戦争と殺しと聖書の信仰 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

戦争と殺しと聖書の信仰
新約単篇
マタイによる福音
戦争と殺しと聖書の信仰
マタイ 5:38-45
この数年間、世界は目まぐるしい速度で方向変換をしています。まるで地
球が回転軸を変えたか……軌道修正をしているのではないか、とさえ思うく
らいです。ここ数日来の出来事を見ていましても、不倶戴天の仇であった筈
の PLO とイスラエルとが「相互承認」をする勢いになりました。ラビンさ
んは、「パレスチナ人とユダヤ人の流血の歴史は終わった」と宣言した上、
「我々は PLO を和平のパートナーと考える」と述べて、野党の怒りを招い
ています。アラブの側でも、「アラファトは生かしてはおかない」と息巻く
“イスラム原理派”の人たちがいて、クリントンさんも言うように、前途は
決して楽観はできません。しかし、確かに情勢は変わりつつあります。人間
が変わった訳ではありませんが、人間は殺し合いの末に、その愚かしさに気
づき始めたのです。カンボジアでもそうですが、手も足もちぎれてから人間
は、「あれだけ正義のために燃えたのに、あの戦いはいったい何だったのか
……?」と冷静に考えるようになります。それに、世界のどこのどんな紛争
でも買って出て、後押ししてくれる二大スポンサー並立制が崩れたことも、
見逃せません。
この変化がいつから始まったのかについては、やはり、ベルリンの壁が崩
れた 1989 年を誰しも考えます。ゴルバチョフから始まった旧ソ連の解体は、
軍拡による破産と言いますか、核兵器による大国の空中分解もさることなが
ら、人間の自由を犠牲にするイデオロギーが自滅すべくした自滅した事実が
その陰にあります。マクナマラさんなどは経済的な視点からも、ソ連の崩壊
を大分早くから気付いて予告していたそうです。もっと凄いのは、もう 40
年以上も前ですが、内村鑑三の弟子にあたる山本泰次郎氏がご自分の聖書雑
誌に、「神を否定して人間の自由を犠牲にした共産主義社会はそう長くは続
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かない。間もなく崩壊する」と予言しておられたのを、今更のように思い出
します。私なんかは見通しが利きませんから、19 年前に書いたローマ書 13
章の解説で、「矛盾はこのまま 50 年、100 年、いや何世紀も続く場合だって
あります」(322 頁)などと言っています。とにかく、神の手がこの現実の
歴史に働いているということを、いろんな角度から体で感じさせられるよう
な時代であったと思います。
私自身にとっては、変化は 31 年前の“キューバ危機”の時から始まったよ
うに思います。そのとき私はヨーロッパの片隅にいて、「いよいよやるのか
……?」という絶望感を味わったのですが、ケネディとカストロとフルシチ
ョフ三者の駆引きの中で、無謀な勇み足を引っ込めざるを得なかったフルシ
チョフが、なぜか今のアラファトと(冒した危険のスケールは違いますが)
ダブッて映ります。あの朝、フルシチョフはケネディが教会に出掛けて祈っ
たという知らせを、「アメリカは核戦争の肚を決めた!」と踏んで、自分の
やり出したことの結果の恐ろしさに気付いて、ミサイルの撤去を命じたのだ
と BBC テレビは伝えています。でも、あの時は、何が起こっても不思議は
なかったのだそうです。神が私たちを憐れみ給うて、今の命と歴史の残りが
あることを痛感します。
ここで、戦争と宗教というテーマに触れることになります。もちろんケネ
デイは宗教のために戦おうとしたのではなく、追い詰められた極限状況の中
で、多くの人の運命を決める立場に置かれた者として、正しい判断を下す知
恵を神に求めたのだと思います。でも、昔から多くの国の指導者たちが、神
の名によって、信仰と正義を守るために、あるいは数え切れない敵を殺し、
あるいは逆に、敗れて無数の同胞の血を流させたことは事実です。現にアジ
アでのヒンズー教徒と回教徒の衝突を読むのも悲しいですが、キリスト教徒
が関わっているという点では、ボスニアやクロアチアでの戦いは、胸を痛め
ます。どうして多数派が自分の利益のために武力でイスラム教徒を押えるか。
スターリンを思わせる大量殺戮を、キリスト教徒側がなぜできるのか。婦人に
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対する集団的な侮辱とか……およそ考えられない行為が平然として行われて
います。もっとも、彼らを詰れば恐らく、「昔、オスマン・トルコの圧政下で、
我々はイスラム教徒からどんな扱いを受けたか知るまい」という答えが帰っ
て来るに決まっています。セルビア人やクロアチア人に聞いてきた訳ではあ
りませんが、私はギリシャ人の言い分を自分の耳で聞いて、知っています。
キリスト教はその古い憎しみの根を断つことさえできなかったのか……!
