母の原爆体験記 「いのち」 近藤泉

母の原爆体験記 「いのち」
近藤泉
私の母は、大正 11 年の今日、東京で生を受けました。昭和 20 年 8 月 6 日広島の爆心から 1.8
キロのところで被爆し、生き地獄をさまよいました。23 歳の時のことです。
その後結婚し、子どもを 3 人もうけますが、特別被爆者として死の恐怖と子ども達への後遺症
に悩み、失意の底に沈んでおりました。また、自分の足下に苦しむ果てしない数の人々を助ける
ことができずに、己れのみが生き延びたことを責め続け、毎夜広島の光景を夢に見、朝起きると、
自分の足首に助けを求める人々のしがみつく手の感触が生々しくそこにある、と常々申しており
ました。けれど、訪ねてくる記者たちには一言も体験を語ることができませんでした。
その後、人間主義の平和運動に巡り合い、母は寡黙 だった人生を大きく変えることになりまし
た。自らの「被爆という宿命」を「平和を訴える使命」ととらえ、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り
継ぐ決心をしました。
母は、神奈川県の高校生の平和集会で体験を語ったり、大学新報に体験を基にした「生命の
尊厳について」の小論文を投稿、特別賞を受けたり、様々なセミナーで、また身近な人たち、子ど
も達に平和を訴え続けていきました。さらに、請われて、住まいのある横浜金沢区能見台のコミ
ュニティー誌や母校の女子大の同窓会報に体験記を連載しました。地道ではありますが、母の
平和への戦いは一人ひとりの心の中に堅固な平和の砦を確実に築き続けたと信じます。この砦
は、私と二人の兄、10 人の孫達にしっかりと繋がりさらに未来に向かって連なり続けることと思い
ます。
母は、2000 年 4 月 27 日に安祥として逝きました。戦いの 20 世紀を見届け、21 世紀の平和の
ために使命を果たさんと生まれ変わるべく・・・。亡くなる直前まで友人に平和を語り、私の活動を
励まし続け・・・。
私は 1998 年から、地元中学の「人生の先輩に学ぶ」という総合学習の「戦争体験に学ぶ」とい
う授業の講師をお引き受けしています。母の原爆体験と平和への戦いを語ってきました。そして
戦争体験のない私や、もっと遠い存在の中学生達は、何をしたらよいのか、何ができるのか、を
自問しながら語り続けております。
また、昨秋は公民館の「高齢者学級」卒業生による自主サークル「生きがいの会」からお声が
掛かり、『戦争を体験した』方達に『戦争体験のない』私がお話をさせていただきました。この時に
合わせて、かねてから手をつけなくてはと思っていた母の原爆体験記をワープロ打ちすることが
できました。
アフガン侵攻のとき、ある政党の新聞に亡き母の叫び『今すぐ憎しみの戦いをやめよ』(趣意)を
投稿し、声の欄に掲載されました。今また、この母の体験記が平和への戦いの『武器』となればと
願っております。
仮名遣いや漢字は極力母の書いたものに準じております。ぜひ若い世代・子ども達にもお読み
いただきたいと思いますが、むづかしい読み方もあるかと思います。よろしくお願いいたします。
2004.3.10
母の生誕の日に。
「いのち」―― 広島被爆体験記
永石 和子
八月六日
――― 被
爆 ―――
私は一瞬下車を躊躇(ためら)ったまゝ、大阪行の車窓から広島駅のプラットホームを見下ろして
腰を浮かしたまゝでいた。
「降りるんですか、降りないんですか。」
太い、中年の男の急がすような声に、思わず下車してしまった。前夜来の空襲で、汽車は四時間
も遅れて、午前四時に着くのがもう八時を回ろうとしていた。それに、広島発の東京行きは午前
七時半である。目まぐるしい思いに私は暫く佇(たたず)んでしまっていた。
去年、腸捻転で一晩の中に母を亡(うしな)ってから、疎開の話も元海軍々人の父は、
(日本は負けるはずがない)
と云うだけで頑として、連日アメリカの飛行機によって焼け尽くされる東京を離れようとしてくれな
かった。男兄弟のない、私達姉妹は途方にくれ、それをみかねた九州の知人が
「暖かいし、食べ物も不自由させないから。」
と年老いて、腎臓を患っている父には耳よりな話を持ってきてくれた。それをよい潮に、昭和二十
年三月末、九州の佐々と云う佐世保から十二粁(㌔)程入った、近くに炭鉱のある農村にはるばる
疎開したのだった。その頃には、もう僅(わず)かの荷物しか持つ事を許されず、殆(ほとん)どの荷
物は東京に置いたまゝだった。
五月末、東京最後になった空襲で家も焼けてしまい、勢い長女の私がその整理をかねて単身上
京することになり、当時遠距離の直通はなかったので広島か、大阪で乗り換えるより外なく、連日
空襲をうけている大阪より、広島の方が安全と思い早朝の広島発をつかまえるつもりでいたのだ
った。空襲でダイヤが狂ってしまい、一日、二本位しか出ていない東京行きは、一つを逃してしま
ったら少なくともあと半日は待たなければならない。
急に大きな不安に包まれてしまった私は、ともかく今日中に東京行きの汽車に乗れなかったら大
変だと思い、早く時間を調べようと改札を出た。出札口にしがみつくようにして聞いたが、大きく乱
れたダイヤに駅員もわからないらしく一向埒(らち)があかなかった。
一晩中続いた空襲警報の為、一睡もしてなかった私はひどく疲れていたので何処かで休みたく
なった。駅前の広場は、空襲警報解除後でもあり、出勤時でもあったのでバスを待つ人たちが長
い行列をつくっていた。眞夏の日差しを、除(さ)けるように見回した私は、駅の右側にずらりと並
ぶ旅館を見つけ、(やれやれ)と、その中の一軒に入って行った。
「汽車が出るまで、休ませて下さい。」
ひとりで旅館など、入った事のない私は恐る恐る上がり框(がまち)に腰かけている女中さん達に
聞いてみた。
