核もない戦争もない21世紀に

核もない戦争もない21世紀に
毎年のことだが8月に入ると、我々の心に迫ってくるのは「広島平和祈念式(8/6)」と「長崎
平和祈念式(8/9)」で、今年で69年目を迎えました。原子爆弾が米軍によって投下され広島では
一発の原子爆弾で14万人余(長崎では7万人余)が殺戮され、放射能による被害は今なお続いている
現実があります。「原爆という核兵器」は人類が作り出した最悪の兵器であり、放射能は今なお人の身
体と心を蝕み続けています。この現状を個人的にも私は重く受け止めている。というのは、私の職場の
同僚が昭和20年8月1日深夜、富山市で米軍による焼夷弾爆撃で兄ふたりを亡くしていることから、
就職後は平和運動に参加し、それ以来、広島、長崎の平和祈念式典に参加していることや、私自身、仕
事で広島市の方に原爆関係の施設や爆心地を案内していただき、詳しく説明を聞くにつけ、原爆の悲惨
さや被災された方々の苦しみを思うと胸が締め付けられる思いであった。だからこそ核もない戦争もな
い21世紀を願わずにはいられないのだ。
★折しも「7月28日、広島に原
爆を投下した米軍の B-29 爆撃機
エノラ・ゲイの航空士だったセオ
ドア・ヴァン・カーク氏が、その
93 年の生涯を閉じた。海外各紙
は、エノラ・ゲイ最後の生存者だ
った同氏の生前のコメントをもと
に、戦争と原爆投下を振り返って
いる。ヴァン・カーク氏は、広島
への原爆投下を擁護していた。
「倫理観と戦争を同列で語ること
はとても難しい」と語っている。
2005 年の AP のインタビューで、
「第二次大戦でのすべての経験は、
戦争はなにも解決しないことを教
えてくれる。そして核兵器もなんの解決にもならない」と語り、原爆が日米の命を救ったのだと信じつ
つも、戦争への不信感を示していたという(ドイチェ・ヴェレ)。核兵器廃絶にも賛成していた同氏だ
が、しかし誰かが持っていれば、自分だって敵以上に、それを持ちたくなると述べ、核のない世界実現
の難しさも示唆していた(ガーディアン紙)」と。原子爆弾投下について国家意思が優先され、個人の
意思など入る余地がなかったことを如実に物語っている。
★しかしながら現実の世界にはロシアとアメリカを中心に 18,000 発の核爆弾が存在しており、また、
見逃せないのは日本の原子力発電所での使用済み燃料を再処理したプルとニュームを44トン保有して
いるということです。元小泉首相は最近になって使用済み核燃料の最終処理が世界的に確立していない
ことから脱原発運動を展開するようになりましたが。44トンは長崎級の原子爆弾 5,500個分に相当し
ます。すなわち日本は潜在的核保有国であると世界が見ているということです。このことを国民は見過
ごしてはならないということです。
★人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した日本は、確実に『核兵器のない世
界』を実現していく責務があり、その非道を、後の世に、また世界に、伝え続けていくリーダーシ
ップを発揮すべきところであり、歴代の総理大臣は平和憲法をベースに、踏襲してきたアジア諸国へ
の加害責任に触れてきたが、今回はそれもなく、不戦の誓いもなく、広島、長崎の平和祈念式典で挨
拶した。だが、今回の広島平和祈念式典での安倍首相の挨拶式辞原稿の半分が昨年の式辞原稿か
ら使い回しされていたという。安倍首相がコピペして、それがネット上で批判されているという事
実を大きく取り上げた大手メディアは東京新聞だけだという事実である。首相の広島平和式典のスピー
チが昨年と同じだったという事は国民に対する不信を抱かせる大変なスキャンダルである。大手メディ
アが権力の失態にあまりにも鈍感というよりも批判精神が欠如しているといわざるを得ない。これでは
メディアも権力者にとって都合の悪いことは知らせず国民をだますことにつながっている。首相の今回
の挨拶は広島や被爆者、平和を軽視している証左である。
★日本の安倍首相は、LEADER(指導者)ではなくREADER(読み方)である。他人
が書いた原稿を読み上げているだけである。原稿を準備する人が手抜き原稿を作成したのであ
り、部下が手抜き原稿を作成して、それをチェックできないところに、安倍首相の祈念式への
基本スタンスが鮮明に表れている。読み上げる言葉に魂が込められていない。ただ、原稿を噛
