第 5 回城南散歩「目黒川を歩く」

第 5 回城南散歩「目黒川を歩く」
記:木村年男 2011.10.15.
城南地域会ではかねてから行われてきました「まち歩き」の内、河川を目的にしたものがこれまでに、多摩
川、呑川、立会川がありました。それぞれに、歴史が綴られた特徴ある街並みを見せてくれました。それら
は私たちに偽りや飾り気のない無言の実像を示してくれていました。
都の南、城南には東京湾にそそぐ 4 本の川に恵まれています。今回、残された最後の目黒川を歩きます。
目黒川は世田谷区の北沢川と烏山川が三宿の東仲橋付近で合流して南東へ流れる川で、呑川、立会川に比べ
大きな流域を持っています。目黒からは山手線、山手通りに挟まれ、東京湾までの流れの脇には新旧住・商
業施設、都心型高層住居、巨大再開発、工場、さらには江戸から残された寺社仏閣や街道等々、と多彩な顔
を見せてくれます。
10 月 15 日(土)13:00、数週間前には北海道で雪の便りも聞いたはずなのに、この日は 25 度を超す夏日で、
水分補給、体調管理に心掛け8Km 先の目的地、北品川橋に向け中目黒駅をスタート。
中目黒周辺は、その上流部分に小さな洒落たレストランなどが並び、グルメ雑誌を賑わせていますが、下流
域にもその延長で、同様の雰囲気の店が点在します。雅叙園付近までは目黒区ですがそこまでの側道は車両
が進入できず、落ち着いた遊歩道となっています。古い建物では背面となって川に面しているものもあり川
の景観の連続面を分断させているところもありますが、全体に良好な環境を作っています。
右岸には目黒区の「川の資料館」
(目黒川舟入場)があり目黒川の全容を説明しています。
舟入場付近
舟入場から中目黒ビル群
舟入場の河床ブロック
多摩川を除く他の 2 つの河川より当然流域が大きく、水害ハザードマップを見ても影響範囲は最も大きい川
です。最近では天然の水源ではなく汚水浄化した水の流れであることを聞いて、描いていた情緒を否応なく
消し去られてしまいました。多くは利根川系の上水を利用した下水処理水ですので、言ってみれば利根川と
同じ水源とも言えない事もありません。また、合流式下水道の排水方法によってゲリラ豪雨時には下水道が
処理しきれず呑みこめず、逆流も生じて洪水災害時には希釈はされていますが、汚水も多く混ざってしまい
ます。これらの事実はこれまであまり公開されてこなかったとのことですが、今ではかなりオープンに語ら
れるようになったとのことです。効率的な合流方式が、自然浸透できず吸収保水のバランスを失った都会の
欠点ともなってしまっています。
以上を資料館でさらに詳しく調べる事も出来ますが、川を介した自然環境も展示されていますので小学生や
近隣住民にはこちらの分野で川に親しんでもらいたいと期待するところです。
川の資料館で時間を取られすぎましたので、予定の目黒不動はパスすることになってしまいましたが、江戸
三大火のひとつである明和 9 年(1772 年)の行人坂火事の火元といわれる大円寺の石仏を拝んで先に進み
ます。
雅叙園までの桜の眺め
大円寺石仏群
五反田までの河岸風景
品川区に入ると先ほどの遊歩道的な景観から一変し、桜並木も途切れ柳が数本固まって植えられたような側
道になります。多少興味も薄れ歩くピッチも早くなりますが、目黒区民センターとそれに付属した公園があ
り、それらが両岸を囲んでいるあたりを歩けば多様な景色を目にすることができます。この付近はほぼ直線
ですので、橋上からは上流下流とも遠景が望め、背後には拠点域の高層建物も望むことができます。
五反田近くになると桜も増えますが、この辺りでは戸建て住宅も無く中層のマンションが並びます。
五反田近辺の河岸
川は東急池上線の鉄橋(大正時代のものから掛替え工事中)を、続いて山手線をくぐりますと大崎の再開発地
域に入ります。大崎地区の再開発は東地区のニューシティー、ゲートシティーから始まりこれに隣接してセ
ントラルタワーへ、さらに西地区にはシンクパークタワー、そして最近超高層でスダレ効果が話題のソニー
