哺乳類における性フェロモンとその中枢作用メカニズム 農業生物資源

哺乳類における性フェロモンとその中枢作用メカニズム
農業生物資源研究所 動物科学研究領域 脳神経機能研究ユニット長 岡村裕昭
昆虫に限らず、多くの哺乳類で多彩なフェロモン作用が知られている。例えばマウスでは、
免疫系のタンパク質の一部がアミノ酸数個のペプチドとして尿中に放出され、個体認識のため
のフェロモンとして機能する。また、授乳中の母ブタの乳房周囲から分泌される脂肪酸の一群
は、子ブタの不安を鎮める安寧フェロモンとして作用する。とりわけ雄と雌との間の駆け引き
の場では、パートナーを惹きつけ、その内分泌と行動を調節して交尾のタイミングをはかり、
受胎を確実なものにする手段として性フェロモンは重要な役割を担っている。
マウスを中心とした研究から、フェロモン情報の処理には鋤鼻器・副嗅球・扁桃体・視床下
部から構成される鋤鼻嗅覚系と呼ばれる神経系が関与し、フェロモン受容体候補として匂い受
容体とは全く異なる数種の遺伝子ファミリーが存在することなど、フェロモンの作用機構に関
する多くの基盤的知見が蓄積されつつある。しかし、フェロモンの中枢作用メカニズムについ
てはほとんど何もわかっていない。一方、ヤギやヒツジでは、雄のフェロモンが雌の繁殖機能
を促進する雄効果という現象が知られている。雄効果は、季節外繁殖や発情周期の同期化など
の産業的応用という期待からのみならず、哺乳動物では唯一そのターゲットとなる神経機構が
はっきりしているフェロモン作用であるという学術的見地から、その研究の進展に関心が寄せ
られている。
雄効果フェロモンは、ヤギでは、成熟した雄の頭部や頚部の皮膚にある皮脂腺周囲で、テス
トステロン依存性に産生される揮発性の低分子であることが実験的に示されている。しかし、
まだ、その化学構造の決定には至っていない。現在、雄ヤギの頭部から直接回収した揮発成分
を原材料とし、フェロモン分子の分離精製作業が急ピッチで進められている。これまでに同定
されている哺乳類のフェロモンはすべて行動を誘発するリリーサーフェロモンであり、雄効果
フェロモンのような内分泌を動かすプライマーフェロモンの同定は意義深い。
哺乳動物における生殖制御機構は、視床下部・下垂体・性腺軸である。視床下部で産生され
た性腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)は下垂体門脈中にパルス状に放出され、下垂体に作
用して黄体形成ホルモン(LH)をパルス状に分泌させる。GnRH のパルス状放出を指令する神
経機構を GnRH パルスジェネレーターと呼ぶ。雄効果フェロモンを受容すると、雌の体内では
直ちに LH の間歇的なパルス状分泌が亢進することから、雄効果フェロモンの中枢内のターゲッ
トがこの神経機構であることは明白である。フェロモン情報がパルスジェネレーター伝達され
るとその活動が促進し、パルス状 LH 分泌の亢進が誘起され、それが引き金となって、排卵に向
けて内分泌と卵巣活動の一連のカスケードが動き始めるものと考えられている。
GnRH パルスジェネレーターの概念が提唱されて以来、その存在が生殖機能の統御に不可欠で
あることは多くの研究で実証されてきたが、パルスジェネレーターがどのような神経細胞で構
成され、どのようにして脈動的な活動が生み出されているのか、大きな謎のまま残されてきた。
最近、キスペプチンという神経ペプチドが発見され、生殖統御のマスターキーとして機能して
いることが示されつつある。そこで、中枢へのアプローチ手法が確立しているシバヤギを実験
動物とし、視床下部の弓状核に分布するキスペプチン神経細胞群の活動を Multiple-Unit Activity
(MUA)として計測したところ、非常に規則正しい周期で特徴的な神経活動の上昇(MUA ボレ
ー)があり、そのボレーに一対一に対応して LH がパルス状に分泌されていることがわかった。
さらに、キスペプチン神経細胞には、神経細胞を興奮させる作用を持つニューロキニン B(NKB)
と、逆に興奮を抑制する作用を持つダイノルフィン(Dyn)が共存し、両者の拮抗した相互作用
によりキスペプチン神経細胞群に周期的な神経活動の上昇が生み出されている可能性が示され
た。これらの結果は、キスペプチン神経細胞がパルスジェネレーターの本体であることを強く
示唆している。
記録電極を留置した雌ヤギに雄のフェロモンを嗅がせると、直ちに瞬間的な MUA の上昇が観
察され、その後数十秒たって MUA ボレーが誘起される。おそらく、瞬間的な上昇はキスペプチ
ン神経細胞群へのフェロモン信号の伝達を反映し、信号の伝達により NKB 系が活発となり、や
がてキスペプチン神経細胞群の同期した一斉発火がもたらされているものと推察される。また、
フェロモンによるボレー誘起作用は常に起きるわけではなく、ボレーが起きた後しばらくの間
は、伝達したフェロモン信号に対しキスペプチン神経細胞群は反応せず、ボレーは誘起されな
い。おそらく、この不応のメカニズムには Dyn 系の強力な抑制作用が関与し、絶え間なくフェ
ロモン情報が入力しても、間歇的にキスペプチン神経細胞を発火させ、常にパルス状 LH 分泌と
いう出力を保証するための重要な役割を担っているものと考えられる。
まだ推定の域をでないが、雄効果フェロモンの作用は、キスペプチン神経細胞内の独特のパ
ルス発生の仕組みをうまく利用し、過度の反応を引き起こすことなく生理的な範囲でパルス状
LH 分泌の頻度を高めるもののようである。キスペプチン神経系は哺乳類に共通した生殖調節中
枢であるが、その制御機構の解明に、ヤギのフェロモン作用は基盤となる知見を提供していく
ものと期待される。