『氷屋来たる』再読―オニール研究覚え書 Rereading The Iceman

山﨑:『氷屋来たる』再読―オニール研究覚え書
『氷屋来たる』再読―オニール研究覚え書
Rereading The Iceman Cometh
―Memoranda of a Study of The Iceman Cometh
山﨑
序
康臣
そして彼は妻を殺すに至った。妻を殺した時、彼は次のよう
に口走ったという。
私は前にこの作品における夢と死について考察し、あわせ
さあ、これで、お前の下らん夢をどうしたらいいか、
てこの作品はラリー( Larry )、ヒッキー(Hickey)、ドン・パリット
分かったろう、な、この阿魔め!(3)
(Don Parritt)の三人を中心に配し、ハリー・ホープ(Harry
Hope)の酒場の面々をコーラスとした、現代のギリシア悲劇だ
ここにはついに妻を憎んで殺してしまった彼の真情が見え
と指摘した論文を書いたことがあるが(1)、今回この作品を再読
る。
考えてみると、彼のあやまちを赦し続けたエヴリンの愛はキ
して考えさせられたことをいくつか次に指摘しておくことにし
リストの説いた愛に通じるものがある。マタイによる福音書第
たい。
18 章 21〜22 節に次のような言葉がある。
1.
『氷屋来たる』における愛
ペテロがイエスのもとに来て言った、「主よ、兄弟
ヒッキーの妻エヴリン(Evelyn)の愛は、彼のあやまちを赦し
がわたしに対して罪を犯した場合、幾たび赦さなけ
続ける愛であった。ヒッキーも告白しているように、彼が酒に
ればなりませんか。7 たびまでですか。」イエスは彼
酔いつぶれたり、女と遊んで病気をもらったりしても、彼が謝
に言われた、「私は 7 たびまでとは言わない。7 たび
ると彼女は赦した。そのような徹底した愛がヒッキーには負担
を 70 倍するまでにしなさい。」
に思われた。彼は次のように言っている。
またルカによる福音書第 17 章 4 節には次のようなイエスの
言葉もある。
俺をそんなに愛してくれる、世界一やさしい女に
対してひどい仕打ちをしたことを考えて、ますます
自分自身が憎くなった。‐‐‐とうとう俺は毎晩、あい
もしあなたに対して 1 日に 7 度罪を犯し、そして 7
つの膝に丸くなって顔を隠し、泣き喚いて許しを乞う
度「悔い改めます」と言ってあなたのところに帰って
ような始末になった。そしてもちろん、あいつはいつ
くれば赦してやるがよい。
でも俺を慰めて言ったもんだ。「いいのよ、あなた、
もう二度となさらないってこと分かってますわ」。‐‐‐
エヴリンの愛はキリストの説いた愛だった。そして、そのエ
時には、俺に俺自身をそれほど憎ませるという理由
ヴリンを殺したということは、キリストの愛を否定したことにつな
で、あいつを憎んでいる自分に気がつくことがあっ
がる。
『限りなきいのち』(Days Without End)では愛の賛美でドラ
た。自分の罪を感じるにしろ、また赦しと憐れみをう
けるにしろ、限度ってものがある!(2)
マは終わっていた。
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愛は永遠に生きるのです!
畜生、希望なんてあるもんじゃねえ!俺は特等
死というものはなくなってしまいました!シー
席ででも、その他のどこででも、うまくいくことなんか
ッ!お聴きなさい!聞こえますか?
