「宙水を訊ね往くひとありて」 解説 鷹見明彦 著書『泉の

宙水を訊ね往くひとありて
鷹見明彦
綿綿若存
用之不勤
『老子』
梅雨の雨が降りつづいていた六月のある日、神奈川県相模原のトミタ君の家を訪
ねた。第二部「泉をたずねて」のはじめにも出てくるタチカワ―東京都下の私のとこ
ろから、八王子で中央線を横浜線に乗りかえて、彼の最寄駅である古淵まで一時間は
かからない。むかしでいえば、武蔵野のはずれから多摩川をこえて、隣の相模野の内
ほどへ早駈けするといった距離感だろうか。
そんな喩えが浮かんできたのも、日ごろは都心に向かって乗るばかりの路線を遡
行するにつれて、空きはじめる列車の窓に緑のかげが増し、とくに雨の日には、うす
く煙る丘陵の輪郭に時間の方向が消えるような感覚が滲むからなのか・・・・・。春先にア
メリカへ留学したトミタ君は、九月からはじまる《横浜トリエンナーレ二〇〇一》で
発表予定の作品の準備のために一時帰国していた。彼の話では、自分の生まれ育った
土地をモティーフに構想したプランをその元になる本の出版と合わせて実現したいの
だと。
先にロサンゼルスから送られてきた草稿によると、
『泉の話』と題された本は、三
部からなり、第一部は、この作品の動機となった砂漠の泉のヴィジョンについての友
人との会話。第二部は、もともとが沼地で雨が降ると洪水になりやすかった相模原の
家周辺の土地をめぐる記憶や地名の由来について、家族や近隣の人びとに行なったイ
ンタヴューの記録。第三部では、こうした水と水のイメージに結ばれていく過程とフ
ィールドワークをとおして、自ずから浮かび上がる自己という存在の核心が語りださ
れる・・・・・。
雨の丘陵地を列車に揺られてトミタ君の家の方に運ばれていくほどに、今日も一
日降りやみそうもない雨を呼び水とするように、いつも雨や水と親しい彼の作品とこ
れまでの軌跡がフィードバックしてくるのだった。
知り合った学生のころには、石を彫った茶碗をもってインドやアジアを旅して、
各地で降った雨を碗に受けて飲んだり、その情景を写真やドゥローイングで記録する
作品をつくっていた。一九九五年の初個展では、蔵を改造したギャラリーを暗室にし
て、各所に川を遡行していく過程を撮した写真を配した。観客は、一人づつペンライ
トを持って暗がりを捜ぐり訪ねた。私が参加を依頼したトリン・T・ミンハのテキス
トによる《The Other Exiles―境界・複数・他者》展(ガレリアラセン
一九九七)
では、シルクロードへの中国の旅の映像にことばを重ねたポジ・フィルムと『空想之
島』という内面と夢の中の旅のメモが並置された。
『空想之島』は、台湾への旅にでよ
うとした朝に雨のなかでパスポートの期限ぎれに気づいて、帰国予定の日まで誰にも
気づかれずにここにいて架空の旅を続けようとおもったことから生まれたという。九
八年には、中国福建省の泉州市に滞在の後、都内のウィークリー・マンションやギャ
ラリーに宿泊しながら、転居通知のDMを手がかりに訪れる知人や来客と手土産の中
国茶を喫みながら、泉州で撮した映像を見たり話をする試みを行なった。
《知覚の実験
室》展(佐倉市立美術館
一九九九)では、一緒に泉州へ行った友人の辻耕君と現地
での同じ体験について二人が別々に語るインタヴュー映像を同時に映写する『二重体』
を出品した。二〇〇〇年二月、私の企画した《公案》展(ガレリアラセン)で発表さ
れたのが、
『泉の話』の第一部にあたる砂漠の泉のヴィジョンにもとづく作品『沙子泉』
である。そのときは、東京藝術大学油画科の後輩で友人である澤登恭子さんが描いた
「沙漠の泉」の絵を観ながら、トミタとサワノボリがそのヴィジョンをめぐって交わ
した会話を携帯レコーダーで聴くという形式がとられた。
時間軸にそって、これまでのおもな来歴を辿ってみると、
『泉の話』につながって
くる水脈の流れを読みとることができる。トミタ君の作品は、彼の旅や移動あるいは
日常をとおして発生する他者とのコミュニケーションを媒介として、フレキシブルに
様態や形式をかえながら変奏されていく。水が、時や状態によって姿形を千変万化し
ながら、その柔軟なつよさによって、世界に作用しつづける力を持続するように―。
雨滴に不定形となった車窓のスクリーンに『泉の話』への道のりを映すほどに、
水そのものが一貫したライトモティーフとなっていることにあらためて思い到る。そ
