キラルな分子を作る仕組み

解説
キラルな分子をつくる仕組み
純正化学株式会社埼玉工場
一昨年、筑波大学名誉教授白川英樹先生が、
篠崎 公三
のように左右の違いのある形をキラルとい
また、昨年、名古屋大学教授野依良治先生が
い、その性質をキラリティ−
(対掌体)を持つ
ノーベル賞を受賞され、日本の化学レベルの
という。また、左手と右手の手袋のように、
高さが世界的に評価され、化学に携わってい
お互いに鏡像関係になるそれぞれの手袋を鏡
る我々に勇気と希望を与えてくれた。
像異性体(エナンチオマー)
あるいは立体異性
今回、野依先生の受賞の対象になったのは、
体という。また、キラル中心を2個以上持ち、
キラル化合物の合成触媒、特に水素化触媒の
お互いに鏡像関係にない立体異性体をそれぞ
発明に関するものだが、先生のご業績は非常
れがジアステレオマーという。
に広範囲なキラル化合物を高能率に生み出す
原理を確立した。特に、有機リン化合物とル
テニウムの錯体触媒を用いた不斉水素化反応
キラリティーの概念が分子の世界へ展開さ
れたのは19世紀半ば頃である。
最近では、キラル化合物が香料、調味料、
は工業化された例も多く、学術的のみならず
食品添加物、医薬品、農薬、液晶材料など幅
実用化の面でも極めて大きな波及効果を生ん
広く、それぞれの分野で利用されている。
でいる。
例えば、貼り薬・塗り薬、浴剤、毛髪剤、
すべてのものの形は、鏡に映した形がもと
歯磨きなどにL‐メントールという冷感剤が含
の形と同じものと、そうでないものとの2種
まれている。このときL体は新鮮でミント様
類に分類できる。
このときもとの形を実像体、
の清涼感を与えるが、D体は香りがほこりっ
鏡に映した形を実像体に対し鏡像体と表現
ぽくて消毒臭く、不快な匂いがする。食品関
し、この鏡像をいくら回転させても実像と重
係ではダイエット食品に良く用いられるアス
ならない場合をキラルといい、鏡像体をエナ
パルテーム(L-aspartyl-L-phenylalanine methyl
ンチオマーという。例えば、手袋やゴルフの
ester)と呼ばれているものがある。この化合
アイアン、かざぐるまなどでは、手袋は左手
物は2種類のS体のアミノ酸が脱水縮合した
と右手の関係になり、アイアンは左利きと右
もので、人工甘味料であり、砂糖の約160倍
利きの関係になる。また、かざぐるまは左回
も甘い。しかし、R体を用いると今度は苦く
りと右回りになり重なり合うことがない。こ
なる。
一方、医薬品において、薬は人間の健康や
られている。
生死に直接関係する非常に大切な化合物であ
二番目の場合はおもにラセミ体と鏡像的に
るが、かつて起こったサリドマイドの悲劇が
純粋な化合物との間で塩や共有結合体を形成
我々に大切な教訓を物語っている。1960年代
させ、もとの鏡像的関係を物理的性質の異な
前半に鎮痛剤として広く市販されていた医薬
るジアステレオ的関係に導く。そして、溶解
品であり、
妊婦のつわり止めにも利用された。
度の違いなどを利用して分離する。最近では、
その結果、この薬を服用した妊婦から奇形児
光学活性な充填剤を固定相に使って、液体ク
が生まれたのである。ラットやマウスを使っ
ロマトグラフィーなどで分割している事例が
た動物実験から、サリドマイドもR体は奇形
多くなった。
を起さないが、S体には非常に強い催奇性が
あることが示された。このことからも、ラセ
ミ体の医薬品の危険性を示したという意味
三番目は鏡像異性体を選択的に合成する方
法で、不斉合成法と言われている。
不斉合成法には大きく分けて2種類の方法
で、この事実は重大な意義をもつ。つまり、
がある。まず、最初の方法として考えられる
一方のエナンチオマーを純粋にかつ効率良く
のが生命の力を借りることで、酵素的不斉合
