印度學佛教學研究第 三十入雀第 一號 卒成元年十二月 道 元 禅 師 著 作 の真 偽 に つ い て 大 久 保 道 舟 編 ﹃道 元 禅 師 全 集﹄ 下 巻 に は、 上 巻 に収 め られ た ﹃正 法 眼 蔵﹄ を 除 く、 禅 師 の著 作 が 収 め ら れ て い る。 大 久 保 氏 は ﹃全集 ﹄ の例 言 で、 ﹁禅 師 の著 作 の中 に は、 滅 後 そ の 道 徳 を 慕 う て 故 意 に著 作 を な し、 書 冊 に仕 立 て て こ れ を真 作 に擬 し た も のが 多 く存 し て いる ﹂. が、 し か し ﹃全集 ﹄ で は偽 作 と 見 な さ れ て いる よ う な ﹁疑 わ しき も のは 一切 採 ら な い こ と に した ﹂と 述 べ て い る。 た だ し、 長年 に わ た って真 作 と し て扱 わ れ たも の は、 一応 これ を真 偽 未 了 と し て末 尾 に小 さ な 伊 藤 秀 憲 資料 の引用 は、全て河村孝道編著 ﹃諸本対校永平開山道 元禅 師 行 状 吉祥山命名法語 建捌記﹄︿大修館書店﹀ により、頁数 のみ で出典箇所 を示す。) e 祥 山叩 A南閻浮提大日本国越前国吉 田郡志比荘傘 松 峯、従 二 今日一 多舌 諸仏如来大功徳、諸吉祥中最無上、諸仏倶来入二 此処 噛是 故 此 地最吉祥。 載 ﹂ のも のは勿 論、 ﹁結 集 第 四 ﹂ に収 め ら れ て いる も の の 中 い。 筆 者 は、 ﹃全集 ﹄ で、 大 久 保 氏 も真 偽 未 了 と さ れ る。 ﹁附 おり、以下 これ を用 いる)﹃建 纐 記 ﹄及 び ﹃訂 補 建揖 記 図 絵 下 ﹄ 本対校永平開山道元禅師行状建衡記﹄ ではこれを瑞長本 と 呼 称 し て ﹃全 集 ﹄ で は、 原 文 は瑞 長 本 (﹃全集﹄に天正本 とあ るが、﹃諸 (﹃全集﹄下 ・三九四頁) にも、 禅 師 の著 作 とす る に 疑 問が 残 るも のが 少 な か らず あ る に収 載 さ れ て い ると し て い るが、 これ は訂 補 本 によ って いる 宝治 二年十 一月 一日 と 考 え る。 本 稿 はそ れ ら に つい て、 ﹃全集 ﹄ の所 載 順 に 真 偽 のであ って、 瑞 長 本 に は右 と 同文 の法 語 は収 め ら れ て い な 活 字 の二 段組 で附 載 さ れ て お り、 そ れ ら に つい て は解 題 は な を 検 討 しよ う と す る も ので あ る。 い。瑞 長 本 で は、 寛 元 二年 (= 一四四) のと ころ に、 B同七月十 八日、奉レ請 一 和尚 一 開堂説法、 爾時和尚云、 従 二 今耳 ( 本稿 での道元禅師 の著作 の引用 は、大久保道舟編 ﹃道元禅師全集﹄ 上 ・下巻 <筑摩書 房﹀ によ り、﹃全集﹄上 ・下と略記し、禅師 の伝記 -156- 名二 此 山 吉 祥 山 門号 二 寺 大 仏 寺 ﹁則 作レ頒 云、 諸仏 如 来 大 功 徳、 諸 吉 祥 中 最 無 上、 諸 仏 倶 来 入 二此 処 嚇是 故 此 地最 吉 祥。 (四九 五〇 頁) と こ ろ で、 大仏 寺 を ﹁傘 松 峯 ﹂ と 号 し た と いう 古 い記 録 は あ ろう。 