北越雪譜絵付き

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北越雪譜現代語訳版
北越雪譜
鈴木牧之著
諏訪邦夫 訳
本作品は、クリエイティブコモンズです。商品化以外には、自由に使用して差し支えあり
ません。一部の抽出・改変も許します。
目次の大項目(頁の書いてあるもの)と対応項目とにリンクをつけてあります。ご利用下
さい。
目次
訳者序文 諏訪邦夫 ..............................................................................................................2
北越雪譜初編巻之上 ..............................................................................................................6
北越雪譜初編中巻 ................................................................................................................30
初編巻之下 一覧 ................................................................................................................61
北越雪譜二編内容解説 京山人百樹序 ...............................................................................88
北越雪譜二編巻一 一覧 .......................................................................................................90
北越雪譜二編巻二 一覧 ..................................................................................................... 114
北越雪譜 二編巻三 一覧 ...................................................................................................136
北越雪譜二編巻四 一覧 .....................................................................................................153
附 1 元号のリスト簡略版 ............................................................................................169
附 2 度量衡のリスト ....................................................................................................171
附 3 地図:本書の概略の関係 .....................................................................................172
2
訳者序文 諏訪邦夫
『北越雪譜』は越後の商人で文人の鈴木牧之が、雪国の生活の苦しさと一部は楽しさを
存分に記述して江戸末期の天保年間に発表したもので、民俗学的にも重要とされる作品だ
そうです。
私が最初に遭遇したのは 40 代半ばで、友人の新潟大学下地恒毅氏から教えて頂き、さら
に書籍を頂戴しました。それ以来愛読書として、繰り返し読み続けてきました。気に入っ
た理由は、事実を客観的に記述し「お説教」の要素が少なく、いわば科学者のアプローチだ
からでしょう。
『北越雪譜:現代語訳』への道
そんな愛読書を、現代語訳するに至る気持ちと事情を説明します。
しばらく前から、いろいろな領域で電子ファイルに接触するようになりました。1996 年
まで東京大学に勤務していましたが、以後勤務が変わってオフィスが狭くなり、書籍や論
文を以前のように手元に置けなくなり、さらに定年になると、そもそも同じオフィスに毎
日通わなくなりました。東京大学勤務時代の資料は大幅に処分せざるをえず、実際に随分
減らしました。
ありがたいことにパソコンにはごく初期からなじみ、電子情報は自然な気持ちで使ってき
ています。東大を止める頃から情報が電子的に入手できる度合いが強くなり、しかもパソ
コンが急速に強力になってきました。15 年後の 2011 年現在、書籍・文献に限ればパソコ
ンの容量は無限に近く、手元におく情報はもっぱら電子情報になっています。最近、
『医学
の古典をインターネットで読もう』という本を出版しました(2011 年 1 月中外医学社)。
過去 10 年間に読んだ時点では従来通りに図書館経由で資料を入手しましたが、書籍として
まとめる時に検討すると、
ほぼすべての論文がインターネットで入手できるのを発見して、
急きょタイトルを変更したものです。
電子情報に関して、外国語特に英語情報は本当に豊かですが、日本語のものは見劣りしま
す。それでも文学系統のものは、私の要求水準が低い故もあって不満は少ないのですが、
医学・科学系のものが極端に少ないと感じます。この点は、ヨーロッパ系のものが、ギリ
シャ・ローマ時代からルネッサンスを経てほとんどすべて、外国語文献の英訳の形で読め
るのと大きな差です。「日本の医学・科学系の電子情報が欲しい」という気持ちが強くなっ
ています。
本書は科学書ではありませんが、
日本の作品の中では科学の要素をたっぷり含んだエッセ
イ乃至ドキュメンタリです。岩波文庫など入手しやすい形で出版されてありがたいとはい
え、できれば電子ファイルが欲しいと感じ、自分で電子化することも考えました。
さいわいに、長野電波技術研究所の電子版発表(http://www.i-apple.jp/hokuetsu/1/)
のお蔭で、私自身が電子化する必要はなくなりました。多数の小さいファイルを、少し手
間をかけてダウンロードして自分のパソコン内で整理しました。
作品をくりかえし読み、インターネットのコメントを眺めて、現代語訳が欲しくなりまし
3
た。私自身は、小倉百人一首・方丈記・徒然草・奥の細道などに十分なじみ、このレベル
の古文は特に難解とも感じませんが、でも詳しく読んでみるとわからない単語もあります。
電子版は、印刷体についている振り仮名がなく、その点もやや不便を感じる要因です。
私は文章をたくさん書いており、著作や翻訳の経験もあります。それで現代語訳を思い立
ちました。調べてみると、現代語訳が一応あり、抄訳ものや第一部のほぼ完全訳もありま
す。ただし書籍全体の訳などほぼすべて古書で、図書館にはみあたりません。つまり、入
手しやすいスタイルでは存在しません。そこで、自分の能力で現代語訳して電子的に公開
することにしました。印刷体の書籍と異なり、電子媒体なら入手しやすい故です。
思い立った理由の一つが以下の点です。前に述べたように、この北越雪譜には科学の要素
があります。著者は科学者ではありませんが、その感覚・感情やアプローチに科学的なも
のを感じます。
ところが、
現在までの訳者はすべて文系の専門家の方々が担当しています。
そんな意味で、理系の私に従来と違う寄与ができそうという、少々勝手な思い上がった自
負も含んでいます。書籍版はすべて縦書きですが、私は横書きを採用しました。
行ってみて、作業の楽しさを実感しました。何しろ、超レベルの名作である本書に手を加
えるのですから、誤解を顧みずに傲慢な言い方をすれば、源氏物語を現代語訳した与謝野
晶子女史や谷崎潤一郎氏と類似の仕事で、楽しくないはずがありません。「大変だったでし
ょう」と言われますが、むしろ何と贅沢な仕事に手を付けたという気分です。
本文に付した訳者のコメントについて
本書の 2 巻には、百樹山東京山氏が大量のコメントを書き加えています。これには、牧之
執筆分の分量過少を補う意識もあったようですが、それにしても比較的自由に書いていま
す。それをまねて、訳者として訳註やコメントをつけることにしました。量はずっと少な
いけれども、
意識では特に遠慮せず自由に書いています。
責任の所在を明確にする意図で、
その項目には[諏訪邦夫訳]という注釈を加えています。
絵の掲載について
絵の掲載に至る事情を説明します。当初、絵を含めることを一応断念しました。理由はい
くつかあります。
1. 絵を掲載するには、ファイル形態に絵を載せられるものを選ぶ必要があります。私自身
はパソコン上で文章を書くことには慣れていますが、絵や図を含む電子情報を作成した経
験は特に豊かとは言えません。
2.絵を含めるなら、そちらを完璧につくり上げる必要があります。その点に自信がありま
せんでした。牧之の原本の著作権は切れていても、印刷体の書籍から絵を転載するには著
作権に関する疑義も生まれます。
3.絵を含めるとファイルサイズが大きくなり、ダウンロードやメールへの添付がむずかし
くなる懸念があります。
嬉しいことに、文章中心の電子版を完成してホームページを開いた後の調査で、原本が
電子化されているのを知りました。早稲田大学図書館古典籍データベース
4
(http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/) と国立国会図書館のディジタルライブラ
リーに掲載され、「著作権はない」と明記されています。つまり、ここから採取すれば著作
権問題は解決済みです。
それだけでなく、
従来の文庫版や新書版では記憶のない絵があり、
しかも原寸大の大きな絵は文庫や新書と違う迫力です。それなら、絵の掲載は努力で解決
します。そこでこの資料を利用して、絵つきの版を作成しました。
一応行ったところ、古いだけに絵が黄色ないし茶色に変色して濃淡が乏しく、そのままで
は見難く読者が楽しめそうには思えません。A4 の横幅に納めるべく、縮小せざるを得ない
点も一因です。それで、当初は予定しなかったパソコン処理を加えました。本来のカラー
を止め、すべて単色に変換して明暗と濃淡を工夫し、一部は中間色のない二値の絵に変換
しました。サイズの縮小は残念ですが、その割に見やすくなったと自分では評価していま
すがいかがでしょうか。
絵をつけてみて、そもそも自身が惹かれたきっかけが雪の結晶図だった点、江戸時代の
本書評価も「絵本だから歓迎」とされた点に気づきました。絵がアッピールするのは、現代
のマンガ隆盛からも納得できることで、識字率の高い社会でも起こることです。
PDF ファイルは、嬉しいことにメール添付の可能な 3.5MB に納まりました。
使用した底本
現代語訳に使用した底本は、以下の通りです。
1 上記 長野電波技術研究所の電子版
2 岩波文庫版:私が使っているのは、1991 年刊行のもの。
3 行註 北越雪譜 監修 宮 栄二位 1985、野島出版、新潟市。
2 には少し、3 にはやや多く注釈がついていますが、それらを一応は参照したものの、取
り込んたのはわずかです。
4 現代語訳が終りに近づいた時点で、友人(慈恵会医科大学三尾寧氏)所蔵の大きな書籍
2 冊 (辺見 じゅん (文), 北井 一夫 (写真):探訪北越雪譜の世界および宮栄二監修 図説
北越雪譜事典、1982 年、角川書店、東京)を拝借し、詳しく拝見して楽しみました。お蔭
で認識を改めた箇所もあります。
5 上記 早稲田大学図書館の原著の電子情報:絵の採取に利用させて頂きました。
電子版と書籍の各関係者、それに三尾氏に御礼申し上げます。
原書にないものとして、元号のリスト・度量衡のリスト・地図を加えました。いずれも、
本書に関係するものに限定しています。
クリエイティブコモンズとして発表
この現代語訳はクリエイティブコモンズの条件で発表します。つまり、厳密な著作権(翻
訳権)を主張しません。自由に転載し、切り刻んで利用して下さってけっこうです。一部
に[諏訪邦夫訳] と書いたのは、
訳註やコメントに対する自分の責任を明らかにする意図で
す。訳文自体に特別な主張はなく、北越雪譜という作品を広めるのが希望で、使用は自由
です。ただし、勝手な商品化だけはお断りします。
5
本現代語訳は下のホームページに公開しました。
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/
元来、この『北越雪譜:現代語訳』公開用に作成したものですが、入力しながら発表機会
のなかった他の作品も掲載する予定でいます。あるいは、自作も載せるかも知れません。
久方ぶりにホームページ製作の工夫、そこへアクセスして頂ける期待など、いろいろな気
分を味わい楽しんでいます。
数多くの方が本書になじみ、さらには原文にも接して下さるように期待します。
諏訪邦夫
帝京短期大学
2011 年 夏
6
以下本文
北越雪譜初編巻之上
初編上の目次
○地気が雪となる:天地と雪の関係
○雪の形状:雪の結晶と顕微鏡図譜
○雪の深浅:暖地と雪国の評価の差
○雪模様:嶽廻(たけまわり)
・海鳴り・胴鳴り
○雪の用意:屋根の修理・廊架(ろうか)・食糧
○初雪:長期間の苦の始め
○雪の推量(たかさ)
:降雪量合計 54 メートル
○雪竿:雪の深さを測る装置
○雪を掃う:除雪の苦労
○沫雪(あわゆき)
:ふわふわで扱いやすく時に扱いにくい
○雪道:交通の苦労
○雪蟄(せっきょ、ゆきごもり)
○胎内潜:雪の中の往復
○雪中の洪水:何故起こるか。その時期
○熊を捕る:手法各種と困難と
○白い熊
○熊が人を助けた話:50 日間の同居
○雪中の虫
○吹雪(ふぶき)の難:赤子だけの生存・凍傷の治療法
○雪中の火:天然ガスの発見
○破目山(われめきやま)
:隙間だらけの岩石の山
○雪頽(なだれ:雪崩)
:結晶が六角で雪崩は四角の理由
地気雪と成る弁
○地気が雪となる:天地と雪の関係
いったい、空から形を作って落下するものというと
○雨
○雪
○霰 あられ
○霙 みぞれ
○雹 ひょう
がある。
露は地気が固まったもの、霜は地気の凝結したもので、冷気の強弱で形が異なる。
地気が天に上り、形となって雨○雪○霰○霙○雹となるが、その際に温かければ水にな
る。
水は地の全体だから元の地に帰るのだ。地中の深いところには必ず温かい気があって、
それが地温で地面はその温かい気を吐き出して天に向って上る。この関係は人の呼吸と似
て、昼夜片時も絶えることがない。一方、天も気を吐いて地に下すので、これが天と地の
呼吸である。この点、人間の呼吸に似ており、天地も呼吸して万物を育むものである。天
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地の呼吸が不順になると、暑寒が時期どおりに起こらず、大風大雨などさまざまな天変地
異が発生する。
天には段が九つあって、これを九天といふ。九段の内で、地にもっとも近い所を太陰天
という。地上から高さ四十八万二千五百里(193 万キロ)だという。太陰天と地との間に
境界が三ツあり、天に近いのを熱際といい、中を冷際といい、地に近いのを温際といふ。
地気は冷際が限界で熱際までは届かず、冷際と温際の二段は地表からの距離はあまり遠く
ない。富士山は温際を越えて冷際に近く、絶頂には温かい気が届かず草木は生えない。夏
も寒く雷が鳴り、暴風雨を温際の下に見る。雷と夕立は温際の起こすものである。
雲は地中の温かい気から生じる物で、その起る形は湯気に似て、水を沸かして湯気が起
るのと同じである。水が温なる気を得ると天に昇り、冷際まで到達すると温なる気が消え
て雨になるが、この状況は地上で湯気が冷えて露となるのと同じである。冷際まで到達し
なければ雲は散ってしまい雨にならない。
さて、雨露の粒の源は天地の気の中にある。草木の実が円形なのも気中に生じるからで
ある。雲は冷際に達して雨となろうとする時、天の寒気が強い時は雨は氷の粒となりて降
ってくる。天の寒気の強と弱によって粒の大小が異なり、霰(あられ)になり霙(みぞれ)
になる。
雹(ひょう)は夏のものだが、説明はここでは省こう。地の温度が極端に低い場合、地の
気は形をつくらないまま天に昇る。わずかに温い湯気の場合と同じである。天の曇りがこ
れにあたる。地気がどんどん上ってそれが多い時は、天は灰色になって雪が降りそうにな
る。雲らしい雲は冷際に達して、そこから雨になる。この時、冷際の寒気が強いと氷を溶
かす力が不足して花粉状のまま降ってくるのが雪である。地表でも寒気の強弱で氷がある
時は厚くある時は薄いのと似ている。天に温冷熱の三際があり、人でも肌は温で、肉は冷
で、臓腑は熱なのと同じ道理である。気中万物の生育はずべて天地の気格にしたがうのだ
から当然だ。これは私の発明ではなく、多数の書に載っている昔の人の意見である。
訳註
地上から高さ四十八万二千五百里(193 万キロ)
:どういう根拠か不明。実際の数値と比較
すると、月までの距離が 37 万キロで、金星や火星は 4~5 千万キロ、太陽が 1 億 5 千万キ
ロである。一方、温際・冷際・熱際の三つに分ける際、富士山は温際でなくて冷際だとい
うので、温際はせいぜい 2、3 千メートルを考えている。熱際に関しては記述がないが、ど
う考えていたのだろうか。著者は気象学や天文学に興味を抱いたようだが、実際に観測し
測定した様子はない。[諏訪邦夫訳]
○雪の形状:雪の結晶と顕微鏡図譜
図 雪結晶図. 著者自身の観察ではなく、他の人の観察を写したとしている。訳註参照。
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物を見る際、眼力には限界があり、限界の外は見ることができない。だから、人の肉眼で
雪をみると一片の鵞毛のようだが、数十百片の雪花を併合して一片の鵞毛となるのだ。雪
を顕微鏡で見ると、天の細工した雪の形状は、図の通り実に奇妙である。形が一通りでな
いのは、寒いところで雪となる時にその条件が一通りでないからで、雪の形も気に応じて
違う。しかしながら、肉眼ではみえないほど小さいので、昨日の雪も今日の雪もただ見渡
す限りの白いだけである。この図は天保三年許鹿君の高撰雪花図説にあり、雪花五十五品
の内から写している。
雪は六角形に突出している。その本の説によると「およそ万物は方体つまり四角で、必ず
八をもって一を囲むもので、円体なら丸である。雪のように六を以て一を囲むのは、定理
中の定数をあなどってはいけない」云々。雪を六の花というのは、この説からわかる。私
の推測だが、円は天の正象、四角は地の実位である。天地の気中に活動する万物は、すべ
て方か円である。例を挙げよう。人の身体は四角なようで四角ではないし、円いようで円
くもない。
これは天地の四角と円の間に育つ故で、
結局天地の象から脱却することはない。
この点は、子が親に似る点と同様である。雪が六角形なのは、物の基本は、偶数は陰で奇
数は陽である。人の身体でも、男は陽なるゆえ凸の箇所が 9 つある
●頭 ●両耳 ●鼻 ●両手 ●両足 ●男根
女は凸の箇所が 10 である。男根がなく両乳がある。九は半(奇数)の陽、十は長(偶数)
の陰である。
そうはいうものの陰陽和合して人となるのだから、
男にも無用の両乳があり女の陰に似て
おり、女にも不用の陰舌があって男に似ている。
気中で活動する万物は、この理屈にすべて合致している。雪は生物ではないが、変化する
9
所に活動の気があるから、六角形の陰が多く、ときに陽にあたる円形のもある。水は陰の
極端な物質だが、一滴落とす時はかならず円形になる。落ちるところに活動の兆しがある
ので、陰なのに陽の円の性質を失わない。天地の気中の機関定理が決まっている点は精妙
で、私の筆では書きつくせない。
訳註:
この顕微鏡図譜は著者のものではなくて、別の書籍からの引用である。原文は、「図は天
保三年許鹿君の高撰雪花図説に在る所、雪花五十五品の内を謄写にす」とあり、この許鹿君
(きょろくくん)は古河城主土井利位《としつら》
)で、
『高撰雪花図説』を 1832 年(天保
3 年)に発行している。土井利位は顕微鏡を所有して、雪の結晶を多数描いたらしい。最
初に本書を読んだ時、「江戸時代に雪の結晶をみた人がいるのだ」と感激した。
「天の細工した雪の形状は・・・」の原文は「天造の細工したる雪の形状・・・・」で、
この表現は中谷宇吉郎氏の「雪は空からの手紙」との記述を思い出させる。
後半の雪が何故 6 角かと人体の陰陽の説明は降参。[諏訪邦夫訳]
○雪の深浅:暖地と雪国の評価の差
左伝に(隠公八年)平地で 1 尺(30 センチ)以上の雪を大雪というと書いてあるが、こ
れは暖地での話である。唐の韓愈が、雪を豊年の良い前兆だといったのも暖国の理屈だ。
いずれも中国の話だが、中国でも寒いところでは雪が八日間も降ると盆見五雑組に載って
いる。暖国の雪は一尺以下なら、山川村里立地に銀世界となり、雪がひらひら舞うのを観
て花にたとえ玉に比べる。そもそも、眺めるなら美景を愛し、酒食には音律の楽を添え、
画に写し詞につらねて賞賛するのは日本でも中国でも恒例ではある。いずれにせよ、雪の
降ることの少ない土地での楽しみ方である。
越後のように毎年何丈(1 丈は 3 メートル)もの雪を見ていると、雪が楽しいなどと言
っていられない。雪のためにへとへとになり、金もかけていろいろと苦労するので、その
点をこれから説明するからよく認識してほしい。
訳註:「左伝」
。左氏伝ともいう。中国の古書「春秋」の注釈書の一つ。[諏訪邦夫訳註]
○雪模様:嶽廻(たけまわり)
・海鳴り・胴鳴り
この土地の雪模様は、暖国とは異なる。九月の半ばから霜が降りて、寒気が次第にきび
しくなり、九月末になると冷たい風が肌をさして冬枯で木の葉は落ちてしまい、日光がま
ったく出ない状況が連日続く。これが雪の季節だ。
薄暗い天気が数日続くと、遠近の高山に白くなり雪が観えるようになる。この地の言い
方で嶽廻(たけまわり)と言う。海のある所は海鳴り、山のふかい処は山が鳴り、遠雷の
ようだ。この地の言い方で、胴鳴り(どうなり)と言う。こんな様子が見え聞こえるよう
になると、間もなく里にも雪がくる。年の寒暖で時日は明確ではないが、たけまはり・ど
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うなりは秋の彼岸前後で、毎年こんな状況だ。
○雪の用意:屋根の修理・廊架(ろうか)・食糧
雪の用意は前に言った通り、雪が降りそうな状況を推測し、雪に壊されないように屋根を
直しておく。家の前の庇をこの地の言い方で「廊架(ろうか)」といい、これも直しておく。
他のにも居室に関係する所など、弱っていればすべて補修する。雪に潰されない用心であ
る。庭の樹木も枝の曲げるべきは曲げて束ね、丸太や竹を杖として補強する。雪で折れる
のを避ける狙いである。冬草の類は、菰(こも)や筵(むしろ)で包む。井戸には小屋を
懸け、便所は雪中でも内容物を汲み出せるよう備えをする。雪では野菜ができないから、
家族の人数分だけの食料を貯える。暖かいように土中に埋め込み、藁に包んで桶に入れて
凍らないようにする。雪の用心に各種の処理が必要で、言葉には尽くせないほど多い。
○初雪:長期間の苦の始め
暖国の人が雪を鑑賞するのは、前に述べた通りである。江戸には雪の降らない年もあるか
ら、初雪は格別に美しいと称賛し、雪見の船に芸者を乗せ、雪の茶の湯に賓客を招き、青
楼(芸者屋)は雪を居続けの理由とし、酒亭は雪が降れば客の来る兆しと喜ぶ。こんな風
に、雪を遊楽の種にする様は数知れない。雪を賞するのに赤い敷物で歓迎するのは、花を
楽しむ季節が長いからだ。雪国の人からみると、こんなのは本当に羨しい。これに比べれ
ば、雪国の初雪は苦そのもので暖国の雪とは雲泥の差である。
そもそも越後の国(新潟県)は全体として北方の陰地だが、越後の中にも陰陽がある。本
来は、西北には天が不足なので陰で、東南は地が足りないから陽である。ところが越後の
地勢は、西北は大きな海に面して陽の気で、東南は高山が連なって陰の気である。だから
西北の郡村は雪が浅く、東南の村々は雪が深い。陰陽が入れ替わって反対になっている。
私が住む魚沼郡は東南の陰の土地で、南に次の山が連なる。
○巻機山(まきはたやま) ○苗場山(なえばやま)
○八海山(はっかいさん)
○牛が嶽
○浅草山
○金城山
○駒が嶽
○兎が嶽
この他にも、他国には知られていない山々も加わって波濤のごとく東南に山脈をなし、大
小の河川も縦横に流れて、陰気充満して山間の村落だから雪深いのである。冬は太陽が南
の方を傾いて回るから、北国は本当に寒い。家の中でも、北は寒く南は暖かいのと同じ理
屈である。
この土地で初雪がくるのは、年によって遅速があり気象と寒暖で違う。初雪は、だいた
い九月の末から十月の始めである。この地の雪は鵞毛のように大きくはなく、降雪時はか
ならず粉雪で、しかも風がこの傾向を助長する。よく積る所では、一昼夜に六七尺(1.8
~2.1 メートル)から一丈(3 メートル)に及び、大昔から今までこの国で雪が降らなかっ
たことはない。暖国の人のように初雪を観て吟詠や遊興を楽しむなど夢にも思わず、今年
もまたこの雪の中で生きるのかと雪を嘆き、辺境の寒国に生れた不幸を悔やむ。雪を観て
楽しむ人たちが、花の豊かな暖地に生きている幸運は実に羨やましい。
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○雪の推量(たかさ)
:降雪量合計 54 メートル
隣村六日町に住む俳友である天吉老人の話で、妻有(つまあり)庄(新潟県十日町市、津
南町)に旅行した頃に聞いたことで、千隈川(千曲川)の辺の風流人が、初雪から十二月
二十五日(天保五年)までの間、雪の降る毎に用意した物差しで深さを量ったら、合計が
十八丈(約 54m)にもなったという。この話は雪国の者でも信じがたいと思うが、考えて
みると、十月の初雪より十二月二十五日まで約八十日間に五尺(約 1.5m)ずつ雪が降れば、
計算上は二十四丈(約 72m)にもなる。下から溶け一部は除雪するので、実際にそれだけ
深くはならない。それに地面にあるうちに減る。あれこれ考えて、この土地の深山幽谷で
雪の深いのは事実だが測定はむずかしい。天保五年(1834)は、この土地では近年の大雪
だったから、これは作り話ではない。
訳註:著者の塩沢も六日町も上越線沿線である。一方、十日町と津南町は信濃川本流の山
側(右岸)で、鉄道では飯山線沿線で特別に雪深いところである。[諏訪邦夫訳]
○雪竿:雪の深さを測る装置
高田のお城の広場に、木を四角く削って目盛りをつけて建ててある。雪竿と言い、長さは
一丈(3 メートル)である。雪の深浅が、租税に関係するからだろう。高田の俳友の楓石
子の手紙に、天保五年の仲冬(11 月)に、この雪竿を見ると、この地の雪はその頃で 1 丈
を超えていたと伝えている。
雪竿は越後のこととして俳句にもあるが、高田以外に雪竿を建てる処は、昔はあったかも
知れないが、越後でも今はない。風雅人も、この土地を旅する方々は、雪の季節を避けて
夏にやってくるので、越路の雪のことを知らない。だから、越路の雪を話にする場合、意
味を取り違えることがあり、土地の人からみると笑止千万なことも多い。
訳註:高田は地図の上では海に近いが、雪は異様に深い。「旅人が夏の越後しか知らない」
とは、本書で何個所にも出てくる注釈である。[諏訪邦夫訳]
○雪を掃う:除雪の苦労
図 この絵は 4 つのものが集まっている。除雪の絵が2つと雪の歩行具の絵が二つである。
後者は第 2 編にもっとわかりやすい大きな絵がある。
雪を掃うのは、落花をはらうのに対応して、風雅の一つとして日本と中国で詩や歌に多
数詠われている。しかし、こんな大雪では除雪は風雅どころではない。初雪が積ったのを
そのままにすれば、次が降ってすぐに雪が一丈(約 3m)以上にもなるから、降ったらすぐ
除雪しなくてはならない。
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降雪がわずかなら、除雪は次に降るのをまつこともある。除雪をこの地の言い方で、雪
掘(ゆきほり)と言う。土を掘るのと似ているからこう呼ぶ。掘らないと家の出入り口が
塞がれ人家が埋って出入り不能になる。いくら頑丈な家でも、幾万斤(1 斤は約 600 グラ
ム)というの雪の重量で押し潰されると大変だから、どの家も除雪する。除雪には、木で
作った鋤を使う。土地語では「こすき」と呼び、木鋤である。椈(ぶな)の木で作り、木の
質が軽く強くて折れにくい。形は鋤に似て刃は広い。雪中で使うのに一番重要な用具で、
山地の人が作って里に売り、家毎に備えておくのが普通で、雪を掘る様子は図に描いた通
りである。掘った雪は空地の人の通行を妨げない処へ山のように積み上げ、この地の言い
方で掘揚(ほりあげ)と言う。
大きな家では自宅の人だけでなく除雪人を傭い、幾十人の力を合わせて一挙に掘ってし
まう。急いで行うのは、除雪しないままで再度大雪が降ると動けなくなり、手に負えなく
なるからである。雪掘りの図には人数は省略して描いた。大家の場合はそうだが、小さな
家で貧しい場合は除雪の人夫をやとう費用が乏しいから、自力で男も女も一家総出で雪を
掘る。どこでも雪が深いところは皆そうする。雪に力をつかい、費用もたっぷりかけ、一
日中かけて除雪したところへ、その夜大雪が降って夜が明けて見ると元と同じになる。こ
んな時、主人はもちろん、使用人まで頭を下げて歎息をつくだけだ。雪が降る度に除雪す
るのを、この地の言い方で一番掘二番掘と言う。
○沫雪(あわゆき)
:ふわふわで扱いやすく時に扱いにくい
春の雪は消やすく沫雪(あわゆき)と呼ぶ。日本でも中国でも、春の雪は消えやすい点を
詩や歌の材料にしている。しかし、これも暖国のことで、寒い土地では冬の雪を沫雪と呼
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ぶ。冬の雪は、どんなに積もっても凍って固まらず、やわらかくて扱いやすい。冬は橇(そ
り)と縋(カンジキ)をつかって往来する。この地の言い方で、「雪を漕ぐ」と言う。水の
上を船で渉る様子に似ているからで、深い田を進む姿にも似ている。ところが初春になる
と、雪が凍って雪の道は石を敷いたように硬くなり、交通は冬よりむしろ易しい。すべら
ないように下駄の歯にくぎをうって歩く。暖国の沫雪とは、意味がまったく違う。
○雪道:交通の苦労
冬の雪はやわらかく、人の踏み固めた跡なら歩きやすいが、旅人が一晩宿泊した時に大雪
が降ると、踏み固めた一条の雪道も雪に埋まって見えず、野原では方向がわかりにくい。
こんな時は里人を幾十人か傭い、
そりやカンジキで道を踏み固めて貰って後について行く。
多額の費用がかかるから、貧しい旅人は他の人が道を開くのを待って空しく時間を過ごす
こともある。健足の飛脚でも、雪道を行くのは一日せいぜい 10 キロ前後に過ぎない。カン
ジキを履いても足の動きは不自由で、雪が膝を越えるほど深いから、冬の雪の艱難の一ツ
である。
春になると、雪は凍って鉄石のようになり、雪車(雪舟とも書く、そり)を使って重い
ものも運べる。里人は雪車に物をのせ、自分も乗って雪の上を舟のように通行する。雪で
は牛馬は役立たず雪車を用いる。雪車(橇)は重いものの運搬には、牛馬より優秀である。
雪車の作り方は別に記述する。形は大小さまざまで、大きいのを修羅といい、雪国では最
高に便利な用具である。ただし、雪が凍っていないと使用しにくく、だから里人は凍った
雪の状況を雪舟途(そりみち)と呼ぶ。
訳註:
修羅:元来は「阿修羅」つまり闘争の神のこと。ここでは大型の橇のこと。
○雪蟄(せっきょ、ゆきごもり)
雪は九月末から降りはじめて雪の中で正月を迎え、正月と二月には雪はまだ深い。三月四
月になって雪が次第に融け、五月になると雪は完全に消えて夏道になる。もっとも、寒暖
で遅速がある。四五月になると春の花が一斉にひらく。したがって、雪中の生活がほぼ八
ケ月で、一年の間に雪のない季節は僅かに四ケ月だが、完全に雪の中にこもるのは半年で
ある。家や周囲の造りはもちろん、万事に雪の処理を主目的とし、費用もかけることは文
章には書ききれない。農家は、夏の初めから秋の末までに五穀を栽培して収穫するから、
稲刈りが雪の季節にずれこむことがある。大変に忙しくて苦難が多く、暖国の農業に比較
すると大変である。
雪国に生れ育った者は幼時からこんな雪の中で成長するから、雪をとくに大変とも思わな
い。木の中の虫が辛いと思わないようなものだ。暖地の生活がいかに気楽か、味わったこ
とがない故である。女はもちろん男でも同じで、住めば都という通り、華やかな江戸で何
年も奉公した後に雪国の故郷に帰る割合は、十人に七人くらいいる。中国の故事や漢詩に
もある通り、故郷が忘れられないのは世の常である。
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雪中では江戸でいう軒下に、萱で編んだすだれをかけておく。吹雪をふせぐためである。
窓にもこれを使用する。雪がふらない時は巻き上げて明るくしておく。雪が降ると、積も
って家が埋まり雪と屋根が同じレベルになり、明かりが入らなくなり、昼でも夜のように
暗く、燈火を点けて家の内は昼と夜がわからない。雪が止むと除雪して僅かに小窓をひら
き、外の明りいれる時、光明が光り輝いて仏の国に生れた気持ちになる。雪に降り込めら
れる苦難は他にもいろいろだが、あまりくどいから書くのを止める。
鳥や獣は雪の中では食糧が乏しいので雪の少ない土地へ移動するものもいるが、
必ずそう
とも定まってはいない。雪の中に籠って毎日を暮らすのは、熊と人間である。
訳註
五穀:米・麦・粟(あわ)・豆・黍(きび)・稗(ひえ)などで、土地によってどれを呼ぶか差
がある。また 5 種類と限らず「穀物類」の意味にも使う。
故郷が忘れられない:外国に長期間住んだ後に、最終的には帰国して日本で暮らし仕事につ
いている例も多い。ここを読みながら、そういう人たちを思った。自分自身もそんな気持
ちに無関係ではない。[諏訪邦夫訳]
○胎内潜:雪の中の往復
図 タイトルは「驛中雪積之図」で、驛(駅)は宿場のこと。除雪の様子だが、むしろ除雪し
て高く積んだ様子である。
家の前に庇(ひさし)を長くのばして、宿揚をつくる、人家はすべてこうする。雪の最中
はもちろん、雪のないときも庇の下を往来する。宿揚を往来すると、街道自体は使い道が
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ないので、除雪した雪を街道に積む。これが次第に高くなり両側の家の間に雪の堤を築い
たようだ。そうなると所々に雪の洞をひらき、道の向かい側にいくには雪のトンネルを使
う。これを土地の言い方に胎内潜という、また間夫とも言う。間夫とは、金採掘の人が使
う方言を借りた言い方である。本義は、妻や妾が他の男と通じることをいう。
部落の外で家が続いていないと庇がないから、ここでは高低になっている雪の堤を往き来
する。到底歩けない箇所があれば何とか道を一本開き、春になって雪が固まると高い所へ
は階段を作って通路に使う。形は梯子のようだ。住んでいる者たちは登り下りに慣れてい
るから、踏み外すことはない。他国の旅人などは怖る怖る歩くから、かえって落ちて雪の
中に埋まってしまう。それを見て人は笑い、落ちた当人は怒る。
こんな難所を作るのも、他国の人に意地悪しているわけではない。除雪には人手も費用も
かかるから、とりあえずは壇を作って途を開くのである。そもそも初雪から正月を越えて
雪が消えるまでのことを詳細に記そうとすれば、小さな本では済まない。だから適当に省
いて記述しないこともかなり多い。
訳註:
間夫:普通は既婚女性が他の男性と通じることをいう。ここの意味は不明だが、トンネル
を通る様子を「こっそり通う」意味を暗示すると解釈しよう。[諏訪邦夫訳]
○雪中の洪水:何故起こるか。その時期
図 雪中洪水之図である。苦労している人物が何人も描かれている。
大小の川に近い所では、初雪の後に洪水に苦しむことがある。洪水のことを、この地方
の方言で水あがりと言う。一年前に関という隣駅の親族油屋の家に私が泊まった時、十月
のはじめで雪が 3m ほどつもったところ、
夜半になって近隣の人たちが叫んで呼び合いなが
ら騒いでいる声に目を覚ました。どうしたのかと、寝ていた部屋から出ると、家主が両手
に物を提げ、水あがりだから早く裏の雪山に避難して下さい、と言い捨てながら持物を二
階へ運んでいた。
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台所に出て見ると、家中の男女が狂気のごとく走りまわり、家財を水に流されまいと手
当り次第に移動している。水は低いところをめがけて潮のごとく流れ、すでに部屋にも流
入し庭は満杯である。その辺は全部雪と水だらけで、暗夜を照して水の流れる様子の恐ろ
しさは喩えようもなかった。私は人に助けられて高所に逃げ、そこから宿場を眺めていた
が、人々が提灯や松明を灯し手に除雪用の木鋤を持ち、雪を越え水の流れをわたって声を
あげていた。水揚のない所の者たちが集まって、川筋を開いて水を落そうとしている。闇
夜で姿は見えなかったが、女子供の泣き叫ぶ声が遠く近く、聞くもあわれである。燃え残
った松明一ツをたよりに人も馬も首まで水に浸り、流れをわたってゆくのは馬を助けたい
からである。女性が帯もしないで小児を脊負い、片手に提灯を提げて高いところへと逃げ
のぼる様子が、たまたま近くからはっきり見えたが、命と引き換えだから恥しいなどとは
言っていられない。可笑しいこと、可哀想なこと、怖いこと、種々さまざまで文章には書
ききれない。
明け方になって、
ようやく水も川に落とせたといって人々は何とか安堵した。
そもそもこの土地の雪中の洪水は、大抵は初冬と仲春(陰暦 2 月)とに発生する。この
関という宿場は左右人家の前に一筋ずつの流れがあり、最後は魚野川へ落ちる。この流れ
は、夏の酷暑でも止まらない清流である。だから各家はこの流れをつかって井戸の代りと
し、しかも桶でも汲める流れだから、平日の使用には井戸よりずっと便利である。ところ
が初雪の後十月のころまでに、この二条の小川が雪で埋まってしまい、流水は雪の下にな
る。そこで家毎に汲むのに便利なように、雪に穴を開けて水をとれるようにしている。こ
の穴も一夜の雪で埋まってしまうと、また穴を開け直す。人家に近い小川でさえこうだか
ら、この二条の小川の水源が雪に埋れると、水がつかえないだけでなく、増水のおそれが
あって、付近の人たちは力を併せて流れの合流点で雪に穴をあける。そうはいっても、各
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人が仕事にかかずらわって時期を失し、または一夜の大雪が水源を一挙に塞ぐと、水が溢
れて低い所を狙って流れる。宿場は人の往来の為に雪を踏んで低いから、水が流れて溢れ
て人家に入り、水難に遭うわけで、それが前述の事件である。何百人の力を尽して水の道
をひらかないと、家財を流し溺死することもある。
一方、仲春の洪水発生は大抵春の彼岸前後である。雪はまだ消え残り、山々も田圃も一
面に広々とした雪面で、支流の川は雪に埋もれ水は雪の下を流れ、大河でも冬の初めから
岸の水がまず凍って、その氷の上に雪がつもり、つもった雪がまた凍って岩のように固く
なり、岸の凍った端から次第に雪がつもり、終には両岸の雪が合して陸地と同じ雪の地面
となる。
春になって寒気が次第に和らぎ、暖気につれて雪も降り止んだ二月頃、水面に積った雪
が下から解けて凍った雪の力も水に近いところは弱まり、流れが雪で塞がれて狭くなって
いるところへ水勢が烈しく、陽気の加減で雪の軟かいところで下を潜り、堤のきれたよう
に、寝耳に水の災難にあう。
雪中の洪水は寒国の艱難で、暖地の人は憐れんでほしい。ここでは、そうした例を一つ
だけ述べた。雪中の洪水は地勢によって種々様々で、詳しくは論じられない。
コメント:この項目は実体験の部分があり、なかなかの迫力である。
○熊を捕る:手法各種と困難と
図 熊を捕獲する絵で、二つの絵に 1 頭ずついるようだ。
越後の西北は海に面して高い山はない。東南側には険しい山が連なり、越中・上州・信
濃・奥州・羽州の五か国にまたがり、高い山が肩を並べて数十里にもなり大小の獣が数多
く住んでいる。この獣類は、雪の時期になると雪を避けて他国へ去るものと去らないもの
があるが、まったく動かず雪の中の穴で暮らすのは熊だけである。熊の胆は、越後産が上
等とされている。雪の中の熊胆は、特に値段が高い。
その価値の高い熊を捕まえようと、春暖かくなって雪の降り止んだころ、出羽(山形県
から秋田県)あたりの猟師が五人か七人で相談して、三四頭の猛犬をつれて米と塩と鍋を
もち、水と薪は山中にあるのを使って、山から山へと越え、昼は猟をして獣を食糧とし、
夜は樹根や岩窟を寝所とし、生木を焼いて寒さを凌ぎつつ灯火にも使い、着のみ着のまま
で何日も過ごす。頭から足先まで、全身に着る物はすべて獣の皮で作る。遠くから見る姿
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は猿のようで、顔だけが人間である。鎧を着て過ごすという言葉があるが、この人たちの
生活は獣の革を着て過ごすのである。
彼らの狙いは、この土地の熊である。山中に入るとよい場所を見立て、木の枝や藤蔓で仮
小屋を作って居所とし、犬をつれて四方に別れて熊を探す。熊が穴に居るとわかれば目印
をのこして小屋にかえり、全員の力を合わせて熊を捕える。道具に使うのは柄の長さ四尺
(1.2 メートル)ほどの手鎗か、山刀を薙刀(なぎなた)のように作ったもの、それに鉄
砲や斧である。刃が鈍れば携帯する砥石で研ぐ。こうした道具も、獣の皮をつかって鞘に
する。この者達は、春と言わず冬の時期から山に入るものもいる。
そもそも熊は和獣の王で、勇猛だが義を知る動物である。草木の皮や虫を食し、同類の獣
を喰わない、
田圃を荒らすことはせず、
荒らす場合はよくよく食糧のない状況に限られる。
詩経では、熊は男子のめでたい祥だと書き、また六雄将軍と名づけているのもこんな義獣
の性格によるのだろう。夏は食をもとめる外に山蟻を掌中に擦着し、冬に穴倉に住む際は
これをなめて飢を凌ぐ。牝と牡が同じ穴にこもることはせず、牝に子がある場合は子と同
じ穴にこもる。穴籠りは、大木が雪崩で倒れてくさった洞などを使うことも下にしるす。
また、岩間の土穴などにも籠るが、熊の考えていることだからわからない。雪中の熊は、
食糧を求めてうろつかないので、胆の性質がよくて功能が大きく、夏の胆に比すれぱ百倍
である。この土地では、
●飴胆 ●琉珀胆 ●黒胆
と唱え、色で分類する。琥珀を上等品とし、黒胆を下等品とする。偽物は黒胆に多い。
○熊を捕るにはいろいろな手法がある。熊の住む場所により捕えやすい方法を使う。熊は
秋の土用から穴に入り、春の土用に穴から出ると言う。一説に、穴に入ってから穴を出る
までずっと眠っているというが、本当に見た人は居らず、信じるわけにもいかない。
沫雪の項目で述べた通り、冬の雪は軟かくて足場が悪い。熊を捕えるには雪の凍る春の土
用前から、熊が穴から出ようとする頃が狙う時期である。岩壁の裾や大木の根などで静か
に寝ているのを捕えるには圧という術を用い、これは天井釣とも言う。木の枝や藤の蔓で
穴の近くに棚を作り、その端は地面に付けて杭に縛っておく。棚の横木に柱があって棚の
上に大石を積みならべ、横木より縄を下げ縄に輪をつくって穴のところに置く。これを蹴
綱と言う。この蹴綱に引き金の仕掛けがあり、石が落ちるように作る。完成したら、穴に
向かって玉蜀やたばこなど熊が嫌うものを燃やして煙をだし、どんどん扇で煽いで煙を穴
に送り込む。熊は煙にむせて怒り、穴を飛び出てくる。穴から飛び出る時に引き金に触れ
ると、棚が落ちて熊は大石の下で死んでしまう。この方法は、手を下さずに熊を捕える最
高のやり方で、もちろん熊の居場所が重要である。この方法では、樵夫も時に参加する。
熊を何頭も捕えて経験を積んだ剛勇者は、一連の猟師を熊の居る穴の前に待ち伏せさせ、
自分がひろろ蓑を頭から被って洞窟に入る。「ひろろ」は山にある草の名で、蓑に作った時
にふつうの萱製の蓑より軽いので、猟師が常用する。これを着て熊の穴にそろそろと這っ
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て入り、熊の後ろから蓑の毛を触れさせると熊はこれを嫌って前に進む。また後から蓑の
毛を触らせる。熊はさらに前に進む。これを繰り返すと、終には熊が穴の口から出てくる。
これを見たら、
待ちかまえた猟師が手練の鎗や刃物で仕留める。最初の一撃に失敗すると、
熊の反撃で命を失う危険もある。そんな危険を冒して熊を捕えるのは、僅かな金の為であ
る。金銭慾が人を過たせる危険は、色慾よりも多い。だからこそ黄金はしかるべき方法で
入手すべきで、変な手法で手に入れてはならない。
熊によっては、上に覆いがあってその下には雪が積もらない場所で、土に穴を掘ってこ
もる場合もある。たとえば、三尺から五尺(0.9~1.5 メートル)もの雪の吹きだまりでそ
うする。熊の穴の雪にはかならず細い孔があって管になっており、熊が呼吸して雪が解け
ている孔である。猟師がこれを見つけると雪を掘って穴の一部を露出し、木の枝や柴の類
を穴に挿入すると熊は掻きとって穴にとりこもうとする。こんなことを繰り返すと、孔が
ふさがって熊が穴の口に出てくるので、そこを鑓でやっつける。突いたと見ると、数疋の
猛犬が一斉に飛びかかって噛みつく。犬は人に頼り、人は犬に頼って熊を屠殺する。この
やり方は、木の空洞にこもっている熊にも採用する。
訳註:
詩経:中国の詩集。孔子の編纂という。
○白い熊
熊が黒いのは、雪が白いのと同様に定まっているが、自然は時に白い熊を生み出す。天
保三年辰(1832 年)の春、私が住む魚沼郡の浦佐宿から少し離れた大倉村の樵夫が八海山
に入った時、どうやってか白い児熊を捕まえた。珍しいので飼っていたところ、香具師(江
戸にいう見世物師の古風なもの)がこの子熊を買って、市場や祭りなど人が集まる所へつ
れてきて見世物にしていた。私自身もある所で見たが、大きさは犬くらいだが姿は完全に
熊で、毛が白くて雪のようで光沢があってビロードのようで眼と爪が紅であった。人に馴
れてなかなか可愛かった。あちこち持ちあるいていたが、最後はどうなったか知らない。
白亀の改元、白鳥の神瑞、八幡の鳩、源家の旗などすべて白で、日本では縁起のいい象徴
で、自然が白熊を作り出したのも、世の中に平和が続くようにとの兆しだろう。
山家の人の話で、熊を二三疋殺すと、あるいは年をとった熊では一疋でも殺すと、その
山はかならず荒れるので、山で働く人たちはこれを熊荒れと呼んでいる。この故に、山村
の農夫は自ら進んで熊を捕えることはしない、という。
熊には霊気があると古書にも載っている。
注:白い熊:原典のタイトルは「白熊」である。といっても北極熊ではなく、アルビノつま
り突然変異で黒い色素を作れずに白くなったふつうの月の輪熊で、記録は他にもある。他
の動物にもあり、本書にも白いカラスが登場する。[諏訪邦夫訳]
○熊が人を助けた話:50 日間の同居
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図 熊に助けられた話の情景。右上は話している老農夫と紹介の主人と著者。主部は熊が木
樵(洞穴から顔を出している)を先導しようとしている様か。
人が熊の穴に墜ちて熊に助られたという話はいろいろな本に載っているが、それを実際
に体験した人の話が珍しいので記しておこう。
若い頃、妻有(つまあり)の庄(魚沼郡の内にある)に用があって 2、3 日逗留した。季
節は夏で、客室の庭の木かげに筵をしいて納涼していた。主人は酒好きで酒肴をこの場所
に取り寄せ、私は酒を飲まないので茶を飲んで居た。そこへ、老夫が一人やってきて主人
をみて丁寧に挨拶して向こうへ行こうとしたのを、主人が呼びとめて老夫を指して言うに
は、この男は若い頃に熊に助けられた経験があり、危ないところで命をたすかって今年八
十二歳まで元気に長生している見事な老人である、知りあっておいてくださいと言う。老
夫はにっこり笑って、再び退去しようとした。それをよびとめて、熊に助けられたとは珍
ずらしい、是非話を聞かせで下さいと私が注文すると、主人は私の前にあった茶碗をとっ
てまあ一盃飲め、となみなみと酒をつぐ。老夫は筵の端に坐って、酒をみて微笑しながら
続けざまに三杯ほど飲み、舌鼓を打って喜び、それではと話し始めた。
私が 20 歳の二月の始め、薪をとるつもりで雪車(そり)を引いて山に入った。村に近い
所はどこも伐採が進んで、薪があっても足場が悪いので、山を一つこえてみたら、薪にで
きる柴が大量にあって自在にきりとり、歌などうたいながら徐々に束ね、雪車に積んで縛
りつけ山刀をさし込み、来た道を乗って下っていった。途中で柴が一束だけ雪車から転げ
落ちて、谷を埋めた雪の裂け目にはさまってしまった。雪が凍っていても陽気がよくなる
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と、裂けることはよくある。柴一束のことだが、捨てて帰るのも惜しいのでそこまで行っ
て柴の束に手をかけて引き上げようとするが動かない。落ちた勢で、食い込んでしまった
のだ。重い側から引き上げようと、這いつくばって両手を延して一声かけて持ち上げよう
とした時、足を踏ん張る力が不足して自分の力で身体が転倒し、雪の裂け目から遙か下の
谷底に落ちてしまった。雪の上をずるずる落ちたので、幸いに怪我はなく、しばらくは夢
のような気分だった。ようやく気が付いて上を見ると、雪の屏風を建てたようで、今にも
雪崩が発生しそうである。
(ちなみに、なだれのおそろしさは別のところで説明する。
)
とくかく、生きた心地はせず、暗いので明るい方に出ようと雪に埋まった狭い谷間を伝
わって、ようやく空が見える所まできたものの、谷底の雪の中は寒さが烈しく手足も動き
が鈍く、一歩動くのもむずかしく、このままでは凍死かと気持ちを励まし、途があるかと
百歩ほど進んだろうか。滝のある所について四方を見ると、谷間の途は行き止まりでねず
みが甕(かめ)に落ちたようなもので、どうしようもなく呆然としていた。山が深く、何
とか解決しようという気持ちさえ起きなかった。
さてここから熊の話ですが、その前に一盃、と手酌でしきりに飲み、腰から煙草をだし
て煙を吐いている。それでどうしましたと訊くと、老夫の言うには、さて傍を見るとちょ
うど潜れそうな岩の洞窟があり、中には雪もないので入って見るとすこし温かい。ようや
く気づいて、腰をさぐると握り飯の弁当は落としてしまっている。これでは飢死かもしれ
ないが、まあ雪を喰っても五日や十日は生きられよう。その内に雪車歌が聞こえれば村の
者だ、大声あげて叫べば助けてくれるだろう、それまではお伊勢さまと善光寺さまに祈る
だけと、一生懸命に念仏を唱え、大神宮を祈ると日も暮れかかってきた。まあここで寝よ
うと、闇の中を探りながら這っていくと次第に温かくなる。さらに探ると手先に触れたの
は正しく熊だった。
愕然として肝も凍るような気分だったが、もう逃げようはない。死ぬも生きるも神仏に
まかせるほかはないと覚悟をきめ、ところで熊どのよ、私は薪をとりに来て谷に落ちたの
だ、帰る道がみつからず生きては居るが喰物もなく、まあどのみち死ぬべき命だ、引き裂
いて殺してください。でも、もし情があるなら助けてくださいと怖る怖る熊を撫でると、
熊は起き直ったようだったが、すこし動いてきて、私を尻で押しやるので、熊の居た跡へ
坐わると温かくてコタツに入っているようで、全身あたたまって寒さをわすれ、熊にいろ
いろお礼をいってさらに助けてくださいと悲しいことをいうと、熊が手をあげて私の口に
