山口 宇部 道路 常盤ふるさとまっぷ スポーツ広場 3Km ・ 山田 北キャンプ場 土取 取 土 ② 中山炭生 ➋ 東条 ・ 2Km 金吹 南山炭生 炭生跡 エゴ 長尺 山炭生の鼻 ⑤ 自動車学校 ③ りの 南遠山 Ⓐ の 高畑のエ ゴ 高畑 ゴ のエ 金吹 ・4Km 遠山 エ ゴ 迫田 岡ノ辻 狩又 ゴ エ の 条 超高温材料 研究所 東 楢原 楢原のエゴ ④ 常盤池 ⑥ ゴ 白鳥大橋 兵右衛門屋敷 エ の 敷 屋 ・ 門 江頭川 ・1Km 衛 常盤神社 5Km Ⓑ 石鍋 右 後論瀬 兵 炭生跡 雀田 ➌ 炭生野 中論瀬 江頭 江頭川 開削 切貫 周遊園路 ⑨ 起点 ・ 石切場 野中 荒神 → 論瀬 前論瀬 揚場のエゴ 請堤上 高山 ⑫ ⑯ 水分 ➎ 大沢 ◎ ⋒ 駅 常盤 亀浦 塚穴川 ◎ ピーヤ坑 ⑲ Ⓓ 有棟 ⋒ 井沢 線 190号 ⑬ 苧漕場 瀬戸 ➒ ⑭ ⑮ 角田 Ⓒ 花広場 ➐ 北平 ➊ ➍ 揚場 ⑧ ⑩ 本土手 ①⑦ ⑪ 女夫岩 東山 則貞 ➏ ➓ 野黒目 奥浜 岸 海 ) 盤 海岸 常 島 (鍋 亀浦炭坑 先亀浦 黒崎 ⋒ ⑳ ➑ 浜口浜 江口 ⑱ 国 の ⑰ 防 周 亀浦公園 グラウンド 国 の 門 鍋島 長 山口宇部空港 制作 常盤校区コミュニティ推進協議会 わ く わ く 常 盤 発行 宇 部 市 教 育 委 員 会 平成25年(2013年)3月 ときわ ①常盤ふれあいセンター おん だ なかやま た にし き わ ぶ た 埋め戻された炭生 ぶ あと ②中山炭生の炭生跡 ちくてい い ぜん 昭和 60 年4月から恩田と西岐波 常盤池の北側にある山炭生は、常盤池の築堤以前から石炭を採掘し の一部を併合して、常盤校区行 ていた。昭和4年の干ばつで池の中でも炭生跡が発見されている。 政区が 21 自治会で発足した。 常 盤山・常 盤原 で石炭を掘り始めた。初期は掘り終えた炭生は埋め と き わ やま と き わ ばら やくそくごと とこなみうら しおがま 戻す約束事であったが、1762 年頃から床波浦でも塩釜の燃料として 再び中山炭生あたりで石炭を掘るようになって掘った土も一緒に持 たてあな ち帰り竪 穴が残った。平成 14 年に 30 ヶ所の3~7mの深い炭生は い さん 埋め戻された。現在は、2~3mの炭生跡を遺産として保存している。 みなみやま た ぶ た ぶ あとぐん ③南山炭生の炭生跡群 しゅう ゆう えん ろ ここには、常盤池の周 遊 園 路 を はさんで多くの炭生跡が存在す そう しょう る。総 称して『山炭生』という。 ろ とう ここ南山炭生は、露 頭 も存在し と き わ たんこうあと おか の つじ ゆ らい ⑤常盤炭鉱跡 宇 部 の 炭 坑 発 祥 の 地 と い え る。 現在の宇部自動車学校と高台に い こう 日本で唯一の遺 構 であり、常盤 「常盤炭鉱」があった。昭和 22 たんこう はっ しょう らく ばん じ 校区の子どもたちとの保存活動 で保たれている。 ち ⑥岡ノ辻由来の地 おか 床波から『岡』の地に行く昔から の主要な道で、ここの交差点が唯 おかのつじ 年から7年間の操業で、落 盤 事 一の「辻」であり「岡辻」と言っ 故 が一度あった。常盤池の下に ていた。右は船木方面の道、左は ある石炭は掘り尽くされた?。 亀浦・草江方面の道である。 