なく、 面 山 に よ って 呼称 され たも の であ ろ う と言 わ れ て いる か ら (﹃永平寺史﹄ 一=二頁)、Aが 真 筆 の写 し と いう の は 疑 わ よ う に な った のは ﹁建 長 元年 ﹂ 以 降 と の指 摘 も あ る ( 同二 三 し い。 で は B で は ど う か。 文 献 的 に は ﹁吉 祥 山 ﹂ と 称 さ れ る 頁)。 寛 元 二 年 二月 二十 七 日 吉峯 精 舎 で の示 衆 であ る ﹃正法 眼 と あ る。 訂 補 本 も 寛 元 二 年 の 項 に こ れ と ほ ぼ 同 文 が あ る の で テ、 自 作 シ唱 ヘラ ル、 直 ノ経 文 ニ ハア ラ ス、 マタ コノ時 ニハ、傘 上 ノ四 句 ノ偶 ハ、華 厳 経 夜 摩 天宮 品 ノ偶 ノ例 ヲ 以 テ、 文 字 ヲ易 ヘ て い る (﹃全集﹄上 ・五四二頁) の であ る から、 新 し い寺 の号 は 蔵 ﹄ の転 法 論 の巻 で は、 禅 師 は自 分 の こと を ﹁大 仏 ﹂ と 言 っ あ る が、 そ の 後 に、 ノ写 シ、今、 洛 下道 正 庵 ニア リ、 コ コ ニ記 ス、 (一四 八頁) 松 峯 ト号 シ テ、 吉 祥 山 ノ号 ニ ハ、宝 治 二年 二初 テ改 メラ ル、 額 字 既 に決ま って い た と 言 え る。 と す ると、 B の真 愚 性 も 疑 わ し いと いう こ と に な る。 し か し、﹁吉 祥 山 ﹂の号が 文 献 に表 われ と あ っ て、 A を 引 く の で あ る。 そ し て、 八 行 二書 セ リ、 コ レ真 筆 ノ写 シナ リ、 自 一 一 今 日 一ト ア レバ、 昨 日 マ て い な いと い う こ とが、 即 ち称 しな か った と いう こと に は な 寛 元 二年 七 月 十 八 日 の開 堂 説 法 に当 って、 吉 祥 山 大 仏 寺 とす ら な い し、 ﹁大 仏 寺 ﹂ と 称 す る こと は既 に決 ま って は いた が、 デ ハ、傘 松 峯 ナ リ、 コ コ ハ記 者 ノ失 考 ナ リ、 (一四 八頁) と あ る。 大 久 保 氏 は 解 題 で、 訂 補 本 は ﹁吉 祥 ﹂ に つ い て ﹁上 立春 大 吉 文 大吉、立春 大吉。 大吉開山、永平大吉。道玄 寛元五丁未立春、大吉大吉。 (﹃全集﹄下 ・四〇 六頁) (華押) 南談仏法僧宝大吉、立春大吉、 一家祖師祖 宗 大 吉、 (中略)大吉 ⇔ る こ と を、正 式 に大 衆 に告 げ た と 考 え る こ と も でき る。だ が、 ノ 四 句 ノ偶 ハ、 華 厳 経 夜 摩 天 宮 品 ノ偶 ノ 例 ヲ 以 テ、 文 字 ヲ 易 へ こ れと ても 推 測 にす ぎ ず、 真 作 であ ると は断 定 でき な い。 ヘ ヘテ 自 作 シ テ 唱 ヘ ラ ル、 直 ノ経 文 ニ ハ ア ラ ス﹂ と 述 べ て い る ヘ が、 吉 祥 山 の 山 名 は 経 文 に 依 拠 す る の で は な く、 宝 慶 寺 所 蔵 ヘ の禅 師 の月 見 像 賛 に ﹁越 州 吉 田郡 吉 田祥 山 永 平 寺 ﹂ と あ る こ と か らも、 永 平 寺 が 吉 田郡 にあ った 関 係 かち 吉 田 の祥 山 の意 味 で名 づ け ら れ た の で はな いか と す る (﹃全集﹄下. 