何度も柔かく押し当てるので、蟻のことを思いだし舐めてみると甘くてすこし苦かった。
しきりに舐めると気持ちが爽かになり喉の渇きもなくなり、熊のほうも鼻息を鳴らして寝
たようである。さては私のこと助けてくれるのかと気持ちが落着き、熊と肩をならべて横
にはなったものの、家のことばかり思われて眠くもならないと思っていたが、そのうちに
いつか眠りこんだ。
そうこうしているうちに熊が身動きして目がさめてみると、穴の口が見えて夜が明けた
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とわかり、穴を這い出して、あるいは戻る道がないか、山に登る藤蔓でもとないかとあち
こち探したがみつからない。熊も穴を出て滝壷までいって水をのんでいる時よく見ると、
犬七頭分くらいの大熊である。またもとの洞窟に入ったので、私は洞窟の入り口に居て雪
車の歌の声が聞こえないかと耳を澄ましていたが、滝の音だけで鳥の音もきこえない。そ
の日もむなしく暮れて穴で一夜をあかし、熊の掌を舐めて飢をしのぎ、何日たっても車の
歌はきこえず、心細いことは言いようがない。一方、熊は次第に馴れて可愛くなってね、
などと話しているうちに、主人はほろ酔い加減で老夫にむかって、その熊は牝熊だったろ
うと冗談をいって三人で大笑いしながら、老人にまた酒をのませた。
盃のやりとりで、話がしばらく途切れたが、そこからさらに先をきくと、人の心は物に
ふれて変わるものですね、最初熊に逢った時はもうここで死ぬと覚悟をきめ命も惜しくな
いと思ったのに、熊に助けられると次第に命が惜しくなり、助けにくる人はいなくとも、
雪が消えたら木根や岩角につかまって何とか家に戻ろうと、雪の消えるのだけを待ちわび
何日経ったかも忘れて毎日暮らしていた。
熊は飼犬のようになってはじめて人間の貴いことを知り、谷間で雪のきえるのも里より
は遅くただ日の経つのだけを嬉しく感じていた。ある日、洞窟の入り口で日のあたる所で
虱(しらみ)なぞひねっていた時、熊が洞窟から出て私の袖を口で引っぱるので、どうす
るのかと引かれるままに歩いてゆくとはじめに滑り落ちたあたりに着き、熊はさらに進ん
でどんどん雪を掻きわけ道をひらいてゆく。どこまでもついて行くと、さらにどんどん途
をひらいて人の足跡のある所にきて、熊は四方を眺めて走り去って行方しれずになった。
さては私を先導してくれたのだと、熊の去った方を遙拝していろいろと礼をのべ、これ
こそ神仏の御蔭とお伊勢さま善光寺さまも遙拝して、嬉しくて足の踏み場も判らない気分
だった。夕方自宅に着くと、近所の人々が集まって念仏を唱えていた。両親はじめ皆が愕
然となって幽霊だとさわぎたてた。それもそのはずで、月代(さかやき)は蓑のようにの
び顔は狐のように痩せていたのだから。それでも、幽霊だというさわぎは笑いになり、両
親はもちろん人々も喜び、私が薪をとりに出てから四十九日目の法会を行っていたという
仏事の会合が、急にめでたい酒宴に変更になった。
こんなことを仔細に話したのは、九右工門という小間居の農夫であった。その夜、燈の
下に筆をとって話したままを記しておいたが、今は昔のことである。
訳註:
月代(さかやき)
:江戸時代の男性が、額から頭の中央部をそり落としていたのを言う。
小間居の農夫:意味不明。「小間」は、小間使い、小間切れのように、「ちょっとした」、「小
さい」意味だから、大百姓でなくて小さな土地をもって働く、という意味だろう。
コメント:熊と暮らしたこの話を信じるだろうか。話している当人や書いている著者の雰
囲気からは、デタラメや作り話とは考えにくい。北海道の羆(ひぐま)と比較すると、本
州に住む月の輪熊は性格が温厚で人なつこいことは間違いない。だから、こんな風にヒト
と仲良くなることも、絶対にありえないとも言えないかも知れない。あのオオカミでさえ
も、赤ん坊を育てたという記録はある。しかし、本例の他に熊と長期間仲良くした例は知
られているだろうか。
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熊の冬眠は他の動物と異なり、体温があまり下がらない特殊な状態で、未知な要素も多い
ようだ。[諏訪邦夫訳]
○雪中の虫
唐土蜀の峨眉山には夏も雪が積もっている。その雪の中に、雪蛆(せつじょ)という虫
がいると山海経に載っている。中国書のこの説はデタラメではない。越後でも雪中に雪蛆
がおり、この虫は早春の頃から雪の中に生れ雪が消え終ると虫も消えていなくなるので、
つまり死生を雪と共に暮らすわけである。辞書によると、「蛆は腐中の蠅」ということで、
所謂蛆と蠅である。
蛆は蠆(さそり蠆)の類か、人を刺すというから蜂の類だろう。雪中の虫は蛆の字にし
たがって書いたもので、だからこそ雪蛆は雪中の蛆蠅である。木火土金水の五行の中から
皆虫が生れる。木の虫・土の虫・水の虫はまでは、よく見かけるので珍しくない。蠅は灰
から生じ、灰は火が消えてできる末である、だから蠅は火の虫といえる。蠅を殺して形あ
るままで灰の中に入れておくと生き返る。また虱は人の熱から生れる、熱は火だから、火
から生れた虫である。したがって蠅も虱も共に温かいのが好きだ。金属の中の虫は、肉眼
ではみえず大きさも塵のようなもので、私たちにはわからない。そもそも、銅や鉄が腐る
と最初は虫が出てきて、虫の生れた所が変色する。この場所をしばしば拭うと、それで虫
が殺されるのでそこは腐らない。錆は腐の始めで、錆の中にはかならず虫がいて、ただ肉
眼では見えず火にも及ばないので人が知らないだけというのが、オランダ人の説である。
金属の中でも虫が住むのだから、雪中に虫がいないとは言えない。しかし、常に見えるわ
けではなく、中国の古い書物にも奇妙としている。この越後の雪蛆は、サイズがちいさく
て蚊に似ている。虫には二種あり、一ツは翼があって飛行し、一ツは翅はあるが飛ばない。
共に足は六ツで、色は蠅に似て淡く、一つは黒い。町中にも原野にもおり、この点も蚊に
似ている。ただし蚊のように人を刺すことはない。験微鏡で見た様子を図にして、学者の
解説を待とう。
訳註:蠆:萬の下に虫を書いたこの字は、辞書には「さそり」とある。
○吹雪(ふぶき)の難:赤子だけの生存・凍傷の治療法
図 この遭難の話の絵だが、悲惨な吹雪は描くのがむずかしそうだ。
24
吹雪は樹などに積った雪が、風に飛散するのを言う。その様子が優美なので花が散るの
をなぞらえて「花吹雪」と呼び、昔の歌も多数ある。しかし、暖地で雪があまり降らない状
況での描写である。何メートルも雪が積もる我が越後の雪深いところの吹雪は、雪中の暴
風雪でいわば雪のつむじ風である。雪中第一の難義で、これで死ぬ人が毎年多数いる。そ
の例を一ツ挙げ、わずかな雪から「吹雪はやさしい」と観ている方々に、雪の深い土地での
吹雪の恐ろしい様子を示そう。
私が住む塩沢から遠くない村の農夫の一人が、篤実で親によく仕えていた。二十二歳の
冬、二里あまり離れた村から十九歳の嫁をむかえ、容姿は美しく性質もおだやかで、織物
の技にも優れて舅や姑にも可愛がられ、夫婦中も睦まじく家内は安泰で、その前年九月に
はじめて安産した男児を、
掌中の珠として家内みなで悦び、産婦も元気にお産から回復し、
お乳も子供一人には余るほどで、小児も十分に肥太りおめでたい名をつけて新春をむかえ
て新年を祝った。一家の者は全員篤実で畑作や織物もまじめに勤め、小農だが貧しくはな
く、息子は孝行で嫁もよくて孫も生まれてと、村の人々は常に羨んでいた。これほどの素
晴らしい人たちの一家に、天災が起こるとは何としたことだろうか。
産後に日が経って、連日の雪も降り止み天気も穏やなある日、嫁が夫にむかい、今日は
親の里へ行こうとおもうが、どうでしょうかと言う。舅はそばにいて、それはよいことで
息子も一緒に行きなさい、実母にも孫を見せてよろこばせ夫婦して自慢せよと言う。嫁は
笑顔で姑にそういうと、姑はいそいで土産などをそろえる間に嫁は髪を結い好みの衣類を
着て、綿入の木綿帽子を着けた。この服装は寒国の習慣で見にくくもなく、赤子を懐に抱
き入れようとすると、姑がそばから乳をよく呑ませてから抱きなさいよ、途中では乳を飲
みにくいだろうからという一言にも、孫を愛する情が表れていた。夫は蓑笠と藁沓とすん
べを身に着けた。晴天でも蓑を着るのは、雪中の農夫の普段着だからである。土産物を軽
荷に担い、両親に暇乞をして夫婦で袂をつらね喜び勇んで出発した。これが親子の一生の
別れで、後の悲歎となったのだ。
夫は先に立ち、妻は後からしたがってゆく。夫が妻にいう、今日は特別の日和で、思い
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立たって本当によかった。今日、私たち夫婦が孫をつれて行くとは親たちは知らないでし
ょう。孫の顔を見たらさぞかし喜ぶに違いない。お父さまは少し前にいらしたが、お母さ
まはまだ赤子を見ていないのだから特に喜ぶでしょうよ。遅くなれば一泊してもよいでし
ょうし、あなたもお泊まりなさいよ。そうはいかないよ。二人で泊ったら家の両親が心配
するから、私は帰りますよなどと、話の間に児がなくので乳房をふくませながらつれ立っ
て道をいそぎ、美佐嶋という原中までやってきた時、天気が激変して黒雲が空を覆った。
雪中の常で、夫は空を見て大いに驚き怖れ、これでは吹雪になるかもしれないが、どう
したらいいかと、不安になった。暴風が雪を吹き散らし、まるで巨大な波が岩を越えるよ
うで、つむじ風が雪を巻き上げて白い竜が峯に登るようだ。朗々と明るかった天気も、手
掌をかえすように天は怒り地は狂い、寒風が槍のように肌を刺し、冷たい雪は身を射る矢
のようだ。夫は蓑笠を吹きとられ、妻は帽子を吹ちぎられ、髪も吹きみだされ、わずかの
間に眼・口・襟・袖はもちろん、裾へも雪が吹き込み、全身が凍るようで呼吸もできない
くらいで半身は巳に雪に埋められたが、命のかぎりだから夫婦声をあげ、ほういほういと
泣き叫んだが、往来する人もなく人家にも遠くて助ける人もなく、手足が凍って枯木のご
とく暴風に吹き倒され、夫婦は頭を並べて雪の中に倒れて死んでしまった。
吹雪はその日の夕方には止み、翌日は晴天で近村の者四五人がこの所を通りかると、か
の死骸は吹雪に埋められて見えなかったが、赤子の鳴き声を雪の中に聞いて、人々は大い
に怪しみながら怖がって逃げようとするものもいた。しかし、気の強い者が雪を掘ってみ
ると、まず女の髪の毛が雪中にみえた。さては、昨日の吹雪で倒れたのだろう。この地の
やり方で、皆あつまって雪を掘り、死骸を見ると夫婦は手をとりあって死んで居た。児は
母の懐にあり、母の袖が児の頭を覆って児は雪をかぶらなかったので凍死せず、両親の死
骸の中でまた声をあげて泣いていた。
雪中の死骸なので姿は生きているようで、見知った者がいて夫婦だと知り、我児をいた
わって袖をおおって夫婦は手をはなさずに死んでいった心のうちも思い遣られて、さすが
の若者らも涙をおとし、児は懐にいれ死骸は蓑につつんで夫の家に運んで行った。かの両
親は、夫婦は嫁の家に一泊したと思っていたのに、死骸を見て一言もなく、二人が死骸に
とりつき顔をおしあて大声をあげて泣くのは、見るも憐れである。一人の男が、懐より児
を取り出して姑にわたしたので、悲と喜と両方の涙を落としたことであった。
吹雪が人を殺す状況は、だいたいこんな具合である。暖地の人が花の散るのに比べて美
しいと賞する吹雪とはまったくちがう。潮の干満で遊んで楽むのと、大波に溺れて苦しむ
のとの違いだ。雪国の難義を暖地の人は想像してほしい。連日の晴天も、急に変わって吹
雪となるのは雪の常である。その力は、大木を引っこ抜き、家を倒す。人も家もこれで苦
むことは実に多岐にわたる。吹雪に逢った場合、雪を掘って身体をその中に埋めて隠れれ
ば、雪が暫時に積もって雪の中はかえって温かく、しかも空気も通るので死をまぬがれる
こともある。雪中を歩く場合、陰嚢を綿でつつんだりする。そうしないと、陰嚢が最初に
凍って精気が尽きてしまう。また凍死した人を湯火で温めて助かることもあるが、その際
に熱湯を用いてはならない。たとえ、一時は命がたすかっても春に暖かくなってから四肢
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が腫れて病気となり優秀な医師にも治せない。凍死した場合、まず塩を温めて布で包み、
これでくりかえし臍をあたため、弱い藁火ですこしずつ温めれば、助ってから病気が出る
ことはない。人肌で温めるのがもっともよい。
手足の凍った状態を強い湯や火で急にあたためると、温かくなった時に火傷のように腫
れ、ついに腐って指をおとすことになり、こうなると薬は効かない。この点は、私の観察
を記しておこう。人の凍死では、手足の凍った状態で毒が血管を塞いでしまう。急に湯や
火の熱で温めると人の精気が血をたすけ、毒が一旦はとけるが全く消えたわけではない。
陰は陽にかなわないから、陽気が生まれると陰の毒が肉に集まって腐るのである。寒中や
雨や雪の中を歩いて冷えた人を、湯火で急に温めてはならない。自分自身の体温でゆっく
り温まるのをまつがよく、これが蘇生の方法である。
訳注:ふぶきは現代語では「吹雪」と綴るが、本書では一貫して「雪吹」である。本書に記
されている凍傷の治療法は、
現代でもそのまま通用するのではないだろうか。
[諏訪邦夫訳]
○雪中の火:天然ガスの発見
世に越後の七不思議と称するものの一ツ。
蒲原郡妙法寺村の農家炉中の隅石臼の孔から火が出る現象があり、人は皆とても変わっ
たことと口伝して、いろいろな本にも書いてある。この火は寛文(1661-1673)年間に始め
て見つかったと古い記録にあるから、今では三百年(訳註)で、その間ずっと絶えずにい
るとは実に奇妙な現象である。ところで、世にこうした奇妙な現象は一つとは限らず、同
じ越後の国の魚沼郡にもう一ツ同様な奇妙な火が出る。状況は上に述べた妙法寺村の火と
同じである。妙法寺村のは人に知られて有名だが、魚沼郡のはよその国の方々は知らない
ので、ここに述べて話の種に提供する。
越後の国魚沼郡の五日町という宿場に近い西の方に低い山があり、
山の裾に小川がある。
天明(1781-89)年間の二月、そのほとりに子供たちがあつまって遊んでいて、遊びにあき
て木の枝をあつめ焚火にあたっていた。ところが、その焚火からすこしはなれた場所で火
が燃えあがったので、子供たちは急に怖くなって逃げてしまった。子供の一人が、家に帰
ってこのことを詳しく親に話したところ、この親が気の利いた人間で、早速その場所に行
った。火の様子を見ると、まだ雪が残っている雪の中に手が入るくらいの孔があり、その
孔から三四寸(10cm)ほど上まで火が燃えている。丁寧に眺めてから、どうやらこれは妙
法寺村の火に似ていると考え、火の出口に石を置いて一応火を消して家にかえり人には話
さずにおいた。雪が消えてから再度その場所にいって見ると、火の燃えたのは小川の岸で
ある。火燧石でろうそくに火をつけて試しに池の中に投げいれると、池の中から火が出て
庭でかがり火を焚くのと似ている。水の上で火が燃えるとは妙法寺村の火より珍しいと、
宿場中の人たちが来て眺めた。
その後、金銭に敏い人がこの池のほとりに建物を建て、筧から水をひくように地中の火
を引いて風呂の釜を燃やし、また燈火の代用にもした。こうやって、地中の火で風呂を沸
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かし料金をとって浴場を経営した。この湯には硫黄の気があって疥癬の類を治す効能があ
るといい、一時流行して多数の人々が集まったこともあった。
ここからは推論だが、地中に水脈と火脈とがある。地は陰だから、水脈が九分で火脈は
一分しかない。だから火脈は稀である。地中の火脈が高まるとそれが気を出すわけで、人
の呼吸と同じだが、肉眼には見えない。火脈が呼吸して呼気するものに人間が火をつける
と燃えて明確な火となり、これを陰火とか寒火と言う。寒火を引いて筧の筒が焦げず、火
脈の呼気に火はつかず、明らかな火とはならず自然の呼気だけだった。火をつけると、筒
の口より一二寸(3-6 ㎝)ほど上方に火がついた。これで、火脈の気息が燃えるのがわか
る。妙法寺村の火もこれと同じである。こんなことは私が考え付いたことではなく、古書
を読んで考えついただけである。
訳注:この文章の書かれているのは 1840 年より前だから、寛文(1661-1673)年間からの
期間を 300 年としているのは単純な計算違いだろう。当時西暦はおそらく使われていない
が、皇紀歴で計算したのだろうか。皇紀歴は神武天皇の即位で始まり、西暦より 660 年長
く、1940 年(昭和 15 年)が皇紀 2600 年だった。こういう一つながりの暦がなくては、長
期間の年代は数えられない。
コメント:この項目は天然ガスが出たと解釈できる。火脈・陰火・寒火など、ガスが出て
いるだけでは燃えず、火をつけて燃えるのは現代科学では当たり前だが、これだけ明確に
記述しているのは当時としては優れた科学的な見方である。[諏訪邦夫訳]
○破目山(われめきやま)
:隙間だらけの岩石の山
魚沼郡清水村の奥に山があり、高さは一里あまり、周囲も一里あまりである。山中すべて
に大小の隙間があるので破目山という名がついている。山の大半は老樹が多数並び、途中
から上は岩石が重なり、
形は竜が躍り虎が怒るように奇々怪々で、
言葉では表現できない。
麓の左右に渓流があって合流して滝となっており、この絶景もまた言葉につくせない。旱
魃で水不足の時に、この滝壺で沐浴すると霊験あらたかで雨になる。ある年四月の半ば、
雪の消えた頃に清水村の農夫ら二十人あまりが集って、熊狩をしようとこの山にのぼり、
岩の隙間の洞窟になった所にはかならず熊がいるに相違ないと、山椒や煙草の茎を薪に混
ぜ、洞窟に向かって火を焚いてみたが、熊は一向に出てこない。洞窟が深いので煙が奥ま
で届かないのかと、翌日は薪の糧を増し山ごと焼こうという勢いで火を焚いたが、やはり
熊は出ずに山の岩の破ぶれ目のあちこちから煙が出て雲のように見え、不思議な気持ちに
なって結局熊狩りは止めて手ぶらで戻ったと清水村の農夫が話していた。
この山は中途から上は岩だけで土は少ししかなく、
地脈に気が通って破ぶれて隙間になっ
ているのだろう。自然の妙と不思議さは、ただ考えるだけでは及ばないことである。
訳注:「高さは一里あまり」
。原文は「高さ一里あまり、周囲も一里あまり也」で、高さ一里
(4 キロ)は標高のことではない。後の苗場山にも出てくる表現で、登り道の距離を述べ
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たものと解釈しておく。しかし、周囲が一里はごく小さな山で半径は 650 メートル、「登り
道の距離が一里」とは登り道の曲折を考慮してもちょっと納得できにくい。
清水村:破目山の場所は不明だが、清水村は清水峠を下った場所で清水トンネルの北東側
にあたるから、大体の場所は推測できる。[諏訪邦夫訳]
○雪頽(なだれ:雪崩)
:結晶が六角で雪崩は四角の理由
山から雪が崩れるのを、この地の言い方でなだれという、また「なで」とも言う。私の推
測だが、なだれは「撫下る」意味で、「る」を「れ」というのは活用形が単語になったもの
で、他にも例がある。ここでは、
「雪頽」の字を当てて用いる。「頽」は辞書では暴風と説
明しているから合致しているだろう。
なだれは吹雪とともに、雪国の二大難義の一つである。高山の雪は里よりも深く、凍るの
も里より激しい。この魚沼の土地の東南の山々は、里に近いところでも雪が深く、一丈四
五尺(9~10m)は浅いほうである。雪が凍って岩のごとくなると、二月になって陽気が地
中より出て雪が解けようとする時、地気と天気との為に雪が破れて響きわたる。一箇所が
破れると、あちこちが破れて雪崩になる。
その響き方は大木が折れたようで、なだれ開始の前兆である。山の地勢と日の照り方と
で、なだれる箇所となだれない箇所があり、またなだれるのは必ず二月に起る。里人は、
発生の時期も場所も兆候も知っていて、なだれにうたれて死ぬことは稀である。だが、天
の気候は急変するし一定ではないから、雪崩で身を砕かれる場合もある。雪崩の形に関し
て、その雪の塊は大きいものは十間(20m)以上もあり、小さくても九尺五尺(15×8m)
はある。大小数百千すべて四角で、削りたてたように必ず四角になるのは解釈がむずかし
いが下に説明する。
これが幾千丈もの高いところから一度に崩れ落ちる時の響きは、百干の雷のような大音
響で、大木を折り、大石を倒してしまう。同時に必ず暴風が起こってなだれに力をそえ、
さらに一部の雪を砂や礫のようにふっ飛ばし、日中でも暗夜のように暗くなる。その恐ろ
しさは、描写がむずかしいほどだ。雪崩で命を落とした人、かろうじて命を助かった人な
ど、私が見聞したものを加えて次の項目で述べて暖国の人に話題として提供しよう。
ある人がこう質問した。雪の形が六角形なことは、前に詳しく説明した。雪崩は雪の塊
で、砕けた形が雪の六角形の本来の形でなくて 4 角なのは何故だろうか、と。私の答えは
以下の通りである。地の気が天に上って雪となるのだから、天の円と地の四角を合せて六
角になるのだ。六角は円形の裏である。雪が天の陽を離れて降り下って地に戻ると、天の
陽の丸い形を失って地の陰の 4 角という本来の形に戻るので、だから雪崩はあちこち尖が
っている。このなだれも、溶けはじめると角は丸くなるので、つまり太陽に照らされて、
天の円に戻るのである。陰の中に陽を包み、陽の中に陰を抱えるのは天地の定理の中の定
めである。老子経第四十二章にある通り、万物負陰而抱陽冲気以為和(すべてのものには
陰の要素と陽の要素があり、全体はそれでバランスがとれる)と言っている。この理屈で
は、妻がいつも静かにして夫のいう通りでは陰は陰のままで陽を抱えることができず天の
理に叶わない。時には、夫に代って理屈をいって陽にでるほうが家の内は治まるものだ。
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だからといって、理屈が過ぎて「めんどりときをつくる(雌鳥が明け方に鳴きたてる)」よ
うでは、これも家内の陰陽が逆転して天の理に反しているから家が廃れる元である。万物
の天理はこのように決まって、反論の余地はないと言うと、彼は納得して退散した。
雪崩はすべて四角と決まったものでもないが、十のうち七つか八つは方形であるから、こ
んな説を説いてみた。雪崩の図は大抵の場合 4 角形に描いてあるが、可能性の多い形を採
用しているのだろう。
訳註
雪頽:「なだれ」は現在では雪崩と書くが、本書では一貫してこの字を当てている。ただし、
断り書きにもあるように著者の書き方で、広く常用され確立しているものではないようだ。
最後のほうの結晶が六角で雪崩は四角の説明は、あまり明快ではない。原文自体が明快で
ないので、私の読解力の乏しさの故だけではないと思う。
[諏訪邦夫訳]
北越雪譜初編上巻 終り
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北越雪譜初編中巻
一覧
○雪頽(なだれ)が人に災する例:鶏が雪の下の人を発見?
○寺の雪頽:幸運な僧と念仏の効用
○玉山翁が雪の図:雪の中では馬に乗れない
○越後縮:まず原理と歴史、雪の役割
○縮の種類:色と模様と産出地
○縮の紵と紵績:原料と紡績の問題
○縷綸(いとによる):糸に撚る方法と効用
○織婦:縮をつくる女性たち
○織婦の発狂
○御機屋(おはたや)
:作業場は神聖
○御機屋の霊威(不思議)
○縮をさらす:製作とは別の過程
○縮の市:製作者の手を離れる
○ほふら:現在用語なら「新雪なだれ」
○雪中花水祝い(雪の中で、花と水で祝う)
○菱山の奇事:雪崩で豊作凶作を占う
○秋山の古風:秘境秋山への紀行の序
○狐火:怪しからんキツネ奴
○狐を捕る:キツネ捕獲法はジョークか?
○雁の代見立:雁は見張りを立てる
○天の網:カスミ網の利用
○雁の総立:番鳥と司令鳥と従卒の関係
○渋海川ざい渉り:一面の氷が溶けて流れる壮観
○雪頽(雪崩:なだれ)が人に災する例:鶏が雪の下の人を発見?
図 雪崩で埋まった被害者を発見するのに、鶏が有用だという話を実行。
私の住んでいる魚沼郡で雪頽(なだれ)で非業の死をとげた例があり、村人の話を記そ
う。ただし、人の災難なので人名は記さない。
ある村に一家の総勢十人あまりの農家があり、主人は五十歳ほどで妻は四十歳前、長男は
二十歳を超え娘は十八歳と十五歳である。いずれも孝行な子供たちとして評判だった。あ
る年の二月はじめ、主人は朝から用事である所へ出向いたが、夕方 4 時になっても帰って
こない。とくに時間のかかる用事でなく、家では不審におもって長男が家僕をつれて用務
先の家まで出かけて父のことをたずねると、来ていないと言う。それでは、ここだろうか
あそこだろうかと家僕と相談して尋ね回ったが、状況がまったくつかめない。日暮れにな
り空しく家に戻って母に話すと、不思議なことと心あたりの処へ人を走らせてたずねさせ
たが、所在がわからない。
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夜半、午前 1 時になっても、主人は帰らない。近くの人たちも話を聞きつけて、人が集
っていろいろ評議していると、ある老人が来ていうには、ご主人の行方がわからないと言
うことだが、私に心あたりがあるので知らせに来たと言う。心あたりときいて妻は大よろ
こびで、子どもも一緒に言葉をそろえてまず礼をのべ、仔細をたずねると、老人の話しは
こうである。自分が今朝、西山の峠の中途にさしかろうとした時、お宅のご主人に行逢い、
何方へとたずねると稲倉村へ行くと言ってすれ違った。私が自宅へ戻る途中、すれ違って
少し経った時になだれの音をきいて、あの山ではないかと峠を無事に通過したのをよろこ
んだが、ご主人は途中で災難にあったかも知れない、万一なだれに遭わなかったかと心配
しながら帰宅した。こんな時間に帰ってこないのは、もしかするとなだれかと眉をひそめ
た。心あたりときいて、親子は一度安堵したのに逆に心配になり、顔を見あはせ涙ぐんだ。
老人は、これを見てそこそこに帰ってしまった。
集っていた若者たちがきいて、それではなだれの場所に行って調べようと、松明の準備な
ど騒ぎだすと、ある老人がいうに、いやちょっと待て、遠くまで出かけた者がまだ帰らな
い、でも今にもご主人が戻ってこないものでもない。なだれにうたれるような不覚をとる
人ではないのに、あの老人がいらぬことを言って親子の心を苦めているというと、親子は
これに励まされ心も慰められ酒肴を出して人々にすすめた。皆にも笑いが戻って、炉辺で
酒をかわし、時間が経ち、遠くまで尋ねたものが戻ったが、行方は相変わらずわからない。
夜が明けると、村の人たちだけでなく噂を聞いた人々が加わり、それではと手に木鋤を持
ち家内の人々も後について、先の老人がいったなだれの場所に着いた。雪崩を見ると、た
いしたこともないわずかなもので、道を塞いでいる距離も 20 間(36 メートル)ほどで、
雪の土手ができている。まさかこんなところで死ぬとはと思うが、なだれの下をここだと
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明確に決める根拠もなく、どうしようと人々がぼんやりしていると、例の老人がさあ仕事
にかかろうと、若者をつれて近村に行き、鶏を借りあつめ、雪崩の上に放ち餌をあたえな
がら思いどおりに歩かせた。
すると、
一羽の鶏が羽ばたいて時ならぬに声を上げて鳴くと、
他の鶏も集まって声を合わせて鳴いた。これは、水中で死骸を探す方法を雪に用いた臨機
応変の工夫と、後まで人々が話にしたことである。
さて老人が集まった人たちにむかい、あるじはかならずこの下にいる、さあ掘ろうと大勢
が一度にかかって雪崩を砕いて掘った。大きな穴を 2mほども掘ったが、何もみつからな
い。さらに力を入れて掘ると、真白い雪の中に血に染まった雪にあたった。さてはとさら
に掘り進めると、片腕がちぎれて首のない死骸を掘りだし、やがて腕は見つかったが首が
ない。これではどうだと、広い穴をさらにあちこち探すとやっと首も出てきた。雪中にあ
ったので、表情は生きているようである。さきほどからこの場にいた妻子は、これを見る
と妻は夫の首を抱え、
子どもは死骸にとりすがり声をあげて哭いている。人々も誰も彼も、
涙をさそわれた。しかし、そうばかりもしていられず、妻は着ていた羽織に夫の首を包ん
でかかえ、長男は着ていた綿入れを脱いで父の死骸を涙ながらに包んで脊負うとすると、
一部のものがさっさと部落から戸板を取り寄せて担ぐ用意を整えたので、妻がもっていた
首を死骸に添えて皆で担ぎ、残りの人々は前後につきそい、妻と子どもは涙にくれながら
後について帰った。
この物語は、若い頃に当事者の話を記述したものである。なだれで生命を失った例は、こ
れに限らず少なくない。
なだれで家をおしつぶされた例もあり、恐ろしさは言語に絶する。
今の話で死骸の頭と腕が離断したなどは、なだれの威力と残虐さを示している。
○寺の雪頽:幸運な僧と念仏の効用
なだれは、山で発生するとはかぎらない。山の形になった場所では、思わぬ状況で発生す
る。文化年間(1804-1818)のはじめ、思川村天昌寺の住職の執中和尚は私鈴木牧之の伯
父だが、その彼が遭遇したことである。2 月末、彼は居間の二階で机に座って書き物をし
ていたが、窓の庇に垂氷(たるひ、つらら)が 1 メートル半以上も延びて、明りを妨げて
机のまわりが暗いので、軒下に出て家僕が除雪用においた木鋤を手にして、氷柱(つらら)
を壊そうと一打ちした。この土地では氷柱を「かなこおり」ともいい、古い言葉では「たる
ひ」ともいう。
ところが、和尚のこの打撃で誘発されたのだろう。本堂に積もっていた雪の片屋根分がど
うとなだれおち、ちょうど土蔵のわきに清水の湧く池があり、この和尚はなだれに押され
て池に落ちそうになったが、なだれの勢いで身体は手鞠のように池を越え、大量の雪に半
身を埋められた。
大声をきいて、
丁度台所のあたりで除雪していた若者たちが駆けつけて、
使っていた木鋤で和尚を掘りだした。和尚は大笑いしながら身体を調べると何の傷もなく、
耳に掛けていたメガネまで無事で助かった。
この和尚は、この時七十歳だったが、前の話に登場した某村の人の不幸に比較すれば、九
死に一生をえたので幸運だった。その後、八十歳まで病気もしないで文政(1818-1830)
の末に亡くなった。その和尚が何度も私にいったことだが、なだれにあった時に書いてい
たのは尊い仏典で、一字毎に念仏を唱えながら丁寧に書いていた。なだれで死んでおかし
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くない状況で、不思議に命が助かったのは字を書きながら念仏を唱えていた功徳だ。だか
ら、人は常に神仏を信心して、悪事と災難を免れようと祈るのがいい、神仏を信ずる心の
中からは悪い心は出てこない、悪心のないことが災難をのがれる基本と知った、と述べて
いたのが今も耳に残っている。
人智を尽していながらつまらない大難にあうのも、因果のしからしむる処ではあろう。と
もあれ、凡人には計り知れないことである。人家が雪頽で家を潰され、人が死ぬなど数多
く見聞したが、むやみに書いても仕方がないのでこの辺でやめよう。
○玉山翁が雪の図:雪の中では馬に乗れない
図 三国嶺で起きた雪崩の上を人が歩いている様子を描いている。注釈つき。
先年、岡田玉山翁が軍物語の画本を出版したが、その中に雪中にたたかう越後の兵士とい
う図がある。文には深雪とあって、しかも十二月なのに、描いてある軍兵どもの動きはと
見ると雪はごく浅い。越後の雪中では、馬は立ってはいられない。だからこそ農民ですら
雪中で牛馬は用いないので、まして戦場で軍馬をつかえるはずがない。馬上の戦いとして
描いたのは作者のあやまりで、当然挿絵画家も間違えている。雪の少ない土地の人の作品
だから、雪の実際を知らないのはもっともである。
つまり、越後の雪中の本当の姿とはまったく違う。しかしながら、画には嘘も加えるもの
だから状況がうまく合わないのも仕方がないが、差があまり大きいと玉山の玉に疵となる
のも残念である。玉山はかねて文通していた相手なので、下手ながら雪の真景をいろいろ
写生し、さらにふだん見ない真景も描きたいと春の半ばに三国嶺に近い法師嶺のふもとに
在る温泉に旅してその付近の雪を見たところ、高い峯から落ちるなだれは、10m以上もの
四角や三角で長さが 30~30mもありそうなのが谷に横たわっていた。そういうものが大小
いくつも重なり、雪国に生まれた私の目にさえも、この奇観は言葉では言い表せない。
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これらの景色も現場で写生したものを添えて贈ったところ、玉山翁の返事に、北越の雪が
まるで机にふりかかりそうでめざましかった、こんな図をもっと数多くあつめて文を加え
て例の絵本にした、雪が激しく降り積もるように全国に知らしめるのはまさに貴方の仕事
だといわれ、その手紙が今も私鈴木牧之の本箱におさめてある。本書が出版されずに私が
死んでしまえば、玉山もあの世で残念がるだろう。
訳註:岡田玉山(1732-1812)は大阪の画家で、著者はこの人と親交があった。
『北越雪譜』
はいろいろな人と出版の交渉をしているが、玉山にも著者が本書の出版を委嘱し、ある程
度まで順調に進んだが、玉山が亡くなって立ち消えになった。[諏訪邦夫訳]
○越後縮:まず原理と歴史、雪の役割
ちぢみの文字は、普通の俗用にしたがう。本来「しじみ」と読むべきだが、これも俗用に
したがってちぢみと読んでおく。
縮は越後の名産で、その点は広く世に知られてはいる。ところで、他の地方の方々は越後
の国全体の産物と思うかも知れないが、実はそうではなくて、産するのは私の住む魚沼郡
一郡だけである。魚沼郡以外で産出される量は少なく、質的にも魚沼産に及ばない。
そもそも縮と呼ぶようになったのはつい最近で、
昔はこの付近でもただ布とだけ呼んでい
た。布は紵(カラムシ)の繊維で織る物の総称だからだろう。現在でも、私の住んでいる
付近では、老女などが「今日は布を市にもってゆけ」などと言う、古い表現が残っている。
東鑑(吾妻鏡)をみると、建久三壬子の年に勅使が京都に戻る際に、鎌倉幕府の将軍が作
成した餞別のリストに「越布千端」と載っている。これよりさらに古いものもあるらしい
が、あまり詳しくは調査していない。その後になると、室町幕府の内部の事柄を記録した
伊勢家の書には越後布のことが数多く記述されている。したがって、縮は昔からこの地方
の名産だったことが明らかである。
私の勝手な考えだが、昔の越後布は単に上等な布というだけの物だったが、次第に工夫を
加えて糸に撚りをつよくかけて汗を吸い取る織物にしたのだろう。それで以前は縮布(ち
ぢみぬの)といったが、今では省略してちぢみと呼ぶようになったのではないだろうか。
こうして年月が経って、さらに工夫が加わり、丈夫だけでなくて美しさも重んずるように
なり、今ではちぢみという名が残っているが昔とは違う。自分が子供の頃を思い出してく
らべてみると、今では模様を織りこむなど錦を織る方法まで組み込み、どんなむずかしい
模様も、
縞も絣模様も上手に出せるようになり、いろいろと変わった工夫まで加えている。
機織(はたおり)を担当する婦人たちが賢くなった故だろう。
訳註:建久三壬子:元号の建久は 1190ー1199 年であり、建久 3 年は 1192 年つまり源頼朝
が幕府を開いた年で、これが壬子(じんし、みずのえね)である。壬子の年には水害が多
いとか、この年の生まれの男性は気が弱いといった迷信があるという。[諏訪邦夫訳]
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○縮の種類:色と模様と産出地
縮を産出するのは魚沼郡全体ではあるが、といっても一通りではなくて、村ごとに産出品
が決まっている。この点は、各々の村が昔から決まった製品だけに修熟して他の品に手を
出さない故である。場所と産出品の組み合わせは下のようになる。
▲白縮は堀の内町の周辺の村々
これを堀の内組といい、一部は浦佐組や小出嶋組の村々も担当する
▲模様類あるいはかすり。藍錆と呼び、塩沢組の村々
▲藍の縞は六日町組の村々
▲紅桔梗縞の類は小千谷組の村々
▲浅黄繊の類は十日町組の村々である。
▲紺の弁慶縞は高柳郷に限定している。
以上はいずれも魚沼一郡の村々である。この他に、ちぢみを出す所が二三ケ村あるけれ
ども、いずれも単一の製品を扱ってはいないので、特に書かないでおく。
縮は以上の村や部落の婦女子が、雪中に籠っている間に行う手作業の産物である。売ろ
うという量のちぢみを、前年の十月から糸をつくりはじめて次の年二月半ばに晒しを完了
する。白縮は、見た限りでは織りやすそうで、知らない人は手が込んだものとは思わない
が、上手下手が現れやすい。村々の婦女たちがちぢみに丹精を尽す有様は、こんな短い文
章では書き尽せないが、とりあえず全体の概略を次に記す。
○縮の紵と紵績:原料と紡績の問題
紵 (ちょ:からむし、からむしから織った布)
縮に用いる紵は、奥州の会津や出羽の最上(もがみ)で産出されるものを使用する。白
縮では会津産だけを用いる。「影紵」というものが特に極上品で、また米沢の「撰紵」と称
するものも上等品である。越後の紵商人がそれぞれの土地に赴いて紵を入手し、越後の当
該地に販売するもので、紵をこの地方で「そ」と呼ぶことがあり、これも古い用語である。
麻を古い用語で「そ」といったのは、綜麻(へそ)の類である。麻も紵も字の意味は同じで、
布に織るべき植物の種類の糸の名前である。紵の皮を剥いで、苧の繊維に作るのがふつう
のやり方と辞書には書いてある。
何年か前に江戸に滞在した頃、ある人から、縮に用いる紵をつむぐにはその付近の婦人が
誘い合って一家にあつまり、その家で用いる分の紵を績ぎ、それを繰り返して互いに家か
ら家へと移動して紡ぐと聞いたが、そんなものですかとの質問を受けた。これはデタラメ
で、そんな話を広めたのはどんな人だろうか。とはいうものの、魚沼一郡も広いから、そ
んなやり方が絶対にないと断言はできない。しかし、それは下等品の縮に用いる紵のこと
だろう。下等品はとりあえず議論の外におき、中等品以上に用いるものをつむぐには、場
所を決め、
身を清めて体調も整えて作業する。
場所を決めずにあちこち動いて作業すれば、
心が落ち着かず糸に太い細いの不均衡が生じて役にたたない。世間並みの紵をつむぐには
唾液をぬりつけるが、ちぢみの紵績には茶碗か盥(たらい)に水を入れて使用する。定期
的に盥の水を変え、座も清めて作業する。
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註:紵績:績は麻のこともいい、
「つむぐ」意味にも使う。原タイトルの「紵並紵績」は「カ
ラムシの問題と、それをつむいで糸にする問題」と解釈する。
綜麻:現在では糸の処理の仕方をいう。
麻と紵の関係:紵(からむし)は特定の植物の品種。一方、麻は紵の他に大麻・黄麻・亜
麻・マニラ麻など近縁の植物全体の総称である。[諏訪邦夫訳]
○縷綸(いとによる)
:糸に撚る方法と効用
繊維を糸に撚って(よって)いくに際し、場所を定め身体を落ち着けて行うのは紡ぎと同
じである。糸撚りにも、道具・手法・手順などに応じていろいろな名前があり数が多い。
あまり詳しく述べると、細かすぎて煩わしいから省略する。
そもそも、
糸をつくりはじめる時点から布として織り上がるまでの作業はすべて雪中で行
う。上等品に用いるものでは、毛髪より細い糸を縮めたり伸ばしたりして扱うので、雪中
に籠り天然の湿気がなければ仕事の達成は困難である。湿気がないと糸が折れてしまう。
折れると、そこは弱くなり切れやすい。だからこそ、上等品の糸をあつかう場合、強い火
は近付けず、時期をみて織り進める。二月の半ばになって、暖かくなって湿気が下がって
くると、大きな鉢に雪を盛って織機の前に置き、湿気を補って織り進めることもある。こ
のことについてよく考えると、絹を織る場合は蚕の糸なので温かいほうが好く、縮布を織
るには麻の糸なので冷たいほうが好いと解釈できよう。それで絹は寒い時に身につけて温
かく、縮は暑い時に着て冷たくて快い。自然に陰陽の気運に合致しているといえそうだ。
ともあれ、こんな風に雪中に糸をつくり、雪中に織り、雪の水で洗い、雪の上にさらす。
雪あっての縮であるから、
越後縮は雪と人と気力が補いあってはじめて名産品なのである。
魚沼郡の雪は縮の親というべきものだ。雪の少ない土地で布の名産があるとすれば、糸の
作りによることで、この点を越後縮に比べて承知すべきであろう。
○織婦:縮をつくる女性たち
織物を専業とする場合、織る専門の人を雇って織らせるのが合理的である。ところが縮の
場合は別で、
一国の名産ではあるものの、
専門の織婦を雇って織りを担当させる例はない。
何故なら、縮を完成に仕上げるまでに人の手を労する段階があまりに多くて数えきれない
からである。この仕事は、手間に対して賃銭を払って賃仕事で簡単に進められることでは
なく、雪中に籠る婦女が手を尽くしてはじめて可能である。
縮の糸四十綫(すじ)を一升(よみ)と言う。極上品のちぢみは経糸(たていと)が二十
升より二十三升にも達する。しかも筬(おさ)には二本ずつ通すから、一升の糸は八十す
じである。布幅四方に横糸もこれに随ってあわさないと布ができない。よこ糸はなお多い
だろうが、たしかではない。
したがってわずか一尺織るにも、九百二十回手を動かすわけで、一端を二丈七尺(8m強)
として、その間に 2 万 4 千 4 百 84 回手を動かしてようやく一端が織り上がる。これはふつ
うの長さの表現法だが、ちぢみの場合は鯨尺で表現するから一端は三丈(10m)である。 糸
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のつむぎはじめから、織上げて完成するまで苦心がいかに大変か、こんな説明でも想像で
きよう。ちぢみと限らず織物製作はすべて同じ苦労が伴うが、ちぢみでは私が実見してい
るのでわざわざ述べた。こんな風にして完成する縮だが、購入する価格はたいしたことも
なく、
それだけ支払えば勝手に着用できるのだから、
考えようによっては安いものである。
縮を織る家では、妻をえらぶにも縮の技を第一とし、容貌は第二である。だから、親は娘
が幼い頃よりこの技術を身につけさせることを第一に考える。十二三歳になれば、本格的
に太布を織ることを教え込み、十五六歳から二十四五歳までの女性は気力が盛んなので上
等品の縮の製作に適するが、高齢になると布の表面の光沢が乏しくなって品質も下がって
しまう。高貴な方面からの注文はもちろん、極上の誂物には製作に修熟した上手な女性を
えらぴ、何方の誰々と指名も受けるから、そういうレベルに達したいと各自が技をみがく
ことになる。これほどの辛苦も、実は僅かな価格の為の努力の賜物である。唐の秦韜玉の
村女の詩に、年々金線をつかって他人のために嫁入り衣裳を作るのがとても恨めしいとい
うのがあるが、まったくもっともである。
訳註:布の量の単位をここでは「一端」と書いている。「一反」という書き方も多い。
[諏訪邦夫訳]
○織婦の発狂
図 本文にある、織女発狂を描いている
先年、ある村の娘が、はじめて上々のちぢみの注文を受けた。大変に喜び、金銭の問題
ではなく、特に見事な出来栄えをみせて評判になりたいと、糸のつむぎからはじめて人手
を借りることもなく、すべて自分一人で頑張った。こうして見事に織上げたものを、さら
し屋から母が持ってきたと聞いて、娘は早く見たくて他の用事を止めて開いてみた。とこ
ろがどうしたことか、小銭ほどの煤色のくもりが出てしまった。それをみて、母上さまど
うしたことでしょう、無念なことといって縮を顔にあてて泣き崩れたが、そこから発狂し
てしまい、変な言葉を発しては家中を走りまわったりするようになった。両親も娘が心を
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込めたその心の中を思いやって一緒に泣いたことで、それを見た他の人々もあわれに思っ
てみな涙をさそわれたという。友人某から聞いた話である。
○御機屋(おはたや)
:作業場は神聖
特に貴重で大切な縮をおるには、家の周辺につもった雪もそのつもりで掘りすて、住居内
でなるべく煙の入らない明りもよい一間をよく拭き清め、新しい筵(むしろ)を敷きなら
べ、四方にはしめ縄を引き渡し、中央に織機を設置する。これを御機屋と呼んで神様がい
るかのように扱い、織る人当人の外は他人を入れず、織る女性は別の火をつかって調理し
た料理を食し、機織りを開始する際は衣服をあらため、塩垢離をとり、盥(てあらい)漱
ぎ(くちすすぎ)などで身を清める。これを毎日実行する。月経の際は仕事をせず、勿論
部屋にも入らない。他の娘たちは、今日は誰々が御機屋を拝みに参るなどの言葉で仕事を
表現する。特別上手な女性だけが、このように特に機屋を建てるのだから、他の女性がこ
れを羨やんで、いわば階下にいて昇殿の位をうらやむような感じだ。
訳註:「塩垢離」
、塩水で身を清める意味だろう。塩には霊的な作用があると考えるようだ。
[諏訪邦夫訳]
○御機屋の霊威(不思議)
神様は敬(うやま)うほど力をますというが、なるほど有難いことである。ちょっとした
物でもお守りとして敬い信じれば霊験が現れることがある。たとえば人の履きすてた草鞋
にしても、それを多くの人が信じて、のちのちは草鞋天王として祭ったという例が五雑組
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(中国、明時代の書籍)に載っている。ましてや本来神々しいものを敬えば、霊威あるお
天道様が応じるのは当然で、この点は人知では計り知れないものがある。
ある村の娘が、例の機屋に入って心を平静に保ち、機を織っていたところ、傍の窓をとん
とん叩くものがいた。心当たりがあったので、立って開いて見ると、思った通り心を通わ
せた男である。たまたま人目に触れる状況でなかったので、とても嬉しく感じて機屋を出
て家の裏へ行き、窓辺に立っていた男をひきつれて木小屋に入った。そこへ娘の母が戻っ
て、機屋に娘がいないので不思議に思い、何度も娘の名を呼んだ。木小屋にいた二人がそ
れを聞いて、男は急いで逃げ去り、娘は動転して身がけがれているのも忘れて機屋に駆け
こみ、そのまま機について織り続けようとしたが、突然仰向けに倒れて、血を吐いて気絶
してしまった。
母親はこれを見て大変驚き急いで走りよって助け起し、
まず機屋から連れだしていろいろ
介抱したが、息はあるものの意識がはっきりせず死んだようにみえる。
父親が同じ村の某氏の家に行っていたのを急いでよび戻し、
医師を呼んで薬を与えたが効
果がなく、両親はもちろん、近所から寄ってきた人たちも娘の傍に集まって涙を流しなが
ら手のうちようもなく、まるで死を待つばかりであった。そこへ男が一人やって来て、恥
しそうに人の後に座って無駄なことはいはず、頭を低く垂れて涙を落としていた。同じ村
の某の次男坊であった。
この男がやがて膝をすすめて娘の母親に向かって小声で言うには、今はなにも隠さず申し
上げます、私はお嬢様と二世の約束をしたものです、つい先ほど周りに人がいなかったの
でお嬢様を誘い出し、母上様の帰ったとの声に怖くなって、私は逃げ去りました。お嬢様
がこのような悪災に遭ったと聞いて考えてみると、けがした身をわすれて大切な機にかか
り仕事を再開した罰かも知れません。元来は私が犯した罪ですから、たとえ人には知られ
なくても私からみればおそろしいことで、命をかけて契った言葉にも反していると思いま
す。お嬢様の命の代りに、私が是非神罰を受けてお詫びしましょう。それにしても、この
ままお嬢様が亡くなるようなら私の命もとってください、ここにいらっしゃる皆様方は是
非証人をお願いしますと言って、服装を解き裸になって髪をさばいて井戸端に行き、たっ
ぷりと水を浴び、雪の上にうずくまって何か唱えて祈ったのであった。
真冬のことで、寒さは厳しく肌を刺すような時期だから、そんなことをすれば凍死しそう
である。両親はもちろん、居並ぶ人々もはじめてそれを知り、本当にその通りと自分たち
も水を浴びて祈りに参加した。神がこの男の真心を憐れんだものか、人々の祈りを受けい
れたのか、娘が目を覚して起きあがり母親をよんだので、皆が不思議なことと感じて、娘
の側にあつまってどうだったと質問攻めにした。
娘は、この様子を見ていったいどうしたの、と言う。母親は嬉しくて起こった事情を説明
すると、娘は機に走り寄ったのは覚えているけれど後は分からなくなったと言う。母親は
あまり嬉しく例の男にも会わせようとしたが、男はいつのまにか立ち去っていた。
四五日は娘の体調は不良だったが、やがて健康体に戻った。歳も十七歳だから、そろそろ
聟をと思っていたので、例のしのび男の真心を買って早速媒酌人をたて、婚礼もめでたく
整い間もなく男の子が生まれた。この家は今も栄えている。神罰というが、この場合は夫
婦の縁となったので奇偶といえよう。この話は私が幼かった時のことだが、筆のついでに
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記述して、機屋の霊威のことを後世に伝えようと考えて書いた。
ああ畏れ多いこと。身はくれぐれも慎むべきである。
○縮をさらす:製作とは別の過程
図 雪の中で縮みを晒している図
さらし屋(晒屋)はさらすことを仕事とするので、時には織った家でさらすこともあるが
それは稀である。
さらし屋は家の辺りや程よい所を判断して備え、そこに仮小屋を造り必要品も置き、また
休息場としても使用する。さらし人(晒人)には男女が混ざるが、身を清める点は織り仕
事の女性と同様である。さらすのは正月よりは二月中で、この頃は田圃も畑も一面に雪が
積もっているから、田や畑をさらし場とする場合もある。日中にさらし場が踏み乱されて
いる場合、板に柄をつけた道具で雪の上を平にならしておく。そうしないと、夜の間に凍
って、尖った箇所が布に固まって始末に負えなくなる。さらし場には一点の塵もないよう
にするので、白砂の塩浜(塩田)のようである。
白ちぢみは織りが完了した状態でさらす。一方、他のちぢみは糸につくったものを拐(か
い、かせ)にかけてさらす。この拐とは細い丸竹を三四尺ほどの弓にして、弦にあたる箇
所に糸をかけ、拐と一緒に竿にかけわたしてさらすのである。白ちぢみは平地の雪の上に
もさらし、また高さ三尺あまり(1m)で長さは布の状態で決めてさらし、横幅はいろいろ
だから雪を土手のようにつくり、その上にちぢみを伸ばし並べてさらすこともある。こう
して、犬などが踏んでちぢみを汚す危険を避ける。ここに拐をならべてさらす。場所の便
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利に応ずるから、やり方は一通りではない。
次に晒しの手順だが、縮でも糸でも、一晩灰汁(アク)に浸して、次の朝何度も水で洗い
絞りあげて前と同様にさらす。特に貴重な縮をさらす場合は、さらし場を別に準備し、そ
の他万事に注意を払ってさらすので、この点は機をおる際の注意と同じである。この土地
では、地中の水気は雪のために出てくることがなく、また雪の時期には雨はまれで、春も
雨は降らない。それ故、晴がつづくことを見極めてさらす。灰汁にひたしてはさらし、こ
れを毎日くりかえして幾日か経って真っ白になればさらしが完了する。さらしが完了に近
い時期の白ちぢみをさらす時は、朝日があかあかと昇って小さな玉が平らに並び、水晶が
白布が紅に映る景色は実に見事で、たとえようがない。この光景は、雪のまれな暖国の風
雅人にも見せて上げたい。ちぢみを晒す手順にはいろいろな段階があり、ここでは大略を
述べただけである。
○縮の市:製作者の手を離れる
市場でちぢみの市がたつのは、前にいった堀の内・十日町・小千谷・塩沢の四ケ所に限ら
れる。初市をこの地の言い方ですだれあきと言い、雪がこいのすだれを開いて明りを入れ
る意味で、四月はじめの行事である。堀の内が最初で、小千谷、十日町、塩沢の順に、い
