『2010 年代 世界の不安、日本の課題』 評価書 ――地球科学の観点から―― 原田憲一 京都造形大学藝術教養教育センター教授 本書は、NIRA の自主研究「2010 年代 世界の不安 日本の課題」(実施期間:2005 年 10 月~2006 年 10 月)の成果報告書で、本編と資料編からなっている。ボリュームのある 本編(552 頁)は 3 部構成となっていて、第Ⅰ部はヒアリング編で、9人の研究会メンバー が、思想、経済、政治、健康・生命、地球環境、科学技術の6領域に関わる 12 人の専門家 に対しておこなったヒアリングの成果が、非常に読みやすい形でまとめられている。第Ⅱ 部は論文編で、研究会メンバー7人の手による、経済、政治、社会・文化、地球環境の 4 分野に関わる論文 5 編が収録されている。第Ⅲ部は論点整理編で、2 人の編者により、「世 界の不安要因」の論点整理と、日本が果たすべき役割の方向性が、簡潔明瞭にまとめられ ている。特に専門的な知識をもたない一般読者でも、本編に先立つ「要約」と第Ⅲ部を併 読すれば、研究の全体像が容易に一望できる。その上で、第Ⅰ部のヒアリングを各人の興味 に従って読み進めていけば、芋づる式に知識が広がり、自然に第Ⅱ部の論文を読みこなす ことができるようになるはずである。こうした構成・表現上の工夫は、成果報告書のある べき姿として高く評価したい。 本研究の目的は、グローバル化の潮流に翻弄されて激動する現代社会において、わが国 および国民全体の「総合力」を高めていくために日本が維持・強化すべき内容をあらかじ め検討しておくこと、とりわけ、2010 年代の「世界の不安」につながる項目の抽出をおこ ない、それを解消・解決するために求められる「日本の課題」の方向性を提示することで あった。そして、研究上の特徴は以下の2つのアプローチを採用したことである。一つは、 少し遠い未来から現在を逆照射してみること、つまり遠い憂いを現在において考えること である。中国語風に言えば「遠憂現考」となる。もう一つは、「日本の課題」だけに意識を 集中するのではなく、あえて世界の問題を優先して考えること、つまり「和憂外観」であ る。 このアプローチが成功であったことは、資料編に収められた「世界と日本の不安要因に 関する未来年表 2007-2020」が示している。これは、経済、政治、社会・文化、健康・生 命、地球環境、科学技術の6領域に関して、世界および日本において、2007 年から 2020 年 までに予定されている計画と予測されている事象(602 件)を、国内外の政府・関係機関、 シンクタンク・研究機関、報道機関などの公表資料と文献およびインターネットから収集 して、整理・分類したものである。 世界と日本が見開きで対比されている項目と内容区 分(不安要因の区分)を通読すると、各分野における近未来に対して、If ・・・, then ・・・ ロジックで、さまざまな思考実験をおこなうことができる。そして、そうした思考実験か 1 ら得た予測を、歴史年表から Why ・・・? Because ・・・ ロジックで読み取った歴 史の教訓と重ね合わせれば、現実性の高い対策を考え出すことができるはずである。 資料編の最後にある、研究会メンバー5 人によるコメントの部分で、この年表の作成手法 からくる限界が指摘されているが、本年表をたたき台として改良を重ねれば、より実用性 の高い将来予測の道具に進化していくものと期待できる。 上記のように、世界の視点から日本の問題を観るアプローチが採用されているが、その 場合、世界地図(ワールドマップ)を用いるのか、地球儀(グローブ)を用いるのかで、世界の 見方は本質的に変わってくる。世界地図(ミラー図法)を用いる場合、どうしても世界を平面 的に見てしまい、地球の有限性を見逃してしまう。経済学者の多くが、地球の環境は無限 であり、資源も無尽蔵にあるという前提に立って、経済問題を論じるのは、このためかもし れない。また、球面上での位置関係が把握しにくい。例えば、南極大陸に関して言えば、 オーストラリア、ニュージーランド、チリ、アルゼンチンなどが主張する領土権の範囲を視 覚的に理解することは難しい。