2014 年 7 月 13 日 日曜集会(要旨) 聖書研究会 神戸集会所 マルコ

2014 年 7 月 13 日 日曜集会(要旨)
聖書研究会
マルコによる福音書 10章1~31節
笠木
神戸集会所
重勝(大阪地区)
<朗読個所>
1 それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、
群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。2 そのとき、パリ
サイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、
「夫はその妻を出しても差
しつかえないでしょうか」。3 イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命
じたか」
。4 彼らは言った、
「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。5 そ
こでイエスは言われた、
「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのため
にこの定めを書いたのである。6 しかし、天地創造の初めから、
『神は人を男と女とに造ら
れた。7 それゆえに、人はその父母を離れ、8 ふたりの者は一体となるべきである』。彼ら
はもはや、ふたりではなく一体である。9 だから、神が合わせられたものを、人は離して
はならない」
。10 家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。11 そこで、
イエスは言われた、
「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦
淫を行うのである。12 また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うので
ある」
。
13 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、
弟子たちは彼らをたしなめた。14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子ら
をわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の
国である。15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でな
ければ、そこにはいることは決してできない」。16 そして彼らを抱き、手をその上におい
て祝福された。
17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、
「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。18 イエスは言わ
れた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。19 いましめ
はあなたの知っているとおりである。
『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺
き取るな。父と母とを敬え』」。20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さ
い時から守っております」
。21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、
「あなたに
足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施し
なさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。22
すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産
を持っていたからである。23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財
産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。24 弟子たちはこの
言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、
「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむ
ずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る
方が、もっとやさしい」
。26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、
「それでは、だれ
が救われることができるのだろう」
。27 イエスは彼らを見つめて言われた、
「人にはできな
いが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。28 ペテロがイエスに言い出した、
「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。29 イエ
スは言われた、
「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、
兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、30 必ずその百倍を受ける。すなわち、
今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世
では永遠の生命を受ける。31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるで
あろう」
。
<離婚について>
