物 理 化 学 物 理 化 学 Ⅱ

物 理 化 学 Ⅱ
- 熱 力 学 入 門 -
2014 年度
講義ノート
講義ノート
琉球大学理学部
海洋自然科学科
堀内 敬三
まえがき
この小冊子は、琉球大学理学部海洋自然科学科化学系の 2 年生対象の講義「物理化学Ⅱ」
の講義ノートである。このノートに基づいて実際に黒板に板書する場合は、ここに書いて
あることを全て書くことは(でき)ないが、それでもかなりの時間を板書に費やすことにな
り、また学生諸君もそれを書き写すのにかなりの時間を費やしてしまう。そのため、講義
の進行は遅くなり、学生諸君も書き写すのに忙しくて内容を理解する、あるいは考える時
間が余り持てないのが実状である。このノートはそのような時間や手間を省いて、講義に
集中してもらうために配布するものである。板書以外にも話す内容に重要なことが含まれ
ていることがあるが、その話の内容までノートにメモするのは、板書に忙しいとなかなか
大変である。この講義ノートはそのような内容まで全て書いておいた(そのためページ数
が増えてしまった)。この講義ノートがあれば板書を書き写す手間が省かれるので、講義
の内容に対する理解に神経を集中できるようになると期待している。
教科書は
千原秀昭・中村亘男 訳、アトキンス物理化学(第8版)上下、東京化学同人
であるが、このノートはアトキンスに書いてないことも多く含まれているし、順番も少し
異なっている。しかし、ノートの内容がアトキンスのどの部分に対応しているかを示して
あるので、アトキンスを参照するときに不便はないと思われる。式には通し番号を付けて
あるが、例えば、
(3・45)(79)
と書いてあるときは、アトキンスの 3 章の式(45)と同じであることを意味している。また、
講義ノートには書けなかった式の証明などはホームページの講義ノートの補足に掲載し
た。興味のなる人は参照して頂きたい。アドレスは
http://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~ horiuchi/
である。
このノートを作る際に参考にして文献はかなりの数になるが、アトキンスの他には主に
榊友彦 訳、ピメンテル化学熱力学、東京化学同人
原田義也 著、化学熱力学、裳華房
小宮山宏 著、入門熱力学、培風館
久保亮五 編、熱学・
熱学・統計力学、裳華房
である。これらの本は図書館にもあるので、興味のある人は参考にして頂きたい。
内容については間違いのないように注意深く推敲したつもりであるが、それでも間違い
や誤解されやすいあるいは分かりづらい記述などが多々あるかもしれない。漸次改善して
いくつもりであるから、気づいたことがあったら遠慮せずにどんどん指摘して頂きたい。
堀内
敬三
目次:
目次:
1. 序論
1・1 熱力学とは?
・・・ 1
1・2 熱平衡状態
1・3 理想気体
1・4 実在気体
2. エネルギー
2・1 内部エネルギー
2・2 エンタルピー
2・3 内部エネルギーとエンタルピーの温度依存性
・・・ 10
2・4 熱容量
3. 熱化学
・・・27
3・1 エンタルピー変化
3・2 標準生成エンタルピー
3・3 エンタルピー変化の解釈
4. 過程とエネルギー効率
・・・37
4・1 等温過程と断熱過程
4・2 膨張・圧縮サイクル
4・3 熱機関のエネルギー効率
4・4 熱力学第二法則
5. エントロピー
・・・49
5・1 熱力学におけるエントロピー
5・2 エントロピーの微視的観点からの(=統計力学的)解釈
5・3 物質のエントロピー
5・4 エントロピー効果の実例
6. 自由エネルギー
6 ・1
6 ・3
6 ・4
6 ・6
6 ・7
・・・84
自由エネルギーと平衡条件
6・2 自由エネルギーの温度・圧力依存性
標準生成(Gibbs)自由エネルギー
自由エネルギーと最大仕事・最小仕事
6・5 自由エネルギーと化学平衡
実在気体の熱力学的取り扱い-フガシティー-
実在溶液の熱力学的取り扱い-活量-
7. まとめ
・・・124
7・1 Maxwell の関係式
7・2 熱力学的状態方程式
7・3 開いた系の熱力学関係式
7・4 熱力学の有効性と限界
8. 記述問題
・・・130
9. 演習問題
・・・144
1. 序論
1・1 熱力学とは
熱力学とは?
