ミラノ司牧訪問・小時課祭儀の説教

ミラノ司牧訪問・小時課祭儀の説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
ミラノ大司教区司牧訪問と第 7 回世界家族大会
(2012 年 6 月 1-3 日)
司祭・神学生・被聖別奉献者との小時課祭儀の説教
ミラノのドゥオモ
2012 年 6 月 2 日土曜日
教皇として初めてのミラノ司牧訪問中のベネディクト 16 世は、ミラノ大司教区の司祭・神学生・被聖別奉
献者とミラノの司教座聖堂であるドゥオモで3時課祭儀を司式された。説教の中で、パパ様は各々の身分
で神に仕える心構え、特に司祭独身制と被聖別奉献者の処女性の意義を強調される。祭儀後、ドゥオモの
地下に眠る聖カルロ・ボロメオの遺体を崇敬され、聖人に祈られた。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん!
私達は今、祈りの内に専心し、3時課 のアンブロジウス賛歌の招きに応えようとしています。
『3時の時である。イエス・キリストは罵られながら十字架に登られた』とあります。それは、
御父のみ旨に従うイエスの愛に満ちた従順を指しているのが明らかな言及です。過越しの神秘は
新しい時の始まりをもたらしました。つまり、キリストの死と復活は人性の無邪気さを再創造し、
そこに喜びを溢れ出させたのです。実際、賛歌はこう続きます、『ここからキリストの救いの時
代が始まる- Hinc iam beata tempora coepere Christi gratia -』
。私達はカテドラル・バジリ
カに、真にミラノの心臓であるドゥオモの中に集っています。ここから思いは広大なアンブロジ
ウス大司教区に広がっていきます。この大司教区は幾世紀もの間、近代においても、その生活の
聖性と役務において名高い、聖アンブロジウスや聖カルロ、それに、ピウス 11 世や神のしもべ
パウロ 6 世などの月並みならぬ教皇、それと福者アンドレア・カルロ・フェラーリやアルフレ
ド・イルデフォンソ・シュンスター両枢機卿のような人々を教会に輩出してきました。
ミラノ司牧訪問・小時課祭儀の説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
私は、わずかな時間ですが皆さんとご一緒できるのをとても嬉しく思っています。愛情に満ちた
思いを込めて、皆さん全員お一人おひとりにご挨拶申し上げながら、この挨拶が特に病気や非常
に高齢の方々にまで届いてくれるようにと願っています。真心込めてご挨拶致しますのは、皆さ
んの大司教アンジェロ・スコーラ枢機卿に対してであり、その優しいお言葉に感謝申し上げます。
皆さんの名誉退職された牧者の方々、カルロ・マリア・マルティーニとディオニジ・テッタマン
ツィ両枢機卿に、また、ご列席のその他の枢機卿方と司教方に愛情込めてご挨拶申し上げます。
この瞬間に、私達が生きているのは、その最も崇高な表現における、典礼の祈りという表現にお
ける教会の神秘です。私達の唇、私達の心と精神は、教会の祈りにおいて、自らを人類全体の必
要と切望 anelito の代弁者とします。詩編 118 番の言葉によって、私達は主に全ての人々を代表
して嘆願したのです。
『どうか私の心を撓めて、あなたの教えに向かわせてください…私の所に、
主よ、あなたの恩寵が来てくれますように』。時課の典礼の日々の祈りは、教会の叙階された役
務者の本質的な任務を成します。聖務を通じても、エウカリスチアの中心的神秘を一日に行き渡
らせる聖務を通しても、司祭達は特別な様式で、時間の中で生きて働いておられる主イエスにひ
とつに結ばれているのです。司祭職、それは何と貴重な賜物でしょうか!司祭職を受けるために
準備しておられる親愛なる神学生諸君はどうか、もう今からこの賜物を味わうように教わり、神
学校における貴重な時を真剣に責任をもって過ごしてください。モンティーニ大司教は、1958
年の叙階式の際、まさにこのドゥオモでこう述べられました、