五四三頁)。 こ の よう に ﹁吉 祥 山 ﹂ の山 名 の成 立 に 鳳異 論 を 唱 え な が ら も、 大 久保 氏 は 訂 補 本 によ って いる。 そ れ は訂 補 本 が 道 正 庵 藤) に伝 わ る真 筆 の写 し と いわ れ る も のに よ って い る こと か ら で 道元禅 師著作 の真偽 について (伊 -157- 本 文 の真 偽 に つ いて は、 拙 稿 ﹁﹃正 法 眼 蔵﹄ 撰 述 示衆 年 代四 と いう も のは、 気 の持 ち よ う で変 わ る も のであ ると し、 そ の と こ ろ、 腫 物 は う み つぶ れ、 何 事 も な か った話 を あ げ、 病 気 道元禅師著作 の真偽に ついて (伊 藤) 考﹂ ( ﹃駒沢大学仏教学部研究紀要﹄第 三九号、 一九八 一年三月) のV 後、 宋 に渡 った時 の禅 師 自 身 の体 験が 述 べ られ て い る。 そ の 記 を対 照 す る と 次 のよ う であ る。 聞 ノ 瑞長本 建蜥記 ヤ ミ シ時、 俄 二悪 風 吹 来 船 中 ノ 吾 昔 時 入 宋 時、 船 中 ニテ痢 病 ヲ 随 シ テ痢 病 ヲ セ シ ニ、悪 風 出 来 テ シ、 今 ヲ限 ト斗 云 テ、 手 ト手 ヲ 動 揺 不 尋 常、 人 々皆 ナ 謄 ヲ 消 ム 取 合 テ アリ シ ニ、愚 僧 一心 二観 音 経 ヲ読 ム、 入於 大 海、 仮 使 黒 風 (中 略) 以 是 因 縁、 名 観 世 音 フ ニ、学 道 勤 学 シテ他 事 ヲ忘 レ 覚 ト云 々、 却 セ ハ、自 ラ病 モ起 ル間 敷 カ ト 思 二、学 道 勤 学 シ テ、 他 重亨ヲ亡心 ヨリ我 力痢 病 平 腹 ス、 是 ヲ 以 テ ト、 頻 二奉 レ念 シ時、 風 雨漸 ク 穏 ヤ カ ニ成 シ、 其 時 謄 ヲ ケ シテ パ、病 モ オ コル マジ キ カ ト覚 ル は、 嘉 禎 三 年 (一二一 二七)の記 録 と し て、 ﹃随 聞記 ﹄ を 引 用 し 記 録 と し て であ り、 禅 師 の説 示 は、 力 を尽 し て仏 道 を学 び、 こ こ で瑞 長 本 が ﹃随 聞 記 ﹄ を 引 いて いる のは、 嘉 禎 三 年 の シ、 時 出 現 シ給 ウ カ、 但 シ本 記 録 ナ 今 推 量 ス ル ニ、 一葉 ノ観 音 ハ此 ル 也。 病 忘 テ止 マリ ヌ。 是 ヲ 以 ツテ 思 船 中 サ ワギ シ時、 我 モ当 時 ミ入 宋 ノ時 キ、 船 中 ニ レ 箇 所 の ﹃随 聞 記﹄ (﹃ 全集﹄下 ・四八九頁) と瑞 長 本 ﹃建痴 記 ﹄ ﹁附 記 ﹃立春 大吉 文 ﹄ 真 偽 考 ﹂ で論 じ た か ら、 結 論 のみ を記嗣 す こと にす る。、 ﹁寛 元 五年 丁未 立 春、 大 吉 大 吉 ﹂ とあ る こと か ら、 寛 元五曲 年 の立春 に本 文 は書 か れ た と さ れ て いるが、 寛 元 五年 に は立 賛 ょる偽 作 であ ると 言 え よ う。 春 が な か った の であ る から、 そ のこと を 知 ら な い後 世 の者 に ⇔ (マ マ) 一花 五葉開、 一葉 一如来、 仁治壬寅歳九月初 一日 弘誓是深海、同向運善財。 