とは?
我々が普通に観測の対象とするものは、きわめて多数の原子や分子を含み、一般にきわ
めて大きい力学的自由度(基礎物理学 1・1a、b 参照)を持つ系であるが、普通の観測では温
度とか、圧力とかいった少数の巨視的物理量を指定し、それによってその状態を記述する。
この様に粗く指定された状態を巨視的状態という。これに対して、少なくとも考えの上で
はその系の状態を力学的に可能な限り精密に指定する事ができる(例えば、原子や分子の座
標と運動量を全て指定する)
。そのように指定された状態を微視(
微視(的)状態という 。
*1
☆ 熱力学
熱力学の
の特徴
熱力学では極めて多数( Avogadro(アヴォガドロ )数個程度 )の粒子を含む系を、数個の巨視
的量で記述される巨視的状態としてとらえる。これに対して、力学は基本的には少数粒子
から成る系を対象とし、各粒子の位置と運動量で系の状態を記述する。
熱力学の枠組みは、保存則(第一法則)という一般的原理と不可逆性(第二法則)とい
う日常経験を前提として組み立てられているものであるから、それなりに一般性を持つ。
まず、熱平衡状態(1・2 参照)という巨視的状態が存在する、という経験を基礎に置く(、
ことを前提とする)。熱平衡状態という巨視的状態を指定する物理量として、温度、圧力、
体積、粒子数という大雑把な量(、巨視的な量)を導入する。つまり、この巨視的な量を
使って系の状態を記述する。熱平衡状態は分子の(運動)状態の微視的な詳細によらず、こ
のような巨視的な量が同じであれば、同じような平衡状態が実現されるという経験に基づ
いている。
熱力学の最大の強みの一つは、その基礎をマクロな経験的観測のみに置いている事であ
る。取り扱う過程についてのミクロな知識が全くなくても、あるいはミクロなレベルに立
ち入る事なしに議論できる。そのため、どんな複雑な系にも適用できる(例:生体系)。
しかし、熱力学の内容を理解する時には、ミクロなレベルから考えた方が理解しやすいの
で、この講義では分子のレベルから出発して熱力学を理解する事にする。これは統計力学
的に熱力学を理解するということであり、統計熱力学と呼ばれる。これについては後学期
の「化学統計熱力学」で詳しく取り扱う。
☆ この講義
この講義の
講義の目標
この講義は要約すればエネルギーとエントロピーについて学ぶ。エントロピーという概
念は 1 年後期の「化学Ⅱ」で既に学習しているが、エネルギーと比べて理解することが難
しい概念である。従って、この講義ではこのエントロピー(そしてその変形である自由エネ
自由エネ
ルギー)を理解することを第一の目標として熱力学を学ぶ。その際の基本的姿勢としては、
*1 微視的あるいはミクロという言葉を、原子や分子のスケールに対して用いる。巨視的あるいはマク
ロ という言葉は、それらに対して相対的に大きなスケール(、基本的には我々が目で見ることのでき
る大きさ)の系に対して用いる。
-1-
上述したように、分子の立場に基づいて熱力学の内容を理解する(、統計力学的に理解す
る)というものである。化学熱力学とは化学者が興味を持つ系(例えば、溶液、相平衡、
化学平衡、化学電池など)に、熱力学を応用するものであるが、これについては基本的に
後学期の「化学熱力学」で学ぶ。この講義では化学熱力学を理解するための基礎として熱
力学を学び、熱力学的な考え方、概念(特にエントロピーと自由エネルギー)を理解しそ
れに慣れることを目標とする。教科書(アトキンス)でいえば、1 章から 3 章および 4、5、7
章の一部の内容を扱う予定である。
1・2 熱平衡状態
熱力学で使う用語をいくつか紹介しておこう。
☆ 系、外界(
外界(、環境、
環境、周囲)
周囲)、宇宙(アトキンス図 2・1)
我々が今注目している(、問題にしている、考察している)対象を系と呼ぶ。そして、宇
宙は系とその外界(、環境、周囲)からなる。
孤立系:外界と全く交渉を持たず、つまり、外界とのエネルギーや物質の交換を行わない
系。例:理想的な魔法瓶;宇宙は孤立系である。
閉じた系
じた系(閉鎖系)
閉鎖系):外界との間にエネルギーの交換はあるが物質の出入りのない系。例:
地球(隕石などを考慮すると閉じた系ではない)