それに加えて、地図を発行する国が中央に位置付けられて いるので、どうしても自国中心に世界を見がちである。例えば、日本の世界地図で見ると、 アメリカの東海岸とイギリスは東西両端に配置されているので、両国の地理的な距離と政 治的な緊密関係が視覚的に捉えにくい。しかし、米国の地図で見れば、東京―ワシントン 間は、ワシントン―ロンドン間の2倍近くも離れている。日本人が思い込んでいるほど日 米間の距離は近くないのである。同じことは、日本とアラブ世界と EU の関係についても 言えるであろう。 一方、地球儀を用いた場合、何よりもまず、地球の有限性が嫌でも意識されるようにな る。そうなれば、当然、世界人口が増加すればするほど、必然的に、野生生物の生息域は圧 迫されることになるし、かつ一人当たりが利用できる土地や水は減少せざるを得ないこと が実感できる。次いで、地球儀に海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む境界を書き 入れてみると、生きている星地球のダイナミックな動き(プレート運動)がもたらす地震 や津波、火山噴火といった地質災害が多発する地帯(ゾーン)と、そうした地殻変動がほ とんど起こらない安定領域(大陸地殻)の区別が明らかになる。例えば、日本列島と朝鮮 半島は、地理的には非常に近いが、地質の違いは大きい。つまり、日本列島は全体が変動 帯に位置しているために地質災害が頻発するのに対して、朝鮮半島は大陸地殻の一部であ るためにほとんど被災することがないのである。ちなみに、資料編に、 「日本への影響度順」 の1位として、「強い地震が首都圏に発生、死者1万人以上と1兆ドル以上の経済的損害」 が挙げられているが、この種の予測は韓国にはまったく当てはまらないのである。 とはいえ、山折哲雄氏が指摘しているとおり(第1章)、内閣に属する「地震予知推進本 部」が数年前に「地震調査研究本部」と看板を付け替えてしまった原因は、地震は予知で きない、と地震学者が大きく認識を変えてしまったからである。しかし、地球科学的に言 えば、地震予知はほぼ完成しているのである。なぜならば、プレートテクトニクス理論に従 えば、プレートが沈み込む境界(変動帯)では、大きな津波を伴う海溝型の巨大地震と局地的 2 に激しい揺れをもたらす直下型地震が、百年~千年の周期で、必ず生じる、と断言できる からである。 (ちなみに、ドイツ政府は 1990 年代に地震予知よりも震災の救助と復興に力 を注ぐように政策を転換している。地震予知の精度を上げれば上げるほど、建設資材や医 薬品の買占めや売り惜しみなどの社会的混乱が激化すると予測できるからである。)世界人 口が増加するだけでなく、少数の巨大都市に集中すると予測しているのであれば、変動帯 に乗っている巨大都市が突然被災した場合の影響度を多面的に評価すべきである。そして、 そうした災害多発地帯の住人に対して、日本人の被災と復興の歴史を伝えると共に、山折氏 が言うところの「無常戦略」の浸透を図るべきであろう。 ところで、太陽系第3惑星である地球(グローブ)の特徴は、人間を含めた生き物の存在と プレート運動だけではない。両者の相互作用によって形成される豊かな地下資源の存在を 忘れてはならない。例えば、エネルギー資源となる石炭は、陸上植物が地下に埋積されて 形成されたものであり、石油と天然ガスは、海底堆積物に取り込まれた海洋プランクトン の遺骸が分解して生成したものである。また、多くの金属資源は、岩石に含まれていた金 属元素が、マグマ(岩石が融けたもの)の中で移動・濃集して形成されたものである。し たがって、「グローバルに考え、ローカルに行動する」と言った場合、環境と災害を考える だけでは不十分である。地下資源のことも含めて考えなくてはならないのである。 残念ながら、しかし、本研究ではエネルギー(化石燃料と原子力)に関しては、メンバー全 員が深い問題意識をもち、識者から詳しくヒアリングをおこなったにも関わらず、資源の 現状と将来に対する考察はほとんどおこなわれなかった。おそらく、研究期間が 1 年間と 限られたためであろう。 