こ ふな き かめうら くさ え 則 貞 に 残 る 伝 え 話 へい う え もん なが と 兵 右 衛 門 さんとイモリの話、長 門 す では「へいうえもん」と言い、周 てある年に大干ばつとなり、則貞 の農民は本土手から大きな水車で おう 防 では「ひょうえもん」と言う。 池の水を田んぼに送った。ある夜、 則貞の伝え話では、常盤の池が造 と き わ ばら つねどう た られることになり常 盤原 を出て行 ぶ あと ④常東の炭生跡 おさ やま た ぶ かなぶき 常盤池周辺には、山炭生・金吹・ ひがし きりぬき つねどう 東 切 貫・常 東の4カ所に炭生跡 があるが、金吹と東切貫の炭生 は規模が大きく、大がかりな採 炭 を し た よ う で あ る。 現 在 は、 つばき 東切貫の炭生跡は、記念樹の椿 えん 苑となっている。 大風とともに大雨になった。この きょう とき、北の方に火柱が上がり「教 ねん じ く住民に、長であった兵右衛門は、 念 寺 が火事だ」と叫ぶ声を聞いて や しき 「屋敷を確保しておくので困ったら ちく 帰ってこい」と言い、最後まで築 ぞう かけつけたが、お寺には火の気が なく、帰ってみると水車は池の底 造 に反対したがかなわず、村を去 に倒れていた。教念寺が火事に見 るときに「これからは、お前がこ えたのは、あまり水を汲み出すの つつみ この主となって堤 を守れ」と小川 で、池の主であるイモリが腹をひっ のイモリに言い残した。時は経っ くり返して火事に見せたそうだ。 みち と あ 向田兄弟の碑と南蛮車茶屋 じ ぞう ⑦道しるべ ⑧飛び上がり地蔵 常盤ふれあいセンターの交差点 いつの頃か、常盤池畔に安置されていた地蔵尊が行方知れずになっ に「道標」がある。 ていた。昭和3年に松林から頭部を見つけて新しく胴体を造り一体 常盤池の築堤後に東西の道がで として本土手近くに安置された。翌年、宇部地方に大干ばつがあり きて主要な道となった。明治 42 ポンプを使って揚水する作業中に突如にして本土手の堤防が崩れ落 みちしるべ じ ぞうぞん 年に亀浦組によって建立された。 ちた。この時に池底の泥土が盛り上がり不思議にもその上に地蔵尊 とこなみ あ じ す えき 東・床波 阿知須駅 の胴体が現れた。この胴に先に安置された地蔵尊の頭部をつけかえ 西・教念寺前 藤山 て昔の姿にし、新旧2体をならべて祀った。 南・草江 亀浦 向かって左側が飛び上がった地蔵尊である。現在の地蔵堂は昭和 44 北・片倉 請川 年に本土手から2度目に南蛮車茶屋の跡地に移設されたものである。 きょうねん じ まえ くさ え かめうら かたくら うけがわ ふじやま まつ な ん ば ちゃや と刻まれている。 い な り じんじゃあと と き わ いけほん ど て いし づ と き わ つつみ あら て ひがしいしばし ⑨稲荷神社跡 ⑩常盤池本土手の石積み ⑪常盤堤の荒手東石橋 大正時代に木下芳太郎が、現在の 元 禄 11 年(1698)に、時の領主 常盤池の超 流堤 から流れる悪 水 噴水池周辺を購入して、吉野桜を 福 原広 俊公は家臣椋 梨権左 衛門 路 に掛かる石橋で、防 長 風 土 記 植えて「桜山」と名づけた。花見 俊 平に命じて、則貞・亀浦の境 では長弐間半幅四尺五寸とある。 自動車 (20 銭)も運行するほどの 界にあった谷間を築堤して人工 常盤池築堤に伴いできた旧道で、 盛況であった。昭和初期に桜山一 池を造ったこれが常盤池である。 新道の完成後は通る人もなく崩 帯に金比羅宮と稲荷神社が建立さ 女 夫岩 池側に本土手の石組みが 壊寸前である。