の水は、外界を現在から未来へと流れる時間にそった現象の滴である一方で、いつも
内界への、自分という存在の源泉への誘いとして現れてくる・・・・・。
「その人があるとき こういった/ぼくのなかに泉がある/おどろいてしまった
ぼくはまだ/なにもかたっていなかったから」
最初の個展が、自分の育った土地の傍らを流れる川の水源をたづねる行為の記録
によって試みられたように、内なる水のありかを意識していたトミタ君にとって、そ
の源の泉のヴィジョンを語りだした他者の出現は、大きな、また、どこかで予感され
ていた出来事であっただろうと想像された。なぜなら、彼の表現はいつも自分のイメ
ージや体験から得たリアリティーを提示するに留まらず、それを自己と他者の境界を
ゆらがせる動機として作用させようとしてきた。コミュニケーションを別個な他者の
関わりと設定するのではなく、人間が潜在的にもっている共感覚がむしろ内がわから
働いてくる触媒となろうとしている。
他者の側から表された明らかな《沙漠の泉》のヴィジョンは、より寛やかに時空
をこえて展がる人間と世界とのネットワークを直覚させたはずだ。第二部の自分の育
った土地をめぐる聞き書きは、こうした水の流れの力と促しによって始められた。た
えず流砂によって貌を変える地表の下にあるはずの水脈のつながりに触れようとして
―。
横浜線の古淵駅で、列車を降りる。町田から一つ八王子寄りのこの駅は、近年に
なって造られたという。ほの暗いホームから改札口へ上がると、傘をさしたトミタ君
が手を振っているのが見える。長身の坊主頭に浮かぶ微笑が、行脚の雲水の姿に重さ
なる。背後の国道を車が瀕りに行き交っている。
古事記に相模の大沼と記載のあるこの周辺は、相模川の河岸段丘の上にできた相
模原台地のなかほどに位置している。古淵、淵野辺、上溝・・・・、近隣にのこる地名か
らも、そうした地誌がしのばれる。かつては宏大な雑木林と農地がひろがっていた一
帯も、東京のベッドタウン化による開発と宅地造成の進行にともなって、富田家が移
住して三十年が経った今日では、大型のショッピングセンターや量販店がたち並ぶ郊
外の街へと変貌している。
以前には、大雨が降るたびに洪水になったという富田家のあたりは、森林公園と
なって保存された雑木林と国道のあいだに閑まる住宅地である。二〇世紀の終わりに
重なる三十年という時間の経過がもたらした変化は、たしかに大きいが、実際にその
土地を歩いてみると、まだ消え残る過去の面影や気配が、雨の匂いとともに漂いだし
ている場所がある。
大沼、小沼といった沼地の跡を示す地名のほかにも、この附近には、ディラクボ、
マルクボ、フンドシクボなど、窪んだ土地をいう旧い地名がたくさんあった。それは、
「宙水(ちゅうみず)
」という地中の浅いところにたまる地下水によって生まれた地形
で、雨が降ると宙水が増水して、内からの水があふれやすかった。
「われわれが地上に見出せる
そのくぼみは/たしかにたしかに かくれた水のあ
りかを語っている/くぼみが水をたたえたのではなかった/かくれた水が
地表に
じぶんのあることを刻んだのだ」
「マルクボ」とよばれた窪地の跡を造成したという住宅地のなかほどに立ってみ
ると、明らかに街路の四方がゆるやかな勾配を示しているのが見てとれる。住宅の際
には、雨水調整池となる溝が設けられている。トミタ君が卒業した小学校の傍らを通
っていくと、畑灌用の用水路のあとが遊歩道になって、一直線に森林公園を横切って
いる。クヌギ、ブナ、シイなどの雑木と植林された杉が混在する森林は、東京近郊で
も少なくなったスケールで拡がっている。
目に見える環境の変化にも増していちじるしいのは、人間のうつろい、記憶の忘
却ではないか・・・・・。とくに戦後五十年のあいだの一世代に相当する時間の加速は、そ
れ以前までの歴史や共同観念を表面上は無効にする速さで進行した。この東京近郊の
ある土地をめぐる聞き書きが、時として、昔話にも似た響きをもつのは、その変化の
速度の証しといえよう。
物質としての水が、すべての生命の故郷であるように、記憶は、人間性と人格を
形づくる内なる泉からの体液である。自分を育んだ土地をめぐる水の記憶の再生をと
おして、トミタ君が求めたのは、より永くはるかな時間の重さなりを通して、人を人
として在らしめてきた共同の水源である記憶という泉のありようを訊ねることではな
かったか―。
旧い地図に記された地名のひびきをたよりに、雨に浸りながら近隣を巡り歩けば、
