2012年5月13日 中止されたラ・ヴェルナ訪問のために用意されていた講話

中止されたラ・ヴェルナ訪問のための講話原稿
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
アレッツォ、ラ・ヴェルナ、サン・セポールクロ司牧訪問
ラ・ヴェルナでの聖父ベネディクト 16 世の講話
2012 年 5 月 13 日日曜日
ベネディクト 16 世聖下の初のトスカーナ州司牧訪問では、午前中のアレッツォに次いて、午後にラ・ヴェ
ルナ山訪問が予定されており、フランシスコ会総長をはじめとするトスカーナ管区のフランシスコ会士と
クララ会女がパパ様の来訪を待ち受けていたが、悪天候のために中止となった。ラ・ヴェルナは、アシジ
の聖フランシスコが聖痕を受けた聖地である。パパ様が準備されていた講話は以下の通り。
親愛なる小さき兄弟の皆さん、
聖なる母クララの親愛なる娘達の皆さん、
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
主があなたがたに平和をお与えくださいますように!
Contemplare la Croce di Cristo! キリストの十字架を観想すること!私達は、そこで聖フラン
シスコが「彼の死の2年前に」
(チェラノ第1伝記 III, 94: FF, 484)キリストの栄光に満ちたご
受難の傷をその身体に刻まれたラ・ヴェルナのサッソ・スピッコ(「突き出した岩」の意味)の
所に巡礼者として登って参りました。彼の弟子としての歩みは、至高なる十字架の愛の行為の外
的な印をも分かち合うほどに奥深い主との結合へと、彼を至らしめました。サン・ダミアーノで、
精神と心によって観想された十字架に付けられた御方の前で始まった歩みです。持続的な十字架
の黙想は、この聖なる場所において、多くのキリスト者にとっての聖化の手段であり、8世紀の
間、彼らはここに膝まづいて、静けさの内に、深い内省の内に、祈ってきました。
キリストの栄光に満ちた十字架は、世界中の苦しみを担っていますが、しかし、それは何よりも
触れて感じ取ることの出来る愛の印、人に対する神の善意の物差しです。この場所において、私
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ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
達も招かれています、生活の超自然的次元を取り戻すようにと、偶発的な物事から目を上げるよ
うにと。それは、主にもう一度自分を完全に委ねるように戻るためであり、自由な心で、そして、
完全な喜びの内に、十字架に付けられた御方を観想しながら、彼がご自分の愛で私達を傷つけて
くださるためにです。
«Altissimu, onnipotente, bon Signore, Tue so’ le laude, la gloria e l’honore et omne
benedictione いと高き、全能の、善き主よ、あなただけのものです、賛美も栄光も栄誉も、そ
して、あらゆる祝福も» (兄弟なる太陽の歌: FF, 263)。ひとえに私達を神の愛の光に照らして頂
いてのみ、人と自然全体は購われて自由になることが出来るのであり、美はようやく、月が太陽
を反射するように、キリストの顔の輝きを反射することが出来るのです。栄光に輝く十字架から
迸り出ながら、十字架に付けられた御方の御血は、私達の内にいるアダムの乾いた骨を生きたも
のとしてくださり、それは各々が聖性に向かって歩き出す喜び、高きに向かって、神に向かって
登る喜びを改めて見出すためなのです。この祝された場所から、私は自分を、地上の全てのフラ
ンシスコ会士とフランシスコ会女の祈りとひとつに結びます。『私達はあなたを賛美します、お
おキリストよ、そして、あなたをここと世界中にある全ての教会の中で祝福します。なぜなら、
あなたの聖なる十字架によって、あなたは世界を贖ってくださったからです』。
Rapiti dall’amore di Cristo! キリストの愛に奪われて! ラ・ヴェルナには、聖フランシスコの
アブソルベアトの祈りに導いてもらわずには、登れません。その祈りはこう唱えています、『奪
い去ってくれますように、おお主よ、あなたにお願いします、あなたの愛の熱情と甘美さが、私
