に持ちこまれたと考えてよいのではないか。(吉川正倫(1979)
『稲荷信仰と狐の民俗』p.165)
とも述べており、田の神と狐、そして稲荷神との関連を述べている。
以上のことより、狐と稲荷は豊作をもたらす神との関連を持ち、その中で自身もそのよう
な神としての側面を持つに至ったと言えるであろう。
3.ダキニの性質
先にも述べたように、ダキニはもともとヒンドゥーの神である。ダキニはジャッカルに騎
乗する女神で、ヒンドゥーにおいて農耕神として信仰されていた。また、豊穣から連想され
た生殖神的・愛欲神的側面も持っていた。「心を射止める」ことから、心臓を食う邪神的傾
向も強調されている。松村(2008)によれば、ダキニは「人の死を八ヶ月ないし六ヶ月前か
ら察知し、その心臓を食う」(松村(2008)
:134)そうである。
ダキニはヒンドゥー圏から日本に伝来する過程で、様々な変化を遂げた。特に中国におい
て、密教の影響を強く受けた。松村はまた、それについても言及している。
大日如来に降伏したダキニは人肉を食わないと誓わされたが、しかし生きてゆく
ために、死人の心臓を食うことだけは許された。
(松村潔(2008)
『日本人はなぜ狐
を信仰するのか』p.134)
ダキニが日本で最初に登場するのは、九世紀の胎臓界曼荼羅であることを考えると、日本に
おけるダキニは、当初より密教と強い繋がりを持っていたと言えるであろう。
さらに松村は、ダキニと狐との関連も中国において発生したものであるとして、次のよう
に述べている。
ダキニが中国に伝わった時、中国にはジャッカルが存在していないため、ジャッカ
ルは狐と似たようなものだと解釈されることになった。中国では狐は妖術の動物
であり、家畜の死肉を食うことがある。また墓地に巣を作り、時には人の死体も食
うことがある。この点でジャッカルと狐は似ていたのである。
(松村潔(2008)
『日
本人はなぜ狐を信仰するのか』p.146)
このため、日本におけるダキニは狐に騎乗する神として伝わった。松村はこれを理由に稲荷
とダキニの混成が発生したとしているが、それはいささか早計であるように思われる。そこ
で、次の項では、日本国内におけるダキニと狐・稲荷との結びつきについて述べたい。
3.日本国内でのダキニとその変化
密教の影響を受けて中国から渡ってきたダキニは、仏に対する邪神として扱われた。ダキ
ニは不気味な通力を持つが、祈れば福徳を得られるとさたため、信仰する者も多かった。笹
間(1988)は、後者の性質について「信仰する事によって福徳が授かるとすれば弁才天に共
通し、弁才天と同じ姿の盛装した女神像とした方が受け入れ易いために日本的表現となっ
た」
(笹間(1988)
:44)と述べ、ダキニの変質に言及している。
弁才天信仰には貴狐天王の化身である妙音弁才天が含まれる。こうして、平安時代から鎌
倉時代にかけてダキニと弁才天、それを通じたダキニと狐との結びつきは盛んとなり、ダキ
ニは広く受け入れられることとなった。ただし、笹間が
ダキニは恐ろしい尊と定義づけられたが、そもそもその出自はその自在の能力を
付加したために生じた誤解により成る結果であって、農業神が元であったことが
全く忘れ去られたためである。
(笹間良彦(1988)
『ダキニ信仰とその俗信』p.151)
と述べたように、そのあり方は本来のものとは乖離した、呪法を司るものであった。また笹
間は、これに関し、次のようにまとめている。
呪法という形式からいよいよ修験道の要素が濃厚になって行き、愛宕修験・飯綱修
験(戸隠修験)に結びつき、室町時代においては愛宕の法、飯綱の法に転化し、飯
綱明神(元の稲荷)がダキニの変身とまでなる。
(笹間良彦(1988)
『ダキニ信仰と
その俗信』p.53)
以上から、日本におけるダキニは本来のあり方とは大きく変質していることが分かる。其
の変質の過程において、ダキニは呪法を司るようになり、狐との関わりを持った。こうして
みると、ダキニと狐とは古くから関連付けられて考えられており、それが稲荷信仰と結びつ
いたことも自然なことと考えられるであろう。
4.まとめ
ここまで、ダキニと狐・稲荷との結びつきに関し、二つの見地から述べてきた。見た目の
連想によるものか、密教思想の影響を受けたものかという違いはあれど、どちらの見地もダ
キニが変質することによって狐・稲荷とつながりを持ったとしている。