ビルがあり、現在計画中の目黒川左岸の開発へとつながります。山手線の駅から望んだ明電舎の切妻の大き
な工場跡が今は記憶の中でしか無く、懐かしくもあります。東から西への再開発とはいっても計画から竣工
までにはかなりの月日が必要となります。そのことを解っていても、大崎駅を中心とした近代建築のわずか
な時間の変化が技術や意匠に影響させた脈絡や流れを、全体に俯瞰し整理しようとしても、答えは見いだせ
ませんでした。もちろん地区毎のコンセプトはその時代を反映させていることでしょうが、建築に注ぐ基本
理念としての普遍の変化を感じさせるものを見つけてみたいと思いますが、歴史が示してくれることになる
のでしょうか。
大崎再開発ビル群
大崎再開発を過ぎたあたりの品川区一帯は、品川宿の栄えとともに、近代化の波に乗って海運と漁業の拠点
としても発展し、その財力を反映してか、思った以上に豪奢なお寺が多いとも言われています。目黒川左岸
を歩く目に寺社のゆったりとした銅板葺きの曲線の連なりが右岸に広がってきます。直線で区切られた現代
の建物のスカイラインを破る混沌とした景色には、一瞬のいら立ちを感じさせます。これらの寺社はそれぞ
れの貴重な歴史に育まれ、独特の地域文化に発展していきます。それが教育の起源であったり、商業、産業、
文化行動の起源であったりしています。それらをのぞき見るだけでも、大いに興味をそそられますが、今回
は時間の都合上、やはりパスさせてもらい、次の機会とさせてもらいました。
いよいよ目黒川河口までは残りわずかとなりましたが、江戸後期に建立された水神、龍神を祀る荏原神社に
立ち寄ることが出来ました。こちらに残る記録や言い伝えを見聞きするにつけ、同様の歴史をもつ近隣の数
多くの寺社が、同時代を栄えさせたエネルギーの象徴となっていたことがわかります。
旧東海道を超え、いよいよ最終目的地、利田神社(鯨塚:くじらづか)に到着です。旧東海道については
08 年 10 月に視察した記録が残っていますのでこちらを参考にしていただければと思います。
現在、目黒川は山手通りに沿ってそのまま東京湾へ注がれていますが、江戸時代には左にクランク型に屈曲
し、海側は洲となっていたとのことです。クランク型の川の名残が入江となっていて、現在も小型の船舶の
出入りを可能にし、近くの右岸には屋形船の発着場も連なっています。洲へ通じる品川橋からは、戦争直後、
昭和、平成の三代にわたる建物が近景から遠景へと折り重なって見る事が出来、地域開発の時代考証の象徴
として多く取り上げられています。
この地点から 100m そこそこの距離ですが坂を 4~5m 登った所に、並行して旧東海道があります。建物の無
い風景を想像すると、海岸沿いに街道を歩んだ江戸時代の旅人の姿が浮かんできます。残念ながら天気はあ
まりパッとしませんでしたが、後々、この土地の風景を描く私の空想の中には、いつも夕陽がトッピングさ
れています。そうあって欲しいという要求なのでしょうか、それとも江戸の人たちの思いの再現でしょうか。
5 時過ぎ、とっぷりと暗くなって、ようやく旧東海道から新馬場駅に向かう道筋の寿司屋で、待望の打ち上
げに辿りつけました。このお店の盛況ぶりにも、旧東海道沿いの商業の活気に感心させたれました。
鯨塚(利田神社)付近
今回は、ひたすら川の両脇を眺めつつのまち歩きでしたが、目黒川は市街地河川の中でも桜並木の側道を中
心に、少しずつではありますが、地域の住民や企業社会に親しまれ、意識しはじめられ、市街地河川の見た
くない、見せたくない、の疎外感が徐々にではありますが、消し去られてきているのではないかと感じさせ
られました。
近年、川を地域住民のために再生する試みが、日本全国様々なところで行われています。川の氾濫による被
害のマイナス面も多くありますが、道路ほどではないにしろ、市街地形成に大きな影響要素になっています。
川筋を人が流れ、集まり、語られるような風景づくりに、時間をかけてでも止まらずに改良が進められれば
と願うばかりです。
以上