まずに読み上げることだけが意識されているのだと思われる。いま、私たちが再読、精読する
べき文章は、手抜き原稿ではなく、被爆者の魂の叫びである。
★だからこそ今こそ「平和憲法」の順守の立場から、田上富久・長崎市長は、6日の広島市の平
和宣言では言及されなかった
「的自衛権」が盛り込まれた。
「団的自衛権」の議論を機に、
平和国家としての安全保障のあ
り方についてさまざまな意見が
交わされている」とし、日本国
憲法がうたう平和主義に触れ
「『戦争をしない』という誓い
は被爆国・日本の原点であり、
「被爆地・長崎の原点でもあ
る」と述べ、そのうえで「被爆
者たちが自らの体験を伝え続け
た平和の原点が揺らいでいるの
ではないかという不安と懸念が、
急ぐ議論のなかで生まれてい
る」と、十分な議論を経ないままの憲法解釈変更への危機感をにじませ、国民の声に耳を傾けるよ
う政府に求めている。
なぜならば、これまでの歴代の首相が集団自衛権行使容認は憲法違反であるとしているのに、それ
を超えて安倍首相が勝手に憲法解釈を更し集団自衛権行使容認したことは、立憲国家の基本を崩すもの
であり、日本中の憲法学者は憲法違反として反対している。法律的には憲法を改正してから集団自衛権
行使容認へ進むのが筋である。
★日本はこれまでも国連憲章第 51 条で加盟国に認められている個別的自衛権(自国に対する他国から
の武力攻撃に対して、自国を防衛するために必要な武力を行使する=専守防衛、国際法上の権利で日本
の防衛戦略の基本的姿勢を指す。その内容は「相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し,
その防衛力行使の態様も,自衛のための必要最低限度にとどめ,また保持する防衛力も自衛のための必
要最低限度のものに限られる」とされている (1989 年版『防衛白書』) 。)だけで69年間も平和を維
持してきた。日本は主権国として、国連憲章の上では「個別的または集団的自衛の固有の権利」(第
51 条)を有しているが、日本国憲法は、戦争の放棄と戦力・交戦権の否認を定めている(第 9 条)。
これまでも政府は憲法第 9 条について、「自衛のための必要最小限度の武力の行使は認められている」
ものと解釈し、日本の自衛権については、「個別的自衛権は行使できるが、集団的自衛権は憲法の容認
する自衛権の限界を超える」との見解を示してきた。これ以上のことを望むのであれば、国権のベース
となっている憲法を改正するしかないのに、安倍首相は内閣の閣議で憲法解釈変更だけで集団自衛権行
使容認を決めたことの暴挙は憲法違反であることは明確だ。加えて平和の党を自認している公明党が集
団自衛権行使容認に手を貸したことは国民の信頼を裏切るものと言わざるを得ない。
★また、核兵器保有国と日本を含む「核の傘」の下にある国に対し、核兵器禁止を求める国々と協
議の場を設けるよう呼び掛けた。日本政府には「核兵器の非人道性を一番理解している国として、
先頭に立ってください」と訴えた。安倍首相は 8 月 6 日に広島で行われた原爆式典の際に、「我々に
は確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります。」と発言をしましたが、その裏では国際
的な核拡散防止条約の共同声明への署名を拒否しているのです。2007年の第1次政権時に触れた
「憲法の規定を順守」とする発言もなかった。
★自民党の土屋正忠衆議院議員が自身のブログで市長を名指しで批判している。「田上長崎市長は集団
的自衛権を言うなら国会議員になった方が良い」と。これに対して多くの人が批判している。
●個別的自衛権と集団的自衛権の違いも判らんコメントが多い、きちんと理解した方が良いと思うぞ。
集団的自衛権とは日本とは全く關係のない第三国どうしの戦争に同盟国のよしみで参戦出来る権利で完
全に第 9 条に反している。そればかりか抑止力にはならず、日本が攻撃を受けた訳でもないのに参戦す
るのだから戦争に自ら飛び込んで行くものだ。相手国は日本からの攻撃と認識して日本にも攻撃を仕掛
けてくる。相手国の親密国も集団的自衛権を行使して攻撃をしてくる。そして武装組織はロンドンやマ
ドリットで行ったようなテロ攻撃も仕掛けてくる。戦争は遠くで行われるものではないのだ。集団的自
衛権の行使を容認する者はその覚悟があるのか?