常盤に残る唯一 れ、昭和 10 年に市民が待望して 当時の姿で存在する、女夫岩池 の石橋でもある。 いた常盤公園桜山 (5000 坪) が渡邉 が渇水すれば現れる。 きのしたよし た ろう さくら やま こん ぴ ら ぐう わたなべ ちん ざ げんろく ふくばら ひろとし むくなしごん ざ え もん としひら め お と いわいけ かっすい ちょうりゅう てい ろ あくすい ぼう ちょう ふ ど き ながさにけんはんはばよんしゃく ご すん ほ じょためいけ 家の寄付で買収されるまで鎮座し 大正6年に常盤池の補 助 溜池と なか つ せ じんじゃ ていた。現在は、中津瀬神社に。 して女夫岩の地に築堤され、常 かっすい に満水状態で渇 水は、3~4回 しか記憶がないと言われている ど て ひ ろうすい 池が、平成 18 年に土手樋の漏 水 (国道拡張工事の不備?)で池が ひ あが め お と いわいけ ⑫女夫岩池 大正時代の稲荷神社 干上り、「⑩本土手の石積み」が からす がい 現れた。調査で、烏 貝 を捕獲し て常盤小学校の水槽に移した。 す おう なが と くにざかい ひ め お と いわ たき ときわづつみ ⑬周防・長門の国境碑 ⑭女夫岩の滝 国道 190 号線の分 離 帯 に国境の 女夫岩池の超 流堤 の悪 水路 にあ ぶん り たい よ し き ぐん ちょうりゅう てい あくすい ろ ひがしかんせんすい ろ ⑮常盤堤の東幹線水路 お こぎ ば 女夫岩と苧漕場より小高い所に、 石碑がある。吉敷郡は周防の国、 る滝である。滝に水が流れ落ち 常盤池からの「幹線水路」があ 厚 狭郡 は長門の国であった。常 るのは、田植えの時期におこな り常盤池が築堤された当時の水 盤校区は両方にまたがり、昔は われる常盤池の放流か豪雨のと 路が唯一残っている。他の水路 大沢組と亀浦組でいさかいが多 きくらいであろう。ひとときの はコンクリートで改修されてい かったそうである。 癒やしとなる滝である。 る。 あ さ ぐん みずわけ い まるやまがい く こうえん ⑯水分 かいがんあと ⑰丸山街区公園の海岸跡 のりさだ かめうら かめうら こ ふん ⑱亀浦古墳 すおう なが と くに ざかい 則 貞 に あ り、 水 分( み く ま り ) その昔は島であった。亀 浦の所 周 防と長 門 の国 境 にあって、昭 といって、水の配分を調節する 有であって住民が航 海の安全を 和 12 年頃に発見された。昭和 38 所をいう。草 江・野 中・則 貞の 祈り、厳 島 神社が建立され「厳 年に亀浦の藤 田 徳 雄 さん等が現 水田に水をどれくらい流すのか 島山」といわれた。地元では通 地調査をして史跡指定となった。 くさ え の なか のりさだ こうかい いつく しまじんじゃ ごんげん やま を話し合い調節した場所であり、 称「権 現山 」とも呼ばれた。亀 近くには水車も設置されていた。 ふじ た とく お し せき し てい 古墳内部は未調査である。 浦海水浴場もあり別荘地でも あった。 くろさきこうどうあと ちょうせいたんこうだい こうどうあと くろさき たんそう ろ とう ⑲黒崎坑道跡 ⑳長生炭鉱第3坑道跡 黒崎の炭層露頭 大正 15 年に鍋島炭鉱として創業 昭和 17 年に長生炭鉱の本坑で出 黒崎の東海岸にあり、以前は潜頭 したが半年で解散し、昭和2年 水災害があった。