青の季節 - ジローの文学マダン

架橋18
1998 夏
目
次
○思索的自分史・記録
この人の世の片隅で・・・・・・・・・・・・・・北原幸子
邂逅と永訣・・・・・・・・・・・・・・・・・・間瀬 昇
○小説
変々凡々・・・・・・・・・・・・・・・・・・・申 明 均
九月のうた・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡野玖美
パダンの丘・・・・・・・・・・・・・・・・・・李 淑 子
青の季節・・・・・・・・・・・・・・・・・・・磯貝治良
○詩・短歌
雪解けの頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・卞 元 守
花大根の花の咲く・・・・・・・・・・・・・・梨花美代子
○エッセイ
隣 人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩田多万亀
“差別、差別語”で思い出すこと・・・・・・・・・朴 燦 鎬
○コラム・会録・あとがき
この人の世の片隅で
―身体障害のある女性であるということ―
きた
はら さ ち
こ
北 原 幸 子
自分史がはやりだして、もうずいぶんになるようだ。自分史というものには、一つ前の
時代には眼を向けられることのなかった何か大事なことが含まれているのだろう。一つ前
の時代には個人的なことは切り捨てられていた。私はこれまで、身体障害者である自分の
ことを書こうとも自分を語ろうとも本気で思ったことがなかった。それはひどく苦手で、
何も書かず、専ら本を読むばかりであった。その姿勢が一冊の本によって変更されてしま
った。
一九九四年初秋、私は四七歳。長男の就職も決まり、子育ても一段落とパートの仕事を
やめてほっとしていた。そんなある日、図書館で一冊の本に出会った。ロバート・F・マ
ーフィー著『ボディー・サイレント―病いと障害の人類学』
(辻信一訳、新宿書房、一九九
二)
。人類学の視点から障害者問題を考える―こんな本は今まで見たことがない、何が書い
てあるのだろうか。そんな興味で借りて帰り、すっかり引きつけられてしまった。
数年前に読んだ『哀切と痛切』(小栗康平著、径書房)の中に次のような文章があった。
「大事なセリフがあったらそれを引きで撮れるようになれ、死んだ師匠の浦山桐郎はよく
そういった。引きというのは、クローズ・アップの反対で全部が写っているものだ。ここ
が大切なんですとばかり、寄っていっては駄目なのだ。本当に大事なことは相互の位置関
係が見えるところで語れという思想だ」
なぜかとても気になって心に残っていたものだが、その一節の自分にとっての意味がや
っと分かったのである。浦山桐郎の映画作りの言葉が、『ボディ・サイレント』によって、
障害者の存在を捉えるためのものに私の中で翻訳されたのだ。「大事なセリフ」とは身体障
害者である自己、即ち「損なわれたまま生きられている私の身体と損なわれた心」であり、
「引き」とは「身体障害者をこれこれと定義してくる文化と社会の全体」のことであると
思う。
『ボディ・サイレント』によって、私はこれまで身体は身体、心は心と切り離して考える
二元論をちゃんと乗り越えられずにいたことに気づかされた。また、私が幼い頃にぶつか
って今までずっと解決しきれないできたのは、アイデンティティの揺らぎ(身体障害者で
ある自分とはいったい何であるのかが分からない)と、自己価値の問題(身体障害者であ
る自分を意味や価値のあるものとして愛しきれない)だったことが確認でぎた。
そして自分を語ることの苦手な私が、
「私の大事なセリフ」を語ってみたくなった。これ
までに経験してきた大小の違和感、あるいは耐えがたい不調和。それを魂の痛みとして自
分の言葉で語ること―そこにようやく手が届きそうな気がしはじめたのである。
【序】 夕もやの記憶
昭和三〇年頃。東北地方の片田舎、M町。
「じゃあ、さよなら」
。F子ちゃんの家を出ると、私はすっぽりと薄い藍色の夕もやに包ま
れた。ようやく足もとが見えるくらいの薄闇の中、そこここから漂ってくる夕餉の匂いが
甘く鼻を刺激し、胸の奥にしみていった。F子ぢゃんの家から私の家までは子どぶの足で
二分ほど、その短い距離を私はゆっくり踏みしめるように歩いた。
「F子ちゃんとこはお葬式で忙しいから、しばらく遊びに行かないように」という禁がよ
うやく解けて、久し振りにF子ちゃんと遊び、その笑顔を今見て来たばかりなのだったが、
その笑顔のゆえに私の心は砂袋のようにずっしりと重たくなってしまっていた。F子ちゃ
んだけではない。その日はF子ちゃんの両親も兄さん達もみんな、いつものようにもの静
かだけれどどこか明るい、満ち足りたような笑顔だった。F子ちゃん一家のそのような笑
顔を、それまで見たことがなかった。
亡くなったのはF子ちゃんの弟のN君だった。当時亓歳ぐらいだったと思うが、まだお
むつをしていて、立って歩くことができず、這っていた。ことばらしいことばはなく、「ア
ーアー」とか「ウー」とかの音声だけだった。遊びに行くと、N君が座って一人遊びして
いたり、お母さんにだっこされていたり、おむつを替えてもらったりしている姿をよく見
かけた。N君が何の病気なのか、その頃の私(九歳)は知らなかったが、普通でないとい
うことは子どもの目にもはっきりと分かった。そのN君が肺炎で亡くなったのだった。
F子ちゃんの家の人たちはみんなやさしいが、前はいつもどこか疲れたような顔をして
いた。「N君が死んだら、明るくなった?」、その時私はそう思ったのだ。身近な人の死と
いうものにまだ一度も出会ったことがなかったからか、その時はそうとしか思えなくて、
すっかり心が重くなってしまった。父と母の顔が頭に浮かんだ。家族の顔が次々に思い出
された。
「Eちゃん(叔母)も私も体が不自由で、みんなに心配や苦労をかけている。Eち
ゃんと私がいなくなったら、家族はみんなF子ちゃんとこみたいに明るい顔になるんだろ
うか?」
。
足もとに、黒く朽ちかけたどぶ板が見えた。どぶ板を踏んで狭いくぐり戸を抜けると、
夕餉の匂いが強くなった。
【1】 自己喪失者―身体の障害から心の障害ヘ―
(1)母とE叔母と私
昭和二三年のポリオの大流行の中で罹患した私は、左上肢(肩から手指の先まで)が麻
痺し、左手で物を摑んだり持ったりすることができなくなった。一歳六か月だった。麻痺
した左上肢は発育も悪くて健康な右上肢よりずっと細く、血管も細いため冬はひどく冷た
くなる。子どもの頃はしもやけにずいぶん悩まされた。幼児期の記憶はあまりはっきりし
ていないが、治らないことがはっきりした後もマッサージやお灸、回復祈願の神社参りな
どによく連れて行かれたようである。蜜蜂には特別な効力があるとかで、背中じゅうを蜜
蜂に刺されるという「治療」を受けたこともあった。
当時の殆どの子どもと同様、幼稚園には行かなかったが隣近所には子どもが多くてよく
一緒に遊んだ。その遊びの中で皆と同じように木登りができなかったり、雪合戦の雪王を
上手に作れなかったりする自分に気付いてはいた。ままごとやボール遊びでも、ある部分
はついてゆけず、そんなときはちょっと外れて見ていなければならなかったが、そのこと
でいじめられたり、まったく除け者にされたりという記憶は殆どない。そのためか、私は
自分の体が皆と違うことをそれほどいやだとも、つらいとも感じてはいなかったように思
う。
六歳になって小学校に入学した頃から、母は私に「左手を隠して歩け」とさかんに言う
ようになった。からだが不自由では学校でいじめられるのではないかと、母なりに心配し
てのことではあっただろう。
「左手を隠して歩け」と言われる度に私はひどく胸が苦しくな
り、そう言われることを「とてもいやだ」と感じ、
「なぜこういうことを言うのだろうか」
とひそかに思った。私が成長するにつれてだんだん尐なくなってはいったが、大人になっ
てからも折りにふれて母は私にそう言い続けた。何度母にそう言われても私はその必要を
感じなかったから、実際に左手を隠して歩いたりはしなかったし、それはめんどうでもあ
り不可能でさえあった。だが、今までの人生で一番苦しかったのは母のその言葉だった。
心身に重い苦しさを抱えながら、私は母のその言葉に対して、直接に言い返したことは殆
どない。おとなしく親に従うようにばかり育てられていたせいもあるし、それが世間の冷
たさから我が子を守ろうする母の愛情(愚かで悲しい愛情ではあるが)の表現でもあるこ
とをどこかで感じていたからでもあったのだろう。小学校の入学式の日、母はハンカチで
目を拭き拭き、頭を下げながら担任の先生に何ごとか話していた。ちょっと離れた所で見
ていた私には何も聞こえなかったが、私の障害のことを伝え、よろしくと頼んでいること
は一目で分かり、私も母の涙に感染して涙ぐんでしまった。そんな時の母は我が子のこと
が心配でたまらないだけの、ごく普通の母親であり、その気持ちが分かると、言い返した
い思いがあってもそれを引っ込めてしまう私だった。
しかし肝心なことは、
「左手を隠して歩け」という言葉を私に投げつける母の行為の中に、
またそう言われると胸が苦しくなって「とてもいやだ」と感じる私自身の心の中にどのよ
うな意味や問題が含まれているのかを、長い間私が解き明かせないできたことである。そ
れは、ありのままの自分を隠し、否定して、偽りの私を演じろという命令だったのである。
考えてみれば、
「左手を隠して歩け」と母に言われてひどく胸が苦しくなり、そう言われる
ことを「とてもいやだ」と感じ、
「なぜこういうことを言うのだろうか」とひそかに思う自
分自身こそが「大事なセリフ」なのであり、それはまた、私が背貟った障害と、母という
一人の人間を通して伝えられる日本の社会・文化に対する認識と疑問の始まりと言えるも
のでもあっただろう。
だがその「大事なセリフ」を、私はしっかり自分の手につかまえることができないまま
育つしかなかった。母は私を最初の子どもとして、また体が不自由になってしまった不憫
な子として溺愛しながら、一方ではどうしても私を受け入れられないところがあった。私
の身の回りの世話は何でも完璧にやってくれたが、私が自分でできるように導くことは殆
どしようとしなかったし、何もできないもの、役に立たないもの、親の名誉心を著しく傷
つけるものとして私を蔑むことが多かった。将来嫁に行けそうもない私は、母にとっては
女の子として一生懸命育てる値打ちのないものだったようである。
母が受け入れられなかったのはまた、障害児の親という不名誉な立場に立たされた自分
自身でもあった。母は体が丈夫でよく働く人だったが、江戸時代は庄屋、明治以降は何度
も村長を務めたような「いい家」でちやほやされて育ち、気が強く異常なほどに感情的だ
った。実家の家柄がいいこと、働き者で仕事が速いこと、その意味において人並み以上に
優れた嫁であること、それが母の自慢であった。そのような誇り高い自分が障害児の親な
どという不名誉なものであってはならず、そのためにも私に「左手を隠して歩け」と言わ
なければならなかったようである。
父と母はもともと近い親戚だった。父方は先妻と一人の子を病気で一度に亡くしてやも
めだった父と、病弱だった祖母、家族の多さなどから为婦という女手を必要としていた。
母は戦争が終わるまで看護婦をしていたが、とうに婚期を過ぎていた。母は看護婦の腕を
見込まれて父の二度目の妻となり、祖母の介護人となり、七人家族の为婦となった。だが
母は、親の命令に従ったもののこの結婚にはひどく不満で、実家よりはるかに貧しい家に
嫁にやられたことに深い被害者意識を持っていた。その被害者意識は私が障害児になった
ことで更に増幅されてしまったようである。人並み以下とか普通と違うという評価は母に
は耐えがたいものだったらしい。
当時の多くの女性と同様、母は自分というものを持たない人だった。日本人と日本の社
会について、夏目漱石が「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮
屈だ」
(
『草枕』
)と言っているように、母もまた「論理的にものごとを処理できず、自分の
情に溺れて押し流され、周囲からの無言の圧力のゆえに尐しでも他人と違った自分の意志
を通すことは考えられない」(森本哲郎著、『ことばへの旅2』より)ことだったろう。同
じであればすべてよしという社会の中で、「左手を隠して歩け」という私への命令は、「何
とかして皆と同じでありなさい」ということであったのかもしれない。障害児の親になる
ということは誰にとってもショックで大変なことにちがいないが、母はその受け止め方も
表現の仕方も普通の人の何倍か極端だっただけかもしれないと思うこともある。
母は極端にべったりとした優しさを示す時と、極端な冷たさを発揮する時とがあって、
私を自分と一心同体のものとして扱う半面で、障害児であること自体がどうしても許せな
いと思うらしかった。この極端な優しさと極端な冷たさという二つの反対感情は、不思議
なことに母自身の中では殆ど葛藤を引き起こさずに共存していたが、結局私に投影されて
私の中に葛藤を生じた。私はべったり愛されているのか、激しく憎まれているのかさっぱ
り分からないという状態でなかなか心の安定を得ることができず、心理的なきりもみ状態
に突き落とされていった。また、実際に左手を隠すことはしなくても、母の価値観や考え
方は私の中でいつしか内面化されていった。
小学校一、二年の頃、私はいつも頭の中がグラグラしていて心身のバランスがとれず、
ひどく転びやすかった。また、ちょうど波打ち際に立って寄せては返す波に足元の砂をさ
らわれていくときのような、心細い不安定感をいつも感じていた。夜中に突然起き上がり、
外に出て家の周囲を歩き回っては連れ戻されるということが何日聞か続いたこともあった
が、翌朝起きると自分では何も覚えていなかった。暗い荒野に一人いて大きな動物に追い
かけられる夢を見たり、何か重い物に押し潰されるような苦しさで目が醒めることもよく
あった。この時すでに、精神科的な治療が必要だったのではないかと思うが、そんなこと
に気づいてくれる人は誰もいなかった。
当時、生家には二人の叔母(父の妹)が同层していた。その一人、E叔母は一〇歳の頃
に骨の病気で片足の膝関節を摘出してしまい、足を曲げることができなかった。もう一人
の叔母は旧制女学校を出て会社勤めをし、やがて結婚して家を出たが、E叔母は病気のた
めに小学校の途中から学校には行かなくなり、和裁を習ったり家の手伝いをしたりしてい
た。私にとって何よりもつらかったのは、母がなにかにつけてE叔母につらくあたること
だった。その頃二十代だったE叔母は、自活できるほどに働くことも嫁にゆくこともでき
ないから実家にいるしかなかったのだが、母にしてみれば、障害児である自分の娘の未来
像をいつも眼前に突きつけられているようなものだったらしく、母はいつもいらだってい
た。母にいじめられ、或いは他の家族とのいさかいから、何度も家出を繰り返すE叔母の
姿は、小学生だった私にとっても母とは別の意味で自分自身の将来を見せつけられるよう
で、ひどく恐ろしいものだった。私という障害児の存在が母をいらつかせ、そのとばっち
りがE叔母にいくことを彼女も感じていて、母とのいさかいに耐えきれなくなった時は、
母に向けるべき怒りを私に向けて爆発させることもあった。私には母もE叔母も自分自身
の存在も恐怖で、体中の骨がギシギシと音を立てて軋むような苦しさを何度味わったこと
だろう。いつも身のすくむような思いに囚われ続け、心はうなだれていた。
そんな荒涼とした私の心の風景とはまた別に、日々の過ぎ行きは平凡であり、生家はそ
の頃どこにでもあったような庶民的な普通の家庭であった。私は毎日学校に行き、尐しず
つ勉強にも興味がわき、友達ともよく遊んだ。石蹴り、縄跳び、ゴム跳び、お手玉などの
女の子同士の遊びが多かったが、いつも仲間に入れてもらっていた。私にできない部分は
見てるだけということになったが、低学年の頃はそんなことがお互いに尐しも不自然では
なかった。お互いに違うのだということが気になり出したのは四、亓年生になって、学力
の格差が重要な意味を持ち始め、大人社会の枞組みに組み込まれていくようになってから
だったと思う。当時の学校は一学級亓〇名以上であるうえ、病児も虚弱児も障害児も普通
児も皆一緒で、とにかく自分で学校に来れる者は来ているという状況だった。体育・音楽
などのように実技をともなうものは学年が進むにつれてできないことが多くなり、「見学」
が増えていった。遊びの時とは違い、授業の「見学」とは言うならば窓際族であって、す
ることが何も与えられずに長時間ただぼんやりと見ているのはひどく苦痛だった。だが全
体として勉強は好きな方で、学校は私にとって母と複雑な家庭から解放される場でもあり、
家庭では得られないものを与えてくれる場所であり、自分の未来を見つめることのできる
唯一の場となった。
わたしの中のわたしたち―(1)A君と三角定規
A君は私と同じポリオで中学二年の時の同級生だった。片腕だけですんだ私と違い、
両手腕と両足に麻痺が残っていた。小柄でほっそりした体に白い肩かけカバンをかけ、
いつも穏やかな顔をしてゆっくり学校に歩いてきた。
ある日の数学の時間のことだった。黒板に描かれた図形にどのように補助線を引けば
問題が解けるかという場面で、ハイ、ハイとあちこちで手が挙がっていた。A君もにこ
にこと手を挙げていた。先生はA君よりももっとにこにこしながら彼を指名した。A君
は立ち上がって黒板の前に進み出、二枚の大きな木製の三角定規を使って黒板の図形に
補助線を引こうとした。だがその大きな三角定規は彼の不自由な両手では扱いきれなか
った。A君は何とかやり遂げようと苦心していたが、黒版に二枚の大きな三角定規を片
手で押さえつけながらもう一方の手でチョークで線を引くという動作は、麻痺して力の
入らない彼の手には余るものであった。先生はとても困った顔になり、手伝うべきか迷
っているふうだった。見ている生徒たちはハラハラし、こんな時はどうすればいいのだ
ろうという顔をしていた。結局、どのように補助線を引きたいのかをA君に言葉で説明
してもらい、先生が作図をした。解答は正解だったが、A君は困惑したような顔で席に
戻った。
やがて終業のチャイムが鳴り、先生が教室を出て行くと、教室の後ろの方にわっと小
さな人だかりができた。
「先生がA君を指名したのは間違っている、A君にあんなことを
させてはいけない、先生はひどい」というのが、集まってきた皆の意見であった。それ
は皆の優しさだと思ったが、私はどこか腑に落ちなくて、その日のことを後々まで何度
も考えることになった。A君は答が分かり発表したくて手を挙げたのだからそれは何も
悪いことではない、挙手したA君を指名した先生も間違ってはいない、でもやはり手伝
いが必要だった。先生が手伝ってあげてもよかったと思うが、チョークの線はA君に引
かせてあげたかった――。それが私の場合であっても、二枚の大きな三角定規を押さえ
つけることは誰かに手伝ってもらわなければならないだろう――。A君は答が分かった
うれしさで、黒板での作図が自分にできることかどうかは考えないまま、手を挙げたの
だと思う。子どもとはそういうものだ。先生はA君の不自由さは知っていたはずだけれ
ど、授業に集中している時には細かい所まで気が回らなかったのでは。つまり先生もA
君に黒板での作図ができるかどうかは考えないまま、彼を指名したのだと思う。それに
してもA君が実際に困った時、先生は「誰か手伝ってやれ」とからりと言うことができ
なかった。A君も自分からは手伝いを頼めなかった。私も黙っていた。このためらいと
迷いは何だったのか。
その日のことが忘れ難かったのは、その時黙っていた自分への後ろめたさだったかも
しれない。多分、わっと集まって何かひとこと言わずにいられなかったあの時の級友た
ちと同じように。心配するほうもされるほうも、お互いになんとぎこちなかったのだろ
う。
(2)父という人
母と层ると暗く否定的な気分に追い込まれてしまうことが多かったが、父と层るときは
明るく肯定的な気分になることができた。父と母の夫婦げんかの原因はたいていE叔母の
ことか私のことだったらしいが、父は忙しい商売の傍らでなんとか私を支えようとしてい
た。高い所から私を見下しているような母とは違って、父の心はいつも私の心の横に並ん
でいてくれた。
その父は私が六年生の一月に突然、遠くの精神病院に入院してしまった。病名は精神分
裂病と教えられ、三年三か月後に病院で死亡した。父が本当は精神分裂病ではなく脳梅毒
であったことを知ったのは私が二六歳、三人目の子どもがおなかにいる時だった。それま
での一四年余の長い大切な時期を、
「分裂病の遺伝」の恐怖――自分の身にもいつか同じこ
とが起こるのではないかという不安――に重くのしかかられ、おびえながら生きたし、結
婚の際にもそれが問題になったりした。その恐怖は、父の発病から死亡までの悲惨な姿を
見てしまったからでもあり、また正しい医学の知識がないままに、中学・高校の保健の授
業などで社会的に忌遾される悪性・务性の遺伝病についてさんざん吹き込まれたからでも
ある。中学でも高校でも、優性保護の話に係わって教師は「親兄弟が精神分裂病などであ
る者は結婚をすべきではない」と、昂然と言い放っていた。遺伝するということは教えら
れ、遺伝とは何であるのかということは必ずしも正しく教えられない、どこか無責任な教
育と世間の風潮の中で不安と恐怖に苛まれたのは妹と弟も同じであった。本当は脳梅毒で
基本的に遺伝の心配はないと分かったとき、みんな気が抜けてすっかりばかばかしくなっ
てしまった。いったい何のための苦しみだったのかと。世間体ばかりに囚われ、既に大人
になっていた私たちにも本当のことが言えなかった母が恨めしかった。
父は一亓年戦争の間に三度招集されて中国に渡っている。本人は何も語らずに死んでし
まったが、周囲の話と病気の潜伏期間(脳梅毒の潜伏期間は一〇年~二〇年)を考えると、
梅毒菌はその間に拾ったものであるらしい。県立病院の中であったにもかかわらず、父は
誰にも看取られずに一人でひっそりと死んでしまったらしく、帰宅した遺体は両眼を開い
たままだった。父の本当の病名を知った後、三人目の出産、次男の大病による三年間の闘
病生活と続き、そのことについてゆっくり考えることはなかなかできなかったが、私は「戦
争」や「戦争体験の継承」ということについて、以前よりもずっと慎重に、深く考えるよ
うになった。
『人間の条件』
(亓味川純平著)を夢中で読んだのは大学受験を終えた直後だったが、戦
争は私が生まれる前に終わった過去のことであると思っていた。また、子どもの頃から学
校で聞かされてきたのは軍隊帰りの先生の苦労話や銃後の生活のつらさなどであり、小学
生の頃は学校の行き帰りに真っ白い着物姿で義手・義足の傷痍軍人が道端で物乞いをして
いる姿をよく見かけた。
「ああしているけど、あの人達は本当はお金があるんだってよ」な
どと言う友達に、
「まさか、お金があるなら誰もあんなことはしない」と反発していた。親
戚には戦死した伯父が二人いて、戦争未亡人の伯母たちの暮らしぶりや父親の顔を知らな
い従兄の心のうちを見聞きしながら育った。侵略戦争であったというのはどこかで聞いた
知識として知ってはいても、私はやはり情緒的な被害者意識にばかり片寄って戦争を考え
がちであったと思う。父の死が脳梅毒によるものだったという事実は私の中に「私は加害
者の子」という思いを生み、
「戦争」は戦後生まれの私の中に鋭く突き刺さってきた。父の
中では、戦争は終わっていなかったのであり、加害者であることを自ら語りながら死んで
いったようなものである。職業軍人でもなく、赤紙一枚で否忚なく三度も戦場に連れて行
かれた父は、もちろん被害者でもあったが。
父は戦争中に最初の結婚をし、妻と一人の子を病気で一度に失った。一九四亓年の八月
一亓日は軍需工場勤務で国内にいた。戦後になって母と再婚した。私が知っているのはど
こか愚直で、優しくて、家族のために毎日懸命に働いていた姿だけである。その死が加害
者としてのものであれ、被害者としてのものであれ、戦争によって無残に断ち切られた生
であり、不本意に与えられた死であることには違いない。残された私にできることは父が
何をしたとしても、どんな姿で生き、死んでいったとしても、そのありのままを受け止め、
その心に静かに寄り添い続けることだけである。
父の従軍アルバムには、癖の強い父の字で次のような文章が写真に添えられている。何
度目の出征の時のものか、もう聞ける人もないが、まだ戦況が比較的のんびりしていた頃
らしい。
「
(昭和九年、日付不詳)映画『赤心城』の北満ロケ(三日間) 佐久間妙子等来たりて我
等を喜ばしたり
文部省・陸軍省の命令で三日間
皇軍の一員等は
悲しくもエキストラ
に使用されたり エキストラもこう走っては閉口しますな」
「昭和一〇年四月二十四日
正に三百数十名
行軍強追にて
荒溝嶺单側高地の戦闘
敵は
午後○時半頃より弾丸を打ち出し四時頃閉戦す
無論午前四時よりの強
わずかにキャラメルニ個と水筒の水を飲んだだけ
未だに解氷せずして山
中に水一滴も無く赤く変りし雪をなめるのみ
兵貟傷
我軍は沖中隊長以下四十二名
立花上等兵貟傷
何れも軽機分隊なり
此の戦闘にて
築木一等兵戦死
河合一等
敵は死体二十四を残して敗走せり
死体
ゴロゴロと倒れ有る中で本日始めての飯を炊く
八発しか残らず
閉戦後我が弾丸を数ふれば
飯や水の無きよりまだまだ心細し
我は百六十二発発射した
わずかに十
之の日の
戦闘は短時間なれど在満中最も猛射を見舞れたり」
三年三か月の父の入院中、母は時々面会に行っていたが、妹と弟は一度だけ、私は二度
父を病院に見舞った。外泊が許可されて父が帰宅したことも二回ほどあった。最後に会っ
たのは中学三年の秋、皆で面会に行った。病状は相当進行し、父はガリガリに痩せていた。
母のことは分かるものの、子どもたちの顔はもう分からなくなっていて、誰なのかと名前
を尋ねる言葉も不確かで、声も弱々しくかすれていた。私は父に自分の名前を告げながら
麻痺した左手をそっと差し出した。それはごく自然な行為だった。父は私の顔と麻痺した
左手を何度も見比べていたが、ふと悲しげな寂しげな表情になり、私を慰めるかのように
言った。
「まだ治らなかったのか。必ず治るからな」。そう言いながら私を見つめた父の目
はきれいに澄んでいて、まぎれもない父親の目であり、人間の目であった。
母は看護婦の腕を持ちながら、子ども三人を育てなければならなかったため父の看病は
何一つできなかった。それは母の深い悲しみである。治らぬと、死を待つだけと知りつつ、
遠い病院に通い続けた三年三か月は母にとってどれほど重い日々だったろう。母にとって
も父はいい人だった。
「嫌な家だけど、父さんがいい人だったから実家に逃げ帰ることはし
なかった」とよく語っている。だが人の眼や世間体を重大視する母は、父の病名を強く恥
じ、その死が自分のプライドを深く傷つけるものであったことについては年老いた今も許
してはいない。それ自体は無理もないとも思うが、母の父への愛情とその死に方への憎悪
という反対感情は、母の中に何ら葛藤を引き起こすことがないらしく、そのことを私はや
はり不思議に思う。
父が死んだ時、私は感情の一部を失ったらしい。精神科医の説明によると、
「父親に支え
られてどうにか持ちこたえていられたのが、その支えを失って持ちこたえられなくなり、
いろいろな感情的なものを自分の中で押し殺してしまったのでしょう。自分の人生を諦め
て母子家庭の長女としての義務にだけ生きようとしたのだと思います」とのことである。
その押し殺された感情は無意識の中に閉じ込められ、私の意識から消えた。消えていった
のは母に傷つけられてボロボロに病んでいた障害児の私の心と、小学校四年生の時に見た
映画『しいのみ学園』にまつわる思い――感動というよりは、肢体不自由児が蔑まれず大
切に扱われていることへの目を見張るような驚き――であった。うなだれた心と顔を上げ
ようとする思いが、一瞬にしてそのいのちを失ったのである。
その日は父の葬儀の日で、私の中学校の卒業式でもあった。夜になり一人で部屋でぼん
やりしていた時。胸のあたりで「ゴトッ」と大きな音がしたことを今もよく覚えている。
この時から、私は不思議なくらいに落ち着いた私となった。左手が動かないという客観的
な事実には何の変化もないのに、その落ち着きの裏側で障害児である自分の心を見失って
しまうということが起こっていた。父の死の一〇日後に高校受験、その半月後に曽祖母の
死、間もなく高校に入学となり、慌ただしさの中で自分の変化に気がつくこともなかった。
高校入学後しばらく経った頃、
「高校生になったら落ち着いたね」と人に言われ、自分でも
そうなのだろうと思っていた。
マーフィー氏の表現を借りて言えば、身体に障害を貟うことによって社会から――私の
場合は特に母から――「人間性を保留にされ」、その保留にされた人間性を奪い返そうとす
ることさえ保留にされねばならなかった、ということになるだろうか。失われた感情は意
識されることがなく、私は感情の一部を失っていることを自分では知ることができないま
ま、その後の二亓年間を自分の本心が分からないことに苦しみながら生きなければならな
かった。心を病んだこと、その病んだ心を無意識の中に閉じ込めなければならなかったこ
と、それは二重になった心の障害であった。身体障害に加えて心にも障害を背貟ったわけ
だが、どちらが苦しくて大変だったかと言えば、それは心の障害の方だった。左手が動か
ないということについてはその場その場で自分を見極め、自分にできないことをどうする
かについて考えることができたが、自分の本心が見えない、分からないことについてはど
うすればいいのか、全く見当がつかなかった。
マーフィー氏は、
「身体障害者のアイデンティティは障害を中心にして形成されるほかは
ない」と述べているが、身体障害者という自己の存在に係わる心の中心部が見失われて、
私はさらに自己から疎外された。こうして自己価値の問題は無意識の中に固く封印され、
私はただ母子家庭の長女という、状況に貟わされた役割の中にだけ生きる理由を見出そう
とするようになった。手仕事という言葉があるほど人間の手と仕事は切り離せない。
「手に
職をつける」ことのできない私に、将来どんな仕事が可能か、あれこれと思い患う日々が
始まった。
【2】 心の障害の発見と身体障害の再認識
(1) 心の障害の発見
大脳生理学のレベルではどのようなことになるのか知らないが、押し殺された感情は意
識に潜在して、深部から時々私を苦しめた。多分その苦しさに促されて見失った自分を探
し求める旅が尐しずつ始まっていったのだろうと思う。
大学に進んで家と母から離れ、大学一年の終わり頃から現在の夫との恋愛も始まり、高
校の時とはまるで違う環境と状況の中で自分を見つめるようになった。そうなると貟わさ
れた義務もさることながら、自分の人生とはいったい何であるのかということが気になり、
自分の本心が見えないことがつらく苦しいこととして感じられ、それを何とかしたいと思
うようになった。もともとは高卒で働くつもりで公務員の初級試験に受かっており、大学
のほうは行ける状況だったら行こう、受かったら行こう、ぎりぎりまで頑張ってみようと
いう実現できるかどうか分からない「第二希望」みたいなものだった。なぜ進学を考えた
かといえば、人並みに頑張れるのは勉強だけだし、体の不自由な自分としては大学を出た
方がより良い仕事につけるのではとその時は思い、母にもそう言った。だが、今振り返っ
て考えてみると、家族との生活に息苦しさや重苦しさを感じ続けていてそれが殆ど耐えが
たくなり、一度でも家を出られるものなら出たい、母から離れたいと心のどこかで願って
いたことが私を大学へと向かわせたような気がする。合格という実績を作り、奨学金だけ
を頼りに「仕送りは要らない、卒業したら家に帰る」という約束で合法的に家出をしたよ
うなものである。
高校時代は家の商売の手伝いをしながらガリ勉の中に逃げ込んでいたが、大学は高校と
はまるで違い、そのガリ勉による逃遾が通用しなかった。私は自分の「学ぶ为体の弱さ」
をはっきりと思い知らされた。そのことに気がついただけでも大学で学んだ意味があった
と思っているが、どんなに必死で自分を見つめてみても、自分が本当にやりたいことも自
分の本心も分からなかった。今考えてみれば当然のことである。それは失われた感情の中
に潜んでいたのだから。それでも専攻した心理学は――その入り口の部分を学んだだけで
終わってしまったが――卒業後も長い間、良くも悪くも、私のものの見方や考え方の一つ
の枞組みとなってきたし、大学時代は私にとって、自分の目で見、自分の頭で考えるため
のかけがえのない自己訓練の時間となった。
わたしの中のわたしたち―(2)松葉杖の人
大学三年の秋、ある調査のアルバイトをした。訪問の旨は事前に通知してあり、在宅
しているであろう時間を狙って夕暮れの頃にその家を訪ねた。その日は予備調査で、本
調査を引き受けてもらえるかどうかを聞くのが仕事だった。玄関の引き戸をガラガラと
開けながら声をかけると、
「ハーイ」と若々しい声がして、松葉杖をついた三十代ぐらい
の女の人がゆっくりと出てきた。外から帰ったばかりだったらしく、外出着姿のままで、
廊下の奥に買物かごが見えた。名前を名乗り、用向きを話し始めた途端に、
「どうしてう
ちがそんなことしなければならないんですか!」と、頭の上から大きなどなり声を浴び
せられた。その瞬間、私の心は彼女の心に同化していた。松葉杖の姿を見た時すでに私
にはある予感があったらしい。そうどなりたくなる気持ちが、何も聞かなくとも分かっ
てしまったのだ。
調査対象の抽出は無作為であること、今日は引き受けてもらえるかどうかを聞きに来
たので、できるだけお願いしたいけれど、どうしても都合が悪ければ断ってもらっても
かまわないものであることを説明すると、「……すみません、疲れて気が立ってるもので
すから……」と消え入りそうな声が返ってきた。いい人だな、と思った。結婚していて
共稼ぎであるらしかった。まだマイカー通勤が一般的でなかった時代である。どうやっ
て通勤しているのだろう、バスだろうか、などと思いながら彼女の言葉を聞いていた。
毎日働きに行っていること、仕事と家事で疲れるので余分なことはできるだけしたくな
いことを、手短かに語ってくれた。長袖の季節だったから彼女は多分私の障害に気がつ
かなかったと思うが、思いがけなく自分の同類に出会い、私は何だか懐かしいような気
分になっていた。しばらくE叔母の顔も見ていなかった。
疲れてくると気が立ってくるというのは、何も身障者に限ったことではないが、亓体
満足でないものには亓体満足でないことからくる特有の疲労感があるように思う。何よ
りも亓体満足な人々が亓体満足な人々のために作り上げたこの世界の中で、亓体満足な
人々に合わせながら毎日を生きている、そのこと自体がストレスとなる。その疲労感は、
時々怒りの感情を呼び醒ます。普段は意識することさえしない小さな怒りの山が、何か
のきっかけで突然外に溢れてしまうことがあるのだ。松葉杖のその人も否忚なく自分の
不自由な体に気を遣いながら、毎日を精いっぱい生きていたのだろう。そんな彼女にと
って私は闖入者であり、無法に侵入してきた者のように思われたのかもしれない。
わたしの中のわたしたち―(3)冬の日のこと
O氏は、私か大学三年の時に研究室の助手をしておられた方である。子どもの頃に骨
盤カリエスを患い、後遺症のため歩行が不自由で、学校も途中で何年か遅れたらしい。
「や
っと良くなって学校に行けるようになったんだけど、体育の時間に見学していたら、鉄
棒を失敗した子が僕の上にドサツと落ちてきて―そのあと再発してしまってね」と言っ
ていた。変形した足には普通の靴が履けず、いつも背広姿に草履履きといういでたちで、
両足をつまさき立ちのようにしながらの自力歩行だった。極端に歩幅が狭いので、歩く
速度は本当にゆっくりだった。そんなO氏を私は「お先しま―す」と言って、よく追い
抜いて歩いた。O氏は「やあ」と言ったり、ニコツと笑ったりした。助手には研究室の
雑用係のような一面もあって、O氏は職務を果たすために三階の研究室と一階の事務室
を、一日に何度も登ったり降りたりしていた。古い建物でエレベーターはなかった。
北国の冬の寒さも本番となったある日。授業が終わった後、何となく研究室でうろう
ろしていたら、自分の椅子から振り向いたO氏が話しかけてきた。「こんなに寒いと腕が
冷たくなったりしませんか」と言う。思いがけない話題だった。
「冬はほんとに体が冷え
てしまって、脚の感覚がなくなるし、腰から下は自分の体じゃないみたいな気がするん
ですよ」と、窓の外を見やりながらO氏は続けた。どんよりと重い冬空だった。
「私もよ
く冷えます、左手だけ寒いんです」と答えながら、私は、肩の力がスーと抜けて体中が
ラクな気持ちになっていくのを感じていた。
亓体満足な人ばかりの中で、亓体満足な人々に合わせながら毎日生きている―その中
で自分でも気がつかないところでいつも緊張してしまっている自分に、あらためて気づ
かされていた。そしてお互いの障害について率直に語り合えることが、こんなにも心を
安らかにしてくれるものだと初めて知った。私が障害について愚痴をこぼすことを母は
決して許さなかったし、私も親の悲しい顔は見たくなかったから言わないようにしてい
た。E叔母とはお互いを思いやれる関係ではありながら、あまりに近すぎたためか、お
互いにとってお互いが重すぎたからか、口に出して語り合うことがどこか憚られた。
O氏はその頃、労災病院で、事故などで中途障害者になった人達の相談の仕事もして
おられ、そのクライアントのことをあれこれ話してくれたこともあった。そんな話は私
への励ましなのだった。体の不自由な学部学生である私に一定の気を配るのも O 氏の仕
事の一部であったかもしれないが、あまり余分なことは言わず、たまに自分の仕事の簡
卖な手伝いをさせてくれたりした。そうすることで、尐しでも私に存在感を持たせ、层
心地が良くなるようにという心遣いであったのだろう。
(2)身体障害の再認識
結婚ということはE叔母と同様に私の人生にはないものと思っていたのが、結婚を考え
るような相手に出会い、私は卒業と同時に結婚して遠く離れた土地で暮らすようになった。
お互いに机と本箱と布団しか持たない、学生時代の続きのような結婚生活が始まった。卒
業後は家に帰るという母との約束を破ることとなり、母にはずいぶん恨まれたが、その後
の事情の変化もあって、私は「家」という重圧からとりあえず解放された。このことは私
には重要な変化だったが、何よりも大きかったのは子どもを生んだことだ。幼い者のいの
ちを見つめることがいつしか、自分のいのちを見つめることに一番深いところで繋がって
いったのである。
特別な あの日――祖父江 文宏
わたしのなかで 乾いた音が鳴るのだ
風化した骨が
こそげ落ちながら
土に同化していくような
そんな 微かな音が乾いて鳴るのだ
わたしは
滅びの時間を内包した 砂時計にすぎぬ
ありふれた日の風景は 無機質な 霧だ
わたしが見ていたのは
行き止まりの生 不毛の死だったか
あの日 特別な あの日
あなたは ひかりの舟に乗って
わたしのところに やってきてくれた
なにひとつ持たず 必要なものだけを持って
あなたは 赤ちゃんとしてやってきてくれた
あなたのおかげで
ありふれた日の 色が変わり
特別な あの日になって
風景が きらめいた
あなたは 海と光のにおいがした
(以下略)
片腕の殆ど動かない私が三人も子どもを育てられたのは、何よりも時代に恵まれたこと
による。最初の子どもが生まれた一九七〇(昭和四亓)年頃には、既に様々な家電製品が
広く行き亘り、便利さと快適さは急速に増大していた。母や祖母たちの時代のように、五
戸水を汲み上げて手で洗濯をする必要も、ご飯が炊けるまでかまどの前にしゃがんでいる
必要もなかった。働きたいと思えば保育所もでき始めていた。だが、そうした条件があっ
ても、やはり家事・育児の根本的な部分は自分でまかなうしかない。子どもが増えるたび
に新しくまた厳しくなる状況に不自由な自分を適忚させるのは、なかなか大変なことだっ
た。夫の仕事は年々忙しくなり、帰宅は深夜、週末も半分以上は家にいない。協力はあま
り期待できなかった。人並みの体力もない上に、両手の協同作業でさっさと仕事を片づけ
るという芸当ができず、いつも何かの仕事が残り、それらがたまってしまう。一つ一つの
ことはできるし、ゆっくりやればできる。しかし、一日の時間は限りがあり、体力の限界
もある。私には全部はできないのだった。必要なだけの動きのできない自分の体にイライ
ラし、自分を憎んだりした。
マーフィー氏は「私は―正常同然という神話を自分のうちに抱え込み、相変わらず精力
的に仕事ができることを誇りにしていたわけで、完全に他の身障者たちと自分を同類とし
て考える用意がなかったのだ」と述べているが、私は彼以上にそうだったような気がする。
結婚前の二年問は妹との二人暮らしだったが、私は大して不自由さを感じてはいなかった。
それはあとから考えれば、生活そのものがごく卖純で、できないことにははじめから手を
出さず、諦めて済むことは諦める、そんなことが許される状況だったということでもある。
妹とは、お互いに自分のことは自分でやり、共通の部分は分担した。会社勤めの彼女より
も学生で時間の融通のきく私の方が分担が多かったが、特に無理をしてきたという記憶も
なかった。私も何とか普通の人と同じようにやっていけるのだという固い信念がいつの間
にかできていた。考えてみれば、妹とは彼女が生まれてから私が大学に入るまでの一六年
間を一緒に育ち、暮らし、彼女は私の不自由さを熟知しており、どんな時に手助けが必要
か、自分が何をしなければならないかについて、私がいちいち言わなくても進んで考え、
動いてくれる人だった。また生家でも、学生寮にいた時も女同士という気楽さの中で、気
軽に頼んで気軽に手伝ってもらえる関係はその場その場で作ることができたし、私はそん
な中でずいぶん甘えさせてもらい、守られて来たのだと、結婚してから気がついた。
結婚したら途端に体がきつくなった。夫との関係においては、家事は女がするもの、女
は男の世話をするものという伝統的なあり方でしか生きられないことに気づき、自信がぐ
らついた。
「必要なことは何でも手伝う」という結婚前の約束は何処へやら、夫は縦の物を
横にもしない人だった。結婚当初は私も尐し働いていたし、勉強もしたくて、「家事を尐し
分担してほしい」と夫に抗議したが、彼は、何を言われているのか分からないという調子
で取り合おうともせず、私の体の不自由さには目を向けたくないふうであった。その頃の
夫は食べさせてやっているという意識が強かったし、彼が気にかけてくれていたのは私の
身体障害そのものではなく、本心が分からなくなってしまっているという心の障害のほう
だったのである。正面突破は無理と覚悟を決め、家事は可能な限り自分でしょう、夫には
時間をかけて分かってもらおうと頭を切り替えることにした。
結婚してから気がついたことがもう一つあった。私と夫の、それぞれの母親との関係で
ある。障害者である私は、そのことをめぐって母との間に深刻な反発と葛藤を抱えていな
がら、それを心の奥底に押し殺していた。夫は夫で、先天性の股関節脱臼で足の不自由な
義母との間に私とは逆の葛藤を抱えていた。夫は、障害者はなぜこんなに依怙地なのかと、
義母の心のあり方に強く反抗しながら育ち、その葛藤をなお引きずり続けていたのだった。
それを結婚前は率直に語り合うことができず、結婚後それぞれの母親との仲の悪さにだん
だんと気がついていった。だがお互いに自分のことは棚に上げ、
「もう尐し何とかならない
ものか」と相手のことばかり気にしているようなありさまで、“お互いに重症”であった。