沙門道 元賛 (﹃全集 ﹄下 ・四〇 八頁) こ の賛 は、 一般 に ﹃一葉 観 音 賛 ﹄ と 言 わ れ て お り、 禅 師 の 自 画 自 賛 と称 す る 一葉 上 の観 音 の肖 像 及び 賛 が、 古 来 版 画と し て多 く 流 行 し た。 と ころ で ﹃全 集 ﹄ は瑞 長 本 ﹃建 衡⋮ 記﹄ ( 四 二ー 四三頁) に依 た後 でも 触 れ て いる。 ﹃随 聞 記 ﹄ で は、 大 恵 禅 師 が 尻 に 腫 物 他 の こと も 忘 れ て し ま う と、 病 気 も お こら な い と い う こ と を って いるが、 一葉 観 音 に つ いて は、 瑞 長 本 (三六- 三七頁) で が でき、 死 ぬ か も知 れ な い と言 わ れ て も、 一層 坐禅 に励 んだ -158- 言 わ ん と し て いる。 と ころ で瑞 長 本 で は、 こ の次 に、 ﹁又 随 聞 記 云 ﹂ と し て、 巻 一の巻 頭 の ﹁示 二云、 ハヅ ベ ク ンバ 明 眼 ノ人 ヲ ハヅ ベ シ﹂ (﹃全集﹄下 ・四 一九頁) で始 ま る 一段 を、 全 文 ほぼ 正 確 に引 用 す る のであ るが、 こ の暴 風 の折 に ﹃観 音 経 ﹄ を 論 した こと に な く、 瑞 長 本が、 輩 契 昌 痛 朝シ給 二+八震 壌 九州肥後国求麻之 症之 中、河尻之大渡 ト云処 二居住 アリ、(三二頁) 讃 と、 帰 国 の事 実 のみ を記 す と こ ろ に、 延 宝 本 (一六八○年書 写) で は、﹃日 域曹 洞 列 祖 行 業記 ﹄ (以下 ﹃列祖行業記﹄ と略す。 一六七三年刊) の ﹁初 祖 道 元禅 師 伝 ﹂ (一七 一頁)よ り、 招 宝 七 郎 大権 修 理菩 薩 が 正 法 を 護 るた め に、 三 寸 ぼ かり の白 蛇 と な って鉢 嚢 の中 に 入 った話 と、 観世音菩薩 亦海風俄悪、波濤怒怒鼓、 一船無二人色 噛師諦二普門品 ↓忽補 陀 大 ノ事 士乗 二 蓮葉 一 涯二海上 ↓師自図二其像 噛系二賛干其上 一 而梓レ 之、 世号二 ﹃随 聞記 ﹄ に は な い。 これ は著 者 の建 衡 が 見 た ﹃随 聞 記 ﹄ が よ って 風 雨が 穏 や か に な った と い う箇 所 のみ は、 現 存 す る 一葉観音 肉少頃風波惜如也、以レ故孤帆無レ慈、速着 一 肥之 後 州 河 そ のよ う なも のであ った のか、 或 いは、 ﹃随 聞記 ﹄ の引 用 文 聞記 ﹄ の記 述 と、 当 時 禅 師 の作 と し て伝 わ って いた ﹃一葉 観 尻 噛実安貞元 却年也、河尼大渡 ト云処居住、 (三二頁) 中 に、宋 に渡 った 折 の話 が 挿 入 さ れ た の であ ろう。 こ の ﹃随 音賛 ﹄ とが 結 び つき、 ﹁今 推 量 ス ル ニ、 一葉 ノ観 音 ハ此 時 出 へ と、 帰 国時 に暴 風 にあ った 話 を 挿 入 し て い る。 