その後の炭鉱 であったが台風などで陸地が浸 に庄 晋 太 郎 によって昭 和 炭 鉱と 再開のために試 掘 した坑道跡で 食 されて姿が現れた。また、黒 改名して創業した。常 盤海 岸の ある。昭和 30 年ころに奥にあっ 崎の鼻は、 「狼煙場」でもあった。 沖 255m でピーヤ坑用のボーリン た坑道は埋め戻された。 竜王山→御崎(岬)→黒崎→ なべしまたんこう しょう しん た ろう しょう わ たんこう と き わ かいがん たんそう グ中に炭層を確認して開坑した。 し くつ せんとう しん しょく の ろ し ば りゅうおうざん み さき くろさき 日の山へと伝達された。 ちょうせいたんこうしゃこう ま 今も残るピーヤ坑 あと 長生炭鉱斜坑捲き跡 ちょうせいたんこうえきあと 長生炭鉱駅跡 (ピーヤ工法の竪坑) いそ べ けいさく う べ てつどう 大正5年に磯部啓作によって開坑したが1年で終業した。昭和4年 昭和 13 年に、当時の宇部鉄 道㈱ に竹 中初太郎が創業、第二笹山炭鉱の鉱 業権と諸設備を継承して9 が長生炭鉱停留所を新設した。 月に始業。昭和8年に第一期工事が終了して採炭を開始した。昭 昭和 18 年宇部線の国有化と長生 和 14 年に長 生 行 政 区 が設置され、翌年山 田 新 松に引き継がれて 炭鉱の廃業に伴い廃止された。 たけなかはつ た ろう ささやまたんこう こう ぎょう けん ちょう せい ぎょう せい く ちょうせいたんこうていりゅうしょ こくゆう か やま だ しんまつ らいそんふち の すけ 頼 尊淵之 助 により経営された。昭和 17 年2月坑口より 1,010m で海 水が浸入して 183 名の犠牲者があった。以後、第2坑としていた とうごうたんこう 東郷炭鉱と黒崎試掘坑で操業再開を試みたが廃業となった。海中に は遺構のピーヤ坑がある。 けんえい と き わ ようすい ろ 県営常盤用水路 かんがいようすい こう ぎょう ようすい 灌 漑用水、工 業 用 水を確保する さいげつ ために、昭和 18 年に5年の歳月 けいざいさん ちょうせいたんこう か やく こ あと で完成した。平成 19 年に経済産 こくみんしゅくしゃあと 長生炭鉱の火薬庫跡 ぎょうしょう 国民宿舎跡 と き わ しょうがっこう と き わ こうえん じ む しょまえ やくそうえん 常盤小 学校の通学路沿いにある。 現在の常盤公園事務所前にあった 定されている。(薬草園が隣接) 操業当時はダイナマイトを収納し 宿泊施設で、昭和 43 年に開館し て暴発に備えて壕になっている。 たが、利用客減少で閉館となった。 ぼうはつ ごう そ てつ きんだい か さん ぎょう い さん 業 省の「近 代化 産 業 遺 産 」に指 いしがき 今は、蘇鉄と石垣が残っている。 ときわミュージアム い とうよし お 昭和 40 年に、故伊藤 芳夫 博士の 偉業を残すためにサボテンセン ターとして開館した。平成7年 ろう きゅう か ねったい に老 朽 化 で建て替えられて熱 帯 しょく ぶつかん 植 物 館 と し て 再 デ ビ ュ ー し た。 平成 19 年に「ときわミュージア ム」に改称。 こ すい こう ふ せきたん き ねんかん 「坑夫」の像 石炭記念館 昭和 42 年に宇部から炭鉱が姿を消してから2年後の昭和 44 年に石 う べ ときわ湖水ホール 炭で栄えた宇部であり、その歩みを永く後世に伝えるため、宇 部 平成3年に完成したカルチャー 炭田発祥の地である常盤に日本で最初の記念館が建設された。