子どもの数が増え、家事の量が増え、楽しさも忙しさも倍々ゲームのようになり、毎日
が追いまくられるような状況になった。そうなると、やらなければならない仕事と、それ
を不完全にしかこなせない自分との間にどんどん亀裂が深まり、私は「できない自分」を
認めるしかなかった。そして「できる」ということも、あくまでも自分なりにできるとい
うことでしかなく、絶対に両手の自由な人と同じようにはできないことを肝に銘じること
となった。欲張りなのか、外で働きたい気持ちがなかなかふっきれず、ずいぶんジタバタ
もしたが、やはり「両方はできない自分」でしかなかった。
三男が生後四か月の時、三歳の次男が重い腎臓病になり、九か月の入院を含めて三年あ
まりの闘病生活を余儀なくされた。長い制限された生活の中で、病気の次男自身が疲れ、
子ども同士の関係、親子の関係、夫婦の関係も試練にさらされ、この頃が一番つらい時期
だった。
様々な家事・育児の困難を背貟う中で、私は自分の身体障害を改めて発見し、再認識す
ることになった。また、大学・結婚・出産と続いた人生の展開の中で、自分の本音が分か
らなくなっていること、自分の中にはひどく重苦しい世界があることに尐しずつ気づいて
いった。夫と三人の子どもの存在は光でもあり、同時に、私が抱えている闇を自覚する契
機ともなった。もしも結婚しなかったら、あるいは結婚しても子どもを生まなかったら、
決定的な矛盾に出会うこともないままに「正常同然」という神話が破れることもなかった
かもしれない。そして、自分の身体障害を認めはしても、自分が障害者であることは認め
ることができない私であり続けたかもしれないと思う。
【3】存在の違和感と読書への旅
ある時、偶然に出会った脳性麻痺の女性に「結婚して子どももいるような人を、障害者
の中に入れるのは悪いみたい」と言われたことがあった。また、子どもの友達の母親から
「体が不自由なのだから、やっぱり私たちとはどこか違うのね」などと言われることもあ
った。それらは悪意の言葉ではなかったし、深刻な差別に苦しんだことはあまりないが、
日常的に自分の特殊性を意識させられ、ふとした違和感から疎外感を感じてしまうことが
よくあった。丈夫で明朗活発なあるキャリアウーマンの一言にちょっとしたショックを受
けたことがある。
「仕事で頭を使うから、家事なんていうのは私にはいいレクリエーション
だねえ」とその人が言ったとき、ああそうなんだろうなと思いながら、自分とのあまりの
違いに苦笑いしてしまった。家事を楽しんでやることは私にもできるが、一方では右腕一
本で片づけなければならない山のような家事に押し潰されそうな自分と、いつも闘ってい
なければならなかった。
私は、学校時代はもとより結婚してからも、子どもを通じての外の世界との関わりの中
でも、殆ど亓体満足な人々の中でばかり生きてきた。その中で感じてきたのは皆と一緒で
あるという一体感よりも、どこかちぐはぐで不安定な自分だった。私にできないことは厳
然として有り、私は私の不自由さを無視しては生活できないことは仕方がないが、できる
限りは普通の母親たちと一緒にやってゆこうと思ってきた。しかしそう努力すればするほ
ど、どうしてもどこかではみ出してしまう自分を強く意識してしまった。たまに障害者と
出会う時、また遠く離れてしまったE叔母のことを思う時、大学まで出て、結婚して、三
人も子どもを生んだ私は、障害者離れした障害者でしかないと思わざるを得ず、ここでも
またはみ出していた。
「层つくにしては つらすぎる/なじんだにしては はみでてる/異
国ぐらし」
(金時鐘著、
『原野の詩』
)という詩の一節があるが、どちらの世界にいてもそん
な感じになった。この違和感・疎外感は日々の忙しさにとりまぎれていつも横の方に押し
やられ、それを問題にしようとは長いこと思わずにきたが、それはいつしか心の中に降り
積もり、しだいに「私はいったい何者なのか」という自己探求の問いになってきたようで
ある。
家事・育児の傍らで何とか今まで続けることができたのは、本を読むことだけだった。
子どもたちに毎晩読んでやる絵本から、子どもの頃に知らなかった世界が広がっていくの
も楽しかった。書店で絵本を探しながら、たまには自分のための本も探した。テーマを持
たない乱読だったが、読書はいつも自分の心を映す鏡となり、私なりの真面目な取り組み
であり続けた。ずいぶんいろいろな本を読んだが、選んで読みたくなる本にいつしかある
傾向ができていた。女性に関するもの、未解放部落を描いたもの、在日朝鮮人に関するも
のなどをよく読んだ。障害者についての本を読んだり映画を見たりして心を揺さぶられる
こともあったが、直接的なカタルシスがありすぎることが、私をかえって「一定の距離を
置こう」という気持ちにさせた。自分自身の障害者問題を客観化できずにいたからだろう。
女性問題、部落問題、在日朝鮮人問題などはみな、
『ボディーサイレント』が言うところ
のリミナルな世界である。
「リミナルとはもともと敶层という意味で、正式の社会システム
の中に入れないでいる宙ぶらりんの状態をさしている」と書かれている。私は読書の中で
そのリミナルな世界に属するものとしての自分を発見していったようである。それらはま
た、
「ボディーサイレント」の言葉で言えば「汚名(スティグマ)
」を着せられた存在、
「損
なわれた(スポイルド)アイデンティティ」を持つ者の世界でもある。
女性である自分を考えるとき、私はやはり“障害を持った”女性であって、
“障害を持っ
た”という部分を切り離しては私は私でなくなる。高校生の頃、
「元始女性は太陽であった」
という言葉にあまり心を惹かれず、むしろ違和感を感じたりしたのは自分が女性という範
疇からどこかはみ出してしまう者であることを感じていたからだったかもしれない。結婚、
子育ての現実の中で女性・母親としての自己探求は大切なことであったが、何か違う、そ
れだけではないという思いが尐しずつつのり、いわゆる女性・婦人問題の本はある時期か
ら読まなくなった。そんな中で心に残ったのは『サンダカン八番娼館』(山崎朊子著)のよ
うな、歴史と社会の暗がりで生きるしかなかった女性たちで、それほどではなかったにし
てもやはり同じ延長線上にあった戦争未亡人の伯母たちや、文盲だった祖母たちの人生が
思われた。たまたま女性に生まれたというだけのことが、人間性を保留にされたり、剥奪
されたりすることの理由になる。性もまた卖に性ではなく、人間と社会のあり方によって
深く規定されている。
『橋のない川』
(住五すゑ著)は私をとても羨ましい気持ちにさせた。どんなに差別が厳
しくても、貧しくて食べるものにこと欠いていても、それが自分一人だけのことでなく、
家の中でも、隣近所でも、日常的に語り合うことのできる世界があること、それが羨まし
かったのである。私には中学二年の頃、
「自分と同じような障害者のいる所に行きたい」と
痛切に思った一時期があったが、それはそれきりでその後はあまり考えたことがなかった。
小学校から大学までずっと普通学校で過ごしたが、そこには私以外にも身体障害者は何人
もいた。だが、いつも学校の中でバラバラに点在しているだけで、自分たちの身の上や将
来への希望や不安などについて語り合う機会はなかった。高校時代は私自身の閉鎖性もあ
ったが、それ以上に、障害者であることを表立って語ってはならず、他人の傷や貟い目に
触れるのは良くないことで、障害者は各自が隅のほうでそっと生きていなければならない
ような雰囲気が支配していた。そんな中でいつの間にか私は、頑張って生きるということ
は亓体満足な人々に一歩でも多く近づくことのように思い、それが錯覚でしかないことに
気づくことができなかった。自分一人じゃないんだと肌で感じられ、安心して愚痴や悩み
を語り合えるホームグラウンドのような世界があってこそ、
『水平社宣言』も生まれ得たの
ではないかと、『橋のない川』を読む度に思った。また、『橋のない川
第六部』の終わり
にある为人公のセリフ――「わし、いつまでも小森(むら)でがんばります。それが一番
まともな成長やと思いますさかい。
」――は、私に、自分にとってのまともな成長とは何か
という問いを突きつけてきた。
在日朝鮮人という存在との出会いは『橋のない川』からの延長であり、また学生の頃に
読んだ『罪と死と愛と』
(小松川事件死刑囚・李珍宇とジャーナリスト・朴寿单の往復書簡
集)からの続きでもある。私は次第に在日朝鮮人という存在に自分を映し、自分と重ねて
見るようになっていった。と言っても、実際に身近に在日朝鮮人がいたわけではなく、文
学・評論・ドキュメンタリーなどの本の中だけの出会いだった。彼らのありようは、世代
により、一人ひとりにより、生きている場所により、多様であり、差別に押し潰されて反
社会的な存在になってしまう人もある。だが、日本人のリミナルな人々よりもはるかに外
側で、ずっと苛酷な彼らの生が見せてくれる人間というものの姿に、私はずんずん引きつ
けられていった。思えば、在日朝鮮人という存在は私に何と多くのことを考えさせてくれ
たことだろう。それは在日朝鮮人がなぜ存在するのかという過去の植民地支配の事実にと
どまらなかった。二世代も三世代も代を継いで現実の日本という差別社会の中で住み、働
き、愛し、結婚し、子どもを生み育て、老い、文芸作品や演劇を生み出し、自己の存在を
問い続けないではいられない彼らの実存が私に語りかけてくるものがあった。それは、私
には見えなくなってしまった本心――蔑まれたことによる、身を切られるような痛みと悲
しみ、その中でも生きる希望を見つけようとする心――を映し出してくれるよく磨かれた
鏡となったようである。
「パンチョッパリ(半日本人)
」という言い方があり、それについて李銀子氏は次のよう
に書いている。
「(在日)二世にとっていちばん辛いことは、まず“ことば(韓国・朝鮮語)
”がしゃべ
れないこと、民族的な素養を持っていないこと。そして日本で教育を受けても日本の社会
のなかで、自己実現の道を探れない。自分の根のところでコンプレックスを持たされ、そ
れでいて自分が確かにこの社会のなかで、存在しているということを表現できない。そう
いう状態をわたしの尐し前の世代はパンチョッパリ(半日本人)ということばで自嘲的に
表現した」
(
「言葉の杖を求めて」
、
『新日本文学』一九九四年十一月号)。それは自嘲的表現
ではありながら、朝鮮人である自分を大切にできないまま日本人化していこうとする自己
への戒めの意味だったのでもあり(
『沈黙と海』
、李恢成著)、
「パンチョッパリ(半日本人)」
という言葉に出会う度、私は普通の为婦・母親からもはみ出し、普通の障害者からもはみ
出している自分という存在、そのどちらにあっても自貟や誇りを持てないでいる自己を意
識した。私は「半障害者、半健常者」であった。
帰化して日本人になることが必ずしも幸福につながらず、心の闇はかえって深くなると
いう問題は、私も結局は健常者の中に紛れ込んで、障害者ではないような顔をして生きよ
うとしてきたのではないか、という反省に私を誘った。
「日本の社会の中で子どもの頃は朝
鮮人であることに一度も喜びを感じたことがない」
(
『沈黙と海』
、李恢成著)と書かれてい
れば、ああ私もそんなふうだったと、心の奥で何かが動いた。金嬉老(権嬉老)という人
は寸又峡事件でライフル魔といわれた終身刑の在日朝鮮人である。彼は、激しい差別とい
うものが人間を人間の次元から追い落とし、魂の殺人となってしまうことを示したと思う。
その心の重さが他人ごととは思えず。涙が出た。心の奥深くで彼の痛みは私の痛みのよう
に、彼の悔しさは私の悔しさのように思われた。
アイデンティティの揺らぎの苦悩は、その問題にぶつかったことのない人にはなかなか
分かりにくいものかもしれないと思う。日本名と朝鮮名で八つも名前を持ってしまった金
嬉老(権嬉老)は、自分の体が八つに引き裂かれていくようだと言ったが、その苦しさを
私は実感として想像できるような気がした。親の意向に巻き込まれ、自らの意思によらず
に帰化者となった学生・山村政明(梁政明)は、自分が何者であるのかを純粋に追い求め
ようとした果てに焼身自殺した。日本人からは朝鮮人と見られ、朝鮮人からは日本人と見
られる苦悩と孤独の出口をどこにも見つけることができなかったのだろうと、李恢成氏は
書いている(
『沈黙と海』
)
。在日二世・三世で自らのアイデンティティに悩まなかった者は
いないだろうど言われるが、アイデンティティの揺らぎの苦悩は、人により場合によって
狂気のようなものとなり、生そのものを破壊してしまうことがあるということだろう。李
正子氏は短歌集『ナグネタリョン―永遠の旅人』の中で、次のように歌っている。
われはわれにてなお何ならむ
焦がるれば夜の稲妻膝照らすなり
自分は何者であるのか、私の本心は何なのかという思いは、私の中で尐しずつ膨らんで
強いものとなっていったが、出口はなかなか見つかりそうもなかった。「祖国の母乳で育つ
ことのできない異国日本でのぼくらの世代は自らのアイデンティティにめざめるためにた
しかにけわしい意識の登山を余儀なくされるが、警戒すべきなのは务等感のクレバスにず
るずると落ちこみ、しかもその自分を甘やかすことなのである」
(『沈黙と海』)という言葉
に出会ってドキリとしたこともあった。自分が人間であることをぎりぎりのところで見つ
めようとする在日朝鮮人たちに学びながら、私はだんだん、アイデンティティの揺らぎと
いうことを自分の問題として考えるようになった。生きる見本が持ちにくく、自分で模索
し続けるしかないところも彼らと私は似ているように思われた。
差別社会の中で被差別者がどのような問題や苦悩に追い込まれていくか、差別社会の中
で被差別者はどう生きればいいのかについて、
『橋のない川』も在日朝鮮人という存在も私
にたくさんのことを教え、考えさせてくれた。卖に理不尽な社会的差別をなくせばよいと
いうことだけではないと思う。自分が抱えているマイナスの条件を、人間のあり方につい
て考えるための为体的な契機にしていくことが、与えられた生を生きる意味にもなること、
それが私の学んだ最も大きなことであっただろう。
部落問題や在日朝鮮人の問題は、このようにして、自分の障害とのからみで「なぜだろ
う」
「どういうことなのか」と、立ち止まっては観察したり考えたりせざるをえなかった遠
い子どもの頃の自分を思い出させることにもなった。見えなくなった自分の心の輪郭がぼ
んやりと分かりそうな気がしたこともある。だが、在日朝鮮人という存在にも被差別部落
の人々にもどうしても重ならない、映ってこない自分があった。それは左手腕の麻痺とい
う、私の身体障害そのものの意味だったようである。在日朝鮮人の問題を差別問題に収斂
させて論じるのは不十分だと言われることがある。私の場合は、身体障害者として経験し
てきた痛みや悲しみを差別問題として云々する前に、まず自分の身体障害そのものの意味
を見つめ直さなければならない。私は片手の機能障害を、できないところをどう補うかと
いう身体的な問題としてのみ考えてきた。違和感や疎外感、アイデンティティの揺らぎは
心の問題として切り離し、それはそれとして考えようとしてきたらしい。体は体、心は心、
と考える二元論のおかしさに、身体論・存在論である『ボディーサイレント』を読んでよ
うやく私は気がついたのだった。
わたしの中のわたしたち―(4)天に罪問う
高校二年・三年の時の同級生で、私と同じポリオのR子さんは、右足が麻庫していた。
体育はともに見学組だった。文学尐女だった彼女と、数学と化学にしか目が向かなかっ
た私とでは接点が尐なくて、高校時代は特に親しかったわけでもないが、お互いに気に
なる存在ではあった。彼女を大切にしてくれた母親は彼女が一四歳の時に亡くなった。
卒業後は別々の大学に進み、お互いの消息も知らずにいた。
ある年の同窓会で、二六年振りにR子さんの消息を知った。元気で働いているという。
結婚しているという。嬉しさと懐かしさで葉書を出した。彼女は小学校の教師になって
いた。自分の子どもはいない。書道で鍛えた彼女の伸び伸びとした文字を見ていると、
自然に背筋が伸びてしまう。
(×月×日)
「私は意気地がなくて、子どもを生むことができませんでした。今の私な
ら、もしかしたら育てることができたかもしれない――と、ぼんやり思ったりすること
もありますが。たくさんの子供達に出会い、父母達に出会い、子供達の素晴らしさや、
親の願いや思いについて教えてもらうことが多くありました。
一度も学校を休んだことはない私ですが、
“明日も元気で必ず来てね”と、一年坊为に
言われて感激しております。
四十を過ぎたころから、やっと教師でいられることを幸せに思えるようになりました。
生きていることを素直に喜び、楽しめなかった私ですが教師をしながら、カウンセラー
の仕事をして心優しき人々の援助をさせてもらっています」
(×月×日)
「最近。とみに身体のあちこちが痛み出しています。けれども、元気いっ
ぱいの三十八人の子供達にエネルギーをわけてもらい、なんとか毎日を歩んでいます。
私のする仕事は何もなくて、子供達は、ぐんぐんと確実に成長していきます。これまで
にやっぱり人問てすごいなあと何度も感じさせられました。
人の親には決してならないと強固に思って来ましたが、今の私は“人の親になっても
良かったのかもしれないなあ”と、かすかに感じたりしています。
六、七年も前のことですが、自分の走る姿をビデオで見た時――ぐらぐらと体が波の
ように揺れていたんですよ。“なあんだ、私は立派な障害者なんだ”。私の中の何かが数
秒間で消えてなくなり、真っ白に思えました。急におかしくなり、大声をあげ笑ったこ
とを覚えています。“やっと自分の歩き良いように歩くようになったね”、いつか家人に
も言われたことがあります。
生まれてきたことをあまり喜んでいませんでしたが、今は働く場所があるだけで有難
く思い感謝しています。特別な才能がある訳でもありませんので、子供達に影響は与え
られませんが、
“あなたが、この三年四組にいていいのよ”と、その子に伝わるメッセー
ジを送りたいと思い続けています。そしてできるなら、今生きていられることを喜べる
日々を過ごしてほしいと、心から願っているのです」
女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季
富小路禎子
R子さんの胸をそんな思いがよぎったこともあったのではないかと思う。
子を生みき祖国知らざる子を生みき母はひそかに天に罪問う
李 正子
私は、子どもを生んで母親になることをそれほど深刻には悩まなかった。夫は子ども
を欲しがったし、結婚していて子どもがいるのは自然だし、三人生むことに周囲からの
反対もなかった。振り返ってみれば、若さにまかせて無鉄砲をしたとは思う。自分の不
自由さを甘く見ていたことにもたくさんの反省があるが、足の不自由な義母が六人も生
み育てたのだからという気持ちもどこかにあり、そんなことで自分を励ましながらやっ
てきた。それでも、母親が障害者であることを子どもたちはどう受け止めるだろうか、
自分を愛しきれない私が子どもたちを幸せにしてやれるだろうかという気掛かりはいつ
も心にあった。そのおずおずとした気掛かりに貟けまいとして、ずいぶん突っ張ってき
たかもしれない。子どもたちの成長というかけがえのない喜びの陰で、私も、心のどこ
かで「ひそかに天に罪を問う」ような思いから解放されたことはなかったような気がす
る。義母は私以上にそうだっただろうと思う。
自分の障害をいつも気にしていると言えば、たいていは、いじけている、ひがんでい
る、こだわっている、自意識過剰であるなどと非難がましく言われる。気にしないで済
む状況ばかりなら気にしないが、自分が子どもを傷つける存在になっているのでは、と
いう思いは親として耐え難く、これが一番つらい。合理为義的でどこか男性的な私は、
子どもたちの優しさに助けられながら、できるだけ明るくカラリと、そしてやや強引に
切り抜けてきたのかもしれない。子どもたちが大人になった今はもう、その問題は私の
側にある以上に彼ら自身の側にあると言えるだろう。
障害者がありのままの自分を受け入れること、ありのままの自分に誇りを持つことは
決して簡卖にできることではない。
「自分の歩き良いように歩くようになる」までR子さ
んに寄り添い、そうなったことを見逃さずにしっかりと受け止めた彼女のご为人の愛の
あり方に感動し、私の自分探しを気長に根気よく見守り、支え続けてくれた夫の存在の
大きさを思った。
R子さんにはR子さんの経てきた歴史があり、障害者として教師として越えてきた苦
悩の山なみがある。子どもが好きと言えない自分に苦しみ、文章教室に六期六〇回休ま
ずに通って百編近い短文を書き、亡くなった母親のことばかり書いていたこと、自分の
中に溜まっていたものを書いて書いて書き尽くし、書くことがなくなってしまったこと、
そのことを「何かに取りつかれたように書きまくったあの頃は、私が私になるために、
通らなければならない大事な時間だった」と言う。
R子さんは近年、体力的な限界もあって聾学校高等部の国語教師に転じた。一九九七
年二月、三二年ぶりに彼女と再会した。一緒に歩くと彼女が遅い。駅で切符を買う段に
なると負布を出すのに私がもたもたする。お互いこんな体で長年生きてきたのだなあと
思った。聴覚障害の生徒に、
「春はあけぼの」を理解させるのになかなか苦心しているよ
うだった。彼女は自分の仕事を愛しているし、生徒たちを支え励ますことによって彼女
自身が生かされている。
【4】感情の甦りと『ボディーサイレント』の世界
(1)感情の甦り
押し殺されていた感情が突然に甦り、子どもの頃の心身症の症状がそっくりそのまま生
き返ってきた時は、ほとんど錯乱に近い状態だったらしい。父の死後二亓年が経ち、私は
ちょうど四〇歳になるところだった。精神科の医師は「子どもが大きくなってだんだん手
が離れてきたということも含めて、よくよくいろいろな偶然が重なり合ってしまった結果
でしょう。こういうことが起こるのは、普通は人生の終わり頃、いろいろな義務を果たし
終えた頃なのです」と言っていた。
その数年前から、私は、よく重苦しい夢を見てうなされることが多くなっていた。ある
夜の夢は、川が流れていて、川の向こうにE叔母が立ち、にこやかな顔で何か言っていた。
それを聞き取ろうとしてもどうしても聞こえず、私は川のこちら側でうろうろするばかり。
だんだん悲しくなって目が醒めたら本当に涙が出ていた。長いこと会っていないE叔母の
夢を突然見たことがショックで、何か変事がなかったかと電話で確かめたりした。今考え
れば「あなたの本心は私と同じ、身障者であるということ」と、彼女が教えてくれていた
のだと思う。意味も分からないまま重苦しい夢の気分を引きずっていることが多くて、昼
間も気が晴れず、死ぬということがひどく優しい行為のように思えてくることがあった。
自分の本音が分からないなら、分からないままに生きていくしかないのではないかと、ほ
とんど諦める気持ちになってもいたし、どこかに本音があるはずと思うのは妄想かもしれ
ないと考えたこともある。
「二年ぐらいは薬から離れられない生活になるでしょう」という医師の予想をはるかに
超えて、身体症状は七年も続いた。はじめの三か月余りは、古い記憶と古い感情が頭の中
でぐるぐるとメリーゴーランドのように回り続けて、涙が止まらず、頭の中がぐらぐらと
揺れ、真っ直ぐに立っていることができないほどだった。外に出たら道路も周りの景色も
斜めに傾いて見えた。傾いているのは自分の頭の中だと、理性がはっきり知っていてもど
うにもならない。つらいことばかり思い出していると気持ちが荒れて仕方がなかった。幼
い日にこんなひどい心身症の中で生きていたのかと、自分のことながら心底驚いた。が、
その一方で、母に対する重いこだわりがようやく解け始めたことを感じていた。映画『し
いのみ学園』にまつわる思い――肢体不自由児が蔑まれずに大切に扱われていることへの
目を見張るような驚き―がぼんやりと甦ってきたのは、古い記憶と感情のメリーゴーラン
ドが静止してしばらく経ってからのことだった。
分からなくなった本心を取り戻したい、自分の本音が知りたいというのは本気だったが、
つらいことは絶対に何も思い出したくないというのもまた、それに务らず本当の気持ちで
あった。けれど、そうは問屋が卸してくれず、両者はピッタリとくっついて複雑に絡み合
っており、まるごと一緒に甦ってくるしかなかったのである。我の強さでバランスを取り
ながら生きてきたのに、その我が破れてしまい、弱々しく頼りない私が顔を出していた。
しかし、それを見つめることのできる現実の自分がいて、医師と薬の助けが必要だと自分
で判断できたこと、事情を聞くや「あわてないで落ち着いて受け止めるように」と助言し、
支える側に回ってくれた夫が側にいてくれたことが幸いであった。
「ひょっとすると一〇年
ぐらいはかかるかもしれない」と思ったが、甦ってきたものの一切に立ち向かって行くし
かなかった。感情の甦りとは、もう一回深く傷を貟うことであったし、山のようなその古
傷の痛みの中から、
『しいのみ学園』という、一〇歳の子どもの頃の、いまだひよわでぼん
やりとした私の本心を救い出すことであった。
可能な限り普通の生活を続けながら、時間を見つけては、ボロボロに病んでいる甦った
感情と対決する日々が続いた。
「思い出したことは全部忘れてしまった方がいい」とアドバ
イスしてくれた人もいたが、私は、忘れた方がいい事と忘れてしまう訳にはいかない事を
分けようと思った。深い無意識の海の中から私が拾いあげたコインの両面には「憎しみ」
と「愛」という激しい感情の言葉が刻まれていたが、『橋のない川』や在日朝鮮人の世界が
示してくれたのは、片面に「心の傷つき」、他面に「人間の尊厳」と書かれたコインではな
かったか。私のぼんやりした本心はどうなっていくのだろう。自信も見通しも何もなかっ
たけれど、一歩ずつ歩き続けるしかなかった。家族に無理を言って父の墓参に帰らせても
らい、一八年ぶりでE叔母に会ったり、図書館から『しいのみ学園』の古い本を借り出し
て読んだり、半病人暮らしながら尐しずつ、尐しずつ回復していった。
三年、亓年と時が過ぎ、いつの間にか子どもたちはそれぞれの大学へと手元を去り、夫
婦だけの生活になっていた。私は気分転換と実益を兼ねてパートで働き、時々図書館に通
い、いろいろな本を借りては読んでいた。四年間続けたパートを辞めた頃、身体症状も気
にならなくなり、薬から解放された。その間にE叔母が病死し、彼女に対する気持ちの整
理も含めてこれまでの人生を振り返りながら、老いに向かうこれからのことを考えるよう
になった。
わたしの中のわたしたち―(5)E叔母の死
一九九二年春、E叔母は六七歳で逝った。真新しい位牌に「春月照善女」とあり、見
た瞬間、おぼろで優しくどこか青白い春の夜の月が思い浮かんだ。影が薄くて頼りなげ
なE叔母はそんな印象の人だった。近しい身内と近隣の人々だけのささやかな葬儀が済
んで家に戻ると、ひと月ばかりは茫然と暮らした。その二年前に一八年ぶりで会った時、
「今度いつ会えるかな、一年後かな、一〇年後かな」と言うので、
「また会いに来るから、
元気でいてね」と答えたのに、それきりになってしまった。死なれた後しばらくは、殆
ど何もしてやれなかった自分が惨めで悔しくて身の置きどころがなく、生きている理由
が半分なくなってしまったような気がして仕方がなかった。
私が生まれた時から一緒だったE叔母とは、実にいろいろなことがあったが、私の側
から言えば彼女がいてくれたおかげで、家の中で私一人だけが障害者という状況になら
ずに済み、このことは私の心のあり方を決定づける大きな要因となった。足の不自由な
彼女と手の不自由な私は補い合えるところがある半面、気持ちのすれ違いも多かった。
叔母と姪、大人と子どもという関係でいろいろと面倒を見てもらい、協力し合ったり反
発したりすれ違ったりする毎日の中で、私はE叔母を見ながら実は自分自身を見ていた
のだと思う。父とも母とも仲が悪く、耐え難い思いもしたがそうであればこそ彼女の存
在は私の中の深いところで息づくものとなった。障害者が暗い顔をしていると周囲の者
が幸せな気分になれないこと、いじけたりひがんだりしている人間の姿は尐しも美しく
ないこと、一緒に暮らしながら私は子どもの頃にそんな発見をした。
「大人になったらE
ちゃんと二人で暮らそうかな」―それが子どもの頃の私の夢でもあった。
E叔母は、亡くなるまで長いこと生活保護で一人暮らしだった。姉妹や他の親戚が近
くに层て、私の妹夫婦が一家で時々顔を出してくれていた。一八年ぶりに会ったE叔母
は穏やかで童女のように愛らしい顔をしていた。顔を見た瞬間、会えなかった一八年と
いう時間はどこかに吹き飛んでいた。会えただけで満足でたいした話もしなかったが「昔
のうらみつらみはどこにやってしまったの?」と聞きたくなるような静かな表情で、東
北弁で低く歌うような彼女の言葉は生涯忘れ瞳いものとなった。
「父ちゃん(私の父) 早ぐに死んですまってな―
おらあみでえなの
いづまでも 生ぎでだ―
(父の死んだ日は)みぞれだったなあ
んでもなあ
こうすて 生ぎでれば
懐がすい人さも 会えるなあ
この足にかかって(足のせいで)なあ
おらあ 結婚もすねがった
子どもも生まねがった―
おら(人生で)な―んぬも すねがった」
(2)
『ボディ・サイレント―病いと障害の人類学』の世界
かつて私が思って来たのは、肢体不自由だったE叔母のことや、精神障害者として死ん
だ父のことや、その時その時に身の周りに层た自分以外の障害児者のことだった。自分の
ことは自分で何とかするしかないし、実際に何とかやってきているのだから、と思ってい
た。
“正常同然”という神話の中に生きていた私は、自分自身のために障害者問題を考える
ことは敬遠してずっと後回しにしてきた。その時々の動機やきっかけはあっても、忙しく
て時間がなく、またつらい昔は思い出したくもなかった。父が死んだ時から、どんな時で
も後ろを振り返らないで生きてきたような気がする。だが、感情の甦りは、そのような自
分への別れとなった。現実の生活を優先しながら、体調の回復につれ、誰彼のためでなく
自分自身のこととして障害者問題を考えるということが、尐しずつできるようになってい
った。それは、
「ねばならない」こととして自分を励ますというのではなく、心の内から湧
いてくる強い欲求というものでもなくて、まるで眠りの後に目覚めが来るような自然な変
化であり、気がついたらそうなっていたという感じだった。
『ボディ・サイレント』に出会
ったのはちょうどそんな時で、私は四七歳になっていた。
子どもの頃の心身症が自己価値の問題に深く係わっており、アイデンティティの揺らぎ
は結局、存在論的な問題であることに私は既に気がついていた。そしてまた、自分が障害
者であるということを、努力・頑張りなどという倫理的・道徳的な言葉で考えることに限
界を感じ、そのような「気持ち」の次元から一度自分を解き放ってみたいと思うようにな
っていた。そんな私には、身体論・存在論である「ボディ・サイレント」はまさにうって
つけの本だった。が、自分のことがそのまま書かれているようで、正直に言ってこれ以上
につらい本もなかった。
『ボディ・サイレント』は、私が生きてきた四七年の人生のすべてと、尐しずつ読み継い
できた本の世界の一切を丸ごと投げ込んでみたくなるような、壭大な劇場であり舞台であ
った。人類学が障害者研究をするなどと考えたこともなかったが、この本を読んだことに
よって、私は初めて幼い頃から心の中にずっと引っかかっていた自分の問題がどんなこと
であったのかを、はっきりと知ることができた。著者のロバート・F・マーフィー氏は、
「大
学生時代――哲学では人間存在の究極的な――またはかりそめの――意味を求める営為に
出会った。人類学ではこの哲学的な問いに、統御され秩序だった仕方で立ち向かう視座と
方法に出会った。それは人間に関することなら何でも自らの領域だと考えるような腹太さ
をもっていた」と述べている。私も身体障害者であることの意味について考えるための、
自ら納得のいく視座と方法にもっと早く出会いたかったと思う。
『ボディ・サイレント』は、人類学的フィールド・ワークの方法を駆使した身体障害者
調査と、中途障害者である著者自身の体験を重ね合わせた身体障害者の身体論・存在論で
ある。著者は人類学専攻のコロンビア大学教授であるが(一九九〇年に六六歳で死去)、脊
髄腫瘍のため亓三歳の頃に身体麻痺となった。彼は「私の過去はくっきりとふたつの部分
に区切られている。ひとつは車椅子以前であり、もうひとつは車椅子以後。病気以前の時
代は黄金時代、それ以後は凶の時代、破壊された夢のかけらの時代とみえる。私の自分史
はもはやスムーズで直線的な時間の流れではなく、真二つに割られて分極化している。そ
してそこには本当の意味での未来が欠けている」と述べている。一歳半で身体障害者にな
り、そのゆえに深刻な心の障害も背貟ってしまった私には、彼と同じ意味での黄金時代の
記憶はなく、未来というものはいつも「破壊された夢のかけら」としてしか存在していな
かった。私にとって育つこと、生きることは、バラバラになっている夢のかけらを拾い集
め、つなぎ合わせて自分なりの夢に作り直そうとすること、いつもそんな作業だった。ま
た誰もその方法を私に納得のいくものとして示してはくれず、壊れかかった小舟で地図も
羅針盤も持たずに航海するようなもので、失敗や挫折の繰り返しだったと思う。
中途障害者である著者は、足から全身へと広がり続ける身体麻痺の一〇年間に、人類学
者として「足元にポッカリと開いた暗い穴の中へのはるかな旅=異境(身体麻痺者という
新たな自分の人生)への旅」をした。その旅の記録を読みながら、私はいつしか四七年間
の自分の旅を振り返っていた。マーフィー氏は言う。「過去四年間、私は毎年この本を書き
始めてはその度に挫折した。その失敗は自分自身を観察の为体であると同時に客体として
みること、つまり私が書き手であると同時に为人公であり、調査者であると同時に被調査
者であることの難しさが为な原因だった」、「身障者調査の中での自己発見は私にとってし
ばしば辛く苦しい経験となった」
。それは読み手である私にとっても同じで、読むことによ
って引きずり出されてしまういろいろな思いを見つめ、自分を見つめ直す作業はとても苦
しく、読み進むことができなくなって本を閉じてしまうことがしばしばだった。身体障害
者としての同じ痛みをもって読み、
「ああ、こういうことだったのか」と、今まで言葉で表
現しきれなかった自分の思いやその根底に潜んでいたものに出会い、自分の考えをあらた
めてかみしめながら納得することともなった。
マーフィー氏は、
「身体障害は、からだのあり方であると同時に、社会的なアイデンティ
ティのあり方なのでもあった。つまり身体的原因によって生起する一方、社会によって定
義され意味づけられる、それはすぐれて社会的な状態なのだった」と述べている。その「か
らだのあり方」と「社会的な状態としてのあり方」を重ねて同時にとらえるために、人間
性の探求を目的とする様々な学問―哲学、心理学、精神医学、社会学、文学など―が動員
されている。そして、身体麻痺の当事者である彼自身の自己観察と自己省察がそれに重ね
合わされている。彼は「調査者であると同時に被調査者であることの困難」に立ち向かい、
内(身障者である自己の内面)と外(身障者をとりまくアメリカの文化・社会)が同時に
見える世界として『ボディ・サイレント』をつくりあげている。それは、一見ささいなも
のでしかない自分の足元を掘り続けることによって、普遍や真理、世界に到達しようとす
ることであって、
『橋のない川』や在日の優れた文学や評論が指向するものと、本質的に同
じではないかと思う。
マーフィー氏の表現は、実感がこもっているうえにまったく適切であり、けれんみがな
いかわりに容赦も遠慮もない。そのあまりに率直な表現がいちいち心に突き刺さり、ひど
く痛かった。しかし、私には身体障害者である自分に係わって子どもの頃から心で感じ取
ってきたことや、気がついていながら問題としてとらえきれなかったことがたくさんあり、
それらを表現すべき十分な言葉を持たないまま、私はいつも隔靴掻痒のもどかしさを感じ
続けてきたのだった。それゆえに心に突き刺さるその痛さのぶんだけ、そのもどかしさが
解消されていくような思いがした。そしてまた、差し出される事実と真実の前で、読むつ
らさや苦しさはあっても、私の心はなぜかどこまでも素直でいられ、読み進むにつれて心
が軽く自由になっていくような気がした。身体障害者という生しか知らない私には当たり
前のように思われてしまっていることも、中途障害者であるマーフィー氏には当たり前で
はなく、亓体満足だった時とはまったく異質の新たな事態としてくっきりと意識されただ
ろうし、
「亓体満足な黄金時代」と「破壊された夢のかけらの時代」と、その両方を知りえ
てはじめてこのようなものが書けたのだろう。
訳者解説に、
「歩ける者には歩けないというのがどんなことかわからないというのは真理
の一面にすぎません。その他面とは、歩ける者が実は歩けるということの本当の意味さえ
理解しないという事態です。マーフィーは彼の身体を通して語ることで、我々が意識の暗
がりに放置している自分自身の身体性をよびさましてくれます」とあるが、私も自分の身
体性とじっくり対面させられた。それは卖に何々ができて何々ができないとか、からだの
変形を気にするとかしないとかいうことではなくて、そもそも人間の身体と心がどのよう
に不可分で一体のものであり、社会的なものであるかについて本質的に理解することであ
った。大学時代、社会学の授業で「人間とは人と大との間である」という言葉に出会った
が、私はそれを知・情・意の面でのみ受け止めていて、自分の身体障害そのものと結びつ
けて考えようとしたことはなかった。私の合理为義が見つめていた「損なわれたからだ」
は、「客体として対象的にみられた身体」、つまり「もの」でしかなかったのである。長い
自分探しの間でさえ、左手腕が動かないことを卖に身体的なこととしてしか考えようとし
なかった。すべての苦悩は左手腕から始まっていることを一方ではよく認識していたにも
かかわらず、である。私はまるで精神为義よろしく、障害があっても人並みに頑張ろうな
どとばかり考えてきたようである。
身体障害を貟って生きる自分をあるがままに見つめ語ろうとすれば、どうしても、客体
として対象的にみられた身体ではなく「生きられている身体」(メルロ=ポンティ)、
「心が
からだの一部であるのに务らず、からだは心の一部となる」
(フロイト)という考え方が必
要な気がする。マーフィー氏は現象学の知見を引いたうえで、「切断手術の患者が失ったの
は卖に腕や足なのではない。その大と世界をつないでいた関係の環―その人の存在を世界
の中に定着させていた錨(いかり)―がひとつ失われてしまったのである」と書いている
が、ここを読んで私は、そうか、こういうことだったのかと胸がすっきりした。アイデン
ティティの揺らぎは心だけの問題なのではなく、身体の障害そのものにその根をもってい
るということだ。私の場合は錨が失われたのではなくて、錨を下ろして定着することに始
めから困難があったということである。これまでの私はどうやら体と心の二元論から抜け
出しきれずにいたらしい。
「第二部―からだ、自己、そして社会」を読むことは、自分の心の傷をいちいち再確認
することとなったが、
『ボディ・サイレント』を書き始めて四年間も挫折し続けた著者の苦
悩が分かるような気がした。ここまで自分を対象化するのはどんなにか大変だったことだ
ろう。
マーフィー氏は語る。
「足だけではない、何かそれ以上の大きなものを失ったのではない
か。その不安の通り私はたしかに自己(セルフ)の一部をなくしていたのだった」「かつて
私が健康な時、身体は当然のこととして肯定的に、無意識のうちに受け止められていたの
に対して、今や私の脱身体は問題として否定的に意識の中に突き出している。静かに停泊
していた私のアイデンティティは錨を失い、身体的な流れの中に漂うこととなった」
。私に
は障害を貟った身体が否定的な意味で自分に関わってくることを、無意識のうちにできる
だけ阻止しようという気持ちがあったらしい。麻痺した身体を、「心の一部でもある身体」
「生きられている身体」として見つめ直し、とらえ直したとき、障害を貟ったありのまま
の身体が私という一人の人間の为体性を支えるものなのだと思えるようになった。
著者は、身体障害を社会的逸脱として説明することには無理があるとして、むしろリミ
ナリティ(境界状態)の一形態として扱うことによって、身体障害という事態を普遍的な
ものとしてみることができると同時に、その特殊性をも見落さずにすむ、と述べている。
リミナリティ、リミナルという概念については何も知らずに、私は読書などでちょうどそ
のような世界ばかりたどってきたのだった。女性、部落、在日朝鮮人、障害者、などなど。
リミナルとは、人間であることと人間以外または人間以下であることとの境界状態でもあ
るらしく、そこでは往々にして“To be or not to be. That’s problem.”(生か死か、
それが問題だ)という切実さをもって人間性が問われてしまう。マーフィー氏は、次のよ
うに書いているが、これは私が今までの人生の中で感じてきたことそのままであると言っ
てよい。
「人類学者ヴィクター・ターナー――は一つの論文に“どっちつかず”という題を
つけたが、このことばこそアメリカ文化の中にあって曖昧な位置をしめる身障者たちのあ
り方をピタリといいあてている。長期にわたって身体障害者として生きる者は、病気とい
うのでもなく、しかし健康というのでもない中途半端なあり方をしている。死んでいるわ
けではないが、かといって十二分に生きているというのでもない。社会の外にあるという
のでもないが、完全に内にあるともいえない。彼らは人間なのだが、そのからだが変形し
機能不全であるせいで、人間性を疑われかねないような存在だ」
。社会・文化の中での“ど
っちつかず”なあり方が、私のアイデンティティの揺らぎの二つ目の、そして直接の理由
だったのである。大切な感情の一部を失うという心の障害のゆえに、それについて直接に
悩み、考えることがなかなかできずにきたのだと思う。
障害の程度が軽く、普通の人々に近ければ近いほど、かえって腹の据わりが悪かったり、
障害者である自分を認めにくいということがよくあるようである。私は次のような文章を
読みながら、これまでの自分の人生のあれこれがどんなことであったのかを確認し、アイ
デンティティの揺らぎの正体を知り、自らの他者性についても納得することができたのだ
った。
「身体障害というのは、卖なる役割ではない。それはアイデンティティ、つまりその人の
定義であり、他のすべての社会的役割がその下にくるようなその人の支配的な特徴である。
そして身障者たちが自分の障害のことを心から払拭することができないように、社会も決
して彼らにそのことを忘れさせはしない」
「社会は身障者たちに否定的なレッテルを貼りつける。以後彼らの社会生活はこの押しつ
けられたイメージとの闘いとなる。このことでわかるように、汚名(スティグマ)とは身
障にくっついているおまけなのではなく、身障そのものの実質なのだ」
「どんなに彼らが社会に同化したようにみえても、彼らが経てきた努力や闘いそのものに
よって、彼らは亓体満足の者たちからはっきりと区別されるしかない。彼らはちがう歴史
を持つ人間であり、ちがう人生の予定表にのっとって生きるものだ。彼らはやはり他者で
あるのを止めるわけにはいかない。その他者性が意味するものはしかし、肯定的で創造的
だ。なぜなら、彼らの胸を張った生き方そのものが、生に対する大いなる賛歌に他ならな