しかしながら、科学技術立国を国是とする日本にとって、資源問題は、エネルギー問題と 同等以上の重要性をもっている。なぜならば、科学技術の本質は特殊な物質の物性利用に あるので、先端的な技術になればなるほど、特殊な元素や鉱物が必要になるからである。 例えば、液晶ディスプレイに用いられている透明電極の製造には、レアメタルの一種であ るインジウムが不可欠である。 そうした有用な元素や鉱物を供給する母体が資源である。そして、あらゆる資源は、地 理的に偏在しており、賦存量も有限である。例えば、先端技術に必要なレアメタルの分布 は、主に中国、ロシア、中央アジア、オーストラリア、アフリカ、カナダ、ブラジルなどに 限られている。したがって、こうした国々といかなる外交関係を結んでいくかは、日本に とって大きな課題である。同様に、限りある希少な資源を利用する先端技術を開発するだ けでなく、資源枯渇を防ぐための有効利用技術(再回収、再利用)の開発も、日本に期待 される大きな課題である。なぜならば、先進工業国に加えて、いわゆる BRICsなどが、資 源争奪を激化させていけば、大きな世界の不安要因になるからである。 先端技術に必須な希少資源だけが問題ではない。食糧問題とともに、バイオエタノール の問題も扱われていたが、いずれにせよ、栽培植物の増産には施肥(特にリンとカリウム 3 と窒素)が不可欠である。そのうち、窒素は空気から人工的に固定することができるが、 リンとカリは鉱物から取り出すしか方法はない。現に、日本は、モロッコからリンを、カ ナダとロシアからカリを輸入している。しかし、両者共に近未来の枯渇が懸念されている。 消費量が膨大だからである。しかも、バイオエタノール事業が本格化すればするほど、資 源枯渇は加速されるのである。これから日本の食糧自給率を 40%(カロリーベース)から 50%に引き上げると言っても、単に耕地面積を2~3 割拡大するだけで済む問題ではないの である。 こうした危惧に対して、エネルギーさえ確保できれば、現在未利用の低品位な鉱床から 有用物質をいくらでも抽出することができるので、資源枯渇は、実際上は無い、と主張す る経済学者は多い。しかし、鉱床の品位が低下すれば、採鉱と抽出(製錬)に要するエネ ルギー量は、幾何級数的に増大する。しかも、採掘する鉱石の量が激増するので、排出さ れるズリ(廃棄物)や選鉱後に残されるテーリング(尾鉱)の量も膨大になって、鉱山周 辺の環境(地形、植生、土壌、水質など)は大きく破壊される。資源問題は、決して、エネ ルギー問題に還元できるものではないのである。 こうしたグルーバルな問題に加えて、わが国に固有な資源問題がある。代表例は、コン クリートに不可欠な細骨材の枯渇である。公共事業によって国土全体をコンクリートで塗 り固めた結果、その主要成分である骨材、とりわけ、細骨材が枯渇しかかっているのであ る。すなわち、良質な川砂利は 1970 年代にほとんど使い尽くしてしまったし、その後に利 用された瀬戸内海の海砂利の多くは今世紀に入って採取が禁止されている。そして、数万 年以上前に溜まった非更新性の陸砂利と山砂利の品質と採取量は年々低下している。しか も、1970 年代以降の建設ラッシュで作られた粗悪なコンクリート構造物が、ここ 10 年ほ どの間に一斉崩壊する危険性があると、コンクリート工学の専門家によって指摘されてい る。そして、予測を裏づけるように、コンクリート製の下水管の腐食、あるいは橋の欄干 や電柱の劣化などが、近年、新聞で頻繁に報道されている。もしも、上記の危惧が的中し た場合、国内の交通網や都市などの社会インフラの再生と維持は難しい。なぜならば、細 骨材の枯渇という壁が立ちはだかっているからである。年間使用量が数億トンにもおよぶ 骨材を、鉄鉱スラグや砕砂のようなもので代替することはほとんど不可能だし、その大半 を輸入でまかなうことも不可能なのである。 コンクリート問題にさらに付け加えれば、ダムの寿命の問題がある。公共事業の代表と して大型ダムが次々と山奥に建設されたが、そのダム湖の多くが、洪水のたびに流入する 大量の土砂によって、予想以上の速度で埋積されている。すでに 8 割以上埋まってしまっ たダムもあると報告されている。