消えた沼や水路の痕跡に出会い、それを身体感覚と想像に結びあわせる復元が可能で
あるように、人びとの昔語りの集積は、そのズレや思いちがいも含めて、集合的な記
憶という、もうひとつの水面を意識の地表によみがえらせる。
聞き書きのなかで、「デイラ・クボ(窪)」という地名に関連して、ディラボッチ
(ダイダラボッチ)あるいはダイダラ坊とよばれる巨人伝説が登場する。巨人の足跡
が、沼や窪地になったという伝説は、日本の各地にたくさん残されているが、トミタ
君の家の近くにあった相模野の大沼、小沼のことは、柳田國男の『妖怪談義』のなか
で「じんだら沼記事」として語られている。
昔、ダイダラボッチという名前の巨人がいて、富士山を背負おうとして相模野で
藤蔓を捜したが、紐となるような蔓が見つからず、悔しがって地団駄を踏んだ。その
ときの跡が、原のなかほどにある二つの沼になったという。
大沼は、古事記のヤマトタケルの東征にも現れるが、ダイダラボッチの伝説には、
記紀以前の、文字によって統治される前の世界を移動しながら、山川草木と交霊し、
大地を名づけていった悠かな存在のかげが漂っている。
「カゲって今いってるモノは、ぼくの部分じゃなくて、ぼくの方こそ部分で、、、
夢みたいな、あやふやなもんだろうって、ふと思ったの。ぼくは、中心とか全体じゃ
なくって、カゲみたいなもんなんだ、、、
」
他者によって夢見られた砂漠のヴィジョンにはじまった『泉の話』という旅は、
その泉のほとりで水を汲もうとしている人影にかさなるようにして、ひとまずフェイ
ド・アウトしている。
「それを生きているモノがいるから、物語が発生するんだって、、、ぼくらみたい
なカゲが存在するっていうか、、
、」
「たぶん、だから、、、すごい昔につくられた物語とか、すごい昔の人が気がつい
た存在も、今、ぼくとか、みんなが、、、発見しはじめてる、、、存在とか物語も、、、古
いとか新しいはないっていうか」
ここで憶い出されるのは、ユング派の作家、ヴァン・デル=ポストによるカラハ
リ砂漠に生きた狩猟民ブッシュマンの物語である。
ヴァン・デル=ポストが出逢ったブッシュマンたちは、彼らの神話や物語を容易
に部族のほかの者に語ろうとはしなかった。彼らが口にした唯一の暗示は、
「いつもそ
こにはわれわれを夢見る夢がある・・・・」ということばだったという。それは、いまだ
ブッシュマンたちのなかに、彼らを自然と不可分に生きる部族であることを太古から
保証してきた伝承が存続され、生きられていたからだ。文字ではなく、声やうたによ
って伝えられてきた物語は、彼らにとって、土地や身体と同じように実体を持つ、よ
り以上に確かな共有のこころの器だったにちがいない。その共鳴が、文字に写された
とき、人間は、大自然の秘密を悉る種族から零落した。
「それから始原は水になった。何度も何度も元型的パターンを繰り広げながら、
新しく、より大きな生命が脅かされ、否定され、死と災厄がより偉大なる意味の精神
における探求を終わらせるかに見える時、我々は水のイメージを見い出し、そして水
を通して更新の確かさがもたらされる。旧約聖書でもそうだし、新約の比喩と洗礼で
もそうである。それは、アフリカの始原の霊の物語全体を通して、何度も起こってい
る。そういうわけでドゥフイは水だった。」 『狩猟民の心』
半世紀前、ヴァン・デル=ポストの一行は、絶滅寸前の最後のブッシュマンの部
族が儀式を行なう砂漠の聖地にたどり着くことができた。彼らは、カラハリ砂漠の直
中にあるその岩山の麓に泉が湧く時期にだけ、その場所に集うのだった。
泉の上の岩棚は、天井のない聖堂だった。岩肌には、アフリカの大地の化身であ
る動物たちの壁画が教会の祭壇画に劣らない優雅さをもって描かれていた。それは、
「われわれを夢見る夢」自身が描いたパノラマのようだった。
「われわれを夢見る夢」・・・・・。世界によって夢見られた存在とは、ヒトがヒトと
なって生きはじめるについて必要だった始まりの物語を、くり返し生きることを運命
とする者だろう。宇宙も、地球も、生命も、線形に直進する時間に添うものは局所に
過ぎない。
世界が輪転し、循回する大きな物語であることを世界自身が忘れないために、砂
漠の泉から水を汲みつづける人カゲがある。言い伝えによれば、そのカゲは、あらゆ
る人間の分身であるのだと―。
二〇〇一年七月記
(たかみ あきひこ/美術評論家)