開いた系
いた系(開放系)
開放系):外界との間でエネルギーや物質の交換を行う系。例:エンジン(ガソ
リンや空気を取り込み、仕事や熱、排気ガスを放出する)
;生物
同じ系であっても、何を目的に議論するか、どこまで厳密に議論するかによって、例え
ば孤立系と見なしたり、閉じた系と見なしたりする事がある(例:地球は閉鎖系であると見
なせるが、厳密には開放系である)
。この講義では基本的に孤立系と閉じた系(閉鎖系)を考察
の対象とする。開放系については後学期の「化学熱力学」で取り上げる。
☆ 状態関数(
状態関数(状態量)
状態量)
前述したように、熱力学では巨視的な物質の状態を指定(、記述)するときに、温度 T、
圧力 P、体積 V といった少数の巨視的物理量を使う。これらのように、系の状態だけで決
まる巨視的量、系の状態の性質を指定、記述する巨視的量を状態関数という*1。系が過去
にどのような過程を経てこようと、その状態をどの様にして作ったかには無関係に、状態
関数は現在ある系の状態にのみ依存するという性質を持っている。
☆ 熱平衡状態と
熱平衡状態と非平衡状態
巨視的状態を熱平衡状態と非平衡状態に大別する。熱平衡状態とは、巨視的状態が時間
変化しない、つまり状態関数が一定の状態である*2。一般に孤立系は一定条件の下に十分
長く放置すれば熱平衡状態に達する(経験則)。
*1 一般には状態量というが、ここではアトキンスにあるように状態関数と呼ぶことにする。
*2 平衡状態というと、力学系の平衡状態(力の釣り合い)を連想するかもしれないが、それと混同する
ことはないであろう。
-2-
熱平衡状態の具体例としては、コップの中にあって周囲と同じ温度、圧力の水(蒸発は
ないものとする)。これは、温度、体積、圧力が一定である。これに対して例えば、ビー
ル(非平衡状態、CO2 が過飽和状態)、ガスバーナーの炎(定常状態 )は熱平衡状態では
*1
ない。
化学で重要な平衡に、相平衡と化学平衡がある。これらについては、後学期の「化学熱
力学」で取り扱う。
熱平衡状態は巨視的には少数の変数(例えば温度と圧力)を与えれば決まる静的な(つま
り時間変化しない)状態であるが、微視的には粒子が複雑な運動をしている動的な(時間変
化する)状態である。例えば化学平衡は、ミクロなレベルで見たとき正逆のプロセスの速
度が等しくなった時に実現する動的な釣り合い状態である。
非平衡状態から熱平衡状態に至る過程は、不可逆過程、あるいは緩和過程と呼ばれてい
る。緩和過程:熱平衡状態にある系に熱や圧力を加えた時、その系が示す挙動。(例:Le
Chatelier(ル-シャトリエ)の法則)この講義では熱平衡状態にある系についてのみ考える(こ
れを平衡熱力学という)。非平衡状態にある系が時間とともにどのように変化していくか
(非平衡熱力学)を考えることはしない。
平衡熱力学の根本問題は、熱平衡状態にある系の内部束縛(エネルギー、体積、物質の
やり取りを禁止する束縛)が除去された時、系が最終的に到達する新しい熱平衡状態を決
定する事である。
(注意:熱力学と速度論)熱力学では変化の方向を示すが、その速さ(どの程度の時間で
新しい平衡状態に達するか)は分らない。それを取り扱うのは速度論という別の理論体系
である。化学反応についての速度論-反応速度論-は 3 年生対象に開講されている。
1・3 理想気体(アトキンス 1・1、1・2)
この講義では考察対象としての系を、基本的には理想気体に限定するが、必要に応じてそれ以外の
系(実在気体、液体、固体)も取り上げる。ここでは、アトキンスの 1・1、1・2 に沿って理想気体の性
質を復習してみよう。
アトキンスでは完全気体と呼んでいるが、理想気体という言葉の方が一般的なので、ここでも理想
気体という言葉を使う。理想気体とはモデル物質である。モデルとは系を単純化することによって、
問題の本質的な部分を理解(あるいは数学的に解析)し易くしたものである。つまり、問題を単純化
し問題の本質的な部分のみを抽出するためにモデルを使う。理想気体とは巨視的(、熱力学的)には
任意の条件下で気体の状態方程式(1・8)が成立する系であるが、微視的には気体粒子間の相互作用も、
