あがめる銅

マルコ7・1‑23
マル コに よ る福 音 書
一
二三節
佐藤
東北学院大学キリスト教学科教授
司郎
し筋道 はは っきり し ており'じ つさ いの説教 でど の部分 が強調
また汚れた手 による食事 への彼ら の非難 は多‑ の非難 の中 の 一
む ろ ん彼 ら フ ァリサイ派 と律法 学者 たち にと って本 来 問 わ
ヽヽヽヽ
れる べき者 はイ エスであり (
五節 「
イ エスに尋ねた」 口語訳)
〜
そ の人全体 が宗 教的 に不浄 で為 る
一
されるとし ても こ の箇所全体を テキ ストとす る のがよ いよう に
つにすぎず'真 の問題はイ エスと弟子たちが 「
昔 の人 の言 い伝
な‑衛生上 の問題 ではなく
ことを意味し て いた.
いう こと であ った。 この場合手を洗わな いこと は、言う ま でも
レムから」来 た 「フ ァリサイ派 の人 々と数 人 の律 法学者 たち」
ヽヽヽ ヽ
(
三 ・二二参 照) が見と がめた のは' イ エスの弟 子 のあ る者 た
ヽ
け
が
ち の生活態度'す なわち 「
汚れた手」 のまま食事 をし て いると
七章
テキ ストは論争的対話 (
七 ・1
‑ l三)とそれを受 け てなさ
れた群衆および弟 子たち に対す るイ エスの教え 二 四‑ 二三節)
とから成り立 って いる。前半 の 「フ ァリサイ派 の人 々と律法学
け
が
者 たち」とイ エスと の論争的な やり とり は 「
汚 れ」を めぐ って
はじまり (一
‑ 八節 )' さら にそ れ に関連 し て昔 の人 の言 い伝
え の安当性と いう い っそう根本的な律法 の問題 が取りあ っかわ
思われる。以下' はじめに釈義 に関わ る諸点 を確認し'そ の後
え に従 って歩」 んで いな い'自由 にや って いると いうと ころに
れる (
九‑ 一三節 )
。説 教 のテキ ストと し ては少 し長 い。 しか
黙想を記した い。
あ った。
預言者 イザヤ の言葉 (
二九 ・一三、七十人訳)をも ってイ エ
スは彼 ら に答 え た。「
偽善者」 の意味 はこ のイザ ヤ の言葉 から
理解 されなけ ればならな い。
二 主観的 に不誠実 な人 間 のこと で
▲
"
一
‑八節
はなく'むし ろ主観的な誠実さと完全 に結び つきう る誤 った礼
イザ ヤ の引 用 の中 でわれわれ の箇所全体 の鍵語 の 一つであ る
拝をささげ て いる人」 (
グルント マン)と言 ってよ いであ ろう。
一
‑ 二節は五節 に つづく。 三 ‑ 四節 は宗教習慣 の説明 のため
の挿入 である。
ガリ ラヤに対 し ても権 威をも って いたと思 わ れ る' 「エルサ
77
「
心」 (
カルディア)が出 て‑ ることに注意しておきた い。 この
人間 の生を守る錠をイ エスは'ただひとり 「
善 い者」である神
一四‑二三節
のゆえに徹底して擁護した 二 〇 二 八以下)
。
めて いる人格 の中枢 のこと であ る。「
そ の心がわたしから遠く
問題は再び汚れにもどり'「
人を汚す」も のは何か'イ エス
「
心」とは心 の疎 み'内面性'人 の思 いの源泉'人を人たらし
離れている」と'預言者 の言葉によ ってイ エスは ファリサイ派
法を行うため のも のと理解 されて いた。しかし ファリサイ派と
ダヤ教にお いて 「
言 い伝え」とは ︽
律法 の垣根︾として本来律
よび 「
神 の捉」 (
口語訳 「
神 の いましめ」
) の問題にう つる。 ユ
話題は汚れ の問題からそ の前提とな って いる 「
言 い伝え」お
九‑ 二
節
Lt弟子たちには 「
あなたがたも‑‑分からな いのか」と叱責
て来 るも のが'人を汚す」 二 五節)
。 これは 「たとえ」 であ
ヽヽヽヽヽ
り'したが ってイ エスは 「
聞 いて悟りなさ い」と人びとをさと
るも ので人を汚す ことができるも のは何もな‑'人 の中から出
あれ'基本 の教えは同じである。すなわち 「
外から人 の体 に入
が 「
群衆」 二 四節以下)であれ 「
弟子たち」 二 七節以下)で
の教えが示される。われわれ のテキ ストの枢要部 である。相手
律法学者たち にお いて起 こ って いた のは 「
自分 の言 い伝えを大
し っつ (
四二 三㌧六・
五二)
'よ‑理解することを求めた (
四・
と律法学者たち の実態をあからさまに指摘した。
事 にして‑‑神 の錠をな いがしろにする」 こと であり'「
受け
二 )
0
人を汚す のは人 の外にあるも の'人の外から来 るも のではな
継 いだ言 い伝え で神 の言葉を無にし ている」こと であ った (