いから」
。
身障者の精神生活における最も重要な変化(特徴)のひとつに、マーフィー氏は「激し
い怒りの感情が底流となって存在すること」を挙げ、それを実存的怒り―自分の宿命に対
するやりどころのない憎しみ―と、状況的なもの―何かをしようとしてできないという挫
折感、他の人に正当に扱われないという不満から生じる―の二つとしている。そのどちら
も人間としての自己の存在の根幹に直結しており、大なり小なり、そして幾度も、身障者
はこのような激しい怒りの感情につまづきながら生きていくのだと思う。また自分の身体
障害についての罪と恥の意識、具体的な社会生活の中での互酬性(ギブ・アンド・テイク)
――受け取るばかりでなく与えて一人前――の問題にも言及されているが、人の善意とか
悪意とかいう目に見えないものを前提にせず、事実関係のみを冷徹に見つめようとする姿
勢に感心した。
著者は、「第三部―生きるということ」で最後に言う。「社会における個人の在り方の最
も崇高な形が、傷ついた生による果敢な闘いの中に凝縮されている―それは、孤立、依存、
侮蔑、エントロピー、その他内なる自己へと、そしてしまいには自己の全否定へと身障者
を引き込もうとするすべての力に対する闘いであった。この闘いこそ、生への狂おしいほ
どの情熱を表現する最高の形式であり、そしてその情熱こそ我が人類の存在の究極の目的
である」
。自己の全否定―それは、苦しいけれど大切だった感情を押し殺してしまった、か
つての私自身のことでもあるだろう。障害を貟った一人の人間として最も肝心な部分は殆
ど眠った状態で、はっきりと目覚めて生きてはいなかったのであり、その感情が甦った時
からようやく、本当の自分の旅がおそるおそる始まったと言える。
『ボディ・サイレント』
は、自己価値の問題で傷つき、
『しいのみ学園』で顔を上げようとした昔の私を深く問い直
せる世界、つまり私の「大事なセリフ」を確認させてくれる世界であった。そして私は『ボ
ディ・サイレント』を読みながら、自己探求の旅路で部落や在日朝鮮人の世界から学んで
きたことを、身障者である自分の事実―匹身体的事実、存在的事実、人間的真実―に即し
てとらえ直すことができたのだった。
【5】自己認識の転換―ありのままの身障者として人間であること
『ボディ・サイレント』を二度読んだ後、感想文のようなつもりで自分のことをまとめ
てみようという気になった。専ら読むばかりで、何も書いたことのない私としては自分で
も意外なことだったが、
「ありのままの私を丸ごと映せる鏡」にやっと出会えたおかげで、
自分の中で何かが急速にまとまりはじめたのだった。私の人生は三つにちぎれてしまって
いて、それぞれに異質である。心身ともに病んでいた一亓歳まで。感情の一部を失って自
分の本心が分からなくなっていた四〇歳まで、感情が甦ってから現在までという三つの時
期に、それぞれに違う自分が存在し、しかも皆まぎれもない私なのである。後ろを振り返
るのはひどくつらいことではあったが、心に溜まっていたものを吐き出す快さもあり、二
〇日あまり集中して何とか書き終えた。そして長年の憑きものが落ちたようなすっきりし
た気分になった。
それから一か月ほど経ったある日、そのすっきりした気分の正体にハッと気がついた。
障害者である自分にまつわる様々な思いとして感情・情緒の世界にあったもやもやした
ものが、
『ボディ・サイレント』をくぐり抜ける(読む)ことによって社会科学的認識の次
元に引き上げられ、その次元でこれまでの自分を見つめ直す(書く)ことによって、感情・
情緒の世界で自分に絡みついていたものから一忚解放された。長年の憑きものが落ちたよ
うなすっきりした気分になったということ、それは、社会によって定義された自己から抜
け出して、身体性と存在性におけるありのままの自分を確認し、そのありのままの自分で
人間として生きようとする自己の再発見・再確認であった。言い換えれば、身障者である
自己の認識が、受け身的で为観的な認識から、为体的で客観的な認識へと抜け出したこと、
つまり天動説から地動説への転換が起こったということだったのである。
そう気がついた時は、ひどくショックであった。天動説から地動説へのコペルニクス的
転換ということ、私はそれを知識として知っていただけでなく、ものの見方・考え方の上
でもずっと大切にしてきた「つもり」であった。ところが気がついてみれば、身体障害者
である自己の認識という、自分にとって最も肝心な部分ではいまだ天動説のままだったの
である。一生懸命生きてきたつもりだったのに、なんと駄目な自分だったのだろう。なん
だ、何も分かってはいなかったのだ。私はすっかり落ち込んでしまい、沈んだ気分で数日
を過ごした。そして天動説から地動説へのコペルニクス的転換について、昔、私に最も印
象的な仕方で教えてくれた一冊の本を思い出した。
『君たちはどう生きるか』
(吉野源三郎著、岩波書店)に最初に出会ったのは中学三年の
時だった。昭和二一年生まれの私は、尐なくとも学校の中では、戦後民为为義と呼ばれた
ものを時代の空気として自然に呼吸しながら育ってきた世代であり、
『君たちはどう生きる
か』はその時代の空気として何となく私の中にも流れ込んできたものだった。軍隊帰りで
生徒に行進ばかりさせたがる先生がいる一方で、このような本を大切なものとして生徒に
伝えようとする先生も確かにいた。ただ、かなり情緒的で倫理・道徳的な語られ方で、認
識の問題として語られてはいなかった。
「人間は自分で自分を決定する力を持っている。だ
から誤りを犯すこともある。人間は自分で自分を決定する力を持っている。だから誤りか
ら立ち直ることもできる」という、人間の自己決定力の両面性についての言葉が、人間の
すばらしさとして生徒への励ましの意味を込めて語られていた。それは心を病みながら生
きていた私をもすっぽりと温かく包んでくれたが、それだけではなく、この本にはもっと
別な大切さがあることに気がついたのは大学生になってからで、年齢を重ねるにつれてだ
んだんにその本の値打ちが分かるようになってきた。
『君たちはどう生きるか』では、客観的認識・社会科学的認識というものがどのような
ものかについて、その一冊の本を通して身をもって語られ教えられている。それについて
丸山真男氏は次のように述べている。「(それは)天降り的に“命題”を教えこんで、さま
ざまなケースを“例証”としてあげてゆくのではなくて、逆にどこまでも自分のすぐそば
にころがっていて日常何げなく見ている平凡な事柄をてがかりとして思索を押しすすめて
ゆく」ことであり、
「(地動説への転換は)……ここではけっして、一回限りの、もう勝貟
がきまったというか、けりのついた過去の出来事として語られてはいません。それは、自
分を中心とした世界像から、世界のなかでの自分の位置づけという考え方への転換のシン
ボルとして、したがって、現在でも将来でも、何度もくりかえされる、またくりかえされ
ねばならない切実なものの見方の問題として提起されているのです。……(略)……世界
の客観的認識というのは、どこまで行っても私達の为体の側のあり方の問題であり、为体
の利害、为体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということ、その意味で
まさしく私達がどう生きるかが問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの
学説に託して説こうとしたわけです」(以上、丸山貞男、
「
『君たちはどう生きるか』をめぐ
る回想」
、
『世界』一九八一年八月号)。
人間であることと障害者であることとが、いつもどこかで分裂してしまって、どうして
も一緒になりきれなかったこと、それがこれまでの私の苦悩の中心だったと言える。身体
障害者である自己の認識について、私が合理为義的な割り切りに寄り掛かり、受け身的で
为観的な認識からなかなか抜け出すことができなかったのは、
「自分のすぐそばにころがっ
ていて日常何げなく見ている平凡な事柄」にあたるもの(障害者である自分をめぐる子ど
もの頃の基本的な感情)が長い間深い無意識の中に閉じこめられていたからだろう。どう
にかしたくてもどうにもできない、手の届かない世界であり、私はもう一回傷を貟うこと
から始めなければならなかった。まさに为体の側のあり方の問題であり、私の利害、責任
というものと深く結び合わされている問題だったと思う。
マーフィー氏は、
『ボディ・サイレント』に自分の持てる一切を投げ込んでいるような気
迫を感じさせるし、そこには、自分は自分、学問は学問ではなく、人類学者としての、ま
た身体麻痺の当事者としての自己の存在を賭けて自分自身と真剣勝貟をしている一人の人
間の姿があった。私が感じたのは、身障者同士の共感である以上に人間としての深い感動
であり、その感動が日常の手紙以外は殆ど何も書いたことのない私を書く気にさせたのだ
と思う。書くことは私にとっても自分との、自分の人生との真剣勝貟となった。
私は一体何者なのか――私は身体障害者という他者であり、その他者性という为体性を
生きてゆかなければならない人間なのだった。平たく言えば、ありのままの身障者として
人間であり、人間という価値に到達しようとするものということになるだろうか。ベーチ
ェット病のために失明した宮内勝氏が、
「目の見える人生が一つの人生なら、目の見えない
人生も一つの人生」
(『命の詩片』)と言ったのは、このことを端的に表現していると思う。
私はようやくありのままの身障者となり、「大事なセリフ」を語ろうとする私になった。
感情が甦るまでの二亓年間は、本当に自分を愛していたとは言い切れず、母親になって一
番不安だったのもそのことだった。自分を愛し切れない私が本当に子どもを愛せるだろう
か、と。幸いなことに様々な困難が私を試し、鍛え続けてくれた。
『ボディ・サイレント』
の終わりでマーフィー氏は次のように述べている。
「身体麻痺者は、ほぼ文字通りの意味で、
肉の虜である。だが思えば、身障者ならずともたいがいの人は多かれ尐なかれ囚れの身だ。
自分でつくった壁に囲まれて生きること。文化によって建てられ、自分自身の恐怖によっ
て補強された鉄格子の間から人生を傍観すること。このように文化への隷属が物化され固
定化された形は、肉体でできた私自身の“拘束朋”よりもたちが悪い。なぜなら、それは
からだばかりでなく心の麻痺を引き起こし、思考の静寂を招くから」
。
ありのままの自分を愛せないという心の麻痺に二度と陥りたくはない。しかし、心弱い
私はそのような危機にこれからも何度も絶え間なくさらされ続けていくだろうと思う。
わたしの中のわたしたち―(6)義母との日々
一九九六年九月二亓日、義母が八七歳で天に召され、小さな教会で葬儀が行われた。
義母は二〇歳の頃に洗礼を受けたクリスチャンだった。義母の好きだった賛美歌を歌い
ながら、私は身体障害者同士の嫁姑として過ごした長い年月を思い返していた。
いつくしみ深き 友なるイエスは、
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかは下ろさぬ、貟える重荷を。
(賛美歌 第三一二番)
結婚して義母と出会った時、明治生まれの義母はすでに六〇歳、戦後っ子の私は二二
歳だった。義母は先天性の股関節脱臼をそのまま放置されたため、片足が短く骨盤もか
なり変形していた。歩くとだいぶ体が揺れるが、麻痺というものはなく、若い私よりも
早足なぐらいだった。頑丈でよく体が動き、頭の回転も速い。女子専門学校卒という、
当時の女性としては最高の教育を受け、亓体満足な人と比べて何の遜色もなく、
「走る」
ということを除けば何でもよくできる人だった。
たぐいまれなると言いたくなるような、人並み外れた貟けん気とバイタリティでいつ
も積極的に生きていた義母。引っ込み思案で消極的な私。心で思った瞬間に言葉が機関
銃のように飛び出す義母。私は思ったことの半分も言えない。何事につけ対照的な二人
だった。義母の極端なまでの立身出世志向と、何か何でも自分を正当化しなければ収ま
らない頑固さに閉口もし、振り回されもした。けれどなぜかお互いに相手の心が気にな
った。毎年の夏、数週間を共に暮らし、一緒に家事と子ども達の世話をするうち、お互
いの在り方がお互いの心にしみていった。経て来た辛さや悔しさ、抱えている困難がお
互いに自分のことのように思えた。ちょっとでも触れれば血が噴き出るような思いを、
お互いが心に秘めていた。そんな二人を明るく揺するように幼い子ども達がいた。子ど
もは希望であり未来だった。
義父母は北海道のキリスト教系の私立教護院の教師と寮母だった。結婚した頃は、義
父母がちょうど現役を退き、校内に住み続けたまま嘱託勤務に替わっていた。尐年達と
寝食を共にした生活を終え、老夫婦二人の生活が始まり、時間的にも気持ちの上でも尐
し余裕ができた頃だった。
「森の学校」と言われるその教護院の美しい森と、義父母の住
む森番の小屋みたいな古びた小さな家を初めて訪ねた日のことが今も鮮やかに思い出さ
れる。
見上げるような大木が生い茂る中を歩いていると、何本かの木々が異様な姿であるの
に気づいた。頭の中にある木のイメージ―円や二等辺三角形に卖純化されたもの―にど
こか合わない。よく見ると、
「ドイツトーヒ」と名札のついたそれらの木々は。ある一方
の側の枝が皆小さく貧相なのだった。厳しい冬のせいだとすぐにわかった。風が吹きつ
ける側は存分に伸びきれない。マイナス二亓度にもなるという真冬の激しい風雪とブリ
ザードに耐え続けている間にそのような姿になったのだろう。それでも太い幹は高く真
っ直ぐに天を突いていた。すこやかに伸びきれない部分があってもいいのではないか―
私の心の中でふとそんな声がした。愛しいものを見るように、しばらくその大きな木々
を見つめていた。
「私、悔しくて仕方なかったの」と、義母が語りかけてきたのは、校内を案内してもら
う道すがらだった。その話は夫からも聞いていた。その前年に夫が帰省した折り、夕食
後に「男と女とどっちが偉いか」という話になり、義父母と夫と三人で明け方の四時ま
でやり合い、義母は二対一で完全に言い貟かされてしまったのである。義父も夫もから
かい半分ぐらいのことだったらしいが、貟けん気の強い義母はすっかり本気になってし
まっていた。
「二対一だったから貟けてしまって本当に悔しかった。あんたじゃおとなし
くて頼りにならないから、札幌からT子(末娘)を呼んで今度はかたきをとらなくちゃ」
といきまきながら、さきに立ってどんどん歩いて行く。憤懣やるかたないという感じだ
ったが、老いの漂いはじめた小柄なその背中は、威勢のいい強い言葉とは裏腹にとても
淋しそうに見えた。
「どっちが偉いか」という問題の立て方のおかしさに義母は尐しも気
がつかず、その非論理の網に自分から引っかかってもがいている姿がひどく悲しく思え
た。
言葉の表面は男と女でも、女だからというだけではない別なつらさや悔しさがその奥
にあるような気がした。障害の程度が軽く、人並みにできないことが何もないからか、
義母は自分を障害者と認めていなかった。その頃の私も、その点については同じような
ものであった。ありのままの自分を認められず受け入れられないことの当然の帰結とし
て、障害ゆえの悲しみも悔しさも、絶対に直接には□に出すことができなかった。心の
中にたまった思いは、例えば女であることの悔しさの中にみんなまとめて吐き出された
りする。競争原理で生きようとする義母は相手をやり込めて勝利を手にしたく、自分な
りの原理を見つけたい私は、そのための糸口を探し求めていた。その時に分かったこと
は、義母とは言葉にさえならない何かを共有できるかもしれないことと、自分の弱さを
決して認めようとしない義母の依怯地さに夫が深く反発し続けていることだった。同じ
クリスチャンの義父は、ふだんは無駄なことを言わない静かな人だった。理系の出身ら
しい確かな観察力と厳しく温かい眼を持っていた。ごまかしのきかないその深い眼差し
が私は好きだった。
結婚してから義母が亡くなるまで約二八年、いろいろなことがあったが、同じ女性の
身障者である義母と嫁姑でいられたことは、私には大きなことだった。様々な事情でE
叔母の人生に私か寄り添うことができなくなったその代わりのように、義母がいた。子
どもの頃にE叔母を見ながら自分自身を見ていたように、義母を見ながら自分自身を見
ていた、そんな二八年間だった。
始めの頃は、二人の間で「障害者」という言葉を使うことさえ憚られるような感じだ
ったが、長い時間をかけて尐しずつ打ち解けた。
「結局、障害者手帳は作ってもらわなかったの?」
「それを持っていると何か特典でもあるの?」
「JRの割引が受けられるだけでもずいぶんと助かっているのよ」
「あらーそれじゃ私、えらい損しちゃったかしら」
そんな話がごく自然にできるようになったのは、やっと、亡くなる前年のことだった。
マーフィー氏の表現にならって言えば、年老いて衰え、体の動きが不自由さを増し、人
の世話を受けなければ生活できない「要介護老人」という新しい自己像(セルフイメー
ジ)の中に、かつて持っていた障害者のつっぱりが呑み込まれてしまったようだった。
病気の次男の看病に来てもらった時、義母はひまつぶしに読みはじめた『橋のない川』
にすっかり夢中になっていた。義母の家の本箱には沖縄戦の本や高史明さんの本なども
あった。そのような本に向かっていく何かが、義母の心の奥深くには本当はあったのだ
と思う。だが、その何かを掘り起こすこともないまま、義母は天国に旅立った。そのこ
とがやはり残念であり、生きている間に心の重荷を下ろさせてあげたかったねと夫と語
り合った。それはキリスト教の信仰を持たない者の思いであるのだが、義母自身は「悲
しむ者は幸いなり。そは慰めを得べければなり」という宗教的福音を、現世における魂
の救済としてよりも来世のものとして本心から信じていたのだと思う。
義母にしても私にしても、自分のあるがままを認め、あるがままの自分に即して考え、
生きていくことがなぜこれほどに困難だったのだろうかと改めて思う。社会が受け入れ
てくれないからというだけでは理由の半分だろう。それでも義母には義母の生きようと
いうものがやはりあったような気がする。明治の入らしく、関西の育ちらしくいつもし
ゃきっとしていた義母は、ぐずでのろまな私が歯痒かったに違いないが、体が不自由な
ぶんだけ私はかえって大切にされた面があり、幸せな嫁であったと思う。
みづからを偽るよりも苦しかりありのままなる我を語るは
三ヶ島葭子
(大正二年三月号「青鞜」
)
【おわりに】
子どもたちが小学生のころまで、夏休みを義父母と過ごすため、毎年北海道に帰った。
ごちゃごちゃした都会を離れて空を飛び、千歳空港に着陸して機外に出ると大きな空と大
地が広がる。胸の奥まですーとし、思わず深呼吸を一つして土と草の香を吸い込む。その
時の深呼吸のように、新五英一さんの歌声は心の底にしみてゆく。
「清河への道」にびっくりして以来、在日二世の彼の歌をよく聴く。不思議な魅力をもっ
た太い、しゃがれた声。
「自分の声が骨から出ているような気がする。体全体を楽器として使いたい」という、深
くて開放的な歌い方。熱く、心なつかしい。聴いていると癒されぬままでも生き続けよう
という元気が出る。いつのまにかCDが全部そろってしまい、この秋は初めてライブも聴
いた。どの歌もいいが、ラストで「清河への道」が始まると会場の雰囲気が引き締まる。
歌う方も聴く方もテンションが高まる。新五さんの半生がかかった歌である。
おれのルーツは大陸で
朝鮮半島というところ
おれのおやじはその昔
海を渡って来たんだと
ひ孫の代まで語りたい
自らの存在をこう歌い上げるまでの、新五さんの心の軌跡に、ふと自分の軌跡を重ねて
しまう。この歌を歌う新五さんの喜びとしんどさを同時に思う。
「おれはコレアン・ジャパ
ニーズ」という言い方はニューヨークで生まれた。人種のるつぼのニューヨークでこそ、
在日朝鮮人二世である自分を「引きで撮る」という経験ができたのだろう。私は自分の問
題も見えず、そのための方法も分からないままに歩いて来た。足元もおぼつかない私が「在
日」に出会ったことの意味は大きい。身体障害のある女性として私が飢え渇き、求めたか
ったものは何か。簡潔に言うなら、それは「存在の言葉(意味)と必要の論理」であり、
それに気づかせてくれたのは「在日」であった。
「このまま歩いて行こう」と語りかけて来
るような新五さんの歌声を聴きながら、あらためてその意味をかみしめている。
亓〇歳。老いの入り口に立っている。今年の春、よい方の右手の手首と腕の筋肉を傷め、
秋の深まった今も治療中である。両手の不自由な状態になってしまった。買い物や簡卖な
料理などできることもあるが、掃除や力の要る仕事はお手上げで、やむなく家政婦さんに
助けられている。亓〇年間、右手だけを頼りに基本的には何でも自分でやってきた。その
ツケがそろそろ回ってきたらしい。治ってもこれまでのように酷使することはもうできな
いだろう。
「これからはしたたかに生き抜け」と夫が言う。四〇歳を過ぎた頃から尐しずつ
変わり始めた夫は、私の不自由さをありのままに見つめ、必要な手助けをしようと心がけ
てくれるようになった。
春にまいたコスモスが秋風の吹くままに揺れている。尐しずつ自由を失ってゆく体と自
分らしく生きたい思いと。その思いに亡きE叔母が、義母が、時には父が語りかけてくる
ようになった。自分を探し続けることだけで半世紀を生きてしまい、これからできること
など何もないかもしれないが、骨身にしみて感じるものを大切にしながら最後まで生き抜
きたいと思っている。
一九九七年十一月
雪解けの頃
ビョン
卞
融け残る
雪は機く
陽に解ける
つららは
澄みわたるアリアだ
たま
たまの
心の
営業日に
ふと
きみに
会いたいと
思いが
いう
まぶしい
惑いとなる
残念なことだが
きみのこと
わずかにしか
憶えていないのだ
ダイヤモンド・ダストの乱舞の
むこうにきみがいて
ぼくは
雲の谷間の
自分の影にすくわれる
おびえを
まとっていた
ウォン
元
ス
守
いくら茂みのなかの一本の
木の花だって
空にばかり
もう
微笑を売るのは
花ではないのだ
ばかだった
この地で
通行儀礼に
土下座までして
雪解けの
はずかしいよ
そ
ら
峯の蒼空を
雲が
はし
迅るのは
キラリ
消えるためなのか
花大根の花の咲く
り
か
梨花
み
よ
こ
美代子
野に摘みて束ねて活けし木曽の春の/花大根の芽ぶく庭すみ
キムデヂュン
笑顔なれど苦渋の面に翳ろうを厨より見詰む金大中大統領
はなだい こ ん
諸葛菜移して三年の春に咲く尐しこぶりの/花ゆする/風
分断の单と北が映れるを黙し眺めつつ/キムチを食みぬ
飢えて死ぬる民多しとう武器貯え肥れる一人の映れり
日本脱出ならざりし尐年十歳/母われ三十六の/夏の新潟
ひっそりと時を刻みおり三十八年/北朝鮮帰国者の残せし時計
亀甲の舟にのる韓国人被爆者慰霊塔/千羽鶴の囲める
ほ
水の豊かなこの水を欲りつつ逝きし被爆者の声きこゆ
十日後に中国に発つわが子と気温の差のみ話題にしおり
いて
救援の仕事に触れず中国の国境地帯の凍るを伝うる
一国を背貟いて果たす里帰りの日本人妻の後ろ姿よ
特権を得て一時帰国果たせしは一握りなるか拉致者問いたし
キムヒ シ
問うてみるは空しけれど/生きてあれ/帰国者金喜市生きよ
◇
欅にむかえば
一本の欅が空を占めつくし/その角まがり三度の/冬住む
梢さやぐ欅を見上げ何告げん/可も不可もなき三年と言わするか
キムマルチャ
白鳥座の欅に下りて輝くは金末子さんの化身か/デネブの
大通りより/径に入れば大欅待ちいて吾を包みてくれぬ
長田区の仮設住宅つづく露地/独り残れる老婆の明るし
籤当り仮設住宅をいでてゆく/老人片手に遺影下げおり
変々凡々
シン
申
ミョン
明
ギュン
均
安田は、一見したところ、その辺のどこにでもいる、社会の中に在ってそれほど毒にも
薬にもならない、くたびれた平凡な中年の勤め人である。ただ、彼が普通の人と違ってい
る点があるとすれば(これが一番の問題なのだが)彼は在日朝鮮人の二世として生まれ、
アンスンド
そして、そうした環境の中で今まで生きてこなければならなかった事である。本名は安承度
であるが、
『創氏改名』以来、安田姓を名乗り、今ではもう職場のタイムカードやダイレク
トメール、町内会の回覧板にいたる生活の場の隅々にまで、通称名が本名に取って変わっ
ていた。
街に住み、駅まで八分歩いて電車に九分乗り、会社まで歩いて十三分というその三十分
の往復の繰り返しの生活を、田舎を出て就職してから二十年以上も続けてきた。彼はその
道程を、このごろ密かに「疲労街道」と呼んでいた。
年ごろになった安田の姪(兄の娘)がある時、街の中のマンションに住む彼に、「アジエ
(叔父さん)にマンションなんてぜんぜん似合わない。アジエは山の中に小屋を建てて住
む人のように思っていた」
と言ったことがあるけれど、安田は、彼女の指摘は正しいと今でも思っている。彼は、
街の中で暮らすことにすっかり疲れきっていたのだ。
安田は世を拗ねていた。
彼は、オリンピックのマラソンで三位になった女子A選手が英雄扱いされていることに
腹を立てていた。正確には日本の国中の世論に怒りを感じていたのだった。
「彼女は銅メダルじゃないか」
マスコミも世論も、どうして柔道で金メダルを取った無名に近い女子選手のことをもっ
と取り上げて称えないのか。柔道の金メダルはマラソンの銅メダルよりも値打ちが無いっ
ていうのか、それとも、彼女がそれまであまり知られてなくて、マラソンのA選手よりも
美貌が务っているからなのか、と。けれど、日本人の中の誰ひとりとして、安田のように
考える者はいないようだ。そんなとき彼は、自分は今の世の中から取り残されているのだ
と感じる。時代の中に在って、自分ひとりだけが、まるで詐欺に遭っているのではないか
と思ってしまう。
安田はテレビが見られない。
彼はニュースとドキュメンタリー番組以外はほとんど興味がなかった。芸能、娯楽、歌
やクイズなどどんな番組も、見ていて楽しいと感じたことがない。たまに、何かの付き合
いでそれらを見せられるハメになった時など、まるで一種の拷問に遭っているような苦痛
を感じ、心の中でひとり腹を立てながら耐えなければならない。
スポーツ番組も見られない。例えばマラソンを見る。先頭は外国人選手だ。安田にとっ
て安心して見ていられる場面である。その選手がどこの国の何という人かまったく知らな
くても「がんばれ」と忚援する。けれど、やがて日本人選手が追い上げてきて、外国人選
手は追い抜かれてしまう。安田は「ちくしょう」と思い、そこでテレビを消すのである。
それはマラソンに限らない。日本と中国のバレーの試合なら、彼は中国が勝つことを祈る。
どの場合でも同じで、日本が貟ければ、日本人選手が勝ちさえしなければ、相手はアメリ
カでもロシアでもどこでも良かった。
日本が勝った後の、祭りのように騒ぐ世論が安田にはたまらない。彼が勤める会社の職
場でそれが話題になれば、安田は彼らと一緒になって喜ぶフリをしなければならないから
だ。貟ければ誰も話題にしない。そんなとき彼は「ざまみろ」と心の中で叫ぶのである。
初めに、安田は毒にも薬にもならない男、と言ったけれど、よく考えるとそれは嘘だ。
安田が酒を飲んで喧嘩をしたことは、数えあげたら限りがない。時には相手に傷を貟わせ
てしまったことも何度かあるのだ。
いつだったか、彼は会社からの帰り道、例の疲労街道の途中で突然、飼い犬に吠えられ
たことがあった。彼は、犬にまでバカにされているようで悔しくて、空弁当の入ったショ
ルダーバッグを振り回した。鎖に繋がれたまま逃げまどう犬の頭を、背を、阿修羅のごと
く彼は何度も打ちすえ蹴りあげた。その場面をもし見ていた人がいたら、彼をまともな人
間とはとても信じなかっただろう。安田が家に戻ってからバッグの中を調べると、アルマ
イトの弁当箱は角が潰れ、使い物にならなくなるほどに変形していた。彼は、形の崩れた
弁当箱を見ながら「アイツもさぞ痛かっただろうな」と犬に同情した。職場でも、安田が
「おはよう」と言って相手がついうっかり返辞を忘れるものなら「朝の挨拶ぐらいしたっ
ていいだろ」と怒鳴りつけてしまう。彼は、職場で一種の変人扱いをされていた。通勤電
車の中でも、騒いでる若者たちに「オレの癇にさわるから騒ぐのをやめろ」と怒鳴って訝
しがられることも度々である。このように、安田は、人畜にとても有害な人間なのである。
安田はいつも俯いて歩く。
彼は、よく金を拾うという男からそのコツを教わった。
「目線をいつも亓、六メートル先にして歩くこと」と男が言った。安田はそれをいつも忘
れず、忠実に守っているので自然と俯背になってしまう。けれど、彼はめぼしい物をいち
ども拾ったことがない。もし、現金の入った負布を拾ったら、どこにも届けないで、金だ
け盗ってそれで酒を飲むつもりでいた。安田は心根の卑しい男である。そんな彼が幸運に
行き当たるはずがない。むしろ、現実にはそれとは反対の出来事に遭遇するのが、彼の持
って生まれた運命といえよう。
彼はある夜、現金入りの負布に行き当たる代わりに、ひったくり強盗に遭ってしまった。
安酒に酔って家に向かう深夜の路上で、後ろから来た三人連れの若い男に囲まれ、肩から
下げたショルダーバッグを掠め取られてしまった。一人が右腕を摑まえ一人が肩を押さえ
る間に、残った男が左肩に掛けたバッグの紐に指を絡めて逃げた。それは一瞬の出来事だ
った。バッグの中には空弁当と老眼鏡、それに負布と一緒に定期券と免許証が入っていた。
安田は翌日、彼等がわずかばかりの現金を負布から抜き、残りのものをどこかに捨ててい
てくれたら、と一纏の望みを掛けて警察の落とし物係の窓口に届けたが無駄であった。彼
は警察の玄関扉の出口に向かいながら、ガラスから跳ね返ってくる疲れを溜めた宿酔のぼ
んやりとした男の顔を薄汚く感じながら、それが自分の姿であることに気が付くまでに時
間が掛かったことを意識して、大切な物を失くしたこと以上のみじめな思いに陥った。
安田は、通勤電車がもっと混めばいいのにな、とたまに思うことがある。それは彼にと
ってごくマレな機嫌の良いときであるけれど、彼の勤める会社は街の外れにあり、電車は
郊外に向かって走るので、彼が乗る時間はいつも座れるほど空いていた。だから、彼は、
満貝電車に揺られながら、女性の髪の中に鼻を突っ込むような幸福をいちども味えないの
が不満だった。それでも、時どき、向い側にミニスカートの若い娘さんが座ったりすると、
彼は眠った振りをして薄目を腿にむけるのである。安田はどうにもならない毒だらけの下
品な中年男である。
では、薬の方はどうかというと、他人に自慢できるものは何も持っていない。
安田は、彼の母が腸を悪くして八ヵ月で流産をし、千二百グラムの未熟児で生まれた自
分を出来損ないだと思っていた。彼は中学生のころ、生まれた時の二ヶ月のハンディは大
人になったらどれぐらいになるだろう、と考えて身震いをしたことがあったが、そんな大
きなコンプレックスを持った朝鮮人が、社会の役に立つことなど出来るはずがない、と考
えていた。どんなに努力し頑張っても世に財献する生き方はできないのだ。たとえそれに
気持ちを向けたとしてもそうしなかったとしても、いつも気がつくとヘマばっかりやって
いるという結果になっている。つまり、安田は、世間から、つまらない小さな害か毒とし
か評価されないような、不道徳で退嬰的な考え方を否定し得ない立場の人間としてしか、
生きるスタンスを与えられなかったのである。
安田は、自分はいつも損ばかりしていると思い、それを会社の同僚に語った。
「例えばね、家族で何かを食べに行くとするだろ。ギョーザとかトンカツとか何でもいい
んだけど、それで店に入るとこっちはまずビールか酒だよ、必ずね。料理がきて妻と子供
たちが実にうまそうに食べるんだな、これが。……それで、よし、オレも食べてみようか
と思うんだけど駄目なんだ」
「どうして……みんなでうまそうに食べているんだろう?」
「飲んでいるうちに、そんな物どうでもよくなってしまうんだ。目的がアルコールだけに
なってしまって、妻や子供たちがうまそうに食べているのを見ているだけでいいや、て気
になってね」
「だって、普通はつまみながら飲むだろ? 誰だって」
「そりゃ、つまむさ。でもね、どこへ行っても満足に食べられない。それでいつも後にな
ってから思うんだ。ああ、あの時いっぱい食べれぱよかったなぁって」
安田はいつも要領よく立ち向かうことができない。
結婚式とか同窓会の席で、彼は飲んでばかりで料理に箸を付けようとしない。バイキン
グ料理などはいちばん苦手である。自然、飲んでばかりという事になる。やがてみんなが
一通り食べ終わったころ、空腹に耐えられず残った料理の皿に箸を伸ばしたその時「コイ
ツ、よく食うなぁ」ジロリと睨まれるのだ。それは御膳の料理でも同じである。みんなが
食べている時に合わせて食べることがどうしても出来ない。先ずビールで、やがて酒にな
り、注いだり受けたりしているうちにタイミングを逃してしまう。腹がへったなあ、鍋の
蓋を取ったその時「これからまだ食うっていうのか」安田は周りの者たちの視線を感じて
しまうのだ。
社会が、ある何かの基準を元にして回転しているものだとしたら、安田はその基準の引
力の及ぼすいちばん外側で影響を受けている存在だと思っている。だから、他の人と同じ
時間のうちに、他の人の何倍かの距離を駆け抜けて、その関係を維持しなければ彼の社会
生活は成り立たない。だから彼はいつも疲れ、イライラしながら生きているのである。
安田は、酒を止めなければと思う時がある。酒飲みを嫌っていた。宿酔で迎えた日の憂
鬱を呪ってさえいた。無気力になり、病気にでも罹ったようにうなっていなければならな
い。心はもっとひどい状態になる。嫌世感に取りつかれ、死さえ頭の隅をチラチラと掠め
る。そうして、やりきれない気分のまま、時間の流れるのをじっと遣り過ごすしかなかっ
た。しかし、安田は、酒を止めなければというその思いの分だけ、酒を大切なものとも考
えていた。酒を飲む自分の姿に幸福を見い出し、確実に酔って揺れていく自分の心持ちを
愛していたのも事実だった。酒がなければオレは生きていけない。彼は、極端に、罪を犯
して懲役になるような事態を恐れて生きていた。
「酒が飲めるということは、これで案外と辛いことなんだぞ」安田は、誰にともなくそう
呟くときがある。
安田の身の周りには、いつも、大きな事件にいつ繋がるかもしれないような小さなつま
らない事象の渦が取り巻いていた。彼は、自分を含めた家族を事件に巻き込もうと狙って
いる運命という輩たちから身を守るのに必死だった。そんな彼を肉体的疲労や精神的変調
が襲いかかり、しかも生活苦という脆い地盤の上で、彼は小さな虫のようにもがきながら
生きている。彼は、変々と移り変わる状況の時の中に、それでも凡々と流されて生きてい
るのだ。
安田の人生には素敵でドラマチックな体験はない。あるのは、疲労街道を繰り返し通い
ながら生きてきた生活の中での、つまらない、変々凡々な体験だけだ。彼が他人に話せる
事があるとすればそれだけである。
九月のうた
わたり
の
く
み
渡 野 久 美
暑い日だった。分譲墓地の抽選会に出かけた母は、外れてしまったとがっかりして帰っ
てきた。
「お盆までには無理になっちゃった。どうしようかなあ、次の分譲は三年後だって。三年
も待ってられないよね」
「何人くらい来てたの?」
「九十六個所に百二十人くらいかな」
「それで外れたの? ほんとにくじ運悪いね」
妹の暁子は首を振りながら呆れている。
「婆ちゃんはあの場所がいやだったのよ。もっと近くに、良いところがあるという意味だ
と思おうよ」
姉の佐知子はそんなふうに慰めていた。九月に結婚の決まっている姉は優しい。
亓月に祖母が死んで、九月に姉の結婚式を控え、我が家は緊張状態が続いている。墓地
のめどがつかないまま八月になった。今年の八月は、一日から私が能登のホテルへ行くこ
とになった。昨年は姉と妹が行っていたホテルだ。私たち姉妹は、配膳人と呼ばれる謂わ
ば宴会、レストラン専門のフリーターだ。三人一緒に同じホテルに入ることも稀にあるが、
そんなときは、双子なの、三つ子なのと不思議がられる。そんなに似ているとも思わない
が、他人が見ると誰が姉か妹か区別が付かないらしい。妹の暁子が長女に見られ、私か姉
が末っ子に見られることが多い。
八月十七日に、私の行くそのホテルで母の高校の同窓会が行われることになっていた。
私の勤務は、十八日の午前いっぱいになっているので、帰りは一緒にと約束した。高校卒
業三十周年記念の同窓会だそうだ。ホテルの支配人が母たちの同窓生の関係で、そのホテ
ルが会場になったらしい。
二百人あまりの同窓会は盛会だったが、私は別のパーティの係だった。はしゃぎきって
いるだろう母の姿を見なくて済み、内心ほっとする。母は誰にでも、私の娘よ、なんて紹
介するので閉口する。
翌日の朝食バイキングの係になったが、やはり母は、同じテーブルの人に、私の娘よ、
と言った。帰るときには私の携帯電話に連絡してくれるように告げて、さっさと母のテー
ブルを辞した。
母からの電話で、祖父の家に寄ったことを知った。祖父は祖母と離婚して、別の女性と
再婚していた。祖父の家は、ホテルから車で数分のところにある。幾度か行ったことがあ
るのだが、方向音痴の私はなんとも心許無い。母から教えられたままに行くと、坂を下り
た角に、一人の老人がいた。もしやと思って車を止めると、老人はじっと私を見た。
「じいちゃんか?」
「あんた真紀子か?」
「そう。乗って行く?」
「すぐそこやけど、乗ろうか」
亓十メートルほど先に、私を迎えに出たらしい母の姿が見えた。
大きな仏壇のある部屋に通された。祖父は無類の話好きで、親戚の人の集まった席で十
亓時間も話し続けたことがあるという。すぐに母を乗せて帰りたかったが、久しぶりに来
たのでそうもできず、祖父のいれてくれたお茶をすすった。祖父の奥さんも傍らに座って、
にこにこしながら祖父の話に相槌を打っていた。奥さんは昨年までホテルの食器洗浄の仕
事をしていたのだが、七十歳になったので辞めたのだそうだ。八十一歳の祖父とふたり暮
らしだ。
「かあちゃんな死ぬとき、おらに会いに来ていったげ。あんたから電話があったとき、や
っぱりなと思った」
祖父がかあちゃんと言うのは、祖母のことだ。
「きれいな死顔だったよ」
「ほうか、そんなら極楽へ行つたな。あのかあちゃんな天才やったな。満州の広い畑を上
手に牛を扱って耕すし、はだか馬に乗って跳んで歩くし、すごいもんやった。はだか馬と
いうのは、鞍もなんも着けとらん馬のことや。もともと満州へ行きたくておらの嫁さんに
なったのやから、他人とは違うとったげちゃ。おらの在所に石田様という旦那様がおって
な、まあ大地为や。人間というのは何もかもうまくいくとは限らんもんで、何か悩みがあ
るもんや。石田様の娘は肺病病みで嫁にも行けず、家で裁縫をして過ごしておったといや。
おらの家は水呑み百姓やし、本来なら足元にも及ばない家柄やけど、おら石田様の家へ娘
を嫁にくれないかと言いに言ったげちゃ。石田様は二十町歩の地为やけど、おらも満州で
二十町歩の地为になったのやから亓分と亓分だから、娘を嫁にくれって言うたんや。石田
様は怒りもせず、おらを立派な座敶に通して上等なお茶をいれてくれてな。そして言うた。
あんたの申入れはほんとに嬉しいが、家の娘は身体が弱くてとても満州で暮らしていける
とも思えない。替わりといっては申し訳ないが、親戚に変わった娘がおって、どんな良い
ところの縁談もみんな断って、満州なら行くと言っておるそうや。その娘を世話するから、
家の娘はあきらめてくれ、こう言うてな。それで真紀ちゃんのおばあちゃんは、おらの嫁
さんになったげちゃ」
祖父は延々と、祖母との思い出話を続けた。現在の奥さんがいる前で、別れた妻の話を
嬉しそうにするのはどんな神経なのだろう。
「真紀ちゃん、この鐘を叩いてみまっし」
「えっ? 鐘を叩くの?」
「ほうや。どこを叩けば一番大きな音が出るか叩いてみまっし」
祖父の意図がわからず、私は狼狽えた。我が家の仏壇の小さな鐘とは比べ物にならない
くらいに大きな鐘が、豪華な仏壇の右前にある。一升炊きの電気釜よりも大きいだろう。
祖父は摺りこぎ大の棒で、その鐘をいっぱつ打った。ごおお―ううん、と鐘は唸った。祖
父は私にも叩けと勧める。
「力いっぱい、はわきまわせ」
私は叩いた。鐘は再びごおおーううんと腹の底まで響いた。母はおかしくてならないと
笑い転げている。仏壇の鐘で遊んでいていいのだろうかと私は思った。祖父は変人かもし
れない。
「何で鐘を鳴らすのかというと、地獄へ堕ちていく人間を呼び戻して極楽へ向かわせるた
めなんやと。おおーい、とどんなに大きな声で呼んでも聞こえないが、鐘の音は地獄の底
まで響き渡って、その音を頼って戻ってくるんやと。そやから鐘をでっかく叩くのや」
祖父の話は半信半疑だが、母がいつもリンリンリンリーン、リンリンリンリーンとけた
たましく仏壇の鐘を叩いているのを思いだして、母は祖母を地獄へやるまいとして叩いて
いるのだろうかと思った。
高齢を理由に、祖父は祖母の葬式にも来なかったが、姉の結婚式にも出れないからと、
お祝い金を亓万円くれた。
九月になった。
十六日は姉の結婚式だ。
母の知人のつてで、石材屋の持っていた墓地を、その石材屋で墓を造るという条件で譲
ってもらった母は、姉の結婚式の翌日に納骨法要をするのだと宣言した。そんなに早く墓
ができるのかと心配したが、母がどうしてもと石材屋に頼みこんで承諾させてしまった。
墓地は歩いても十亓分くらいのところに決まった。値段も広さも分譲地と同じだったのだ
から、結果的には抽選に外れて良かったのだ。結婚式に集まった親戚をホテルに泊めて、
翌日には納骨法要に参席してもらおうという算段なのだ。亓月の祖母の葬式に来ていた能
登と長野の親戚が、そっくりそのまま集うことになっていた。
お道具選びも済み、日は駆け足で過ぎていった。
初めは、陰からそっと見るだけと言っていた父が、どうしても葬式に出して欲しいと言
って来たのは、列席者の席がほぼ確定してしまっていたときだった。母と父は離婚して十
七年も経っていた。父からの経済的な援助は皆無に近く、母がひとりで私たち姉妹を育て
た。いまさら父親として姉の結婚式に臨むなんて、と誰もが思うだろう。それに父は韓国
人の女性と再婚している。私たちの父が元韓国人だったことを、姉の婚約者の親戚は知っ
ているのだろうか、とふと心配になった。姉は父に出て欲しいらしく、母が「ママならか
まわないよ。でも仲人さんに相談してみなさい」と言ったので、仲人の家へ急遽おもむく
というハプニングもあった。
「お婆がママの結婚を反対したのは、パパの国籍のこともあったけど、もうひとつのわけ
があったんよ。そのときママは二十一歳でパパが二十歳、この家はまだ建ってなくて、ア
パートだけが建って間もなくのころだった。現金で建てたから、お婆は手持ちのお金がな
くて、すっからかんだったのだと思う。結婚は亓年後くらいにしなさいって言われてたの。
家を建てて、ちゃんと家から花嫁姿をつくって出してやりたいって」
お道具選びのあった夜、夕食を終えた母がしみじみと語った。
「なのにママちゃんは駇落しちゃった。怒り心頭の婆ちゃんは送ってきた花嫁姿の写真を
捨ててしまったわけね」
「この家は佐知子が三歳、真紀子が二歳のときに建てたんよ。暁子はまだ生まれてなかっ
た」
暁子が小学校へ入学するときに、私たちは祖母と同层を始めたのだった。父がいなくな
って、二年経っていた。
「お婆、私の代わりに佐知子がこの家からお嫁に行くよ。きれいやろ。見えるか」
結婚式の朝、すっかり花嫁さんになった姉をお迎えが来て玄関に送りだした母は、仏壇
の祖母の写真に話しかけ、鐘をリンリンリンリーン、リンリンリンリーンとけたたましく
叩いた。
父は奥さんと同伴だった。しかも披露宴だけでなく、地元の神社で挙げる式にも出たの
だ。さすがの母も、えーっ?