*2
粒子自身の体積もない(、大きさがない)と見なせるような粒子からなる系を意味している 。これに
対して、実際に存在している気体を実在気体という。
*1 定常状態とは流体の流れ、電流などの運動の様相(単位時間当たりの流量等)が時間的に不変な、
しかし巨視的に動的な状態。熱平衡状態は巨視的には静的な状態である。
*2 理想気体は Charles(シャルル)の法則に従うので、圧力が一定の時、体積は温度に比例し(アトキン
ス図 1・6 参照)、体積が一定の時、圧力は温度に比例する(アトキンス図 1・7 参照)。そのため、理想
気体は絶対零度では体積も圧力もゼロになる。
-3-
a 気体の
気体の状態(アトキンス 1・1)
系の熱平衡状態を指定するのに必要かつ十分な(温度以外の)状態関数と、温度との間の
関数関係を与える式が状態方程式である。この状態方程式の形は物質に依存するため一般
的な形というものはないが、理想気体は例外的に次の理想気体の状態方程式が気体の種類
に関わらず成立する。
PV = nRT
(理想気体)
(1・8)(1)
ここで、R は気体定数である(アトキンス表 1・2 を参照せよ)。上式の両辺ともエネルギーの
次元を持っていることに注意する。
(a) 圧力
圧力の定義、圧力の単位 Pa(パスカル)(アトキンス表 1・1 を参照せよ)、
標準(
標準(状態)
状態)圧力 P ○= 105 Pa = 1 bar(バール)*1、1 気圧は 101325 Pa、圧力と力学的平衡(ア
トキンス 1・1(a)、図 1・1 参照)
気体の圧力の原因は、気体分子がそれを入れている容器に衝突して力を及ぼすことにあ
る。この衝撃力を壁に衝突する多数の原子について平均すると、この平均した力<f>を気
体の圧力として測定することになる。つまり、気体の圧力 P とは気体分子が容器の壁に
及ぼす平均の力である。(N は気体分子の数、L2 は容器の面積)
P = N<f>/L
(< >は平均を表す)
2
(a)
実際に原子が時々刻々壁に及ぼす力は平均から多少ずれるわけだが、気体分子の数は莫大
なので、平均からのずれは検出できないほど僅かである。
(b) 圧力の
圧力の測定
気圧計、圧力計
(c) 温度(温度については 2 章以降で詳しく考察する)
絶対温度 T の単位は K(ケルビン)、298.15 K = 25 ℃、つまり、摂氏温度θとの関係は
T/K =θ/℃+ 273.15
(1・4)(2)
である(アトキンス数値例 1・1 を参照せよ)。絶対零度(T = 0)では物質を構成する粒子の
熱運動は完全に停止する。有限温度(T > 0)では粒子は熱運動を行い、温度が高くなる
ほどその運動は激しくなる。つまり、熱運動とは物質を構成している粒子が有限温度でお
こなう不規則な(、ランダムな)運動であり、温度とはこの粒子の熱運動の運動エネルギ
ーの平均値(、運動の激しさ)を表している。従って、絶対温度目盛りでは負の温度はな
い。エネルギーの
エネルギーの等分配則(基礎物理学 1・2d 参照)によると、 1 mol の理想気体の平均運
動エネルギーは(3/2)RT であり、NA 個の粒子の運動エネルギーは(1/2)m<v2>× NA なので、
(3/2)RT =(1/2)NA m<v2>
(< >は平均を表す)
(3/2)kBT =(1/2) m<v >
(b)
(c )
2
である。つまり、温度 T と分子の運動エネルギー(1/2) m<v >が比例している。
2
*1 標準状態とは 0 ℃、1 気圧の状態ではなく、圧力が 105 Pa の状態で、温度の指定はない。
-4-
絶対温度の単位 K はエネルギーの単位としても使われる。このときは Boltzmann 定数
がかかった値がエネルギーの単位としての K の大きさである。すなわち、
1 K = kB K =(1.38066 × 10- J K- )(K)= 1.38066 × 10- J
23
1
23
(d)
である。
☆ 温度と
温度と圧力
理想気体の場合、P ∝ nT/V なので、粒子数密度(N/V = nNA/V)一定のもとでは圧力と
温度は比例する。
P ∝ T ∝<運動エネルギー>