「とても商売にならないから、もうやめよう、と言っていたとこなんですよ。」
無愛想な顔をして、ぽつりと言ったきりであった。がっかりして其処(そこ)を出た私は何とかして休
みたいと思い、もう一軒の旅館に入ろうとして厭(いや)になった。
(駅に戻れば、何とかなるかもしれない)
軒先を離れた私は、夏の日差しを右半身に受けて、道路に立った時、
マグネシウムに似た閃光が、パッと私を包んだ。
火の海に、投げ込まれ骨まで焼けてしまうかと思う程の熱さだった。
「お母さん、熱い!」
悲鳴をあげた私は、瞬間、ぢりつ。と焼かれて、
きりきり舞をして体を大きく反らすように道路に叩きつけられた。
(死ななかった)
どれ程たっただろうか、気がついた私は夢中になって立ちあがった。そして一寸先も見えない土
埃の中で、
「お母さん!」
思わず何回も呼んでしまった私は、
(大変な事になってしまった、どうしよう。)
泪をぼろぼろ流して、投げ出されたリュックに?(つか)まって震えてしまった。
次第に薄れてゆく土埃(つちぼこり)の中から長い列をつくっていた人達は、消えたようになくなっ
ていた。並んでいた旅館は、屋根だけが地面にさゝっているような潰れ方をしている。恐怖の底
から、焼けた痛みがよみがえり、慌てゝ右腕に目をやった。無惨にも半袖の白いブラウスは黒くち
ぎれるように焼け切れ、僅かに肩に布が残っていた。そして肘から肩までの皮膚がすっかり剥げ
て、爛(ただ)れた皮膚が縮れたようになっているのを見ていた私は、ふっと、黄燐弾の燐がつい
たのではないかと思ってしまった。
(早くとらないと大変だ)
燐に侵されると云う話を聞いたこわさに、遮二無二(しゃにむに)その皮膚を毟(むし)り取ってしま
った。
ぺたん、と地面に坐って今にも泣き出しそうになっている私の前を、どんどん人が走って行く。狂
人のようになって走っていく人を見送っていると、私の手をぐっと誰かが掴んだ。びっくりして見上
げた私に、
「早く逃げましょう。」
見知らぬ青年が立っていた。
「駅に爆弾が落ちたんですよ。」
説明するように云うと、落ちているリュックをとりあげて、再び私を急がした。
「僕の家が街の中央にあるから、其処で手当てをしましょう。」
優しく云うのであった。気がついたら、みんな駅と反対の方向にばたばたと駈けて行く。彼の言葉
に、救われたようになった私は、周章てゝ彼にすがりつくように駈け出した。そして、やっと歩ける
ような橋を渡りきったとき、全てがぺしゃんこになった夥(おびただ)
しいがらくたを目の前一杯に見て、
(どう、どうなってしまったんだろう)
呆然となってしまった。そして、東京で空襲の被害を度々見てきた私は、全市に無数の爆弾が落
ちたのではないかと思った。
――― 炎 ―――
行けども、行けども、壊滅のひどさは変わりなかった。むしろひどくさえ感じられた。
「助けて! 助け・・!」
彼を追う私の耳にはっきりと、女の人の声が潰された家の下から聞こえてきた。瞬間、ぎくりとし
た私は夢中になって潰れた家を動かそうとしている男の人を見て、助けなければと思いながら、
先を急ぐ彼について足を早めてしまった。私を自分の家に連れてゆこうとした彼は、この惨状に
ひどいショックだったのだろう、私の事を気にしながら次第に走り出すような歩き方になっていっ
た。
助けを呼ぶ人の声が余りに悲しげだったのが頭にこびりつき、うしろを振りかえった私は、潰され
た家の端から僅(わず)かに炎が紅い舌を出しているのを見た。頭を突きぬけるような恐怖が身体
中を走った。夢中になって彼を呼んだ私は、炎を指さして、
「川に逃げましょう。」
恐怖で声が上づっていた。空襲の度に焼ける真赤な東京の空を思い出した私は、全市が火に包
まれる事を直感したのだった。そして咄嗟(とっさ)に市中を流れる幾條(いくすじ)もの川があること
を思い出していた。炎を見つめたまゝ私の恐怖に押されたよ
うに
「火事だ、川に逃げよう。」
大きく頷(うなづ)いた彼は、右に道を折れ、川に行く道を急いだ。まだ炎らしい炎は何処にも見え
てない程だった。ちょろちょろ、壊れた水道から出ている水をかけようと、しはじめた人達を見て私
は地団駄(じだんだ)ふみたい思いであった。だがそれは思う方が無理だったのかもしれない。一
度も空襲をうけていない広島の人に、火災の恐ろしさが分かる筈がないのだった。
その中、逃げる人の列が押しあうように出来、そのなかにはひどい火傷や、割られたような傷
口から流れる血をそのまゝに目を覆いたくなるものばかりであった。そのとき私の前を半裸の男
の人が背中の皮をまるで着物の一部のように、腰の所に垂れ下げ背中一杯赤い肉を剥(む)き出
して歩いてくるのを見て、
「あっ!」
叫び声を押さえた私は、痛さも知らぬげに、たゞ急ぐこの人を見て何か峻(しゅん)としたものを感
じ、彼を見上げただけで、むやみと足を急がせるのであった。
瓦礫(がれき)の道が、青々と茂った竹やぶに入り、やっと河岸に着いた時は、濃い緑の草の土
手は、まだ人影もまばらだった。広々とした川の流れに、全ての恐怖が拭(ぬぐ)われるようであっ
た。深々とした色を湛える川の流れに、少し落ち着いた私は、かすり傷があるような顔が気にな
って、
「どうなっているでしょうか。」
そっと彼に聞いてみた。
「頬の所がちょっとむけていますよ。」
私の顔を痛々しそうに覗き込んで、何気ないように言ってくれた。そっと見上げた私は、細っそり
とした彼の額に、ほんの少しかすり傷があるだけで他は何ともない様子に一寸安心した。そして
頭に手をやった私は、一握りの髪の毛がざっくり焼け切れているのに驚いて、周章(あわ)てゝ右
腕を又確かめてみた。そんなにひどいものとは思えなかったが・・・。
しかし、あとになって肩の肉が剥(は)がれたように焼けとれているのが解り、そして背中の防空頭
巾は綿まで手の平大に黒く焼けきれてあった。