「
無
にして いる」とは法律用語 で 「
無効 にする」 の意味)
。
いと いう言明 でイ エスは フアリサイ派と律法学者たち の考えを
父と母とに対す る責任を神 への奉仕を口実 に回避 できるとする
対置した。 この言 い伝え' この習慣 の何が問題な のか。それは
ればそれを父または母 のために役立 てな いで済むと いう習慣を
だ言 い伝え'すなわち何 でも コルパ ン (
神 への供え物)と宣す
二 一二 七)
'それに フ ァリサイ派と律法学者たちが受け継 い
法から第 四戒とそ の解釈を捷示し (
出 エジプト記 二〇 二 二㌧
ている」 一三節) のは第 四戒 である。イ エスは 「モーセ」 の律
マ 一四 ・一四㌧ コロサイ二 二 一
〇‑ 二二)
0
題などに大きな影響を与えた (
使徒 一〇・二 1 二 ・一八'ロー
と汚れたも のの区別の問題や' ユダヤ人と異邦人 の交わり の問
一二などを見 よ)
。 この考え方は初代教会 にお いて、清 いも の
四五。 マタイ五 ・八'七 二 五以下' 一二 二二三、詩編五 一・
し'
悪 い人は悪 いも のを入れた倉から悪 いも のを出す」(
ルカ六・
られる。「
善 い人は良 いも のを入れた心 の倉 から良 いも のを出
の心から」来るも のが人を汚す。同じ思想は福音書 の随所に見
れ自体汚れたも のなどな いのだ。むしろ 「
中から' つまり人間
否定した (
レビ記
一例として取り上げられた (
「
同じようなことをた‑さん行 っ
非人間的な欺臓 である。そしてそれはじ つは神をあがめている
ことにもならな い。イ エスの知 って いる神 の錠は人 のためにあ
‑ 一五章参照)。神 の造られたも のでそ
るのであり (
二 ・二七㌧三 ・四)'「
父母を敬う」 ことも含めて
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マルコ7・1‑23
つの言葉 でくく ら れう るも のであ る。
ツ ァー)も のであ ろう 。 これらはま さ に 「
悪 い思 い」と いう 一
様 「ヘレ ニズ ム のキ リ スト教 から由来 し た」(
E ・シ ュヴ ァイ
二 一‑ 二二節 に列挙 され て いる悪 のカタ ログは他 のも のと 同
したと ころからはじま った。手を洗わず 「
汚れた手 」 のまま食
の中 に食事 の前 に手 を洗わな い者 が いることを見と がめ'非難
と数人 の律法学者たちが来 てイ エスのもと に集 まり'彼 の弟子
こ の箇所 の論争 的対話は エルサ レムから ファリサイ派 の人 々
事 す る こと の問題は、す でに釈義 の部分 で確認した よう に衛 生
上 のこと ではなく宗教上 のこと であ った。ただ これは モーセ の
律 法 に明記 された いましめ ではなく'敬慶な者 は守 るべLとさ
れ て いた 「
昔 の人 の言 い伝え」 であ る。 三節 以下 によれば'市
二
場 から帰 ってきたときも'そ の間異邦人と の接触 で汚 れたかも
知 れず'した が って体を清 めたり'買 ってきたも のを水 で清 め
以下'黙想を 記す。
の日 々に いた るま で (一〇 ・1
‑
るだけ でなく 「
杯'鉢、鋼 の器や寝台」も清 めなければならな
イ エスの公生涯 はそ のはじめから (
二 ・一‑ 三 ・六)終 わり
論争 的対話 によ って彩 られ て いた。 そ の相手 はほと んど が フ ア
いとされ て いた。
1
' 1二 ・一三‑ 三七'他 )
リサイ派 の人びと と律法学者 たち であり' それら にしばしば祭
え」 や習慣と い ったも のの呪縛 から人びとを解 き放ち'福音 の
と いう のも これら の対決を通 し てイ エスはさまざ ま の 「
言 い伝
問答もイ エスにお いて宣 教 でもあ ったと いわなければならな い。
は多‑ の場合さび し いも のとな った。と は いえ こう した論争も
た (
三 ・六' 一 一・ 一人' 一四 ・ 二 。 そ れ ゆえ そ のやりと り
三一
)
'いなむし ろイ エスを 「
殺 そう」とし てな されたも のであ っ
「
試 し」 (
八 ・ 二 ㌧ 一〇 二 一
㌧ 二 一・ 一五)
、 「陥 れ」 (一二 ・
んこれら はみな真 理を求 め てなされたわけ ではな‑、 イ エスを
「サド カイ派 の人 びと」 (
せ て いなか った。 このこと の意味は小さく な い。われわれはイ
る人 が いた のであ る。そし て少なくともそれをイ エスは止 めさ
われる。それにも かかわらず弟子 の中 には言 い伝え に従 って い