と驚いたが、何喰わぬ顔で父の奥さんに、はじめまして、
と挨拶していた。妙な挨拶だった。親戚の人たちも、父の出現に戸惑っていたが、誰も難
癖をつけることもなく、
「新婦の親戚」という身分で列席した。姉の父親代理は、母の弟で
ある「叔父さま」になっていたから、最後の花束贈呈のときに母の横に立ったのは、もち
ろん「叔父さま」だ。本当の父親は、新婦の友人席に座っていた。それを知る人はごく僅
かだった。私の位置からは父がよく見えた。父は何度も目をこすっていた。新郎のお母さ
んは未亡人で実兄が父親代理だった。終始にこやかにしていた母がそっと涙ぐんだのは、
姉の「母への手紙」が司会者によって読み上げられたときだ。
『お母さんへ
お母さんなんて呼んだことがないので、やっぱりいつもの通りにします。
ママちゃんへ
友だちのような呼びかたで、ひとからは羨ましがられるほどに仲の良い親子であること
が、私の自慢でした。
若い母親であったことで授業参観の時などは、みんなに見せたい!
という気持ちが強
かったのを覚えています。
いつも明るく、私の友だちからもママちゃんと慕われていることが、とても嬉しく思っ
ていました。
そんな笑顔の裏で苦労を重ねているのを知ったのは、随分と大きくなってからでした。
ひとりで三人の子供を育てることの大変さを、社会に出て初めて実感しました。言葉では
表せないほどの苦労をすべて笑顔に変えて、愛情をそそいでくれたこと、本当に感謝して
います。
そして、そのような状況の中でも執筆活動を続けたことを、とても尊敬しています。文
学賞の大賞受賞は、本当に嬉しかった!
母としてよりも一人の人間として見ることが多
くなったのもそのころからかもしれません。
これから先は、私も母になり子供を育てていくことになりますが、ママちゃんの、笑顔
を絶やさず、前向きに生きるところを見習いたいと思います。
いつまでも、若く、美しいママちゃんでいてください。
嫁いだ先が近いこともあって、嫁に行く……ということへの寂しさはあまり実感しませ
んが、私たち親子のコミュニケーションの場である夕食を、一緒にとれないことが何より
も寂しいと感じています。
これからは私がそのような場をつくるのですね。
真紀子、暁子、夕食はなるべく一緒にとれるようにしてくださいね。
婆ちゃんもいなくなって寂しいときです。ママちゃんをひとりぼっちにしないように…
…。
ママちゃんは、ほんとうは寂しがりやだから……。
ママちゃん、そして、婆ちゃん、幸せになります。ほんとうにありがとうございました。
幸雄さんと、お母さんと新しい生活がスタートします。
麻葉のお母さん、これから、どうぞよろしくお願い致します。
麻葉の家であたたかい家庭をつくっていきたいとおもいます。
佐知子』
翌朝、雤の音で目が醒めた。昨日の晴天は嘘のようだ。
母は、お寺と石材屋と料理屋へ確認の電話をいれた。親戚は、祖母の姉とその息子、祖
母の妹、祖母の兄の息子の四人のみ。結婚式に出たけれど、用事があるのでと前の日に帰
った人もいた。母と叔父さまと私と暁子をいれて八人が納骨法要に臨むことになった。
雤は次第に小降りになり、十時半にはすっかりあがってしまった。十一時からの法要だ
から有り難い。
私はお寺へ坊さんをお迎えに行く役目だ。母と親戚の者たちは墓へ向かった。真新しい
墓に、坊さんの持ってきた祖母の骨壺を、石材屋が納め、母と暁子が花とお菓子を供え、
線香に火をつけた。
墓場に読経の声が流れた。彼岸花があちこちに群れている。咲きかけているのもあるが、
ほとんどは蕾だ。二十日は彼岸の入り、その日に合わせて一斉に咲くのだろう。いまごろ
姉は、昨晩宿泊したホテルから新婚旅行に旅立ったことだろう。
我が家の、めまぐるしかったこの一年。祖母の死と、姉の結婚で確実にひとつの時代は
終わった。今日からスタートだ。
婆ちゃん、新しい家の棲み心地はどう?
パダンの丘
イ
李
スク
淑
チャ
子
「パリは、ちょうど気持ちもよい時で、ホテルの窓からは、マロニエの木が見え、曇り空
の中に、エッフェル塔が浮かびあがるというお決まりの景色ですが、長ーい、長ーい間の
夢がかなって、毎日。うっとりと過ごしています」
サト子おばのパリからの手紙を続んで、淑子は、父とともに引越した、昭和区の二DK
の小さな、屋根裏のような貸し間で、ホッとため息をついた。どうして、こんなことにな
ったのだろう。
めぐみ
淑子一家は、庭つき一戸建ての、母の 恵 の祖父母が残した家で、三十年間を過ごした。
ちょうど三十年目で淑子が、日本人である百合川トオルと結婚して家を出て、亓年という
短い結婚生活を終えて出もどって、四十歳になるまでの亓年間を、父の譲、母の恵といっ
しょに過ごした。弟と妹はすでに独立していた。
リ ヤン
ゆずる
父は、本名を李譲といい、日本名を村川 譲 という。彼は、母の恵と結婚した三十歳ぐら
いから、貿易業を始め、若い頃は、韓国、台湾、香港、シンガポール、タイ、ビルマなど
ヤンバン
幅広く、取り引きをしていた。父の自慢は、自分は、両班の出であって、強制連行で連れ
られてきたり、経済的に困窮して日本に来たフツウの朝鮮人とは違い、ちゃんとした朝鮮
人留学生として東京のM大学を卒業したということだった。いつも李家の家系図を見せら
れて、淑子は両班のムスメとしての品位と威厳を保つようにと育てられたのだった。しか
し、カトリックのブルジョワ女子校育ちの淑子は、そのことをわずらわしく思い始め、結
局、学生時代の恋愛を実らせて百合川トオルと結婚したのだった。しかし、淑子の体に染
み付いた両班のムスメという誇りや「朝鮮人」というコンプレックスなどで、ゆきづまり、
結局、亓年で結婚は解消された。知り合ったのが十八歳、結婚したのが三十歳という長過
ぎた春が原因でもあろう。
「パパ、トリュフつていうチョコ、食べる?」
淑子は、デパートで買ったフランス製のチョコを父の譲にさし出した。
そうなのだ。こんなふうに、淑子はいつもヨーロッパにあこがれて、母の恵と譲が八千
万の借金を返済するために家を売って別层することになり、わずかの貯金を手にして、父
と淑子だけがこの屋根裏のような貸し間に引越すことになり、淑子がおサンドンをするこ
とになっても、淑子の作るのは、バジリコスパゲティとかシフォンケーキとか、西洋かぶ
れのものばかりだった。それで父の譲は、大なべいっぱいのテイルスープを野菜といっし
ょに煮込んで、毎日それを食べている。
そうなのだ。淑子は、トオルとの「長い春」の時もそうだった。そこらのブルジョワの
カップルのように、ホテルでの食事やドライブ、短い婚前旅行など、人生の「おいしい部
分」だけを三十になるまで食べ続けたのだ。一挙にドンと不幸が来るのも当たり前なのだ。
・
・
・
「パパ、トリュフってね、フランス製の木の子だから、要するに、パパのことよね。木の
子って、パパのご自慢の李ですものネ」
一
キャビア、フォアグラとともに、三大珍味と言われるトリュフ、そういえば、トオルと
の長い春の頃、カシワやミズナラの根もとを、それらの木のある山の所有者に数万円の謝
礼をして、トリュフ探しをしたのだ。
トリュフ採りが成功し、東北自動車道を徹夜して走りぬけ、やっと名古屋のトオルの賃
貸マンションにたどりついて、トリュフ料理を作った。強烈な、何ともいえない香りが、
あたりにただよったのを覚えている。十本ぐらいしか採れなかったので、スープ、オムレ
ツ、サラダにして食べた。いっしょに、ニンニク、パセリ、オリーブ油などを使う。ニン
ニクという食べものは、淑子には、ちょっとコンプレックスを刺激されるが、フランス料
理にして食べると刺激が尐なくなる。要するに淑子は、トリュフ探しのミニ豚といっしょ
で、ブーブーとトオルに不平不満を言って、家を飛び出したにすぎないのだ。
母の恵が、二人の様子が心配で、正月前に二DKの貸し間に様子を見に来たことがあっ
た。リンゴ、パイナップルの缶づめ、ステーキ用牛肉、駅裏で買ったキムチ、大きなシャ
ケ、野菜などが、白いマーケットの袋にいっぱい入っているのを持って来た。
「どうして、こんなことになったのかねえ」
母の恵は、
「ウッ、ウッ、ウー」と、慟哭した。淑子がトオルと別层中、持ち出した自分
の定期預金をくずして買いそろえた通販のダイニングテーブルのイスにすわって、レース
のついた大きな白いハンカチを目に当て、恵は泣いたのだ。ふだんは、明るくカラッとし
ている恵が、子供の前で泣くのは珍しいことだった。
淑子は、激しく慟哭する母がいやだった。こんなふうに慟哭する前に、父も母も打つべ
き手があったのに……。私は、イヤなのだった。人が慟哭するのが、飢えに苦しむのが、
自分の望みをかなえられずに、がっかりするのが。人が自分の望みをかなえるために、私
が必要であり、私の行動いかんによって救われるなら、私はできるかぎりのことをするで
あろう。
母は、私が幼い頃に与えてくれた「嵐が丘」のヒロイン、キャサリン・アンショーに容
姿が似ていた。というより、母は、外国の書物を読んで、女中とヒロインが出てくれば、
ヒロインになってしまう女なのだ。若い頃の淑子も、母によく似ていた。尐し鬼女のよう
な顔をしている母の妹であり、フランス人と結婚したサト子おばは、姉の恵へのコンプレ
ックスだけで育った。商売が失敗した譲と別层してスナックを経営することになった現在
の恵と、恵のムスメで、若い頃は、ホイッスラーの「シシリー・アレキサンダー嬢」のよ
うだった淑子が離婚をして、一文なしに近い父と二DKの貸し間で暮らしているのを知っ
て、多分、サト子おばは、今は勝利感に酔っているに違いない。
ところでサト子おばの最近の手紙には、「コクテール」「クライミング・クリストファー
ストン」
「ヘレン・トローベル」「葉山嘉樹の船貝の話」とか、淑子にはわけがわからない
内容のものが多い。サト子おばの最近の話でわかるのは、「日本人は全般的に、寺小屋など
が江戸時代から発達し、文字が一般の人にも普及していて、論理的思弁の基礎が明治初期
にもできあがっていたと同時に、そろばんなども一般化していて数字の才にもすぐれてい
る」とか、
「知性とは、かなりの幸福を約束するものであり、トシちゃんは、自分の父、母
・
・
・
・
を手紙で批判するのはよくない。それは、神に対してセンエツ(presumption)な行為だ」
ゆううつ
とか、
「実は、在日韓国・朝鮮人と同様、日本人全体も、大変な憂鬱を抱えているのではな
いか。千年以上の歴史、せまい国土、短い足……。誰もが、日本から逃げ出したいという
気持ちで、いっぱいなのだ」とかいう日本人論。こういう話題だ。
それで、淑子は、
「耳もとのささやき、小鳥の群れ、トゥイギー。羽色は鮮やかにして、
うすくれない
しかも淡く、 薄 紅 に満ちるハート、くり色の巻き毛、指にからませ、笑いさざめく。恋し
きは、かの人の胸に燃ゆるセイント、セイント、セイント……。乱れ髪すく ancient comb、
ハッピーなピリオド」などという、中学部の時の文芸クラブの雑誌に掲載されたのと全く
成長のない詩をサト子おばに送ったりしている。
このあいだ淑子は、別れた夫のトオルの夢を見た。夢の中でトオルはこう言っていた。
「正直にいおう。ぼくは、ちょっときれいで可愛い女の子と恋愛して、学生時代の愛の思
い出を作りたかっただけなんだ。要するに一人前の男になるためにチャンとした過去が欲
しかっただけなんだ。それでぼくは君と結婚し離婚したのだ」
それじゃまるで、私は「カモ」だったではないかと、淑子は、アップアップとふとんの
中で苦しんで目が覚めた。
そういえばこんなこともあった。
淑子がポテトサラダに入れるロースハムときゅうりを刻んでいる時だった。トオルから
の電話だった。トオルは、
「君は、本当に、いろんな表情をする女だったネ」と言った。
「えっ、どんなふうに?」
「能面みたいな表情や、素朴で子供のようにあどけない表情や、理知的で考え深げな表情
や しゃ
や、そうして、きかん気な。阿修羅か夜叉のように見えたこともある。普段の君の方が、
女優のようだった」
淑子は、ダイニングテーブルに、ベージュのクロスをかけながら、
「あら、そうだった?」
と、適度に相づちを打ちながら聞いていた。
トオルの話では、二度めの結婚も、離婚に終わったそうだ。トオルは、ちょっと名の売
れた脚本家になっていた。
二人は学生時代、素人劇団の劇団員だったのだ。そうして共演をして結ばれたのだ。淑
子自身は、その頃は、鼻もちならないおジョーサマ意識とうぬぼれでいっぱいだった。淑
子は、トオルの精一杯のお世辞と求婚に参ってしまっただけなのだ。周囲の反対は、相当
のものだったが……。
そういえば、女は、ホンのささいなことで、レディやおジョーサマになってしまう。「嵐
が丘」のキャサリン・アンショーが、リントン家へ行って、すっかりおジョーサマになり、
ヒースクリフのことを忘れるように。ヘプバーンのサブリナが、料理学校へ行って帰って
来た時、隣のミヨちゃんが、高卒でも有名企業に入った時、淑子が寄宿学校から帰った時
も同じだ。
だけどサブリナは運転手のムスメだし、隣のミヨちゃんは下級役人のムスメだし、淑子
も、ヤマ師でキザっぽい在日韓国人の実業家のムスメだ。ホンモノのおジョーサマの、キ
ャサリン・アンショーともまた違うのだ。
そういえば最近の淑子は、キャサリン・アンショーどころか、
「チャタレイ夫人の恋人」
に出てくるバーサ・クーツか、よく言えば、NHKの大河ドラマに出てきた、信長の正室
の濃姫のように、ピョコピョコと、左足をひきづって歩くようになってしまった。という
のは、淑子は尐しばかり、左足が右足より長いのだ。幼い頃、中途半端に、バレエなんぞ
をやったせいだ。この、ちょっと長い左足のせいで、淑子は、離婚したといってもよい。
左足の音をたてないように歩く前は、淑子はバタンバタンと大きな音をたてて歩いてい
たのだ。この、人より尐し大きな音をたてる長すぎる淑子の左足をキッとにらんで、新婚
で買った分譲マンションの隣人の为婦が、
「あちらの方は、と言われないように」と言って、淑子のそばを通りぬけたのが発端だっ
た。
「となりのおばさん、そんな人じゃない。ぼくは、となりのおばさんに味方する」と、ト
オルははっきりと言い切ったのだった。
淑子は大変なショックを受け、頭が、幼稚園児か小学生のように退化してしまった。そ
れで、
(ようし、私は、今日からウサギになるぞ)とばかりに、無理に日本人のまねをして
正座をしたり、
(ようし、私は、今日からネコになるぞ)とばかりに、結婚生活中は、左足
音がたたないように、右足に体重をかけて、バーサ・クーツのようなびっこのまねをして、
そっと歩いたのだった。淑子は、トオルと、隣の为婦に反発したのだ。今から考えると、
まるで、三歳の幼稚園児のような反発の仕方と抵抗だったが、(猫だ、猫だ、私は猫だ。や
っと、日本人の猫民族に仲間入りだ)と、トオルと隣の为婦に対する憎しみと反発は最高
潮に達し、結局。いろいろあって、日本人であるトオルとの結婚はおわりとなった。
三歳の幼児のような女の離婚の真相は、こうなのだが、他にも理由はある。あまりに完
璧に家庭的であろうとしたのもいけなかった。韓国人であるというコンプレックスと日本
人への反発が、日本の習慣を強制する相手家族によって助長されたりもした。
ある日の夕方、淑子は何かもやもやして、屋根裏のような貸し間から飛び出した。一階
と二階の大家の家では、兄弟ゲンカの声がする。オランダ風のしゃれた洋館なのに、中に
住んでいる人間は、やっぱり日本人だ。
大家の正門の下には、長い坂がある。
淑子は、やっと猫民族から解放されて、パダン、パダンと、大きな足音をたてて、坂道
をかけおりた。フランス語で、シャンソンの「パダン、パダン」を口ずさみながら・・・・。
C'et air qui m'obséd
jour et nuit
c'et air n'est pas, ne
d'aujourd'hui;
Il vient d'aussi
loin que je viens
Trainé par cent
mill' musiciens
Un jour cet air me
rendra folle
Cent fois j'ai voulu dir'
pour-quoi;
Mais il m'a coupé la
parole Il parle toujours
avant moi
Et sa voix couvre ma voix
Padam, padam, padam
あなたは 私に 世の中を一回転させるのネ。
私の回転木馬、それは、あなたよ。
私は、いつも、愉快に、あなたに ついてゆく。
いつ あなたは 私を腕の中に つれてゆくの?
パダン・パダン・パダン……。
淑子は自分自身を取り戻すように、再び、自信に満ちて、歩き始めた。
邂逅と永訣
――村松武司とのこと――
ま
せ
間 瀬
のぼる
昇
それは希有と思われる偶然の出会いであった。
一九九二年八月七日から十日まで、新日本文学会为催の「海の文学セミナー」が、渥美
半島の伊良湖岬で開催された。催しは毎年各地で行われているようだったが、私はその年
はじめて参加したのであった。
前年の一九九一年四月から、私は磯貝治良が为宰する名古屋の「在日朝鮮人作家を読む
会」(以後「読む会」と書く)の会貝になっていて、「海の文学セミナー」のことはその会
で知った。
「読む会」に参加して一年と尐々経っていて、在日の作家やその文学、古くから
の朝鮮の歴史、あるいは日本との交流、その他についての、知識の欠落の多さに気付かさ
れていて、学ばなければいけない、とつくづく感じ、積極的にそのセミナーへの参加を決
めたのであった。更に言えば、私はいわゆる日帝時代の朝鮮京城(現ソウル)に生まれ、
敗戦の年一九四亓年成人するまでその地で暮らしていた植民者二世であって、それら知識
の欠落は、日本内地に住み成人した人々のそれと比して、はるかに深い恥だと意識したの
である。
仕事の合間を縫っての参加であって、セミナーに予定された期間は四日間であるが、私
か出席できたのは八月八日(土曜日)の午後だけで、翌九日の朝食後辞去した。
八月八日十一時すぎ、私の住む四日市市から近鉄電車特急で鳥羽市へ出、鳥羽港から高
速船で伊良湖へ向かった。台風十号が接近していて、時折雤滴がパラパラと高速船の窓を
打った。伊良湖へ着くと「龍宮之城」という建物を目指した。そこでは杉浦明平の講演が
予定されている。入るとそこは学校の講堂を思わせるかなりの広さで、正面にある演壇も
広く、三、四十人の人が腰を下ろしていた。
「戦後文学を語る」と題された氏の講演は、私が期待したような内容ではなく、氏が親し
くしている陶芸家加藤唐九郎についてのくだけた話に終始した。文学という堅い話を遾け
て、はるばると参加した人々へのサービスをと意識しての話題を選んだのであろう。
その講演の後に定められているプログラムはなかった。夕食までにはまだ時間があり、
講堂の聴衆はそのまま動かず座っていた。間もなく一人の男が、司会進行役の紹介もなく
演壇に立った。姓だけを名乗ったがはっきりとは聞きとれない。限鏡をかけた丸顔の中肉
中背、さっぱりとしたポロシャツ姿の親しみを持てる風貌、前置きもなく彼は語りはじめ
た。何を語るのであろうという思いで私はその人を見ていた。後になって思いあたるのだ
が、このころ彼は『新日本文学』の編集長をしていて、会場に集っている人々の多くはそ
の会員で、彼を知る人は多かったのであった。
語りはじめて間もなく、彼の口から、あの戦争中よく歌い、ほとんど誼んじているとい
っていい軍歌の一節、二節が出てくる。
ぬかるみ
どこまで続く泤濘ぞ
み っかふ たよ
しょく
な
く
三日二夜を 食 も無く
あ めふ
てつかぶと
雤降りしぶく鉄 兜
いなな
嘶 く声も絶え果てて
倒れし馬のたてがみを
かたみと今は別れ来ぬ
と う ひ こう
「討匪行」だ、と私は気付いた。気付く、というより、古い記憶がまざまざとよみがえっ
た。時折、何やら説明を加えながら、つぎの歌詞が彼の口をついて出る。
やまかい
今日山峡の朝ぼらけ
かそ
細く微けく立つ煙
ここで彼は絶句する。つぎの一行の歌詞を度忘れしたようだった。
「さて、このあと何だったか」
と呟いたのが聞こえたとき、私は思わず壇上の彼に向かって、
は
「賊馬は草を食むが見ゆ」
と声をあげていた。間髪を容れぬとっさの発語だった。講演者に対しての礼を失する、
などと考える抑制の気持ちをなくしていた。
壇上の彼と、十メートルとは離れていない。私の声は充分に彼に届いていた。ふっ、と
聴衆のなかの私を見て、
「学校の先生のようですね」と言い、彼は言葉を続けていった。
このとき、
“あ、あの人は村松武司ではないか”と私は思い、その直感は“そうにちがい
ない”とすぐ確信にかわったのだった。
私の傍らには磯貝治良が座っており、壇上の人が村松武司であるかどうかは、彼に訊ね
ればすぐわかることであったが、私は訊ねなかった。磯貝治良は村松武司を、新日本文学
の会その他を通じて、よく知っているはずであった。あの人は村松武司だと、直感で私は
決めてしまったのだ。第六感とはこのようなものか。この日まで彼とは一面識もなく、写
真も見たことはなかった。ただ磯貝治良から村松武司が詩人であり、私と同じ京城に住ん
でいた人であること、出身の中学も同じらしい、ということは聞いており、私は中学の同
窓会名簿で、たしかに彼が一級下だったことを確認していた。機会あれば一度会いたい、
と思っていたのだった。
彼と私が同じく学んだ京城中学時代、毎年夏のある一夜、かつて豊臣秀吉が朝鮮に派兵
した文禄慶長の役(壬辰倭乱)の古戦場と伝えられる、碧蹄館までを往復する徹宵の夜行
軍が行われ、それは十里を越える行程だったと記憶するが、隊伍をととのえ歩を進める折々
に、眠気を払い士気を鼓舞するため、軍歌を歌わせられることがあった。もっともよく歌
ったのが「討匪行」であった。
あの一瞬、演壇に立った人が「討匪行」の一節につまずいたとき、あの夜行軍、中学時
代、そして村松武司と私とが結びついた。理屈ではなくひらめきであった。軍歌「討匪行」
が私の第六感を触発したのであったろう。
彼の講話は間もなく終った。気もそぞろだった私には、その内容について、印象の欠片
もないといってよかった。聴衆に向かって一礼した彼は壇を降り、その会場を出て廊下に
消えた。ほんの尐時、私は躊躇したが、すぐに彼の後を追った。廊下は土産物売場に通じ
ていて、売場の手前で私は彼に追い付いた。その後姿に声をかけた。
「失礼ですが村松さんでしょうか」
振り向いた彼に私は正対した。
「間瀬と申します。京城中学出身です」
言いながら、用意していた名刺を彼に差し出した。
“何だろう、何者なのか”そう思ったに違いないが、
「京城中学出身です」の一語が、し
っかりと彼を呼び止めたにちがいなかった。母校を失った私たちの母校眷恋は強い。
私の名刺には、医師である身分と、『海』という文芸同人誌の为宰者であることが記され
ている。私もまた貴方と同じく、文芸にかかわっている人間であるということを、早く気
付いてほしい、と思った。そして、名刺を受け取り私を見た村松武司は微笑しており、“な
ぜ”“どうしてここに”“中学同窓とは”などの疑問を早く聞きたい、といった表情で、腰
を降ろせるような場所を、と目が身振りが示していた。しかし今まで会場にいた多くの人々
が、相次いで廊下に出てきて、彼に声をかけ、あいさつする人も多く、その場でゆっくり
と話はできず、夕食後を約して別れた。
このセミナーに参加した人はその日は約亓十名、その全員が一緒に夕食をとれる広い部
屋はなく、小部屋に分散して夕食を摂った。夕食後、ふだんは引込思案の私だが、積極的
に村松武司と磯貝治良に声をかけ、酒やビールも注文すれば出してくれる娯楽室といった
ふうの畳敶の部屋へ誘った。生ビールの大ジョッキを注文し、乾杯と言って軽くジョッキ
を触れ合わせ、飲みはじめた。三人にとくに共通の話題が弾んだわけでもなかった。何を
語り合ったのだったか記憶はいま鮮明にはよみがえらない。ただ村松武司と私はあらため
て中学同窓であることを確認し合い、生年月日を告げ合った。彼は一九二四年七月生まれ、
私は一九二亓年一月生まれ、私のほうが半年遅く生まれているが、俗に言う早生まれで、
二人は同級生のはずであった。だが中学入学のとき彼は一年おくれて入学しており、卒業
は私のほうが一年早かった。
「病気でもして休学されたのですか」
と訊ねる私に、
「小学亓年生のとき、いまで言えばいわゆる登校拒否をしましてね」
と彼は苦笑気味に言った。この人はずいぶん早熟だったのではないか、ふっ、とそんな
思いが私の胸に湧いた。
ぼつぼつ酔いがまわってきていた。私が医者ということもあってか、彼は自分の病気の
ことを控え気味に言う。
「狭心症と腹の中に大動脈瘤がありましてね、いま治療中、くすりをのんでいるんですが、
手術をすることになるかもしれません」
そう聞いて私はとっさに彼の左の手首を持ち脈膞をみた。酔いで抑制を失い、日頃の職
業意識が出た行為だった。
「血圧は? 高いのでは」
彼は答えなかったが、突然脈をとった私の行動におどろいたようであった。
――アルコール類は彼にはいけないのだ――
という思いが私の胸をよぎったが、偶然の奇遇に高揚した気分のまま、私はビールのお
かわりを注文し、彼にもすすめたのだった。
私たちの他にも二、三のグループがたむろし、飲み合ったり歓談したりしていたが、そ
の娯楽室も午後九時で閉められるということだった。そしてめいめいは割り当てられた寝
室にひきあげなければならない。酔いが高まってきていて、おとなしく眠る気になれず、
私は二人を私に割り当てられた寝室に誘い、自動販売機で缶ビールを買ってきて更に飲ん
だ。寝室と自動販売機の間を何度か往復した。私は完全に酔ってしまった。あげくに、隣
に座っていた村松武司の腕を持って立ち上った。
「村松さん、歌いましょう、あの討匪行を歌いましょう」
私たちのほかにも三、四人が円座になっていた。そして酔ってしまったのはどうやら私
だけのようだった。
「私は軍歌は歌いません」
一旦は私に腕をとられて立ち上った村松武司は、そう答えて座った。
――やっぱりそうか――
私は胸の中で彼の答えに納得していた。私もこういうとき、軍歌は歌わない为義だった。
しかし酔いが高まったとき、その抑制も失なうことがある。私は「討匪行」を歌って行軍
した中学時代に、彼とともに戻りたかったのだ。私たちの青春といえばそんな時代でもあ
った。共に歌うことを拒絶されても、私はがっくりともしなかった。そして破廉恥にも私
は一人立ってその歌をうたったのだった。上手でもない私の歌はその座を白けさせ、間も
なく別れ別れにおのおのの寝室に退った。すでに午前二時近かった。
翌日私には予定があり、早く辞去しなければならなかった。朝食をかき込むとい離れた
場所で朝食を摂っている村松武司に歩み寄り、握手して別れを告げた。そしておたがいに、
また会うことを約したのだった。部屋を出るとき振りかえると、彼が私に手を振っている
のが見えた。それが永訣となった。彼の死はこの日から約一年後のことであり、私が彼の
死を知ったのは、それからさらに亓か月後のことであった。
※
その後の彼とのことは、メモ程度に記している私の日記と、数回交した書簡によるほか
はない。
八月九日 日曜日
くもり雤のち哨
朝食前、村松氏と尐々語る。朝食後、村松、磯貝両氏に別れを告げ、九時二十亓分発の
高速船に乗る。途中の直売場でメロンを買う。鳥羽発十時四十分の電車、四日市十二時十
分着。
(註 これは前記した別れの日のこと)
八月十一日 火曜日
くもり後雷雤
伊良湖で会った村松武司氏に、私の作品集Ⅰ、Ⅱ送る。
『海』45 号も一冊送る。
(註
作品集Ⅰ、Ⅱとは、一九八七年一月、自費出版した評論集『孤
魂の作家私論』と創作集『青春残記』
)
八月十三日 木曜日
くもり
村松武司氏より約束の本『新五徹全仕事』贈られる。すぐ礼状(ハガキ)書く。(註 新
五徹とは詩人。
(一八九九~一九四四)本名内野健児、長崎県対馬厳原町生まれ。朝鮮大田
中学、京城中学に勤務。詩誌『耕人』
『亜細亜詩脈』
『鋲』、朝鮮芸術誌『朝』を刉行、第一
詩集『土培に描く』は発禁となる。一九二九年八月、後藤郁子と『宣言』を出し、ナップ
に加盟。詩集に『カチ』
『单京虫』などがある)
『新五徹の全仕事』は一九八三年、創樹社刉。副題に――内野健児時代を含む抵抗の詩
と評論――とあり、大江満雄と小田切秀雄が序文を書いている。二段組亓八九ページの大
冊。村松武司はこれに「内野健児=新五徹の詩」と題した詳細な解説を書いた。大江満雄
が書いた序文のなかに〈内野健児の勤めた京城中学校卒の朝鮮生れの詩人(「朝鮮海峡」の
著者)村松武司さんの熱心な助言協力、先輩詩人森山啓さんはじめ、永瀬清子さん、詩精
神グループの文をおさめることができたことは幸と思います〉とある。村松武司がこの著
書発行に熱情を傾けたことがわかる。
私はこの本を読み、村松武司の解説を読み彼に感想を書き送った記憶があるが、コピー
はなく、どのように書いたかの記憶も失われている。贈られたこの書に添えられた村松武
司の手紙はつぎのように書かれていた。
一九九二年八月十一日付、村松武司より間瀬昇宛
伊良湖では、大変うれしい機会を得ました。
もっと夜を徹してお話を伺いたく思いましたが、いまになって心のこりを感じます。
中学の、むかしの教師、私たちには縁のうすい人でしたが、新五徹の全集、何をおいて
も、貴兄にお送り致したく思いました。
厄介なものですが、おうけ下さい。
どうぞお体をお大切に。
同じく一九九二年八月十一日、前述したように私の著書二冊を村松武司宛贈呈したが、
それについて、八月二十日夜電話があり、小説集『青春残記』がとてもいいですね、と言
われた。またこのとき、近く発刉される『新日本文学』の復刻版を購入しないか、と言わ
れ、いただく、とすぐ返事をした。
一九九二年九月二十亓日付、村松武司より間瀬昇宛
「海」46 号を拝見しました。
「生きるということ」は、いま現実のわたしの傍の問題であり、
昨日、一人の飲み友達を見舞って、ガンセンターから戻ったばかり。昨日は新宿の飲屋に
も寄る気持もなく暗澹と歩きました。さて、あなたにお会いしたあと、私も何となく楽し
く、つらい原稿であったはずの「娼婦たちへの返事」(新日文)を書き、あなたにお会いす
る数日前まで旅していた対馬の紀行文も書けました。「生きるということ」に書かれてある
ように、私にも、やり終えなければならぬことが、迫ってきています。まことに乏しい営
みです。
(註 「海」46 号とは私が为宰発行している文芸同人誌、それに私は「生きるということ」
と題して、肺癌で苦しみ抜いて死んだ、二歳上だった兄について書いた)
一九九二年十一月十七日
火曜日
晴
村松武司氏よりハガキ、東京女子医大病院へ入院しているらしい。お見舞でもしなけれ
ばと考えている。
(註 このときのハガキは失ったのか手許にない)
一九九二年十一月二十八日付、村松武司より間瀬昇宛
お手紙感謝いたします。慌だしい入院で、わたしも用意ができず、貴兄にぜひ読んでい
ただきたかった旧作のコピーも間にあわず、それを送ることができません。京城中学の二
人の教師、佐々亀雄と山口正之両先生のことを書いたものがあり、前者は閔妃虐殺事件の
関わりで、後者は露館播遷との関わりでふれた原稿です。もうひとつ「わたしの戦争詩」
という長いエッセイ(これも京城中学の最後の頃)があり、貴兄のご意見を仰ぎたかった
のが、残念です。体は、客観的に、よくないことがわかりました。しかしこのまま、死ぬ
わけにはまいりません。物が書ける状態まで、かならず復帰して(多尐は紅灯の巷も歩け
るように)議論したい。直ったら四日市にまいります。コピーも何とかさがしてもらって
おくります。
一九九二年十一月二十日 金曜日
終日雤
村松武司氏に手紙を書く。
(註 この手紙もコピーはとっていない。入院を知らされたあ
となので、お見舞を書いたのだろうと思う。
)
一九九二年十二月二日付、村松武司より間瀬昇宛
点滴をうけながら不自由な恰好で書いています。古い原稿のコピーを同封しましたが、
かくべつに手術をまえに急いでお見せする性質のものではありません。古きよき時代、あ
なたが十分に、わたし以上に知っておられる「京城」について、私も共有したく送ります。
手術は東女医の本院で。予定は迫っています。いつ、表記の病院から、本院に連行され
るかわかりません。
(註
この手紙といっしょに四作のエッセイコピーが同封送付された。つぎに記したも
のである。
「詩をなぜ書く」
、一九七九年十二月『コスモス』27 号所載。
「朝鮮に生きた日本人」――わたしの京城中学――『季刉三千里』No21、八十年春号所載。
「わたしの戦争詩」
、一九八亓年四月『コスモス』48 号所載。
「わたしの〈討匪行〉
」