『司祭としての生活が始まる、そ
れは、一編のポエム、一本のドラマ、ひとつの新しい神秘…常しえの黙想の泉…常なる発見と驚
嘆の対象、(司祭職とは)‐と述べながら-司祭職に愛に満ちた思いを捧げる者にとって常なる
新しさであり美しさであり…私達の内での神の業の認識です』
(1958 年 6 月 21 日 46 司祭の叙
階式のための説教)。
もし キリストが、ご自分の教会を築き上げるために、ご自分を司祭の手に委ねるなら、司祭は
司祭の側で彼に信頼して保留条件なしに自分を託さなければなりません。つまり、主イエスに対
する愛が司祭という役務の魂であり道理な
のであり、それは、彼がペトロにご自分の
群れを牧する使命を任せるために前もって
告げられた通りです。
『シモン…、私をこの
人たちよりも愛していますか?…私の子羊
達を牧しなさい(ヨハネ 21,15)』。第2ヴ
ァチカン公会議は、キリストは『常に司祭
達の生活の一致の原理であり源泉であり続
ける。そこに到達するために、彼らはそれ
故、御父のみ旨の発見において、彼らに信
ミラノ司牧訪問・小時課祭儀の説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
頼して託された群れのための自己譲与において、キリストに自らを一致させねばならないであろ
う。このように、善き牧者を代表することで、司牧的愛徳の実践そのものにおいて、彼らの生活
と活動における一致を実現する司祭的完全さの絆を見出すであろう』
(教令 Presbyterorum Ordinis,
14)という事を記述しました。まさにこの問題に関して表現されています。つまり、様々に異な
る用事や仕事において、次から次へと忙しない状況で、どのように生活の一致を、司祭である事
の一致をまさにイエスとの奥深い友情という、彼と内的に一緒にいるというこの源泉から見出す
かです。司祭の人格のための善と彼の使命の間に対立はありません。むしろ、司牧的愛徳は、祈
りにおけるキリストとのますます親密な関係から始まる人生を統一させる要素であり、その要素
は群れのために自分達自身の全面的譲与を生きるためのものであって、それは、民が神との交わ
りと一致において成長し、至聖三位一体の交わりと一致の顕示となるためです。あらゆる私達の
活動は、主との結合へと信徒達を導き入れ、そのようにして世界の救いのために教会の交わりと
一致を成長させることを目標としています。神との個人的結合、教会の善、人類全体における善、
この3つの事は区別できませんし対立もしていません。それどころか、実際に生き抜かれた信仰
のひとつのシンフォニーなのです。
この司牧的愛徳と分かたれないひとつの心の輝くような印が司祭独身制であり、聖別奉献された
処女性です。私達は、聖アンブロジウスの賛歌の中で、『貴女の内で神の御子がお生まれになる
なら、罪咎のない生活を守りなさい』と歌いました。
『キリストを迎え入れてください- Christum
suscipere』とは、ミラノの聖なる司教の説教の中にたびたび登場する主題であり、彼の聖ルカ
に関するコメントの一節を引用してみると、『自分の家の内奥にキリストを迎え入れる人は、最
も大いなる喜びの数々で飽かされる』
(Expos. Evangelii sec. Lucam, V, 16)とあります。主イエス
は、彼を魅了した大きな魅力であり、彼の省察と説教の主要な題目でしたし、何よりも生き生き
として信頼し切った愛の終着点でした。疑いなしに、イエスに対する愛は、全てのキリスト者に
とって価値のあるものですが、独身司祭にとって、また、被聖別奉献生活への召命に応えた人に
とっては、特別の意義を有します。つまり、キリストにおいてのみ常に、神のみ旨への「はい」
を日々くりかえすための起源とモデルを見出します。
『どのような縁でキリストは縛られていた
のか?』 – 聖アンブロジウスは自問していました。彼は驚くべき熱烈さをもって教会の中に処