し ておられたLt弟子たち の間 でもそれは変わらな か ったと思
美 の祈 り」 (マル コ六 ・四 一)を唱え た。 イ エスは い つも そう
イ エスはなきらなか った (二 二二八)
。むし ろ食前 にただ 「
賛
による福音書 によれば食事 の前 にまず身を清 めると いう ことを
く'従 って いる者も いた。イ エス自身 はどう であ ったか。 ルカ
つまり言 い伝えとし ての清め の規定 に従 って いな い者 だけ でな
ず食事を し て いた のは弟子たち の全部 ではなか った こと であ る。
われわれがまず注目した いのは'非難されたよう に手 を洗わ
自由をそれによ って提示 し、真実 に神 に従う道を明らか にし て
エスと 「ファリサイ派 の人 々と律法学者たち」と の対立を'た
司長'長老 たちt へロデ派 の人 びと が加 わり'さら に例外的 に
く ださ ったから であ る。 われわれ のテキ ストもまさ にそう した
んにイ エスは言 い伝えとして の清め の碇 に従わなか った のに対
1二 八)と の論争 もあ った。む ろ
聖書箇所 の 一つであ ろう 。
79
㍗
と' 一つの物差しを当 てはめて'それに合わな いも のを みな否
き る のではなかろう か。たとえ 「
昔 の人 の言 い伝え」 であ ろう
あれ少しも許 そうとしなか ったと いうと ころに認めることが で
い伝え に従わな い者 の存在をたとえそれがガリ ラヤにお いてで
ま にし てお いた のに対し て' フ ァリサイ派と律法学者たちは言
な い者も いたけれども'それをとがめなか った'まず はそ のま
スは自分 の弟子 の中に言 い伝え に従 って いた者も いたし'従わ
し て後者は従 って いたと いうと ころに見 る のではな‑ て'イ エ
らかな証拠だとも言えるであろう。
いう ことは'イ エスが律法主義 に立 って いなか ったも っとも明
る。そう であれば、イ エスの弟子 の中に いろ いろの人が いたと
し て優越感をも ったり'反対に差別したりす ることが起 こりう
容易 に起 こりう る。神 に対してみずから の業を誇り'他人 に対
いう理由 でBも満たしては いな いのだとし て切り捨 てることが
逆 に'日に見え るAを行 って いな い他人はtAをして いな いと
な いのにtAによ って満たしたかのような見 せかけが生まれる。
定 できることとな ってしま いかねな い。本当 はBを満たし て い
い伝え」は、 これも釈義 の項 で確認したよう に本来律法を行う
(
九節 )と いう 言 い方 で' そ の本質を喝破 した. こう ,
jた 「
言
た」と言 ってきびしく批判した。何よりもイ エスは 「
昔 の人 の
ヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽ
言 い伝え」
を「
人間 の言 い伝え」(
八節)
'「
あなたたち の言 い伝え」
ち は自分 の言 い伝えを大事 にし て‑‑神 の錠をな いがし ろにし
ま」な いのかと問う。 これ に対し てイ エスは彼らに 「
あなたた
法学者たち はイ エスに 「
なぜ‑‑昔 の人 の言 い伝え に従 って歩
両者 の違 いはど こから来 る のであ ろう か。 ファリサイ派と律
のも神 の錠 (いましめ) の真理は神と人とを誠心誠意愛するこ
えるなら' これほどはなはだし い神 の錠 の破壊はな い。と いう
されな い。 コルパンと宣すれば父母に何もしな‑ ても よ いと教
る いは神をあがめること (
七節)は人に仕え ることから切り離
れは両方 に対し て仕え ることにならな い。神 に仕え ること、あ
よれば両親 への義務をな いがしろにして神 に仕えることが でき
い'両親 の扶養義務を逃れようとする者が出 て来た。イ エスに
ルパ ン定式 の習慣 である。じ つさ い当時' コルパ ンと言 って誓
が悪用 ・乱用されて いるような例をイ エスはあげた。それが コ
らな い'それど ころか神 の錠を守らな‑ てよ いよう に言 い伝え
人間 の言 い伝えに従う ことが必ずしも神 の錠を守 ること にな
定 Ltそこに同質性 の集団を つ‑ ろうとす ること' このこと こ
そ律法主義 の本質と いわなければならな い。イ エスは何 よりも
ため のも のであ った。たしかにこう した細別を定め てこれを忠
と にあるのだから。
こう したことから自由 であ った。
実 に行う こと で神 の錠を果たし て い‑と いう のは'分かり やす
行う ことが目 に見えな いBを行 った こと になると いうときtA