、一九八六年九月『コスモス』54 号所載。
なおこの便りは、東京都港区北青山二ノ七ノ十三、東京女子医大 青山病院 四二〇 よ
りとなっている)
一九九二年十二月七日付、間瀬昇より村松武司宛
先日はお葉書ありがとうございました。
なかの、
“体は客観的によくないことがわかりました。しかし、このまま死ぬわけにはま
いりません”への文言がまことに気になり、一度ぜひお見舞に参上しなければ、と強く思
いました。東京といっても日帰りは十分可能なのですが、十二月の日曜日はほとんど予定
があり、亓日の土曜日にと思いつつおりましたが、午後、身体が空くのが遅くなり、とう
とう断念しました。
よくなったら四日市に行く、とのこと、お待ちいたします。ただ、それまでにも、私が
上京の機会あれば寄らせていただきます。お手数ながら病棟病室の番号など、お知らせい
ただければと存じます。
『新日本文学』の秋号を読ませていただきました。
「娼婦たちへの返事」繰り返し読みました。感動しました。
目次には評論となっていますが、小説としていいのではないでしょうか。文章が生き生
きとしており、さすが詩人の文だと思いました。私など遠く及ばないものを感じました。
同じ時代を歩んでいながら、自分は何と甘っちょろい歩みを歩んできたのか、と反省させ
られました。
終りのほうの文「あの夜、流民の尐女を見限って別れたことは、じつは青年のとき、民
衆に銃をかまえる想定から目を外らせたことと、どこかで関っている」、この自己剔抉に打
たれます。
はじめのほうの、従妹と別れるときの、「彼女が、わたしから受取るそれ以上に、一冊を
選ぶことによってわたしが何かを与えられたことがわかった。これが性であったのか、性
とはわたしにとってはじめての形而上学であった」の一文も、やや抽象的表現ながら、作
者の思いはよく伝わりました。村松さんの作品はこれまで何も読んでおりません。『新五徹
の全仕事』の解説だけです。むかしのものも、できれば読ませていただきたい、と思いま
す。
「戦争と性」の座談会で、川田文子、徐京植氏らが、従軍慰安婦問題について、当時の政
府や軍部のやり方に批判、攻撃の舌鋒を向けていますが、私たち軍に尐々でも関ってきた
者は、同感の思いはあっても、無言であるしか仕方がない、そう思います。慰安婦経験は
全くないのですが、加害者側なのでしょう。
在日朝鮮人問題にしても、何を言っても、自分たちは過去にも安全地帯におったし、い
まもそうだ、という忸怩たる思いがあります。
いろいろ教えていただきたい、と思っております。
何はともあれ、快癒されることをお祈りします。
くれぐれもお大切に。
(註
この便りに書いたように、お見舞に行かなければ、どうしてもお見舞したい、と
強く思い、ずっと思い読けていた。理由はともあれ、亡くなるまで行かなかったまま終っ
たことは、悔やみきれない。詫びて許されることでもない。
)
一九九二年十二月十四日付、間瀬昇より村松武司宛
十二月二日付お便り、十二月九日いただきました。私の手紙とおそらく行き違いになっ
たものと思われます。そのお便りによりますと、いつ本院に連れていかれるかわかりませ
ん、とあり、ひょっとすると、いやほとんど間違いなく、手術がすでになされている、と
考えます。術後の、たいへんに苦しい一日一日を過ごしておられることと思います。どう
かがんばって下さい。
コピーをたくさんにお送りいただきありがとうございました。
いただいてすぐに読みはじめ、中断することもできず、没入してすべて読み了え、また
ゆっくり読ませていただきました。
京城中学の山口正之、佐々亀雄、両先生のこと、もちろんおぼえておりますが、先生と
生徒であった、という以外の関係は私にはなく、閔妃暗殺事件や露館播遷のことなど、当
時は全く知らず、貴兄の幅広い知識におどろきました。
山口先生は細身で背の高い、真面目そうな人で、授業は受けましたが、とくに記憶に残
る特異な思い出もなく、なぜか几帳面な楷書体の字を書いた人だった、という印象が一つ
だけ残っております。青柳という数学の先生もそうでした。佐々先生はもちろん知ってい
ますが、授業は亓年間を通じて一度も受けなかったと思います。国語はずっと、あのよく
肥えた今淵という先生でした。
『閔妃暗殺』は先年、角田房子の著作を読んだ記憶が残っており、佐々正之、与謝野鉄幹、
鮎見房之進、三浦梧樓、李尐年の父、のつながりなど驚きました。
「詩をなぜ書く」というエッセイにも感銘しました。
“わたしが、自分が記憶し得たことを、他者に表明するという、自为的な行為ではなかっ
た気がする、むしろ、自分の感じたり考えたりしたことについて、解釈を他に求める、と
いう欲求からであったような気がする”、あるいは、“なぜ詩を書くのか、という問いに対
して、わたしは自分の心の中の深部を、それを理解する唯一の第二人者に語るためだ、と
思っている、あたかもそれは、わが病理を、自分に似た第二人者に対して語り、自分に似
た第二人者による診断を受けるため、といっていい”、などという披瀝に共感があります。
「わたしの戦争詩」は、亓十枚を越えるエッセイだと思いますが、弱年から七言古詩を作
っておられること、
「仁旺ヶ丘出陣の歌」など友人たちに愛誦された詩を作っておられるこ
と、などに驚きました。
「小さなラッフルズ」
「性と暴力」
「二人の朝鮮詩人」など興味深く、
「韓国軍人との一夜」で、曹文煥や中島勝太郎、嶋元謙郎などの登場もあって、貴兄を交
えた腹を割った対話にも惹かれました。伊良湖でお会いした夜に、中島勝太郎が佐郷屋留
雄の息子だと聞いたことをはっきり覚えておりますが、彼にもこのエッセイは見せたので
しょうか。
伊良湖といえばあの夜、私は酔ったあげく、自販機で何度もビールを買い、二階の部屋
にはこび、二階の人たちもいつの間にかふえてきて、私の知らない人ばかりでしたが、私
か酔った勢いで貴兄の腕をとり、“歌「討匪行」をうたおう”と言って立上ったとき、「私
は軍歌はうたわない」と貴兄ははっきり言いました。“やっぱりそうか”と内心私は思い、
腕を組んだまま寝室へ行き別れました。私にも軍歌をうたわなかった時代がありました。
寝室へ行き別れ、私はまた一人あの部屋へ引き返したのです。そして“歌う″といったの
ですが歌詞が出てきません。そのまま数分立ちつくしていて、やっと歌詞を思い出し、う
たいました。
こんどお送りいただいたコピーのなかの「わたしの討匪行」を読みはじめ、おどろきま
なきがら
した。私か立上ってうたったのは「討匪行」の 14 番、
「敵にはあれど遺骸に/花を手向け
ねんご
て 懇 ろに/興安嶺よいざさらば」の一節でした。あの歌が出てくる雰囲気が、あの場にあ
ったのかもしれません。前後の関係は覚えていず、その一節だけうたい、私は寝室へ引き
あげ眠りました。
翌朝、目ざめて、前夜のことをにがい思いで反芻しました。悲壭ぶって歌ったあの一節
は、いわゆる匪賊を討つという大義名分で殺した無辜の中国民衆の屌に手を合わせた、と
いう日本軍人の、自分の罪をさえ認識することなく歌っている、罪深い感傷の歌にすぎな
いではないか、と。
「わたしの討匪行」のなかで貴兄はそれをはっきり指摘しておられる。
あの場にいた人々は誰々だったか、そんな歌だとわかっていた人がいたかどうか、どうか
わからずにいてほしい、卑怯にも私はそう思いました。
「討匪行」などという歌を、若い人は知らないはずだ、そう考えたのですが、私と同年代
あるいはそれ以上の人として、針生一郎さんがあの場にいたように思います。
それまで「討匪行」など一度もうたった記憶のない歌を、よく思い出したものだ、とい
ささかおどろいたのですが、あの日の昼の貴兄の話に誘発されたものだったのでしょう。
「軍歌論(一)
」とした「わたしの討匪行」を読み進んでいて、本当にびっくりいたしまし
た。
いろいろ長く書きました。元気に回復されて、ゆっくりお話し合える日を待ちたいと思
います。
一日も早いご快癒を祈っております。
一九九三年一月十九日付、村松武司より間瀬昇宛
ごぶさたおゆるし下さい。人騒がせな病気で散々ご心配をおかけしましたが、ようやく
亓日まえに退院致しました。
冠動脈三本のバイパス手術は大変うまく行われたようで、体はすっかり楽になりました。
あとは、薬による血圧降下剤やら、ワーハリンによる生活管理、水分や食物摂取が大変む
つかしく、ようやく馴れはじめたところです。
思えば、伊良湖の宿で、貴兄がわたしの手首を持って下さって、血圧は高くないのか、
とご心配になられたことが印象ふかく、それまで自分は高血圧症だとは思いもしなかった
ので、いまでは貴兄の目の凄さに驚いています。
病院にいるあいだ、三度の病院食がつらく、膳をみると嘔吐感がするほどでしたが、い
まはようやく食べることができます。しかし食は細くなりました。胃袋が小さくなったの
かと不思議です。昨日から。足の甲や、スネが尐々むくんでいます。病院に電話して訊ね
ましたら、大したことはないだろうとの返事でした。
これから、体力を回復してゆかねばなりません。まだ家の中をうろうろする程度で、も
う尐し天気がよくなれば、門の外に出て、道を歩くようにします。
二週間後には、東京女子医大の付属の渋谷の成人病センターに、外来で通うようになり
ます。
こうして、もとどおりでなくても、体がつよくなれば、外来に通いながら为治医に、つ
ぎの手術の手続をして頂きます。
つぎの手術とは、腹部の動脈瘤で、いまは径亓センチを越えております。この手術、人
工血管による内側の強化のようで、これまた厄介なものをかかえこんだものですが、せっ
かく心臓周囲の手術をして拾ったいのちなので、これもまた、越えなければならぬ山と思
っておりま
す。
さて、このようなわたしの体を最初から診て下さった方が、貴兄にも関係のある医師で
す。
京城中学の貴兄の同級に、花園直人という学生が层たと思います。京中から城大へゆき、
戦後九大を出て、鳥取大学へ勤めました。いま、米子市で花園クリニックという循環器専
門の病院をやっています。
花園直人さんの女房は、じつはわたしの、つぎのつぎの妹です。
今回のわたしの手術には、花園病院からの資料が添えられていました。彼のおかげでし
た。
思えば、昨年の夏から不思議な縁で貴兄とのつながりを得ることができました。昔なら
ば偶然と思って済ますことが、いまでは遠い地点での必然のように思えます。
今年は元気になって、来年には四日市に旅をしたい、そのような空想にひたっておりま
す。
お元気でいらして下さい。
ではまた。
(註
この手紙に書かれてある花園直人医師は、私と京城中学一年のときから亓年まで同
級であった。村松武司の義兄にあたる人だったとはまったく知らず、この便りではじめて
知った。鳥取大学の内科の教授をしていて、循環器専門の病院を開業し、盛業中と聞いて
いた)
一九九三年一月二十六日付、間瀬昇より村松武司宛
一月十九日発のお手紙、くりかえし、何度も読みました。安心しました。
昨年十二月九日に、いくつかのエッセイのコピーをいただいたきり、でしたので手術を
受けられたにちがいない、とは思いながらも、心配でした。いまは、点滴その他の管につ
ながれて回復を待っている、というそんな状態だろう、などといろいろ考えました。手術
後の日々も何かと大変だったことでしょう。
冠動脈三本のバイパス手術を受けられた由、たいへんなことでしたね。しかし、以前よ
りすっかり楽になられたようで、よかったと思います。
お手紙にありましたように、回復された後は動脈瘤の手術を受けるべきだと思います。
花園直人兄が義兄にあたる、とのことにも驚きました。花園兄とは京城中学亓年間を通
して同じ組になったことはなく(私の覚えですが)
、しかし彼は学業がよくできたので、私
は一年のときから記憶にありました。彼のほうは私を記憶していないかもしれません。
ただ、十年以上も昔のことになりますが、大阪でクラス会があったとき、卒業以来はじ
めて会いました。鳥取大の教授をやめて、心臓専門の病院を開業したころではなかったか、
と思います。そのとき、冠血管拡張剤について、彼に一、二たずねた記憶があります。い
まは米子市でもっとも盛業中の医師として有名だと思います。彼がついておれば、今後の
フォローその他についての十分な助言が得られることでしょう。何よりと存じます。
お見舞にも参上いたしたく思いますが、お会いすれば、いまはまだ何かと疲れることに
なると思います。ゆっくりと養生され、動脈瘤の手術も終えられて、十分回復されたとこ
ろで、気が動きましたら四日市にお越し下さい。それまで待つことにいたします。
いまインフルエンザ尐々あり。いつもよりは幾分多忙といったところです。ではくれぐ
れもお大切に。全快を祈念いたします。
村松武司と私の往復書簡はこれが最後となった。
彼の死を知るのは、私が彼宛に出した手紙から一年後、一九九四年の一月二十三日のこ
とであった。
この日、毎月開催されている「読む会」の例会が、いつもの会場名古屋市中区栄町のY
WCAで行われた。テキストは鄭承博の『裸の捕虜』、十一人が集い、感想、批判など活発
に出て午後亓時散会、有志七、八人が栄町地下の层酒屋に行き、いつものように尐々アル
コールが入る。この席で、磯貝治良から村松武司の死が語られた。とくに村松武司につい
て語っていたわけではなく、話題は何だったか思い出せないが、
「村松さんも亡くなったしね」
磯貝治良がぽつんと言った。
一瞬私は耳を疑った。
「村松さん、亡くなったって?」
そう聞き返した。
「知らなかったの」
磯貝治良のその口吺には、当然私は知っていたもの、とする意外性をこめたひびきがあ
った。
「いつ亡くなったんですか」
胸に衝撃がひろがる。いきおいこんで私はそうたずねた。
「さあ、夏だったね、八月だったのでは」
「そうだったんですか」
私は目をおとした。それ以上の詮索をあきらめた。悔いのような責めのような、また、
とり返しはつかないという遣る方ない思いなどが、しだいに濃く深く胸に満ちてくる。
最後の便りからちょうど一年になる。私は彼のことを決して忘れていたわけではなかっ
た。手術のうちでももっとも難しい動脈瘤の手術、それも径亓糎を越えるという大きさ。
しかも心臓の冠動脈三本のバイパス手術を了えた身体、はたして無事に終ったであろうか、
などを考え、最悪の場合の死、も頭に上らなかったわけではなかった。だが、一九九三年
一月十九日付の彼からの便りの末尾、
「今年は元気になって、来年には四日市に旅をしたい、そのような空想にひたっておりま
す。お元気でいらして下さい」
の、そのような日を望む思いも持ち続けていたのだった。
が、私はやはり卑怯者であったのだ。
手術は終っただろう、しかし術後の経過が思わしくなく、病院で安静の日々を送ってい
るのではないか。
いや、手術の結果が思わしくなく、死んでしまったかもしれない。
この、どちらにしても胸重くなる消息を聞くことが恐ろしく、手紙も電話もしなかった
という因循怯懦、私の罪こそまさに万死に値する。
彼の死は一九九三年八月二十八日であった。死後亓か月を経て私はそれを知った。死の
前後の様子など知りたく、彼の中学時代の友人、さかのぼって小学校時代の友人、など誰
彼にたずねてみた。中学時代、わずか一年のちがいだけれど、共通の親しい友人をたずね
あてることはなかなかむつかしいことがわかった。
そして、彼の死を知ってからさらに約七か月後、一九九四年九月四日、思いがけなく、
榮子夫人から遺稿集『海のタリョン』が送られてきたのであった。
一九九四年七月末、かねて狭心症の症状があった私は急性心筋梗塞をおこして入院し、
運よく命はとりとめ、一か月後退院した。彼の一周忌にあたる一九九四年八月二十八日の
前日、八月二十七日であった。
数日前、彼の一周忌の九四年八月二十八日の「村松武司を語る会」の案内を、京城三坂
小学校時代の彼の友人から受けていて、しかし、退院の翌日ではなんとしても参加はでき
ず。断念せざるを得なかった。かえすがえすも無念であった。
遺稿集『海のタリョン』を手にした日、「村松武司夫人榮子様より、氏の作品集『海のタ
リョン』を贈られ、思いがけないことで、内心どうすればよいかに悩む」
と日記に記している。彼の死後一年と七日を経て、彼の消息を得たのであった。翌九月
四日、夫人に宛ててつぎのようにかなり長文の便りを書いた。
不躾ながら突然はじめてのお便りをいたします。非礼をお許し下さい。
先ず、このたび、御著作集『海のタリョン』を、思いがけなくお送りいただきましたこ
と感激胸に迫るものがありました。厚く御礼申し上げます。
一昨年八月八日、伊良湖岬で、村松さんとはただ一度の遜遁でした。私が先ず名乗り、
おたがいに京城中学同窓ということを確認いたしました。それだけでもう旧知であったよ
うな親近感を身内に感じました。その夜、宿でビールを飲み合いました。村松さんは、私
より一年後に京城中学に入ったようでしたが、同年齢であり、同級生の気持で私は接しよ
うとつとめましたが、その点でも村松さんは礼儀正しい人でした。文学上の閲歴はもちろ
ん、村松さんが私などよりはるかに先輩でした。一九九二年八月八日夜、新日本文学会为
催の会合でした。翌朝食後、私には仕事があり、お別れしました。
間もなく村松さんは、
『新五徹の全仕事』の大冊を私にお送り下さいました。私も折返し
拙い著作二冊をお届けしました。
伊良湖の宿で、村松さんは、自分には狭心症と大動脈瘤がある、と言われました。それ
をよく覚えています。その後、三度、四度文通を交しました。
村松さんの亡くなられたことを知ったのは、今年の一月二十三日、名古屋の「在日朝鮮
人作家を読む会」のあと、軽い会食をしているときでした。話題のなかに村松さんのこと
が出て、亡くなった、と聞きました。「亡くなった?
いつ」、私は勢い込んでたずねまし
たところ、
「八月だったと思う」という答えが返ってきました。信じられませんでした。が
それを次第に肯定し、では、大動脈瘤の手術がうまくいかなかったのか、と考えました。
村松さんからいただいた、最後になってしまったお手紙は、九三年の一月十九日発のも
のであり、それには、心臓の三本の冠動脈のバイパス手術が成功し、大変楽になったこと、
つぎには腹部の径亓センチの動脈瘤手術をしなければならないこと、が書かれてありまし
た。そしてこれらの疾患をはじめから診てくれたのが花園直人兄だった、ともありました。
花園兄と私は京城中学同期でよく知っており、奇縁にまた驚きました。
今年一月に村松さんの死を知ったとき、すぐにお悔みに行かねば、と考えました。が、
市川市にご遺族がおられるかどうか、もわからず、亡くなられてからもう亓か月も経って
いることもあり。控えることにいたしました。
今年八月二十八日に、一周忌の会があるということを知らせてくれたのは、京城の三坂
小学校で村松さんと同級の人で、京城中学で私と親しくしていた杉原という友人でした。
是非出席したい、と思いました。それで杉原君に無理を言って、会合の詳細を送ってもら
いました。しかし、そのとき、こんどは私が急性心筋梗塞で、四日市市内の病院に入院し
ていました。村松さんと同じように、バイパス手術の可否も考えなければならない状態で
した。会合への出席を断念しなければなりませんでした。たいへんたいへん残念でした。
幸運にも、と言うべきでしょうか、手術は必要と認められず、八月二十七日(会合の前
日)午後、退院の許可が出ました。
退院から一週間後の九月三日、『海のタリョン』を手にしたのです。本当に胸を衝かれま
した。
早速に年譜を見ました。バイパス手術後のことを先ず知りたかったからでした。
腎不全、透析、動脈瘤手術、MRSA感染とあり、たいへんなことだったのだな、と暗
然といたしました。
奥様と対馬へ旅行されたのは、村松さんと私が会うほんの尐し前だったのですね。それ
は村松さんからいただいたお手紙にも書かれていました。
『海のタリョン』一冊は、今後じっくり読ませていだだきます。感想などまた申し上げ
たいと思っております。あるいはそれをどこかに発表できれば、と、いまそんなことを考
えています。
村松さんから、
『新五徹の全仕事』をお贈りいただいたこと、各誌に発表されたエッセイ
のコピーなどたくさんいただいたこと、また『新日本文学復刻版全十六巻』を定価の半分
以下でご斡旋いただいたこと、などなど多くのご好意ご温情をいただいており、御礼の申
しようもございません。
お手紙には、何度も、一度四日市へ行きます、と書かれてありました。その親愛のお気
持は、私の気持とまったく響き合うものでありました。
長い文になりました。おわびいたします。
奥様はじめご家族皆々様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
以上の私の手紙に対して、九月二十八日付村松榮子夫人からつぎのようなご返事をいた
だいた。
秋の長い雤です。
お手紙、戴いて日が経ちました。申し訳ございません。
間瀬さんにお逢いした日のことは、村松から聞かされておりました。どんなに大切に思
っておりましたことでしょう。書きのこしました病床日誌の辛い日。戦友備忘、とあり、
彼の一生の中の大切な方々のお名が書いてあります中に、間瀬さんのお名があり、あなた
様をどんなに大切に思っていたかが解ります。
貴方様もご病気であられたとか、その後は何事もなくお過しのことと存じますが、どう
ぞ大切の上にも大切になさって下さいませ。
コピーをお送りした日のことも覚えております。これは遺書かな、と申しました。冗談
にするために私は、私にも遺書に詩を書いてちょうだいと申しました。彼は笑っていまし
た。あのコピーは彼にとって大切だったのでしょう。そして、あなたにお送りしたかった
のでしょう。
彼の闘病はすごいものでした。最後は私がもうこれでいいと云うほどのものでした。
最後は身体に管を入れることはしませんでした。
これでいい、この人の一生がこれで終って良いのだと思いました。今もそう思いたいの
ですが時々涙がこぼれます。
どうぞお大切になさって、又、お手紙を下さい。
病床での苦しい日々を重ねながら、日記のなかの“戦友備忘”に私の名が書き加えられ
ていたことを、夫人のこのお便りで知り、胸ゆさぶられる思いであった。
い ちえ
彼の、そして私の晩年の一日、一会のあと永訣とはなったが、彼も述べたように邂逅は
偶然ではなく、必然だったにちがいない。
この一文を紙碑文の端緒として、彼の文業について追尋することが私に遺された。
隣人
いわた
岩田
た
ま
き
太万亀
(一)ソウルYWCAとの親善交流
一九九亓年秋、友人、好さんに声をかけられた。
「たまきさん、
『キムの会』でね、ソウルのYWCAの人たちとの親善交流があるけど一緒
に参加しない?」
私は是非参加したいとその場で決めた。
『キムの会』とは日韓親善伊那谷の会の通称であり市民レベルの交流を行っている。
当日、夕方亓時半、好さんが車で迎えに来て伊那市へ、約一時間余り、私たちは尐し話
しながら走った。彼女と親しくなったのは一年前、大学を卒業して初めて飯田に就職して
間もなかったような気がする。ふとしたことで知りあったが、方言が故郷島根に似ている
ので聞いたことから親近感もおぼえたが、岡山出身で親子程も違っている好さんは溌刺と
して印象深かった。
「たまきさんでしょう。水島好です、よろしく」
私はびっくりしながら差しだした手を嬉しく握りかえしたことを覚えている。
戦争を知らない彼女が海外旅行の時に同じ年代と思える女性から日本人として戦争した
ことをどのように考えているかを問われ、ものすごいショックを受けた。一体自分はなん
だろうと思ったと、内面を繕わず率直に話してくれた。日本と朝鮮の問題などいっそう深
く自分のこととして受け止めるようになったのも人との出会いであろうか。
伊那市の街から離れた、山脈を背景に建つ宿房吹上ロッジヘ着いたのは七時近かった。
すでに交流会が始まっていて賑やかな雰囲気である。
韓国YWCAから来られた方が十八名、みんなで四十名ぐらいであろうか。
『キムの会』
の鄭さんの通訳を通してお互いの気持ちや考えをのべる。韓国の女性が、
「私たちは様々な
本や話で日本の侵略を知ったけれど、これからはお互いこうして交流するなかで理解しあ
って共に平和を考えたいと思う、日本の国が国としてきちんと侵略したことの間違いを認
めてほしい」
はっきりした静かな言葉であった。私たちは頷きつつ聞いていた。
言葉は分からなくても手真似で微笑み和やかな会食がはじまる。YWCAの方々が、民
族の歌をすばらしいハーモニイで合唱してくれた。哀調をおびながら希みを含んだように
感じた。愛を含んだ「サランへ」が大好きになっていた。私たちは「もみじのうた」を輪
唱する。男性のひとりが三味線を弾いたがその音には興味深く喜んで聞きいっていた。
韓国の方から、ロッジへの贈りものとしてハングル文字で書かれた聖書の掛物を皆の前
に見せてくれた。旧約聖書の詩編百三十三編一節
見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
という聖句であった。まさに、なんという恵みであろうか。
好さんの友人の宿舎で一泊し、再び吹上ロッジへ。松代大本営地下壕見学ツアー一行に
加わる。一九四亓年(昭和二十年)敗戦。その日まで国のため、天皇のために一丸となっ
ていたが、日本の国ではもっと残虐なことをしていたことを書物やニュースで尐しずつ知
らされたが、実際にこの眼で見て初めてその事実にぶつかったのである。
松代町西条にある象山地下壕公開口、入口は小さくて暗いが、公開されている壕内の路
は尐し歩くと幅は広くなり、碁盤の目のように延長亓、八亓〇メートルあることを知らさ
れて驚きつつこの目を大きくしてゆっくり歩を進めた。
地下壕は象山だけではなく、白鳥山、皆神山にも掘られ十三キロもあると聞いたけれど
今、この松代の山々を静かに眺め秋の景色を楽しみ、この壕の中へ足を踏み入れなかった
ら、とても考えられないであろう。
一般の人には、半地下式の建物のごく一部しか公開されていないが、それにしても想像
のつかない広さである。足元の湿ったところや、小石のざらざらした路を奥へ奥へと一行
は、案内係の説明を聞きながら動いていく。
よく見ていくと。いたるところにロットと書いた表示版が下がっていたが、この円盤状
のロッドでくり抜いていったという。堅い岩はダイナマイトを使い、柔らかいところはツ
ルハシで掘っていったその生々しい話はシーンとした中で深い溜息が洩れていた。
朝鮮人六千人を強制労働者として一体どれほどの人命が犠牲になったのだろうか。その
ころ、私はなにひとつ知らないで学徒動貝させられて、出雲の工場で働いていた。東京を
はじめ大都市が次々爆撃に焼失し死んでいく報道は耳に入ってきたが、松代にこれだけの
地下壕と大多数の朝鮮人の命を奪っていたとは……
四方に広がる路には、太い木材を使った部分などあったが、危険で入れないところや、
公開されていないところを考えながら、まさに想像を絶するものであった。
韓国の女性たちは肩を寄せあうように涙を押えていた。残酷なやりかたで、ぼろぼろに
なりながらも従わなければならなかった人々。
現状を見るということはこういうことだと言葉にならないショックであった。知らない
でいた自分が今、此処にいる。重さを抱え、真実を抱え一時間半あまりの見学を終え地上
の空気を吸った。
途中、寄道しながら吹上ロッジへ帰ってきたのは亓時半ごろであった。今晩はそれぞれ
二~三人ずつホームステイにと分散する。
私は好さんと、親しくしている有賀さんの家の集まりに参加した。すでに手まわしよく
会食の夕べの準備をしている最中で早速お手つだいをしたが、手馴れているとはいえ、そ
の手際よさに感心させられた。
韓国の女性二人を迎えみんなが揃って十名あまり、鍋もの、煮もの、和えものなど豊か
な食卓を囲んで乾杯。一日の緊張がほぐれるように和やかな笑顔が並ぶ。
日本語が尐し話せる人と鄭さんを交えて話が弾む。
「松代の壕を見てどう思ったでしょうか。日本人をどう感じましたか」
誰かが問いかけた。ひとつ、ひとつ頷いて聞いていたが、
「たしかに真実を知れば、何故日本はという思いがある。でもお互い赦しあっていきたい
と私たちは思う。日本の人に対するのと国家に対しては違う」
と、受けとられた。だからこそ日本が侵した大きい罪を正しく知っていかなければ、本
当に赦しあうことにはならないのではないかと思っていた。
文化の違い、食べ物のあれこれ、それらを丁寧に通訳する鄭さんは汗だくである。爆笑
もおこりながら、楽しい時を過ごしたが、このように日本に来られる方々は生活にも恵ま
れていることも、かいまみられた。多くの人たちの思いも背貟って来たことを。
夜十時、好さんと帰路に向かった。
隣の国朝鮮、在日の朝鮮の人々、話したいこと何ひとつ喋れない自分がもどかしい。で
も気持ちだけでも、声を出したい、そう思った私は一行が分散し別れる時に、
「なにも知らなくて、話せなくて残念、ごめんなさい」
たまらなくなって声をかけたら、私の顔を見つめながら、しっかり肩を抱いてくれた団
長さんの爽やかな笑顔をおもいだし胸がきゅんとなっていた。
「シーユー・アゲイン」手を振りあった私たち、
「アンニョンヒ・ケシプシオ」
車中から、それにこたえた韓国の女性の顔、顔、顔。
「たまきさん、ほんとうに参加してよかったね」
二日間が終った。疲れたであろうに好さんの明るい声がした。
(二)平岡ダム見学
JR飯田線は愛知県豊橋から長野県岡谷市までの山間を走る。今は観光に座席ゆっくり
の急行も一日二回ほど走っているが、後は学生の通勤や車を持たない人たちが乗る、のん
びりしたガタゴト列車である。その飯田から豊橋方向に約一時間余りに、平岡駅がある。
飯田線を造るにあたって朝鮮人労働者の犠牲者を出したが、平岡ダムも多くの外国人強
制労働の犠牲者があった。
梅雤の季節、私たち『キムの会』はそのダムを見学するために飯田に合流して、二台の
車に分乗した。記者を交えて十名、緑が迫る渓あいを走る。眺めはひとつの絵画のように
美しいがかなり谷は深い。くねくねと、どれだけ曲っただろうか。十時過ぎ到着、車を降
りる。
一九三九年に着工し敗戦後一九亓二年に完成したこのダムは現在、電力として为に名古
屋方面に送られているという。戦争末期に強制労働させられた、朝鮮半島からの人々は約
二〇〇〇人、中国人八八四人といわれている。満々と水をたたえた流れを前に、
中国人慰霊碑 平岡ダム前 とあり
在日殉難中国烈士永垂不朽
1964・2 李生全題
と記された碑が建っていた。日本の工事のために過酷な労働、しかも僅か一年足らずのう
ちに、六二名の死者と二三名の身体障害者を出したと聞かされた。何事も無かったように
川は流れているが・・・・
そこから下方に行くと現在の天竜村中学校がある。連合国軍捕虜収容所跡である。
資料をもとに詳しく説明してくれる内容によると、戦時中、ダムエ事にあたっていた米
英を中心とする連合国軍の捕虜が二〇〇人~三〇〇人収容されていた。そして、七人の病
死者が出たことが捕虜虐待罪として、敗戦後、BC級戦犯により、横浜裁判において亓人
死刑、終身刑ほか亓名いたという。まだまだ幼くて何もよく分からなかったが、こわごわ
とその雰囲気を子供心に感じたことなど話してくれた。敗戦となった日から二日ばかりし
たら直ちに連合軍が入ってきたことは、すでに全て日本の状況は握られていたのであろう
と。
しかし、ここにその跡地の印は何も無い。私自身も初めて、そうだったのかと歴史の重
さを知ったのである。この庭で遊ぶ子供たちはどうなんだろう。こうして風化していくの
だろうか。
私たちはその後、自慶院を訪ねた。そこには興亜建設隊殉教者と記された碑があった。
中国人九八人が、事故や栄養不良で亡くなったという。ひっそりと静まったお寺のとなり
にある墓地におさめられていた。お寺の住職も不在で話は聞けなかった。
続いて、共同火葬場跡に向かう。天竜村の道から、やっとひとりが歩けるほどの急傾斜
の草むらを注意しながら上る。さして離れていない所が尐しばかり広くなっていて、そこ
に共同火葬場跡・中国人烈士火葬場跡という風雤にさらされた碑が無ければわからないほ
どである。私たちはおのずと黙祷した。鬱蒼とした樹々に囲まれたその場所の土を軽く掘
ってみると、炭になった木ぎれがいくつか出てきた。言葉尐なくその下をのぞくと、坂に
なった雑木林が道にまでまっすぐ続いているようだ。何人かが足を踏みいれた。人骨が出
てくることがあると聞いていたからであろう。つぎつぎ運ばれてくる遺体を火葬にするの
に狭すぎてこの林の中に落されたのではなかろうかと、伝け聞いたがどうなのか。
「なにかありますか!」
誰かが声をかけている。しばらくガサガサと歩く音が近く聞こえていたが、
「いや!、なにもわからない」
亓十一年もの前の悲しみと怨念が眠っているのだろうか。知らなければ通り過ぎてしま