ずれも三日ずつ間をおいて開く。もっとも、毎年同じとは限らない。この四ケ所以外には
市場はない。十日町には三都(訳註)呉服問屋の定宿があり、縮を買いつけている。市場
の日には遠近の村々から男女がやってきて、それぞれ所持のちぢみに名所(住所氏名)を
記した簽(ふだ、タグ)をつけて市場に持ちより、その品を購買人に見せて売買の価格が
決まれば約束の札をわたし、その日の市の終わりに金に換える。およそ半年間も縮のこと
で辛苦するのはこの初市が狙いだから、縮を売る人はもちろん、ここに集まる人は大勢で
波のようで、足を踏んだり踏まれたり、肩をぶつけ合ったりする。縮以外の品も、ここに
店をかまえて販売する。遠くから来て宿をとる人もおり、どの家にも人が集まり、祭りの
香具師が見世物を準備し、
薬売は弁舌を誇り、
参加者も足をとめるので立錐の余地もない。
初市の賑わいは、
繁華な場所での騒ぎにも満更劣らない。
上記の四つの市が終わった後も、
いたるところで毎日問屋へ来てちぢみを手に入れ、逆に仲買の人があちこちに出かけて買
う場合もある。
六月十五日迄を夏ちぢみといい、翌六月十七日より翌年の初市までを冬ちぢみという。縮
の精疎の位を一番二番と言う。価の高低にある程度の定めはあるが、年によって少しずつ
違う。相場は、市の日に気運につれて自然にさだまる。相場がよければ三番のちぢみが二
番になり、二番が一番へと位が上がる。前にも言ったことだが、ちぢみは手間賃を論じな
いもので、誰が織ったちぢみが初市でどんな値段で売れ、ずいぶん技術が上達したなどと
いわれるのを名誉とし、その技術によって嫁に貰おうという言われたい娘もあり、金銭よ
りも名を争うものである。だからこそ、市にちぢみを持ってゆくのは兵士が戦場に向かう
状況に似ている。
ちぢみの相場は、一見穀物の相場と似るようで、状況は逆である。凶作なら穀物の値は上
り縮の値は下る。豊作なら縮が上り穀物は下る。豊凶がいろいろに関係してくる点は、こ
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れだけでもわかる。だからこそ、誰もが豊年を祈るに決まっているのだ。
訳註:堀の内・小千谷・十日町・塩沢:JR 上越線と関越自動車道では、塩沢・堀之内・小
千谷の順に南から北へ並び、
十日町だけは西へはずれて飯山線とほくほく線の交点にある。
三都呉服問屋:三都は、京都・大阪・江戸の三都市を指す。
名所:住所氏名
簽:価格や品質を示す「ふだ」
[諏訪邦夫訳]
○ほふら:現在用語なら「新雪なだれ」
私の住む塩沢の方言に、ほふらというのがあり雪頽に似ているが違う。発生は十二月前後
に限る。高山に雪が深く積って凍った上にさらに雪が降り積り、気象の状況からまだ凍ら
ず泡状で、山の頂の大木につもった雪が、風などの影響で一塊り枝から落ちると、山の高
低に随って転がって、転がりながら周りの雪を加えて次第に大きく成長し、何十トンもの
重さになって何メートルもの大石も倒してしまう。この新雪におされて雪が洪水のように
大木を倒し、大石も落として人家も潰すことさえ起こる。
この時は暴風が雪を吹きちらし、
雲が空にかかって白昼も急に暗くなって夜のようになる
点は、雪頽と同じである。
なだれは、前にも言った通り少しは前兆があって発生が予測できるが、ほふらは前兆がな
くて突然起こり、不意をうたれて逃げようにも、周辺の雪が軟らかで深くて走れず、十人
に一人も助からない。何十メートルもの雪は人力では除雪できず、三月か四月に雪が消え
てようやく遺体が見つかることもある。場所によっては、ほふらを別の言葉で
○をほて ○わや ○あわ ○ははたり
などとも呼ぶ。山村では、なだれやほふらを避けるため、災のない場所を選んで家を建て
る。ほふらで村ごとつぶれた話も以前は多数聞いたが、細かすぎて煩わしいので、記述は
やめておく。
註:「ほふら」は、今の用語で新雪なだれにあたる。春先の雪崩は底が地熱や雨水で解けて
滑るいわゆる「全層なだれ」で、一方新雪なだれはすでに固まった雪の上に新たに積もった
部分が滑る「表層なだれ」である。[諏訪邦夫訳]
○雪中花水祝い(雪の中で、花と水で祝う)
図 祭りの絵で本文に詳しい説明がある。絵の中にも説明があるが、こちらは訳者の能力で
は読めない。
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魚沼郡の内宇賀地の郷、堀の内の鎮守様の宇賀地神社の本社は八幡宮で、かなり昔からあ
る社だという。縁起の文章は多いからここには記さないが、霊験あらたかなことは知られ
ている。神主宮氏の家には貞和(1345-1350)文明(1469-1487)の頃の記録が今も残って
いるという。当主は文雅を好み、吟詠にも優れ、雅名を正樹という。私も同じ趣味なので
交友である。
幣下と呼ぶ神社があちこちにある大きな神社である。この神社の氏子、堀の内で嫁を迎え
婿をとった場合、神勅として婿に水を賜るので、これを花水祝いといい、毎年正月十五日
の神事である。新婚のある家毎に神使を派遣するから、そうした家が多い時は早朝に始め
て夕方までかかることもある。
友人の黒斎翁(堀の内の人、宮治兵衛)の言うには、花水祝いは淡路宮瑞井で井戸に橘(た
ちばな)の落ちた瑞祥があったと日本紀に載っているのが起源で、花水の名はこれが始め
だという。だから、新婚の婿に神水を灌ぐのが当社の神事である。
さて、当日は新婚者のいる家に、神使を派遣する。神使の役の人は、百姓の内から旧家で
門地の正しい人を選んで定める。基準としては、喪に服していないこと、やもめでないこ
と、家に病人のいないこと、親類縁者に不祥事がないこと、そんな人を除いて家内に支障
なく平安無事な人を選ぶ。神事の前の朝は、神主が斎戒沐浴し斎服をつけて本社に昇り、
選んだ人々の名をしるして御籤にあげ神慮を頂き、神使とする。神使に当った人は、潔斎
してこの役を勤める。これを大夫という。黒斎翁の話では、これが本来の浄行神人で、大
夫は里言の呼び名である。
当日正月十五日に神使が本社を出る服装は大名行列式で、まず先箱をたて次に二本の槍が
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つき、台笠・立傘・弓が二張・薙刀などが先行し、神使侍は烏帽子(えぼし)と素襖(す
おう)を身に着け、次に太刀持・長柄持・傘をさしかける供侍・二人草履取・跡鎗一本な
どで行列する。これらの品々は、神社の保管庫にある。次に、氏子の人々が大勢で麻上下
を着けて随う。こんな服装で新婚の家に到着する。家のほうでは、前から雪中に道を作り、
雪で山みちのような所は雪を石壇のようにつくり、あるいは雪で桟敷のように作って見物
の場所にもしている。こんなことにも、人夫の費用がたくさん必要である。
さてその家では家内を清め、
とりわけ当日正殿の間として祭りの主役の場となる一間は塩
垢離できよめて神様のお使の席とし、花筵や布を並べ上座には毛氈をしき、上段の間に一
応は刀掛をおく。
次の間には親族はもちろん、
親しい人々からの祝義のおくり物を並べる。
嶋台に賀咏をそえたものなど、思い思いに種類多く飾る。門には幕を準備し、適当な箇所
をしぼりあげてここに沓脱の壇をおき、玄関の式台を真似る。家内の人たちは、全員よそ
行きの衣服を着けて神使をまち、神使がきたときけば、親あるものは親子で麻上下にて地
上に出て神使を迎える。
神使の草履とりが最初にきてまず暴れまわり、正一位三社宮使者と大声を出す。神使を見
て亭主は地上に平伏し、神使を連れて例の正殿に座らせる。行列は家の左右で隊列をつく
って並んでいる。さて神使にたばこ盆・茶・吸物・食事の膳部を差し出し、数献をすすめ
る。その年のあら婿(婿入りしたばかりの人)に、盃を与える。三方とお皿の肴をはさみ、
献酬は七献までである。盃ごととして、祝義の小謡をうたう。こうして神事が終ると神使
は退出する。他に新らしい婿の出た家があると、そこへ行って前のことを繰り返す。
この神使は、例の花水を賜わることを神より氏子へ告げるお使である。神使が社頭へ帰る
時に村長の家に立ち寄って酒肴の饗応を受ける。神使が社内へ戻ったのを見ると、踊りの
行列がくりだす。一番に傘と矛と錦にみずひきをかけて端に鈴をつけ、また細工の物をい
ろいろと下げる。傘矛の上には、お祝いの言葉を述べた太鼓を飾る。これを二人で持って
紫ちりめんで頬をつつんでむすび下げ、同じ紅絞りなどを片襷にかける。
黒斎の話では、祭礼に用いる傘矛には昔は羽葆葢(うほうかい)という字をつかい、所謂
繖(さん)であって、「きぬかさ」と呼んだ。神輿鳳輦(いずれも高貴な人を担ぐ輿のこと)
を覆って奉るもので、「錦蓋」である。いろいろな説があるが、長くなるから省く。
さて二番に仮面を着けて鈿女(螺鈿でかざった女性)に扮する者一人、箒のさきに紙に女
陰を描いたものをつけて担ぐ。次にこれも仮面で猿田彦に扮した一人が、麻で作った幌か
帽子のような物を冠り、手杵のさきを赤く塗って男根を表示したものを担ぐ。三番に法服
を美しくかざった山伏が法螺貝をふく。四番に小児の警固がそれぞれの身なりで随う。次
が大人の警固で、麻上下に杖を持ち非常に備える。五番に踊の者が、大勢花やかな浴衣を
身に着けている。正月で寒い時期だが、人勢が多く熱気にあふれるので浴衣である。この
人たちは色付きの細帯を締めて群をなして行進し、
この地の言い方にこれを「ごうりんしょ
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う」というが、おそらく「降臨象」という意味だろう。つまり、皇孫が日向の高千穂の峯
に天降った際の姿を真似る気持ちだろうと老人が述べていた。いろいろな説があるが、議
論は省略する。
婿の方では、そのおどり場も我が家の前に準備し、新しい筵をしき、新しい手桶二つに水
をくみいれ、松葉と昆布とを水引にてむすびつけ、筵の上において、銚子と盃をそえてお
く。水取といって婿に水をあびせる役が二人、副取というのが二人、おのおのたすきを結
って、凛々しそうにして出発する。婿は浴衣と細帯で、おどりのくるのを待つ。おどりが
家にちかづいたら、行列をひらいて、踊る人がこの筵のまわりにむらがって歌いながら踊
る。その歌に『めでためでたの若松さまは、枝も栄ゆる葉も茂る』
『さんやめでたい花水さ
んや、せな(脊)にあびせんわが(我)せな(夫男)に』をくりかえしくりかえして旋律
をかえて歌いながら踊る。事に慣れた踊りの警固、例の水とりなども状況を見て婿に三献
を祝わせ、かの手桶の水を二人して左右より婿の頭へ滝のごとくあびせる。これを見て周
囲の人たちが躍り上がって、めでたしめでたしと祝う。婿はそのまま自分の家に走って入
り、踊りはさらに家にもおし込んで七八遍ほど踊り歌ってからどろどろと立ちさり、再び
はじめのごとく列をなして他の婿の家に向かう。ことが終わっても、おどりは宿役の家や
単に馴染みというだけの家にも侵入して踊り歩いたりする。田舎の生活は変化が乏しいの
で、この日は遠近の老若男女がこれを見ようと蟻のごとく集まり、行事が進んで周囲が熱
狂する様子はなかなか描写しきれない。
婿に水を灌ぐのは、
男の陽の火に女の陰の水をあびせて子をつくらせようというおまじな
いで、妻の火をとめるという祝事でもある。この風習は室町時代に武家の俗習として発生
し、農商もこれを真似て少しずつ行はれるようになったらしい。貝原先生の歳時記には、
松永弾旺の結婚の際に起ったと書いてある。江戸では宝永の頃までも世の中で正月十五日
にこの行事を行い、祝義のように大流行し、婿に恨がある時などは水祝いを口実にいろい
ろな狼籍を働いて、しばしば殺人にまで発展し、正徳の頃に国禁となって以後断絶した。
くわしくは、昔むかし物語という作品に載っている。国初以来のことを記した写本で、元
禄中を盛りにしてその後は衰えた人の晩年の作品である。問題の花水祝いは神秘ともいえ
ようが、別に理由もあるだろう。
ああ畏れ多いこと。雪のついでにその大略を記したが、お好きな方はどうぞ話の種に。
訳註:
烏帽子と素襖:いずれも古風な衣装で、烏帽子は頭につける帽子、素襖は古風な衣服。
繖:柄の長い傘
手杵:杵(きね)だが、取っ手がなくて中央がくびれているもの。月のウサギが搗くのが
これか。
宝永(1704~1711)
正徳(1711~1716)
46
[諏訪邦夫訳]
○菱山の奇事:雪崩で豊作凶作を占う
越後の頸城郡松の山は一庄の総名で、多数の村落を併せた大きな庄である。いずれも山間
の村落で、一村の内に平地はない。ただ松代という所だけが平地で、農家が軒を連ねてい
る。外百番の謡に載っている松山鏡もこの土地である。その謡にある鏡が池の古跡もここ
にあり、今は池とはとても言えない程度に埋められて小さいけれど、跡はのこっている。
推測だが、松山鏡の謡は鏡破の絵巻を源として作ったもので、この絵巻にも右の松の山の
ことが載っている。
松の山の庄内に菱山という山があり、山の形が三角形だからついた名前だろう。山に近い
所に須川村があり、こちらは川でついた名である。菖蒲村というのもある。
この菱山では、毎年二月に入り夜中に限定して雪崩があり、その音響が一二里(4~8 キ
ロメートル)離れても聞える。話によると、白髪白衣の老人が幣をもってなだれに乗って
下ると言う。このなだれが須川村の方へ二十町(2 キロ)の距離を真直に下る年は豊作で、
菖蒲村の方へ斜に落ちる年は凶作である。この占いは絶対に狂わないという。ある年の豊
作凶作が雪崩に関係しているというのもこの山だけで、不思議だ。
ついでに述べておこう。旧友で寺泊に住む丸山氏(医家で、祖父は博学で評判の高い人で
あった)のお宅に、二十年前に私が滞在した時、祖父が宝暦の頃に著述したとして、越後
名寄という書物を見せられた。三百巻に及ぶ自筆の写本である。題名は名寄だが、実際は
越後の風土記である。一国の神社仏閣・名所旧跡・山川・地理・人物・国産薬品の類まで、
こまかく部に分け図に描いてわかりやすく解説した優れた作品である。この書物に、上に
述べた菱山の説も簡単に載っているが、詳しくないので引用しない。菱山を述べてこの書
物を思い出したが、このような大部の名作が個人の所蔵で大切にされるだけで世に知られ
ないのが残念でここに述べておく。
訳註:
庄:部落の単位。
「村」よりは小さい場合が多い。
「荘園」との関係ともいう。
幣:ぬさ。神主さんがお祓いに振る紙か布のひらひらしたもの。
宝暦(1751-1764)
名寄:名前の通り、本来は人名や地名を集めたもの。
[諏訪邦夫訳]
○秋山の古風:秘境秋山への紀行の序
信濃と越後の国境に秋山という場所があり大秋山村というが、全体で十五の村を合わせて
秋山とよんでいる。秋山の中央に中津川が流れ、下流は魚沼郡妻有の庄を流れて千曲川に
入る。川の東西に十五ケ村ある。
東側(右岸)に在る村
● 印は越後に属す
47
▲ 印は信濃に属す
●清水川原村
人家は二軒だけだが一応村と呼んでいる。
●三倉村
人家三軒
●中の平村
二軒
●大赤沢村
九軒
●天酒村
二軒
▲小赤沢村
二十八軒
▲上の原
十三軒
▲和山
五軒
酉側(左岸)にある村
●下結東村
●逆巻村
四軒
●上結東村
二十九軒
●前倉村
九軒
▲大秋山村
人家八軒あり
大秋山村はこの土地の中心の村で、代々伝わった武器などの持ちものもあったが、天明
卯年の凶年にすべて売却して食糧として消費し、それでも結局維持できず、一村のこらず
餓死して今は草原の地となっているという。
▲屋敷村
十九軒
▲湯本
温泉あり
この土地の東には苗場山が高く聳えてそこから山脈が延び、
西には赤倉の高山が雲の上に
出るようにそびえ、山がいくつか並んでいる。清水川原は越後側の入り口で、湯本は信濃
に越える嶮しい路につらなっている。こちらは、武人が一人いれば 1 万人の攻撃も支えら
れそうな山間の僻地である。
里の人たちの伝えによると、この土地はむかし平家の人の隠れた所だと言う。私の推測だ
が、鎮守府将軍平惟茂から四代の奥方の血筋の奥山太郎の孫で、城の鬼九郎資国の嫡男の
城の太郎資長の代まで、
越後高田の付近の鳥坂山に城を構え、
一国に威をふるったという。
しかし、謀叛の評判がたって鎌倉から佐々木三郎兵衛入道西念が討伐にきて、しばし戦っ
て終に落城した。この時に一部の落人らが、この秋山に隠れたのかも知れない。話に平氏
の落人部落を聞くのと似ている。
この秋山には昔の風俗がそのまま残っていると聞き、一度は訪れたいと考えていた。た
またま、この土地をよく知っている案内人と知り合い、急に思い立ち案内の人に教わりな
がら、米・味噌・醤油・鰹節・茶・蝋燭など用意して従者にもたせて出発した。それが文
政十一年(1828 年)九月八日だった。その日は秋山に近い見玉村の不動院に宿泊し、次の
日には桃源を訪問する気分で秋山に入った。入り口に清水川原という場所があり、ここに
いく道の傍に、丸木の柱を建て、注連(しめなわ)を引きわたし、中央に高札がついてい
る。
一体何だろうと立ちよると、子どもが書いたような仮名文字で「ほふそふあるむらかた
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のものはこれよりいれず」
(疱瘡のある他国の方はここから入らないで下さい)と書いてあ
る。案内の人の話では、秋山の人は疱瘡(天然痘)をまるで死をおそれるように極端に恐
れるという。たとえば、疱瘡とわかると自分の子どもでも家におかず、山に仮小屋を作っ
て隔離し、食糧を運んで養う決まりである。すこし豊かな人は、里から山伏を呼んで祈ら
せるが、結局十人中九人は死んでしまう。だから、秋山の人は他の場所へ行って疱瘡と聞
くと、どんな用事でも捨てて逃げかえる。したがって、この土地では疱瘡の患者が稀れで、
十年に一人あるかないかだと語った。
さて清水川原の村に着くと、そこには家が二軒あり、家の作り方は他と違う。この問題は
後で説明しよう。とにかく、ここで少し休んで出発したが、案内の人が最初に猿飛橋を見
せましょうと先にたってゆく。この秋山の道は、すべて土地の人が通る目的で開削した道
で、牛馬はまったくつかわないから、極端に狭く小笹など深くてやっと道とわかる程度の
箇所も多い。こうして、中津川の岸に到着した。
図 猿飛橋の様子。橋を渡る人だけでなく、藤蔓につかまっている人が描かれている。これ
は山東京水のものではなくて、鈴木牧之の絵である。
岸の対岸の逆巻村にいく所に橋があり、これが猿飛橋である。その橋の様子を見ると、た
とえ猿でも翼がないから飛ぶわけにはいかず、両岸は絶壁で屏風をたてたようで、岸より
一丈(3 メートル)あまり下に両岸から向かい合っている岩の出っ張りがあり、これを使
って橋を架けている。橋の場所へ下るために梯子がつけてあり、橋は真直ぐな丸木を二本
ならべて、細木を藤蔓で編んだだけである。橋自体の長さは二十間(36 メートル)余で、
橋の幅は三尺(0.9 メートル)もなく、欄干はもちろんない。橋を渡った対岸には、藤綱
を岸の大木にくくりつけてぶら下げてあり、これにつかまって岸にのぼる。見ているだけ
でも危っかしく、"蝶も居直る笠の上"と芭蕉が述べている木曾の桟(かけはし:渓谷を渡
る高い橋)にも引けはとらない。この橋を渡らなくてはいけないのかと訊くと、案内人が
今日はこちら側(川の右岸つまり東側)の村を見てまわり、小赤倉村までいって頂きます
という。そこは道がよくなり、小赤倉には知人がいて、宿を頼めると思いますと言う。橋
をわたらなくていいと聞いて気持ちが落ち着いた。
49
岩にこしかけて墨ツボをとりだしで橋を写生して四辺を見わすと、雁が峯を越えて雲に
字をならべ、猿が梢をつたっている様子と川を画に写し、珍しい樹木が崖に生えて竜が眠
るようで、大きな気味悪い岩が途を塞いで虎が休む姿のようだ。
図 秋山の絶壁を描いた図。崖に伝わり歩きをしている人が 3 人はいるが、他にもいるだろ
うか。
山林は遠く色づいて錦を開いたようで、川の水は深く激しく流れ、しかも藍を流したよう
に美しい。金色の壁と緑色の山が連なる様子は、画にも描けない見事な光景である。見て
いて飽きることもなく、しばらく休んでいると、農夫が二人やってきておのおの荷物入れ
を脊負って問題の橋をわたろうとしている。岸に立ってみていると、例の梯子を石壇のよ
うにとんとんと歩いて降り、橋はまるで平地を歩くように進み、橋の中ほどでは橋がゆら
ゆら揺れてひどく危なそうで、
見ているだけで身の毛もよだつようである。
対岸に着くと、
例の藤綱に掴まって岸にのぼる様子はまるで猿のようで、偶然にも人のわたるのを見て眼
を見開く気持ちであった。
50
さてここを離れて細道をたどり、登ったり下ったりして、ずいぶん歩いてようやく三倉
村に到着した。ここには人家が三軒あり、今朝見玉村から用意してきた弁当を開こうとあ
る家に入ると、老女がよくいらっしゃいましたと言いながら、木の板の上に長い草をおい
て木櫛のやうなもので、掻いて解き分けようとする。それは何で、何をするものかと訊く
と、山にあるいらという草で、これを糸にしてあんで衣を作るのだという事である。
「あみ
衣」という名が珍しいので、さらに訊いてみると、老女は笑って答えない。案内人が脇か
ら「あみ衣というのはこの婆々どのが着ているもののこと」と説明する。それを見ると、
布のやうなものを袖なし羽織のやうにした物である。茶を貰いたいというと、老女は果し
て最初に疱瘡のことを質問した。
案内人が説明して、自分たちは塩沢から秋山を見にきたもので、塩沢には去年来ほうそう
はない言った。老女がいうには、村内のものが今年は井戸の中の蛙のやうに小さくかがん
で里へは一度も出ようとしないといいながら出してくれた茶をみると、煤(すす)を煮だ
したようなので遠慮して、それとは別にただの白湯(水を温めただけのもの)をもらって
食事をおわり、ゆっくりこの住居を見ると、基礎の土台に柱を載せるのではなくてただ地
面に柱をたててそれに貫(横棒)を藤蔓で縛りつけ、菅(かや)をあみかけにして壁につ
くり、小さい窓があり、戸口は大木の皮一枚をひらいて横木をわたして補強し、藤蔓でと
めて特に閾(しきい)もつかわずに扉にしている。屋根は茅葺でいかにも小さな家である。
いわば、ただかりそめに作った草屋だが、里地より雪は深そうだから頑丈に作ってはある
ようだ。家内を見ると、筵のちぎれたものを敷き並べ、むしろは古い。稲や麦のできない
土地で藁が乏しいのだろう。納戸も戸棚もなく、ただ菅(かや)の縄でつくった棚しか見
当たらなかった。
囲炉裏は五尺(1.5 メートル)あまりで、深さは灰までが二尺(0.6 メートル)ほどある。
薪は豊富にあるので、火は十分につかえる。家の様子の割に立派なものとして、大きな木
51
鉢が三ツ四ツあり、これも自分のところで作れる故だろう。薬鑵(やかん)
・土瓶(どびん)
・
雷盆(すりばち)などはどの家にもなかった。秋山の人家は、すべて同様である。今日秋
山に入り、ここまでに家を五軒見せてもらったが、時期的に粟と稗を収穫する頃で家には
男性はいなかった。こんな風に休んでいるうちに、栃の実をひろって山から帰ったという
娘を見ると、髪は油気もなくただ丸めて束にしてそれをカラムシで結び、古びた手拭いを
頭に巻き、着ているのは木綿袷の垢だらけのもので普通よりは一尺(0.3 メートル)もみ
じかく、巾二寸(6 センチメートル)ほどのもめんの帯を後ろにむすんでいる。女性が鉢
巻をしているのと、帯の巾が狭い点は昔の絵で多数見た姿である。着るものの短い点も、
昔でも下々のものの格好である。秋山の女性は、みなこんな格好をしている。老女に土地
の風俗などを訊いてみたが、どうも要領をえず気持ちが通じないようで一向にわからなか
った。一応は、お礼のものをさし上げて退去した。
こうして中の平村で九軒、天酒村で二軒、大赤沢村で九軒の家によった。道はどこも嶮し
い山路で、その日申(午後 4 時頃)の下刻(5 時近く)やっと小赤沢に着いた。ここには
人家が二十八軒あり、秋山の中で二ケ所ある大村の一つで、他に上結東に二十九軒ある。
この村に市右ェ門という村で第一の大家があり、幸い案内人の知人なので宿を頼んで入っ
て見ると、四間(7m)に六間(11m)ほどの住居である。主人夫婦は老人で、長男は二十
七か八、次に娘が三人いる。奥の方に四畳ほどの一間があって、境には筵を下げている。
筵をたれて境とするのは昔の公家の家のようで、古い絵に数多く描かれている古風な住み
方である。勝手の方には日用の器などが多数ちらかっている中に、ここにも木鉢が三ツ四
ツあった。囲炉裏は、例の通り大きく深い。さて用意してきた米味噌をとりだし、今朝清
水河原村で入手した舞茸にこの地の芋など加えて、
案内人が料理しようと雷盆(すりばち)
を頼むと、末の娘が棚のすみからとり出した。見ると、ひどく煤けてふだんは使っていな
いようであった。あとで聞くと、秋山ですりばちのあるのはこの家と本家だけだという。
この土地で、最近になって豆を作りはじめて味噌もつくるが、麹を入れずに、ただかき混
ぜて汁にするだけですり鉢はつかわないという。それに、この家でも竈(かまど)はなく
てすべて囲炉裏で何でも煮る。やがて夜になって暗くなると、姫小松を細く割ったものを
灯火としている。なかなか明るくて、ふつうのロウソクより優れている。案内人が調理し
た料理をバラバラの食器に盛り、山折敷(お盆の一種)に載せて出した。ご主人のもてな
しとして、芋と蕪菜を味噌汁にした具として変なモノがある。案内の人が心得て説明した
ところだと、これが秋山名物の豆腐だと言う。豆を挽いてはあるもが、オカラの部分を分
けていないので味がない。
食事が済んた後にご主人が次のように述べた。
茶の間の旦那:秋山のことばで「茶の間の旦那」というのは敬語だという。茶の間をまも
っている人ということだろうか。
どつふりに入らずという。この「どつふりに入らず」というのの意味がわからないので、
案内の人に訊くと、風呂に入りなさいということである。据風呂をどつふりまたは居り湯
ともいう。
秋山で据風呂式の風呂桶があるのは、この家とその本家だけという。この土地の人はあま
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り風呂に入らず、冬でもときどき掛け湯を浴びるだけである。外から帰っても足を洗うこ
とはせず、何しろむしろの上で生活するのでこれでいいと言っていた。風呂に入ったが特
に変わったこともなく、
旅の疲れもとれて良い気持ちになって元の囲炉裏の横座に戻った。
囲炉裏は横が上座で、この点は田舎一般の礼儀である。ここには銅鑵(どうかん)もあり、
用意の茶を従者が煮たのを喫み、持参の菓子を例の三人の娘にも与えると、三人は炉に腰
かけて箕居して、足を灰のなかへふみ入れる形で、珍しそうに菓子を食べた。炉では柱に
もなりそうな太い木を、惜気もなく燃やしている。火が照すのを見ると、末の娘は色黒く
肥って醜い。ときどき裾をまくりあげて虫をつかまえるのが見ぐるしいが、それを恥らう
様子もない。二人の姉は色白で玉を並べたような美人で、菓子を食べながら顔を見合わせ
て微笑し合っている風貌と愛嬌はこぼれるばかりである。これほどの美人二人を、秋山の
田舎ものが妻にするのは可憐ながら勿体なくて、琴を薪としてかまどで燃やすようで残念
である。ここのご主人は他の土地のことをもよく知って話もわかる老人なので、その風俗
を尋ねたので話してくれたことの概略を以下に記そう。
○ この土地は最近税金のことを聞いてはいるが、米麦の生産がないので僅かな労役を負
担するだけである。信濃と越後との二つの村名主の支配をうけて旦那寺も定めたが、冬に
は雪が二丈(6 メートル)以上も積もって人の往来もなくなり、雪の時に死者が出ても寺
に送れない。この村で山田を氏とする助三郎というものの家に、昔から伝わっている黒駒
太子と称する軸画があり、これを借りて死人の上を二三回振って、これを引導として私的
に葬っている。寺を定める以前は、昔からこれで済ませてきた。秋山には山田と福原の姓
しかない。上に述べた助三郎は山田の総本家で、太子の画像というのは太子のように見え
る姿がくろい馬に乗って雲の中に歩いている内容という。私は、助三郎の家に出かけて、
問題の軸画を見せてほしいと懇願したが、正月と七月以外は見せないと許しが出なかった。
○この土地の人は、上等な食事としては粟(あわ)に稗(ひえ)
・小豆もまぜて食べる。や
や下等な食事としては粟・糠(ぬか)に稗・乾菜(ほしな、乾燥野菜)をまぜて食べる。
また栃の実を食べることもある。
○婚姻は秋山十五ケ村の中に限定し、他所の土地とは婚姻を結ばない。婦人が他所で男を
もつ場合、親族は関係を絶って二度と面会しないのが昔からの習慣である。
○秋山に寺院は一切存在せず、僧の住む庵室もない。八幡の小社が一ツだけある。寺がな
いので、住民はみな無筆である。たまたま賢い人が、他の土地から手本を入手していろは
文字をおぼえた場合、その人を物識りとして尊重する。
○山中なので蚊はいない。蚊帳(かや)を見たものはほとんどいない。
○深山幽僻の地だから、
蚕はつくらず木綿の栽培もせず、
衣類が乏しい事は推測できよう。
○山に、「いら」と呼ぶ草があり、その皮を製して麻の代用として衣類用に使う。
○翁がこんな風に話してくれた時、私は「いら」の形状を詳しく訊かなかったが、後で考え
てみると「いら麻」の事に違いない。「いら麻」は植物図鑑に載っている草の名で、麻の字
がついていて、麻の代わりに使えるのだろう。ただし、毒草と書いてある。また山韮(や
まにら)というのも図鑑に載っている。これも麻のかはりになる。もしかすると、「にら」
53
を「いら」
と呼ぶのかも知れない。
草の形状を聞かなかったので、今さら確かめようがない。
○秋山の人は、
冬でも夜も昼間の服装のままで寝る。
夜具というものはこの土地にはない。
冬は、一晩中囲炉裏に存分に火を炊いて、その傍で眠る。極端に寒い場合は、他の土地か
ら藁を入手して作っておいたカマスに入って眠る。妻がある場合は、かますを大きく作っ
て夫婦で同じかますに入って寝る。
図 秋山郷ではカマスで寝ることを示している(訳註参照)。
○秋山で夜具を持っている家は、この翁の家とほかに一軒あるだけである。それも例のい
らで織った布にいらのくずを入れ、布子のすこし大きなものとして宿り客用につかうだけ
だろう。私はここに一泊して、この夜具で寝たが、例の糸くずが裾におちて具合のわるい
ところが多く、とうてい気持ちよく寝られたとはいえない。
○藁が乏しいので草鞋ははかない。男女とも裸足で、山ではたらく時もそのままである。
〇病気になれば、米の粥を喰べさせて薬としている。重病なら、山伏を連れてきて祈って
もらう。病気をお祈りで治すのは、源氏物語にも載っている古風なやり方である。
○女性で鏡を持っている人は、
秋山全体で五人いるという。松山鏡の故事が思い出される。
○この土地の人は、すべて篤実温厚で人と争わず、色慾が少なく博突をしらない。酒屋が
ないから、酒を飲むこともない。昔から、藁一本盗んだ人もいないという。こうした面で
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は、実に仙境である。
○こうして、次の日はやぶつの橋というのをわたって湯本に泊まって温泉に入り、次の日
は西の村々を見て上結東村に泊り、猿飛橋をわたり、その日見玉村に泊まって家にかえっ
た。いろいろと書きたいことがあるが、長くなるので載せない。別に、秋山記行二巻を編
纂して家に仕舞っておく。
○栃は、本字では橡(とち)と書く。この実の食べ方を翁に聞いたので、ここに記して凶
年の心得としよう。栃の実は八月に熟して落ちるから、これを拾って煮てから乾燥し、手
でもんで粗い篩(ふるい)にかけて渋皮を除去し、簀(すだれ)に布をしいて粉にしたも
のをおき、
よくならし水をかけて湿めらせ、敷いておいた布につつんで水にひたしておく。
そうして四五日後にとりだし、絞って水分を除いて乾し上げる。真白な粉になるので、こ
れを粟や稗にまぜて食べるか、あるいは栃だけを食べる。栃餅にもするが、この餅にする
栃は種類が違うという。栃だけでなくて、楢(なら)の実も食べる。食べ方は栃に似てい
るという。
○この秋山に類した山村は他国にもあるという話を聞いたことがあり、珍しいことでもな
いかも知れないが、秋山は自分で体験したので詳しく記述した。
○秋山の産物といえば、木鉢・まげ物類・山おしき・すげ縄板類などである。秋山では良
材が多く得られるが、村を流れる中津川は屈曲が多く、また深かったり浅かったりして筏
を流しにくい。牛馬をつかわないから、せっかくの良材も搬出困難で、結局金銭をうる方
法がむずかしいので天然の貧地である。
訳註:
天明:1781-1789 年、天明卯年は天明 3 年 1783 年で大きな飢饉の年である。
下刻:一刻(約 2 時間)を 3 等分した最後の 40 分ほどをいう。
雷盆:すり鉢。語源は不明だが、現在でも「する」を忌み語として、
「すり鉢」を「あたり
鉢」
、
「するめ」を「あたりめ」と呼ぶ風習は一部に残っている。
「雷」にはそんな意味があ
るのかも知れない。
姫小松:松の一種で「五葉松」ともいう。葉が 2 葉ではなくて、名前の通り数が多い。
山折敷:下の板の周りに薄い板を折り回したお盆のようなものを「折敷」という。山折敷
は、
「山式の」という意味だろうか。細工物で縁を上に曲げたのかもしれない。
すげ縄板:菅を編んで板状につくったものの意味だろう。
据風呂:下にカマドがついて火をたけるようになっている風呂。また移動式ではなくて固
定式の意味もある。
銅鑵(どうかん)
:鑵(かん)は湯をわかす道具。銅鑵は銅製で、もちろん錆を防ぎ熱伝導
のよさで温めやすい狙いだろう。
箕居:両脚を出す座り方。つまり、正座ではなくて椅子に座る形。
太子:皇太子のことでもあるが、ここは聖徳太子のことか。
栃の実:外観は栗に似て美しい。ただし外殻にイガはなく、また外殻内に一個しかない。
栃餅は地方で食べられる場合があるが、ここにもあるように大変に手間かかるらしい。
カマス:筵を二つ折りにして両側を縫って袋状にしたもの。農作物などを詰めるのに使う
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の通常の用途。ここでは、それを寝袋(登山者のシュラーフ)として使うわけである。
松山鏡:越後松山の少女が、鏡に写る自分の姿で母をしのんだという伝説。能にもある。
訳註 秋山地区の地名について:国土地理院の 2 万 5 千分の 1 の地図を調べた結果。
●逆巻村
●上結東村
●前倉村
の三つが後に書いてあるのは、訪問の順序がそうなったからである。一行は、中津川右岸
(東岸)を湯本まで行き、やぶつの橋で左岸に移って逆巻村まで戻り、例の猿飛橋で右岸
に戻って帰路についている。
中津川について:中津川は、地図にしっかり掲載されて、なかなかの大河である。この川
の水源である野反湖(のぞりこ)は群馬県内にあり、そこから長野県に入って小赤沢まで
は長野県内で、大赤沢村から新潟県に入る。群馬県から日本海に出る唯一の川で、群馬・
長野・新潟の 3 県を流れる。信濃川(千曲川)の本流は大河だが、長野県と新潟県の 2 県
にわたるだけなのと比較して意外で、興味深い。流れは真北に向かう。
苗場山と赤倉山の関係:東の苗場山は記述の通りだが、「西には赤倉の高山」という文章が
現在の地図とは合致しない。赤倉山は苗場山の南側だから秋山地区の西側にはない。西側
に「高倉山」というのがある。
見玉:地図に表示されている。清水川原より 6 キロほど北。秋山郷への入口という。
清水川原と清水川原橋:地図に表示されている。猿飛橋はおそらく現在の清水川原橋に近
いか、もう少し下流かも知れない。現在は立派な吊り橋があるらしい。
逆巻:地図に表示されている。清水川原よりわずかに北で、川の左岸(西岸)である。
結東:地図にあって川の左岸である。清水川原の南西。2 か所に表示されて両者が離れて
いる。本書の説明に上結東と下結東があるから、それに対応するのかも知れない。
三倉:地図には清水川原の上流に「見倉」という地名がある。同一かもしれない。
中の平:地図には地名はないが、「中の平沢」があって右岸から中津川に流れ込んでいる。
前倉:地図に前倉と前倉橋が表示されている。橋は清水川原橋より数キロ上流(南)
。前倉
は中津川左岸で橋より下流だが、川からやや離れている。
大赤沢:地図に表示されている。前倉橋に近い。新潟県内で、長野県の県境に近い。
小赤沢:地図に表示されている。大赤沢より 1.5 キロ南。こちらは長野県内で、本書でも「信
濃」となっている。清水川原よりずっと南で、少し南に「秋山郷」の表示もある。「秋山郷」
の表示は他にもあるようだ。
屋敷:小赤沢のすぐ南、右岸
上の原:小赤沢の南、左岸
和山:小赤沢の南、左岸
湯本は信濃に越える嶮しい路につらなる:「湯本」の地名が、地図では見つからなかった。
中津川の支流で雑魚川が西の志賀高原のほうから流れてくる。この雑魚川が中津川に合流
する地点に「切明」という地名があって、温泉の印がついている。これが近いのかも知れな
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い。牧之は湯本まで来て引き返しており、ここだとすれば清水川原から川沿いに道があっ
たとしても地図の上で 20 キロ近い。
実際には、
はるかに長距離を歩いたことになるだろう。
コメント:それにしても、この秋山の記録は素晴らしい。私の評価ではこれと苗場山登頂
記が本書の双壁である。
[諏訪邦夫訳]
○狐火:怪しからんキツネ奴
中国の怪奇書「酉陽雑俎」に、狐が髑髏をかぶって北斗七星を拝み尾で火を出して鉄砲の
ように撃つという話が載っている。中国ではどうか知らぬが、私がみたのはかなり違って
いて、その話を下に書く。狐は寒さを嫌う動物で、この塩沢では冬はごく稀にしか見かけ
ない。春になって雪が降らなくなると、雪で食糧不足で飢えているので夜中に人家にちか
づき、あたりの物を盗んで食い大変に怪しからんことをする。
こんなことは人間にもわかっており、狐が少しぐらい盗みを働いても気を効かせて放置し
ておくが、それにしてもわずかの機会をとらえて盗んで食ったりするのをみると、まるで
妖術のようで奇々怪々と言える。時として、現れたり消えたりするのは鼠のようだ。とい
うわけで、狐を妖怪扱いするのは日本でも中国でも当然である。
私は雪の時期には、二階の窓の近くに机をよせてあかりをとっている。ある時亡くなった
鵬斎先生から菓子一折を頂いた。その夜寝ようとして、ふと狐のことを考えてその菓子折
を丈夫な縄でしっかり縛って天井に高く釣って、こうすれば狐も手が出ないだろうと自惚
れていた。さて朝になって見ると、しばった縄は依然として元通りだが、菓子折は消えて
いた。憎らしいことに、問題の菓子折はまるで人が置いたように机の上に載ってかけてあ
った紙もそのままである。ところが開いてひらいて見ると、中身の菓子は全部食べ尽くし
ていた。まるで妖術のような不思議さである。
ある時は猫の声を出して猫を誘い出して遊んで、その上に食ってしまった。老狐は婦女を
騙して遊ぶ場合もあり、その場合に遊ばれた女のほうはかならず髪をみだしそこに寝てい
て熟睡していたようである。何が起こったのか訊いてみても、状況を説明できたものがな
い。だれも皆、前後不覚の状態だったという。知らないはずはないが、恥ずかしくて言え
ないのかも知れない。
これも、前の酉陽雑爼の話だが、狐は氷を聴く能力があると言う。こちらは日本でもいう
ことで、現在も諏訪湖では狐が渡ったのをみて人も氷の上を歩きはじめる由で、この点は
越後も信濃も同じである。一方、狐が火を扱うという説もいろいろあるが、どれも信じる
に足りない。
私が実見したのは、ある夜真夜中に、自宅の二階の窓に火の映る様子で不思議に思って隙
間から覗いてみると、雪を積んだ小山の上に狐がいて口より火を吐いていた。よくみると
呼気が燃えている。その状況は、口よりすこし上で燃えて、前に述べた寒火のようである。
面白いのでしばらく見物していたが、火が出る時と出ない時があり、狐の体内の「気」に
57
よるのだろう。狐の呼吸が常に火を吐いているというものでは勿論ない。博物学者木内石
亭が雲根志の中で、狐の玉のひかることを述べているが、狐火は玉が光るものではなさそ
うである。狐の玉が光るという話と、ふつうに見る狐火とは別のものだろう。
訳註:
酉陽雑俎(ゆうようざっそ)
:怪奇な話をあつめた中国の唐の時代に書かれた作品。
雲根志:博物学者木内石亭著。1770~1800 年ころに出版。「奇石」を整理解説したもの。
コメント:この項目の話は狐が人間の女性とセックスするという部分も、呼気で火を噴く
という部分も支離滅裂で、牧之らしくない。
[諏訪邦夫訳]
○狐を捕る:真面目な捕獲法かジョークか?
友人の話だが、彼の親しい友人が隣村へ夜話に出かけて帰る途中、道傍に茶釜が落ちてい
た。ちょうど夏のことだったので、畑で働いた農民が置き忘れたものだろうが、このまま
では変な人に拾われてしまうかも知れない、持ち帰って持ち主を探してやろうと、この茶
釜を手にさげて二町(200 メートル)ほど歩くと急に重くなり、茶釜の中から声がして俺
をどこへ連れて行くのだという。拾った人のほうはびっくりして茶釜を捨てて逃げたが、
狐は草の中へ走り込んだという話である。狐がちょっといたずらをしただけだろうが、こ
んな妖術をそなえながら時に人に欺されて捕まるのは何故だろうか。この質問に対する私
の回答はこうである。
鉄砲に打たれたりするのは論外で、これは仕方がない。一方、ウマそうな餌に捕まるの
は、人間が騙すことを狐も知ってはいるものの、慾を捨てて慎むことがいつも可能とは限
らない。ダマされると知りながら餌にかかって、人を騙そうとして逆に捕ってしまうのだ
ろう。狐のよこしまな知恵による。もっとも、この点は狐とは限らず人間も似たようなも
のだ。よこしまな知恵があると、相手の悪企みと知りながら、こうやればバレないだろう
と自分のたくらみのほうを信じて、結局は身を亡すことになる。セックスも強欲も、結局
身を亡すのは甘い汁を吸おうという心掛けである。
本物の善人は、路端に大金が落ちていても部屋で美人と対面していても、心が邪(よこし
ま)に動くことがない。心が安定して、止るべき時は止まると知っているからである。こ
ういう人は心のなかに明るい鏡があって、善悪を照して正しく判断して身を慎むので、之
を明徳の鏡と言う。鏡はお天道さまが誰にも授けて下さっているのだが、鏡だから磨かな
ければ光らないと、若い時ある儒学の学者から教を受けた。
狐の話に関係つけ大学の話にかけて諌めたのは、
質問した人が若くてしかも身もちの崩れ
かかった人だったからで、このあたりは要らぬ長口上だが、丁度思い出したのでそのまま
書いておく。
さてこの辺で狐を捕るやり方がいろいろある中で、懐手で簡単に捕る手法がある。その手
法を説明しよう。春になって少し暖かくなるとつもった雪が昼の内は軟かくなる。夜間に
狐が俳徊する場所を選んで、
麦用の杵などを雪の中へさして杵の穴を二ツ三ツ作っておく。
58
夜になるとこの穴も凍って岩の穴のように固くなる。狐が好きな油滓などをその辺に撒き、
さらに穴の中にも入れておく。夜ふけに人が静まったころ、狐がここにやってきて、撒い
てある油滓を食べ尽し、当然もっと食おうと例の穴の中のにも手を出す。そのために、頭
を突っ込んで倒さになりて穴に入って中のもの食うわけだが、さあ穴から出ようとしても
尾がやっとすこし出る程度に小さく作った穴だから、方向転換できず穴から出られない。
雪は深夜になればしっかり凍って、狐の力では穴を広げることもできず、何とか出ようと
して結局くたびれ果ててしまう。さて狐を捕える側は、これを見つけて水を汲んできて穴
に入れる。凍った雪の穴だから水は簡単には漏れず、狐は尾を振って水で苦しむ。あとは
見ていればいい。狐は死に際に屁をひる癖があるから、狐が尾を揺さぶらなくなれば溺死
したとわかり、あとは尻尾を掴まえて大根を抜くようにして狐が捕まる。穴は二ツも三ツ
も作っておくから、運がよければ二疋も三疋も狐を引き抜いて捕まる。この方法は、雪の
穴が凍って岩のようになるから可能で、土の穴で同じことを試みても、土は狐の得意技だ
から逃げてしまうだろう。
まあ、これは雪国だけで出来ることなので、雪の話のついでに記しておく。
訳註:
コメント:お談義の部分:本書は著者の道徳談義が少ない点が読みやすいのだが、ここで
は珍しくお談義をしている。それでも「要らぬ長口上だが、丁度思い出したので」と照れて
いる。
特殊な捕獲法:このキツネ捕獲法が本当の話か、著者がみたことや体験したことがあるの
か、まったくのジョークなのかわからない。事実として信用するには面白過ぎる。
[諏訪邦夫訳]
○雁の代見立(だいみたて)
:雁は見張りを立てる
この土地は雪の盛りには食糧は何もないから、冬には山野の鳥は稀である。春になって
雪が降りやむといろいろな鳥がやってくる。二月になっても野山一面に雪の中だが、清水
のながれは水気が温かいので雪のすこし消える箇所も出現し、ここに水鳥が下りてくる。
これを見ると雁も二三羽がここに降りて自分でまず食事を求め、ついで糞を残して食糧の
ある場所の目印にする。方言で、これを「雁の代見立」と呼ぶ。
雁がこんな行動をとるのは仲間の鳥を集めて、仲間にも食事を与えようという意図であ
る。仲間を信じるこの態度は、人も見習いたい。ところが、人間のほうはこのがんの糞を
探して、代見立の糞があれば種々の手法で雁のくるのを待って捕まえる。雁のほうもたび
たび捕まってこれを知るからだろう。人にしらせまいと、糞に土をかけて隠してしまう。
代見立の具合が悪く、あまり食糧がない箇所へは、糞に土をかけず再来もしないので、
雁の知恵も人のそれに似ている。ところが、人間のほうは知ったことをそのままにせず、
糞に土をかけたのを見つけると、その近くで矢を射やすい所へ、人が一人入れる程の雪山
をつくって、後に入り口をつけて中は空洞にし、雁のいるべき方角に穴を開けて雁のくる
59
のをまつ。雁は勝手にくるのでなく、くる時がきまっている。それで雁がくるとこの穴か
ら鉄砲の銃口を出して撃つ。このやり方を、土地の言い方で「ゆきんだう」というが、こ
れは「雪ン堂」のことである。他にもいろいろなやり方があり、雁が住み処を替えるのは
夕暮から夜半や明け方で、人はこの時を狙っていろいろな工夫をして雁を捕える。
この土地は雪の為にさまざまの難義や災難に遭うことを前に詳しく述べたが、雪を利用
する例もあり、大小雪舟の便利、縮の製作など重要だが、他に以下のようなのがある。
○雪ン堂
○田舎芝居の舞台桟敷花道を雪で作る。
○辻売の居るところ、売物の架台も雪で作る。この地の言い方で「さつや」と言う。
○獣狩、追鳥。
○積雪で家が埋まると、かえって極端な寒さは防いでくれる。
○夏も山間の雪で魚や鳥肉を囲っておくと必要なときに食べられる。
○雪が水となって水源を豊かにする
他にも詳しく検討すれば、いろいろあるだろう。考えてみると、天地の万物にはムダは
ない。ただ人間の邪悪だけはごめんだ。
○天の網:カスミ網の利用
そもそも人が悪いことをすると天罰があたるもので、ちょうど魚が網にかかるように確実
で、これをたとえて天の網という。新潟より三里(12 キロ)上ったところに赤塚村があり、
山のところどころが凹になっている。ここに支柱をたてて細糸の網をはって鳥をとるのだ
が、土地の言い方で赤塚の天の網と呼ぶ。この村には干潟があり、水鳥がこれを狙ってや
ってきて、山の凹んだ箇所を飛んできて、天の網にかかってしまう。大抵はアジという鴨
に似た鳥で、美味しいので赤塚の冬至鳥といって遠いところまで知られている。本来、ア
ジカモというべき名前を省略して呼ぶのだろう。
あじかもは、
古歌にも多数詠まれている。
○雁の総立:番鳥と司令鳥と従卒の関係
一般的に、陸鳥は夜になると盲になって眼がみえず、水鳥は夜中も眼がみえる。雁は特に
夜もよく見えるのでその度合いが強い。他国ではどうか知らないが、この土地の雁は大抵
昼に眠り、夜に飛び回る。眠る時は、人家から離れた箇所に集って眠る。この時は首をあ
げて四方を見ている雁が二羽いて、これを番鳥と呼ぶ。番だけでなく、食物を探す際もや
はり先導がいる。飛ぶ時に列をなすのを雁行といい、兵書にも載っていて知られている。
雁は、ただ居る際も序列を決めて勝手に行動しない。食糧を求める時は皆で一斉に飛び、
遊ぶ時も皆で遊ぶ。雁の中に司令官がいて、他の雁はこれに随って行動する。大将と兵卒
の関係である。
人が来たとか変な状況に気づくと、例の番鳥が羽ばたいて、他の鳥はこれを聞くと食糧を
探している時でも、
この羽ばたきを間違いなくとらえて、
飛びあがるときは乱れているが、
やがて隊列をつくって飛び去る。土地の言い方で、これを雁の総立と言う。雁の備え方は
軍陣に似ている。他の種類の鳥ではみられないことながら、雁では他の土地でも同じだろ
60
う。こんなことは田舎のものには珍しくないが、都会の人の話題として提供しておく。
○渋海川(しぶみがわ)ざい渉り:川一面の氷が溶けて流れる壮観
しぶみ川というのは信越の境を水源として、越後の中を三十四里(136 キロ)流れて千
曲川(信濃川)に合流して海に入る。この川は越後の
○頸城 ○魚沼 〇三嶋 ○古志
の四郡を流れるので、
「四府見」という意味の命名かと思ったが、これは間違いである。
昔の書物をみると、渋海あるいは新浮海と書いてある。この川は屈曲が激しく、広くなっ
たり狭くなったりする様子は描写がむずかしい。冬は一面に凍って閉じてしまい、その上
に雪がつもると平地のようである。ところが、急流が岩に激しくぶつかり水勢が急なとこ
ろは雪もつもらず、浪が立つことさえある。舟を渡す箇所は斧で氷を砕いて渡すが、それ
でも結局氷厚くなって力がおよばなくなり、船は陸に上げて人は氷の上を歩いて渉る。こ
の地の言い方で、ざいわたりと言う。この土地の方言ではすべて物の凍るのを、
○ざい
○しみる
○いて
など言う。いては古い単語である。
正月の末から二月のはじめに陽気がよくなると、この川の氷が自然に裂けて流れる。大き
なものは七八間(13~14 メートル)で、形はさまざまで大きさも一様ではなく、川の広い
所と狭いところにしたがって流れる。通常は、
明け方に裂けはじめて夕方には流れ終わる。
継続するのは日中一日かせいぜい一昼夜で、この三十四里の氷は全部砕けて流れて北の海
に出る。この時に轟音を発して、響きは千雷のようで、山も震える感じである。
その日は、川の付近の村々は慎んで外に出ないことにしている。一方、よそからは渋海川
の氷見物といって、花見のやうに酒肴を持参して岸に花筵や毛氈などを敷いて見物する。
大小幾万の氷片や水晶の盤石のようなのが、藍色の浪に漂って流れる様子は目ざましい荘
観である。氷を観て楽しむという趣向は、暖国では絶対にないだろう。この川には「さか
べつたう」という奇談があり、これに関しては次の巻で述べよう。
訳註:
コメント:この「渋海川ざい渉り」の項目は、川一面にはった氷が溶ける見事な風景を楽し
む話である。井上靖の名作『おろしや国酔夢譚』で、レナ河の氷が解けるシーンは小説で
も映画でもドラマティックなシーンで全編の白眉部分である。似た光景が日本でも北海道
北部ならありそうと考えていたが、意外に近いところに類似の箇所があったとは初めて知
った。
[諏訪邦夫訳]
北越雪譜初編巻之中 終
==========
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初編巻之下
一覧
○渋海川さかべつたう:蝶の大量発生
○鮏の字の考察:鮏と鮭の関係
○鮏の食用:食べ方各種、頭骨と卵と
○鮏の生産地:主に北海道だが越後も
○鮏と鮭の問題のすべて
○鮭を捕る仕掛けの例:打切とつづ
○掻網:鮏を網で掬いとる
○漁夫の溺死:冬の漁の危険
○総滝:漁が危険か世渡りが危険か
○鮏漁のやり方各種
○鮏の洲走り(すばしり)
:鮏が地面を走って逃げる
○垂氷(つらら)
:雪国ではスケールが違う
○笈掛岩(おいかけいわ)の垂氷:雪国でも特別の巨大つらら
○雪中の寒行者:水垢離と無言と
○寒行の威徳:傲慢武士を無力化した話
○雪中の幽霊:幽霊の剃髪と見物
○関山村の毛塚:幽霊から入手した毛髪で供養
○雪中に鹿を捕まえる話:鹿は雪の中では鈍足
○泊り山の大猫:お盆ほどの足跡、日本にも虎が居た?