ここで、主の言葉と使徒たちの証言を一二、おさらいしてみましょう。
1.剣を取る者は皆、剣で滅びる。(マタ 26:52)
これは、ゲッセマネの園で、イエスを守るために剣を抜いて大祭司の手下
に打ちかかった弟子に、主が言われた言葉です。「剣をさやに納めなさい。
剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
もちろん、この「剣で滅びる」の意味は直接には、「武器を使って人を殺
せば、早晩自分も刃を受けて殺されるのは当然のことと覚悟せよ」というこ
とで、「一度でも殺人の罪を犯したならば、永遠に神から呪われる。その人
に救いはない」という意味ではないでしょう。ヨシュアやギデオンが永遠に
救われないと、イエスは断定なさった訳では、もちろんありますまい。私は
クリスチャンの革命家と言われるような人は、神の剣の裁きを我身に受ける
覚悟で孤独な戦いを戦った(“ローマ書の福音”第 36 講,321p)のだと考え
ますが、このような覚悟は、「信仰のために異教徒と戦った」人たちにも、
共通すると思います。
十字軍の大半は教会の名による愚行と罪であったと私は考えますが、それ
でも、1453 年にコンスタンチノープルを死守して、マホメッド二世の率いる
16 万の大軍を迎え撃ったギリシャ人やヴェネチア人の軍人たちは、主の名の
ために、兄弟たちを異教徒から守るために、最も高貴な戦いを戦っていると
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確信していたでしょう。しかし、彼らが命をかけて守ろうとしたものは、よ
く考えてみると、いったい何だったのか……?
こう考えてくると、イエスが言われた「剣で滅びる」というお言葉には、
「戦う者は死を覚悟して戦えよ」とは違って、もっと深刻な警告が含まれて
いたと受け止めるべきでしょう。「血で血を洗う、終わりのない憎しみの連
鎖を百年後にまで残してでもお前はやるのか!」これは、「剣を取るのも良
かろうが……」という黙認の補足ではなくて、「剣をさやに納めなさい」と
いう、絶対命令の理由として言われたお言葉だということを知らねばなりま
せん。剣をどうやっても納めることのできない罪の人間に対して、「それで
も剣を納めよ。剣を納める力と理由は私があたえよう」と、イエスは言われ
たのです。
本当はキリスト教徒は、イスタンブールの惨敗だけでなく、その後のヨー
ロッパにおけるカトリック教国と新教国の三十年戦争や、相互に繰り返した
大量殺戮の悲惨を通して、フルシチョフが見たのと同じ恐ろしいいものを見
たはずですし、カンボジア人やアラブとイスラエル以上の苦痛に満ちた教訓
を得たはずなのですが、それでもまだ、現にロシア正教徒の中から、ボスニ
アのセルビア人の側に加わってイスラムと戦おうという兵士が、志願して出
て行くというのです。キリスト教には、憎しみと流血を止める力はないのか
……! この問いに対する答えは、今は、「イエスでもあるし、ノーでもある」
と申しておきましょう。
2.殺すな。人を殺した者は裁きを受ける……と。だが、私は言う。
これも、聖書を読んだ人ならだれでも覚えている、印象に残るお言葉です。
これは「山上の説教」と普通呼ばれるマタイ 5 章の中程、21 節以下にありま
す。新共同訳の見出しは「腹を立ててはならない」となっていますが、これ
はそんな尤もらしい教訓ではありません。それ以上のものです。イエスの趣
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旨は、手を下して殺人罪を犯してから「殺し」が成立するのではない。人を
呪って憎んだとき、すでに相手を抹殺する意志があなたを捕えている。それ
は殺人であり、神の目には殺し以外の何ものでもないし、それは殺しとして
裁きを受ける。つまり、あなたは、神が御覧になる目で相手を大事に見るこ
とができるか(5:45)、それとも相手を抹殺したいくらい呪わしいか……。
それが問われるのです。
その言葉の次の頁に来るのが、先程読んでいただいたあのお言葉です。
「『目
には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。
悪意の人にこちらから抵抗するな。あなたの右の頬を打つ者があれば、左も
向けてやれ。」これも、よく知られた言葉です。
相手の悪意と暴力に対して、憎しみも暴力も返すな、ということです。相
手が憎しみで燃えているまま、神に委ねておけ。これは肉の人間には悲しい
が、本当はできないことです。これは、修養の目標とか道徳的な勧めではあ
りません。そんなきれいごとではないのです。それができない自分を底の底
まで見て何かに気づけ……という問題提起と、そして、イエス御自身が実は