(N/V =一定)
(e )
また、圧力の単位は
N m- = J m2
3
なので、理想気体の圧力は単位体積あたりの気体分子の運動エネルギーであることが分か
る。気体の運動が激しくなるほど、気体の温度も圧力も上昇する(ただし、圧力は容器の
体積、正確には数密度に依存する)。
☆ 原子・
原子・分子の
分子の熱運動
分子や原子は有限温度においてランダムな(、無秩序な、でたらめな)熱運動をしている。この意
味を考えてみよう。気体分子を想像してみよう。分子の運動は原理的には運動方程式によって記述可
能であり、分子の運動を惑星やすい星の運動を追うように、時々刻々追うことはできる。つまり分子
運動は決して本質的にランダムではない。しかし、分子数が莫大な場合これをまともに取り扱う(す
なわち、Avogadro 数個程度の運動方程式を解く)ことは現実的には不可能である。また、仮に可能で
あったとしても、そこに惑星の運動に見られるような何らかの規則性を見出すことができるとは考え
られない。仮に分子を見ることができたとして、我々には粒子がでたらめに運動しているとしか見え
ないであろう。それはなぜかというと、ミクロな粒子の数が莫大で絶えずそれらの間で衝突を繰り返
しているからである。1 個の気体分子が時間の経過とともにたどる道筋は恐ろしく複雑であり、そこ
には太陽系の惑星の運動に見られるような規則性は見いだせない。この意味において、ミクロな粒子
の熱運動はでたらめ(不規則、ランダム)なのである。この講義ではランダムな熱運動という言葉を
今後多用するが、この場合のランダムという言葉が上記のような意味合いで用いられているというこ
とを強調するために、‘ランダム’あるいは‘無秩序’と表記することにする。
ところで、ある限られた空間に閉じこめられた一個の分子は、長い間には存在する空間の全領域を
*1
まんべんなく通過するであろう 。つまり分子の運動を長時間平均してみたとき、分子がどの方向に移
動する確率も等確率であると考えることが可能であろう(もちろん短時間では無理)。したがって、分
子の運動をランダムな運動として取り扱っても、莫大な数の分子が存在する系の時間平均(=マクロ
な系の熱平衡状態)を考える限り良いのではないかと期待される(熱平衡状態にある分子は、次の瞬
間どの方向に移動する確率も等しい状態にあると考える)。これが確率的な
確率的な、統計力学的な
統計力学的な見方(=本
9
*1 アトキンス(p.810)によると、1 気圧、25 ℃の気体窒素において、1 個の分子は毎秒 5 × 10 回程
-10
度衝突する。つまりある運動が継続する時間は 10 s 程度である。ミクロのレベルではこの程度の時間
間隔を考えるので、1 秒でも充分長時間である。巨視的な物理量を測定するのに要する時間のスケール
では、分子の運動は充分平均されていると見なすことができる。
-5-
来力学過程である分子運動を確率過程として認識すること)である。莫大な数の自由度がある系を、
少数の変数で記述するとき、確率的な見方、記述が生まれる。
温度と熱平衡(アトキンス 1・1(c)、図 1・2 参照):温度という概念は次の熱力学第零法則をも
とにして導入された。
熱力学第零法則(アトキンス図 1・3 参照)とは、「A と B とが熱平衡にあり、B と C とが
熱平衡にあれば、A と C とを直接接触するとき、A と C は必ず熱平衡にある。」というも
のである。二つの系が熱平衡にあるとき、その二つの系の温度は等しい。逆に、二つの系
が熱平衡にあるための条件は、二つの系の温度が等しいことである。二つの物体が熱接触
しているとき、それらが熱平衡にあるかどうかは、二つの物体の温度を測定すれば分かる。
閉じた系の平衡条件は、外界との間に力学的平衡と熱平衡が成立することである。
(注意:熱平衡状態と熱平衡)熱平衡状態は T、P、V が一定なので、外界と熱平衡およ
び力学平衡が成立している。例えば、外界と熱平衡にある水は蒸発によって体積が減少す
るので、厳密には熱平衡状態ではない。このように、厳密には熱平衡状態と熱平衡は区別
されるが、熱平衡状態という意味で熱平衡という言葉が使われることが一般的である。し
