待望の第一子が生まれてきてくれました。 - Buddhist Church of Lodi

 【ベビー結也とオールドルーキーパパ】 待望の第一子が生まれてきてくれました。みなんさんには、いろいろとご助力いただき本当にあり
がとうございました。この場を借りて、お礼申し上げます。息子には、結也(ゆいや)と名付けまし
た。多くの人と結ばれてほしい、また、人と人を結んでほしいという願いから、「結」の字を選びま
した。「也」は、私の父、男兄弟みんなに付いてる漢字ですので、それを引き継いでもらいたいと思
い付けました。“ゆい”もしくは“ゆいや”と呼んであげてください。 9月18日日曜日朝 5 時頃、妻が破水し、病院へ連れて行きました。しかし、陣痛の痛みはまだ感
じておらず、助産婦さんも出産までまだまだ時間がかかるだろうということでしたので、一旦お寺へ
行きました。その日は、秋の彼岸法要の日でしたので、準備をして、メンバーの人に状況を説明し、
講師の先生に全てをお願いして、病院へ戻りました。それでも、妻は、まだ平然と笑顔を見せていま
したので、今度は一旦家へ戻りました。家には、日本から手伝いに来てくれていた妻の妹がいました。
今の状況を妻の妹に伝え、昼食を一緒にとりました。その後、シャワーを浴びて、病院へ戻りました。
それでもまだ、妻にはなんの変化もありませんでした。その後も、何度か病院を出入りしました。夕
方6時ごろ、妻の陣痛が激しくなり、8時半ごろに麻酔を打ちました。それでもまだ、子宮口が十分
に開いていませんでしたので、もうしばらく待つことになりました。 日付が変わって、19日の午前1時半ごろ、助産婦さんが「そろそろ準備ができたみたいね。」と。
そして、出産の準備が始まりました。いよいよかと思っていた時、「お父さん、奥さんの片足支えて
あげてくれる。」思って見なかった言葉が飛んできました。しかし、病室には他に誰もいませんでし
たので、言われた通り、妻の左足を抱えました。その後、いろいろとありましたが、午前2時50分
に無事出産。私がへその緒を切らせてもらい、産まれたての赤ちゃんが、妻の胸の上で抱かれました。
その時は、幸福感よりもほっとした安心感の方が強かったように思います。その赤ちゃんの顔はどこ
となく3月に亡くなった父の顔に似ているように思いました。 昨年11月、私は、休暇をとって地元の長崎へ帰りました。今となっては、それが父と過ごした最
後の時間となりました。また、その時に、私にとって最後の父の法話も聞くことができました。それ
は、父が幼い子を失った家族に向けて話した法話でした。 「人は、生まれてくる時に4つの約束をして生まれてきます。1つ目は、“命は一つですよ。”だ
れも、二つの命は持っていません。やり直しもできません。2つ目は“あなたは、あなたの命をひと
りでいきるんですよ。”だれもあなたの命を生きてはくれないし、あなたも他の人の命を生きること
はできません。3つ目は、“その命には、終わりがありますよ。”誰も永遠に生きることはできませ
ん。4つ目は、“その終わりはいつくるかわかりませんよ”100年生きるかもしれないし、1 年、
もしくは、1 日で終わるかもしれません。いいですか、その4つの約束わかりましたか、と尋ねられ、
その問いに“はい、わかりました。”と答えて、私たちはオギャーとこの世に生まれてきたのです。」 結也もそれらの約束に「はい、わかりました。」と返事をしてこの世に生まれてきてくれたのでし
ょう。私たちの元に生まれてきてくれたことに感謝感謝です。 出産後、妻はとても疲れていました。助産婦さんが言うには、赤ちゃんも相当な体力を使って生ま
れてきたので疲れているとのことでした。たいして何もしていませんが、私も疲れていたので、一休
みしました。その後、妻の妹にも赤ちゃんを見せたかったので、一旦、家へ帰り、病院へ連れてきま