○山の言葉:泊り山では特殊な用語を
○子供たちの雪遊び:雪ン堂つまりカマクラ
○雪から坐頭が降ってきた:頓智で危機を脱して土産をせしめる
○渋海川さかべつたう:蝶の大量発生
図渋海川の蝶の大発生を描いている。蝶を何羽描いているだろうか。
この土地の方言で、蝶を「べつたう」という。渋海川の沿岸では、「さかべつたう」とい
う。蝶はいろいろな虫の羽化したもので、大きなのを蝶、小さいのを蛾と呼ぶ。本草によ
れば、種類はとても多い。草花が変化して蝶になると本草にも書いてある。蝶の日本名を
「かはひらこ」というのは新撰字鏡にも載っているが、
「さかべつたう」という名はこの本
では扱っていない。
前にいう渋海川で春の彼岸の頃、幾百万という多数の白蝶が水面より二三尺(0.6~0.9
メートル) の高さをは互いに羽もすれあうほどに群がり、高さは一丈(3 メートル)あ
まり、両岸に限定して川下から川上へ飛び、花ふぶきと見違いそうだという。何キロにも
及ぶ川の流れに霞をひいたように、朝からタ方まですべてが川上へと続き数は無数で、川
の水も見えないほどである。そうして日暮になると、みな水面に入って流れ下っていく。
その様子は、白い布を流すようだ。蝶の形は燈蛾ほどだが、種類は白蝶である。この土地
に川は大小いくつもあるが、この現象の起こるのは渋海川だけで、毎年必ず発生するのも
62
不思議である。ところが、天明の洪水以来発生しなくなってしまった。
本草を調べると、石蚕あるいは別名を沙虱というものがいて、山川の石上について繭を
つくり、春夏に羽化して小さい蛾となり、水上に飛ぶと書いてある。問題のさかべつたう
は、渋海川の石蚕にあたるものだろう。それが洪水で全部流れてしまって、絶滅したのだ
ろう。他の土地で石蚕を生む川があれば、同じ蝶がいるかも知れない。私自身はこの蝶を
見たことはないが、近隣の老婦人で若いころに渋海川付近から当地に嫁入りしてきた人に
尋ねたところ、その老婦人が語ってくれた話をそのまま記述した。
訳註
「べつたう」
:発音は「べっとう」だろうが、ここは本来の表記のまま残した。
本草:植物一般を指す単語だが、ここでは「本草綱目」という中国の書物や「本草図譜」
という日本の書物を指すのだろう。「辞書や図鑑によれば」と解釈する。
新撰字鏡:900 年頃にできた漢和辞書。
燈蛾:蛾は灯火に集まるので、こういう表現をする。
天明:1781-1789 年、いわゆる「天明の大飢饉」の時代である。北越雪譜は 1840 前後の刊
行だから、この蝶の大発生はもう絶滅している。
[諏訪邦夫訳]
○鮏の字の考察:鮏と鮭の関係
新撰字鏡という字書(漢和辞書)は、日本の僧で昌住という人が、今より 940 年余り前
の寛平昌泰(889-901)の年間に作ったもので、文字を詳しく検討する書物である。そんな
昔から、世の学者たちが伝えて写して重宝してきていた。ところが最近、村田春海大人は
63
この本を京都で入手して、享和三年(1803 年)の春に版木をつくって出版し、世の人々が
入手しやすくなり、その後は学者が机に置いて使えるのは、この春海先生のお蔭である。
ところで、上の辞書ができてから 20 年後に、源順氏が今度は「和名類聚抄」を編纂した。
これも字書で、元和年間に那波道円先生が版木にほって刊行した。その後、別の版もでき
ている。
さて上記「和名類聚抄」ができて後 500 年ほど経って、文安頃(1445 年前後)に下学集
という字書ができて、これも元和三年(1617 年)に版木で刊行された。下学集から 53 年
後の明応 5 年(1496 年)に、堺の町人の林宋二氏が節用集を作り、文亀のころの活字本が
ある。これは引節用集の発端である。その後、180 年経って元禄 11 年(1698 年)に槇嶋照
武氏(別名、駒谷山人)が作った江戸の人書言字考、一名合類節用集という版木による出
版書がある。前に述べた林宗二氏がつくった節用集を大成した物で、いろはで引ける本で
ある。その他に、字類抄などがいろいろあるが、下に引用しないものはここでは省く。日
本の字書というと、まずこの位だろう。現在世間で広く用いる節用集は、新撰字鏡 和名抄
を元祖として、その後のものはみなそこから発展したものである。こんな能書きを述べて
いるのは、そもそも鮭の字のことを言うつもりで、事情に暗い方々の為にあらかじめ説明
した。
新撰字鏡の魚の部に「鮭」
、
「佐介」とあり、和名抄には本字は「鮏」で、俗に「鮭」の
字を用いるが、これは間違いだと述べている。新撰字鏡は 900 年頃の成立だから、
「鮭」の
字の使用もそこまで遡る。同じ本に崔禹錫が食経を引用して「鮏の類の子は苺に似て赤く
光り、春生れて年の内に死ぬので年魚と呼ぶ」と載っている。新撰字鏡に鮭の字を出して、
鮏と鮭と字が似ているから伝写の誤りを伝えたものだろうが、明確ではない。
「鮭」は河豚
のことかも知れない。下学集にも鮭・干鮭と並べて出している。宗二の文亀本の節用集で
も、塩引干鮭とならべて出している。こちらも、鮏と鮭との伝写のあやまりかも知れない。
駒谷山人の習言字考には○鱖○石桂魚○水豚○鮭と書いており、いずれも「さけ」と読み、
注に和名抄を引いて本字は鮭と述べている。大典和尚の学語編には鱖の字を出しており、
鱖(き)はあさぢと読みをつけている。唐の字書には鱖は口が大きくて鱗が細かいと書い
てあるから、鮏の類だろう。字彙には鮏は鯹の本字で、魚臭(なまぐさい)という字だと
述べている。推測だが、鮏の鮮鱗(とりたて)は特に魚臭いものだからだろう。鮭は鯸鮐
(こうち)の一名ともいうが、そうなると鮏からはますます遠くなる。ともかく、鮏が本
字と承知して俗用として鮭を用いるのが妥当だ。上に述べたように鮭の字も昔から使って
いるので、たいていの文章では鮭の字を用いており、鮏の字では逆に広くは通じにくい。
ここではとりあえず、鮏が正しいことにしておく。
訳註
寛平昌泰:寛平(かんぴょう)は 889~898 年、昌泰(しょうたい)は 898~901 年
村田春海(むらたはるみ)
:国学者
1748-1811。賀茂真淵の弟子で著作もある。
「大人」は
「うし」と読み、学者・師匠への敬称。
板本:版木に彫って出版すること。一部ずつ写すのと比較すると、多数がつくれて普及し
64
やすい。
享和(きょうわ)
:1801~1804 年。享和3年は 1803 年である。
源順(みなもと の したごう)
:
(911~983)、平安中期の歌人・学者で、
「倭名類聚鈔」
を編纂した。ここでは「和名類聚抄」と書いている。
「朝臣」は位の名前で、姓名の後に「社
長」とか「大臣」とか「教授」と書くのに当たる。
元和(げんな、げんわ)
:1615-1624 年、江戸初期である。「元和元年」が大阪夏の陣。
文安(ぶんあん、ぶんなん)
:1444-1449 年
下学集:上記の通り室町時代でできた辞書。カタカナで読みのついているのが特徴。
明応(めいおう)
:1492-1501 年。室町時代だが応仁の乱が終わり、戦国時代である。
節用集:日本語の辞書。イロハ順にかなで引ける点が特徴。
文亀:1501-1504 年:できたのが 1496 年で、この年代に「活字本」になっているのだから
10 年以内に出版されたことになる。
元禄:1688-1704 年。5 代将軍綱吉の時代。柳澤吉保、赤穂浪士の討入りなど。
人書言字考:これはわからなかった。
河豚:今は「ふぐ」のことだが、淡水魚のかじか(鰍)も指す。ここではどちらか不明。
コメント:この項目は、「さけ」の文字の考察だが「鮏」という字は現在ではまったく使わ
ないのに、これが本字だというのが面白い。
[諏訪邦夫訳]
○鮏の食用:食べ方各種、頭骨と卵と
鮏を生で食べるのは、○魚軒(さしみ)○鱠(なます)○鮓(すし)である。
○烹る(=煮る、煮魚)○炙(あぶる=焼き魚)
、などその料理法は他にもあるかも知れ
ない。醃(しおづけ)にしたものを塩引または干鮏というのも昔からで、前に引用した本
に載っている。延喜式には「内子鮏」というのが載っているが、今でいう「子持ち鮏」の
ことだろう。同書で、脊腸を「みなわた」とふり仮名をつけている。丹後(京都北部)信
濃(長野)越中(富山)越後(新潟)から税として納めたとあるから、古代は鮏をお偉方
にも奉ったものだろう。都から遠いところから献納するので、塩引だったろう。
頭骨のすきとおるところを氷頭(ひづ)とよんで鱠として旨い。子を鮞(はららご)と
いう。これを醃(しおづけ)にしたものも美味である。子をもったままで塩引にしたもの
を子籠りといい、以前「すはより」と呼んだのもこれだろう。本草に、鮏の味はかなり甘く
やや温かく毒はなく、身体を温ため気を活発にするが、食い過ぎると痰が出ると述べてい
る。私の土地の塩沢付近では、塩引にしたものを大晦日の頃には必ず食べる習慣で食べな
い家はない。病人も食べる。他国で腫物などの病気では避けるというが、慣れていないか
らだろう。
訳註:
延喜式:法律に施行細則、905 年頃から編纂がはじまり、927 年に完成して 967 年に施行と
いう。ずいぶんのんびりした話だ。
[諏訪邦夫訳]
65
○鮏の生産地:主に北海道だが越後も
鮏は、現在では五畿内や西国では生産する話を聞かない。東北の大河が海に通じている
付近で鮏がとれ、松前と蝦夷地で最多である。塩引にして諸国へ通商するのはこの土地に
限られている。次には、この越後で多い。その他に、信濃越中出羽陸奥で産し、常陸にも
あるときいている。これらの国の鮏は、その場所で食用にあてるだけで、他国へ売るほど
は獲れない。江戸は利根川に面しているが、ここでは稀で、初鮏は初鰹並に高価だという。
越後塩沢付近では、毎年 7 月 27 日、あちこちに諏訪の祭りがありその翌日から鮏の漁を
はじめ、十二月に寒が明けると鮏の漁も終える。古志郡の長岡と魚沼郡の川口(現在の越
後川口)あたりで捕獲した一番の初鮏を漁師が長岡の殿様に献上すると、慣習として鮏一
頭に(一頭を一尺とよぶ)米七俵の褒美を賜わったという。それも第五番までで、しかも
献上する鮏には大きさの規定があり、小さいと俵数が減る。鮏の大きいのは 3 尺 4~5 寸(約
1 メートル)
、小さいのは 2 尺 4~5 寸(70cm)である。もちろん、もっと小さいのもある。
男魚と女魚があり、女魚(めな)は子を抱いているから、男魚(おな)よりは値が高い。5
番までは奉って後は販売するのだが、初鮏の値が高いことは十分に推測できよう。初鮏を
貴重品扱いするのは、江戸で初鰹を貴重品扱いするのと同様である。初鮏は銀色に光って
わずかな青みがあり、肉の色は紅をぬったように赤い。2 月頃になると、身体に斑の錆色
が出て、肉も紅の色が薄くなり味もやや悪くなる。この地方では、川口や長岡のあたりを
流れる川で捕れたのが上等品で、味は他に比べると十倍もよい。この土地から少し離れる
と味はぐっと低下するが、美味なのは北の海から川を延々と遡って苦労した故だろう。魚
は一般に、激しい波に遭って苦労すると味は必ず美味になる。北の海の魚の味が濃くて旨
く、南の魚の味は淡白だという差があるようだ。
訳註
五畿内:大和、山城、河内、和泉、摂津の 5 国を指す。いずれも歴代の皇居が置かれた。
江戸は利根川に面している:利根川は江戸時代には東京湾に流れていた。
松前と蝦夷地で最多:この書き方によると、松前を蝦夷地の一部とはせず別格に扱ってい
たようだ。たしかに松前には藩があって、幕府の支配が及んでおり、北海道の残りの部分
はこの時点では放置されていたということだろう。
[諏訪邦夫訳]
○鮏と鮭の問題のすべて
図 鮏(鮭)の絵。わかりやすい。
66
越後の鮏は初秋に北の海を出て、千曲川と阿加川(阿賀野川)の両大河をさかのぼる。
ここで子を産む目的である。女魚と一緒に男魚ものぼる。さかのぼる距離は約五十里(200
キロ)で、河にいる期間は約 5 ヶ月である。その間の 8、9、10、11、12 月に人が捕まえる。
捕まらなければ海へ帰るから、
それによって寸法に大小が生じる。
子を産みつける場所は、
魚の心で決まるから一定ではないが、千曲川と魚野川の二つが合流する川口というあたり
は、川の砂に小石がまじって、この付近を産卵場所とし、水が途切れずしかも特に急流で
なくて水がきれいな場所なのでここに産卵する。
卵を産もうとして鮏がぶつかり合って群がっている様子を、漁師の言葉で「掘につく」
とか「ざれにつく」と言う。砂を掘るのにさまざまのかたちをするので、ざれこと(いた
ずら)のざれの意味だろう。女魚も男魚も一緒になって、尾で水中の砂を掘る。その広さ
は一尺(30cm )あまり、深さは七八寸(25cm )
、長さ一丈(3m)余りで、数日でこれを作
る。つくり終わると、女魚はそのなかへ卵を一粒ずつ産む。女魚が卵を産むのを見て、男
魚は自分の白子(精液)を弾着させ、直ちに女魚と男魚が共同して掘っておいた小石を左
右から尾鰭ですくってかけて卵を埋める。一粒も流さないようにする。こうして一箇所に
産みおわると、その近くに並んでまた掘っては産み、産んではまた掘り、幾条もならべて
掘って終には八九尺(2.5~2.7m)四方の砂の中へ行義よく腹の子をのこらず産みおわる。
時には、場所を替えて産むこともある。砂に小石が交っている所を選ぶという漁師の話で
ある。その辺のやり方は、人間の知力に決して劣るものではない。出産が終るまでの苦労
67
のために、尾鰭が傷つき身体も疲れ、ながれに任せて下り深い淵がある所にくるとそこに
沈んで身体を休め、もと通り元気が出ると再び流れをさかのぼる。
掘に入って出産している時は漁師も捕獲しない。偶然捕まえることはあっても、無理に
は捕らない決まりである。
女魚さへ捕らなければ、
男魚はその場所から離れることはない。
鮏が川をさかのぼるのは子を産むためである。女魚に男魚が従ってのぼるのは子の為に女
魚を助けるためで、この点も人の気持ちに似ている。
不思議なことに、河の広い場所で卵を産んだ場所が洪水などで流れが変わって河原とな
った場合、何年かたっても産まれた卵は腐らず、ふたたび流れるようになるとその卵から
孵化して鮏となる。何年か前に、私の住む塩沢の近くで魚野川のほとりに住む人が、井戸
を掘ったところ、鮞(はららご)の腥(生きているの)を掘り出したことがあったと、友
人が話していた。
卵が孵化するのを、漁師言葉では、「やける」とか「みよける」と言う。
「早化る」・「身
ヨ化る」だろうか? 卵が水中にいて 14~15 日すると魚になる。形は糸のようで、身長は
一二寸(3~6cm)
、腹が裂けていて腸ができていないので、ゆえに佐介と呼ぶのだといい伝
えている。春になると成長して三寸(10 センチ)あまりになるが、この稚魚は捕ってはな
らない決まりである。この子鮏(稚魚)は雪が消えて流れる水に乗って海に入る。海に入
ってのち、裂けていた腹部が合して腸になる、という漁父の話である。
前にもいった通り、鮏の漁は寒中までで、寒が明けてから捕ると祟りがあると言い伝え
られている。私が若い頃の事だが、水村のある農夫が、寒が明けた後に獺(かわうそ)が
捕まえた鮏を横取りして食ったところ、発熱して苦しみ三日で死んだことがあり、だから
祟りがあるとの言い伝えも間違いではない。また、鮏が産んでおいたたまごをとれば、と
った人の家は断絶してしまうとの言い伝えもある。
鮏の大きいのは 3 尺 4,5 寸(1 メートル)以上もあり、こんなのは何年も網にかからず
成長したものだろう。私が若かったころは、鮏が多数とれたので値段も安かったが、最近
では漁獲量が減って、価格も当時と比べると 2 倍になっている。毎年工夫しては漁をする
のだから捕りすぎてどんどん減っているのだろう。大きな女魚からは卵が 1 升(1.8 リッ
トル)もとれるが、小さいと 3,4 合(0.6 リットル)にすぎない。江戸で数多く売買され
る塩引は鯵鮏(あぢさけ)というもので、越後の鮏とは品が異なり種類の違うと、ある物
産家が説明してくれた。
鮏は河で生まれ海で成長するが、何故か海で網にかかることはない。そんな状況を考え
ると、鮏は鱗のある魚としては奇魚というべきだろう。
私牧之が常に思うことだが、真冬に捕った女魚の卵と男魚の白子とをまぜて、鮏が住む
川の砂石で包み、瓶のようなものにうつして入れ、鮏のいない国の海に通ずる山川の清流
に、
この瓶にうつした受精卵を砂石と一緒に鮭がうみつけたままの形式に整理しておくと、
この川で鮏が得られるだろう。3 年間は捕えることを禁じておけば、鮏が定着するかも知
れない。実現すれば、その国の利益となるはずだ。江戸の白魚は、むかしこんな風に種を
うつして生産できるようになったと聞いた例もある。
68
訳註
コメント:「祟り」について:単純に迷信なのか、あるいは時期が遅くなると実際に毒性が
出たり、感染症の危険がましたりするのかも知れない。興味深い。
コメント:最後の部分の養殖の提案が興味深い。著者牧之の科学的なものの見方の面目躍
如で感心する。この手法が実際に完成するのは大正から昭和になっての由だが、それにし
ても 100 年近く前に案を提出しているのだ。
[諏訪邦夫訳]
○鮭を捕る仕掛けの例:打切とつづ
図 鮭を獲るのに使う打切という仕掛けの図
新潟の海に流れこむ大河は、阿加川(阿賀野川)と千曲川の二つである。阿加川のこと
はここでは除外しておく。千曲川は別名を信濃川ともいい、千隈と書くこともある。千曲
川の水源は信濃・越後・飛騨の大小の多数の川を流れ寄せてこの大河となる。越後では、
妻有と上田の二庄を流れて魚野川の急流を形成し、これが魚沼郡藪上の庄の川口宿の端で
千曲川と合して、古志郡蒲原郡の中央を流れて海に入る。信濃からの水は濁り、越後の流
れは清流である。信濃からの水は、犀川の濁水が加わる故である。
図 鮭を獲るのに「突き道具」を使う。
69
一方、鮏は初秋には海を出てこの流れをさかのぼる。蒲原郡の流れは底が深く河が広い
ので、大網を使用して鮏を捕える。やや上流の川口より上田妻有付近では、打切というも
のを使って鮏を捕る。その手法は夏の終わりから準備を開始して、岸から川の中へ向かっ
て丸木の杭を並べて建ててこれに横木をそえ、さらに隙間なく竹の簀をわたして垣根のよ
うにつくり、川の石を寄せて固定する。長さは百間~2 百間(180~360 メートル)にもな
る。その周囲や形は、川の都合でいろいろである。
船の通路の部分は、垣根を除いて邪魔にならないようにし、夜間に船が通れるよう常夜
灯を準備しておく。この仕掛けに「つづ」という物を垣根の下にならべ、鮏が入れるよう
にする。杭のところには、つづの端を縛っておく。このつづの作り方は、竹を垣根状に編
んで端を縛り、鮏の入る口の方には竹の尖ったものを作りかけて腮(あぎ)とし、底につ
く側は平らにして上は丸くし、胴は膨らませて、長さは五尺ばかりである。鮏が入りやす
いように口が広く作ってある。
「つづ」と呼ぶのは筒が訛ったものだろう。田舎言葉には昔
の用語を言い伝えてわかるものもあるが、清音と濁音が入れ替わって名がかわる場合も多
い。阿加川のことを、場所によってはあが川というのも同じ例である。
ところでこの打切を作るにはけっこう費用がかかり、漁師たちは話しあって参加する。
打切を敷設した岸には仮小屋をつくり、漁師たちは昼夜ここに泊り夜も寝ずに鮏のかかる
のを待つ。7 月から作業をはじめて 12 月の寒の明けまで、仲間が交代で小屋にいて鮏をと
る。打切は川口を 1 番とし、上流へ 15 番まである。どこが誰の担当かは、川に境目があっ
て厳重に管理する。
さて鮏は川下より流を遡って打切までくると、船の通路は流れが打切で狭まって急流か
70
ら小さな滝になっており、鮏は滝を超えるのを嫌うからだろう、大抵は打切のよどみのほ
うへ移動し例の垣に近づき、潜って超えるところがあるかとあちこち探索して、つづを仕
掛けてある所に着き、通り抜けようとここに入ると行き止まりで、逆行しようとしても口
には尖りの腮があって脱出できない。
一方、小屋で見張る漁師は魚がかかったと思える頃を見計らって、はなかますという舟
を乗り出す。これは大木を二ツに割ってくりぬいた舟である。浅い所では舟を使わず、雪
の降る寒夜でも漁のため寒さもかまわず、裸になって水に飛びこんでつづをはずし、鮏が
いれぱつづのまま舟に入れて鮏をとりだす。大鮏は三尺あまりもあり、それが大暴れする
ので、魚揆(なつち:魚用の槌)を使って頭を一撃すると即座に死んでしまう。不思議な
ことに、この魚揆は、馬の爪をきった槌を使わないと鮭が死なない。勝手につくった槌で
はいくつ殴っても死なない。また、鮏の頭のどこを打つか場所も決まっているとは漁師の
話である。鮏をとる所では、どこでもこんな槌を用いるが、みな馬の爪きり槌を使うとい
う話だ。そこへ「すけご」という漁をしない鮏の仲買専門人が、この小屋にきて鮭を買う。
「すけご」は助賈のことだろう。
訳註:
魚揆:原書では「揆」が木扁になっている。「揆」は「一揆」などように「はかりごと」の意
味だから、
原書の意味とは違うようだ。木扁の字もパソコンで探したが見つからなかった。
助賈:「賈」は「あきない、商売」あるいはそれをする人つまり商人の意味の字
[諏訪邦夫訳]
○掻網:鮏を網で掬いとる
かきあみとは掬い網で、鮏を掬い捕るをものを言う。その掬い網の作りかたは、股のあ
る木の枝を曲げあはせて飯櫃のような形に作り、これに網の袋をつけ、長い柄を着けて掬
いやすくする。川の岸が険しい所ではは鮏は岸の近くを遡上するもので、岸に身体を置け
るだけの棚のような場所をつくって、ここに居て腰に魚を掬う網をさし鮏を掻き探ってす
くいとる。岸が絶壁の場合は、木の根に藤縄をくくりつけて棚をつくって身を固定し、こ
こにから掻網をする場合も稀にある。何メートルもあるような深淵の上にこの棚をつって
身を置き、一本の縄で身体をつなぎとめて仕事をするのに怖いと思もわないのは仕事にな
れているからだろう。
○漁夫の溺死:冬の漁の危険
図 タイトルは単なる「鮭絶壁掻網図」だが、上に女性を配しているので、「漁夫の溺死」の
箇所に載せた。
71
縁起の悪いことなので場所の詳細は省くが、ある村に住み夫婦で母一人を養い、5 歳と 3
歳の男女の子持ちの農夫がいた。
毎年、鮏の季節になると漁をして家計の助けとしていた。
この辺りは岸がみな険しく、村の人たちは各自岸に例の棚を作って掻網をしていた。けれ
ども絶壁の箇所は棚を作るものもなく鮏もよくあつまるので、この農夫はここに棚をつり
おろし、縄一本を命綱として鮏をとっていた。十月になり、雪の降る日は鮏も多く収穫が
多いので、雪が一日降っても厭わずに蓑笠に身をかため、朝から棚に降りて鮭をとり、籠
が満杯になるとその籠にも縄をつけおく。自分がまず棚を鉤のついた綱に縋って絶壁を登
り、次に籠を引きあげる手順である。綱に掴まって登り下りするが、慣れていて猿のよう
だ。食事も登って済ます。
この日も、夕暮れから荒れ模様の雪になった。こういう天気では逆に鮏が獲れやすい。
食後に再度あの棚に行こうとすると、雪がひどくなったからと母も妻も止めるのをきかず、
72
炬燵を用意して棚に登って掻き網をすると、予想とおり鮭が多数捕れて、鵜飼の謡曲でも
うたうように罪も報も後の世も忘れて、いい気分で時間が過ぎていった。
一方、妻は母も寝床に入り子供も寝かしつけたので、この吹雪の中を夫は凍えそうだろ
う、行って連れ帰ろうと、蓑を着け藁帽子をかぶり、松明(たいまつ)を一本つけ、ほか
に二本用意して腰にさし、当の場所に着くと松明をあげて覗き、川の下にいる夫に声をか
けた。どんなにか寒いでしょう、宵の口も過ぎましたよ、もうやめて帰りましょう、飯も
あたたかく炊けているし酒も買ってあります、さあ帰りましょう、松明も乏しくなったの
ではないですか、雪が積もってカンジキが要りそうで持って来ましたよと呼びかけた。け
れども、西風の吹雪でよくは聞こえない。さらに声を上げて呼びかけると、夫はこれを聞
いて、よろこびなよ鮏が沢山とれた、明日は家でうまい酒を飲めそうだ、今日はもう少し
捕ってかえるから、あんたは先にかえれと言う。それでは松明はここにおきますよといっ
て、点けたまま棚をつりとめて綱を縛ってある樹のまたにはさんで、別の松明に火をうつ
して帰った。でも、これが夫婦の今生の別れだった。
妻は家にかえって炉に火をつけ、あたたかい食事を夫に食わせようと用意して待って居
たが、時間が経っても夫は戻らない。待ちかねて、再度例の場所にきてみると、はさんで
おいた松明が見えず、持っている松明をかざして下を見るが、光も届かず夫の姿もはっき
りしない、声のかぎり呼んだが返事がない。棚にはいないのだろうか、それにしてもおか
しいと気にかけて松明をふって辺りをてらし、雪に登った跡がついていないか探すと、先
ほど木の股に挟んだ火が燃え落ちている。これに気づいて手に持った松明で念入りに見る
と、棚に縛っておいた命綱が焼け残っている。これを見て妻は胸が一杯になり、ここにお
いた松明が焼け落ちて綱をやききり、棚が落ちて夫は深淵に沈んだに違いない、いくら泳
ぎを知っていても闇夜の早瀬に落ちて手足が凍えては助るすべもないだろう。どうしたら
よかろう。姑に言い訳のしようもないと涙を流して泣き、自分も夫と一緒にと松明を川へ
投げ入れて身を投げようとしたが、気をとりなおして、自分が死んでしまったら老いた母
と稚ない子どもを養ってくれるものがない。母は子供の手をひいて路頭に迷ってしまう。
死ぬわけにもいかない、夫よゆるしてくださいと雪にひれふし、やけた綱にすがりつき声
をあげて泣いた。そのまましているわけにもいかないので、焼け残った綱を証拠にもち、
暗い夜に松明もなく吹雪に吹かれながら涙も凍るようにして泣きながら帰宅したが、夫の
死骸も結局見つからなかったと、その場所に近い所の友人が最近のことと話してくれた。
コメント:この漁夫の溺死の項目は、「吹雪(ふぶき)の難」の項目(若夫婦が吹雪で行き
倒れ、赤子だけ助かった話)と共に雪国の悲惨さをあらわす話の双壁と感じる。牧之が、
物語の能力にも長けていることを示している例である。[諏訪邦夫訳]
○総滝:漁が危険か、世渡りが危険か
総滝というのは新潟の河口から四十里(160 キロ)上流で、千曲川のほとりの割野村に
近い所の流れにある。信濃の丹波島から新潟まで流れる間に、流が滝になっているのはこ
こだけである。この総滝は、川幅がおよそ百間(180m)近くもあり、大きな岩石が竜のね
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ているように水中に突出し、流れてくる水がこれにぶつかって滝となる。鮏はここまでく
ると激浪を登れずためらうので、漁師はここに仮に柴の橋を架橋し、岸に近い岩の上の雪
をほりすて例の掻網をする。しかし命は惜しいから、各自おのおの自分の腰に縄をつけこ
れを岩の尖りなどに縛っておく。ここまで往来するには、岩の上で足の踏み場をかろうじ
て作り、岩に掴まって登り下りする。一歩でも足を外せば、身が粉々に砕けて滝に落ちそ
うで、危っかしいことは喩えようもない。
私が前年江戸にいた時、このことを前に述べた山東翁に話したところ、翁の言うにはそ
もそも世わたりの危険は総滝よりも危っかしい、でも世わたりの際に足もとを見て渡るも
のでもなかろうと笑っていた。なるほどもっともな話だと記憶にとどめたが、偶然おもい
出したので記録しておこう。
○当川:三角形の網でとるのをいう。
○追い川 水中に杭をたて網をはり、水を打って鮏をおいこむ
〇四ツ手網 他国のものと同じ
○金鍵 水中の鮏をかぎにかけてとる、その手練はなかなか絶妙である
○流し網 さしあみともいい、網の長さは二百間(360m )余で、蒲原郡で行っている
○やす突 水中の鮭を見すまし、やす(やす:先の分かれた槍)で突く。一ツものがさ
ない。この手練も実にみごとだ
他にもいろいろあるが、あまり詳しく書くとかえってつまらないので、中心的なことだ
けにする。
訳註
総滝と割野村:現在総滝という地名は見当たらないが、「割野」という地名が残っている。
中津川が信濃川に合流する箇所の少し下流、飯山線の津南駅に近い地点である。
[諏訪邦夫訳]
○鮭の洲走り(すばしり):鮏が地面を走って逃げる
さけの洲走りは、雪の前の季節に河原でおこる。鮭が網にせめられ人にも追はれると、
水を飛び離れて河原にのぼり、網のある所をこえて水に飛び込んで網を逃れるのである。
この時は、大鮏が先頭をきって水をはなれ、小鮏たちが後に従い、河原を走る距離は 4~5
間(7.2~9 メートル)に過ぎないが、走り方は矢のようで人の足では追いつけない。先頭
の大鮏が、もし物にぶつかって横に倒れると、したがう鮏も同様に倒れて起き上がれず、
簡単に捕まってしまう。居合わせた人は、偶然とはいえ手も濡さずに 2,3 頭の鮭が手に入
る。鮭は足が無いのに地面を走り、倒れると起きないなど、まったく他に例のない奇魚だ。
図 鮏の洲走りの図。砂浜を鮏が走るのを漁師が追っている。
74
○垂氷(つらら)
:雪国ではスケールが違う
何年か前、江戸に行って名人の文筆家や書画家に会って書画を所望した時、前の山東庵
(山東京伝)と仲好くなり訪問を重ねていたが、京山翁のほうは当時まだ若かった。ある
時雪の話に関係して京山翁の言うのに、正月友人らと梅見に出かけて帰途に吉原へより、
暁に雨が降りだした。やんだので芸者屋を出て日本堤までくると、堤の下に柳が 2,3 株あ
り、この柳にかかった雨が垂氷(つらら、氷柱)となって数センチずつ枝毎にびっしり下
がり、青柳の糸が白玉を貫いて、しかもちょうど朝日があたって何ともいえず見事で、茶
店で休んで眺めながら、思わず詩作した。寒い朝に、雨が降って止んだことによる偶然で、
こんな珍しい景色に出会ったと話した。暖かい江戸では珍しいとしても、塩沢での垂氷に
比較すれば「水虎の一屁」のようでつまらないことに感心すると、心のなかで滑稽に感じ
た。
この土地の垂氷というと、まず我家の氷柱の話をしよう。表間口 16 メートルの屋根の軒
先に、初春の頃の氷柱が何本もならんでぶらさがり、長いのは 2 メートルもあり、根の部
分は周囲が 2 尺(60cm)ほどに太く、水晶で格子をつくったようにみえる。でも、この土
地では子供の時から見慣れて特に珍重せず、垂氷を詩歌の材料にすることもない。垂氷は
明りを妨げるので、木鋤で毎朝打ちおとす。また屋根がへこんで谷になった所を方言で「だ
ぎ」といい、溶けた屋根の雪が滴って集まるので、つららが巨大になり、下に物がないと
二丈(12 メートル)にも達する。巨大になっても邪魔でないと放置すると後が大変で、力
自慢の男が激しく叩いて、何とか折って落としたのが 5 尺(1.5m)もあり、子供たちが雪
舟にのせて引きまわして遊んでいた。この程度は我家の氷柱でも起こるが、神社やお寺の
75
つららはさらに大きく、山の中ならさらに巨大に成長する。
訳註
日本堤:隅田川から吉原に向かって「山谷堀」という掘割の川があり、吉原へ向かう路の一
つで、川岸を日本堤という。掘割の堤である日本堤の地名は、明治年間以降たとえば漱石
の『猫』にも登場し、現在も残っている。山谷堀そのものは、戦後に埋められて消滅した。
つらら:ここでは「垂水」と「氷柱」という二種類の用語と仮名表記の 3 種類をつかって
いるが、区別は不明。[諏訪邦夫訳]
○笈掛岩(おいかけいわ)の垂氷:雪国でも特別の巨大つらら
図 巨大なつららの絵:この絵は、「寒行者威徳の図」と組んでおり、そこから切り出したも
の。
私が住んでいる塩沢から南東三里(12 キロ)のところに清水村の所有する山に笈掛岩と
いうのがあり、高さが 10 丈(30m)以上で横幅が 25 間(45m)ある。下の谷川が登川とい
う川で、その水源である。この岩は形が屏風を開いて建て廻したようで、岩の頂上が反転
して川に覆いかぶさり、下は 40 人か 50 人くらいの人が坐れるくらいで、屋根のようにな
っている。上越後には名前のついた奇岩が数多くあって、これもその一つである。この笈
掛岩の氷柱は、越後の人でさえ見たらおどろくだろう。つららが数多くできるが、最大は
長さ 10 丈で太さが二た抱もある。下がった形はロウソクの流れたようで、街中のつららと
違って屈曲さまざまで水晶細工のようで、玲瓏として透き通って朝日が暉くと比べものが
ないほど美しいと、清水村の庄屋の阿部翁が話していた。こんなつららでも、特に珍しく
ないから私を含めてわざわざ見に行く人もいない。清水村の阿部翁は、昔有名だった阿部
右衛門尉の子孫で、代々清水峠の関守で、ここには長尾伊賀守の城跡がある。
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訳註:
笈掛岩(おいかけいわ)
:笈は行者などが背負う箱で、役割はリュックサックに等しい。高
さに丈(10 尺、3m)を、横幅に間(6 尺、1.8m)を使うのは慣用だろうか。
二た抱:両手で抱える太さ。一人が両手を広げると 150~170mだからその 2 倍になる。
登川と清水峠:登川は塩沢付近で魚野川に合流する支流。笈掛岩はみつからなかった。同
名の岩が全国に多数あるようだ。清水村を地図で見ると、清水峠を越えてここに降りて登
川ぞいに下る。「清水峠の関守」というのも納得できる。実際の清水トンネルや新幹線のト
ンネル、関越トンネルはいずれも本物の峠より少し西側を通って魚野川の本流の上流に達
している。旧国道(三国街道)だけは、はるかに西側の三国峠を通過してまったく違う経
路で越後湯沢に出る。江戸時代の経路が清水峠でなくて三国峠を通った理由や、鉄道がそ
れと違う清水峠に近い経路を通っている理由などが知りたいものだ。
[諏訪邦夫訳]
○雪中の寒行者:水垢離と無言と
我家に、2 年ほど江戸に住んだ下男がいる。彼の話で、江戸では寒念仏といって寒行を
するお坊さんがおり、
寒の 30 日間に限定して毎夜鈴が森と千住に行って刑死の回向をする。
その姿は股引草鞋で、着るものはあたたかいものを着て行をする。一方、寒中裸参りとい
うのもあり、こちらは家作りに関係するすべての職人の若人らの活動である。ふつうより
長く作った提灯に、日参などの文字を太く書いて持ち、裸で錞(れい)をふりながら走っ
てそれぞれの考える神社や仏閣にお参りする。お参りでは、かならず水をかぶる。寒中の
夜は、何人もの人が西へ東へと走り歩くという話である。
塩沢での寒行は、基本は似ているが細部は違う。この土地の寒中はどこも雪だらけで、
その上に寒気がはげしい。雪を踏んで毎夜寒念仏や寒大神まいりといって、寒中 7 日~21
日、自分の気持ちで日数を限って神社やお寺を参詣する。参加するのは若い農民か商家の
雇用人で、昼は働き参詣は夜である。昼の仕事の合間に、ふつうは水を三度浴びるが、こ
れ以上は当人の考えである。水を浴びたら身体を拭わず、濡れたまま衣服を着ける。その
際、稲藁の穂の方をしばったものを扇のやうに開いて坐るのは、身を引き締める気持ちと
いう。ただぼんやりとはしていない。束ねた藁は帯にはさんで身からはなさない。行の途
中は沈黙して口を一言もきかず、母以外は妻でも女性の手から物を受けとらず、精進潔斎
する。他の人たちも、彼が腰にはさんでいる藁で行者と知り、無言が必要なので言葉をか
けず周囲も協力する。理由は、行者に言葉をかけて、行者が間違って口を利くと行が破れ
て、始めからやり直しの必要がある故である。時には、沈黙の行はしない場合もある。
夜になると千回の垢離を行い、百回に一回は頭から水を浴びるので合計十回水浴する。
身を拭わず着るものをあらため雪が降らなくても蓑笠をつける。どんな吹雪でも避けず、
鉦を鳴らしながら歩く。必ず同行者がいて、家に着いたら鉦を鳴らすと同行者も家の中で
鉦を鳴らして挨拶して家から出でくる。家に入らない場合、行者は女性にゆきあうと身の
けがれとして川に入り、または井戸で前のように水を浴びて身を清めてから参詣する。行
者の鉦の音をきいたら、女性は門から外へ出ず、道では遠くで音が聞こえると隠れる。
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行の最中に誰か人が死んだことを聞くと、二里三里(8 キロ~12 キロ)と遠い所でも、
知っている人でも知らない人でも区別せず、そのお宅に伺って丁寧に回向する。これも行
の一ツである。したがって、不幸があって間もない家では、接待しようと神妙に行者を待
つ。寒念仏寒大神まいりの苦行の概略はこんなところで、他の国はわからないが、江戸の
寒念仏裸参りに比べるとかなり違う。こんな苦行の結果の歴然たるご利益を次にしるそう。
苦行して祈れば、神仏も感応してくれることを子供たちに示したい。
訳註:鈴が森と千住に行って刑死の回向:鈴が森は東京の南南西、品川の先。千住は東京
の北北東に位置する。いずれも刑場があった。鈴が森は講談や落語に数多く登場する。一
方、杉田玄白の『蘭学事始』によると刑死人の解剖を観察したのは千住小塚原である。
千回の垢離を行い、百回に一回は頭から水を浴びる:原文は「千垢離をとり、百度目に一遍
づゝかしらより水をあぶる」
となっている。「垢離」
が水を浴びる修行の意味と解釈すると、
訳者にはこの部分の意味が解釈できない。
[諏訪邦夫訳]
○寒行の威徳:傲慢武士を無力化した話
図 寒行者威徳図:本文にある行者が武士を懲らしめた図である。この図の左上が欠損して
いるのは、タイトルに残した通り、ここには「笈掛け岩」の図がはめ込まれており、それは
別に扱ったので切り取った故である。
私の住む塩沢から 10 町(1 キロ)あまり西南に田中村というのがあり、この村に最近寒
78
行者がいた。ある日、米俵を脊負って 5、6 町離れた中村というところへでかけた。この道
は三国街道で、人通りが多い。雪道の往来は人の踏みかためた跡に限るので、どんな広い
所も道は一条に限られ、そこを外れると腰までも雪にふみこんでしまう。重い荷物を持っ
た人がいると、お武家さんでも一足退いて道を譲るのが雪国の慣習でる。
この田中の人が、途中で武士にゆきあい、重荷を背負いながら自分から一歩横へ避けた
が、武士は大声を出して脇へよれと言う。しかし、もう一歩よると重荷を背負って雪に落
ちてしまうと思って、どうしようかとためらっていると、無礼ものと肩を突いたので、俵
を脊負った者は頑張れず雪の中へ横に倒れたが、相手の武士も反動で投げられたように倒
れてしまった。田中の者は、さっさと起きて後も見ずに急いで立ち去った。この直後、同
じ田中の者がもう一人きて、武士が雪の中に倒れて起き上れないのを不審に思い、なにか
病気かと訊いた。武士は小さい声で起こしてくれと言う。顔色は異常だが、病人とも見え
ない。ところが、手をとって引き起そうとすると手をのぱさず、抱えておこそうとしても
一向に起きない。
さらに力を入れて起こそうとしても大石のように重くて身体が動かない。
不思議だと驚ろいているのを見て、武士はこんなことがあって、身体がすくんでしまって
動かないと説明した。
後からきた田中村の人は、米俵を脊負ったものと武士がいうのを聞いて、先行の若者を
知っていて何が起こったのか気づき、きっと行者の罰だと行者関係の問題点を話してきか
せ、自分も彼が行った中村へ行くので、あの行者を連れてこよう、お詫びをしなさい、す
ぐだから待っていなさいと急いで行って、すぐに行者を連れてきた。武士は手をついて、
ゆるしてくれと言う。行者は特に怒った様子もなく、何ともいわずに衣服を脱いでかたわ
らの柳の木にかけ、裸になって水を浴び寒詣りの方を拝み、武士の手をとって引起したと
ころ簡単に起き上がり、武士は恥ずかしいという様子で礼をのべて立ち去ったという。よ
く我家に来る田中村の人の話である。
○雪中の幽霊:幽霊の剃髪と見物
図 文字通り幽霊の絵である。
79
塩沢宿の隣が関という宿で、となりが関山村で、この村に魚野川を渡る橋がある。流れ
が急で僅かの出水でも橋が流れるので、仮橋をかけてあるが川が広いので橋もけっこう長
い。雪の頃は、住民たちが橋も除雪して道を作るが、一夜の内に三尺も五尺も積もると、
毎日除雪しても雪の積もった狭い橋を渡ることになり、渡り慣れていても過って川におち
て溺死する事件も起こり得る。
この関山村に、源教という念仏乞食坊主がいて、独りで草庵をつくって住んでいた。年
は 60 歳あまり、
念仏三昧だけを唱える僧で、
学は乏しいが行は学問を極めた僧に劣らない。
この僧は、
毎年寒念仏の行を勤め、
言葉はあまり話さず毎夜念仏を唱えて鉦を打ちならし、
お参りの帰りに二夜に一度はこの橋に立って溺れた者を長年回向していた。今夜は満願と
いう夜、この橋で特に念入りに回向し、鉦をならして念仏を唱えたところ、皎々と冴えて
いた月が突然曇ってぼんやりして見えなくなった。
これは不思議と見ていると、水中から青い火がもえあがったので、亡者の陰火かと目を
閉じてかねを鳴らし、しばらく念仏して目をひらくと、橋の上の二間ほど先に、年齢三十
歳過ぎの女性が青ざめた顔に黒髪をみだし、水から出たばかりの様子で濡れた袖をかきあ
はせて立っていた。普通ならあっと言って逃げ出すところだが、流石にそうしないで身体
を向けてよく見ると、
こんなに暗いのによく見えるもののふつうの人ではない。おまけに、
身体が透き通っていて向こう側のものが少し見えている。腰から下は、あるのかないのか
はっきりしない。これは幽霊だと一生懸命に念仏すると、歩く様子でもなく何となく前に
進んできて、細いかすかな声でいうには、私は古志郡何村(村名は聞きもらした)の菊と
いい、夫にも子にも先立たれ独りだけ後に残り、生活も苦しくなったので、ここから近い
80
五十嵐村に縁者があって助けを頼もうとこの橋を渡ろうとして、あやまって水に落ちて溺
死しました。今夜は四十九日の待夜ですが、世に捨てられた立場で一掬の水を手向けてく
れる人もいません。御坊様は時々ここで回向してくださってありがたいことですけれど、
私は頭の黒髪が邪魔になって人間界に迷い出てはあさましい姿をさらしています。おねが
いですから、この頭髪を剃って頂きたい、何とかお願いしますと言って、顔に袖をあてて
さめざめと泣いていた。
源教は答えて、それは簡単だが、あいにくここには頭髪を剃る道具はない。あすの夜に
私の住んでいる関山の庵へいらっしゃい、望みを叶えて上げようと言うと、嬉しそうに頷
き煙のように消えて、月は皎々として雪を照らしている。
さて源教は自分の僧坊に戻り、翌日は以前から親しい同じ村の紺屋七兵衛を呼んで、昨
夜のお菊の幽霊のことを詳しく話し、お菊の魂が今夜は必ず現れる、それを仏に関心の薄
い人に聞かせて教化の役に立てようと思うが、たしかに見たという証人がいないと人々は
嘘だと思うだろう。貴君は正直者で通っているから幽霊の証人に頼みたい、世の人のため
だと話した。七兵衛も僧と同じ年頃で、しかも念仏の信者だから同意して、お坊様の頼み
にもちろん同意しますから夕方参りましょう、どこか適当な場所に隠れて見とどけますよ
という。僧は、隠れ場所には仏壇の下がよい、でも絶対に他人に話すなよ、話すと幽霊を
見ようと村の若者があつまりそうだから、と念を押す。わかりましたと、七兵衛は一度家
に帰った。
さて夕方になり、源教はいつも以上に念入りに仏を供養し、あたりを清潔に整えてお経
を唱えていた。七兵衛も早々にやってきた。お経が終わると七兵衛に食事をさせ、日も暮
れたからと仏壇の下の戸棚に隠し、覗くのに具合のよい節孔を確認し、それから仏のとも
し火も家の灯火もわざと弱くし、仏の前に新しい筵を敷いて幽霊の出場所とし、入り口の
戸もすこし明けて、よく砥いだ剃刀二丁を用意して今か今かと幽霊を待っていた。夜にな
って雪が降り出し、少し開けた戸口から吹きこんでくる風に灯火も消えそうになるので、
戸を閉めて炉の端に座り、戸棚の七兵衛には蒲団は敷いてあるが眠ってはだめだぞ、と命
じた。七兵衛は、眠るどころか幽霊を見ようと心に念仏を唱えています、お坊様こそいつ
ものくせで居眠りなんぞしなさんな、ああ声が高い、もう少し小声で、幽霊を見ても我慢
して音をたてないで、などと言いあって手にもった煙草を自前で粗く刻んだのを詰めて吸
っていた。やがてそれも止めて、念仏を口のなかで呻くようにもぞもぞ言い、ついでに顎
を撫でて髭なぞ抜いていた。雪よけの簾に雪があたってさらさらと音がするだけで、近所
に家はなく静かで物音もせず、時間が経っていった。
幽霊の影も見えず、源教は炉で温って眠気をもよおし、居眠りでつい倒れそうになって
目を見ひらいた時、お菊の幽霊が何時の間にか来て、敷いてあった新しい筵の上に坐って
仏に対して頭を下げている。さすがの源教も怖いようでぞっと身を震わせたが、何とか落
ち着いて、よく来てくれたと言うと、幽霊は何も言わず黙ったまま、姿は昨夜見たのと同
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じだった。源教は手を洗い盥に水をくみ剃刀を持って立ち上がると、乱れた髪から露がた
れそうにぬれている。でも雪の降る中をきた様子にも特にみえない。源教は心の中で、こ
の女性の髪の毛を保存して後の証拠にしたいと注意して剃刀を動かすと、剃りおとす毛髪
がまるで糸をつけて引いたように女性の懐に入ってしまう。女性だから髪の毛を惜むのか
と毛を指にからんで剃ったが、自然に懐に移動して手の中にとまってくれない。何とか剃
り終り、わずかな量の毛だけがやっと手元に残った。幽霊は白く痩せた掌を合せ、仏を拝
みながら次第に薄くなるように消えていった。
○関山村の毛塚:幽霊から入手した毛髪で供養
紺屋七兵衛は隠れていた戸棚から這い出し、とても怖しいものを見たことですな、いく
らお坊様とはいいながらよくぞ剃刀をあてましたな、見ているだけでおそろしかったのに。
独りで帰宅するのも気味が悪いから、今夜はここに泊めてくださいという。源教も、どう
ぞお泊り、待っていた人は帰ったからもう特に用はありません、これをごらんなさい、後
の証拠にしたいと髪の毛をやっと少し残しました、幽霊も残したかったのでしょうと見せ
ると、七兵衛は覗きこんだが手は出さない。僧は紙に包んで仏壇におき、夕暮れの酒も少
し残っている、肴はないがまあ一杯とわずかな残りをとりだし、二人で炉端にあぐらをか
いて酒をのみながら七兵衛がいうには、幽霊の話はきいたことはあるが見たのは今夜が始
めてで、袖擦り合うも他生の縁というので、ただ見ただけでは残念です、今夜こそ仏法の
ありがたさが身にしみたので、明日はこの庵で百万遍を唱えてお菊さんの成仏を祈りまし
ょうという。源教は、そはよい功徳だ、古志郡のお菊さんの幽霊を見とどけたと人々に話
してください、
愚僧も貴君の証人として幽霊の話をして教化の話題にしましょう、
と言う。
そう言えば、昔もこんなことがあったと砂石集に載っていることなど、人に聞いたのを
おぼろげに思い出して一ツ二ツ語りきかせて、夜もふけたので一ツの夜具を二人でかぶっ
て眠った。
さて翌日、七兵衛は源教を連れて家に戻り、近所の人を集めてお菊の幽霊のことを話す
と、今度は源教が懐から例の髪の毛を出して見せる。これを見た人は、奇異の気持ちにな
った。さて七兵衛が百万遍のことを話すと、集まった人たちは、それはよいことだ、早速
今夜やりましょう、茶菓子類はこちらからお持ちします、お坊様は茶の用意をお願いしま
す、数珠も庵にはないでしょうから、お寺のを借りて持って行きます、他の人々もさそい
あって大勢で行きますと言うことになった。七兵衛の妻も脇にいて、夫にむかって、大切
な事ですから餅をつきましょうと進言した。それはいい考えだというわけで、急に大きな
催しになった。
こうして、その夜は源教の草庵に大勢あつまり、みんなで念仏を唱えたので、けっこう
ににぎやかな仏事となった。この話があちこちに伝わって話題になったが、そのうちに仏
心の強い人が、源教さんが持っているあの髪の毛を埋めて上に石塔を建てて供養すれば、
お菊の魂もあの世で喜ぶだろうといい出すと、同意する人が多数いて計画が実現し、終に
石塔を建てる事になった。源教がいうに、これほどの事業の中心になるのは自分には荷が
重すぎるので、最上山関興寺の上人を招請しましょうと言う。人々はなるほどと言って出
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かけ、ことの次第を話してお菊の戒名をつけてもらい、お菊が溺死した橋の傍に髪の毛を
埋め石塔を建て、
人を葬るのと同じ手順で仏事を行い、皆が集まって丁寧に行事を進めた。
例の紺屋七兵衛は、ここから急に気持ちを改め、後に出家したという。この事はひとむ
かし前のことだが、関山の毛塚として今も残っている。
訳註
皎々と:白いことを描写する語で、月の光によく使われる。
砂石集:沙石集とも書く。1279~83 年に書かれた仏教説話集。後に加筆されているという。
[諏訪邦夫訳]
○雪中に鹿を捕まえる話:鹿は雪の中では鈍足
よその国の方は、越後はどこも雪が深いと思うだろうが、それは違う。前にも言ったと
おり、海辺は雪が少ない。雪の深いのは魚沼・頸城・古志の三郡、それに苅羽・三嶋の二
郡は場所によって違う。蒲原は郡として大きく、全体としては雪が深くはないが、東南の
地域は奥羽に隣接して高山が並び、雪の深い所がある。
雪の深い所では、雪中では牛馬をつかえない。人は雪でも便利なはきものを使えるが、
牛馬には使えないからである。雪中に牛馬を使おうとしても、首まで雪に埋まって使いも
のにならない。10 月から正月を越えて 4 月の始めまで、牛馬は何の役にもたたないまま飼
っておくだけで、この点は暖国にはない難儀の一ツである。
獣類は前にもいったように、初雪を見ると山を超えて雪の少ない地方に移動するが、と
きに移動しそこなって雪で動きが鈍って、狩りの対象になる。熊のことは上巻で述べた。
猪は獰猛で、雪が深くても捕まえにくい、鹿・羚羊(かもしか)は弱いので、雪の中では
捕まえやすい。鹿は特に脚が細長く、雪の中を走るのは人より遅い。鹿は深い山を嫌い、
大抵は端山(連山の端の山、あさい山)に住む。何でも慣れば面白く、猟に慣れた者は雪
の足跡を見て獣の種類を見分け、さらには今朝の足跡とか、今行ったばかりのなどと時間
まで見分ける。三国山脈から北へ続く二居という峠にある場所の人たちに、鹿を追う様子
を訊いてみた。
まず鹿を捕まえにいこうと話し合い、
各人それぞれ雪の中を漕ぐ
(深い雪中を進むのを、
その地の言葉で「漕ぐ」という)必要があり、履物で身をかため、山刀・鉄砲・手鎗・棒
を持って山に入り、例の足跡をみつけて追跡すると必ず見つかる。鹿は人を見て逃げよう
とするが、走るのが人より遅く、深田を進むようにモタモタして終には追いつめられて殺
されてしまう。時には、剛勇の人が角を持ってねじふせ、山刀で刺殺するという。こんな
のは暖国にはない事柄だろう。
○泊り山の大猫:お盆ほどの足跡、日本にも虎が居た?
私の住む塩沢の隣の宿場の関に近い飯士山にの東に続く阿弥陀峯(あみだぼう)は、木
83
を切り出す山で、村毎に持分が決まっている。二月になって雪が降り止んだ頃、農夫がこ
の山で木を切りだそうと話しあい、山篭りの食物を用意して場所を見つくろって仮小屋を
作って寝泊りし、毎日あちこちの木を気の向くままに伐採して薪につくり、小屋の脇に大
量に積んで、満足なだけ手に入るとそのままそこに積んで帰宅する。こういうのを泊り山
と言うが、山に泊まって夏用の仕事をするのである。こうして夏から秋になり、積んでお
いた薪も乾き、牛馬をつかって薪を家に運んで使う。雪の深い所では、雪の時期に山に入
って木を切り出すのは不可能なので、人々が雪に対して工夫したやり方である。
ところで、上に述べた阿弥陀峯には水がない。谷川はあるが、山から数丈(何十メート
ル)も下を流れ、翼でもない限りは水を汲むのも難しい。年月の経た藤蔓が大木にからま
って谷川にぶら下がっている所があり、泊り山をして水を汲む場合は樽を背負って藤蔓に
つかまって谷川へ下り、水を汲んだら樽の口をしめて背負って、ふたたび藤蔓につかまっ
てのぼる、つまり山の釣り橋を渡るのに似ている。泊り山の場合、この藤蔓がないと水を
汲めず、縄では藤の強度には敵わない。泊り山をする人たちは、この藤の蔓を宝のように
尊ぶという。
泊り山をした人の話だが、ある年の二月に、一同七人があちこちに散らばって木を伐っ
ていると、山々に響くほどの大声で猫が鳴いた。一同おそれおののいて、全員小屋に集ま
り、手に斧をかまえて耳をすまして聞いていると、声は近くなったり遠くなったり、また
近くなる。猫が何匹もいるのかとおもうと、声はどうもたった一匹である。しかし、姿は
一向に見えないまま鳴きやんだ。
後で七人がおそるおそる鳴いていた付近にいって見ると、
凍った雪に踏み入れた猫の足跡があり、大きさは巨大で丸盆ほどあったという。
そんな生き物がいるはずがない、と否定するわけにはいくまい。私の友人で信州の人が
聞いた話で、知人が夏に千曲川へ夜釣に行った時、人が三人ほど乗っても具合のよい岩が
水から半ば出ており、よい釣場だと登って釣り糸をたれていた。少したってその岩に手鞠
ほどの大きさで光るものが二ツ並んでいた。月が雲間から出て明るくなってよく見ると岩
ではなくて大きな蝦蟇(がま、ひきがえる)で、光っていたのは目だった。人々は生きた
心地もせず、何もかもすてて逃げ帰ったという。
○山の言葉:泊り山では特殊な用語を
泊り山は、この土地にかぎらず外でもする。小出嶋というあたり、上越後山根の在でも
するようだ。どんな深山でも何か事柄を行う際は、山ことばというものがあってつかう。
それを忘れて、里の言葉をつかうと、山の神の崇りがあると言い伝えている。他国のこと
は知らないが、その山言語とは、
○米を 草の実
○味噌を つぶら
○焼飯を ざわう
○雑水を ぞろ
○天気が好いのを たかがいい
○風を そよ
○雨も雪も そよがもふと言う。
○蓑を やち
○塩を かへなめ
○笠を てつか
○人の死を まがつた又はへねた
○男根を さつたち
○女陰を 熊の穴
他にも多数あるが、全部書いても無意味なので書かない。女陰の熊の穴から考えたこと
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だが、この種の単語は商家の符調に似ている。山でこんな言葉を使わないと山の神の崇り
があるとは信じがたいが、神様の事は人間が軽々しくデタラメなどいうべきでもない。
○子供たちの雪遊び:雪ン堂つまりカマクラ
図 雪ン堂つまりカマクラの絵である。左端に雪山があり、中に人の顔がみえる。
何度も述べたとおり、この辺は 10 月から翌年 3 月末までの半年は雪である。雪の中に生
れ、雪の中で成長するから、子どもの雪遊ぴにもいろいろあり、暖国にはないものも多い。
中には、暖国の人には思いもよらないのもある。まず除雪した雪を高く積んだ上を、子供
が集まって遊び用の木鋤で平らにしてふみつける。
雪国の常として、子供も雪の中では藁沓(わらぐつ)を履く。雪を集めて塀を作るよう
に大きな囲いをつくり、その間にも雪で壁をつくり、入り口を開いて隣の家とし、すべて
の囲いにも入り口をつける。中にお宮のような所を作り、前に階段を備え宮の内に神の御
体も見えるように供えて天神さまと称し、恵比寿大黒などもつくる。莚を敷きつめ物を煮
る場所も作る。以上、すべて雪で作る。雪の凹んだ箇所に糠(ぬか)をしいて火をたくと、
消えにくい。これを雪ン堂とか城とも言う。
子供はこの雪ン堂の中にあつまり、物を煮て神様にささげ、みんなで食べる。間に境の
壁を作ってとなりの家を真似て、いろいろに遊ぶ。倦きれば、作ったものを今度は叩いて
壊すのも遊びである。別の子が同じように作った城を、攻撃といって壊し合うのもあり、
そのままにしておくこともある。そういう私自身も、子供のころはこの遊ぴのガキ大将だ
ったが、むなしくも齢をとって今は夢である。
○雪から坐頭が降ってきた:頓智で危機を脱して土産をせしめる
図 本文にある雪窓から座頭が家の中に降ちた様を描いている。
85
前にも言ったように、新年も雪の中だから、大晦日正月はどこの家もわざわざ除雪して
窓から明りが入るようにし、掘った雪は年越し行事の忙しさにまぎれて取除かず、掘揚が
高く屋根の高さを超えて雪道が歩行に不便な箇所もできる。
ある年の大晦日の夜、採点した俳諧の書類を懐にいれて、俳友兎角子君と一緒に、催主
のところへ行って書類を主人に差し上げたところ、主人はよろこんで、今夜はめでたい夜
だからゆっくり語り会おうと、主人の妻や娶娘(息子の嫁)も加わってもてなしてくれた。
雑談しているうちに、主人の妻女が私に、年越しの夜は鬼が来るといって江戸では厄払
いというものをして鬼を追い払うことを行事にして物乞いもするときいていますが、以前
からそんなことをしましたか、鬼が来るという空言も古い言い伝えだろうかと質問した。
私は、このことはご主人が所蔵されている年浪草に吾山がだいたい書いていて、その本を
ご覧なさいと答えた。
ところが、俳友兎角君は酒にも酔っていて冗談をいうように、鬼がくるというのはデタ
ラメではないぞ、女性の集まりは鬼が特に大好きで、その鬼がくるからこそ年越しの豆ま
きを鬼退治というので、俳諧の季語集にも載っていると説明した。母の脇にいた 13 歳の娘
が、あなたはその鬼を見たことがありますかと聞くと、もちろん見たぞ見たぞ、鬼にもい
ろいろいて、青鬼赤鬼はあたりまえ、顔が白くてやさしい白鬼で、黒くて肥太っている黒
鬼なんぞもいる。俺が江戸にいた時、厄払いが鬼を掴まえて西の海へポンと投げたのを見
たことがあり、この鬼は黒かった。江戸の年越しでも、夜は鬼が歩くのだから、この辺の
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年越しでは鬼はいくらでもいる。あかり窓からのぞいてみようかと、いたずら心で脅かす
と、嫁も娘も冗談を言わないで、と口では言いながら、母の左右にくっついて恐怖に駆ら
れている。
ちょうどその時、人々が座っている後の高いあかり窓で激しい音がして、掘あげてあっ
た雪がガラガラとと崩れ、窓をやぶって人が降ってきた。女たちはみなアッといって下を
むいて愕然となり、男たちはみな立あがって驚いた。下僕もこの音にみな駆け寄って、崩
れ落ちた雪まみれの人を見ると、この家へもときどき来る福一という按摩の小座頭だ。幸
いに疵もなく、頭を撫でまはして腰をさすっている。これは福一ではないかと、みなが笑
うので私も笑った。下男らは散らかった雪を掃除し窓も一応修復した。ご主人の妻は腹を
立てて、福一さんよ、兎角どのが鬼の話をしていたところだったので鬼かと思って皆が胆
を冷やしましたよ、めでたい大晦日に盲が窓から降ってくるなんて縁起が悪い、さっさと
退散しなさいと激しく叱る。ご主人はそんなに叱るなよ、それにしても福一よ、どうして
窓から落ちたのだね、どこか怪我はないかと言う。
福一はにっこりしながら、怪我はないようです、年末のおめでたを言うつもりで家を出
たのですが、掘りあげた道が昨日とは違って足元が悪く、まちがって転んだところで窓ま
で壊して落ちてしまいました、いたずらをしたのではないのでお許しくださいと言う。嫁
も娘も口をそろえて、鬼じゃないかとひどく怖かった、憎い盲だと腹を立てて言う。ご主
人の妻はまだ怒っており、しかも今年の吉方にあたる窓をやぶって目のないものが入って
きたのは、つくづく縁起が悪い、早く出て行けと叱りつける。
兎角が脇から、福一よまあここは一度帰ってまたおいで、そのうちに詫びておこうとい
うと、福一は頭を下げて考え込んでいたが、やがて兎角にむかい、歌を一首詠みますので
書いて下さいと言う。この福一は、年は若いが俳諧も狂歌も詠むので、主人の兎角は面白
いといって記録したものを読んでみると、その歌は
吉方から福一というこめくらが 入りてしりもちつくはめでたし
(吉方の方角から、福という名前のついた米倉がとびこんで、餅を搗くとはめでたい)
この歌で、皆がめでたしめでたしと楽しくなり、手を打って全員でよろこぴ、また盃を
廻して楽しんだ。ご主人は紋付の羽織を嫁さんに出させて、歌のご褒美として福一に進呈
したので、福一はそれを膝にのせてさすり、間違いが良いことになったと笑って喜びなが
ら、めでたい年越に着始めしようといって、羽おりを着て手でなでながら、もっともらし
い格好をしてさらに喜ろこんだ。実際、これがよい兆しだったのか、この年この家の嫁の
初産で男児を授かり、特別の病気もなく成長し、三歳で疱瘡に罹ったが軽症で済み今年は
七歳になっている。福一はこんな風に賢く、今は江戸にいて位も上がっているといい、め
でたい話である。
訳註
年浪草:
「華実年浪草」という俳諧関係の書籍。
吾山:越谷吾山、会田吾山ともいう。江戸中期の俳人
87
[諏訪邦夫訳]
北越雪譜初編 巻之下 終
==========
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北越雪譜二編巻二
北越雪譜二編内容解説 京山人百樹序
本書の由来
この書は全部で六巻あり、牧之老人が眠る間を惜しんで書いたもので、本来は版木でない
手書きの本であった。したがって、走り書きの乱れもあり、図もまた略筆であった。牧之
老人から私が校訂の依頼を受け、余分の部分をけずり、校訂して清書し、図は息子の京水
に描かせたものが最初の三巻で、出版社の願いに応じて老人にその旨を告げて版にして出
版した。さいわい、発売以来一挙に七百余部も売れた。これをみて、出版社が是非後編を
と頼んできた。
しかし私も他の書き物の仕事が忙しく、脱稿の約束の期日を過ぎてしまったので、最近に
なってようやく牧之老人の原稿の残りの部分に手をいれ、その願いを達することができた。
牧之老人は、越後の文人である。以前から真面目で飾り気のない気質と優れた活動で知ら
れ、土地の管理者から褒賞も受け、鈴木という苗字を許されている。生業の余暇に、風雅
の面でいろいろな方面の人たちと交友し、私の亡兄醒斎(山東京伝の別号)翁も、牧之老
人とは学問書籍の友人で、私もこれに従っている。老人は、私に是非越後を訪問するよう
永年注文して、私自身も山水に耽る傾向があり、行きたい気持ちは十分だったが、他の用
事で果たさなかった。ようやく、丁酉の晩夏(天保 6 年、1836)に息子京水をつれて訪れ
た。当初は、越後の名勝をすべて訪問する心づもりだったが、越後は飢饉で穀物の価格が
高騰し人心も荒れ気味で、結局その地の滞在は望んだよりは短かった(訳註)。それでも、
旅で新たに学んだことなど書物のなかに書き込んである。百樹曰、
というのがそれである。
越後には松が乏しいが
前編に載せた三国峠の図は、
牧之老人の略筆を真似て京水が勝手に山全体に松を描き加え
た。私は越後を旅してこの峠も通ったが、ここだけでなく前後の山々にも松はほとんどな
い。この峠に限らず、越後は松の少ない土地である。したがって、三国峠を知っている人
は松の絵を笑うかもしれない。この点は、牧之老人の書いた本編の誤りではなく、もちろ
ん絵を描いた京水の勇み足である。
山川や村などはもちろん、
すべて物の名の読み方には清濁のつけ方など越後の方言からみ
て間違いもあるだろう。しかし、土地の単語にも訛りが多い。とりあえずその地のやり方
にしたがっている。牧之老人の原稿には音訓の仮名はなく、仮名づけは私が行った。誤り
があっても、著者の誤りとはしないでほしい。
私はもちろん学問も十分でなく、読んだ本も多くはない。豊かでもないから、書籍の所蔵
も少ない上に、そのわずかな分も火災で失い、棚の上はさびしい。だから、本書で注釈を
つける際 これはあの本で読んだと思っても、その本が手元になくて参照できず、自信が持
てないと感じたことが多かった。
元来物知らずだから、引用し損なったことも多いだろう。
本編に雪以外の事を載せるのは、雪譜の名を損なうようにも思うが、一応記して好事家に
話題を提供したい意図である。私の注釈も意図は同じである。
雪の奇状奇事の大半は、
すでに初編に出してある。
それでも、
なお重要なことがある場合、
89
この第二編に加えた。すでに初編に載せてはあっても、内容が異っている場合は捨てずに
採用した。本書のような刊行物は広く読まれるから、初編を読まない方のためという意図
もある。この点、前書を読んだ方には重複して迷惑かもしれないが、責めないでほしい。
略字について
釋の字を釈に作に作り替えた他、澤を沢、驛を駅にしたのは俗なやり方である。しかし、
本書には驛や澤の字が数多く登場する。
とりあえず、俗なやり方を採用して駅や沢で作り、
出版社の手間を省いた。それ以外の略字は、みな従来の法にしたがっている。
書物の絵は、牧之老人の原稿のものを真実の基本とし、あるいは息子の京水が越の土地で
写した真景、あるいは里人の話を聞いて図に作ったものもあり、一応は確認したので誤を
責めないで欲しい。
牧之老人は、さらに本書の続きを書く意図があるので、本書は初編二編と名付け、前編後
編と呼ぶのを避けている。
天保十一年庚子仲春
京山人百樹識
訳註:
注:天保 11 年は 1840 年である。牧之は 1842 年に亡くなったので、この日付は著者の生存
中である。しかし、第 2 編が実際に出版されたのは、遅れて 1842 年になったらしい。
「望んだよりは短かった」
:原文は、「ゆえに越路をふむことわずかに十が一なり」である。
私ははじめ「11 日」と解釈したが、あとの文章に「小千谷の人岩淵氏」の下に 14 日、塩沢
には 40 日いたとある。それで「十が一」は、望みは多かったが実現した分は少ないとの意
味に解釈し直した。
「百樹曰」の注釈は邪魔と感じる箇所もある。しかし、2 巻は分量が少ないので山東京山が
出版社の要求をきいて水増しのつもりで書き加えたとの解釈もある。なるほど。
冒頭に「この書は全部で六巻あり」とあるが、1編が 3 巻で 2 編が 4 巻で計 7 巻である。
最後の略字の説明が面白い。こんな略字が江戸時代にすでに使われていたとは知らなかっ
た。[諏訪邦夫訳]
==========
90
北越雪譜二編巻一 一覧
○越後の城下
○古歌にある旧蹟:初君の歌など
○雪の元日:江戸の町との比較
○雪の正月:雪を掘る雑煮
○玉栗:雪合戦
○羽子擢(はごつき:羽根つき)
○吹雪に焼飯を売る:生命の値段
○雪中の演芸場
○家内の氷柱(つらら)
:何故屋内につららができるか
○雪中歩行の用具:藁沓・深沓・ハツハキなど
○橇(または輴;そり)
:橇の種類と橇歌
○春寒の力
○シガ:霧氷のこと?