そして、ダム湖に溜まった分だけ土砂が海岸に運ばれな くなったので、全国の海岸が浸食され、多くの海岸線が急速に後退しつつある。無論、ダ ム関係者も、決して手をこまねいているわけではなく、既存のダムに排砂機能をつけようと したり、ダム湖に流れ込む土砂を下流に迂回させる回路を設置しようとしたり努力してい るが、まだ決定打は出ていない。もし、このままダム湖が埋め立てられてダム機能が失わ れるばかりか、その時になってダム本体のコンクリートが寿命を迎えた場合、どのような 4 事態が生じるのか。まだ具体的な予測例はないはずである。これも、わが国が早急に解決 すべき国内問題である。 NIRA は、現代が直面する問題を解決する道筋をつけるために、1978 年の『事典 日本 の課題』の発表以来、本研究を含めて、おおむね 10 年ごとに「日本の課題・役割」をまと めてきた、という。今後もその役割に期待したいが、数年後に行われるであろう次期研究プ ロジェクトでは、真にグローバルな観点から「日本の課題・役割」をまとめてもらいたい ものである。 5 『2010 年代 世界の不安、日本の課題』 評価書 高田公理 武庫川女子大学生活環境学部教授 「手づまりの時代」から「不安の時代」へ NIRA(総合研究開発機構)の業績には、本研究と類似の成果が、過去にもある。最初は、 1978 年公刊の『事典 日本の課題』であろう。その「発刊のことば」は「いまの世の中を特 徴づける言葉のひとつ」が「手づまりの時代」だと捉える。「さまざまな問題が複雑にから まり合って、次から次へとあらわれる。どれに対しても実効性のある明快な対策を実効で きにくい」というのだ。 しかし、「いろいろな座標軸を使い、問題群のマトリックスを作ってみた。それを詳細に 検討した結果、私たちは 21 本の柱を建てて『21 世紀への課題』をとらえれば、効果的に問 題群を整理できそうだという結論に達した」。その上で「国際政治の多極化」「相互依存の 世界――政治・経済・文化」「エネルギー不安の時代」などの課題を設定し、『事典 日本の 課題』が完成したというのである。 以来 30 年近く、本研究報告の表題は、2010 年代を特徴づける言葉の一つが「不安」だ と示唆する。それは「恐怖」とは異なり、「原因が特定できない心的反応」である。そんな 「世界の不安」を捉え直して「日本の課題」を抽出する。そのために『2010 年代 世界の不 安、日本の課題(1.本編、2.資料編・未来年表:日本にとっての重要な世界的不安要 因の抽出)』に参与した研究チームは、非常に興味深い研究企画を立てたようである。 それは、こういうことだ。まず「思想戦略」 「経済」「政治」「社会・文化」「健康・生命」 「地球環境」 「科学技術」といった領域を設定したのであろう。しかし、これらの領域ごと に資料を集めて、その分析を試みるという、ありがちな方法は採用しなかった。かわりに、 領域ごとに適切だと思われる研究者を選び、彼らへのインタビューを、ほぼフリーハンド で実施したらしい。そのため、本書の中心をなす「1.本編」には、 「それぞれに偏りはあるが、先鋭な問題提起がなされていて面白い」 と感じさせられる論考が多数、載録されることになった。 「もうひとつ別の世界観と価値観」がはらむ力 たとえば冒頭の「第Ⅰ部第 1 章 『サバイバル戦略』と『無常戦略』 (山折哲雄)」は、 「地 震は予知できない」という未来研究の困難さを、まず指摘する。その上で、対応方法を 2 つに類型化する。その 1 つは「ノア一族だけが生き残る」ユダヤ・キリスト教世界の「サ バイバル戦略」である。もう 1 つは「死ぬ覚悟で事に当たって皆が生き残る可能性を追求 する」、あえていえば「日本教」の「無常戦略」だという。いわゆる「グローバル化」の趨 勢が著しい時代に、このインタビュー記録は「日本教」という異化要因を、あえて日本が 提起することで「世界の不安」そのものを相対化しうる可能性を感じさせる。 「第Ⅰ部第 8 章 動物のパターンと文化(日高敏隆)」にも、よく似た印象を受けた。そ 6 れは「生物の多様性は必然だ」という話題に端を発する。