被昇天ミサ聖祭の説教(2009 年)

被昇天ミサ聖祭の説教(2009 年)
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
幸いなるおとめマリアの被昇天の祭日のミサの説教
カステル・ガンドルフォ
ヴィラノヴァの聖トマス小教区教会
2009 年 8 月 15 日土曜日
毎年 8 月 15 日は、恒例として、ベネディクト 16 世聖下はカステル・ガンドルフォの夏期離宮に隣接する
小教区教会でミサ聖祭を捧げられる。離宮の正面玄関からお出ましになるパパ様を待ちうける大勢の信徒
達の愛情と歓声に包まれて、小教区まで徒歩で移動される。カステル・ガンドルフォの町が楽しみにして
いる特権的行事でもある。2009 年 8 月 15 日当時、7 月に右手を骨折していらしたパパ様は、経過良好で肩
から腕を吊っていた三角巾からようやく解放されたものの、まだギブスをなさっている右手を左手で庇い
ながらミサを捧げられ、信徒達の祈りと期待に応えられた。
司教職と司祭職における敬愛する兄弟達
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
きょうの荘厳祭日が相応しく締め括るのは、救いの歴史における幸いなるおとめマリアの役割を
観想するように私達が召されている典礼上の主要な祭儀のサイクルです。実に、無原罪の宿り、
お告げ、神聖な母性、被昇天は、相互に密接に関連し合う根本的な重要事項であり、それによっ
て教会は神の御母の栄光に輝く運命を絶賛して歌い上げますが、しかし、これらの中に私達の歴
史をも読み取ることが出来ます。マリアの受胎(訳注:マリアの母がマリアを懐胎した事)の神
秘は、人間の変遷の最初のページを思い起こさせながら、創造物についての神の御計画において
は、人は無原罪の彼女の清さと美しさを有していたに違いないと、私達に示してくれます。罪に
よって汚されても破壊されてはおらず、神の御子の受肉を通して、マリアの内に告げ知らされ、
そして、実現された、その計画は立て直されて、そして、信仰における人間の自由な受諾へと返
被昇天ミサ聖祭の説教(2009 年)
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
されました。マリアの被昇天において私達が観想するのは、最後に、主キリストに連なる生き方
と彼のみことばへの従順において、私達の地上での歩みの終わりに到達するようにと召されてい
る事です。神の母の地上の巡礼の最後の行程は、栄光に輝く永遠の目的地に向かう自分の歩みを
進み通した彼女の歩き方を見つめるようにと、私達を招いています。
読み上げられたばかりの福音の個所において聖ルカが語っているのは、マリアは、天使のお告げ
の後、エリザベトを訪問するために、『立ち上がって、急いで山間の地域に向かって出かけて行
った』という事です(ルカ 1, 39)
。福音史家がこう述べながら強調したいのは、マリアにとって、
彼女の内でみことばの受肉を為した自分の召命に、神の霊への素直な柔順において、従うことは、
新しい道を通り、そして、自分の家から外に出る歩みをすぐさま始めながら、自分を神だけに導
いて頂くことを意味しているという事です。聖アンブロジウスは、マリアの「敏速さ」について
コメントしながら、『聖霊の恩寵は緩慢さを伴わない』 (Expos. Evang. sec. Lucam, II, 19: PL
15,1560)と明言します。聖母の生涯は、もう一人の御方によって導かれました-『さあ、ここに
おりますのは主のはしためです。私の内であなたの
言葉に従って行われますように』(ルカ 1,38)-彼
女は聖霊によって成形され、エリザベトとの出会い
のような様々な出来事や出会いによって、しかし何
よりも特に御自分の御子イエスとの特殊極まりな
い関係によって際立っています。それは、マリアが
心の中に自分自身の実生活の様々な出来事を保持
しながら黙想しつつ、それらの出来事の内に、世界
の救いのための御父なる神の神秘に満ちた御計画を絶えずより深く気づいていく、ひとつの歩み
です。
そして、ベトレヘムからエジプトへの避難へと、隠れた生活においても公生活においても、十字
架の足元に至るまでイエスに従いながら、マリアは、マグニフィカットの精神において神に向か
う着実な上昇を体験します。暗闇と苦しみの時にも神の愛のプロジェクトに対し完全に同調しな
がら、そして、心の内で主の御手への全面的な委託を養いながら、これによって、教会の信仰に
とっての規範であるわけです(参照: Lumen gentium, 64-65)。全生涯はひとつの上昇であり、全
生涯は黙想であり、従順であり、信頼であり、また、たとえ暗闇にあっても、希望であり、そし
