前編 - 横浜グリークラブ

横浜グリークラブ「ポルトガル親善演奏旅行」メモ(整理)
11 月 26 日
■ IGREJA DE SAO ROQUE
教会
教会の前の通りではビルの改築工事が進められて
いた。タイル張りの現在の外壁をそのまま使うのか
内側を解体中であった。
■ ジェロニモス修道院
現在はローマカトリックの教会である。エンリケ航海王子が船乗り達のために建てた礼
拝堂跡に、マヌエル一世が 1502 年に着工したマヌエル様式を代表する建物。
マヌエル一世、
同妃、子のジョアン三世と同妃のお墓もある。航海家バスコ・ダ・ガマの石棺が安置され
ている。修道院の名前の由来はティンバヌム(入口の上の楯型壁)部分に聖ジェロニモス
の生涯が彫られていることにある。
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■ ベレンの塔
正しくは「サン・ヴィセンテの砦」と
いう。マヌエル一世の命で 1515 年から
1519 年にかけて建設された。中には潮の
干満を利用した政治犯の地下水牢があった。
■発見のモニュメント
ジェロニモス修道院の前、テージョ河畔に立つ高さ 52 メートルのモニュメント。
1960 年、エンリケ航海王子の 500 回忌を記念して建設された。カラベラ船を手にして立つ
エンリケ航海王子を先頭に、後に続くのはポルトガルの海外進出に携わった航海者、学者、
宣教師などです。
テージョ川を背にして先に立寄った
ジェロニモス修道院を眺める。日本史に
登場する「天正遣欧少年使節団」はポルトガル
を経由して、スペイン、イタリアの各地を
巡りローマを目指した。織田信長の時代に
出発した使節団が帰朝した 1590 年(天正
18 年)には秀吉の代になっていた。1587 年
(天正 15 年)布教禁止令を出しキリシタン
抑圧政策をとった。使節の少年達のその後は
不幸な運命を辿ったそうである。
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昼食メニュー:アンコウの身入りリゾット、野菜サラダ、
飲み物:赤ワイン
■シントラ
長崎県大村市と姉妹都市。
シントラ王宮を見学。2 本の円錐形の
煙突が厨房の上に突出している王家の
夏の離宮で、国の重要文化財。14 世紀
にエンリケ航海王子の父、ジョアン一世
によって建てられ、その後何度も増改築
が行なわれた。マヌエル一世による増築
部分は窓の形にマヌエル様式の特徴が見
られる。栄華を極めたポルトガルとマヌ
エル一世の時代の富を彷彿とさせる。
□白鳥の間
ジョアン王の娘が 27 歳でイギリス(皇族?)へ
嫁ぐとき、天井絵に 27 羽の白鳥を描かせた。
天正遣欧少年使節団の一行も白鳥の間で饗応
を受けたと伝えられている。
□厨房の内部。獣肉の丸焼きでもしたのだろう。
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□下に炭火を入れて使うオーブン
内部は古いアラブ風の美しいタイルで覆われ部屋ごとに歴代王家のエピソードが伝えられ
ている。
■ムーア人の城跡(Castelo
dos Mouros)
標高 450 メートルの山の上に延びる城壁がある。7∼8 世紀にイスラム・アラブによって
築かれたもので、1147 年アフォンソ・エンリケスによって攻略された。写真の山や城壁は
シントラ王宮の真正面にある。
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■ロカ岬 (北緯 38 度 47 分、西経 9 度 30 分)
ヨーロッパ大陸の最西端。高さ 140 メートルの断崖の上に灯台がある。十字架の塔には有
名なカモンエスの『ウズ・ルジアダス』の一節、 ここに陸尽き、海始まる
が刻まれてい
る。大西洋に太陽が沈む瞬間、未知の海へとカラベラ船を繰り出した航海者たちの冒険魂
を熱く感じた。