つまり、緑色植物が出現すると、 それを食べて生きる草食動物が、さらにはそれを食べる肉食動物が登場する。だから逆に、 どれかが子孫を残せなくなると、それに依存している動物も滅びる。その結果、生物多様 性が維持されなくなり、地球上の生命全体が危機に直面するというわけだ。 今ひとつ大事なことは大昔、肉食獣が跋扈するサバンナで生きることを強いられた人間 の祖先が辿った運命である。そんな場所で生き残るには、現代のように、両親と子供だけ の少人数家族では不可能だったにちがいない。もっと大人数の集団があればこそ、人間は 生き残れた。そんな集団には、多様な考え方や生き方をする人が含まれることになる。こ うした環境が、生きる力に満ちた子供を育てるには不可欠だというのだ。 このことは、そのまま人間の文化の多様性にもつながる。つまり、かつて人類学者のク ロード・レヴィ=ストロースが国連で、つぎのような話をした。いわく、 「人間にはいろんな文化があるけれども、どれが進んでいるとか、遅れているとかいう ことではなくて、パターンの違いである」 こうした問題を、家族のありように則して論じた「第Ⅰ部第 5 章 日本家族の困難:ア ジアとヨーロッパの比較から(落合恵美子)」も興味深い。そこでは、諸外国と日本の「女 子労働力率の年齢別比較」をもとに、日本における出生率の急速な低下の要因が検討され る。そして、その背景には、国ごとの家族観の違いが作用していると推論する。その結果、 家族観に関して、アメリカが自由主義、スウェーデンが社会民主主義、ドイツが伝統主義 であるのに対して、日本は家族主義とでもいった類型に属するのだという。 さらに、タイ、シンガポール、中国、韓国などとの比較の結果、日本は「育児に対する 社会的支援が、きわめて乏しい社会」だという結論を導く。こうした「文化の相違」の考 察を抜きにして、「少子化」に伴う人口減少を食い止めることはできまい。 文化の違いは、家族観にとどまらない。そのことを「第Ⅱ部第 5 章 21 世紀におけるア フリカの位置:アフリカに学ぶ、社会を癒す知恵(松田素二)」が見事に描き出す。 アフリカといえば、1960 年代以降、急速に独立国の増えた地域だ。しかし、それ以前に は、ヨーロッパ諸国の支配のもと、伝来の社会構造をずたずたに引き裂かれた。その結果、 国家が、しばしば国民の日常生活の保護と福祉とは正反対の機能を果たすようになった。 実際、人々の多くは全体的貧困のもと、致命的な病気の流行や内戦など、生存すら困難な 状況に置かれている。 にもかかわらず、彼らの間には、国家による社会保障にかわる、多様な互助の組織と制 度が芽生えているらしい。異なった利益集団や個人の間の紛争の際も、安易に裁定を権力 にゆだねたりはしない。そうではなくて、相互の「語り」による真相の解明と「対話」に よって問題解決を図ろうとする。それは、アフリカ社会に伝統的な方法にほかならない。 そこには、近代的主権国家間の紛争と、その権力の恣意的かつ暴力的な支配に食傷しが ちな、いわゆる先進地域に生きる私たち自身と、その社会の未来を展望する際の足がかり が隠されているという気がする。 今ひとつ、 「第Ⅰ部第 12 章 非電化、エコビジネス(藤村靖之)」も忘れてはなるまい。 それは、膨大な量の化石燃料の消費か、扱いのむつかしい原子力利用を伴う現代の「電気 文明」に対する、きわめて深い批判と、それにかわる技術の提案を試みた論考である。 この論考が面白いのは、いわゆる「地球にやさしい」試みの多くが虚妄であることを白 7 日の下にさらすからである。そして、返す手で、不要な電力消費を避ける生活の可能性を 具体的に提示するのだ。その詳細は本文に譲るが、たとえば太陽エネルギー利用のホープ の一つと見られている太陽電池は、その製造に莫大な電力を消費する。だから、必ずしも、 省エネルギーに貢献しない。こういった知見は、もっと広く知られてもよいと思う。 「経済」「IT(情報産業)」をめぐる論考の欠点 しかし、あえて苦言を呈すると「経済」と「IT(情報産業)」をめぐる論考には、凡庸さ が目立つ。 まず「第Ⅰ部第 2 章 経済関係の不安(香西泰)」である。