ありゃしないんだ!人生は、おれにとっちゃ荷が勝
ジョン・ラヴィング
ベッド神父
ちすぎる!俺は死ぬまで、すべての物事の両面を
何が聞こえるんだね? ジャック。
生命が神の愛と一緒に再び
憐れみながら眺めている弱い愚か者だ!‐‐‐いや、
微笑みかけています!生命が愛とともに笑
どうも俺だけがここで改宗して死ぬってわけなんだ
っているのです!(4)
な、ヒッキーのおかげで。俺の臆病な心の底から、
ジョン・ラヴィング
いま本心でこういってるんだ!(6)
この愛の賛美が『氷屋来たる』では否定されているのだ。こ
れは大きな心境の変化である。
ヒッキーの福音は「死の福音」だったといえるだろう。第 2 幕
またエヴリンの愛はヒッキーのあやまちを改めさせるに至ら
の終わりで妻が死んだことをヒッキーが言うと、ラリーが「ああ、
なかった。つまり愛は不毛なのだ。赦し続けるにもかかわらず
あいつには死の影がつきまとっている気がしたんだ」とか、第
不毛に終わる愛。この皮肉も見逃すことができない。
3 幕で「あいつがここへ死神を持ち込みやがったことだけは、
金輪際、間違いっこねえ」とか、ヒッキーに向かって激しく怒っ
2. 死の福音
て、「貴様が持ってきたのは死の平和だ」というように、ヒッキ
ーは酒場の仲間を死に直面させるからである。酒の力を借り
ヒッキーの福音は妻を殺したあとに彼が到達したものである。
て明日の夢を見ていた連中が、夢という支えを取り払われて、
彼は、明日を信じて自分をだますことなく、自分のありのまま
白々とした現実に直面させられれば、そこにあるのは死その
の姿を直視しろとホープの酒場の面々に説く。彼らはヒッキー
ものだからだ。ドン・パリットが投身自殺するのも最終的には、
に追いたてられるように酒場を出て行くが、結局夢破れて戻
ラリーに「行け!くたばっちまえ、こん畜生、俺に絞め殺され
ってくる。酒のききめがなくなったとホープも言う。「改革運動」
んうちに!とっとと上がって――!」と運命の宣告を受けたあ
の効果があらわれず、不安になったヒッキーは、事ここに至っ
とであるが、彼が母を裏切った真の理由が、母が憎かったか
たいきさつを弁明し始める。そして彼がエヴリンの苦労の種に
らだという告白に至るまで、ヒッキーの福音と弁明が大きな推
なったり、彼女がまたぞろ彼を赦したりしなくてもいいように彼
進力となってパリットを導いている。この意味でもヒッキーの福
を厄介払いさせてやれる唯一の道として彼女を殺したという。
音は「死の福音」と呼ぶのがふさわしい。
ここでウィルソン(J.S.Wilson)によるインタヴューで、オニー
その際、彼は実は妻を憎んで殺したことを口走ってしまうが、
ルがタイトルについて語った言葉を紹介しておこう。オニール
そう言った瞬間、彼は次のように言う。
は『氷屋来たる』というタイトルには 2 重の意味があり、ヒッキー
が「妻を氷屋と寝かせて来た」という言葉について、
いいや!そりゃ嘘だ!俺は言わなかった――!
畜生、そんなことを言えるはずがない!言ったとす
それはタイトルの1つの表面的な意味です。タイトル
りゃ、俺の気が狂ったんだ!ああ、俺はこの世の中
(5)
には死と結びついた、より深い意味があるのです。(7)
の何よりも、エヴリンを愛してたんじゃないか!
ヒッキーもまた自分が妻を憎んで殺した事実は直視できな
と述べている。「氷屋」が死神であることは、ラリーの言葉を待
い。これも皮肉である。そしてヒッキーは警官に連行されて行
つまでもなく明らかだし、オニールの言う、もうひとつの、より
く。残った酒場の面々はヒッキーが言った、「気が狂ったん
深い意味こそこの「死の福音」であろう。
だ」という言葉によって、「改革運動」から解き放たれ、酒のき
この作品で表現されているのはオニールの諦観であって、
きめをとりもどす。ラリーだけがヒッキーの福音に帰依し、改宗
『偉大なる神ブラウン』(The Great God Brown)や、『ダイナモ』
者となって次のように言う。
(Dynamo)や、『限りなきいのち』(Days Without End)などで熱
心に試みられた神の探求は、この作品ではもはや行われず、
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は何処へ行こうか、などと思い悩む必要はないんだ、
ただオニールの諦観が表現されているばかりなのだ。
何しろこれから先は無いんだからな。連中にとっち
この作品のテーマは「死」である。そしてすでに指摘したと
ゃ大きな慰安さ。
おり、夢をとりのぞかれたあとに残るのは死のみであるという、
人間の終局のありようが描かれているわけである。
では次に、この作品と『夜への長い旅路』(Long Day’s
この言葉は人生の終点、死を待つばかりの人間の様をよく
Journey Into Night)を書いた、最晩年のオニールの死観を見
表している。
思えば、神の探求、あるいは神とは銘打たなくても、「安住
ておくことにしたい。
する」(belong する)ところを求める、飽くことなき探求は、早く
から『毛猿』(The Hairy Ape)でも行なわれ、『偉大なる神ブラ
3.最晩年のオニールの死観
ウン』、『ダイナモ』等を経て、『限りなきいのち』に至るまで熱
心に行なわれた、オニールの劇作の最大のモチーフの1つ
この作品における「死」の定義は、第1 幕でラリーによって、
である。だが彼はその探求に疲れたのであろうか、その後の