○初夏の雪:雪の消える過程
○削氷(けずりひ)
:三国峠の夏の氷
○雪の多少:地形との関係
○浦佐の堂押:毘沙門堂の押しくらまんじゅう
○越後の城下
越後の国は、昔は出羽の一部と越中の一部に分かれていたと国史に載っている。現在で
は一国となって七郡からなっている。
東に岩船郡
蒲原郡
昔は石船と書いた。海側である。
新潟の湊がここに属している。
西に魚沼郡
海から遠い。
北に三嶋郡
海に近い。
刈羽郡
海に近い。
南に頸城郡
古志郡
海に近い処もある。
海から遠い。
以上七郡である。
城下は岩船郡の村上に内藤侯五万九千石、蒲原郡に柴田 溝口侯五万石、黒川 柳沢侯一
万石陣営、三日市 柳沢弾正侯一万石陣営、三嶋郡に与板 井伊侯二万石、刈羽郡に椎谷 堀
候一万石陣営、
古志郡に長岡 牧野侯七万四干石、頸城郡に高田 榊原侯十五万石、糸魚川 松
平日向侯一万石陣営。
以上の城下の外に特に豊饒な処として、魚沼郡に小千谷、古志郡に三条、三嶋郡に寺泊
と出雲崎、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町などがある。
蒲原郡の新潟は北海第一の港で、特別豊かな土地であることは議論の余地がない。私の
暮す塩沢付近の豊かな点はまあ省略しよう。越後は十月から雪が降り、雪の深いのと浅い
91
のとは地勢で異なる。この点は、後に考察する。
訳註
陣営:通常は軍隊が駐屯するテントやバラックをいうが、ここでは「土地」という意味か。
○古歌にある旧蹟:初君の歌など
蒲原郡の伊弥彦山
伊弥彦社を当国第一の古跡としている。祭るところの御神は饒速日命(にぎはやのみこ
と)の御子天香語山命(あまのかぐやまのみこと)である。元明天皇の和銅二年(703 年)
が垂跡(起源)で、社領は五百石である。この山は特に高い山ではないが、越後の海辺の
全長八十里(320 キロ)の中ほどに独立しており、山脈をつくって他の山につながること
がない。右に国上山、左に角田山を擁して、一国の諸山がこれに従っているようで、どの
山からでも見えて実に越後の中心の山としてはこれよりほかにないと思える。だからこそ、
命もここにお出でになったのだろう。この御神の縁起や霊験神宝で記すべき事柄はいろい
ろあるが、とりあえずここでは省略する。
さてこの山を詠んだ古歌に以下のものがある
いや日子のおのれ神さび青雲の たなびく日すら小雨そぼふる よみ人しらず 万葉集
いや彦の神のふもとにけふしもか かのこやすらん かはのきぬきて つぬつきながら
大伴家持(訳註)
(弥彦山の麓には、
今日も鹿がかしこまっているだろうか 毛皮を着て 角を頭に着けて)
▲長浜:頸城郡に在り。三嶋郡とする説もある。
ゆきかへる雁のつばさを休むてふ これや名におふ浦の長浜
大伴家持
▲名立:同郡西浜にあり、今は宿の名でよんでいる。
順徳上皇が承久の乱で、佐渡に流された折の御製として
都をばさすらへ出し今宵しも うき身名立の月を見る哉
▲直江津:今の高田の海浜を言う。 やはり順徳上皇の御製に
なけば聞ききけぱ都のこひしきに この里すぎよ山ほととぎす
▲越の湖: 蒲原郡には「潟」とよぶ処が多い。この地の言い方では、湖を潟と言う。特
に大きいのが福嶋潟といい、三里四方である。この潟から遠くないところに五月雨山(さ
みだれやま)がある。紀貫之の歌に
潮のぼる越の湖近ければ
蛤(はまぐり)もまたゆられ来にけり
とあり、また藤原俊成卿の歌に
恨みても なににかはせんあはでのみ 越の湖みるめなければ
とあり、また藤原為兼卿の歌に
年をへてつもりし越の湖は 五月雨山の森の雫か
というのがある。
▲柿崎: 頸城郡にある宿駅である。親鸞聖人が詠ったとして口碑に伝える歌に
92
柿崎にしぶしぶ宿をもとめしに 主(あるじ)の心じゆくしなりけり
私の考えでは、
親鸞聖人は御名を善信といい、三十五歳の時に他の人から讒言を受けて、
越後に流された。これが承元元年(1207 年)二月である。五年後に赦免の勅許がおりたが、
法をさらに広めようと越後に五年滞在したことになる。したがって、親鸞聖人の旧跡は越
後の各地に残っている。
聖人は合計廿五年間各地を布教して、
六十歳の時に京都に帰った。
越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年滞在した。弘長 2 年(1262 年)11 月
28 日に 90 歳で亡くなっている。上記柿崎の歌も、布教の行脚の時の作であろう。
この外に▲有明の浦▲岩手の浦▲勢波の渡▲井栗の森▲越の松原 などでいずれも古歌
があるが、他国にも同名の名所があるから、確実に越後とは決められない。
さて今年は天保十一年子(1840 年)だから、今から 541 年前の永仁六年(1298 年)戌の
年に藤原為兼卿が佐渡へ左遷されて、三嶋郡寺泊の駅で順風を待っていた時、初君という
遊女を呼んだところ、その初君が
ものおもひ こし路の浦の白浪も 立かへるならいありとこそきけ
(ものおもいしながらやってきた越路の港の白浪ですが、波ですから戻るものです。あ
なた様もきっと京にもどれることでしょう)
という歌を詠んだ。
この歌が良い兆しとなったのか、5 年後の嘉元元年に為兼卿は無事京都に戻り、九年の
後正和元年玉葉集を撰んだ。その時に、この初君の歌を採用している。越後で随一の優れ
た作品と言えよう。初君の古跡は現在も寺泊にあり、里では俗に「初君屋敷」と呼んでい
る。貞享元年(1684 年)釈門万元記という初君の歌の碑があったが壊れてしまったのを、
享和年間(1801-1804)に里の人が修理して現在も残っている。
訳註
和銅:702-715 年
越後の海浜八十里(320 キロ)
:越後の国の海浜が八十里の意味。弥彦山自体は海からは 10
キロしか離れていない。
弘法:元号ではなくて「布教」を意味する。原文は「弘法 25 年に 60 歳で京都に戻る」とな
っているが、布教の年数が 25 年に及んだとの意味。
弘長 1261-1264
天保 1830-1844
垂跡:この語は、辞書には「仏や菩薩が一時的に神の姿で現れて教えを垂れる意味」となっ
ている。これでは意味が辻ないので、一応この神社の起源を表すと解釈した。
コメント:「いや彦の神のふもとに・・・・・・」の歌:この歌は「575 777」の構造で、仏
足石歌という形式である。この歌を、著者は大伴家持作としている。私の手元にある万葉
集の資料では、家持の歌とはせず、「読み人知らず」になっている。16/3884 即ち 16 巻の
3884 目である。万葉集の分類と著者がどういう根拠で家持としたかの事情は不明。仏足石
歌形式は、万葉集ではこれが唯一ということになっている。[諏訪邦夫訳]
93
○雪の元日:江戸の町との比較
そもそも、日本国中で一番雪の深い国は越後だとは昔も今も人がみとめている。とはい
え、私の住むこの魚沼郡はその越後でも特別に雪がふかく一丈二丈(3~6 メートル)にも
およぶ。次が古志郡でその次が頚城郡である。その他の 4 郡は、以上 3 郡より雪は比較的
浅い。したがって、私の住む魚沼郡は日本一雪の深い所である。私はその魚沼郡塩沢に生
れ、毎年十月頃から翌年三月四月まで雪を見る生活がすでに六十年余、最近この雪譜を作
っているのも雪で籠居する際の手慰みである。
さてこの塩沢だが、江戸から僅ずか五十五里(220 キロ)しか離れていない。それも道
なりの距離で、直線距離はもっと短いだろう。雪のない時期なら健脚の人は四日で到着す
る。その江戸の元日の様子を聞くと、高貴富貴のお屋敷は知らないが、市中ではどの家も
千歳の門松をかざり、まっすぐな竹をたて、太平のしめ飾りを引き、年賀の客は麻着の上
下をつらねて往来し、中には万歳(三河万歳)もまじっている。女太夫や鳥追いの三味線
でめでたい歌をうたい、女児は羽子を突き、男児は凧を揚げ、見るもの聞くものめでたい
中で、初日の出の光がはなやかに昇り、これこそ実に新年の春だ。この雪国の元日も同じ
元日だが、大都会の賑わいと華やかさに比べて、辺鄙な雪の中の光景は雲泥の差である。
塩沢の地の元日は、野も山も田圃も里も一面に雪で埋まり、本来なら春を知らせる庭先
の梅や柳も、去年雪の降る前の秋の終りに雪で折れないようにと丸太を立て縄で縛ったま
まで、元日の春らしくない。そもそも、梅の花は三月四月にならないと咲かない。翁が俳
句で「春もやや景色ととのふ月と梅」と詠んだのは大都会の正月十五日であり、
「山里は 万
歳遅し梅の花」というのは、ここ越後なら三月にあたる。門松は雪の中に建て、しめ飾り
は雪の軒に引きわたす。新年の年始回りには木履(あしかた、きぐつ)をはき、従う者は
藁靴である。雪道に階段があると、主人もわらぐつに履きかえる。この木げたとわらぐつ
は年始廻りにかぎらず、誰も皆同様である。雪が完全に消える初夏の頃まで、草履は履け
ない。したがって、元日の初日の出の光も一面の銀世界を照すものである。春らしい景色
など一ツもない。古歌に「花をのみ待らん人に山里の 雪間の草の春を見せばや」というの
があるが、これは雪といってもごく浅い都の雪のことだろう。雪国の人は、春といいなが
ら春にならない状況を毎年経験しながら生涯を終る。存分に繁栄し何でも豊かな大都会に
住んで、毎年梅が咲き柳の芽の出る春を楽めるのは、実に天幸の人というべきだ。
訳註
七五三:これは注連縄(しめなわ)かしめ飾りのことだろう。七五三縄で「しめなわ」。
麻着の上下:羊毛はもちろん存在しない。綿花も絹も高価で、麻着がふつうの衣服だ。
万歳:
「ばんざい」ではなくて「万才」のこと。次の女太夫などから判断。[諏訪邦夫訳]
○雪の正月:雪を掘る雑煮
図 「駅中正月積雪図」というタイトルで、その雪の高さ。
94
初編でも述べたが、この土地の雪は鵞毛のように大きくひらひらするのは稀で、大抵は
白砂を撒くような感じだ。冬の雪はそれ以上凍って固まることはなく、春になると凍って
鉄か石のようになる。冬の雪が凍らないのは、湿気がなく乾いた砂状の故で、この点は暖
地の雪と異なる。だから、凍ってかたくなるのは、雪が解けはじめる兆しである。年によ
っては、春になっても雪の降ること自体は冬と同じだが、それでも積るのは五六尺(1.5
-1.8 メートル)に過ぎない。天地に温気があるからだろう。したがって、春の雪は解ける
のも速い。とはいっても、雪の深い年は春も屋根の除雪が必要なこともある。
除雪を「雪掘」といい、椈(ぶな)の木で作った木の鋤で土を掘るように雪を掘って捨
る作業をそう呼ぶので、すでに初編で述べた。怠ると雪の重みで家が潰れる。したがって、
家毎に冬に除雪した雪と春に降り積った雪とで道路が山になるのは、描いた図を見てわか
って欲しい。どの家でも雪は家よりも高く、新年の春を迎える頃には日光を気持よく引き
入れるべく、明をとる場所の窓を遮えぎっている雪を他処へ取り除く。時としては、一夜
のうちに三四尺の雪に降りこめられて、家中どこも薄暗く、心も朦々と暗い気持ちで雑煮
を祝うこともある。
越後はもちろん、北国の人はすべて雪の中で正月をするのが毎年の例である。こんな正
月を暖国の人に是非見せてあげたいものだ。
○玉栗:雪合戦
江戸の子供たちは、正月の遊びとして、女児は羽子をつき、男児は凧を揚げるなどで例
外はない。ところがこの土地の子供は、春になってもどこも雪で、歩行自体が大変で路上
で遊ぶことが少ない。
それでも、玉栗という子供の遊びがある。正月とかぎらず雪中の遊びである。始めは雪
95
を円形につくって鷄卵の大きさに握りかため、上へ上へと雪を何度もかけて足で踏んで固
め、柱にぶつけて圧してかため、これを「肥」と言う。そうして手毬の大きさになった時
点で、他の子供が作った玉栗を軒下などに置いて、自分の玉栗をこの玉栗にぶつけると、
頑丈な玉栗がひ弱な玉栗を砕くから、これで勝負を争う。この遊びは、場所によって、
○コンボウ ○コマ ○地独楽 ○雪玉
などと呼ぶ。 里のなまりでは、雪を「いき」という
○ズズゴ ○玉ゴショ ○勝合
などともいう。
この玉栗を作る際に、雪に塩を少し入れると石のように堅くなるので、塩を入れるのは
禁ずることもある。これでわかる通り、塩は物を固める性質がある。物を堅実にするから
こそ、塩にすれば肉類も腐らず、朝夕のうがいに塩の湯水を使うと歯がかたくなって歯の
寿命が延びる。玉栗は子供の遊びだが、塩が物を堅くする証拠なので、ここに記述する。
子供の遊びに雪ン堂というのがあるが、そちらは初編ですでに説明した。
○羽子擢(はごつき:羽根つき)
この地の言い方で、はねをつくといはずに「はねをかえす」というのは、「打ちかえす」
意味だろう。
江戸で正月を過ごした人の話に、市中で見上げるように松竹を飾ったところで、美しく
粧った娘たちが美しい羽子板を持って並び立って羽子をつく様子は、いかにも大江戸の春
らしいという。
この塩沢の地の羽子擢は、
辺鄙な田舎だからこんな美しい姿は見かけない。
正月は、女の子たちも少しは遊んでいいという許しがでるので羽子をつこうと、まず場所
を決めて雪をふみかためて角力場のようにし、羽子は溲疏(うつぎ:中空の材木)を 3 セ
ンチの筒切にし、ヤマドリの尾を三本さしいれる。江戸の羽子よりずっと大きい。打つも
のとしては、雪を掘るのに使う木鋤を使う。力を入れて打つからとても高くあがる。
これほど大きな羽子だから子供の遊びではなく、あらくれ男や女がまじり、脚袢をつけ
藁沓を履いて遊ぶ。一ツの羽子を皆でつくので、あやまって取り落すと、罰はあらかじめ
定めたとおり、頭から雪をあびせる。その雪が襟や懐に入って冷たく切ないのを周囲が笑
う。窓からこれを見るのも、雪の生活の一興である。
山東京伝翁が骨董集(上編ノ下)に下学集を引用して、羽子板は文化十二年より三百七
十年ばかりの前、文安の頃すでにあったが、それ以前にあったかは明確でないといってい
る。また下学集には羽子板にハゴイタ、コギイタと二種類の読み仮名がつき、こぎの子と
いうのは羽子のことだとある。
この塩沢でも、
江戸のように児女が羽根をつくこともある。
訳註
骨董集:山東京伝が編纂した風俗解説集。1813 年刊行
下学集:室町時代の国語辞書。2 巻。1444 年(文安 1)完成。
文安(ぶんあん)
:1444~1449。つまり室町時代である。
溲疏(うつぎ)
:庭木などにもする灌木。幹の材質が堅いが中空で、こんな用途になる。
96
ヤマドリの尾:ヤマドリは雉(きじ)に似た大きな鳥。尾の羽も雉のそれと同様に大きい。
[諏訪邦夫訳]
○吹雪に焼飯を売る:生命の値段
図 峠越えで吹雪に遭い、焼飯(お握り)2 個を 1 万円余で買った人は助かり、売った人は
生命を落とした話だ。
雪国で恐ろしいのは、冬の吹雪と春の雪崩である。この状況は、初編でもすでに説明し
た。今回、興味深い話を聞いたのでここに述べて暖国の方々に話題を提供しよう。
金銭の貴いことは、魯氏が神銭論でいろいろ説明しており今さら言うまでもない。年の
凶作はもちろんだが、何かあって空腹の時小判を噛んでも腹はふくれず、空腹時の小判一
枚は飯一杯の価値もない。五十何年か前の饑饉の時、餓死した人の懐に小判が百両あった
例の話をきいた。
ある時、魚沼郡藪上の庄の村から農夫が一人で柏崎の宿場にむかった。旅程は五里(20
キロ)ほどである。途中で麻を扱う商人と出会い、道連れになった。時期は十二月のはじ
めで、数日来の雪もこの日は晴れており、二人は肩をならべて朗らかに話しながら塚の山
という小嶺にさしかかった時、雪国の常として晴天から急に雲が増えて、暴風が吹いて四
方の雪を吹き飛ばして太陽は見えなくなり、視界が効かなくなった。袖や襟に雪が入って
全身が凍るようで呼吸も困難で、あちこちから強風が吹き雪を渦に巻き揚げる。
雪国では、地吹雪と言う。この吹雪は不意にくるので、晴天でも冬の季節に遠くへ出か
ける際は必ず蓑笠を着るのがこの土地の常識である。二人はカンジキで雪を漕ぎつつ(雪
97
の中を歩くのを、この地の言い方で「漕ぐ」という)互に声をかけ助けあって辛うじて嶺(塚
山嶺)を超えた。その時、商人が農夫にいうには、今日は晴天で柏崎までの道程は何とも
思わなかったので弁当をもたずにきた。今空腹になって寒くて堪らない、こんな状況では
貴殿と一緒に雪を漕いで行けそうもない、さきほどの話では貴方は懐に弁当を持っている
という。それを私にくれないだろうか。いや、ただ貰うのではない、ここに銭が六百文あ
る。死ぬか活きるかの際には、こんな銭なぞ何の用にも立たない、この六百文で弁当を売
って下さいと頼んだ。農夫は貧乏だったので、六百文ときいて大いによろこび、焼飯(握
り飯)二ツを出して六百文と交換した。商人は懐にあって温かい大きな焼飯を二ツ食い、
雪でのどを潤して心身ともに元気になり雪をこいで前進した。
こうして急ぐうちに吹雪はますますひどく、カンジキを履いた旅だから足も遅く日も暮
れそうになった。この時になって焼飯を売った農夫は腹が減って倒れてしまい、商人は焼
飯で腹を満して進んでいった。後れた農夫を終には棄てて独りで先の村に着き、知り合い
の家に入って炉辺で身を温めて酒を飲み、ようやく蘇生した気持ちになった。
しばらくして、ほういほういとの呼声が遠くで聞えるのを家内の者がききつけた。吹雪
にほういほういとよぶのは助けを乞う言葉で、雪中の常である。吹雪倒れだ、それ助けろ
と近隣の人たちをよび集め手に手に木鋤を持って走って行った。木鋤を持つのは雪に埋っ
た吹雪にたおれた人をほり出すためで、これも雪国のふつうのやり方である。やがて、少
し経って大勢が一人の死骸を家の土間へ運び入れた。あの商人も寄って見ると、つい先ほ
ど焼飯を売ってもらった農夫であった。
この麻商人の話は、ある時私がある俳友の家に逗留した際にこのことを聞いた。あの時
六百文の銭を惜しんで焼飯を買わなかったら、あの農夫のように吹雪の中に餓死したろう、
今日何とか生きているのもその銭六百文のお蔭だと笑っていたと俳友が語ったことである。
訳者の註:
六百文:江戸の話に蕎麦一杯が 16 文という。現在 300 円とすると、600 文は 1 万 1 千円に
なる。1 両は現在の 10 万円くらいで、1 両=4 千文から計算すると 1 万 5 千円となる。お
握り二個 1 万~1 万 5 千円は高価だが、生命の値段とすればたしかに安い。[諏訪邦夫訳]
○雪中の演芸場
図 雪中の演芸場の絵である。本文で、山東京山らが演芸場に出かけているが、こちらは雪
のない季節の話である。
98
五穀が豊かに実って年貢も順調に納め、村人が気分上々で春になった時、氏神の祭など
に合わせて芝居を興行する。役者は皆この地や近くの村・近くの宿場の素人が参加する。
師匠には田舎芝居の役者をやとう。始めに寺に群がって狂言をさだめ、次に役を決める。
大勢の議論だから、紛々と沸騰して一度ではなかなか終わらない。計画が定まると寺に集
まって稽古をはじめる。演技が修熟すれば初日を決め、衣裳やかつらの類はこれを貸す職
業があって物の不足は起きない。芝居を二月か三月頃にする場合、まだ雪の消えない銀世
界である。したがって、芝居を造るところも役者の家も、親類縁者朋友からも人を出し、
あるいは人を傭って芝居小屋の地所の雪を平らに踏みかため、舞台花道楽屋桟敷などすべ
て雪をあつめて形にし、格好よく造る。その点は図で見て欲しい。この雪で造ったものは、
天がここでも人工をたすけて一夜で凍って鉄石のようになり、大入りでも桟敷の崩れる心
配はない。3 月になると雪も少し稀になり、春色の空を見て家毎に雪囲を取りはずす頃だ
から、あちこちから雪かこいの丸太や雪垂といって茅で幅八九尺広さ二間ばかりにつくっ
た簾を借りあつめて日覆にする。舞台と花道は、雪で作った上に板をならべる。この板も
一夜のうちに凍りつくと釘を打って固定したより頑丈で、暖国ではできないやり方である。
物を売るお茶屋も作る。どこも一面の雪で、物を煮る処は雪を窪めて糠をちらして火を焚
けば、不思議に雪が溶けることはない。
演芸場の造作が完成しても春の雪がふりつづいて連日晴れず興行の初日が延びる時、役
者になった家はもちろん、この芝居を見ようと逗留している客も多く、だれもが毎日空を
見上げて晴れるのを待ち、客のもてなしにも倦きて、終には役者仲間が相談して、川の氷
を砕いて水を浴びて水垢離して晴れを祈るようなこともあり、それはそれで楽しい。
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以下は百樹の注釈である。
私が丁酉の夏北越に旅して塩沢にいた時、
近村に地芝居あると聞いて京水と一緒に出か
けた。寺の門の傍に杭を建てて横に長い行燈があり、これに題が書いてあり、
「当院の屋根
普請の寄進をお願いする為、本堂において晴天七日の間、芝居興行する。名題は仮名手本
忠臣蔵役人替名」とあり、役者の名は多くは変名である。寺の境内には仮店ができて物を
売り、人が群れている。芝居には、戸板を集めて囲った入り口があり、ここを守る者がい
て一人前いくらと入場料を取り、屋根普請の寄進である。本堂の上り段に舞台を作り、左
に花道があり、左右の桟敷は竹牀簀薦張である。土間には筵をならべる。旅の芝居は大概
こんなものだと、市川白猿の話でもきいた。桟敷のあちこちに真っ赤な毛氈をかけ、うし
ろに彩色画の屏風を立てて、今日の晴れ舞台である。四五人の婦女がみな綿帽子をかぶっ
ているのは、辺鄙に古風を失しない狙いである。見物人が群をなして大入りで、子供たち
は猿のように樹に登って観るのもいる。小娘が笊を提げて氷々と叫んで土間の中で売って
いる。みると、笊のなかに木の青葉をしき雪の氷の塊である。ふつうなら茶を売るところ
だが、氷を売るのは珍しい。この氷のことは、後で削氷の項目で触れよう。
さて口上を言うものが出てきて寺へ寄進の物、役者への贈物、餅や酒の類一々人の名を
挙げ、品を説明して披露し、さあ忠臣蔵七段目のはじまりで幕が開く。おかるに扮してい
るのは岩井玉之丞という田舎芝居の役者で、なかなかの美形である。由良助に扮している
のは、私が旅で文雅関係から識っている人で、若いからこんな戯もするのだろう。普段と
違って今の坂東彦三郎に似て、演技も観る価値がある。寺岡平右ヱ門になったのは私の客
舎にきた髪結いで、
これもいつもとちがって関三十郎に似て音声もけっこう関三のようだ。
私が京水と顔を見合わせて感心し、京水はふざけてイヨ尾張屋とほめたが、尾張屋は関三
の家号だとは知るものがいないようで、尾張屋と声をかけたものは他には一人もいなかっ
た。一幕で帰ろうとすると、木戸を守る者が木戸から出してくれない。便所は寺の後にあ
り、空腹なら弁当を買いなさい、取次をしましょうと言う。私たちを出さないだけでなく、
他の人も出さなかった。おそらくは、人がいなくなると演芸場の雰囲気がこわれるのを嫌
うためだろう。出口がどこかにないか調べたが、この寺の四方に垣をめぐらして出る隙は
ない。
たまたま子供が外から垣を壊して入ってきたので、
その穴から二人でくぐりぬけて、
これもまた一興であった。
訳者註:
百樹:岩瀬百樹、別名は山東京山で、山東京伝の弟。「北越雪譜」の出版に力があった人。
京水という同行者は、京山の息子で本書北越雪譜の絵を描いている。原画は牧之自身が描
いているが、実際に出版されたのは京水の描いたものが多い。
2 編(この巻)の始めに、この人が詳しい解説を書いている。北越雪譜の 1 編にはなかっ
たが、2 編には「百樹曰」として、山東京山が注釈ないし追加説明を大量に加えている。
[諏訪邦夫訳]
100
○家内の氷柱(つらら)
:屋内に何故つららができるか
昨年来降り積もった雪が家の棟よりも高く、春になっても家の中が薄暗いので、高窓を
埋めた雪を掘りのけて明をとることは前にも述べた。この屋根の雪は冬の間に何度も掘っ
てどける度毎に、木鋤で思いがけず屋根を傷つけることがある。この土地の屋根は大抵の
場合に板葺で、屋根板は他国にくらべれば厚くて広い。屋根を葺いた上に算木という物を
作り、添石を置いて重石とし風で飛ばされるのを防ぐ。これ故に、雪をほって除雪すると
いっても完全に除去するのがむずかしく、その雪の上に早春の雪がふりつもって凍るので
屋根が破れてもわからない。春が少し進むと雪も日のあたる箇所は融け、屋内でも「焼火の
所」でも雪が早く融ける。すると、屋根の傷ついたところは板の下をくぐり雪水が漏れて、
夜中に急に畳をどかしたり、桶や鉢の類を動員して漏水を受けたりする。漏れる箇所を修
理したいが、雪が完全にきえていないので手をくだすのも難しく、漏れが凍って座敷の内
にいくすじも大きな氷柱(つらら)ができることもある。こんなのも、是非暖国の人に見
せたいものだ。
以下も百樹の注釈意見である。
私が越の国に旅して大家の造り方を見ると、中心の柱の太いことは江戸の土蔵のようだ。
天井が高く欄間も大きいのは、雪の時に明をとるためである。戸障子も骨が太く丈夫で、
閾や鴨柄も広く厚い。太い材木の使用に目をみはる。以上は皆、雪に潰れないようにとの
用心だという。江戸の町でいう軒下を、越後では雁木(がんぎ)または庇(ひさし)とい
う。雁木の下は広くつくって小さい荷車も動かせるほどで、雪中にこの庇下を往来する狙
いである。
越後から江戸へ帰る時に高田の城下を通ったが、ここは北越第一の都会である。
各種の店が並び、何でもそろっている。両側に一里ほど庇下が続き、その下を歩くのは、
とても気分がよかった。文墨の雅人も多いときいたが、旅行中に凶年に遭い、帰宅を急い
で余裕がなく面会を求めなかったのは今もって残念である。
訳註:
焼火の所:煙突のことか、あるいは「下が囲炉裏(いろり)になっている所」の意味か不明。
とにかく、「火を炊く場所」 [諏訪邦夫訳]
○雪中歩行の用具:藁沓・深沓・ハツハキなど
図 雪中歩行具の図。むずかしいけれど、読める箇所もありそうと感じて、説明を切り捨て
ずに掲載した。
101
雪中歩行の用具類は、初編に図を示したが製作法は書かなかったので、ここで再度詳し
く示す。
(この個所は、藁沓・深沓・ハツハキ・ぬねあて・シブガラミ・かじき・すかり の 7 つの
絵に対応している)
○藁沓(わらぐつ)
:藁だけであんだ靴。はじめは藁のもとを丸くしてあみはじめ、終わ
りの方ではわらを増やして二筋に分けて折りかえし、終りはまん中で結んでとめる。これ
こそは、雪中で最高のはきものである。子供もこれをはくのがふつうである。上等なもの
は、あみはじめに白紙を用い、足でふむ所にたたみ表を切って入れる。
○深沓(ふかぐつ)
:藁を打ってやわらかくしたもので作って編む。常の足袋のままこれ
をはいて雪中を歩行しても、よそのお宅に入って坐につく時に足を洗わないで済む。編み
方はなかなかむずかしく、この図は大体の略図を描いているだけである。
○深沓は、他国では革で作ったのを見たことがある。泥の中を歩くにはきっと便利だ。
この土地で雪の時には途に泥はないから、はき物は下駄以外には藁でつくる。げたにも、
●駒の爪●牛のつめなど、さまざま名もあり、男女の用い方でその形もかわるが、そこま
ではと考えて図は描かない。
○ハツハキ:ハツハキというのは里俗の名前で、ふつう書けば裏脚(はばき)である。
藁のぬきこか、蒲でも作る。雪中にはかならず用いる。山で働く人は常用する。作り方は
図から概略わかるだろう。簡単にいえば藁の脚袢(きゃはん)である。わらは寒をふせぐ
狙いで、雪のはきものは大抵わらで作る。(野球の捕手のレガースに似る。
)
○むねあて:シナ皮という深山にある木の皮でつくり、大きさは身体に応じる。大抵は
縦二尺三寸幅二尺ほどで、胸あてとも言う。前より吹きつける雪をふせぐために用い、農
業には特に有用で使用頻度が高い。他国にも似たものはあろう。
102
○シブガラミ:シブガラミはあみはじめの方を踵にあて、左右のわらを足頭へからんで
作る。里の言葉でわら屑の柔らかいのをシビと言う。このシビで作り、足にからめてはく
から、本来シビガラミというべきだが訛ってシブガラミという。
(註:藁沓のかかとの部分
を補強するものか)
○かじき:「かんじき」ともいうがこれは古い名前で、里の言葉ではかじきと言う。縦一
尺二三寸横七寸五六分、形は図のようで、ジヤガラという木の枝で枠を作り、鼻の部分は
クマイブという蔓かカヅラというつるを使用する。山漆の肉付きの皮で巻いてかためる。
前に図で描いた沓の下に履き、雪にふみこまないように使用する。
図 こちらは、「すかり」をつかって雪中を歩く様子を示している図である。
○すかり(縋)
:すかりは縦二尺五六寸から三尺くらいで、横一尺二三寸。山竹をたわめ
て作る。かじきの大きなもの。絵の通り、紐をつけて手で引っ張りながら歩く。
○かじきとすかりの二ツは、冬の雪のやはらかなる時にふみこまないように使う。はき
なれない人では一足でも歩けないだろう。一方、なれた人はこれをはいて獣を追うことも
できる。
右の外、男女の雪帽子雪下駄、その他にも雪の中を歩く用具があるが、雪が深くない土
103
地でも用いる物に似たものはここでは省いておく。
以下も百樹の注釈である。
以前北越を旅して、牧之老人(本書の著者)の家に滞在した時、老人が家僕に命じて雪
を漕ぐ形を見せてもらった。京水が傍にいてこの図を描いた。その時の履物は、
○かじきと○縋(すかり)である。
いたずらに履いてみたが一歩も歩けるものではなかった。当の家僕が歩く様子は、まる
で馬を御するように見事だった。
(京水の絵に百樹が書き込んでいる)
○橇(または輴;そり)
:橇の種類と橇歌
中国の辞書である字彙によると、禹王水を治めた時に有用だとした物が四ツあり、水に
は舟、陸には車、泥には橇、山にはカンジキだという。 これは書経にも説明してある。
したがって、橇というものは中国には昔からあったのだろう。泥の中で使うものだから
雪で使うのとは製法が違うかもしれない。橇の字は、○毳○輴○秧馬、などいろいろな書
き方で登場する。時に、雪車とか雪舟の字を用いることもあるが、これは俗用である。
そもそもこの橇という物、雪国では一番重要な用具である。人力の助けとしては船や車
と同じで、作りかたが簡単で作り易い点は図を見ればわかるだろう。堀川百首兼昌の歌に、
「初深雪降にけらしなあらち山 越の旅人輴にのるまで」というのがある。この歌をみて
も、この土地ではずっと昔から橇をつかってきたとわかる。前にも何度か述べたが、この
土地の雪は冬には凍らないから、冬に橇をつかうと雪に踏み込んでしまい役に立たない。
春になって、雪が鉄石のように凍る正月から三月の間に橇を用いる。その時になるのを、
里言葉では「橇道になった」と言う。
俳諧の季語集では雪車を冬としているが、これは間違いである。といって雪中で使う物
だから、春の季節には相応しくない。古歌でも、多くは冬によんでいる。実際とは違うけ
れども、冬としてまあよかろう。
橇は作り易い物で、大抵の農家や商家はどこも備えている。何を載せるかで大きさは大
小いろいろあるが作り方は皆同じで、名前も同じである。特に大きいものを、里言葉で修
羅というのは、大石や大木を載せるからである。
山々の喬木(背の高い木)も春二月の頃までは雪に埋っているが、梢の雪がだんだん消
えて遠目にも見えるようになる。この時期には、薪を伐りに行き易いので農人等おのおの
輴を引いて山に入るか、あるいは輴は麓に置く場合もある。雪がなければ見上げるような
高い枝も、雪を天然の足場として思い通りに伐りとり、大かたは六把を一人前とする。下
に三把、中に二把、上に一把の計六把で、これを縄で強く縛って麓にむかって滑らすと、
凍った雪の上だから幾百丈の高度差も一瞬の間に麓についてしまう。もちろん橇にのせて
引いてくる。山道が曲りくねっている場合、例のごとくに縛った薪の橇に乗り、片足をあ
104
そばせて舵をとり、
船を操るようにして難所を突破して数百丈の麓まで降下する。
その間、
少しも間違えない。この技術は学ぶよりは自然に身に着けるところが面白い。
橇を引いて薪を伐りにいく時、相談して二三人の食糧を草で編んだ袋にいれて橇に縛っ
ておくこともある。山烏(カラス)がこれを知ってむらがってきて、袋をやぶってこの食
糧を食べてしまう。樵夫は知らずにいて、今日の仕事はこれで十分だ、さあ食事と見ると
一粒ものこっておらず、食った烏のほうは樹の上で啼いている。人はむなしく烏を睨んで
こん畜生と罵り、空腹をかかえて鼻歌も出ず、橇を引いて空しくかえったこともあったと
は、彼らの話であった。
橇をひく際にはかならず歌をうたう。橇歌というが、要するに樵夫の歌である。歌の節
も古雅なものである。親や夫が山に入り橇を引いてかえると、遠くから橇歌が聞こえて親
や夫のかえるのを知って、途中まで迎えに出て、親や夫を橇に積んだ薪にまたがらせ、代
わりに妻や娘が橇をひいて、彼女らも橇歌をうたってかえる。質朴な昔風のやり方だが、
今日でも実際に行われている。華やかではない田舎なりの風雅である。
春もすこし進むと、梅も柳も雪にうずもれて、花も緑もあるかないか程度に進む。それ
でも二月の空はさすがに青くなり、明るい窓のところで読書していると遠くで橇歌の聞え
るのはいかにも春らしい気分で快い。何も私と限らず、雪国の人は誰もが抱く感情だろう。
以下は百樹の注釈である。
私が子供の頃、
元日の朝は扇と叫んで市中を売り歩く声や白酒を売る声などが聞こえて、
いかにも春らしく心も朗らかになったが、今はこの声は聞かれない。鳥追の声はもちろん、
武家のつづく町では遠所には江鰶(こはだ)の鮨・鯛のすしと売る声は今もあり、春の雰
囲気をもたらしている。三月になると桜草を売る声に花をおもい、五月なら鰹を売る声が
垣根越しに聞こえる。七夕の竹を売る竹ヤという声は心涼しく、師走の竹を売る竹ヤの声
は同じ声でも、煤払いの竹うりに聞えて忙しい。いろいろな物がそれぞれ季節に応じた声
となり、人情に入ること天然の理である。胡笳(芦笛)の悲しい音も同じである。
ここまでは人の声だが、さらに春の鶯や蛙、夏の蝉、秋の初雁、鹿、虫の音、冬の水鵲
(ちどり)などはさらに季節を思わせる。本編で橇歌をきいて春を感じて嬉しいというの
は本当に文人の真心で、私もそんな風に感じてここに少し書いたわけだ。橇歌で春を感じ
ることは、江戸の人には思いもよらない感情ではあるが、似たようなことはどこの場所で
もあろう。
(ここまで百樹の注釈)
糞(こやし)をのせる橇がある。これを載せられる程度に小さく作った物である。二月
三月の頃も地面は全面が雪に覆われ、見渡す限りの田圃も雪の下にあって持分の地面の境
もわかりにくい。しかるにかの糞のそりを引いて来て、雪のほかに一点の目標もないのに
除雪して井戸を掘るかのように狙った箇所に肥料を入れる際、自分の田の場所に正確に投
入する。一尺とは間違えない。これが農民の活動である。一面の雪の上で何を目標にして
105
そうできるのかと尋ねると、目標物は特にないが、ただ心でここだと思うとその場所が外
れることはないという。こんな活動は一見つまらないことのようだが、芸術の極意もここ
にあるべきだと思え、そう書いて初学の方々の精進の方向の一助ともと考える。
橇の特に大きいのを、この地の言い方で修羅と呼ぶことは前に述べた。大きな材木や大
きな石をのせて移動するのを、大持(だいもち)と言う。ある年、京都本願寺の普請の時、
末口(細い側の切り口の直径)が五尺(1.5m)あまりで長さ十丈(30 m)あまりのケヤキを
引き出したことがあった。こんな時は修羅を二ツも三ツも使う。材木は雪のふらない秋に
伐採してそのまま山中におき、雪が積もって時期がきたら橇を使ってひきだす。こんな大
きな材木も橇でひけるのだから、雪の堅さがわかろう。田圃も一面の雪だから、橇はまっ
すぐ進めばよいのでなかなか便利である。修羅に大綱をつけ左右に枝綱を何本もつけ、ま
つさきには本願寺御用木という幟(のぼり)を二本持ち、信心の老若男女童等までも蟻の
如く集まって引いた。木やり音頭取が五人か七人で花やかな色木綿の衣類に、彩帋(いろ
がみ)の麾採を手にして材木の上に乗って木やりをうたう。その歌の一ツに、
ハァ うさぎうさぎ児兎ハァ、 わが耳はなぜながいハァ
母の胎内にいた時に 笹の葉をのまれてハァァ それで耳がながい
大持がうかんだ ハァァ 花の都へめりだした
そこで皆が同音に
いいとうとう そのこえさまさずやつてくれ いいとうとうとう
と歌う。
図 上の絵は子供が橇につららを載せて遊んでいるもの。下は橇の略図。
子供らが遊びに使う橇もあり、氷柱の六七尺もあるのを橇にのせて大持の真似をして、
木やりをうたい引きあるいて遊ぶなど、暖国では聞いたこともない。他にも橇にはいろい
ろの話があるけれども、全部は不要だから、ここらで止めておこう。
106
訳註:訳文では、現在の慣用にしたがって「橇」を中心に使用した。北越雪譜の原書では、
主として「輴」を使っている。意味は同じ。
字彙:中国明時代の字書
[諏訪邦夫訳]
○春寒の力
春になると、寒気が地中より氷結(いて)あがる。その力は強力で、家の基礎を持ちあげ
て椽(縁側)を曲げ、あるいは踏石をも持ちあげてしまう。冬はどんなに寒くともこんな
ことは起きない。だからこそ、雪も春は凍って橇も使えるのだろう。屋根の雪を除雪して
つみ上げおくのを、この地方の言い方で前にも述べたように掘揚と言う。往来にも雪を積
みあげて山ができ、春に雪が凍るようになると、この雪の山に箱梯子のように階段を作っ
て往き来しやすくする。こんな所があちこちにでき、下駄の歯に釘をならべて打って滑っ
て転ばないようにする。中国では「るい」といって山にのぼる際にすべらない履物として使
う。るいは、日本語の訓読みではカンジキとある。
訳註:
氷結(いて)あがる:霜柱のようにも読めるが、冬にはなくて春に起こるとはどういう意味
か、想像できない。雪が多いと強烈な霜柱は立たないとは想像できる。「いてる」は「凍る」
の意味。
カンジキ:この説明は、カンジキよりは登山者が使う「アイゼン」に近い。
[諏訪邦夫訳]
107
○シガ:霧氷のこと?
