ご挨拶 ―翻訳プロジェクトの新たな展開に向けて― 鴻 英良 1938 年を軸に演劇と文化の状況を再考することによってわれわれは世界史にどの ような新たな視点をもたらすことができるのか、こうした壮大な構想の下に始まった 翻訳プロジェクトの第 3 弾もいよいよ終盤を迎えようとしています。翻訳プロジェク トの第 1 弾は、世紀末から 20 世紀初頭の重要な未邦訳演劇文献をドイツ語、フラン ス語、英語、ロシア語から翻訳しました。翻訳原稿はすでに演博のホームページで読 むことが出来ます。そして、第 2 弾は、非西欧世界の演劇文献の翻訳ということでプ ロジェクトは進められてきました。それはアジア、アフリカ、南アメリカの演劇の現 在を考えるために各地の言語で書かれた演劇文献を翻訳しようという企てでした。し かし、これはとてつもなく大きな企画であり、われわれが手を付けることが出来たの は、中南米、中国、それに東南アジアの一部だけでした。これについても演博のホー ムページで読むことが出来ます。そして、第 3 弾では、ヨーロッパの別の時代に焦点 を当てました。それが、闇の中のようにその姿を容易にあらわさない第 2 次世界大戦 前夜の芸術状況、そして、そこでの芸術家、知識人たちの振る舞いについて光を当 てるための諸文献の翻訳を目指した今回の企画です。 20 世紀は戦争と革命の時代だと言われています。しかし、20 世紀が終わったいま、 われわれが知っているのは、革命との関係で生まれてきた強大な社会主義圏がいま やないということであり、しかしながら、戦争の傷跡はいまだ癒されてもいないとい うことです。そのようなときに、ドイツ革命など、ロシア革命後のさまざまな革命の 挫折のなかでいったい何が起こっていたのかを究明しなくてはならない。われわれ演 劇批評、演劇研究に携わろうとするものたちは、とりわけ文化的、芸術的領域に焦点 を当てながらその作業を進めなければならないのではないでしょうか。もちろん、政 治的、経済的、あるいはその他の視点からの考究をも視野に入れなければなりませ ん。ですからこれは壮大なプロジェクトであり、それゆえ、われわれこのプロジェク トのスタッフだけでは手に余るところも多く、そうした時代、地域の専門家、研究者 たちの力を借りながら、われわれはこのプロジェクトを進めてきたのです。さまざま なかたちで協力してくださった方々にまずこの場を借りてお礼を申し上げたいと思 います。 さてわれわれが今回の「1938 年代問題プロジェクト」で翻訳することができたの は、ドイツ、ソヴィエト、フランス、イタリアに関する諸文献だけですが、こうした 作業をひとまず終えてみて、われわれが痛感したことは、未翻訳、未入手の重要な文 献がまだ膨大に存在するということでした。これは翻訳の作業の中から明らかになっ ― 1 ― てきたことです。ところで、第 1 弾、世紀末と 20 世紀初頭の文献の翻訳に関しても、 膨大な文献がいまだ翻訳されることなく放置されています。また、第 2 弾の非西欧圏 の演劇文献に関しては、インド、中東、中近東、アフリカなどはほとんどいまだ手つ かずの状況のまま残されており、これからのますますの調査が必要とされています。 そもそもこの非西欧圏の演劇文献に関するプロジェクトは、エドワード・サイードの 『文化と帝国主義』 (大橋洋一訳、みずず書房)に触発されたものでもありました。サ イードは帝国主義が植民地にもたらした文化、あるいは、西欧にもたらした文化、そ してまた植民地で対抗的に創造されていった新たな文化を、主に小説に言及しつつ 分析しました。そのような動きとの平衡関係が、各地の演劇文化の中で起こっていた のかどうか、そうしたことを調査しつつ、非西欧圏の演劇の現在を探求するための一 歩を踏みだそうというのがこのプロジェクトの意図でもありました。 このように見るとき、われわれの翻訳プロジェクトは、いわば火のないところに煙 を立てたのであり、始まりの地点を作り上げたのだと言っていいと思います。このプ ロジェクトは新たな展開の基礎を築いたのだとわれわれは自負しています。つまり、 すでにわれわれが、膨大な量の未邦訳文献を翻訳したということ、その翻訳文献の 選定のために、われわれの多くがさらに多くの関連文献を読み進んできたというこ と、また、これらのプロセスの中で、幾度か研究会、シンポジウムを開催し、研究者、 批評家間の学際的な交流を深め、他地域の演劇に対する理解と関心を深め合ってき たことなどが、このプロジェクトの新たな展開を準備しているのだとわれわれは考え ているのです。 この翻訳プロジェクトをひとまず終えるにあたって、私たちはいま新たな翻訳プロ ジェクトの入り口に差しかかっているのだと思っています。そして、この翻訳プロ ジェクトは、さまざまな成果を生み出しつつ、さらに展開していくことになるだろう と確信しています。 そのためにわれわれはさらに多くの協力者を必要としています。多くの人が、この 翻訳プロジェクトの方へ歩んでくることを願って、私の挨拶に代えたいと思います。 ― 2 ―
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