活水学院創立 134 周年記念式典式辞 本年の 4 月から活水女子大学の学長として勤めている加納孝代でございます。活水学院創立 134 周年の記念式典にあたり、式辞を申し上げます。 活水学院が発足したのは 1879 年(明治 12 年)の 12 月 1 日でありました。それはその 8 日 前にアメリカから横浜を経て長崎に到着されたばかりのエリザベス・ラッセル先生(当時 43 歳) と、ジーン・ギール先生(当時 33 歳)が、東山手の 16 番というところにあった平屋の建物で、 生徒の来るのを待っておられたところ、一人の婦人が、学校で学びたいと言って訪ねてきたこと から始まったと『活水学院百年史』には書かれています。そのとき訪ねてきた生徒というのが官 梅 能(かんばい のう)という 23 歳の婦人でした。明治 12 年といえば西南戦争終了後わずか 2 年目、明治維新からはまだ 12 年しか経っておらず、長崎の町でも、きりしたん禁止の立札がつ い6年前までは市中に立っていた時代でした。 またラッセル先生やギール先生にとってそれはどういう時代であったのか、アメリカの歴史の ほうも少し振り返ってみようと思います。アメリカでは 1861 年から 65 年にかけて南北戦争が 戦われています。大規模農場を経営するには奴隷労働が必要だと主張する南部の諸州と、中小市 民を担い手とする近代的商工業を盛んにしたい北部の諸州の対立から始まった市民戦争、アメリ カの内乱でした。それが起こったのが、ラッセル先生が 25 歳、10 歳年少のギール先生が 15 歳 の時でした。それに続くリンカーン大統領の暗殺という大事件も、二人はそれぞれ 29 歳と 19 歳のときに経験されたことが分かります。 日本では比較的よく読まれた『若草物語』(原題は Little Women)という小説があります。 これは南北戦争を経験した一家の話ですが、その話に出てくる 4 人姉妹のうち、長女か次女あ たりがラッセル先生の年齢で、末娘がギール先生くらいの年ごろの娘さんだと想像されます。ち なみに『若草物語』の作者ルイザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcott)は 1832 年生まれ ですので、ラッセル先生より 4 歳年上です。また彼女はペンシルヴァニア州に生まれましたが、 ラッセル先生はその隣りのオハイオ州生まれです。でも 4 歳の時に一家がペンシルヴァニア州 に移住したので、育ったのはペンシルヴァニア州でした。つまりオルコットとラッセル先生はほ ぼ同じ時代に、ほぼ同じ場所で育った人々だということになります。おそらく似たような経験も いろいろあったことでしょう。ラッセル先生についてはその学校生活や、思春期のころ、あるい は若い女性として考えたり悩んだりされたことなどを知ることのできる直接的資料があまりな いそうです。それを補い、また多少想像をめぐらしてみるには、この小説や、作者であるルイザ・ メイ・オルコットの生涯はよい手掛かりになるのではないかと、私は思っています。 さて、ラッセル先生とギール先生が来られた長崎へと話を戻します。長崎には、外国人の日本 での居住が「居留地」という限られた場所内で可能になった幕末の 1859 年に、聖公会のウィリ アムズとオランダ改革派のフルベッキが来ています。彼らの目的はキリスト教の宣教でした。明 治維新のあと明治新政府に招かれて東京に去ったフルベッキの後をスタウトが継ぎました。スタ ウト夫人は明治 6 年ころから長崎の女子に裁縫や編み物などを教え始めています。聖公会のほ うではグッドオールという、英国の詩人テニスンの縁続きになる婦人が来て明治 9 年に私塾の ような学校を始めます。グッドオールは明治 12 年には東山手 3 番に「十人女学校」を開いてい ます。いつも生徒が 10 人前後しかいなかったのでそういうニックネームで呼ばれたそうです。 そしていよいよ活水の話になるのですが、前段が長すぎましたので、途中をすこし省略するこ とにします。明治 12 年にメソジスト教会の海外婦人伝道局が長崎へ送ってくれた婦人宣教師が ラッセル先生とギール先生でした。