まず、最初に登場する離婚についてお話しをします。日本の法律においては、家族関係を
考える時に「親等」という単位を使いますが、それによると親子関係は一親等、兄弟は二
親等です。ところが、他人であるはずの夫婦は「ゼロ親等」なのです。聖書では、夫婦は
「一体である」と教えられていますが、その考えが日本においても通用するのは興味深い
ことだと思います。
聖書が教えているように、離婚はよくないことなのですが、最近は離婚がとても増えてい
ます。ですから、夫婦はとても重要な問題ですが、今日は「幼な子」という点に焦点を当
てて語ってみたいと思います。
<「神の国」とは何か>
神の国、あるいは天国は、私たちが死んでから行くところではなく、この地上が神の国で
あるということは、すでに学びました。しかし、ここでは、幼子のようなものでなければ、
神の国に「入ることができない」と言っています。地上の世界には、すでに神の支配権が
及んでおり、神が許可されない限り、何も起こりません。その意味で、私たちはすでに神
の国を体験しているのです。つまり、つまり、幼子はすでに神の国に生きているとも言え
ます。
逆に言うと、大人は神の国を受けいれません。大人という言葉は、英語で adult と言いま
すが、これは「邪悪な」という意味です。大人になると人間は邪悪になって行きます。「ア
ダルト映画」などと言うと悪い意味ですが、それこそが本来の意味なのです。それは、神
の国に生きていながら、神から離れているからです。
<赤ちゃんの力>
大人は現象的な力を信じているので、原子爆弾の方が赤ちゃんの笑顔よりも強いと思いま
すが、そうではありません。赤ちゃんの方が強い力を持っているのです。赤ちゃんの笑顔
には人を動かす大きな力があるのです。
聖書のヘブライ語では「みどりご」
「ちのみご」など、いくつかの言葉が出て来ます。詩編
8:2には、神が「みどりご」
「ちのみご」の口に「力」を置かれた、という不思議な言葉
があります。これは、ヘブライ語ではオレル、ヤナクという言葉ですが、他にも子供を表
す多くの言葉があります。新約聖書はギリシャ語でパイドンですが、これも子供という意
味です。子供と一口に言っても様々な段階があり、日本語でも嬰児、乳児、孩子、孩提、
嬰孩、幼児、小児など多くの用語があります。私の考えでは、ここで登場する「幼な子」
とは、だいたい1歳を過ぎたくらいの年齢で、よちよち歩き始めたか、片言を話し始めた
くらいではないかと思います。
その年齢の子供は、まだ善悪や損得を理解することはできませんが、与えられたものを喜
ぶことができます。神の存在を感じ、生きている証として、それを感情表現できるのです。
そして、彼らは瞬間に生きています。子供たちが一生懸命におもちゃを取り合いしていて
も、別に興味を引く対象が現れると、おもちゃを放り出して、新しいものに飛びつくので
す。瞬間、瞬間に示される新たなものに関心を示すのです。
そういう子供は無防備ですが、無防備であるがゆえに、周囲にいる大人は彼らを守らなけ
ればなりません。また、神も彼らを守らざるを得ません。子供は大人も神も動かします。
だから、原子爆弾よりも強いのです。
<幼な子のような信仰とは>
しかし、幼な子がそのままの状態で救われているわけではありません。幼な子がそのまま
で良いのではなく、一度大人になってから「幼な子のように」なる必要があるのです。大
人は意識としては神から離れてしまっていますが、現象世界に生きている限り、神の支配
下に生きています。だから、幼な子のようになることは可能なのです。
どんな人でも、いきなり大人になったわけではありません。誰でも昔は幼な子だった時代
があるのです。ですから、それを思い出せばいいのです。誰でも、心の中に幼な子がいる
のですから、それに気付く必要があるのです。
幼な子は、親や周囲の人々が自分を愛してくれていると知っていて、泣けば必ず願いを叶
えてもらえると思っています。もちろん、子供を殺す親も中にはいますが、それは少数の
例外です。子供が親の愛を信じているように、私たちも神の愛を信じればいいのです。
<金持ちの青年> ・・・ここから石井田直二
金持ちの青年については、今年の初めに学びました。イエスは金持ちの青年に、律法を守
るように言ったのですが、青年は、それらをすべて守っていると言いました。青年は「そ
れでは、私はもう永遠の命が与えられているのですね。ハレルヤ!」と答え、喜びながら
帰って当然だったのですが、なぜか不足そうな顔をしました。それでは足りないと考えた
からです。
続いて、イエスが持ち物を捨てよと言うと、青年は悲しみながら立ち去ります。そして「財
産があると神の国にはいるのは難しい」とイエスは言うのです。ここを解釈すると、持ち
物が無い人の方が良いように誤解しますが、そうではありません。イエスがこの青年に「わ
たしに従って来なさい」と言われたことに注意しましょう。イエスは、特別に選んだ人に
しか、この言葉を言っていません。イエスがこの青年に期待していたことは「イエスは彼
に目をとめ、いつくしんで言われた」という言葉からもわかります。
青年が立ち去った後の、イエスの言葉に注意しましょう。イエスは、青年が無理をして財
産を捨てるべきだとは言わず「人にはできない」と、あっさり言ってのけます。そして「神
はなんでもできる」と言うのです。これがイエスの最も言いたい事だったのではないでし
ょうか。「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」という、青年の質問の
仕方、思考方式そのものが、人の力で永遠の生命を得ようとする、律法主義、行為義認主
義に立っています。永遠の生命は神の「賜物」なのですから、人の力、行為でそれを得よ
うとすることが間違っているのです。
もちろん、正しい行為はしなければなりませんし、必要であれば財産を捨てなければなり
ません。でも、その行為によって永遠の生命は得られません。お金で永遠の生命は買えな
いのです。子供が父親の愛を信じて何かを求めるように、私たちも神に素直に求めなけれ
ばならないのです。私たちの父には何でもできないことは無いのですから。