その力を与えてあなたを変えてしまうために来た。そんなイエスを受けるか
……ということへの前置きなのです。
イエスの御意図は、そんな悲しいあなたをそのまま、神が愛しておられる
ということです。あなたがその愛に触れて、十字架の血で芯まで清められる
経験をして、復活したキリストの命で一杯にしていただいたら、そういう者
にされると言われるのです。悪意の人にこちらから抵抗するどころか、その
人を愛しておられる神の目でその人を眺めて大事にできるような力が受けら
れる。そこを最終的な目標点にしてイエスを見よ。この福音書を読む人は、
そこまで行けるのだという聖なるヴィジョンをもって、イエスが何を与えよ
うとして来られたかを、読み取れ……と。
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もしこの中心を正しく読み取ることができたら、今の朗読の中にあったあ
の、「敵を芯から大事に思い、大事にして上げられる人であれ。あなたをト
コトン追い詰めて苦しめようという人のために祈る者になれ」という言葉も、
律法ではなくて、「そこまで行ける。いや、キリストが連れて行ってくださ
る!」という、希望の目標になります。
3.殺しの言い訳。「主よ剣は二振り、ちゃんと持って来ております。」
これはもちろん、主のお言葉ではなくて弟子たちの主張です。(ルカ 22:
38)イエスはこれを聞いて、“That's enough.”とおっしゃったとルカは、
イ エス が恐ら くヘブ ライ 語で 言われ たお言 葉を 、ギ リシャ 語に直 して
《》と書いています。「それで良い、二振りもあれば十分」
とも聞こえますけれど、本当は悲しみを込めて、それでも弟子たちを慈しん
で言われたのだと思います。もともと、この時はイエスの方から、「これか
らは、危険の中で身を守らなければならないような危険も覚悟せよ」と、何
年も先の危険を予告なさったのに対して、数時間後の危険で頭が一杯だった
弟子たちは、「この剣さえあれば、ラビと仲間を立派に守って見せます。命
だって捨てます」と、命懸けの覚悟を吐露したことになります。そして実際、
シモン・ペトロはゲッセマネでは命を張って剣を抜きました。彼はイエスと
仲間を守るためなら、人を殺すことも許されると割り切ることができたので
す。正義のため、正しい信仰を圧迫から守るため、愛する兄弟を守るためな
ら、人を殺すこともやむを得ないという論理の基本がここにある……と見る
人も十分いるのです。決してセルビア人だけではありません。
ところで、聖書の読者にとって、ここの所で引っ掛かるのは、旧約聖書の
イスラエルの戦いです。特にヨシュア記が語るカナンの町の攻略と住民の殺
戮です。最初に出てくるエリコとアイという町に攻め込んだ時にしたことは、
初めて読む者の肝を潰します。それが聖書の記事であるだけに、神の民イス
ラエルの行為であるだけに、疑問も大きいのです。
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角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に
鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、
この町を占領した。(私たちがショックを覚えるのはその次の文です。)彼
らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるもの
はことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。(ヨシュア記6章 20,21 節)次に
攻略したアイの町についてはこうです。
全イスラエルはアイにとって返し、その町を剣にかけて倒した。その日の
敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。(同8:24b
-25)その他の町々もみな同じです。
ヨシュアはその日、マケダを占領し、剣を持ってその町と王を撃ち、住民
を滅ぼし尽くして一人も残さなかった。(同 10:28)
ヨシュアはイスラエルを偶像を拝する罪から守らなければならなかったと
されます。偶像教の住民を一人でも残しておいては、イスラエルの信仰は間
もなく堕落させられて、禍根を千載に残すことになります。新改訳が「聖絶」
という訳語を作って表現したこの、まことに残酷で無情な処置の中に、一人
の神への純粋な信仰という、聖なる神の求め給う実物教育―“object
lesson”の厳しさを見なければならない、とも教えられます。これは神の審
判であって、そこにイスラエルの残虐の罪を見るべきではない。これは、信
仰者にとっては、論議さるべき問題ではないのだ……と。