「この防空頭巾がなかったらとても助かりませんでしたよ。」と医者に云われ、しみじみこの防空
頭巾を眺めたものだった。
メンソレータムしか持っていなかった私は気安めに塗ってみた。彼にもすゝめてみたが受けとろ
うともしないで、独り旅の私を心配して色々聞いてくれたのだった。手短かに語った私に母のいな
い事を知り
「この様子では僕の家も駄目かもしれません。そしたら母の里が、尾の道にあります。親戚に医
者も居りますから其処で治療したら良いと思いますが・・・」
半ば命令的な口調で言うお世辞のない率直な申出に、私は何も考える必要のない程、心を甘え
させてしまったようだった。彼との語らいで、心の落ちつきをすっかり取り戻した私は、リュックの
中から空襲警報のとき着る袖の長い上衣を出して、焼け切れた半袖の上に着た。
その時、続々と一団の兵士が逃げてきた。川岸は忽(たちま)ち、ごった返し私の周囲はびっしり
人で埋まってしまった。ピカッ!と光った瞬間、建物の中から外に投げ出されたとか・・・頭にひど
い傷を受けて血を流している人が多かったが、側に居る彼と夥(おびただ)しい兵隊の数に、なに
頼もしいものを感じ膝を抱えていた私は、対岸に火の手があがるのを見ても広い川巾を前にして
何のおそれも感じなかった。
そして、一体どんな爆弾が落ちたんだろう、全くこんなひどい目に逢わせて何て憎らしいアメリカ
なんだろう・・・・・憾(うら)みごとを言って、うっ憤をはらす余裕もまだあった。
――― 絶
望 ―――
背中の皮が、すっかり剥げてしまった若い男の人は、火傷の痛みが耐えられないのか仰向け
に川の中に浮かんで冷やしていた。蛙のように手足を伸ばして、浮いている姿は余りにも痛々し
く目を離そうとして、かえって吸いよせられるように見てしまう自分にやりきれなくなってしまった私
は、向う岸の火の手に目をやった。そして、対岸の火事がおさまればそれで全ての危険が去って
しまう、そんな気持ちで時が経つのを、じっと待った。
何時の間にか、空はどす黒い雲に覆われてしまった。急に周りは薄暗くなり、黒い雨がザーと降
り出してきた。むずかる子を、あやしていた父親の声が一段と高くなり、子供が烈しく泣き出した。
「お母さん痛いよう。」
火がつくような、泣き声は目に見えない恐怖が急に襲いかかって来るようであった。子供の方を
見るまもなく、対岸の炎が大きく揺れた。静かだった群集が、「あゝ!」とざわめき、一瞬のうちに
炎が大きな火柱となって天に昇った。そして一陣の風と共にこちらの岸めがけて倒れてきた。
人々は先を争って川の中に飛び込み、所々川の中に折れて水に洗われている木の枝に人の群
れが殺到した。
後ろの街も燃え上がったようだった。激しい熱気が襲ってきた。私の防空頭巾を黙って水に浸し
てくれた彼は、
「これを被(かむ)ってなさい。」
私の手に渡してくれた。それを被った私は暖かい心が、じーんと胸にしみ込むようであった。
突然、左横の額から血を流している兵隊が私にしがみついた。
「お嬢さん、大丈夫でしょうか。助かるでしょうか。」
泣かんばかりの必死の言葉だった。二十才を過ぎた許りの私に、しがみついた兵隊はおののい
ていた。日本の兵隊の強さばかり聞いていた私は、吃驚仰天(びっくりぎょうてん)して暫(しばら)く
声が出なかった。その兵隊の顔を呆れて見ていた私はハッとなった。応召兵なのだ、応召されて
間もないのだろうか、残してきた妻子の面影が彼の脳裏にこびりついているのだろう。善良そうな
その兵隊がたまらなく可哀想(かわいそう)になってしまった。
「大丈夫、ここに居れば助かると思います。」
彼が横に居るからだろうが、よくもまあ、こんな言葉が言えたと思う程すらすらと言ってしまった。
言った途端、私はハッとなった。
流れに枝を沈めている木まで、燃え出したではないか。パッと、散らすように逃げた人々は、速い
流れに見る見る沈んでいった。そして、対岸の炎は低くなり火事がおさまってゆく様子が、手にと
るように見えるのであった。対岸に群集の目が凝結した。そして溺れる事が解っていながら、
次々と飛び込む人があとを断たなかった。わけのわからぬ叫び声があがり、女子勤労隊のおか
っぱの髪の毛が藻のように浮かび忽ち流されていった。流れてくるものは、何でもわれ先きに取
った。何百メートルもあるだろうか、広い川巾の、早い流れに泳ぎを知らない私は、絶望のおもい
に凝然とするだけであった。
阿鼻叫喚(あびきょうかん)に変わってしまった川面を、一艘(そう)の小舟が漂い流れてきた。先
を争って取ったのは、兵隊と屈強な若者だった。
(もう駄目だ)
想像も出来なかった光景に死を眞近かに感じた私は、
「若し駄目でしたら、こゝに知らせて下さい。」
父のことをあわたゞしく思いながら、紙片に疎開先の住所を記して彼に渡した。そのまゝ二つに折
って、胸のポケットにおさめた彼は、怒っているような顔であった。彼の足手まといになるのを恐
れた私は、黙っている彼の気持ちにはおかまいなく、
「泳げないんです、私にかまわないで向こう岸に行って下さい。」
これだけを精一杯言った私は、自分の死を見守ってくれる人がそばに居る安堵感なのだろうか、
不思議に気持ちが落ちついて来るのだった。抱えた膝を、抱きしめた私は、
「負傷した人、女子供が先だ。」
突然、頭の上で呶鳴る声がした。振り返った其処に、青年将校が憤然と立っていた。苦しかった
胸がやわらぐ思いだった。声もなく、立ち竦んでいた数人の赤十字看護婦さん達が救われたよう
に、その小舟を?(つか)まえた。
パチパチ、竹のはぜる音がしたかと思ったら、
「わぁ!」
うしろの人達が雪崩(なだれ)のように押しよせ、
「危ない!」
叫び声をのみ込んだまゝ川の中に群り落ちてしまった。川底に踏みつけられてしまった私は、澤
山の重い足を除けようとして夢中になってもがいたようだった。やたらに苦しかった。
(お母さん、助けて!)
