GKH020604

天理大学学報 2
0
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4
フランスにおける柔術 と柔道の起源 (2)
細
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二1)
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じ め
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軍隊での柔術
本翻訳 は,Mi
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96,
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'LE JUJUTSU OU LESRACI
NES
DUJUDOENFRANCE"の翻訳である。
デ ポ ネ1)
の提唱 した柔術 が普 及 しは じめた
頃,新 しい訓練の導入 を願 っていた軍人達 は
柔術 に興味 を示 した。「アメ リカ軍 にお け る
柔術 と呼 ばれる 日本式 レス リングの導入」 と
天理 大 学 学 報 第5
4巻 第 3号 に引 き続 き,
9
0
5
年 1月28日,
超 された報告書 による と,1
"
LEJUDO,
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占S"の翻訳
及 び注釈 を連載す る。第 2部 は, フランスの
次 の ような意見 を述べ てい る。「
進 歩 的 な性
軍隊 と警察組織 での発展,柔術 か ら柔道への
格で, 自身 も熱心 なスポー ツ愛好家であるル
は,参謀本部 第二部 に対 して
フルニエ大尉2)
推移,お よびフランスにおける柔道の先駆者
ーズベ ル ト大統領3)
は, 日本式 レス リングの
達 を紹介す ることにす る。
神秘 にふれ てみ たい」 と望 んだ。 (
-)海軍
フランス柔道の歴史 を探 り,今 日まで発展
や陸軍での柔術 の実践的な適用が,将校や兵
しつづけた過程 を明 らか にす ることは,わが
士達の体力増強 に繋が る と考 えた。 さらに大
国をは じめ世界の柔道 の普及 ・発展 を考 える
統領 は,あ る委員会 にウェス トポ イン ト4)に
うえでの指針 ともなろ う。
ある陸軍士官学校や,海軍兵学校のカ リキュ
ラムに柔術 を公式 に導入す るこ とによ り生 じ
1)天理大学体育学部
1.De
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フランスにおける柔術 と柔道の起源 (2)
34
る問題点の調査 を指示 した。 この報告書では,
わ らず, アメ リカでは 日本の柔術 の導入が軍
柔術 の習得 には相 当な時間を要 し, 日本 で も
隊組織で急速 な広が りをみせ ることはなかっ
優秀 な愛好家や専 門家達 しか継続す ることが
た と思 われる。
で きない と結論づ け られ た。 (
-)ゆ えに,
大統領の個 人的な影響力が強か ったに もかか
.
しか し,次第に各国の数多 くの秩序維持 に
あたる公的組織で柔術が必修 となった。
国 名
午
指導者
軍隊/警察
アメリカ
1
9
0
3
山下5)
海軍兵学校
イギリス
フランス
1
9
0
5
1
9
0
5
谷6、
海軍本部 (
ポーツマス)7)
パリ警察
レニ エB
)
ジョアンヴィル軍隊体育学校での柔術
柔術 の訓練 目的は多種多様であった。 フラ
ズ ィ1
)シ大尉ユ
伽は軍隊での優先課題 である取
ンスの軍隊ではフルニエ大尉が柔術導入 に疑
り組み を明確 に述べ てい る。それ には,「原
問 を呈 していた ものの, フランス軍人の体力
則 として, トレーニ ングは継続 し,徐 々に段
・護 身術強化 は急務 であ り,走 る,飛ぶ,汰
階 を踏 まなければな らない。いかなるスポー
ぐ,格 闘す るな ど,複数の技術の習得 を重視
ツも同 じだ。技術の専 門化 は軍人 を育てない。