若い時に感銘を受けた書物に、山本泰次郎氏の「イスラエル戦史」があり
ます。ヨシュア記の注解書、というより、日本で初めての旧約聖書の学問的
研究書として、「ダビデ伝」と共にキリスト教出版史に残る記念碑です。し
かし、感動して読みながらも、私には解けない謎が残りました。それにして
も何故そこまで……? 山本氏は私の疑問には答えて下さいませんでした。そ
れは聖なる神の絶対意志として、著者にとっては疑念を差し挟むことを許さ
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ない、神聖な事実だったのだと思います。しかし、私はその後殆ど 20 年、こ
の疑問を解こうとして苦しみました。
神は本当に、婦人子供に至るまで、一人残らず剣にかけて「聖絶」するこ
とを欲されたのか。「偶像の恐ろしい影響を、イスラエルの聖なる使命のた
めに、完全に粛正せよ」という聖なる意志を、あの時点でヨシュアは、あの
形でしか受け止め得なかったものか……。「主がヨシュアに命じた言葉の通
り」という言葉と、「町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主
にささげよ」という命令の間に、悲しい人間の罪から来るギャップがあった
のか……。主なる神は、アッシリアやバビロニアを用いてイスラエルに裁きを
なさったように、この時はイスラエルの罪と無情を器として用いてでも、一
つの恐るべき真実を民にたたき込もうとされたのか。「ただ独りの神を拝せ
よ。神ならぬものを神とする人間の思い上がりは、このように裁かれる。」 イ
スラエルは、実際には恐ろしい罪を犯しながら、三千年後まで消えない原体
験を強いられたのか……。言い換えれは、ヨシュアに率いられるイスラエルは、
神の聖なる器として用いられると同時に、あの恐ろしい罪を宗教の名で犯す
という形で神に裁かれていたのか……そういう理解は果して不信仰であると
いうのか。私の小さな頭で考えられることは、そこから先へは進みません。
キリストの福音を学んだ私たちにとって、はっきりしていることは、エリ
コとアイの殺戮は、信仰のための戦争と殺しを正当化する根拠にはならない
ということです。私たちはただ、あの恐ろしい教材を人間を映した鏡として
捕えて、これを踏まえた上で、新しくイエスの愛の視点から、「あなたを呪
う者を愛せよ。憎しみと危害をもたらす者を愛せよ。あなたを追い詰める者
も、あなたを殺そうとして狙う者も、あなたの祈りでカバーして、あなたの
祝福で満たしてあげよ」という所へ、飛躍する必要があるのだと思います。
仮に(考えたくない事ではありますが)仮に、ヨシュア記のこの時点では、
文字どおり住民を殺し尽くすことが主の意志であって、神はイスラエルにそ
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の恐ろしい殺戮を行わせて、その光景のショックを三千年の間、民族の魂に
焼き付けようとした、と理解しましょうか。「ただ一人の神を拝し、これに
仕えよ。神ならぬ者を神とする者は滅びなければならない。」もし、そうい
う意味で神が殺戮を命じたとしても、それは恐らくその瞬間の必要、聖なる
神の歴史のその時点での摂理であったのです。後に、イスラエルの罪の故に、
神が異教徒バビロンの軍を用いてユダとエルサレムを蹂躙なさったことが、
神の器となったバビロニア人の残虐行為を正当化して“栄光”で輝かすもの
でもないし、ヒトラーのユダヤ人虐殺の言い訳にならないのと同じにです。
4.なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないか。
なぜ、むしろ奪われるままでいないか。(1コリ 6:7)
これは使徒パウロの言葉です。福音の器として聖霊の霊感により語った言
葉です。もともと、戦とか殺すとかいう事と関連して言われたものではあり
ません。これは、当時のコリントの社会で、クリスチャンが自分の権利を守
るために信者同士で訴訟を起こして、不信者の判事の前に訴え出る事件につ
いて、パウロガ戒めたものです。「奪われたままで良いではないか。受けた損
失や痛みを報復しないで、相手の不義を包み込んで溶かしてしまえないか。」
この聖句については、私には個人的な思い出があります。学院の前にある
教会の土地と建物が、私たちとは異なる立場の教会の所有になるという事件
が起こって、先輩方が大阪地裁で争っておられた時に、若造の私が「それは
むしろ不義を甘んじて受けて、奪われるままにするのが信仰者の道ではあり
ませんか」と言って叱られたのです。「織田君、これがもし私個人のものな
ら、少しも惜しくはない。しかしこの財産の背後には、この信仰のために使
って欲しいという気持ちで、私たちに委ねてくれた人たちがいることを、忘
れてはならない。」