しかし、ここで一つ、見落としてはならない事実がある。ダキニと狐・稲荷は、どちらも
農耕神としての性質を持っているということである。ダキニに関しては、むしろ農耕神とし
ての性質こそ本質であり、現在のあり方は歪められたものとしてさえ捉えうるかもしれな
い。笹間はこのように考え、
「ダキニ天が農耕稲作民族とともに日本に上陸していたら、こ
うした結果はなく、直ちに産土神として始めから稲荷神として成立」(笹間(1988)
:152)
していたとし、批判的な考察を加えている。
筆者は本文に挙げたようなダキニの変質の過程を、必ずしもよからぬものであるとは思
わない。むしろ、ダキニと狐・稲荷との結びつきの多面性と、一見無関係の両者間の強い「縁」
を感じられ、大変興味深く感じる次第である。
参考文献
笹間良彦(1988)
「ダキニ信仰とその俗信」第一書房.
松村潔(2008)
「日本人はなぜ狐を信仰するのか」
(講談社現代新書)講談社.
吉川正倫(1979)
「稲荷信仰と狐の民俗」,『大手前女子大学論集 13』pp.161-165
国語Ⅲブックレビュー
「知りえないものを語るために ~『死』の事例から」
津山碧依
1. はじめに
人間には経験的に知りえないものが多く存在する。例えば「未来」
。その到来は「これ
までずっと未来が到来しなかったことがない」という前提から、あくまで帰納的に導かれ
る推論でしかない。
「明日また会おうね」と友人と約束を交わし毎夜眠る人々に、一瞬先
にも未来が到来することを保証してくれるものは何もないのである。
同様に「死」についても人は知ることができない。
「死」は常に、その未来のうちに起
こることだからである。人はこのような「知りえないもの」について、どのように語りう
ることができるだろうか。ここでは、その知りえないものであるところの「死」について
語る複数の著者とその文献について比較検討し、そうした語りのアプローチの方法論に
ついて考察することを主眼に置く。
2. 文献比較
このレビューでは、論の根幹に「死」を「知りえないもの」であるとしている文献を取
り上げるが、それぞれの文献がどのような根拠に基づいてそう語っているかについて、ま
ず最初に確認する。
それを踏まえたうえで、それぞれの文献がどのような形でその「知りえなさ」を克服し、
「死」について語っているかを読み取る。
2.1. 中島義道(2007)の手法
中島は、
『
「死」を哲学する』において最初に、
「死」とは単にそういった名辞を伴った「言
葉」に過ぎず、それに対して抱く人間の恐怖は、あくまで「死」という言葉を恐れているだ
けだと語っている。また「死」は物理学が対象とする自然現象の外にあることから、物理学
とは別の哲学的なアプローチが有効であると導いている。加えて「哲学は、哲学者の個人的
感受性と信念を捨てることなく、そこから普遍性を目指す営み」(pp.16)であるとして、中
島自身の実感にある程度基づいて語られることが、本題に先んじて述べられている。
そのうえで中島は、
「死」の未知性について、未来の未知性、死の固有性、無の想起不能
性という異なる切り口から説明している。
中島は未来の未知性について、次のように説明している。
現在の現象 E2 と未来の現象 E3 のあいだには、現在の現象 E2 と過去の現象 E1 とのあ
いだに成立しているような直感に基づいた時間関係は成立していません。そうではな
く、ただの概念関係が成立しているだけなのです。言い換えれば、
「もし未来が存在す
れば」という前提を挿入した推論の関係にすぎない。そして、この推理の前提をなす「未
来の存在」は、まったく何によっても保証されていないのです。(pp.43)
死の固有性について、「他人の死という経験に直面するとき、自分自身の死を「先駆
(Vorlaufen)」して理解するとき、そのどうしようもない他人からの隔絶を改めてひりひり
実感するのです」と述べたうえで、さらに次のように詳しく説明している。
死が無意識と違うのは、死からは目覚めることがないというただ一点だけなのです。
(中略)ここにおいて、私と他人とは決定的に隔絶していることが自覚されます。他人 F
が死んでしまっても、私は「F は死んでしまった」と語る視点を持てるけれども、私が
死んでしまうと、私はその視点すら失うということです。私が死ぬということは「私は