かし、この講義では区別して用いることにする。
b 気体の
気体の諸法則(アトキンス 1・2)
ここに現れる気体の諸法則は正確には理想気体の法則であり、実在気体の場合はある極
限(理想気体の条件を満足できる条件、すなわち、気体粒子の相互作用や大きさが無視できるとき)
でのみ成立する極限則である。
(a) 理想気体
理想気体の
の法則
Boyle(ボイル)の法則、
PV =一定
(定温)
(1・5)(3)
Charles(シャルル)の法則、
V =(定数)×(摂氏温度+ 273) (定圧)
(1・6a)(4)
Avogadro の原理、
V =(定数)× n
(定温、定圧)
(1・7)(5)
上記の諸法則を統合することによって、理想気体の状態方程式が得られる。
PV = nRT
(理想気体)
(1・8)(1)
3
理想気体は 298.15 K、1 bar(標準環境温度と
標準環境温度と圧力 SATP)でモル体積 Vm = 24.789 dm mol
-1
。現在では実験データなどは基本的に SATP の条件の下で測定されたものが掲載されて
いる。
(b) 混合気体
Dalton(ダルトン)の法則、分圧の定義
気体 J*1 の分圧 PJ は、J のモル分率
モル分率が xJ のとき、
PJ ≡ P × xJ
[1・13](6)
*1 化学種を一般的に表記する記号として J を使う。エネルギーの単位ジュールと混同しないように。
-6-
と定義される。分圧の計算例はアトキンス例題 1・3 を参照せよ。理想気体では
モル分率 nJ/n =圧力分率 PJ/P =体積分率 VJ/V
が成立する。ここで
n =∑ J nJ、
P =∑ J PJ、
V =∑ J VJ、
である。しかし、重量分率 mJ/m(m =∑ J mJ)は
∑ J mJ =∑ J nJ MJ = m
(MJ は成分 J のモル質量)
なので、
mJ/m = nJ MJ /∑ J nJ MJ = xJ MJ / M
(M =∑ J xJ MJ は平均モル質量)
となり、モル分率 xJ と等しくはない。
1・4 実在気体(アトキンス 1・3、1・4)
a 分子間相互作用(アトキンス 1・3)
実在気体では気体分子間に分子間相互作用(あるいは分子間力ともいう)が働く。それ
は大別すれば、引力と斥力(反発力)である。2 個の分子間に働くポテンシャルエネルギ
ー V の様子がアトキンスの図 1・13 に載っている。分子間に働く力はその微係数- dV/dr
である。
F =- dV/dr
(7 )
分子間距離 r が大きいところでは、dV/dr > 0 なので、分子間に引力が働き、ポテンシャ
ルエネルギーが極小になるところより接近すると、dV/dr < 0 なので、反発力が働くこと
が分かる。
分子間引力は r がある程度離れたところでも有効に働くので、分子間引力は長距離力で
ある。これに対して、斥力*1 はごく近くに分子が接近すると有効に働くので、分子間斥力
は短距離力である。長距離、短距離は相対的な表現で、分子間引力の元となる van der
Waals 力は Coulomb 力と比較すると、かなり短距離力である*2。
b 圧縮因子(アトキンス 1・3)
実在気体ではこのような分子間相互作用が存在するため、理想気体の状態方程式(1・8)
からのずれを示す。そのずれの程度を示すのが圧縮因子 Z である。
Z ≡ PVm/RT
[1・17](8a)
ここで Vm は物質 1 mol 当たりの体積、すなわちモル体積を表す。分母の RT はその温度で
の気体粒子の全運動エネルギーを表しており、PVm はその運動エネルギーに抗して気体を
体積 Vm に閉じこめるのに必要なエネルギー(、仕事)を表している。そこで、理想気体
の場合のそのエネルギーを(PVm)理、実在気体の場合のそれを(PVm)実と表記すると、
Z =(PVm)実/(PVm)理
(8b)
である。
実在気体では気体粒子間に引力が働いているので、粒子の運動がその分弱められ、より
少ないエネルギーで気体を閉じこめておくことができる、言い換えれば、理想気体より圧
*1 分子間の斥力については、「物理化学Ⅰ」で詳しく説明する。
6