そ こ で は、 普 現 シ給 ウ カ、 但 シ本 記 録 ナ シ﹂ と、 記 録 は な いが、 こ の暴 風 ヘ の時 に出 現 し た の であ ろ う か と い う推 測 に至 った も のと 考 え 世 音菩薩 ノ事﹂ とあり)が 現 わ れ て、 そ れ を禅 師 が 画 き 賛 を 系 門 品 (﹃ 観音経﹄)を 論 す と 蓮 葉 に乗 った補 陀 大 士 ( 傍注 に ﹁ 観 明州 本 ・門 子 本 ・元文 本 ﹃建 衡 記 ﹄ も、 語 句 の多 少 の違 い ら れ る。 はあ るが、 引 用 す る ﹃随 聞 記 ﹄ の内 容 は瑞 長 本 に 同 じ で あ さ ま る の であ るが、 自 画 自 賛 だ け で なく、 版 を 彫 った と いう ぎ、 更 にそ れ を版 に彫 ったと す る の であ る。 や が て風 波 は お コノ冬、支那 ヨリ船 ヲ発 シテ、船中 二黒風 二値 フ時、師船上 二黙 る。 一方、 訂補 本も 帰 国 時 の話 と し て、 次 のよう に 記 し て、い 画 の影 響 によ る のであ ろう が、 延 宝 本 は こ の賛 を 載 せ な い。 こと ま で加 わ る のは、当 時 流 布 し て いた コ 葉 観 音 像 賛 ﹂の版 る。 と こ ろが、 瑞 長 本 で は建 衡 が 推 測 し て いる 箇 所 が、 門 子 本 で は ﹁此 船 中 ニテ 一葉 ノ観 音 ハ出 現 シ、 但 無 本 記 録 云 ﹂ と、 記 録 に はな いが こ の船 中 に 一葉 観 音 が 出 現 し た と いう こ と に な り、 明 州 本 ・元文 本 で は ﹁此 中 一葉 観 音 出 現 ﹂ と いう 史 実 と し て記 さ れ て い る。 延 宝 本 ・訂 補 本 ﹃建 衡 記 ﹄ で は、 こ の ﹃随 聞記 ﹄ の引 用 は 道元禅師著 作 の真 偽 について (伊 藤) -159- 藤) 本 (一〇 二頁)が 仁 治 三 年 (一二四 二)九 月 一日 のも の と し、 道元禅師著作 の真 偽 について ( 伊 リ、乃日本 ノ安貞元年 二当テ、肥後 ノ川尻 二著岸 ス、 一葉 ノ観音 坐 シケレバ、忽観音大士、蓮葉 二乗 ジテ海面 二泥 デ、風 波 穏 ナ に ﹃観 音 経 ﹄ を 諦 し た と ころ、 風 雨が 穏 や か に な った と いう そ れ を 否 定 す る 資 料 はな いが、 渡 宋 の折 に 暴 風 に遭 い、 一心 答近衛某法語 この寺 の監院 の僧 が そ の像 を 画き、禅 師 が 賛 を 付 け、そ れ を 監 一葉 に乗 った 大悲 尊 を、 自 ら刻 った も の であ る と し、 そ の後 禅 師 が 帰 国 の折 に暴 風 に遭 い、船 上 に黙 疇 し た時 現 わ れ た蓮 ・こ れ によ れば、 河 尻 津 にあ る 南 浜 山観 音寺 の本尊 は、 道 元 宗 が 伝 来 し た のか と いう 彼 の問 題 に、禅 師 は、 名 相 の仏 法 が 近 衛 殿 が 誰 であ る か は不 祥 であ るが、 我 が 国 の先代 に こ の 南嶽下分二吾宗 一 云云。 ( 後略) ( ﹃全集﹄下 ・五 一四頁) 当二 其時 一 始流二通西来直指之祖道 叩自レ爾以来六代、曹難 ・青原 ・ 伝二名相仏法鴨以後至二 干 梁朝普通 八年↓検二時代 一 僅 四百余年也、 歳也。而今仏心宗流 通正当二這時節殉神丹国後漢明帝永平 年 中 始 也否。