ここで、戦争と殺しの問題に結びつけるのは飛躍(?)だと言われるかも
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知れません。しかし、「私ひとりならば、御言葉を文字どおり真っ直ぐに受
け止めて適用できるが、兄弟たちの利害が脅かされる場合には愛の重荷と責
任上、同じ解釈や適用はできない」ということであれば、「殺すな」も「奪
われるままでいよ」も、その意味内容が全く変わってくることになります。
「キリスト教には、憎しみと流血を停める力はないのか?」という深刻な問
いに対して、「“Yes”でもあるし“No”でもある」という答え方をした理
由も、そこにあります。
《 結 び 》
「この私一人が受ける不義であれば、パウロの教えの通りに不義に甘んじ
よう。私一人が殺されるのであれば、むしろ武器を取らずに不当な死を受け
入れよう。しかし、仲間の兄弟の信仰と自由が侵される時は武器を取ろう。
愛する者を守るために、人を殺すのは神もお許しになる」という言い訳の機
会を最小限にするためには、その「命を賭けて守らなければならない共通の
利益」なるものを、できるだけゼロに近づけることが大事です。これは私た
ちが死守したくなる「キリスト教文化」とか、「わが宗教、わが教団の共通
の伝統と枠組」のようなものを、なるべく少なくすることです。あなたや私
が、一人の個人として、自分の信仰と自分の良心だけを仲間にして、神の前
に個人として立てるような、宗教のしがらみと係累なしの、シンプルなキリ
スト教、天の父とキリストと私だけの身軽なキリスト教―ある意味で“水
臭いキリスト教”に徹することができたら、戦いと殺しの言い訳がなくなる
のではないか……。ここの所から私の「キリスト教の宗教文化ともなるべく
絶縁する」信仰とつながるのですが、これは次回に譲ります。
もちろん、クリスチャンも、愛する者を守るために人を怪我させたり命を
奪ったりする緊急事態は出てくるでしょう。それは各人のギリギリの判断の
結果がそうなる訳で、そのことの裁きは主御自身に委ねるほかはありません。
「戦うか……奪われるままでいるか……」について兄弟が出した判断を、だ
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れも裁くことはできないのです。「主よ、憐れみ給え」“Kyrie, eleison”です。
しかし、戦いと殺しの言い訳をその最小限に絞って、キリスト教徒として
の民族の利権を限りなくゼロに近づけ、命をかけても守らなければならない
ものは、この私がイエス・キリストに服して節操を守ること……という一事
だけに狭めれば、「信仰のため、仲間の自由と人権を守るための戦争と殺し」
は、あり得ないのではないかと思います。
そのとき私は、裸の人間として、キリストの愛の前に立ちます。キリスト
の血で、罪を蔽っていただいた人間として、死んでいたのにキリストの復活
で生かされた聖徒として、神の愛を受けた者として、その愛と赦しの小さな
タンクとして、悪意の人の上にも同じように太陽を昇らせる父と同じ心に変
えられた者として、神の前に立つだけでなく、戦いの相手の前にも立つこと
ができます。
戦争だとか、殺しだとか言いましたが、架空のケースや限界状況を講義し
たのではありません。現にあなたが赦せない人をも、愛でカバーする力をキ
リストは下さる、ということです。信頼しようにもできないくらい疎ましい
人を、まず天の父の目で見て、その人の上にも同じ恵みの雨を注げるという、
これは福音なのです。
(1993/09/12)
《研究者のための注》
1.キリスト教が戦争を起こすことがあるのか……またそれは、戦争をとめるのに無力か
……というテーマについては、1993 年 3 月 5 日大阪聖書学院チャペルでの発表「宗教
は人を戦わせるか?」があります。
2.ヨシュア記に記録されるエリコやアイでの、「住民全員殺戮」の意味を解釈しようと
する努力は、大阪聖書学院チャペルで 1983 年 2 月 14 日に発表した「『聖絶』につい
て」、1991 年 2 月 5 日の「続『聖絶』について」があります。
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3.十戒の「殺すな」は殺人罪 murder に関わるもので、不当に攻撃を受けた場合や、愛
する者に危害が及ぶ場合の「正しい武器使用」に適用するのは正しくない、とする主
張は、David Bivin & Roy Blizzard“Understanding the difficult words of Jesus”に、
一つの立場から徹底して論じられています。
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