●集団的自衛権は、国会議員しか議論してはいけないのですか?土屋氏の意見は、自らの選民意識の現
れです。主権は国民にあり、思想信条の自由は、日本国憲法の基本です。このような、バカな意見を発
する国会議員がいたとは、情けなく思います。
●原爆を落とした国は、日本ではありません。東京大空襲で民間人 12 万人を焼き殺したのは、米国で
す。広島や長崎で原爆を落として、民間人 34 万人を虐殺したのは、どこの国ですか?日本政府ではな
くて、米国に核廃絶、平和の尊さを主張して下さいね。陰ながら、応援致します。
●被爆者の一人が「納得してませんよ」と声をかけると、「見解の相違です」と表情を変えずに言い、
会場を後にした。これは、新聞報道の一部である。まあ、国民の意見にいちいち詳細に反応していたら、
いくら時間があっても足りないという事情はわからんでもない。しかし安倍は、集団的自衛権について、
国民の素朴な疑問に真剣に答えたことはない。彼が行ったのは、彼自身が想定したケースだけである。
そのケースも、多くの人が「何でこれが集団的自衛権でなければならないんだ?」と疑問を抱くものば
かり。政府に反対する意見を述べる者を、「左翼」、「国賊」、「売国」、「在日」と罵り続ける人々
よ。素朴な疑問すら許さない世の中にしようというのか?
●メディアが真実を報じれば、少なくとも納得は出来る。どれだけ国民に詳細な説明をしたのか、知
らないのですか?メディアはそれを報じず、戦争というキーワードを乱用し国民に不安を煽り続ける。
何を伝え、何を伝えてないか、それを知る努力すらしないバカな国民の多さに愕然とします。歴史認識
の違いも、メディアや教育現場で嘘を国民に流し続けた結果でしかないのですから。
★平和憲法で忘れてはならない人がいると植草一秀経済学者はブログで紹介している。
長崎原爆に被曝しながら、死の寸前まで被曝者の救済に尽力した人がいる。爆心地から700
メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被曝。右側頭動脈切断という重傷を負いながら、
布を頭に巻くだけで救護活動にあたったとされる。その後も原爆障害の研究に献身的に取り組
んだ。長崎医科大学(現・長崎大学医学部)の永井隆博士である。永井隆博士は二人の幼き子
への遺言の書である『いとし子よ』に次のように記した。
●「私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。わが子よ!憲法で決めるだけ
なら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人
としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行
せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこ
そ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。
しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情
勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限
らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて世論を日本再武装に引きつ
けるかもしれない。もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ…誠一(ま
こと)よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱり
と〝戦争絶対反対〟を叫び続け、叫び通しておくれ!たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者
とたたかれても〝戦争絶対反対〟の叫びを守っておくれ!敵が攻め寄せたとき、武器がなかっ
たら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか?――という人が多いだろう。しかし、武器
を持っている方が果たして生き残るであろうか?武器を持
たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?・・・狼は鋭
い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。
ところがハトは、何ひとつ武器を持っていない。そして今
に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでい
る。・・・愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を
握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。い
とし子よ。敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちら
を憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛
されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなけ
れば戦争も起らないのだよ。」「理屈はなんとでもつき、
世論はどちらへでもなびくものである。
日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改
めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限ら
ない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈を
つけて世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。」こ
の言葉を永井隆博士は1949年に遺した。
浦上天主堂遺壁
植草一秀経済学者は、安倍首相は広島原爆祈念式典でどうせ読み上げるだけなら、こちらの原
稿を読み上げるべきであったと批判している。(郷土の会 岡村)