した。そのため柔術 は一つの護 身術 として位
真 の運動 選手 とは多種 に通 じてい るの だ。
」
置づけ られ, さらに軍人の専 門的 なスポーツ
さらに続 けて,「
兵士 に柔術 の奥義 を極 め さ
と呼 ばれるようになった。1
91
3年 3月,パ リ
せ るつ もりはない。 この格 闘技 は非常 に複雑
で開催 された世界体育学会の際 に, ジ イア ン
であ り,習得 にかな りの年 月 を要す る。 しか
3
5
細川
し,簡単 な攻撃技術や容易 に普及 させ られる
している し,他 に も柔術 の技術 を紹介 した も
ような防禦技術 は数多 くあ る。
」軍隊 におけ
のが存在 したであろ う。柔術 を学 び, また指
る柔術 は,軍人の体力 ・護 身術 の養成訓練 と
導 も行 っていたジ ョアンヴイルの出身者の知
して他 のスポーツと平行 して行 われることが
識が次第 にまとめ られてい った。その中の一
一般的であ り,その活動 はあ ま り目立たなか
人は次 の ように述べ てい る。 「
私 は学校 で柔
ったが,細 々 と続 け られていた。
術 に関す る記録 を見 た事 はない。私の記憶 で
ジ ョアンヴ イル軍隊体育学横川での柔術
は,柔術 はせ いぜい不意 に襲 い掛かる敵 に対
しての護 身術の一つ として我 々に紹介 された
ジ ョアンヴイルにある軍隊体育学校 で も,
だけだった。あ らゆる種類の関節技が,パ ン
当初,柔術が受 け入れ られ皆の関心 を集めた
チやキ ックな ど, さまざまな攻撃や絞技 にた
か とい うとそ うではなかった。 しか しなが ら,
い しての護身術 として教 え られた。軍人 に対
その痕跡 を否定す ることもで きない。当時の
してほんの基本的な技術 の手順 だけを示 した
柔術 の写 真 が絵 葉 書 と して現在 も残 ってお
ものであ った。
」 同 じような印象 はメル シエ
り,2
0世紀初頭 に行 われたデモ ンス トレーシ
大尉1
3
)
や ゴダン陸軍 中尉 14)に よって1
93
2年 に
ョンを想像することがで きる。1
9
0
7
年 7月 7
出版 された 「
個 人ス ポ ー ツ講 義」
1
5
)
の 中で も
日に行 われたジ ョア ンヴイル軍隊体育学校 で
感 じとれる。1
6
項 に構成 され,その内容 は,
の催 しの プログラムに,柔術 の訓練 に関す る
「
受身の習得 ・の どへ の攻撃 ・反撃 ・関節技
ことが記載 されている。 ジ ョアンヴ イル軍隊
体 育 学 校 の教 官 で あ っ た ア ルマ ン大 尉1
2
)
・下腹部攻撃やパ ンチ,キ ック,背部か らの
絞技 に対 しての防禦法等」 である。
は,1
9
0
9年 に柔術 に関す る簡単 な書物 を発刊
軍人 ・憲兵の柔術
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私服警察官
パ リ警察での柔術 に対す る捉 え方 は異 なっ
ていた。1
9
0
5
年11月,パ リ警視総監,ルイ ・
柔術昔官
挙が困難 となっていた。それゆえ,警視総監
は柔術 とい う名で有名な 日本格 闘技 を学 ばせ
ることに した ようだ。 (
-・
) ジ ョア ンヴ イル
軍人体育学校 を終了 し,指導者 となった者の
レビーヌ16)は,私服警 官のために柔術養成訓
中か ら選ばれた警察庁の 6人の刑事が, 5ケ
練 を取入れ るこ とを決 めた。「
パ リでの暴力
月間,柔術の プロの もとで訓練 を受 けた。
」
犯罪 は増 える一一
万であ り,警察官達 は犯人検
この ことは,警察組織の公式 な政策 として
36
フランス における柔術 と柔道の起源 (2)
文書 にも明記 されている上,当時の社会的な
換気 させ る名 に置 き換 え られた。
要請で もあった。柔術 は自転車や潜水の よう
日本 同様,技術 の習得 は社会,地域 によ り
に秩序の維持 に貢献 したのである。 メデ ィア
左右 される。 レニェが訓練 を受 けたロン ドン
は,「自転 車警官,潜水警 官 は もちろん,今
の道場では教官の長である谷幸雄 は天神真楊
後 は柔術警官が出硯 す るだろ う。