師答云、我朝名相仏法伝来、伝二聞仏法名相 一 以来、僅 四百余 仁治 三年壬寅四月十 二日、近衛殿謁法談次問、我朝先代此 宗伝来 (四) って い る の であ って、 史 実 で はな い。 き な いが、 こ の 一葉 観 音 に関 す る 話 は、 建 衡 の推 測 か ら始 ま った と 言 え よ う。 ﹃一葉 観 音 賛 ﹄ そ のも の は偽 作 と は断 定 で 時 の話 と な り、 禅 師 自 ら が葉 観 音像 を 刻 る など と 変 化 し て い 始 め は推 測 であ った も のが、 い つのま にか史 実 と な り、 帰 国 の話 と、 ﹃一葉 観音 賛 ﹄ が 建擶 に よ って結 び 付 け て考 え られ、 部 分を 含 む (増稿されたも のであ るのかも知れないが) ﹃随 聞記 ﹄ ハ、ソノ影 ヲ写 セルナリ、(三 二頁) 訂補 本 で は ﹃観 音 経﹄ は 諦 さず、 ﹁黙 坐 ﹂す る と 観 音 大 士 が現 われ、 風波 は穏 や か と な る のであ る。 そ し て、 一葉 観 音 は そ の姿 を 写 し た も のと す る。 訂 補 本 に は、 更 に ﹁補 ﹂ の部 分 が あ り、 次 のよ う に記 し て いる。 肥後州河尻津、有 レ 寺号 二 南浜山観音寺 哨本二 尊 於 一葉 観 音 ﹁寺僧 伝謂永平祖師帰朝値 二 悪風於南浜 ↓時黙二疇船上 ↓則忽見下大 悲 尊 乗二 蓮 一葉 一 而浮由海上b風波悟如、 及レ得二 著岸 噛自 刻二其所7 観而 安二 干此 ﹁以レ故有二 南浜 観音之 号 門其後監 院僧、 画二其像 一 謁二 祖師 於洛南 ︼ 乞レ賛、便題云、 一花五葉開、 一葉 一如来、 弘誓深 如海、 同同運二 善 財ハ監院彫レ版、其版現今蔵二 寺傍之 民 家 一 云、(一四四 院 が 版 に彫 った と す る。 そ れが 当 時 流 布 し て い た ﹁一葉 観音 日本 に伝 わ って か ら 四 百 余 年 に し て、 自 分が 将 来 し た ﹁仏 心 頁) 像 賛 ﹂ の版 画 と いう こと に な る の であ ろ う。 訂 補 本 で は﹁賛 ﹂ 帝 の永 平 年 中 に名 相 の仏 法 が 伝 わ って か ら 四 百余 年 後 に、達 宗 ﹂ が 流 通 す る こと と な った が、 中 国 にお いても、 後 漢 の明 ﹃一葉 観 音賛 ﹄ は、 瑞 長 本 (四二i四 三頁)・明 州 本 ・元文 のみ が 道 元禅 師 の作 とす る のであ る。 -160- 摩 に ょ って 始 めて ﹁西来 直 指 の祖 道 ﹂が 流 通 し た こ と等 を 答 え て いる。 こ の答 の傍 線 部 分、 即 ち永 平年 中 に伝 った のは名 相 の仏 法 であ って、 達 摩 に よ つて 本当 の仏 法が 伝 わ ったと い う 主 張 は、 次 のよう に ﹃正 法 眼 蔵﹄ の中 に見 る こ と が で き し。しるべし、仏心宗 の称は偽称 なりと いふ こと。(﹃全集﹄上 ・ 三八六頁) と、 宗 称 を批 判 す る中 で、 ﹁仏 心宗 ﹂ と 称 す る こ と を 徹 底 的 に批 判 し、 ﹁仏 心 宗 の称 は偽 称 な り﹂ と ま で言 って い る か ら 心宗 ﹂ と称 す る であ ろ ケ か。 近 衛 殿 に対 す る禅 師 の答 は、 禅 であ る。 