の精神を天の下にある全ての物事から、奪い去ってくれますように。それは、ちょうどあなたが
私の愛への愛のために恐れ多くも死んでくださったように、私があなたの愛への愛のために死ぬ
ためです』(“absorbeat”の祈り, 1: FF, 277)。十字架に付けられた御方の観想は精神の業です
が、援助がなければ、愛の強い力がなければ、天高く自分を自由に解放できません。この同じ場
所で、聖フランシスコの傑出した息子であるバノレジョのフラ・ボナヴェントゥラは、彼の
Itinerarium mentis in Deum -神に向かう精神の道程-を構想しながら、神と出会える頂上に
向かって進むために辿るべき道を私達に示してくれました。この偉大な教会博士は彼自身の経験
を伝えながら、私達を祈りへと招きます。何よりもまず、精神は主のご受難へと向かっていなけ
ればなりません。なぜなら、私達の罪を消し去ってくれるのは十字架の生贄だからであり、ただ
神によってのみ埋め合わせの出来る欠陥であって、彼が『読者に勧めるのは、何よりもまず、そ
の血が私達の過ちの染みを洗い落としてくれる十字架に付けられたキリストに対する祈りの呻
きを立てる事です』(Itinerarium mentis in Deum, Prol. 4)。しかし、効果があるためには、私達の念
祷は涙を、即ち、内的係りを、神の愛に応える私達の愛を必要としています。それに次いで必要
なのは、あの admiratio-感嘆, それをボナヴェントゥラは、キリストの救いのみ業を前に驚嘆
する能力のある福音の謙遜な人々の内に見抜いています。そして、まさに謙遜こそ、あらゆる徳
の門なのです。実際、神に到達するのが可能となるのは、自分自身の内に閉ざされた探求の知的
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ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
傲慢によってではなくて、謙遜によってであり、それは聖ボナヴェントゥラの有名の表現によれ
ば、
『人は、塗油なしの読書、篤い信心なしの思索、憧憬なしの探求、歓喜なしの考察、敬虔な
信仰心さなしの才覚、真愛なしの学識、謙遜な知性、神の恩寵なしの研究、神によって霊的な促
しを受けた知恵なしの鏡で充分であると、信じてはならない』
(同上)という事です。
十字架に付けられた御方の観想には、並外れた素晴らしい効果があります。なぜなら、考えられ
た物事の序列から、実際に生きた体験へと、希望された救いから、幸いな祖国へと、私達を移動
させてくれるからです。聖ボナヴェントゥラは言明します。『(十字架に付けられた方を)注意深
く見つめる者は…彼と共に過ぎ越しを、つまり、移動を成し遂げます』
(同上 VII, 2)。これがラ・
ヴェルナの、アシジのポヴェレッロ(訳注:アシジの小さな貧しい男
の意味でフランシスコの別称)が為した経験の心髄です。この聖なる
山において、聖フランシスコが自分自身の内で生きたの は、
sequela, imitatio e conformatio Christi -キリストに従う事、倣
う事、そして、一致同化する事-の相互の深遠な一致でした。この
ように彼が私達にも教えてくれるのは、自分がキリスト者だと表明
するだけでは足りないし、善の様々な行いを果たすように努めるだ
けでも足りない、という事です。必要なのは、イエスに自らを一致
同化させること、主のイメージに沿った自分の存在の変容という、
ゆっくりとした漸進的な真摯な務めによってであり、それは、神の
恩寵によって、教会という彼の全き体のあらゆる構成員が、主キリ
ストなる頭との必然的な相似を見せるに至るためです。ですから、
この歩みにおいても出発すべきは、-偉大なアウグスティヌスを基
に中世の先生方が私達に教えてくださるように-、自分自身につい
ての知識から、自分の内奥を誠実に見つめる謙遜からなのです。
Portare l’amore di Cristo! キリストの愛をもたらすこと!どんなに大勢の巡礼者達が、十字架
に付けられた神の全き愛なる御方を観想し、自らを彼によって奪われるがままにしようとして、
この聖なる山に登ってきたことでしょうか!どんなに大勢の巡礼者達が、神を探し求めて登って
きたことでしょうか!神こそは、教会がそのために存在する真の理由であり、それはつまり、神
と人の間にかかる橋となるという事です。そして、人々は、聖フランシスコの息子達・娘達よ、