展望 ホールで、400 名を収容のイベン 台は東見初炭鉱の竪坑捲きヤグラを移設した。蒸気機関車「D5118」 トホール、彫 刻 展示 室、レスト は、美祢から宇部港まで石灰石専用列車を牽引したが、昭和 47 年 12 ランなどを備えた地域文化と憩 月に引退して静態保 存 されている。荻 原守 衛 の彫刻「坑夫」は、宇 いの場として活用されている。 部炭田発祥の地を記念して設置された。 ちょう こくてん じ しつ たんでんはっ しょう ち ひがし み ぞめたんこう み たてこう ま ね じょう き せっかいせきせんようれっしゃ せいたい ほ ぞん き かんしゃ けんいん おぎわら みち え せきたん き ねんかん おくがい せき ひ 石炭記念館の屋外にある石碑 おか の つじはちおう じ しゃ ❷岡ノ辻八王子社 はちおう じ じんじゃ ❶八王子神社 鳥居には文化6年(1809 年)と記 きょう わ むかえ だ きょうだい ひ 向田兄弟の碑 されている。八王子神社は、享和 おおさわ ろっかくむしわく き ねん ひ ちん じゅ てんそんこうりん 天孫降臨の際に、道 案 内 の た め に、 途 中木にぶら下がっ て待っていた神様 で「道案内の神」 「道 の神」といわれる どう そ しん 道祖神である。 さる た ひこのおおかみ ❻猿田彦大神 ろん ぜ 年 間(1801 年 ) 大 沢 と 論 瀬 を 併 六角蒸枠記念碑 せた大沢組の鎮守として西岐波の みなみ がたはちまんぐう 南 方八幡宮から分社した。八王子 すさのおのみこと まつ なか え がしらはちおう じ しゃ ❸中江頭八王子社 として素戔嗚尊を祀り、この付近 まむし は蝮が多いことから毒蛇の厄払い おおばんさま として大番様を、また大沢組の農 さん じょう さま 産物の造仏である三条様を併せて 祀った。山口宇部道路が出来たと しゃでん きに移設して新しく社殿を建てた。 ❷岡ノ辻、❸江頭、❹論瀬、❺大沢、 ろん ぜ はちおう じ しゃ ❹論瀬八王子社 へびがみさま ❼亀浦などの八王子社も蛇 神様、 まむしじんじゃ 蝮神社といっている。 おおさわはちおう じ しゃ ❺大沢八王子社 昭 和 17 年 2 月 3 いつくしまじんじゃ かめうらはちおう じ しゃ 日坑口より 1,010m ❼ 厳 島 神社・亀浦八王子社 で海水が浸水し 亀浦の所有であった、現在の通称 た。183 名 の 犠 牲 南 蛮車が発明されたのは天 保 11 「丸山公園」に厳島神社を建立し 者 を 悼 み 昭 和 57 むかえ だ な ん ば く じゅうろう はか ❽向田九重郎の墓 てんぽう いつくしまやま ほこら 年(1840 年)のことで、亀浦の て「厳島山」と呼ばれた。祠は大 農民である向田九重郎と兄の七 正6年に新しく造られている。昭 右 衛門 である。九重郎の娘 婿 で 和 52 年に宇部市に売却したため ある茂七が琴芝の西 沢で炭坑を に、翌年に現在地に移された。亀 始めたが、このあたりは無 毛上 浦八王子社は、石川軍二さんの先 といわれ砂石まじりの崩れやす 祖が先亀浦の地に蝮が多く生息 く多くの水が湧き出るところで していたので八王子様を祀った。 あった。九重郎に相談した。兄 後に現在地の北側に移したが、明 と三日三晩考えて造ったのが「南 治の終わりに再び先亀浦の山林 蛮車」である。