」 と誇 ら し
流の柔術家であった。谷の指導 はまだ嘉納治
気 に報 じた。 しば らくの間,僅か なが ら習得
五郎師範の講道館柔道ではな く,大部分 は当
した柔術 を活用す る刑事達の逮捕話が話題 と
身 と関節技であった。
なった。彼等 は, 日本の柔術の優位性が フラ
"
柔術 はスポーツが '
ンスで根付 く上で大 いに貢献 した。 メデ ィア
はこれ らの物語 を数多 く取上げたが,内容的
柔術 が登場 した背景 にはフランスの人々の
にはセ ンセーシ ョナルな技術 の紹介 のみに と
想像力 をか きたてる何 かがあった。い くつ も
どまった ようである。
の要素 を兼ね備 えた柔術,それは神秘 と無敵
日本の柔術 は評価 を受 け,そ して重 ん じら
さが合わ さったイメージであった。実際のス
れ, 1対 1の格闘 を余儀 な くされる警察官の
ポーツ実践での柔術 は存在 していたが,二次
訓練 と して定着 していった。 しか し,警察で
的な もの だ った。「
柔術 はスポー ツか」 この
の関心 は柔術 の技術 の効果のみであ った。い
間題 は1
9
0
6
年 3月 ,「オ リンピック誌」1
8
'
の中
わゆるその技術 とは,犯罪者の検挙 や制圧の
で ピェ-ル ・ド ・クーベ ル タン19)
によって取
ためだけの ものであ った。 アームロ ック (
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上 げ られた。答 えは明確 であった。柔術 は優
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)な ど,英語 に影響 を受 けた呼 び
れた護 身術ではあるが真 のスポーツではないO
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7
)
な ど形 式 を
名 は,「
真剣勝負の硯実 とはかけ離れ (
実際の格闘は
柔術の技
37
細川
紹介 されてい ない),柔術 は儀礼 的,不完全
その ような背景の中で嘉納治五郎 師範 の講
な訓練 にす ぎない。 (
-) フェ ンシ ングや レ
道館柔道が生 まれた。 日本 と異 な りフランス
ス リングにデモ ンス トレーシ ョン (
形) はな
では,柔術 か ら柔道- の移行 は,護身術 を故
い。微香 に制限 されたルールに従い,決め ら
意 に分離 す る こ とで行 われ た。その変化 は
れた時間l
和 こ力 を出 し切 り,手 を績 めること
徐 々に,そ して段 階的 に柔道の論理 に結 びつ
はない (
真 っ向勝負 をす る)
。反対 に柔術 は,
いてい った。 これ らは柔道が フランスで根付
技術 の大部分 を示す に とどめる必要があ り,
いた謎 を解明する糸口である。
また,執謝 な対戦相手 に大 きなダメージを与
えて しまう不安が残 る。
フランスにおける柔道
これ らの批判 は多 く存在 した ようである。
長年 にわたる柔術離 れの後 ,1
9
3
0年代の後
しか し,柔術 の究極 目的はスポーツとして楽
辛,柔術 は大手新 聞社 の新 しい記事 として取
しむことではない。従 って真剣勝負 の実際の
上 げ られた。そのアプローチは以前 とは異 な
格 闘には教育的価値 を見出す ことはで きない。
り,有名 な実践者の名 を強調す る ものであっ
柔道の起源
た。 フランス柔術 クラブはパ リのモ ンタ一二
ュ ・サ ン ト ・ジュヌヴ イエ ー ヴ21
)
地区の中心
マス コミの柔術 に対す るイメージに左右 さ
に設立 され,主 に学生 と教員で構成 された。
れることな く,医師や教育者 は意見 を客観的
1
9
3
7
年,"ル ・ソ ワー ル"誌2
2
)
の読 者 が 目に
に述べ た。彼 らは,基本技術 と危険 な応用技
したのは, ノーベル化学賞受賞者であ り, コ
術 の使用 を区別 しなが ら臆す ることな く態度
レージュ ・ド・フラ ンス2
3
)
の教授 で もあ るフ
を表明 している。そ して,それ らの考 えはた