長崎でも待ちに待たれた二人の到来でした。二人の生涯にお いても、満を持して、覚悟を決めて、やってきた初めての外国、東洋の国でした。とくに日本は つい 20 年前までは鎖国をし、外国人を毛嫌いしていた国でした。今から思っても、よくぞ来て くださったと、感嘆し、感謝せずにはいられません。 ラッセル先生とギール先生は 12 月 1 日(これが開校記念日となりました)に一人の生徒を得 ましたが、その同じ月の 12 月 25 日の日本の新聞に学生募集の広告を掲載しています。それに よれば、この女子のための学校では英語と日本の普通の教科、西洋に関するもろもろの事柄、そ れから手芸と音楽を教えるということが謳われています。こうして明治 13 年となり、女子生徒 が 10 数名、翌年の明治 14 年には 40 名前後、そして来日 3 年目となる明治 15 年 5 月末にはつ いに東山手の丘の上に立派な校舎が完成しました。この時の生徒数は 43 名であったそうです。 ところが校舎自体は寄宿生 60 名、通学生 40 名にも十分そなえられていました。その校舎を総 勢 100 名の女生徒達が満たす日を、ラッセル先生は具体的な幻(ヴィジョン)としてしっかり 抱いておられたものと思います。 明治 16 年 4 月には、大阪でおこなわれた、日本にいるプロテスタントの宣教師たちの大会で、 ラッセル先生は活水での教育の内容を次のように説明しています。日本の女子に何を教えるのか と問われて、「それは男児に対しておこなう教育と同じです、すなわち女子が成長した後、婦人 になったときになさねばならないことを全て教えます。たとえば国語はふつうの男子中学校程度 (これはいまの高等学校くらいにあたるでしょうか)。それから英語は米国の普通の女学校程度 (これも今の日本でいえば高等学校くらいでしょうか)。また基礎学力のない女子に対しては手 芸、裁縫、機織り、料理のほか、小学校程度の教科を用意します」と語っておられます。 ここに表明されている、「女子が成長して一人前の婦人(今の言葉でいえば社会人)となった ときに必要とされることは全て教える」というラッセル先生の教育観は、見事であると思います。 その着眼の的確さは今もその価値を失っていません。そこにおのずから今日の活水学院が目指す べき教育が示唆されています。 私たちの前にいる若い女性たちに、私たちはどのような教育内容を提供すべきであるのか、ラ ッセル先生に今聞くならば先生は、「その娘さんたちが卒業後生きていく世界で必要になると思 われることを教えなさい」と答えられることでしょう。それが具体的には何なのかを考えるのが、 学校を運営する私たちの責任です。若い人々を、親として、あるいは先輩として育てるべき私た ち自身がまず、今日の、あるいはこれから数十年先の世界でどういうことが必要とされているか を明らかにしなければなりません。世界がどう変わってゆくのかが、見えない、分からない、と 逃げることはできません。なぜなら世界がどう変わろうとも、世界にどのような悪の力が働こう とも、成人して、まっすぐに生きてゆこうとする女子が、あわてず、ひるまず、たじろがず、人 間としての誇りと尊厳を保ちながら生きてゆけるだけの知恵と力をつけてあげなければならな いのです。その意味では学校で働く私たちの使命と責任はとても大きなものです。 しかもその世界は、正義と公平、そして愛に満ち、すべての人間が等しく価値を認められ、平 和裡に暮らすことのできる場所でなければなりません。これはラッセル先生、ギール先生のみな らず、活水にこられたすべての宣教師の方々の願いでもあるにちがいありません。 世界がいまそうなっていないならば、それを構築・建設しようとの大志を抱く女性たちを、こ の活水から巣立ちさせたいのです。それをしっかりと覚悟することが、本日の記念式典において 私たちが創立者に向かって表明すべき、最も大切なことではないかと思います。ご一緒にこの使 命を果たすべく前に進んでまいりましょう。 活水女子大学学長 加納孝代
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