後に、國 吉藤輔 に移して祀った。厳島神社の移転 が新式に改良考案した。 と一緒に現在地に祀られている。 ひち う え もん むすめ むこ にしざわ む げ じょう くによしとうすけ いしかわぐん じ まつ いた 年に建立された。 ちょうせいたんこうじゅんなんしゃ の ひ ❾長生炭鉱殉難者之碑 大正8年に創業し、 大正 10 年に海水が 浸水して、34 人の 犠牲者がでた。翌 とうごうたんこう 年東 郷炭鉱として 操業を再開した。 しんうらたんこうじゅなんしゃ の はか 新浦炭鉱殉難者之墓 さこんた さか A迫田の坂 さこた とこなみ よしわ 迫 田の地にある。床 波から善 和 へと抜ける旧道で、昔は重要な うま も ようかい ざか 妖怪も現れた坂 道であった。通称「さこんたざ C馬守り坂 か 」 と 言 う が、 「さこんた」と 野 黒 目 から大沢県営住宅に上がる坂道がある。昔は、岐 波から新 川 は、水田に灌 水するための足 踏 方面に行く公道であり、馬が大変苦労する坂道であった。馬を大切 み式水 車のことで、この坂道は にすることから名付けられた。この坂には「一人で通ると馬の首が 粘 土 質 で雨が降ると二歩上がっ 下がる」という伝説がある。夜明け前に、坂の下に馬 車 や車 力を引 かんすい の ぐろ め あし ぶ すいしゃ ねん ど しつ き わ ば しゃ しんかわ しゃりき きょう くん て一歩下がるほどで「さこんた」 いて集り、助け合って坂を上がるための「教訓 」でもあった。馬の ようかい ろ ぼう を踏む様子に似ていることから、 首が下がるとは、日本の各地に現れる「さがり」という妖 怪で路 傍 かき この呼び名がある。 こ お の柿の木に馬の首だけがぶら下がり通行人を驚かせた。 さか つかあなざか と き わ しょうがっこう B子落とし坂 D塚穴坂 萩 原団地 から自動車学校入口に 常盤池ができるまでは、岐波村か 昭和 53 年に、常盤校区(昭和 60 抜ける道で、今は、車が往来す ら「馬守り坂」を通り草江方面に 年設定)予定の恩田と西岐波小 る坂道に整備されているが、昔 行く公道である。常盤で一番の急 学校に通う児童 774 名で開校し は大変な岩道で背中に背負った な坂道で、油断すると荷車が暴走 た。校章は、中 国 原産の「トキ 子どもがずり落ちるほどの急な する事故が多かった。坂を下ると ワレンゲ」と宇部市章が黄 緑 色 小道で、近道として使われた。 直ぐに「瀬戸の坂」がある。 にデザインされている。 はぎわらだん ち なべ き わ むら くさ え ほうめん にぐるま しま 鍋 島 の は な し 風土記に『鍋島は、防長の境に せ と さか 常盤小 学 校 ちゅう ごくげんさん おう りょくしょく 古い地図にも描かれて船が航海 するときの目標とされていた。 くに ざかい はな 由来は、国 境 の鼻 からみると鍋 し て 干 汐 の 時 は 往 来 自 由 な り 』 を 伏 せ た 形 で あ る の で「 鍋 島 」 また『床波黒崎より西南六丁(約 と い う。 平 成 11 年 12 月 に 山 口 600m)程沖にあり、惣 廻り九十 宇部空港の滑走路延長で姿を消 間(約 130m)程人家無の松立少 した。島に祀 ってあった住 吉社 し有の候事』とあり、小 郡宰 判 と 厳 島 社 を 合 祀 し て い た 祠 は、 の管轄で岐波村にあった。 床波漁港沖に移された。 