第 5 章 美術工芸品製作のアーティスト育成

第5章
美術工芸品製作のアーティスト育成
1.工芸美術品製作の夢
私がこの業界に関心を持って、本気で取り組もうと思ったのは、ベトナムの経済の舵取
りを大きく変えた、
「ドイモイ」の生みの親、故グエン・スアン・オアィン博士(注:参照)
に、大きな衝撃を受けたからであった。
たまたま親しくなったオアィン氏はつぎのような話をした。
「ベトナムは、ドイモイを採択したので、これからの経済は大変な勢いで発展していく
ことでしょう。しかし、見てください。ベトナムには立派な伝統的な工芸作品があります
が、どうも美術品として洗練されていません。ベトナムの将来を考えた場合、一次産品の
輸出だけではなく、何とか、ベトナムのこのような工芸品の芸術性を高めて、美術品とし
て海外へ輸出できないものだろうか」
1995 年、私は長らく働いていた事務用機器メーカーを定年退職して、顧問の立場でベト
ナムに駐在していた。しかし、時間的に余裕ができており、つぎに何をしようか、と考え
ていたころだった。博士のお話のとおり、ベトナムの通りに面するお土産屋にはたくさん
の伝統的な工芸品が並んでいるが、どれも芸術性という点からは、あまりにもかけ離れて
いた。
そこで、私はベトナム人を指導して工芸美術品を製作し、それを私がつくったショール
ームで展示販売しようと決意した。それは、ベトナムの街中の土産物屋で見られる伝統的
工芸品とはまったく違うものである。
2.ベトナムにおける美術工芸品業界の実態
ベトナムの街中に多く並ぶ画廊の片隅では、カンバスに向かって懸命に絵筆を奮ってい
る何人もの若者の姿がよく見られた。長らくつづいたフランス植民地時代から残された芸
術に対する姿勢だろう。彼らの芸術に対する意欲と残された伝統工芸を結びつければ、必
ず素晴らしい工芸美術品ができるのではないか。また、それは結果としてベトナムの芸術
のレベルを引き上げることにも貢献するだろうと確信した。
たしかに、この理想は気高いもので、可能性は十分にある。しかし、ベトナムにおける
このような理想と現実は、まったく違うものであることを、その後、十数年間、思い知ら
されることになるのだが、意気に燃えていたそのころの私は夢にも思わなかった。
古い歴史をもつベトナムの伝統工芸の現実だが、長らくつづいた抗仏独立戦争とその後
の熾烈きわまるベトナム戦争のため、それは壊滅的な状態にあった。それでも地方の田舎
町に行けば、いろいろな伝統工芸技術が残っている。たとえば、陶磁器製品やローソク、
扇子、紙製品、袋物、履物、食器、金属製品、籐や竹製品、線香など。これら商品は、そ
れぞれ専門の村で数百年も前から、子々孫々引き継がれてきたその土地に残る伝統技術で
ある。
ら で ん
ベトナムの中でも特徴的で、しかも比較的洗練されている、刺繍絵と漆と螺鈿の絵によ
る額の製作を二大プロジェクトとして取り上げることにした。当時の私には、ベトナムに
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おけるこの分野に対する具体的な予備知識も何もない。ただ街中には、外国人の目から見
れば駄物としか思えないようなお土産品に混じって、何となく垢抜けしない刺繍絵や漆絵
が並んでいるだけだった。
中国の影響を、過去 2000 年にわたって受けつづけてきたこの国のこと、その文化も中
国の枠を出ておらず、絵画は漢字らしい文字入りの中国風の景色絵や、悲しみに耐える農
民、寂しそうな老人の姿など何となく暗い作品が多く、とても日本の事務所や家庭で飾れ
るものではない。
私は小さいころから、絵画に興味を持って自身でも描いてきた、という経験から、何と
かなるだろうと思いで真剣に取り組むことにした。
まず漆と螺鈿による絵だが、私はホーチミン市の北にある、小さな村落とのつながりを
強化していた。ここでは、数十軒もある家の奥にはどことも立派な工房を持っており、そ
こでは数十人の若い男たちがほとんど裸で、螺鈿用の貝の削りだしや、材木の切断、貝の
貼り付けと研磨、漆塗りにつづいてその乾燥、などの工程を繰り返している。適当に手抜
きをしているような職人は見当たらない。
大通りから村へ入り込んだ周辺の道路は、捨てられた貝殻で真っ白になっており、いか
にも漆と螺鈿の伝統工芸の村、といった雰囲気をもっている。このような工房の中で、素
直で芸術性のセンスのある若者の発掘をはじめた。
もう一つのプロジェクトである刺繍については、ベトナム北部のやはり、刺繍専門の村
に入り込んで、そこの工房で働く人たちの中から、真面目で素直そうな職人を選んだ。