スペイン人との結婚とスペインから吹く風は良くない。春先ブドウに芽がでる頃、スペイン
から吹く風が良くないと言い伝えられている。かって覇を競ったスペインに対する対抗意識
が強く残っていることを示す言い伝えだ。
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ポルトガル人の生活
・ 月間所得:平均 600 ユーロ
・ 労働年齢:16 歳∼65 歳、女性の進出が著しい。
・ 電力供給:水力・火力・太陽熱・風力、中でも太陽熱発電はヨーロッパ最大の規模。
・ 家屋の特徴:煙突が二本、台所用と暖炉用。
・ 国民一人当たりワイン消費量:50 リットル
・ ポルトガル人口:国内 1,000 千万人、海外およそ 500 万人
・ 食料:肉類はすべて OK。魚類もすべて OK。海藻類は食べない。米は OK。
・ 軍隊:兵役制度は 2008 年廃止された。希望する者で維持されている。
・ 学制:小学校は 4 年制、中等学校は5年制。
11 月 27 日
■コインブラ
教会の建物の一部はコインブラ市の市庁舎として
使用されている。
サンタクルス教会(18 世紀)
・・ポルトガル初代と二代目の王のお墓がある。
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コインブラ
・ 人口:14 万 8,500 人
・ 大学関係者:2 万 2 千人
・ 名産:マイデデワイン
・ 自然:モンデグ川(Rio Mondege)
・ ポルトガルの首都であった時代もある。
・ 12∼13 世紀に、ポルトガル王国の最初の首都が置かれた。1290 年には、ディニス王が
ヨーロッパ最古の大学のひとつをリスボンに創設。その後、一時閉鎖されたり、コイン
ブラ、リスボンと所在地が移されたりしたが 1537 年にジョアン三世がコインブラに移
して以降は定着した。
□コインブラ大学構内正面左は口頭試験などが行なわれる建物とか。訪問したときもだだ
っ広い講堂内では口頭試験が行なわれていたため、静かに見学させてもらった。
左手前は図書館です。中を見学
させて頂いたが、写真撮影は禁
止。1716 年∼24 年にジョアン
五世によって建設された。
見学の途中、建物のベランダから見た街の光景。建物の色使いが統一されているため
に美しさを感じる。送電線や電柱も目に触れない。流石、古都ですね。
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□演奏会の写真は別途 CD でご覧いただきます。ここでは演奏会後のレセプション光景の
一部をご覧下さい。
双方の団長の挨拶。中央の女性は
Yasuko Machida Garcia(町田靖子氏)
現地在住者でコンサート開催準備に
当たって頂いた。(左)Manuel Rebanda 氏、(右)西村暢之氏(Y.G.C.団長)
11 月 28 日
■ファティマ
第一次大戦中の 1917 年 5 月 13 日、丘で羊
の番をしていた 3 人の子供が聖母マリアの
出現を見た。その後 10 月 13 日まで6度、
出現し、
「この地に礼拝堂を建てるように」
という聖母マリアのお告げがあった。1930
年にレイリアの司教によって認められ、フ
ァティマは多くの巡礼者が集まる聖地とな
った。3 人はイエスのルーシア(10 歳)と
彼女の従兄弟のフランシスコ(9 歳)
、ジャ
シンタ・マルト(7 歳)という。ルーシアは
2004 年に 97 歳で亡くなった由である。
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★この日、B2 青木敏彦氏の誕生日で昼食時に皆でお祝いを簡素だったが行ないました。
■レイリア コンサートの開始時刻は午後の9時 30 分、現地の人々は元気一杯だ。
(上)レイリア市合唱団練習風景
以下はコンサート後に開かれたレセプションのスナップ写真をどうぞ!