*2 van der Waals 力のポテンシャルエネルギーは r に、Coulomb ポテンシャルは r に反比例する。
-7-
縮しやすくなる。つまり、(PVm)実<(PVm)理である(従って、Z < 1 である)。このとき、
理想気体と実在気体を同じ体積に閉じこめると、それに必要な圧力は(P)実<(P)理であり、
理想気体と実在気体を同じ圧力で閉じこめると、その結果の体積は(Vm)実<(Vm)理である(ア
トキンス例題 1・4 参照)
。しかし、非常に高圧になると、粒子間の斥力が働くようになり 、
*1
気体に運動エネルギー以上に圧力をかけてやらないと圧縮されない。すなわち、理想気体
より圧縮しにくくなる。このとき、(PVm)実>(PVm)理となるので、Z > 1 である。このとき、
理想気体と実在気体を同じ体積に閉じこめると、それに必要な圧力は(P)実>(P)理であり、
理想気体と実在気体を同じ圧力で閉じこめると、その結果の体積は(Vm)実>(Vm)理である。
アトキンスの図 1・14 に、圧縮率因子の圧力依存の実例が載っているので参照せよ。
温度が高くなると、実在気体の Z は 1 に近づく。これは高温では分子の運動エネルギ
ーが大きくなるため、相対的に分子間力が無視できるようになるからである。実在気体は
高温低圧の状態で理想気体に近い振る舞いをする。常温常圧で多くの気体が理想気体と見
なせるのは、この条件では分子間距離が大きくて、長距離力である分子間引力の効果もほ
とんど無視できるからである。この様に圧縮因子の 1 からのずれは非理想性の目安となる。
c virial 状態方程式(アトキンス 1・3)
実在気体を理論的、定量的に解析する手段として、理想系の式(1・8)をある状態関数の
べき級数で展開することを考える*2。つまり、理想系の法則はこのべき級数の第一項であ
るとして取り扱う。これは virial(ヴィリアル)状態方程式と呼ばれている。数学的には高次の
項までとればとる程パラメータの数が増えるので実験値との一致は良くなる(このような解析の仕方
を一般に数値解析という)。正確な計算をする場合はこの方法が優れているかもしれないが、問題点と
しては展開項の物理的意味が必ずしも明確ではないことである。展開項の意味付けは理論的な考察(=
統計力学)に基づいて行われなければならない。
virial 状態方程式には次の 2 通りの表し方がある。
PVm = RT(1 + B'P + C'P2 +・・・)
(1・18)(9)
PVm = RT(1 + B/Vm + C/Vm +・・・)
(1・19)(9')
2
ここで、B、C 、・・・は第 2、第 3 、・・・virial 係数という。virial 係数は分子の種類毎に異な
る値を持ち、温度に依存する(アトキンス表 1・4 に B の値が載っている)。virial 展開では第 2
virial 係数 B が特に重要である。B = 0 になる温度を Boyle 温度という*3。
virial 係数は分子間の相互作用を表す量であるが、一般的にその物理的意味付けは熱力学的考察から
は難しく、統計力学に基づいて行われる。それによると、ここでは詳細は省くが、 クラスター展開
クラスター展開 の
理論を用いることにより、係数は温度と分子間ポテンシャルの形からその値を定めることができる。
このとき、第 n virial 係数はクラスターを作る n 個の分子が同時に力を及ぼし合うことによる分子配置
*1 厳密には気体粒子が接触する頻度が増大するため、反発力の効果が平均として効いてくるようにな
るということである。
*2 x を実数とするとき、次の級数を x のべき級数
べき級数(
級数(整級数)
整級数)という。
∞
n
2
n
∑ n =0 anx = a0 + a1x + a2x +・・・+ anx +・・・
*3 Z の圧力依存性は温度によって異なる(アトキンス図 1・16 参照)。低圧で Z = 1 となる圧力領域の
現れる温度が Boyle 温度である。アトキンスの表 1・5 に Boyle 温度の値が載っている。