その職人たちは、その村に住む若い女性ばかりであり、他に仕事のないこのような田舎
町では刺繍はその村唯一の産業なのである。
ところで、ベトナムで刺繍といえば、日本の軽井沢と呼ばれる高原の避暑地、ダラット
が有名である。現にダラットの刺繍絵は、ホーチミン市内の多くのお土産屋で売られてい
る。しかし、私は敢えて純朴で素直で、しかもまだ外国の風に汚染されていないベトナム
北部のハノイ近郊の刺繍村に照準を当てて、その職人を育成することにした。
刺繍職人といっても、それはほとんどが学歴のない若い女性なのである。彼女たちが、
一日中、薄暗い工房の椅子に座ってサンプルを見ながら、一針ずつ色の付いた絹糸を刺し
つづけている。これは、30 センチ四方の作品を作り上げるのに数ヵ月もかかるというよう
な、根気のいる作業の繰り返しであり、人件費の安いベトナムだからこそできる仕事であ
る。そしてこの事業は、ベトナムでは誰もやっていないことであり、成功すれば、それは
画期的な教育プロジェクトである。私の趣味にも通じるものであり、その成功のためには
時間と労力とさらには資金がかなり必要で、その資金回収は容易なことではないだろうこ
とは最初から予想していた。
ところが、前述の通りベトナムには、伝統的な工芸村がありベトナム風美術品を製造し
ているが、それは芸術性という観点からすれば、かなりかけ離れたものである。手先の器
用なベトナム人であるはずなのに、作品に洗練された美しさがない。
漆絵は中国画風であり、日本人の感覚からは大きくかけ離れている。商品として展示す
るに耐えない代物ばかりである。また、刺繍絵のその目的は、もとはテーブルクロスであ
り、ハンカチなのである。芸術とは、とてもいえるものではない。
それは、彼らの従来の仕事が伝統的な商品を作ることであり、芸術性を磨き上げるとい
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うような教育は受けてきていないからである。それだけではなく、そのような需要がなか
ったからでもある。このような人たちが、世界の一流芸術作品を理解して、本当に商品を
作り上げることができるのだろうか、と多少不安もあったが、根気よく教えれば必ずわか
ってくれるものと確信していた。
3.「職人」を「芸術家」への能力開発の実施事例
ここで、このプロジェクトの内容について改めて説明すると、まず、日本画や西洋画の
ほか写真などからデザインをおこし、ベトナム伝統の漆絵や刺繍の技術を生かして、オリ
ジナルの漆絵や刺繍絵を制作する。そして、ホーチミン市内にある私のショールームで、
これら製品を展示して、主に外国人相手に販売するのである。
ベトナムの職人にまず行なったことは、できるだけたくさんの世界的に有名な絵を見せ
ることだった。彼らの芸術的センスを、素晴らしい絵を見せることによって養成するので
ある。このようなセンスは、言葉でいくら説明してもわからないものだ。
技術はたしかに高いということは認めるが、芸術性ということからすれば疑問が残る。
技術と芸術はまったく違うものなのである。彼らの中にはホーチミン芸術大学を卒業し
たのではないか、と思われるような芸術家肌の人もいるが、ほとんどは、小さいころから
毎日、職人として働いている人が多く、その教養レベルもあまり期待できない。
従来、観光客相手のお土産としての商品をつくって日銭を稼ぐ、ということはしてきた
が、そこに芸術性を求める、というような考え方はなかったし必要もなかったのだ。
一方、お客さんの要求だが、欧米人と違い日本人の場合は、その要求レベルは格段に高
く、完璧を期待するのが普通だ。さらに、日本画の特徴は、その繊細な筆のタッチにある。
一般的に、日本人さえ受け入れてくれるような作品であれば、その他の国のお客さんは
間違いなく喜んでくれるので、まず日本人の目を満足させるためにも、芸術的感性の育成
と熟練を積む職人のトレーニングを連日行なった。感性は持って産まれた素質に左右され
るものだが、素晴らしい作品を繰り返し、繰り返し数多く見せることによって、それは磨
き上げることができるものである。
4.実務上から見た、その分野の技術レベル
教育を繰り返していると、いくら説明しても彼らにはわかってもらえない大きな壁があ
ることに、気がついた。それは、四季がはっきりしている日本や西洋とちがい、熱帯のホ
ーチミン市や大陸性気候のハノイでは、原画に描き込まれた背景や風土がわからないので
ある。芸術性を高めるためには、どんなことがあっても原画の作者の意図や、作品の意味、
そしてその内容を理解する必要がある。
これは、特に日本画に多い花鳥風月にあらわれる、雪や紅葉、桜など、ベトナムでは見