こと'起 こり かねな いことは 「
偽善」 であ る。日に見え るAを
が ってわれわれはどのよう にし て真に神 に従う ことになる のか'
な いのはなぜか' つまり 「
人を汚す」も のは本当 は何 か、した
さ てそもそも 「
汚れた手」 で食事をし ても汚れた こと になら
ると考えるならば'それは逆立ちした発想 であ って、じ つはそ
い方法だと言え るであ ろ、
■つ。しかし人間 にお いて現実 に起 こる
は人間が つね に計算 できること であ るので、Bま でも人間が確
..
...
8
0
キリ スト者だけ でなく 1殻 に今 日 の人間 の在‑方 に深‑かかわ
間を呪 います。同じ口から賛美 と呪 いが出 て来 る のです」 (
≡
父 であ る主を賛美 Ltまた'舌 で'神 にかたど って造られた人
辛)と述 べて'人間 の 「
言葉 の過ち」を鋭‑指摘した。しかし
る問題が これら の問 いととも に提起 され て いる。
「
汚れ」をどう見 るか' フ ァリサイ派 や律法学者 たちとイ エ
こう した 「
舌」 の問題も根源的 には 「
心」 の問題 であ る。「
人
近年私 の勤める大学 では学長 の提唱もあり 「
若者 の心を育 て
スと では決定的 に違 って いた。食前 に手を洗う こと にし ても市
出 て来 るも のが'人を汚す 」
。 ここで いう 「
外 から人 の体 に入
る」と いう ことが共通 の教育 モ ットーとなり つつあ る。頻発す
の口は'心からあ ふれ出 ることを語 るのであ る」 (
ルカ六 ・四
るも の」とは食 べ物 のこと であ ろう。 し かしそれだけ でな‑〜
る社会的不正 や凶悪な事件'虐待 や いじめなど許 されな い行為
五)
。言葉 が人を汚し行為が人を汚すとすれば'真 の問題はそ
人間 の身体も ふく め て人間 の外部 にあ るも のす べてを指すと解
や犯罪を'
毎 日のよう に見聞きLt
今 日たしかにわれわれもし っ
場 から帰 ったら清 めるにし ても'汚れは外 に原因があ ると考え
し てよ い。イ エスにと って汚れは外 にはな い。誰 かが汚れ て い
かりした 「
心」を育 てることにそ の教育 の方向を定 めなければ
て いた。しかしイ エスはそう考え て いな い。「
外 から人 の体 に
るとか'何 かが汚れ て いると いう こともな い。神 のお つくりに
ならな いと思わせられるも のがあ る。 この 「
心」はもち ろん表
の心 にあると言わなければならな い。
な ったも のは何 1つ汚れ て いな い.聖なるも のと俗なるも の(
汚
面的なも のではな い。われわれ の箇所が教え るよう にそれは心
入るも ので人を汚す こと が でき るも のは何もな‑'人 の中から
れ て いるも の)と の区別はな い。イ エスはまさにそうした人間
であり (エフ エソ三 二 七)
'そこ へと神が 「アッパ'父よ」 (
ガ
の深みであり'内面性 であり'人格 の中心 である。さら に他 の
ラテヤ四 ・六)と叫ぶ 「
御子 の霊」を送 ってくださ ったと ころ
的区別を乗り越えられた。罪人と呼 ばれた人と食卓 をとも にLt
それなら人を汚すも のは何 か。それは 「
人 の中から出 て来る
であ る。 一言 で言えば'「
心」と は神と の出会 いの場'交 わり
聖書箇所を参照すればこの「
心」
を神は知 っておられ (マル コ二・
も の」 であ る。「
中から' つまり人間 の心から」出 て‑ るも の'
と ではな い。しかし何よりも大切な ことは'そうしたまさに心
重 い皮膚病 の人 に触 れ これを いやし'悪霊 の世界に踏 み込 んで'
それが人を汚し人を神から引き離す。人を汚すも のとは 「
悪い
の次元 の存在す ること'そし てそれが人を汚しもす るLtしか
八㌧ ロー マ八 ・二七)
'「
心」はキリ スト のお住ま いになる場所
思 い」であり'そ こから来 る言葉 であ‑振舞 いであ る。代金を
ヽヽ
ごまかして献げた アナ ニアにべト ロは 「
あなたはサタ ンに心を
ヽヽヽ
奪 われ' 聖霊を欺 いて' 土地 の代金 をごま かした」 (
使徒 五 ・
し同時 に人を人たらしめ'そ の人らし い豊かな人生を可能 にす
とらわれた人びとを解放した。
≡)と言わなければならなか った。ヤ コブは 「
舌 は火 です。舌
るも のでもあ ることを告げ知らせること であろう。それが 「
若
の場 にほかならな いのである。 この心を育 てること は容易なこ
は ﹃
不義 の世界﹄ です」と言 い' さら に 「
わた したち は舌 で'
81
己i
j
1 IL
/.