記述の順序とは逆になるが、 あえて要点を整理すると、この論考の焦点は、つぎのようになるようだ。すなわち、 「例えば、国民全体の生活水準を向上させよう、というような主張や希望を封殺できる かというと、できないところに問題がある。……従って、一番いいのは、やはり生産性が 上がることで、生産性があがるとコストが下がるので物価の上昇も抑えられ、金利を引き 上げる必要がない。……(つまり)生産性をあげて実質成長率を上げるしかない」 こうした議論に、一体どんな意味があるのか。2 つの点で、私には理解しがたい。まず、 経済的に見れば「圧倒的に豊かな日本」の目標は、それでもなお「生活水準の向上」なの かという点だ。少し視点をずらせて「生活の楽しみ」といった目標を立ててもいいのでは ないのか。2 つ目は、「実質経済成長率を上げる」ための方策は「生産性を上げる」ことだ というが、それは同義反復にほかならない。「人々に楽しみをもたらす産業分野の開拓」と いった具体的施策があってもよさそうだという気がする。 今ひとつは「第Ⅰ部第 10 章 IT の不安や課題(東倉洋一)」である。この論考は冒頭に 「情報化社会というものになったのは、しばらく前からということで、これからポスト情 報社会ということに向かっていく」と記している。それで、先行きの劇的変化を期待して 読んだが、特段の話はなく、結論はつぎのようなものであった。 「インターネットとか、インターネットを使ったシステムがどんどん大きくなっていっ て、それに頼る社会になっていますね。……(不安といえば)そのシステムダウンによっ て社会が機能マヒに陥るということが、ひとつあると思います。これを前者とします。一 方、『光と影』の『影』のほうで、人間社会が便利なものを使っているためにだんだんおか しくなるということが、あると思います。これを後者とします。区別は難しいかもしれま せんが……『不安としたら、どっちがより現実化しやすいか。』と問われれば、この 10 年 ぐらいでは、私は前者ですね」 ここには「ほぼフリーハンドで実施したインタビュー」の欠点が現れている。そこには 回答者の「所感」だけが述べられているというほかないのだから…… それだけではない。「情報化社会」と「ポスト情報化社会」について、回答者は明確な区 別をしていない。その表現を少しずらせて「情報産業社会」としてみる。すると、そこに は梅棹忠夫「情報産業論」 (『放送朝日』1963 年 1 月)が明確に定式化した「文明史的に重 要な位置づけ」がある。その詳細は、ここでは述べないが、そうした含意を前提にすると、 回答者の「ポスト情報化社会」という表現には、実は何の意味もないというほかなくなる。 今ひとつ、かりに「情報化社会」という言葉を使うにしても、コンピューター技術が膨 大な情報の検索をめぐる激しい競争の渦中にあることを考えると、いわゆる「情報化」を 8 めぐる最大の問題は、コンピューター技術の問題ではなくて、「日本語には、まともな正書 法が実在しない」といった点にあることを明確に指摘する必要があるのではないか。 そんなことを考えながら、超長期の人類史に思いを馳せてみた。すると人類史は、人間 の営みのすべてを「遊びに変えるプロセス」だったという見方が可能になるように思う。 というのも、大昔の人間は、周囲の大自然から手に入れられる食料資源に依存して暮ら していた。自然社会である。そこでは、狩猟と採集と漁労が、生存に不可欠な労働であり、 仕事だった。 しかし、約 1 万年前に農耕が始まる。農業社会が到来したのだ。そこでは一定の場所へ の定住が強いられる。同時に農業労働が、最も重要な仕事になった。その瞬間、定住地を 離れての獣や鳥の狩り、木の実集めや魚釣りが、遊びと楽しみの色彩を帯び始める。 以来およそ 1 万年、18 世紀に産業革命が起こり、工業社会が到来する。そこでは多様な 工場労働が、経済社会を支える基幹的な仕事になった。すると「農業のまねごと」として の園芸が、新しい遊びと楽しみの沃野を拓きはじめる。 それから 200 年ばかり、20 世紀後半に「情報革命」の幕が切って落とされた。多様な情 報産業が基幹産業となったのだ。その結果「工業のまねごと」としてのモノづくりや手仕 事が「遊び」として楽しまれ始めた。