ることができない自然現象に顕著であり、その説明に時間と労力を注いだ。ベトナムの職
人が、このような背景をしっかりと理解してくれないことには、芸術性の発揮は困難とな
る。鋭敏な感性の育成のため、場合によっては、日本からサンプルを取り寄せて現物を見
てもらうこともした。
作品によっては、いくら説明しても理解してもらえない。理想とする製品ができてこな
いことがある。何日も工房に泊り込んで、指導をする日がつづいた。また、少しでも目を
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離すと、違うことをはじめているのだが、これは何も悪意でやっているのではなく、彼ら
は結果さえ良ければ良いだろう、と勝手に解釈して、途中の工程を省略しようとするから
である。これは、ベトナムのどこででも見られる現象だ。
基本的な原則を繰り返し教え込むことだ。本当に繰り返し繰り返し何度も教えて、出来
上がってきた製品を、徹底的にチェックしてさらに教え込む。気の長い作業の繰り返しで
ある。こちらの根気もなくなりそうになるような毎日だが、教えられる相手にとっても根
気のいる作業だったはずだ。
しかし、現場に張り付いていつまでも管理監督をしているわけにはいかない。これは、
営利事業なのであり無料奉仕活動ではない。商品を販売して、資金を蓄えるという大切な
仕事が一方では控えている。そのため、そのような作業を繰り返して教え込んだ後は、ベ
トナム人を信頼して彼らの自主性に任せる以外に方法がない。
ところで、ベトナムでは本当の意味での、「職人気質」という言葉は存在しない。仕事
はお金を稼ぐための手段以外ではなく、日本のように損得抜きで立派な仕事を仕上げよう、
というような考え方をもつ職人はまず、いないと考えた方がよい。残念なことだが、それ
がベトナムの現状なのである。
5.事業の安定化
苦節十年目にしてようやく安定した商品ができるようになり、ベトナムで最初に手掛け
られたこの事業も軌道に乗ってきた。都市からかけ離れた田舎で引き継がれてきた伝統工
芸の職人を、長い間かけて教育して、彼らをアーティストのレベルに引き上げて、ようや
くその作品を芸術品、と呼ばれるところにまで到達することができた。
私が長年かけて育てた北と南の二つの村の事業だが、その従業員の家庭だけではなく、
村全体が豊かになってきた。今では村人全員が私を「村繁栄の恩師」として受け入れてく
れている。
当面の心配は、たくさん抱えるこのような従業員に絶えず仕事を与えつづけることであ
り、そのためにも安定した販売をする必要があることだ。それが、今後私に与えられた使
命と理解している。
しかし、何が起こるかわからないのがベトナムの常、これからも安心はできない。技術
レベルの引き上げのための切磋琢磨はつづく。
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(工芸美術作品の写真)
注: オアィン博士は、ベトナム北部の豪農の出で、若いころ日本に憧れ私費で来日した。
そして、第3高等学校を出て京大を卒業し、敗戦下の日本でしばらく暮らした。その後、
米国に渡りハーハード大学で国際経済を専攻し博士号をとって、しばらく同大学の教壇に
立っていた。彼は、アメリカの大学で教えた最初のベトナム人といわれている。
その後、11 年間 IMF のシニアーアドバイザーをしていたが、ベトナム戦争が激しくな
る中、南ベトナム政府からの度重なる要請に従って帰国し、財務大臣や中央銀行総裁、一
時は首相代行をしていた。
サイゴン陥落を前にして、政府高官や高級将校は大挙して海外逃亡をしていったが、彼
は、
「私は何も悪いことはしていない」との強い信念のもと、そのまま母国に留まった。そ
のため、戦後、しばらくは自宅軟禁という不自由な状態にあった。
その間、新政府が強行にすすめる社会主義政策にもとづくベトナム経済は、凋落の一途
を辿っていたのだが、これに見かねて IMF 時代の仲間とともに、農業・工業面での開放
経済のテストを繰り返し、その結果をハノイ政府に提案したのが、「ドイモイ」(日本語で
刷新)である。
ベトナムは、1986 年 12 月、開催された第六回共産党中央委員会で、この社会主義体制
を維持しながら資本主義の良いところを取り入れるという市場経済を導入することにより、
今日の経済回復を軌道に乗せることができるようになった。
1997 年、日本政府から勲三等旭日中綬章を叙勲。2003 年 8 月、波乱万丈の人生を閉じ
られた。
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