そ のよ う な禅 師 が、 自 ら 伝 え た 正 伝 の仏 法 を、 ﹁仏 師 に ふ さ わ し いも ので はあ るが、 禅 師 が 使 用 す る はず の な い る。 後 漢の孝明皇帝永平年中よりこのかた、西天 より東 地に来到す る ﹁仏 心宗 ﹂ の 一語 によ って、 偽 作 であ る こと を 露 呈 し たと 言 え よ う。 僧 侶、くびす を つぎてたえず。(中略)ただ いたづ ら に論師 お よ ﹃全集﹄上 ・二八八ー 二八九頁) (五) 紫 衣 辞 退 偶 永平錐 二山浅 ↓勅命重重重、 郡被 二 猿鶴笑 門紫 衣 一老翁。 列祖行業記 後嵯峨 聴 二師 道 誉 門 錫 二紫 院也、 上人号也、是時本 之 号、 朝未レ有二禅師之号噛 (一七 一頁) 偶 日、(偶略)上嘉歎久之、 延宝本 建蜥記 一、寛 元 年 中、 後 瑳 峨 院 聴 二師 道 誉 ↓錫 二 紫 方 砲 仏 法之 号 噛肚齢・ 喜 歎 久之、 云 云、 (六〇 頁) 謝二 叡 恩 噛献 レ 偶 云、 (偶 略) 上 是時本朝 未レ有二師再三力辞不レ 許、 師 再 三力 辞 不 レ許、謝 二叡 恩 門献 レ 禅師之号 一 也、 方砲仏法 寛 元帝、 せぽ 次 のよう であ る。 禅 師 伝 ﹂ を 受 け て書 き 込 ま れ た も のと 思 わ れ る。 対 照 し て示 先 ず 延 宝 本 であ るが、 これ も ﹃列 祖 行業 記 ﹄ の ﹁初 祖 道 元 宝 本 ・訂 補 本 であ る。 こ の偶 が 記 載 さ れ て い る の は、 ﹃建 衡 記 ﹄ で は 瑞 長 本。 延 (﹃全集﹄下 ・五 一五頁) び 三蔵 の学者 に習学せる名相 のみなり、仏法 の正嫡 を き か ず。 (伝 、衣 すな はち梁代 の普通八年 丁未歳九 月二十 一日なり。 (中略)祖師 西来せずば、東地の衆生、 いかにしてか仏正法 を見聞 せむ。いた づらに名相の沙石にわづら ふのみなら ん。 (行持下 ﹃全集﹄上 ・ 一四〇1 一四 一頁) 確 に禅 師 の答 は ﹃正 法 眼 蔵 ﹄ に見 ら れ る主 張 と 一致 し て は いる。 だが、 ﹁仏 心宗 ﹂ とあ る のは ど う であ ろ う か。 な ぜ な お よそ世尊在世、か つて仏宗と称しましまさず。霊山 宗 と 称 せ らば、 禅 師 は仏 道 の巻 で、 ず、祇園宗と いはず。 我心宗といはず、 仏心宗と いはず。 いつれ の仏語にか仏心宗と称す る。いまの人、なにをもてか仏心宗と称 す る。世尊な にのゆゑにか、あなが ちに心を宗と称 せん。宗なに に、 ょかてか、かならずしも心なら ん。も し仏 心宗あ らば、 仏身宗 し。仏髄宗 ・仏骨宗 ・仏脚宗 ・仏国宗等あ るべし。い ま こ れ な あ るべし、仏眼宗あるべし、. 仏耳宗ある べし、仏鼻 舌等宗 あるべ 道元禅 師著 作 の真偽 に ついて (伊 藤 ) -161- 含 む 記 事 が あ ったと し ても、 こ の記 事 の正 し い こと に はな ら 藤) ﹃列 祖 行 業 記﹄ は更 にそ の前 の ﹃永 平 開 山 道 元 和 尚 行 録 ﹄ な い。 