のみならず、コンピューターやインターネットが巨 大な産業的意味を持つようになる。それらは今日、人々によって遊ばれてもいる。 こうしてみれば、人類史が、じつは人間の営みをすべて「遊びと楽しみに変えるプロセ ス」であったという見方に、一定の根拠のあることが理解されよう。こうした文明史を顧 みることで初めて、現代世界における情報産業のありうべき姿が望見できるのではないか。 「世界の不安」をもたらす要因の統合的把握 前項で検討した問題は、本研究が「世界の不安をもたらす要因」を「統合的に把握する」 という点に、やや弱点をはらんでいた結果かもしれない。 そこで 20 世紀という時代を振り返ってみる。すると、その前半は、第 1 次、第 2 次世界 大戦という 2 つの戦争に明け暮れた時代であった。それは同時に、近代的な意味での「帝 国の解体」と「国民国家の簇生」という結果をもたらしもした。 そうした前半を踏まえた 20 世紀後半の世界は「資本制社会」と「共産主義社会」とに二 分されて、深刻な「冷たい戦争」が戦われた。同時に世界各地で「よりよい生活」を求め る人々の欲望に応える「経済競争」が本格化する。 その過程で、人類は「科学・技術の発達」に支えられた「巨大な力」と「未曾有の豊か さ」を手に入れた。しかし、それは同時に、解決の困難なジレンマを伴うものでもあった。 まず「巨大な力」は「原子力」に象徴される。しかし、それは技術的にも政治的にも「制 御するのが極度にむつかしい」――第 1 のジレンマである。 ついで「巨大な力」を縦横に利用して、人類は「未曾有の経済の豊かさ」を手に入れる。 しかし、その恩恵に浴するのは、欧米や日本などの先進地域だけだ。アフリカをはじめ「未 曾有の貧しさ」に苦しむ地域が取り残されている。しかも、先進地域では、しばしば過剰 栄養が問題になり、人々は生活習慣病の恐怖にさいなまれている――ここに第 2 のジレン マがある。 では、何が「巨大な力」と「未曾有の豊かさ」をもたらしたのか。それは、急速に発達 9 し、極度に専門化した「科学・技術」の成果にほかならない。しかし、余りに先鋭化した 専門の科学・技術は、相互に対話するのが非常にむつかしい。第 3 のジレンマである。 こうした 3 つのジレンマが、21 世紀に持ち越された。それが今世紀の課題、すなわち「地 球環境容量を超えて巨大化する文明」と「よりよい生活を求め続ける諸民族の居直り」を もたらしている。同時に、1990 年前後における「共産主義体制の崩壊」のあと、これらの 課題を強圧的に押さえ込もうとする、いわゆる「グローバリゼーション」が時代の趨勢と なった。ここに「世界の不安」をもたらす要因を統合的に把握する契機がある。 そうした視点に立って、本書の「1 本編」の諸論考を、あらためて位置づけ直してみる。 すると「世界の不安、日本の課題」は、より一層、展望しやすいものになる。同時に、そ れぞれの論考の評価が、より正確に行なえるようになるのではないか。 そこで 2 点にわたって「ないものねだり」をしておく。 1 つは「諸民族の居直り」に由来する「不安」を克服する契機としての「日本の安全保障」 をめぐる課題である。これについては「第Ⅰ部第 4 章 紛争処理と平和構築(佐藤安信)」 が、若干の考察を試みている。いわく、 「環境というのはビジネスにとってはマイナスのコストと考えられていたわけですが、 今や環境ビジネスというものが注目されていますし、そういう意味で日本が憲法 9 条をも つ平和国家として、軍事力によらない形での平和貢献していく上で、日本の一番の本丸で あるところのビジネス、技術力を、どう平和・非暴力的な紛争処理に利用できるか、とい うことが問われているのだろうと思います」 文脈は、やや混乱しているが、ここで重要なことは、日本の安全保障に占める「憲法 9 条が果たす役割の再確認」と「環境ビジネスの国際的展開」を試みることであろう。 ただし、同論考の結語には、深刻な欠点もある。つまり「国際法の真の共有が課題」と いう表題を掲げつつ、しかし「大国がそれを尊重するということでない限りは、どうして も限界があるわけで、そのために、日本を含めて、どう外交的に立ち回ることができるか ということがポイント」だというのだ。 