死んでいる」と語れる視点を失うのみならず、「私は死んでいた」と語れる視点さえも
失うということなのです。(pp.88)
また、中島は死を「
(私が)死んでからの状態」に限定したうえで、それをまったくの無
であると仮定するとき、死を無として想起することが困難であると言う。仮に人が無を経験
したとき、それはその人固有の経験だが、無を「無」という名として表記しようとすること
は言葉の同一性に絡め取られてしまうことになり、言葉として表現できない無に気付くと
いうのである。
驚くべきことだが、この『
「死」を哲学する』においては主に以上の内容について詳細に
語られるのみである。「死」が「いかにして語りえないものであるか」について可能な限り
の省察を試み、そうすることによって、まさに書名通り「死」に対する哲学的アプローチに
成功している。
また、最後には、「私の側からは完全な無ですが、境界の向こうに位置する死の側からの
言葉があるなら、その言葉は私の死を語ることができるのかもしれない」と述べ、本当の意
味で死について語る言葉を持つことができるのは少なくとも死ぬことによってであると締
めくくっている。
2.2. 伊藤益(1999)の手法
伊藤は、
『日本人の死―日本的死生観への視角―』において、
「死の不可能性」の根拠とし
て未来の未知性、代替不可能性、体験不能性などを根拠として挙げ、
「未来にのみ定位し、
現実の存在者にとってあくまでも未知なるものでしかない死は、本来的に不能な体験であ
り、それを問い、思念することもまた不可能である。」(pp.12)と述べている。
ここにおいて伊藤が挙げた根拠は中島の立場に含まれているが、伊藤は死について問う
ことさえ不可能であると主張している点で異なっている。しかし伊藤は続けて、
「だが、そ
れにもかかわらず、死への問いは、思惟する存在者にとって問題的なものであり続ける。死
は不可避の事態として思念され、しかも、それによっていまここに在るということそれ自体
が決定的に無化されると考えられるからである。」(pp.12)と、死について問う必然性につい
て述べている。
それをふまえて、伊藤はどのように「死」について問い、語ろうとしているのかを探る。
まず伊藤は「死の不可避性」があくまで「過去において人間は全て死んだから」という帰
納的な推論に基づく考えに過ぎず、その時点で論理性から乖離していると指摘する。だがこ
こで重要なのは、そうした論理性から乖離した考えこそが人間的日常性に即しているのだ、
という事実である。
「日常性への執着は、
「実在論」を前提としてしか現実性を有しえない。
日常性を手放す決意をもたないかぎり、
「非実在論」を日常の論理として措定することはで
きないのだ」(pp.18)というように、伊藤は死について考える範囲においては「日常の論理」
に重きを置いている。
もちろんそうした帰納法を代表する「日常の論理」が決定的に正しいものであるとは考え
られないが、それにもかかわらず「死の不可避性」という観念が「鋭く真実を穿つものとし
てわれわれの心情に迫り来る」(pp.19)という、そのこと自体が重要であると伊藤は述べて
いる。
ここにおいて伊藤の主観が立ち現われていることがわかる。
「死の不可避性」が心情に迫
り来るのはあくまで伊藤の感覚においての話でしかなく、ここには客観性が欠落している
ように思われる。しかし、伊藤はその点についても次のように言及している。
(考え方や認識について)志操を同じくする人々のあいだに類的かつ共同主観的に受
容されることによって、強度の事実性を帯びることになる(pp.23)
つまり、事実はそれが実際に存在したかどうかに関わらず、共同主観的な受容に基づいて
認識されるということである。さらに、その認識において重要なのはそれを意識する主体と
の関係性であることが以下のように述べられる。
わたしの意識を離れた「物自体」は、わたしとの関係の裡に定位しないがゆえに、わた
しにとっては非在であり、すくなくともわたしの認識の埒外にある。(中略)ただし、こ
のことは、わたしとの関係に属する事・物の客観的存在性を保証するわけではない。
(pp.31)
そして、ここで言うところの、意識する主体との関係を持たない、認識の埒外にあるもの
についての客観性については「われわれの言う「客観性」が実は「共同主観性」の域を出る