うすれてゆきそうな脳裏に 母の顔を必死に探した。
(もう、死ぬ)
そう思った時、ぐっと私の手を?(つか)んだその手に
(助けて)
必死になってしがみついた私は、やっと川面に顔を出し、かすんだ目に彼の顔が浮び上った時、
助かった喜びより、その手が彼だと解った驚きの方が一層強かったようだった。
(もう死んではいけない)
そんな思いが強くなった私は、周囲を見るのも恐ろしくなった。彼が側に居てくれる。それだけが
私を辛うじて支えてくれたのだった。そして石垣にしがみついた私は、ずるずると水の中に引き入
れられてしまうような思いにも耐えることが出来た。
何時間たっただろうか・・・
「もう大丈夫でしょう、早く此處(ここ)を出ましょう。」
彼の急いだ声に、ハッと吾に返った私は、急に焦るような気持ちになった。川の中は誰も居ない
ような静けさであった。
――― 焼土 ―――
土手の上に引き上げられた私は、一歩ふみ出して、(あっ)と息を呑んだ。
信じられない光景だった。
一、二才の幼児が、黒こげの畳の上にねかされ、折り曲げた股のの所からまだ眞赤な炎が出て
いる。一畳の畳の上の幼い姿は苦しみのあとがなかった。釘づけにされたように動かない私を、
彼がそっと促した。
青々と茂っていた竹は、一本も姿をとゞめていなかった。彼に寄り添うように、土手より梢々(しょ
うしょう)低くなった焼土に足を踏み入れた私は、又息を呑んで棒立ちになっしまった。まだ点々と、
炎を残して燻(くすぶ)り続けている焼土の中に、黒こげの男とも女ともつかない死体が無数に転
がっていた。苦しみ悶(もだ)えた姿も、そのまゝ残っている。
(ああっ!)
思わず叫ぼうとして私は、手を合わせた。そして、自分だけ助かったような思いに苦しめられた。
過ぎ去ったものの恐ろしさを、突き付けられ、追われるような思いで私達はやっと大通りに出た。
焼けて骨組みだけになった電車が、がらんと置いてあった。その電車を眺めるように回った私は、
踏み台に片足を乗せたまゝ黒い骨ばかりになった人を見て、思わず目を背け横を向いた其處(そ
こ)に、目ばかり異様に光った焼け爛れた三人を、セメントの防火用水槽の中に見出した。私は思
わず、横に居る彼にしがみつくように見上げた。
「薬、く、す、りを下さい。」
生きているものとも思えない此の人達の声を聞いた時、何とかしてあげたいと云う気持ちより、水
を浴びせられたような恐怖が襲った。
「何もないんです。」
やっと声を出した私は、小さなメンソレータムを出すことも出来なかった。手ぶらの彼は、私のリュ
ックの中から見つけ、それを持っていてくれたが、何も言えないようだった。たゞ、頭を下げた私達
二人は黙々と足を早めた。
歩けば歩く程、凄惨さが加わって逃れられない惨めさに泣き出したい思いであった。そして何も
知らない私達は、被害の中心地に向って歩き続けたのであった。この頃になって、ようやく救護に
駆けつけた人達に逢うことが出来た。しかし、ほっとした思いで見る私達には関係なく、彼らは血
相かえて走り去ってしまった。来る人来る人が、右往左往するだけである。声のない、あわたゞし
い動きは不気味なものが伸しかかって来るようであった。
果てしない、焼土の道に疲れきってしまった私は、眞黒に焼け脹れ上がった馬のようなものを見
て、もう何處(どこ)でもよい、休みたかった。
――― 別れ ―――
私を自分の家に連れてゆこうとしていた彼は、どうにもならない市中の様子に仕方がないと思っ
たのだろう、次第に足が遅くなる私を見て、ある橋(相生橋と思われる)の手前で、
「この先に私の家があります。行ってきますから、動かないで待ってて下さい。」
何回も念を押すように言った彼は、気遣わしげな視線を残し、足早に去っていった。
ひとり残る心細さに、泣き出しそうになって見送った私は、まだ名前も聞いていないことに気付い
た。逃げ歩いた市街の無惨なありさまの中で、自分の家庭の安否さえ知り得なかった。
(そして、それは絶望的であったろうに)
彼の胸中はどんなだったろう。
それを察しながら言葉に現すことも出来なかった自分自身へのもどかしさと、急に出た疲れに私
は、へなへなと橋のたもとに腰を下ろしてしまった。
橋の上を行き交う人が、一段と多くなったようだった。そして誰もが一様に健康そうなのが、自
分だけ取り残されたように思えて、心にさゝってきた。ぼんやり過ぎ去る人の足元を見ていた私は、
橋が無事に懸かっているのが不思議であった。彼のことを考え、いくら心配しても、どうにもなら
ない事に気づきながら、目は彼の去った見渡す限りの焼土の方を追っていた。
その時、私は異様な人影を見つけ、ぎくりとした。全身爛れた人が行き交う人中に入って、定まら
ない目つきで何かを探している。目を据えて見ていた私は、目もくれないで足早に去ってしまう
人々を見て、憤りに似たものが込み上げてきた。私自身、どうする事も出来ないでいる苦しみが
一層思いを強くしたようだった。あの人達はどうなるのだろう。慌しい足音が、私の心をゆさぶる
ように去っていった。言葉を失ったように、肉親を捜し求めて去る人が急に哀れに思えてきた。
(誰しもが不幸なんだ)
目を閉じた私は、幼い幽(かす)かな声に、ふっと目を開けた。