しかし、果たしてそれだけか。いま少し思いをめぐらすと、「居直る諸民族」の力を、一 種の「多体問題」として捉える方法もありうるのではないか。たとえば、日本が提唱者と なって世界の非核国に「非核国同盟を呼びかける」というのは、どうだろう。それは日本 が、自ら国連の常任理事国になろうとする以上の外交力を発揮する可能性をはらんでいる。 2 つ目は、 「未曾有の豊かさ」の果ての「日本における格差の拡大」 「とどまるところを知 らぬ経済社会のグローバリゼーション」の「抑止」という課題である。 たしかに、前世紀末における共産主義体制の崩壊は、資本制経済社会の優位性を雄弁に 物語る出来事であった。しかも、現実の「東側諸国」では、その「理念」とは正反対の「貧 しさ」「極端な貧富の差」 「イデオロギー抑圧」が、文字どおり跋扈してきた。 しかし、他方で共産主義が、たとえ「絵に描いた餅」であっても「富の偏在の排除」「福 祉の充実」といった「理念」を掲げてきたことも確かである。そのことが、資本制社会に 生きる人々の社会意識のなかに「幻想」を喚起することによってであったとしても、本来 的に「資本の論理」によって駆動する資本制経済社会の暴走を、一定の範囲内に抑止する 役割を果たしてきたこともまた、否定できない事実だったのではなかろうか。 つまり、資本制経済社会の「資本の論理」は、際限のない「利潤の追求」を先験的な善 10 として措定する。それに対して、生身の「人間の論理」は「よりよい生活=福祉の増大」 を求め続ける。ここでいう「利潤の最大化」と「福祉の増大」は、解けない撞着をはらむ 対立概念にほかならない。そのもつれあいの直中に「共産主義の理念」が登場して、相互 の拮抗をもたらすバランス要因としての役割を果たしたというわけだ。 こう考えてみると、すべてを「資本の論理」にあずければ、さまざまなコンフリクトの 生じることが容易に予想できる。このあたりの問題をめぐって「第Ⅱ部第 7 章 日本の課 題としての年金問題(佐々木香代) 」は「自由優先の社会か、連帯の社会か」という問を投 げかける。しかし本当に、そこで思い出すべきは、資本制以前の伝統社会の文化であろう。 それは、それが開花した場所ごとの自然環境と、そこでの人々の長い期間にわたる歴史的 経験が培った「生活の論理」の現実的な体現にほかならない。そのため、さまざまな不合 理な偏りを帯びながらも、蓋然的には構成員全体の「福祉の極大化」への可能性をはらん でもいたのである。 表現こそ違え、それに似たことを「第Ⅲ編第 2 章 日本の果たすべき役割の方向性(松 原正毅、中牧弘允)」が、この論考の 3 つの小見出し、すなわち「1.20 世紀型生産・生活 様式の限界・破綻」「2.多様性・複雑性」「3.オールタナティブな生産・生活様式」と その記述内容を通して示唆している。 なお、本書の第 2 分冊「2 資料編」の主たる内容を構成する「未来年表」についても、 一言だけ触れておきたい。それは「序論 世界の不安、日本の課題――未来研究の課題(松 原正毅)」が指摘するように「本来的に……困難な作業」である「未来予測」を、かえって 大胆に取り込むことで「歴史認識と同時代的現在の把握が並行して進む」ことを前提とし た新しい試みである。そして「ここから、同時代的現在への能動的なはたらきかけが生ま れてくる」可能性を期待しようということなのであろう。 そんなことを考えていると、2007 年 6 月 22 日の新聞各紙が、 「早ければ 2060 年に世界の終末が来る」 という表題を掲げて、AP 通信の配信記事を掲載した。イギリスの数学・物理学者アイザ ック・ニュートン(1642 ~ 1727 年)が、旧約聖書を解読した上でこうした予言を手紙に 記していたのだという。 こうした報道が、現代世界と日本の人々の行動と生活様式に、なにがしかの影響を与え るのかどうか。未来予測の困難は、いよいよ、その度を深めているのかもしれない。 11
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