レデ リック ・ジ ョリオ24)が 白 くて 目の粗 い衣
いへ ん重要 な役割 を果た した。その中の一人,
装 を着て,友人であ る ビクワ-ル2
5
)
教授 を投
91
3年 に次の よう
フランシス ・エ ツケル20)は1
げ飛 ばす姿であ った。記者 は次の ように述べ
に述べ ている。「
柔術 が現在受 けてい るマス
ている。「ジ ョリオ氏 は私 に是非 と も柔術 の
コ ミによる悪評が払拭 され,柔術 の効果的で
すぼ らしさを示 したい とい う。教授 は愛想 良
興味深 い鍛練が人々に波及す ることを希望す
く,上着 をとる ように, また分厚 くて白いマ
る。
」
ッ トが よごれない ように靴 を脱 ぐように勧 め
鍛練 の効果 に注 目する人々にとって,柔術
た。 (
・
-)緩慢 ではあるが,"くず し" によ り
の軌跡 は, ジャーナ リス トによ り伝 え られた
バ ラ ンスを失い,私 はマ ッ トに投 げ出 された。
批判 とは相対す る ものである。身体訓練 とし
それは,全 く痛み を感 じず,天 と地が ひっ く
ての ビジネスは成 り立 たず, またスポーツと
り返 った世界 に,いつ も窓か ら眺めているノ
して も認 め られず,柔術 はマ イナスイメージ
ー トルダム26
)
寺院の鐘楼があった。
」
の広が りとともにその競技 人口は減少 した。
2
0世紀初頭の主だった議論 ,セ ンセーシ ョ
そのため私的なクラブでの実践 はほ とん どさ
ナルで無敵 なイメージは,考察,科学,そ し
れな くなったが,警察や軍隊組織では以前 と
てバ ランスの法則 によ り消 え去 った。柔術 は
変わ らずその存在価値 を示 した。
ただ単 に護身術 としてで はな く,体育や精神
一万 ,2
0世紀前半 には柔術 に対 して一般 的
ス ポ ー ツ と して紹 介 され る よ うにな った。
な イメージが作 られた。 これは柔術 に とって
非常 に重要で影響力のある ものであった。つ
1
9
0
5
年 , 日本軍人が柔術 の有効性 を示 し,そ
0
年後 にフランスを代表す る科学者達が全
の3
ま り,柔術 とは卓越 した ものであ り,神秘的
く違 った優位性 を明確 に した。
で,なおかつ科学的であ り,気高 さと異国情
緒 に満 ちている とい うものであった。
その変わ りように人 々は驚 き,質問が相次
いだ。1
9
3
0年代後 半,柔術 ブームは新 たな局
38
フランスにおける柔術 と柔道の起源 (2)
面 を迎 える。最初の進展 は,柔術 を実践 し,
身 とハー ドな稽古 に嫌気が さ した。結局残 っ
有効 な闘いのための技術 の再構成の提案であ
た生徒 は 日本人だけであった。その中に有名
った。そ して,柔術 は次第に柔道へ と移行 し
な画家の フジタ2
g
'
がい た。石黒は,柔道 の教
ていった。最初 に紹介 された単 なる護身術 と
官 はあ ま り儲かる仕事ではない と考 え新 聞 を
しての柔術 は知的な部分 をさらに豊かな もの
発刊 した。 日本のニュースや広告, またパ リ
とした。各新 聞は,柔道 とは科学的であ り,
の情報 な どを掲載 した "
パ リの一週 間"誌3O-
冷静 さを養い,心 ・体 の向上 を図る ものだ と
を編集,発行,販売 した。
報道 した。第二の特徴 は,規律 に即 した 「
文
)
舞 踏 会 を主 催 す る
プチ イ ・リ ・ブ ラ ン31
化」の創造である。全ての実践者が共有す る
"ラン トランズ ィジャン"3
2
)
の経営 陣は,石
規範 と価値 は東洋の神秘 に包 まれた活動 をよ
黒 にデモ ンス トレー シ ョン開催 を求めた。そ
り神 聖な もの とした。
の慈善特別公演 はパ リのオペ ラ座で行 われた。
柔道が フランスで完全 に根付 いた要因は,
これは社交界の重要 なイベ ン トで フランス大
次 の二つの重要な側面 に基づいている。スポ
統領や政府高官 をは じめ,パ リの各界の名士
ーツ法規 による国家機構 の確立,柔道教官 と
が出席 した。柔道のエキジビシ ョンのプログ
して社会的価値 のある新 しい職業の誕生であ
ラムは独創的に演 出 された。
