石巻宣教ミニストリー報告 ~東北をキリストへ~ KAS サマーチャペルコンサート 7月9日 2015 年9月 VOl.16 石巻宣教ミニストリー 東 桂子(K) 下内 愛子(A) 仲田 志保(S) 今回、パリで献身を決心したときから特別な思いをもって祈ってきた仲田伝道師の働きの場 を訪れることができたのは、嬉しいことでした。震災から 4 年経ち、遠く関西に暮らしている と、震災は遠い過去のようで、思いも祈りも薄れがちでした。しかし KAS コンサートで石巻を 訪ねたことで、今は石巻の暗闇が鮮烈に心にあります。未だ生々しい爪跡が残る町は、確かに 関西からも同じ大地でつながっていると実感します。早い時間から集まって祈り、送迎の車を 出し、場所を整え、一人一人の住民に心を砕いて寄り添っていた兄弟姉妹に、私もつながって いたいと思います。「あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる(申 命記 11:24)」皆さまが踏まれる石巻の地が、大声で主の御名を呼び求めますように。 (K:東桂子) 東日本大震災の時、私はパリにいました。その日から東北の為に祈り始めました。パリ教会 から神学校へ行く為に日本に帰国したばかりの仲田志保姉が仙台にいましたから、東北がとて も身近に感じられました。それからしばらくの間は、会うフランス人みんなから「家族や友達 は無事か?日本のことを思っているよ。」と励まされました。実際の様子も聞かれたのですが、 生の情報がない私は、いつも答えるのに困っていました。私も神戸で被災しているので、こう いうことはそこに行かないと分からないという思いがとても強く、また行ったとしても震災を 経験した者にしか分からないとも思っています。ですから今回東北に行き、実際に石巻で支援 活動をしている皆さんの様子を少し垣間見ることができたのは、私にとって本当に恵みでした。 ずっと祈っていた先に、こうやって実際に被災した人々に仕えていらっしゃる方が沢山いらっ しゃることが、あたかも自分のこれまでの祈りの実のようで、本当に嬉しかったです。これか らも石巻の皆さんのため、またそこに仕えて下さっている皆さんのためにお祈りします。 (A:ウジヤニシヤ・下内愛子) 愛する友と一緒に、愛する石巻で、愛するイエスさまを証しできる恵みをいただき、感謝し ています! 彼女たちは、私の留学先パリでの信仰生活に神さまが与えてくださった、信仰の 友。共に笑い、泣き、祈り、賛美した、温かな交わりの中、主に励まされてついに私が献身を 考え始めると、彼女たちは心からの愛とエールをもって、私のために祈ってくれました。 私が、仙台教会を通して被災地の支援、とりわけ石巻教会にかかわるようになってからは、 彼女たちは特にそのことを覚えて祈っていてくださったと思います。今回も、仮に伝道コンサ ートが叶わなかったとしても、仮設住宅での集会のお手伝いのためにでも、ぜひ被災地を訪ね たい、と言ってくれたほどでした。 -1- そして彼女たち 2 人の思いを、仙台教会の兄姉に伝えると「折角いらっしゃるなら、ぜひ賜 物をささげてください!」と、すぐに準備に取り掛かってくださり、コンサート当日まで大き な犠牲を払ってくださったことを心から感謝しています。 コンサートを通して賛美の中に住まわれる方が、ご真実をもって、集われたお一人おひとり に触れてくださるよう、願っています。(S:仲田志保) -2- 神の民として整えられるために 赤羽 由子 猛烈な暑さが続いた日に、3 月のあのときは、寒さに震えたけれど、このように暑くなかった のはまだよかったと思いました。震災の後、復旧するのにかかった日数は、電力 5 日、水道 10 日、ガス 45 日でした。津波の被害を受けなかった私たちは、寒さや水、食料のことで、不便を かこちはしましたが、住むところは守られ、教会に集まって支援の物を戴き、互いに励まし合 うことが出来ました。そして全国から寄せられた物資を携えて、支援する者として被災地に向 かうことも出来たのでした。 最初の年の夏、人々は、体育館に雑魚寝状態の避難所から、ようやく仮設住宅に移り住んで いました。狭くて暑くて隣の声が筒抜けの仮設住宅は、決して住みよい場所ではありませんが、 仮設に移って一番うれしかったのは、酒を飲めることだったとある男性は言います。避難所で お酒を飲む人は、見なかったとのことです。家族、家、職を失った人々は、我慢に我慢を重ね て、苦難の日々を一つひとつ乗り越えて来なければなりませんでした。 様々な団体のたくさんのボランティアが駆け付け、豪華な炊き出しがあるなど、にぎやかに も見えた仮設の夏の風景は、今年は変わっていました。住民たちが自ら立ち上げて行って来た 夏祭りは、今年が最後になるだろうと言われています。