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の相関効果を表していると解釈される。第 2virial 係数が重要ということは、実在気体では 2 粒子間の
相互作用が重要であることを意味している。つまり、3 個あるいは 4 個の分子が瞬間的にクラスター
を作る頻度は非常に小さく、ある分子に注目したときせいぜい 1 個分子がそれに接近する場合を考え
れば十分であることを意味している。第 2 virial 係数 B に関していえば、一対の分子対内の相互作用を
考えて、その引力部分が支配的な低温で B は負の値をとり(そのとき PVm < RT、従って Z < 1)、温
度の上昇と伴にその絶対値は減少し、Boyle 温度以上で正の値を持つようになる(そのとき PVm > RT、
従って Z > 1)ことが導かれる(アトキンス表 1・4 に 273 K と 600 K における B の値が載っている)。B
が正の値を持つということは圧縮因子 Z が 1 より大きくなることを意味し、従って反発力の効果が優
勢になっていることを示している。高温にすると反発力の効果が優勢になるのは、温度の上昇に伴っ
て分子が単位時間内に動き回る空間が大きくなるので、分子どうしが接近する頻度が増すからである。
d van der Waals の式(アトキンス 1・4)
実在の系に適用できる法則を求める方法としてまず考えられるのは、理想性からのずれ
の原因を想定した上で、ずれの大きさを理論的に計算して補正することである。このよう
にして得られる実在気体に対する状態方程式で一番有名なのが van der Waals(ファンデル
ワールス)の式である。van der Waals 方程式は次のように表される(式の導出の仕方はアトキ
ンスの根拠 1・1 に載っているので参照せよ)
。
(P + an2/V 2)(V - nb) = nRT
(10)
あるいはこれを書き換えて、
P = nRT/(V - nb) - an2/V
ここで、- an /V
2
2
(1・21a)(11)
2
は分子間引力による圧力減少効果を、- nb は気体粒子が有限の大きさ
を持つことの(言い換えれば斥力の)効果を表している(b は排除体積と呼ばれることが
ある)。したがって、(1・21a)式の右辺の第 1 項は気体の運動エネルギーと反発相互作用を、
第 2 項は引力相互作用を表していると解釈できる。補正項 a により圧力は減少し、補正項 b
により圧力は増大する。分子間引力が優勢のときは理想気体と比較して圧力は減少し、斥
力が優勢のときは圧力は増大する。van der Waals 方程式を使った計算例がアトキンスの
例題 1・4 に載っているので参照せよ。
van der Waals の式は virial の式と比較して実測値の再現性では劣っているが、van der
Waals 式の長所はそれが解析的な式で、実在気体について一般的な結論を引き出せること
にある。van der Waals 方程式以外にも、実在気体に対する状態方程式がいくつか提案さ
れている(アトキンス表 1・7 参照)。
係数 a、b は virial 係数と同様に分子の種類によって異なる値をとるが、温度には依存しない(アト
キンスの表 1・6 に係数の具体的な値がいくつか与えられている)。表 1・6 に載っている係数の数値を見
ても、その数値の相対的な関係を定性的に、分子間力、原子あるいは分子の大きさに基づいてある程
度説明できることが分かる。すなわち、希ガス元素の a は小さく、粒子が大きいと b も大きくなる。
第 2virial 係数 B と van der Waals 係数 a、b の間には、
B = b - a/RT
(a、b は温度に依存しない)
(12)
の関係がある。この式は B の温度依存性を定性的に説明する。すなわち、引力効果を表す a が優勢の
ときは B は負になるが、温度の上昇と伴にこの第 2 項の効果は小さくなり、Boyle 温度で b = a/RT と
なり、それより高温では斥力効果を表す b が相対的に優勢となり B は正になる。
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