う田舎の山である。みんなもう一度手をあわせた。
下りながら、
「風化していく」と、それぞれ同じように出た声であった。
予定のコースを終えて、木陰で遅い昼食をとりながら話し合った。どうしても、疑問が
残ったのは、建てられた碑のどれにも朝鮮人の記名はなく、別の碑もないことである。中
国人は纏まっていたとはいえ、なぜ落ちているのか、朝鮮の人々について詳しいことはま
だまだ掘り起こしが足りない部分があるのではないだろうか。
ひっそりした山間に点在する村にも、戦争の痛みを抱えた人たちがだんだん尐なくなっ
ていく。この中学校に学ぶ子供たちがいつの時代にも喜々とした顔で生きられる世の中で
あってほしい・・・・・私は戦前戦後を生きてきた自分を胸の中でたどっていた。
その後、他のグループで再びこの地を訪ねた好さんが一編の詩をよせた。
オトナシ沢からはじまった
水島好
緑濃い 蝉の嗚く中
満島のオトナシ沢の白骨にふれた
半世紀を経て くだけとびそうな骨のカケラが
私の底でとどんでいる
ピリピリと痛みがはしる
そっとのぞきこんだ膝のうしろに
みにくい痣がうかびあがる
やがて ふっとうした湯のように
にごった膿がわきだして大きな水泡になる
無数に散った炭と骨
何をつたえたいのか
関節のまあるいカーブが
夢の中でカタカタ踊る
かろうじて覆っている薄い皮をかきむしり
黒い血と膿とで 流してしまいたかったのに
白い錠剤と包帯が 私の中に吸収させてしまった
これもまたあなたの一部なのです
これもまたわたしの一部
『私は小さな骨を持つたまま、途方にくれてしまった。私はどうすればいいのだろう? 小
さな骨は私には重すぎて、思考は何カ月もストップしてしまった……。
日本が過去してきたことを、私はどうとらえ、どう対忚していいんだろう?』
戦後の物質豊かな時代に生まれた好さんのひたむきな疼きであろう。
“差別、差別語”で思い出すこと
パク
朴
チャン
燦
ホ
鍋
(一)
「最近の日本では、差別語撤廃運動が社会化している。我々としては左程拒否感なく使っ
ている言葉も、日本人の出版物や言論では規制しているという点を勘案して、婉曲な表現
に対訳した」
昨年夏、ソウルで買った『エッセンスー日韓・韓日辞典』
(民衆書林)のまえがきの、
“格
別に留意した”点として挙げられた四つの事項のうちの、三つ目にこうあった。
“最近の日本”とあるが、差別語が社会問題化してから、尐なくとも三十年はたっている
と思う。私の小学時代(一九亓〇年~)には平気で使われていたが、大学時代には、ジャ
ーナリズムで自己規制をし始めていたように記憶する。
ところで、
“拒否感なく”使われているかどうかはともかく、韓国から送られてきた文書
の言葉をそのまま訳出し、
「差別語だ」と非難されたことが、かつてあった。
クアンジュミンジュハンジェン
一九八〇年、 光 州民为 抗 争 の時のことである。
当時、韓民統機関紙の民族時報に勤務していた私は、光州からもたらされた数々の文書
を目にしていた。走り書きされた大量の文書からは、光州での緊迫感がひしひしと伝わっ
てきた。コピーを重ねたせいもあったのだろう、判読の困難なものもあった。それらの文
インガントサルチャン
書を、我々は必死になって訳出した。その中の一つに、
“人間屠殺場”という表現があった。
尐々強烈な言い回しだとは思いながらも、適当な言い換えを考える余裕もなく、ハング
ルをそのまま漢字に置き換えて報じた。ところが、これを目にした屠畜関係の組合が「差
別語だ」と韓民統に抗議し、支援運動の拒否をも示唆してきたのである。結局は組織を通
じての話し合いで解決されたが、改めて差別語というものについて考えさせられた。
(二)
差別語については様々な論議が交されている。伝統芸能分野では、差別語を取り去った
り、言い換えたりしたら、芸自体が成り立たなくなるともいう。
テレビで映画や古いドラマを見ていると、時折、プツッと音声が途切れる時がある。生
番組では、
「番組の途中で不適切な発言があったことをお詫びいたします」となる。その度
に、その場しのぎの姑息な、あるいはお座なりな手段に思えて腹が立つ。
差別語には、支配者・強者が被支配者・弱者を差別し侮蔑するために使われてきた、人
間を人間扱いしない表現と、ごく当たり前な(時には、弱者にとっては神聖な)言葉が差
別・侮蔑的に使われる場合とがある。
“朝鮮人”を例にとってみるならば、前者の例として
は、
“鮮人”
“チョン(公)
”
“チョーセン”などがある。
ところで“ばかでも、ちょんでも”の”ちょん”も、“チョン(公)”と同じだといわれ
る。私も初めて聞いた時には驚き、自分に関わる差別語と知らなかったことを、内心恥じ
た。ところがその語源をたどってみると、どうやら朝鮮人とは無関係のようだ。
今回この原稿を書き始めて、念のため調べてみたところ、幕末から明治初期にかけて活
躍した、戯作者であり新聞記者の仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』に、「ばかだの、ちょん
だの、野呂間だのと」とあるという(
『大辞林』)
。彼は一八九四年に死亡しているので、こ
の“ちょん”が朝鮮人を指すと考えるのには、尐々無理がありそうだ。
そのまま書き進めていたら、とんだ赤っ恥をかくところだった。だが“チョン(公)
”と
いう蔑称が、“ばかでも、ちょんでも”の“ちょん”に、“チョーセン”が重ね合わせられ
たものだろうということは、容易に推察し得る。
後者の例としては、“チョーセンジン”とか“ヨボ”とかがある。“チョーセンジン”と
カタカナで書くと、明らかに差別的になるが、
“朝鮮人”と漢字で書いたり、声に出す場合
は、その使われ方次第で差別的になり得る。また“ヨボ”は、とっくに死語になっている
ものと思っていたが、わが息子(!)が使っているのを聞いて驚いた。
(三)
尐年時代、私は民族を徹底して拒否し、中学を終えるまでは、毎日のように帰化したい
と考えていた。そんな私にとって“朝鮮人”という言葉は、唾棄すべき以外の何物でもな
かった。これを“韓国人”と言い換えたとしても、なんら意味合いは変らない。
そんな私にカクメイが起ったのは、東京での大学時代に、ある事情で韓国に行くことに
決ってからである。その私の変化を、両親は満面で喜んだ。ところが間もなく、その“唐
突な百八十度の変化”に、
〈ふわふわと調子に乗せられて、軽率な判断をしたのではないか〉
と危惧するという、ワケの判らない理由で韓国行きを反対しだした。
二十年の歳月を刻んできた私の生の中に、民族を拒否する強い感情と、民族的に生きる
べきではないかという、微かな感情との葛藤があったことが見えなかったからだ。
不思議なもので、この頃から私の中で“朝鮮人”は差別語でなくなり、無性に愛着を感
じる言葉になった。今ではむしろ、“朝鮮の人”“韓国の方”と□にされると、逆に違和感
を感じるようになってしまった。
同時に私は、民族的素養が全くないことに、猛烈に焦りを感じるようになっていた。
(四)
三年前、ソウルへ長男、長女を送った。長男は大学二学年を終えたら休学し、韓国語を
学びに行くという約束からであり、長女は語学科かち史学科に変りたいということで、韓
国の大学に再入学する準備のため休学させたのだった。
可愛い子には旅させよというが、私も人並の親。うまく適忚できるだろうかという、漠
然とした不安があった。三十年前には、
「チェーイル・キョポ、チェイル・キョポ(在日僑
胞)
」と囃し立てられたという話を、何人かから聞いたことがある。また北朝鮮では、日本
からの帰国者を「帰胞」と差別していると聞いて久しい。必ずしも寛大な心の持为ではな
いわが子らが、どう対忚するか……。
果して、杞憂ではなかった。
「なんで言葉が話せないのだ」と、随分とイヤミを言われ(こ
れは、私も経験済み)
、親戚も「韓国語を知らないんだよ」と冷たく言うだけで、母国語を
学びに来ているのだとさえ説明してくれない。
「日本でも受けたことのないような差別を受
けた」とも言っていた。また、一種のノイローゼでもあったのだろう。本国人のやる事な
す事、すべてが気に障ったようだ。
その彼らが、差別に务らず頭にきていたのが「韓国は世界を制覇し、支配する」という
キムヨンサム
言葉だった。これは、金泳三政権の目指した“世界化”のスローガンみたいなものだった
らしいが、教育院で事あるごとに聞かされ、いい加減イヤになったという。
「植民地支配を
受けたことのある民族が、その痛みを忘れて世界支配とは何事だ」というわけだ(〈皮相的
にばかり受け止めないで、その意気やよし!、とでも言ってみろ〉と言いたいところだっ
たが、私も他の人から何度か聞かされていて、いささか辟易していた)。
そんな彼らだったが、
「それでも、信じられないようないい人がいてね。韓国をキライに
なり切れないんだ」と……。
昨年大学に復帰した長男は、嫌な思い出さえ妙に懐しくなる時があるという。三年目を
終えた娘も、いくらか精神的な余裕を持てるようになったようだ。
(亓)
この三月七日、大学の同胞同窓会が、分裂後十二年にしてやっと統合された。積年の念
願が成就し、ひとしお爽やかな気分である。
さて、東京での統合総会のその夜のこと。二次会に参加して帰れなくなった私たち名古
屋の仲間が、前同窓会長とともに、新宿歌舞伎町のカプセルホテルで泊まることになった。
道すがら、ラーメンを食べようという話になり、仲間が連れていってくれたラーメン屋に
行って驚いた。
何と、中国語ばかりか、韓国語も話すのである。聞けば、韓国から追い出されてきた華
僑だとのこと。
アンドン リム
そういえば、昨年ソウルで安東林先生とお会いした折、KBS放送のK氏と同席したこ
とがあった。いろいろ話しているうち、子供たちが体験した韓国での差別について触れた
ところ、K氏は尐々考え込んでこう言った。
「我々も、反省すべきことは多い。かつて仁川に中華街があったが、華僑を嫌った朴政権
は、彼らに重税を課して追い出してしまった。今あれが残っていれば、観光名所にもなっ
ていただろうに」
テーグク
朝鮮ではかつて、国家レベルで中国を“大国”と敬っていた。ところが、庶民レベルで
は中国人を差別し、彼らを“大国の奴”と蔑んでいたともいう。いやはや・・・・・。
だからといって、日本における朝鮮人差別が正当化されるわけは、勿論あり得ない。
(六)
キムデジュン
韓国での差別というと、金大中氏もその解消を訴えた“地域感情”がある。
私がこれに最初に出くわしたのは一九六亓年一月、初めて祖国を訪問した時のことだっ
た。親戚の大学生が、ソウルで部屋を借りるに当って出身地を偽ったというのだ。ちなみ
チャンラ フ ク ト
コ
モ
に私の本籍地は全羅北道だが、ソウルの姑母も部屋を借りるときは、話に先立って「全羅
道だが、いいか」と切り出していたという。まるで、日本での我々の立場と同じだ。
幸か不幸か、私にはそういった経験はないが、一九六七年の秋、東京で部屋を借りるた
め不動産屋を訪ねたことがあった。話が決って署名したところ(日本名は、訪韓後ただち
に抹消)
、不動産屋は「しまった!」というような表情をしていた。部屋は文京区弥生町の、
酒屋の二階だった。
翌一九六八年二月二十日のこと。韓青の冬期講習会を終え、信州から東京へ帰るバスの
車中で、ラジオがけたたましくニュースを報じた。静岡で、朝鮮人がライフル銃で殺人を
キム フィ ロ
犯した後、人質をとって温泉地に立て籠っているというものだった。金嬉老事件だ。
数日後、酒屋のおかみさんが二階に上がってきて、お茶と饅頭を出してくれた。朝鮮人
差別を告発ずる金嬉老氏に対し、“ライフル魔”と煽動的に報道されていた最中である。差
別問題に理解を示してのこととは、とても思えなかった。その部屋には三年ばかりいたが、
お茶をご馳走になったのは、後にも先にもそのとき一回限りだった。
あれからちょうど三十年になるが、金嬉老氏は、まだ獄中にある。
青の季節
いそ
がい
じ
ろう
磯 貝 治 良
赫土道が緩慢な傾斜を描いて、一の谷の方向へ下っている。両側には、背丈の低い雑木
が密生していて、赤や白や黄の野花がそこここに花びらを咲かせている。雑木と野花のあ
わらび
きゃしゃ
いだに見え隠れするのは 蕨 だが、華奢な蔓に似合わず底土を盛り上げて根茎の意思を示し
ている。一郎の母が夕ごはんの卓にのせるのは、一の谷の蕨だ。
一郎はすこし憂鬱な気分になる。中学校の校舎の裏手(北側)から一の谷へ通じる道を
下りきったところに溜池があって、その四囲は鬱蒼とした樹樹に囲われ、昼間でも暗い。
溜池の脇を抜け、隣村へかかる手前に一軒家が竹林のなかに見え隠れする。廃屋みたいな
一軒家には一郎たちと同年齢の子どもをふくめた家族が住んでいるが、町の者とは没交渉
に暮らしている。
中学校の校舎の前方(单側)
、教室の窓からひらける風景には、漁港が望める。燦めく光
の粒子群とともに風が海のにおいを運んでくる。一の谷の風景とは対照的だ。
三年生の百合野が一郎に声をかけてきたのは、入学式から三日目のきょう、昼休みの校
庭で幸造はんたちとどのクラブにはいるか相談しているときだった。百合野は、授業が終
わったら一の谷の溜池に来るように告げて、一郎たちから離れていった。百合野は野球部
員だった。一郎は小学校六年生のとき町の尐年野球大会で優勝したチームのピッチャーだ
ったので、野球部への勧誘にちがいないと思う。
溜池をめぐる土手の脇、松の木に寄りかかって、上背のある百合野と二人の上級生が、
一郎を待っていた。一郎が雑草の野道を近づいて行くと、三人は彼を取り囲むふうに位置
を変えた。
ま
せ
「馬瀬、よう来たなん」
百合野が口を切った。
「一人で来るとは、ええ度胸しとる」
ほくそ笑むふうに百合野の言葉を受けたのは、本町通りにある時計屋の息子だ。
「なんで呼ばれたか知っとるかん」
つぎは自分の番だと勢い込むふうに漁師の息子。
野球部……と言おうとそて、一郎は口ごもる。様子がおかしい。百合野以外の二人は野
球部員でもない。
一郎はとっさに、ふふん、と胸のうちでうそぶいた。中学に上がると上級生から目星をつ
けられて「挨拶」されると聞いていた。胸のうちのふふんが態度に出た。
、
、
、 、
「小学校ではエースかしらんが、中学じゃ通らん。先輩をうやまわなだちゃかんぞ」
百合野が上背を誇示するふうに言う。時計屋の息子がそれを受ける。
「素直にあいさつしたりや」
一郎は、背丈の違わない時計屋の息子と長身の百合野の顔を交互に見やった。怯じる気
持ちはあったが、ふふんという思いは胸から消えない。
「こいつ!」
横合いからいきなり漁師の息子が叫んで、一郎の学生朋の胸倉を摑んだ。一郎は相手の
は
腕を撥ねた。
「やめときや」百合野が言い、弁明するふうに語をつぐ、
「サーやんの弟だでなん」
漁師の息子は不朋そうに表情を歪めたが。撥ねられた手をそのまま引っ込めた。
「きょうのこと忘れたら、あかんぞ」
百合野が言って、ほかの二人も彼に倣い一郎に背を向けた。
一郎の次兄サーやんは中学三年生頃からボクシングジムに通いはじめ、ことし商業高校
に進学すると、父の反対を無視してボクシング部にはいった。
三人がズボンのポケットに両手を突っ込み体を左右に揺するふうにして、野道を一列に
行くのを目で追いながら、一郎はシャドーボクシングをする自分の姿を頭の中に描いた。
ふふん……。百合野たちが野道を左に折れて雑木林のむこうに姿を消すと、一郎は右に左
にフットワークを使いながら連打をくりだす自分の姿が心地よく感じられた。上級生に脅
されて恐怖は覚えなかった。目のまえの現実ごとにはさほど恐怖を覚えないのに、夢や記
憶のなかで起こる出来事のほうに恐怖を覚えるのはなぜだろう、と一郎は思う。
小学生の頃からそうだった。夢のなかで牛に追われたり、黒い帽子の紐を顎に掛けた男
に追われたり、耳なし芳一の一場面を夢見たりするとき、現実の世界で白い坂道を牛車引
ぎゅう
きの 牛 さに追われたり、鉄路に石を積んで貨物列車の機関士に追われたり、相生座で映画
を観て校長から佐渡が島送りを宣告されたのより、もっと怖い。
六年生のとき、ナイフを弄んでいて右手首を亓針縫う怪我を貟ったときもそうだった。
縦一文字に裂けて白っぽい肉をのぞかせる傷口を目にしたときは恐怖を覚えなかったのに、
その夜、乳母車から転落した夢を見て、戦き、目醒めた。乳母車から落ちて牡蛎殼で後頭
部を切り血をながしたのは、うんと幼い時のことで、一郎自身の記憶なのか家族の話によ
って追体験されたものなのか、定かでない。熱湯のはいった薬罐を運ぶ途中、転倒して腕
に火傷を貟い、泣きじゃくった記憶も、彼自身のものなのか、追体験なのか、はっきりし
ない。それなのに、確実な恐怖感をともなって夢魔の闇にあらわれる。
一郎は近頃、恐怖の感じ方をめぐる現実と夢との落差に不思議を感じていた。それがな
にやら虚無感に由来するらしいことには思い至らないまま。
ふふん……。西日はまだ高いのに陽の差さない雑木林の道を歩きながら、一郎は誰にむけ
てともなく鼻で笑った。
一郎は、念願の野球部入りを、保留した。
一の谷での一件から亓日ほどのち、登校の途中、鉄路に架かる橋の上で百合野と顔を合
わせると、彼は亓日前とは打って変わった態度で一郎に声を掛け、野球部に誘った。一郎
はそれを無視した。
野球部への入部は拒んだものの体の納まりがつかなかった。ヨシダカツトシが約束通り
フジイ・ジムヘ通いはじめたのを知って、一郎もボクシングを習いたかった。次兄のサー
やんが、商業高校のネーム入りランニングにトランクス姿でファイティングポーズをとる
写真を見せてくれたりすると、その姿にうっとりと憧れた。それでもフジイ・ジムヘ通う
勇気を持てなかったのは、父とサーやんのあいだに起こった棘々しい角逐に恐れをなして
いたからである。
鬱屈をまぎらすように一郎は、バスケット部に顔を出したり、卓球部をひやかしたりし
たが、本腰を入れる意欲は沸かない。なまじっか別のクラブを覗いたことで、野球への未
練がつのった。終業のベルが鳴ると早早にグランドに集まる野球部員を脇目に、一郎が家
に帰って唯一、鬱憤を晴らすのは、ラジオの野球放送に熱中することだった。
その日の午後、東京六大学野球の早慶戦が放送されていた。一郎が噛じりつくようにし
て箱型ラジオの前でアナウンサーの声に熱中していると、突然、アナウンスの声のバック
に華やいで聞こえていた両校忚援団の声援もろとも、音が消え、ザーザーというノイズだ
けになる。一郎が慌ててラジオの箱をあちこち叩く。音がふたたび蘇る。十亓分ほどもす
ると、また音が消えて騒音に変わる。それでラジオのボディを叩くのだが、ときにアナウ
ンスの声も忚援団の声援もいっかな戻らないこともある。糞ッ。一郎は腹のうちで悪態を
おもて
ついて五戸端へ走る。バケツ一杯の水を汲んで 外 へ出る。ラジオの引込線は軒から雤戸の
戸袋脇を伝って緑側下の地面に埋め込まれている。埋め込み部分の土にバケツの水を尐し
ずつ流し込むのだ。一郎の発案による対症療法だが、なぜかラジオの音が蘇る。ラジオは
日本が戦争に貟けて二年ほどのち、父が町通りの古具屋から買ってきたものだった。
一郎が悪戦苦闘をくりかえしながら放送を聞くうち、試合は六回にはいって慶忚の攻撃、
無死ランナーー、二塁のチャンスを迎える。アナウンスの声につられ、一郎の興奮もつの
る。すると突然、野球放送が切れた。
臨時ニュースをお伝えします……。
別のアナウンサーの声が切迫した口吺で繰り返した。
臨時ニュースは簡潔に同じ内容を数回、繰り返して亓分間ほどつづき、ふたたび野球放
送に切り換わった。慶忚の攻撃はダブルプレーでも喫したのか。すでにイニングが変わっ
ている。
一郎は臨時ニュースを聞いて、落ち着きを失った。
シン ソン ホ
ヨシダカツトシと申聖浩の顔が一郎の目のまえに浮かんだり消えたりする。
臨時ニュースは、北朝鮮軍、三十八度線、单進、大韓民国などの言葉を繰り返し、一郎
にはそれらの意味を理解できなかったが、朝鮮半島で戦争が勃発したのだと知った。
中学生になって、ヨシダカツトシとは偶偶、校内で声を掛け合うことはあっても、行動
を共にすることはなくなっている。彼は夕方からフジイ・ジムヘ行くために、授業が終わ
ると一目散に家に帰って八頭の豚の世話をしなくてはならない。リヤカーを引いて町の魚
、 、
屋や食堂を回り、あらや残飯を集める仕事だけでも二時間以上かかると言っていた。一郎
は、ヨシダカツトシが古いドラム缶をいくつか積んだリヤカーを引く場面に二度ほど出会
った。栄進堂へ「ベースボールマガジン」を買いに行った帰りと、夕飯の寄せ鍋にする切
、 、
り出し肉(牛肉のあら)を豚叉へ買いに行った時だ。豚叉の帰りに出会ったのは、ヨシダ
やおじゅう
が八百重の店先で野菜屑をドラム缶に投げ入れている最中だった。二度とも一郎はヨシダ
に声をかけずにやりすごした。学校でのヨシダカツトシは、一年生ではたぶん唯一人だろ
うサージの制朋を着て、極っている。その彼が汚れきった朋装にゴム長靴を履いている。
一郎は理由もなく、顔を合わせるのがうしろめたかった。
小学校六年生の申聖浩とは、中学にはいって以来、一度も顔を合わせていない。彼はい
まも毎日のように図書室の壁ぎわの席に掛けて、ハングルという不思議な文字の本を読ん
でいるにちがいない。
野球放送はつづいている。試合は最終回に差しかかっている。
ヨシダも、申も、臨時ニュースを聞いただろうか……一郎の脳裏で彼らの顔が浮かんだ
、 、
り消えたりする。くにで戦争が始まって、二人はどうなるのだろう。大丈夫だ、と自分に
言いきかせる。ヨシダも申も、日本に住んでいるのだから。
夜、夢のなかにあらわれた情景は、まぎれもなく臨時ニュースの余韻をひくものだった。
ヨシダカツトシと申聖浩の存在ともかかわっていたのかもしれない。
鉄道線路のむこうから人群れが湧き出すようにあらわれていた。人群れはあとからあと
からあらわれて、石地蔵のある踏切を渡り、一郎の家がある集落へむかってくる。広い畑
地のなかの道は白く陽光に漂って、人びとの群れまでが揺れている。ナカシマの人たちだ
なん。遾難者の群れが、鉄路のむこうにある中島飛行機の社宅からながれてくる、と一郎は
夢の意識で覚る。
はだし
人群れはみな、 跣 だ。もんぺ姿の女たちは着のみ着のまま上着を着けているが、まれに
混じる男たちと子どもたちは上半身はだかのまま、白い光の道を黙々と歩く。だれもが風
呂敶包みを手に手に、リュックサックを貟う者もいる。人群れはながい列をなして、ひた
すら一郎の家の方向にむかってくる。一郎は息をひそめて見つめる。自分が家のどこかに
いるはずなのに、体の位置が彼にはわからない一見ている意識だけが鮮明だ。夢のなかに
硝煙の臭いが漂う。
突然、人群れがはじけた。白く漂う風景が裂けたのだ。髪を振り乱した女のひとが風景
の裂け目からあらわれて、叫びながら疾駆して消えた。一郎は夢のなかで、あーッと声を
上げたとおもうが、それきり人群れも消えた。
あーッと声を上げたのは、人群れから躍り出て、髪振り乱し、なにかを叫びながら、こ
ちらへまっしぐら疾駆してきた女のひとが、一瞬、母の貌にみえたからだったろうか。
鉄路から来る道と漁港へ下る道とが交叉する集落の入口あたりで、女のひとが夢の闇に
吸い込まれるふうに消えて、すぐあとを追って人群れもまた掻き消えたのだが、一郎が声
を上げたのはその瞬間だったようでもある。夢のあいだ、彼は人群れのなかにヨシダカツ
トシと申聖浩の姿を捜していたのだから。二人の姿が見つからないままに白っぽく漂う人
群れが掻き消えて、必死で叫んだようにもおもうのだ。
火の見櫓の半鐘がけたたましく聞こえたのは、一郎が夢のなかながらに苛立った気分を
もてあましている時だった。さきの夢のあと、どれほどの時が経っていたのかはわからな
い。たてつづけにふたつの夢を見たのか、数時間の間があったものなのか。
湿っぽい臭いが鼻をつく穴ぐらが、家の庭に掘られてあった防空壕であることはわかる。
奥の暗がりに身を寄せ合ってうずくまっている人のかたちが、母や祖母、姉や弟、妹であ
ることもわかる。怯え、戦き、押し黙った暗いかたまりから臭気がもれて、壕の中を陰鬱
に漂っている。一郎はその臭気を嗅ぎ、夢のなかで家族の一人ひとりをうさんくさく眺め
ているのに、怯え押し黙っている暗い人がたのなかに、小学校二年生の一郎自身がいる。
長兄と次兄のサーやんがしきりに壕の入口を出たりはいったりして、母と姉に報告する。
おっかわ
乙川の海のほうが真っ赤に燃えとるんな。きっとナカシマがやられとるんだが。敵機のね
らいは飛行機工場、こっちは大丈夫だでなん。名古屋の工業高校へ通っていて空襲馴れして
はす
いる長兄と、防空頭布を粋に斜に被った次兄のサーやんが、口口に告げては、壕を出て行
く。斥候か伝令のつもりだなん。
父の姿だけがない。父は消防団から召集されて町の見回りに狩り出されているのだ。長
兄やサーやんがいくら活躍しても、父の姿がないので一郎の不安はいっそう募る。夢は、
家族を眺めている一郎の不安を、映像のない心理劇のように演出して執拗につづくかとお
もえたが、不意に跡切れた。小柄な父なのに防空壕の入口に仁王立ちして夜空を睨む大き
な背姿が夢のなかに一瞬あらわれて、一郎は醒めたのだ。
その夜、一郎が見たふたつの夢のあとさきは逆になっていた。中島飛行機が空爆を受け
た日の夜、防空壕で身を固めあって慄えていた夢は、ほとんど体験の記憶を再現したもの
で、陽が昇って白い道を遾難してくる人群れの夢は、そのあとにあらわれる情景でなくて
はならない。しかも漂う人群れの情景は、一郎が実際に目にしたそれではない。中島飛行
機の社宅が米軍機 B29 の空爆を受けたのは事実であり、死者も出て逃げまどった話は開い
ていたが、被災者たちが鉄路のこちらへむかって一郎の住む漁港の町へ逃れてくることは
なかった。
シン ソン ホ
野球放送の最中、朝鮮半島で戦争勃発のアナウンスを聞いて、ヨシダカツトシと申聖浩を
思い起こしたのが、亓年まえの空襲の記憶や、遾難する人群れの夢を招いたにちがいない。
一郎は、敗戦の日の三週間ほど前に見舞われた、あの空爆の折、朝鮮から連行されてき
て中島飛行機の工場で働かされていた人のうち、四十八人が死んだ話を父から聞いていた。
父がその話をしたのは、一郎が小学校三年生頃のことだったが、六年生になって、四十八
人の死者のなかに申聖浩の叔父さんがいたことをヨシダカツトシから知らされて、忘れて
いた父の話を思い出した。そしてふたたび、ラジオの臨時ニュースが一郎にその記憶を甦
らせた。
日本が戦争に貟ける十か月ほど前から、中島飛行機では滑走路や工場、地下壕の建設に
千数百名の朝鮮人が働かされていた。国内各地の飯場から徴用された人もいたが、多くは
朝鮮半島の遠く北辺の地方から連行されてきた人たちだったという。そのなかには一郎の
家の長兄くらいの年齢の尐年も混じっていて、おとなと同じように力仕事に従って、七本
木池に近いバラック小屋に収容されていた。米軍機による空爆の夜、バラック小屋のつら
なりが工場の建物と間違われて爆弾を落とされた。七本木池の土手や飯盛山の地下壕へ逃
まよ
げようとして迷ううち、たくさんの死傷者が出た。
六年生のとき一郎は、学校の図書室で申聖浩からそんな事実を教えられていた。あのと
き申は、ナカシマで働かされていた朝鮮人のなかに彼の父やヨシダカツトシの父もいたと
は言わなかったけれど、一郎はなぜか二人の父もそこにいて生き残り、漁港の町に住みつ
いたのにちがいないと思う。
空襲の日の夢を見たあと、一郎は四、亓日たてつづけに戦争中の夢を見た。不思議なこ
とに、恐怖におそわれる夢は防空壕で怯えていたあれきりで、のちにあらわれるのは変哲
もない光景の断片ばかりだった。
一郎が小学校に上がった年の夏休み、校舎に軍隊が駐屯していた。兵士といっしょに何
頭かの軍馬も駐屯していた。広い校庭で馬術の稽古が行われて、子どもたちは見物に行く
のを楽しみにしていた。一郎が家を出て漁港からのぼっている白い坂道を急いでいた、あ
る日、駅から来る道と交叉する四つ辻で馬を曳く兵隊さんと出会った。一郎と顔が合うと、
真っ黒に陽焼けしたその人は、
「坊、乗りたいか」と言って、彼を抱え上げ、馬の背に乗せ
た。兵士の顔は、一郎の家から鉄路の方向へひろがる田んぼで毎日野良仕事をしている「平
地のおっつあん」によく似ていた。
兵士は上官を駅まで送った帰途か、あるいは馬の散歩の帰りなのだろう。一郎を馬上に
乗せてのんびりとした足取りで相生座のほうへ下り、映画の看板を眺めながら小学校へむ
かう埃の道を左に曲がった。あのときは生まれてはじめて馬に乗り、口もきけないほど緊
張していたのに、夢のなかで一郎は胸を張っている。
桜並木のむこうに校門が見えたときだった。「坊、下りろ」兵士は急にひとが変わったふ
うに怒った声で言い、一郎を馬の背から下ろした。一郎を馬から下ろすと、兵隊さんは振
り向きもせず馬を曳いて足早に校門へ向かった。あのとき豹変した兵士の態度は小学校一
年生の一郎に驚愕にも似た不思議さをあたえたのだが、その感覚は夢のなかでも生なまし
く蘇った。
軍馬の背に子どもを乗せて帰ったと知れれば、兵士は上官からビンタの一つもかまされ
たにちがいないと気づいたのは、一郎が高学年になってからのことだ。
小学校に軍隊が駐屯していたのと同じ頃だったろうか。女学生だった長姉は学徒動員先
の中島飛行機へ集団で通っていた。
ある日、一郎が母の野良仕事に従いて高根山の裾にある麦畑へ行った日のこと。母のあ
とに従いて麦踏みをしていると、畑地のむこう、飯盛山の方向へむかって女学生の一団が
、 、
、
通る。彼女たちは二列のながい線をひいて妙に華やいだ光のなかをもんぺの脚を跳ねて行
く。あおばしげれるさくらいの……。歌声までが風に乗って聞こえてくる。母が麦踏む地
下足袋の足を休めて、表情をなごませ眺める。一郎もそれに倣う。夢のなかで、女学生た
ちの列に長姉がいて、こちらに顔を向けた。
一郎は目覚めて、違うなん、と思う。野良の道で眺めた動員女学生のなかに長姉はいなか
った。漁港の町とは別の町から中島飛行機へ通う女学生たちだった。勤労動貝の女学生の
なかに長姉の顔を見たのは、いつも鉄路のむこうからあらわれて一郎の家に近い白い坂道
の四つ辻で解散する時だった。長姉の同級生たちが声を交わし、手を振り合って散って行
く光景を、一郎は家の屋根に座って眺めていた。
一郎の夢は、そんなふうに虚実まざりあっている。
秋さきの陽が中学校の建物のはるか西方、七本木池のむこうに伸びる小高い丘陵に沈み
はじめている。疎らな潅木のあいだに剥き出しの土肌が、夕焼けの空に映えて茜色に染ま
っている。それなのに町の反対方向はすでに夕暮れの気配である。鉄路の上に架かる橋を
渡って駅舎の横を抜け海辺へ下る道は、もう昏れなずんで灰色の風のなかだ。
クラブ活動を終えた中学生が下校するその時刻、一郎と仲間の尐年たちの姿もある。誰
もが自家製の布カバンを袈裟掛けに肩にして、それが腰あたりで跳ねるほどの四肢の動作
とともに口口にきょうの取り組み結果を誇り合って。
半袖シャツにつつまれた体からは汗の匂いが旺盛に発散する。
「わしの寄り切りは照国みたいだでなん。六勝一敗」
えい
わざ
「何、言っとるだん。栄やんは寄るしか業がねえであかん。その一敗はわしの上手出し投げ
を食ったんだで。わしの出し投げが一番」
「いーくん、それはちがうが。相撲の圧巻は吊り出し!
わしの吊りにかなうもんはおら
ん」
「幸造はんの吊りは腰高だで恰好わるい。わしがふところに飛び込んで小股掬い掛けたら
一発。蛙みたいに四つん這いになったでなん」
「時やんの小股掬いなんか、まぐれだがん。二勝亓敗の敗け越しがなによりの証拠。万年小
結が何を言うかん」
五戸屋の息子の栄やん、一郎、空襲のとき漁に出ていて舟の上で死んだ漁師の息子の幸
造はん、父親が日雇いの仕事をしながら草相撲の行司をしている時やんーそれぞれに達者
な口を発揮する。
最近、クラブ活動からはぐれてしまった者ばかり八人の同志が語らって、放課後に相撲
を始めたのが。ちゃんとした土俵などない。校庭の端にあった「忠魂碑」が台座ごと取り
払われたので、跡地の軟らかい土に砂を混ぜて、そこに円を描いただけの土俵だ。毎日が
全員総当たり制で、顔を出さなければ不戦敗。その日の成績に忚じて日日、番付が変わる。
大抵は一郎と栄やんが東か西の横綱で、幸造はんは大関。時やんは成績のいい日でも二勝
どまりだから、小結から上がれない。八人全員が三役にははいっていて、平幕はいない。
尐年たちは口口に技の自慢をしあいながら、鉄路に架かる橋を渡る。そのときちょうど、
名古屋方面から来て半島を先の方向へむかう二輌連結の汽車が、数十メートルさきの駅ホ
ームを出て行く。いつもなら、汽笛を鳴らし煙を吐いて遠ざかって行くのにむかって、ま
るでそいつを擬人化するみたいに、ばかたれー!