家の再建が成ったり、復興支援住宅に 移り住むなどで、仮設の住人が減っているからです。私たちがお訪ねしている仮設住宅でも、 住む人は三分の一程度になっています。時期は来年秋であったりしますが、多くの方は行き先 が決まっています。 皆が一緒、同じ被災者としてかばい合って来た人々は、ここに至って、それぞれの違いを知 らされています。復興住宅(一戸建て、テラスハウス、大小の集合住宅)の選択は、財力によ りますから、見えてしまうのです。去る人は気を遣って、静かに去るようです。その中で、行 くところがないという方に出会いました。 復興住宅は、収入により賃料が違いますが、かなり安いです。けれども震災時に賃貸に住んで いた方々は入れない、①家が全壊または大規模半壊だった②土地が海に近くて今後は住めない 土地とされた、このどちらかの要件に当てはまる人が対象になっているのです。行政の仕方に 非難すべきところはないのですが、復興住宅より高い賃料の、一般の賃貸住宅に入らなければ ならないのは、厳しいことです。 「仮設がなくなるまで住んでいたら、復興住宅の残ったところ に入れてくれないかしら」と話してくださったこの方は、もうひとつの困りごとを抱えていま した。それは、ある女性が、人が話していると「何をしているのだ」と大声で騒ぎ、怖くてし ようがないというものでした。警察や見廻りをしている行政の人に相談しても、騒いでいる現 場にいなければ、注意は出来ないようです。精神が痛んでいる人なのだろうと思いました。 別の仮設住宅での集会中に訪ねて来た男性は、頬を震わせ、全身に怒りがこもっているように 見えました。聞けば、売れると見込んでいた土地が売れないことになった、その時に言われた 言葉が許せないということでした。土地はあっても収入はない、病気のために働く体力はない、 親戚はいない、独り身のその人は、話す友もいないようでした。2時間あまりも話した後、 「聞 いてくれてありがとうございました」と去って行ったその頬は、まだ震えていました。 石巻では、津波で壊れたまま人が住んでいない家屋が数件、放火されるという事件がありま した。犯人として捕まったのは、早々と家を再建し、一番最初に仮設住宅を出たという人でし た。何があって、放火をする精神状態になったのかと、心が痛みます。また仮設の住人の中で、 家にこもっている人たちがいます。一人でお酒を飲んで、周りの人々が声をかけても応じない -3- のだそうです。一日中テレビを見ている人もいます。加工などの仕事がなくなり、仮設で暮ら すうちに年をとり、体力を失い、すること、出来ることがない状態になって、気がついたらテ レビだけの日々だと語る女性は、復興住宅に移ったばかりの方です。 問題が顕在化しているのでしょうか。様々な事態を知らされたなら、祈るのが私たちの務め です。直面する困難に負けないで生きて欲しいと切に願います。そして、復興住宅に移られた 方々が、ひとまず得た安きを味わい、繁栄と祝福がもたらされますように祈ります。人は混乱 の真っ只中にある時ではなく、静かに、自分の身に起こったことを振り返り、自分を見つめる 時を得てこそ、整えられて、本当に必要なものに気がつくことが出来ると思います。 KAS のコンサートで、仲田師がまっすぐに、「神さまは私たちを愛しておられます」と語り、 集まった方々が素直な表情で聞いておられるのを拝見して、一種の感慨を覚えました。 「神の愛」 を、私たちは、語って来ませんでした。人々が悲嘆と涙、傷口を押さてもなお血が流れている 状態の時に、 「神の愛」は語れませんでした。事実、震災の年に、仙台のミッションスクールで 行われたコンサートで「神の愛」が歌われた時、生徒たちの間に反発の声が上がりました。 「私 のおばあちゃんは津波で亡くなった。それがなぜ神の愛なのか」と。感慨にふけっている時で はなく、「神の時」なのだと思います。もはや「被災者に」ではなく、「人々に」福音を伝える 時、と考えています。私たちは、事柄の後先、前後がわかって進んで来たわけではありません。 様々な支援活動に、どのような意味があり、どんな結果がもたらされるか議論したことはあり ません。ただ、主が導いてくださって、今日なすべきことをさせていただいているという確か な思いを持って、歩んで来たと言えます。エゼキエルに主が食べさせてくださった巻き物は、 蜜のように甘かったとあります。その巻き物には、表にも裏にも、哀歌と、嘆きと、悲しみと が書かれていました。(エゼキエル 2:9~3:3)先に主のものとされた私たち自身が、まず御 言葉を深く味わって整えられ、石巻に住む友人たちの上に、神さまの特別な計らいがあります ようにと祈ります。 (本文内容と写真は関連はありません) -4- -5-
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