冬春とかぎらず雪の気は物にふれると霜をおいたようになり、この地の言い方でシガと
言う。戸障子の隙間から雪の寒気が室内に入って座敷にシガを生じることもあり、一方で
このシガが朝日などの温気を受けて解けて落ちる。春の頃、野山の樹木の下枝は雪にうず
もれているが、梢の雪は消えて、シガがついてまるで玉で作った枝のように見えることも
ある。川辺などはたらく者には、髪の毛にシガがつくことがある。このシガは、私の住む
塩沢ではまれである。同じ郡でも、中小出嶋あたりには多い。大河に近いので、水気が霜
となる故ではないだろうか。
訳註:
シガ:現代の気象用語では霧氷にあたるだろうか。つららの一種とも解釈できるが。
[諏訪邦夫訳]
○初夏の雪:雪の消える過程
この土地の雪は、
里地では三月頃になると次第に消え、
朝は凍って鉄石のように堅いが、
日中は上からも下からもきえる。月末になると目でみてわかるほど、昨日より今日と雪の
量が少なくなり、もう雪も降るまいと雪囲いもはずし、家の近くの庭の雪も、掘ってすて
るのに凍って堅いので雪を大鋸で(大鋸は、この地の言い方で「大切」
(だいぎり)という)
引き割ってすてる。四角い雪を脊負ったり担ったりする点は暖国の雪とは大いに違う。そ
れでも、雪に枝を折られないようにと杉丸太をそえて縛りからげおいた庭樹も、ほどけば
梅には雪の中でも蕾がついて春待ち顔であり、もう春の末である。この時期になると、去
年十月以来暗かった座敷も明くなり、盲人の眼が開いた気持ちになる。とはいえ、雛は飾
るものの桃の節句は名前だけで桃の花は未だ蕾である。四月になると田圃の雪もまだらに
消え、前年秋の彼岸に蒔いておいた野菜の類が雪の下に芽を出す。梅は盛りをすぎて、桃
と桜が夏の季節にやっと春の花として咲く。雪に埋っていた池の泉水を掘り出すと、去年
初雪以来二百日余りも暗闇の水のなかにいた金魚や緋鯉も嬉しそうに泳ぎだし、こちらも
やれ嬉しやだ。五月になっても人が手をつけない日蔭の雪は依然としてそのまま残り、ま
してや山林幽谷の雪は夏の酷暑でも消えない所がある。
○削氷(けずりひ)
:三国峠の夏の氷
図 6 月に三国峠を越えた際に、氷を売っていたので楽しんだという絵
以下は百樹の注釈である。
(この項目は全体が山東京山の文章である)
丁酉の年(ひのととり、1837 年)の晩夏に、私は豚児京水をつれて北越に旅をした時、
三国嶺(みくにとうげ)を越えたのが六月十五日だったが、谷の底に鶯をきいて、
足もとに鴬を聞く我もまた 谷わたりするこしの山ぶみ
と詠った。作品としては拙いが、実際の気持ちなので記しておく。
108
この山は距離およそ四里(16 キロ)あり、山路の登り降りがはげしく平坦な路はまった
くなかった。浅貝という宿場で泊まってから二居嶺(ふたいとうげ) 二里半 を越えて三
俣という山の宿場で泊まり、芝原嶺を下って湯沢に達する道の向こうに一軒の茶店があっ
た。軒下に床があって浅い箱に白いものを置いて、遠目には石花菜(さっかせい、テング
サつまりトコロテン)でも売っているのか、口には上らずと思いながら、山を下って暑さ
もはげしく汗ダクダクで足もつかれて茶店が嬉しく、京水と一緒に走りこんで腰をかけ、
例の白い物を見るとトコロテンではなくて雪の氷であった。
六月に氷があるとは、江戸の人間には珍しいので立ちよって眺めていると、深さ五寸(15
センチほど)の箱に水をいれその中に小さな踏石ほどの雪の氷をおいた。茶店の翁に訊く
と、山蔭の谷にあり、召し上がってご覧なさいと言う。それではと頼むと、翁は包丁をと
って、お皿にさらさらと音をさせて削りいれ、豆の粉をかけて出した。氷に黄な粉をかけ
たのは、江戸の目には見慣れず可笑しく、京水と目くばせして笑いをしのびつつ、今度は
もう一皿ずつ黄な粉をかけないのを貰い、旅行の箱に持参した砂糖をかけて削氷を食べる
と、歯もうくようで暑さをわすれ、今までに経験のないことだった。
けずり氷を珍味とするのは古書に散見されるが、その中に定家卿の明月記に曰く『元久
二年(1205 年)七月廿八日途より和歌所に参る、家隆朝臣唐櫃二合を取寄らる、○破子 O
瓜 O 土器○酒等あり、又寒氷あり自刀を取って氷を削る、興に入ること甚し』 (1205 年 7
月 28 日、途中で和歌所(和歌を扱う役所)によった。藤原家隆が唐櫃を二台取寄せており、
中身は破子(弁当箱)
・瓜・土器・酒で、また冷たい氷が入って刀で氷を削って、大変に面
白かった)とある。
もっともこの明月記は漢文である。それにしても元久二年乙丑から今の天保十一年(1840
109
年)まで約 630 年も経過して、昔の人と同様に氷を削って越後の山村で賞味したのはまこ
とに珍しいことである。昔を思って楽しんだ。
訳註:
豚児:息子を謙遜していう単語、「愚息」と同じ用法。
口には上らず:意味不明なので無理に訳さなかった。「好物ではない」という意味か。
定家卿の明月記:藤原定家の作品で、和歌・日記・エッセイの組み合わせ
百樹の注釈がつづく
私(百樹、山東京山)の推測だが、「ひ」とは冰の本来の読み方で、こおりという読み
方は寒凝(にこごり)の意味だと士清翁が和訓栞で述べている。氷室は、俳諧の歳時記に
も載っているから誰でも知っており、周礼にも出ていて中国には昔からあった。 日本では
仁徳紀にも載っていて、由来がわかる。延喜式に、山城国(今の京都府南部)葛城郡に氷
室五ケ所を載せている。6 月 1 日に氷室から氷を出して朝廷に献上すると、これを家来た
ちにも分与したのが毎年の例だという。前に引用した明月記の寒氷は、朝廷からの賜わり
ものではないだろう。なぜなら、削氷を賞味したのが 7 月 28 日だからで、6 月 1 日に貰っ
た氷が 7 月 28 日まで消えないはずがない。明月記は多数の人が筆写した書物だから'7 は 6
の誤記としても、氷室を出た氷は 6 月では 1 晩も持たないはずだ。推測だが、氷室の担当
者が個人的に出したのかもしれない。
さて氷室とは、厚氷を山影などの極く寒く気温の低い地中に貯蔵し、屋根を作って守ら
せるもので、昔の歌にも出てくる氷室守というのが担当者である。この氷室は水からつく
った氷を収納すると書籍の注釈にも書いているが、水の凍ったものは不潔で、こんな不潔
なものを献上品としては使用できない。それに水からつくった氷は地中においても消え易
く役に立たない。水は極陰の物だから、陽に感じ易いのが理由である。越後地方での削氷
の話などから考えると、例の谷間に在ったというのは天然の氷室である。昔の氷室は、雪
の氷の室だったのだろう。極陰の地に穴を作り、屋根をかけ、特に清浄の地に垣根をめぐ
らして、人に踏みこませず、鳥や獣にも穢させず、雪を待ち、雪が降ったらこの土地の雪
をこの穴に撞きこんで埋め、あとは適当に人間が守り、6 月 1 日に開いて、最も清浄な所
を選んで献上したのだろう。自分で推測した理屈で昔の氷室を解釈したものである。
氷室の昔の歌は枚挙に暇がない。削氷を賞味したという定家に 拾遺愚艸「夏ながら秋風
たちぬ氷室山 ここにぞ冬をのこすとおもへば 」
(この氷室山には、夏なのに秋風が吹い
ているようだ。なにしろここには冬が残っているのだから)と歌っている。
また源仲正に 千載集
「下たさゆる 氷室の山のおそ桜 きえのこりたる雪かとぞ見る」
(下
たさゆる氷室の山の桜は満開が遅いので、雪が残っているのかと見ちがえそうだ)という
のがある。この歌は氷室山のおそ桜を消え残った雪に見たてたる意味だが、この氷室は雪
の氷のことではなかろうか。加州侯が毎年 6 月 1 日に雪を献じるというのも、雪の氷であ
る。これからみても、昔の氷室とは雪の氷だったのだろう。
110
ところで、かの茶店では雪の氷を珍しいと思ったが、翌日から塩沢の牧之老の家に泊ま
っていると、毎日氷々と叫んで山家の老婆などが売りに来る。握り拳くらいのものが三銭
である。二三度賞味してみたが、やがて氷なんぞ特に貴重とも思わなくなった。何でも手
に入りにくいからこそ珍しいので、手に入れやすいと珍しく思わないのが人情である。塩
沢に居て 6 月の氷も特に珍しくなかったことを考えると、吉野の人は吉野の花を特に珍重
せず、松島の人は松島の月を何とも思わない。いつまでも飽ない物というと、孝心なる我
子の顔と、蔵置黄金の光だといえようか。
訳註
嶺:この文字は現代では山頂や山脈を表すが、本書では「峠」の意味にも使っている。
和訓栞(わくんのしおり)
:谷川士清(ことすが)著の国語辞書。1777 年(安永 6)刊行。
周礼:周の時代の官制を述べたもの。周は中国の国で時代は西暦以前。
仁徳紀:記紀(古事記と日本書紀)の仁徳天皇の部分の記述。大体 5 世紀前半。
延喜式:前出。905 年頃に編纂がはじまり、最終的には 960 年以降に完成した。
コメント:この削氷の項目は全部が百樹(山東京山)の文章で、牧之の文章はない。
[諏訪邦夫訳]
○雪の多少:地形との関係
越後の国の南部は魚沼郡で、上州(群馬県)と境を接している。東部は蒲原郡と岩船郡
で、奥州(福島県)と羽州(山形県)と境を接している。国境はいずれも連山が波のよう
に連なって雪が多い。越後の東北は鼠が関まで岩船郡でここが出羽との国境、西は頸城郡
の市振部落が越中との国境、鼠ケ関から市振までの距離八十里(320 キロ)が越後の北側
の海辺である。海岸は海からの暖かい空気に入るので、雪は一丈(3 メートル)も積もる
ことはなく、年によって差はあるものの、一般には消えるのも早い。頸城郡の高田は、海
から遠くないが雪が深い。文化のはじめの大雪の時、高田の市中は町の長さ一里全体が、
雪に埋まって闇夜のようで、昼も暗くて昼夜がわからない状況が十日以上続き、町中で燈
火につかう油がなくなって難義した。御領主が、家毎に油を御下賜下さったことがあった。
この時は私の住む塩沢も大雪で、昼も夜も家は雪に埋まって日光を見ない状況が十四五
日も続き、しかも連日吹雪で除雪作業もできず家に籠って暗かった。住民たちは意気阻喪
して、病気になるものもあった。
以下も百樹の注釈である。
牧之老人の本書(北越雪譜)の原稿に就いて増修の説を添え、いよいよ出版の為に版下
用の一書を作った際も、牧之老人から受けた手紙に、
「今年は雪の降るのが遅く、冬至にな
っても本宿場の雪は一尺(30 センチ)もない。この分なら、今年中は雪が少なくて済みそ
うと皆で悦んでいたところ、11 月 24 日の夕方より降りだし、25 日から 29 日まで実に 5
日間も毎日毎晩降り続いて、結局 1 丈 5 尺(4.5 メートル)ほどにもなりました。毎年の
ことながら、
これだけ突然大雪になると 27 日から 29 日まで宿場はどの家も除雪で混雑し、
111
軒下はどんどん雪が溜まり、戸外に出るのも難しくて困っております。今日もまた大へん
な吹雪で、家の中は暗くロウソクの灯火でこの手紙を書いております。どれだけ降るもの
やら推測できず、一同心痛しております」下略
これが今年天保十亥年(1839 年) 11 月 29 日に塩沢発の書簡で、この文を見ても越後の
雪がわかるというものである。
私は越後には夏に伺ったので、
穀物も野菜も生育の様子には雪の影響は気付かなかった。
山野の景色も雪があったとはみえず、雪の少ない土地と同じだった。五雑組の天の部に、
一体草は雪を畏れないが霜を畏れる。雪は雲から生じるから陽で、霜は露から生じるから
陰の故と述べている。越後の夏を見て、五雑組の編者の謝肇制のこの説に納得した。
訳註:山東京山は、1837 年に息子の山東京水をつれて越後を訪れて著者の鈴木牧之と何日
か過ごしている。その際に、北越雪譜の試し刷りを持参したという。それが 1 編で、山東
京山が帰京して翌 1838 年秋に第 1 編が出版されたらしい。したがって、鈴木牧之は第1編
の出版を見届けたのはたしかである。ここの手紙の話は出版から 2 年後で、第 2 編の試し
刷りのことだろう。牧之は第 2 編の出版は見届けずに亡くなったらしい。
[諏訪邦夫訳]
○浦佐の堂押:毘沙門堂の押しくらまんじゅう
図 浦佐の毘沙門堂の堂押の絵である。
私が住んでいる塩沢から北北東へ六日町、五日町と宿場を二つ越えると浦佐という宿場
がある。ここに普光寺という真言宗の寺があり、寺中に七間四方の毘沙門堂がある。伝説
では、この堂は大同二年(807 年)の造営というから古い。修復の度毎に棟札が残り、現
在も歴然としている。毘沙門像の身長は三尺五六寸(1 メートル強)
、むかし椿沢という村
に椿の大木があったのを伐採してこの像を作ったというが、作者名は伝わっていない。像
の材木が椿だから、この土地では椿を薪とすると崇りがあり、椿を植えないことになって
いる。また霊魂が鳥を捕えるのを嫌っている。したがって、寺内には鳥類が群をなして人
を怖れず、土地の人が鳥を捕獲し食すると神罰があたる。たとえ遠地へ聟入嫁入して何年
も経過しても、鳥を食べると必ず悪い反応があり、霊験あらたかなことが、この一つでも
わかるだろう。したがって、信心している人が遠くからも近くからも数多くやってくる。
昔からこの毘沙門堂では毎年正月三日の夜に限って堂押しという礼があり、敢祭式の礼
格ではないが、長い歴史のある神事である。正月三日はもちろん雪道だが、十里二十里(40
~80 キロ)という遠方から来て浦佐に一宿し、堂押を見物し参加する人もいる。近くの村
の人たちが参加するのはもちろんである。
112
堂押に来た男女は、まず普光寺に入って衣服を脱ぐ。身に持った物も平気でその辺に置
き去りにする。婦人は浴衣に細帯だが、まれには裸もあり、男はみな裸である。燈火を点
ずるころ、例の七間四面の堂にゆかた裸の男女が押し込んで、立錐の余地もない。私も若
かったころ一度この堂押に参加したが、手を上にあげただけで下げることもできないほど
の混雑であった。「押」というのは、誰ともなく皆でサンヨウサンヨウと大音に叫ぶ声を合
図に、堂内に溢れている老若男女を、サイコウサイと大声で北から南へどろどろと押し、
また似たような声で西から東へ押しもどす。この一押しで男女ともに元結が自然にきれて
ざんばら髪に乱れるから、ひどく変わっている。七間四方のお堂の中に裸の人が大勢入っ
て手もおろせない混雑だから、人の多さも想像できよう。大勢の人数の激しい呼吸が、正
月三日の寒気で煙か霧のようになって照らしている神燈もこの霧で暗いくらいで、人の呼
気が屋根うらに昇ったのが凝縮して水滴になって雨のように降り、この蒸気が破風部分か
らもれて雲が立ちのぼるようだ。婦人で稀には子供を背中にむすびつけて押しに参加する
人もおり、子供が泣くのも当たり前に扱っているのも不思議である。
不思議なことに、この堂押で怪我したという者は昔からいない。婦人の中には浴衣だけ
つけている人もいるが、闇に乗じてみだりがましいこともしない、参加者各自が毘沙門天
の神罰を怖れる故だろう。裸になるのは、熱で堂内の温度が上がって燃えるように熱いか
らである。
参加者はこれを願い、遠く一里二里の所から正月三日の雪中で肌をさすほどの寒気もい
とわず、なかには氷柱を裸身で脊負ってくるものさえある。押しを繰り返して、二押し三
押しとなるとだれも熱くなって真夏の気分になり、堂の脇にある大きな石の盥盤に入って
水を浴びてまた押に戻る人もいる。一度押しては息をやすめ、七押し七踊りで止めるのが
規定である。踊といっても桶の中で芋を洗うようなものだ。だから、参加者全員が全身に
113
汗をながしている。
第七おどりになると、普光寺の山長(農夫の長をいう)が手に簓(ささら)を持ち、人
の手車に乗って人のなかへおし込んで大声で叫ぶ。
「毘沙門さまの御前に黒雲が降った。モ
ゥ」
。これに対して参加者全員が声を合わせて「なんだとて さがったモゥ」 また山長が「米
がふるとてさがった モゥ」と叫んでささらをゆすって鳴らす。このささらは内へゆすると
凶作だといって、外へ外へとゆすって鳴らす。また志願する者があらかじめ普光寺へ申し
出て、小桶にお神酒を入れ、盃を添えて献上する。山長は先頭者に提灯をもたせ、人をお
しわける者二十人ぱかりが先にすすんで堂に入る。この盃を手に入れると幸運があるとい
って、参加者が波のようになって押し寄せて取りあう。お神酒は神様に供える形だが、実
際は人に散いてしまい、盃も人の中へなげる。これを手に入れた人は自宅にお宮を造って
祭ると、その家には予想外の幸福がある。提灯も争ってとりあうので、奪う前にかならず
破れてしまう。
その提灯の骨一本だけでも手に入れて田の水口へさしておくと、この水のかかる田は収
穫時に虫がつかない。こんな風に霊験あらたかなことを、全員が知っている。神事がおわ
ると人々は離散して別々に普光寺に入り、初め置いた衣類や懐中物を身につけるが、鼻紙
一枚でも無くなるようなことはない。掠めとれば即座に神罰があると承知しているからで
ある。
○さて堂内から人がいなくなって後、かの山長が堂内に苧幹(おがら)を散らしておく
習慣である。翌朝山長が神酒と供物を備え、後向きに歩いて捧げる。前向きに歩くのは神
様が嫌う故という。昨夜散らしておいた苧幹は朝には寸断されているのは、参加者がいな
くなってから今度は神様が大勢ここに集って踊って、苧幹(おがら)を踏み潰したのだと
言い伝えている。神事はいずれも子供の戯びに似たものが多い。だからといって、常識で
軽んじてはいけない。こんな堂押に似たことは他の土地にもあるだろうが、ここにとりあ
えず記述して例として示した。
訳註
塩沢と浦佐の位置関係:上越線も上越新幹線も道路も北北東に向かっている。
大同:806-810 年
棟札:古い建造物を改修した際に、棟梁などが行った事項を記録して残す札。
七間四面:七間四方つまり 12.5 メートル四方あるいは 160 平方メートルということになる。
簓(ささら)
:竹の先を割って束ねて、振るとサラサラ音をたてる楽器。
苧幹(おがら)
:麻の繊維を剥いた茎の部分をいう。繊維を剥いでおり、脆くこわれやすい。
コメント:最後の「こんなのは他の土地にもあるだろうが・・・」の書き方は本書の特徴
で、著者が健全な常識人であることを示す一方で、照れているのかもしれない。
[諏訪邦夫訳]
北越雪譜二編 巻之一終
114
北越雪譜二編巻二 一覧
○雪頽(なだれ、雪崩)で熊を手に入れた話
○雪崩の難:雪崩とホウラ(新雪なだれ)
○雪中の葬式:雪国の苦労の例
○竜燈:不知火との関係は?
○芭蕉翁の遺墨:芭蕉の偉さと風貌
○化石渓:何でも鍾乳石にする川
○亀の化石
○夜光玉
○餅花:小正月の行事と蚕玉(まゆだま)
○斎の神の勧進
○斎の神の祭
○「てんぶら」の語の起源:山東京伝の命名の自慢
○煉羊羹の起原
○雪中の狼:空腹オオカミの狼藉
○雪頽(なだれ、雪崩)で熊を手に入れた話
酉陽雑俎によると、熊胆(くまのい)は春には首に、夏には腹に、秋には左の足、冬に
は右の足に移動すると書いてある。この点を猟師に確認してみると、そんなのはウソで熊
の胆は常に腹部にあって四季のいつでも同じということである。それとも、中国の熊は酉
陽雑俎の書いてある通りなのだあろうか。
そもそも、熊は猟師が山に入って捕まえたがる最高の獲物である。熊一頭で、大きさで
差はあるが、皮と胆で大体五両以上になるから、猟師の欲しがるのも当然である。そうは
いうけれど、熊は獰猛でしかも賢く捕まえるのは容易ではない。雪中の熊は、普段よりも
皮が厚く胆も大きい。したがって雪の穴に入っている熊を探し出して、猟師たちが力を合
わせて捕えるためにいろいろ工夫することも初編に記述した。うまく一頭掴まえても、大
勢で分けると個人の取り分は少ない。といって、雪中の熊は一人の力で到底捕まえられる
ものでもない。
ところで私の済む塩沢の近在の后谷村というところで、弥左ヱ門という農夫が、高齢の
両親の長年のねがいを聞いて、秋のはじめに信州の善光寺に参詣した。ある日所用で二里
ばかりの所へ行って留守の間に、隣家からの失火が自分の家に燃え移った。弥左ヱ門の妻
は子供二人をつれて何とか逃げて、命は助かったが、家財はのこらず燃えてしまった。弥
左ヱ門は村で火災ときいて急いで戻ったが、今朝出発したわが家はもう灰になって妻子の
無事を喜ぶだけであった。この夫婦は正直者で親にも孝行なので、周囲の人は同情してと
りあえず自分のところにと言ってくれる富農もいたが、自分は他家の下僕となって恩に報
いるべきとしても、両親まで他人の家にお世話になるのでは気分も休まらないと、申し出
を断った。
ひそかに田地を分けて一部を質に入れ、その金で仮に家を作り、
親も戻って住んでいた。
115
草を刈る鎌まで購入する必要があるなど火事で貧しくなったが、火元の隣家に対して恨み
もいわず、以前通り交際していた。年が明けて翌年の二月のはじめ、この弥左ヱ門が山に
入って薪を取ろうとすると、谷に落ちた雪崩の雪の中に目立つ黒い物が有り、遠くからこ
れを見て、もしや人がなだれにうたれて死んでいるのではと、苦労して谷まで下りたとこ
ろ途方もない大きな熊が雪崩に打たれて死んでいた。雪崩のことは、初編にも詳しく記述
したが、山に積った雪で二丈(12 メートル)にもあるのが、春の陽気で温かくなって自然
に砕け落ちるので、大きな岩を転がし落とすようなものである。これに遭遇すると、人馬
はもちろん大木や大石でも打ち落とされてしまう。この熊も、雪崩にやられたのである。
弥左ヱ門は良いものをみつけたと大悦びで、皮も胆もとりたいと思ったが、その日は太陽
が西に傾いていたので明日来ようとして人に見つからないように山刀で熊を雪に埋めて隠
し、目じるしをして家にかえり親にも話してよろこばせ、次の朝に皮を剥ぐ用意をしてこ
の場所に戻った。
胆が普通の倍も大きく、弁当の桶に入れて持ちかえり、購入者がいて皮は一両、胆が九
両で買ってくれた。弥左ヱ門は偶然にも十両の金を手に入れて、質入れしてあった田地も
受け戻し、
その後さらに幸運も続いて間もなく家も作り直し、
それまで以上に家は栄えた。
弥左ヱ門が雪崩で熊を見つけたのは、金の釜を掘り出した孝子の話にも似て、年来の孝行
を神様が褒めたのだろうと人々も賞賛したと、友人谷鶯翁が話したことである。
訳註:
酉陽雑俎:上巻中に既出。中国唐時代の怪奇書。
コメント:熊の胆の位置を猟師に訊いて確認しているのは、本書と著者の科学性を示して
おり、私はこの態度に大いに共感を覚える。[諏訪邦夫訳]
○雪崩の難:雪崩とホウラ(新雪なだれ)
私の住む塩沢郷は下組六十八ケ村の郷元だから、郷元担当の家には古来の記録も残って
いる。その古い記録の中に、元文五年庚申(元文は 1736-1741、5 年は 1740 年で、記述時
の約 100 年前) の正月二十三日暁に、湯沢宿の枝村掘切村の後の山から雪崩が急に起こっ
てその音響は雷が百も鳴るようで、百姓彦右ヱ門浅右ヱ門の二つの家が雪崩にうたれて家
がつぶれ、彦右ヱ門と馬が一頭即死、妻と息子は半死半生。浅右ヱ門父子は即死、妻は梁
の下に圧されたが何とか死はまぬがれた。この時は、御領主から彦右ヱ門の息子と浅右ヱ
門の妻とに各々米五俵が下賜されたと記している。
魚沼郡は大郡で、元来は会津侯御預りの土地である。元文の昔も今も、御領内の人民を
大切にしてくださるのはありがたい事である。ありがたさの点を後にも伝えようと、筆の
ついでに記しておく。
近年は山に近い家の人も、家を作る際にこの雪崩を避けて土地を選ぶのでその種の難は
まれだが、山道を往来する時になだれにうたれ死ぬことは時にある。初編にも述べたとお
り、ホウラ(新雪なだれ)は冬に発生し、通常の雪崩は春に発生する。他の国から越後に
来て山下を往来する際は、ホウラとなだれには用心が必要で、他国の人がこれで死んだと
いう慰霊の石塔が今も所々にあり、本当におそるべきことである。
116
○雪中の葬式:雪国の苦労の例
この越後で雪吹(ふぶき、吹雪)というのは、猛風が不意に起って高山や平原の雪を吹
き散らし、その風が四方に吹いて寒雪が百万の弓矢を飛ばすようで、寸隙の間をなく吹き
まわる。往来を通行する人は全身雪にやられ、短時間で半身が雪に埋れて凍死する点、前
にも述べたとおりである。
吹雪は晴天でも急に発生して、二日も三日も荒れ狂うこともあり、毎年これで交通が途
絶する。こんな時にたまたま死者がでると、雪の止むのを待つのがふつうだが、都合で仕
方なく暴風雪を犯して棺を出すこともある。施主側は何とか頑張るにしても、関係者の苦
労は見るも気の毒で、雪国の生活の苦難の一ツである。私が江戸に滞在していたころ、宿
の近くで亡くなった人がいて葬式の日に大嵐になった。宿の主人も、この葬儀に行くので
雨具を厳重に身につけながら、今日の仏様は何とまあ因果で、こんな嵐で他人に難義をか
けるようではとても極楽へは行けない、などとつぶやきながら出かけるのを見て、でも故
郷の吹雪に比較すれば楽だと思ったことであった。
○竜燈:不知火との関係は?
筑紫(今の福岡県)のしらぬ火(不知火)というのは、古歌にも数多く詠まれ、昔から
有名でよく知られている。その様子は、春暉が西遊記にしらぬ火を見たとして、詳しく記
録している。このしらぬ火は、世にいう竜燈の類ではなかろうか。この土地、蒲原郡に鎧
潟(よろいがた)といって(この土地の言い方で、湖を潟と云う) 東西一里半、南北へ一
里の湖水があり、毎年二月の中の午の日の夜、酉の下刻より丑の刻頃まで水上に火が見え
るのを、鎧潟の万燈といって里人が大勢集まって見物する。私の友人が見たというのを聞
いてみると、あの西遊記に書いてある筑紫のしらぬ火と同じようである。近年、湖水を北
の海へおとし新田となったので、以前は湖中にあった万燈も、今では人家の億燈となって
しまった。またこの土地の八海山は山頂に池が八ツあり、それでこの名がついている。頂
上に八海大明神の社があり、8 月 1 日の縁日にこの山にのぼる人が多い。この夜にかぎっ
て竜燈が見えるのに、その出現状況を見た人はいないと言う。およそ竜燈は、大抵は春夏
秋に発生する。諸国のいろいろな記録を見ると、いずれも同じ様子で海からも出るし、山
から下がっても来る。しかし、毎年日にちと時間が決まっている点が怪奇奇異である。竜
神より神仏への供だというと云うのが普通の説だが、ここに珍しい竜燈の話があり、竜燈
の由来を解釈できる説なので、とりあえず記述して好事家に話題を提供しよう。
この土地、頸城郡米山の麓にある医王山米山寺は、和同年間(708-715 年)の創立であ
る。山のいただきに薬師堂があり、山中は女性の侵入を禁止している。この米山の腰(麓
近く)を米山嶺といって越後北海の街道で、この辺には古跡が多い。私が先年その古跡を
尋ねようと下越後に旅をした時、新道村の長である飯塚知義氏からこんな話を聞いた。
ある年の夏に雨乞いの為に、村の者が集まって米山に登った。薬師に参詣する人が山ご
もりするために御鉢という所に小屋が二ツあり、その小屋で一泊した。この日は 6 月 12
日で、御鉢に竜燈のあがる夜であった。思いもよらず竜燈をみえそうだと人々がしずまっ
117
た頃に、酉の刻(午後 6 時前後)とおもう頃、どこからともなく光がきて、大きいのは手
鞠くらい、小さいのは鷄卵くらいであった。大小ともにこの御鉢のあたりを離れずに、ゆ
っくり飛行したり、急速に動いたり、様子は心があって遊んでいるかのようだった。光り
方は、螢の光の色に似ていた。強くなったり、弱くなったりする。いろいろ飛び回ってい
て、しばらくでも止まるということはなく、多数で数は数えきれない。はじめから小屋の
入り口を閉めて、
人々は黙って覗いて眺めているので、観察者がいるとは思わないようで、
大小の竜燈二ツ三ツ小屋の前を七八間先に進んできたりした。光ですかしみると、形は鳥
のやうに見えて光りは煙の下より出るようである。なお近くよって形もよく見とどけたい
と思ったが、近くには来ないでゆっくりと飛び回っていた。
この夜は山中で一泊の予定だったが、何かに役にたつかと鉄砲をもっていた手練の若も
のがいて光りを的に打とうとしたが、一人の老人がいやそれはヤメロとおしとどめ、何と
もったいない、この竜燈は竜神より薬師如来へ捧げ下さるものであるぞ、罰あたりめと叱
った声と共に、はるか遠く飛さったとは知義氏の話である。
訳註
頸城郡米山:著者の塩沢は魚沼だが、米山はずっと西で柏崎の南西である。標高は 1000
メートル未満で、上越国境の山々よりずっと低い。
女性の侵入を禁止:日本の山は、以前は女性の侵入を禁じていたものが少なくなかった。
2008 年夏に奈良県大峰山に登ったところ、ここは霊山扱いで女人禁制の掟を守っているの
を知って驚いた。少なくとも、私が往復している数時間の間は女性を見なかった。
竜燈と不知火:不知火は漁船の漁火が蜃気楼として見えるものと結論が出ている。ここに
登場する竜燈は、様子がずっと複雑で種類が多い。一部は蜃気楼だろうが、全部を同等に
は解釈できないかも知れない。[諏訪邦夫訳]
○芭蕉翁の遺墨:芭蕉の偉さと風貌
図 芭蕉が奥の細道で、細井昌庵(青庵、凍雲とも)を訪れた様子を描いたもの。
越後の雪を詠んだ歌は数多いが、実際に越の雪を目前して詠んだのはまれである。西行
の山家集、頓阿の草菴集にも越後の雪の歌はない。歌詠みの僧たちでも、越地の雪は知ら
ないのだろう。俊頼朝臣が「降雪に谷の俤うずもれて 梢ぞ冬の山路なりける」(降雪で谷
の様子は埋まっており、梢の寂しさだけに冬がみえる山路だ)と歌っている。これはたし
かに越後の雪の真景だが、この朝臣自身は実際に越後にきておらず、俗にいう歌人は名所
を訪れずして名所を知る例である。
118
伊達政宗卿の御歌に「ささずとも誰かは越えん関の戸も 降り埋めたる雪の夕暮」
(これ
ほどの雪の夕暮れでは、越の国への関所の戸はわざわざ閉ざさなくても、越えていく人は
いないだろう)や「なかなかにつづらおりなる道絶えて 雪に隣のちかき山里」(すぐ隣の
山里といっても、その曲がりくねった道が雪に閉ざされて往来はままならないことよ)と
いうのもある。
伊達政宗卿は令名高い歌よみだから、こんなめでたい歌もあって人の口から口へと伝わ
っている。雪の実境をお詠みになっているのは、ご自分の国も雪深いところだからこそで
ある。芭蕉翁が奥の細道の行脚の復路で越後に入り、新潟で「海に降る雨や恋しきうき身
宿」とよみ、寺泊では「荒海や 佐渡に横たう天の川」とよんでいるが、いずれも夏秋の旅
路で、越後の雪は見ていない。近年も越地に来遊した文人墨客は数多いが、秋の末になる
と雪をおそれて故郷へ逃げ帰るから、雪の詩歌も紀行文もない。稀には他国の人が越後に
雪の時期にくることもあるが、風雅の道をもたない人では詩歌や文章に残ることもない。
越後三条の人で崑崙山人が北越奇談を出版したが、これが六巻絵入の仮名本で文化八年
(1811 年)刊行なのに、雪のことは一言も書いていない。現在は学問文物が盛んになって
新しい本が湧き出るように出版されているのに、日本第一の大雪の越後の雪を記述した本
がない。だからこそ、私が無学も省みずにこの土地の雪の奇状奇蹟を記して将来の方々に
示し、同時に関係することは広く載せて面白い話題として提供するわけである。
さて元禄時代に、高田の城下に細井昌庵という医師がいた。青庵ともいい、俳諧好きで
号を凍雲ともいった。ある年、芭蕉翁が奥の細道の復路にこの凍雲をたずねて「薬欄にい
ずれの花を草枕」と発句したので、凍雲はとりあえず「萩のすだれを巻きあぐる月」とつ
けた。
119
この時の芭蕉の肉筆が二枚あって一枚は書き損じで淡い墨でちょっと直した痕があり、
二枚ともに昌庵主の家に伝わっていた。それを後に、正しいほうの書は崎屋吉兵衛の家に
つたえ、書き損じは同所の五智如来の寺に残した。ところが文政年間に、この土地の国主
が風雅を好んで、例の二枚を持主から奉ったので、吉兵衛に狩野常信の屏風三幅対と白銀
五枚、寺にもたくさんのものを下賜され、今では二枚とも君主の蔵に入ってしまったと友
人葵亭翁が語っていた。葵亭翁は、蒲原郡加茂明神の修験宮本院で名は義方吐醋と号し、
無方斎という号もあり、隠居して葵亭と呼んでいる。和漢の知識が広く、北越の知識人で
ある。芭蕉の例の句の記録が、現在は見ることができないので著しておく。
以下は百樹の注釈である。
芭蕉居士は、寛永 20 年(1643 年)に伊賀(今の三重県西部)の上野藤堂新七郎殿の藩
に生まれた。次男である。寛文 6 年(1666 年)に 24 歳で宮仕えを辞して、京に出て北村
季吟翁の門に入り、書を北向雲竹に学んだ。はじめ宗房と名乗り、季吟翁の句集のものに
も宗房の名で載っている。延宝年間(1673-1681)の末にはじめて江戸に出て、小田原町鯉
屋藤左ヱ門のところの杉山杉風の家に寄宿して、剃髪して素宣と名乗った。桃青は後の名
である。芭蕉とは、草庵に芭蕉を植えたから人が呼ぶようになった名で、後には自分でも
号として使うようになった。翁の作に、芭蕉を移辞(移植する言葉)という文があり、そ
の終りの言葉にこういうのがある。
「たまたま花さくも花やかならず、茎太けれども斧にあたらず、かの山中不材の類木に
たぐへてその性よし。僧懐素は是に筆を走らし、張横渠は新葉を見て修学の力とせし、と
である。予その二ツをとらず、ただこの蔭に遊びて風雨に破れ易きを愛す」
はせを野分して 盥に雨をきく夜哉
この芭蕉庵の旧蹟は深川清澄町万年橋の南詰所在で、現在はしかるべき方のお庭の中に
あり、古池の趾が今も残っているという。私が自分用の芭蕉年表、別名「はせを年代記」
というものを作成したところ、出版社は本にしたいと言ってきたが、考証が不満足なので
印刷は許していない。芭蕉翁は世俗を離れて全国をあちこち旅し、江戸には長く住んでい
ない。終には元禄七年(1694 年)甲戌十月十二日に「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」
の一句をのこして浪花の花屋という旅館で客死した。ここまでは世によく知られている。
芭蕉翁の臨終のことは、江州(近江の国、滋賀県)粟津の義仲寺に残っている榎本其角
の芭蕉終焉記に詳しく、目前にみるように詳細な記述である。この記録によると翁は細菌
の毒(きのこ毒)にあたって病気になり、九月末日より病床につき、僅が十二日で亡くな
られた。この時病床にいた門人としては、木節が、芭蕉翁に薬をあたえた医師であった。
他に、○去来○惟然○正秀○之道○支考○呑舟○丈草○乙州○伽香
以上十人が付き添っていた。其角はこの時和泉(大阪府南部)の淡の輪という所にいた
が、芭蕉翁が大阪にいるときいて、病気と知らずに十日に到着して十二日の臨終に遭遇し
たので、
運がよかったといえる。
以上終焉記を簡単に要約した。
其角の終焉記の文中に、『遺
体を義仲寺に移動して、葬礼を十分にとりおこない、京都・大阪・大津・膳所の俳諧仲間・
120
家臣・従者まで、この芭蕉翁の心を慕って特に招待もなくかけつけた人がおよそ 300 人ほ
どである。浄衣その外智月と百樹の話では、大津の米屋の母、翁の門人の乙州の妻が縫上
げて着せた』という。
なお、其角の記録は義仲寺に版木として存在し、お願いすれば頂戴できる。俳人はかな
らずみるべき書である。
また『二千私が人の門葉辺遠ひとつに合信する因縁の不可思議はいかにとも理解がむず
かしい』という。私(百樹)の意見では、孔子には門人が 3 千人いて、そこに特に優れた
弟子が 10 人いて「十哲」と呼ばれた。芭蕉には同宗の人たちが 2 千人いて、やはり十哲と
よぶ優れた門人がいた。孔子の導く大道と芭蕉の俳諧という遊芸の小さい領域と重要度の
差は大きいが、孔子は七十歳で魯国の城北泗上に葬られて心喪に服した弟子が三千人、芭
蕉は五十二歳で粟津の義仲寺に葬られた時に特に招かれなかったのに集まった人が 300 人
余で、それだけで芭蕉に師としての徳があったと評価してよかろう。つまり芭蕉のつくり
あげたものは、孔子のつくったものと共通している点を指摘したい。
芭蕉にはうつろな心の様子や軽薄な態度が少しもなかった点は、吟咏と文章から十分に
わかる。この人は、其角のいう通り、人が慕いよることが多く現在からみても不思議な人
である。だからこそ、一句一章などわずかでも、他の人がこれを句碑に作って不朽のもの
として伝えていることが多く、芭蕉の句碑のない土地はなかろう。
俳句の世界で、この人の右に出る者はいない。だからこそ、本文にも述べたとおり、ち
ょっと書いただけの薬欄での一句の墨痕も百四十年後の文政の今になって、白銀の光りを
はなつわけで、論外の不思議である。蜀山先生が前に述べたことだが、およそ文筆で世に
立つ人は現在のことを問題にせず、死後になって一字一百銭に評価される身となるならそ
の人の文筆は幸福の極みだという。芭蕉の場合、まさにこの幸福の状況にある。それにし
ても、一字一百銭と評価されるのはむずかしい。
さてまた芭蕉の行状や小伝は、
いろいろな書物に散見されて広く人に知れわたっている。
しかしながら、翁の容貌は、世間の方々はあまり知らないようだ。ここに私は知る機会が
あったので、この雪譜に記載して将来のために示そう。こんなちいさな事柄でも世間に埋
もれてしまうのが惜しく、何とかしようと雪のついでに筆を進めた老婆心である。
二代目市川団十郎は、初代段十郎(のちに団十郎と改名) の俳号を嗣いで才牛といい、
後に柏莚とあらためた。これが元文元年である。この柏莚は、○正徳○享保○元文○寛保
を通じて世に名をはせた名人である。妻はおさいといい、俳名を翠仙という。夫婦ともに
俳諧を好み、文筆を愛した。この柏莚が日記のように書き残した老の楽という随筆は、二
百四五十枚の自筆書である。最近まで柏莚女史が自分のものとして外部にはみせなかった
が、狂歌堂真顔翁が珍しい作品だからとお願いして当の柏莚のお宅の所蔵品を借りた時に
私も真顔翁と一緒に拝読した。
その中に、芝居が土用休みのうち柏莚が英一蝶の引船の絵の小屏風を虫干しする際に、
人参をきざみながらこの絵で昔を思い出して独言を言ったのを記した文に「私は幼年の頃
121
にはじめて吉原を見た。その時、黒羽二重に三升の紋つけた振袖を着て、右手を一蝶にひ
かれ左手を其角にひかれて日本堤を歩いたのを今も忘れられない。この二人は世に名をひ
びかせたけれど、今は亡くなってしまった。私は幸にまだ現世にあって名もかなり知れ渡
っている。
(中略) 今日小川破笠老がいらっしゃった。昔話の中に、芭蕉翁は細面で、少
しあばたがあり色白で小柄である。常に茶のつむぎの羽織をきて、嵐雪よ、其角の所へい
ってくるぞ、とものしずかにいったと話した」
この文を読むと芭蕉を眼前に見るようだ。芭蕉翁の門人の惟然の作という翁の肖像ある
いは画幅の肖像、世に流伝するものとこの説とを付き合わせて視るべきだろう。 小川破笠
は俗称を平助といい、壮年の頃放蕩で嵐雪と共に(俗称服部彦兵ヱ) 其角の堀江町のとこ
ろに食客をしていたと、件の老の楽にも、また破笠の自記にも載っている。
破笠は、笠翁とか卯観子、夢中庵等の号がある。絵を英一蝶に学ぴ、俳諧は宝井其角を
師とした。私が蔵する画幅に、延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四筆とある。描金(蒔
絵)が見事で人の真似を嫌い、独立で一風変わった仕事をした。破笠細工として現代も賞
賛されている。吉原の七月にはじめて機(からくり)燈を作って今もその余波が残り、伝
記は明確ではないので、それ以上は述べず、ここで打ち切ろう。
訳註:
薬欄:薬草の囲い、薬園。
芭蕉居士は寛永 20 年(1643 年)生まれ:別の記録では 1644 年生まれとなっている。
「翁は細菌の毒(きのこ毒)にあたって病気になり」:ここの原文は、「翁いさゝか菌毒にあ
たりて痢となり」となっている。元禄当時、現代でいう「細菌」の概念はないが、きのこ中毒
は知られていた。
蜀山先生:大田南畝(おおた なんぽ)。江戸後期の狂歌師・戯作者。
(1749~1823)
狂歌堂真顔翁:鹿都部真顔(しかつべの まがお)の別名。江戸後期の狂歌師・黄表紙作者。
(1753~1829)
一蝶:英一蝶(はなぶさ いっちょう)。画家。独自の軽妙洒脱な画風を創始。俳諧も達人。
(1652~1724)
小川破笠:
(おがわ はりつ)
。画家・工芸家。俳諧を芭蕉に、画を英一蝶に学ぶ。破笠細工
という蒔絵の特殊技法を開発。
(1663~1747)
惟然:広瀬惟然(ひろせ いぜん)
。芭蕉の門人。(?~1711)
コメント:この項目は芭蕉の話だが、「百樹曰」という山東京山の薀蓄が長い。北越雪譜の
本筋とは無関係で、百樹山東京山が知識をひけらかしてうっとうしい印象だが、テーマが
芭蕉だから当然で、百樹自身もそういう意識だろう。[諏訪邦夫訳]
○化石渓:何でも鍾乳石にする川
東游記をみると、越前国大野領の山中に化石渓という場所があり。この流れに浸してお
122
くと、どんな物でも半月か一ケ月ほどでかならず石になってしまう。器物はもちろん、紙
一束でも藁で縛ったものでも、石に化けたのを見たと述べている。実は、この越後にも化
石渓があり、魚沼郡小出のはずれにある羽川という渓流に蚕の腐ったのを流したら一夜で
石に変化したと友人葵亭翁が話していた。
越前の大野領の化石渓は東游記に載っていて有名だが、越後の化石渓は世に知られてい
ない。また近江の石亭執筆の雲根志の変化の部(前編)に、
「人あり語りて云う、越後国大
飯郡に寒水滝というあり、この場所は深山幽谷で凍寒の土地である。この滝壺へどんな物
でも投げこんでおくと百日以内に石になってしまうとの話である。滝壺の近所では、木の
枝葉や木の実その他や生物類も石になってしまうという。少し前にこの滝の石を取よせた
人から見せて貰ったが、これは普通の石ではなくて全部鍾乳石で、木の葉などを石の中に
含んでいる。雲林石譜にいう鐘乳が転化して石になるかならないか云云」 とある。
雲根志はそうなっているが、私(牧之)の考えでは、越後に大飯郡という場所はないし、
また寒水滝の名もきいたことはない。人がそう話したというのは、伝聞の誤りだろう。ま
た北越奇談にも、会津に隣接する駒が岳の深い谷に三里ほど入ると化石渓と名づける場所
があり、虫も羽も草木なども流れに入って一年経つとみな石に変化してしまう。この川は
とても冷たくて夏でも渡るのがむずかしいようだ。蘇門岳の北下田郷の深谷にも化石渓が
あるとかないとか。雲根志の記録はこんな話を聞き違ったものだろう。
訳註:
東游記:橘 南谿(たちばな なんけい:1753-1805 年)、江戸後期の医者。紀行『東遊記』
、
『西遊記』.
木内石亭(きのうち せきてい)
:博物学者、石の蒐集家。考古学の先駆者という。近江生
まれ。
(1724~1808)
雲根志(うんこんし)
:木内石亭著の博物学書。1773 年~1801 年に刊行。雲根は石の意。
北越奇談:1812 年刊行の橘崑崙による随筆集。柳亭種彦が監修、崑崙の絵から葛飾北斎が
絵を担当。本書『北越雪譜』の「北越」は、このタイトルを意識したと書いてある。
コメント:この化石渓の話は、石灰分が強くて鍾乳石にすると解釈したが、それでいいの
だろうか。厳密には自信が持てない。
[諏訪邦夫訳]
○亀の化石
図 右は亀の甲羅の化石。左はそれを見せている絵か。
私の住む塩沢は魚沼郡で、その郡の岡の町の旧家で村山藤左ヱ門というのは私の婿の兄
である。この家に先代より秘蔵する亀の化石があり、伝承では近い山間の土中より掘り出
したという化石の珍品で、ここに図を挙げて石の鑑定家に提供して鑑定をお願いしよう。
123
以下も百樹の注釈である。
問題の図をみるとふつうの亀とは形が少し違う。そこで考えると、図鑑類に「秦亀」と
か「筮亀」とか「山亀」といって、俗には石亀と呼ぶものだろう。秦亀は山中に居り、だ
から山亀と呼ぶ。
春夏は渓流の水で遊び秋冬は山にこもるので、極端に長寿な亀だという。
一方、筮亀と呼ぶのは周易によると亀を焼いて占ったのがこの亀だという。問題の亀の化
石は、本草家の鑑定で秦亀ならば本当の珍物ということになる。山で掘り出したというの
で、秦亀に近いようである。化石は多数見たが、小さものが多く、このように身体全体の
ものは稀である。図の化石は身体全体でしかも大きい点から見て、まさしく珍品である。
先年俗にいう大和めぐりをした際に、半月あまり京都に滞在し、旧友の画家春琴子にし
たがって諸名家をたずねて、学者として名高い頼山陽氏(通称頼徳太郎)を訪問し、話が
化石のことになると、頼先生が私に蟹の化石一片を下さった。その色は褪めることなく、
生きているようで、しかも堅さはまさに石である。潜確類書又本草三才図会等にいう石蟹
とは泥沙とともに変化して石になったものだからだろう。盆においた石の菖蒲の下におく
と、まるで水中で動いているようだ。亀の徒者として、その図も示す。これも今は名家の
形見となっている。
(ここまで百樹の注釈)
訳註
筮:めどき。占いで使う筮竹のこと。
周易:周の古書。
「易経」のこと。
本草家:博物の専門家。
鴻儒(こうじゅ)
:偉い儒学者。単なる大学者にも使う。
[諏訪邦夫訳]
124
○夜光玉
図 兄弟が夜光玉を獲る状況を描いたもの。
雲根志の異の部に以下の話が載っている。
わが家の隣家に若い元気な人がおり、儀兵衛と言う名である。ある時、田上谷という山
中に行って夜遅く帰ろうとすると、向うの山の谷底で青い光が虹のように昇って先は天に
届いていた。この男は勇敢なので、強引に草木を分けて山を越え、谷をわたって光の根元
をさぐってみると、何の変わったこともない只の石であった。拾い取って背負って帰る途
中でやはり前と同じように光っている。お蔭で夜道を歩くのにたすかり、明け方に家に着
いた。そこで問題の石を軒の外に直し置き、朝飯など摂ってからその石を見ようとすると
石がなくなっており、
何が起こったのかいろいろ訊き詮索もしたが、結局行方不明だった。
本国(近江の国)甲賀郡石原潮音寺の和尚の話だが、近くの農民が畑を掘って居たとこ
ろ拳ほどの大きさの石をほりだした。この石はふつうよりとても美しいので持ち帰った。
夜になると、この石が光って流星のようだ。友人から、これは霊石で、人が持っていては
いけない、家においておくときっと災いが起こる、はやく壊してすてるのがよいと言われ
た。これをきいて、斧で打ち砕いて竹やぶに捨てた。ところが、その夜竹林一面に光り輝
き螢が数万匹もいるようだった。この話を、近くの人がきいて集り、翌朝竹林をたずねみ
たが石は消滅して、カケラさえ残っていなかった。
筑后国(福岡県南部)上妻郡の人が所用で夜中に近村へ行ったところ小川を渡ろうとし
て、光る物があるので拾ったところ小石で、翌日ある方に献上したが、しばらくして消滅
したという。
125
以上一条全文(ここまでは雲根志の記述だが、以下は著者自身の見聞の意味)
ここまでは他国のことだが、越後にも夜光の玉があった話がある。新発田から蒲原郡東
北の加治という所と中条という所の間路の傍田の中に庚申塚があり、この塚の上に大きさ
一尺五寸(45 センチ)ほどの丸い石をおいて拝礼する。石のいわれは、以前にある農夫が
自宅の後ろの竹林を掃除して竹の根を掘ってこの石を掘り出した。色は青味を帯びて黒く
なめらかで、農夫はこれを藁をうつ板として自宅に持ち込んだ。その夜、妻が庭に出てみ
ると燦然と光り輝く物があり、妻は妖怪だとして驚いて叫んだ。家主が元気な若者など数
人を連れてやってきて、この光る物を打ってみるとただの石で、皆が妖怪だとして石を竹
林に捨てた。この石は、毎夜光り続け、村人はおそれて夜は外出を避けた。それで、この
石を庚申塚に祭って上に泥を塗って光を遮断し、今では苔むしている。好事家がこの石を
欲しがったが、村人は崇りがあるかも知れないとおそれて許さなかったという。
これと別に、駒が岳の麓の大湯村と橡尾村の間を流れる渓流に佐奈志川があり、ある年
渇水になったところ水中に一点の光があり、螢が水中にあるようにみえた。数日間そのま
まにしておいたら、ある日豪雨になって増水してこの光は消失し、その後四五町(4,5 百
メートル)川下に光る物があってやはり螢火のようだった。この土地は山中なので村の住
民は物知らずで、夜光の玉という存在を知らず、特に尋ねたり欲しがる人もいなかったと
ころ、その秋の洪水で夜光の玉はさらに流れて所在が分からなくなった。これは、北越奇
談に載っている。
一方、夜光珠(夜光る玉)の少し本当らしい話がある。私が文政二年卯の春に下越後を
歴訪した際、三嶋郡に入って伊弥彦明神を拝み、以前からの知り合いの高橋光則翁を訪問
したところ、翁は大変によろこんで一泊させて頂いた。翁は和歌の名人で同時に昔話を好
んで、話が湧き出るように卓越して興味深いので、予定外に四五日滞在した。
高橋光則翁の話で、今から四五十年前三島郡の中の吉田で大鳥川という渓川に夜になる
と光るものがあるという評判で、人が怖れて近づかないようにしていた。この川の近くの
富長村に鍛冶屋の兄弟がいて、母を養っていた。家はごく貧しかったが、この兄弟は剛気
で例の光る物を見きわめて、もし妖怪なら退治して村の人たちを感心させてやろうと、あ
る夜兄弟で例の場所にでかけた。ちょうど秋で増水した川面は、暗くてただ水の音が聞こ
えるだけだ。二人は松明をふって照らしながらあちこち探したが、光るものは一向にみえ
ず、他にも特に怪しい様子もなかった。まあデタラメだろうからと帰ろうとすると、水上
でにわかに光がみえた。あったぞと言って、二人は衣服を脱ぎすて水に飛び込んで泳ぎつ
いて例の光る物を探ってみると、枕ほどの石であった。手に入れて家に帰り、最初かまど
の下に置くとよく光って部屋の明かりになった。事情を母に話すと、不思議な宝を得たと
いって親子でよろこんで近隣からも来て見物するものもいたが、特に物知りでもない人達
で、特別貴重な璧とか珠とは思わずそのままにしておいた。
少し後に、弟が別家する時に家の物は二ツに分けて弟に与えようと母がいうと、弟が家
財は要らないから光る石が欲しいと言う。これに対して兄の言い分は、光る石を拾ったの
は自分の計画で、弟は自分に協力しただけである。だから、光る石は親の資産を譲る問題
ではなく自分の物だ。親からの財産は分けるが、この石に関しては分けるわけにはいかな
126
い、という。これに対して、弟が石は自分のだ、兄貴は光る石を拾おうと考えたのではな
く、妖怪を退治しようと川に行き、実際には兄貴より先に自分が川に飛び込んで光る石を
探りあて、かつぎあげたのも自分だ、だから自分が拾ったものを自分が持って出るのは当
然、と主張した。二人は、兄のだ、弟のだと口論がやまない。終にはつかみあい殴りあい
になったので、母がそれを何とか押し鎮めて、それなら光る石を二ツに割って分けようと
言う。弟はそれならと明玉をとりいだし鍛冶で使うかなとこ(台座)の上にのせ金槌で力
にまかせに打つと、惜しいことに光る玉は砕け、その石の中に白玉が入っていたがそれも
砕け、水が四方へ飛散ってしまった。その夜、水のかかった場所は光り暉いて螢の群のよ
うだったが、二三夜にしてその光も消えたという。愚か者の行動とはいいながら、稀世の
宝玉が一槌で亡びたのは、玉も人も共に不幸だったとして、話に残ったことである。
牧之が考えるに、橘春暉が書いた北窓瑣談(後編の二)の蔵石家(石の蒐集家)の項目
にこんな話がある。江州(滋賀県)山田の浦の木之内古繁、伊勢の山中甚作、大阪の加嶋
屋源太兵ヱ、その他にも三都の中の好事家侯国の逸人などなど、石の専門家として有名な
人が近年数多い。私も諸家の奇石を見たが、所蔵する石は三千種か五千種に達し、五日十
日の日数を尽してやっと一覧できた。まあ、それだけ多くても格別におどろくような珍し
い物はなかった。加嶋屋源太兵ヱの話で、何年か前に北国から人がきて拳大の夜光の玉が
あり、よく一室を照すので、価格が適当なら売ろうといわれた。即座にその人に頼んで、
その玉が欲しい、暗いところで玉を入れた箱の内が白く見えるなら五十両、その玉で大き
な文字が一字でも読めるなら百両、手紙が読めるなら三百両、部屋全体を照らすなら身代
全部を力の限りを尽して差し出すから仲介して欲しいと伝えたが、その後は何の音沙汰も
なくそのままになった。まあ、嘘だったと思う云々。
この部分は、天明年間に蔵石が世に流行した頃に加嶋屋の話をそのまま春暉が後に記録
したのだろう。さてまた、私が上の鍛冶屋の玉の話しをきいたのは文政二年の春で、今か
ら四五十年前で、鍛冶屋が玉を砕いたのは安永の末か天明のはじめだ。それなら蔵石の流
行した頃で、例の加嶋屋の話に北国の人一室をてらす玉の売り物と言ったのは、越後の縮
商人が鍛冶屋の玉の話を聞いて儲け口として話したのかも知れない。しかし、玉はくだい
てしまい加嶋屋への話を進めようがなかったろう。歴史に残る「卞和が玉」
(へんくわがた
め)も楚王が入手したからこそ世に出た。上に書いた夜光の話は五ツあり、その中の三ツ
は越後だった。いずれも世に出ることがなく、残念である。
以下は百樹の注釈である。
五雑組の物の部に、鍛冶屋の話に似たのが載っている。明の万暦の初めに、閩中連江と
いう所の人が蛤を割いていて玉を手に入れたが知らずに煮てしまった。この珠は釜の中で
踊りまわり、火の光は天に燃えるようで、近隣の人たちは火事ではないかと驚いて集まっ
て救った。玉を煮たものは、話しを聞いて釜の蓋をあけてみると玉は半分しぼんでいた。
この珠は直径が一寸(3 センチ)ほどで、本物の夜光明月の珠である。凡人がムダにして
しまって残念と記録している。
ついでに、これも百樹の注釈だが、五雑組の続きである。魏の恵王が直径 1 寸の珠で前
127
後車を照らしたという十二乗とは昔のことで、今は宮中でも夜光珠は所有していないと明
人謝肇せつが五雑組に書いている。
○神異記○洞冥記にも夜光珠の話があるけれども、いい加減な話である。
古今注には、特に大きな鯨の眼は夜には光かって珠のようだと述べている。卞和が玉も
剖之中果有玉というから、石の中に玉を内蔵していた点は、鍛冶屋の砕いた玉は卞和の玉
に類似している。
趙の恵王が夜光の玉を、秦の照王が城十五に替えてやろうといったと言うが、北国の明
玉を加嶋屋が身代を傾けてまで買おうと約束したのに似ている。
さてまた癸辛雑識続集
(巻
下)に、機織りの女性が糸を水にひたしておいたところ、夜中に白い大きな蜘蛛がきてそ
の水をのむと身が光りを発するようになり、当の婦人はこれを見て大変に驚いて、鷄の籠
を伏せてその蜘蛛を捕まえた。腹に夜は光る珠があり、大きさは弾丸くらいだったと記述
している。
このことが、上に牧之老人が引用した北越奇談玉の部に越後にあったと書いた事柄に対
応している。内容は癸辛雑識と同一で、推測だが癸辛雑識は中国の書物でなかなか簡単に
は入手できない本だから、北越奇談の作者は一般読者に面白い話を提供しようと越後の話
として書き替えたのかも知れない。しかし、癸辛雑識続集は江戸でも入手困難で本自体を
見たのではなくて、どこかからの伝聞で知識を手に入れたのだろう。
また増一阿含経(第卅三。等法品第卅九)に転輪聖王の徳にそなはった一尺六寸の夜光
摩尼宝は、彼国十二由旬を照すと書いてあり、これは紹介してある本が多いからこれ以上
は説明しない。しかし、一由旬は異国の四十里で、十二由旬は日本の距離で六十六里であ
る。一尺六寸の玉が六十六里四方を照すとはすごい。転輪王がこの玉を入手して、試しに
高い幟りの頭に着けたところ、人民等は玉の光りともしらず夜が明けたと思い、各自仕事
をはじめたと書いている。このことは大学者として名高い了阿上人の話をきいて、お経を
借りて読んだものだが、これこそ夜光の玉の親玉とも言える凄い話だ。
訳註:
庚申塚(こうしんづか)
:道端に青面金剛(庚申)を祭ってある塚。普通名詞だが、一部で
は固有名詞である。東京にも巣鴨の近くに、この地名がある。
古今注:ここはおそらく中国の百科全書を指しているだろう。同名で、「古今集の解説書」
というのもあるけれど。
コメント:ところで、この項目の記述は全体として科学的には解釈困難である。かすかに
光るなら、燐光というのもあり、また蛍光も否定できないけれど。著者にならって、「自然
界には理解できないことも多い」としておこうか。[諏訪邦夫訳]
○餅花:小正月の行事と蚕玉(まゆたま)
餅花や夜は鼠が吉野山
一にねずみが目にはとあり、要するに其角の例のいたずらである。
江戸などの餅花は、十二月餅搗の時に餅花を作り歳徳の神棚に捧げるという。年末だか
ら、俳諧の季は冬である。
128
一方、越後の餅花は新年の春である。正月十四日までを大正月といい、十五日より二十
日までを小正月といい、これが当地の里での習慣である。正月十三日か十四日に門松やし
めかざりを取り除くが、同じ越後でも長岡あたりでは正月七日にかざりをはずし、けずり
かけ(木片製の御幣)は十四日までかけておく。餅花を作り、大神宮と歳徳の神である恵
比須とのおのおのに餅花を一枝ずつ神棚に捧げる。その作り方は、みず木という木か川楊
の枝に、餅を三角か梅か桜の花形に切って枝にさし、時には団子をまぜる。これを蚕玉(ま
ゆたま)と言う。稲穂かあるいは紙で作った金銭、縮商人なら縮のひな形を紙で作り、農
家では木をけずって鍬鋤の類の農具を小さく作ってもちばなの枝にかける。それぞれ自分
の家業に関係したものの雛形をかけて、仕事の順調なことをいのる祝いである。
餅花を作るのは、大抵は若者たちの手作業である。祝いだから男女がまじって声よく田
植歌をうたうが、この声をきくと夏が恋しく、家の軒先を超えるような雪も早く消えて欲
しいと思うのも雪国の人情である。
餅花は俳諧の古い歳時記にも出ているから二百年来諸国にも当然あるだろう。ちかごろ
江戸では特に季節を決めずに、小児の遊び用に作って売っていると聞いた。
訳註:
餅花や夜は鼠が吉野山:「ざれ俳句」の一種だろうか。家の中に餅花が飾られているわけだ
から、夜になるとネズミが花見のように喜んで食べにくる、という意味に解釈したが。
蚕玉:「まゆたま」と振り仮名がついている。繭玉(まゆだま)という言い方は、最近まで
あるいは現在でも、あちこちに残っている。元来は、養蚕の盛んな土地の風習と解釈する。
[諏訪邦夫訳]
○斎の神の勧進
この塩沢近辺の風俗として、正月十五日前に七、八歳から十三、四歳までの男児を対象
に斎の神勧進ということをする。少し豊かな家の子供がこれをする時は、ぬるでの木を上
下より削って掛けて鍔の形を作り、これを斗棒(とぼう)と言う。これを大小のように二
本さし、上下を着て、お供に一升ますをもたせるか紐で頸にかけたりする。五六寸ばかり
の木で頭だけの人形を作り、目鼻をえがき、二ツつくって女神男神とし、女神は頭に綿を
載せ、紙で作った衣服に紅で梅の花などをえがく。男神には烏帽子を載せ、木を一部けず
って髭とする。
紙の衣服に若松などをえがく。
この二ツをこの升の中におき、「斎の神勧進」
と大声で歩きまわる。貢物が特に欲しいわけでもなく、正月あそびの一つである。もちろ
ん一人でするのではなく、児童たちがみな集まって遊ぶ。一方、大人たちはこの子供に切
餅や金銭も与える。貧しい家の子供たちは五人、七人、十人と集まって、茜木綿の頭巾に
浅黄のへりをつけたものをかぶり、かの斗棒を一本さし、二神を柳こうりに入れて首にか
け、「さいの神かんじん、銭でも金でもください、どうぞ」と家々の前を押し歩く。これに
は銭を与え濁酒をのませ、さらに顔に墨をぬって大笑いする、よく行う習慣である。
また長岡あたりでは、例の斗棒のけずりかけの三尺ばかりのものに、宝づくしなどを描
129
いたのをさして勧進するが、こちらは小児ではなく、大人のいやしいやり方である。勧進
のことばに「銭でも金でもください、来年の春は嫁でも聟でもとるように、泉のすみから
湧くように、すつくらすわいとおいやれ」
こんな風に勧進の銭をあつめて、斎の神を祭る費用にあてる。さいの神のまつりは次に
述べる。また去年婿や嫁をむかへた家の門に、未明より児童が大勢あつまり、かの斗棒を
もつて門戸をたたき、嫁をだせ婿をだせと大声で声をそろえてたたく。これも里俗の祝い
だからどこも怒る家はなく、子供を家に入れて物を食わせたりする。まあこんな俗習は、
他の土地にも数多くあるだろう。
さてこんなことはたあいもない子供の戯れと思い過ごしてきたが、醒斎山東京伝翁の骨
薫集を読んで詳しい根拠を見つけた。骨董集上編下、粥の木の条に、
○粥杖○祝木○ほいたけ棒という物は、前にいう斗棒に同じだという。
京伝翁の説では、粥の木とは正月十五日粥を炊いた薪を杖とし、子どものない女性の尻
を打つと男児を孕むという祝いごと
○枕の草紙○狭衣○弁内侍の日記
その外の多数の書を引用して、上代の宮裏から近世の市中粥杖のことなどを挙げて、存
分に詳しく考証している。現在この郡などでいう斗棒は、つまり昔からの粥杖の遺風だと
確認しており、この土地にも祝木あるいは御祝棒という所もある。これも七八百年前より
正月十五日にするとは、京伝翁が引用した書でわかる。この引用書の中にも、中国の明の
人が書いた「日本風土記」にあるのはこの土地の行事に特によく似ている。この書籍は、