「お家につれてって。」
五、六歳の男の子が哀願するように、通りすがりの人を見上げていた。全身爛れていた。手を持
てばそのまゝ腕の中で息を引取ってしまうような、はかなさであった。
(早く誰か、助けてあげて)
言葉になって出なかった私は、祈るように心の中で叫んだ。丁度、死んだ私の弟の年令に近かっ
た為か、その可哀想な様子はとても見ていられなかった。幼い子は、大人のあとにつくように消え
去ってしまった。やりきれない、思いに、戦争のむごさを呪った私は、何時しか考えに沈んでい
た。
そしてあたりの薄暗さに、ふっと気づいた私は慌てゝ立ち上がった。
(暗くなっても彼が帰って来なかったら)
彼の立ち去った方を確かめるように見ていた私は、そう思った途端、黒い屍体が急に怖くなって
きた。数えるように、屍体を目で追った私はもう彼が念を押した言葉も、徒らに宙を舞うばかりで
あった。すっかりうろたえてしまった私は、まばらになって人蔭について橋を渡り始めてしまった。
何回も、何回も振り返り長い橋を渡った私は、見渡す限りの焼土の彼方に貨車がひっくりかえっ
ていたのを幽かに覚えているだけで、もう夢中だった。人のあとに後れない様、被害の次第に少
なくなる様子に駅まで行けば何とかなる、そんな思いに、傷の事も何も食べてない事も苦になら
なかった。
まもなく、電車の線路に出た私は傾いている、あばら家からローソクの灯がほのかに洩れている
のを見てほっとした。これで戦争のむごさから逃れたと思った。しかし幾らも行かない中に、おか
っぱの髪を散らして、息絶えた少女が、ほのかな明りにうつし出されたのを見て愕然としてしまっ
た。そして、その少女が無傷のように見えるのもいっそう哀れを増すのだった。
とっぷり暮れた道は、いやに悲しかった。重い足を?きづっていた私は、社の境内のような所に、
ローソクが一つともり、救護所が出来ているのを見て、急に傷の事が気になって入って行った。
ほとんど全身火傷の人で埋まっていた。順番を待つのも気がひけるような傷のように思った私は、
薬を少しもらって出た。そして其処に救護のトラックが止まっているのを見て、思わず駆けよっ
た。
四日市で降ろされた私はまだ汽車が出てない事を知らされ、近くの小学校の救護所に案内さ
れ、一晩休むつもりで入っていった。看護婦さんが、マーキュロをアルコールで薄めたものを塗っ
てくれた。飛び上がる程の痛さに、思わず顔を顰(しか)めたら
「マーキュロが足りないんです。これしか薬がなくて。」
申し訳なさそうに言うのだった。そして、
「その傷では無理ですよ、暫く此処で休みなさいね。」
親切な言葉に抗(あらが)うように
「明日、九州に帰りますから。」
と云う私の為に、布団を教室の茣蓙(ござ)の上に敷いてくれた。
怪我人を収容する教室は、別に幾つかあるようだった。一杯の水に、ほっとして横になった私は
燃えるような熱に、不安がよぎってゆくのであった。白痴に近い少女が、何時(いつ)の間にか私
の側に来て、何くれとなく看病してくれた。思いがけない救いであった。何もあげるものがない私
は、感謝のつもりで色々聞いてみたが、何処から来たのかさえ解らなかった。ひどい疲れが出て、
何時の間にか眠ってしまった。
八月七日
――― 生と死 ―――
白々と明ける頃には、もう学校は負傷者でごった返していた。物憂い体の様子に、目が覚めた
私は昨日とまるで違っている自分に気づき周章(あわ)ててしまった。
顔は目が見えないまで腫れ、右腕は指先までふくれ上がり、とても歩ける状態ではなくなってい
た。
「どんなことをしても無理ですよ、暫く此処で治療しなさい。」
看護婦さんは、当然のことのように私の床を負傷者の居る教室に移してしまった。
教室の中は、ひどい火傷の人ばかりで足の踏み場もない程であった。布団が足りなくて、ほとん
どの人が筵の上に直かに横たわっているのは見るに忍びなかった。近くの人に掛布団をそっと
かけ、入り口近くの床に横になった私は、気が滅入る許りであった。看護の人が歩き回る度に、
埃(ほこり)が舞い上がり傷はみるみる悪化してゆくようであった。薬は、アルコールで薄めたマー
キュロと最期に使うカンフルだけであった。やがて婦人会の人達が大きな木箱に、三角に握った
大豆入りのおにぎりを配りにきた。目の前に出されて、とった一つを口にしてみたが塩気のない、
おにぎりは食欲を失うばかりであった。
そのうち私は四十度を越す高熱になり、何も食べてないのに激しい腹痛と、水ばかりのひどい下
痢が何回となく続くのであった。やっと洗面所まで歩く私は、講堂の中に沢山の屍体が置いてあ
るのを、いやおうなく見なければならなかった。そして何時か自分もあそこに並べられると云う恐
怖感におのゝいて、逃げるように部屋まで帰るのであった。そのうち担架で、そっと運び出される
死体が一つ二つと数を増し、講堂から洩れる読経の声に、厭でも死を間近に感じた私は部屋の
中をそっと見回した。そして医師と看護婦がひとり、ひとり丹念に診ては枕元に住所と名前を大き
く紙片に書いて居るのを見て、青ざめてしまった私は、生きて墓の中に入れられ命のもだえのよ
うなものに苦しめられるのであった。