る。柔道の決定的 な発展 要素,その特徴 は熱
フジタはまだ茶色帯 だったが,彼 の名声 に
心 な個 人の貢献 による ものであったが,その
あった役 を演 じたい と執掬 に主張 した。護 身
責任感 はやる気 に相応 し薄 らぐことはなか っ
術 のテ クニ ックの紹介部分で問題が生 じた。
た。 フランスにおいて,柔術が次第 に柔道へ
フジタは投 げる 「
取」 を演 じたかった。 しか
と移行 していった背景 には,社会,文化,経
し同時 に 「
受」 が攻撃用 に持 っている刀 も使
済的な影響力 を受 け,そこに発展 の要因があ
いたか った。事前の打合せの末,次 の ように
ったo Lか し一方では, これ ら柔道発展 の決
演 出 した。 フジタは刀 を鞘か ら抜 き皆の前 で
定的要素は,以前 に導入が試み られた時 には
それ を振 りか ざ し,そ して石黒 に取戻 させ る
失敗 した原因で もあ ったのである。
前 にスポ ッ トライ トで刀 を燥めかせ た。乱取
1
9
2
0
年代の柔道 :石黒敬七
りの最中に もうーっ予定外 の展 開があった。
二人の柔道家が幅 2メー トル足 らずの橋の上
と呼 ばれた1
9
2
0
年代 のパ リに
狂乱 の歳 月27-
で慎重 にテ クニ ックを披露 していた。 しか し
魅 了 された数名の 日本人柔道家が,体育文化
雰囲気 にの まれ, フジタは石黒 によ り華 々 し
9
2
4
年 ,3年 間
公共施設視察 にや って きた。1
い投技 "巴投 "を掛 けるよう頼 んだ。マ ッ ト
での指導 を終 えた,会 田
の ロン ドン武道会28)
はあ ま りに狭 く, フジタは橋 の外 に放 り投 げ
彦 一四段が欧州旅行の後, フラ ンスにやって
られて しまったが,幸 いに も橋 の出っ張 りに
来た。彼 は嘉納治五郎師範の弟子 で, しば ら
しが みつ きぶ ら下が っ た。観 客 の 「よい し
くの間,スポーテ ィングクラブで柔道 を教 え
ょ」 の掛け声 とともにフジタは助 け上げ られ
ていた。その年の1
2月,彼 は後 に日本で有 名
た。 この逸話 は石黒 にとって忘 れが たい思い
な記者 と作家 となった石黒敬七五段 と出会 っ
出 となった。
た。石黒 は,体験 に基づいた旅行記の本 の中
1
9
3
2
年, フランスでの滞在 に終止符 を打 ち,
で,柔道のため に努力 した旨を詳 しく語 って
彼 はルーマニアに向けて旅立 った。 フランス
いる。彼 はユーモ アを交 え,宿泊 したホテル
に柔道が根付 くためには, まずは文化の違い
の体育館 での柔道の稽古 シー ンを再現 してい
とい う障害 を乗 り越 える必要があった。東洋
る。 フランス人 はその奇妙 さとエキ ゾチ ック
と西洋,互 いの文化 に通 じ,経験のある人々
さに引 き付 け られたが, しか し,痛そ うな受
の努力 ・貢献 によ り,やがて フランスに柔道
39
細川
人のため に住宅や ビルを建設す る。数多 くい
が広 く普及 していったのである。
る 「イスラエルの建設者」の一人であ った。
体力的にも優れ, また非常 に聡明であ った。
普通であれば 5年の教育課程 を彼 は 2年で終
えた。彼 の高校 の校長 は物理学 を勉強 しにパ
リに行 っては どうか と助言 した。たい したコ
ネもな く,友人の一人である教授が掲載 され
た小 さ な 新 聞 記 事 を 推 薦 状 代 わ り に し
9
2
0年終 わ りに, フェルデ ンクライスは
て,1
パ リへ と旅立 った。到着か ら間 もな く,彼 は,
買
パ リの土木専門学校
(
ES
TP35)) が設置 した研
究所で, ノーベル賞受賞者の フレデ リック ・
ジ ヨリオのアシス タン トとなった。後 に, フ
ェルデ ンクライスは磁気学 と超音波の検出に
ついて, ランジュヴ ァン3
6
)
教授 の仕事 に協 力
した。彼 の人柄 も手伝 ったが,特 に上司であ
8
)
の
る レオ ン ・エ イロル37や その息子 マル ク3
S
TPか ら物心両面 の援助 を
仲立 ちによ り,E
9
2
9年,学内に柔術道場 を開設 した。