今から三百年ほど以前の日本の風俗を明の人が聞いて伝えたものだから、今この土地で子
供たちが悪戯していることも、三百年ほど以前の風俗が遠い地方にも移って残ったものだ
ろう。京伝翁が引用しているのは、日本風土記 巻の二時令の部とあり、漢文のまま引用だ
がここには仮名交じり文にしよう。
「街道郷村の児童で、年十五歳から十九歳さらに上に及ぶ者、それぞれ柳の枝を取り皮
を剥いで木刀に彫成する。皮は刀の外套にして身に着け、火で焼いて黒くして皮をとって
黒白の花に分ける。これを名づけて、荷花蘭蜜(こばらみ)と言う。荊棘の枝を取り、香
花を挿して神前に供える。次に、集る児童たちは手に木刀をもって隊列を組み、結婚して
いながら子供のいない女性を木刀で打って、荷花蘭蜜と唱える。この婦人は、かならずそ
の年には身ごもって男児を生む」
この土地にて児童等が人の門を斗棒でたたき、嫁をだせ聟をだせと大声でさわぐのは、
右の風土記の俗習の遺りだろう。
以下は百樹の注釈である。
例の風土記に再び荊棘の条を取り香花神前に挿すというのは、餅花を神棚へ供ずること
を聞いて粥杖のことと混同して記したのではなかろうか。とすれば餅花も古い祝事である。
訳註:
この項目は、山東京伝が注釈したものを牧之が説明し、それに山東京伝の弟の山東京山が
130
注釈をつけるという複雑な構造である。
この項目の原題の「斎の神勧進」の「勧進」は、金品の寄進を願うことを意味する。ここで
も、子供たちが一応それを要求している。
○枕の草紙○狭衣○弁内侍:以上の三つの日記は、各々枕草子、狭衣物語、弁内侍日記で、
いずれも平安時代の作品だが、私は枕草子しか読んでいない。[諏訪邦夫訳]
○斎の神の祭
図斎の神の祭の情景
越の国で正月十五日に斎神のまつりというのは、所謂左義長である。唐土で爆竹という
唐人除夜の詩に、竹爆千門のひびき、燈が燃えてどの家も明るいという句があるから、か
の国では爆竹は大晦日の催しである。日本では正月十五日、清涼殿の御庭で青竹を焼き正
月の書始めをこの火に焼いて天に奉るのがやり方である。十八日にもまた竹をかざり扇を
結びつけ、同じ御庭で燃やすのを祝い事とするようだ。民間でもこれに習って、正月十五
日には正月に飾ったものをあつめて燃やす、これを左義長として昔から行っている。これ
を斎の神祭りともいい、これも古いことである。爆竹と左義長の故事は、俳諧の歳時記の
年浪草に諸書を引用して詳しく述べている。
吾が郡中で、小千谷は人家千戸以上の豊かな場所で、それだけ斎の神の(斎あるいは幸
とも) まつりも盛大である。この祭りは、町毎におのおの毎年決まっている場所があり、
その場所の雪をふみかため、直径三間(5.5 メートル)ほどで高さ六七尺の円い壇を雪で
作り、これに二箇所の階段をやはり雪でつくり、里俗名では城と呼ぶ。壇の中央に杉のな
ま木をたてて柱とし、正月かざったものを何でもこの柱にむすびつけ積みあげて、しめ縄
131
を上からむすんで蓑のようにつくり、萱を加えてかたちをつくる。この頂上に大根注連と
いい左右に開いた扇をつけて飛鳥の状を作りつける。壇の上には席を備えて神酒を献上し、
町の長が礼服をつけて参拝し、村の繁昌と幸福をいのる。これが終わると清めた火を四隅
から移し、油滓などを加えて火がうつり易いようにしておくので、炎々と燃えあがり、こ
の火で餅を焼いて食うと、病気になりにくいと昔から言い伝えている。これが爆竹左義長
で、他の土地でも行う。人から聞いた話では、百年くらい前までは江戸でも行ったが、火
災を恐れて禁令が出て中止になったという。
さてまた、おんべという物を作ってこの左義長にかざして火をうつらせ焼くのを祝事と
する。おんべは、御幣の訛りである。作り方は白紙と色紙とを数百枚つきあはせたものを
細い幣束のようにきりさげ、
末端には扇の地紙の形を切残しておく。これを数千あつめて、
青竹に結ぶ。大小長短は作る家の勝手で、大きいものはもちろん自慢になる。棹の末に扇
の開いたのを四ツ集めて、扇には家の紋などを描き、色紙で作るから美しい。これを作っ
て、それを自宅の門へ建てておくのは五月の幟のあつかいである。十五日になると例の場
所へもってゆき、左義長にかざして焼捨てるのを祝いとして楽しむ。観る人も群をなすの
は勿論、ことが終わるとあちこちで祭りの酒宴をひらく。みな国君盛徳のお蔭である。こ
の左義長行事は、他所にもあるけれども何と言っても小千谷のが盛大だ。
ここも以下は百樹の注釈である。
私が息子の京水を連れて越後に旅した時、八月にこの小千谷の人岩淵氏(牧之老人の親
族である) の家に実に十四日もお世話になった。あるじの嗣子は二十四、五歳くらいで、
号を岩居といい書の名人で、私は大変な厚遇を受けた。小千谷は北越第一の町で、商家が
立ち並び何でも揃っていた。海からの距離も僅か七里(28 キロ)だから魚類も乏しくはな
い。私が塩沢にいたのは四十日ほどだが、塩沢は海から遠いので夏は海魚に乏しく、江戸
者の私が魚肉を四十日も摂れなかったが、小千谷にきてやっと生鯛が食えてもちろん美味
だった。またすでに鮭の時期で、小千谷の前の川は海に流れ込む大河だから、今捕ったも
のをすぐに調理するので、その味は江戸以上である。ある時、鮭をてんぶらという物にし
て出してくれた。
私が岩居にむかって、これそこの土地では名を何とよぶかと質問すると、
岩居氏はテンプラだという。しかし、自分(岩居氏)は長年この名前の意味がわからず、
古老にもたずねたが誰も知らないので、先生(百樹)の説を伺いたいと言う。私は、とり
あえず先にテンプラを食ってから、名前の由来を話そうなどといいながら、鮭のてんぷら
を飽きるほどに食った。
訳註:
左義長(さぎちょう)
:小正月の火祭りの行事を指す。「三毬杖」とも書いて、やはり「さぎ
ちょう」と読む。要するに、杖をたてて場をつくり、正月の松飾りなどを燃やす祭り。
小千谷と塩沢:海までの距離は、小千谷からは柏崎へ道がついて 28 キロである。小千谷か
ら塩沢へは、直線距離では小千谷⇔柏崎くらいだが、実際の道は魚野川沿いで 1.5 倍くら
いあるだろうから、海からの距離は 70 キロくらいだろうか。
132
○「てんぶら」の語の語源:山東京伝の命名の自慢
岩居に話したのは以下の事柄である。
今から五十年余り前天明の初年、大阪で家僕を四五人もつかうほどの大家の次男で二十
七、八歳ばかりの利助というものがいた。2 歳年上の芸者をつれて出奔し、江戸に出てき
て私の家( 京橋南街第一番地)の向いの裏屋に住んでいた。常に出入して家僕のように走
り使いなどさせていたが、花柳界に身をおいただけに話がおもしろく小才も効いてよく用
が足りた。よくできるが金がなくて気の毒だと、亡兄(山東京伝)が世間話をしていた。
その利助がある日言うには、江戸には胡麻揚の辻売は多いが、大阪にはつけあげという
魚肉の揚げ物があってとても旨い。江戸には魚のつけあげを夜店で売る人はいないから、
私はこいつを売ってやろうと思うがご意見を伺いたいという。亡兄 京伝 がいうには、そ
いつは素晴らしい思いつきだ。一応やってみろとその場で調理させると、実に美味い。利
助がいうには、これを街角の夜みせで売りたいが、その行灯に「魚のごま揚げ」と書くの
は回りくどい、何か名をつけて下さいと頼んだ。亡兄はしばらく考えてから筆をとって天
麩羅と書いてみせると、利助は腑に落ちない顔で天麩羅とはどういう意味かと訊く。亡兄
はにっこり笑って、貴殿は天下の浪人者ではないか、ぶらりと江戸へきて売るために創る
のだから天ふらだ、これに麩羅といふ字を当てたが麩は小麦の粉でつくり、羅はうすもの
とよむ字だ。小麦粉をうすくかけたといい意味だと冗談を云うと、利助も酒落た男で、天
竺浪人のぶらつきだから天ふらはおもしろいとよろこび、やがて店をだす時あんどんを持
ってきて字を書いて欲しいといので、私が子供の字で天麩羅と大書して与えた。このてん
ぷらが、一ツ四銭で毎夜うりきれるようになった。一月もたたないうちに、近辺のあちこ
ちでテンプラの夜店が出て、今では天麩羅の名が世間に広まり、この小千谷までテンプラ
の名を聞くとは実に愉快だ。しかし、この天ぷらというのが、京伝翁が名づけ親で利助が
売りはじめたとはさすがの大学者大先生も知らないだろう、てんぷらの講釈ができるのは
世の中で私一人だと冗談をいうと、岩居も手をうって楽しく笑った。
先年、このてんぷらの話を友人の静廬翁に話すと、翁はさすがに和漢の博達時鳴の知識
人で、その翁の話では、事物紺珠 明人黄一正作廿四巻 夷食の部にてんぷらに似た名があ
るというので、その本を借りて読んでみると、○塔不刺とあって注に○葱○椒○油○醤を
煮て、後から鴨か鶏か鵞鳥をいれ、とろ火でゆっくり炊くとあった。蟹をあぶらげにする
とも書いてある。
○煉羊羹の起原
さて天麩羅が広まる経緯に似ている事があるので、ついでに記しておく。
橘菴漫筆に 享和元年京の田仲宜作「京師下河原に佐野屋嘉兵衛というもの、享保年中長
崎より上京して初めて大碗十二の食卓を料理して弘めた。これが、京師浪花に卓袱(しっ
ぽく)料理の元祖だという。当時、嘉兵衛の娘さんだった人が老婆となって近頃まで存命
で、それが今の佐野屋の元祖である。大阪で卓袱料理はあれこれ数多く広まったが、野堂
133
町の貴徳斎ほど久しく続いている例はない」とある。
岩居がてんぷらをふるまった夜、その友蓉岳が来て、桜屋という菓子と、私が酒を飲ま
ないのを聞いて自家製といって煉羊羮も持参し、味は江戸と同じであった。私は越後で練
羊羹を賞味して大いに感嘆して、思い出して岩居に話した。
この練羊羹も近年のもので、ふつうの羊羹にくらべると味は数段上である。私が幼かっ
た頃は、普通の羊羹も一般の人たちの口には入らなかったが、江戸からこれほど遠いこの
地でも出来合いの練羊羹があるのは実に大平のお蔭だというと、蓉岳も書画を好み文筆に
も熟達している好事家だから膝をすすめ、菓子は私の家の業務だが、練羊羹を近来のもの
という由来をお聞かせくださいという。私の話の内容はこうである。
寛政のはじめ、江戸日本橋通一町目横町で字を式部小路といふ所に、喜太郎という夫婦
が丁稚一人をつかい菓子屋とは見えない格子造で、特に看板もかけずに仕事をしていた。
この喜太郎、以前は貴人に御菓子を調進する家の菓子杜氏だったという。奉公をやめてこ
こに住み、特別製の菓子だけをつくって茶人や富家だけを対象に商売をしていた。さてこ
の者が工夫して、はじめて煉羊羮と名づけて売ったところ(羊羮の本字は羊肝だと事芸苑
日鈔に書いてある) 喜太郎の練羊羹として人々が珍しがってもてはやすようになった。し
かし、一人一手で作るのだから、今日は売り切れといわれて、使いのものは重箱を空のま
ま帰る事が多かった。ここまでが、私が見たところである。こうして一二年の間に菓子屋
二軒で喜太郎をまねて練羊羹を製造し、それも珍しかったので今では江戸の菓子屋はもち
ろん、どんどんひろまってこの小千谷にもあるのだから、にぎやかな都会なら必ずあるは
ずで、他の諸国にもあるだろう。そういうと、蓉岳は笑って小倉羮もあり八重なりかんも
あり、あすはお持ちしましょうといった。これらの事柄は、雪譜とは無関係で不似合いだ
が、小千谷の話で思い出したので話題として記しておく。なお近古食類の起原がいろいろ
あるが、別に書いた食物沿革考に昔からのことを挙げて書いたので、ここには載せない。
○雪中の狼:空腹オオカミの狼藉
図 狼が家を襲って数人を殺した情景である。
134
初編にも書いたが、この土地の獣は冬になると雪の少ない土地に移動避難する。雪が深
いと食物が乏しいからである。春になれば、もとの棲家にかえる。けれども雪がまだ消え
ないから食物は不足で、ときには夜中に人家に近かよって犬をやっつけ、人を襲うことも
あるが、もちろん山村のことである。里には人が多いから、人をおそれて来ないのだろう。
雪の中で穴に住むのは熊だけである。熊は手に蟻をなすりつけ、これを舐めて穴に籠る際
の食糧とすると言い伝えられている。
この話は私の住む魚沼郡の山村の事件だが、不吉な内容なので地名と人名ははぶいてお
く。貧しい農夫がおり、老母と妻と十三歳の女児と七歳の男児がいた。この農夫は、篤実
で母によくつかえていた。ある年の二月はじめ、用事で二里ほどの所へ出かけた。みな山
道である。母は、山の中は用心が必要だから鉄砲を持っていけという、たしかにそうだと
鉄砲をもって出かけた。この点は、農業の一方で猟をもする土地の習慣である。予想以上
に時間がかかり、日暮れの帰りみち、やがて自分の村へ入ろうとする雪の山蔭に狼が物を
喰っているのを見つけ、ねらって火蓋をきるとあやまたず打ち倒した。近ずいてみると、
食っていたのは人の足であった。農夫は大変驚き、さては狼が村近くやってきたと、我家
を気にして狼はそのまま放置して急いで戻ると、家の前の雪が血で赤く染まっている。そ
れでますます驚き、急いで家に入ると狼が二疋逃げ去った。あたりをみると、母は囲炉裏
の前であちこち食い散らされ、片足は食い取られていた。妻は窓のところで喰い伏せられ
血で真っ赤に染まり、その傍にはちぢみの糸が踏み散らかされている。七ツの男の子は庭
におり、死骸は半ば喰われてしまっていた。妻は少し息があって夫をみると起きあがろう
としたが力がでず、狼が・・・・と言っただけで倒れてしまった。農夫は夢とも現実とも
わからなくなり、
鉄砲をも持って立ち上がりかけたが、それにしても娘はと思っていると、
135
泣き声で呼びながら床の下から這い出して親にすがりつき声をあげて泣き、親も娘を抱い
て泣いたことであった。
山中の家は住居も個々に離れており、この事件に気付いたものは他にいなかった。農夫
はほんのわずかな時間で六十歳の母、三十歳の妻、七歳の子を狼の牙で殺され、歯を食い
しばって口惜しがり、親子二人で、繰り言を言っては声をあげて泣いた。村の人たちも、
ようやくききつけてきて、この惨状をみて驚き叫びながら少しずつ集まった。娘に様子を
訊くと、窓をやぶって狼が三疋走りこんできたが、自分は竈で火をたいていたのですぐに
床の下へにげ込み、お婆さんとお母さんと弟が泣く声をきいて念仏を唱えていたと言う。
一部始終をしかるべき所へつげるべく人をはしらせ、次の日の夕ぐれには棺一ツに妻と童
をおさめ、母の棺と二ツ野辺おくりをしたので、涙をそそがないものはなかったという。
たまたま母が鉄砲をもてといったので、母の片足を雪の山蔭で食っていた狼は撃ち殺し
て母の敵はとったものの、
二疋を打ち漏らしたのはどうにも口惜かしかったろう。
この後、
農夫は家を棄て、娘をつれて順礼に出たという。最近のことで、他の人たちもよく知って
いる話である。
ここも以下は百樹の注釈である。
日本の狼は化けるという話がないが、中国の狼は化けることが多く、狐と似ている。宋
人李昉等が太平広記畜獣の部に 四百四十二巻 狼が美人に化けて少年と通じ、あるいは人
の母にばけて七十歳になってはじめて正体をあらわして逃げさり、あるいは人間の父を喰
殺してその父に化けて何年も経過し、ある時その子が山に入って桑を採っていると、狼が
きて人間のように立って裾を咥えたので斧で狼の額を切り、狼がにげ去ったので家にかえ
ると、父の額に傷の痕があるをみて狼とさとり、殺してみると果して老狼であった。
一応は親を殺したことになるので、自ら役所に名乗りでてことの次第をつげたことなど
○広異記○宣室志を引用して書いてある。
性悪のことに狼の字をあてるものが多い。残忍なのを豺狼の心といい、声のおそろしい
様を狼声といい、毒の甚しきを狼毒といい、ことの猥(みだり)なのを狼々、反相のある
人を狼顔、義に乏しいのを中山狼、ほしいままに食うことを狼食、激しい病を狼疾といい、
ほかにも狼籍、狼戻、狼狽など、皆おおかみになぞらえて言う単語である。
文海披沙によると、
獣の中で最も憎らしいのは狼である。しかし私がひそかに考えるに、
狼自体はたしかに狼で、しかし少なくとも狼の形をしている。しかし、人間でありながら
狼なのは狼の形はしていなくて、見かけ上は狼とわからない。それで狼の毒を出す人がい
る。人間でいて狼なのは本物の狼よりも恐ろしく、もっと悪い。篤実を外面として、奸慾
を隠すのを狼者といい、嫁をいびるのを狼ばばあと言う。狼心をたくみにかくすかも知れ
ないが、識者の心眼は明鏡である。人間の狼は、恐ろしく恥ずべきものだ。
二編 巻二 終り
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北越雪譜 二編巻三 一覧
○鳥追櫓(とりおいやぐら)
○雪霜
○地獄谷の火:天然ガスを浴場と遊技場に
○越後の人物
○無縫塔:石が僧侶の死を予言する話
○北高和尚:化け物退治の豪傑
○年賀の歌:巡礼の見事な趣向
○逃入村(にごろむら)の不思議:菅原道真と藤原時平
○田代の七ツ釜:絶壁を造る不思議な岩石群
○鳥追櫓(とりおいやぐら)
図鳥追櫓の絵。絵のお蔭でイメージがはっきりする。
農家や市中で正月の行事に、鳥追いをする。他の土地にもあり、内容は場所によりいろ
いろ異なると本に載っている。江戸の鳥追いは、非人(ひにん)の婦女が音曲するのを女
太夫が木綿の衣服を美しく着こなし、顔に化粧して編笠をかむり、三味線や胡弓など鳴ら
し、めでたい歌をおもしろくうたい、家の門々に立って金銭を乞うものをいう。元日から
はじまり、松の内までが原則だが、松の内をすぎても行う所もあった。
越後の場合、正月十五日以後を小正月といい、その小正月に鳥追櫓をつくる。大量の雪
をあらかじめ年末から取り分け、この雪を使って高さ八尺から一丈(2.4~3 メートル)の
137
高さに雪の山つまり櫓(やぐら)を立てる。壊れないように底は広く、先細りにつくる。
さらに昇降用の階段も雪でつくり、頂上は平らにして松竹を四隅に立て、しめ縄を張りわ
たす。広さは決まっていない。集まれるようにむしろを敷きならべ、子供たちが集まって
物を喰ったりして遊び、鳥追歌をうたう。
鳥追歌の例は以下のようである。
「あのとりは、どこから追ってきた、信濃の国から追ってきた、何をもって追ってきた、
柴をぬくべて追ってきた、柴のとりも樺のとりも、立ちやがれ ほいほい引」
「おらが裏の早苗田のとりは、追っても追っても雀、鳩、立ちやがれほいほい引」
あるいは、例の掘揚という雪をすてた山に上に、雪で四角い堂を作り、雪で物をおく棚
をつくり、むしろを敷き、鍋・薬缶・お膳・お椀・杯などを雪の棚におき、物を煮焼きし、
どぶろくを飲み、子供たちは大勢で雪の堂(訛りで「いきんだう」
)で遊び、声をそろえて
鳥追歌をうたい、終日出入りして遊びくらす。雪をつかったこんな遊戯は、暖国にはない
正月である。この鳥追櫓を部落のあちこちに作り、子供たちは群れてあそぶ。
訳註:
非人:江戸時代に、士農工商の下におかれた最下層の身分。人のいやがる仕事に従事した。
「穢多(えた)
」や「部落民」などもこれ。転じて、乞食や現代のホームレスを指すか。
鳥追歌:この歌の歌詞は意味がわからない。まあ、こういうのは伝承されているうちに変
形してわかりにくくなるものではある。[諏訪邦夫訳]
○雪霜
前にも述べたように、越後は北国でも第一の雪国である。中でも魚沼・古志・頸城の三
郡は雪が多い。毎年一丈(3 メートル)以上の雪の中で冬を暮らすが、寒気自体は江戸と
さほど変わりはないと、江戸で寒中を過ごした人は述べている。霜は五雑組に載っている
とおり、露が固まったもので陰である。一方雪は、雲から生まれるので陽だというのはわ
かりやすい。雪中でも、夏のうちに準備として種を蒔いた野菜も雪の下で芽を出して役立
つ。遅い時と早い時があるが、この点も暖国と特に変わりはない。遅いとは、梅の花の咲
くのが三月の始めで、瓜や茄子の初物が出るのは五月である。山中になると、山桜の盛り
は四月の末から五月になる所さえある。
○地獄谷の火:天然ガスを浴場と遊技場に
前編上の巻の雪中の火の項目で、魚沼郡六日町の西の山手に地中から火が出て燃えるこ
とを述べた。そこでは、地獄谷の火の話は述べなかったので、それを記述する。
そもそもこの越後で名高い七不思議の一つとして数えるものに、
蒲原郡の如法寺村百姓荘
右エ門と七兵衛孫六の家で地面から生ずる火がある。この家にある地中から燃え出る火は
広く知られているが、魚沼郡小千谷のはずれの地獄谷の火は、これよりも盛大である。中
国でもこういうのを火井と言い、井戸から火がでる意味の命名である。最近、この地嶽谷
に家を作り、地下から出る火を使って湯をわかして客を入浴させ、夏から秋のはじめまで
客が多数訪れるようになった。この種の火井は他の土地にはなく、越後だけに多い。先年、
138
蒲原郡内のある家で井戸を掘ったところ、その夜医師が来て井戸を掘ったと聞き、家に帰
る時提灯を井戸の中へ入れ、その火で井戸の中を見て退去したところ、井戸の中から突然
火が出て、火勢が強くなって燃えあがり、近隣のものたちが火事だといって駆けつけて、
井戸の中から火が出るのを見て、こんな井戸を掘ったからこんな火が出たと村の人たちが
口々に主人を罵って恨み、当の主人も火をおそれて井戸を埋めてしまった。
このように土地から生じる火を陰火と言う。例の如法寺村の陰火も微風の気が出てロウ
ソクの火をかざすと、それに応じて燃える。火をつけなければ燃えない。寛文の昔、如法
寺村の荘右エ門の庭で鞴(ふいご)をつかった時から燃えはじめたという。前にいう井中
の火も、医者が提灯を井戸の中へ下げて、その陽火で燃え出したのだろう。
さて、頸城郡の海辺に能生(のう)宿という場所があり、これは北陸道の正規の公の街
道の宿場である。この宿から二里ほど山手に入ると、間瀬口という村があり、ここの農家
で地下から火が出て如法寺村の地下の火と同じだという。付近で用水の乏しい所では、旱
魃の際には山に出かけて井戸を横に掘ってそこから水を手に入れるという。ところが、あ
る時に井戸を掘って横に進んだ時、奥が暗いのをてらそうと松明を使ったところ、この火
が燃えあがり、人が焼死したという。これらの事を考えてみると、越後には地面から火が
出る火脉の地が多く、たまたま火をつけないから燃えないでいるだけの例も多そうだ。
ここからは百樹、山東京山の注釈である。
私が小千谷にいた時、岩居(がんきょ)氏が地獄谷の火を見せようと、友人五人を連れ
酒食の用意を従僕二人に持たせ、
自分と息子の京水と同行十人で小千谷を出て西に向かい、
●新保村●藪川新田などの村を通って一宮という村に着いた。山間の道は曲がりくねり、
ここまで一里半ほどあった。この日は特に快晴で、村落の秋景色が見事で目を見張るよう
だった。さて山一ツを越えると地獄谷だった。上からみると、茅屋が一つあって、これが
入浴場であった。私たちが坂の中間まできた時、茅屋の楼上に美女が四五人出て、おのお
の手すりに寄り掛かって、はるかにこっちを指さして笑い、名前を呼び手を叩き、手招き
している。周りは全部山で大木が堂々としている中でこんな美人を見て愕然とし、狸か狐
かなどというと、岩居が友だちと顔を見合わせて、手をたたいて笑っている。これは小千
谷の下た町という所の酒場に居る酌婦の芸者たちで、岩居が友人と計画してこっそり招い
て私たちを楽しませようと企んだのだった。要するに、化かしたのはキツネでなくて岩居
が一杯食わせたのである。地獄谷に下り皆で楼にのぼった。岩居は自分と京水を連れて、
例の火をみせてくれた。
そもそもこの谷は山桜が多くて桜谷と呼んでいたが、地火が出るので四五十歩(一歩は
六尺)四方(25~30m 四方、600~900m2、 6~9 アール)を開削して平坦地とし、地火を借
りて浴室と遊び場にしたという。
桜谷と呼んでいたところに火が出て地獄と変名したので、
花は残念がっているだろう。
問題の火を見ると、浅い井戸を一つ作ってそこから火が燃えている。燃え方は普通の風
139
呂屋の火よりも激しい。上に釜があり一間四方の湯槽があり、細い筧があって後ろの山の
清水を引いて湯槽に入れている。湯槽の四方に、湯が溢れている。この湯はぬるくも熱く
もなく、地中から出る天然の火が尽きない限りこの湯も尽きることはない。見るからに清
潔な事も言うまでもない。風呂場のとなりに厨房があり、かまどにもこの火を引いて炊事
をして、薪の代わりに使う。次の間があり、床の下から竹筒を出し、口に一寸ほど銅をは
めて火を出している。上に自在鉤をさげ、酒の燗をし茶をいれ、夜は燈火にもつかう。火
をよく眺めると、銅の筒から一寸ほど離れて燃えている。扇であおぐと陽火のように消え
る。消えた状態で筒の口に手をあてると、少し風が出ているだけだが、そこにツケギの火
をかざすと、再び立派に燃えて前と同じになった。主の翁が言うには、この火は夜のほう
が昼より烈しく、人の顔が青くみえるという。翁の妻が、水の中で燃える火を見せようと
いって、湯屋の裏手の僅かばかりの山の田に行き、田の水の中に少し湧いているところに
ツケギの火をかざすと、水中から火が燃え上がった。老婆の話では、火のもえる場所は他
にもあり、夜にはあちこちで火をもやすから獣がこないという。私のように江戸のものに
は、実に奇妙である。唐土ではこれを火井と呼び、博物志や瑯琊代酔(ろうやだいすい)
に書いている雲台山の火井もこの地獄谷の火と同じだろうが、壮大な点ではこの谷の火が
勝っている。唐土と日本の双方を検討して、火井としては最高だろう。今回の越後旅行で、
特別の観光だった。唐土で火井のある所は北の蜀地に属しており、日本の火井も北の越後
にあるわけで、自然の地勢によるのだろう。
さて芸者が一人、欄干に出てしきりに岩居を呼ぶので、皆で楼にのぼった。自分は京水
と一緒に湯に入った。楼上では早くも三弦を鳴らしている。湯から出て楼にのぼると、酒
が出て既に狼藉状態である。美しい芸者たちが袖をつらね、手をかざし三味線を鳴らし、
美しく歌う。外面如菩薩の様子が興を添えて、地獄谷がたちまち極楽世界となった。この
芸者たちの主人もここにいて、雇っている料理人につくらせた魚菜を調味させて宴を開い
た。この主人は俗人だが雅の心があり文人との交際を好むので、この日も自分と面識した
いと岩居に約束してわざわざここへ来たという。
自分が反っ歯なので、
自ら双坡楼と号し、
彼の洒落気分はこれだけでもわかる。飄逸酒落で人からも愛される上に、家の前後に坡(さ
か:坂)があるので、双坡の字をつけたのも面白い。この双坡楼が、扇を出して自分に句
を頼んできた。芸者たちもそれぞれ扇を出した。そこで、京水が画を描き、自分が即興に
何か書いた。これを見て岩居をはじめ、参加者それぞれが壁に句を題し、さらに風雅の興
ともなった。
日も少し傾いたのでそろそろ帰ろうということになり、芸者たちは草鞋(わらじ)で来
ていてどれがわたしのだとか、これがとかあれがとか履き捨て草鞋のあれこれを争って履
き、みな酔っぱらって騒々しく歩き出した。小川がある所では、おしゃれをした芸妓たち
が着物の裾をからげて尻をはしょって渉る。花姿柳腰の美人等が、わらじを履いて川をわ
たるなどは自分のように江戸の目には特別珍しく一興だった。酔った客が甚句を歌うと、
酔った芸妓が歩きながら踊る。古縄をみつけて蛇だぞと脅すと、脅された芸妓はびっくり
して片足を泥田へふみこんで皆で大笑いする。この途はすべて農業通路だから、途中には
140
茶店はなく、半分きたところで古い神社に入ってやっと休憩した。芸者が一人、社の後ろ
へいって戻ってきて、石の水盤にわずかに残る水を掬って手を洗ったのは、私用だったの
だろう。そのまま樹の下に立っている石地蔵菩薩の前に並びたちながら、懐中から鏡を出
して白粉を塗りなおし、口唇もさして化粧を直していた。このとき、化粧道具をちょっと
石仏の頭に置いた。外面女菩薩内心如夜叉とのいましめもあり、菩薩様はどう思ったにせ
よもったいないことであった。日もすでに七つ下り(午後 4 時過ぎ)になったので、どん
どん歩いて小千谷へ戻った。この紀行は別に本に書き、自分の北越旅談に入れておいた。
(ここまで百樹、山東京山の注釈)
訳註
能生(のう)
:現在も北陸本線に同名の駅がある。間瀬口村はみつからなかった。
地獄谷:こちら現存して、「霧の宿」というのがある。他の地名は不明だった。
○越後の人物
板額女は、加治明神山の城主長太郎祐森の夫人で、古志郡の生まれである。酒顛子(酒
呑童子)と言えば三歳の小児も知っている話だが、蒲原郡沙子塚村の生まれで、今でも屋
敷跡が残っている。始めは雲上山国上寺の行法印の弟子であった。玄翁和尚は、伊夜彦山
の麓にある箭矧(やはぎ)村の生まれである。近世になると徳僧や高儒や和歌や書画の人
がないわけでもないが、遠く越の国を超えて全国に有名になった人は少ない。画人呉俊明
は、のち江戸に出たので有名になった。
近年の相撲の力士では、越海・鷲ヶ浜が新潟の生まれで、九紋竜は高田今町の生まれ、
関戸は次第浜の生まれである。ふつうの人で特に大力なのは、頸城郡の中野善右エ門、立
石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門などが無双の力自慢で有名になっている。また鎧
潟に近い横戸村の長徳寺、谷根村の行光寺も怪力で有名である。ここに述べた人たちは、
誰でも釣り鐘を一人で楽々と掛けたりはずしたりするほどの怪力の持ち主である。
一方、孝子としては古くは村上小次郎、新発田の菊女、頸城郡の僧知良、最近では三嶋
郡村田村の百合女(百姓伊兵衛のむすめ)
、新発田荒川村門左エ門(百姓丑之介がせがれ)
、
塚原の豆腐売の春松(鎌介がせがれ)、蒲原郡釈迦塚村百姓新六など、いずれも孝子の名が
一国に高かった。現存する人々もいそうである。
ここからは百樹、山東京山の注釈である。
越後に行ったら板額や酒顛童子の旧跡をたずね、新潟を一覧し、有名な神仏を拝み、寺
泊に残る順徳天皇の鳳跡、義経、夢窓国師、法然上人、日蓮上人、為兼卿、遊女初君等の
古跡など、訪れたいと考えていた場所は多かった。しかし実際には、越後に着いてからは
時勢の流れが悪く、時が過ぎるにつれて景気が悪くなり、穀物の価格が日々高騰し、気風
も落ち着かなくなった。家に戻りたくなって風雅の気持ちを失い、古跡があっても通りす
ぎて、ごく平凡な旅人となり、聞いていた文雅の方々を訪れなかったのは、今から思うと
遺憾至極である。ああ、年とって寿命の乏しくなるのはどうしようもない。
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○無縫塔:石が僧侶の死を予言する話
蒲原郡村松から東一里の来迎村に寺があり、永谷寺といい曹洞宗である。この寺の近く
に早出川と言う川がある。寺から八町(800 メートル)ほど下に観音堂があり、その下を
流れる所を東光が淵と呼ぶ。僧が住職となって永谷寺に奉職すると、この淵へ血脉を投げ
入れることになっている。さてこの永谷寺の住職が亡くなる前年には、この淵から墓の石
として使うのに具合のよい丸い自然石が一ツ岸に現れて、これを無縫塔と名づける。この
石が出ると、翌年には必ず住職が病死する定めで、昔から一度も例外がない。この墓石が、
大きさなどで住職の気持ちに合致せず淵に返却すると、その夜に淵にはげしい波がたち住
職の好む石を淵が自然に排出したことも何度もある。先年、ボンクラな僧が住職になり、
この石を見て死を恐れて寺を離れたが、結局翌年他国で病死したという。
推測だが、この淵には霊が住んで死を暗示するのだろう。友人北洋主人は、蒲原郡見附
の旧家の勉強好きで字も上手な人だが、この寺について話してくれた。寺は、本堂間口十
間、右に庫裏、左に八間×五間の禅堂があり、本堂に登っていく坂の左側に鐘楼があり、
禅堂の裏側に蓮池がある。その上に坂があって、登ると住職の墓所がある。問題の淵から
出た円石を、
人が作った石の脚つき台にのせて墓としている。
中央のものが寺の開祖ので、
左右に合計二十三基並んでいる。大きいのは直径一尺二三寸(36~39 センチ)で、六寸~
九寸(18~27 センチ)のもあり、大きさは和尚の徳に応じて決まる。台の高さはいずれも
一尺ほどである。
例の淵に霊があるというのは、むかし永光寺のほとりに貴人某が住んで、
奥方が色恋沙汰で夫に嫉妬して恨み、東光が淵に身を沈め、成仏できずに他人まで苦しめ
ていたのを、永光寺を開山した僧(名はききもらした)が血脉をこの淵に沈めて迷ってい
る霊を教え導いた。それで悪霊は無事に死の世界へと旅立ち、その礼としてあの墓石を淵
に放出して死期を示すようになったという。故に、現在も住職に就任する僧侶は、淵に血
脉を投げ入れるよう寺の教えとしているという。
さて越後の隣国信濃(長野県)にも、無縫塔がある。近江の石亭が雲根志の前編の異の
部で解説しているとおり、信濃国高井郡渋湯村横井温泉寺の前に星河という幅三町の大河
があり、温泉寺の住僧が亡くなる前年に、この河に高さ二尺ほどの自然石でできた美しい
四角の石塔が流れきた。彫刻したようにも見えるが、天然物である。この石が出た時、土
地の人が温泉寺に知らせる習慣で、すると翌年必ず住職が亡くなる。そこで、そのしるし
にこの石を立てる。九代前より始まったが、代々九代の石塔は同石同様で少しも違わずに
並んでいる。ある年の住僧は、この塔が出た時に天を拝してこう祈った。「私は法華経を千
部読経する願をかけている。あと一年で満願になるので、どうか生命をあと一年延して欲
しい」と念じ、かの塔を川中の淵に投げこんだ。無事一年経過して千部読経の終了した月
に、例の石がまた川中にあらわれ、その翌年予定どおりに亡くなったという。その次の住
僧は、塔が出できた時に何のねがいもせず、ただ淵に投げ返した。何度投げてもすぐその
夜に石は出てしまい、
結局翌年病死したという。この辺ではこれを無帽塔と名づけている。
以上一条の全文、越後では永光寺、信濃では温泉寺、二つの現象がよく似ているのは奇怪
である。
142
以下は百樹、山東京山の注釈である。
牧之老人のこの草稿を見て、無縫塔の「縫」の字の意味が通じないので誤字ではないか
と手紙で問い合わせて訊いたが、無縫塔と書き伝えられていると確認した。雲根志には無
帽塔とあるが、無帽の字も意味が通じない。おそらくは「無望塔」ではなかろうか。住僧
の心には、死にたくないから、無望塔なのだろう。何の根拠もない推測を一応述べて、ど
なたか博識の方が確実な論拠を提出されるのを期待する。
訳註:
永谷寺と早出川:新津から分かれた磐越西線の最初の大きな駅が五泉で、近くにこの永谷
寺と早出川が現存する。早出川は阿賀野川の支流である。
永谷寺と永光寺:この文章は「永谷寺」とはじまって、途中で「永光寺」に入れ替わってい
る。永谷寺は現存するが、永光寺はこの付近にはみつからない。文章の内容からは、寺が
二つある理由はなく、永光寺は書き違えと推測するが、手元の資料はどれにも二種類書い
てある。
血脉(けちみゃく)
:仏教で教えをとく文書の一つ。
[諏訪邦夫訳]
○北高和尚:化け物退治の豪傑
図 北高和尚が化け猫を退治している情景の絵。
魚沼郡雲洞村雲洞庵は、越後国では四大寺の一つである。ここで四大寺とは滝谷の慈光
寺(所在は村松)
、村上の耕雲寺、伊弥彦の指月寺、雲洞村の雲洞庵の四つを指す。十三世
通天和尚は霜台君(上杉謙信のこと)の縁続きで、高徳の名が高く今も言い伝えがのこっ
ている。景勝君(謙信の養子)もこの寺で学んだという。一国の大寺として、古文書や宝
物も多く残り、その中に火車落の袈裟というものがある。香染の麻らしいが、血の痕がの
こっている。火車落と名づけて宝物とする理由は、以下のとおりである。
143
むかし天正の頃、雲洞庵の十世で北高和尚という学徳を備えた方がいた。この寺に近い
三郎丸村の農家で死者が出たが、冬で雪が降りつづき吹雪もやまず、晴をまって数日葬式
をのばしていたが晴れないので強行した。旦那寺なので北高和尚を迎えて棺を出し、親族
はもちろん列席の人々はみな蓑笠で雪をしのぎ野辺送りした。雪の道が半ばにきた時、猛
風がおこり、黒雲が空に満ちて闇夜のようになり、どこからともなく火の玉が飛んで棺の
上を覆った。火の中に、尾は二股に裂けた巨大な大猫が牙をならし鼻から火を噴き棺を略
奪しようとした。人々は棺を捨て、転んだり滑ったり逃げまどった。この時、北高和尚は
少しも恐れず、口に呪文を唱えて大声で一喝し、鉄如意をふるって飛びつく大猫の頭を打
った。すると猫の額が破れて血がほとばしって衣をけがしながら、妖怪はただちに逃げ去
り、風もやみ雪もはれて葬式は無事に終わったと寺の旧記に残っている。この時に着てい
たものを、火車落の法衣として今も伝えている。
以下は百樹、山東京山の注釈。
私が越の国に旅して塩沢にいた時、牧之老人と一緒に塩沢から一里離れた雲洞庵に行き、
寺の住職と話して、この火車落しの袈裟やその外の宝物古文書の類を拝観した。さすがに
大寺で、祈禱二字を大書した竪額は順徳上皇のお筆だという。佐渡へ流される際に書いた
ものだろう。門前に直江山城守という制札があり、放火私伐を禁ずる意味の文である。庭
の池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守刃死の古墳が在るのを、先年牧之老人が施主とな
って新たに墓碑を建たという。不朽の善行である。本文に火車というのは所謂夜叉で、夜
叉の怪は中国の書物にも多数載っている。
訳註
144
雲洞庵:この場所は、百樹の注釈にもあるように塩沢から近く魚野川の右岸にあり、ほん
の数キロの距離に現存する。[諏訪邦夫訳]
○年賀の歌:巡礼の見事な趣向
私が六十一歳になって還暦を迎えた時、年賀の書画を集めた。越後はもちろん、諸国の
文人や京都・大阪・江戸の名家・妓女・俳優・来舶清人の作品も入手した。みな牧之に贈
と記されている。
人より人ともとめて結局千幅ほどになり、綴じて帖にして所蔵している。
ある時、虫干しのため店につづく座敷の障子をひらき、年賀の帖を開いて並べておいた所
へ友人が来て、年賀の作意書画の評など話した際、順礼の夫婦が軒下に立った。当地の表
現では、
この軒下を廊下ともいう。
私の家では常に草鞋をつくらせて巡礼者に施しており、
この時は小銭もあたえたが、この順礼の翁は立ちさらず散らかっている年賀の帖を気にす
るように見入りながらこう述べた。およばずながら、私も順礼の下手な腰おれ(訳註)を
書かせていただきましょう、短冊を頂きたいと言う。乞食のような姿に似つかわしくなく
て納得できないまま、短冊と硯(すずり)を差し出すと、
三途川わたしは先へ百年も 君がむかいをとどめ申さん
五放舎
(私は先に三途川を渡っていきますが、これから百年もあなたが来ないように祈ります)
と記した筆のはこびは見事だった。年賀として、一風かわった趣向で、順礼に五放舎と戯
れた名もおもしろく、友人と共に驚き感嘆し、是非お泊りください、ゆっくりお話しした
いと、友人も一緒にすすめたけれど、巡礼はそのまま立ち去った。国は西国とだけ言って
いたが、どんなお方だったのだろうか。
訳者註:
来舶清人:江戸時代に中国から日本に往来していた人たち。船主でありながら、文人や書
画骨董などに詳しい人たちが多かったという。
腰をれ:
「下手な作品」ということを謙遜していう用語。
[諏訪邦夫訳]
○逃入村(にごろむら)の不思議:菅原道真と藤原時平
小千谷より一里あまりの山手に逃入村という場所があり、逃げ入りを里言葉で「にごろ」
と呼んでいる。この村に、大塚小塚という大小二ツの古墳が並んでいる。伝えによると大
きいほうは時平の塚で、小さいほうは時平の夫人の塚と言う。時平大臣夫婦の塚がこの土
地に所在する理由もなく、議論の余地もない俗説である。しかしながら、一ツ不思議な事
実を考えると、
時平にゆかりの人が越後に流されてこの土地で亡くなったのかも知れない。
不思議とはこうである。昔からこの逃入村の人は、文字を習うと天満宮の崇があるとさ
れ、一村全員文字の読み書きができず、いわゆる無筆である。他の土地に移って学習すれ
ば、崇りはない。しかし村に帰ると日が経つに連れて字を忘れ、終には無筆に戻ってしま
う。そこで文字が必要な時は、他の村の者にたのんで書いてもらう。またこの村の子ども
145
たちは、江戸土産に錦絵をもらった中に天満宮の絵があると、かならず神の崇りの兆しが
あったとの事件が発生している。
だから、この大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳と昔から言い伝えているのも、何か由縁が
あるのだろう。菅原道真が筑紫(福岡県)で亡くなったのは、延喜三年(903 年)二月廿
五日で、今から 915 年前である。
百樹の注:ここで今というのは、牧之老人がこれを書いた文政三年(1821 年)で、そこ
からは 915 年の昔である。それにしても、これほどの年月後に神霊の祟りなどがあるとは
おそるべきことで蔑ろにできない。
これに似たことがある。南谿の東遊記を見ると、南谿が東を旅して津軽に居た時、風雨
が六七日もつづくと、役人が丹後の人が居ないかと旅館毎にきびしく詮索していたので、
南谿が主人に理由を尋ねた。主人の話では、当国岩城はあの有名な安寿姫と対王丸の生国
で、だから昔の人がこの二人を岩城山(岩木山)の神に祭った社が今もある。
この兄弟は丹後(京都府北部)をさまよい、三庄太夫に苦しめられて丹後の人を忌み嫌
い、丹後の人がこの地を訪れると必ず大風雨になって何日も続く。丹後の人がこの土地の
境界から出れば風雨は治まるので、風雨の際は丹後の人がいないか捜すそうだ。南谿氏が
これに遭ったと記録している。この兄弟の父の岩城判官正氏が在京の時に讒言で家が亡び
たのは永保年中(1081-84 年)で、今から 750 年以上前である。兄弟の怨魂が今も消えて
いないとは、人知では説明できない。
百樹の注:安寿は対王の妻だと塩尻 22 巻には載っている。
なお、西遊記 前編によると、景清の墓は日向にあると世に知られている。共母の塚は
肥後国求麻の人吉の城下より五六里ほど東、切幡村にまつられている。この場所に景清の
娘の墓もあり、一村の氏神にまつる、この村は盲人を嫌い、盲人が他の場所から入ると必
ず崇りがある。景清は後に盲人になったので、母の霊が盲人を嫌うのが理由だと記してい
る。こんなのが、逃入村の不思議に似ている。けれども上の二ツは神社があって丹後の人
を嫌い、墓があって盲人をきらうのに対して、逃入村は墓がある故に天満宮の神霊がこの
土地を嫌うのだろう。そうすると、例の古墳はたしかに時平に縁のある人なのだろう。
以下は百樹、山東京山の注釈である。
旅行で小千谷にいた時、土地の人が逃入村のことを話して、例の古墳をご覧になるなら
ご案内しましょうと言ってくださった。天神様が嫌う所へ文墨の者である私が強いてゆく
理由もないので、話をきいただけで行かなかった。天神様といえば三歳の幼児も尊び、時
平はこの天神様を讒言した悪人として、
その悪業は昔から議論して歌舞妓狂言にも作られ、
婦女子も含めて広く知られるが、児童たちはその本当の話は知らない。このような小冊子
に天神様のことを書くのは畏れ多いが、逃入村との関係でここに記しておく。
146
菅原の本姓は土師氏で、土師の古人といったが、光仁天皇(奈良時代最後の天皇)の時
に、大和国菅原という所に住んで姓を菅原に改めた。天神菅原道真は、字は三、童名を阿
呼という。阿呼の名前には私も意見があるが、長くなるのではぶく。仁明天皇(在位は
833-850)に仕えた文章博士参議是善卿の第三子として、承和 12 年(845 年)に生れた。
七歳の時に紅梅をみて「梅の花 紅脂の色にぞ似たる哉 阿古が顔にもぬるべかりけり」と
詠み、十一歳の春に父君より月下梅という詩の題をもらうと、
「月輝如晴雪梅花似照星可憐
金鏡転庭上玉房馨」と即座に詠んでいる。祖父の清公や父の是善卿の学業を継ぎ、文芸と
武芸とに優れていた。
清和天皇の貞観元年(859 年)十五歳で元服し、四年に文章生に昇進し、下野(栃木県)
の権掾(ごんのじょう)になった。同十四年の 28 歳の時母が亡くなり、陽成天皇の元慶四
年(880 年)には父の是善卿も 69 歳で亡くなった。この時点で、道真は 41 歳である。
寛平四年(892 年)48 歳の時に、類聚国史二百巻を撰した。和歌は菅家御集一巻、詩文
は菅家文草十二巻同後草一巻があり、このうち後草は筑紫での作品で、現在も伝わってい
る。大納言公任卿が朗詠集に入れた菅家(道真)の詩に「送春不用動舟車唯別残鶯与落花
若使韶光知我意今宵旅宿在詩家」
(春を送るに舟車を動かすことを用いず ただ落花ととも
に残る鶯と別る 若し韶光を使わしめ 我が意を知らしめば 詩歌をよんで今宵の旅宿とし
よう)とある。延喜天皇(醍醐天皇の別名)が皇太子だった時に命令して、一時の間に十
首の詩を作ったうちの一ツである。
さて若い頃よりいくつかの官職を経て、寛平九年 53 歳で権大納言右□将を兼ねた。この
時、時平も大納言に任ぜられ左□将を兼ね、菅神と並び立つ執政であった。この時点では
大臣の官はなかったので、大納言が執政の役である。この年七月三日、宇多天皇が位を太
子敦仁親王に譲りって朱雀院に入って亭子院となり、仏門名では寛平法皇となった。敦仁
親王が醍醐天皇で、
後には延喜帝とも呼ぶが、
この時点では 13 歳、年号を昌泰と改元した。
昌泰二年(899 年)時平公が左□臣、菅神が右□臣として二人一緒に帝を補佐する立場で
あった。時平は 27 歳、菅神は 54 歳である。両者は官位では左右同格だが、才徳と年齢で
は双璧とは言えず、当然くいちがっていた。それが、菅神が讒訴を受ける原因だった。
時平公は大職冠九代の孫照宣公の嫡男で、代々□臣の家柄である。しかも、延喜帝(醍
醐天皇)の皇后の兄である。だからこそ、若年なのに□臣という重い職についた。この人
の乱行の一ツに、叔父の大納言国経卿が高齢で、叔母の北の方は年若く業平の孫女で絶世
の美人だったが、この女性に時平が恋をし、夫人も老いた夫を嫌っていた。時平が国経の
ところで食事して、酔興にまぎらして夫人を貰い受けたいというと、国経も酔って冗談と
してゆるした。国経が酔ったのを見て叔母を抱いて車で自分の元に連れ帰り、こうして中
納言敦忠が生まれた。時平の不道徳は、これだけでも十分にわかる。こんな悪者だから、
天皇の父寛平法皇は、時平を止めさせて菅神道真一人に国政をまかせようと考えていた。
延喜元年(901 年)正月三日、帝亭子院へ朝覲の時にそんな予定を示し、天皇も菅神を亭
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子院に呼んで予定を述べると、菅神は固辞したが天皇は許さなかった。同月七日従二位に
すすんだ。この秘密がどうしてか時平の耳に入り、時平が先手を打って天皇に讒言した。
内容は、君の御弟斉世親王は道真の女を夫人として寵遇が厚い、そこで君を廃して親王を
立て、国柄を一人の手に握ろうとの密謀しており、法皇もこれに応じているとの風説があ
ると言葉巧みに述べた。この時点で、醍醐天皇は 17 歳で、妻の皇后は時平の妹だから、内
外より讒毒を流して若い天皇の心をゆさぶったのである。
時平の毒奏はすぐさま的中し、同月廿五日左遷の宣旨が下り、右□臣の職を剥奪し、従
二位はもとのままで太宰権帥とし(文官)筑紫に移動と定めた。寛平法皇はこれを聞いて
大変に驚き、車にも載らずに徒歩で清涼殿に行って、問題を議論しようとしたが警固が固
くて不可能だった。時平一味の計らいである。こうして、法皇は草の上で終日座して、晩
になってむなしく本院へ帰還した。
菅神道真には、子供が 23 人いた。うち男子四人はあちこちへ流されたのは時平の毒舌に
よる。娘たちは都にとどまったが、幼き女児二人は筑紫へ同道した。年頃愛した梅にも別
れを惜しみ「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れぞ」と詠っ
た。この梅がつくしへ飛んだことは世に知られている。また桜を「桜花主を忘れぬものな
らば 吹こん風にことつてはせよ」と詠っている。
こうして延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘を出発して、摂津の国(兵庫県)須磨の
浦で日を過ごした後に筑紫へと移動した。家を出てからつくしに到着するまでのことを、
菅神が筆記したものを須麻の日記として今も世にのこっているが、一説に偽書とも言う。
筑紫太宰府にて「離家三四月 落涙百千行 万事皆夢のごとし 時々彼蒼を仰ぐ」
御歌に「夕ざれば野にも山にも立烟り なげきよりこそもえまさりけれ」
また雨の日に「雨の朝かくるる人もなければや きてしぬれ衣いるよしもなき」と詠って
いる。ここで、ぬれぎぬとは無実のつみにかかるをいっている。
筑紫についてからは、不出門行という詩を作り、寸歩も門外へでなかった。朝廷を尊し
恐れ、自分の身が罪を得た人間であることをつつしんだ故である。
御句に「都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声」とある。
(都府楼はわずかに瓦の色を見、観音寺は只鐘の声を聴く:都府楼は瓦の色を看るだけ
で 観音寺は只鐘の音だけを聴いている。都府楼も観音寺もわずかな距離だが、訪れないと
の意味。
)
道真は延喜元年二月一日に都を出発して、筑紫には八月に到着した。これより前の詩文
を菅家文草といって十二巻あり、左遷より後のを菅家後草として一巻で、今も世に伝わっ
ている。後草に、九月十三夜の題にて
「去年今夜侍清涼 秋思詩篇独断膓 恩賜御衣今在
捧持毎日拝私香」
148
(去年の今夜は天皇を清涼殿に伺いました。秋を思う詩篇は独り断膓の思いです。その際
に頂いた恩賜の御衣は今ここにあって、捧げ持って毎日香りを拝んでいます。)
この御作には注があり、その内容は、去年とは昌泰三年で、つまり延喜元年の一年前で、
その年の九月十三夜、清涼殿に侍候した時、秋思という題を頂いて、詩の意にことよせて
御いさめましたが、そのいさめを喜んで下さって御衣を頂きました。御衣をこの配所にも
持ってきて、毎日その御衣に残る香を頂いていますと、帝をしたい御恩を忘れていない心
の誠を述べている。この一詩からも、無実の流罪に対して帝を恨んでないことがわかる。
朝廷を怨んで魔道に入り、雷になったという俗世間の間違った説は次に述べる。
高辻の御庭の桜が枯れたと聞いて、
「梅は飛び 桜は枯るる世の中に 松ばかりこそつれ
なかりけれ」
さて太宰府に謫居すること 3 年で、延喜三年(903 年)正月の頃より心身に異常を生じ、
2 月 25 日太宰府で亡くなった。59 歳であった。墓は府に近い四ツ辻という所に定め棺を出
したが途中で止まって動かなくなり、その位置に葬ったのが今の神社である。
2 年後の延喜五年八月十九日同所安楽寺に、始めて菅神の神殿を建てることになり、味
酒の安行という人が担当し、同九年に神殿が完成した。その前に、四人の子は配流をゆる
され、おのおの元の位に戻った。
道真公が亡くなったのち、水害旱魃暴風雷などの天変地異が頻回に起こって人心が不穏
になった。これが菅公の崇だとの風説がたった。
道真が死んで 7 年後の延喜九年四月、左□臣藤原時平公が 39 歳で死んだ。また子供の八
条の大将保忠、その弟の中納言敦忠、時平の女で延喜帝の女御、孫の東宮まで次々死んだ。
時平の讒毒に加担した菅根の朝臣も延喜八年十月に死んだ。こうしたことを菅神の崇と世
に流布したのは、菅公の無実の罪を世の人が悲しんだからだろう。
延長元年(923 年)三月保明太子が死亡した。時平の孫で、前に東宮といった人である。
同年四月廿日、菅原道真に正二位本官の右□臣に復すという贈位があった。死亡から 20
年後である。
一条院の御時正暦四年五月廿一日、菅神に正一位左□臣を贈られた。菅神死後百年にあ
たる。
同年閏十月十九日大政□臣を贈られた。したがって、御神の位は正一位大政□臣である。
後年神霊の赫々とした兆候が何度もあり、天満宮や自在天神の贈称もある。
そもそも醍醐天皇は在位 32 年と長く、
百廿代の皇統の中でも殊に徳が高いと評価されて
延喜の聖代と称し、在位が長かったので延喜帝とも呼ぶ。若かった時とはいいながら、時
平の讒を信じて真実を極めようともせず、賢者の評判の高かった重臣の菅公を即座に左遷
149
したのは失徳である。一方で、菅神がこれを特に恨まなかった点は配所の詩歌でわかる。
菅神は恨まなくても、天は怒って水旱風宙の異変、讒者奸人の死亡などを起こしたのだろ
う。これを菅神の怨恨とするのは、菅神の賢行をきずつけることになる。しかしひそかに
いうに、賢者は旧悪を思わずといっても事と次第により、冤罪を恨んで讒言の首唱者時平
大臣を腹の中で深く恨んだかはわからない。本編にいう逃入村を、神が嫌うのもその証拠
の一ツとも言えよう。
道真の死から 28 年後の延長八年六月二十六日、清涼殿に雷が落ちて藤原清貫(大納言)
平稀世(右中弁) その外したがっていた人々多数が雷火で即死した。延喜帝は、常寧殿に
移動して雷火を避けた。これも菅神の崇りとするのはとんでもない間違いだと、安斎先生
(伊勢平蔵)の菅像弁にも述べている。
太宰府より一里西に天拝山がある。菅神がこの山に登って朝廷を怨む告文を天に捧げて
祈り、雷神となったというのは、賢徳道真の心を知らない俗人の妄説を現代に伝える例で
ある。この場面を和漢三才図会にも本当らしく載せているのは、不出門行の御作に心を深
めないことになる。
法性坊尊意が叡山にいた時、菅神の幽霊が来て、私には流された恨みを償いたいという
気持ちが抜けない、お願いですから師の道力で解決してほしいと述べた。これに対して尊
意が答えて、われわらは皆王の民である。私が皇の詔をうければ避けることはできない。
菅神はこれを聞いて恥じたようであった。ここで柘榴を食べるようにいうと、菅神はこれ
を吐き出して焔を噴いたという故事がある。これは元亨釈書の妄説が起源である。これは
現在の天保十年から五百廿年前、元亨二年東福寺の虎関和尚の作である。こんな奇怪なこ
とを記すのは仏者の筆癖だと、安斎先生も言っている。
白太夫は伊勢渡会の神職で、菅神文墨で特別の懇友で、ゆえに北野に祀られて今も社が
ある。この御神のことを作った俗曲に梅王松王桜丸の名があり、例の梅は飛びの歌からつ
くった名である。
北野神社は、天慶五年(942 年)に勅命で創設された。起源は西の京七条に住んでいた
文子という女に神託があったことによると、北野縁起に詳細に書いてある。
世に渡唐の天神と言って、唐服を着けて梅花一枝を持っている絵を描いたものがある。
故事は、仏鑑禅師(聖一国師のおくり名があり、東福寺の開山国師号の始祖)が、博多に
住んでいた跡の地中から掘り出した石に菅神の霊が唐土に渡って経山寺の無凖禅師(聖一
国師の師)から法を受けて日本に帰ったと、問題の石に彫りつけてあったと古書にあるの
を根拠として、渡唐の神影を画いたものである。これもデタラメだと、安斎先生の菅像弁
に主張している。
菅家聖廣伝暦という書の附録に、菅神渡唐説があるがデタラメに近いと沙門師嵩が述べ
ている。
150
菅神左遷の実跡を載せたものとして、
○日本紀略 抄録に巻序を失意せり
○扶桑略記 巻卅三〇日本史 百卅三 の列伝 五十九
〇菅家御伝記
神統菅原陳経朝臣御作正史によれば証となるだろう。
その他、虚実混合の古今の書籍は枚挙にいとまがない。
本朝文粋に挙げた大江匡衡の文に
「天満自在天神あるいは塩梅於天下輔導一人
帝の御
こと 或日月於天上照臨万民就中文道之大祖風月之本主也」云云。大江家は菅原家と共に
朝廷に累世する儒臣である。
しかるに菅神を崇称たること件の文のようだ。
これからみて、
およそ文道に関係する者はこの御神を崇めよう、信じよう。
およそ菅神を祀る社には、大抵は雷除の護府という物がある。御神雷の浮名を受けたか
らで、神霊は雷を嫌うから、このお護りは有効だろう。
こんなことを詳しく述べるのは、本編にいう逃入村の神霊問題に関係して実跡の本を調
べて天神の略伝を子供たちに示したいからである。無学の自分が書くことだから、大切な
ことを落とし間違った説を紹介しているかも知れない。その点はお許し願いたい。
再考すると、孔子様の聖人ぶりはその霊は生きている時より死んでから明確になり、そ
の墓十里に荊棘を生ぜず、鳥も巣をむすばなかったという。関羽(蜀漢の武将)の賢につ
いても、死んで神となって祈に応じている。つまり生は形でめぐり、死んでからは神とし
てめぐる故だというのが文海披沙の説である。菅神の場合もこれに近い。逃入村のことを
みても、千年にちかき神霊がいまだに効果があるとは、敬うべきである。そもそも、黄泉
の国では年月が経たないから百年も一日のようなものである。菅公の神霊に類すること和
漢に多い。もうこれ以上は止めよう。
訳註:
時平と天満宮:時平は藤原時平。彼の讒言によって、菅原道真が九州に流されたという。
天満宮はもちろん道真を祀る神社。
「筑紫」の発音:今の福岡県である。本書で「つくし」と読ませており、一般にもそう読む。
ところが意外にも、福岡市と周辺では「ちくし」と発音するようで、博多駅や高速道路の標
識のローマ字表記がそうなっているのを知って少し驚いた。
註:この項目の終りまで、菅原道真の話はすべて「百樹曰」の注釈である。自分でも言い訳
しているが、この「逃入村の不思議」で官神の話の部分は冗漫で、ちょっと退屈と感じる。
そうは言いながら、道真の死後に京都で何が起こって、皇室を始め周囲が怖れてその後の
贈位などに結び付いたという大筋は知っていたが、詳しい内容は本書で初めて知った。こ
の北越雪譜の巻 2 は分量が少ないので、出版社の要求にそって「百樹曰」で無理に水増しし
たという評価もあり、そうすると山東京山の注釈を「うるさい」と一方的に非難するのは気
151
の毒なのかも知れない。
[諏訪邦夫訳]
○田代の七ツ釜:絶壁を造る不思議な岩石群
図 七ツ釜と呼ぶ岩石群の絵である。川を隔てて、向かって右側(左岸)は石が縦に並び、
反対側(右岸)は石が横に並んでいる。
魚沼郡の官駅十日町の南七里ほどに、
妻在の庄の山中(この辺はすべて上つまりという)
に田代という村がある。村から七八町離れて、七ツ釜という場所がある。俗な呼び方で、
滝つぼを釜と呼んでいる。この田代の滝は、七段あるので七ツ釜とよぶ。銚子の口とか不
動滝などというのも七ツ釜の中であり、素晴らしい景色と不思議な様子は筆では云いあら
わせない。第七番目の釜の景色を図でお見せするが、それで基本がわかるだろう。
この場所の絶壁を、竪御号と横御号という。ふつう、伊勢から御師の持ってきたおはら
い箱を「おごうさま」といい、この絶壁の石がその箱の形に似ているので、「たておごう、
よこおごう」と呼ぶ。似ているという意味は、この絶壁の石が落ちているをみると、厚さ
六七寸ほどで平ら、長さは三四尺ほどで長短は一様ではない。しかし、石工が作ったよう
に見事な形である。この石の数百万を竪に積み重ねて、この数十丈の絶壁ができる。頂上
は山につづいて老樹が鬱蒼と茂り、この右の方が竪御号(たておごう)である。左側はこ
の石と寸尺たがはない石を横に積みかさねて数十丈にもなっているが、その他の点は右と
同じである。その様子は、人が手を加えて行儀よくつみあげたようで斜になっているとこ
ろは全くない。天然の奇工奇々妙々は実に不可思議である。
この石の落ちたのを、この田代村の人たちはいろいろな用途にする。ところが、小さな
152
破片でも他所へ持ち出して使うと崇りがあるという。私が文政三年辰七月二日に、この七
ツ釜の奇景を訪問して目撃したことを記述した。世の中は広いから、他の土地にも似た所
があるかも知れないが、とりあえず例として示しておく。
○百樹の付記:私が仕(つかえ)にいた時、同藩の文学の関先生の話に、君侯封内の丹波
笹山に天然に磨いた形の石をつみあげて柱のようなのが並んで絶壁になり、山中全部がこ
の種の石だと話していた。西国の山に、人が作ったような磨いた石を産する所があると春
暉が随筆で読んだこともある。残念ながら、今それがどこだったか思いだせない。
○百樹の付記続: 尾張の名古屋の人吉田重房が著した筑紫記行巻の九に、但馬国(兵庫県
北部)
多気郡納屋村から川船で但馬の温泉に行く途中を記したる項目に、「舟にのって行く。
右の方に愛宕山、宮島村、野上村、石山(地名)などが続いている。この石山の川岸に不
思議な石がある。形は磨磐(ひきうす)のようで、上下は平で周囲は三角四角五角八角で、
石工が切り出したようで、色は青黒い。一部掘出した跡もあって洞穴になっている。天下
は広くて珍奇なことが実にいろいろだ云云」とある。是も奇石の一類だから、筆のついで
に記述した。
訳註
田代の七ツ釜:釜川は信濃川の支流で、秋山郷の面する中津川の一つ東側を流れ、現在も「七
ツ釜キャンプ場」があり、観光地になっているようだ。石の様子は不明。
[諏訪邦夫訳]
この巻三 終わり
==========
153
北越雪譜二編巻四 一覧
○異獣:サルかヒトかあるいは?