やがて私の枕元にきた医師は、
「大分弱っている。」
脈をとりながら看護婦に囁くのが敏感になった耳に入ってきた。弱っている事が自分でも解って
いるだけにひどいショックだった。
(どうせ死ぬのなら、家に帰ろう。それ迄は死にたくない。)
執念の炎が燃え上がって来るようであった。枕元に置かれた紙の音が厭に大きく耳に残り、泪が
一筋、頬をぬらしたとき、
「俺は、まだ若いんだ、したい事が沢山あるんだ! 死にたくない。」
不意の怒声に、ざわめいていた部屋が不気味に静まった。火傷で、半裸のまゝ寝ている二十才
ぐらいのその青年は声も立てずに泣いているようだった。
(みんな死にたくないんだ)
張りつめた気持ちが、やり場のないものとなって私を苦しめた。
「呼吸が、苦しくありませんか。」
こともなげに云う医師の言葉に頭をあげた私は、部屋の中程に膚の白い女の人が坐っているの
を見て、
(あの人も、駄目なのだろうか)
暗然とする思いであった。確かに朝の内は元気で
「許婚(いいなづけ)が戦地に居るんです。何時頃、治るでしょうか。」
点々と、大きな火傷を残す背中に、マーキュロを塗って貰っていたはずだった。こんな所で、寝て
いる無意味さに急に腹が立ってきた私は、通りかゝった看護婦を?まえ、
「治るでしょうか?」
「そのうち、薬も来ると思いますし、病院にも入れると思いますから。」
泣き出しそうになった私を宥めるように、云うだけであった。
入れ替わり、立ち替わり来る医師は新型爆弾と称する爆弾の威力を調べに来るだけのようだっ
た。
全ての音信が絶えてしまって、父に知らせるすべのない私は、一刻も早く家に帰らなければと
心が急いてきた。
(どうやって家に帰ろうか・・・)
あまりに九州は遠かった。
窓辺に堤燈が吊るされた。何時の間に、日が暮れたのだろうか・・・
夜になるのが堪らなく恐ろしいものになってしまった私は、仰向いて寝ていると、窓辺の堤燈が谷
底から見上げる星のように心細く、ひっそりとした学校が、墓場のような静もりを感じさせるので
あった。
家に帰ることばかり考えていた私は、疲れ果て意識が次第に薄れてゆくようだった。そして、堤
燈(ちょうちん)の灯が遠ざかりそれが母の顔に替わっていった。絶えず、母に見守られているよう
な、薄れてゆく意識を最後の所で繋ぎ止められているような、そんな安らぎを覚えるのであった。
突然、夜のしじまを破って空襲警報が鳴り響いた。騒がしくなった教室が、しんとしたと思ったら、
まだ看護に当たっていた人はひとり残らず防空壕に逃げてしまった。昨日の新型爆弾と称する爆
弾が、どんなに人の心を脅かしているか、私には解る気がする。
だが、置き忘れられたような心細さは、もう眠る事も、(何とかなる)のをじっと待つ事も出来ない
気持になっていた。夜も大分更けたようである。そして高熱の頭は、ともすると遠い九州に帰る事
の不可能を感じさせ、思いは堂々巡りをくり返すばかりであった。
八月八日
――― 家路 ―――
明方近くなって私はやっと心を決める事が出来た。一時は比較的近くに居る三重県の学校友
達の所に身を寄せようとも思ったし、そして九州より近い東京に行けば何とかなるとも思った。し
かし(私はいったい助かるのだろうか・・・・・・。)そういう思いが、矢張り遠くとも父や妹が居る九
州にどんな事があっても帰ろうと決心させたのであった。そう決心すると、看護婦に見つかる事が
心配になり出した。そう思った私は、早い夜明けが気になり出した。
(早朝なら誰にも見つからないで出られるかもしれない。)
白々と夜が明ける頃、白痴の少女が又やってきた。天の助けとばかり私は、その子に今朝発つ
ことを話し、傷の手当をどうすればよいか考えあぐねて居たので、薬と包帯を看護婦の詰め所で
貰ってきてもらい、マーキュロを綿に含ませてどろどろになった腕にあて包帯をして腕を吊った。
はれ上がった右腕はもう自分のものではないような重さであった。顔は三角巾で結んだ。少女は
何処からか、氷のかけらを沢山持ってきて、
「傷を冷やすと、いいよ」
渡してくれた氷の冷たさが、かえってじーんと胸に迫るようであった。
家に帰りたい執念は、二日間何も食べていない高熱の私を立ち上がらせてくれたようだった。
五時頃であったろうか、罹災(りさい)を受けてない町中はまだ森閑としていた。白痴の少女が、私
のリュックを持って駅迄送ってきてくれた。履物のない私は裸足で歩いた。四日市の駅はごった
返し、
(罹災者のみ、罹災証明書で乗車を許可す)
大きく掲示されてあるのを見て、罹災証明書のない私はどうしたものかと、改札口に近づくと姿を
見ただけで駅員は黙って通してくれた。
二、三時間も待って乗った汽車は満員だったが、やっと立っているような異様な姿の私を見て、
近くの人が慌てゝ立ってくれた。崩れるように坐った私は、もうお礼を云う気力もなく、通路でもど
こでもよい欲も得もなく、ただ横になりたかった。駅に着く度に、人目で解る罹災者の一団が窓か
ら出入りした。ごった返す乗り降りが一頻(しき)り続き、そのうち車内は大分透いてきた。ほっとし
て横になった私は、ようやく九州まで帰り切る望みが出てきたようだった。