うけ,1
その道場 は E
S
TPや ソルボ ンヌ39)
大学の学生
石黒敬モ
モシ工 ・フェルデ ンクライス3
3
)
フランスにおける柔道の先駆者,モ シェ ・
で賑 わった。
フランスの柔術 クラブは1
9
3
6年 9月,嘉納
治五郎師範の最後 の欧州旅行 の際 に正式 に発
フェルデ ンクライスはロシア出身のユ ダヤ人
足 した。嘉納治五郎師範, フレデ リック ・ジ
で1
9
0
4年 に生 まれた。1
9
1
7
年の ロシア革命直
ョリオ教授 とレオ ン ・エ イロルによって名誉
4歳でパ レスチナに渡 った。 この時期 に
後 に1
委員会が構成 されたo会長 にシャルル ・フア
イギ リス政府 は,「
パ レスチ ナ にユ ダヤ人国
社 長,
ル ウ "ラ ・ヴ イ ・オー トモー ビル"誌40'
家の建設 に同意」 したパル フォア3
4
)
宣言 を出
二名 の副会長 には E
TP 41)
の技 師で あ るモ シ
した。数年間, フェルデ ンクライスはユ ダヤ
ェ ・フェルデ ンクライス,理学博士のポール
了
キ
フェルデンクライスと生徒
∴
嘉納師範とフェルデンクライス
40
フランス における柔術 と柔道の起源 (2)
・ボネー
モJ
,事務局長 には E
TPの技 師
)42
のマルク ・エ イロルが就任 した。
柔道創始者パ リ訪問
モ シェ ・フェルデ ンクライスは次 の ように
語 っている。「
『
1
9
3
3年』私 はパ リの ラジウム
関する著作 には嘉納氏 と同様 に普遍性, ヒュ
一
一マニズムの考 えが認め られる。お互いを尊
敬 しあう関係 は,二人の繋が りをより深い も
の とし,嘉納氏 はこの ことを自伝 の中で もふ
れている。
フェルデ ンクライスはフランスですでに教
研究所 にお り,オー ト誌4
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とも関係があ った。
えられている柔術 に新 たな道筋 を示 した。短
そのオー ト誌 には シャルル ・77ル ウとい う
い期 間であったが,彼 の活動 は,分析 と考察
秀才がいた。理工科学校 を首席で卒業 し, ど
をもとに,有効 な護 身術 としか位置付 け られ
リヤー ドの世界チ ャンピオンで もあ った。彼
ていなかった状況か ら柔術 を解放 したのであ
は私 に期待 を していた ようであ り,私がヘブ
る。 また同時 に, フェルデ ンクライスは擁護
ライ語で柔術 に関す る本 を書いた事 を知 って
者 としての役割 を担い,柔術 の意味 を説明 し
いた。そ して,嘉納治五郎師範 とい う人が 日
動作の原理 を明 らか に したのだ。彼 は物理 と
本大便 と文部大 臣の面前でデモ ンス トレー シ
身体 に関す る知識 を基 に攻撃 と反撃動作 を形
ョンを実施することを知 らせて くれた。(
-)
式化 した。防禦 テ クニ ックを科学的根拠で説
日本大使 は非常 に大 きくて強そ うな人だった
明 した。そのアプローチの独創性 は,動作 の
が,嘉納治五郎師範 はほん とうに小 さ くて き
原理 を考 え, よ り簡単 に, よ り素早い動 きを
ゃ しゃだった。嘉納氏が立 ち上が る と大便 も
効果的 に結 び付 けることに細心の努力 を した
立 ち上が り,嘉納氏 よ り先 には座 らなかった。
ことにある。1
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0年代前半,彼 の分か りやす
私は どちらが よ りす ぐれているのかわか らな
く説得力のある理論 は,彼 を取 り巻 くパ リの
かった。 (
-)デモ ンス トレー シ ョンはほん
知識人達 を柔道の世界 に導いた。 フェルデ ン
とうに見事 だった。デモ ンス トレーシ ョンが
クライスは改革者であ った。その指導法 はた
終わると,私が 自分の著書 をプ レゼ ン トした
だ単 に警察や軍隊の実用的 な柔術 とい う今 ま
ある 日本 人が私 を探 しにやって きて,嘉納氏
でのアプローチ方法 とは完全 に一線 を画 した。
が会いたが っている と言 ったQ私 は感動 した。