「俺の前にあるのは、死は美しい長い眠りだという心の安まる
心境の変化でこれを諦め、安楽な彼岸への入り口としての死
事実よ」と述べられている。そして『夜への長い旅路』でエドマ
にあこがれるようになり、この作品で「生きながらの死」、「死を
ンド(Edmund)は次のように言う。
待つしかない人間の終局のありよう」を描いたのではあるまい
か。
人間に生まれついたのが大間違いだったな、ぼ
つけ加えて言うならば、さきほど引用した『夜への長い旅
くは。かもめか魚にでも生まれていたら、もっとうまく
路』におけるエドマンドの言葉は、自分の最終的に落ちつくと
やれたろう。このままではいつまでたっても見知ら
ころ、いいかえれば安住する(belong する)ところがいまだに
ぬ旅人、どこにいても家のような気がしない。特に求
得られていないことを表している。オニールは彼の作家として
めることもなく、特に求められることもなく永遠に根無
の生涯をとおして、魂の安住するところを求めたにもかかわら
し草、いつもわずかだが死にあこがれつつ生きてい
ず、ついに得られなかったのではないかと思われる所以であ
く!(8)
る。
4.子宮のイメージの使用
このように最晩年のオニールは死にあこがれるようになっ
ていた。死が安楽な彼岸への入り口であるなら、死こそ願わし
くなるだろう。
最後に、子宮のイメージの使用についてふれておきたい。
これは先に引用した『限りなきいのち』の最終場面のジョン・
『夜への長い旅路』の第 4 幕で、父親のティローンが息子たち
ラヴィングの言葉の内容とはまるで反対である。『限りなきいの
の帰りを待ちながらトランプ占いをしているところへ、エドマン
ち』で示された永遠の生命、永遠の愛は、この作品では否定
ドが帰宅し、「浜まで歩いていっちゃ体が湿って寒かったろう。
され、生命はもはや永遠ではなく、愛も人を救う力を持たない
遠くへ散歩に出るような夜じゃないよ」とティローンが言うとエ
ものになっている。これは特筆すべき、作者の大きな境地の
ドマンドは「僕は霧が好きなんだ。ちょうどおあつらえむきだっ
変化である。そういえば第 1 幕でのラリーの次の言葉が思い
たよ」と言い、さらに続けて次のように言う。
起こされる。ドン・パリットに「ここはどういう種類のとこなんで
す?」と尋ねられて、ラリーは次のように答える。
霧と海が混然一体となって海の底を歩いているよ
うだ。――まるで僕がずっと前に溺死した人間のよう
いってみりゃ、「絶望酒場」、「どん底バー」、「終点
に思えてくる。僕は霧の世界の幽霊、そして霧はま
カフェー」、「海底食堂」ってとこさ。この雰囲気の美
た海の幽霊――幽霊の中の幽霊でいられる僕、こ
しい静けさに気がつかないのかい?それはここが
れはすばらしく落ちついたなごやかな気分がするも
最後の港だからよ。ここに居る者は誰だって、次に
のだ。
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オニール研究の現況、『氷屋来たる』研究の現況について
は稿を改めて言及するつもりであるので、本稿ではわざと言
シャブロウ(L.Chabrowe)は、この霧には子宮(womb)のイ
(9)
及していないことを附記しておく。
メージがあると指摘している が、同じことがこの『氷屋来た
る』の酒場についても言える。ラリーのこの酒場についての指
摘にも、「終点カフェー」、「海底食堂」という言葉があるが、こ
の人生の最後の居場所に、母親が子を保護するような、子宮
のイメージが与えられていることを見逃してはならないと思わ
れる。これは母性への回帰願望と考えられよう。すでに指摘し
たように、オニールはその作家生涯で魂の安住する(belong
する)ところを探求し続け、(『限りなきいのち』でそれを見出し
たようであったにもかかわらず)ついに最後までそれに到達し
なかったと考えられるが、母性への回帰願望は最後まで持ち
続けたと考えられる。
人間の背後にある神秘の力をいつも意識し、それを彼独特
のギリシア的な表現で舞台化し続けたオニール。この作品も
そのようなオニールの、人生の最後に来て到達した諦観を表
現した、神秘家としての真骨頂を表わした傑作の1つだといえ
るであろう。
註
(1) 「オニールにおける夢と死」――『氷屋来たる』論(その
1)(「文学と評論」第 9 号、1977. pp.43-52)
(2) 第 4 幕
(3) 第 4 幕
(4) 第 4 幕第 2 場
(5) 第 4 幕
(6) 第 4 幕
(7)
Interview with O Neill by J.S.Wilson Twenty Century
Interpretations of The Iceman Cometh, edited by John Henry
Raleigh (Prentice-Hall, Inc., 1968. p.23)
(8) 第 4 幕
(9) Leonard Chabrowe, Ritual and Pathos (Associated
University Press, 1976. p.174)
戯曲の翻訳については石田英二、井上宗次両氏訳の
『氷屋来たる』(新潮社版、昭和 30 年)、『限りなきいのち』
(岩波文庫、昭和 13 年)と沼沢洽治氏訳『夜への長い旅
路』(筑摩書房版、「世界文学大系」第 90 巻、1970)によっ
た。
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