目を瞑(つむ)って、ひた走る汽車の音に僅かに慰められていた私は、けたゝましい汽笛の音と
ともに、ダッダッ・・・・・ばらばらと降る激しい機銃掃射の音に驚かされたが、起き上る気力もなく、
皆座席の下に潜ったり、トンネルに首を突っ込むように止った汽車から飛び降りる人々を黙って
見ているだけであった。
機銃掃射を逃れた汽車はやっと門司に着いた。門司駅の待合室に入り、何時出るか解らぬ汽
車を待つ間、どこからとも無く蠅(はえ)が集まってきた。次第に多くなる夥(おびただ)しい蠅に驚い
た私はそれが私の周囲だけに集まっているのを見て、腕の激しい臭気に気がついた。右腕は膿
のような汁が、べとべとになって滲(にじ)み出ている。蠅が止まらぬよう追うのは大変だった。追う
手が疲れてきた時、ふっと戦地に居る兵士の傷口に蛆が涌く話を思い出し、夥しい蠅にぞっとす
るのであった。
門司で乗り継いだ汽車は始発の為か割合すいていた。私は知らなかったが、その時すでに長崎
にも広島と同様な爆弾が落されていた。その為か頻りに私の様子を気にする人が多くなり、口を
きくのも億劫(おっくう)な私は全く閉口して眠った振りをしながら、何時(いつ)か深いまどろみの中
におちていった。
八月九日
佐世保が近づくにつれ、ふっと足に何も履いてない事が気になり、裸足で外を歩く恥しさが込み
上げてきた。当時靴など配給だったので買う事も出来なかった私は、田舎などでよく脱ぎ捨てら
れた藁草履(わらぞうり)を思い出し、坐席の下を何気なく覗いてみた。そして捨てられた藁草履を
偶然見つけた時の嬉しさは喩えようもなかった。
佐世保で乗り換えた私は、広島から二日がかりで佐々と云う緑の畑に囲まれた駅にやっと下り
る事が出来た。肉親に逢える喜びは強烈であったが、朝の爽やかな空気の中に、戦争を知らぬ
気な真夏の太陽をうけて、一すじ延びている村道を見た時、私は一種いいようのない不安に気
がひるむのを覚えた。顔見知りになった村人に逢うのが恥しかった。恥かしいと云うより、私の姿
をみて駈けよる村人の好奇な目がこわかったのかもしれない。
村道をさけながら曲がりくねった畝に足をとられ、精一杯の早さで歩いた私は、肉親に会いたい
という執念の固りであったかもしれない。
――― 再会 ―――
小高い畑の中にある我家の前の石畳を音もなく登ろうとすると、丁度井戸端で末の妹が釣瓶を
持ちあげようとしていた。人の気配に、顔を向けた妹は私を見るなり
「あっ!」
と叫び声を残して、家の中に逃げ込んでしまった。そして驚いて飛び出してきた父や妹に、
「濃い塩水を頂戴。」
それだけ言うのが精一杯だった。昨日から塩水が飲みたいと思っていた私は、家が近づくにつれ
濃い塩水を飲むことばかり考えていたようだった。
妹が差し出す塩水を貪るように一気に飲み干した私はやっと人心地がつき、呆然としている父
や妹に、
「広島で・・・」
泣きそうな顔をして辛うじて言った。長崎にも新型爆弾と称する爆弾が落ちているのを知ってた
父はそれだけで解ったようだった。
顔を覆っている三角巾を取り除いた私の顔を見て、父は仰天して妹を医者に走らせた。しかし
長崎で被爆した人を見た医者は、手の施しようもなく息を引きとったのに懲(こ)り、
(手に負えないから・・・)と来てくれなかった。困り果てた父を見ても、私は別にがっかりもしなか
った。たゞ臭くて堪らない腕を早く何とかして、休みたかった。そして我慢出来ない程の臭さと痛み
が激しくなった腕は自分で仕末するより他ないと考え、私は漂白粉が幾らか家にあるのを思い出
し躊躇する父や妹をせかして、それを水に薄く溶いて貰った。手伝って貰った私は腕を洗うように
消毒を始めたが、その痛さは気が遠くなりそうであった。ぽろぽろ泪を流しながら母のいない辛さ
が身にしむようであった。
泣きながら、やっと消毒を終えた私は延べてくれた布団に飢えたように横になると、もう遠い世界
に引き入れられるように昏々と長い眠りに入ってしまった。不思議な程、眠りは苦しくなかった。
遠い過去の世界に戻された私は、五才位からの幼い思い出のフイルムを辿り始めたのであった。
そして、妹が庭の池に浮いているのも知らないで遊びに夢中になって、ひどく叱られた場面は特
に鮮やかであった。
走馬燈のように走り去る、そんな夢の中は全てが懐しかった。母の幻が何回も囁きかけるように
消え去る頃、ようやく目を開けた私は、二日間も続いた眠りから覚めた感懐よりも、身体中の力
が地の底に吸い込まれたような無力感が気になった。
全快してから、何かで諍(あらそ)うことがあったあと
「あの時、死んでしまうと思ったから一生懸命看病してあげたのに・・・」
妹に言われ苦笑したものだったが、生と死の間を二日間も彷徨って生きた私は、奇跡に近かった
かもしれない。
――― 敗戦 ―――
眠りから覚めた私は、又ひどい痛みと水の流れるような下痢に苦しまされ、一日一日と体中の
力が抜けるようであった。やっと医者に椰子の油と称する火傷の薬を貰った私は、つける度に泣
かなければ収まらない痛みに、畳の上をそっと歩かれてもその僅かなひゞきは耐えられない痛み
であった。
夜も日も呻(うめき)き通した私は、その痛さに広島の傷を生々しく思い出した。父は最期迄「日