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本大便 は私 をロールス ロイス に乗せ,床 に
スポーツ と大学
畳が敷いてあるホテルの大広 間まで連 れて行
フェルデ ンクライスの主導 によ り設立 され
った。嘉納氏 はフランス語,英語 と ドイツ語
た道場の成功 と,道場 に対す る好意的 な反響
を話 し大変 な教 養人 だった。 (
-)彼 は私 の
は,地理的 な条件 や人々のスポーツに対 して
本 に,彼がみたこともない技が紹介 されてい
の考 え方の変化等が影響 している。道場 は,
ることに非常 に驚いた。いわば私のオ リジナ
コレージュ ・ト フランス, ラジウム研 究所,
ルだ と伝 えた。嘉納氏 は私のテ クニ ックを講
ソルボ ンヌ大学,そ して高等専 門大学近 くの
道館のプログラムに組み入れて 自筆でその証
テナール4
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通 りに位置 していた。一方,知識
明書 を送付 して くれた。
」
人や科学者達 は,当時,身体運動 の大切 さを
この二人の出会いはフランス柔道史 におい
認 めていた。教育 には文武両道が求め られて
て重要 な出来事 となったO嘉納氏 によって与
いる。 フレデ リック ・ジ ョリオは研究活動 に
えられた名声 と柔道 に関す るすぼ ら しい概念
情熱 を傾 けなが ら, またテニス,スキー,そ
によ り,フェルデ ンクライスは柔道 を広 める
して柔術 を愛好 し,知識人 として模範的存在
ことに生涯 をかけるこ とになる。 フェルデ ン
であった。高等教育機関でのスポーツクラブ
クライスは,彼 もまた非凡な人格者 であった。
の創立,そ して1
9
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4年の大学 スポーツ局の設
後 に彼 が残 した身体 の リハ ビリテーシ ョンに
立は,スポーツに対す る一般的 な広が りを意
41
細川
味 する。マ ーク ・エ イロルは,それ に積極的
闘方法 の様式化 ・スポー ツに魅 了 された大学
に参加 した。
関係者 ・運営費が保証 された受入体制 な ど,
フランス における柔道定着 の成功 は,数多
くの好都合 な条件 が重 なった ことにある。格
釈
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柔術 と柔道の起源 (1)天理大学学報第
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4巻第 3号参照
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にある軍用 地。陸軍士官学校 が ある。
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せ た要田 なのである。
杉村 大便
ポール ・ボネ-モーリ
注
これ らが 日本柔道 の活動 を可能 に し,定着 さ
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9) オノ 不 明 ;アメ リカで活躍 した大野秋
太 郎 と思われ る。
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よ り経 済再建,安全保障 を実硯 o アメ リ
カ文化 も大量流入 し,世界恐慌 までの間,
つかの間の繁栄 を迎 える。
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フラ ンスにおける柔術 と柔道の起源 (2)
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史 とポ ー ル ・ボ ネー
モ ー リ氏 の 存 在 」
天理大学学報第4
6
巻第 3号参照
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