した。病院の受付でチェックインの記入をしていると、受付の男の人が、私が記入した部屋番号と私
が手首につけていたバンドを見て、赤ちゃんに会いに来たとわかったのでしょう。「おめでとうござ
います。お孫さんですか。」と一言。びっくりしました。確かに、私は老けて見られることが多いで
すが、まさか、‘おじいちゃん’と思われるとは思ってもみませんでした。しかし、冷静に考えてみ
ると、私たち夫婦は、39歳ですので、孫がいることもありえる年なのです。老け顔の私を見て孫に
会いに来たと思っても何の不思議もありません。その受付の男性の言葉を聞いて、改めて、父親にな
ったのだな、これから新しい人生を結也と過ごしていくのだなと感じました。ちょっと遅れてきた新
米お父さん、オールドルーキーパパとしての新たな生活が始まったのです。 9月20日火曜日、妻と結也が退院しました。病院の表玄関に車を回し、結也をベビーシートに乗
せました。しかし、初めてのことで、どうしていいかわからず、手間取りました。病院から家までの
運転は、より慎重になりました。家へ着くと妻の妹が出迎えてくれました。日本の家族へ電話で報告
し、しばらくして、その日は寝ました。次の日の朝、起床後、いつものように仏壇へ向かい、朝のお
勤めをしました。一人でお経を唱えていると、10年ほど前の兄の結婚式の時のことが思い出されま
した。 私の自坊、光源寺は、とても大きなお寺です。その当時は、父がまだ、住職を勤めていましたが、
その数年後には、兄が後を継ぐことになっていました。ですので、お寺の跡取りである兄の結婚とい
うことで、結婚式、披露宴は盛大に行われました。たくさんの方が来られましたので、結婚式、披露
宴は3日間に分けて行われました。1 日目は、家族親戚、2日目は、僧侶の方々など宗教関係者、そ
して、3日目がお寺のメンバーの方々のために式が行われました。3日目のメンバーの方々にきても
らっての披露宴は、大きなホテルで行われ、およそ1000人の方が来られたように思います。みな
さん、大変喜んでくださって、大盛り上がりでした。中でも、父は、お酒を持って各テーブルを回り、
乾杯してはお酒を飲み、と大喜びでした。 その次の日は、日曜日でした。光源寺ではサンデーサービスがいつものように行われました。日本
のお寺でサンデーサービスをしているところは少ないのですが、光源寺では、約45年前からサンデ
ーサービスが行われています。その日は、父、兄、そして私が内陣に座り、100人余りの参拝者の
方々とともにお勤めをしました。その後は、いつもであれば、父の法話となるのですが、その日は、
父が、前日に結婚式を終えたばかりの兄に、白骨の御文章を読むように言いました。白骨章は、死や
世の無常について教えてくれます。ですので、白骨章は、誰かが亡くなった時、お葬式、お通夜、法
事でよく読まれます。しかし、その日は、身内に誰か亡くなったわけでもありませんし、誰かのお葬
式がある日でもありません。結婚式の翌日で、みんな祝福ムードでした。しかし、それでも、父は、
兄に白骨章を読むように言いました。 その日の父の法話を全て覚えているわけではありませんが、父は「めでたい日だからこそ、白骨章
を聞かせていただかないといけないんですよ。」と言っていました。先にも述べたように、白骨章は、
死や世の無常を教えてくれるもので、大切な人を失った時によく読まれます。しかし、白骨章は、
“死”だけを説いているわけではりません。“死”も含めた、“命”の有り様を教えてくれています。
それが無常なのです。死も生も結婚も、どれも私たちの命の一部です。常なるもはない、明日何があ
るかわからないからこそ、今この時が有り難いんです。無常であるからこそ、一瞬一瞬が宝なのです。
水曜日の朝、仏壇に向かって一人でお経をあげました。最後に、白骨章を読みました。新しく生まれ
てきてくれたその命と共にあることができるこの命、この一時一時のありがさが心に沁みてきました。 合掌