合成することがいかに重要かをサリドマイド
成法である。酵素は自然界に存在する不斉触
悲劇が告げている。以上のように、人工的に
媒の一つである。昔から醗酵法とよばれる手
つくった医薬、農薬、香料、食品添加物など
法で、光学活性物質の供給に古くから利用さ
は鏡像異性体同士で異なった作用を生体に及
れた伝統的産業技術の一つである。酵素の単
ぼす可能性が有る為、純粋な形で供給さえな
離や精製は簡単ではないので、実際には生体
ければならない。
細胞系をそのまま用いることが多く、工業的
それでは、いかにしてキラルな分子を純粋
生産においては、連続生産や再利用ができる
に作ることが出来るかということになるが、
ように酵素や微生物を固定化するのが一般的
基本的には大きく次の3つの方法が考えられ
である。一方で、酵素反応は基質の汎用性が
る。
低い、失活しやすい、高濃度で反応させにく
1. 自然界に存在する純粋なキラル化合物
く装置が大型になり、反応の種類が限られな
を不斉源として(例えばアミノ酸や糖な
ど、欠点も有る。もう一方の方法として、純
ど)目的とする物質に化学変換する方法。
化学的な方法がある。ある種の特殊な分子触
2. キラルな化合物のラセミ体、すなわち
媒でキラルな分子を化学合成的につくる方法
立体異性体の等量混合物をそれぞれ何ら
である。ほんの20年ほど前までは、生物の力
かの方法にて分離精製する方法。
を借りずに光学活性物質を得ることはできな
3. キラルな化合物を一方方向のみの立体
いというのが常識であった。しかし、先のノ
配置を持たせるように選択的に合成する
ーベル賞受賞者の野依先生ら多くの研究者の
方法。
努力により、不斉合成には多数の方法が開発
一番目の方法は通常の生理活性ペプチドで
されたが、触媒量の不斉源から多量の光学活
糖尿病の治療薬インシュリンや血圧降下剤の
性体を作り出す不斉増殖反応がもっとも期待
カプトプリル、先の人工甘味料のアスパラテ
される方法となり、状況が一変した。この不
ームなど数多くの生理活性物質の合成に用い
斉合成反応には、不斉源を基質と同量以上に
必要とするものと触媒量ですむものが有る。
このとき、触媒量の不斉源から大量の光学活
性物質を生み出すことを不斉増殖と言い、合
成化学的に大変魅力あるものとなった。
多くの金属原子やイオンはいろいろな反応
を促進することができる。ここにさらに適切
な構造と性質をもつホスフィンをリガンドと
する有機化合物を組み合わせることによっ
て、望む反応性と選択性を示す分子触媒が誕
生する。野依先生らは2,2'-bis(diphenylphosphino)-1,1'-binaphthyl(BINAP)をリガンドとす
る金属触媒を考案し、種々のオレフィンの不
斉還元に極めて有効な事実を報告した。この
BINAPをリガンドとし、ルテニウム金属と錯
もつ化合物の利用、
ラセミ体からの光学分割、
体をつくると平面構造を持つケトン基質に対
生命の力を借りての不斉合成、さまざまな金
して水素分子を立体選択的に付加する事がで
属触媒を使った不斉合成など、それぞれでの
き、その選択性はほぼ完璧である。またロジ
方法で、目的とする立体配置を持つ化合物が
ウムに置き換えると今度は炭素−炭素二重結
工業レベルで合成できるようになったことは
合を立体選択的に不斉還元し、目的のものを
非常にすばらしいことである。今後、弊社
ほぼ純粋にえることができる。これを利用し
(http://www.junsei.co.jp)としても、このよう
て、年間1000トンの光学活性なメントールが
な立体選択的な高活性の化合物を、より品質
生産されている。
の良いもので、より低価格で市場に提供し、
キラルな分子を純粋に得るため、不斉源を
世の中の為に貢献したいものである。