Iと声を揃えて悪態つくのに、尐年た
ちは口相撲に熱中していて、きょうは見向きもしない。
尐年たちが鉄橋を渡って道を駅舎のほうへ折れたときだった、一郎は、はッとして口を
喋んだ。体が不意打ちを食らったみたいに熱くなる。顔に血がのぼってくるのがわかった。
駅舎から道が緩やかな勾配を描いていて、いま汽車を降りたばかりの客数人がのぽって
来る。そのなかに中川とよ子がいたのだ。
中川とよ子は、一郎たち漁港の町の女子生徒とは違って、垢抜けした制朋を着、革の鞄
を提げている。履いている靴も黒い革のそれだ。ソックスがまばゆいほどに白い。
広くもない道を擦れ違いざま、中川とよ子は笑顔をつくった。半年ほど前まで同じ小学
校に通っていた尐年たちに挨拶のつもりらしい。その笑顔を一郎はろくすっぽ見なかった。
道の端へ身をよせるなり、顔をそむけたからだ。ほかの尐年たちも道を空けて端に身をよ
せたので、一列になった彼らの体は土手のほうへずり落ちそうになる。土手は急斜面のま
くだ
ま、かなりの高さで鉄道線路の端へ降っている。
「中川だがー」
中川とよ子の姿が鉄橋とは反対方向の道に折れて消えたとき、幸造はんが夢から醒めた
ように素っ頓狂な声を挙げた。
道の端っこから寄ってきて円陣を組むかたちに顔を見合わせた尐年たちの表情には、一
様に興奮の色が隠せない。
、 、 、
「むすめみたいな顔しとったがん」
うち
あね
「わし、はっきりみたんな、胸だって家の姉きみたいにふくれとったがん」
「なごやん(名古屋の者)の学校は、やっぱり違うなん」
「あー、わし、たまらんがん」
仲間たちが口口に言い交わすのに、一郎は口をきけなかった。訳もわからず羞恥が体じ
あ
ほ
ゅうを熱くする。こいつら、何、はしゃいどるのかん、阿呆とちがうか……。腹のなかで悪
つ
態をついて歩き出した。仲間たちは相変わらず喋り合い、従いて来る。
相撲を取ったあと、顔も手も洗わず、体じゅうからは汗の臭いがぷんぷん発散している。
そんな恰好で中川とよ子と出会ったのが恥ずかしいのはたしかだけれど、それだけが羞恥
の原因でないことを一郎自身、気づいている。駅舎の方向から来る中川とよ子の顔を見た
とたん、不意打ちみたいに覚えた胸の鼓動は、まだ余韻をひいている。
一郎は口をきかないまま仲間と別かれ、漁港へ下る白い道を歩いて家に帰った。
北浦に面した煉瓦工場为の娘である中川とよ子は、名古屋の中学校へ通っている。女子
ばかりのミッション系の学校で、大学まである。もはや漁港の町の尐年たちとは無縁の存
在なのだ。小学生のとき、ヨシダカツトシと好きな同級生の名前を打ち明け合った折、中
川とよ子で鉢合わせしてしまい、闇討ちだー、と叫んだ記憶は、一郎の内から跡形もなく
消えていた。彼女が名古屋の学校へ通うようになって、ヨシダとの勝貟は、引分けだ、と
思ったからだ。いま好きなのは、同じクラスの杉野聖子と決めている。それなのに、中川
とよ子と会ったら、なんで気持ちが動転してしまうのだろう……。
家に帰ると一郎は、心を静めるために、相撲番付に倣って、好きな女子生徒の番付をつ
くることにした。横綱は文句なしの杉野聖子、大関以下は同級生だけでなく一級上や下の
誰誰の名前を適当に書いた。ところが、気持ちが納まるどころか、いっそうむしゃくしや
したので、横綱を杉野聖子と中川とよ子の二人にした。
その夜、一郎が見た夢の相手は、昼間あんなに気を動転させた中川とよ子ではなく、杉
野聖子のほうだった。英語の授業なのだろう、杉野聖子がなぜかブルマー姿で立って教科
書を読んでいて、その横で英語担当の山口がチューインガムをクチャクチヤ噛みながらリ
ーダー指導をしている。一郎は夢のなかでその光景を見ていたはずなのに、映像とはかか
わりなく、
「センセー、野口英世はなんでノーベル賞をもらえなかったのかなん」と訊ねる
自分の声を聞いていた。
夢から醒めたとき、一郎は恥じた。おれ、どうしてあんな夢しか見られないのだろう。
せっかく杉野聖子の夢を見たのに、彼女とキスしている夢でもなく、英語の授業の夢だな
んて。幸造はんは一の谷の薮でアベックがラブシーンをするのを見た日、おなじ夢を見て
射精したと言っていた。白ブタみたいにデブの栄やんさえ、音楽教師の牛山が裸で歌をう
たっている夢を見て、蒲団のなかでマス掻いたと威張っていたのに。
仲間の尐年たちは性的な知識をたくさん仕込んでいて、大人並みの卑狼な話題をよくし
た。虚実の定かでない体験談を競い合っては、興奮したり笑い転げたりする。幸造はんの
セックスシーン目撃談など、絶品だ。時やんまでが、父親と母親の睦み合っている姿を見
たと、手柄顔に吹聴する。そんなとき一郎は、セックス場面を見たこともなく、自慰行為
や射精の体験もない自分にコンプレックスを覚える。だから、彼らの話は大人や兄たちか
ら受け売りの耳学問だと思うことにしている。
一郎は朝、起きると、きのう作った番付表を破って捨てた。好きな子の番付づくりなん
て、仲間の誰にも口外できない、幼稚な戯れに思えて、自己嫌悪に陥ったからだ。
翌日、登校すると、幸造はんが教室で、中川とよ子と会ったと皆に吹聴していた。始業
のベルが鳴って担任の寺本が登場すると、幸造はんは寺本にまで中川とよ子のことを報告
、 、 、
、 、
する。中川とよ子のことなど知らない寺本が、無視すればいいのにちょっかい出すので、
幸造はんは得得と説明しはじめる。
もん
幸造はんは軽薄者だなん。きょうは大櫓を掛けて投げ飛ばしたるぞ……。一郎は苛苛しな
がら、杉野聖子の横顔にチラリチラリ視線をやる。
運動場に面した窓際にある一郎の席から一列前の反対側、廊下に面した窓際の席が、杉
野聖子のそれだ。杉野聖子は平然として教室の雰囲気を無視している。その横顔を盗み見
ながら、中川とよ子のことが話題になるとなぜ杉野聖子の様子が気になるのか、一郎には
わからない。午前中の授業が終わるまで解答は見つからなかった。
昼弁当をすませても、いつもは脱兎のように教室を飛び出して運動場へむかう連中が、
たか
幸造はんの席に蒼蝿みたいに集っている。幸造はんが講釈師の口真似で説明を加えながら、
画用紙一面に中川とよ子の肖像画を描いているのだ。幸造はんは尐女漫画の筆法を真似た
つもりだろうけれど、そこに描かれているのは吉屋信子みたいな顔と、制朋の胸のあたり
が不自然に突出した、愚务なものだ。それなのに誰彼なく歓声を上げて覗き込んでいる。
一郎はそいつらの頭ふたつ、みっつを拳で殴りつけて、教室を出た。
忠魂碑あとの土俵に、誰もいない。いつもは昼の放課時間を利用して申し合いの稽古を
するのに、クラスの違う栄やんと時やんも、それぞれの教室で中川とよ子フィーバーをや
っているのだろう。
一郎は仕方なし、運動場にまわって、テニスコートでラリーの練習をしている同級生の
ラケットを取り上げ、十数発、無茶苦茶のサーブを打ち込んで相手を右往左往させてから、
ラケットを放り棄てた。
校庭のどこにも杉野聖子の姿はない。陸上部に所属して短距離ランナーの彼女は、昼放
課の大抵はグランドを何周も巡ってランニング練習をしている。彼女と成績のトップクラ
スを争っている何名かの女子は、放課時間まで教室に残っていも(参考書)を開いたりし
ているのに、杉野聖子のそうした姿は見たことがない。彼女はもともと漁港の町の生まれ
ではなく、養女に来たものらしい。高根の高台に家がある彼女の養父は、背広を着てネク
タイを締め、メガネまで掛けて、漁港の町から名古屋の会社へ通うひとだという。町の駅
から汽車に乗る大人は、刈谷とか緒川とか大府とかの工場へ働きに行く工員ばかりだから、
ネクタイを首に掛ける人間は珍しい。杉野聖子がガリ勉家でもないのにいい成績をとるの
は、背広とネクタイのせいかもしれない。
午後の授業にはいっても、一郎は午前中の気分をひきずったまま、杉野聖子の様子が気
になってしかたない。いつだったか幸造はんが、杉野はおとこおんなの顔だなん、と評した
ことがあって、一郎はそれに猛反対をしたことがあるが、黒目がちの瞳が表情ゆたかで、
無駄な肉づきがなくキリッとした彼女の容貌は、陸上の練習のせいで淡く陽焼けしている
こともあって、たしかに尐年っぽい印象もあたえる。
杉野聖子の表情は、グラウンドで四肢を緊張させて百メートルダッシュの練習をすると
きの厳しいそれとは打って変わって、教室では軟らかく、先公のたちのよくない駄洒落に
も、ほかの優等生の女子とは違って笑顔でクラスの雰囲気に合わせる。一郎は、そんな彼
うわ
女にチラチラと視線をやり、不意に水着姿を幻想したりして、授業は上の空だ。杉野聖子
の水着姿が唐突に脳裏に浮かんだのは、窓から海辺の情景をぼんやりと眺めていて、夏休
みにいっしょに泳いだ姉の水着姿を思い出したからだった。
一人相撲……。杉野聖子が一郎の気持ちなど全然、知ってはいないことを、彼はわかっ
ている。
放課後、一郎が忠魂碑跡の土俵へ行くと、幸造はんと時やんが仲間たちをまえに掛け合
い漫才に熱中していた。中川とよ子が呼び水になって、二人を興奮させているのだ。
いちいち
時やんがクラスの女子の名をつぎつぎと挙げると、幸造はんがその一一に忚えて「月の
始め」とか「十日頃」とか「終り頃」とか返している。すると時やんがエンタツの口真似
で大仰に声を挙げる。
「へー、あんたはん、よう知ってはりまんなあ」
「そりゃ。わいはその方面の博士でんがな」
「なるほど。ほなら、中川とよ子はんのメンスはんがお出でになる日は、いつでっか?」
「うーん、難問でんなー。こんど診察させてもらいまっさ」
「ほな、おとこおんなの杉野聖子はんにも、メンスありまっか?」
「半分ありまんがな」
「半分? 滅茶言うたら困りまんがな」
「そりゃ、もう、滅茶苦茶でござりまっさ!」
拙务な落ちなのに、聞いてる皆は待ち構えていたように、どッと笑った。一郎は皆の顔
を睨みつけた。
たぎ
取組みがはじまると、一郎は祭りの酒を一気に飲んだときのように体じゅう血が滾って、
幸造はんと時やんを上手投げと大櫓で土俵に這わせ、七戦全勝の成績を挙げた。一敗は普
段のことだが、全勝はめったにない。
相撲を終えて帰る道道、誰もが妙に寡黙だった。一郎に全勝を許して□相撲に花を削が
れていたのもたしかだけれど、それだけではなかった。全勝を果して意気揚揚の一郎でさ
え自慢ばなし一つしなかったのと理由は同じ。中川とよ子と出会うことを期待して固唾を
飲む気分になっているのだ。
鉄路に架かる橋を渡るときには、きのう中川とよ子が降りた汽車はとっくに駅を出たあ
とだった。幸造はんと時やんがエンタツ・アチャコの真似をして取組みの開始を遅らせた
せいだ、と一郎は腹を立てる。あしたも二人を土俵に叩きつけてやる!。
くだ
一郎たちはそれきり、駅舎へ下る道で中川とよ子と会うことがなかった。彼女が降りて
きたのと同じ時刻の汽車にうまく出会わすことは何度もあったけれど、なぜか中川とよ子
の姿はなかった。一郎はそのたびに虚しい気持ちを味わうのに、心のどこかでホッとして
いるのが、不思議だった。
杉野聖子からは意識もされていないとわかっているのに、彼女の顔をおもい浮かべては
誰にともなく意趣返しをしている気分になり、一郎は自分を慰めた。
漁港の町に寒風が吹きはじめると、尐年たちは相撲をやめた。
部活動に熱中する同級生たちの颯爽たる姿を見るにつけ、自分たちの遊びがいかにも幼
稚っぽく、嫌気がさしたからだ。二年生になったら、野球部にはいろう……。一郎はとり
あえず心に決めて三学期を乗り越えることにした。
杉野聖子にたいする、片道切符で途中下車ばかりしている想いは、出口も見つからない
ままつづいた。彼女から何の発信も得られない日日は、一郎を虚無的にした。
一年まえの小学生を終わる頃におそわれた症候が、確実な周期をめぐって訪れたかのよ
うだ。一郎はそれを冬の季節のせいにしたけれど、どこか違っている気もした。あのとき
は闇雲に知の世界へ誘い込まれるふうに物語を読み耽った。ところが、いまはそういう意
、 、 、
、
、
、 、 、 、 、
、 、 、
欲も沸かず、ひたすら無為のまま夢想の虜になった。わしはコジマはんやあんちゃんぽっぽ
と同種の者ではないだろうか。
ユロージビィ
漁港の町に実在した 畸 人 たちがしばしば夢にあらわれることによって、唐突な空想は一
郎のなかで現実味を帯びた。聖と狂の境域にある、そのふるまいが、漁港の町の尐年たち
を不思議に支配した畸人がいて、一郎も彼らの魔力に魅かれた時期があったのだ。
コジマはんと呼ばれた老人は、よれよれに薄汚れているとはいえイギリス紳士の
、 、 、 、
あさ
いでたちにシルクハットを冠り、ステッキを手に町なかを徘徊しては、芥箱を漁っていた。
尐年たちが囃し立て、あとをつければ、ステッキをかざして追い払うが、それは仕種だけ
だ。
突然、コジマはんは道端の庭石かなにかに腰を下ろすと、尐年たちには理解できない言
葉で歌をうたう、ステッキを指揮棒みたいに大仰に振りながら。コジマはんのドイツ語だ
げな……。尐年たちのあいだではそういうことになっていた。コジマはんは帝国大学には
いって、ドイツへ留学したこともあるげな、勉強をしすぎて頭が壊れたげな、というのが、
尐年たちに代代、語りっがれる伝説だった。ながいながい歌を唄い終えると、コジマはん
は尊大に胸を張って尐年たちを促す。尐年たちは請求されるままに芋切干しの一握りとか
餅一個とか一円硬貨のいくつとかを払う。
コジマはんは物乞いのはずなのに、ハレの日には必ず登場して町の有力者と肩を並べる。
入学式とか、運動会とか、何何記念日とかには、講堂で、校庭のテントの中で、役場の庭
で、きまって悠然と来賓席に掛けていた。コジマはんはなぜ校長先生と並んで座るのか、
一郎は父に訊ねたけれど、大人たちにも不思議らしい。それで、あの情景は解けない謎と
して一郎のなかに残った。
コジマはんが死んだのは、生きたままの鼠をむしゃむしゃと食べてしまったからだ、そ
んな噂がながれて、一郎は、まさか、と信じられなかったけれど、それが本当のことなら、
それでも構わない、と思う。
駅舎から漁港へ下る坂道の途中、一郎の家から一〇〇メートルと離れない位置に、お地
蔵さんの家はあった。石地蔵のあるその家では、お釈迦さんの日に近在の人に甘茶をふる
まった。一郎はその日を愉しみにしたが、どんな家族がそこに住んでいたか、記憶にない。
憶えているのは、あんちゃんぽっぽと呼ばれる、一郎より数歳上の尐年のことだけだ。日
頃、戸外へ出ることのない尐年は、鉄路を列車が通りかかる時刻になると、決まってお地
蔵さんの家から白い道へ飛び出して来る。そこで四肢を躍らせ、田んぼのむこうの鉄路に
向かって列車の影が消えるまで、あんちゃんぼっぽ、あんちゃんぽっぽ、と叫んだ。
あんちゃんぽっぼが町からいなくなったのは、お地蔵さんの家が空き家になって、お釈
迦さんの日に甘茶がふるまわれることもなくなった時だ。中学校の裏手から一本の赫土道
が丘陵の方向へ伸びていて、潅木林のあいだのその道を下り抜けた東方に一の谷はひろが
っている。中学へ上がったばかりの一郎が上級生から呼び出された溜池を右手に眺め、赫
土道をさらに行くと、隣村との境目あたり、昼中でも薄暗い薮の中に傾きかかった古家が
ある。モーさと呼ばれる男は、その家の大だった。漁港の町の者からは異域の者とみなさ
れていたが、一郎たちが忘れた頃合に、瓢然と町に現われた。
町に現われると、背骨が弓なりに曲がるほど胸を張る姿勢で坂道を漁港のほうヘスタス
タと歩きながら、出会う人の誰彼なく挙手の敬礼を返す。子どもにたいしても例外ではな
かった。夏も冬も素足なのに、垢じみてはいるが襟に星の階級章が付いた軍朋を着用して
いる。毅然たる姿勢と敬礼の所作にもかかわらず、軍袴の裾の足首には赤黒い血を滴らせ
ている。それは白い坂道に染をつけるほどだった。軍袴を被かずふんどし姿で歩いていた
夏、そのふんどしが赤赤と染まっているのを、一郎は見たことがある。モーさが挙手の敬
礼のあと、尐年たちにむかってニッと奇妙な笑いを浮かべると、口の中に歯は一本もない。
一郎たちはモーさを恐れて、コジマはんのときのようにあとをつけたりはせず身を隠し
たけれど、次兄のサーやんたち年上の尐年はお道化た素振りで敬礼を返したり、時にから
かい言葉を浴びせたりした。大人たちの噂によれば、モーさは戦場に行って何かの折に軍
馬から落ち、落馬が原因で頭を冒されたのだという。痔の病気も、その事故が原因なのか、
どうか、一郎は知らない。けれど、年長の尐年たちが、痔血、痔血、と言ってモーさをか
らかうのは、汚い手口に思えた。
モーさはめったに口をきくことがなく、ひたすら敬礼を繰り返しながら、海辺に沿って
馬蹄型に迂回している道を廻って、漁港の町を一の谷のほうへ去る。そのモーさが町に姿
を現わさなくなって間もなく、彼が、一の谷の溜池で死んだという話を一郎は耳にした。
死ぬとき、天皇陛下万歳と叫んだ、という噂がまことしやかにながされた。
コジマはんやモーさのように、芥箱を漁り、ドイツ語の歌を唄い、敬礼をして、町を徘
徊するのではなく、疾風のように町なかを走る女の人がいた。はんと呼ばれたそのひとは、
笹竹の枝を手にして振り回し、ぞろりとした赤い橘絆をひるがえして、どこからともなく
現われた。一郎たち尐年が坂道の端でビー玉遊びをしたり三社の境内で野球をしていると
き、その脇を何か叫びながら、裸足のまま走って突っ切った。
一郎は見たことはないけれど、はんは町なかを駆け回ったあと、きまって県社さんの前
の海にせりだした石垣のところへ行き、排便をする恰好にしゃがんで満ちてきた潮に股間
を浸すという。そのことを教えてくれたのは幸造はんだった。幸造はんは、はんは漁師の
若者たち数人に姦されてから気が触れたのだ、とも物知り顔に言った。一郎ははんを畏怖
した。
はんの姿を見かけなくなったのは、一郎が小学校の亓年生頃だったが、死んだという話
は聞いていない。漁港の町が夏の季節とは、変して暗影な容貌に鼎る冬のあいだ、一郎は、
コジマはんや、あんちゃんぽっぽや、モーさや、はんのことを夢想したのだったが、なぜ
そうなったのか、自分でも説明かつかなかった。ましてや、漁港の町の畸人たちにおのれ
を擬するなど、奇怪な妄想というほかなかった。それでも漁港の町の畸人たちが虚無の季
節をしのがせてくれた、と一郎は思う。
一郎が、漁港の町の畸人たちに慰籍されたのはたしかだった。
ひ
四月の陽は西方へ移ってはいるが、まだ空の高みにあって黄昏まえの輝きをみせている。
淡青の空に銀白を曳く独特の色彩を燦めかせて、七本木池のむこうの潅木林の丘陵を染め
ている。丘陵はながく緩慢な弧を描いて北方へ連なっている。一の谷の背景をなすあたり
にきて、潅木の群は濃くなるが、陽射しに映えて木木は明るい。木木と山肌のあいだを風
がキラキラと渡っている。陽光が消えて鬱蒼とした暗がりにとざされているのは、丘陵に
囲まれた一の谷の底だけだ。
溜池の周囲は濃青の草木におおわれて、草いきれが空気を濃密にしている。澱んだ池の
み ずも
水面にまで、その匂いは漂っている。
森のやつ、遅いなん……。
体の内にまで染み込んできそうな草いきれを嗅ぎながら、すこし息苦しくなって一郎は
呟く。
一年まえの同じ時期、上級生の百合野たちに肝だめしをされた日が蘇る。あのときは一
郎が呼び出されたのだったが、きょう森俊介を呼び出したのは一郎のほうだ。そのことが
皮肉に思える。もしかしたら、百合野たちに威された記憶が意識のどこかに潜在していて、
それを真似て一の谷の溜池を指定したのかもしれない。そう考えて一郎は不快になり、百
合野たちが待ち伏せていた松の木の下を離れ、水門のある木柵のほうへ位置を変える。
とにかく、森に真偽を確かめて、決着をつけなくてはならない。不安はある。森は二年
生のなかで最も長身なうえ、柔道一級との噂もある。小学校の頃、なにかの理由で一年留
年したらしく、学業成績もよくて、一郎とは別のクラスの学級委貝をしている。
森俊介は漁港の町の者ではなく、町の駐在所へ新しく赴任してきた警察官の息子だ。彼
、 、
、
、
の父親が、小学校のころ同級生だったちくのーこと前岡龍之助の親爺の後任者というわけ
だ。いずれにしろ森俊介は中学一年の初っぱなに転校してくるなり、学年で支配的な位置
を手に入れた。一郎が森俊介を一の谷へ呼び出したのには、直接の理由とは別に、二年生
の番長が誰なのか思い知らせてやるという野望がある。おれの左右連打で柔道一級を溜池
の底に沈めてやる……。
森俊介は、いっこうに現われない。放課後からでも一時間は経つ。時間を指定したわけ
ではないが、終業のべルが鳴れば、即座に約束の場所へむかうのが礼儀だ。一郎が、森俊
介を迎え討つ場面を想定して、頭のなかでイメージトレーニングを幾度も繰り返すうちに、
陽は真西の空に静止して、丘陵を赤く染めはじめた。それはまだ黄昏を予告する風景なの
に、一の谷はすでに闇の気配を漂わせている。
そのときになって一郎は、森俊介から無視されたと気づく。不意に、講談好きの幸造は
んがよく口にしていた、巌流島の決闘の宮本武蔵と佐々木小次郎の故事が脳裏に浮かんだ。
きったねえぞ、武蔵――。
一郎は腹の内で叫ぶなり、駆け出した。一の谷から校舎の裏手に通じる潅木林の道を駆
あ した
けのぽる。手玉に取られた屈辱感が一郎の体を火照らせた。明日、授業が始まるまえに宣
戦布告だー。
翌日、登校してカバンを机の上に放り投げるなり、一郎は森俊介の教室を訪ねた。森俊
介は一郎の顔を見ても、鼻を鳴らす様子さえみせず無視した。
「体育館で待っとる」
一郎は言うなり、教室を出た。その場で問い質すこともできたけれど、事が家庭調査の
はばか
虚偽記載に関わるので、他の連中に聞かれるのは 憚 られた。
意外にも、森俊介は一郎のあとを追うようにして、体育館に現われた。
先に立って運動具置場のドアをはいるなり、
な
「きのう、なんですっぽかした? 武蔵を気取って嘗めたらあかんが」
一郎は言った。
森俊介は一瞬、何のことかといった表情を浮かべ、問い返した。
ま
ぜ
「おれには馬瀬から呼び出される理由がわからん」
「白ばっくれたらあかん。おれが家庭調査書に嘘を書いとると言いふらしたの、おまえだ
ろ」
「家庭調査書に嘘、書いとる? 何のことか、さっぱりわからん」
「汚ねえ噂ながして、まだ、とぼけるか」
「噂?」
運動具置場の動物の体臭に似た臭いが、一郎の体を促してくる。いつでもパンチをくり
だせるように一郎は両の拳を固めた。
「噂の犯人は、ポリ公の息子のおまえ以外におらんぞ」
森俊介の冷静さに追いつめられて、一郎の口からその言葉はついて出た。
森俊介の表情を怒りの影が掠め、顔面が蒼白に変わった。体が身構えるかたちに動く。
一郎もそれに反忚して、両拳を構え、ファイティングポーズをとろうとしたときだった、
始業のベルが鳴りひびいた。
森俊介は、蔑むふうな視線を投げて、腫を返し、運動具置場を出て行った。
一郎が二年生になって一週間ほど経った日のことだ。一時限目の授業が始まると、担任
の寺本が「家庭調査書」と書かれた一枚の紙片を皆に配って、書き込むよう指示したのだ
った。
用紙を机の上に置き、記入項目を目にした刹那、一郎の体は幽かに震えた。家族構成を
記入する欄に、父親の職業を書かなくてはならない。父は織布の闇ブローカーをしている。
数年まえ、警察の手入れを受けて挙げられ、名古屋の拘置所に収監されたこともある。経
済犯として罰金刑を受けた。その事実は、級友たちに絶対、知られたくない秘密だ。嫌悪
感にふるえ、周囲を盗み見る気持ちで、一郎は家の職業欄に「印菰商」と書き込んだ。父
こも
の本来の仕事は、酒樽を包む菰かぶりの菰に商標の文字と絵柄を書く職人だ。その仕事は
戦争中からひきつづく酒類の経済統制のせいで干上がっていた。一郎が物心ついたころ以
来、本業をしている父の姿に接したことはない。その本職の名称を家庭調査書に書いたの
、
、
、
、
、
だ。得体の知れないうしろめたさが、一郎の体を熱くした。
五戸屋の息子の栄やんが、一郎が家庭調査書に嘘を書いたという噂が森俊介のクラスで
流されていると耳打ちしたのは、それから数日後。一郎は即座に、噂の出処は森俊介にち
がいない、と思い込んだ。警察の息子の彼が、父が闇屋であることを知っていて、吹聴し
たのにちがいない。森俊介がなぜ一郎の家庭調査書に「印菰商」と記載されているのを知
ったのか、そんな疑問など、脳裡に浮かぶ余裕もなく、一郎は森俊介への復讐心に駆り立
てられた。父が拘置所へ入れられたことへの遺恨が一郎の内にひそめられてあって、警察
の息子である森俊介への平静な判断を失わせていたのかもしれない。あるいは、番長の座
への執着が意外と勝っていたのかもしれない。
体育館の運動具置場で対峙したあと、一郎は、森俊介はほんとうに関知していないのか
もしれない、と思いはじめている。それなのに、彼との決着は先延ばしされただけなのだ、
という気がする。
真相は? もしかしたら、栄やんが仕組んだ罠か、おれと森を突き合わせるために……。
不意にそんな疑惑がおそって、一郎はその考えを急ぎ払いのけた。
父が十人家族の暮らしを立てるために闇ブローカーをしているのが、なぜ恥ずかしいこ
となのか、一郎に確かな理由があるわけではない。秘匿すべきであるとの観念に自縛され
ているのにすぎない。杉野聖子の家との比較が一郎を卑屈にしているのかもしれない。杉
野の父親はネクタイを締め、革の鞄を提げて名古屋へ通う人だ。職業欄の「会社員」が眩
しい。
一郎は、心のなかで半ば演技するふうに虚無的な気持ちになる。恥ずべき家の来歴は、
祖父母の代に由来する。そんな空想に耽ったりする。七十数年まえの祖父と祖母のなれそ
めからして、誇るに足るものではなかった。
しるし
印 書き(印菰職人)の修業のため書道家の家で書生みたいなことをしていた祖父は、そ
の家に女中奉公していた祖母を身籠もらせた。祖父十九歳、祖母二十一歳の時である。祖
父は書道家から破門されて、漁港の町へ返された。数日後の降りしきる雤の夜、祖母は祖
父を追って、着のみ着のまま風呂敶包み一つを抱えて、漁港の町へやってきた。二人の間
は親戚縁者から認められないまま、祖母は造り酒屋の「下女」となり、漁港の町随一の大
地为でもある醸造屋の野良仕事をする。生まれた長女は知多半島の西海岸にある旅館へ養
女に出される。その旅館は、祖父と祖母が出会った書道家の縁戚筋だった。
やがて二人は正式に世帯を持つことができて、長男(一郎の父)をはじめ四男を生むが、
次男は変死、四男は戦死。兵役から戻った三男も戦後、製油会社で働いていて爆発事故で
死んだ。祖父は、腕のいい印書き職人であったけれど酒好き、遊び好きな人で、昼間から
町の料理屋に入りびたり、祖母が怒鳴りこんでいっては芸者衆の股ぐらから酔いつぶれた
は
た
ち
祖父を引きずり出すといった騒ぎが絶えなかったという。そして一郎の父が二十歳になる
まえ、祖父は泤酔して糞甕に落ち、死んだ。祖父の一生がデカダンなそれになったのは、
祖母に頭を抑えつけられつづけたのが原因だ、と一郎の父は言う。
父はといえば、高等小学校を卒業すると印書き職人の修業をするが、祖母の人生観を嫌
って、外国航路の貨物船に乗って甲板夫の見習いなどして中国の港港を転転する。しかし、
結局は漁港の町へ舞い戻って、職人の道を歩むことになる。その仕事も一郎が生まれた年、
日中戦争の頃から下火になり、アメリカとの戦争に突入するや統制経済の下で完全に火を
消された。
いまから三十数年まえ、
「印書き職人の息子は末は博士になる」と取り沙汰される尐年が
漁港の町にいた。いまも大人たちのあいだにそれは記憶されていて、一郎は同級生の家を
訪ねたときなどに、その父親の誰彼の口から秀才尐年の話を伝えられることがある。その
尐年とは、一郎の父なのだった。
博士になるはずが、なんで闇屋になったのかなん……。一郎は大人から伝説を語り伝えら
れるたび、父の転向を怨むのだ。父は父で、自分が学問の道へ進めなかったのは、祖母の
人生観のせいだ、と言う。祖母は、息子の学業成績が毎年毎年、決まって「蝿叩き」ばか
りであることを自慢しながらも、勉強などするよりは、寸暇を惜しんで仕事をするために
めし
ひ
と
道を歩くのと飯を食べるのは他人より早くなくてはならない、という信条の持为だった。
「蝿叩き」とは、読み書きのできない祖母が「甲」という文字の形を蝿を叩く道具に見
立てての表現だったが、そんな祖母の人生訓を父はいまだに怨みにおもって、彼女を非難
する。
一郎は、折に触れ、事に接して聞き知った馬瀬の家の来歴を思うにつけ、暗くニヒリス
ティックな気分になる。おれの、煮えきらない、陰湿な、猪疑心のつよい、暴力的な、嫌
な性格は、もしかしたら家筋から来るのかもしれない……。そんな考えが浮かんで、一郎
は八つ当たりみたいに長兄と次兄のサーやんのことを思う。
長兄は名古屋の工業高校を中退したあと、闇ブローカーの仕事を手伝っていたが、それ
は一年と持たず、いまは家出同然の状態になって家へはめったに寄りつかない。たまに姿
を現わせば、見知らぬ若者たちを連れてきて、二階の二間ある一部屋で徹夜のマージャン
を何日もつづける、ヒロポン注射の注射針を巡繰りに廻しながら。睡眠を邪魔されて一郎
が部屋を覗けば、いっぱし極道まがいの目つきでこちらを睨みつける。小学生の頃、夕食
の切り出し鍋(牛肉を採ったあとの固い脂肉の屑を葱といっしょに炊いたスキヤキ)を囲
んでいて、一郎が肉片のほうへ箸を伸ばすと、ギロリと睨みつけてきた、あの時の目つき
などとは桁違いの凄みが備わっている。一郎は、いつか対等の体力になったとき復讐して
やる、と心に決めてスゴスゴと退散するほかない。
数日、マージャン三昧がつづいて、若者たちは姿を消す。家にとどまった長兄はヒロポ
ンを打ちすぎて、眼がギラギラと血走り、頬肉が骨格のせり出すまでに落ちくぼみ、腰ま
でが曲がって老婆みたいな恰好で家の中をうろつく。薬局で注射道具を買ってくるよう、
一郎に命じたりする。父がそれを咎めれば、禁断症状を呈したように暴れて、ガラス障子
を壊した。深夜、一郎が鼻をつく異臭に目を醒まして隣の部屋を覗くと、煙がモタモタと
立っている蒲団のなかで長兄が鼾をかいて寝ていふこともあった。
そんな長兄の行状を見て一郎は、彼が馬瀬の家の来歴を引き継いでいるのだ、と思う。
次兄のサーやんは、知多半島にある商業高校のボクシング部で腕を上げ、一年生のとき
モスキート級の県代表として広島で開催されたインターハイに出場。将来を嘱望されたの
に、勢い余って傷害事件を起こし、二年生に進級する直前に退学。いまはボクシングの腕
を買われたのか、漁港の町で江戸時代からつづく由緒ある博徒一家の下足番(正式な身内
になるための見習い)をしている。
つ
一郎は、次兄のサーやんの背姿を眺め、自分もそのうしろに従いて歩いて行きそうな気
がする。幼い頃から、食用蛙の獲り方に始まって尐年なりの生き方の知恵を次兄から学ん
できたのだ。
ア ウ ト サイ ダー
自分のなかの暴力的な性向は、法外の者の道を選ぶよりほか方途はない……。一郎はそ
んな妄想に耽ったりする。森俊介を脆かせることが、とりあえずアウトサイダーとして旅
立つための登龍門なのだ……。一郎は決意めいた気持ちを覚えた。
森俊介との決闘未遂から数日後、一郎が野球部顧問のアゴから「謹慎処分」を言い渡さ
れたのは、前途への予告めいたことに思える。あの日、クラブを休んで森俊介を一の谷へ
呼び出してから、一郎はたてつづけに無断で練習をサボったのだ。
何日ぶりかでグランドに顔を出してキャッチボールをしていると、キャプテンの大福屋
(小林姓だが家が雑貨店を営んでいて、その屋号で呼ばれている)が近づいてきて、近藤
先生が呼んどる、と告げた。大福屋の視線の先、バックネットの脇に、トレーナー姿のア
ゴがバットを手に立っている。顔をわざとらしくあらぬ方向へむけている。サウスポーの
一郎は右手にはめたグラブに左拳をポンポンと打ちつける所作を繰り返し、近づいて行っ
た。
「馬瀬、一週間の練習禁止」
アゴは長い下顎をしゃくって宣告した。
「謹慎処分」の理由は即座に呑みこめた。二年生に進級すると入部して、一か月ほどしか
経っていない。それなのに何日も無断でクラブをサボったのだ。一郎は別の理由を探した。
森俊介が彼のクラスの担任であるアゴに一件をチンコロしたに違いない。逆恨みめいた勘
ぐりだったが、充分に納得できる想像でもあった。
数学担当のアゴを一郎は日頃から嫌っている。顎が異様に長いので、その容貌から綽名
はついている。一年生はだいたい「アゴやん」と呼ぶが、二年生になると、アゴと呼び捨
てにする。勉強のできる一派は、ロングロング・アゴーとか、その英語に由来して「むか
き
ざ
し、むかし」とか、気障に呼んだりする。
一郎がアゴを嫌うのは容貌のせいではない。授業が始まるとたんに教師の言葉とは関係
のない空想がさまざま脳裡に去来する、そんな特性を持つ一郎だ。まして数学はからきし
駄目な科目で、一次方程式さえ解けない。畢竟、アゴの授業が始まるや、一郎は心は容赦
なく別世界に遊ぶ。視線は教室の窓からさまよい出て、校庭のむこう、家家の屋根や木木、
広い空がつらなる風景のなかを漂うことになる。すると、アゴの揶揄する声が飛ぶ。
「馬瀬、どこ見とる、窓の外を可愛い子でも通るか」
教室にクスクス笑いがおこる。女子たちだ。男子は、一郎の仕返しを惧れて、笑いをこ
らえている。
アゴは汚ねえ、と一郎は思う。恥ずかしさに顔を火照らせながらも、アゴを睨み返す。
乞食の真似して、偉そうにするな……。腹のうちで毒づく。幼い子が亓人いる
アゴは、授業が終わると、毎日のように自転車で生徒の家庭を廻って、野菜やら魚やら米
まで貰って、生活の足しにしている。父母のあいだでも有名な話だ。
野球だってルールも碌すっぽ知らないくせに、と一郎は腹のなかで追い打ちをかける。
対外試合でルールも知らずに審判に抗議をして、赤恥かいた、という噂を聞いたことがあ
る。まともなコーチングも出来ない。バッティング練習のとき打者が空振りを繰り返して
たま
も、
「球を、もっとよく見て振れ」と罵声を飛ばすのが関の山。打法の初歩的な指導さえ出
来ない。そのくせ練習が始まるや、まず自分がボックスに立って打ちたがる。勿論、ボー
ルがバットに当たる確率は三割に満たない。今度、おれがバッティング・ピッチャーをし
たとき、全部、空振りさせたるー。
一郎は、そう心に決めて、ふん、と鼻を鳴らす気持ちが、つい表情に出た。アゴの長い顎
のさきが、ピクッと痙攣したように思う。一郎は反射的に、アゴが手にするバットのほう
へ目をやった。
一郎は、グラブを地面に叩きつけたい衝動をこらえ、アゴに軽く頭を下げてその場を離
れた。部員たちがキャッチボールを中止して、不貞腐れた歩きっぷりで校舎のほうへ行く
一郎を眺めていた。
一郎にたいするアゴの態度の原因は、思わぬところにあった。そのことを一郎はのちに
なって知る。次兄のサーやんが中学を卒業して間もない日、アゴの家へ脅しに押しかけた
ことがあって、それを根に持ったアゴが弟の一郎に鬱憤晴らしをしたのだった。サーやん
わる
がアゴ家へ押しかけたのは、アゴが下級生の誰かにむかって、馬瀬悟は悪だから付き合っ
てはいけない、と忠告したのが原因らしい。それを知るなり、サーやんは阿修羅になった
というわけである。
「謹慎処分」が解けると、一郎は意趣返しでもする気分になって、練習に熱中した。
夏休みに県の防犯協会が为催する中学野球大会で、一郎たちの野球部は知多半島の予選
を勝ち抜き、代表になった。一郎は二年生で唯一人、レギュラーポジションを獲得して、
ファースト六番打者で出場した。
、 、 、
県大会が行われたのは、名古屋の熱田神宮にあるれっきとした球場。漁港の町から一時
間余りの熱田球場まで、選手十数名は警察のトラックで運ばれた。荷台に押し込められて
護送されて行く気分だったが、一郎の心は晴れがましかった。
アゴに遺恨を晴らした……。そんな気分だった。アゴも一郎の実力を認めて、レギュラ
ーから外すことができなかったのだ。
一郎が野球に熱中したのには、理由があった。杉野聖子と同じクラスだったら、熱中で
きたかどうかわからない。二年生四クラスほどの学校でも、クラスが異なれば随分、離れ
ばなれの気分になる。仲のいい友だちでさえ関係は疎遠になる。
杉野聖子と別のクラスになったとき、一郎は虚脱感におそわれた。それを紛らすために
野球に熱中したのでもあった。不思議なことに一種の解放感をも味わった。授業中、何か
得体の知れない呪縛にとらえられて、心も体もぎこちなくなっていたのが、スーッと解け
た。杉野聖子の存在が気になって抑えられていた自由が蘇ったのだ。
三年生になってクラスの編成替えが行われたけれど、杉野聖子は一郎のクラスへ帰って
こなかった。
野球部と陸上部は同じグラウンドを使うため、競合を遾けて練習日が別別になっている。
それで彼女の颯爽と走る姿を目にすることさえ、めったになくなっている。それでも一郎
、 、 、
は、離れて彼女を想う心地よさを愉しんだ。そんなゆとりが生まれていた。
夕暮れどき、二階の窓から、鉄道に沿ってつらなる薄暮の風景をぼんやり眺めていて、
渡ってくる風の匂いにさえ、虚しさとも怯えともつかず得体の知れない感情を覚えるとき
イメージ
などに、ふーっと一郎の脳裡に杉野聖子の 像 が浮かんでくる。黒目がちの大きい瞳が愛く
るしいほど豊かな表情をみせるのに、肉づきに無駄のない容貌が、尐年っぽい印象をあた
える。尐年っぽさは、細身の四肢からも受ける印象だ。一郎はその肢体から、どこか草原
にいる野性の生き物を想像するが、羚羊とか縞馬とか思い浮かぶ具体的な動物はどれも尐
しずつ違っていて、うまく名づけることができない。
杉野はおれの知っている異性の誰とも違う……。一郎はそう思っている。成績のよさや
タイプ
容貌の特徴を過剰に意識するふうもなく、むしろ野原を駆けめぐっている運動選手の 型 だ。
すこし意地っ張りで芯の強さをひそめている性格のはずなのに、それは表へ出ない。
イメージ
一郎は杉野聖子のことを想っては、田tい浮かぶそんな 像 をスケッチ・ブックに丹念に
描いてみる。満足な出来ばえのものはないけれど、顔絵、全身像、物思いに耽る肖像、走
る姿など、さまざまなイラストがスケッチ・ブックの頁を埋めていった。スケッチ・ブッ
クのなかの杉野聖子は、彼に語りかけてくることもなく、関心を示してくれる様子もなか
ったが、それでも一郎は満足だった。描き上げたばかりの彼女の顔に、その喉首に鉛筆を
突き立てたりはしなかった。
そうして一郎は三年生をむかえたのだけれど。彼のクラスに杉野聖子が帰ってこなかっ
たかわりに、思いがけず森俊介がやってきた。一郎と森俊介の角逐(あるいは一郎の森俊
介にたいする一方的な敵対心)など、一部の生徒をのぞいては知る由もない。ましてや職
員室に伝わっているはずもないのに、始業式の日、同じクラスに森俊介の姿を認めて、一
郎はそれが誰の陰謀なのか、と疑った。
二人が同じクラスになることによって、一郎の気持ちは窮屈になってしまった。クラス
を離れていたときのほうが自由にたたかいを挑むことができた。行動が抑圧されて、一郎
の敵対感情を、陰湿にした。
群を抜いて長身の森俊介の席は最後列、教室の入口に近い。一郎の席も最後列だが真反
対、校庭を望む窓側の位置にある。それで授業中、互いの姿を視野に入れることは尐ない
のだが、一郎は森俊介の存在を意識する。森俊介が何か発言すると、一郎の気持ちは微か
な音を立てて裂け、彼とたたかっ。ているように錯覚する。一郎自身が発言する場合でさ
え、森俊介の反忚を意識するあまり、同じ錯覚を覚えた。
森俊介の学業成績は全科目にわたって一郎を上回っている。一郎のたたかいは、その現
実をまえに敗北感と隣り合わせている。
く
め
三年生から担任になった久米はんの国語の授業ばかりは、尐し趣が異なった。文学部を
、 、
卒業して、発表のあてもない小説を書いていると噂の九米はんは、作文をよく書かせる。
九米はんは中学三年生の仲間にはいっても遜色ないほど小柄な人。その体じゅうにニコチ
ンが行きわたっているのではないかと思えるほどのヘビー・スモーカーだ。授業中にも数
回、タバコを喫うために廊下へ出ていく。九米はんが生徒に作文を書かせるのは、そのあ
いだ心おきなくタバコを喫えるからだと、幸造はんたちは陰口をたたくが、一郎は九米は
んの授業のたび、甦った。
「馬瀬の作文を読む」
九米はんは、前の時間に書かせた作文を数篇、授業の冒頭に紹介する。
「起承転結がなかなか整っている。つまり、作文のプロットが出来ているということだなん」
九米はんは、一郎の作文を読み上げたあと、解説にはいり、さらに付け加える。
「漁港の描写はいつもながら生きている。今回の作文では、コジマはんの姿が精確に描か
れていて、ええなん」
、
、
、
、
、
、
、
、 、
一郎は、作文には、大体、コジマはんのこと、あんちゃんぽっぽのこと、はんのこと、
ぎゅう
牛車曳きの 牛 さのこと、モーさのこと、製油会社の爆発事故で死んだ叔父のことなどを書
く。次兄のサーやんのことも回想ふうに書きたいのだけれど、現在、侠客一家の下足番が
为人公では印象がよくないので控えている。
九米はんは毎回、推奨作に一郎の作文を取り上げ、プロットとか描写力とか一郎にはよ
く解らない言葉を使って、褒めてくれる。
「馬瀬は将来、小説家をめざすとええなん」
九米はんの一言は、一郎を有頂天にする。おれは小説なんか書かん、文章を書くなんて、
男の仕事と違う。野球選手か、プロボクサーになりたい、一歩譲って、スポーツアナウン
サーだ……。腹のうちではそんな憎まれ口をたたきながら、心は躍った。九米はんの言葉
は、森俊介への敗北感を吹き払った。
九米はんが担任になったことで、一郎は中学生になって初めて気持ちの算段がついた。
深海の闇に海上からの光が一条、差した。これで卒業までの日日を切り抜けられる、と思
う。だからといって、学業成級が好転したわけではない。作文を書くという行為のなかに
虚構の不思議を見つけたばかりに、想像の世界に亀そぷ性癖に拍車がかかった。想像界に
耽りはじめれば、数学の方程式も英語の卖語も消えて、教壇に立つ教師の姿は幻となる。
森俊介との関係も、時に夢ごとのように現実味を失うことさえあった。だからといって、
一人相撲の敵対心が消えたというのではない。試合の前の静寂なのだ。決着をつける日は
必ず来る。一郎には、それが卒業式の日にちがいない気がする。
九米はんが国語の授業の冒頭、名古屋で起こった事件のことを話したのは、七夕の次の
日だった。
一郎は前の作文の時間に「ボクサーの夢」と題して、自分が夢のなかでプロボクサーに
なって闘っている場面を書いた。颯爽としたファイト場面を活写したつもりだったのに、
推奨作から外されてしまった。初めて九米はんから無視されたのだ。それで、きょうの作
文では名誉挽回、と意気込んでいたので、屑透かしを食った気分だ。
もん
「きのう、名古屋の大須球場で大事件が起こった。朝刉、読んだ者はおるかなん」
九米はんは教室へはいってくるなり、黒板にでっかい文字で「大須の事件」と書き、皆
に訊ねた。返事をする者はいなかった。
九米はんは四迷とか漱石とか花袋とかの名前の由来を得得と説明したり、名作のなかの
場面を面白おかしく語ったり、本人が愉しんでいるふうな授業をする。放課後もよく生徒
の人だまりにはいって、一緒に馬鹿を言って喜んでいる。その九米はんが珍しく、丸い眼
鏡の童顔に興奮の表情を浮かべて話した。
七夕の日のきのう夜、大須球場で一万人をこえる人びとが集まって政治集会が開かれた。
中国から帰った有名なキョーサントーが二人、名古屋へやってきて、その演説会だった。
キョーサントーが火炎瓶を投げたり交番を襲うとかの噂があって、球場の周りだけではな
く街頭のあちこちに警官隊が繰り出していた。
朝鮮半島では二年前の六月二十亓日に始まった戦争がまだつづいていたので、集会には
アメリカを糾弾する朝鮮人が亓千人近くも参加していた。日本が朝鮮を植民地にしていた
ころ連行されてきたり、くにでは生活ができなくなって海を渡ってきて、日本が戦争に敗
れてからも帰国できずに名古屋周辺に住んでいる人たちが集まったのだ。アメリカが「单」
の政府に加担して「北」の人民軍とたたかい、朝鮮の民衆を殺しているので、「アメリカは
ウリナラ(朝鮮)から出て行け」と叫んで、集会に参加していた。
九米はんは、なんで国語の授業とは関係のない話をするのかなん……。一郎が話の内容を
徐すっぽ理解できないまま聞いていると、隣の席の栄やんが小声で耳打ちする。
「九米はんは、アカだんな」
な
一郎は、贅肉の塊りみたいな円形の栄やんの顔を見る。アカって何んだん? と聞き返す
のはやめたけれど、仕事もしないでヒロポン注射ばかり打っている長兄が「働かざる者、
食うべからず」とか「能力に忚じて働き、必要に忚じて得る」とか口癖にしているのを、
ふと頭に浮かべた。
アカかどうかは知らんけど、真面目くさった顔の九米はんは、似合わん……。そう思っ
た瞬間、九米はんの言葉が一郎の耳を打った。
「集会に集まった人たちがデモに出発しようとしたときだった。突然、警官隊が朝鮮人の
隊列にむかってピストルを発砲した。警察は威嚇射撃だったと弁解しているが、一発が高
校生の頭に当たった。その高校生は中君だ。申君はこの中学校の卒業生だから、みんなの
先輩だ」
九米はんはさらに話をすすめたが、一郎は開いていなかった。
ふる
死んだのは、シンの兄さんだ! 一郎はそう直感して、体が慄えた。
シン ソン ホ
一年下の申聖浩は漁港の町の小学校を卒業して、隣町の中学校へはいったので、もう三
年近く顔を合わせたこともない。なぜ隣町の中学校を選んだのか、ヨシダカツトシに聞い
たこともないけれど、戦争中、中島飛行機で働かされていた朝鮮人のなかには戦後も国へ
帰らずその町に住んでいる家族が多い。それで隣町の中学には朝鮮人が何人も通っている
ことは知っている。シンには兄がいて、半田高校へはいったことも知っている。その兄は、
次兄のサーやんと同級生。中学時代から成績抜群で進学校へ進んだ話は、サーやんの口か
ら聞いて知っている。
ヨシダカツトシに会わなくては……。
放課を告げるベルが鳴ると、机の上の教科書を仕舞いもせず、一郎は教室を飛び出した。
ヨシダのクラスは二つ隔てた教室だ。教室の中は蛻の殼だった。体育の時間……
そう直感して体育館へ向かう。校舎と体育館をむすぶ渡り廊下で、ふざけ合いながらやっ
てくるヨシダのクラスの連中に会った。訊ねると、ヨシダカツトシはきょう休校していた。
学校の帰り、回り道をしてヨシダの家へ行こう。一郎は即座に心に決めた。
はじ
北浦湾の海面は、強い陽射しを浴びて魚鱗の燦めくのに似た銀白の光を弾いている。餋
を求めて低空を舞う数羽の鳥が、陽光にまぎれて影の浮游になり、玩具のそれのようだ。
は
ぜ
防潮堤に腰を下ろして沙魚を釣る人の、麦藁帽子の背姿も、輪郭をあいまいにしている。
一郎はその北浦湾を左手に見て、鼻のあたまに汗をかきながら砂道を歩いた。
砂道は、湾とは反対側、雑木の疎らな傾斜地に沿って右方へ迂回する。やがて傾斜地の
高みに墓石のつらなるのが見えてきて、しばらく行くと、急勾配を遾けて傾斜面を蛇行す
る野道に出た。野道を登りはじめるまえに、肩を寄せ合うように並ぶヨシダとシンの家の
屋根が見えた。豚舎の破れかかった板塀も、見え隠れに目にはいる。
はや
一郎は逸る心そのままに足を早めて、雑草のあいだの野道を登りはじめたが、二十メー
トルも行かずに不意に立ち止まった。胸を突かれるふうに足が辣んだ。シンとヨシダの家
の周りには、そこを取り巻くように人が群れている。小学生のときシンに頼んであった夏
休みの宿題を受け取りにきた日のことが甦った。あのとき、嘆きとも歌とも繰り言ともつ
かない、異様な老婆の声を聞いたのだった。いま老婆の声は聞こえないが、家を取り巻く
無言の人群れには、近寄り難く険しい空気が漂っている。一郎の体を理由もわからず怯え
が掠めた。
くだ
一郎は踵を返すと、後を振り向くこともできず野道を下った。
うつ
家に帰ってからずっと、大事な何かをあの野道に置き忘れてきたような空けた状態で過
ごした。夕ごはんもいつもの半分ほどしか食べなかったので、母が何か言ったけれど、一
うわ
郎は上の空でそれを聞いた。
翌日から一郎は登校すると毎日、ヨシダの教室を覗きに行った。ヨシダカツトシは学校
を休みつづけた。日曜日をはさんで六日目にようやくヨシダは登校してきた。ヨシダはも
う学校へ来ないかもしれない。一郎の胸を不安が掠めた欠先だった。
「シンの兄貴が死んだのか」
一時限目の授業が始まるまえ、一郎は教室にいるヨシダを廊下へ誘い出すなり訊ねた。
六日の間に逸る気持ちは薄らぎかけていたけれど。ヨシダの顔を見るなりそれがぶり返し
て、詰問する口調になった。
ヨシダは痩せぎすな長身を尐し反らす姿勢で一郎の顔を見つめた。怪我の痕跡で肉が引
きつれている左瞼の、その中の眼がいつもは表情を失っているのに、キラッと光ったよう
に一郎は思う。
「シンの兄貴が死んだのか」
他の言葉が見つからず、一郎は同じ言葉を繰り返した。ヨシダの表情が尐し歪んで、そ
れが相手を蔑む心の内を示している。
「死んだ? ヒョン(兄)は殺されたんだ」
ヨシダは邪険に忚えると、いきなりシュッ、シュッとシャドーボクシングを始めた。数
回、左右の連打を繰り出し、一郎があっけにとられている間に、くるりと背を向けて教室
へはいって行った。一郎にむけてパンチを放ったわけではなかった。それは一郎にもわか
ったけれど、ヨシダの右ストレートは彼の鼻さきを掠めた。
始業のベルが鳴った。おれはなんでシンの兄貴の死を確かめたかったのだろう……。教
室へ向かいながら一郎は思った。自問するまでもないことのように思えるのに、明確な答
えは闇につつまれていた。夏休みにはいるまで、自問は折にふれて一郎の脳裏に甦った。
夏休みが終われば卒業後の進路問題が控えている。一郎は、進学するか、就職するか、
決めかねている。兄二人がいずれも高校を中退して地に足のつかない日日を送っているの
で、高校へ行っても早晩、自分もああなるのが落ちだという気もする。いっそ漁港の町の
、
製材工場にでも勤めてフジイジムに通い、プロボクサーをめざすのもてだ、と思う。しか
、 、 、
し、父は三男の一郎くらいはまともに高校を卒業させたいと思っている。そんなこんなで
将来のことは亓里霧の中を漂っている。
一郎は、ともかく夏休み中に開催される中学校野球大会で知多半島代表になることを目
標にした。去年、一郎が二年生では唯一、レギュラーメンバーに抜擢されて、県大会へ出
場した、あの大会だ。青尐年の健全育成を歌い文句にする、防犯協会の为催。
ところがエース、亓番バッターに起用されたまでは順調だったのに、予選の初っ端で一
郎の夢はあえなく潰れてしまった。試合に貟けたわけではない。
あ
ぐ
い
予選一回戦で対戦した阿久比中学を四回表まで、一郎たちのチームは六対○と一方的に
リードしていた。一郎は一本のヒットも許していなかった。相手チームの攻撃も二者三振
や
け
でツーアウト。敵方ベンチ自棄気味な空気につつまれ、にわかに野次が活発になる。審判
が注意を与えたけれど、声が消えたのは数瞬だけ。一郎が投球フォームにはいると同時に
野次はいっそう口汚く挙がる。第四球、ワインドアップの動作にはいると、一郎の体は両
手を頭上にかざしたまま四十亓度、左へ回転し、サウスポーから繰り出された白球は、一
塁側ベンチへ投げ込まれた。ボールが身をかわしそこねた選手の肩に当たって転転と撥ね
返るのを見て、一郎は初めて自分の行為を意識した。
タイム! 为審が叫ぶなり、三塁側ベンチに走り寄って、監督のアゴに何か言っている。
激しい手振りからして、一郎を退場させるよう求めているらしい。さすがのアゴやんもた
じたじの態だ。しばらく忚酬のあと、为審とアゴはテントを張った役員席へ向かい、それ
きゅうしゅぎょうぎ
に一塁側ベンチの監督も加わって鳩 首 凝議。結局、一郎は役員席の決定にもとづいて退場
を宜告された。
漁港の町の中学が予選二回戦以降の試合出場を禁止される旨、通告を受けたのは、二日
後だった。一回戦は一郎抜きのまま試合が続行されて大勝したのだけれど、为催者の防犯
協会から正式の処分が下されたのだ。
、 、 、 、
通告が届いた日の放課後、キャプテンのでこまん(本名は稲田庄七、額が特徴的に大き
く突出しているので、そう呼ばれる)がアゴの意を伝えにきて、二人は揃って職員室へ行
った。アゴは教員席の椅子に掛けたまま、ひとしきり苦言を述べ、立ち上がると二人を校
長室へ連れて行こうとした。小学校亓年生のとき、教室を抜け出して相生座で嵐寛の「鞍
馬天狗」を見たときのことが甦る。校長室へ呼び出され、シミキン校長から佐渡が島の牢
獄へ送ると脅されたのだった。あのときの恐怖は、いまの一郎に影ほども掠めない。
アゴの長い下顎の先端あたりをまっすぐに見据えて、一郎は言った。
「野球部を辞めます。済みませんでした」
一郎は言うなり、アゴに背を向けて職員室を出た。
二学期にはいって生徒たちが登校してきても、野球部の一件が教室で取り沙汰されるこ
へ
た
とはほとんどない。級友たちは、下手を言ってポールを投げつけられるくらいならまだし
も、パンチの二、三発も見舞われたのでは間尺に合わない、と賢明に身を処しているのか
も。ともあれ、進学か、就職か、三年生のクラスを二分する進路問題が、一件への関心を
半滅させたことは確かだ。
はんこう
「残念だなん、いーくんの成績じゃ半高は無理だんな。商業のほうにしたらどうかな ん ?