延 宝 本 よ り 七〇 年 余 り後 であ る か ら、 面 山 は加 え ら れ 道 元禅師著作 の真偽に ついて ( 伊 (一六七三年刊、撰述 はこれより以前) によ って い ると 思 わ れ る る記 事 や偶 は な か ったと 言 え る。 そ れ 以 前 の古 伝 に は勿 論 な 以 上 の こと か ら、 ﹃建揃 記﹄ に は 元来 紫 衣 や禅 師 号 に 関 す た 系 統 の ﹃建 衡 記 ﹄ を見 たと 考 え る こと が でき る ら であ る。 い。 紫 衣 や禅 師 号 を 再 三 辞 退 さ れ た と いう の は、禅 師 にふ さ 瑞 長 本 に ば、 が、延 宝 本が よ った の は ﹃列祖 行 業 記﹄ の方 であ る。 内裡 ヨリ、紫衣 ヲ永平寺 ヱ贈賜時、道 元謝頒云、 を記 し て お く。 近衛某法語、紫衣辞退偶 ( 駒沢大学助教授) <キ ーワード﹀ 吉 祥山命名法語、立春大吉文、 一葉観音賛、答 (一九八九 ・七 ・一九) き な いが、 こ の他 に も偽 作 と 思 われ るも のが あ ると いう こと は な か った。 紙 幅 の関係 か らす べ て に つい て述 べ る こと は で 検 討 し たが、 そ の多 く は偽 作 であ り、 真 作 と 断 定 でき るも の 以上、 道 元禅 師 の著 作 と 言 わ れ るも の 五編 に つい て真 偽 を る)、後 世 にな って 作 ら れ た も のと考 え る べき であ ろう。 年書写﹀ の書 き入れが初めからのも のとすれ ば 三百年余 り 後 と な 降 の諸 伝 に至 って あ ら わ れ る と いう こ と は (瑞長本 ︿一五八九 わ し い話 で はあ るが、 示 寂 後 四 百 年 余 り 経 た 一六 七 〇 年 代 以 吉祥 山錐賎、勅命重 玉蕊、還被猿鶴、紫 衣 一老 翁。 (一三七頁) とあ るが、 天 正 一七 年 (一五八九)に瑞 長が 書 写 し た と いう 識 語 の後 にあ る こと か ら、 元 の ﹃建 衡 記 ﹄ に は な か ったと 考 え て よ いであ ろう。 訂 補 本 (一七五四年刊) に は、 マタ後瑳峨院、聞二師道誉﹃賜 二 紫衣 噛再 三辞 亦不許、受レ 之 不レ 用、 作レ 偶 上謝 スル ニ云ク、 (七 五頁) と し て 次 に偶 を 掲 げ、-﹁補 ﹂ と し て 次 の よう に述 べ て いる。 コノ記 二勅号 ノ事 ナシ、近世撰 ノ伝 二、仏法禅師 ノ号ヲ賜 フトア ル ハ誤 ナリ、深 艸 二在住 ノ時 ヨリ、仏法 上人ト称 ス、仏法 ハ祖師 ノ房号 ナリ、(一五 一頁) こ こ で注意 し なけ れ ば な ら な い の は、 ﹁近 世 撰 ノ伝 二、仏 法 禅 師 ノ号 ヲ賜 フト ア ル ハ誤 ナリ ﹂ と し て いる点 であ る。 面 山 は、古 伝 に は禅 師 号 を 賜 った と いう 記 録 が なく、 近 世 撰 の に限 ってそ のよ う に述 べ て いるが、 紫 衣 に つい ても 言 え る の 伝 のみ にあ る こと に気 付 いて いた の であ る。 訂 補 本 は禅 師 号 で はな かろ う か。 訂 補 本が よ った。 ﹃建 衡⋮ 記 ﹄ には こ の偶 を -162-
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