○火浣布(かかんぷ:石綿の布)
:源内より大型化に成功
○弘智法印:470 年前にミイラ化?
○土中の舟:外国船が何故海から遠くに?
○白烏(しろからす)
○両頭の蛇
○浮嶋:13 の嶋がついたり離れたり
○石打明神:いぼを落として石が丸くなる?
○美人:北の国の美貌の女性たち
○蛾眉山下橋柱:実は道標
○苗場山:1800 年代初期の登頂記
○三四月の雪:冬から春へ、そして夏へ
○鶴が恩に報いる話:稲の新種を提供
○異獣:サルかヒトかあるいは?
図 異獣の絵で、山東京水が描き直さず著者の牧之の絵のようである。
魚沼郡堀の内から十日町へ越える道は七里あり、途中に村はあるが山中の間道である。
ある年の夏のはじめ、十日町のちぢみ問屋から堀の内の問屋へ白縮をけっこうな量を急い
154
で送る用事があり、昼すぎに竹助という屈強の男を選び、荷物を背負わせて向かわせた。
ほぼ半分きた頃、日ざしは七ツ(午後 4 時)に近く、竹助はちょっと休もうと道端の石に
腰かけて焼飯(焼きおむすび)を食っていると、谷間の根笹をかき分けて来る者がいた。
近よってきたのを見ると、猿に似ているが猿ではなかった。頭の毛は長く脊中にたれて半
分は白髪で、身長はふつうの人より高く、顔は猿に似ているが赤くはなく、眼は大きく光
っていた。竹助は気丈な男で、用心用の山刀をさげ、寄ってきたら斬り捨てよう身がまえ
たところ、このものは逃げる様子もなく、竹助が石の上においた焼飯に指さして、欲しい
と乞うらしい。竹助はお安い御用と投げ与えると、嬉しそうに食った。これで竹助も気を
許しもう一つ与えると、近くにきてこれも食った。竹助が、俺は堀の内から十日町へ行く
途中で、明日もここを戻る予定だ、欲しければまた焼き飯をやるぞ、急いでいるので今日
はもう行くといって、おろしておいた荷物を背負おうとすると、彼は荷物を持って軽がる
と肩にかけて先にたって歩いた。竹助は、こいつは焼き飯のお礼に荷物を運んでくれるの
かと後についてゆくと、彼は肩の荷物を気にしないようにどんどん行く。竹助はお蔭で、
この嶮しい道を楽に越えた。およそ一里半(6 キロ)の山道をこえて池谷村の近くにくる
と、彼は荷物をおろして自分は山へかけ登って行ったが、速くて風のようだったと、竹助
が十日町の問屋で詳しく語ったのが現在まで伝わっている。今から四五十年前のことで、
その頃は山で働く人たちが、ときどきこの異獣を見たという。
前に挙げた池谷村の者の話で、村の娘で機の上手なのが問屋から指名されてちぢみの注
文を受けた。まだ雪がすっかりは消えずに残っている窓のところで機を織っていると、窓
の外に何か立っていた。見れば猿のようだが顔は赤くはなくて、頭の毛は長くたれて人よ
り大きい生き物が覗き込んでいた。この時、家内の者はみな山に出かけて、娘が独りだっ
たのでこわくなり、逃げようとしたが機織りの最中で腰にまきつけた物もあり思うように
ならず、ぐずぐずするうちに窓から離れた。ところが、今度は竈(かまど)のところにき
て、飯櫃(めしびつ)を指して欲しいという様子をする。娘は異獣のことを以前から聞い
ていたので、飯を握って二ツ三ツ与えると嬉しそうに持って去って行った。その後も家に
人がいない時にときどき来て飯をねだり、後には馴れてこわいとも思わなくなった。
さてこの娘が、大切な注文を受けて急いで縮をおっていて、たまたま月経になって機の
仕事を休まざるを得なくなった。この点は、初編に委しく記した通りである。といって仕
事をしないと日限に後れてしまう。娘はもちろん、両親も気にして歎いていた。月経がは
じまって三日目の夕ぐれ、家内の人たちが畑仕事より戻らないことを知ったのか、例の異
獣が久しぶりにやってきた。娘は、人に話すように月経の悩みを話しながら粟飯をにぎっ
てあたえると、異獣はいつものようにすぐ退去せず、少し考え込んでいたが、やがて行っ
てしまった。ところが娘はこの夜より月経が急にとまり、不思議と思いながら身をきよめ
て機の仕事を再開して完了し、父親が問屋へ持っていった。この用事が終わったと思う頃
に、娘が時期はずれの月経になり、さては私が歎いたのを聞いて例の異獣が私を助けてく
れたのかと、聞く人々も不思議に感じたという。
当時は山中でこの異獣を見たものが時折おり、一人でなくて連れがある時は形を見せな
155
いという。また高田の藩士が材木の用事で樵夫をつれて、黒姫山に入って小屋を作り山に
何日も滞在した時、猿に似て猿ではないものが、夜中に小屋に入って火にあたっていた。
身長は六尺(180 センチ)ほどで、髪は赤く、身は裸で、全身は灰色で毛の脱けたように
見えた。腰より下には枯草を着けていた。この異獣は人の話にしたがい、のちにはよく人
に馴れたと高田の人は述べている。推測だが、和漢三才図会寓類の部に、飛騨・美濃や西
国の深山にもこんな異獣の話が載っている。だから、あちこちの深山にいるのだろう。
コメント:話が伝聞なので、著者も戸惑っているようだ。雪の季節なら「雪男」と呼びたい
ところだが。言葉を解するのだから、普通の人間が何かの理由で世間から疎外され、時々
人と接すると解釈するのが無難だろうか。[諏訪邦夫訳]
○火浣布(かかんぷ:石綿の布)
:源内以上の大型化に成功
宝暦年中に平賀鳩渓源内氏が火浣布を創り、火浣布考という書物を書き、和漢の古書を
引用し、日本最初の工夫として流布した。しかし、源内が死んだ後は製法がつたはらず、
好事家が残念がっている。ところで、越後には火浣布を作る元の石が産出する。場所は、
○金城山 ○巻機山 ○苗場山 ○八海山などで、
他にもある。この石は軟弱で爪で壊れるほど軟かい。いろは青黒く、くだくと石綿になる。
この石を入手して試めしてみると、石中にある石綿は、木綿の綿を細くつむいだのを数セ
ンチにちぎったようなものである。その紡績に特殊な技術が必要で、それで火浣布が造れ
るのだから、この秘術さえわかれば女や子供でも火浣布は織れる。
ところで塩沢の稲荷屋喜右エ門というものが、石綿を紡績することに工夫を加え、終に
この技術を完成して、最近火浣布を織るのに成功した。同じ頃に、近村の大沢村の医師で
黒田玄鶴も同じように火浣布を織る技術を達成した。二人とも、秘密にしてやり方を他の
人に伝えなかったが、同じ時に同じ村で二人が火浣布という特殊物の製法を完成したのも
面白い。文政四、五年のことである。両人の説によると、頑張れば一丈以上のものも織れ
るが、容易ではないという。源内のものは五六尺程度だと彼の火浣布考に述べている。玄
鶴の仕事が源内にまさる点として、
玄鶴は火浣布の外に火浣紙火浣墨の二種を造っている。
火浣墨をつかって火浣紙に物をかき、烈火にやけたものをしずかにとりだし、火気がさめ
ると紙も字も元の通りである。
とは言うものの、火浣布も火浣紙も火災の準備としては役立たない。何故なら、火にあ
うと同じように火となるから、誰かが火の中より取り出さないとやがて砕けて形がなくな
る故である。ただ灰にはならないという利点しかない。玩具としての使い道は、いろいろ
あるだろう。源内が死んで不思議な技術は失われたが、上に述べた二人のおかげで火浣布
の技法が再生された。でも残念ながら、この二人も技術をつたえずに死んだので、火浣布
は世間からまた消えた。源内は豊かな江戸で織ったので有名になったが、上記の二人は辺
境の越後で織ったので知られていない。
火浣布の件を、記述して好事家の話題に提供する。
156
○弘智法印:470 年前にミイラ化?
図 弘智法印のミイラを遠くから描いたと書いてある。
弘智法印は、児玉氏下総国(千葉県)山桑村出身の人である。高野山で密教を学び、生
れたところに戻って大浦の蓮花寺に住み、諸国を行脚して越後に来て、三嶋郡野積村(こ
の地の言い方で「のぞみ」村)の海雲山西生寺の東の岩坂という所に錫杖をとめて草庵をつ
くって住み、貞治二年(1363 年)癸卯十月二日この庵で亡くなった。辞世として口伝に伝
わっている歌に「岩坂の主を誰ぞと人問わば 墨絵に書きし松風の音」と詠んでいる。遺
言で、死骸は埋められていない。今の天保九年(1838 年)から数えると 477 年になるが、
かたまった亡骸が生きているように見える。越後では、24 不思議の一つに数えている。い
くつかの本に少し書いてあるが、図はないので、ここに図を載せる。この図は私が先年下
越後を旅行した時に目撃して描いた図である。見えるのは顔面だけで、手足は見えない。
寺法で近よって観ることも許されなかったが、眼を閉じて眠ったようであった。頭巾や法
衣は昔のままではないだろう。他の土地では聞いたことのない越後の奇跡の一つである。
百樹の注釈:中国にも弘智に似た話がある。唐の世の僧の義存が死んだのち屍を函の中
に置き、毎月宗徒たちが函から出して爪と髪の伸びた分を切っていた。百年後にも残って
いたが、その後に国が乱れて結局火葬にしたという。また宋人彭乗が作墨客揮犀に述べた
157
話では、鄂州の僧乏夢も屍を埋めず、爪と髪が伸びる点も同様であったが、婦人が手を触
れるようになると爪も髪も伸びなくなったという。五雑組に枯骸の確論があるが、釈氏を
なじるような話になるからここには書かない。高僧伝に義存の事が書いてあったと記憶し
ているが、特に重要とも思わないので追求しない。
○土中の舟:外国船が何故海から遠くに?
蒲原郡五泉から一里(4 キロ)離れたところに、下新田という村がある。ある時、村の
者が用事で阿賀野川の岸を掘って、土中から長さ三間ほどの船を掘り出した。全体は少し
も腐っておらず、形は今の船と異なるだけでなく、ふつうなら金具を用いる箇所をみな鯨
の髭を使って、金属はまったく使っていない。木自体も材木の種類が誰にも判別できず、
おそらくは外国の船だろうということになった。私が下越後に旅した時、杉田村小野佐五
右エ門の家で、問題の船の木で作った硯箱を見たが、木質は中国産ともおもわれた。昔、
漂流してきた外国の船だろうか。
○白烏(しろからす)
本書は雪譜と題するから、他のことをいうのは前にもいったように歌でいえば落題(題
意を読み違えていること)にあたるが、雪の話はまた出てくるので、とりあえずは思い出
したことを書く。
天保三年(1832 年)辰四月、私が住む塩沢の中町の鍵屋某の家に高い木があった。この
樹に烏が巣をつくり、雛が少し頭を出すころ、巣の中に白い頭の鳥が見えた。主人は不思
議に思って人に命じて捕えさせた。形は烏だが真っ白で、嘴と眼と足は赤い雛であった。
珍しいので、人々が集って見物した。主人は籠を作って気をつかって養育し、少し成長す
ると鳴声も烏と同じだった。私も近所なので、朝夕観ていた。珍しいと欲しがる人も多く、
江戸へ連れて行って見世物にとの話もあったが、主人は惜しがって許さなかった。雪の時
期になると、
山のいたちや狐の餌が乏しくなって人家に降りて、食物をぬすむようになる。
おそらくはそういう類のものの仕業だったのだろう、雪の季節に籠が壊れて白烏は羽だけ
縁の下に残っていたと聞いた。
初編に白熊のことを載せたので、白烏もまたここに記した。
訳註:白熊も白烏も「アルビノ」
、つまり突然変異で黒い色素を作る能力を失った体質の個
体で、動物では他にも例が多い。白ウサギも茶色の野ウサギのアルビノを固定したものと
いう。[諏訪邦夫訳]
○両頭の蛇
文政十年(1827 年)亥の八月廿日隣の宿場六日町のはずれで、川村の農人太左エ門の軒
端に、両頭の蛇が出てきたのを捕えた。長さは一尺(30 センチ)未満で、頭が二ツ並んで
枝になっている。その他の点では、色も形もふつうの蛇と同じであった。その辺にあった
古い箱にいれ、餌もいれて飼っていたが、二三日で逃げてしまい、付近を捜したがみつか
158
らなかったという。
○浮嶋:13 の嶋がついたり離れたり
小千谷から西一里(4 キロ)のところに芳谷村があり、ここに郡殿(こおりとの)の池
という四方二三町(2,3 百メートル)の池に、浮嶋が十三ある。晴天で風のない時は日が
出ると十三の小嶋はおのおの離散して池中を遊ぶように動き、日没後は池の中心部にあつ
まって一ツになる。この池には、変わったことがいろいろあるが長くなるので述べない。
羽州(山形県)の浮嶋は記録があって人にも知られているが、この郡殿の池の浮嶋はあま
り知られていない。
○石打明神:いぼを落として石が丸くなる?
小千谷の農民某の土地に小社があって、石打明神と呼んでいる。昔から祀っているとい
うが、縁起は聞いていない。余分ないぼなどできるとこの神にお祈りし、小石でいぼを撫
でて社の縁の下の格子の中へ投げいれておくと、数日していぼが落ちる。一方、投げ込ん
だ小石は、元来元の形から丸い石となる点も不思議である。そんなわけで、社の縁の下は
大小の丸石で一杯である。
○百樹の注釈
私が小千谷に旅行した際、
この石をみて話の種に一ツ持ち帰ろうとしたが、
土地の人は、
神様がこの石を惜しんでいるというので一度拾い取ったのを元の所へ戻した。数万の石が
人の磨いた玉のようである。神の行うことは、人間の知では測れないことが多い。
訳註:「石打明神」
は瑞玉神社ともいい、所在は石打ではなく記述の通り小千谷近郊である。
地名の石打は塩沢より南で、小千谷からは 40 キロほども離れている。[諏訪邦夫訳]
○美人:北の国の美貌の女性たち
この項目は、全体が百樹山東京山の記述である。
小千谷での話である。私が小千谷の岩居の家に旅宿した天保七年(1836 年)八月、筆を
とる仕事に倦きたある日、山水の秋景色でも観ようと歩いて、小千谷の前を流れる川に向
かう丘に登り、用意の手紙など書いていた。
毛氈を老樹の下に敷き煙草を吸いながら眺めていると、引舟は浪に遡らってうごかない
ようにゆっくりと、下る舟は流れにのって矢のように飛んでいった。雁が字をならべたよ
うに飛び、きこりの姿も画のようである。木々は霜に染って少し紅葉し、遠くの連山には
僅かに雪がきて白くみえた。寒国の秋景色は江戸の私には目新らしく、思わず一休みして
少し眺めていると、十六七の娘が三人各自柴籠を背負って山を登ってここで休み、なにか
話をして笑うのが聞こえた。
山水に目を奪われていると、
「火をかしてください」といって煙管が出てきた。顔を見る
と、髪はみだれ特に化粧もしていないのに、生まれつきの美形ぶりは花とも玉とも言えそ
159
うである。着ているものは粗末だが、中身は璧のようである。私はびっくり驚いて山水の
眺めるのをやめてこの娘たちをみていると、お礼を述べて向こうへ行き、樹の下の草に坐
って足をなげだし、きせるの火をうつしてむすめ三人みな吸っていた。これほどの美人と
話すのは、つたない芝草が美しい樹木の傍らに育つようで、白い歯をこぼしてにっこり笑
う様は白芙蓉の水を快い微風に揺らすようである。
残念ながら、これほどの美人もこんな辺境に生れ、田舎者の亭主の妻となり、素晴らし
い妻がまずい夫と一緒に眠り、荊棘と共に朽ちてしまうのはまことに憐れである。江戸に
連れて行けば、富貴の家で美人として暮らし、あるいは繁華街で町を揺るがす栄華をきわ
めて、
隣国出羽で生れた小野小町のような美人の名を欲しいままにするかも知れないのに。
こんな美人をこの僻地に出生させるとは、神様はことを理解していないと独りため息をつ
いていると、娘は来たときと同様にふたたび柴籠を背負って連れ立って去っていった。
見送ってから考えてみると、
越後には美人が多いと言うがその通りである。
他でもない、
水が良い故だろう。だから織物の清白な点で、越後の白縮以上のものはなく、この辺は白
縮を産するのも、水が優れていることによる。河の水が清ければ女性も美しいと、謝肇淛
が言ったのも当然と思いながら宿に帰った。これこれで美人に会ったと岩居に語ると、彼
のいうには、この女性たちはこの辺で有名な美女で、先生を他国の人とみてたばこの火を
借りたのでしょう、ちょっと憎いですね、という。私の反応は、いやいやにくいどころか、
私からたばこの火を借りて美人とえんを(煙と縁を掛けた)むすんだのだ」と冗談をいう
と、岩居手をたたいて大いに笑い、先生違いますよ、あれは屠者の娘ですと聞いて再び愕
然となった。汚い土壌から妖花が出るとはこんなことかと、話したことである。
もう一度考えてみると、小野の小町は出羽の国(山形県)の郡司小野の良実の娘である。
楊貴妃は蜀州の司戸元玉の娘である。日本も中国も北国の田舎娘が世に美人として名を馳
せている。美人は北方にあるというのも、北は陰位だから女性が美麗になるのだろうか。
二代目の高尾は(万治 1655-1661)野州(栃木県)に生れ、初代の薄雲は信州に生まれて、
両者とも吉原で有名だった。だから、越後にこんな美人を見るのも北国だからだろう。
訳註
屠者の娘:「屠者(としゃ)
」は、動物を殺して肉や皮を扱う仕事で、江戸時代にはふつう
の人は行わず、エタ(穢多)という特殊階級の人が行っていた。「部落民」という言い方も
する。島崎藤村の名作『破戒』は、このテーマを扱っている。この言葉や考え方は、現代
でも一部の地域や社会では完全には払拭されずに残っている。[諏訪邦夫訳]
○蛾眉山下橋柱
図 峨眉山道標と思われるものが越後に流れ着いたのを偶然拾って描いたもの。
160
文政八年(1825 年)乙酉十二月、越後の苅羽郡椎谷の漁師が、ある日椎谷の海上で漁を
していて、一本の木の漂っているのを見て薪にでもしようと拾って家にかえり、乾かそう
と庇に立てかけておいた。椎谷は堀侯の領内である。椎谷の好事家が近くを通って、これ
はとんでもない性質のものだとよく見ると、峨眉山下橋という五つの大きな字が刻んであ
った。そうすると中国の物と判断し、漁人には代わりの薪を与えてこの木を貰い受けたと
いう。
さて私の旧友の観励上人は、
椎谷の少し離れたところの田沢村浄土宗祐光寺にいて、
学問の深いことで知られ、以前から好事の癖があって例の橋柱の文字を活字に彫って同好
者たちにおくり、その上に橋柱に題する吟詠をお願いし、これも版木に彫って、世に流布
させようとしたが、何か理由でまだ実現しないでいる。
問題の橋柱は、後に領主の所蔵品となって眼に触れなくなった。椎谷は私と同じ国の中
だが、距離が遠く実物はみる機会がなかったのが今になってみると残念である。写しの図
を、ここに載せておく。
161
百樹の注:
(この項目は、ここから以下はすべて「百樹の注」で、牧之の文章は上で終わ
っている。)
牧之翁がこの草稿にのせた図を見て考えたことがあり、実説を詳しく検討してみると次
のようである。
了阿上人の和歌の友相場氏が椎谷侯の殿人ときいて、上人の紹介をもつて相場氏に対面
して件の橋柱のことを尋ねてみると、これは橋柱ではなくて道しるべ(道標)だという。
書翰入れを出して、その図を見せてくれた。私の友の画人千春子が真物を傍において縮図
を描き、峨眉山下橋という五字は相場氏みずから心をこめて写したという。下に描いた図
がこれである。彫った人の頭を左に向かせ、その下に五字を彫りつけたのは、蛾眉山下橋
はここから左にあるとの方向を示す道標だと話してくれた。これで理路整然としている。
現在も、指を描いてその下に進むべき場所名を記すのをみることがあり、日本も中国も考
え方は共通している。
さてこの道標を入手した経路から、私の推測は以下のとおりである。北の海は、どこも
冬には北風が烈しく、これによって物が磯に打ち上げられる。椎谷は焚き物にとぼしい所
で、貧民は漂流物を拾い取って薪にする。ところが文政八年酉の十二月に、例の如く薪を
拾いに出で、柱のようなものが波に漂うのをみると人の頭のようで気味が悪い。貧民がお
それてたちさったのを、ものかげから見ていたら磯にうちあげられたので拾った。文字は
書いてあるが読める者はなく、何だろうといろいろ話し合っていたところへ、ちょうど近
くの西禅院の僧が通りかかり、唐詩選で記憶していた蛾眉山の文字を読み、中国の物だと
話した。持ちかえった人も、さすがに中国の物ときいて薪にしなかったので、伝わってつ
いに主君の所蔵となったと語ってくれた。
想像すると、蛾眉山は唐土の北に在る険しい山で、富士のような高山である。絶頂の峯
が二つあって八字なので、蛾眉という名がついている。この山の道標が日本の北海へなが
れきた水路を詳究しようと「唐土歴代州郡沿革地図」をみて、清国の道程図中を検索した。
蛾眉山は清朝の都から四百里(1200 キロ)ほど北にあり、この山に遠くないところに一条
の大河が東に流れ。蛾眉山の麓の河はすべてこの大河に入る。
この大河は瀘州を流れ三峡のふもとを過ぎて江漢につき、さらに荊州に入り、
○洞庭澗 ○赤壁 ○潯陽江 ○楊子江の四大江を経て、江南を流れ下って東シナ海に入る。
水路全体は五百里(2000 キロ)ある。さて問題の道標は、洪水でもあって川に流れ込み、
○洞庭○赤壁○潯陽○楊子という四大江を流れて沈まなかったのだ。滔々と流れる水路五
百里を流れて東海に入り、大波に何度ももまれ風波に転々したものの断れたり折れたり砕
けたりせず、そのまま真っ直ぐの姿で日本近海を漂い、北の海の海岸に近よって、椎谷の
貧民に拾われて始めて水から離れ、あやうく薪となって燃えてしまうところを、幸いに字
の読める識者にあって灰になるのをのがれ、文学者たちの題材となって題咏のテーマとさ
れて詠われた上に、ついには椎谷侯の愛をうけて身を宝物殿に安置され、不朽の名品とし
て保管された。実に奇妙不思議な天の幸で、稀世の珍物である。
*縮図は左のようだ。長さは一丈余で、周囲二尺五寸余。木質は何とも判明しない。
162
推測してみると、蛾娥同韻(五何反)なら意味が通じて時々本で見る。橋が違う文字に
なっていて(橋の字が木扁でなくて、つくりの上に木が書いてある)、かなりの異体文字で
ある。だから明人黄元立が〔字考正誤、清人顧炎武が亭林遺書中に在る〔金石文字記や〔碑
文摘奇 藤花亭十種之一あるいは楊霖竹菴が〔古今釈疑中の字体の部など通巻一遍捜索し
たれどもこの字はない。蛾眉山のある蜀の地は、都から遠く離れた辺境の地である。推測
すると、田舎製の道標だから学者が書いたものではなく、ふつうの俗人が書いたものだろ
う。だから日本でも竹の字を人扁に書いたりする類の誤りかもしれないが、この点につい
ては博識の方の議論をまちたい。
訳註
蛾眉山:中国四川省の高山、高度は 3000m 強。
異体字:この文字はみる通り、橋の字が木扁でなくて、つくりの上に木が書いてある。こ
の字は、パソコンではみつからなかった。
「椰子の実」との類似性:百樹の説明を読んでいて、島崎藤村の名詩と大中寅二の名曲で知
られる『椰子の実』にかかわる逸話を思い出した。こちらは、後に民俗学者として名をは
せた柳田國男氏が伊良湖岬で椰子の実を拾い、それを友人の藤村に話したのがきっかけと
判明している。藤村自身は伊良湖を訪れていない。[諏訪邦夫訳]
○苗場山:1800 年代初期の登頂記
図 苗場山登頂時の絵である。千曲川の他に、佐渡・能登などが描かれているが、本文にあ
る富士山は見当たらない。
苗場山は越後第一の高山で、
魚沼郡にあって登り二里と言う。山頂に天然の苗田があり、
昔からこの名がついた理由である。峻しい山の頂上に苗田があること自体、とても変わっ
ている。この奇跡を実際に見たいと年来考えていたところ、文化八年(1811 年)七月に思
い立って●嘯斎●擷斎●扇舎●物九斎の友人四人と、他に従僕等に食品類その他必要な物
をもたせ、同月五日未明に出発して、其日は三ツ俣という宿場に泊まり、翌日暁から頑張
ってこの山の神社につき、各自お祓をうけ案内人を傭った。
163
案内人は、白衣をつけ幣(ぬさ)を捧げて先にすすんだ。清津川を渡渉し、やがて麓に
ついた。がけの道を踏み嶮しい路を登ると、ぶなの木が森となって日を遮り、山篠が生い
茂って路を塞いでいる。枯れた老木が折れて路に横たわるのを乗り越えるのが、寝ている
竜を踏み越える気持ちだ。渓流をわたり、さらに半里(2 キロ)ほど、右に折れてすすみ
左に曲ってのぼる。奇木怪石のいろいろな姿や様子は、筆には描写しきれない。半分ほど
来て鳥の声もきこえず、東西の方向もわかりにくく道もない。案内人はよく知っていてど
んどん進み、山篠をおしわけ幣を捧げて道を示す。藤蔓が笠にまとい、竹が茂って身を隠
し、石が高く道は狭く、平坦なところは一歩もない。正午過ぎにやっと半分きたと言われ、
僅かの平地をみつけて用意の茣蓙を木蔭に敷いて食事し、暫らく休んでからまたどんどん
登って神楽岡という所に到着した。
ここを過ぎると他の木はほとんどなくなり、俗に唐松(訳註)という背の低い森があち
こちにある。
梢は雪や霜で枯れるからだろうか。登っては少し下って御花圃という所では、
山桜が盛かりに咲き、百合・桔梗・石竹(せきちく)の花などが咲いて、その様は人が植
えて丹精したかのようだ。名もしらない異様な草も多数あり、案内人に訊くと薬草だとい
う。さらに登ると桟道に出て、岩にとりつき竹の根につかまって進み、一歩毎に声を上げ
ながら気を張り、汗をながし、千辛万苦しながら登りが終わりに近づいて、馬の背という
所についた。両側は千丈の谷で、歩く路は僅かに二三尺(60~90 センチ)
、一歩間違えば
木っ端微塵になるだろう。各自おそるおそる歩いて、ようやく頂上に到着した。
一行十二人は、まず草に座って休んでいると、すでに午後 4 時である。登り二里の険し
い山道で、はじめから一日で往復は不可能で、頂上に小屋があって、苗場山に登る人は必
ずその小屋に一泊すると案内人は述べていた。今その小屋をみると、木の枝・山笹・枯草な
164
どを取りあつめ、藤桂で何とか這って入れるように作って、乞食の住まいのようである。
これが今夜の宿とは切ないといって、みな笑った。
下僕たちは枯枝を拾い、石をあつめて仮のかまどをつくり、もってきた食物を調理し、
一方で水を手に入れて茶を煎れ、上戸は酒の燗を急ぐのも面白い。さて眺望すると、越後
はもちろん、浅間の煙・信濃の連山などみな眼下に波うってみえる。千曲川が白い糸のよ
うで、佐渡は青い盆石をおいたようである。能登半島は蛾眉(三日月型の美しい眉)の姿
で、遠い越前の山は青くかすんでいる。さて眼を拭って、日本一の富士を見つけた。その
様子は、雪を一握り置いたようだ。みな手を拍ち、不思議だといい、美しいと称讃した。
どちらをむいても素晴らしい景色で、応接に忙しい。雲が脚の下から湧くかと思うと、急
に晴れて日光が眼を射る。
身体が天の外にでもある気分だ。この頂上は周囲が一里と言う。
広々として雑草が茂り、ほとんど高低がない。山の名にいう苗場という所が、あちこちに
ある。この状況は、人がつくった田の中に、人が植えた苗に似た草が生えているようであ
る。苗代を半分とりのこした感じの所もある。これは不思議だとおもうと、田には蛙もい
て普通の田とこの点も変わりがない。どんな日でりでも、田の水が乾いて枯れることはな
いという。二里も登った山の頂上で、こんな奇跡を観るとは不思議な霊山である。
案内人の言うには、前にいった御花圃から別に道を行くと、竜岩窟という所があり、洞
窟内に一条の清水が流れそのほとりに古銭が多く投げ込まれていて、鰐口が二ツ掛って神
を祀るという。昔からそう言い伝えている。もっともこの道は、現在では草木で塞って通
行困難だという。頂上の石に苗場大権現と刻してあり、案内人はこの石は人が作ったもの
ではなく、天然の物というが、これは単なる俗説だろう。あちこち見てまわるうちに日が
くれたので小屋に入り、内は提灯を下げてあかりとし、外では火を燃やして食事の準備を
して、食事を済ませて酒を飲んだ。六日の月が皎々と輝らして空も近い気分で、桂の枝を
折って神に祈りたい気持ちになった。各人、詩作し歌をよみ、俳句を吟ずる人もおり、時
が過ぎると、寒気が次第に烈しくなり、用意した綿入れをつけても我慢できないほどで一
晩中焚き火にあたって夢をみることもなく、明け方の空を待っていると、晴れ渡ってさあ
御来迎を拝み下さいとの案内人の言葉で、拝所にいって日の昇るのを拝み、それから支度
を整えて山を下った。別に紀行を書いたので、ここでは簡単に述べた。
百樹注:私が越の国に旅した時、牧之老人からこの苗場山の地勢を委しく聞き、実景の
写生図も見た。頂上の平坦な苗場の不思議、竜岩窟の古跡など、水も入手しやすい山なの
で、おそらくは大昔に誰かがこの山を開山し、絶頂を平坦にし、馬の背の天険をたよりに
ここに住居を構えて住み、耕作もしたが、その人たちが亡くなって魂がここにとどまって
苗場の不思議を生んだものと想像した。歴史を詳しく探究すると、これに関係するヒント
くらい見つかるかもしれないが、学者たちの意見を知りたいものだ。
訳註:幣(ぬさ)
:紙や布でつくったひらひらしたもの。お祓いにつかう。
三ツ俣:現在もスキー場があって使われる地名で、おそらく近い個所だろう。
コメント:
1)現在の登山でも、お祓いの儀式を受けることがある。奈良県大峰山のことは別に述べた
165
が、2005 年に白山に登頂した時は麓の白山神社と山頂の神社の両方でお祓いをうけた。白
山の場合、「必要」ではなくて 1994 年にはふつうに登山した。日本の山は「霊山」とされ、
富士山をはじめ麓と頂上に神社があるものが少なくない。
2)苗場山は、上越国境の谷川岳などからは少し北に離れて信越国境にある。この連山中で
は横手山の 2300m に次ぐ高峰で、標高は 2145m である。横手山は長野県と群馬県の境だか
ら、この連山では苗場山が越後の最高峰である。ただし、「苗場山は越後第一の高山」との
本文に敢えて異を唱えると、越後の山では妙高山が 2456m と高く、長野・新潟・富山にま
たがる白馬岳 2932m はさらに高い。
3) 「俗に唐松という背の低い森が-----」。原文は「俗に唐松といふもの風にたけをのば
さゞるが」となっている。現在言う唐松は背が高い。たけの低いのは「這松」である。著者
が混同しているのか、呼び方が当時と今と異なるのか不明。
4) 著者牧之は 1770 年生まれだから、苗場山登頂時の 1811 年は 42 歳くらいの壮年であっ
た。雪との関係は乏しいが、記述が具体的で詳細で江戸時代の登頂記として興味深く、本
書全体の中でも出色の印象を受ける。実体験だけに、
伝聞や講釈とは別格の迫力である。「苗
場」に関して、百樹氏が昔実際に水田として耕作されたと推測するのは面白いが、否定さ
れているようだ。私自身が苗場登頂の経験のないのが残念である。[諏訪邦夫訳]
○三四月の雪:冬から春へ、そして夏へ
図 4 月の雪解けのムードを描いた絵で、凧揚げや馬の走りが素晴らしい。京水の絵ではな
く牧之自身の絵のようである。
この土地では、冬はもちろん、春になっても二月頃までは雨が降ることはない。雪が降
るからである。春の半ばになると小雨の日もあり、この頃には晴天はもちろん、雨でも風
でも、去年来積もった雪が次第に消える。それでも、家の付近で乾(いぬい、北東の間:
166
訳註)にあたる方はきえるのが遅い。山々の雪は里地より消えるのがおそく、春陽の天然
につれて雪解けに水が増え、毎年水難の災いがある。春の末になると、人の住んでいる付
近の雪は自然に消えるのをまたず家毎に雪を取捨て、あるいは雪を籠にいれて捨てる。鋸
で雪を切り裂いてすて、また日向の所へ材木のように積み重ねておく。こうすると早く消
える。少しの雪なら、土や灰をかけると消えるのが早い。
そもそも、前年の冬のはじめから雪が降らなくとも空は曇り、快く晴れた空を見ること
は稀で、
家の周りを雪に埋められて手もとが暗かった。この土地に生れて慣れてはいるが、
雪に籠るのは当然気が滅入って楽しくない。しかし春の半ばになって雪囲をはずすと日光
が明るく、始めて人間世界へ戻った気持ちになる。
ある年の夏、江戸から来た行脚の俳人を泊めたところ、この地方をいろいろ見物してこ
んな質問を受けた。豊かな家の庭は手をつくしているが、垣根のつくりがどれも粗末なの
は何故かという質問である。答は簡単で、変に思うのも無理もないが、粗末に作っておく
のは雪のためである。いくら頑丈につくっても、一丈(3 メートル)を越える雪で必ずつ
ぶされるから、簡単につくって雪の降り始めにとりはずすのだと話した。つまり、三月の
末になると我先にこの垣を作り直すのである。
雪の中では馬は足がたたず耕作もせず、百日あまりも空しく厩で遊ばせておく。雪がき
える時になると馬も知っていて、しきりに嘶いて外に出ようとする。人間もまた長期間ち
ぢめてきた足をのばそうと馬をひきだすから、馬もよろこんではねあがったりする。胴縄
だけつけた裸馬に跨って、雪の消えた場所を走らせる。馬は冬ごもり中の飼い方で痩るこ
とと肥ることがあり、やせた馬では馬主の貧さがわかってしまう。馬だけではない、子供
たちも雪の間は外で遊べず、夏の始めになると冬に履いた藁沓を捨てて、草履やセッタ(雪
駄:訳註)になり、凧などで駆け廻るのも本当に嬉しさうである。桃桜もこの頃がさかり
で、雪で花を見ることになる。
訳註
乾(いぬい)
:著者鈴木牧之はわざわざ「北東の間」と注釈しているが、乾(いぬい)は北
西である。北東は丑寅(うしとら;「艮」とも書く)をいう。著者の勘違いだろう。
雪駄:竹の皮の草履に牛皮をつけたもの。「雪」の字があるが、雪では使わない。
[諏訪邦夫訳]
○鶴が恩に報いる話:稲の新種を提供
天保七年丙申の春、魚野郡の小千谷の縮商人芳沢屋東五郎で俳号を二松という人が、商
いで西国に行ってある城下に逗留している間、旅宿のあるじがこんな話をした。近在の農
夫が、自分の田地で病気の鶴が死にそうなのを見つけ、貯えてあった人参などで療養して
病を治したところ、何日もたたずに治って飛去っていった。さて翌年の十月、この農家の
庭近く鶴が二羽舞いおり、稲二茎を落し一声ずつ鳴いて飛びさった。主人が拾って見ると
長さが六尺(1.8 メートル)以上もあり、穂もそれだけ長く、穂の一枝に稲が四五百粒つ
いている。さては去年の病気の鶴が恩に報いようと異国から咥えてきたのだろう、とにか
167
くとても珍しい稲だと主人は考えて領主に献上した。領主はしばらく預かったのち、その
まま農夫に賜った。領主がうまく育てるようにとおっしゃったので、苗代に気をつけて植
えつけ、実際によく生えて実ったので、国守へも奉ったと言う。その人にも尋ねて訊くと、
鶴を助けた人は東五郎が縮を売った家だから、その家に行ってさらに詳しい話を聞いた。
それでは国の土産にしよう、穀種を一二粒頂きたいとお願いすると、越後は米のよいと
ころときいているから成長もよいだろうと、もみを五六十粒くれたので、それを国に持ち
かえって由来を述べて主君に奉ったところ、御城内に植えさせ、東五郎には御褒賞などを
賜ったと小千谷の人がその頃に話していた。考えてみると、私のような下層階級の人間で
もこれほどよい時代に生れたからこそ平穏に暮らして、こんな筆もとれるのだ。さてこれ
から千年の平和を祈って、鶴の話を締めくくりとしよう。
なお雪の奇談その他いろいろ珍しい話でこれまで載せなかったのも多いから、仕事の暇
をみて次の話を続けたいものである。
図 本文の最後に載っている絵。本文との関連がわからない。
コメント:中の文章は私には読めない文字が多いので、読めた限りを記す。
タイトルは「阪額野陣図」
長の太郎(改行)讒に遭い(改行)鎌倉より(改行)討手来たもう?(改行)阪額女大将
(改行)
として遠く(改行)いて軍に勝て(改行)野陣を張る(改行)事は本文に(改行)あり文?
(改行)今(改行)一図を(改行)のこし(改行)
児曹の(改行)観た供(改行)軍器(改行)
の時代は(改行)棄て(改行)訂(改行)
となっている。
絵の中の文章を読もうとして、まったく読めないのに我ながら呆れた。はずかしいが実力
不足は如何ともしがたい。意味はとれていない。
168
岩波文庫では、この絵を「越後の人物」の項目に載せている。そこに、百樹の注で「板額」と
いう文字が出ている。一方、野島出版の書では末尾に載せている。
[諏訪邦夫訳]
二編 巻四 終わり
訳註:京樹のコメントにもある通り、著者は「まだこの後も書き続けたい」と述べて本書を
終わっている。実際には、北越雪譜自体がこれ以上書かれることはなかった。
[諏訪邦夫訳]
全巻終わり
169
附 1 元号のリスト簡略版
本書に登場する元号と、
他の事柄との関係で私が知って有名と考える元号だけ抜き出して
注釈を書きました。元号は歴史の学習には不便で不合理です。江戸時代はともかく、それ
以前は元号の数が多い割に参照する事件が少なく、イメージがほどんどありません。
元号
使用年
備考
1 大化 たいか
645 ~ 649
大化の改新
4 大宝 たいほう
701 ~ 703
大宝律令
6 和銅 わどう
708 ~ 714
和同開珎
8 養老 ようろう
717 ~ 723
養老律令
10 天平 てんぴょう
729 ~ 748
天平文化
平安遷都:平安時代の約 300 年間に 90 代
18 延暦 えんりゃく
782 ~ 805
延暦寺
30 寛平 かんぴょう
889 ~ 897
本書で新撰字鏡を参照
31 昌泰 しょうたい
898 ~ 900
本書で新撰字鏡を参照
32 延喜 えんぎ
901 ~ 922
延喜式
34 承平 じょうへい
931 ~ 937
承平天慶の乱
35 天慶 てんぎょう
938 ~ 946
(平将門、藤原純友の乱)
93 保元 ほうげん
1156 ~ 1158
保元の乱
94 平治 へいじ
1159
平治の乱
鎌倉開府:140 年ほどで 45 代
108 建久 けんきゅう
1190 ~ 1198
本書に縮みで登場。1192 年が建久三壬子。
136 弘長 こうちょう
1261 ~ 1263
本書に親鸞上人に関して登場
137 文永 ぶんえい
1264 ~ 1274
文永の役(蒙古襲来)
139 弘安 こうあん
1278 ~ 1287
弘安の役(蒙古再来)
室町開府:240 年に 40 代だが南北朝の問題が加わってわかりにくい
156 建武 けんむ
1334 ~ 1335
建武の親政
170 文安 ぶんあん
1444 ~ 1448
本書に下学集(国語辞書)のことが登場
177 応仁 おうにん
1467 ~ 1468
応仁の乱
181 明応 めいおう
1492 ~ 1500
本書に節用集のことが登場
190 天正 てんしょう
1573 ~ 1591
天正大判
191 文禄 ぶんろく
1592 ~ 1595
文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)
関ヶ原の合戦、江戸開府:260 年間に 35 代ほど
192 慶長 けいちょう
1596 ~ 1614
慶長大判
193 元和 げんな
1615 ~ 1623
大坂夏の陣
194 寛永 かんえい
1624 ~ 1643
寛永通宝・寛永寺・寛永御前試合・寛永三馬術
196 慶安 けいあん
1648 ~ 1651
慶安の変(由井正雪らの幕府転覆計画)
198 明暦 めいれき
1655 ~ 1657
明暦の江戸の大火
200 寛文 かんぶん
1661 ~ 1672
本書で雪中の火を記述された年と
170
204 元禄 げんろく
1688 ~ 1703
元禄時代、赤穂浪士の討入り
205 宝永 ほうえい
1704 ~ 1710
富士山宝永山生成。本書に江戸風俗を説明。
206 正徳 しょうとく
1711 ~ 1715
本書に、江戸の風俗を禁止したと説明。
207 享保 きょうほ
1716 ~ 1735
享保の改革
215 天明 てんめい
1781 ~ 1788
天明の大飢饉、
浅間山の噴火。本書にも登場。
216 寛政 かんせい
1789 ~ 1800
寛政の改革
217 享和 きょうわ
1801 ~ 1803
本書で新撰字鏡を村田春海が版木にしたと。
218 文化 ぶんか
1804 ~ 1817
文化文政時代
219 文政 ぶんせい
1818 ~ 1829
220 天保 てんぽう
1830 ~ 1843
天保の改革、本書出版
222 嘉永 かえい
1848 ~ 1853
ペリー来航
223 安政 あんせい
1854 ~ 1859
安政の大獄
227 慶応 けいおう
1865 ~ 1867
大政奉還
明治以降
228 明治 めいじ
1868 ~ 1912
229 大正 たいしょう
1912 ~ 1926
230 昭和 しょうわ
1926 ~ 1989
231 平成 へいせい
1989 ~
171
附 2 度量衡のリスト
本文中にも一部書き込みました。
長さの換算(曲尺)
尺貫法(曲尺)
メートル法
1 里=36 町
3.93 km(ほぼ 4km)
1 町=60 間
109.09 m (ほぼ 110m)
1 丈=10 尺
3.03 m
1 間=6 尺
1.818 m
1 尺=10 寸
0.303 m
1 寸=10 分
3.030 cm
1 分=10 厘
3.030 mm
1 厘=10 毛
0.303 mm
1毛
30.3 μm
この他に、鯨尺という少し大きいものがあります。織物関係で使用します。
【度】面積・広さの換算(尺貫法)
尺貫法
メートル法
1 町=10 段
0.992 ha 1 ヘクタールに非常に近い
1 段(反)=10 畝
9.917 アール
1 畝=30 坪
0.9917 1 アールにほぼ等しい(=10m 四方)。
1 坪=10 合、36 平方尺(6 尺四方)
3.3 m2
【量】体積・容積 大きさの換算(尺貫法)
尺貫法
メートル法
1 石=10 斗
180.39 l
1 斗=10 升
18.039 l
1 升=10 合
1.8039 l
1 合=10 勺
1.8039 dl
【衡】質量、重さの換算(尺貫法)
尺貫法
メートル法
千貫=1000 貫 3.75 t
15/4 t
1 貫=1000 匁 3.75 kg
15/4 kg
1 斤 160 匁 0.6 kg b
3/5 kg
1 匁= 10 分 3.75 g
現代でも、金(キン:gold)の換算には稀れに使うようです。
1 尺や 1 貫などは、明治に入ってメートルに合わせて決め直したので、割合にすっきりし
た数値と比率です。
172
附 3 地図:本書の概略の関係
一部、場所が同定できたものを書き込みました。地図の源はその下に書いてあるものを使
用して少し変更を加えました。