本は竹槍ででも戦う」と言っていたが、いくら私が軍人の娘でもあの広島で起こった出来事は何
を意味するのか、悪い情報は何一つ聞かされていなかっただけに拭う事の出来ない不安が募る
ばかりであった。
見舞いにきた村人がこの事を耳にはさみ私を非国民呼ばわりしてどうしても解って貰えなかった。
これが三ヶ月も前だったら憲兵に拉致されただろうが数日後に敗戦を迎えた日本はもうその力も
なかったようだった。終戦は日本人にとって生命の尊さを教えられ、戦争のむなしさを知らされ
た。
秋風のたちそめる頃、私はそれでも献身的な妹の看病と、往診してくれるようになった医師によ
って化膿していた一ヶ所を除いて次第に元気になっていった。しかし不思議な程身体に異状が認
められなかった私は火傷の跡が、ざらざらした舌のような皮膚から赤紫の痣(あざ)に変わってい
た。 やっと医者に通うことが出来るようになった体も、顔半分かくして人目を歩くのは若い娘にと
って死にたい程の悲しみだった。憖(なま)じ助かったのが恨めしくさえなってくるのであった。
それでも、毎日薄くなったのではないかと祈るように鏡を見る私に、父は口にこそ出さなかった
が外出しては火傷にきく薬を聞いてきて、よいと云われる事は何でもさせた。柿の渋を搾(しぼ)っ
てつけてくれた事もあった。しかし顔半分の痣は、どんなに濃い白粉を塗っても駄目だよと嘲笑
(あざわら)っているようであった。
随分心を痛めていた父は何を思ってか、アメリカ軍が上陸したと云う佐世保港に行き、若いアメ
リカ兵を連れてきた。とび上る程驚いた私は押入れの中に隠れてしまった。敗戦後の日本はアメ
リカを鬼畜と云って必要以上にアメリカ兵を恐れ、婦女子は何をされるか解らないと言って山に
逃げる人もあった。
父は幸い海軍時代に広く海外を回り、「海ゆかば、祖国に殉ずる」精神に徹していたが、一部軍
人のように不必要な偏見はなかった。そして日本軍人の面目は捨て切れなかったらしく、
「私の娘が原爆にやられ、ひどい火傷をしたから来てくれ。」
片言に喋れる会話にものいわせ、赤十字の兵隊を探し、当然の事のように威張って連れてきた
らしかった。アメリカ兵に厭がる私をやっと診せた父は、(明日、薬をもってくる)と云う兵隊に日本
酒を振舞って帰したのだった。
翌日アメリカ兵は約束通り薬を持ってきてくれた。そして私の手をとって気味が悪いくらい丁寧
に塗ってくれた。片言の日本語と手真似で一日三回程マッサージしながら塗ることを教えてくれ、
三週間もすればきれいな色になるからと言い、毎日きてあげると云う。チューブに入った薬は医
者に見せても解らなかったが、日に三回塗る私は眞剣だった。アメリカ兵は当時手に入らないも
の等もって毎日通ってくれ、自分で塗るからと言っても承知してくれなかった。有難かったがその
うち父の目を盗んでは、私の体に触ろうとしたり手を握ろうとしたりした。
日毎、嘘のように忌まわしい色が拭い去るように薄れていった。その驚きと感謝の思いは強か
ったが、父も黙っていられなくなって、敗戦国と云う劣等感が多少遠慮めいていたが、来る事をや
めて貰った。どうして私が厭(いや)がるか不審な顔をして帰ったこの若者に何の罪もないかもし
れないが、原爆を落とした自国を知らぬ気なこの兵士に我慢できない憤りを、私は感じるのであ
った。
――― 愛と云うもの ―――
青年の愛と、肉親の愛によって奇跡的に助かった私の生命を思うとき、誰ひとり助ける事をしな
かった私は、大きな犠牲の上に生きたと云う責を負い目のように感じ十年間と云うものは、毎晩
あの恐怖の思い出と共に、魘(うな)され続けたのであった。
そして二十年たった今も、助けをよぶ人の声が阿鼻叫喚の中で死んだ何十万人の悲しみと一
緒に私の心を苛(さいな)むのである。多くの犠牲に上にしか生きられない生きとし生けるもの全
ての宿命なのだろうか。自分の生命を守るのが精一杯のあの差し迫った中で終始見知らぬ私を
守ってくれた、彼の心に思い触れるとき、利己のない愛だけがこの宿命を救ってくれるように思え
るのである。
彼の名前も聞かずに別れてしまった私は、二十二、三才の青年の細っそりとした横顔だけしか
覚えていない。死が迫ってきたあの時、私の住所を記して渡した安堵感が遂に 命の恩人 として
の彼の安否を知る機会を失ってしまったようである。その悔いは人を愛する事によって消え去る
かも知れない。だが広島に残った彼はとても生きている筈がないと思うと、辛い思い出と共に悲
しみが深まるのである
ようやく原爆の悲しさが伝わった昭和二十八年頃、私は新聞記者に訪ねられた事があった。何
も喋れない私に、
「社会の為ですから話してください。」
子供に恵まれた私を見て、新聞記者は離さなかった。だが、あの日を思う事は耐えられない苦痛
であり、全てを語ろうとしても泪がことばを途切らせてしまうのであった。
二十年後の今日、やっとそれ等を書きとゞめて置きたいと思うのは、広島の惨劇が、まだ終わっ
ていないと云う思いがするからかもしれない。
そして青年の横顔が私の心に生きているからかもしれない。
そして私は今、何時か大人になった己れの子供達にこれを読ませたいと念うのである。
(完)