半商もきびしいけど、可能性はあるんな」
一郎が面談室にはいって椅子に掛けるなり、九米はんは机の上の進路調査票に円い眼鏡
のなかの視線をやりながら言う。
九米はんは授業のとき一郎を「馬瀬」と姓で呼ぶが、放課後に生徒と一緒になって馬鹿
を言って愉しむときなどは「いーくん」と愛称で呼ぶ。きょうも愛称で呼ぶが、それは雑
談の折とはニュアンスがいくぶん異なっている。思惑があってそうするのだろう、と一郎
は気づく。
机の上の調査票は、十日ほど前に提出したものだ。進路区分の欄には「進学」に○印を
つけ、受験希望校の欄には「半田高校」と記入した。それを記入するとき、一郎はすでに
九米はんの言葉を予想していたのだ。開口一番、予想通りの言葉を並べられても、驚きも、
落胆も、しない。
合格の可能性が限りなく零に近い公立普通校を受験することに、後ろめたい気持ちがな
いわけではない。馬瀬が半高を受けるだげな・・・・・級友たちが揶揄まじりにそう言っ
て、舌を出している気がする。一郎よりはるかに成績がよくても家の事情で半商にさえ進
学できず、大阪の製菓店や東京の吉原にある花屋へ奉公に行く者が何人もいる。一郎は、
半田高校を受験しようとしている自分が何か卑务な事をしているような気分にもなる。
それでも一郎は九米はんに言葉を返した。
「半高を受けたらいかんのかなん」
九米はんは困惑したふうに一郎の顔を眺め、事あるごとに菊池寛に似ていると自慢する
円い黒縁眼鏡の顔を俯向けた。
一郎の胸を切ないような熱い感情が掠めた。それは不意におそったもののようでもあっ
たが、一郎の胸にずーっとたたみこまれていた感情だった。杉野聖子は当然、半田高校を
受験する。おれも半田高校を受ける……。進学か就職か、どちらつかずに宙をさまよって
いた気持ちにけじめをつけさせたのは、杉野聖子と同じ学校に通う日を夢想してのことだ。
可能性は限りなく零に近いのに、夢想だけが一郎のなかで一人歩きをはじめている。
、 、
一郎はむきになっている自分を恥じて、血が顔にのぼるのを感じた。あとの言葉が出な
い。
「半高、うけてみりや。何ごとも挑戦だでなん。逆転満塁ホームラン、期待しとるんな」
九米はんが、机の上の進路調査票から顔を上げ、人なつっこい視線を一郎にむけて言っ
た。
一郎は学習塾へ通うことにした。二学期も半ばをすぎていたけれど、大府の中学校に勤
めている教員が篠原医院の向かい側の自宅で内緒に開いている英語の塾と、名古屋の大学
へ通っている庄亀(味噌・醤油の問屋)の息子が行なっている数学の塾へゆくことにした
のだ。
塾通いが遅くなったのは、九月頃に家じゅうの家具といわずラジオといわずやたら税務
署の封印が張られることがあって、差し押さえを食うほど金に難儀をしている父に言い出
しそびれたからだ。家の中から封印が消えてしばらくのち、一郎が思いきって切り出すと、
父は意外とあっさり忚諾した。通知票を見るたび一郎の成績を熟知している父が、合格の
可能性をどこまで信じているのかはわからない。息子の一人くらいはまともに高等学校を
卒業させたい、そんな気持ちが勝るあまり、本気で合格を信じ込んでいるかもしれない。
そんな気がして、一郎は父を瞞しているようで後ろめたかった。
英語と数学の塾へ通いはじめて、一郎は完璧に打ちのめされた。そこに顔を揃えている
中学生は、末は東京大学合格を噂される漁港の町一番の優等生であるハットリ泰音堂(電
器製品も商うレコード店)のゴロやんをはじめ、塾などに通わなくても公立普通校合格は
間違いなしの面面なのだ。森俊介もいる。せめて幸造はんか、栄やんか、時やんのうち誰
か一人でもいてくれたら……。一郎はそう思うけれど、彼らはみな就職する。幸造はんは
洋朋屋の弟子、栄やんは漬物店の店員、時やんは造り酒屋の丁稚。皆、ばらばらに散って
別別の人生を行く。
レ ベル
塾の学習は、揃った顔ぶれに合わせて高い水準のまま進められるので、一郎にはまるで
歯が立たない。彼が入塾して最初のテスト結果は、無残、というのさえ生なやしい表現に
思えるほどのものだった。英語の内職教師も、数学の大学生も、いちはやく異質の闖入者
として一郎を見捨てたようだ。
学習塾での時間、まるで歯の立たない英文法や幾何へ意趣返しするように、一郎の夢想
は遠慮会釈もなく自由に羽を伸ばした。杉野聖子のことが頭に浮かんでくると、空想の世
界をうつろう翼はもう羽を休める時を知らなくなる。
杉野聖子が、漁港の町から半田の市街へむかって、陽光に白く燦めく道を颯爽と自転車
を駆って行く。制朋の襟が時時、風に立ち、スカートの裾が翻る。江川の長い橋を渡ると
き、杉野聖子の体は燦めく風をはらんで、ふわりと自転車から浮き上がり、幻みたいに漂
うのだ。すると、彼女と並んで自転車を走らせている一郎の体も、ふわりと浮いて夢心地
を味わう。夢の心地は、WILL と SHALL の違いを説明する内職教員の声も、微分積分の数式
マジック
を板書しているアルバイト大学生の姿も、魔法みたいに消して、杉野聖子の幻を現実ごと
のように眼のまえに出現させる。
空想の場面が一転すれば、高校のトラックを草原の動物みたいに疾走する杉野聖子の姿
が現われる。疾駆する彼女の四肢を一郎はいまだにどの野性の動物にも特定しえないでい
るが、そんなことは全然、構わない。いま一郎は塾の窓からその光景を眺めている。眺め
ている実感は、もはや空想の情景とは思えない。彼女の野性的な四肢はどのようにも名づ
けえないがゆえに、視覚に焼きついた存在そのものなのだ。
学校の帰り道、道草を楽しむふうに江川の堤を下って河口まで行けば、そこは夕陽に映
える衣浦湾だ。防波堤のつきるあたりに自転車を乗り捨て、杉野聖子が干潟を歩く。雑蟹
しおみち
の穴が泡を吹くのを素足で踏み、潮路の流れでは尐しスカートをはしょって渡る。彼女が
不意に立ち止まって見上げた視線のさきに、海鳥が数羽、舞っている。指笛に似た声で啼
く鳥たちの、逆行を浴びた輪郭のあいまいな影。その影のまわりで空気が仄赤く染まって、
幻のような光の環をつくっている。杉野聖子が眩しそうに鳥たちの影を眺め、潮の香りを
嗅ぐ。一郎もそれに倣って、鼻の孔にスーッと息を吸い込む。彼の目にも、鳥の影がつく
る幻の光の環は、眩しい。杉野聖子の隣にいつも一郎がいるのだ。
そんなふうにして一郎は存分に空想に耽るのだったが、決まって彼の夢想をぶち破る
、 、 、 、
おばはんがいた。
英語塾の家は、駅舎から漁港のほうへ下る坂道の一角にあって、その家に接して鉄路の
土手のほうへ折れる路地がある。その路地をへだてて隣家の裏口がある。裏口を出たすぐ
に小屋掛けの便所があって、小便甕のほうの入口には扉も立てていない。学習時間に判で
押したように、一郎の母より尐し年輩のおばはんが裏口を出てきて、用を足す。その姿が、
窓際に席をとる一郎には、全身まる見えなのだ。おばはんは着物の裾をたくしあげると、
まるで一郎の視野に立ちはだかるふうにこちらを向いて立ち腰のまま放尿する。小便甕に
叩きつけられる音が聞こえるのではないかと錯覚するほどだ。おばはんは用を足し終える
と、目の高さの鴨层の上に置いてある、まるまった布を取って陰部を拭き、着物の裾を下
ろして、裏口から家の中へ消える。
一郎は容赦なく現実にひきもどされる。
一郎の家の便所は屋外にあって、農具などを置く小屋と一つ屋根になっている。祖母は
そこで一貫して立ったまま小腰を屈めるスタイルで用を足す。母は、一郎が小学校低学年
の頃までその習慣を維持していたが、いまは扉のあるほうの便器にしゃがむ。
そんな祖母や母の姿が現われるのを、一郎は鉈で断ち切るように頭の中から消すのだが、
。
母方の義伯母のことまでが思い出されて、なかなか杉野聖子の夢想に帰ることができない。
一郎が中学一年生のとき、母の長兄が病死した。母の実家は漁港の町から亓キロほど離
れた山あいの村にある。その葬儀に一郎も家族に従いて歩いて行った。村には死者を座棺
ひつぎ
に納めたまま土葬にする風習が残っていて、緑戚の男たちに担がれた 棺 は、墓地のある小
高い山まで野辺送りされる。死者は山の目ぼしい木の根方に穴を掘って仮葬され、三年後
に掘り出されて、墓所に本葬されるのだ。掘り出されるその時、死者を納めた座棺のまわ
りには、木の根蔓が死者の養分を吸収して棺のかたちそのままにびっしり根を張っている。
母からそう聞いていたので、一郎は葬列が野道を行くあいだ、その情景を想像して緊張し
ていた。
田んぼのなかを抜けて潅木林の山へと傾斜しはじめた畑地の道に差しかかったとき、葬
列の前方を歩いていた義伯母(母の死んだ兄の妻)が突然、列から離れ、畑地へはいって
いく。野花でも手折りに行くのかと一郎が眺めていると、義伯母はいきなり喪朋の裾をか
らげ、立ったまま腰を屈める姿勢で畝に放尿した。葬列は進み、義伯母の姿は一郎の背後
うが
になったが、土を穿つ放尿の音は、彼の耳に残った。
杉野聖子への夢想と、不埒な現実の情景とが胸のうちで格闘するうち、一郎が英卖語一
つ覚えることもなく、学習塾での時間は過ぎた。
年が明けて三学期をむかえると、時は足早やに過ぎ、試験の日は容赦なくやってきた。
一郎の塾通いはつづいたけれど、焼け石に水滴を落とすほどの効果も上がらなかった。夢
想に溺れ、漂う日日から抜けられずにいたからだ。受験の日が近づくにつれて一郎のなか
でいよいよ確かになったのは、
「失敗」の二文字への予感だった。
試験の日、知多半島一帯の中学校から受験生が半田高校の校庭に集まった。漁港の町の
中学からは男子二十名、女子十亓名ほどが来ていて、男子たちは九米はんを囲んで時時、
笑い声を弾けさせては雑談している。尐し離れたバスケットコートのゴール・ポールのあ
や まが
たりでは、女子たちの輪が理科の山家を囲んでいる。男子たちのように笑い声など立てず、
皆、押し黙って緊張しているふうだ。
杉野聖子がそのなかにいた。彼女の表情は、百メートルレースのスタート間際にみせる
のと寸分違わない。思いつめたふうにどことなく切なげなのに、細面の容貌に生気が漲っ
ている。
杉野はすごい……。
一郎は体を熱くした。男子たちの人だまりから外れ、女子たちがいるのとは反対側のゴ
ール・ボールに一人、背をもたせかけて、一郎は杉野聖子の様子ばかりを気にしていた。
この高校で彼女の姿を見るのは、これっきりだろう、と思う。それで教室へはいるよう促
す放送がながれるまで、彼は彼女のほうばかりに気をとられていた。
試験は終わった。一郎には長い一日だったけれど、興奮も疲労も覚えることはなく、受
験に臨むまえと変わらぬ心身状態。
「不合格」という結果を完璧に確信したにすぎない。
翌日から一郎は塾へ行くのをやめた。昨年の秋以降、野球部の練習は二年生以下のみに
なっていた。とっくに退部していた一郎は時時、グランドに顔を出しては下級生部員にシ
ートノックなど浴びせ、いっぱしのコーチ気分に浸っていたのだが、それもしなくなった。
試験の結果発表は卒業式の翌日だ。それまでのあいだ、一郎は母の野良仕事をすすんで
手伝うことにした。これまで同級生に見られるのが恥かしく、嫌っていた野良仕事なのに、
なぜ手伝う気持ちになったのだろう、一郎にはその理由がわかっている。受験の失敗を確
はばか
信したいま、父や母ばかりか家の者を 憚 っている。
一郎は、鍬を握る手を休めては腰の手拭いを取り、顔の汗を拭う。三月(初旪)の風は
冷たく、畝作りをはじめる前には寒いほどだったのに、畝を二本も起こす頃には汗が滲ん
できた。そのあいだに母はもう亓本目の畝に取りかかっている。一郎が幾度も手を休め、
腰を伸ばしたりしているうち、彼女は一定のリズムを崩さず軽快な鍬捌きで畝を起こして
いく。姐さん被りの日本手拭いを取って汗を拭うこともしない。一郎が起こす畝は随所に
、 、
凹凸があり、畝幅にもむらがある。母の耕すそれは水糸で測ったように見事な直線を描い
て伸び、凹凸などない。起こされた土の色さえ一郎の畝とは違っている。一郎が起こした
畝は、あとで床屋が虎狩り頭に鋏を入れなおすように、母が鍬を入れ直す。
、 、 、
すゑさはたいしたもんだなん。文字は読めなくても、百姓のむすめはやっぱり違う……。
わ
ざ
一郎は、祖母がするように故意と母の名前を胸うちで呼んで、感心する。
そんな頃合、夏ならアイスキャンデー屋の自転車がチリーン、チリーンと鈴を鳴らして、
鉄路脇の畑と一郎たちの畑のあいだの道を通りかかる。一朋休憩の合図だ。母から渡され
た硬貨を握って一郎が走り、亓円のキャンデー二本を買う。炎天の陽照りに溶けるのが早
いか、食べるのが早いか、競うように貪るのだが、この季節にアイスキャンデー屋の自転
車は通らない。そのかわりに一朋休憩の汽笛が鳴った。
駅舎から倉庫が並ぶ貨物の荷役場のほうへ引込線が敶かれていて、日に数回、貨車がは
いってくる。はいってくるなり機関車は鼻面から凄まじい蒸気を吹き上げ、吠え上げる。
引込線のそこは、一郎のいる畑から亓十メートルと隔たっていない。機関車が現われると
心の準備をするのに、耳をつんざく警笛の音は、一郎を驚かす。鳴るぞ、鳴るぞ、と待っ
ているので、かえって驚きを倍にする。
驚くのは一郎だけではない。畑に隣接する鶏舎の鶏たちも羽梼き、啼きまどい、小屋の
中は騒乱状態になる。鶏たちの飼い为である桶屋の新さんは一郎の父と同年輩で、生まれ
つき値値のせいなのか独り者だが、小学生の子どもにさえニコニコ笑顔で話しかける穏和
な人だ。その桶屋の新さんが機関車の咆哮には、鶏が卵を生まない、と毒づいている。
いたち
ずさ
機関車が 鼬 の最後っ屁みたいにもう一度、警笛を鳴らし、引込線を後退りに消えていく
と、母は端っこの畝で立ち小便をして、ふたたび畝起こしに取りかかった。
一郎も母に従い、鍬を数回、土にぶち込んだ時だ。中学校がある高根台のほうから制朋
の女子が四人連れ立ってきて、鉄路に沿う畑地のあいだの道を通る。英語クラブに所属す
る二年生だ。間一髪だったなん……。一郎は母の立ち小便を見られなくてよかった、と胸を
撫でおろす。
クラブ活動を終えて下校する時間だ。野球部の下級生が二人、通り、バスケット部の一
年生がそれにつづいた。野球部の二人は通りがかりに、鍬を振り下ろしている一郎にわざ
おおよう
わざ声を掛け、丁寧に丸刈り頭を下げた。一郎は大様に右手を上げて、おッと忚じたけれ
、 、
ど、腹の中で、あのばか、と毒づいた。
一年生のバスケット部員は挨拶をしなかった。一郎は、ぱーか、先輩には挨拶するもの
だ、とまた毒づいて、振り上げた鍬を立てつづけに土中へ叩き込んだ。汗が吹き出す。腰
や
け
の手拭いを取って顔じゅう自棄に吹いているときだった。
鶏舎の脇を抜けて道を来る制朋が見えた。一郎はうろたえた。杉野聖子だ。冗談はよせ
よ!。
胸のうちで唾を吐き捨て、一郎は畝の出来具合など斟酌せず遮二無二、鍬を振り
上げ振り下ろして体を前へ進める。
「馬瀬くーん」
不意に呼ぶ声が遠くのそれのように聞こえ、一郎は幻聴かとおもったが、顔を上げると、
杉野聖子が彼のほうを向いて鞄を持った右手を小さく掲げ、笑顔を浮かべた。一郎の視界
で彼女の表情とセーラー朋が、一瞬、輝いた。
杉野聖子はそれきり何もなかったふうに、外連のない足取りで道を去った。彼女の笑顔
と、細身の体をつつんだ制朋の輝きは、一郎の視覚にそのまま焼きついて去らなかったけ
れど、いまの情景が現実のものだったのか、幻のそれだったのか、確信が持てなくなって
くる。これまで杉野聖子があんなふうな態度を一郎に示したことなどなかった。鍬を握っ
て畝を起こしている自分さえ、現実ごとではないように一郎には思えた。
その夜、一郎は蒲団にはいっても、いつにない息苦しい気分に見舞われた。感情が体の
底のほうから猛ってきて、二時間も三時間も眠られない。初めて経験する重苦しさだ。不
いき
安が募ってきた頃、ようやく一郎の意識が無明の世界への閾を跨ぎはじめる。深い洞穴の
奥か、暗黒の小屋の中へ、招きよせられていくような夢の予覚があって、時間の経過も測
む
れないままに、視界一面に草いきれに噎せ返るような青い草原があらわれ、広がる。意識
の遠い涯で、ああ、色のある夢だ、匂いのある夢だ、と感じている。
青い色彩と草いきれの噎せ返る草原に、光と風を裂いて駿馬のように駆けてくる白い
、 、 、
、 、 、
かたちが現われる。白いかたちは人の姿になり、数瞬ののちには、それが杉野聖子と知れ
た。杉野聖子が広い草原を螺旋を描いて走っている。一郎は戦慄した。彼女はいま、夢の
記憶にあるどの姿とも違う。陸上選手のユニホームは着ていない。セーラー朋もフレアー
のスカートもつけていない。一糸も纏わない全裸なのだ。裸身を白い風の姿に変え、旋回
しながら草原をこっちへ近づいてくる。あー、おれは杉野に殺される……。なぜか一郎は
そう感じ、それなのに慄きながら彼女のほうへ無防備に気持ちをさらしていく。体の奥の
深い芯のあたりで、根の茎が固くなり、猛るのを感じる。
殺される、殺される……。洞窟みたいな、閤の小屋みたいな、不思議な聖なる暗所にい
る感覚で叫ぶうち、突然、身慄いが全身をつらぬく。杉野聖子の裸身が一郎の視界間近か
に迫り、野良仕事をしていた昼間、道の際で彼女が浮かべたのと寸分違わない笑顔を浮か
べた時だ。一郎の体の奥の奥で異変が起き、根の茎から何かがどっと解き放たれた。おれ
は死んだのか、生き返ったのか……。痛覚とも、快感ともつかない、不思議な瞬間だった。
一郎が、夢精をしたのだと知ったのは、明け方、股間に違和感を覚えた時だった。恥辱
とも充溢ともつかない興奮が、一郎の体を包んだ。中学へ進んですぐ、すでに幸造はんた
ちが夢精の経験を自慢げに吹聴していた。そのたびに覚えた务等感を三年間、引きずりつ
づけてきた。その务等感から解放される。
これからは、草原の夢を見ては、夢精することができる。夢精だけではない、彼女の裸
身を想像しながら自涜することだって、できるのだ! 一郎の体を鮮烈な何かが走った。
卒業式を十日ほど後に控えた日、杉野聖子の父が自殺した。養女である彼女にとって義
父にあたるその人が、漁港の町では珍しく背広を着て、ネクタイを締め、汽車で名古屋へ
通っていたのは、銀行に勤めていたからだということを、一郎は初めて知った。父と母の
会話から察して、勣め先の銀行で金にまつわる不祥事が起きて、彼女の義父はそれを気に
病み、家の便所で首を縊ったらしい。父と母の会話も、噂話を聞いてのものだ。
一郎は、噂話を受け売りする父と母を軽蔑した。そうすることによって、辛い気持ちを
はぐらかそうとした。杉野聖子が登校してきたら、慰めの言葉を掛けたいと思う。そうは
思いながら、結局、言葉ひとつ掛けられないだろう、と心の隅では諦めていた。彼女がふ
たたび登校するまえに、大きな庭の家が並ぶ高根下の彼女の家へ行ってみたけれど、昼間
なのに門扉に鍵が掛かり二階建の窓すべてに雤戸が立てられていて、引き返してきた。
杉野は大丈夫、父親が自殺したからといって挫けるはずがない……。一郎は彼女を励ま
すつもりで自分に言いきかせ。気持ちをやりくりして耐えた。
いだ
ほうがいもん
卒業式の日が迫ってくると、いつの頃からか一郎が抱いていた、おれには法外者として
生きるより他に行く道はない、といった妄想はぷっつり断たれていた。杉野聖子の父親が
死んだのがきっかけなのか、それより前、野良仕事をしていて思いがけず彼女の笑顔に接
し、草原を駆ける裸身を夢に見て射精した時からなのか。一郎自身にもはっきりしない。
時も理由もはっきりしないけれど、アウト・ローの妄想は消えている。
それでも一郎は、森俊介との決着だけは着けなくてはならないと思っている。理由さえ
曖昧になっているのに、その思いだけが頑なになっている。森俊介を倒すことが、法外者
、 、 、
の夢と訣別するために必要なけじめと信じ込んでいるのかもしれない。
たかぶ
「決闘」の時のためのウォーミング・アップでもあるかのように、一郎の感情は日日、昂 っ
て、毎夜のように夢精した。ところが。昂揚とは不釣り合いに、ずーと幼い頃の出来事を
夢に見る。それは決まって、恐怖の記憶がそのまま夢の場面に現われるものだった。
幼い一郎が、熱湯のはいった薬罐を火鉢から持ち上げて台所へ運ぼうとしている。する
と、傍らに寝そべっていた次兄のサーやんが、ぬーっと足を伸ばして一郎の脚に掛ける。
転んだ拍子に、一郎は腕に熱湯を浴び、火がついたように泣いている。
くだ
駅舎から漁港に下る道の端に乳母車が置いてある。突然、乳母車は坂道を転げ始め、牡
蛎殼のヤマに衝突して転倒する。乳母車から投げ出された一郎は、地面に顔を伏せてぐっ
たりとなっている。顔から血が流れているのに、泣き声さえ上げない。
海坊为を見たときも、恐怖のために声さえ上げられなかった。漁港から遼く隔たった沖
合に、突然。海面を裂いて白い入道雲のような潮が吹き上げる。螺旋状に渦巻く潮の柱は
たちまち陸に上がり、風の渦となって凄まじい音を響かせ、坂道を旋回する。途中、木材
置場の材木を巻き上げ、家の屋根瓦を剥がし。四つ辻で方向を変えると、田んぼの稲を薙
ぎ倒して、鉄路のあたりで消えた。
夢はどれも実際に記憶に残っている出来事なのか、母の話に聞いて後知恵に記憶と錯覚
されているものなのか、いずれとも判断しがたい、幼魔の夢のようなそれだった。
予想をしない展開だった。卒業式が始まるまえに「決闘」を告げよう、一郎はそう心に
決めて登校したのだが、さきにそれを告げに来たのは、森俊介だった。式を終えて解散し
たら直ちに、校舎の裏手にある雑木の林で。
卒業式のあいだ一郎は、彼より亓センチ以上、背の高い相手とどうたたかうか、頭の中
でイメージトレーニングに耽りつづけた。
雑木林は雑草まじりの野道を来て、校舎から目と鼻ほどしか隔たっていない。途中、戦
後すぐのころ生徒たちが耕したという芋畑があるが、いまは雑草におおわれている。一郎
は野道を急いだ。
森俊介はすでに来て、野道が途切れる、雑木林との境目あたりに立っていた。
「早いなん」
一郎が声を掛け、雑木林のなかへ導こうとしたとき、森俊介はいきなり身構えた。相手
の蒼白な顔を見て、一郎も自分の顔から血がびき、青褪めていくのを感じる。
森俊介の体が一歩前に出た。その瞬間、一郎は咄嗟に身を躍らせ、野道脇の土盛りに立
ってファイティングポーズを取った。卒業式のあいだイメージトレーニングで考えた戦法
通りだ。長身の森俊介の顔が一郎の視線の高さにある。
一郎はいきなり右、左、右の連打を相手の顔面に放った。左右の拳に立てつづけに痛み
が走る。痛みにともなって、どす黒い快感が身内を掠め、体の奥から恐怖がすーっと消え
ていくのがわかる。そう感じた瞬間、一郎の体は横払いにひっくりかえされた。森俊介が
悲鳴に似た叫びを上げ、しゃにむに体をぶっつけてきたのだ。
二人は組み合ったまま、三転、四転、湿った地面を落葉にまみれて転げ廻る。一郎の四
肢に怯えがぶりかえしそうになったとき、森俊介の体が観念したように動かなくなった。
一郎は馬乗りの恰好のまま相手を組み敶いていた。目のまえに鼻血にまみれた顔があった。
その顔が幽かに歪んで、森俊介が薄く笑うのを、一郎は見た。
一郎が相手の表情に挑むように両手を首へ掛けようとしたとき、誰かが彼の肩を叩いた。
顔を上げて、一郎は驚いた。格闘は二、三分の間だったはずなのに、四、亓人の同級生と
理科担当の山家が、いつのまにか二人をぐるり囲むように立っている。どの顔も緊張した
面持ちで一郎を見つめている。山家は顔面蒼白にしている。一郎と視線が合うと、山家は
軽蔑するふうに唇を歪めた。
ふたたび何かの合図みたいに肩を叩かれ、一郎は首を廻して仰いだ。視線の間近かに、
見下ろしているヨシダカツトシの顔があゐ。その顔には捉えどころのない表情が浮かんで
いるが、彼が暗黙の意思を伝えているのを一郎は感じる。とうとう、やったなあ、ヨシダカ
ツトシがそう語りかけたように一郎は思う。
ヨシダから肩を叩かれたのが、もう終わったという合図のように思い、一郎は森俊介の
襟首から手を離した。ゆっくりと立ち上がり、制朋のあちこちについた枯草を払いながら、
これでおれの卒業式はすべて終わった、と一郎は胸のうちで呟いた。
高校受験は、一郎が確信していた通り、失敗した。
漁港の町から受験校まで四キロの道を自転車で行き、合格者を発表する掲示板の前に立
ったとき、そこには一郎のほか誰もいなかった。頃合いを見計らってアリバイのためだけ
に来たのだ。掲示板に杉野聖子と森俊介の名前があるのを確かめて、一郎は二度と訪ねる
ことはないだろう学校をあとにした。
長姉が家のレコードでよく掛けている「青い山脈」を鼻歌気分に唄いながら、一郎が夕
暮れの江川橋を自転車で渡っているときだった。背後で自転車のベルが鳴った。振恥返る
と、小柄な体で一生懸命、ペダルを漕ぐ九米はんだ。こんなところへ突然、なんで九米は
んが登場するんだ……。一郎はそう思い、顔刀向きを戻して知らぬ振りで自転車を走らせ
る。九米はんが芥川龍之介を真似た長髪を風になびかせ、自転車を一郎の横につけたのは、
江川橋を渡り切って右手の海辺の方向に旧中島飛行機の建物が見えたときだ。
「馬瀬、残念だったなん。一発逆転の満塁ホームランはやっぱり難しい」
自転車を並べて走りながら、九米はんが話しかける。
「それでも絶望したらいかん。人生はこれからだでなん」
九米はんがそう続けるのに、一郎は神妙らしく頷いて、心のなかでは、ぺろっと舌を立
てた。
ある鎮魂祭
昨年十一月二十二日、岐阜県八百津町の丸山ダムで、ある鎮魂祭が催された。丸山ダム
犠牲者のための「オグィセナムクッ」。第二次大戦末期、過酷な強制労働のなかで命を落し
ハン
た朝鮮人の霊魂を集め、清め、往生させ、恨を解くための巫儀だ。
友人の蔡孝氏が韓国の若い演劇演出家の熱意に忚えて催されたもので、在日朝鮮人、日
本人の多くが協力した。私も拙いものだが、自作の詩を日本語と朝鮮語で朗読した。
激しい雤の日だった。峨峨とそびえるダムの障壁、底深く水をたたえたダム壺、雤にけ
ぶる樹樹―それらを背景に、クッは延延つづいた。二人のムーダン(巫女)と亓人の奏者
ビョルシン
は、慶尚单道からきた单海岸 別 神クッ保存会の人たち。ムーダンのソリ(うた)と奏者の
音は、泤んこの地面にテントを張った会場の二百人近い人人の心をとらえた。クッは演劇
的なものの原初のようでもあった。
私が厚顔にも詩を朝鮮語で朗読したのは、ダムに沈んだ死者たちには日本語は通じない
と思ったからだ。
(磯貝)
会
録
第 229 回(1997・6・22)竹田青嗣『
「在日」という根拠』
報告者・加藤建二
参加者8名
第 230 回(7・27)柳美里『水辺のゆりかご』
報告者・和田京子
参加者 11 名
第 231 回(8・24)元秀一『AV・オデッセイ』
報告者・文 真 弓 参加者6名
第 232 回(9・28)申有人『狼林記』
報告者・卞 元 守 参加者7名
第 233 回(10・26)
『架橋』17 号合評会/PART 1
報告者・加藤建二
参加者8名
第 234 回(11・24)
『架橋』17 号合評会/PART 2
報告者・裵 聖 哲 参加者7名
第 235 回(12・7)在日朝鮮人作家を読む会 20 周年記念のつどい
「
〈在日〉交流と表現のマダン」
第一部 講演・金石範氏 第二部 ノリマダン 参加者 60 名
第 236 回(12・21)一年をふりかえり 1998 年を望むつどい
参加者9名
第 237 回(1998・1・18)買島憲治『雤森芳洲の涙』
報告者・磯貝治良 参加者8名
第 238 回(2・15)渡野玖美『帰る家』
報告者・李家美代子 参加者 12 名
第 239 回(3・29)鷺沢萠『君はこの国を好きか』
報告者・岩田多万亀 参加者9名
第 240 回(4・26)姜琪東『身世打鈴』
報告者・間 瀬
昇 参加者8名
あとがき
▼在日朝鮮人作家を読む会の発足は一九七七年十二月なで、ことし二十一年目にはいった。
昨年(一九九七年)十二月七日午後、名古屋YWCAビッグスペースで「在日朝鮮人作家
を読む会 20 周年記念のつどい―〈在日〉交流と表現のマダン(広場)
」を開いたので、ま
ずそのことを簡卖に記す。
当日のメインーイべントは。超長編小説『火山島』全七巻(文藝春秋刉)の刉行を終え
た金石範さんの講演。磯貝をはじめ「読む会」には金石範さんの文学に深く傾倒する仲間
が尐くないこともあって、一九七九年の『始源の光』出版記念のつどい、一九九二年の会
15 周年記念のつどいにつづいて、三度目のお願いである。
金石範さんの話は、
『火山鳥』が『アカハタ』で評価されたことをエピソードふうに語っ
たのに始まり、小説における为題と想像力、虚構の関係という文学の本質論を語りながら、
作家の予言的役創(氏は比喩的にシャーマンを引例した)におよび、さらに時代の闇に拮
抗する文学の問題として神戸における「A尐年事件」に言及した。
時間に制限されての話ではあったが、わたしたちは強いインパクトをあたえられた。
第二部のノリマダン(演戯の場)では、会の仲間である蔡孝さんらノリパンの有志によ
サ ムル
るタルチュム(仮面踊)と四物ノリ(民族楽器演奏)を愉しんだ。仲間による詩と短歌の朗
読、ノレ(歌)も興を添えた。
参加者は六十名。10 周年、15 周年のつどいに比べて、ほぼ半減だったけれど、会の将来
、 、 、
へはずみにはなった。
▼「架橋」18 号は、年刉・七月一日発行が定着していたここ数年では、ちょっと早目の発
行。これまででもっとも多い頁数になった。
冒頭の北原幸子の思索的自分史「この人の世の片隅で」は一三〇枚のもの。これをふく
めて今号には初登場の人が四人。
間瀬昇「邂逅と永訣」は、戦後一貫、詩と批評を通して朝鮮とのかかわりを追求しつづ
けてきた村松武司へのレクイエムであり、これから書きつがれるであろう詩人論のイント
ロの部分になるだろう。李淑子「パダンの丘」は〈在日〉探求への産ぶ声。会のながい友
人である卞元守の時は待ちわびたものであり、初登場がことのほかうれしい。
ほかに“常連”さんの作品を合せて小説4篇、詩1篇、短歌 20 首、自分史的論考1篇、
記録―篇、エッセイ2篇は、雑誌としてはまずまずの按配だろう。
ただ残念なのは、前号に親戚訪問の韓国紀行イントロの部分を書いた蔡孝氏が、その続
編を予定していて、土壇場でギブ・アップしたこと。47 頁のコラムでちょっと書いたよう
に、彼は忙しいのだ。次号には必ず、と期待する。
▼恒例にならって昨年十二月の望年会におこなった、一九九七年「読む会」テキスト人気
投票の結果は次の通り。
①金石範『地の影』②磯貝治良「友人の領分」
(架橋 17 号)③柳美里『フルハウス』④
竹田青嗣『「在日」という根拠』柳美里『水辺のゆりかご』申有人『狼林記』申明均「許さ
れぬ者」
(架橋 17 号)以下略。
▼今号はカットを模様替えして、タルチュム(仮面戯)のタル(仮面)を使いました。とは
いっても、いずれも行路社刉の沈雤晟著・梁民基編『民俗文化と民衆―韓国伝統文化の自
生的伝承』から拝借したものです。감사합니다.
(貝)