女性を説教しつつ培養しながら、女性の尊厳をも拡充するように図りました。引用した質問に答
えて、
『縄ひもの結び目によってではなく、愛の諸々の絆によって、そして、魂の愛情によって』
(De virginitate, 13, 77)と述べています。まさにおとめたちへの有名な訓話の中で彼はこう述べ
ました、
『キリストは私達にとって全てです。あなたの傷を治したと願うなら、彼は医者であり、
あなたが焼けつくような熱で苦しんでいるなら、彼は泉であり、あなたが過失に抑圧されている
なら、彼は正義であり、あなたが助けを必要としているなら、彼は権力であり、あなたが死を恐
れているなら、彼は命であり、あなたが楽園を願い求めているなら、彼は通り道であり、あなた
が闇を避けて逃げるなら、彼は光であり、あなたが食物を探し求めているなら、彼は滋養物です』
(同上, 16, 99)。
ミラノ司牧訪問・小時課祭儀の説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
親愛なる聖別奉献された兄弟姉妹の皆さん、あなたがたの証に感謝しています。そして、皆さん
には神の忠実さを頼りにしながら、信頼をもって未来を見つめてほしいと奨励します。神の忠実
さが欠けることは決してありませんし、私達の内でも私達と共にも、新しい不思議な業を行うこ
とが出来る神の恩寵の力も欠けることはありません。この土曜日の詩編の先唱句は、おとめマリ
アの神秘を観想するように私達を導きます。彼女の内に私達は、実際、『キリストなる主がご自
身のために自ら選び、彼のおとめなる御母が抱きしめた貧しく童貞の生活の典型』( Lumen
gentium, 46)、神のみ旨への完全な従順の内に生きる生活を認識する事が出来ます。
再び賛歌は私達に、十字架上のイエスの言葉を思い起こさせます。
『彼の処刑台の栄光から、イ
エスはおとめに話しかけられる。「さあ、あなたの息子ですよ、おお婦人よ」、「ヨハネ、さあ、
あなたの母ですよ」』
。キリストの御母マリアは私達の内にも彼女の神聖な母性を広げ、延長して
くださいます。それは、みことばと諸秘跡の役務、多様な形態における観想生活と使徒的活動が、
倦むことなく勇気をもって、神に仕える奉仕と神の教会の構築のために堅忍するためです。
この瞬間、私にとって大切な事、それは、アンブロジウスの司祭達、福音に仕える奉仕にそのエ
ネルギーを費やし、時に命の至高なる犠牲に至るまでに至った修道士・修道女達の集団のために
神に感謝を捧げることです。彼らの中には、近代においても信徒達の礼拝と倣うべき模範のため
に提示された方々がいました。
ルイジ・タラモーニ Luigi Talamoni、ルイジ・ビラーギ Luigi Biraghi、
ルイジ・モンツァ Luigi Monza、カルロ・ニョッキ Carlo Gnocchi、セラフィノ・モラッツォーネ
Serafino Morazzone ら福者司祭達、ジョヴァンニ・マッツコーニ Giovanni Mazzucconi、ルイジ・
モンティ Luigi Monti とクレメンテ・ヴィスマーラ Clemente Vismara ら福者修道士達、それに、
マリア・アンナ・サーラ Maria Anna Sala とエンリ
ケッタ・アルフィエリ Enrichetta Alfieri 福者修道
女達です。彼ら共通の執成しの祈りによって、あ
らゆる賜物の与え主なる御方に信頼をもって祈
りましょう、司祭達の役務を常に実り豊かなもの
としてくださいますように、世界にキリストと教
会への自己譲与の美を示すために、被聖別奉献者
達の証を強化してくださいますように、そして、
神のご計画に従ってキリスト者の家庭を刷新し、恩寵の聖性の場、司祭と奉献生活への召命を生
み出す肥沃な土地としてくださいますように。アーメン。
原文© Copyright 2005-2012 – Libreria Editrice Vaticana
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