て、全生涯はこの「聖なる敏速さ」であり、それは、神は常なる最優先事項であり、他の何物も
私達の実生活において「敏速さ」を創り出すはずがないという事を分かっているのです。
それから遂に、被昇天は私達にマリアの生涯は、あらゆるキリスト者の生涯がそうであるように、
追従する歩み、イエスに追従するひとつの歩みであり、非常に厳密な目的地を、既に描き出され
ている将来を有するひとつの歩みであり、それはつまり、罪と死に対する最終的な勝利であり、
被昇天ミサ聖祭の説教(2009 年)
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
そして、神との十全なコムニオーネ(一致と交わり)なのです。なぜなら-パウロがエフェソ人
への手紙の中で述べているように-御父は、『キリスト・イエスにおいて、私達をも復活させて
下さり、そして、諸々の天の中に座らせて下さる』
(エフェソ 2,6)からです。それが言おうとし
ているのは、洗礼をもって、私達は根本的には既に復活しており、キリスト・イエスにおいて諸々
の天の中に座っているのですが、洗礼において既に始められ、実現された事に身体ごと到達しな
ければならないという事です。私達の内では、キリストとの結合、復活は未完成ですが、マリア
にとっては、聖母も為さらなければならなかった歩みにも拘わらず、完成されています。彼女は、
神との、ご自分の御子との結合の頂点に入りました。そして、私達の歩みに寄り添って歩いて下
さっています。
それで天に召し上げられたマリアにおいて私達が
観想するのは、独特な特権によって、死に対する
キリストの決定的勝利に、魂と身体ごと分かち合
わせて頂いた御方です。
『地上の生涯の行路が完結
し-第2ヴァチカン公会議は述べます-、彼女は
身体と魂において天の栄光へと召し上げられ、そ
して、全世界の女王として主によって高められま
した。それは、主の中の主であり(参照:黙示 19,16)
罪と死に勝った勝利者である彼女の御子に、より
十全に合致しているためです』
(Lumen gentium, 59)。
天に召し上げられたおとめの内に私達が観想する
のは、彼女の信仰の戴冠、彼女が教会と私達の一
人ひとりに指し示す歩みの戴冠です。つまり、ど
んな時にも神のみことばを受け入れた御方が天に
召し上げられた、つまり、彼女自身が御子によっ
て、彼がご自分の死と復活によって私達に準備して下さった「住まい」の中に迎え入れられたと
いう事なのです(参照:ヨハネ 14,2-3)。
地上における人の生涯は-第一朗読が私達に思い出させるように-、竜と婦人の間、善と悪の間
の戦いの緊張の中で、地道に展開されるひとつの歩みです。これこそ人間の歴史の状態であり、
つまり、
『しばしば時化る海の旅のようであり、マリアは、私達を彼女の御子イエスに向かって
導いて下さる星であり、歴史の闇の上に昇った太陽』
(参照:Spe salvi, 49)であり、私達が必要と
している希望を私達にお与え下さいます。それは、私達が勝つことが出来るという、神が勝った
という、そして、洗礼によって、私達はこの勝利に入ったという希望です。私達は最終的に敗退
しません。神が私達を助け、私達を導いて下さいます。希望はこれ、つまり、私達の内におられ、
天に召し上げられたマリアの内に見えるようになる主の臨在です。『彼女の内に(…)-この祭日
被昇天ミサ聖祭の説教(2009 年)
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
の序唱の中で間もなく読まれます-、地上を彷徨い歩く貴方の民のために、慰めと確かな希望の
印を、貴方は輝かせて下さいました』
。
聖なるおとめの神秘的歌手である聖ベルナルドゥスと共に、彼女をこう乞い求めましょう:
『貴
女にお願いします、おお祝された方、あなたが与られた恩寵によって、貴女が値された特典によ
って、貴女が出産された全き憐れみによって、どうか、貴女によって恐れ多くも御自ら私達の悲
惨で病弱な状態を分かち合う者となって下さった方が、貴女の祈りのおかげで、私達をご自分の
数々の恩寵、ご自分の恩恵と永遠の栄光に与らせて下さるようにして下さいますように。イエ
ス・キリスト、貴女の御子、私達の主、全ての物事を超越しておられる方、世々に祝福された神
よ、アーメン』 (Sermo 2 de Adventu, 5: PL 183, 43)。
原文© Copyright 2005-2012 – Libreria Editrice Vaticana
邦訳© Copyright 2012 – Cooperatores Veritatis Organisation
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