そうまわ おごおり さいはん かんかつ まつ いつくしま しゃ ごう し すみよししゃ ほこら 昭和40年潮干狩りで賑わう 常盤にある地名の由来 と き わ い け かめうら 常盤池 亀浦 かめ うら 常盤は「トコイワ」の約で、永久不変の岩 由来は、色々あるようだが「亀 の浦 」説が のことを指している。本土手は断 崖絶壁の 理にかなっている。常盤の海岸には、時々 深い谷であり、岩 盤の上に石積みして築 堤 海 亀があがっていた。また、空港の沖には だんがいぜっぺき がんばん ちくてい されている。 うみがめ かめ が せ 「亀 ヶ 瀬 」という名の瀬もある。風土記に 『宇部郷之内亀浦にては畠多く琉球芋菜園物 ろ ん ぜ 等余分作り立、売払候渡世之一助にも仕候』 論瀬 くろいわせん くに ざかい 黒 岩線の道路沿いには、周防と長門の国 境 とあり畑作の野菜が多かった。 が通っている。そこで、 「ここは周防だ」「い や長門だ」と境界争いで論議したが解決せ ずに、話は「 瀬 」にのぼったことから「論 ろん ぜ ろん 瀬」となった。境界近くには「論 瀬 」 「論 ぎ ろん ぎ 議」「論義」などの地名があり、問題ごとが あれば話し合う場所でもあった。 おごおりさいはん ふな き さいはん かんかつ 周防は小 郡宰判、長門は船 木 宰 判の管 轄で あった。 昭和25年が最後の海亀 鍋島海岸大浴の洞窟 えがしら 江頭 「江(え)」は、海の一部が陸地に入り込ん さわなみがわ え がしら がわ だ所の意味で、沢 波川や江 頭 川 の中流まで おおさわ 大 澤(大 沢) かしら は入り江だった。そこで、入り江の「頭 」 かいこん その昔、この地を開 墾して農作物が収穫で に当たるところから「江頭」という地名に きる恩沢(恵み)を授かったことにちなんで、 なった。近くには『炭 生野』と言う地名も 初めは「恩沢(おんたく) 」と称し、その後 あり、塩釜の燃料に使う石炭を掘った。 おんたく さず た ぶ の しおがま 大沢(おおたく)となり、さらに現在の「お おさわ」になった。この地域では、農産物 さんじょうさま まつ の造仏である「三条様」を祀る。 あ げ ば え ぐ ち え が み おくはま せ と 江 口・江 上・奥 浜・瀬 戸 現在の塚穴川に沿って宇部線の山手まで入り お こ ぎ ば 江であった。江の入口で「江口」 、 その上に「江 揚場・苧漕場 常盤池が出来る前には、常盤原にあった二 め お と いわ 筋の川から女 夫岩 の地を通り瀬戸内まで塚 穴川が流れていた。この川を舟でさかのぼ に あ り、常盤原へ生活物資を運んで荷 揚げした あげ ば のが「揚 場 」である。途中で底の浅い小舟 上」 、奥にあった浜辺が「奥浜」さらにさかの お こ ぎ ば ぼって狭くなったところが「瀬戸」 、 「苧漕場」 などと海や舟に由来する地名である。 つかあな 塚穴 ど そう ふうしゅう に荷物を積み替えたり、舟を係留した場所 昔は、土葬の風習があり深い穴を掘って死 が「苧漕場」である。 者を埋葬した。年数が経つとその場所が陥 お こ ぎ ば ふ しん かじ 常盤池の普 請 が始まると常盤原の住民は梶 がえし 返や大沢などにも移住した。 まいそう ぼつ かん 没して穴になった。これを「塚穴」といい、 これがそのまま地名として残った。
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