J ′ ・ I
一
実行 に移す こと によ ってわ れわれも神 よ‑委 託された教会 の教
る。そ の教育 的方策 はさまざ まあ ろう 。それらを みな惜 しまず
て人 の 「
心」 ははじ め て豊 か に大き‑育 つも のだと確信 し て い
こと は分離 され てはならな い。神を愛 し人を愛す る こと にお い
な らな い。す なわち'他者を尊敬 し愛す る こと から神を愛す る
の 「
心」を神 は'榊を愛 し人を愛す るよう にと つ‑ られた。神
を愛す る こと は、神 が愛 されたも のを愛 す る こと でも なけ れば
者 の心を育 てる」教育 の第 一歩 であるよう に思われ る。 こ の人
新 し い心をわ れわれは主イ エスによ って与え られた。 こ の心 は
取り除き'肉 の心を与え る」 (エゼキ エル書 三六 ・二六)。 この
ち の中 に新 し い霊を置く。わたしはお前 たち の体 から石 の心を
許 され て いる。 「
わたしはお前たち に新 し い心を与 え' お前 た
な いによ って罪 から解き放たれ'自由 の中 で神 に仕え ることを
るも のはも は やな い。われわれは主イ エスの十字架 の死 のあが
偏見 や差別 から自由 でなければならな い。われわれを縛 って い
理解をきびしく叱責 せざ るをえなか った のだと思わざ るをえな
E ・シ ュヴ ァイ ツ ァー ﹃
マルコによる福音書﹄(
NTD新約聖書註解刊行会)
参考文献
れはイ エス ・キリ スト の道を歩 んで いきた いのであ る。
自由 の心'暖 か い心 であ る。 この自由 と愛 の心 にお いてわれわ
い。 おそらく われわれもそう であ ろう。 キリ スト者 こそ迷信 や
育 に'あ る いは学校 の教育 に努 めた いも のであ る。
最後 に' これも釈義 の項 で確認した ことだが' 一八節 で弟 子
た ち の無 理解 が 叱責 さ れ て いる こと に触 れ ておき た い。 そ れ
か。す でに指摘 した よう に'イ エスの弟 子たち は'全員 が師 に
はどう いう こと か。次 のよう に考 える こと は できな いであ ろう
な ら って食前 にとく に手 を洗う ことを しなか った'清 め の規定
から自由 にな って いた' と いう わけ ではなか った。 いぜ んと し
て 「
言 い伝 え」 に従 って いる者 たちも いた のであ る。イ エスは
そ の弟子たちも受 け入 れ て いた。われわれはす でにそ のことを
指摘 し'そ の意味を 評価 した。しかしイ エスは い つま でもそれ
で い いと は考 え ておら れ な か った のではな いだ ろう か。 「
あな
た がたも' そ んな に物分 かり が悪 いのか」 (一九節)。 これは相
当 き つい言 い方 だと言 わな ければならな いが' 「
あなたがたも」
と いう のはあなた がた こそそう であ ってはならな いt と いう こ
と であ ろう 。 じ つさ いそう な のではな いだ ろう か。弟 子 たち は
イ エスととも に 「
言 い伝え 」 とし ての清 め の規定 からす でに自
由 にな って いるべきだ った。 それ ゆえ にイ エスは弟 子たち の無
8
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