楽しくて朗らか
な歓迎会でした。
テーブルには日本
人に合うメニュー
が沢山用意されて
いてお心遣いの温
かさが嬉しかっ
た。そしてワイン
を沢山頂きまし
た。紙面の都合で
写真はその一部だ
けを紹介していま
す。
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コンサートの舞台でも見かけたがレセプション会場にも同様に
どういたしまして と書
いた横断幕が壁に掲げられている。なにか訳があるのかな?なんて考えながらその説明を
聞いていて大笑いをしました。現地のスタッフの方が、日本の言葉をインターネットで検
索したら真っ先に
どういたしまして があったので歓迎の挨拶にと掲示された由。当団
の西村暢之団長は答礼挨拶でこの日本語の使い方が誤りであり、 いらっしゃいませ
が正
しいとポルトガル語で述べました。これがまた簡単明瞭で面白い。
どういたしまして!Nao!、 いらっしゃいませ!Sim!
会場内は爆笑の渦が巻いていました。
レイリアの皆さんから横浜グリークラブの面々にお土産として手提げ袋が渡された。中に
はレイリア城の絵と、ナザレの海岸で働く漁師の絵の二枚のほか小型ノートや街の地図な
どが入っていた。有難うございました。Obrigado!
ホテルに帰ってきたのが夜中の 12 時 30 分。
お疲れさんでした。一寸風呂場で洗濯を!
11 月 29 日
レイリアの宿泊先(Hotel Eurosol Residence)で
前夜洗濯をした証拠写真です。⇒
同室の竹内正司さんも洗濯に付き合って頂く。
■ バターリャ修道院
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1385 年ポルトガルがカスティーヤ(スペイン)軍の侵入を迎え撃ったアルジェバロータの
戦いに勝利し、独立を守ったことを記念し、ジョアン一世によって 1388 年に着工された。
建設は代々の王に引き継がれ、その結果ゴシックとマヌエル様式の混じった建物になった。
「創設者の礼拝堂」にはジョアン一世の家族の棺が置かれてあり、エンリケ航海王子もこ
こに眠っている。
「未完の礼拝堂」はジョアン一世の息子、ドゥアルテ一世によって建設が始められ、工
事はマヌエル一世に引き継がれたが完成を見ずに他界。今も青空が覗く屋根の無いままの
礼拝堂です。修道院前の広場にある騎馬像は
ジョアン一世。
<ナザレに向うバスの中で>
・キャベツの木、高さ 8 メートル位まで伸びる。
家畜の餌になったりするがキャベツ料理(カルド
ンフェルベ)として人も食す。
・観光ガイド役の綾美さんは 35 年前にポルトガ
ルへ移住しレイリア県に住む。
・王様の松林(西欧一の松林)70 キロ×3∼4 キ
ロ
■ ナザレ
広い砂浜の続く漁村ナザレは人口約 1 万 5 千人。古代フェニキア人によって開かれたとい
う漁村は 1954 年のフランス映画「過去を持つ愛情」で世界に知られることになった。この
映画に出演しテーマ曲「暗いはしけ」を歌い、ファドを一躍有名にしたファド歌手がアマ
リア・ロドリゲス(1920 年―1999 年)だ。
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浜と町を一望にする崖の上のオ・シティオ。アズレージョの美しいノッサ・セニョーラ・
ダ・ナザレ教会
昼食は浜辺に立つレストラン。イワシの塩焼(三尾/一人)を頂く。同僚の森山(B1)氏は
苦手らしく分けてもらった。
(左)浜辺からシティオの高台を望む。
(右)同僚の鈴木浩(左)片岡克之(右)の両氏
昼食後にバス指定乗り場へ向っていたところ、海からの烈風に巻上げられた砂粒が全身を
容赦なくたたきつける。猛烈にイタイ!イタイ!。暫くは物陰に隠れて風が弱まるのを待
つ。
■ オビドス
中世の城壁(周囲 1.5 キロ)に囲まれた小さな町。その歴史は紀元前のケルト時代に始まる。
1288 年、ディニス王の妃イザベルが訪れ、その美しさに魅了されてこの町を王妃の直轄地
とし、以来 1883 年まで代々の王妃に受け継がれてきた。城壁で囲まれた町のメイン・ゲー
トはポルタ・ダ・ヴィラ。
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