あなたがたにもここで出会うのです。どうか常に覚えていらしてください、聖別奉献生活は、言
葉と福音的勧告に従った生活の模範によって、歴史を貫く人類と神の間の魅惑的な愛の物語を証
するという具体的な任務があるという事を。
中世のフランシスコ会士は、あなたがたのアレッツォの教会に消し難い印を残しました。アシジ
のボヴェレッロの再三再四の去来とあなたがたの領地での彼の逗留は、貴重な宝物です。唯一無
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ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
二にして根本的に重要なのはラ・ヴェルナの事件であり、それは、熾天使的な父フランシスコの
身体に刻まれた聖痕の特異性のためであり、また、彼の兄弟達とあなたがたの民の集団として共
有する歴史のためでもあり、あなたがたは今でもサッソ・スピッコで信徒の生活におけるキリス
トの中心性を再発見します。モンタウト・ディ・アンギアーリ、レ・チェッレ・ディ・コルトー
ナ、そして、モンテカザーレとチェルバイヨーロの隠遁所(訳注:アレッツォ周辺の有名なフラン
シスコ会関連隠遁所や黙想の家)、他にもトスカーナのフランシスカニズムのそれほど有名はでな
い数々の場所も、アレッツォ、コルトーナ、そして、サン・セポールクロの共同体のアイデンテ
ィティーをはっきりと示しています。
たくさんの光がこれらの土地を照らしてきました。コルトーナの聖マルゲリータのように、あま
り知られていないフランシスコ会の痛悔者ですが、十字架に付けられた御方の観想と人々に対す
る真愛をひとつに結びつけながら、自分自身の内でアシジのボヴェレッロのカリスマを並外れた
活力で生き直す事が出来たような人物が照らしてきたのです。神の愛と隣人愛は、あなたがたの
教会共同体におけるフランシスコ会の貴重な事業活動に命の力を与えています。福音的勧告の誓
願は、キリストの真愛を生きるための王道です。この祝福された場所で、私は主にご自分の葡萄
畑の働き手を贈り続けて下さるように願い、特に若者に対して、神に呼ばれている人が寛大に応
えてくれるように、自分を聖別奉献生活において、また、役務者としての司祭職において、与え
尽くしてくださるようにと火急の誘いをかけます。
私は、ペトロの後継者として、ラ・ヴェルナに巡礼しに参りました。そして、私は、私達が皆そ
れぞれにイエスのペトロへの質問を改
めて聞き直すようにと願っています。
『ヨハネの息子、シモンよ、私をこの
人々よりも愛していますか?…私の子
羊たちを牧しなさい』
(ヨハネ 21,15)。
牧者の生活の基盤にあると同様に被聖
別奉献者の生活の基盤にあるのは、キ
リストに対する愛であり、それは責任
ある務めにも困苦にも恐れを抱かない
愛です。どうか、この愛を私達の時代
の人間に、しばしば自己の個人主義の内に閉ざされている人間にもたらし、神の途方もない憐れ
みの印でいらしてください。司祭としての敬虔な信仰心は、祝っている事を生きるようにと、出
会う人のために自分の命を割く事(訳注:パンを「割く」と同じ言葉が用いられている)を司祭に教
えてくれるのであり、それはつまり、痛みの分かち合いにおいて、様々な問題に対する注意にお
いて、信仰の歩みに寄り添っていくことにおいてなのです。
中止されたラ・ヴェルナ訪問のための講話原稿
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
総長ホセ・カルバヨのお言葉に対し、フランシスカン・ファミリー全体に対し、そして、皆さん
全員に対して、ありがとうございます。どうか、あなたがたの聖なる父のように、キリストに倣
い従う事の内に堅忍なさってください。それは、あなたがたに出会う人が聖フランシスコに出会
い、聖フランシスコに出会いながら主に出会うためです。
*FF:Fonti Francescani フランシスコ会公式源泉資料集
原文© Copyright 2005-2012 – Libreria Editrice Vaticana
邦訳© Copyright 2012 – Cooperatores Veritatis Organisation
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