ものではありえない」(pp.32)と補足される。
これらを根拠に、伊藤は客観性そのものを排拒する立場に立ち、伊藤自身の考究が必ずし
も真理に到達したものではないながらも、「共同主観」の一端として「確からしさ」に寄与
する役割を果たすことはできるだろうと主張している。
このように伊藤は論理性を日常の位相に置き、さらに自らの主観に基づいて考究するこ
とによって、論理的に思惟することのできない「死」について語っているのである。
2.3. エピクロス(1959)の手法
エピクロスは、
『エピクロス ―教説と手紙―』収『メノイケウス宛の手紙』において、そ
もそも、死について恐怖を抱くことが愚かであるとし、その理由を「予期されることによっ
てわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに悩ましているにすぎないからである」
(pp.67)と述べている。
また、
「われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわ
れわれは存しない」(pp.67)として、死はわれわれにとって何ものでもないという主張を導
いている。
エピクロスは死を経験し得ないものであるという前提に基づいて語っているが、しかし
「未来」について、
未来のことはわれわれのものではないが、さればとて、全くわれわれのものでないので
もない、ということも記憶しておかねばならない、というのは、未来のことについては、
われわれは、それがきっと来るであろうと、全き期待をかけることもしないし、また、
全く来ないであろうと、望みを棄てることもしないからである。(pp.69)
と述べており、これは先に紹介した中島、伊藤の持つ未来観とは異なっている。エピクロ
スは、人々の時間の流れにおける不連続性を完全に肯定することはせず、
「望み」という言
葉を用いて関係付を図ろうとしている。
3. まとめ
中島と伊藤は「死」を知りえないとする根拠として挙げた要素がほとんど一致していたが、
しかしその「知りえなさ」を克服するための手法は全く異なるものだった。中島は論理を駆
使して徹底的に死の不可能性を様々な角度からあぶり出そうとし、それによって間接的に
「死」を描出している。一方で伊藤は哲学的な意味での論理や客観性を排拒し、自らの主観
と日常性に即した論理によって論を展開する。このように全く正反対とも言えるような語
りの手法をそれぞれ編み出しているのである。この中島・伊藤両者の時代から大幅に遡った
古代ギリシャのエピクロスも同様に、死を経験し得ないものであるということから不可能
性について語っている。しかしエピクロスはそこから死について考え悩むことの無意味さ
を導いているのである。これはおそらく現実の日常生活において「死」について考えること
の無意味さに重ねあわせているものだと考えられるが、しかし、死はそれについて考えるこ
との意義を問われる以前に人間の心中に真に迫る問題でもある。伊藤が扱っているような
その点について、エピクロスの立場はいささか論拠が不足している。また、過去と未来との
間の連続性をわれわれの「望み」によって保とうとするエピクロスの考えは興味深いが、こ
こにおいてエピクロスは未来について異なる解釈を混在させて扱っていることにも注意が
必要である。未来は「これから起こるであろうと、いま予測していること」と「現にこれか
ら起こるであろうこと」という二つの意味があり、日常的に人々はこれを区別せず「未来」
と呼んでいるが、実際には全く異なるものである。人々が「望む」未来と、実際に到来する
未来とは、連関を持つことを保証するものがなにもないのである。
中島・伊藤両者の立場は過去の哲学的立場を反映し、非常に広範にわたる問題に対して答
えを用意している。一方でエピクロスの立場は非常に未熟で粗野なものであるが、しかし現
代においても示唆を与えうるものである。
「知りえないものについて語る」という、一見不可能にも思えるような問題に対しても、
様々なアプローチの手法があることがここに明らかになった。
参考文献一覧
中島義道(2007)『
「死」を哲学する』岩波書店.
伊藤益(1999)『日本人の死―日本的死生観への視角―』北樹出版.
エピクロス(1959)『エピクロス ―教説と手紙―』出隆, 岩崎允胤訳, 岩波書店.